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ぬさはら喜重郎きじゅうろう

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ぬさばらしではら 喜重郎きじゅうろうきじゅうろう
ぬさ󠄁はら 喜重郞きじゅうろう
総理そうり在任ざいにんぬさばら(1945ねんあきごろ)
生年月日せいねんがっぴ 明治めいじ5ねん8がつ11にち
1872ねん9月13にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん さかいけんいばらぐん門真かどまいちばん下村しもむら
げん大阪おおさか門真かどま
ぼつ年月日ねんがっぴ (1951-03-10) 1951ねん3がつ10日とおか(78さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう世田谷せたがや
出身しゅっしんこう 帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
ぜんしょく 外務がいむ官僚かんりょう
所属しょぞく政党せいとう無所属むしょぞく→)
同和どうわかい→)
日本にっぽん進歩しんぽとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
無所属むしょぞく同志どうしクラブ→)
無所属むしょぞく民主みんしゅクラブ→)
民主みんしゅ自由党じゆうとう
称号しょうごう したがえいち
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
男爵だんしゃく
法学ほうがく帝国ていこく大学だいがく1895ねん
配偶はいぐうしゃ ぬさはら雅子まさこ
子女しじょ 長男ちょうなんぬさはら道太郎みちたろう
次男じなんぬさはら重雄しげお
三男さんなんぬさはら平三へいぞう
親族しんぞく 岩崎いわさき弥太郎やたろう義父ぎふ
ぬさはらひろしあに
加藤かとう高明こうめい義兄ぎけい
木内きうちしげる四郎しろう義兄ぎけい
サイン

内閣ないかく ぬさ原内はらうちかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん10月9にち - 1946ねん5月22にち
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

在任ざいにん期間きかん 1949ねん2がつ11にち - 1951ねん3がつ10日とおか
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

内閣ないかく 濱口はまぐち内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1930ねん11月14にち - 1931ねん3がつ10日とおか
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

内閣ないかく だい1吉田よしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1947ねん5月3にち - 1947ねん5月24にち

内閣ないかく だい1吉田よしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1946ねん6月15にち - 1947ねん5月24にち

その職歴しょくれき
日本の旗 初代しょだい だいいち復員ふくいん大臣だいじん
初代しょだい だい復員ふくいん大臣だいじん

ぬさ原内はらうちかく
(1945ねん12月1にち - 1946ねん5月22にち総理そうり兼任けんにん
日本の旗 だい38・40だい 外務がいむ大臣だいじん
加藤かとう高明こうめい内閣ないかくだい1若槻わかつき内閣ないかく
1924ねん6月11にち - 1927ねん4がつ20日はつか
濱口はまぐち内閣ないかくだい2若槻わかつき内閣ないかく
1929ねん7がつ2にち - 1931ねん12月13にち
日本の旗 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
きゅう大阪おおさか3当選とうせん回数かいすう 2かい
1947ねん4がつ26にち - 1951ねん3がつ10日とおか
日本の旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
1926ねん1がつ29にち - 1947ねん5月2にち
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ぬさはら 喜重郎きじゅうろう(しではら きじゅうろう、きゅう字体じたいぬさ󠄁はら 喜重郞きじゅうろう1872ねん9月13にち明治めいじ5ねん8がつ11にち〉- 1951ねん昭和しょうわ26ねん3がつ10日とおか)は、日本にっぽん政治せいじ外交がいこうかん爵位しゃくい男爵だんしゃく位階いかいしたがえいち勲等くんとう勲一等くんいっとう

外務がいむ大臣だいじんだい40414344だい)、貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせん議員ぎいん[1])、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん臨時りんじ代理だいり内閣ないかく総理そうり大臣だいじんだい44だい)、だいいち復員ふくいん大臣だいじん初代しょだい)、だい復員ふくいん大臣だいじん初代しょだい)、復員ふくいんちょう総裁そうさい初代しょだい)、ふく総理そうり衆議院しゅうぎいん議員ぎいん衆議院しゅうぎいん議長ぎちょうだい40だい)を歴任れきにんした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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明治めいじ5ねん8がつ11にち1872ねん9月13にち)、さかいけんいばらぐん門真かどまいちばん下村しもむら[2]げん大阪おおさか門真かどま)の豪農ごうのういえまれた[3]あにひろし教育きょういく行政ぎょうせいかん台北たいぺい帝国ていこく大学だいがく初代しょだい総長そうちょう大阪城おおさかじょう西側にしがわにあった官立かんりつ大阪おおさか中学校ちゅうがっこう(のち京都きょうと移転いてんだいさん高等こうとう中学校ちゅうがっこうとなる)から、だいさん高等こうとう中学校ちゅうがっこう首席しゅせき卒業そつぎょう)をて、1895ねん明治めいじ28ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく卒業そつぎょう濱口はまぐち雄幸ゆうこうとは、だいさん高等こうとう中学校ちゅうがっこう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく時代じだいつうじての同級生どうきゅうせいであり2人ふたり成績せいせきつねに1、2あらそったという。

大学だいがく卒業そつぎょうのう商務省しょうむしょう入省にゅうしょうしたが、よく1896ねん明治めいじ29ねん外交がいこうかん試験しけん合格ごうかくし、外務省がいむしょうてんじた[1]

外務省がいむしょう[編集へんしゅう]

1929ねんぬさばら
タイム1931ねん10月12にちごう表紙ひょうし掲載けいさいされたぬさばら

外務省がいむしょう入省にゅうしょう仁川にがわ、ロンドン、ベルギー、釜山ぷさんかく領事館りょうじかん在勤ざいきん、ワシントン、ロンドンのかく大使館たいしかん参事官さんじかん、オランダ公使こうし1915ねん大正たいしょう4ねん)に外務がいむ次官じかんとなり、1919ねん大正たいしょう8ねん)に駐米ちゅうべい大使たいし[1]だいいち世界せかい大戦たいせんのちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうウォレン・ハーディング提唱ていしょうひらかれた国際こくさい軍縮ぐんしゅく会議かいぎワシントン会議かいぎにおいては全権ぜんけん委員いいんつとめる[1]

ワシントン軍縮ぐんしゅく会議かいぎまえ全権ぜんけん大使たいしひだりからぬさはら喜重郎きじゅうろう加藤かとう友三郎ともさぶろう徳川とくがわ家達いえさと
1921ねん10月24にちワシントン会議かいぎにてロバート・ウッズ・ブリスひだりから1人ひとり)、ロバート・クーンツひだりから3にん)、加藤かとう寛治かんじみぎから3にん)、田中たなか国重くにしげみぎから2人ふたり)、アンドレ・ブリュースターみぎから1人ひとり)と

外務がいむ大臣だいじん歴任れきにん[編集へんしゅう]

