米内 よない 光政 みつまさ (よない みつまさ、旧 きゅう 字体 じたい :米 べい 內 光政 みつまさ 、1880年 ねん 〈明治 めいじ 13年 ねん 〉3月2日 にち - 1948年 ねん 〈昭和 しょうわ 23年 ねん 〉4月 がつ 20日 はつか )は、日本 にっぽん の海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん 、政治 せいじ 家 か 。海兵 かいへい 29期 き ・海 うみ 大 だい 12期 き 。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は海軍 かいぐん 大将 たいしょう 。位階 いかい は従 したがえ 二 に 位 い 。勲等 くんとう は勲一等 くんいっとう 。功 こう 級 きゅう は功 こう 一 いち 級 きゅう 。
連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん (第 だい 23代 だい )、海軍 かいぐん 大臣 だいじん (第 だい 19・24代 だい )、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん (第 だい 37 代 だい )を歴任 れきにん した。
出生 しゅっしょう から海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
1880年 ねん (明治 めいじ 13年 ねん )、岩手 いわて 県 けん 南 みなみ 岩手 いわて 郡 ぐん 三 さん 割 わり 村 むら (現 げん :盛岡 もりおか 市 し )に旧 きゅう 盛岡 もりおか 藩 はん 士 し ・米内 よない 受政 の長男 ちょうなん として誕生 たんじょう する[2] 。
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )、鍛冶 かじ 町 まち 尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう に入学 にゅうがく 。1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )、盛岡 もりおか 高等 こうとう 小学校 しょうがっこう に入学 にゅうがく 。1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )、岩手 いわて 県 けん 尋常 じんじょう 中学校 ちゅうがっこう に入学 にゅうがく 。1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 29期 き に入校 にゅうこう 。同期生 どうきせい には高橋 たかはし 三吉 さんきち 、藤田 ふじた 尚徳 なおのり 、佐久間 さくま 勉 つとむ 、八角 やすみ 三郎 さぶろう (中学 ちゅうがく も同期 どうき )らがいる。兵 へい 学校 がっこう では「グズ政 せい 」というあだ名 な がついた。
当時 とうじ の米 べい 内 ない のノートは記述 きじゅつ の質 しつ ・量 りょう が膨大 ぼうだい であり、ひとつの問題 もんだい に対 たい して自分 じぶん が納得 なっとく が行 い くまであらゆる角度 かくど からアプローチをかけ問題 もんだい を解決 かいけつ している。これは詰 つ め込 こ み式 しき 教育 きょういく が当然 とうぜん だった海軍 かいぐん 教育 きょういく においては珍 めずら しい勉強 べんきょう 法 ほう であった。米 べい 内 ない の勉強 べんきょう 法 ほう を知 し っていた当時 とうじ の教官 きょうかん は「彼 かれ は上手 うま くいけば化 ば ける。いや、それ以上 いじょう の逸材 いつざい になるかも知 し れない」と目 め を掛 か け、多少 たしょう の成績 せいせき の不振 ふしん でも米 べい 内 ない をかばい続 つづ け、何 なに とか米 べい 内 ない を海軍兵学校 かいぐんへいがっこう から卒業 そつぎょう させた[要 よう 出典 しゅってん ] 。後 のち に同期 どうき の藤田 ふじた 尚徳 なおのり は人事 じんじ 局長 きょくちょう 時代 じだい 、当時 とうじ の呉 ご 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 司令 しれい 長官 ちょうかん ・谷口 たにぐち 尚 しょう 真 しん から「君 きみ のクラスでは誰 だれ が一番 いちばん 有望 ゆうぼう かね?」という質問 しつもん に即座 そくざ に「それは米 べい 内 ない です」と答 こた えたという。谷口 たにぐち はそれに「そうか。僕 ぼく も同 どう 意見 いけん だ。ただ米内 よない 君 くん は面倒 めんどう くさがり屋 や で、その面倒 めんどう くさがりの度 たび が少 すこ し過 す ぎてやせんかと思 おも うがね」と答 こた えたという。
海軍 かいぐん 士官 しかん として[ 編集 へんしゅう ]
1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )に海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 29期 き を125人 にん 中 ちゅう 68番 ばん の成績 せいせき で卒業 そつぎょう 。海軍 かいぐん 少尉 しょうい 候補 こうほ 生 せい 、練習 れんしゅう 艦 かん 「金 きむ 剛 つよし 」乗 の り組 く み。1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )、任 にん 海軍 かいぐん 少尉 しょうい 。
1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう に従軍 じゅうぐん 。第 だい 三 さん 艦隊 かんたい 第 だい 十 じゅう 六 ろく 水雷 すいらい 艇 てい 隊 たい 所属 しょぞく 。第 だい 一 いち 艦隊 かんたい 第 だい 二 に 駆逐 くちく 隊 たい 所属 しょぞく の駆逐 くちく 艦 かん 「電 でん 」乗組 のりく み。海軍 かいぐん 中尉 ちゅうい 。日本海 にほんかい 海戦 かいせん に参戦 さんせん 。1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )、功 こう 五 ご 級 きゅう 金鵄勲章 きんしくんしょう 。大隈 おおくま コマ と結婚 けっこん 。任 にん 海軍 かいぐん 大尉 たいい 。1912年 ねん (大正 たいしょう 元年 がんねん )、任 にん 海軍 かいぐん 少佐 しょうさ 。海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 甲種 こうしゅ 学生 がくせい 12期 き 。1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 卒業 そつぎょう 。旅順 りょじゅん 要港 ようこう 部 ぶ 参謀 さんぼう 。
1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )2月 がつ 、ロシア帝国 ていこく サンクトペテルブルク 大使館 たいしかん 付 づけ 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん 補佐 ほさ 官 かん 。ロシア駐在 ちゅうざい 時代 じだい の駐在 ちゅうざい 員 いん 監督 かんとく 官 かん が海軍 かいぐん 省 しょう に送 おく った報告 ほうこく 書 しょ によると、米 べい 内 ない は「語学 ごがく の上達 じょうたつ が非常 ひじょう に早 はや く、ロシア人 じん 教師 きょうし も驚 おどろ く程 ほど である。異国 いこく の風土 ふうど にも違和感 いわかん なく溶 と け込 こ み、(米 べい 内 ない のロシア駐在 ちゅうざい という)人選 じんせん は適格 てきかく である」と絶賛 ぜっさん している。ある同期 どうき は「ロシア語 ご で電話 でんわ が出来 でき る海軍 かいぐん 省 しょう 内 うち 唯一 ゆいいつ の人 ひと 」と回想 かいそう し、 [要 よう 出典 しゅってん ] 佐世保 させぼ 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 参謀 さんぼう 時代 じだい は『ラスプーチン 秘録 ひろく 』というロシア語 ご で記述 きじゅつ されたルポを翻訳 ほんやく したりしている。
1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )、任 にん 海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ 。1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )4月 がつ 、ロシア駐在 ちゅうざい を免 めん ぜられる。1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )8月 がつ 、ウラジオストック 駐在 ちゅうざい 。ロシア革命 かくめい の混乱 こんらん 、国際 こくさい 情勢 じょうせい を分析 ぶんせき し、論文 ろんぶん を作成 さくせい している。1919年 ねん (大正 たいしょう 8年 ねん )9月 がつ 、ウラジオストック駐在 ちゅうざい を免 めん ぜられ、海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 教官 きょうかん 。12月、軍令 ぐんれい 部 ぶ 参謀 さんぼう 。1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )6月 がつ よりベルリン駐在 ちゅうざい 。12月、任 にん 海軍 かいぐん 大佐 たいさ 。1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )、ポーランド駐在 ちゅうざい 員 いん 監督 かんとく 。1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )、装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 「春日 しゅんじつ 」艦長 かんちょう 。1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )、練習 れんしゅう 艦 かん 「磐 いわ 手 しゅ 」艦長 かんちょう 。米 べい 内 ない はニュージーランド の小学校 しょうがっこう を訪問 ほうもん するが、もともと口数 くちかず が少 すく ない方 ほう で挨拶 あいさつ をした際 さい は、「I am very glad to see you, thank you.」としか話 はな さなかった。
1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )戦艦 せんかん 「扶桑 ふそう 」「陸奥 みちのく 」艦長 かんちょう 。1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )、任 にん 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 、第 だい 二 に 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう 。当時 とうじ の司令 しれい 長官 ちょうかん は谷口 たにぐち 尚 しょう 真 しん であるが、谷口 たにぐち があまりにも謹厳 きんげん であり部下 ぶか にもこれを要求 ようきゅう したため米 べい 内 ない が「河 かわ の水魚 すいぎょ 棲 す むほどの清 きよ さかな」という句 く を贈 おく っている。谷口 たにぐち は「ありがとう。」とこれを受 う け取 と ったという。1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )、軍令 ぐんれい 部 ぶ 第 だい 三 さん 班長 はんちょう 。1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )、第 だい 四 よん 水雷 すいらい 戦隊 せんたい 司令 しれい 官 かん 。特別 とくべつ 大 だい 演習 えんしゅう に参加 さんか 。1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )、第 だい 一 いち 遣外 けんがい 艦隊 かんたい 司令 しれい 官 かん 。
予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう の危機 きき [ 編集 へんしゅう ]
1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )、任 にん 海軍 かいぐん 中将 ちゅうじょう 、鎮海要港 ようこう 部 ぶ 司令 しれい 官 かん 。この役職 やくしょく は「首 くび 5分 ふん 前 まえ 」[41] と言 い われた閑職 かんしょく であり、鎮海要港 ようこう 部 ぶ 司令 しれい 官 かん を最後 さいご に予備 よび 役 やく に編入 へんにゅう された例 れい が多 おお かった[41] 。米 べい 内 ない は読書 どくしょ 三昧 ざんまい の日々 ひび を過 す ごしたという。
鎮海要港 ようこう 部 ぶ 司令 しれい 官 かん に在任 ざいにん 中 ちゅう の米 べい 内 ない は現役 げんえき を離 はな れることを覚悟 かくご しており[41] 、実際 じっさい に海軍 かいぐん は米 べい 内 ない を予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう する予定 よてい であった[43] 。しかし、海軍 かいぐん 政務次官 せいむじかん を務 つと めていた政治 せいじ 家 か の牧山 まきやま 耕 こう 蔵 ぞう (米 べい 内 ない と面識 めんしき があった)がそのことを知 し り、米 べい 内 ない を現役 げんえき に残 のこ すように東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう に掛 か け合 あ ったことで、米 べい 内 ない は予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう を免 まぬか れた[43] 。
1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )、第 だい 三 さん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に親 おや 補 ほ される。米 べい 内 ない はインフルエンザ をこじらせて胸膜炎 きょうまくえん になり療養 りょうよう を必要 ひつよう としたが拒絶 きょぜつ した。米 べい 内 ない の兵 へい 29期 き 同期生 どうきせい で、海軍 かいぐん 次官 じかん (人事 じんじ 権 けん 者 しゃ である海軍 かいぐん 大臣 だいじん を補佐 ほさ する)を務 つと めていた藤田 ふじた 尚徳 なおのり は、同 おな じく兵 へい 29期 き 同期生 どうきせい である軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう ・高橋 たかはし 三吉 さんきち と相談 そうだん し、「米内 よない 君 くん の気持 きも ちはよくわかる。しかし第 だい 三 さん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん は米内 よない 君 くん でなくとも勤 つと まる。だが帝国 ていこく 海軍 かいぐん の将来 しょうらい を考 かんが える時 とき 必 かなら ずこの人 ひと に大任 たいにん を託 たく す時期 じき が来 く ると思 おも う。今米 いまごめ 内 ない 君 くん を再起 さいき 不能 ふのう の状態 じょうたい に陥 おとしい れてはならぬ。たとえ今 いま はその気持 きも ちを蹂躙 じゅうりん しても、また後 あと で怒 おこ られても良 よ い」と結論 けつろん に達 たっ し海軍 かいぐん 次官 じかん と軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう の権限 けんげん で米 べい 内 ない を療養 りょうよう させた。早期 そうき 治療 ちりょう の効果 こうか か1か月 げつ 後 ご には米 べい 内 ない は職務 しょくむ に復帰 ふっき することができた。のちに藤田 ふじた と高橋 たかはし は、米 べい 内 ない を現役 げんえき 大将 たいしょう として残 のこ すため、自 みずか ら予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう を願 ねが い出 で ている。
幕僚 ばくりょう の保科 ほしな 善四郎 ぜんしろう によれば、砲艦 ほうかん 二見 ふたみ が揚子江 ようすこう を航行 こうこう 中 ちゅう に暗 くら 岩 がん に乗 の り上 あ げてしまい、司令 しれい 長官 ちょうかん である米 べい 内 ない が責任 せきにん を取 と り進退伺 しんたいうかがい の電報 でんぽう を打 う つよう保 ほ 科 か に命 めい じた。米 べい 内 ない を辞 や めさせてはならないと考 かんが えた保科 ほしな は、電報 でんぽう を打 う ったフリをして独断 どくだん で握 にぎ り潰 つぶ した。この措置 そち がなければ後 のち に日本 にっぽん は本土 ほんど 決戦 けっせん に突入 とつにゅう することになった、と保科 ほしな は語 かた っている。
連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん へ[ 編集 へんしゅう ]
