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ぬさ原内はらうちかく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ぬさ原内はらうちかく
国会こっかいまえ記念きねん撮影さつえいする閣僚かくりょう
(1945ねん10がつ9にち
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん だい44だい ぬさはら喜重郎きじゅうろう
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1945ねん昭和しょうわ20ねん10月9にち
終了しゅうりょう年月日ねんがっぴ 1946ねん昭和しょうわ21ねん5月22にち
与党よとう支持しじ基盤きばん 挙国一致きょこくいっちないかく
施行しこうした選挙せんきょ だい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ
衆議院しゅうぎいん解散かいさん 1945ねん昭和しょうわ20ねん12月18にち
終戦しゅうせん解散かいさん
内閣ないかく閣僚かくりょう名簿めいぼ首相しゅしょう官邸かんてい
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ぬさ原内はらうちかく(しではらないかく)は、男爵だんしゃくぬさはら喜重郎きじゅうろうだい44だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん任命にんめいされ、1945ねん昭和しょうわ20ねん10月9にちから1946ねん昭和しょうわ21ねん5月22にちまでつづいた日本にっぽん内閣ないかく

内閣ないかくかおぶれ・人事じんじ[編集へんしゅう]

内閣ないかく発足ほっそく[編集へんしゅう]

国務大臣こくむだいじん[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ9にち任命にんめい[1]在職ざいしょく日数にっすう97にち

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 44 ぬさはら喜重郎きじゅうろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
同和どうわかい
男爵だんしゃく
だいいち復員ふくいん大臣だいじん
だい復員ふくいん大臣だいじん兼任けんにん
外務がいむ大臣だいじん 65 吉田よしだしげる 外務省がいむしょう→)
貴族きぞくいん[注釈ちゅうしゃく 1]
無所属むしょぞく
会派かいは
留任りゅうにん
内務ないむ大臣だいじん 63 堀切ほりきり善次郎ぜんじろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
はつ入閣にゅうかく
大蔵おおくら大臣だいじん 49 澁澤しぶさわ敬三けいぞう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
子爵ししゃく
はつ入閣にゅうかく
陸軍りくぐん大臣だいじん 33 下村しもむらじょう 陸軍りくぐん大将たいしょう
りくだい28
留任りゅうにん
1945ねん12月1にちめん
陸軍りくぐんしょう廃止はいし 1945ねん12月1にちづけ
だいいち復員ふくいん大臣だいじん だいいち復員ふくいんしょう設置せっち 1945ねん12月1にち設置せっち
1 ぬさはら喜重郎きじゅうろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
同和どうわかい
男爵だんしゃく
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だい復員ふくいん大臣だいじん兼任けんにん
1945ねん12月1にちにん
海軍かいぐん大臣だいじん 24 米内よない光政みつまさ 海軍かいぐん大将たいしょう
うみだい甲種こうしゅ12
留任りゅうにん
1945ねん12月1にちめん
海軍かいぐんしょう廃止はいし 1945ねん12月1にちづけ
だい復員ふくいん大臣だいじん だい復員ふくいんしょう設置せっち 1945ねん12月1にち設置せっち
1 ぬさはら喜重郎きじゅうろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
同和どうわかい
男爵だんしゃく
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だいいち復員ふくいん大臣だいじん兼任けんにん
1945ねん12月1にちにん
司法しほう大臣だいじん 46 岩田いわたちゅうづくり 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
同和どうわかい
留任りゅうにん
文部もんぶ大臣だいじん 59 前田まえだ多門たもん 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
どうなりかい
留任りゅうにん
厚生こうせい大臣だいじん 14 芦田あしだひとし 衆議院しゅうぎいん
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん自由党じゆうとう
はつ入閣にゅうかく
農林のうりん大臣だいじん 2 松村まつむら謙三けんぞう 衆議院しゅうぎいん
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん進歩しんぽとう
留任りゅうにん
商工しょうこう大臣だいじん 26 小笠原おがさわらさんきゅうろう 衆議院しゅうぎいん
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん進歩しんぽとう
はつ入閣にゅうかく
運輸うんゆ大臣だいじん 2 田中たなか武雄たけお 衆議院しゅうぎいん
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん進歩しんぽとう
はつ入閣にゅうかく
国務大臣こくむだいじん - 小林こばやし一三かずみ 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
無所属むしょぞく倶楽部くらぶ
戦災せんさい復興ふっこういん総裁そうさい[注釈ちゅうしゃく 2] 1945ねん10がつ30にちにん[2]
国務大臣こくむだいじん - 松本まつもと烝治 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
無所属むしょぞく倶楽部くらぶ
憲法けんぽう問題もんだい調査ちょうさ委員いいんかい委員いいんちょう
国務大臣こくむだいじん - だい三郎さぶろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
どうなりかい
内閣ないかく書記官しょきかんちょう兼任けんにん はつ入閣にゅうかく
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

