(Translated by https://www.hiragana.jp/)
本間俊一 - Wikipedia コンテンツにスキップ

本間ほんま俊一しゅんいち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
本間ほんま 俊一しゅんいち
ほんま しゅんいち
生年月日せいねんがっぴ 1912ねん11月18にち
出生しゅっしょう 宮城みやぎけん加美かみぐん中新田なかにいだまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1958-08-20) 1958ねん8がつ20日はつか(45さいぼつ
出身しゅっしんこう 早稲田大学わせだだいがく政治せいじ経済学部けいざいがくぶ
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん進歩しんぽとう→)
民主党みんしゅとう→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう くんとう瑞宝章ずいほうしょう
親族しんぞく 長男ちょうなん本間ほんま俊太郎しゅんたろう

選挙せんきょ宮城みやぎけん選挙せんきょ→)
宮城みやぎけんだい1
当選とうせん回数かいすう 6かい
在任ざいにん期間きかん 1946ねん4がつ11にち - 1958ねん8がつ20日はつか
テンプレートを表示ひょうじ

本間ほんま 俊一しゅんいち(ほんま しゅんいち、1912ねん11月18にち[1] - 1958ねん8がつ20日はつか)は、日本にっぽん政治せいじ自由民主党じゆうみんしゅとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん中新田なかにいだまちちょう宮城みやぎけん知事ちじつとめた本間ほんま俊太郎しゅんたろう長男ちょうなん

来歴らいれき人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

宮城みやぎけん加美かみぐん中新田なかにいだまちげん加美かみまち出身しゅっしん古川ふるかわ中学校ちゅうがっこうげん宮城みやぎけん古川ふるかわ高等こうとう学校がっこう)、早稲田大学わせだだいがく政治せいじ経済学部けいざいがくぶ政治せいじ学科がっか卒業そつぎょう大学だいがく卒業そつぎょう、1935ねん中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽうしゃ、1939ねん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ入社にゅうしゃ社会しゃかい記者きしゃとなる[2]。その郷里きょうりもどり、1945ねん8がつ中新田なかにいだまち現在げんざい加美かみまちちょうとなる。

1946ねん昭和しょうわ21ねんだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ日本にっぽん進歩しんぽとうから立候補りっこうほ当選とうせんする。当選とうせん回数かいすう通算つうさん6かいだい1吉田よしだ内閣ないかく農林のうりん参与さんよかんだい2吉田よしだ内閣ないかく通産つうさん政務次官せいむじかん自由党じゆうとうふく幹事かんじちょう衆議院しゅうぎいん決算けっさん委員いいんちょうなどを歴任れきにんした。1955ねん昭和しょうわ30ねん)のだい27かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ落選らくせんつぎ1958ねん昭和しょうわ33ねん)5がつだい28かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ自民党じみんとう公認こうにん立候補りっこうほして再選さいせんされたが、8がつ13にち脳出血のうしゅっけつたお[1]、8がつ20日はつか急逝きゅうせいした。そのため、次点じてんだった保科ほしな善四郎ぜんしろう当選とうせんとなった。死去しきょさいし、したがえよんくんとう瑞宝章ずいほうしょう追贈ついぞうされた[3]

もと秘書ひしょ

[編集へんしゅう]

著書ちょしょへんしょ

[編集へんしゅう]
  • 戦後せんご教育きょういく改造かいぞう』(今日きょう問題もんだいしゃ、1938ねん
  • にちえいわかせんはゞ』(昭和しょうわ書房しょぼう、1939ねん
  • 国民こくみん学校がっこうれい釈義しゃくぎ』(大山おおやまめぐみ共編きょうへん冨山とやまぼう、1941ねん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b 本間ほんま代議士だいぎし面影おもかげ』(本間ほんま代議士だいぎしのおもかげ刊行かんこうかい、1959ねん)p.35
  2. ^ 本間ほんま代議士だいぎし面影おもかげ』(本間ほんま代議士だいぎしのおもかげ刊行かんこうかい、1959ねん)p.38-39
  3. ^ 本間ほんま代議士だいぎし面影おもかげ』(本間ほんま代議士だいぎしのおもかげ刊行かんこうかい、1959ねん年譜ねんぷ
議会ぎかい
先代せんだい
松浦まつうらひがしかい
日本の旗 衆議院しゅうぎいん決算けっさん委員いいんちょう
1949ねん - 1950ねん
次代じだい
中垣なかがき國男くにお