1936年 ねん ごろ、連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 当時 とうじ
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )、佐世保 させぼ 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 司令 しれい 長官 ちょうかん に親 おや 補 ほ される。友 とも 鶴 づる 事件 じけん が発生 はっせい し、査問 さもん 委員 いいん 会 かい の一人 ひとり として佐世保 させぼ に米 べい 内 ない を訪 たず ねた森田 もりた 貫一 かんいち 機関 きかん 中将 ちゅうじょう に対 たい し、米 べい 内 ない は徹底 てってい した調査 ちょうさ を求 もと めた。調査 ちょうさ の結果 けっか 、設計 せっけい 上 じょう の問題 もんだい が判明 はんめい し、強度 きょうど 不足 ふそく の艦艇 かんてい は改造 かいぞう されることになった。こうした結果 けっか を出 だ せたのは、米 べい 内 ない が保身 ほしん に走 はし らなかったからだと森田 もりた は評 ひょう している。1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )、第 だい 二 に 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に親 おや 補 ほ される。
1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )、横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 司令 しれい 長官 ちょうかん に親 おや 補 ほ される。1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )2月 がつ 26日 にち 、二・二六事件 ににろくじけん 発生 はっせい の際 さい 、米 べい 内 ない は柳橋 やなぎはし の待合 まちあい 茶屋 ちゃや に宿泊 しゅくはく しており、事件 じけん のことは何 なに も知 し らず、朝 あさ の始発 しはつ 電車 でんしゃ で横須賀 よこすか に帰 かえ った。鎮守 ちんじゅ 府 ふ に着 つ いた米 べい 内 ない は参謀 さんぼう 長 ちょう の井上 いのうえ 成美 まさみ とともにクーデター部隊 ぶたい を「反乱 はんらん 軍 ぐん 」と断定 だんてい 、制圧 せいあつ に動 うご いた。
12月1日 にち 、連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に親 おや 補 ほ される。
第 だい 19代 だい 海軍 かいぐん 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
米 べい 内 ない と山本 やまもと 五十六 いそろく
米内 よない 提督 ていとく (1937年 ねん 頃 ごろ )
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )2月 がつ 2日 にち 、林内 りんない 閣 かく の海軍 かいぐん 大臣 だいじん に就任 しゅうにん 。米 べい 内 ない は軍政 ぐんせい が嫌 きら いで連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん を就任 しゅうにん 僅 わず か2か月 げつ で退任 たいにん させられ海 うみ 相 しょう に任 にん ぜられることを非常 ひじょう に渋 しぶ り、周囲 しゅうい には「一 いち 属 ぞく 吏になるなんて、全 まった くありがたくない話 はなし だ」とぼやいていたという[注 ちゅう 1] 。当初 とうしょ 、林 はやし 銑 ずく 十 じゅう 郎 ろう は海 うみ 相 しょう に末次 すえつぐ 信正 のぶまさ を望 のぞ み、両 りょう 人間 にんげん で了解 りょうかい 済 ず みであった。しかし海軍 かいぐん 次官 じかん ・山本 やまもと 五十六 いそろく は前 ぜん 海 うみ 相 しょう ・永野 ながの 修身 しゅうしん に米 べい 内 ない を強 つよ く推 お し、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう ・伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう の同意 どうい を得 え て決定 けってい した。米 べい 内 ない は山本 やまもと を次官 じかん に留任 りゅうにん させている。軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 一 いち 課長 かちょう だった保科 ほしな 善四郎 ぜんしろう によれば、「広田 ひろた 内閣 ないかく 崩壊 ほうかい 後 ご 、後任 こうにん の海軍 かいぐん 大臣 だいじん を誰 だれ にするかについて話 はな し合 あ われた時 とき 、保科 ほしな が真 ま っ先 さき に米 べい 内 ない を挙 あ げ、次官 じかん の山本 やまもと 五十六 いそろく の同意 どうい を得 え て留任 りゅうにん 希望 きぼう の永野 ながの 修身 しゅうしん を説得 せっとく して米 べい 内 ない の大臣 だいじん 就任 しゅうにん の了承 りょうしょう を取 と った」という。永野 ながの からの招電 しょうでん は、米 べい 内 ない が横須賀 よこすか を出港 しゅっこう するわずか1時 じ 間 あいだ 前 まえ であった[57] 。
4月 がつ 、海軍 かいぐん 大将 たいしょう に親任 しんにん される。海 うみ 相 しょう の初期 しょき には、見 み かけだけ立派 りっぱ な大臣 だいじん 、という皮肉 ひにく をこめ「金魚 きんぎょ 大臣 だいじん 」と渾名 あだな がついた。
大臣 だいじん 秘書官 ひしょかん だった実松 さねまつ 譲 ゆずる 中佐 ちゅうさ は、米 べい 内 ない のあまりの博識 はくしき に驚 おどろ き、どこでそんな知識 ちしき を身 み につけたのか質問 しつもん したところ、「鎮海に二 に 年 ねん 、佐世保 させぼ に一 いち 年 ねん 、横須賀 よこすか に一 いち 年 ねん というように、官舎 かんしゃ でやもめ暮 く らしをしている間 あいだ に読書 どくしょ の癖 くせ がついた。特 とく に鎮海の閑職 かんしょく 時代 じだい には書物 しょもつ を読 よ むのが何 なに より楽 たの しみであった。そして、いま海軍 かいぐん 大臣 だいじん という大事 だいじ な仕事 しごと をするのに、それが非常 ひじょう に役 やく に立 た っているように思 おも われる。人間 にんげん と言 い うものは、いついかなる場合 ばあい でも、自分 じぶん の巡 めぐ り合 あ った境遇 きょうぐう を、もっとも意義 いぎ あらしめることが大切 たいせつ だ」と答 こた え、「練習 れんしゅう 艦 かん の米 べい 内 ない 艦長 かんちょう から教 おし えられているような少尉 しょうい 候補 こうほ 生 せい 時代 じだい の気分 きぶん に戻 もど った」と回顧 かいこ している。
海軍 かいぐん 大臣 だいじん を務 つと めていたころ、年末 ねんまつ になると海軍 かいぐん からはボーナス が、内閣 ないかく からは手当 てあて が支給 しきゅう されていたが、米 べい 内 ない は「国家 こっか から二 に 重 じゅう に手当 てあて を受 う ける理由 りゆう はない。海軍 かいぐん の分 ぶん は頂戴 ちょうだい しておくが、内閣 ないかく の分 ぶん は適当 てきとう に処理 しょり しておいてくれ」と言 い って、内閣 ないかく からの手当 てあて を秘書官 ひしょかん の実松 さねまつ 譲 ゆずる に手渡 てわた していた。実松 さねまつ は考 かんが えた末 すえ 、大臣 だいじん スタッフ一同 いちどう で分配 ぶんぱい する事 こと にして、その内 うち の一部 いちぶ を米 べい 内 ない の所 ところ に持 も っていき、「これは大臣 だいじん の分 ぶん です」と言 い うと、米 べい 内 ない は笑顔 えがお で受 う け取 と ったという。
休日 きゅうじつ 返上 へんじょう で勤務 きんむ している「海軍 かいぐん さん」を芸者 げいしゃ 衆 しゅ が慰問 いもん に訪 おとず れ、米 べい 内 ない の秘書官 ひしょかん が同 おな じく休日 きゅうじつ 勤務 きんむ をしていた軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう の井上 いのうえ 成美 まさみ 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう の古賀 こが 峯 みね 一 いち などを呼 よ び空室 くうしつ だった海軍 かいぐん 省 しょう の次官 じかん 室 しつ (当時 とうじ の次官 じかん は山本 やまもと 五十六 いそろく )を使 つか って芸者 げいしゃ 手製 てせい の弁当 べんとう を食 くえ していたことが露見 ろけん して米 べい 内 ない と山本 やまもと が激怒 げきど 、秘書官 ひしょかん を全 すべ て解任 かいにん にしようとした。芸者 げいしゃ 衆 しゅ が懇願 こんがん して山本 やまもと は「酒 さけ は飲 の んでいないので罪 つみ 一等 いっとう を減 げん じる。1年間 ねんかん の進級 しんきゅう 停止 ていし 」と妥協 だきょう したものの、今度 こんど は米 べい 内 ない の態度 たいど が硬化 こうか し「ダメ、全員 ぜんいん クビだ」の一点張 いってんば り。困 こま った芸者 げいしゃ 衆 しゅ が海軍 かいぐん の長老 ちょうろう に直訴 じきそ しようとしたところ、慌 あわ てた米 べい 内 ない と山本 やまもと がこれは悪戯 いたずら ということを明 あ かし、その日 ひ は芸者 げいしゃ 衆 しゅ に追 お いかけまわされたという。もっとも、その悪戯 いたずら のいちばんの「被害 ひがい 者 しゃ 」である秘書官 ひしょかん の実松 さねまつ 穣 みのる は「悪戯 いたずら にも程 ほど があるのではないか」と複雑 ふくざつ な気持 きも ちを自伝 じでん で述 の べている。また実松 さねまつ の自伝 じでん によるとこれは山本 やまもと の発案 はつあん で、米 べい 内 ない は「やりすぎではないか」と「消極 しょうきょく 的 てき だった」と記 しる しており、阿川 あがわ 弘之 ひろゆき が書 か いた、米 べい 内 ない ・山本 やまもと の「共謀 きょうぼう 」とは少 すこ し展開 てんかい が違 ちが っている。
中国 ちゅうごく ・華南 かなん でハンセン氏 し 病 びょう に罹患 りかん した兵 へい が、戦闘 せんとう ではなく病気 びょうき で軍 ぐん を離 はな れたことに対 たい する苦悩 くのう を手記 しゅき にして人事 じんじ 局長 きょくちょう だった清水 しみず 光美 てるみ に送 おく った。人事 じんじ 局長 きょくちょう を経 へ てその手記 しゅき を見 み た米 べい 内 ない は、「これを送 おく って慰 なぐさ めてやってくれ」と漢詩 かんし を書 か いた書 しょ と絵画 かいが を送 おく ったという。[要 よう 出典 しゅってん ]
下士官 かしかん ・兵 へい の家族 かぞく の福利 ふくり 厚生 こうせい 、特 とく に病気 びょうき になった時 とき の対策 たいさく が資金 しきん 面 めん の都合 つごう で滞 とどこお っておりこれは歴代 れきだい 海 うみ 相 しょう の共通 きょうつう の悩 なや みだった。米 べい 内 ない は大蔵 おおくら 大臣 だいじん ・結城 ゆうき 豊太郎 ほうたろう に相談 そうだん してすぐに許諾 きょだく をもらい、要港 ようこう の大 だい 規模 きぼ 病院 びょういん の建設 けんせつ は支出 ししゅつ を大蔵省 おおくらしょう に渋 しぶ られたため、民間 みんかん からの寄付 きふ で補 おぎな おうと海 うみ 相 しょう 官邸 かんてい に財界 ざいかい の有力 ゆうりょく 者 しゃ を呼 よ び集 あつ め寄付 きふ を呼 よ びかけたところ、予定 よてい 額 がく をはるかに超 こ える寄付 きふ 金 きん が集 あつ まった。これにより歴代 れきだい 海軍 かいぐん 大臣 だいじん の懸案 けんあん であった医療 いりょう 問題 もんだい が解決 かいけつ した。
1937年 ねん 6月4日 にち 、第 だい 1次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく の内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 近衛 このえ 文麿 ふみまろ (前列 ぜんれつ 中央 ちゅうおう )と
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )6月 がつ 4日 にち 、第 だい 1次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく でも海 うみ 相 しょう に留任 りゅうにん した。
8月 がつ 9日 にち に第 だい 二 に 次 じ 上海 しゃんはい 事変 じへん が発生 はっせい すると、8月 がつ 13日 にち の閣議 かくぎ で断固 だんこ 膺懲 ようちょう を唱 とな え、陸軍 りくぐん 派兵 はへい を主張 しゅちょう した。8月14日 にち には、不拡大 ふかくだい 主義 しゅぎ は消滅 しょうめつ し、北 きた 支 ささえ 事変 じへん は支 ささえ 那 な 事変 じへん になったとして、全面 ぜんめん 戦争 せんそう 論 ろん を展開 てんかい 、台湾 たいわん から杭州 こうしゅう に向 む けて、さらに8月 がつ 15日 にち には長崎 ながさき から南京 なんきん に向 む けて海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい による渡洋 とよう 爆 ばく 撃 げき を敢行 かんこう した。さらに同日 どうじつ から8月 がつ 30日 にち まで、上海 しゃんはい ・揚 あげ 州 しゅう ・蘇州 そしゅう ・句 く 容 よう ・浦口 うらぐち ・南 みなみ 昌 あきら ・九 きゅう 江 え を連日 れんじつ 爆撃 ばくげき し、これにより支 ささえ 那 な 事変 じへん の戦火 せんか が各地 かくち に拡大 かくだい した。1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )1月 がつ 11日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ では、トラウトマン工作 こうさく の交渉 こうしょう 打切 うちき りを強 つよ く主張 しゅちょう 、「蔣介石 せき を対 たい 手 て とせず」の第 だい 一 いち 次 じ 近衛 このえ 声明 せいめい につながった[67] 。1月15日 にち の大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ において、蔣介石 せき 政権 せいけん との和平 わへい 交渉 こうしょう 、トラウトマン工作 こうさく の継続 けいぞく を強 つよ く主張 しゅちょう する陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう ・多田 ただ 駿 しゅん に反対 はんたい して、米 べい 内 ない は交渉 こうしょう 打切 うちき りを主張 しゅちょう し、近衛 このえ 総理 そうり をして「爾後 じご 国民 こくみん 政府 せいふ を対 たい 手 て とせず」という発言 はつげん にいたらしめた。これは中国 ちゅうごく における最 もっと も有力 ゆうりょく な交渉 こうしょう 相手 あいて を捨 す て去 さ って泥沼 どろぬま の長期 ちょうき 戦 せん に道 みち を拓 ひら いた上 うえ 、支 ささえ 那 な 大陸 たいりく の権益 けんえき 獲得 かくとく 拡大 かくだい を目論 もくろ んだアメリカ政府 せいふ の対 たい 日 にち 感情 かんじょう を著 いちじる しく悪化 あっか させた。
11月25日 にち の五 ご 相 そう 会議 かいぎ で、米 べい 内 ない は海南 かいなん 島 とう 攻略 こうりゃく を提案 ていあん し合意 ごうい 事項 じこう とした[69] 。当時 とうじ の海軍 かいぐん 中央 ちゅうおう 部 ぶ では「海南 かいなん 島 とう 作戦 さくせん が将来 しょうらい の対 たい 英 えい 米 べい 戦 せん に備 そな えるものである」という認識 にんしき は常識 じょうしき であり、米 べい 内 ない は「対 たい 英 えい 米 べい 戦 せん と海南 かいなん 島 とう 作戦 さくせん の関係 かんけい 性 せい 」は承知 しょうち であった。この件 けん に関 かん して、「第 だい 二 に 次 じ 上海 しゃんはい 事変 じへん で、出兵 しゅっぺい に反対 はんたい する賀 が 屋 や 興 きょう 宣 せん を閣議 かくぎ で怒鳴 どな りつけて、無理矢理 むりやり 、兵 へい を出 だ して、シナ事変 じへん を泥沼 どろぬま 化 か させた」「海南 かいなん 島 とう に出兵 しゅっぺい を強行 きょうこう して日米 にちべい 関係 かんけい を決定的 けっていてき に悪化 あっか させた」という批判 ひはん もある[要 よう 出典 しゅってん ] 。この言動 げんどう は、海軍 かいぐん の論理 ろんり を政治 せいじ の世界 せかい で優先 ゆうせん させるということが米 べい 内 ない の一貫 いっかん した思想 しそう にすぎなかったということを示 しめ しており、当時 とうじ 、上海 しゃんはい や海南 かいなん 島 とう には多数 たすう の海軍 かいぐん 部隊 ぶたい が孤立 こりつ しており、それを救出 きゅうしゅつ するために米 べい 内 ない は派兵 はへい を主張 しゅちょう したが、その派兵 はへい が事変 じへん 全体 ぜんたい の長期 ちょうき 化 か を招 まね く危険 きけん には米 べい 内 ない は考慮 こうりょ をはらっていなかった[70] 。