外務がいむ大臣だいじんになったのは1924ねん大正たいしょう13ねん)の加藤かとう高明こうめい内閣ないかく最初さいしょであった。以降いこう若槻わかつき内閣ないかく12)、濱口はまぐち内閣ないかく憲政けんせいかい立憲りっけん民政みんせいとう内閣ないかくで4かい外相がいしょう歴任れきにんした。

かれ1920年代ねんだい自由じゆう主義しゅぎ体制たいせいにおける国際こくさい協調きょうちょう路線ろせんは「ぬさげん外交がいこう」ともしょうされ、軍部ぐんぶ軍拡ぐんかく自主じしゅ路線ろせん田中たなか外交がいこう」と対立たいりつした。ワシントン体制たいせいもとづき、たいべいえいたいしては列強れっきょう協調きょうちょうを、民族みんぞく運動うんどう高揚こうようする中国ちゅうごくにおいては、あくまで条約じょうやくじょう権益けんえき擁護ようごのみを追求ついきゅうし、ひがしアジアに特別とくべつ地位ちいめる日本にっぽん中心ちゅうしんとなって安定あんていした秩序ちつじょ形成けいせいしていくべきとの方針ほうしんであった。そのため、1925ねん大正たいしょう14ねん)の5・30事件じけんにおいては、ざいはな在中ざいちゅうこく日系にっけい製糸せいし会社かいしゃ)の中国人ちゅうごくじんストライキたいして奉天ほうてん軍閥ぐんばつちょうさく要請ようせいして武力ぶりょく鎮圧ちんあつするなど、権益けんえき擁護ようごをはかっている。

1926ねん大正たいしょう15ねん)に蔣介せき国民こくみん革命かくめいぐんひきいてったきたたいしては、内政ないせい不干渉ふかんしょう方針ほうしんもとづき、アメリカとともにイギリスによる派兵はへい要請ようせい拒絶きょぜつ。しかし、1927ねん昭和しょうわ2ねん)3がつ南京なんきん事件じけん発生はっせいすると、軍部ぐんぶ政友せいゆうかいのみならずかくないでも宇垣うがき一成いっせい陸相りくしょう政策せいさく転換てんかんもとめるなど批判ひはんたかまった。こうしたぬさげん外交がいこうへの反感はんかん金融きんゆう恐慌きょうこうにおける若槻わかつき内閣ないかく倒閣とうかく重要じゅうよう要素ようそとなった。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)にロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく締結ていけつさせると、とく軍部ぐんぶからは「軟弱なんじゃく外交がいこう」と非難ひなんされた。1931ねん昭和しょうわ6ねんなつ広州こうしゅう国民こくみん政府せいふ外交がいこう部長ぶちょうちんともひとし訪日ほうにちし、ちょうまなぶりょうまんしゅうから排除はいじょまんしゅう日本にっぽん任命にんめいする政権せいけんしたにおいて統治とうちさせ、中国ちゅうごく間接かんせつてき宗主そうしゅけんのみを保持ほじすることを提案ていあんしたが、ぬさげん外相がいしょう一蹴いっしゅうした。その関東軍かんとうぐん独走どくそう勃発ぼっぱつしたまんしゅう事変じへん収拾しゅうしゅう失敗しっぱいし、政界せいかい退しりぞいた。ぬさげん外交がいこう終焉しゅうえん文民ぶんみん外交がいこう終焉しゅうえんであり、その軍部ぐんぶ独断どくだんする時代じだい終戦しゅうせんまでつづいた。

なお、濱口はまぐち内閣ないかく時代じだいには、濱口はまぐち雄幸ゆうこう総理そうり銃撃じゅうげきによる負傷ふしょう療養りょうよう期間きかんちゅう宮中きゅうちゅう席次せきじ規定きていにより次席じせきであったぬさげん内閣ないかく総理そうり大臣だいじん臨時りんじ代理だいりつとめた[4]立憲りっけん民政みんせいとう党員とういんでなかったぬさばら臨時りんじ代理だいりつとめたことは野党やとう立憲りっけん政友せいゆうかい批判ひはんまととなり、またおなじく批判ひはんされたロンドン条約じょうやくについては天皇てんのうによる批准ひじゅんみであると国会こっかい答弁とうべんでしたことが天皇てんのうへの責任せきにん転嫁てんかであると失言しつげん問題もんだい追及ついきゅうされた[5]。そのさい首相しゅしょう臨時りんじ代理だいり在任ざいにん期間きかん116にち最長さいちょう記録きろくである。

だい2若槻わかつき内閣ないかくそう辞職じしょく以降いこうおもて舞台ぶたいからとおざかっていたが、南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうのころに近衛このえ文麿ふみまろ今後こんご見通みとおしをかれ、「南部なんぶふつしるしかって出帆しゅっぱんしたばかりの陸軍りくぐん船団せんだんをなんとかもどせませんか?あるいは台湾たいわんけませんか?それが出来できずに進駐しんちゅう実現じつげんすれば、絶対ぜったいアメリカとの戦争せんそうけられません」と直言ちょくげんし、予言よげん的中てきちゅうした逸話いつわのこっている。

だい世界せかい大戦たいせん末期まっきの1945ねん5がつ25にち空襲くうしゅうにより千駄ヶ谷せんだがや自邸じてい焼失しょうしつ多摩川たまがわほとりにあった三菱みつびしけい農場のうじょううつった[6]

内閣ないかく総理そうり大臣だいじん[編集へんしゅう]

1945ねん10月9にちぬさ原内はらうちかく閣僚かくりょうらと
ぬさはら喜重郎きじゅうろう

戦後せんご1945ねん10月9にちに、10月5にちひがし久邇くに宮内くないかくそう辞職じしょく内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにん[7]本人ほんにん首相しゅしょう指名しめいされたことをいやがってしの準備じゅんびをしていたが、おなじく指名しめい固辞こじした吉田よしだしげる後押あとお[8]昭和しょうわ天皇てんのうじきじきの説得せっとくなどもあり[よう出典しゅってん]政界せいかいかえいた。ぬさばらさい登場とうじょういた古手ふるて政治せいじ記者きしゃが「ぬさげんさんはまだきていたのか」とったという逸話いつわのこ[よう出典しゅってん]ほど、当時とうじ政界せいかいではわすれられた存在そんざいとなっていたが、しんえいべいとしての独自どくじのパイプをもちいて活躍かつやくした。ただし、吉田よしだぬさばら首相しゅしょうしたのは吉田よしだ政治せいじてき地位ちいづくりのためであったともいわれている[よう出典しゅってん]