内閣ないかく書記官しょきかんちょう法制ほうせいきょく長官ちょうかんほか[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ9にち任命にんめい[1]

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく書記官しょきかんちょう 53 だい三郎さぶろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
どうなりかい
国務大臣こくむだいじん兼任けんにん
法制ほうせいきょく長官ちょうかん 45 なら橋渡はしわたし 衆議院しゅうぎいん
無所属むしょぞく
内閣ないかくふく書記官しょきかんちょう - 三好みよし重夫しげお 内務省ないむしょう
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

政務次官せいむじかん[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ31にち任命にんめい[3]

職名しょくめい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 備考びこう
外務がいむ政務次官せいむじかん いぬやしなえけん 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
内務ないむ政務次官せいむじかん 川崎かわさきまつ五郎ごろう 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
大蔵おおくら政務次官せいむじかん ゆかりたに義治よしはる 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
陸軍りくぐん政務次官せいむじかん 宮崎みやざきはじめ 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう 1945ねん11月30にちめん
陸軍りくぐんしょう廃止はいし 1945ねん12月1にちづけ
だいいち復員ふくいん政務次官せいむじかん だいいち復員ふくいんしょう設置せっち 1945ねん12月1にち設置せっち
宮崎みやざきはじめ 衆議院しゅうぎいん日本にっぽん進歩しんぽとう 1945ねん12月1にちにん
海軍かいぐん政務次官せいむじかん 田中たなか亮一りょういち 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん自由党じゆうとう 1945ねん11月30にちめん
海軍かいぐんしょう廃止はいし 1945ねん12月1にちづけ
だい復員ふくいん政務次官せいむじかん だいいち復員ふくいんしょう設置せっち 1945ねん12月1にち設置せっち
田中たなか亮一りょういち 衆議院しゅうぎいん日本にっぽん自由党じゆうとう 1945ねん12月1にちにん
1945ねん12月26にち死亡しぼうかけかけ
欠員けついん 1945ねん12月26にちから
司法しほう政務次官せいむじかん 手代木てしろぎ隆吉りゅうきち 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
文部もんぶ政務次官せいむじかん 欠員けついん 1945ねん11月6にちまで
三島みしまどおり 貴族きぞくいん無所属むしょぞく研究けんきゅうかい 1945ねん11月6にちにん[4]
農林のうりん政務次官せいむじかん べにあきら 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
商工しょうこう政務次官せいむじかん 木暮こぐれたけし太夫たゆう 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
運輸うんゆ政務次官せいむじかん 新井あらい堯爾 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん自由党じゆうとう
厚生こうせい政務次官せいむじかん 矢野やの庄太郎しょうたろう 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん自由党じゆうとう


参与さんよかん[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ31にち任命にんめい[3]

職名しょくめい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 備考びこう
外務がいむ参与さんよかん 松浦まつうら周太郎しゅうたろう 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
内務ないむ参与さんよかん なか助松すけまつ 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん自由党じゆうとう
大蔵おおくら参与さんよかん 山本やまもと粂吉くめきち 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
陸軍りくぐん参与さんよかん 野口のぐち喜一きいち 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん自由党じゆうとう 1945ねん11月30にちめん
陸軍りくぐんしょう廃止はいし 1945ねん12月1にちづけ
だいいち復員ふくいん参与さんよかん だいいち復員ふくいんしょう設置せっち 1945ねん12月1にち設置せっち
野口のぐち喜一きいち 衆議院しゅうぎいん日本にっぽん自由党じゆうとう 1945ねん12月1にちにん
海軍かいぐん参与さんよかん 星野ほしの靖之助せいのすけ 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)無所属むしょぞく倶楽部くらぶ 1945ねん11月30にちめん
海軍かいぐんしょう廃止はいし 1946ねん12月1にちづけ
だい復員ふくいん参与さんよかん だい復員ふくいんしょう設置せっち 1945ねん12月1にち設置せっち
星野ほしの靖之助せいのすけ 衆議院しゅうぎいん無所属むしょぞく倶楽部くらぶ 1945ねん12月1にちにん
司法しほう参与さんよかん 渡邉わたなべあきら 貴族きぞくいん無所属むしょぞく研究けんきゅうかい
文部もんぶ参与さんよかん 森田もりた重次郎しげじろう 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
農林のうりん参与さんよかん 北条ほうじょう雋八 貴族きぞくいん無所属むしょぞく研究けんきゅうかい
商工しょうこう参与さんよかん 欠員けついん 1945ねん11月6にちまで
山根やまね健男たけお 貴族きぞくいん無所属むしょぞく公正こうせいかい 1945ねん11月6にちにん
運輸うんゆ参与さんよかん 白川しらかわ久雄ひさお 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん進歩しんぽとう
厚生こうせい参与さんよかん 田中たなか和一郎かずいちろう 衆議院しゅうぎいん/(無所属むしょぞく→)日本にっぽん自由党じゆうとう