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )1月 がつ 、衆議院 しゅうぎいん 予算 よさん 総会 そうかい の大臣 だいじん 席 せき で板垣 いたがき 征四郎 せいしろう 陸相 りくしょう (左 ひだり )と言葉 ことば を交 か わす米 べい 内海 うちうみ 相 しょう 。米 べい 内 ない の右 みぎ には平沼 ひらぬま 騏一郎 きいちろう 首相 しゅしょう も見 み える。
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )1月 がつ 5日 にち 、平沼 ひらぬま 内閣 ないかく でも海 うみ 相 しょう に留任 りゅうにん した。
海軍 かいぐん 次官 じかん 山本 やまもと 五十六 いそろく 、軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 井上 いのうえ とともに、ナチス・ドイツ 及 およ びイタリア王国 おうこく との日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい に反対 はんたい する。日 にち 独 どく 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい 締結 ていけつ に際 さい しては、「なぜソ連 それん と手 て を握 にぎ らないか」と慨嘆 がいたん した親 おや ソ派 は であった[72] 。
8月 がつ 、五 ご 相 そう 会議 かいぎ の席上 せきじょう で、「同盟 どうめい を締結 ていけつ した場合 ばあい に日 にち 独 どく 伊 い と英 えい 仏 ふつ 米 べい ソ間 あいだ で戦争 せんそう となった場合 ばあい 、海軍 かいぐん として見通 みとお しはどうか」と大蔵 おおくら 大臣 だいじん ・石渡 いしわた 荘太 そうた 郎 ろう から問 と われた時 とき に米 べい 内 ない は「勝 か てる見込 みこ みはありません。日本 にっぽん の海軍 かいぐん は米 べい 英 えい を相手 あいて に戦争 せんそう ができるように建造 けんぞう されておりません。独 どく 伊 い の海軍 かいぐん にいたっては問題 もんだい になりません」と言下 ごんか に答 こた えた。8月30日 にち 昭和 しょうわ 天皇 てんのう は、米 べい 内 ない に「海軍 かいぐん が(命 いのち がけで三 さん 国 こく 同盟 どうめい を阻止 そし したことに対 たい し)良 よ くやってくれたので、日本 にっぽん の国 くに は救 すく われた」という言葉 ことば をかけたという。
米 べい 内 ない の日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい 反対 はんたい 論 ろん について、「海軍 かいぐん 力 りょく が日 にち 独 どく 伊 い では米 べい 英 えい に及 およ ばないという海軍 かいぐん の論理 ろんり から反対 はんたい しただけであって、大局 たいきょく 的 てき な意味 いみ での反対 はんたい 論 ろん ではなかった」「魅力 みりょく に富 と んだ知的 ちてき 人物 じんぶつ だが、政治 せいじ 面 めん において定見 ていけん のある人物 じんぶつ とはいえなかった」という否定 ひてい 的 てき な意見 いけん もある[70] 。
同年 どうねん に豊後水道 ぶんごすいどう で潜水 せんすい 艦 かん が沈没 ちんぼつ し呉 ご 鎮守 ちんじゅ 府 ふ が引 ひ き揚 あ げ作業 さぎょう に当 あ たったが、沈没 ちんぼつ 場所 ばしょ が水深 すいしん 数 すう 百 ひゃく メートルである上 うえ に、潮 しお の流 なが れが速 はや いため作業 さぎょう は難航 なんこう 、外部 がいぶ からも経費 けいひ の無駄遣 むだづか いと批判 ひはん を浴 あ びて現場 げんば も「こっちも好 す きでやっているのではない。非難 ひなん があるならやめてしまえ」と意欲 いよく が低下 ていか していた。それを察 さっ した鎮守 ちんじゅ 府 ふ 参謀 さんぼう 長 ちょう が海軍 かいぐん 省 しょう に報告 ほうこく に行 い ったところ、当時 とうじ 海軍 かいぐん 次官 じかん であった山本 やまもと 五十六 いそろく は「経費 けいひ はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理 むり して人 ひと を殺 ころ さぬように」と激励 げきれい した。米 べい 内 ない も「次官 じかん から聞 き いた。御 ご 苦労 くろう 」とただそれだけ述 の べた。参謀 さんぼう 長 ちょう は現場 げんば に戻 もど り、伝 つた えたところ非常 ひじょう にモチベーションが上 あ がり作業 さぎょう も無事 ぶじ 終了 しゅうりょう した。参謀 さんぼう 長 ちょう は戦後 せんご に「あの短 みじか い大臣 だいじん の言葉 ことば と次官 じかん の人 ひと を殺 ころ すなという一言 ひとこと は、千 せん 万言 まんげん にも勝 まさ る温 あたた かい激励 げきれい でした」と回想 かいそう している。
平沼 ひらぬま 内閣 ないかく の総 そう 辞職 じしょく により海 うみ 相 しょう を辞任 じにん して軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん となる。
内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
親任 しんにん 式 しき を終 お えてほっと一息 ひといき の米 べい 内 ない (1940年 ねん 1月 がつ 16日 にち )
郷里 きょうり 岩手 いわて 県 けん において戦地 せんち で父 ちち を失 うしな った子供 こども たちを招 まね いて励 はげ ます米 べい 内 ない (総理 そうり 大臣 だいじん 官邸 かんてい にて、1940年 ねん 3月 がつ 29日 にち )
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )1月 がつ 16日 にち 、阿部 あべ 信行 のぶゆき 予備 よび 役 やく 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう の後任 こうにん として第 だい 37代 だい 内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん に就任 しゅうにん する。
内大臣 ないだいじん の湯浅 ゆあさ 倉 くら 平 ひらた は米内 よない 首相 しゅしょう 就任 しゅうにん の実現 じつげん に大 おお いに働 はたら いている。
なお大命 たいめい が降下 こうか した時 とき 、米 べい 内 ない は海 うみ 相 しょう を退任 たいにん して閑職 かんしょく の軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん の任 にん に就 つ いてはいたものの、まだ現役 げんえき の大日本帝国 だいにっぽんていこく 海軍 かいぐん 大将 たいしょう であったが、首相 しゅしょう 就任 しゅうにん と同時 どうじ に自 みずか ら予備 よび 役 やく となる。
1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )に海軍 かいぐん 大臣 だいじん を兼任 けんにん したまま首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した加藤 かとう 友三郎 ともさぶろう を最後 さいご に現役 げんえき の陸海 りくかい 軍 ぐん 将官 しょうかん に組閣 そかく の大命 たいめい が下 くだ る例 れい は絶 た え、その後 ご に首相 しゅしょう となった田中 たなか 義一 ぎいち 、斎藤 さいとう 実 みのる 、岡田 おかだ 啓介 けいすけ 、林 はやし 銑 ずく 十 じゅう 郎 ろう 、阿部 あべ 信行 のぶゆき は、いずれも予備 よび 役 やく か退役 たいえき の陸海 りくかい 軍 ぐん 大将 たいしょう であった。加藤 かとう 以前 いぜん の軍人 ぐんじん 首相 しゅしょう は山縣 やまがた 有朋 ありとも ほかいずれも現役 げんえき のまま首相 しゅしょう を務 つと めており、大命 たいめい 降下 こうか のあった現役 げんえき 将官 しょうかん があえて予備 よび 役 やく になってから首相 しゅしょう となることは先例 せんれい がなく、また後 こう 例 れい もない人事 じんじ だった(米 べい 内 ない 以後 いご に首相 しゅしょう になった軍人 ぐんじん 4人 にん のうち、東條 とうじょう 英機 ひでき 、東 ひがし 久邇 くに 宮 みや 稔彦 としひこ 王 おう は現役 げんえき で大命 たいめい 降下 こうか し首相 しゅしょう 就任 しゅうにん 後 ご も現役 げんえき にとどまった。残 のこ りの小磯 こいそ 国昭 くにあき 、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう は大命 たいめい 降下 こうか 時 じ 予備 よび 役 やく であった)。
海 うみ 相 しょう 吉田 よしだ 善 よし 吾 われ らは米 べい 内 ない に現役 げんえき に留 と まるよう説得 せっとく したが、米 べい 内 ない は「総理 そうり が現役 げんえき 将官 しょうかん であることは統帥 とうすい 権 けん を干犯 かんぱん することに繋 つな がりかねない」と言 い ってこれを受 う け入 い れなかった。米 べい 内 ない が予備 よび 役 やく となったことは、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう の後任 こうにん に米 べい 内 ない を擬 ぎ していた海軍 かいぐん 人事 じんじ 局 きょく をも困惑 こんわく させる事態 じたい であった。
就任 しゅうにん 直後 ちょくご の1月 がつ 21日 にち 、千葉 ちば 県 けん 房総半島 ぼうそうはんとう 沖合 おきあ いの公海 こうかい 上 じょう でイギリス海軍 かいぐん 巡洋艦 じゅんようかん が貨客船 かきゃくせん 「浅間 あさま 丸 まる 」を臨検 りんけん 、乗客 じょうきゃく のドイツ人 じん 男性 だんせい 21名 めい を戦時 せんじ 捕虜 ほりょ として連行 れんこう する浅間 あさま 丸 まる 事件 じけん が発生 はっせい した。世論 せろん がイギリス を非難 ひなん する中 なか 、米 べい 内 ない はドイツ人 じん 船客 せんきゃく の解放 かいほう を巡 めぐ ってイギリスと難 むずか しい交渉 こうしょう を行 おこな うことになった。
一方 いっぽう 、5月にナチス・ドイツのフランス侵攻 しんこう が始 はじ まり、ドイツが破竹 はちく の進撃 しんげき を続 つづ けて翌 よく 6月 がつ にはフランスを降伏 ごうぶく に追 お い込 こ むと、独 どく 伊 い への接近 せっきん を企図 きと する陸軍 りくぐん は日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい の締結 ていけつ を目指 めざ し、外交 がいこう 一新 いっしん を掲 かか げ、倒閣 とうかく の意図 いと をいよいよ明確 めいかく に表 あらわ し始 はじ める。米 べい 内内 うちうち 閣 かく は、三 さん 国 こく 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を締結 ていけつ すれば対 たい 英 えい 米 べい 開戦 かいせん が必至 ひっし になるとして反対 はんたい していた。陸軍 りくぐん は米 べい 内 ない と対立 たいりつ 、陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 畑 はた 俊六 しゅんろく を辞任 じにん させ、同年 どうねん 7月 がつ 22日 にち に米 べい 内内 うちうち 閣 かく を総 そう 辞職 じしょく に追 お い込 こ んだ。後継 こうけい 政権 せいけん には、首相 しゅしょう 経験 けいけん のあった公爵 こうしゃく 近衛 このえ 文麿 ふみまろ が再 さい 就任 しゅうにん し、第 だい 2次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した。当時 とうじ は軍部 ぐんぶ 大臣 だいじん 現役 げんえき 武官 ぶかん 制 せい があり、陸軍 りくぐん または海軍 かいぐん が大臣 だいじん を引 ひ き上 あ げると内閣 ないかく が倒 たお れた[83] [注 ちゅう 2] [注 ちゅう 3] 。米 べい 内 ない は畑 はたけ の疲労 ひろう し切 き った表情 ひょうじょう をみて「畑 はたけ が自殺 じさつ でもするのではないか。」と心配 しんぱい したという。昭和 しょうわ 天皇 てんのう も「米 べい 内内 うちうち 閣 かく だけは続 つづ けさせたかった。あの内閣 ないかく がもう少 すこ し続 つづ けば戦争 せんそう になることはなかったかもしれない」と、石渡 いしわた 荘太 そうた 郎 ろう に語 かた っている。
首相 しゅしょう 辞任 じにん 後 ご 、海 うみ 相 しょう 再 さい 就任 しゅうにん まで[ 編集 へんしゅう ]
総理 そうり 大臣 だいじん を辞任 じにん した直後 ちょくご に、栃木 とちぎ 県 けん 日光 にっこう 市 し を訪 おとず れた際 さい には「見 み るもよし 聞 き くもまたよし 世 よ の中 なか は いはぬが花 はな と 猿 さる はいうなり」という短歌 たんか と、「ねたふりを しても動 うご くや 猫 ねこ の耳 みみ 」という句 く (川柳 せんりゅう )を詠 よ んでいる。
1940年 ねん 10月 がつ 、「一 いち 六 ろく 会 かい 」の親睦 しんぼく 会 かい で
米 べい 内 ない が内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん を辞 じ した後 のち 、陸軍 りくぐん を除 のぞ く秘書官 ひしょかん 達 たち で米 べい 内 ない の親睦 しんぼく 会 かい が設立 せつりつ された。陸軍 りくぐん の秘書官 ひしょかん も「あなたたちは(米 べい 内内 うちうち 閣 かく の瓦解 がかい とは)関係 かんけい ないのだから」と誘 さそ われたのだが、「我々 われわれ は米内 よない さんに迷惑 めいわく をかけた存在 そんざい なので参加 さんか する資格 しかく などありません」と丁重 ていちょう に断 ことわ りを入 い れている。米 べい 内内 うちうち 閣 かく が発足 ほっそく した日 ひ も辞表 じひょう を奉呈 ほうてい した日 ひ も16日 にち だったことから「一 いち 六 ろく 会 かい (いちろくかい)」と名付 なづ けられ、戦後 せんご も長 なが く行 おこな われ平成 へいせい 期 き になっても存続 そんぞく した。会員 かいいん には宇佐美 うさみ 毅 あつし 、福地 ふくち 誠夫 のぶお 、入江 いりえ 籌直などがいる[87] 。昭和 しょうわ 天皇 てんのう は「一 いち 六 ろく 会 かい 」の存在 そんざい は知 し っており、「一 いち 六 ろく 会 かい 」の日 ひ になると「今日 きょう は『一 いち 六 ろく 会 かい 』の日 ひ だね」と言 い ったという。
総理 そうり 大臣 だいじん を辞任 じにん 後 ご 、病院 びょういん 通 がよ いに東京 とうきょう 市電 しでん を利用 りよう していたが、米 べい 内 ない だということがすぐわかり、至 いた る所 ところ で国民 こくみん にサインを求 もと められたり話 はな しかけられたりした。日本 にっぽん では総理 そうり 経験 けいけん 者 しゃ となると自家用車 じかようしゃ やハイヤー などを使 つか って通院 つういん するのが一般 いっぱん 的 てき であるため、公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん を利用 りよう して通院 つういん した戦前 せんぜん の総理 そうり は米 べい 内 ない くらいだった という。海軍 かいぐん から公用 こうよう 車 しゃ が派遣 はけん されたが、「予備 よび 役 やく なので」と断 ことわ っている。逆 ぎゃく に陸軍 りくぐん は次官 じかん の子弟 してい の通学 つうがく の送 おく り迎 むか えにも公用 こうよう 車 しゃ を使用 しよう して、国民 こくみん の顰蹙 ひんしゅく を買 か っていたりしていた。[要 よう 出典 しゅってん ]