1945ねん10月11にちマッカーサー新任しんにん挨拶あいさつおこなうために連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい訪問ほうもん挨拶あいさつという体裁ていさいではあったが、まえ卓越たくえつした英語えいごりょく外交がいこうかんとしての見識けんしきなどをって一時いちじあいだにわたる会談かいだんとなった。マッカーサーからはポツダム宣言せんげん沿って憲法けんぽう改正かいせいおこなうこと、人権じんけん確保かくほのための改革かいかくおこなうこと、厳冬げんとう対策たいさくいそぐべきことの要求ようきゅうされた[9]

日本国にっぽんこく憲法けんぽうぬさばら[編集へんしゅう]

ぬさばら日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていについては様々さまざま研究けんきゅうおこなわれているが、とく日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい9じょうにおける戦争せんそう放棄ほうきについては、ぬさばら発案はつあんであるかどうかという論争ろんそうおこなわれている。

ぬさばら当初とうしょ天皇てんのうせい維持いじのため、憲法けんぽう改正かいせいには消極しょうきょくてきであった[10]

ぬさばらは1951ねん公刊こうかんした『外交がいこうじゅうねん』において、9じょう発案はつあんしゃ自身じしんであるとべている[11]。これによれば、1945ねん8がつ15にち玉音ぎょくおん放送ほうそういたのち電車でんしゃないさけおとこ出会であったのがきっかけで、「戦争せんそう放棄ほうきし、軍備ぐんび全廃ぜんぱい」することを発案はつあんしたという[12]のちにマッカーサーも9じょうぬさばら提案ていあんによるとべている[13]一方いっぽう松本まつもと烝治芦田あしだひとしといったぬさ原内はらうちかく閣僚かくりょう木内きうち四郎しろう内閣ないかくふく書記官しょきかんちょう増田ますだ甲子きのえねなな押谷おすだに富三とみぞうといった政治せいじぬさばら息子むすこ道太郎みちたろうぬさばら発案はつあんであることを否定ひていしている[14]

1946ねん1がつ24にちぬさばら風邪かぜをひいたさいにマッカーサーからペニシリンおくられたことにたいする返礼へんれい名目めいもく会談かいだんおこなった(ペニシリン会談かいだん[15]。マッカーサーの回顧かいころくによれば、このせきぬさばら戦力せんりょく放棄ほうきふく戦争せんそう放棄ほうきしん憲法けんぽう制定せいてい提案ていあんおこなったという[13][16]のちぬさげん大平おおひらこまづちかたった談話だんわはねしつメモ[注釈ちゅうしゃく 1])によれば、「ぼくはかねてかんがえていた戦争せんそう世界中せかいじゅうがしなくなるようになるには戦争せんそう放棄ほうきするということ以外いがいにないとかんがえる」「世界せかいから信用しんようをなくしてしまつた日本にっぽんにとつて戦争せんそう放棄ほうきするとうんさまことをハツキリと世界せかい声明せいめいすることそれだけが日本にっぽん信用しんようしてもらえる唯一ゆいいつのほこりとなることじやないだろうか」とべ、マッカーサーもおおいに感動かんどうしていたという[18]

ただしチャールズ・L・ケーディス民政みんせいきょく次長じちょう回想かいそうによれば、マッカーサーからげられた会談かいだんのテーマは公職こうしょく追放ついほうについてであったという[18]。また「はねしつメモ」どおりのことをぬさばらべたとしても、「声明せいめい」にとどまっており、憲法けんぽう戦力せんりょく保持ほじとともにむというものではなかった[18][16][19]

1がつ30にち閣議かくぎにおいてしん憲法けんぽう政府せいふあんである松本まつもと試案しあんについて検討けんとうおこなわれた[13]。このせきぬさばらぐんかんする条項じょうこう削除さくじょするようもとめたが、「大勢おおぜいカラうんヘバイツカぐん出来できルトおもえフガいまこれにゅうレルコトハ刺激しげきガツヨスギル」「(GHQとの交渉こうしょうに)いちケ月かげつモ引カツテシマフ」とべたように、たん交渉こうしょうてき問題もんだいであり、将来しょうらいてきぐん保有ほゆう排除はいじょしたものではなかった[13]松本まつもと試案しあん新聞しんぶんによって暴露ばくろされ、日本にっぽん政府せいふ憲法けんぽうあん不十分ふじゅうぶんであると判断はんだんしたマッカーサーは、2がつ3にち民政みんせいきょくたいしてしん憲法けんぽう草案そうあん作成さくせいするようめいじた。このさいマッカーサーは自衛じえいけんをもふく戦争せんそう放棄ほうきふくめたしん憲法けんぽう原則げんそく「マッカーサー・ノート」をしめしている[20]

2がつ13にちコートニー・ホイットニー民政みんせいきょく局長きょくちょうは、松本まつもと試案しあん否定ひてい戦争せんそう放棄ほうきふくむGHQの憲法けんぽう草案そうあんマッカーサー草案そうあん)をぬさばら松本まつもと烝治国務大臣こくむだいじん手交しゅこうした[21]広田ひろた弘毅こうき弁護人べんごにんつとめた広田ひろた洋二ようじは、ぬさばら秘書ひしょであるきし倉松くらまつ証言しょうげんから「ぬさげん首相しゅしょうもちよつとおどろいたようであり」と、ぬさばら憲法けんぽう戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこうふくまれることを予想よそうしていなかったことをべている[16]2がつ18にちにはホイットニー民政みんせいきょく局長きょくちょうは48時間じかん以内いない回答かいとう要求ようきゅうした[21]閣議かくぎ紛糾ふんきゅうし、2がつ21にちにマッカーサーとぬさばら芦田あしだひとし小林こばやし一三かずみ会談かいだんおこなわれた。このせきぬさばら主権しゅけん在民ざいみん明文化めいぶんか難色なんしょくしめすとともに、「(戦争せんそう放棄ほうき条文じょうぶんは)世界せかいのどのくに憲法けんぽうにもない異例いれいはなしで」と戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこうについても否定ひていてき意見いけんべた[22]。マッカーサーは「日本にっぽんためはかるにむしだいしょう(GHQ草案そうあん)のごと国策こくさく遂行すいこうためめにする戦争せんそう抛棄ほうきすると声明せいめいして日本にっぽんがMoral Leadershipをにぎるべきだとおもふ」とべたが、ぬさばらは「leadershipとげんはれるが、おそらくだれもfollowerとならない」と否定ひていした[23]。しかしマッカーサーは「ゆずることもへんへることも出来できない」と受諾じゅだく要求ようきゅうした[22]

2がつ22にち、GHQがわからわたされた憲法けんぽう草案そうあん原則げんそくてき受諾じゅだくすることが閣議かくぎ決定けっていされた。ただし、戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこうについては松本まつもと国務大臣こくむだいじん前文ぜんぶんうつすことを提案ていあんしたがホイットニー民政みんせいきょく局長きょくちょう却下きゃっかされ、おさむぶん翻訳ほんやくつうじて「ウマクきょくぶん」することとなった[22]同日どうじつ天皇てんのうたず経緯けいい内容ないよう報告ほうこくした[24]