内閣ないかく改造かいぞう[編集へんしゅう]

国務大臣こくむだいじん[編集へんしゅう]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ13にち任命にんめい[5]在職ざいしょく日数にっすう130にち通算つうさん226にち)。

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 44 ぬさはら喜重郎きじゅうろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん進歩しんぽとう
同和どうわかい
男爵だんしゃく
だいいち復員ふくいん大臣だいじん
だい復員ふくいん大臣だいじん兼任けんにん
留任りゅうにん
外務がいむ大臣だいじん 56 吉田よしだしげる 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
留任りゅうにん
内務ないむ大臣だいじん 64 三土みつち忠造ちゅうぞう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
運輸うんゆ大臣だいじん兼任けんにん[注釈ちゅうしゃく 3]
大蔵おおくら大臣だいじん 49 澁澤しぶさわ敬三けいぞう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
子爵ししゃく
留任りゅうにん
だいいち復員ふくいん大臣だいじん 1 ぬさはら喜重郎きじゅうろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん進歩しんぽとう
同和どうわかい
男爵だんしゃく
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だい復員ふくいん大臣だいじん兼任けんにん
留任りゅうにん
だい復員ふくいん大臣だいじん 1 ぬさはら喜重郎きじゅうろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん進歩しんぽとう
同和どうわかい
男爵だんしゃく
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だいいち復員ふくいん大臣だいじん兼任けんにん
留任りゅうにん
司法しほう大臣だいじん 46 岩田いわたちゅうづくり 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
同和どうわかい
留任りゅうにん
文部もんぶ大臣だいじん 60 安倍あべ能成よしなり 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
どうなりかい
はつ入閣にゅうかく
厚生こうせい大臣だいじん 14 芦田あしだひとし 衆議院しゅうぎいん
日本にっぽん自由党じゆうとう
留任りゅうにん
農林のうりん大臣だいじん 3 副島そえじま千八せんぱち 民間みんかん[注釈ちゅうしゃく 4] はつ入閣にゅうかく
商工しょうこう大臣だいじん 2 小笠原おがさわらさんきゅうろう 衆議院しゅうぎいん
日本にっぽん進歩しんぽとう
留任りゅうにん
運輸うんゆ大臣だいじん 3 三土みつち忠造ちゅうぞう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
内務ないむ大臣だいじん兼任けんにん[注釈ちゅうしゃく 3] 1946ねん1がつ26にちめん
4 村上むらかみ義一ぎいち 鉄道てつどういん はつ入閣にゅうかく
1946ねん1がつ26にちにん
国務大臣こくむだいじん - 小林こばやし一三かずみ 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
無所属むしょぞく倶楽部くらぶ
戦災せんさい復興ふっこういん総裁そうさい 留任りゅうにん
1946ねん3がつ9にちめん
国務大臣こくむだいじん - だい三郎さぶろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
どうなりかい
留任りゅうにん
国務大臣こくむだいじん - なら橋渡はしわたし 衆議院しゅうぎいん
無所属むしょぞく
内閣ないかく書記官しょきかんちょう兼任けんにん はつ入閣にゅうかく
1946ねん2がつ26にちにん
国務大臣こくむだいじん - 石黑いしぐろ武重たけしげ 農林省のうりんしょう 法制ほうせいきょく長官ちょうかん兼任けんにん はつ入閣にゅうかく
1946ねん2がつ26にちにん
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

内閣ないかく書記官しょきかんちょう法制ほうせいきょく長官ちょうかんほか[編集へんしゅう]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ13にち任命にんめい[5]

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく書記官しょきかんちょう 54 なら橋渡はしわたし 衆議院しゅうぎいん
無所属むしょぞく
国務大臣こくむだいじん兼任けんにん
法制ほうせいきょく長官ちょうかん 46 石黑いしぐろ武重たけしげ 農林省のうりんしょう 国務大臣こくむだいじん兼任けんにん 1946ねん3月19にちめん
47 入江いりえ俊郎としお 法制ほうせいきょく→)
貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
同和どうわかい
1946ねん3がつ19にちにん
内閣ないかくふく書記官しょきかんちょう - 欠員けついん 1946ねん3月2にちまで
- 木内きうち四郎しろう 大蔵省おおくらしょう 1946ねん3がつ2にち就任しゅうにん
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

政務次官せいむじかん[編集へんしゅう]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ26にち留任りゅうにん

職名しょくめい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 備考びこう
外務がいむ政務次官せいむじかん いぬやしなえけん 衆議院しゅうぎいん日本にっぽん進歩しんぽとう 留任りゅうにん
内務ないむ政務次官せいむじかん 川崎かわさきまつ五郎ごろう 衆議院しゅうぎいん日本にっぽん進歩しんぽとう 留任りゅうにん
大蔵おおくら政務次官せいむじかん ゆかりたに義治よしはる 衆議院しゅうぎいん日本にっぽん進歩しんぽとう 留任りゅうにん
だいいち復員ふくいん政務次官せいむじかん 欠員けついん
だい復員ふくいん政務次官せいむじかん 欠員けついん
司法しほう政務次官せいむじかん 欠員けついん
文部もんぶ政務次官せいむじかん 三島みしまどおり 貴族きぞくいん無所属むしょぞく研究けんきゅうかい 留任りゅうにん
農林のうりん政務次官せいむじかん 欠員けついん
商工しょうこう政務次官せいむじかん 欠員けついん
運輸うんゆ政務次官せいむじかん 欠員けついん
厚生こうせい政務次官せいむじかん 欠員けついん

参与さんよかん[編集へんしゅう]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ26にち留任りゅうにん

職名しょくめい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 備考びこう
外務がいむ参与さんよかん 欠員けついん
内務ないむ参与さんよかん 欠員けついん
大蔵おおくら参与さんよかん 欠員けついん
だいいち復員ふくいん参与さんよかん 野口のぐち喜一きいち 衆議院しゅうぎいん日本にっぽん自由党じゆうとう 留任りゅうにん
だい復員ふくいん参与さんよかん 星野ほしの靖之助せいのすけ 衆議院しゅうぎいん無所属むしょぞく倶楽部くらぶ 留任りゅうにん
司法しほう参与さんよかん 欠員けついん
文部もんぶ参与さんよかん 欠員けついん
農林のうりん参与さんよかん 欠員けついん
商工しょうこう参与さんよかん 欠員けついん
運輸うんゆ参与さんよかん 欠員けついん
厚生こうせい参与さんよかん 欠員けついん

勢力せいりょく早見はやみひょう[編集へんしゅう]

内閣ないかく発足ほっそく当初とうしょぜん内閣ないかく事務じむ引継ひきつぎのぞく)。

名称めいしょう 勢力せいりょく 国務大臣こくむだいじん 政務次官せいむじかん 参与さんよかん その
にほんしんほとう日本にっぽん進歩しんぽとうけい 273 3 6 4 衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう
にほんしゆうとう日本にっぽん自由党じゆうとうけい 46 1 4 3
くんしん軍人ぐんじん - 2 0 0
かんりよう官僚かんりょう - 1 0 0
とうせいかいどうなりかい 22 2 0 0 内閣ないかく書記官しょきかんちょう
けんきゆうかい研究けんきゅうかい 158 1 1 2 貴族きぞくいん議長ぎちょう
こうせいかい公正こうせいかい 67 2 0 1
とうわかい同和どうわかい 26 2 0 0 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
むしよそくくらふ衆議院しゅうぎいん無所属むしょぞく倶楽部くらぶ 92 0 0 1
むしよそくくらふ貴族きぞくいん無所属むしょぞく倶楽部くらぶ 30 2 0 0
むしよそく会派かいは - 0 0 0 法制ほうせいきょく長官ちょうかん
714 15 11 11