9月15日 にち 、日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい に対 たい する海軍 かいぐん 首脳 しゅのう の会議 かいぎ があり、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう が「ここまできたら仕方 しかた ない」と発言 はつげん し、海軍 かいぐん は同盟 どうめい に賛成 さんせい することを決定 けってい した。翌日 よくじつ 、会議 かいぎ に出席 しゅっせき していた連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 山本 やまもと 五十六 いそろく は、海 うみ 相 しょう 及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう に、米 べい 内 ない を現役 げんえき 復帰 ふっき させ連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に就任 しゅうにん させることを求 もと めている。この日 ひ は昭和 しょうわ 天皇 てんのう が伏見 ふしみ 宮 みや の更迭 こうてつ を口 くち にした日 ひ でもあったが、及川 おいかわ は米 べい 内 ない の復帰 ふっき と伏見 ふしみ 宮 みや 更迭 こうてつ を拒 こば んでいる。10月末 まつ または11月 がつ 初頭 しょとう 、山本 やまもと は及川 おいかわ に米 べい 内 ない を軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう として復帰 ふっき させるよう提案 ていあん した。この時 とき も及川 おいかわ は採 と り上 あ げなかったが、山本 やまもと は11月末 まつ に再 ふたた び米 べい 内 ない の連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 起用 きよう を及川 おいかわ に進言 しんげん している。この時 とき 、伏見 ふしみ 宮 みや は米 べい 内 ない を軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう とすることに同意 どうい した。しかしのちに伏見 ふしみ 宮 みや が辞任 じにん した際 さい 、後任 こうにん として伏見 ふしみ 宮 みや が指名 しめい したのは永野 ながの 修身 しゅうしん であった。及川 おいかわ は米 べい 内 ない の中学 ちゅうがく の後輩 こうはい で米 べい 内 ない を尊敬 そんけい しており、第 だい 3次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく 成立 せいりつ の際 さい に米 べい 内 ない の海 うみ 相 しょう としての復帰 ふっき を図 はか ったことがある。こうした米 べい 内 ない の現役 げんえき 復帰 ふっき をめぐる動 うご きはいずれも実現 じつげん せずに、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月8日 にち 、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき により太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )を迎 むか えた。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )、海軍 かいぐん 甲 かぶと 事件 じけん で戦死 せんし した盟友 めいゆう 山本 やまもと 五十六 いそろく の国葬 こくそう 委員 いいん 長 ちょう を務 つと める。だが軍人 ぐんじん が神格 しんかく 化 か されることを毛嫌 けぎら いしていた山本 やまもと をよく知 し る米 べい 内 ない は、後 のち に山本 やまもと 神社 じんじゃ 建立 こんりゅう の話 はなし などが出 で るたびに、井上 いのうえ 成美 まさみ とともに「山本 やまもと が迷惑 めいわく する」と言 い ってこれに強 つよ く反対 はんたい したため、神社 じんじゃ は建立 こんりゅう されなかった。米 べい 内 ない は『朝日新聞 あさひしんぶん 』に追悼 ついとう 文 ぶん を寄稿 きこう 、その中 なか で「不思議 ふしぎ だと思 おも ふのは四 よん 月 がつ に實 じつ にはつきりした夢 ゆめ を見 み た、何 なに をいつたか忘 わす れたが、今 いま でも顔 かお がはつきりする夢 ゆめ を見 み た、をかしいなと思 おもえ つてゐたが、まさかかうなるとは思 おも はなかつた」とその夜 よる のことを振 ふ り返 かえ っている[92] 。
第 だい 24代 だい 海軍 かいぐん 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 7月 がつ 22日 にち 、小磯 こいそ 内閣 ないかく の閣僚 かくりょう らと(前列 ぜんれつ 最 さい 右 みぎ に米 べい 内 ない )
1945年 ねん 4月 がつ 7日 にち 、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく の閣僚 かくりょう らと(前列 ぜんれつ 右 みぎ に米 べい 内 ない )
1945年 ねん 8月 がつ 17日 にち 、東 ひがし 久邇 くに 宮内 くない 閣 かく の閣僚 かくりょう らと(2列 れつ 目 め 左 ひだり から2人 ふたり 目 め に米 べい 内 ない )
1945年 ねん 10月 がつ 9日 にち 、幣 ぬさ 原内 はらうち 閣 かく の閣僚 かくりょう らと(前列 ぜんれつ 左 ひだり から3人 にん 目 め に米 べい 内 ない )
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )、東條 とうじょう 内閣 ないかく が倒 たお れると、予備 よび 役 やく から現役 げんえき に復帰 ふっき して小磯 こいそ 内閣 ないかく で再 ふたた び海軍 かいぐん 大臣 だいじん となる。
軍部 ぐんぶ 大臣 だいじん 現役 げんえき 武官 ぶかん 制 せい により、予備 よび 役 やく 海軍 かいぐん 大将 たいしょう の米 べい 内 ない が海軍 かいぐん 大臣 だいじん となるには「召集 しょうしゅう 」ではなく「現役 げんえき 復帰 ふっき 」の必要 ひつよう があった。予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう された陸海 りくかい 軍 ぐん 将校 しょうこう ・士官 しかん が現役 げんえき 復帰 ふっき するには、「天皇 てんのう の特旨 とくし 」が必要 ひつよう とされ、極 きわ めて稀 まれ なことだった。米 べい 内 ない は、陸軍 りくぐん 出身 しゅっしん の小磯 こいそ 國昭 くにあき と二 に 名 めい で組閣 そかく の大命 たいめい を受 う けた(小磯 こいそ が上席 じょうせき で、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん となった)異例 いれい の組閣 そかく 経緯 けいい から「副 ふく 総理 そうり 格 かく 」とされ、「小磯 こいそ ・米 べい 内 ない 連立 れんりつ 内 ない 閣 かく 」とも呼 よ ばれた。米 べい 内 ない は、海軍 かいぐん 次官 じかん の岡 おか 敬純 たかずみ を「一夜 いちや にして放逐 ほうちく する」と更迭 こうてつ 、横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ でコンビを組 く んだ井上 いのうえ 成美 まさみ (当時 とうじ 海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 校長 こうちょう )を「首 くび に縄 なわ をかけて引 ひ きずってでも中央 ちゅうおう に戻 もど す」と直接 ちょくせつ 説得 せっとく 、「次官 じかん なんて柄 え ではない」「江田島 えたじま の村長 そんちょう (= 海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 校長 こうちょう )で軍人 ぐんじん 生活 せいかつ を終 お わらせたい」とい張 いは る井上 いのうえ を中央 ちゅうおう に呼 よ び寄 よ せた[注 ちゅう 4] 。なお、米 べい 内 ない の同期生 どうきせい で親友 しんゆう であった荒 あら 城 じょう 二郎 じろう の姉妹 しまい は井上 いのうえ の兄 あに ・井上 いのうえ 達三 たつぞう に嫁 とつ いでおり[97] 、米 べい 内 ない 、井上 いのうえ には私的 してき にもつながりがあった。
米 べい 内 ない の現役 げんえき 復帰 ふっき を画策 かくさく した岡田 おかだ 啓介 けいすけ は、「米 べい 内 ない を円満 えんまん に海軍 かいぐん へ復帰 ふっき させるには、海軍 かいぐん 内 ない の米 べい 内 ない の系統 けいとう と共 とも に末次 すえつぐ の系統 けいとう の顔 かお も立 た てておく必要 ひつよう がある」との声 こえ を受 う けたため、岡田 おかだ は藤山 ふじやま 愛一郎 あいいちろう の邸宅 ていたく にて二 に 人 にん を引 ひ き合 あ わせ、関係 かんけい の修復 しゅうふく に努 つと め、共 とも に個人 こじん の感情 かんじょう より国 くに のために力 ちから を尽 つ くすことを誓 ちか わせた。末次 すえつぐ 信正 のぶまさ と米 べい 内 ない の関係 かんけい は、過去 かこ に宴席 えんせき で五 ご ・一 いち 五 ご 事件 じけん に対 たい する責任 せきにん などで口論 こうろん となるなど険悪 けんあく であった。米 べい 内 ない の現役 げんえき 復帰 ふっき は成 な ったが、予定 よてい されていた末次 すえつぐ の軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう への復帰 ふっき 話 ばなし は天皇 てんのう の反対 はんたい などのためにそれっきりとなってしまった。「軍令 ぐんれい 部 ぶ なら召集 しょうしゅう 官 かん でもなれるのだから、末次 すえつぐ を召集 しょうしゅう の形 かたち で連 つ れてきてはどうか」と米 べい 内 ない に勧 すす める者 もの もいたが、米 べい 内 ない は応 おう じなかった。これに関 かん して岡田 おかだ は「(米 べい 内 ない は)末次 すえつぐ のような性格 せいかく の男 おとこ がいては、自分 じぶん の考 かんが えている戦局 せんきょく の収拾 しゅうしゅう がうまくいかんと思 おも ったのではないかね」とし、『昭和 しょうわ 天皇 てんのう 独白 どくはく 録 ろく 』には「私 わたし は末次 すえつぐ の総長 そうちょう に反対 はんたい した。米 べい 内 ない が後 あと で末次 すえつぐ のことを調 しら べたら、海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない の八 はち 割 わり は末次 すえつぐ をよく知 ち つてゐないと云 うん ふことが判 はん つた相 しょう だ」とある。ただし、復帰 ふっき 直後 ちょくご の米 べい 内 ない は末次 すえつぐ 総長 そうちょう が実現 じつげん しない場合 ばあい には辞任 じにん する旨 むね を語 かた っており、末次 すえつぐ の総長 そうちょう 人事 じんじ には熱意 ねつい を持 も っていた。結局 けっきょく 軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう には及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう が就 つ くこととなった。
12月3日 にち 、神 かみ 雷 かみなり 部隊 ぶたい を視察 しさつ し、飛行場 ひこうじょう で閲兵 えっぺい 式 しき を行 おこな う[103] 。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく にも海 うみ 相 しょう として留任 りゅうにん 。米 べい 内 ない 本人 ほんにん は「連立 れんりつ 内 ない 閣 かく 」の小 しょう 磯 いそ だけが辞職 じしょく し自分 じぶん が留任 りゅうにん するというのは道義 どうぎ 上 じょう 問題 もんだい があると考 かんが えていた。だが今度 こんど は次官 じかん であった井上 いのうえ 成美 まさみ が米 べい 内 ない の知 し らないところで「米 べい 内海 うちうみ 相 しょう の留任 りゅうにん は絶対 ぜったい に譲 ゆず れない」という「海軍 かいぐん の総意 そうい (実 じつ は井上 いのうえ の独断 どくだん )」を、大命 たいめい の下 くだ った鈴木 すずき に申 もう し入 い れていたのだった[104] [注 ちゅう 5] 。
5月11日 にち 、ドイツ降伏 ごうぶく 直後 ちょくご に宮中 きゅうちゅう で開 ひら かれた最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ における対 たい ソ交渉 こうしょう について、「ソ連 それん からの援助 えんじょ を引 ひ き出 だ すべきだ」と主張 しゅちょう したが、「ソ連 それん を軍事 ぐんじ 的 てき 経済 けいざい 的 てき に利用 りよう できる段階 だんかい では、もはやない」と外務 がいむ 大臣 だいじん ・東郷 とうごう 茂徳 しげのり に却下 きゃっか されている。しかし鈴木 すずき 内閣 ないかく は結論 けつろん としてソ連 それん に対 たい する和平 わへい 仲介 ちゅうかい を依頼 いらい する方針 ほうしん を決定 けってい し、交渉 こうしょう を開始 かいし した。
5月25日 にち の空襲 くうしゅう で海軍 かいぐん 省 しょう と大臣 だいじん 官邸 かんてい が焼失 しょうしつ してしまい、麻生 あそう 孝雄 たかお 海軍 かいぐん 大臣 だいじん 秘書官 ひしょかん が堤 つつみ 康次郎 やすじろう 所有 しょゆう の建物 たてもの を官邸 かんてい として借 か り受 う けようと交渉 こうしょう に向 む かったところ、堤 つつみ は最初 さいしょ は不機嫌 ふきげん だったが米 べい 内 ない の名前 なまえ が出 で てきた途端 とたん に顔色 かおいろ が変 か わり、「よろしゅうございます。お貸 か ししましょう。私 わたし は米内 よない さんが好 す きなので」と建物 たてもの の提供 ていきょう を無条件 むじょうけん で承知 しょうち してくれた。「米内 よない さんの人徳 にんとく で借 か りれたようなものだ」と麻生 あそう は後 のち に述 の べている。[要 よう 出典 しゅってん ] この空襲 くうしゅう では明治 めいじ 宮殿 きゅうでん も焼失 しょうしつ し、翌日 よくじつ 参内 さんだい した際 さい の天皇 てんのう の態度 たいど から、米 べい 内 ない は和平 わへい に向 む けた意志 いし を読 よ み取 と った。
5月 がつ 末 まつ の会議 かいぎ で一 いち 勝 しょう の後 のち に終戦 しゅうせん とすることを主張 しゅちょう した陸軍 りくぐん 大臣 だいじん ・阿南 あなみ 惟幾 これちか に対 たい し、米 べい 内 ない は早期 そうき 講和 こうわ を主張 しゅちょう した[注 ちゅう 6] 。
6月9日 にち の鈴木 すずき による議会 ぎかい での発言 はつげん (天罰 てんばつ 発言 はつげん 事件 じけん )を継 つぎ 戦 せん 派 は の議員 ぎいん が2日 にち 後 ご に問題 もんだい 視 し したことで国会 こっかい は混乱 こんらん に陥 おちい り、倒閣 とうかく 運動 うんどう まで発生 はっせい してしまった。これにより、米 べい 内 ない は議会 ぎかい の内閣 ないかく に対 たい する姿勢 しせい を問題 もんだい 視 し して辞意 じい を表明 ひょうめい したところ、阿南 あなん から辞意 じい を思 おも いとどまるように手紙 てがみ による説得 せっとく を受 う け、これを受 う け入 い れた。
ソ連 それん との交渉 こうしょう については、すでに内密 ないみつ に対 たい 日 にち 参戦 さんせん を決意 けつい していたソ連 それん からは回答 かいとう を引 ひ き伸 の ばされるだけであった。やがて7月 がつ 末 まつ に至 いた り、連合 れんごう 国 こく が日本 にっぽん に対 たい し降伏 ごうぶく を勧告 かんこく するポツダム宣言 せんげん が発表 はっぴょう される。東郷 とうごう は受諾 じゅだく の可能 かのう 性 せい を主張 しゅちょう するが、阿南 あなみ をはじめとする統帥 とうすい 部 ぶ は宣言 せんげん 拒否 きょひ を激 はげ しく主張 しゅちょう 、結果 けっか として閣議 かくぎ では「ポツダム宣言 せんげん に関 かん しては強 つよ い見解 けんかい をださず様子 ようす をみる」旨 むね 発表 はっぴょう すると決定 けってい した。ところが統帥 とうすい 部 ぶ は閣議 かくぎ の決定 けってい を無視 むし して鈴木 すずき に宣言 せんげん に対 たい して強 つよ い態度 たいど を取 と るべきと主張 しゅちょう 、鈴木 すずき はこの突 つ き上 あ げに屈 くっ して、宣言 せんげん の黙殺 もくさつ を記者 きしゃ 会見 かいけん で声明 せいめい した。この黙殺 もくさつ 声明 せいめい により、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか とソ連 それん の対 たい 日 にち 参戦 さんせん という新 あら たな事態 じたい が発生 はっせい した。米 べい 内 ない は連合 れんごう 国 こく のポツダム宣言 せんげん 発表 はっぴょう から鈴木 すずき の黙殺 もくさつ 声明 せいめい にいたるまで、ポツダム宣言 せんげん に対 たい して曖昧 あいまい な態度 たいど をとっている。米 べい 内 ない のこの曖昧 あいまい さが、阿南 あなん などポツダム宣言 せんげん 拒否 きょひ 派 は に押 お し切 き られ、黙殺 もくさつ 声明 せいめい への大 おお きな原因 げんいん になったとする批判 ひはん もある。