ぬさばら3月15にち閣議かくぎで「天子てんしさまをすてるかすてぬかとうん事態じたい直面ちょくめんして、あの司令しれいがわさる承諾しょうだくした」とべており、GHQあん受諾じゅだく天皇てんのうせい維持いじという受動じゅどうてき動機どうきにすぎなかった[25]

憲法けんぽう9じょうぬさげん発案はつあんせつ論争ろんそう[編集へんしゅう]

古関こせき彰一しょういち戦争せんそう放棄ほうき発案はつあんしゃぬさばらであるとし、マッカーサーがその提案ていあんけて条項じょうこう指示しじしたとした[11]深瀬ふかせ忠一ただかず河上かわかみあきらひろし笠原かさはらじゅうきゅうつかさなどはさらぬさばら主導しゅどうせい重視じゅうしし、ぬさばら発案はつあんしゃであるとしている[11]一方いっぽう佐々木ささき髙雄ひゃく籏頭しんは1946ねん1がつ24にち会談かいだんにおけるぬさばら提案ていあん不戦ふせん条約じょうやくレベルのものではなかったかとしている[26]。またぬさばら年来ねんらいかんがえであったせん思想しそうをマッカーサーにはなしたことと、マッカーサーがそれに共鳴きょうめいしたことによって9じょうまれたという見解けんかいもある。ぬさ原内はらうちかく外務がいむ大臣だいじんであった吉田よしだしげるぬさばら秘書ひしょきし倉松くらまつ佐藤さとう達夫たつお法制ほうせいきょく次長じちょうなどはこの見解けんかいっている[27]

2020年代ねんだいにおいては笠原かさはらじゅうきゅうぬさげん発案はつあんせつ支持しじしているが、ぬさばら評伝ひょうでんあらわした熊本くまもと史雄ふみおたねいね秀司しゅうじ否定ひていしている[28]

発案はつあんしゃ公表こうひょう経緯けいい

マッカーサーは1950ねん1がつ1にちの「日本にっぽん国民こくみん諸君しょくん」というメッセージにおいて、戦争せんそう放棄ほうき規定きていは「日本人にっぽんじんみずからかんがしたもの」とべているが、ぬさばらとは明示めいじしなかった[29]

1976ねん外務省がいむしょう公開こうかいしたマッカーサー・ノートには、戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこうつぎ括弧かっこきで「このかんがえは、最初さいしょ当時とうじぬさげん首相しゅしょうから最高さいこう司令しれいかん表明ひょうめいされ、司令しれいかんはただちにそれにつきしんからの支持しじあたえた。」という注釈ちゅうしゃくはいっているが、もとの公式こうしき文書ぶんしょであるマッカーサー・ノートにははいっていない[30]。これは1950ねん11月11にちにマッカーサー・ノートを記事きじにしようとした『ニッポン・タイムズ(げんジャパンタイムズ)』に掲載けいさい許可きょかあたえたさい、GHQがわ掲載けいさい条件じょうけんとして括弧かっこきの文面ぶんめん提示ていじしたものである[31]。これ以降いこうマッカーサーもぬさばら発案はつあんであることをかたるようになり、1951ねん5がつ5にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく上院じょういん軍事ぐんじ外交がいこう合同ごうどう委員いいんかいでの証言しょうげん、1962ねん内閣ないかく憲法けんぽう調査ちょうさかいへの高柳たかやなぎ賢三けんぞう会長かいちょうへの書簡しょかん、1964ねん刊行かんこうされた回顧かいころくでもぬさばら発案はつあんであるとべている[32]。またぬさばらも1951ねん刊行かんこう回顧かいころく外交がいこうじゅうねん』において発案はつあんしゃであるとしるしている。

平野ひらの文書ぶんしょ

ぬさばら秘書ひしょをしていたという[注釈ちゅうしゃく 2]衆議院しゅうぎいん議員ぎいん平野ひらの三郎さぶろうは1958ねんごろから自由民主党じゆうみんしゅとううちにおける護憲ごけんとして、ぬさばら憲法けんぽう9じょう発案はつあんしゃであるという主張しゅちょうおこなうようになった[34]。1963ねん11がつごろ平野へいやぬさばら発案はつあん裏付うらづける文書ぶんしょっているという情報じょうほう一部いちぶメディアにげられた[35]。このころ内閣ないかく憲法けんぽう調査ちょうさかいでも9じょう発案はつあんしゃぬさばらかどうかを調査ちょうさすることとなった。憲法けんぽう調査ちょうさかい会長かいちょう高柳たかやなぎ賢三けんぞうは、護憲ごけん立場たちばからぬさげん発案はつあんせつ支持しじし、否定ひてい議員ぎいん対立たいりつしていた。このような状況じょうきょうで、平野へいやは1951ねん2がつ下旬げじゅん日向ひなたぼっこをしながらぬさばらからはなしき、その内容ないようをまとめたという文書ぶんしょ平野ひらの文書ぶんしょ)を提出ていしゅつした。この文書ぶんしょでは「原子げんしばくだんというものが出来でき以上いじょう世界せかい事情じじょう根本こんぽんてきかわっておわった」「戦争せんそうをやめるには武器ぶきたないことが一番いちばん保証ほしょうになる」と戦力せんりょく放棄ほうきべられており[36]、1946ねん1がつ24にち会談かいだんで「天皇てんのう人間にんげん戦争せんそう放棄ほうき同時どうじ提案ていあん」 したとしており、「日本にっぽんがアメリカとまったおなじものになったらだれ世界せかい運命うんめいひらくか」と日米にちべい軍事ぐんじ一体化いったいか否定ひていするものであった[37]。しかし憲法けんぽう調査ちょうさかいでの評価ひょうかかんばしくく、平野へいや文書ぶんしょのもととなったというメモを提示ていじしなかったため、最終さいしゅう報告ほうこくしょにもげられなかった[35]笠原かさはらじゅうきゅうは「ぬさばらでなければえなかった事実じじつ」「平野へいやには創作そうさくできなかった事実じじつ」であるとしているが、佐々木ささき髙雄や中村なかむら克明かつあき創作そうさくである可能かのうせい指摘してきしている[36]佐々木ささきは1951ねん2がつ下旬げじゅんぬさばら日向ひなたぼっこができるようなはなかったこと、平野へいや文書ぶんしょ原本げんぽんであるメモを提出ていしゅつしなかったことを指摘してきしている[38]。またたねいね秀司しゅうじぬさばらほか発言はつげん思想しそう一致いっちしないことやぬさばら没後ぼつごのことである冷戦れいせん意識いしきしたような記述きじゅつから、「矛盾むじゅん齟齬そごがあまりにもおお怪文書かいぶんしょ」とひょうしている[39]

