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米内よない光政みつまさ

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べいないよない 光政みつまさみつまさ
べい光政みつまさ
海軍かいぐん大臣だいじん時代じだいべいない
生年月日せいねんがっぴ 1880ねん3月2にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん岩手いわてけんみなみ岩手いわてぐんさんわりむら
げん盛岡もりおか
ぼつ年月日ねんがっぴ (1948-04-20) 1948ねん4がつ20日はつか(68さいぼつ
出身しゅっしんこう 海軍兵学校かいぐんへいがっこう(29
海軍かいぐんだい学校がっこう(12
称号しょうごう 海軍かいぐん大将たいしょう
したがえ
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
配偶はいぐうしゃ 米内よないこま
サイン

内閣ないかく べい内内うちうちかく
在任ざいにん期間きかん 1940ねん1がつ16にち - 1940ねん7がつ22にち
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

日本の旗 だい19・24だい 海軍かいぐん大臣だいじん
内閣ないかく 林内りんないかく
だい1近衛このえないかく
平沼ひらぬま内閣ないかく
小磯こいそ内閣ないかく
鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく
ひがし久邇くに宮内くないかく
ぬさ原内はらうちかく
在任ざいにん期間きかん 1937ねん2がつ2にち - 1939ねん8がつ30にち
1944ねん7がつ22にち - 1945ねん12月1にち
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米内よない 光政みつまさ(よない みつまさ、きゅう字体じたいべい光政みつまさ1880ねん明治めいじ13ねん3月2にち - 1948ねん昭和しょうわ23ねん4がつ20日はつか)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん政治せいじ海兵かいへい29うみだい12最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょう位階いかいしたがえ勲等くんとう勲一等くんいっとうこうきゅうこういちきゅう

連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんだい23だい)、海軍かいぐん大臣だいじんだい19・24だい)、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんだい37だい)を歴任れきにんした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出生しゅっしょうから海軍兵学校かいぐんへいがっこう時代じだい[編集へんしゅう]

1880ねん明治めいじ13ねん)、岩手いわてけんみなみ岩手いわてぐんさんわりむらげん盛岡もりおか)にきゅう盛岡もりおかはん米内よない受政長男ちょうなんとして誕生たんじょうする[1][2]

1886ねん明治めいじ19ねん)、鍛冶かじまち尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく[3]1890ねん明治めいじ23ねん)、盛岡もりおか高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがく[4]1894ねん明治めいじ27ねん)、岩手いわてけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく[5]1898ねん明治めいじ31ねん)、海軍兵学校かいぐんへいがっこう29入校にゅうこう[6]同期生どうきせいには高橋たかはし三吉さんきち藤田ふじた尚徳なおのり佐久間さくまつとむ八角やすみ三郎さぶろう中学ちゅうがく同期どうき)らがいる[7]へい学校がっこうでは「グズせい」というあだがついた[8]

当時とうじべいないのノートは記述きじゅつしつりょう膨大ぼうだいであり、ひとつの問題もんだいたいして自分じぶん納得なっとくくまであらゆる角度かくどからアプローチをかけ問題もんだい解決かいけつしている。これはしき教育きょういく当然とうぜんだった海軍かいぐん教育きょういくにおいてはめずらしい勉強べんきょうほうであった。べいない勉強べんきょうほうっていた当時とうじ教官きょうかんは「かれ上手うまくいけばける。いや、それ以上いじょう逸材いつざいになるかもれない」とけ、多少たしょう成績せいせき不振ふしんでもべいないをかばいつづけ、なにとかべいない海軍兵学校かいぐんへいがっこうから卒業そつぎょうさせた[よう出典しゅってん]のち同期どうき藤田ふじた尚徳なおのり人事じんじ局長きょくちょう時代じだい当時とうじ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん谷口たにぐちしょうしんから「きみのクラスではだれ一番いちばん有望ゆうぼうかね?」という質問しつもん即座そくざに「それはべいないです」とこたえたという。谷口たにぐちはそれに「そうか。ぼくどう意見いけんだ。ただ米内よないくん面倒めんどうくさがりで、その面倒めんどうくさがりのたびすこぎてやせんかとおもうがね」とこたえたという[9]

海軍かいぐん士官しかんとして[編集へんしゅう]

1901ねん明治めいじ34ねん)に海軍兵学校かいぐんへいがっこう29を125にんちゅう68ばん成績せいせき卒業そつぎょう[10]海軍かいぐん少尉しょうい候補こうほせい練習れんしゅうかんきむつよし[11]1903ねん明治めいじ36ねん)、にん海軍かいぐん少尉しょうい[12]

1905ねん明治めいじ38ねん)、にち戦争せんそう従軍じゅうぐんだいさん艦隊かんたいだいじゅうろく水雷すいらいていたい所属しょぞく[13]だいいち艦隊かんたいだい駆逐くちくたい所属しょぞく駆逐くちくかんでん乗組のりく[14]海軍かいぐん中尉ちゅうい[15]日本海にほんかい海戦かいせん参戦さんせん[16]1906ねん明治めいじ39ねん)、こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう[17]大隈おおくまコマ結婚けっこん[18]にん海軍かいぐん大尉たいい[19]1912ねん大正たいしょう元年がんねん)、にん海軍かいぐん少佐しょうさ[20]海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ学生がくせい121914ねん大正たいしょう3ねん海軍かいぐんだい学校がっこう卒業そつぎょう[21]旅順りょじゅん要港ようこう参謀さんぼう[21]

1915ねん大正たいしょう4ねん)2がつロシア帝国ていこくサンクトペテルブルク大使館たいしかんづけ駐在ちゅうざい武官ぶかん補佐ほさかん[22]ロシア駐在ちゅうざい時代じだい駐在ちゅうざいいん監督かんとくかん海軍かいぐんしょうおくった報告ほうこくしょによると、べいないは「語学ごがく上達じょうたつ非常ひじょうはやく、ロシアじん教師きょうしおどろほどである。異国いこく風土ふうどにも違和感いわかんなくみ、(べいないのロシア駐在ちゅうざいという)人選じんせん適格てきかくである」と絶賛ぜっさんしている。ある同期どうきは「ロシア電話でんわ出来でき海軍かいぐんしょううち唯一ゆいいつひと」と回想かいそうし、[よう出典しゅってん]佐世保させぼ鎮守ちんじゅ参謀さんぼう時代じだいは『ラスプーチン秘録ひろく』というロシア記述きじゅつされたルポを翻訳ほんやくしたりしている[23]

1916ねん大正たいしょう5ねん)、にん海軍かいぐん中佐ちゅうさ1917ねん大正たいしょう6ねん)4がつ、ロシア駐在ちゅうざいめんぜられる[24]1918ねん大正たいしょう7ねん)8がつウラジオストック駐在ちゅうざい[25]ロシア革命かくめい混乱こんらん国際こくさい情勢じょうせい分析ぶんせきし、論文ろんぶん作成さくせいしている。1919ねん大正たいしょう8ねん)9がつ、ウラジオストック駐在ちゅうざいめんぜられ[26]海軍かいぐんだい学校がっこう教官きょうかん[27]。12月、軍令ぐんれい参謀さんぼう[27]1920ねん大正たいしょう9ねん)6がつよりベルリン駐在ちゅうざい[28]。12月、にん海軍かいぐん大佐たいさ[29]1921ねん大正たいしょう10ねん)、ポーランド駐在ちゅうざいいん監督かんとく[30]1922ねん大正たいしょう11ねん)、装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん春日しゅんじつ艦長かんちょう[31]1923ねん大正たいしょう12ねん)、練習れんしゅうかんいわしゅ艦長かんちょう[32]べいないニュージーランド小学校しょうがっこう訪問ほうもんするが、もともと口数くちかずすくないほう挨拶あいさつをしたさいは、「I am very glad to see you, thank you.」としかはなさなかった[33]

1924ねん大正たいしょう13ねん戦艦せんかん扶桑ふそう」「陸奥みちのく艦長かんちょう[34]1925ねん大正たいしょう14ねん)、にん海軍かいぐん少将しょうしょうだい艦隊かんたい参謀さんぼうちょう[35]当時とうじ司令しれい長官ちょうかん谷口たにぐちしょうしんであるが、谷口たにぐちがあまりにも謹厳きんげんであり部下ぶかにもこれを要求ようきゅうしたためべいないが「かわ水魚すいぎょむほどのきよさかな」というおくっている。谷口たにぐちは「ありがとう。」とこれをったという[36]1926ねん大正たいしょう15ねん)、軍令ぐんれいだいさん班長はんちょう[37]1927ねん昭和しょうわ2ねん)、だいよん水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん[38]特別とくべつだい演習えんしゅう参加さんか1928ねん昭和しょうわ3ねん)、だいいち遣外けんがい艦隊かんたい司令しれいかん[39]

予備よびやく編入へんにゅう危機きき[編集へんしゅう]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、にん 海軍かいぐん中将ちゅうじょう鎮海要港ようこう司令しれいかん[40]。この役職やくしょくは「くび5ふんまえ[41]われた閑職かんしょくであり、鎮海要港ようこう司令しれいかん最後さいご予備よびやく編入へんにゅうされたれいおおかった[41]べいない読書どくしょ三昧ざんまい日々ひびごしたという[42]

鎮海要港ようこう司令しれいかん在任ざいにんちゅうべいない現役げんえきはなれることを覚悟かくごしており[41]実際じっさい海軍かいぐんべいない予備よびやく編入へんにゅうする予定よていであった[43]。しかし、海軍かいぐん政務次官せいむじかんつとめていた政治せいじ牧山まきやまこうぞうべいない面識めんしきがあった)がそのことをり、べいない現役げんえきのこすように東郷とうごう平八郎へいはちろうったことで、べいない予備よびやく編入へんにゅうまぬかれた[43]

1932ねん昭和しょうわ7ねん)、だいさん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんおやされる[44]べいないインフルエンザをこじらせて胸膜炎きょうまくえんになり療養りょうよう必要ひつようとしたが拒絶きょぜつした。べいないへい29同期生どうきせいで、海軍かいぐん次官じかん人事じんじけんしゃである海軍かいぐん大臣だいじん補佐ほさする)をつとめていた藤田ふじた尚徳なおのりは、おなじくへい29同期生どうきせいである軍令ぐんれい次長じちょう高橋たかはし三吉さんきち相談そうだんし、「米内よないくん気持きもちはよくわかる。しかしだいさん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん米内よないくんでなくともつとまる。だが帝国ていこく海軍かいぐん将来しょうらいかんがえるときかならずこのひと大任たいにんたく時期じきるとおもう。今米いまごめないくん再起さいき不能ふのう状態じょうたいおとしいれてはならぬ。たとえいまはその気持きもちを蹂躙じゅうりんしても、またあとおこられてもい」と結論けつろんたっ海軍かいぐん次官じかん軍令ぐんれい次長じちょう権限けんげんべいない療養りょうようさせた。早期そうき治療ちりょう効果こうかか1かげつにはべいない職務しょくむ復帰ふっきすることができた[45]。のちに藤田ふじた高橋たかはしは、べいない現役げんえき大将たいしょうとしてのこすため、みずか予備よびやく編入へんにゅうねがている[46]

幕僚ばくりょう保科ほしな善四郎ぜんしろうによれば、砲艦ほうかん二見ふたみ揚子江ようすこう航行こうこうちゅうくらがんげてしまい、司令しれい長官ちょうかんであるべいない責任せきにん進退伺しんたいうかがい電報でんぽうつようめいじた。べいないめさせてはならないとかんがえた保科ほしなは、電報でんぽうったフリをして独断どくだんにぎつぶした。この措置そちがなければのち日本にっぽん本土ほんど決戦けっせん突入とつにゅうすることになった、と保科ほしなかたっている[47]

連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん[編集へんしゅう]