原爆 げんばく 投下 とうか ・ソ連 それん 参戦 さんせん 以降 いこう 、米 べい 内 ない はポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく による戦争 せんそう 終結 しゅうけつ を東郷 とうごう 外相 がいしょう とともに強力 きょうりょく に主張 しゅちょう する。受諾 じゅだく に反対 はんたい し本土 ほんど 決戦 けっせん を主張 しゅちょう する阿南 あなん と閣議 かくぎ ・最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ で激論 げきろん を展開 てんかい した。「戦局 せんきょく は依然 いぜん として互角 ごかく である」と言 い う阿南 あなみ に対 たい し「陸相 りくしょう は互角 ごかく というが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄 いおう 島 とう 、沖縄 おきなわ 、みんな明 あき らかに我 わ が方 ほう は負 ま けている。個々 ここ の戦 たたか いで武勇 ぶゆう 談 だん はあるやもしれないが、それは勝敗 しょうはい とは別 べつ の問題 もんだい である」と米 べい 内 ない はい返 いかえ した。さらに「戦闘 せんとう には負 ま けているかもしれないが、戦争 せんそう そのものに負 ま けたとはいえない。陸軍 りくぐん と海軍 かいぐん では感覚 かんかく が違 ちが う」と再 さい 反論 はんろん する阿南 あなん に対 たい し米 べい 内 ない は「あなたがなんと言 い おうと日本 にっぽん は戦争 せんそう に負 ま けている」と言 い い、両者 りょうしゃ の話 はなし に決着 けっちゃく はつかなかった。
8月 がつ 9日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で、東郷 とうごう 茂徳 しげのり 、米内 よない 光政 みつまさ 、平沼 ひらぬま 騏一郎 きいちろう は、「天皇 てんのう の地位 ちい の保障 ほしょう のみ」を条件 じょうけん とするポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく を主張 しゅちょう 。それに対 たい し阿南 あなみ 惟幾 これちか 、梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 、豊田 とよだ 副 ふく 武 ぶ は「受諾 じゅだく には多数 たすう の条件 じょうけん をつけるべきで、条件 じょうけん が拒否 きょひ されたら本土 ほんど 決戦 けっせん をするべきだ」と受諾 じゅだく 反対 はんたい を主張 しゅちょう した。天皇 てんのう は東郷 とうごう 、米 べい 内 ない 、平沼 ひらぬま の見解 けんかい に同意 どうい し、終戦 しゅうせん が原則 げんそく 的 てき に決定 けってい された。しかし連合 れんごう 国 こく 側 がわ から条件 じょうけん を付 ふ す件 けん について回答 かいとう 文 ぶん があり、ふたたび受諾 じゅだく 賛成 さんせい と反対 はんたい の議論 ぎろん が再燃 さいねん する。
8月 がつ 12日 にち 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう ・豊田 とよだ 副 ふく 武 ぶ 大将 たいしょう と陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ・梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 大将 たいしょう が昭和 しょうわ 天皇 てんのう に対 たい してポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく を反対 はんたい する帷幄上奏 いあくじょうそう を行 おこな う。同日 どうじつ 、米 べい 内 ない は、抗戦 こうせん を主張 しゅちょう する豊田 とよだ と軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう ・大西 おおにし 瀧 たき 治郎 じろう の二人 ふたり を呼 よ び出 だ した。米 べい 内 ない は大西 おおにし に対 たい して「軍令 ぐんれい 部 ぶ の行動 こうどう はなっておらない。意見 いけん があるなら、大臣 だいじん に直接 ちょくせつ 申出 もうしで て来 き たらよいではないか。最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ (9日 にち )に、招 まね かれもせぬのに不謹慎 ふきんしん な態度 たいど で入 はい って来 く るなんていうことは、実 じつ にみっともない。そんなことは止 とど めろ」と言 い いつけ、大西 おおにし は涙 なみだ を流 なが して詫 わ びた。次 つぎ に豊田 とよだ に対 たい して「それから又 また 大臣 だいじん には何 なん の相談 そうだん もなく、あんな重大 じゅうだい な問題 もんだい を、陸軍 りくぐん と一緒 いっしょ になって上奏 じょうそう するとは何事 なにごと か。僕 ぼく は軍令 ぐんれい 部 ぶ のやることに兎 うさぎ や角 かく 干渉 かんしょう するのではない。しかし今度 こんど のことは、明 あかり かに一 いち 応 おう は、海軍 かいぐん 大臣 だいじん と意見 いけん を交 まじ えた上 うえ でなければ、軍令 ぐんれい 部 ぶ と雖も勝手 かって に行動 こうどう すべからざることである。昨日 きのう 海軍 かいぐん 部内 ぶない 一般 いっぱん に出 だ した訓示 くんじ は、このようなことを戒 いまし めたものである。それにも拘 かかわ らず斯る振舞 ふるまい に出 で たことは不都合 ふつごう 千 せん 万 まん である」と非難 ひなん し、豊田 とよだ は済 す まないという様子 ようす で一言 ひとこと も答 こた えなかった[110] 。豊田 とよだ が軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう に就任 しゅうにん する際 さい に、昭和 しょうわ 天皇 てんのう は「司令 しれい 長官 ちょうかん 失格 しっかく の者 もの を総長 そうちょう にするのは良 よ くない」と反対 はんたい する旨 むね を米 べい 内 ない に告 つ げているが、米 べい 内 ない は「若 わか い者 もの に支持 しじ がある。彼 かれ の力 ちから によって若 わか い者 もの を抑 おさ えて終戦 しゅうせん に持 も っていきたい」と返答 へんとう した。しかし豊田 とよだ は押 お し切 き られた形 かたち になり、米 べい 内 ない も親 した しい知人 ちじん に「豊田 とよだ に裏切 うらぎ られた気分 きぶん だ。見損 みそこ なった」と述 の べ、昭和 しょうわ 天皇 てんのう は「米 べい 内 ない の失敗 しっぱい だ。米 べい 内 ない のために惜 お しまれる」と述懐 じゅっかい している[111] 。
8月 がつ 14日 にち 、天皇 てんのう は最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ および閣僚 かくりょう の面前 めんぜん で、再度 さいど 受諾 じゅだく を決定 けってい 、これにより終戦 しゅうせん が最終 さいしゅう 的 てき に決 けっ した。
鈴木 すずき 内閣 ないかく の陸軍 りくぐん 大臣 だいじん だった阿南 あなみ 惟幾 これちか は終戦 しゅうせん の日 ひ 当日 とうじつ に「米 べい 内 ない を斬 き れ[注 ちゅう 7] 」とい残 いのこ して自決 じけつ したが、米内 よない 本人 ほんにん は軍人 ぐんじん として法廷 ほうてい で裁 さば かれる道 みち を選 えら んだ。戦犯 せんぱん として拘束 こうそく されることを予期 よき し、巣鴨 すがも プリズン へ収監 しゅうかん される場合 ばあい に備 そな えていたものの、結局 けっきょく 米 べい 内 ない は容疑 ようぎ 者 しゃ には指定 してい されなかった[注 ちゅう 8] 。
米 べい 軍 ぐん 側 がわ は米 べい 内 ない の以前 いぜん の言動 げんどう を詳細 しょうさい に調査 ちょうさ しており、GHQ の某 ぼう 軍人 ぐんじん が元 もと 秘書官 ひしょかん の麻生 あそう 孝雄 たかお のもとを訪 たず ねた際 さい 、いきなり米 べい 内 ない のことを切 き り出 だ し「米内 よない 提督 ていとく については生 お い立 た ちからすべて調査 ちょうさ してある。命 いのち を張 は って日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい と対 たい 米 べい 戦争 せんそう に反対 はんたい した事実 じじつ 、終戦 しゅうせん 時 じ の動静 どうせい などすべてお見通 みとお しだ。米 べい 内 ない 提督 ていとく が戦犯 せんぱん に指名 しめい されることは絶対 ぜったい にない。我々 われわれ は米内 よない 提督 ていとく をリスペクトしている」と断言 だんげん し、麻生 あそう に米 べい 内 ない の伝記 でんき を書 か くことさえ勧 すす めている。また保科 ほしな 善四郎 ぜんしろう や吉田 よしだ 英三 えいぞう 、豊田 とよだ 隈 くま 雄 ゆう などが「米内 よない さんだけは戦犯 せんぱん にしてはいけない」と奔走 ほんそう したという話 はなし もある。戦後 せんご 処理 しょり の段階 だんかい に入 はい っても米 べい 内 ない の存在 そんざい は高 たか く評価 ひょうか され、東 ひがし 久邇 くに 宮内 くない 閣 かく ・幣 ぬさ 原内 はらうち 閣 かく でも海 うみ 相 しょう に留任 りゅうにん して帝国 ていこく 海軍 かいぐん の幕 まく 引 び き役 やく を務 つと めた。幣 ぬさ 原内 はらうち 閣 かく の組閣 そかく 時 じ には健康 けんこう 不安 ふあん から[注 ちゅう 9] 辞意 じい を固 かた めていたにもかかわらずGHQの意向 いこう で留任 りゅうにん している。
米 べい 内 ない は「言葉 ことば は不 ふ 適当 てきとう と思 おも うが原爆 げんばく やソ連 それん の参戦 さんせん は天佑 てんゆう だった」続 つづ けて「国内 こくない 情勢 じょうせい で戦 たたか いをやめるということを出 だ さなくて済 す む。私 わたし がかねてから時局 じきょく 収拾 しゅうしゅう を主張 しゅちょう する理由 りゆう は敵 てき の攻撃 こうげき が恐 おそ ろしいのでもないし、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん やソ連 それん の参戦 さんせん でもない。一 いち に国内 こくない 情勢 じょうせい の憂慮 ゆうりょ すべき事態 じたい (食糧 しょくりょう 事情 じじょう などによる国内 こくない 秩序 ちつじょ の崩壊 ほうかい から日本 にっぽん が内部 ないぶ から崩壊 ほうかい すること)が主 おも である。(中略 ちゅうりゃく )軍令 ぐんれい 部 ぶ あたりも国内 こくない がわかっておらなくて困 こま るよ」と近衛 このえ 文麿 ふみまろ や細川 ほそかわ 護貞 もりさだ などに語 かた った。
海軍 かいぐん 省 しょう 最後 さいご の日 ひ となった11月30日 にち に、海軍 かいぐん 大臣 だいじん として挨拶 あいさつ をした際 さい にも、朝日新聞 あさひしんぶん の海軍 かいぐん 担当 たんとう 記者 きしゃ が作 つく った原稿 げんこう を読 よ んだ後 のち 「では皆 みな さん、さようなら」とだけ喋 しゃべ って終 お わった。幣 ぬさ 原内 はらうち 閣 かく において海軍 かいぐん 省 しょう は廃止 はいし され第 だい 二 に 復員 ふくいん 省 しょう となったことから、米 べい 内 ない が日本 にっぽん で最後 さいご の海軍 かいぐん 大臣 だいじん となった。
海軍 かいぐん 省 しょう 廃止 はいし の翌日 よくじつ の12月1日 にち に宮中 きゅうちゅう に召 め された米 べい 内 ない は、お別 わか れの言上 ごんじょう をした際 さい 、昭和 しょうわ 天皇 てんのう から「米 べい 内 ない には随分 ずいぶん と苦労 くろう を掛 か けたね。それがこんな結末 けつまつ になってしまって…。これからは会 あ う機会 きかい も少 すく なくなるだろう。米 べい 内 ない はだいぶ体 からだ が弱 よわ っているようだから、健康 けんこう にくれぐれも注意 ちゅうい するように。これは私 わたし が今 いま さっきまで使 つか っていた品 しな だが、今日 きょう の記念 きねん に持 も ち帰 かえ ってもらいたい」として、筆 ふで も墨 すみ も濡 ぬ れた状態 じょうたい の硯箱 すずりばこ に、二 に 羽 わ の丹頂鶴 たんちょうづる に菊 きく の小 しょう 枝 えだ をあしらった金 きむ 蒔絵 まきえ が描 えが かれた蓋 ぶた を天皇 てんのう 自 みずか ら閉 と じたうえで、直接 ちょくせつ 手渡 てわた された。硯箱 すずりばこ を持 も って廊下 ろうか へ退出 たいしゅつ するなり、米 べい 内 ない は声 こえ を殺 ころ して泣 な き出 だ したという。またこのとき、香 こう 淳 じゅん 皇后 こうごう も別室 べっしつ で米 べい 内 ない を涙 なみだ ながらに厚 あつ く労 ねぎら っている。現在 げんざい その硯 すずり は、郷里 きょうり の盛岡 もりおか 市 し 先人 せんじん 記念 きねん 館 かん に展示 てんじ されているが、他 た の展示 てんじ 品 ひん が寄贈 きぞう なのに対 たい して、硯 すずり のみ米 べい 内 ない 家 か の所有 しょゆう 物 ぶつ として展示 てんじ されている。
海軍 かいぐん 解体 かいたい 前 まえ 、米 べい 内 ない はその当時 とうじ 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう だった保科 ほしな に、「戦犯 せんぱん に指名 しめい されるかもしれないし、私 わたし の健康 けんこう もすぐれないから」と前置 まえお きした上 うえ で、「連合 れんごう 国 こく も永久 えいきゅう に日本 にっぽん に軍備 ぐんび を撤廃 てっぱい させることはない。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の前 まえ のトン数 とんすう を基準 きじゅん に海軍 かいぐん 再建 さいけん を模索 もさく すべし」「海軍 かいぐん には優秀 ゆうしゅう な人材 じんざい が数多 かずおお く集 あつ まり、その伝統 でんとう を引 ひ き継 つ いできた。先輩 せんぱい たちがどうやってその伝統 でんとう をき上 ずきあ げてきたか、後世 こうせい に伝 つた えるべし」「海軍 かいぐん が持 も っていた技術 ぎじゅつ を日本 にっぽん 復興 ふっこう に役立 やくだ てること」を委託 いたく している。保科 ほしな はY委員 いいん 会 かい を通 とお して現在 げんざい の海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい 創設 そうせつ に間接 かんせつ 的 てき に影響 えいきょう を与 あた えており、後 のち に衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん となった保科 ほしな 自身 じしん も米 べい 内 ない の遺志 いし を一 ひと つでも達成 たっせい すべく政界 せいかい 入 い りを目指 めざ したと述 の べている。
東京 とうきょう 裁判 さいばん [ 編集 へんしゅう ]
戦後 せんご の極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん では証人 しょうにん として1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )3月 がつ と5月 がつ の2度 ど に亘 わた って出廷 しゅってい し、「当初 とうしょ から、この戦争 せんそう は成算 せいさん のなきものと感 かん じて、反対 はんたい であった」「陛下 へいか は、開戦 かいせん に個人 こじん 的 てき には強 つよ く反対 はんたい されていたが、開戦 かいせん が内閣 ないかく の一致 いっち した結論 けつろん であったため、やむなく開戦 かいせん 決定 けってい を承認 しょうにん された」と、昭和 しょうわ 天皇 てんのう の立場 たちば を擁護 ようご する発言 はつげん に終始 しゅうし した。
その上 うえ で、満州 まんしゅう 事変 じへん ・支 ささえ 那 な 事変 じへん ・日 にち 英 えい 米 べい 蘭 らん 開戦 かいせん を推進 すいしん した責任 せきにん 者 しゃ として、土肥 どい 原 はら 賢二 けんじ ・板垣 いたがき 征四郎 せいしろう ・武藤 むとう 章 あきら 、文官 ぶんかん では松岡 まつおか 洋右 ようすけ の名前 なまえ も挙 あ げて、陸軍 りくぐん の戦争 せんそう 責任 せきにん を追及 ついきゅう している。しかし、東條 とうじょう 英機 ひでき の責任 せきにん については言明 げんめい する事 こと がなかった[注 ちゅう 10] 。