どう時代じだい証言しょうげん信憑しんぴょうせい

ぬさばらは『外交がいこうじゅうねん』の序文じょぶんにおいて「わたし記憶きおくそんするかぎ正確せいかくしたつもりである」とべている[12]一方いっぽうぬさばら秋元あきもと俊吉しゅんきちあて書簡しょかん記者きしゃ質問しつもんたいして口頭こうとうはなしたものを、「精読せいどく加筆かひつひまもなく発表はっぴょう」されたものであるとしている[12]。またぬさばら親交しんこうがあったむらさきかきたかしは、ぬさばら執筆しっぴつちゅうの『外交がいこう50ねん』の原稿げんこうして、「この原稿げんこうも、ぼく本心ほんしんいているのでなくかんしんまたをくぐるおもいでいているものだ。いず出版しゅっぱん予定よていのものだが、お手許てもとにもおくるつもりだから、んでくださればほどける。これは勝者しょうしゃ根深ねぶか猜疑さいぎ弾圧だんあつやわらげるかなしき手段しゅだんひとつなのだ」とべていたとしている[40]たねいね秀司しゅうじぬさばら玉音ぎょくおん放送ほうそうまでポツダム宣言せんげん受諾じゅだくいていなかったとしるしているが、東郷とうごう茂徳しげのり外相がいしょうとたびたび会談かいだんおこなっていたことからかんがえにくいことなどを指摘してきしたうえで、『外交がいこうじゅうねん』の公刊こうかんまではぬさげん自身じしん発案はつあんしゃであったことをべていないことなどから、この日記にっき批判ひはん引用いんようできるものではないとしている[41]

さらぬさばら直後ちょくご閣議かくぎとうでは戦争せんそう放棄ほうきあん後押あとおしするようなうごきもせず、後年こうねんには民政みんせい局員きょくいんハリー・エマーソン・ワイルズ英語えいごばんに「戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこうおどろいた」、「趣旨しゅしをマッカーサーにはなしたが、憲法けんぽうれることまでわなかった」とべており、2がつ21にちにはマッカーサーに「どのような軍隊ぐんたいなら保持ほじできるのですか」という質問しつもんおこなっている[19]。またぬさばら側近そっきんであった村山むらやまゆうは、ぬさばらが「戦争せんそう放棄ほうきはわしからのぞんだことにしよう」とべたとしているなど[42]ぬさばらは『回想かいそうじゅうねん』との記述きじゅつ齟齬そごのある言動げんどうをしばしばっている。

また佐々木ささき髙雄や小林こばやし直樹なおきは、マッカーサーがぬさげん発案はつあん主張しゅちょうするようになったのは、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつ日本にっぽんさい軍備ぐんび責任せきにんわれかねない状況じょうきょうとなったため、責任せきにん回避かいひのためにぬさばら責任せきにん転嫁てんかしたのではないかとしている[43][44]。また増田ますだひろしもマッカーサー回顧かいころくには「自己じこ弁護べんご」や「責任せきにん転嫁てんか」が目立めだち、憲法けんぽう制定せいてい経緯けいいについては「じゅうさんじゅう自己じこ防衛ぼうえい配慮はいりょした形跡けいせき」がられると指摘してきしている[45]。また、ホイットニーの後任こうにんであるフランク・リゾーは、マッカーサーのさい側近そっきんであるホイットニーは、当初とうしょ9じょう発案はつあんしゃとして「アウワ・オールドマン」とマッカーサーであるとしていたが、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつからは「ユア・オールドマン」とぬさばらすようになったとしている[29]

一方いっぽうぬさげん発案はつあんせつをとる笠原かさはらじゅうきゅうは、マッカーサーの演説えんぜつ批判ひはんてき佐々木ささき意見いけんを「下衆げす勘繰かんぐりにちかい」と批判ひはんしている[46]。またぬさばら内閣ないかくにおいて発案はつあんしゃであるとわなかったのは、内閣ないかく瓦解がかいおそれたための演技えんぎであったとしている[47]。またマッカーサーとの会談かいだん戦争せんそう放棄ほうき明記めいき反対はんたいして「だれもfollowerとならない」とぬさばらべたという『芦田あしだひとし日記にっき』の記述きじゅつは、憲法けんぽう調査ちょうさかい提出ていしゅつされた内閣ないかく法制ほうせいきょく次長じちょうだった入江いりえ俊郎としお著書ちょしょ憲法けんぽう成立せいりつ経緯けいい憲法けんぽうじょうしょ問題もんだい』と相違そういしているため正確せいかくではないとしている[46][48]。ただしぬさばら戦争せんそう放棄ほうき明記めいき反対はんたいしたという証言しょうげんは『小林こばやし一三かずみ日記にっき』にも記載きさいされている[41]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

衆院しゅういん議長ぎちょう(1949ねん

きゅう憲法けんぽう最後さいご、そして戦後せんごはつそう選挙せんきょとなる1946ねん昭和しょうわ21ねん)4がつ10日とおかだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、日本にっぽん自由党じゆうとうだいいちとうとなりそう辞職じしょくだい1吉田よしだ内閣ないかく発足ほっそくする。ぬさばら無任所むにんしょ国務大臣こくむだいじんとして入閣にゅうかく(のちに復員ふくいんちょう総裁そうさい兼務けんむ)。

1947ねん昭和しょうわ22ねん)のだい23かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょはつ当選とうせん[49]日本にっぽん進歩しんぽとう総裁そうさいとなり、民主党みんしゅとう結成けっせいにも参加さんかしたが、片山かたやま内閣ないかく社会しゃかい主義しゅぎ政策せいさく批判ひはんして田中たなか角栄かくえいはら健三郎けんざぶろう本間ほんま俊一しゅんいち中山なかやまマサ小平こだいら久雄ひさおぬさばら若手わかて議員ぎいんとともに民主みんしゅ自由党じゆうとう参加さんか衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう就任しゅうにんする[50]内閣ないかく総理そうり大臣だいじん経験けいけんしゃ衆議院しゅうぎいん議長ぎちょうはじめてであった(貴族きぞくいん議長ぎちょう初代しょだい伊藤いとう博文ひろぶみだい1内閣ないかくだい2内閣ないかくあいだ在任ざいにんしており、近衛このえ文麿ふみまろ議長ぎちょう経験けいけん首相しゅしょう就任しゅうにんしている。衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんぬさばらのちれいがない)。