1936ねんごろ、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん当時とうじ

1933ねん昭和しょうわ8ねん)、佐世保させぼ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんおやされる[48]ともづる事件じけん発生はっせいし、査問さもん委員いいんかい一人ひとりとして佐世保させぼべいないたずねた森田もりた貫一かんいち機関きかん中将ちゅうじょうたいし、べいない徹底てっていした調査ちょうさもとめた。調査ちょうさ結果けっか設計せっけいじょう問題もんだい判明はんめいし、強度きょうど不足ふそく艦艇かんてい改造かいぞうされることになった。こうした結果けっかせたのは、べいない保身ほしんはしらなかったからだと森田もりたひょうしている[49]1934ねん昭和しょうわ9ねん)、だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんおやされる[50]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)、横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんおやされる[51]1936ねん昭和しょうわ11ねん2がつ26にち二・二六事件ににろくじけん発生はっせいさいべいない柳橋やなぎはし待合まちあい茶屋ちゃや宿泊しゅくはくしており、事件じけんのことはなにらず、あさ始発しはつ電車でんしゃ横須賀よこすかかえった[52]鎮守ちんじゅいたべいない参謀さんぼうちょう井上いのうえ成美まさみとともにクーデター部隊ぶたいを「反乱はんらんぐん」と断定だんてい制圧せいあつうごいた[53]

12月1にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんおやされる[54]

だい19だい海軍かいぐん大臣だいじん[編集へんしゅう]

べいない山本やまもと五十六いそろく
米内よない提督ていとく(1937ねんごろ

1937ねん昭和しょうわ12ねん)2がつ2にち林内りんないかく海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにん[55]べいない軍政ぐんせいきらいで連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん就任しゅうにんわずか2かげつ退任たいにんさせられうみしょうにんぜられることを非常ひじょうしぶり、周囲しゅういには「いちぞく吏になるなんて、まったくありがたくないはなしだ」とぼやいていたという[56][ちゅう 1]当初とうしょはやしずくじゅうろううみしょう末次すえつぐ信正のぶまさのぞみ、りょう人間にんげん了解りょうかいみであった。しかし海軍かいぐん次官じかん山本やまもと五十六いそろくぜんうみしょう永野ながの修身しゅうしんべいないつよし、軍令ぐんれい総長そうちょう伏見ふしみみやひろしきょうおう同意どうい決定けっていした[58]べいない山本やまもと次官じかん留任りゅうにんさせている。軍務ぐんむきょくだいいち課長かちょうだった保科ほしな善四郎ぜんしろうによれば、「広田ひろた内閣ないかく崩壊ほうかい後任こうにん海軍かいぐん大臣だいじんだれにするかについてはなわれたとき保科ほしなさきべいないげ、次官じかん山本やまもと五十六いそろく同意どうい留任りゅうにん希望きぼう永野ながの修身しゅうしん説得せっとくしてべいない大臣だいじん就任しゅうにん了承りょうしょうった」という。永野ながのからの招電しょうでんは、べいない横須賀よこすか出港しゅっこうするわずか1あいだまえであった[57]

4がつ海軍かいぐん大将たいしょう親任しんにんされる[59]うみしょう初期しょきには、かけだけ立派りっぱ大臣だいじん、という皮肉ひにくをこめ「金魚きんぎょ大臣だいじん」と渾名あだながついた[60]

大臣だいじん秘書官ひしょかんだった実松さねまつゆずる中佐ちゅうさは、べいないのあまりの博識はくしきおどろき、どこでそんな知識ちしきにつけたのか質問しつもんしたところ、「鎮海にねん佐世保させぼいちねん横須賀よこすかいちねんというように、官舎かんしゃでやもめらしをしているあいだ読書どくしょくせがついた。とくに鎮海の閑職かんしょく時代じだいには書物しょもつむのがなによりたのしみであった。そして、いま海軍かいぐん大臣だいじんという大事だいじ仕事しごとをするのに、それが非常ひじょうやくっているようにおもわれる。人間にんげんうものは、いついかなる場合ばあいでも、自分じぶんめぐった境遇きょうぐうを、もっとも意義いぎあらしめることが大切たいせつだ」とこたえ、「練習れんしゅうかんべいない艦長かんちょうからおしえられているような少尉しょうい候補こうほせい時代じだい気分きぶんもどった」と回顧かいこしている[61]

海軍かいぐん大臣だいじんつとめていたころ、年末ねんまつになると海軍かいぐんからはボーナスが、内閣ないかくからは手当てあて支給しきゅうされていたが、べいないは「国家こっかからじゅう手当てあてける理由りゆうはない。海軍かいぐんぶん頂戴ちょうだいしておくが、内閣ないかくぶん適当てきとう処理しょりしておいてくれ」とって、内閣ないかくからの手当てあて秘書官ひしょかん実松さねまつゆずる手渡てわたしていた。実松さねまつかんがえたすえ大臣だいじんスタッフ一同いちどう分配ぶんぱいすることにして、そのうち一部いちぶべいないところっていき、「これは大臣だいじんぶんです」とうと、べいない笑顔えがおったという[62]

休日きゅうじつ返上へんじょう勤務きんむしている「海軍かいぐんさん」を芸者げいしゃしゅ慰問いもんおとずれ、べいない秘書官ひしょかんおなじく休日きゅうじつ勤務きんむをしていた軍務ぐんむ局長きょくちょう井上いのうえ成美まさみ軍令ぐんれい次長じちょう古賀こがみねいちなどを空室くうしつだった海軍かいぐんしょう次官じかんしつ当時とうじ次官じかん山本やまもと五十六いそろく)を使つかって芸者げいしゃ手製てせい弁当べんとうくえしていたことが露見ろけんしてべいない山本やまもと激怒げきど秘書官ひしょかんすべ解任かいにんにしようとした。芸者げいしゃしゅ懇願こんがんして山本やまもとは「さけんでいないのでつみ一等いっとうげんじる。1年間ねんかん進級しんきゅう停止ていし」と妥協だきょうしたものの、今度こんどべいない態度たいど硬化こうかし「ダメ、全員ぜんいんクビだ」の一点張いってんばり。こまった芸者げいしゃしゅ海軍かいぐん長老ちょうろう直訴じきそしようとしたところ、あわてたべいない山本やまもとがこれは悪戯いたずらということをかし、その芸者げいしゃしゅいかけまわされたという[63]。もっとも、その悪戯いたずらのいちばんの「被害ひがいしゃ」である秘書官ひしょかん実松さねまつみのるは「悪戯いたずらにもほどがあるのではないか」と複雑ふくざつ気持きもちを自伝じでんべている。また実松さねまつ自伝じでんによるとこれは山本やまもと発案はつあんで、べいないは「やりすぎではないか」と「消極しょうきょくてきだった」としるしており、阿川あがわ弘之ひろゆきいた、べいない山本やまもとの「共謀きょうぼう」とはすこ展開てんかいちがっている。

中国ちゅうごく華南かなんハンセンびょう罹患りかんしたへいが、戦闘せんとうではなく病気びょうきぐんはなれたことにたいする苦悩くのう手記しゅきにして人事じんじ局長きょくちょうだった清水しみず光美てるみおくった。人事じんじ局長きょくちょうてその手記しゅきべいないは、「これをおくってなぐさめてやってくれ」と漢詩かんしいたしょ絵画かいがおくったという。[よう出典しゅってん]

下士官かしかんへい家族かぞく福利ふくり厚生こうせいとく病気びょうきになったとき対策たいさく資金しきんめん都合つごうとどこおっておりこれは歴代れきだいうみしょう共通きょうつうなやみだった。べいない大蔵おおくら大臣だいじん結城ゆうき豊太郎ほうたろう相談そうだんしてすぐに許諾きょだくをもらい、要港ようこうだい規模きぼ病院びょういん建設けんせつ支出ししゅつ大蔵省おおくらしょうしぶられたため、民間みんかんからの寄付きふおぎなおうとうみしょう官邸かんてい財界ざいかい有力ゆうりょくしゃあつ寄付きふびかけたところ、予定よていがくをはるかにえる寄付きふきんあつまった。これにより歴代れきだい海軍かいぐん大臣だいじん懸案けんあんであった医療いりょう問題もんだい解決かいけつした。

1937ねん6月4にちだい1近衛このえないかく内閣ないかく総理そうり大臣だいじん近衛このえ文麿ふみまろ前列ぜんれつ中央ちゅうおう)と

1937ねん昭和しょうわ12ねん)6がつ4にちだい1近衛このえないかくでもうみしょう留任りゅうにんした[64]

8がつ9にちだい上海しゃんはい事変じへん発生はっせいすると、8がつ13にち閣議かくぎ断固だんこ膺懲ようちょうとなえ、陸軍りくぐん派兵はへい主張しゅちょうした。8月14にちには、不拡大ふかくだい主義しゅぎ消滅しょうめつし、きたささえ事変じへんささえ事変じへんになったとして、全面ぜんめん戦争せんそうろん展開てんかい台湾たいわんから杭州こうしゅうけて[65]、さらに8がつ15にちには長崎ながさきから南京なんきんけて海軍かいぐん航空こうくうたいによる渡洋とようばくげき敢行かんこうした[66]。さらに同日どうじつから8がつ30にちまで、上海しゃんはいあげしゅう蘇州そしゅうよう浦口うらぐちみなみあきらきゅう連日れんじつ爆撃ばくげきし、これによりささえ事変じへん戦火せんか各地かくち拡大かくだいした。1938ねん昭和しょうわ13ねん)1がつ11にち御前ごぜん会議かいぎでは、トラウトマン工作こうさく交渉こうしょう打切うちきりをつよ主張しゅちょう、「蔣介せきたいとせず」のだいいち近衛このえ声明せいめいにつながった[67]。1月15にち大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎにおいて、蔣介せき政権せいけんとの和平わへい交渉こうしょう、トラウトマン工作こうさく継続けいぞくつよ主張しゅちょうする陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょう多田ただ駿しゅん反対はんたいして、べいない交渉こうしょう打切うちきりを主張しゅちょうし、近衛このえ総理そうりをして「爾後じご国民こくみん政府せいふたいとせず」という発言はつげんにいたらしめた[68]。これは中国ちゅうごくにおけるもっと有力ゆうりょく交渉こうしょう相手あいてって泥沼どろぬま長期ちょうきせんみちひらいたうえささえ大陸たいりく権益けんえき獲得かくとく拡大かくだい目論もくろんだアメリカ政府せいふたいにち感情かんじょういちじるしく悪化あっかさせた。

11月25にちそう会議かいぎで、べいない海南かいなんとう攻略こうりゃく提案ていあん合意ごうい事項じこうとした[69]当時とうじ海軍かいぐん中央ちゅうおうでは「海南かいなんとう作戦さくせん将来しょうらいたいえいべいせんそなえるものである」という認識にんしき常識じょうしきであり、べいないは「たいえいべいせん海南かいなんとう作戦さくせん関係かんけいせい」は承知しょうちであった。このけんかんして、「だい上海しゃんはい事変じへんで、出兵しゅっぺい反対はんたいするきょうせん閣議かくぎ怒鳴どなりつけて、無理矢理むりやりへいして、シナ事変じへん泥沼どろぬまさせた」「海南かいなんとう出兵しゅっぺい強行きょうこうして日米にちべい関係かんけい決定的けっていてき悪化あっかさせた」という批判ひはんもある[よう出典しゅってん]。この言動げんどうは、海軍かいぐん論理ろんり政治せいじ世界せかい優先ゆうせんさせるということがべいない一貫いっかんした思想しそうにすぎなかったということをしめしており、当時とうじ上海しゃんはい海南かいなんとうには多数たすう海軍かいぐん部隊ぶたい孤立こりつしており、それを救出きゅうしゅつするためにべいない派兵はへい主張しゅちょうしたが、その派兵はへい事変じへん全体ぜんたい長期ちょうきまね危険きけんにはべいない考慮こうりょをはらっていなかった[70]

1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつ衆議院しゅうぎいん予算よさん総会そうかい大臣だいじんせき板垣いたがき征四郎せいしろう陸相りくしょうひだり)と言葉ことばわすべい内海うちうみしょうべいないみぎには平沼ひらぬま騏一郎きいちろう首相しゅしょうえる。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつ5にち平沼ひらぬま内閣ないかくでもうみしょう留任りゅうにんした[71]

海軍かいぐん次官じかん山本やまもと五十六いそろく軍務ぐんむ局長きょくちょう井上いのうえとともに、ナチス・ドイツおよイタリア王国おうこくとのにちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめい反対はんたいする。にちどく防共ぼうきょう協定きょうてい締結ていけつさいしては、「なぜソ連それんにぎらないか」と慨嘆がいたんしたおやであった[72]