一方 いっぽう で、陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 単独 たんどく 辞任 じにん で米 べい 内内 うちうち 閣 かく を瓦解 がかい させた事 こと でA級 きゅう 戦犯 せんぱん として裁 さば かれることになった畑 はた 俊六 しゅんろく に対 たい しては、弁護 べんご 側 がわ 証人 しょうにん として出廷 しゅってい したときには、畑 はたけ は他 た から圧力 あつりょく をかけられたのだと思 おも うとして庇 かば った。これは既 すで に亡 な くなっていたが事件 じけん 当時 とうじ に陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう であった閑院宮 みや 載 の 仁 じん ひいては皇族 こうぞく の戦争 せんそう 責任 せきにん を示唆 しさ しかねない問題 もんだい であった。しかし、米 べい 内 ない は畑 はたけ を信 しん じていたのか、畑 はたけ の部下 ぶか の名 な も挙 あ げて陸軍 りくぐん 全体 ぜんたい の総意 そうい だったのではないかと、当時 とうじ の新聞 しんぶん 記事 きじ 等 とう を証拠 しょうこ 品 ひん に追及 ついきゅう する検事 けんじ に対 たい し、徹底的 てっていてき にしらを切 き り続 つづ けた。この間 あいだ 、検事 けんじ の訊 き いていることに答 こた えるようにとの裁判 さいばん 長 ちょう の指示 しじ を無視 むし して、たびたび自身 じしん のしたい否定 ひてい 発言 はつげん ばかりを行 おこな い、裁判 さいばん 長 ちょう ウィリアム・ウェブ から「The prime minister is the most stupid witness I have ever listened to.(この首相 しゅしょう は私 わたし がこれまで話 はなし を聞 き いた中 なか で一番 いちばん 鈍感 どんかん な証人 しょうにん だ)」と法廷 ほうてい で謗 そし られている[120] 。一方 いっぽう で、首席 しゅせき 検事 けんじ ジョセフ・キーナン はむしろ「あれは畑 はたけ を庇 かば っていたのだ。国際 こくさい 法廷 ほうてい の席上 せきじょう であのような態度 たいど をとれる人間 にんげん はいない」と敬意 けいい を表 あらわ したという[注 ちゅう 11] 。もっとも、米 べい 内 ない の証言 しょうげん に対 たい し、裁判 さいばん 長 ちょう のウェッブは「本来 ほんらい なら信頼 しんらい 性 せい のない証人 しょうにん として退場 たいじょう させるところだ」とも語 かた って[125] いて、キーナンにとっては新聞 しんぶん 報道 ほうどう のほうがよほど信頼 しんらい 性 せい があると受 う けとめられて好都合 こうつごう だった可能 かのう 性 せい もある。キーナンは翌月 よくげつ 若槻 わかつき 禮次郎 れいじろう 、岡田 おかだ 啓介 けいすけ 、宇垣 うがき 一成 いっせい らとともに米 べい 内 ない を招 まね いてカクテルパーティーを開 ひら き、4人 にん を「真 しん の平和 へいわ 愛好 あいこう 者 しゃ 」と呼 よ んだ。
マッカーサー は日本 にっぽん の占領 せんりょう 統治 とうち で天皇 てんのう を利用 りよう するため、昭和 しょうわ 天皇 てんのう の戦争 せんそう 責任 せきにん を問 と わない方針 ほうしん を定 さだ めていたが、連合 れんごう 国 こく の中 なか には「天皇 てんのう の戦争 せんそう 責任 せきにん を問 と うべきだ」とする国 くに もあった。そのためマッカーサーの秘書官 ひしょかん フェラーズ 准 じゅん 将 しょう は、米 べい 内 ない をGHQ司令 しれい 部 ぶ に呼 よ び「天皇 てんのう が何 なん ら罪 つみ のないことを日本 にっぽん 側 がわ が立証 りっしょう してくれることが最 もっと も好都合 こうつごう だ。そのためには近々 ちかぢか 開始 かいし される裁判 さいばん が最善 さいぜん の機会 きかい だと思 おも う。この裁判 さいばん で東条 とうじょう に全 ぜん 責任 せきにん を負 お わせるようにすることだ」と語 かた ったと言 い う[127] 。
盛岡 もりおか 八幡宮 はちまんぐう 境内 けいだい にある米内 よない 光政 みつまさ 像 ぞう 。像 ぞう の原型 げんけい は盛岡 もりおか 市 し 出身 しゅっしん の堀江 ほりえ 赳 たけし 、碑文 ひぶん は小泉 こいずみ 信三 しんぞう による。
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )、公職 こうしょく 追放 ついほう となる[129] (死去 しきょ 後 ご の1952年 ねん 追放 ついほう 解除 かいじょ [130] )。元 もと 大臣 だいじん 秘書官 ひしょかん の麻生 あそう 孝雄 たかお に誘 さそ われて、小島 こじま 秀雄 ひでお 元 もと 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう や大臣 だいじん 時代 じだい の副官 ふっかん らと共 とも に北海道 ほっかいどう 釧路 くしろ 町 まち の達古武 たつこぶ 湖 こ 付近 ふきん で北海道 ほっかいどう 牧場 ぼくじょう 株式会社 かぶしきがいしゃ (通称 つうしょう :霞ヶ関 かすみがせき 牧場 ぼくじょう )の牧場 ぼくじょう 経営 けいえい に参加 さんか する。
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )、肺炎 はいえん により死去 しきょ 。68歳 さい と1ヵ月 かげつ だった。軽 かる い脳溢血 のういっけつ に肺炎 はいえん を併発 へいはつ したのが直接 ちょくせつ の死因 しいん だが、長年 ながねん の高血圧 こうけつあつ 症 しょう に慢性 まんせい 腎臓 じんぞう 病 びょう の既往症 きおうしょう があり、さらに帯状疱疹 たいじょうほうしん にも苦 くる しめられるなど、実際 じっさい は体 からだ 中 ちゅう にガタがきていた。実際 じっさい 、戦後 せんご になって少 すこ し体調 たいちょう は落 お ち着 つ きを見 み せていたものの、帯状疱疹 たいじょうほうしん が寿命 じゅみょう を縮 ちぢ めた。
昭和 しょうわ 天皇 てんのう が日本学士院 にほんがくしいん を招 まね いて催 もよお された昼食 ちゅうしょく 会 かい で、天皇 てんのう は小泉 こいずみ 信三 しんぞう に、「雑誌 ざっし に米 べい 内 ない のことを書 か いたね」と語 かた りかけた。小泉 こいずみ が『心 しん 』昭和 しょうわ 24年 ねん 1月 がつ 号 ごう に寄稿 きこう した米 べい 内 ない の想 おも い出 で を読 よ んでのことである。「拙文 せつぶん がお目 め に触 ふ れてしまいましたか」と小泉 こいずみ が恐縮 きょうしゅく すると、「あれを読 よ んで米 べい 内 ない が懐 なつ かしくなった」と天皇 てんのう は言 い う。それで陪食 ばいしょく にあずかる他 ほか の参加 さんか 者 しゃ もそれぞれ米 べい 内 ない の思 おも い出 で 話 ばなし を紹介 しょうかい しはじめたが、やがて天皇 てんのう は感慨 かんがい 深 ふか げに「惜 お しい人 ひと であった」と言 い ったきり口 くち を閉 と ざしてしまい、このためその場 ば は静 しず まり返 かえ ったという。
米 べい 内 ない の死後 しご 12年 ねん を経 へ た1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )、盛岡 もりおか 八幡宮 はちまんぐう 境内 けいだい に背広 せびろ 姿 すがた の米 べい 内 ない の銅像 どうぞう [133] が立 た てられ、10月12日 にち に除幕 じょまく 式 しき が行 おこな われた。その直前 ちょくぜん に、巣鴨 すがも プリズンから仮釈放 かりしゃくほう された81歳 さい の畑 はた 俊六 しゅんろく が黙々 もくもく と会場 かいじょう の草 くさ むしりをしていた。
昭和 しょうわ 14年 ねん (1939年 ねん )1月 がつ 、板垣 いたがき 征四郎 せいしろう (中央 ちゅうおう 右 みぎ ) の「陸相 りくしょう 就任 しゅうにん 祝賀 しゅくが 会 かい 」に参加 さんか する米 べい 内海 うちうみ 相 しょう 。板垣 いたがき の右 みぎ には当時 とうじ 陸軍 りくぐん 次官 じかん だった東條 とうじょう 英機 ひでき も見 み える。
身長 しんちょう 五 ご 尺 しゃく 七 なな 寸 すん (約 やく 173cm)、体重 たいじゅう 80kg。趣味 しゅみ は長唄 ながうた 。ロシア文学 ぶんがく にも親 した しみ、プーシキン を愛読 あいどく した。「好物 こうぶつ はおから と豆腐 とうふ だった」という。
極端 きょくたん に口数 くちかず が少 すく なく、面倒 めんどう くさがりで、説明 せつめい や演説 えんぜつ を嫌 きら った。しかし、佐世保 させぼ 時代 じだい に親交 しんこう があった知人 ちじん や長官 ちょうかん 官邸 かんてい の女中 じょちゅう は「米内 よない さんは口数 くちかず が少 すく ないといわれているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談 じょうだん もよく言 い っていた」と証言 しょうげん しており、戦後 せんご は人 ひと が変 か わったかのように口数 くちかず が多 おお くなった、という証言 しょうげん もある。
米 べい 内 ない は坊主 ぼうず 頭 あたま が一般 いっぱん 的 てき だった他 ほか の軍人 ぐんじん とは異 こと なり、髪 かみ を七 なな 三 さん に分 わ けていた。練習 れんしゅう 艦 かん 「磐 いわ 手 しゅ 」艦長 かんちょう 時代 じだい に横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 長官 ちょうかん ・野間口 のまぐち 兼雄 かねお 大将 たいしょう から「強 し いてとは言 い わぬが、頭髪 とうはつ もなるべく短 みじか く切 き った方 ほう がいい」と訓示 くんじ され、先輩 せんぱい に「長官 ちょうかん かなり機嫌 きげん が悪 わる いぞ。クルクル坊主 ぼうず に剃 す れ」と冷 ひ やかされても切 き ろうとしなかった。米 べい 内 ない は坊主 ぼうず 頭 あたま が海外 かいがい では囚人 しゅうじん の髪型 かみがた であることを知 し っており、海外 かいがい と直接 ちょくせつ 接 せっ する海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん の髪型 かみがた としてふさわしくない、という理念 りねん からであったという。また戦争 せんそう 末期 まっき に上官 じょうかん に髪 かみ を切 き るよう言 い われ「私 わたし が尊敬 そんけい する米 べい 内 ない 大将 たいしょう は髪 かみ を伸 の ばしております。何故 なぜ 海軍 かいぐん が陸軍 りくぐん と同 おな じことをしないといけないのでしょうか。それが教育 きょういく と言 い うのならその教育 きょういく は間違 まちが っております」と拒否 きょひ した士官 しかん もいたという(もっとも、その士官 しかん はその上官 じょうかん によって考査 こうさ 表 ひょう に「上官 じょうかん ノ命 いのち ニ従 したがえ ワズ素行 そこう ハ極 ごく メテ不良 ふりょう ナリ」と「丙 へい 」をつけられたという)。 [要 よう 出典 しゅってん ] 米内 よない 自身 じしん は長男 ちょうなん の剛 つよし 政 せい に、「髪 かみ の毛 け を伸 の ばすのは良 よ いが常 つね にきちんと整 ととの えて清潔 せいけつ 感 かん を大事 だいじ にすべし」と述 の べている。
長男 ちょうなん の剛 つよし 政 せい が人 ひと の上 うえ に立 た つ時 とき に部下 ぶか をどう扱 あつか うべきか尋 たず ねたところ、「器 うつわ の中 なか で自由 じゆう に泳 およ がせておけばいい。器 うつわ からはみ出 だ しそうな者 もの がいれば頭 あたま をポカリとやる。それ以外 いがい は手 て も口 くち も出 だ さない。しかし部下 ぶか を泳 およ がせる器 うつわ は自分 じぶん が作 つく るものだよ。自分 じぶん の心 こころ がけ次第 しだい で広 ひろ くも狭 せま くもなる」と諭 さと されたと剛 つよし 政 せい は述懐 じゅっかい している。
酒 さけ が米 べい 内 ない か、米 べい 内 ない が酒 さけ か[ 編集 へんしゅう ]
米 べい 内 ない は酒 さけ が非常 ひじょう に強 つよ く、「酒 さけ が米 べい 内 ない か、米 べい 内 ない が酒 さけ か」とまで言 い われていた。かなりのハイペースで飲 の みいくら飲 の んでも顔色 かおいろ 一 ひと つ変 か えず、淡々 たんたん と飲 の んでいたという。
総理 そうり 大臣 だいじん の時 とき に満州 まんしゅう 国 こく の皇帝 こうてい ・愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥儀 ふぎ が日本 にっぽん を訪 おとず れた際 さい に米 べい 内 ない の酒 さけ の量 りょう が話題 わだい になり、「満州 まんしゅう 語 ご に『海 うみ 量 りょう (ハイリャン)』という言葉 ことば がある。米 べい 内 ない の酒 さけ の量 りょう は『海 うみ 量 りょう 』か」と尋 たず ねたところ、高松宮 たかまつのみや 宣仁 のぶひと 親王 しんのう が「いえ、米 べい 内 ない は『洋 よう 量 りょう (ヤンリャン)』です」と返 かえ したエピソードがある。また、銀座 ぎんざ の芸者 げいしゃ 衆 しゅ の間 あいだ で「米内 よない さんを酔 よ っ払 ぱら わせたら懸賞 けんしょう 金 きん を与 あた える」という話 はなし が広 ひろ まり、酒 さけ に自信 じしん がある芸者 げいしゃ が何人 なんにん も挑戦 ちょうせん したが米 べい 内 ない を酔 よ わせることができず、芸者 げいしゃ は米 べい 内 ない の前 まえ で号泣 ごうきゅう して悔 くや しがったという。
酔 よ っ払 ぱら うことはほとんどなかったが、ほろ酔 よ い加減 かげん になると長唄 ながうた の調子 ちょうし が棒読 ぼうよ みになったともいう。また米 べい 内 ない 自 みずか らロシア駐在 ちゅうざい 時代 じだい に酔 よ ってロシア水兵 すいへい に演説 えんぜつ をしたことを語 かた り、「私 わたし が演説 えんぜつ するくらいなので、相当 そうとう 酔 よ っていたのでしょう」と言 い ったこともある。保科 ほしな 善四郎 ぜんしろう は「米内 よない さんにとって酒 さけ は食 た べ物 もの だった」と回想 かいそう している。
海軍 かいぐん 料亭 りょうてい などで飲 の む際 さい には二 に 升 しょう ・三 さん 升 しょう は当 あ たり前 まえ のように飲 の むと料亭 りょうてい の女将 おかみ 達 たち からも言 い われていた。若 わか いころは自 みずか ら「俺 おれ は時 とき には二 に 升 しょう ・三 さん 升 しょう あるいはそれ以上 いじょう を平気 へいき で飲 の む事 こと があった。しかし家 いえ に帰 かえ っておふくろの蒲団 ふとん を敷 し くまでは乱 みだ れないでいる。ところが敷 し き終 お わって自分 じぶん の部屋 へや に帰 かえ ったら最後 さいご 、酔 よ いが廻 まわ って前後不覚 ぜんごふかく になってしまうんだ。それまではいくら飲 の んでも気持 きも ちはしゃんとしているんだけれどね」と話 はな す事 こと があった。
1939年 ねん 6月 がつ 3日 にち に東京 とうきょう の料亭 りょうてい で開 ひら かれた謝恩 しゃおん 会 かい で尋常 じんじょう 中学 ちゅうがく 時代 じだい の恩師 おんし ・冨田 とみた 小一郎 こいちろう (左 ひだり から二 に 人 にん 目 め )を囲 かこ む板垣 いたがき 征四郎 せいしろう 陸相 りくしょう (最 さい 左 ひだり )、田中 たなか 舘 たて 愛橘 あいきつ 帝 みかど 大 だい 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ (右 みぎ から二 に 人 にん 目 め )、米 べい 内海 うちうみ 相 しょう 。
米 べい 内 ない と陸軍 りくぐん 大将 たいしょう の板垣 いたがき 征四郎 せいしろう は政治 せいじ 的 てき 立場 たちば も思想 しそう も異 こと なったが、同郷 どうきょう (岩手 いわて 県 けん )出身 しゅっしん の先輩 せんぱい 後輩 こうはい ということで公務 こうむ の外 そと ではなにかとウマが合 あ い、お互 たが いを「光 ひか っつぁん」「征 せい っこさん」と呼 よ んでいた。東京 とうきょう の料亭 りょうてい で開 ひら かれた盛岡 もりおか 尋常 じんじょう 中学校 ちゅうがっこう 時代 じだい の恩師 おんし ・冨田 とみた 小一郎 こいちろう への謝恩 しゃおん 会 かい も両 りょう 大臣 だいじん の呼 よ びかけで行 おこな われたもので、他 ほか にも作家 さっか の野村 のむら 胡堂 こどう 、言語 げんご 学者 がくしゃ の金田一 きんだいち 京助 きょうすけ など、冨田 とみた の教 おし え子 ご たちが多 おお く集 たか った。
女性 じょせい によくもてたようで、特 とく に花柳 かりゅう 界 かい では山本 やまもと 五十六 いそろく とともに圧倒的 あっとうてき な人気 にんき があった。長男 ちょうなん の剛 つよし 政 せい は父 ちち の死後 しご 、愛人 あいじん だったと称 しょう する女性 じょせい にあちこちで会 あ ったり、戦争 せんそう 中 ちゅう 主計 しゅけい 士官 しかん として赴任 ふにん 中 ちゅう 上官 じょうかん が年老 としお いた芸者 げいしゃ を連 つ れてきたかと思 おも ったら、「こいつは貴様 きさま の父上 ちちうえ のインチ(馴染 なじ み芸者 げいしゃ )だ」と言 い われたりして困 こま ったという。佐世保 させぼ 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 長官 ちょうかん 退任 たいにん の際 さい 、佐世保 させぼ 駅 えき 周辺 しゅうへん には見送 みおく りに訪 おとず れた芸者 げいしゃ で黒山 くろやま の人 ひと だかりができたといわれている。
「陸奥 みちのく 」艦長 かんちょう 時代 じだい 、艦 かん は呉 ご 軍港 ぐんこう に在 ざい 泊 はく していたのだが東京 とうきょう より娘 むすめ の病死 びょうし の連絡 れんらく が入 はい った。米 べい 内 ない は「艦長 かんちょう として艦 かん は離 はな れがたい用事 ようじ があるので帰京 ききょう はあきらめる。代 か わりの子供 こども は幾 いく らでもできる。」と言 い ったという。