内閣ないかくうご[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん10月5にちひがし久邇くに宮内くないかくひがし久邇くにみや稔彦としひこおう首相しゅしょう)のそう辞職じしょくけ、昭和しょうわ天皇てんのう依頼いらいけた内大臣ないだいじん木戸きど幸一こういち中心ちゅうしんとなり、もと首相しゅしょう平沼ひらぬま騏一郎きいちろう枢密院すうみついん議長ぎちょう吉田よしだしげる外相がいしょうらの協力きょうりょくによりぬさはら喜重郎きじゅうろう次期じき首相しゅしょうえらばれ、10月6にち組閣そかく大命たいめいぬさばらくだ10月9にちぬさ原内はらうちかく成立せいりつした。当時とうじ日本にっぽんは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく中心ちゅうしんとする連合れんごうこくぐん占領せんりょうにあり、10月11にちにはぬさばら訪問ほうもんけたダグラス・マッカーサーにより大改革だいかいかく憲法けんぽう自由じゆう主義しゅぎ示唆しさされるなど(日本にっぽん戦後せんご改革かいかく)、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ/SCAP)の強大きょうだい影響えいきょうにあった。

ぬさ原内はらうちかく憲法けんぽう改正かいせい社会しゃかい立法りっぽう一方いっぽう終戦しゅうせんから4ヶ月かげつ12月18にち戦後せんごはじめての衆議院しゅうぎいん解散かいさんをした。これは戦時せんじしょく一掃いっそうはかったものとみなされているが、GHQはぬさ原内はらうちかく改革かいかくみが消極しょうきょくてきだとして、同年どうねんのうちに財閥ざいばつ解体かいたいなどの急進きゅうしんてき改革かいかく戦犯せんぱん逮捕たいほ終戦しゅうせんはつそう選挙せんきょ期日きじつ延期えんきなどを指示しじした。1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ4にちには公職こうしょく追放ついほうれい発布はっぷされ、これにより内閣ないかく自体じたいそう辞職じしょく危機ききむかえたが、1がつ13にち一部いちぶ閣僚かくりょうえる[6]ことにより内閣ないかく存続そんぞくし、そう選挙せんきょ時期じき3月15にち以降いこう実施じっし許可きょかをGHQよりた。このあいだ内大臣ないだいじん廃止はいしされ、また陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう両省りょうしょう廃止はいしされて、これらを改組かいそしてだいいち復員ふくいんしょうだい復員ふくいんしょうあらたに設置せっちされている。

憲法けんぽう改正かいせい問題もんだいにおいてぬさ原内はらうちかく当初とうしょ作成さくせいした松本まつもと試案しあん却下きゃっかされ、マッカーサー草案そうあんをベースとする「憲法けんぽう改正かいせいくさつな」を3月6にち採択さいたくした。このほかハイパーインフレーション食料しょくりょうなん解決かいけつのための経済けいざい措置そちほう成立せいりつした。

戦後せんごはつ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょかつ日本にっぽんにおいて女性じょせい参政さんせいけん容認ようにんされてはつ男女だんじょ普通ふつう選挙せんきょとして4がつ10日とおかだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ実施じっしされたが、単独たんどく過半数かはんすうせいした政党せいとうなかった。日本にっぽん進歩しんぽとうぬさばら入党にゅうとうすることにより内閣ないかく存続そんぞくさせるうごきもあったが、政党せいとうもう反発はんぱつけて倒閣とうかく運動うんどうにまで発展はってんし、かくないからも離反りはんしゃぬさ原内はらうちかく5月22にちそう辞職じしょくをした。当初とうしょ後任こうにん首相しゅしょうには鳩山はとやま一郎いちろう就任しゅうにんする予定よていだったが、公職こうしょく追放ついほう対象たいしょうとなり不可能ふかのうとなったわりに、吉田よしだしげる外相がいしょう白羽しらはだい1吉田よしだ内閣ないかく成立せいりつした。

ぬさ原内はらうちかく打倒だとう人民じんみん大会たいかい(1946ねん4がつ7にち)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1945ねん昭和しょうわ20ねん)12月、貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせん
  2. ^ 1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月5にち兼任けんにん
  3. ^ a b 1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ26にち運輸うんゆしょう辞任じにん内務相ないむしょう専任せんにん
  4. ^ 日本にっぽん証券しょうけん取引とりひきしょ総裁そうさい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]