安全あんぜん保障ほしょう分野ぶんやにおいては、さい軍備ぐんび世界せかい反発はんぱつけるとして否定ひていしながらも、アメリカとの関係かんけい強化きょうかによりソビエト連邦れんぽう侵略しんりゃく抵抗ていこうするべきというかんがかたっていた[51]。1950ねんにはジョン・フォスター・ダレス国務省こくむしょう顧問こもんたいし、共産きょうさん主義しゅぎしゃ侵略しんりゃく危険きけんせいさい軍備ぐんび経済けいざいてき負担ふたん懸念けねん理由りゆうとして、アメリカによる永久えいきゅう占領せんりょうもとめている[25]。また朝鮮ちょうせん戦争せんそう激化げきかともない、だい10かい国会こっかい議長ぎちょう挨拶あいさつでは自衛じえいけん発動はつどう言及げんきゅうする草稿そうこう準備じゅんびしている[25]中島なかじまわたるだんによれば、このころぬさばらさい軍備ぐんびたいするかんがえは芦田あしだひとし吉田よしだしげるなかあいだであったという[25]

死去しきょ[編集へんしゅう]

1951ねん昭和しょうわ26ねん3がつ10日とおか議長ぎちょう在任ざいにんちゅう心筋梗塞しんきんこうそくのため[52]死去しきょ[53]享年きょうねん80(まん78さいぼつ)。議長ぎちょう在任ざいにんちゅう死去しきょであったことから、葬儀そうぎ衆議院しゅうぎいんそうとしておこなわれた[54]墓所はかしょ豊島としま駒込こまごめ染井そめい霊園れいえん

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうなど
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

逸話いつわ[編集へんしゅう]

総理そうり大臣だいじん臨時りんじ代理だいり当時とうじぬさばら
  • ぬさばら」という語彙ごい欧米おうべいじん、とくに英語えいごけん人間にんげんにとっては発音はつおんしづらいものであったらしく、あるぬさばら外国がいこくじん記者きしゃから英語えいごつぎよう質問しつもんをされた。
記者きしゃ:「かく貴方あなたのファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
ぬさばら:「わたし男性だんせい)は、『ヒーデハラ(heデハラ)』で、家内やない女性じょせい)は『シーデハラ(sheデハラ)』です。」
旺盛おうせいなユーモア精神せいしんぬしでもあったぬさばらは、このようにこたえたという。まわりのもの仕方しかたいので追従ついしょうわらいでごまかしたそうである。
  • 関東大震災かんとうだいしんさい被害ひがいけた駿河台するがだい住居じゅうきょから駒込こまごめ六義園りくぎえんした。引越ひっこしのさいのこった荷物にもつはこ馬車ばしゃかわ転落てんらく文字通もじどお丸裸まるはだかにあったという。
  • ぬさばら書道しょどう文章ぶんしょうすぐれていることで外務がいむ省内しょうないにはられており、ぬさばら外務がいむ大臣だいじんだったときに次官じかんつとめていた吉田よしだしげるは、省内しょうない文書ぶんしょ次官じかん決裁けっさい大臣だいじんであるぬさばらしたとどけられると、ぬさばら文面ぶんめんすべ校正こうせいしてから決裁けっさいをすることをって、「大臣だいじんところった文書ぶんしょなおされてしまうのだから、大臣だいじん決裁けっさいもらってからでないと次官じかん決裁けっさいせない」と皮肉ひにくべたところ、このはなしぬさばらつたわってしまい、しばらくのあいだにんなか険悪けんあくになったとわれている。だが、ひがし久邇くに宮内くないかくそう辞職じしょくマッカーサーから後任こうにん総理そうりについてたずねられたとき世間せけんからわすられていたぬさばらをマッカーサーに推挙すいきょしたのは吉田よしだであったという。
  • 経歴けいれき行動こうどうからクエーカークリスチャンであったというせつ有力ゆうりょくだが判然はんぜんとしていない。
  • 濱口はまぐち雄幸ゆうこう立憲りっけん民政みんせいとう総裁そうさいになったさい中学校ちゅうがっこう時代じだいからの友人ゆうじんであり懇意こんいであったぬさばらふく総裁そうさいになるよう要請ようせいした。そのころぬさばら外務がいむ大臣だいじん政党せいとう関係かんけいつべきでないとする信条しんじょうっており、拒絶きょぜつしたという。
  • 血盟けつめいだん事件じけん二・二六事件ににろくじけんりょう事件じけん襲撃しゅうげき標的ひょうてきとなっていたが、病臥びょうがちゅうであったことや事前じぜん警官けいかん警告けいこくがあったことによりことなきをた。
  • まんしゅう事変じへん当時とうじのアメリカ国務こくむ長官ちょうかんヘンリー・スティムソンは、回顧かいころくにて「日本にっぽん軍部ぐんぶ対抗たいこうしてぬさばら支持しじせねばならぬ」と評価ひょうかしていた[87]
  • 1950ねん11月20にち国際こくさいケア機構きこうによる支援しえん物資ぶっし「ケア物資ぶっし」が10まんたっしたことを記念きねんし、10まん小包こづつみ衆議院しゅうぎいん議長ぎちょうとしてった。記念きねん式典しきてん出席しゅっせきした連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい関係かんけいしゃたいし、英語えいご感謝かんしゃつたえるスピーチをおこなっている[88]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

ぬさはら喜重郎きじゅうろうぬさばらきゅうろう婿養子むこようしであるぬさはら新治しんじろう次男じなんとしてまれた[89]新治にいはるろう長男ちょうなん、つまり喜重郎きじゅうろうあにたるぬさはらひろし幼名ようみょう徳治郎とくじろう)は東洋とうよう学者がくしゃ教育きょういく行政ぎょうせいかん[89][90][91][92]ひろし次女じじょ澄江すみえ農芸のうげい化学かがくしゃざい由直よしなお長男ちょうなん由正よしまさとついだ[90][92][93]由正よしまさ澄江すみえ夫妻ふさい長男ちょうなんが「コザイのしき」でられている天文学てんもんがくしゃざいよししゅうであり[90][92]由正よしまさおとうと、すなわち由直よしなお次男じなんマルクス主義まるくすしゅぎ哲学てつがくしゃざいよしおもである[90][92]ざいよししゅう最後さいご東京とうきょう天文台てんもんだい国立こくりつ天文台てんもんだい前身ぜんしんたいちょうおよび国立こくりつ天文台てんもんだい初代しょだいだいちょうつとめ「ほし手帖てちょう」(すで廃刊はいかん)の編集へんしゅう委員いいんとしてもられており、2009ねん平成へいせい21ねん)には文化ぶんか功労こうろうしゃえらばれている。またひろしまごたるぬさはらひろ弁護士べんごしで、ざいよししゅう従弟じゅうていたる。だい東京とうきょう弁護士べんごしかい所属しょぞくであり、ふく会長かいちょう経験けいけんあり。多数たすう委員いいんかい活動かつどう関与かんよしているため、弁護士べんごしかいでは「多重たじゅう会務かいむしゃ」などとばれている。