また、横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 長官 ちょうかん 時代 じだい に上海 しゃんはい から米 べい 内 ない を慕 した ってある芸者 げいしゃ が横須賀 よこすか までやって来 き て、現在 げんざい のストーカー のようにつきまとった。周囲 しゅうい は米 べい 内 ない の今後 こんご のこともありその対応 たいおう に苦慮 くりょ するが米 べい 内 ない は彼女 かのじょ に対 たい しても分 わ け隔 へだ てなく接 せっ し、参謀 さんぼう 長 ちょう だった井上 いのうえ 成美 まさみ も「これは男 おとこ と女 おんな の問題 もんだい ですからね」と投 な げ出 だ している。これを聞 き いた横須賀 よこすか の芸者 げいしゃ 衆 しゅ は、「あの堅物 かたぶつ の井上 いのうえ さんがそんなこと言 い うなんて」と目 め を丸 まる くしたという。なおその芸者 げいしゃ は一時期 いちじき 横須賀 よこすか で芸者 げいしゃ をしていたものの、知 し らぬ間 あいだ に横須賀 よこすか から消 き え、それ以後 いご の消息 しょうそく は不明 ふめい だという。
米 べい 内 ない は、日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい 締結 ていけつ 時 じ 、この報 ほう を聞 き いて「われわれの三 さん 国 こく 同盟 どうめい 反対 はんたい は、あたかもナイアガラの流 なが れに逆 さか らって船 ふね をこいでるようなもので、今 いま から見 み ると無駄 むだ な努力 どりょく であった」と嘆息 たんそく し、緒方 おがた 竹虎 たけとら の米 べい 内 ない 、山本 やまもと の海軍 かいぐん が続 つづ いていたなら徹頭徹尾 てっとうてつび 反対 はんたい したかの質問 しつもん に対 たい し「無論 むろん 反対 はんたい したが殺 ころ されていたでしょうね」と述懐 じゅっかい している。
米 べい 内 ない は晩年 ばんねん まで父親 ちちおや が残 のこ した借金 しゃっきん を返済 へんさい していたということがあり、海外 かいがい 駐在 ちゅうざい が多 おお かったのも借金 しゃっきん で生活 せいかつ が苦 くる しいのを見 み かねた同期 どうき が「海外 かいがい に出 で れば手当 てあて が支給 しきゅう され、それだけで現地 げんち の生活 せいかつ が出来 でき る」というはからいによるものであった。功 こう 四 よん 級 きゅう 金鵄勲章 きんしくんしょう の年金 ねんきん も借金 しゃっきん のかたに取 と られてしまっている。また、佐世保 させぼ 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 長官 ちょうかん 時代 じだい にも海軍 かいぐん の福利 ふくり 団体 だんたい に三 さん 千 せん 円 えん の借款 しゃっかん を申 もう し込 こ んでいる。中将 ちゅうじょう で借金 しゃっきん を申 もう し込 こ んだのは前代未聞 ぜんだいみもん で、申 もう し込 こ みを受 う けた理事 りじ (大臣 だいじん 副官 ふっかん が兼務 けんむ )もどう処理 しょり していいのか戸惑 とまど ったという。米 べい 内 ない が借金 しゃっきん を返済 へんさい するのは海軍 かいぐん 大臣 だいじん になってからであり、佐世保 させぼ 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 長官 ちょうかん 時代 じだい に宛 あ てた親友 しんゆう の荒 あら 城 じょう 二郎 じろう 向 む けの手紙 てがみ にも、「(米 べい 内 ない が現職 げんしょく 留任 りゅうにん かもという人事 じんじ 異動 いどう の噂 うわさ が立 た ち)陸上 りくじょう 勤務 きんむ は金 かね がかかるがかといって辞職 じしょく するわけにもいかない。金 かね がないからまた借金 しゃっきん でもするか、ハハハ」と書 か いている。
武見 たけみ 太郎 たろう (後 ご の日本 にっぽん 医師 いし 会 かい 会長 かいちょう )が「開戦 かいせん 前 まえ 、海軍 かいぐん 上層 じょうそう 部 ぶ の見通 みとお しはどうだったんですか。まさか勝 か てると思 おも ってたわけじゃないんでしょう」と聞 き くと、「軍人 ぐんじん というものは、一旦 いったん 命令 めいれい が下 くだ れば戦 たたか うのです」と答 こた え、「陸軍 りくぐん の支配 しはい 下 か に伸 の びて行 い った日本 にっぽん の、偏狭 へんきょう な国粋 こくすい 主義 しゅぎ 思想 しそう は世界 せかい に通用 つうよう するものではなかったけれども、日本 にっぽん には古来 こらい から日本 にっぽん 独自 どくじ の伝統 でんとう 思想 しそう 風習 ふうしゅう がある。その上 うえ にアメリカ流 りゅう の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を無理 むり にのっけようとすると、結局 けっきょく 反動 はんどう が来 く るのではないか。それを心配 しんぱい している。民族 みんぞく のものの考 かんが え方 かた は、戦争 せんそう に負 ま けたからといって、そう一朝一夕 いっちょういっせき に代 か わるものではない」と、GHQ による占領 せんりょう 政策 せいさく を批判 ひはん する発言 はつげん をしたという。それに対 たい し「科学 かがく 技術 ぎじゅつ を振興 しんこう して行 い けば、日本 にっぽん は立 た ち直 なお って新 あたら しい国 くに に生 う まれ変 か わることが出来 でき ると思 おも いますがね」と武見 たけみ が反論 はんろん すると、「国民 こくみん 思想 しそう は科学 かがく 技術 ぎじゅつ より大事 だいじ だよ」と大声 おおごえ をだしたという。米 べい 内 ない の予想 よそう では「日本 にっぽん が本当 ほんとう に復興 ふっこう するまで二 に 百 ひゃく 年 ねん かかる」と述 の べたという。
戦後 せんご 高血圧 こうけつあつ で悩 なや まされた際 さい 、幣 ぬさ 原内 はらうち 閣 かく の外務 がいむ 大臣 だいじん だった吉田 よしだ 茂 しげる から、当時 とうじ 銀座 ぎんざ で開業 かいぎょう していた武見 たけみ 太郎 たろう を紹介 しょうかい された。武見 たけみ は米 べい 内 ない とはほとんど面識 めんしき がなかったが義理 ぎり の祖父 そふ である牧野 まきの 伸 しん 顕 あきら より「あの人 ひと のものの見方 みかた は偏 かたよ った所 ところ が全 まった くない。軍人 ぐんじん であれだけ醒 さ めた見方 みかた をする人 ひと は珍 めずら しい」と常 つね 日 ひ ごろから聞 き かされていた。そして吉田 よしだ から「命 いのち を削 けず ってお国 くに に尽 つ くし日本 にっぽん を救 すく った方 ほう だ。あの方 ほう は金 かね がないからどんなことがあっても絶対 ぜったい に診察 しんさつ 料 りょう は取 と るな」と指示 しじ されていたという。米 べい 内 ない は武見 たけみ の診察 しんさつ を受 う け、「いい医者 いしゃ だよ。薬 くすり をくれずに僕 ぼく に酒 さけ を飲 の んでもいいと言 い ったからね」とすこぶる上機嫌 じょうきげん だったという。米 べい 内 ない の高血圧 こうけつあつ は既 すで に対処 たいしょ 不能 ふのう な段階 だんかい になっていたため酒 さけ が解禁 かいきん されたといわれているが、米 べい 内 ない の晩年 ばんねん は比較的 ひかくてき 穏 おだ やかで、最終 さいしゅう 的 てき には肺炎 はいえん で最期 さいご を迎 むか えている。
山本 やまもと 五十六 いそろく は海軍 かいぐん 次官 じかん として米 べい 内 ない の部下 ぶか だったころに「うちの大臣 だいじん は頭 あたま はそれほどでもない。しかし肝 きも っ玉 たま が備 そな わっているから安心 あんしん だ」というコメントをしている。また、大井 おおい 篤 あつし は米 べい 内 ない の功績 こうせき を評価 ひょうか しつつも『孫子 まごこ 』の「将 しょう は智 さとし ・信 しん ・仁 ひとし ・勇 いさむ ・厳 げん なり」という言葉 ことば を挙 あ げ、「信 しん ・仁 ひとし ・勇 いさむ ・厳 いむ は文句 もんく なしだが智 さとし に関 かん しては問題 もんだい がなかったとは言 い えない」としている。大井 おおい は終戦 しゅうせん 間際 まぎわ の井上 いのうえ 成美 まさみ の大将 たいしょう 昇進 しょうしん 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう に大西 おおにし 瀧 たき 治郎 じろう を就任 しゅうにん させた例 れい を挙 あ げているが、それを井上 いのうえ に言 い ったところ、「大西 おおにし を推薦 すいせん したのはボクだからね」と答 こた えた。これを大井 おおい は「(井上 いのうえ さんは)意図 いと 的 てき に米内 よない さんを庇 かば っている」と批判 ひはん した。
井上 いのうえ 大将 たいしょう は戦後 せんご 、「海軍 かいぐん 大将 たいしょう にも一等 いっとう 大将 たいしょう 、二 に 等 とう 大将 たいしょう 、三 さん 等 とう 大将 たいしょう とある」と述 の べており、文句 もんく なしの一等 いっとう 大将 たいしょう と認 みと めたのは山本 やまもと 権兵衛 ごんべえ ・加藤 かとう 友三郎 ともさぶろう ・米 べい 内 ない の三 さん 人 にん だけであった[注 ちゅう 12] 。井上 いのうえ 成美 まさみ は、「海軍 かいぐん の中 なか で誰 だれ が一番 いちばん でしたか?」の質問 しつもん に「海軍 かいぐん を預 あず かる人 ひと としては米内 よない さんが抜群 ばつぐん に一番 いちばん でした」と語 かた っている。また「包容 ほうよう 力 りょく の極 きわ めて大 おお きい人 ひと だ。米内 よない さんに仕 つか えた者 もの は、誰 だれ でも自分 じぶん が一番 いちばん 信頼 しんらい されているように思 おも いこむ。これが、まさに将 しょう たるものの人徳 にんとく というべきであろう。山本 やまもと さん(山本 やまもと 五十六 いそろく )はよほど米内 よない さんを信頼 しんらい していたようで、『誰 だれ でも長所 ちょうしょ 、短所 たんしょ はあるよ。しかし、あれだけ欠点 けってん がない人 ひと はいない』と言 い っていた」と述懐 じゅっかい している。米 べい 内 ない と親交 しんこう のあった小泉 こいずみ 信三 しんぞう は「国 くに に大事 だいじ が無 な ければ、人目 ひとめ に立 た たないで終 お わった人 ひと 」と米 べい 内 ない を評 ひょう している。大西 おおにし 新蔵 しんくら は「米内 よない さんは、海軍 かいぐん という入 い れ物 もの をはみ出 だ していた大物 おおもの だった」という。保科 ほしな 善四郎 ぜんしろう は「私心 ししん がない人 ひと だ。欲 よく というものが全 まった くない。国 くに の立場 たちば に立 た った欲 よく があるだけだ」と米 べい 内 ない を評 ひょう す。高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち は、「世 よ にいう秀才 しゅうさい タイプでなかったことは事実 じじつ 」「雄弁 ゆうべん も、迫力 はくりょく も、政治 せいじ 的 てき 烱眼もたしかに持 も ち合 あわ せていなかった」「だがその代 かわ り、いつも自分 じぶん の精魂 せいこん を傾 かたむ けて信 しん ずる結論 けつろん だけを最後 さいご までくりかえした」と評 ひょう する。
前田 まえだ 稔 みのる は、「米内 よない さんは老 ろう 荘 そう の風 かぜ があって、これはいけないと思 おも ったら反論 はんろん する人 ひと には誰 だれ であろうと容赦 ようしゃ せず、また自分 じぶん の意見 いけん には絶対 ぜったい に妥協 だきょう しない、あくまで流 なが れに逆 さか らうカミソリみたいな切 き れ味 あじ の井上 いのうえ さん(井上 いのうえ 成美 まさみ )を参謀 さんぼう 長 ちょう として、また次官 じかん として上手 じょうず に包 つつ み込 こ んで使 つか っておられた。一回 ひとまわ り大 おお きな軍政 ぐんせい 家 か でした」と同 おな じような述懐 じゅっかい をしている。
中国 ちゅうごく 文学 ぶんがく 者 しゃ の守屋 もりや 洋 ひろし は『老子 ろうし 』を解説 かいせつ した著書 ちょしょ の中 なか で大山 おおやま 巌 いわお と米 べい 内 ない の名前 なまえ を挙 あ げ、「暗愚 あんぐ に見 み えて実 じつ は智 さとし を内 うち に秘 ひ めている。しかし智 さとし を表面 ひょうめん に見 み せずあくまで暗愚 あんぐ に装 よそお う」「熟慮 じゅくりょ や智謀 ちぼう を超越 ちょうえつ し、その果 は てに達 たっ した無為 むい 自然 しぜん の境地 きょうち を持 も った人物 じんぶつ 」と東洋 とうよう 的 てき リーダーの典型 てんけい として評価 ひょうか をしている。
戦争 せんそう への危機 きき 感 かん が高 たか まる中 なか 、海軍 かいぐん 左派 さは を自認 じにん しながら海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない への意思 いし 浸透 しんとう を怠 おこた ったこと、同 おな じ海軍 かいぐん 左派 さは である山本 やまもと 五十六 いそろく を右翼 うよく 勢力 せいりょく や過激 かげき な青年 せいねん 将校 しょうこう から護 まも るためとして連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に転出 てんしゅつ させたこと、早期 そうき 和平 わへい を主張 しゅちょう して陸軍 りくぐん と対立 たいりつ することの多 おお かった海軍 かいぐん 次官 じかん ・井上 いのうえ 成美 まさみ を1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )5月 がつ に大将 たいしょう に昇進 しょうしん させて次官 じかん を辞任 じにん させ、後任 こうにん 次官 じかん に多田 ただ 武雄 たけお 、軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう に周囲 しゅうい から本土 ほんど 決戦 けっせん 派 は と見 み なされていた保科 ほしな 善四郎 ぜんしろう を置 お き、軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう に徹底 てってい 抗戦 こうせん 派 は の大西 おおにし 瀧 たき 治郎 じろう を就任 しゅうにん させた人事 じんじ などに対 たい する批判 ひはん や非難 ひなん 、また軍政 ぐんせい 家 か ・政治 せいじ 家 か としての力量 りきりょう に疑問 ぎもん を投 な げかける意見 いけん もあった。
敗戦 はいせん 間 あいだ もない1945年 ねん 11月28日 にち の第 だい 89回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい 衆議院 しゅうぎいん 本 ほん 会議 かいぎ にて、反軍 はんぐん 演説 えんぜつ などで知 し られる斎藤 さいとう 隆夫 たかお による軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ に対 たい する軍 ぐん の責任 せきにん を問 と う質問 しつもん への答弁 とうべん において、最後 さいご の陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 下村 しもむら 定 じょう 大将 たいしょう は、陸軍 りくぐん を代表 だいひょう して自 みずか らそのような軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ に陥 おちい って暴走 ぼうそう した陸軍 りくぐん の非 ひ を認 みと め、その原因 げんいん の分析 ぶんせき と共 とも にこれを総括 そうかつ し、国民 こくみん に対 たい して謝罪 しゃざい を行 おこな っている。しかし、下村 しもむら と同 おな じく最後 さいご の海軍 かいぐん 大臣 だいじん としてこの国会 こっかい に立 た った米 べい 内 ない は、(斎藤 さいとう の質問 しつもん には)海軍 かいぐん 大臣 だいじん を対象 たいしょう とした答弁 とうべん が求 もと められておらず、議事 ぎじ 録 ろく にもないことを理由 りゆう に答弁 とうべん に立 た つ事 こと を拒否 きょひ 、米 べい 内 ない は下村 しもむら 陸相 りくしょう とは対照 たいしょう 的 てき に、場内 じょうない の議員 ぎいん 達 たち の憤激 ふんげき を買 か うという一幕 ひとまく があった。
下村 しもむら 率 ひき いる陸軍 りくぐん が組織 そしき としての敗戦 はいせん 責任 せきにん の非 ひ を公的 こうてき な場 ば で認 みと めた一方 いっぽう で、米 べい 内 ない 率 ひき いる海軍 かいぐん はその後 ご の組織 そしき 解体 かいたい に至 いた るまで、敗戦 はいせん 責任 せきにん について組織 そしき として公的 こうてき な分析 ぶんせき と総括 そうかつ 、自省 じせい を行 おこな う事 こと はついになかった。その後 ご 、多 おお くの文化 ぶんか 人 じん により米 べい 内 ない を始 はじ めとする海軍 かいぐん 左派 さは を「良識 りょうしき 派 は 」として大書 たいしょ した傾向 けいこう も相 あい まって、いわゆる陸軍 りくぐん 悪玉 あくだま 論 ろん ・海軍 かいぐん 善玉 ぜんだま 論 ろん が昭和 しょうわ 史 し の上 うえ で定着 ていちゃく する遠因 えんいん ともなったと、自 みずか らの著作 ちょさく すらもそうした傾向 けいこう のあった半藤 はんどう 一利 かずとし をして言 い わしめる事 こと となった[159] 。陸軍 りくぐん 悪玉 あくだま 論 ろん ・海軍 かいぐん 善玉 ぜんだま 論 ろん 自体 じたい は半藤 はんどう を始 はじ めとする海軍 かいぐん 派 は の作家 さっか や、戦史 せんし 研究 けんきゅう 者 しゃ の中 なか ですらも既 すで に一方 いっぽう 的 てき に偏 かたよ った不正確 ふせいかく な主張 しゅちょう であるとみなされているが、海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい が公的 こうてき に「海軍 かいぐん の後裔 こうえい 」たる事 こと を公言 こうげん する事 こと が日本 にっぽん 社会 しゃかい が受容 じゅよう している一方 いっぽう で、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい は同様 どうよう の主張 しゅちょう は控 ひか えめに行 おこな う傾向 けいこう にあるなど、2020年代 ねんだい 現在 げんざい に至 いた るまで日本 にっぽん 国民 こくみん の印象 いんしょう の中 なか に極 きわ めて強 つよ い影響 えいきょう を残 のこ し続 つづ けている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
アメリカのタイム誌 し は、海軍 かいぐん 大臣 だいじん のとき[160] と総理 そうり のとき[161] の二 に 度 ど にわたって米 べい 内 ない の特集 とくしゅう 記事 きじ を組 く んでおり、いずれも表紙 ひょうし を飾 かざ るカバーパーソン として扱 あつか っている。
[162]
位階 いかい
勲章 くんしょう など
外国 がいこく 勲章 くんしょう 佩用 はいよう 允許 いんきょ
米 べい 内 ない 家 か は摂津 せっつ 国 こく 大坂 おおさか から盛岡 もりおか に移住 いじゅう し、南部 なんぶ 信 しん 直 ただし に仕 つか えた宮崎 みやざき 庄兵衛 しょうべえ 勝良 かつよし を祖 そ とし、三 さん 代目 だいめ 傳 でん 左衛門 さえもん 秀政 ひでまさ の時 とき に祖母 そぼ で勝 かつ 良 りょう の妻 つま 方 かた の姓 せい 「米 べい 内 ない 」を名乗 なの るようになった。この「米 べい 内 ない 」は祖母 そぼ の出身 しゅっしん 地 ち が出雲 いずも 国 こく 米 べい 内郷 うちごう から来 く るもので、本来 ほんらい の陸奥 みちのく 国 こく の米内 よない 氏 し の一族 いちぞく ではない。しかし、陸奥 みちのく 在住 ざいじゅう の縁 えん で次第 しだい に陸奥 むつ 米 べい 内 ない 氏 し の一族 いちぞく であるかのように自覚 じかく し、また周囲 しゅうい からもそのように評価 ひょうか されて幕末 ばくまつ に至 いた った。
陸奥 むつ 米 べい 内 ない 氏 し は一方 いっぽう 井 い 氏 し の分家 ぶんけ 筋 すじ にあたり、一方井 いちかたい 氏 し は俘囚 ふしゅう 長 なが 安倍 あべ 頼 よりゆき 良 りょう ・貞 さだ 任 にん 父子 ふし の末裔 まつえい であることから、米内 よない 光政 みつまさ も自身 じしん を安倍貞任 あべのさだとう の末裔 まつえい だと称 しょう していた。
三 さん 女 じょ 和子 わこ が元 もと 竹中工務店 たけなかこうむてん 会長 かいちょう の竹中 たけなか 錬 ね 一 いち に嫁 とつ いでいる[189] 。
┏竹 ちく 中藤 なかとう 右 みぎ 衛門 えもん ━━┳寿美 としみ
┃ ┃
┃ ┣竹中 たけなか 宏 ひろし 平 ひら
┃ ┃ ┣━━竹中 たけなか 祐二 ゆうじ
┗竹 ちく 中藤 なかとう 五郎 ごろう ┃ りゅう子 し ┃
┃ ┃
┃竹下 たけした 登 のぼる ━━━━公子 こうし
┃(首相 しゅしょう )
┃
┃(15代 だい )
┗竹 ちく 中 ちゅう 錬 ね 一 いち
┣━━━竹 ちく 中 ちゅう 統一 とういつ
米内 よない 光政 みつまさ ━━━┳和子 わこ
(首相 しゅしょう ) ┃
┗米内 よない 剛 つよし 政 せい
参考 さんこう : 佐藤 さとう 朝 ちょう 泰 たい 「竹中 たけなか 家 か を中心 ちゅうしん とする閨 ねや 閥 ばつ 地図 ちず 」『豪 ごう 閥 ばつ 地方 ちほう 豪族 ごうぞく のネットワーク』立 たて 風 ふう 書房 しょぼう 、2001年 ねん 、214-215頁 ぺーじ 。ISBN 978-4-651-70079-3 。
映画 えいが
テレビドラマ
テレビアニメ
^ ただし、『新 しん 岩手 いわて 人 じん 』によれば、海軍 かいぐん 省 しょう に着任 ちゃくにん しての第一声 だいいっせい の中 なか で「たゞ僕 ぼく 個人 こじん としては武人 ぶじん として最大 さいだい の名誉 めいよ たる聯合 れんごう 艦隊 かんたい の司令 しれい 長官 ちょうかん から一 いち 個 こ の軍属 ぐんぞく に過 す ぎない海軍 かいぐん 大臣 だいじん などになるのはいやだ」と言 い う一方 いっぽう で「然 しか しそれでは卑怯 ひきょう だと言 げん はれては武人 ぶじん の屈辱 くつじょく だから御 ご 引受 ひきう けしたのだ」とも述 の べている[57] 。
^ 倒閣 とうかく は陸軍 りくぐん だけが考 かんが えた訳 わけ ではない。6月7日 にち に立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい 正統 せいとう 派 は 総裁 そうさい 久原 くはら 房之助 ふさのすけ が同様 どうよう の要求 ようきゅう を行 おこな って拒絶 きょぜつ されると、内閣 ないかく 参議 さんぎ を辞職 じしょく して松野 まつの 鶴 づる 平 ひらた 鉄道 てつどう 大臣 だいじん ら閣僚 かくりょう ・政務 せいむ 官 かん の引揚を通告 つうこく した。だが、政党 せいとう 派 は 内部 ないぶ では久原 くはら のように新 しん 体制 たいせい 運動 うんどう を支持 しじ する意見 いけん と鳩山 はとやま 一郎 いちろう のように立憲 りっけん 民政 みんせい 党 とう と合同 ごうどう してでも政党 せいとう 政治 せいじ を守 まも るべきとの意見 いけん が対立 たいりつ しており、鳩山 はとやま 側 がわ の松野 まつの が辞任 じにん に同調 どうちょう しなかったことと、新 しん 体制 たいせい 運動 うんどう を進 すす めていた近衛 このえ の側近 そっきん 達 たち からも久原 くはら の行動 こうどう を時期 じき 尚早 しょうそう として相手 あいて にされなかったため、最終 さいしゅう 的 てき に久原 くはら 1人 ひとり が辞任 じにん した。
^ 畑 はたけ は当時 とうじ の参謀 さんぼう 総長 そうちょう だった閑院宮 みや 載 の 仁 じん 親王 しんのう から陸相 りくしょう を辞任 じにん するように迫 せま られ、皇族 こうぞく への忠誠 ちゅうせい 心 しん が厚 あつ かった畑 はたけ はその命令 めいれい を拒否 きょひ することができなかった。「閑院宮 みや の顔 かお を立 た てたい」と考 かんが えていた一方 いっぽう で、どうしても内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく を回避 かいひ したかった畑 はたけ は、米 べい 内 ない に対 たい して辞表 じひょう を提出 ていしゅつ しても受理 じゅり しないよう内密 ないみつ に話 はなし をつけていたが、米 べい 内 ない は辞表 じひょう を受理 じゅり した。
^ 井上 いのうえ は後 のち に「貫禄 かんろく 負 ま けでした」と述 の べている。[要 よう 出典 しゅってん ] 東條 とうじょう 内閣 ないかく 末期 まっき から米内 よない 邸 てい に日参 にっさん していた中山 なかやま 定義 さだよし によると、大臣 だいじん 就任 しゅうにん 前 まえ から「井上 いのうえ はいいな」とつぶやいたことがあり、中山 なかやま は「米 べい 内 ない が大臣 だいじん に復帰 ふっき したら、次官 じかん は必 かなら ず井上 いのうえ だ」という感触 かんしょく を得 え ていた[96] 。
^ この経緯 けいい を後年 こうねん 井上 いのうえ は「ワンマン次官 じかん 、いけなかったかしら」と述懐 じゅっかい している[104] 。海軍 かいぐん 省 しょう が作成 さくせい した大臣 だいじん 候補 こうほ は井上 いのうえ であり、人事 じんじ 局 きょく が作成 さくせい した案 あん に「大臣 だいじん 井上 いのうえ 」と書 か かれた書類 しょるい を見 み た井上 いのうえ は「自分 じぶん が大臣 だいじん に不 ふ 適格 てきかく であることは自分 じぶん がいちばんよくわかっている。何 なに としてでも米内 よない さんにやっていただく」とハンコを押 お さず却下 きゃっか した。
^ のちに米 べい 内 ない と共 とも に内閣 ないかく で終戦 しゅうせん を主張 しゅちょう する外務 がいむ 大臣 だいじん ・東郷 とうごう 茂徳 しげのり は当初 とうしょ どっちつかずの態度 たいど で、日記 にっき に「外務省 がいむしょう は今 いま の状況 じょうきょう をわかっているのか」と苛立 いらだ ちを書 か きしているが、米 べい 内 ない の地道 じみち な説得 せっとく で和平 わへい へと傾 かたむ いたといわれている。東郷 とうごう が和平 わへい を主張 しゅちょう し出 だ した後 のち は「東郷 とうごう 君 くん がすべて(私 わたし が言 い いたいことを)主張 しゅちょう してくれているから私 わたし からは何 なに も言 い うことはない」と言 い って表 ひょう だって発言 はつげん することはなくなった。ただし、東郷 とうごう の方 ほう もメモの中 なか で5月11日 にち の戦争 せんそう 最高 さいこう 指導 しどう 会議 かいぎ 構成 こうせい 員 いん 会合 かいごう においで米 まい 内 ない がソ連 それん を仲介 ちゅうかい として軍事 ぐんじ 物資 ぶっし を獲得 かくとく できないかとする提案 ていあん を行 おこな ったことに「そのような余地 よち は無 な い」と主張 しゅちょう して米 べい 内 ない の現状 げんじょう のソ連 それん に対 たい する認識 にんしき の甘 あま さを批判 ひはん した上 うえ で和平 わへい の仲介 ちゅうかい 以外 いがい 望 のぞ むべきではないと説 と いたことが記 しる されており、米 べい 内 ない ・東郷 とうごう ともに相手 あいて の和平 わへい に対 たい する考 かんが えを探 さぐ っていた段階 だんかい にあったとも捉 とら えられている。
^ 元々 もともと 、米 べい 内 ない と阿南 あなみ は気質 きしつ 的 てき な部分 ぶぶん でなかなか反 そ りが合 あ わず、竹下 たけした 正彦 まさひこ 陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ は戦後 せんご 「率直 そっちょく に言 い って、阿南 あなみ は米 べい 内 ない が嫌 きら いだった。阿南 あなん は鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 首相 しゅしょう に対 たい しては、愛敬 あいきょう の念 ねん 非常 ひじょう に深 ふか いものがあったが、米 べい 内 ない をほめた言葉 ことば を聞 き いたことがない」と述懐 じゅっかい しており、米 べい 内 ない も小島 こじま 秀雄 ひでお 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう に対 たい して「阿南 あなみ について人 ひと は色々 いろいろ 言 い うが、自分 じぶん には阿南 あなみ という人物 じんぶつ はとうとう分 わ からずじまいだった」と語 かた っている阿川 あがわ 弘之 ひろゆき 1982 。また、終戦 しゅうせん の玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう の原稿 げんこう についても、「戦 せん 勢 ぜい 日 び ニ非 ひ ニシテ」を「これでは戦争 せんそう に負 ま けているように聞 き こえる」という阿南 あなみ に対 たい して、「現 げん に負 ま けているではないか」とい返 いかえ す米 べい 内 ない でいいになったこともあったという。会議 かいぎ 中 ちゅう に中座 ちゅうざ する際 さい 、米 べい 内 ない は迫水 さこみず 久常 ひさつね に絶対 ぜったい に修正 しゅうせい を認 みと めないよう指示 しじ した。しかし会議 かいぎ に戻 もど ってきた米 べい 内 ない は鈴木 すずき の仲介 ちゅうかい で修正 しゅうせい を受 う け入 い れ、「戦局 せんきょく 必スシモ好転 こうてん セス」と改 あらた められた。
^ 知人 ちじん が米 べい 内 ない 宅 たく を訪 たず ねた時 とき 、寝具 しんぐ などの荷物 にもつ を全 すべ てまとめており「(収監 しゅうかん される)準備 じゅんび はできているよ」と笑顔 えがお で答 こた えたという。
^ 血圧 けつあつ は最高 さいこう 260、収縮 しゅうしゅく 時 じ でも230ほどで心臓 しんぞう が肥大 ひだい し背骨 せぼね に接触 せっしょく していた程 ほど で、戦前 せんぜん の豊頬 ほうきょう が見 み る影 かげ もなく痩 や せ細 ほそ っていた。
^ 昭和 しょうわ 16年 ねん (1941年 ねん )10月 がつ に近衛 このえ 文麿 ふみまろ が内閣 ないかく を投 な げ出 だ すと、後継 こうけい 首班 しゅはん を決 き める重臣 じゅうしん 会議 かいぎ では及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう 海 うみ 相 しょう も総理 そうり 候補 こうほ として名 な も上 のぼ ったが、これに猛 もう 反対 はんたい して潰 つぶ したのが米 べい 内 ない と岡田 おかだ 啓介 けいすけ で、もう一人 ひとり の候補 こうほ だった東條 とうじょう はこの海軍 かいぐん の「消極 しょうきょく 的 てき 賛成 さんせい 」のおかげで次期 じき 首班 しゅはん に選 えら ばれたという経緯 けいい があった。
^ 山田 やまだ 風 かぜ 太郎 たろう は、米 べい 内 ない はこのような腹芸 はらげい をするタイプではなく、通訳 つうやく がいい加減 かげん だった為 ため に頓珍漢 とんちんかん なやり取 と りになったのではないかと記 しる している[122] 。また、そもそも米 べい 内内 うちうち 閣 かく 倒閣 とうかく を推進 すいしん した一派 いっぱ が参謀 さんぼう 総長 そうちょう の閑院宮 みや 載 の 仁 じん 親王 しんのう を御輿 みこし に担 かつ いでいたため、米 べい 内 ない は皇室 こうしつ に累 るい を及 およ ぼすことを恐 おそ れて実状 じつじょう を口 くち にすることを避 さ けたともいわれている。しかし他 た の検事 けんじ 団 だん も概 おおむ ね米 べい 内 ない を評価 ひょうか しており、ある若 わか い検事 けんじ が米 べい 内 ない の後姿 うしろすがた を見 み て「ナイス・アドミラル(nice admiral)」と言 い っていたのを、『一 いち 軍人 ぐんじん の生涯 しょうがい 提督 ていとく ・米内 よない 光政 みつまさ 』を書 か いた緒方 おがた 竹虎 たけとら は聞 き いている。畑 はたけ はその米 べい 内 ない の態度 たいど について、「米 べい 内内 うちうち 閣 かく は陸相 りくしょう たる私 わたし の辞職 じしょく により総 そう 辞職 じしょく の止 や む無 な きに至 いた った。(中略 ちゅうりゃく )誠 まこと に申 もう し訳 わけ ないことだったと自責 じせき の念 ねん に駆 か られている。(中略 ちゅうりゃく )その後 ご 大将 たいしょう はこんなことを根 ね にも持 も たれないで私 わたし に対 たい する友情 ゆうじょう も少 すこ しも変 か わらなかったことは、私 わたし が常々 つねづね 敬服 けいふく するところである。(中略 ちゅうりゃく )[東京 とうきょう 裁判 さいばん にて] 毅然 きぜん として私 わたし の弁護 べんご のために法廷 ほうてい に立 た たれ、裁判 さいばん 長 ちょう の追及 ついきゅう 批判 ひはん も物 もの ともせず、徹頭徹尾 てっとうてつび 私 わたし が米 べい 内内 うちうち 閣 かく 倒閣 とうかく の張本人 ちょうほんにん ではなかったことを弁護 べんご されたことは、私 わたし の感銘 かんめい するところである。(中略 ちゅうりゃく )この一事 いちじ は故 こ 大将 たいしょう の高潔 こうけつ なる人格 じんかく を象徴 しょうちょう して余 あま りあるものと信 しん ずる」と米 べい 内 ない の銅像 どうぞう が盛岡 もりおか に建 た てられた際 さい に編纂 へんさん された『米内 よない 光政 みつまさ 追想 ついそう 録 ろく 』に手記 しゅき として残 のこ している。
^ 山本 やまもと 五十六 いそろく を条件 じょうけん 付 つ きの一等 いっとう 大将 たいしょう と格付 かくづ けしている
^ 佐々木 ささき は米 べい 内 ない と同 おな じ岩手 いわて 県 けん 出身 しゅっしん でアニメでも東北 とうほく 訛 なま りで演 えん じている。
参考 さんこう 文献 ぶんけん ・関連 かんれん 文献 ぶんけん [ 編集 へんしゅう ]
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2015年 ねん 2月 がつ )
書籍 しょせき
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