8がつそう会議かいぎ席上せきじょうで、「同盟どうめい締結ていけつした場合ばあいにちどくえいふつべいあいだ戦争せんそうとなった場合ばあい海軍かいぐんとして見通みとおしはどうか」と大蔵おおくら大臣だいじん石渡いしわた荘太そうたろうからわれたときべいないは「てる見込みこみはありません。日本にっぽん海軍かいぐんべいえい相手あいて戦争せんそうができるように建造けんぞうされておりません。どく海軍かいぐんにいたっては問題もんだいになりません」と言下ごんかこたえた[73]。8月30にち 昭和しょうわ天皇てんのうは、べいないに「海軍かいぐんが(いのちがけでさんこく同盟どうめい阻止そししたことにたいし)くやってくれたので、日本にっぽんくにすくわれた」という言葉ことばをかけたという[74]

べいないにちどくさんこく同盟どうめい反対はんたいろんについて、「海軍かいぐんりょくにちどくではべいえいおよばないという海軍かいぐん論理ろんりから反対はんたいしただけであって、大局たいきょくてき意味いみでの反対はんたいろんではなかった」「魅力みりょくんだ知的ちてき人物じんぶつだが、政治せいじめんにおいて定見ていけんのある人物じんぶつとはいえなかった」という否定ひていてき意見いけんもある[70]

同年どうねん豊後水道ぶんごすいどう潜水せんすいかん沈没ちんぼつ鎮守ちんじゅ作業さぎょうたったが、沈没ちんぼつ場所ばしょ水深すいしんすうひゃくメートルであるうえに、しおながれがはやいため作業さぎょう難航なんこう外部がいぶからも経費けいひ無駄遣むだづかいと批判ひはんびて現場げんばも「こっちもきでやっているのではない。非難ひなんがあるならやめてしまえ」と意欲いよく低下ていかしていた。それをさっした鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょう海軍かいぐんしょう報告ほうこくったところ、当時とうじ海軍かいぐん次官じかんであった山本やまもと五十六いそろくは「経費けいひはいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理むりしてひところさぬように」と激励げきれいした。べいないも「次官じかんからいた。苦労くろう」とただそれだけべた。参謀さんぼうちょう現場げんばもどり、つたえたところ非常ひじょうにモチベーションががり作業さぎょう無事ぶじ終了しゅうりょうした。参謀さんぼうちょう戦後せんごに「あのみじか大臣だいじん言葉ことば次官じかんひところすなという一言ひとことは、せん万言まんげんにもまさあたたかい激励げきれいでした」と回想かいそうしている[75]

平沼ひらぬま内閣ないかくそう辞職じしょくによりうみしょう辞任じにんして軍事ぐんじ参議さんぎかんとなる[76]

内閣ないかく総理そうり大臣だいじん[編集へんしゅう]

親任しんにんしきえてほっと一息ひといきべいない(1940ねん1がつ16にち
郷里きょうり岩手いわてけんにおいて戦地せんちちちうしなった子供こどもたちをまねいてはげますべいない総理そうり大臣だいじん官邸かんていにて、1940ねん3がつ29にち

1940ねん昭和しょうわ15ねん1がつ16にち阿部あべ信行のぶゆき予備よびやく陸軍りくぐん大将たいしょう後任こうにんとしてだい37だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんする[77]

内大臣ないだいじん湯浅ゆあさくらひらた米内よない首相しゅしょう就任しゅうにん実現じつげんおおいにはたらいている[78]

なお大命たいめい降下こうかしたときべいないうみしょう退任たいにんして閑職かんしょく軍事ぐんじ参議さんぎかんにんいてはいたものの、まだ現役げんえき大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん大将たいしょうであったが、首相しゅしょう就任しゅうにん同時どうじみずか予備よびやくとなる。

1922ねん大正たいしょう11ねん)に海軍かいぐん大臣だいじん兼任けんにんしたまま首相しゅしょう就任しゅうにんした加藤かとう友三郎ともさぶろう最後さいご現役げんえき陸海りくかいぐん将官しょうかん組閣そかく大命たいめいくだれいえ、その首相しゅしょうとなった田中たなか義一ぎいち斎藤さいとうみのる岡田おかだ啓介けいすけはやしずくじゅうろう阿部あべ信行のぶゆきは、いずれも予備よびやく退役たいえき陸海りくかいぐん大将たいしょうであった。加藤かとう以前いぜん軍人ぐんじん首相しゅしょう山縣やまがた有朋ありともほかいずれも現役げんえきのまま首相しゅしょうつとめており、大命たいめい降下こうかのあった現役げんえき将官しょうかんがあえて予備よびやくになってから首相しゅしょうとなることは先例せんれいがなく、またこうれいもない人事じんじだった(べいない以後いご首相しゅしょうになった軍人ぐんじん4にんのうち、東條とうじょう英機ひできひがし久邇くにみや稔彦としひこおう現役げんえき大命たいめい降下こうか首相しゅしょう就任しゅうにん現役げんえきにとどまった。のこりの小磯こいそ国昭くにあき鈴木すずき貫太郎かんたろう大命たいめい降下こうか予備よびやくであった)。

うみしょう吉田よしだよしわれらはべいない現役げんえきまるよう説得せっとくしたが、べいないは「総理そうり現役げんえき将官しょうかんであることは統帥とうすいけん干犯かんぱんすることにつながりかねない」とってこれをれなかった[79]べいない予備よびやくとなったことは、軍令ぐんれい総長そうちょう伏見ふしみみやひろしきょうおう後任こうにんべいないしていた海軍かいぐん人事じんじきょくをも困惑こんわくさせる事態じたいであった。

就任しゅうにん直後ちょくご1がつ21にち千葉ちばけん房総半島ぼうそうはんとう沖合おきあいの公海こうかいじょうイギリス海軍かいぐん巡洋艦じゅんようかん貨客船かきゃくせん浅間あさままる」を臨検りんけん乗客じょうきゃくのドイツじん男性だんせい21めい戦時せんじ捕虜ほりょとして連行れんこうする浅間あさままる事件じけん発生はっせいした[80]世論せろんイギリス非難ひなんするなかべいないはドイツじん船客せんきゃく解放かいほうめぐってイギリスとむずかしい交渉こうしょうおこなうことになった[81]

一方いっぽう、5月にナチス・ドイツのフランス侵攻しんこうはじまり、ドイツが破竹はちく進撃しんげきつづけてよく6がつにはフランスを降伏ごうぶくむと、どくへの接近せっきん企図きとする陸軍りくぐんにちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめい締結ていけつ目指めざし、外交がいこう一新いっしんかかげ、倒閣とうかく意図いとをいよいよ明確めいかくあらわはじめる。べい内内うちうちかくは、さんこく軍事ぐんじ同盟どうめい締結ていけつすればたいえいべい開戦かいせん必至ひっしになるとして反対はんたいしていた。陸軍りくぐんべいない対立たいりつ陸軍りくぐん大臣だいじんはた俊六しゅんろく辞任じにんさせ、同年どうねん7がつ22にちべい内内うちうちかくそう辞職じしょくんだ[82]後継こうけい政権せいけんには、首相しゅしょう経験けいけんのあった公爵こうしゃく近衛このえ文麿ふみまろさい就任しゅうにんし、だい2近衛このえないかく成立せいりつした。当時とうじ軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせいがあり、陸軍りくぐんまたは海軍かいぐん大臣だいじんげると内閣ないかくたおれた[83][ちゅう 2][ちゅう 3]べいないはたけ疲労ひろうった表情ひょうじょうをみて「はたけ自殺じさつでもするのではないか。」と心配しんぱいしたという[84]昭和しょうわ天皇てんのうも「べい内内うちうちかくだけはつづけさせたかった。あの内閣ないかくがもうすこつづけば戦争せんそうになることはなかったかもしれない」と、石渡いしわた荘太そうたろうかたっている[85]

首相しゅしょう辞任じにんうみしょうさい就任しゅうにんまで[編集へんしゅう]

総理そうり大臣だいじん辞任じにんした直後ちょくごに、栃木とちぎけん日光にっこうおとずれたさいには「るもよし くもまたよし なかは いはぬがはなさるはいうなり」という短歌たんかと、「ねたふりを してもうごくや ねこみみ」という川柳せんりゅう)をんでいる[86]

1940ねん10がつ、「いちろくかい」の親睦しんぼくかい

べいない内閣ないかく総理そうり大臣だいじんしたのち陸軍りくぐんのぞ秘書官ひしょかんたちべいない親睦しんぼくかい設立せつりつされた。陸軍りくぐん秘書官ひしょかんも「あなたたちは(べい内内うちうちかく瓦解がかいとは)関係かんけいないのだから」とさそわれたのだが、「我々われわれ米内よないさんに迷惑めいわくをかけた存在そんざいなので参加さんかする資格しかくなどありません」と丁重ていちょうことわりをれている。べい内内うちうちかく発足ほっそくした辞表じひょう奉呈ほうていしたも16にちだったことから「いちろくかい(いちろくかい)」と名付なづけられ、戦後せんごながおこなわれ平成へいせいになっても存続そんぞくした。会員かいいんには宇佐美うさみあつし福地ふくち誠夫のぶお入江いりえ籌直などがいる[87]昭和しょうわ天皇てんのうは「いちろくかい」の存在そんざいっており、「いちろくかい」のになると「今日きょうは『いちろくかい』のだね」とったという[88]

総理そうり大臣だいじん辞任じにん病院びょういんがよいに東京とうきょう市電しでん利用りようしていたが[89]べいないだということがすぐわかり、いたところ国民こくみんにサインをもとめられたりはなしかけられたりした。日本にっぽんでは総理そうり経験けいけんしゃとなると自家用車じかようしゃハイヤーなどを使つかって通院つういんするのが一般いっぱんてきであるため、公共こうきょう交通こうつう機関きかん利用りようして通院つういんした戦前せんぜん総理そうりべいないくらいだったという。海軍かいぐんから公用こうようしゃ派遣はけんされたが、「予備よびやくなので」とことわっている。ぎゃく陸軍りくぐん次官じかん子弟してい通学つうがくおくむかえにも公用こうようしゃ使用しようして、国民こくみん顰蹙ひんしゅくっていたりしていた。[よう出典しゅってん]

9月15にちにちどくさんこく同盟どうめいたいする海軍かいぐん首脳しゅのう会議かいぎがあり、軍令ぐんれい総長そうちょう伏見ふしみみやひろしきょうおうが「ここまできたら仕方しかたない」と発言はつげんし、海軍かいぐん同盟どうめい賛成さんせいすることを決定けっていした。翌日よくじつ会議かいぎ出席しゅっせきしていた連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろくは、うみしょう及川おいかわ古志こしろうに、べいない現役げんえき復帰ふっきさせ連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん就任しゅうにんさせることをもとめている。この昭和しょうわ天皇てんのう伏見ふしみみや更迭こうてつくちにしたでもあったが、及川おいかわべいない復帰ふっき伏見ふしみみや更迭こうてつこばんでいる。10月まつまたは11がつ初頭しょとう山本やまもと及川おいかわべいない軍令ぐんれい総長そうちょうとして復帰ふっきさせるよう提案ていあんした。このとき及川おいかわげなかったが、山本やまもとは11月まつふたたべいない連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん起用きよう及川おいかわ進言しんげんしている。このとき伏見ふしみみやべいない軍令ぐんれい総長そうちょうとすることに同意どういした。しかしのちに伏見ふしみみや辞任じにんしたさい後任こうにんとして伏見ふしみみや指名しめいしたのは永野ながの修身しゅうしんであった。及川おいかわべいない中学ちゅうがく後輩こうはいべいない尊敬そんけいしており、だい3近衛このえないかく成立せいりつさいべいないうみしょうとしての復帰ふっきはかったことがある。こうしたべいない現役げんえき復帰ふっきをめぐるうごきはいずれも実現じつげんせずに、1941ねん昭和しょうわ16ねん12月8にち真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきにより太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)をむかえた[90]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、海軍かいぐんかぶと事件じけん戦死せんしした盟友めいゆう山本やまもと五十六いそろく国葬こくそう委員いいんちょうつとめる。だが軍人ぐんじん神格しんかくされることを毛嫌けぎらいしていた山本やまもとをよくべいないは、のち山本やまもと神社じんじゃ建立こんりゅうはなしなどがるたびに、井上いのうえ成美まさみとともに「山本やまもと迷惑めいわくする」とってこれにつよ反対はんたいしたため、神社じんじゃ建立こんりゅうされなかった[91]べいないは『朝日新聞あさひしんぶん』に追悼ついとうぶん寄稿きこう、そのなかで「不思議ふしぎだとおもふのはよんがつじつにはつきりしたゆめた、なにをいつたかわすれたが、いまでもかおがはつきりするゆめた、をかしいなとおもえつてゐたが、まさかかうなるとはおもはなかつた」とそのよるのことをかえっている[92]

だい24だい海軍かいぐん大臣だいじん[編集へんしゅう]

1944ねん7がつ22にち小磯こいそ内閣ないかく閣僚かくりょうらと(前列ぜんれつさいみぎべいない
1945ねん4がつ7にち鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく閣僚かくりょうらと(前列ぜんれつみぎべいない
1945ねん8がつ17にちひがし久邇くに宮内くないかく閣僚かくりょうらと(2れつひだりから2人ふたりべいない
1945ねん10がつ9にちぬさ原内はらうちかく閣僚かくりょうらと(前列ぜんれつひだりから3にんべいない

1944ねん昭和しょうわ19ねん)、東條とうじょう内閣ないかくたおれると、予備よびやくから現役げんえき復帰ふっきして小磯こいそ内閣ないかくふたた海軍かいぐん大臣だいじんとなる[93]

軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせいにより、予備よびやく海軍かいぐん大将たいしょうべいない海軍かいぐん大臣だいじんとなるには「召集しょうしゅう」ではなく「現役げんえき復帰ふっき」の必要ひつようがあった。予備よびやく編入へんにゅうされた陸海りくかいぐん将校しょうこう士官しかん現役げんえき復帰ふっきするには、「天皇てんのう特旨とくし」が必要ひつようとされ、きわめてまれなことだった。べいないは、陸軍りくぐん出身しゅっしん小磯こいそ國昭くにあきめい組閣そかく大命たいめいけた(小磯こいそ上席じょうせきで、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとなった)異例いれい組閣そかく経緯けいいから「ふく総理そうりかく」とされ、「小磯こいそべいない連立れんりつないかく」ともばれた[94]べいないは、海軍かいぐん次官じかんおか敬純たかずみを「一夜いちやにして放逐ほうちくする」と更迭こうてつ[95]横須賀よこすか鎮守ちんじゅでコンビをんだ井上いのうえ成美まさみ当時とうじ海軍兵学校かいぐんへいがっこう校長こうちょう)を「くびなわをかけてきずってでも中央ちゅうおうもどす」と直接ちょくせつ説得せっとく、「次官じかんなんてではない」「江田島えたじま村長そんちょう(= 海軍兵学校かいぐんへいがっこう校長こうちょう)で軍人ぐんじん生活せいかつわらせたい」といいは井上いのうえ中央ちゅうおうせた[ちゅう 4]。なお、べいない同期生どうきせい親友しんゆうであったあらじょう二郎じろう姉妹しまい井上いのうえあに井上いのうえ達三たつぞうとついでおり[97]べいない井上いのうえには私的してきにもつながりがあった。

べいない現役げんえき復帰ふっき画策かくさくした岡田おかだ啓介けいすけは、「べいない円満えんまん海軍かいぐん復帰ふっきさせるには、海軍かいぐんないべいない系統けいとうとも末次すえつぐ系統けいとうかおてておく必要ひつようがある」とのこえけたため、岡田おかだ藤山ふじやま愛一郎あいいちろう邸宅ていたくにてにんわせ、関係かんけい修復しゅうふくつとめ、とも個人こじん感情かんじょうよりくにのためにちからくすことをちかわせた[98]末次すえつぐ信正のぶまさべいない関係かんけいは、過去かこ宴席えんせきいち事件じけんたいする責任せきにんなどで口論こうろんとなるなど険悪けんあくであった[99]べいない現役げんえき復帰ふっきったが、予定よていされていた末次すえつぐ軍令ぐんれい総長そうちょうへの復帰ふっきばなし天皇てんのう反対はんたいなどのためにそれっきりとなってしまった[100]。「軍令ぐんれいなら召集しょうしゅうかんでもなれるのだから、末次すえつぐ召集しょうしゅうかたちれてきてはどうか」とべいないすすめるものもいたが、べいないおうじなかった。これにかんして岡田おかだは「(べいないは)末次すえつぐのような性格せいかくおとこがいては、自分じぶんかんがえている戦局せんきょく収拾しゅうしゅうがうまくいかんとおもったのではないかね」とし、『昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく』には「わたし末次すえつぐ総長そうちょう反対はんたいした。べいないあと末次すえつぐのことを調しらべたら、海軍かいぐんないはちわり末次すえつぐをよくつてゐないとうんふことがはんつたしょうだ」とある。ただし、復帰ふっき直後ちょくごべいない末次すえつぐ総長そうちょう実現じつげんしない場合ばあいには辞任じにんするむねかたっており[101]末次すえつぐ総長そうちょう人事じんじには熱意ねついっていた[102]結局けっきょく軍令ぐんれい総長そうちょうには及川おいかわ古志こしろうくこととなった。

12月3にちかみかみなり部隊ぶたい視察しさつし、飛行場ひこうじょう閲兵えっぺいしきおこな[103]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかくにもうみしょうとして留任りゅうにんべいない本人ほんにんは「連立れんりつないかく」のしょういそだけが辞職じしょく自分じぶん留任りゅうにんするというのは道義どうぎじょう問題もんだいがあるとかんがえていた。だが今度こんど次官じかんであった井上いのうえ成美まさみべいないらないところで「べい内海うちうみしょう留任りゅうにん絶対ぜったいゆずれない」という「海軍かいぐん総意そういじつ井上いのうえ独断どくだん)」を、大命たいめいくだった鈴木すずきもうれていたのだった[104][ちゅう 5]

5月11にちドイツ降伏ごうぶく直後ちょくご宮中きゅうちゅうひらかれた最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎにおけるたい交渉こうしょうについて、「ソ連それんからの援助えんじょすべきだ」と主張しゅちょうしたが、「ソ連それん軍事ぐんじてき経済けいざいてき利用りようできる段階だんかいでは、もはやない」と外務がいむ大臣だいじん東郷とうごう茂徳しげのり却下きゃっかされている。しかし鈴木すずき内閣ないかく結論けつろんとしてソ連それんたいする和平わへい仲介ちゅうかい依頼いらいする方針ほうしん決定けっていし、交渉こうしょう開始かいしした。

5月25にち空襲くうしゅう海軍かいぐんしょう大臣だいじん官邸かんてい焼失しょうしつしてしまい、麻生あそう孝雄たかお海軍かいぐん大臣だいじん秘書官ひしょかんつつみ康次郎やすじろう所有しょゆう建物たてもの官邸かんていとしてけようと交渉こうしょうかったところ、つつみ最初さいしょ不機嫌ふきげんだったがべいない名前なまえてきた途端とたん顔色かおいろわり、「よろしゅうございます。おししましょう。わたし米内よないさんがきなので」と建物たてもの提供ていきょう無条件むじょうけん承知しょうちしてくれた。「米内よないさんの人徳にんとくりれたようなものだ」と麻生あそうのちべている。[よう出典しゅってん]この空襲くうしゅうでは明治めいじ宮殿きゅうでん焼失しょうしつし、翌日よくじつ参内さんだいしたさい天皇てんのう態度たいどから、べいない和平わへいけた意志いしった。

5がつまつ会議かいぎいちしょうのち終戦しゅうせんとすることを主張しゅちょうした陸軍りくぐん大臣だいじん阿南あなみ惟幾これちかたいし、べいない早期そうき講和こうわ主張しゅちょうした[105][ちゅう 6]

6月9にち鈴木すずきによる議会ぎかいでの発言はつげん天罰てんばつ発言はつげん事件じけん)をつぎせん議員ぎいんが2にち問題もんだいしたことで国会こっかい混乱こんらんおちいり、倒閣とうかく運動うんどうまで発生はっせいしてしまった。これにより、べいない議会ぎかい内閣ないかくたいする姿勢しせい問題もんだいして辞意じい表明ひょうめいしたところ、阿南あなんから辞意じいおもいとどまるように手紙てがみによる説得せっとくけ、これをれた。

ソ連それんとの交渉こうしょうについては、すでに内密ないみつたいにち参戦さんせん決意けついしていたソ連それんからは回答かいとうばされるだけであった。やがて7がつまついたり、連合れんごうこく日本にっぽんたい降伏ごうぶく勧告かんこくするポツダム宣言せんげん発表はっぴょうされる。東郷とうごう受諾じゅだく可能かのうせい主張しゅちょうするが、阿南あなみをはじめとする統帥とうすい宣言せんげん拒否きょひはげしく主張しゅちょう結果けっかとして閣議かくぎでは「ポツダム宣言せんげんかんしてはつよ見解けんかいをださず様子ようすをみる」むね発表はっぴょうすると決定けっていした。ところが統帥とうすい閣議かくぎ決定けってい無視むしして鈴木すずき宣言せんげんたいしてつよ態度たいどるべきと主張しゅちょう鈴木すずきはこのげにくっして、宣言せんげん黙殺もくさつ記者きしゃ会見かいけん声明せいめいした。この黙殺もくさつ声明せいめいにより、原子げんしばくだん投下とうかソ連それんたいにち参戦さんせんというあらたな事態じたい発生はっせいした。べいない連合れんごうこくのポツダム宣言せんげん発表はっぴょうから鈴木すずき黙殺もくさつ声明せいめいにいたるまで、ポツダム宣言せんげんたいして曖昧あいまい態度たいどをとっている。べいないのこの曖昧あいまいさが、阿南あなんなどポツダム宣言せんげん拒否きょひられ、黙殺もくさつ声明せいめいへのおおきな原因げんいんになったとする批判ひはんもある。

原爆げんばく投下とうかソ連それん参戦さんせん以降いこうべいないはポツダム宣言せんげん受諾じゅだくによる戦争せんそう終結しゅうけつ東郷とうごう外相がいしょうとともに強力きょうりょく主張しゅちょうする。受諾じゅだく反対はんたい本土ほんど決戦けっせん主張しゅちょうする阿南あなん閣議かくぎ最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ激論げきろん展開てんかいした。「戦局せんきょく依然いぜんとして互角ごかくである」と阿南あなみたいし「陸相りくしょう互角ごかくというが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄いおうとう沖縄おきなわ、みんなあきらかにほうけている。個々ここたたかいで武勇ぶゆうだんはあるやもしれないが、それは勝敗しょうはいとはべつ問題もんだいである」とべいないはいいかえした。さらに「戦闘せんとうにはけているかもしれないが、戦争せんそうそのものにけたとはいえない。陸軍りくぐん海軍かいぐんでは感覚かんかくちがう」とさい反論はんろんする阿南あなんたいべいないは「あなたがなんとおうと日本にっぽん戦争せんそうけている」とい、両者りょうしゃはなし決着けっちゃくはつかなかった[106]

8がつ9にち御前ごぜん会議かいぎで、東郷とうごう茂徳しげのり米内よない光政みつまさ平沼ひらぬま騏一郎きいちろうは、「天皇てんのう地位ちい保障ほしょうのみ」を条件じょうけんとするポツダム宣言せんげん受諾じゅだく主張しゅちょう。それにたい阿南あなみ惟幾これちか梅津うめづ美治よしはるろう豊田とよだふくは「受諾じゅだくには多数たすう条件じょうけんをつけるべきで、条件じょうけん拒否きょひされたら本土ほんど決戦けっせんをするべきだ」と受諾じゅだく反対はんたい主張しゅちょうした。天皇てんのう東郷とうごうべいない平沼ひらぬま見解けんかい同意どういし、終戦しゅうせん原則げんそくてき決定けっていされた[107]。しかし連合れんごうこくがわから条件じょうけんけんについて回答かいとうぶんがあり、ふたたび受諾じゅだく賛成さんせい反対はんたい議論ぎろん再燃さいねんする[108]

8がつ12にち軍令ぐんれい総長そうちょう豊田とよだふく大将たいしょう陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう梅津うめづ美治よしはるろう大将たいしょう昭和しょうわ天皇てんのうたいしてポツダム宣言せんげん受諾じゅだく反対はんたいする帷幄上奏いあくじょうそうおこな[109]同日どうじつべいないは、抗戦こうせん主張しゅちょうする豊田とよだ軍令ぐんれい次長じちょう大西おおにしたき治郎じろう二人ふたりした。べいない大西おおにしたいして「軍令ぐんれい行動こうどうはなっておらない。意見いけんがあるなら、大臣だいじん直接ちょくせつ申出もうしでたらよいではないか。最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ(9にち)に、まねかれもせぬのに不謹慎ふきんしん態度たいどはいってるなんていうことは、じつにみっともない。そんなことはとどめろ」といつけ、大西おおにしなみだながしてびた。つぎ豊田とよだたいして「それからまた大臣だいじんにはなん相談そうだんもなく、あんな重大じゅうだい問題もんだいを、陸軍りくぐん一緒いっしょになって上奏じょうそうするとは何事なにごとか。ぼく軍令ぐんれいのやることにうさぎかく干渉かんしょうするのではない。しかし今度こんどのことは、あかりかにいちおうは、海軍かいぐん大臣だいじん意見いけんまじえたうえでなければ、軍令ぐんれいと雖も勝手かって行動こうどうすべからざることである。昨日きのう海軍かいぐん部内ぶない一般いっぱんした訓示くんじは、このようなことをいましめたものである。それにもかかわらず斯る振舞ふるまいたことは不都合ふつごうせんまんである」と非難ひなんし、豊田とよだまないという様子ようす一言ひとことこたえなかった[110]豊田とよだ軍令ぐんれい総長そうちょう就任しゅうにんするさいに、昭和しょうわ天皇てんのうは「司令しれい長官ちょうかん失格しっかくもの総長そうちょうにするのはくない」と反対はんたいするむねべいないげているが、べいないは「わかもの支持しじがある。かれちからによってわかものおさえて終戦しゅうせんっていきたい」と返答へんとうした。しかし豊田とよだられたかたちになり、べいないしたしい知人ちじんに「豊田とよだ裏切うらぎられた気分きぶんだ。見損みそこなった」とべ、昭和しょうわ天皇てんのうは「べいない失敗しっぱいだ。べいないのためにしまれる」と述懐じゅっかいしている[111]

8がつ14にち天皇てんのう最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎおよび閣僚かくりょう面前めんぜんで、再度さいど受諾じゅだく決定けってい、これにより終戦しゅうせん最終さいしゅうてきけっした。

鈴木すずき内閣ないかく陸軍りくぐん大臣だいじんだった阿南あなみ惟幾これちか終戦しゅうせん当日とうじつに「べいない[ちゅう 7]」といいのこして自決じけつしたが[113]米内よない本人ほんにん軍人ぐんじんとして法廷ほうていさばかれるみちえらんだ。戦犯せんぱんとして拘束こうそくされることを予期よきし、巣鴨すがもプリズン収監しゅうかんされる場合ばあいそなえていたものの、結局けっきょくべいない容疑ようぎしゃには指定していされなかった[ちゅう 8]

べいぐんがわべいない以前いぜん言動げんどう詳細しょうさい調査ちょうさしており、GHQぼう軍人ぐんじんもと秘書官ひしょかん麻生あそう孝雄たかおのもとをたずねたさい、いきなりべいないのことをし「米内よない提督ていとくについてはちからすべて調査ちょうさしてある。いのちってにちどくさんこく同盟どうめいたいべい戦争せんそう反対はんたいした事実じじつ終戦しゅうせん動静どうせいなどすべてお見通みとおしだ。べいない提督ていとく戦犯せんぱん指名しめいされることは絶対ぜったいにない。我々われわれ米内よない提督ていとくをリスペクトしている」と断言だんげんし、麻生あそうべいない伝記でんきくことさえすすめている。また保科ほしな善四郎ぜんしろう吉田よしだ英三えいぞう豊田とよだくまゆうなどが「米内よないさんだけは戦犯せんぱんにしてはいけない」と奔走ほんそうしたというはなしもある。戦後せんご処理しょり段階だんかいはいってもべいない存在そんざいたか評価ひょうかされ、ひがし久邇くに宮内くないかくぬさ原内はらうちかくでもうみしょう留任りゅうにんして帝国ていこく海軍かいぐんまくやくつとめた。ぬさ原内はらうちかく組閣そかくには健康けんこう不安ふあんから[ちゅう 9]辞意じいかためていたにもかかわらずGHQの意向いこう留任りゅうにんしている。

べいないは「言葉ことば適当てきとうおもうが原爆げんばくソ連それん参戦さんせん天佑てんゆうだった」[116]つづけて「国内こくない情勢じょうせいたたかいをやめるということをさなくてむ。わたしがかねてから時局じきょく収拾しゅうしゅう主張しゅちょうする理由りゆうてき攻撃こうげきおそろしいのでもないし、原子げんしばくだんソ連それん参戦さんせんでもない。いち国内こくない情勢じょうせい憂慮ゆうりょすべき事態じたい食糧しょくりょう事情じじょうなどによる国内こくない秩序ちつじょ崩壊ほうかいから日本にっぽん内部ないぶから崩壊ほうかいすること)がおもである。(中略ちゅうりゃく軍令ぐんれいあたりも国内こくないがわかっておらなくてこまるよ」と近衛このえ文麿ふみまろ細川ほそかわ護貞もりさだなどにかたった。

海軍かいぐんしょう最後さいごとなった11月30にちに、海軍かいぐん大臣だいじんとして挨拶あいさつをしたさいにも、朝日新聞あさひしんぶん海軍かいぐん担当たんとう記者きしゃつくった原稿げんこうんだのち「ではみなさん、さようなら」とだけしゃべってわった。ぬさ原内はらうちかくにおいて海軍かいぐんしょう廃止はいしされだい復員ふくいんしょうとなったことから、べいない日本にっぽん最後さいご海軍かいぐん大臣だいじんとなった。

海軍かいぐんしょう廃止はいし翌日よくじつの12月1にち宮中きゅうちゅうされたべいないは、おわかれの言上ごんじょうをしたさい昭和しょうわ天皇てんのうから「べいないには随分ずいぶん苦労くろうけたね。それがこんな結末けつまつになってしまって…。これからは機会きかいすくなくなるだろう。べいないはだいぶからだよわっているようだから、健康けんこうにくれぐれも注意ちゅういするように。これはわたしいまさっきまで使つかっていたしなだが、今日きょう記念きねんかえってもらいたい」として、ふですみれた状態じょうたい硯箱すずりばこに、丹頂鶴たんちょうづるきくしょうえだをあしらったきむ蒔絵まきええがかれたぶた天皇てんのうみずかじたうえで、直接ちょくせつ手渡てわたされた。硯箱すずりばこって廊下ろうか退出たいしゅつするなり、べいないこえころしてしたという。またこのとき、こうじゅん皇后こうごう別室べっしつべいないなみだながらにあつねぎらっている[117]現在げんざいそのすずりは、郷里きょうり盛岡もりおか先人せんじん記念きねんかん展示てんじされているが、展示てんじひん寄贈きぞうなのにたいして、すずりのみべいない所有しょゆうぶつとして展示てんじされている[118]

海軍かいぐん解体かいたいまえべいないはその当時とうじ軍務ぐんむ局長きょくちょうだった保科ほしなに、「戦犯せんぱん指名しめいされるかもしれないし、わたし健康けんこうもすぐれないから」と前置まえおきしたうえで、「連合れんごうこく永久えいきゅう日本にっぽん軍備ぐんび撤廃てっぱいさせることはない。にち戦争せんそうまえトン数とんすう基準きじゅん海軍かいぐん再建さいけん模索もさくすべし」「海軍かいぐんには優秀ゆうしゅう人材じんざい数多かずおおあつまり、その伝統でんとういできた。先輩せんぱいたちがどうやってその伝統でんとうをきずきあげてきたか、後世こうせいつたえるべし」「海軍かいぐんっていた技術ぎじゅつ日本にっぽん復興ふっこう役立やくだてること」を委託いたくしている。保科ほしなY委員いいんかいとおして現在げんざい海上かいじょう自衛隊じえいたい創設そうせつ間接かんせつてき影響えいきょうあたえており、のち衆議院しゅうぎいん議員ぎいんとなった保科ほしな自身じしんべいない遺志いしひとつでも達成たっせいすべく政界せいかいりを目指めざしたとべている。

東京とうきょう裁判さいばん[編集へんしゅう]

戦後せんご極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんでは証人しょうにんとして1946ねん昭和しょうわ21ねん)3がつと5がつの2わたって出廷しゅっていし、「当初とうしょから、この戦争せんそう成算せいさんのなきものとかんじて、反対はんたいであった」「陛下へいかは、開戦かいせん個人こじんてきにはつよ反対はんたいされていたが、開戦かいせん内閣ないかく一致いっちした結論けつろんであったため、やむなく開戦かいせん決定けってい承認しょうにんされた」と、昭和しょうわ天皇てんのう立場たちば擁護ようごする発言はつげん終始しゅうしした。

そのうえで、満州まんしゅう事変じへんささえ事変じへんにちえいべいらん開戦かいせん推進すいしんした責任せきにんしゃとして、土肥どいはら賢二けんじ板垣いたがき征四郎せいしろう武藤むとうあきら文官ぶんかんでは松岡まつおか洋右ようすけ名前なまえげて、陸軍りくぐん戦争せんそう責任せきにん追及ついきゅうしている。しかし、東條とうじょう英機ひでき責任せきにんについては言明げんめいすることがなかった[ちゅう 10]

一方いっぽうで、陸軍りくぐん大臣だいじん単独たんどく辞任じにんべい内内うちうちかく瓦解がかいさせたことでAきゅう戦犯せんぱんとしてさばかれることになったはた俊六しゅんろくたいしては、弁護べんごがわ証人しょうにんとして出廷しゅっていしたときには、はたけから圧力あつりょくをかけられたのだとおもうとしてかばった。これはすでくなっていたが事件じけん当時とうじ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうであった閑院みやじんひいては皇族こうぞく戦争せんそう責任せきにん示唆しさしかねない問題もんだいであった。しかし、べいないはたけしんじていたのか、はたけ部下ぶかげて陸軍りくぐん全体ぜんたい総意そういだったのではないかと、当時とうじ新聞しんぶん記事きじとう証拠しょうこひん追及ついきゅうする検事けんじたいし、徹底的てっていてきにしらをつづけた。このあいだ検事けんじいていることにこたえるようにとの裁判さいばんちょう指示しじ無視むしして、たびたび自身じしんのしたい否定ひてい発言はつげんばかりをおこない、裁判さいばんちょうウィリアム・ウェブから「The prime minister is the most stupid witness I have ever listened to.(この首相しゅしょうわたしがこれまではなしいたなか一番いちばん鈍感どんかん証人しょうにんだ)」と法廷ほうていそしられている[119][120]一方いっぽうで、首席しゅせき検事けんじジョセフ・キーナンはむしろ「あれははたけかばっていたのだ。国際こくさい法廷ほうてい席上せきじょうであのような態度たいどをとれる人間にんげんはいない」と敬意けいいあらわしたという[121][ちゅう 11]。もっとも、べいない証言しょうげんたいし、裁判さいばんちょうのウェッブは「本来ほんらいなら信頼しんらいせいのない証人しょうにんとして退場たいじょうさせるところだ」ともかたって[125]いて、キーナンにとっては新聞しんぶん報道ほうどうのほうがよほど信頼しんらいせいがあるとけとめられて好都合こうつごうだった可能かのうせいもある。キーナンは翌月よくげつ若槻わかつき禮次郎れいじろう岡田おかだ啓介けいすけ宇垣うがき一成いっせいらとともにべいないまねいてカクテルパーティーをひらき、4にんを「しん平和へいわ愛好あいこうしゃ」とんだ[126]

マッカーサー日本にっぽん占領せんりょう統治とうち天皇てんのう利用りようするため、昭和しょうわ天皇てんのう戦争せんそう責任せきにんわない方針ほうしんさだめていたが、連合れんごうこくなかには「天皇てんのう戦争せんそう責任せきにんうべきだ」とするくにもあった。そのためマッカーサーの秘書官ひしょかんフェラーズじゅんしょうは、べいないをGHQ司令しれいび「天皇てんのうなんつみのないことを日本にっぽんがわ立証りっしょうしてくれることがもっと好都合こうつごうだ。そのためには近々ちかぢか開始かいしされる裁判さいばん最善さいぜん機会きかいだとおもう。この裁判さいばん東条とうじょうぜん責任せきにんわせるようにすることだ」とかたったと[127][128]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

盛岡もりおか八幡宮はちまんぐう境内けいだいにある米内よない光政みつまさぞうぞう原型げんけい盛岡もりおか出身しゅっしん堀江ほりえたけし碑文ひぶん小泉こいずみ信三しんぞうによる。

1946ねん昭和しょうわ21ねん)、公職こうしょく追放ついほうとなる[129]死去しきょ1952ねん追放ついほう解除かいじょ[130])。もと大臣だいじん秘書官ひしょかん麻生あそう孝雄たかおさそわれて、小島こじま秀雄ひでおもと海軍かいぐん少将しょうしょう大臣だいじん時代じだい副官ふっかんらととも北海道ほっかいどう釧路くしろまち達古武たつこぶ付近ふきん北海道ほっかいどう牧場ぼくじょう株式会社かぶしきがいしゃ通称つうしょう霞ヶ関かすみがせき牧場ぼくじょう)の牧場ぼくじょう経営けいえい参加さんかする。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)、肺炎はいえんにより死去しきょ。68さいと1ヵ月かげつだった。かる脳溢血のういっけつ肺炎はいえん併発へいはつしたのが直接ちょくせつ死因しいんだが、長年ながねん高血圧こうけつあつしょう慢性まんせい腎臓じんぞうびょう既往症きおうしょうがあり、さらに帯状疱疹たいじょうほうしんにもくるしめられるなど、実際じっさいからだちゅうにガタがきていた[131]実際じっさい戦後せんごになってすこ体調たいちょうきをせていたものの、帯状疱疹たいじょうほうしん寿命じゅみょうちぢめた。

死後しご[編集へんしゅう]

昭和しょうわ天皇てんのう日本学士院にほんがくしいんまねいてもよおされた昼食ちゅうしょくかいで、天皇てんのう小泉こいずみ信三しんぞうに、「雑誌ざっしべいないのことをいたね」とかたりかけた。小泉こいずみが『しん昭和しょうわ24ねん1がつごう寄稿きこうしたべいないおもんでのことである。「拙文せつぶんがおれてしまいましたか」と小泉こいずみ恐縮きょうしゅくすると、「あれをんでべいないなつかしくなった」と天皇てんのうう。それで陪食ばいしょくにあずかるほか参加さんかしゃもそれぞれべいないおもばなし紹介しょうかいしはじめたが、やがて天皇てんのう感慨かんがいふかげに「しいひとであった」とったきりくちざしてしまい、このためそのしずまりかえったという[132]

べいない死後しご12ねん1960ねん昭和しょうわ35ねん)、盛岡もりおか八幡宮はちまんぐう境内けいだい背広せびろ姿すがたべいない銅像どうぞう[133]てられ、10月12にち除幕じょまくしきおこなわれた。その直前ちょくぜんに、巣鴨すがもプリズンから仮釈放かりしゃくほうされた81さいはた俊六しゅんろく黙々もくもく会場かいじょうくさむしりをしていた[134]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

昭和しょうわ14ねん(1939ねん)1がつ板垣いたがき征四郎せいしろう (中央ちゅうおうみぎ) の「陸相りくしょう就任しゅうにん祝賀しゅくがかい」に参加さんかするべい内海うちうみしょう板垣いたがきみぎには当時とうじ陸軍りくぐん次官じかんだった東條とうじょう英機ひできえる。

人柄ひとがら[編集へんしゅう]

身長しんちょうしゃくななすんやく173cm)、体重たいじゅう80kg。趣味しゅみ長唄ながうた[135]ロシア文学ぶんがくにもしたしみ、プーシキン愛読あいどくした[135]。「好物こうぶつおから豆腐とうふだった」という。

極端きょくたん口数くちかずすくなく、面倒めんどうくさがりで、説明せつめい演説えんぜつきらった。しかし、佐世保させぼ時代じだい親交しんこうがあった知人ちじん長官ちょうかん官邸かんてい女中じょちゅうは「米内よないさんは口数くちかずすくないといわれているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談じょうだんもよくっていた」と証言しょうげんしており、戦後せんごひとわったかのように口数くちかずおおくなった、という証言しょうげんもある。

べいない坊主ぼうずあたま一般いっぱんてきだったほか軍人ぐんじんとはことなり、かみななさんけていた[136]練習れんしゅうかんいわしゅ艦長かんちょう時代じだい横須賀よこすか鎮守ちんじゅ長官ちょうかん野間口のまぐち兼雄かねお大将たいしょうから「いてとはわぬが、頭髪とうはつもなるべくみじかったほうがいい」と訓示くんじされ、先輩せんぱいに「長官ちょうかんかなり機嫌きげんわるいぞ。クルクル坊主ぼうずれ」とやかされてもろうとしなかった。べいない坊主ぼうずあたま海外かいがいでは囚人しゅうじん髪型かみがたであることをっており、海外かいがい直接ちょくせつせっする海軍かいぐん軍人ぐんじん髪型かみがたとしてふさわしくない、という理念りねんからであったという[137]また戦争せんそう末期まっき上官じょうかんかみるようわれ「わたし尊敬そんけいするべいない大将たいしょうかみばしております。何故なぜ海軍かいぐん陸軍りくぐんおなじことをしないといけないのでしょうか。それが教育きょういくうのならその教育きょういく間違まちがっております」と拒否きょひした士官しかんもいたという(もっとも、その士官しかんはその上官じょうかんによって考査こうさひょうに「上官じょうかんいのちしたがえワズ素行そこうごくメテ不良ふりょうナリ」と「へい」をつけられたという)。[よう出典しゅってん]米内よない自身じしん長男ちょうなんつよしせいに、「かみばすのはいがつねにきちんとととのえて清潔せいけつかん大事だいじにすべし」とべている。

長男ちょうなんつよしせいひとうえとき部下ぶかをどうあつかうべきかたずねたところ、「うつわなか自由じゆうおよがせておけばいい。うつわからはみしそうなものがいればあたまをポカリとやる。それ以外いがいくちさない。しかし部下ぶかおよがせるうつわ自分じぶんつくるものだよ。自分じぶんこころがけ次第しだいひろくもせまくもなる」とさとされたとつよしせい述懐じゅっかいしている[138]

さけべいないか、べいないさけ[編集へんしゅう]

べいないさけ非常ひじょうつよく、「さけべいないか、べいないさけか」とまでわれていた[139]。かなりのハイペースでみいくらんでも顔色かおいろひとえず、淡々たんたんんでいたという。

総理そうり大臣だいじんとき満州まんしゅうこく皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎ日本にっぽんおとずれたさいべいないさけりょう話題わだいになり、「満州まんしゅうに『うみりょう(ハイリャン)』という言葉ことばがある。べいないさけりょうは『うみりょう』か」とたずねたところ、高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのうが「いえ、べいないは『ようりょう(ヤンリャン)』です」とかえしたエピソードがある[140]。また、銀座ぎんざ芸者げいしゃしゅあいだで「米内よないさんをぱらわせたら懸賞けんしょうきんあたえる」というはなしひろまり、さけ自信じしんがある芸者げいしゃ何人なんにん挑戦ちょうせんしたがべいないわせることができず、芸者げいしゃべいないまえ号泣ごうきゅうしてくやしがったという。

ぱらうことはほとんどなかったが、ほろ加減かげんになると長唄ながうた調子ちょうし棒読ぼうよみになったともいう。またべいないみずからロシア駐在ちゅうざい時代じだいってロシア水兵すいへい演説えんぜつをしたことをかたり、「わたし演説えんぜつするくらいなので、相当そうとうっていたのでしょう」とったこともある[141]保科ほしな善四郎ぜんしろうは「米内よないさんにとってさけものだった」と回想かいそうしている。

海軍かいぐん料亭りょうていなどでさいにはしょうさんしょうたりまえのようにむと料亭りょうてい女将おかみたちからもわれていた。わかいころはみずから「おれときにはしょうさんしょうあるいはそれ以上いじょう平気へいきことがあった。しかしいえかえっておふくろの蒲団ふとんくまではみだれないでいる。ところがわって自分じぶん部屋へやかえったら最後さいごいがまわって前後不覚ぜんごふかくになってしまうんだ。それまではいくらんでも気持きもちはしゃんとしているんだけれどね」とはなことがあった[142]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

1939ねん6がつ3にち東京とうきょう料亭りょうていひらかれた謝恩しゃおんかい尋常じんじょう中学ちゅうがく時代じだい恩師おんし冨田とみた小一郎こいちろうひだりからにん)をかこ板垣いたがき征四郎せいしろう陸相りくしょうさいひだり)、田中たなかたて愛橘あいきつみかどだい名誉めいよ教授きょうじゅみぎからにん)、べい内海うちうみしょう

べいない陸軍りくぐん大将たいしょう板垣いたがき征四郎せいしろう政治せいじてき立場たちば思想しそうことなったが、同郷どうきょう岩手いわてけん出身しゅっしん先輩せんぱい後輩こうはいということで公務こうむそとではなにかとウマがい、おたがいを「ひかっつぁん」「せいっこさん」とんでいた。東京とうきょう料亭りょうていひらかれた盛岡もりおか尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう時代じだい恩師おんし冨田とみた小一郎こいちろうへの謝恩しゃおんかいりょう大臣だいじんびかけでおこなわれたもので、ほかにも作家さっか野村のむら胡堂こどう言語げんご学者がくしゃ金田一きんだいち京助きょうすけなど、冨田とみたおしたちがおおたかった。

女性じょせいによくもてたようで、とく花柳かりゅうかいでは山本やまもと五十六いそろくとともに圧倒的あっとうてき人気にんきがあった。長男ちょうなんつよしせいちち死後しご愛人あいじんだったとしょうする女性じょせいにあちこちでったり[143]戦争せんそうちゅう主計しゅけい士官しかんとして赴任ふにんちゅう上官じょうかん年老としおいた芸者げいしゃれてきたかとおもったら、「こいつは貴様きさま父上ちちうえのインチ(馴染なじ芸者げいしゃ)だ」とわれたりしてこまったという[144]佐世保させぼ鎮守ちんじゅ長官ちょうかん退任たいにんさい佐世保させぼえき周辺しゅうへんには見送みおくりにおとずれた芸者げいしゃ黒山くろやまひとだかりができたといわれている[145]

陸奥みちのく艦長かんちょう時代じだいかん軍港ぐんこうざいはくしていたのだが東京とうきょうよりむすめ病死びょうし連絡れんらくはいった。べいないは「艦長かんちょうとしてかんはなれがたい用事ようじがあるので帰京ききょうはあきらめる。わりの子供こどもいくらでもできる。」とったという[146]

また、横須賀よこすか鎮守ちんじゅ長官ちょうかん時代じだい上海しゃんはいからべいないしたってある芸者げいしゃ横須賀よこすかまでやってて、現在げんざいストーカーのようにつきまとった。周囲しゅういべいない今後こんごのこともありその対応たいおう苦慮くりょするがべいない彼女かのじょたいしてもへだてなくせっし、参謀さんぼうちょうだった井上いのうえ成美まさみも「これはおとこおんな問題もんだいですからね」としている。これをいた横須賀よこすか芸者げいしゃしゅは、「あの堅物かたぶつ井上いのうえさんがそんなことうなんて」とまるくしたという。なおその芸者げいしゃ一時期いちじき横須賀よこすか芸者げいしゃをしていたものの、らぬあいだ横須賀よこすかからえ、それ以後いご消息しょうそく不明ふめいだという[147]

べいないは、にちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつ、このほういて「われわれのさんこく同盟どうめい反対はんたいは、あたかもナイアガラのながれにさからってふねをこいでるようなもので、いまからると無駄むだ努力どりょくであった」と嘆息たんそくし、緒方おがた竹虎たけとらべいない山本やまもと海軍かいぐんつづいていたなら徹頭徹尾てっとうてつび反対はんたいしたかの質問しつもんたいし「無論むろん反対はんたいしたがころされていたでしょうね」と述懐じゅっかいしている[148]

べいない晩年ばんねんまで父親ちちおやのこした借金しゃっきん返済へんさいしていたということがあり、海外かいがい駐在ちゅうざいおおかったのも借金しゃっきん生活せいかつくるしいのをかねた同期どうきが「海外かいがいれば手当てあて支給しきゅうされ、それだけで現地げんち生活せいかつ出来できる」というはからいによるものであった。こうよんきゅう金鵄勲章きんしくんしょう年金ねんきん借金しゃっきんのかたにられてしまっている[149]。また、佐世保させぼ鎮守ちんじゅ長官ちょうかん時代じだいにも海軍かいぐん福利ふくり団体だんたいさんせんえん借款しゃっかんもうんでいる。中将ちゅうじょう借金しゃっきんもうんだのは前代未聞ぜんだいみもんで、もうみをけた理事りじ大臣だいじん副官ふっかん兼務けんむ)もどう処理しょりしていいのか戸惑とまどったという[150]べいない借金しゃっきん返済へんさいするのは海軍かいぐん大臣だいじんになってからであり、佐世保させぼ鎮守ちんじゅ長官ちょうかん時代じだいてた親友しんゆうあらじょう二郎じろうけの手紙てがみにも、「(べいない現職げんしょく留任りゅうにんかもという人事じんじ異動いどううわさち)陸上りくじょう勤務きんむかねがかかるがかといって辞職じしょくするわけにもいかない。かねがないからまた借金しゃっきんでもするか、ハハハ」といている。

武見たけみ太郎たろう日本にっぽん医師いしかい会長かいちょう)が「開戦かいせんまえ海軍かいぐん上層じょうそう見通みとおしはどうだったんですか。まさかてるとおもってたわけじゃないんでしょう」とくと、「軍人ぐんじんというものは、一旦いったん命令めいれいくだればたたかうのです」とこたえ、「陸軍りくぐん支配しはいびてった日本にっぽんの、偏狭へんきょう国粋こくすい主義しゅぎ思想しそう世界せかい通用つうようするものではなかったけれども、日本にっぽんには古来こらいから日本にっぽん独自どくじ伝統でんとう思想しそう風習ふうしゅうがある。そのうえにアメリカりゅう民主みんしゅ主義しゅぎ無理むりにのっけようとすると、結局けっきょく反動はんどうるのではないか。それを心配しんぱいしている。民族みんぞくのもののかんがかたは、戦争せんそうけたからといって、そう一朝一夕いっちょういっせきわるものではない」と、GHQによる占領せんりょう政策せいさく批判ひはんする発言はつげんをしたという。それにたいし「科学かがく技術ぎじゅつ振興しんこうしてけば、日本にっぽんなおってあたらしいくにまれわることが出来できるとおもいますがね」と武見たけみ反論はんろんすると、「国民こくみん思想しそう科学かがく技術ぎじゅつより大事だいじだよ」と大声おおごえをだしたという[151]べいない予想よそうでは「日本にっぽん本当ほんとう復興ふっこうするまでひゃくねんかかる」とべたという[152]

戦後せんご高血圧こうけつあつなやまされたさいぬさ原内はらうちかく外務がいむ大臣だいじんだった吉田よしだしげるから、当時とうじ銀座ぎんざ開業かいぎょうしていた武見たけみ太郎たろう紹介しょうかいされた。武見たけみべいないとはほとんど面識めんしきがなかったが義理ぎり祖父そふである牧野まきのしんあきらより「あのひとのものの見方みかたかたよったところまったくない。軍人ぐんじんであれだけめた見方みかたをするひとめずらしい」とつねごろからかされていた。そして吉田よしだから「いのちけずっておくにくし日本にっぽんすくったほうだ。あのほうかねがないからどんなことがあっても絶対ぜったい診察しんさつりょうるな」と指示しじされていたという。べいない武見たけみ診察しんさつけ、「いい医者いしゃだよ。くすりをくれずにぼくさけんでもいいとったからね」とすこぶる上機嫌じょうきげんだったという[153]べいない高血圧こうけつあつすで対処たいしょ不能ふのう段階だんかいになっていたためさけ解禁かいきんされたといわれているが、べいない晩年ばんねん比較的ひかくてきおだやかで、最終さいしゅうてきには肺炎はいえん最期さいごむかえている。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

山本やまもと五十六いそろく海軍かいぐん次官じかんとしてべいない部下ぶかだったころに「うちの大臣だいじんあたまはそれほどでもない。しかしきもたまそなわっているから安心あんしんだ」というコメントをしている。また、大井おおいあつしべいない功績こうせき評価ひょうかしつつも『孫子まごこ』の「しょうさとししんひとしいさむげんなり」という言葉ことばげ、「しんひとしいさむいむ文句もんくなしだがさとしかんしては問題もんだいがなかったとはえない」としている。大井おおい終戦しゅうせん間際まぎわ井上いのうえ成美まさみ大将たいしょう昇進しょうしん軍令ぐんれい次長じちょう大西おおにしたき治郎じろう就任しゅうにんさせたれいげているが、それを井上いのうえったところ、「大西おおにし推薦すいせんしたのはボクだからね」とこたえた。これを大井おおいは「(井上いのうえさんは)意図いとてき米内よないさんをかばっている」と批判ひはんした。

井上いのうえ大将たいしょう戦後せんご、「海軍かいぐん大将たいしょうにも一等いっとう大将たいしょうとう大将たいしょうさんとう大将たいしょうとある」とべており、文句もんくなしの一等いっとう大将たいしょうみとめたのは山本やまもと権兵衛ごんべえ加藤かとう友三郎ともさぶろうべいないさんにんだけであった[ちゅう 12]井上いのうえ成美まさみは、「海軍かいぐんなかだれ一番いちばんでしたか?」の質問しつもんに「海軍かいぐんあずかるひととしては米内よないさんが抜群ばつぐん一番いちばんでした」とかたっている。また「包容ほうようりょくきわめておおきいひとだ。米内よないさんにつかえたものは、だれでも自分じぶん一番いちばん信頼しんらいされているようにおもいこむ。これが、まさにしょうたるものの人徳にんとくというべきであろう。山本やまもとさん(山本やまもと五十六いそろく)はよほど米内よないさんを信頼しんらいしていたようで、『だれでも長所ちょうしょ短所たんしょはあるよ。しかし、あれだけ欠点けってんがないひとはいない』とっていた」と述懐じゅっかいしている。べいない親交しんこうのあった小泉こいずみ信三しんぞうは「くに大事だいじければ、人目ひとめたないでわったひと」とべいないひょうしている。大西おおにし新蔵しんくらは「米内よないさんは、海軍かいぐんというものをはみしていた大物おおものだった」という。保科ほしな善四郎ぜんしろうは「私心ししんがないひとだ。よくというものがまったくない。くに立場たちばったよくがあるだけだ」とべいないひょうす。高木たかぎそうきちは、「にいう秀才しゅうさいタイプでなかったことは事実じじつ[154]雄弁ゆうべんも、迫力はくりょくも、政治せいじてき烱眼もたしかにあわせていなかった」[155]「だがそのかわり、いつも自分じぶん精魂せいこんかたむけてしんずる結論けつろんだけを最後さいごまでくりかえした」[156]ひょうする。

前田まえだみのるは、「米内よないさんはろうそうかぜがあって、これはいけないとおもったら反論はんろんするひとにはだれであろうと容赦ようしゃせず、また自分じぶん意見いけんには絶対ぜったい妥協だきょうしない、あくまでながれにさからうカミソリみたいなあじ井上いのうえさん(井上いのうえ成美まさみ)を参謀さんぼうちょうとして、また次官じかんとして上手じょうずつつんで使つかっておられた。一回ひとまわおおきな軍政ぐんせいでした」とおなじような述懐じゅっかいをしている[157]

中国ちゅうごく文学ぶんがくしゃ守屋もりやひろしは『老子ろうし』を解説かいせつした著書ちょしょなか大山おおやまいわおべいない名前なまえげ、「暗愚あんぐえてじつさとしうちめている。しかしさとし表面ひょうめんせずあくまで暗愚あんぐよそおう」「熟慮じゅくりょ智謀ちぼう超越ちょうえつし、そのてにたっした無為むい自然しぜん境地きょうちった人物じんぶつ」と東洋とうようてきリーダーの典型てんけいとして評価ひょうかをしている。

戦争せんそうへの危機ききかんたかまるなか海軍かいぐん左派さは自認じにんしながら海軍かいぐんないへの意思いし浸透しんとうおこたったこと、おな海軍かいぐん左派さはである山本やまもと五十六いそろく右翼うよく勢力せいりょく過激かげき青年せいねん将校しょうこうからまもるためとして連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん転出てんしゅつさせたこと、早期そうき和平わへい主張しゅちょうして陸軍りくぐん対立たいりつすることのおおかった海軍かいぐん次官じかん井上いのうえ成美まさみを1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ大将たいしょう昇進しょうしんさせて次官じかん辞任じにんさせ、後任こうにん次官じかん多田ただ武雄たけお軍務ぐんむ局長きょくちょう周囲しゅういから本土ほんど決戦けっせんなされていた保科ほしな善四郎ぜんしろうき、軍令ぐんれい次長じちょう徹底てってい抗戦こうせん大西おおにしたき治郎じろう就任しゅうにんさせた人事じんじなどにたいする批判ひはん非難ひなん、また軍政ぐんせい政治せいじとしての力量りきりょう疑問ぎもんげかける意見いけんもあった。

敗戦はいせんあいだもない1945ねん11月28にちだい89かい帝国ていこく議会ぎかい衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎにて、反軍はんぐん演説えんぜつなどでられる斎藤さいとう隆夫たかおによる軍国ぐんこく主義しゅぎたいするぐん責任せきにん質問しつもんへの答弁とうべんにおいて、最後さいご陸軍りくぐん大臣だいじん下村しもむらじょう大将たいしょうは、陸軍りくぐん代表だいひょうしてみずからそのような軍国ぐんこく主義しゅぎおちいって暴走ぼうそうした陸軍りくぐんみとめ、その原因げんいん分析ぶんせきともにこれを総括そうかつし、国民こくみんたいして謝罪しゃざいおこなっている。しかし、下村しもむらおなじく最後さいご海軍かいぐん大臣だいじんとしてこの国会こっかいったべいないは、(斎藤さいとう質問しつもんには)海軍かいぐん大臣だいじん対象たいしょうとした答弁とうべんもとめられておらず、議事ぎじろくにもないことを理由りゆう答弁とうべんこと拒否きょひべいない下村しもむら陸相りくしょうとは対照たいしょうてきに、場内じょうない議員ぎいんたち憤激ふんげきうという一幕ひとまくがあった[158]

下村しもむらひきいる陸軍りくぐん組織そしきとしての敗戦はいせん責任せきにん公的こうてきみとめた一方いっぽうで、べいないひきいる海軍かいぐんはその組織そしき解体かいたいいたるまで、敗戦はいせん責任せきにんについて組織そしきとして公的こうてき分析ぶんせき総括そうかつ自省じせいおこなことはついになかった。そのおおくの文化ぶんかじんによりべいないはじめとする海軍かいぐん左派さはを「良識りょうしき」として大書たいしょした傾向けいこうあいまって、いわゆる陸軍りくぐん悪玉あくだまろん海軍かいぐん善玉ぜんだまろん昭和しょうわうえ定着ていちゃくする遠因えんいんともなったと、みずからの著作ちょさくすらもそうした傾向けいこうのあった半藤はんどう一利かずとしをしてわしめることとなった[159]陸軍りくぐん悪玉あくだまろん海軍かいぐん善玉ぜんだまろん自体じたい半藤はんどうはじめとする海軍かいぐん作家さっかや、戦史せんし研究けんきゅうしゃなかですらもすで一方いっぽうてきかたよった不正確ふせいかく主張しゅちょうであるとみなされているが、海上かいじょう自衛隊じえいたい公的こうてきに「海軍かいぐん後裔こうえい」たること公言こうげんすること日本にっぽん社会しゃかい受容じゅようしている一方いっぽうで、陸上りくじょう自衛隊じえいたい同様どうよう主張しゅちょうひかえめにおこな傾向けいこうにあるなど、2020年代ねんだい現在げんざいいたるまで日本にっぽん国民こくみん印象いんしょうなかきわめてつよ影響えいきょうのこつづけている[よう出典しゅってん]

アメリカのタイムは、海軍かいぐん大臣だいじんのとき[160]総理そうりのとき[161]にわたってべいない特集とくしゅう記事きじんでおり、いずれも表紙ひょうしかざカバーパーソンとしてあつかっている。

履歴りれき[編集へんしゅう]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

[162]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうなど
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

系譜けいふ[編集へんしゅう]

べいない摂津せっつこく大坂おおさかから盛岡もりおか移住いじゅうし、南部なんぶしんただしつかえた宮崎みやざき庄兵衛しょうべえ勝良かつよしとし、さん代目だいめでん左衛門さえもん秀政ひでまさとき祖母そぼかつりょうつまかたせいべいない」を名乗なのるようになった。この「べいない」は祖母そぼ出身しゅっしん出雲いずもこくべい内郷うちごうからるもので、本来ほんらい陸奥みちのくこく米内よない一族いちぞくではない。しかし、陸奥みちのく在住ざいじゅうえん次第しだい陸奥むつべいない一族いちぞくであるかのように自覚じかくし、また周囲しゅういからもそのように評価ひょうかされて幕末ばくまついたった。

陸奥むつべいない一方いっぽう分家ぶんけすじにあたり、一方井いちかたい俘囚ふしゅうなが安倍あべよりゆきりょうさだにん父子ふし末裔まつえいであることから、米内よない光政みつまさ自身じしん安倍貞任あべのさだとう末裔まつえいだとしょうしていた。

さんじょ和子わこもと竹中工務店たけなかこうむてん会長かいちょう竹中たけなかいちとついでいる[188][189]


  ┏ちく中藤なかとうみぎ衛門えもん━━┳寿美としみ
  ┃        ┃
  ┃        ┣竹中たけなかひろしひら
  ┃        ┃  ┣━━竹中たけなか祐二ゆうじ
  ┗ちく中藤なかとう五郎ごろう   ┃ りゅう  ┃
           ┃       ┃
           ┃竹下たけしたのぼる━━━━公子こうし
           ┃(首相しゅしょう)
           ┃
           ┃(15だい)
           ┗ちくちゅういち
             ┣━━━ちくちゅう統一とういつ
    米内よない光政みつまさ━━━┳和子わこ
     (首相しゅしょう)  ┃
           ┗米内よないつよしせい

参考さんこう: 佐藤さとうちょうたい竹中たけなか中心ちゅうしんとするねやばつ地図ちず」『ごうばつ 地方ちほう豪族ごうぞくのネットワーク』たてふう書房しょぼう、2001ねん、214-215ぺーじISBN 978-4-651-70079-3 

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
テレビドラマ
テレビアニメ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ただし、『しん岩手いわてじん』によれば、海軍かいぐんしょう着任ちゃくにんしての第一声だいいっせいなかで「たゞぼく個人こじんとしては武人ぶじんとして最大さいだい名誉めいよたる聯合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんからいち軍属ぐんぞくぎない海軍かいぐん大臣だいじんなどになるのはいやだ」と一方いっぽうで「しかしそれでは卑怯ひきょうだとげんはれては武人ぶじん屈辱くつじょくだから引受ひきうけしたのだ」ともべている[57]
  2. ^ 倒閣とうかく陸軍りくぐんだけがかんがえたわけではない。6月7にち立憲りっけん政友せいゆうかい正統せいとう総裁そうさい久原くはら房之助ふさのすけ同様どうよう要求ようきゅうおこなって拒絶きょぜつされると、内閣ないかく参議さんぎ辞職じしょくして松野まつのづるひらた鉄道てつどう大臣だいじん閣僚かくりょう政務せいむかんの引揚を通告つうこくした。だが、政党せいとう内部ないぶでは久原くはらのようにしん体制たいせい運動うんどう支持しじする意見いけん鳩山はとやま一郎いちろうのように立憲りっけん民政みんせいとう合同ごうどうしてでも政党せいとう政治せいじまもるべきとの意見いけん対立たいりつしており、鳩山はとやまがわ松野まつの辞任じにん同調どうちょうしなかったことと、しん体制たいせい運動うんどうすすめていた近衛このえ側近そっきんたちからも久原くはら行動こうどう時期じき尚早しょうそうとして相手あいてにされなかったため、最終さいしゅうてき久原くはら1人ひとり辞任じにんした。
  3. ^ はたけ当時とうじ参謀さんぼう総長そうちょうだった閑院みやじん親王しんのうから陸相りくしょう辞任じにんするようにせまられ、皇族こうぞくへの忠誠ちゅうせいしんあつかったはたけはその命令めいれい拒否きょひすることができなかった。「閑院みやかおてたい」とかんがえていた一方いっぽうで、どうしても内閣ないかくそう辞職じしょく回避かいひしたかったはたけは、べいないたいして辞表じひょう提出ていしゅつしても受理じゅりしないよう内密ないみつはなしをつけていたが、べいない辞表じひょう受理じゅりした。
  4. ^ 井上いのうえのちに「貫禄かんろくけでした」とべている。[よう出典しゅってん]東條とうじょう内閣ないかく末期まっきから米内よないてい日参にっさんしていた中山なかやま定義さだよしによると、大臣だいじん就任しゅうにんまえから「井上いのうえはいいな」とつぶやいたことがあり、中山なかやまは「べいない大臣だいじん復帰ふっきしたら、次官じかんかなら井上いのうえだ」という感触かんしょくていた[96]
  5. ^ この経緯けいい後年こうねん井上いのうえは「ワンマン次官じかん、いけなかったかしら」と述懐じゅっかいしている[104]海軍かいぐんしょう作成さくせいした大臣だいじん候補こうほ井上いのうえであり、人事じんじきょく作成さくせいしたあんに「大臣だいじん 井上いのうえ」とかれた書類しょるい井上いのうえは「自分じぶん大臣だいじん適格てきかくであることは自分じぶんがいちばんよくわかっている。なにとしてでも米内よないさんにやっていただく」とハンコをさず却下きゃっかした。
  6. ^ のちにべいないとも内閣ないかく終戦しゅうせん主張しゅちょうする外務がいむ大臣だいじん東郷とうごう茂徳しげのり当初とうしょどっちつかずの態度たいどで、日記にっきに「外務省がいむしょういま状況じょうきょうをわかっているのか」と苛立いらだちをきしているが、べいない地道じみち説得せっとく和平わへいへとかたむいたといわれている。東郷とうごう和平わへい主張しゅちょうしたのちは「東郷とうごうくんがすべて(わたしいたいことを)主張しゅちょうしてくれているからわたしからはなにうことはない」とってひょうだって発言はつげんすることはなくなった。ただし、東郷とうごうほうもメモのなか5月11にち戦争せんそう最高さいこう指導しどう会議かいぎ構成こうせいいん会合かいごうにおいでまいないソ連それん仲介ちゅうかいとして軍事ぐんじ物資ぶっし獲得かくとくできないかとする提案ていあんおこなったことに「そのような余地よちい」と主張しゅちょうしてべいない現状げんじょうソ連それんたいする認識にんしきあまさを批判ひはんしたうえ和平わへい仲介ちゅうかい以外いがいのぞむべきではないといたことがしるされており、べいない東郷とうごうともに相手あいて和平わへいたいするかんがえをさぐっていた段階だんかいにあったともとらえられている。
  7. ^ 元々もともとべいない阿南あなみ気質きしつてき部分ぶぶんでなかなかりがわず、竹下たけした正彦まさひこ陸軍りくぐん中佐ちゅうさ戦後せんご率直そっちょくって、阿南あなみべいないきらいだった。阿南あなん鈴木すずき貫太郎かんたろう首相しゅしょうたいしては、愛敬あいきょうねん非常ひじょうふかいものがあったが、べいないをほめた言葉ことばいたことがない」と述懐じゅっかいしており、べいない小島こじま秀雄ひでお海軍かいぐん少将しょうしょうたいして「阿南あなみについてひと色々いろいろうが、自分じぶんには阿南あなみという人物じんぶつはとうとうからずじまいだった」とかたっている阿川あがわ弘之ひろゆき 1982。また、終戦しゅうせん玉音ぎょくおん放送ほうそう原稿げんこうについても、「せんぜいニシテ」を「これでは戦争せんそうけているようにこえる」という阿南あなみたいして、「げんけているではないか」といいかえべいないでいいになったこともあったという。会議かいぎちゅう中座ちゅうざするさいべいない迫水さこみず久常ひさつね絶対ぜったい修正しゅうせいみとめないよう指示しじした。しかし会議かいぎもどってきたべいない鈴木すずき仲介ちゅうかい修正しゅうせいれ、「戦局せんきょく必スシモ好転こうてんセス」とあらためられた[112]
  8. ^ 知人ちじんべいないたくたずねたとき寝具しんぐなどの荷物にもつすべてまとめており「(収監しゅうかんされる)準備じゅんびはできているよ」と笑顔えがおこたえたという[114]
  9. ^ 血圧けつあつ最高さいこう260、収縮しゅうしゅくでも230ほどで心臓しんぞう肥大ひだい背骨せぼね接触せっしょくしていたほど[115]戦前せんぜん豊頬ほうきょうかげもなくほそっていた。
  10. ^ 昭和しょうわ16ねん(1941ねん)10がつ近衛このえ文麿ふみまろ内閣ないかくすと、後継こうけい首班しゅはんめる重臣じゅうしん会議かいぎでは及川おいかわ古志こしろううみしょう総理そうり候補こうほとしてのぼったが、これにもう反対はんたいしてつぶしたのがべいない岡田おかだ啓介けいすけで、もう一人ひとり候補こうほだった東條とうじょうはこの海軍かいぐんの「消極しょうきょくてき賛成さんせい」のおかげで次期じき首班しゅはんえらばれたという経緯けいいがあった。
  11. ^ 山田やまだかぜ太郎たろうは、べいないはこのような腹芸はらげいをするタイプではなく、通訳つうやくがいい加減かげんだったため頓珍漢とんちんかんなやりりになったのではないかとしるしている[122]。また、そもそもべい内内うちうちかく倒閣とうかく推進すいしんした一派いっぱ参謀さんぼう総長そうちょう閑院みやじん親王しんのう御輿みこしかついでいたため、べいない皇室こうしつるいおよぼすことをおそれて実状じつじょうくちにすることをけたともいわれている[123]。しかし検事けんじだんおおむべいない評価ひょうかしており、あるわか検事けんじべいない後姿うしろすがたて「ナイス・アドミラル(nice admiral)」とっていたのを、『いち軍人ぐんじん生涯しょうがい 提督ていとく米内よない光政みつまさ』をいた緒方おがた竹虎たけとらいている[124]はたけはそのべいない態度たいどについて、「べい内内うちうちかく陸相りくしょうたるわたし辞職じしょくによりそう辞職じしょくきにいたった。(中略ちゅうりゃくまこともうわけないことだったと自責じせきねんられている。(中略ちゅうりゃく)その大将たいしょうはこんなことをにもたれないでわたしたいする友情ゆうじょうすこしもわらなかったことは、わたし常々つねづね敬服けいふくするところである。(中略ちゅうりゃく)[東京とうきょう裁判さいばんにて] 毅然きぜんとしてわたし弁護べんごのために法廷ほうていたれ、裁判さいばんちょう追及ついきゅう批判ひはんものともせず、徹頭徹尾てっとうてつびわたしべい内内うちうちかく倒閣とうかく張本人ちょうほんにんではなかったことを弁護べんごされたことは、わたし感銘かんめいするところである。(中略ちゅうりゃく)この一事いちじ大将たいしょう高潔こうけつなる人格じんかく象徴しょうちょうしてあまりあるものとしんずる」とべいない銅像どうぞう盛岡もりおかてられたさい編纂へんさんされた『米内よない光政みつまさ追想ついそうろく』に手記しゅきとしてのこしている。
  12. ^ 山本やまもと五十六いそろく条件じょうけんきの一等いっとう大将たいしょう格付かくづけしている
  13. ^ 佐々木ささきべいないおな岩手いわてけん出身しゅっしんでアニメでも東北とうほくなまりでえんじている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

書籍しょせき

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
阿部あべ信行のぶゆき
日本の旗 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だい37だい:1940ねん1がつ16にち - どう7がつ22にち
次代じだい
近衛このえ文麿ふみまろ
先代せんだい
永野ながの修身しゅうしん
野村のむらただしくに
日本の旗 海軍かいぐん大臣だいじん
だい39・40・41だい:1937ねん2がつ2にち - 1939ねん8がつ30にち
だい49 - 52だい:1944ねん7がつ22にち - 1945ねん12月1にち
次代じだい
吉田よしだよしわれ
だい復員ふくいんしょう移行いこう
ぐんしょく
先代せんだい
高橋たかはし三吉さんきち
日本の旗 連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
だい23だい : 1936ねん12月1にち - 1937ねん2がつ2にち
次代じだい
永野ながの修身しゅうしん