ぬさはら喜重郎きじゅうろうつま雅子まさこ三菱みつびし財閥ざいばつ創業そうぎょうしゃ岩崎いわさき弥太郎やたろうよんじょ。したがって喜重郎きじゅうろう加藤かとう高明こうめい春路はるじ夫人ふじん弥太郎やたろう長女ちょうじょ)や岩崎いわさき久弥ひさや弥太郎やたろう長男ちょうなん三菱みつびし財閥ざいばつ3代目だいめ総帥そうすい)、木内きうちしげる四郎しろう磯路いそじ夫人ふじん弥太郎やたろう次女じじょ)らの義弟ぎていたる[94]。ただし春路はるじ久弥ひさや磯路いそじの3にん弥太郎やたろう正妻せいさいぜいんだのにたい雅子まさこ妾腹しょうふくだしである。したがって雅子まさこ春路はるじ久弥ひさや磯路いそじ異母いぼいもうとたる。

喜重郎きじゅうろう雅子まさこ夫妻ふさいは3にん男子だんしをもうけた。長男ちょうなん道太郎みちたろうもと獨協大どっきょうだいがく英語えいご学科がっか[95]教授きょうじゅ[89]ぬさばら著書ちょしょ外交がいこう50ねん」の解説かいせつをした(長男ちょうなん隆太郎りゅうたろう(1938ねん9がつ16日生にっせい[96])と次男じなん章二しょうじ(1940/9/30せい[96]長女ちょうじょ倶子ともこ(1940/9/30せい[96])がいて隆太郎りゅうたろうには長男ちょうなんまき一郎いちろう(1971/7/30せい[96])と二男じなん幸二こうじ(1979せい[96])がいる)、次男じなん重雄しげおもと三菱製紙みつびしせいし勤務きんむ[89]三男さんなん平三へいぞう夭折ようせつ長男ちょうなん改憲かいけん論者ろんしゃであった。なおぬさ原内はらうちかく大蔵おおくら大臣だいじんつとめた渋沢しぶさわ敬三けいぞう磯路いそじ婿むこたる姻戚いんせきである[94]渋沢しぶさわ敬三けいぞう渋沢しぶさわ栄一えいいちまごたり、日銀にちぎん総裁そうさい大蔵おおくら大臣だいじんつとめるかたわら、日本にっぽんにおける民俗みんぞくがく発展はってん多大ただい貢献こうけんをした学者がくしゃでもある。また、1947ねん岩崎いわさきとのえんから、財団ざいだん法人ほうじん東洋文庫とうようぶんこ理事りじちょう就任しゅうにんし、三菱みつびし財閥ざいばつ解体かいたいけて運営うんえい危機ききおちいったどう文庫ぶんこ翌年よくねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん支部しぶとして維持いじさせることに成功せいこうした。戦前せんぜんよりつづ日本にっぽん東洋とうようがく研究けんきゅう中心ちゅうしんであったどう文庫ぶんこ解散かいさん危機ききからすくったその功績こうせき今日きょうすくなからず評価ひょうかされている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
ざい卯之助うのすけ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ざいわたる兵衛ひょうえ
 
 
良子りょうこ
 
 
 
 
 
 
 
ざいよししん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ざい由直よしなお
 
 
静子しずこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
柳下やぎしたけいゆかり
 
 
 
 
 
 
 
ざい由良ゆら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清水しみずさだみき
 
豊子とよこ清水しみず紫琴しきん
 
 
ざいよしおも
 
ざい豊樹とよき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ざい由正よしまさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ざいよししゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熊沢くまさわ善庵ぜんあん
 
妙子たえこ
 
 
澄江すみえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさばらあらわ
 
ぬさはらひろ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさ原新はるしん治郎じろう
 
 
ぬさはらひろし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさはら幸秀ゆきひで
 
 
 
 
ぬさばらきゅう市郎いちろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさはらはじめ
 
和子かずこ
 
 
ぬさはら和寿かずとし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
せい
 
 
ぬさはら喜重郎きじゅうろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさはらただし
 
 
 
 
 
ナカ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさはら道太郎みちたろう
 
ぬさはら隆太郎りゅうたろう
 
ぬさはら慎一郎しんいちろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさき弥太郎やたろう
 
雅子まさこ
 
 
ぬさはら重雄しげお
 
 
今西いまにし健策けんさく
 
 
ぬさはら幸二こうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさはら平三へいぞう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倶子ともこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬさはら章二しょうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさき久弥ひさや
 
岩崎いわさき彦弥ふとし
 
岩崎いわさきひろしわたる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木内きうちしげる四郎しろう
 
 
木内きうちりょうたね
 
木内きうちあきらたね
 
木内きうちたかしたね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木内きうちしんたね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
磯路いそじ
 
 
渋沢しぶさわ敬三けいぞう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぜい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢しぶさわ雅英まさひで
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさきわたる次郎じろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
登喜子ときこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加藤かとう高明こうめい
 
 
加藤かとうあつし太郎たろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美和みわ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春路はるじ
 
 
悦子えつこ
 
 
 
 
 
 
岡部おかべちょうただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おか部長ぶちょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おか部長ぶちょうけい
 
 
 
 
 
 
岡部おかべ長義ながよし
 
 
 
 
 
 
 
 
おか部長ぶちょうはつ
 
おか部長ぶちょうしょく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡部おかべちょうあきら
 
 
おか部長ぶちょうきょう岡部おかべ牧夫まきお
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
櫻井さくらいぼう
 
須美すみ
 
 
妙子たえこ
 
 
岡部おかべちょうけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさきあつし太郎たろう
 
岩崎いわさき正寛まさひろ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさき弥之助やのすけ
 
 
岩崎いわさきあきらわたる
 
 
岩崎いわさき英二郎えいじろう
 
岩崎いわさきとおる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさき俊弥としや
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさきじゅん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後藤ごとう象二しょうじろう
 
早苗さなえ
 
 
岩崎いわさき小弥太こやた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

著作ちょさく[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 大平おおひらこまづちぬさばらかたったからのちむすめはねしつミチ子みちこかたってかせた。ミチ子みちこはまず銀行ぎんこう手帳てちょうめたがこれは1946ねん6・7がつごろ盗難とうなんされ、1955ねんになって大学だいがくノートにいて復元ふくげんした。1959ねんには憲法けんぽう調査ちょうさかい依頼いらい再度さいどなおしている。憲法けんぽう調査ちょうさかいばんでは「軍備ぐんび全廃ぜんぱい」についてぬさばら提案ていあんしていたことになっているが、大学だいがくノートばんにはそれがないなどのちがいがある[17]
  2. ^ ぬさばら秘書ひしょであるきし倉松くらまつによると、平野へいや公設こうせつ私設しせつのいずれの秘書ひしょでもなく、ぬさばらもとおとずれることもそれほどおおくはなかったという[33]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d ぬさはら喜重郎きじゅうろう』 - コトバンク
  2. ^ 門真かどまゆかりの人々ひとびと ぬさはら喜重郎きじゅうろう(しではら きじゅうろう) 門真かどま
  3. ^ ぬさはら喜重郎きじゅうろう | 三菱みつびしグループサイト”. www.mitsubishi.com. 2022ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ 官報かんぽうだい1166ごう昭和しょうわ5ねん11月17にち、p.284官報かんぽうだい1256ごう昭和しょうわ6ねん3がつ10日とおか、p.194
  5. ^ 井上いのうえ寿一ひさいち政友せいゆうかい民政みんせいとう』2012ねん中公新書ちゅうこうしんしょ、p.114
  6. ^ ひゃく籏頭しん 1997, p. 108
  7. ^ 官報かんぽう号外ごうがい昭和しょうわ20ねん10がつ9にち
  8. ^ 吉田よしだしげる固辞こじぬさばらにおはちまわる(昭和しょうわ20ねん10がつ7にち 毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p239 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  9. ^ ぬさげん首相しゅしょう人権じんけん確保かくほ大改革だいかいかく要求ようきゅう昭和しょうわ20ねん10がつ13にち 朝日新聞あさひしんぶん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p357
  10. ^ 中村なかむら克明かつあき 2021, p. 155.
  11. ^ a b c たねいね秀司しゅうじ 2019, p. 29.
  12. ^ a b c たねいね秀司しゅうじ 2023, p. 39.
  13. ^ a b c d たねいね秀司しゅうじ 2019, p. 38.
  14. ^ 西にしおさむ 2004, p. 7・18.
  15. ^ たねいね秀司しゅうじ 2023, p. 25-26.
  16. ^ a b c 細谷ほそや雄一ゆういち (2018ねん10がつ15にち). “憲法けんぽう9じょう戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこう」は、だれつくったのか”. 東洋とうよう経済けいざいオンライン. 2024ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  17. ^ たねいね秀司しゅうじ 2023, p. 33-34.
  18. ^ a b c たねいね秀司しゅうじ 2019, p. 37.
  19. ^ a b 筒井つついきよしただし. “近代きんだい日本にっぽん外交がいこう研究けんきゅう躍進やくしんさせたすぐれた成果せいか”. Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン). 2024ねん5がつ12にち閲覧えつらん
  20. ^ 中村なかむら克明かつあき 2021, p. 154.
  21. ^ a b たねいね秀司しゅうじ 2019, p. 40.
  22. ^ a b c たねいね秀司しゅうじ 2019, p. 41.
  23. ^ 中村なかむら克明かつあき 2021, p. 152.
  24. ^ 憲法けんぽう草案そうあん昭和しょうわ天皇てんのう「これでいいじゃないか」 ぬさげん首相しゅしょうとの面談めんだんメモがつかる”. huffingtonpost (2017ねん5がつ2にち). 2022ねん2がつ12にち閲覧えつらん
  25. ^ a b c d たねいね秀司しゅうじ 2019, p. 42.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

伝記でんき[編集へんしゅう]

  • 宇治田うじた直義ただよし日本にっぽん宰相さいしょう列伝れつでん17 ぬさはら喜重郎きじゅうろう時事通信社じじつうしんしゃ 1985ねん旧版きゅうばんどうさんだい宰相さいしょう列伝れつでん」1958ねん
  • 塩田しおだうしお最後さいご奉公ほうこう 宰相さいしょうぬさはら喜重郎きじゅうろう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1992ねんISBN 4-163463-80-1
    • 新版しんぱん日本国にっぽんこく憲法けんぽうをつくったおとこ 宰相さいしょうぬさはら喜重郎きじゅうろう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 1998ねん朝日あさひ文庫ぶんこ 2017ねんISBN 402-2618930
  • 岡崎おかざきひさぬさはら喜重郎きじゅうろうとその時代じだい』PHP文庫ぶんこ 2003ねんISBN 456-9579930
  • 服部はっとり龍二りゅうじぬさはら喜重郎きじゅうろう 外交がいこう民主みんしゅ主義しゅぎ有斐閣ゆうひかく、2006ねん増補ぞうほばん吉田よしだ書店しょてん、2017ねんISBN 490-5497523
  • たねいね秀司しゅうじぬさはら喜重郎きじゅうろう吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ」2021ねんISBN 464-2053018
  • 熊本くまもと史雄ふみおぬさはら喜重郎きじゅうろう 国際こくさい協調きょうちょう外政がいせいから占領せんりょう首相しゅしょうへ』中公新書ちゅうこうしんしょ 2021ねんISBN 412-1026381

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

議会ぎかい
先代せんだい
松岡まつおか駒吉こまきち
日本の旗 衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう
だい40だい:1949ねん - 1951ねん
次代じだい
はやし譲治じょうじ
公職こうしょく
先代せんだい
ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう
日本の旗 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だい44だい:1945ねん - 1946ねん
次代じだい
吉田よしだしげる
先代せんだい
-
日本の旗 国務大臣こくむだいじんふく総理そうり
1947ねん
次代じだい
芦田あしだひとし
先代せんだい
創設そうせつ
日本の旗 復員ふくいんちょう総裁そうさい
初代しょだい:1946ねん - 1947ねん
次代じだい
笹森ささもりじゅんづくり
先代せんだい
下村しもむらじょう陸軍りくぐん大臣だいじん
日本の旗 だいいち復員ふくいん大臣だいじん
初代しょだい:1945ねん - 1946ねん
次代じだい
吉田よしだしげる
先代せんだい
米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじん
日本の旗 だい復員ふくいん大臣だいじん
初代しょだい:1945ねん - 1946ねん
次代じだい
吉田よしだしげる
先代せんだい
松井まつい慶四郎けいしろう
田中たなか義一ぎいち
日本の旗 外務がいむ大臣だいじん
だい40・41だい:1924ねん - 1927ねん
だい43・44だい:1929ねん - 1931ねん
次代じだい
田中たなか義一ぎいち
いぬやしなえあつし
とうしょく
先代せんだい
町田まちだ忠治ただはる
日本にっぽん進歩しんぽとう総裁そうさい
だい2だい:1946ねん - 1947ねん
次代じだい
民主党みんしゅとう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
ぬさばら喜重郎きじゅうろう初代しょだい
1920ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし