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小川おがわ平吉へいきち

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小川おがわ 平吉へいきち
おがわ へいきち
生年月日せいねんがっぴ 1870ねん1がつ2にち明治めいじ2ねん12月1にち
出生しゅっしょう 信濃しなのこく諏訪すわぐん御射山みさやま神戸こうべむら
げん富士見ふじみまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1942-02-05) 1942ねん2がつ5にち(72さいぼつ
出身しゅっしんこう 帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく仏法ぶっぽう
げん東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ
ぜんしょく 弁護士べんごし
所属しょぞく政党せいとう 立憲りっけん政友せいゆうかい
称号しょうごう 法学ほうがく
親族しんぞく 長男ちょうなん小川おがわ一平いっぺい
二男じなん小川おがわ平二へいじ
小川おがわ平四郎へいしろう
小川おがわひら
宮沢みやざわこと
むすめ婿むこ宮澤みやざわひろし
小川おがわ禎子さだこ
むすめ婿むこ斎藤さいとういつき
まご小川おがわはじめ宮澤みやざわ喜一きいち宮澤みやざわひろし

内閣ないかく 田中たなか義一ぎいち内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1927ねん4がつ20日はつか - 1929ねん7がつ2にち

日本の旗 だい29だい 司法しほう大臣だいじん
内閣ないかく 加藤かとう高明こうめい内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1925ねん2がつ9にち - 1925ねん8がつ2にち

日本の旗 国勢こくせいいん総裁そうさい
内閣ないかく はらたかし内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1920ねん5月 - 1922ねん6がつ

当選とうせん回数かいすう 10かい
在任ざいにん期間きかん 1903ねん - 1936ねん
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小川おがわ 平吉へいきち(おがわ へいきち、1870ねん1がつ2にち明治めいじ2ねん12月1にち〉 - 1942ねん昭和しょうわ17ねん2がつ5にち)は、日本にっぽん政治せいじ弁護士べんごしごうやま東京とうきょう平民へいみん[1]

衆議院しゅうぎいん議員ぎいん国勢こくせいいん総裁そうさい司法しほう大臣だいじん鉄道てつどう大臣だいじんひとし歴任れきにんした。警視総監けいしそうかんつとめた斎藤さいとういつきむすめ婿むこ宮沢みやざわ喜一きいちまごにあたる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1892ねん明治めいじ25ねん弁護士べんごしとなり、1901ねん明治めいじ34ねん近衛このえ篤麿あつまろしたがって上海しゃんはい東亜とうあどう文書ぶんしょいん創立そうりつ参画さんかく[2]。1903ねん明治めいじ36ねん衆議院しゅうぎいんそう選挙せんきょ出馬しゅつば当選とうせん以来いらい当選とうせん10かい[2]

にち主戦しゅせんろん急先鋒きゅうせんぽうとなった。日比谷ひびや焼打やきうち事件じけんきた1905ねん明治めいじ38ねん)9がつ5にち国民こくみん大会たいかい主催しゅさいしゃ8めい1人ひとりであったことなどからしば警察けいさつしょ検挙けんきょされたが無罪むざい

政友せいゆうかいはいどうかい幹事かんじちょうて1920ねん大正たいしょう9ねんはらたかし内閣ないかく国勢こくせいいん総裁そうさい[2]。1925ねん大正たいしょう14ねん)に加藤かとう高明こうめい内閣ないかく司法しほう大臣だいじんとなり、渡辺わたなべ千秋ちあき山岡やまおかまんこれすけ赤池あかいけきた昤吉きた一輝いっきおとうと)らとともに『日本にっぽん新聞しんぶん』のさい発行はっこう開始かいしし「日本にっぽん主義しゅぎ」を主張しゅちょうした[3]

1927ねん昭和しょうわ2ねん田中たなか義一ぎいち内閣ないかく鉄道てつどう大臣だいじん[2]。1929ねん昭和しょうわ4ねん私鉄してつ疑獄ぎごく事件じけんうれくん事件じけん連座れんざして逮捕たいほされ、1936ねん昭和しょうわ11ねん懲役ちょうえき2ねん入獄にゅうごく[2]政界せいかい引退いんたい[2]。1940ねん昭和しょうわ15ねん恩赦おんしゃ[2]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)7がつ胆石たんせきびょうわずら東京とうきょう赤坂あかさか自宅じたくにて療養りょうよう生活せいかつはいる。1942ねん昭和しょうわ17ねん)2がつ5にち死去しきょ享年きょうねん74さい葬儀そうぎ頭山とうやまみつる葬儀そうぎ委員いいんちょうとなり、同年どうねん2がつ9にち愛宕あたご青松寺せいしょうじおこなわれた[4]

日比谷ひびや焼打やきうち事件じけん扇動せんどう疑惑ぎわく無罪むざい[編集へんしゅう]

1905ねん9がつ5にち日比谷ひびや焼打やきうち事件じけん首謀しゅぼうしゃ1人ひとりとして同日どうじつ午後ごご兇徒きょうと嘯聚ざい明治めいじ13ねん刑法けいほうだい137じょう)により検挙けんきょされる。同日どうじつ東京とうきょう地裁ちさい検事けんじきょく暴動ぼうどう計画けいかく教唆きょうさ証拠しょうこまったくないとして小川おがわ釈放しゃくほうしたが[2]しば警察けいさつしょ捜査そうさ5めいとともに立件りっけんし、11月10にち起訴きそおこなわれた。東京とうきょう地裁ちさいだいいち刑事けいじ裁判さいばんちょう今村いまむらきょう太郎たろう陪席ばいせき判事はんじふか川田かわた次郎じろうどうおか慶治けいじ[注釈ちゅうしゃく 1]検事けんじ安住あずみ時太郎ときたろう杉本すぎもと時三郎ときさぶろうのもとで、翌年よくねん2がつ26にちから4がつ11にちまで11かいにわたって公判こうはんおこなわれた。4月21にち無罪むざいがいいわたされ、控訴こうそがなかったため無罪むざい確定かくていした[6]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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小川おがわ平吉へいきち誕生たんじょう石碑せきひ

信濃しなのこく諏訪すわぐん御射山みさやま神戸こうべむらげん富士見ふじみまち出身しゅっしん呉服ごふく商人しょうにん小川おがわ金蔵きんぞう三男さんなん[7]少年しょうねん時代じだいから腕白わんばく坊主ぼうずだった[8]小学校しょうがっこう時代じだい御射山みさやま神戸こうべ瑞雲寺ずいうんじ教室きょうしつてられたが、平吉へいきち本尊ほんぞんいてあるいて教師きょうしこまらせた[7]

11さいとき諏訪すわあきら神上かみあげしゃ仲間なかまあそびにってだい喧嘩けんかをしたときは、2つも3つも年上としうえ子供こどもがいたが小川おがわそう大将たいしょうになった[7]。いったんげてさかうえかくれた小川おがわらは、ってきた上社かみやしろぜい一人ひとりずついしでねらいちしてやっつけた[7]。やられた上社かみやしろぜいおやは、4km以上いじょうはなれた茅野ちの木舟きふねまでってきたがげのびた[7]。そのとき石投いしなぎげの命令めいれいみちえらかたは、のちまでかたぐさになっている[7]

14さいのとき、勉強べんきょうがしたくて「草刈くさかりにく」と野良のらたまま上京じょうきょう[7]途中とちゅう甲府こうふ旅館りょかん家人かじんにつかまったが、とにかく行動こうどうてきだった[7]

上京じょうきょうして明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう東京大学とうきょうだいがく古典こてん講習こうしゅう入学にゅうがくしたが中退ちゅうたい父兄ふけいから官吏かんりになることを期待きたいされ、司法省しほうしょう正則せいそく法律ほうりつ学校がっこう東京大学とうきょうだいがく予備よびもん合併がっぺいされ、のちだいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう改称かいしょうされる)に入学にゅうがく

1889ねん明治めいじ22ねん帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく仏法ぶっぽうげん東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ)へ進学しんがく、1892ねん明治めいじ25ねん卒業そつぎょうもと首相しゅしょう若槻わかつき禮次郎れいじろう同期どうきである。卒業そつぎょう代言だいげんじん翌年よくねん弁護士べんごしほう施行しこうされ弁護士べんごしになる)となり、同年どうねん分家ぶんけして一家いっか創立そうりつ[1]

衆議院しゅうぎいん議員ぎいん[編集へんしゅう]

小川おがわ平吉へいきち衆議院しゅうぎいん議員ぎいん時代じだい

1900ねん明治めいじ33ねん)、立憲りっけん政友せいゆうかい結成けっせい参加さんか

政界せいかいはつ出馬しゅつばは1902ねん明治めいじ35ねん)8がつだい7かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょで、郡部ぐんぶから立候補りっこうほ落選らくせんした。当時とうじ平吉へいきち貧乏びんぼう弁護士べんごし木綿もめん紋付もんつきしかわせはなく、これを友人ゆうじん矢守やもり一太郎いちたろうどくおもい、自分じぶんフロックコートいでせた[9]のダブダブのフロックコートを街頭がいとうたところ「かかしのものた」と陰口かげぐちたたかれたが、珍妙ちんみょう服装ふくそうにもかかわらず演説えんぜつでは堂々どうどう天下てんか国家こっかろんじ、その抱負ほうふべて一躍いちやく人気にんきとなった[9]開票かいひょう結果けっかは1473ひょうで、わずか37ひょう落選らくせんした[9]

よく1903ねん明治めいじ36ねん)3がつだい8かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ立候補りっこうほしてはつ当選とうせん伊藤いとう博文ひろぶみ総裁そうさい政見せいけんわず一時いちじ政友せいゆうかい脱党だっとうする。

国粋こくすい主義しゅぎものであった小川おがわは、にち戦争せんそうまえ議会ぎかいでは主戦しゅせん運動うんどう先鋒せんぽうとなり、1905ねん明治めいじ38ねん)9がつにはにち講和こうわ条約じょうやく締結ていけつに「たたかいにちながら屈辱くつじょくてき講和こうわをなすとは何事なにごとだ」とつよ反対はんたいとなえて日比谷ひびや焼討やきうち事件じけんこす発端ほったんつくり、河野こうの広中ひろなか大竹おおたけ貫一かんいちらとともに逮捕たいほされるが証拠しょうこ不十分ふじゅうぶん無罪むざいとなった。

1910ねん明治めいじ43ねん)に政友せいゆうかいふくとう。1915ねん大正たいしょう4ねん)に政友せいゆうかい幹事かんじちょうとなる。

1923ねん12月27にちとらもん事件じけん天皇てんのう暗殺あんさつ未遂みすい)の翌日よくじつ思想しそう団体だんたい青天せいてんかい発起ほっきし、またきた昤吉ともに『日本にっぽん新聞しんぶん』を主宰しゅさいして国粋こくすい主義しゅぎ提唱ていしょうした。青天せいてんかいと『日本にっぽん新聞しんぶん』は不離ふり関係かんけいで、双方そうほう会員かいいんであったものは、井上いのうえ哲次郎てつじろう五百木いおき良三りょうぞうばんあずま宣雄のりお花井はない卓蔵たくぞう蜷川にながわしん本多ほんだ熊太郎くまたろう頭山とうやまみつる大木たいぼくとおよし大島おおしま健一けんいち東条とうじょう英機ひでき若槻わかつき礼次郎れいじろう鎌田かまた栄吉えいきちはら嘉道よしみち永田ながた鉄山てつざん荒木あらき貞夫さだお永田ながた秀次郎ひでじろうかけい克彦かつひこ川島かわしま卓吉たくきち上杉うえすぎ慎吉しんきち近衛このえ文麿ふみまろ北里きたさとしば三郎さぶろう金杉かなすぎ英五郎えいごろう江木えぎせんこれ平沼ひらぬま騏一郎きいちろう星野ほしのすず長崎ながさき英造えいぞう鈴木すずきうめ四郎しろう若宮わかみや卯之助うのすけ綾川あやかわ武治たけはる国本こくほんしゃ)、中谷なかたにたけし下位かい春吉はるきちひとしがいる[10]

小川おがわにちかん併合へいごうにも積極せっきょくてきうごき、だいいち世界せかい大戦たいせんのち左翼さよく思想しそうさかんになると、これに対抗たいこうして治安ちあん維持いじほう制定せいていはかった。どうほう制定せいていにあたっては「無辜むこみんにまでおよぼすというごとことのないように充分じゅうぶん研究けんきゅう考慮こうりょいたしました」「けっして思想しそうにまでって圧迫あっぱくするとか研究けんきゅう干渉かんしょうするということではない」と貴族きぞくいん答弁とうべんした。

1925ねん大正たいしょう14ねんだい1加藤かとう高明こうめい内閣ないかく護憲ごけんさん内閣ないかく)の司法しほう大臣だいじん就任しゅうにん。この法相ほうしょう就任しゅうにん横田よこたせんこれすけ法相ほうしょう死去しきょともな後任こうにん人事じんじによるもので、そのあいだ4日間にちかんだけ高橋たかはし是清これきよのう商務しょうむ大臣だいじん臨時りんじ兼任けんにんしていた。同年どうねん4がつ治安ちあん維持いじほう成立せいりつさせ、8がつ2にち退任たいにんした。

1926ねんには野党やとう立憲りっけん政友せいゆうかい議員ぎいんとして、大逆だいぎゃくざいとなったぼくれつ事件じけんたいするまりがあま国体こくたい観念かんねんうすいとして、もりつとむとともに与党よとう憲政けんせいかい若槻わかつき内閣ないかく追及ついきゅうし、帝国ていこく議会ぎかい空転くうてんさせた。

鉄道てつどう大臣だいじん[編集へんしゅう]

小川おがわ平吉へいきち(1929ねん
小川おがわ召喚しょうかん報道ほうどうした信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶん
1929ねん昭和しょうわ4ねん)9がつ27にち

1927ねん昭和しょうわ2ねん田中たなか義一ぎいち内閣ないかく鉄道てつどう大臣だいじん就任しゅうにん在任ざいにんちゅうは、それまでひだりきだった駅名えきめいしるべをすべてみぎきにあらため、説明せつめいマ字まじ廃止はいしして[2]国粋こくすい大臣だいじん」の異名いみょうをとった[11]。また、発音はつおん沿った駅名えきめい表記ひょうききゅう仮名遣かなづかいにもどした[12]

小川おがわ鉄道てつどう大臣だいじん辞任じにんの2かげつ、1929ねん昭和しょうわ4ねん)に5つの私鉄してつ買収ばいしゅうにからむ収賄しゅうわい事件じけん私鉄してつ疑獄ぎごく事件じけん)で起訴きそされ、市ヶ谷いちがや刑務所けいむしょ留置りゅうちされた[13]1933ねん昭和しょうわ8ねん)5がつ16にち東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ無罪むざい判決はんけつける[14]ものの検察けんさつ控訴こうそ1934ねん昭和しょうわ9ねん)11月17にち東京とうきょう控訴こうそいん懲役ちょうえき2ねん判決はんけつ[15]1936ねん昭和しょうわ11ねん)9がつ大審院だいしんいん懲役ちょうえき2ねん判決はんけつ確定かくていしてしたがえさんしつ[16]勲一等くんいっとうおよ韓国かんこく併合へいごう記念きねんあきらだいいちかい国勢調査こくせいちょうさ記念きねんあきら大礼たいれい記念きねんあきら大正たいしょう/昭和しょうわ帝都ていと復興ふっこう記念きねんあきら褫奪ちだつされ[17]政界せいかいから引退いんたいした。

中村なかむら勝実かつみちょ信州しんしゅう大臣だいじんたち』56ぺーじによれば、「大臣だいじん在任ざいにんちゅう年間ねんかんに、ひゃくちか私鉄してつ営業えいぎょう許可きょかあたえ、そのうえ田中たなか義一ぎいち内閣ないかく瓦解がかいする直前ちょくぜんにもその土産みやげといって、じゅうすうほん私鉄してつ敷設ふせつ許可きょかした[注釈ちゅうしゃく 2]。しかもそのほとんどが、国鉄こくてつ私鉄してつ他社たしゃ並行へいこうせんだったので、とかくのうわさんだ。」という[19]とく田中たなか義一ぎいち内閣ないかく瓦解がかい直前ちょくぜん時期じき集中しゅうちゅうして乱発らんぱつされた路線ろせん敷設ふせつ免許めんきょ大盤振おおばんぶいは、めいばんあいだ最終さいしゅうてき直接ちょくせつ競合きょうごうすることになる路線ろせん構成こうせいする2しゃせんたいして同時どうじ認可にんかあたえるなど、交通こうつう政策せいさくじょう矛盾むじゅんした杜撰ずさんきわまる内容ないようであり、空前くうぜん愚策ぐさくであるとしてかく方面ほうめん非難ひなんびた[20]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)2がつ5にち死去しきょ、74さい葬儀そうぎ委員いいんちょう頭山とうやまみつるつとめた。

東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん小川おがわ死亡しぼう記事きじに2だんという破格はかく見出みだしをけ、右翼うよくだいぶつである頭山とうやまみつる談話だんわせた。頭山とうやまは「小川おがわくん日本にっぽん精神せいしん終始しゅうし一貫いっかんしたひとだった。わたしとの交友こうゆう随分ずいぶんふるいことだが、にち戦争せんそうけがたい情勢じょうせいとなったとき大隈おおくま伊藤いとう松方まつかたなどではこしよわくていかんというので近衛このえこう文麿ふみまろ)の先代せんだい篤麿あつまろおおやけ首班しゅはんせいかんないかく樹立じゅりつしようと小川おがわくんらとほねったものだ。不幸ふこう篤麿あつまろおおやけ早世そうせいされたためにことらなかったが、小川おがわくんはそのころから尊敬そんけいすべき国士こくしだった…」とべた[21]

エピソード[編集へんしゅう]

臨時りんじ議会ぎかいとき小泉こいずみ又次郎またじろう速記そっき台下だいかなぐばされそうになったことがある。1922ねん大正たいしょう11ねん)2がつ17にちづけの『中外ちゅうがい日報にっぽう』に「代議士だいぎし武勇ぶゆう列伝れつでん」とだいするコラム記事きじている。

武勇ぶゆう列伝れつでんとはあまこくだ、我々われわれだって標榜ひょうぼうして選良せんりょうになったわけじゃない、ぶんってきんとして選良せんりょうになったとうのに…とは昨日きのう衆議院しゅうぎいんかい廊下ろうか中島なかじま鵩六さんがあのおおきな太鼓腹たいこばらしてのおおせであった。で、つぎ野党やとうがわへと眼鏡めがねけよう…まあず野党やとう議席ぎせき見渡みわたして何時いつきむ仏様ほとけさまのように黙然もくぜんひかえ、しか一朝いっちょうことあるときは何事なにごとかを引起ひきおこさん面構つらがまえをしているのに吉田よしだいそきち親分おやぶんがある。いそきち親分おやぶんは、ひと炭鉱たんこう太郎たろうとして九州きゅうしゅうだい縄張なわばりをち、こんはたずいいんさえあるひとだけに、いさむいては、匹敵ひってきするひとはあるまいとうから、未来みらい選良せんりょうになろうとするものこう典型てんけいだろう。・・・・・つづいては、臨時りんじ議会ぎかいとき国勢こくせいいん総裁そうさい小川おがわたいらさんを速記そっき台下だいかなぐばそうとして、一大いちだい波瀾はらんめくおこした三浦みうらぐんだい親分おやぶん小泉こいずみ又次郎またじろうさんで、一肌脱ひとはだぬげば倶利伽羅くりからもん々のすごひとである。・・・」

親分おやぶん議員ぎいん吉田よしだいそきちいちにんではなく、与野党よやとう数多かずおおくいたことがこのコラム記事きじから理解りかいできる。この時代じだい政界せいかいには「暴をもって暴をせいす」理論りろん公然こうぜんとまかりとおっていたわけで、まさに政治せいじたるものは「腕前うでまえがなければならぬ」のであった[22]

平吉へいきちには「タコ入道たこにゅうどう」「オガたいら」「ズルたいら」といったあだがつけられていた[23]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

小川おがわ[編集へんしゅう]

小川おがわ人々ひとびと
前列ぜんれつひだりより三平さんぺい、せき(平吉へいきち夫人ふじん)、平吉へいきち悦子えつこひら後列こうれつひだりよりせい、こと(宮澤みやざわ喜一きいちはは)、てい、かつ、平二へいじ平四郎へいしろう一平いっぺい
長野ながのけん諏訪すわぐん富士見ふじみまち東京とうきょう) 
  • 小川おがわ一族いちぞくについて、佐藤さとうちょうたい著書ちょしょごうばつ 地方ちほう豪族ごうぞくのネットワーク』442-457ぺーじによれば、

ねやばつ地図ちずひろげれば、新旧しんきゅう政治せいじ高級こうきゅう官僚かんりょう財界ざいかいじんキラ星きらぼしのごとくかがやいている。地図ちずじょうには歴代れきだい総理そうり大臣だいじんよんにん地図ちずをもうすこひろくとれば、このばい以上いじょうにはすぐえる。だが小川おがわせい総理そうりがいるわけでない。かがやほしひとひとつがそれぞれおおきな星座せいざ形成けいせいしている。たとえていえば、有力ゆうりょく家系かけい縦横じゅうおうつなげる真綿まわた星雲せいうんのような一族いちぞくなのである。政界せいかいじんならもと首相しゅしょう宮澤みやざわ喜一きいち鈴木すずき善幸ぜんこうふるくははやしずくじゅうろう吉田よしだしげるねやばつ地図ちずをもうすこひろくとれば、鳩山はとやま一郎いちろうきし信介しんすけ佐藤さとう栄作えいさく兄弟きょうだいなどにもつながる。小川おがわ一族いちぞくがこのような存在そんざいになったのは、女系じょけいつよさにもよるから、字義じぎどおりのだいねやばつなのである。このだいねやばつみなもと信州しんしゅう諏訪すわ戦前せんぜん代議士だいぎし司法しほう大臣だいじん鉄道てつどう大臣だいじんなどを歴任れきにんした小川おがわ平吉へいきちだ。このひとだいねやばつ真綿まわた大元おおもと、つまり繭玉まゆだまである。

という。

  • また、財界ざいかいじんとのつながりにかんしてえば三菱みつびし創業そうぎょうしゃ一族いちぞく岩崎いわさきとの姻戚いんせき関係かんけいがある。
    昭和しょうわ人名じんめい辞典じてん だい1かん 東京とうきょうへん』(1942ねん10がつ5にち帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃから発行はっこうされた『大衆たいしゅう人事じんじろくだい14はん底本ていほんとして編纂へんさんされた)524ぺーじによると、小川おがわ平吉へいきち長男ちょうなん一平いっぺいつま市川毛織いちかわけおりげん・イチカワ)顧問こもん杉本すぎもとはじめ当時とうじ日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこういん)のあねである。同書どうしょには杉本すぎもとつま岩崎いわさきかんわたる三菱みつびし財閥ざいばつ創業そうぎょうしゃ岩崎いわさき弥太郎やたろう三男さんなん地球ちきゅう科学かがくしゃ岩崎いわさきやすし祖父そふ)のさんじょとあることから、小川おがわ杉本すぎもとつうじて岩崎いわさきともつながっているのである。
宮澤みやざわ人々ひとびと

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ おか慶治けいじ本郷ほんごう教会きょうかいきょう会員かいいん[5]
  2. ^ 6月29にち免許めんきょ渡島ととう海岸かいがん鉄道てつどう鎌倉かまくら急行きゅうこう電気でんき鉄道てつどう天野山あまのさん電気でんき鉄道てつどう鶴見つるみ臨港りんこう鉄道てつどう阪神はんしん高速度こうそくど電鉄でんてつ淡路あわじ電気でんき鉄道てつどうかたなみなみ電気でんき鉄道てつどうみなみかず電気でんき鉄道てつどう参宮さんぐう急行きゅうこう電鉄でんてつ名古屋なごや急行きゅうこう電気でんき鉄道てつどう越中えっちゅう鉄道てつどう[18]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 人事じんじ興信録こうしんろく. 7はん』(大正たいしょう14ねん)をよん
  2. ^ a b c d e f g h i 日外にちがいアソシエーツへん政治せいじ家人かじんめい事典じてん』117ぺーじ日外にちがいアソシエーツ、1990ねん
  3. ^ きた呤吉『小川おがわ平吉へいきちおきな回顧かいこ
  4. ^ 政友せいゆうかい長老ちょうろう波乱はらん生涯しょうがいじる(昭和しょうわ17ねん2がつ6にち 毎日新聞まいにちしんぶん大阪おおさか))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p28 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ 佐々木ささき啓子けいこ婦人ふじん雑誌ざっししんおんなかい』の記事きじおよび執筆しっぴつしゃ学歴がくれき・キャリアからみる知識ちしきじんそう女子じょし教育きょういくかん学校がっこう選択せんたく』。電気通信大学でんきつうしんだいがく、2017ねん
  6. ^ 永井ながいかず "日比谷ひびや焼打やきうち事件じけん倉富くらとみ勇三郎ゆうさぶろう
  7. ^ a b c d e f g h 信濃しなの毎日新聞社まいにちしんぶんしゃへん信州しんしゅう人脈じんみゃくうえ)』17ぺーじ
  8. ^ 中村なかむら勝実かつみちょ信州しんしゅう大臣だいじんたち』 48ぺーじ
  9. ^ a b c 中村なかむら勝実かつみちょ信州しんしゅう大臣だいじんたち』49ぺーじ
  10. ^ きた、p.p.57。
  11. ^ 信州しんしゅう人脈じんみゃくうえ)』9ぺーじ
  12. ^ 駅名えきめい表示ひょうじきゅう仮名遣かなづかいにもどす、てつしょう厳命げんめい東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ4ねん4がつ10日とおか(『昭和しょうわニュース事典じてんだい2かん 昭和しょうわ4ねん-昭和しょうわ5ねん本編ほんぺんp444-445 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  13. ^ 鉄道てつどうピクトリアル』通巻つうかん695ごう p.102
  14. ^ 小川おがわもとてつしょう無罪むざいてん岡元おかもと総裁そうさい懲役ちょうえきねん東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ8ねん5がつ17にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp274-p275 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  15. ^ いちしん無罪むざい小川おがわもとてつしょう懲役ちょうえきねん東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ9ねん11月18にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp276)
  16. ^ 官報かんぽう 1936ねん11月26にち ろくさんさんぺーじ
  17. ^ 官報かんぽう 1937ねん1がつ13にち さんぺーじ
  18. ^ 鉄道てつどう免許めんきょじょう下付かふ」『官報かんぽう』1929ねん7がつ5にち 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  19. ^ 1929ねん7がつ3にちづけ 大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん 神戸大学こうべだいがく附属ふぞく図書館としょかん 新聞しんぶん記事きじ文庫ぶんこ
  20. ^ 鉄道てつどうピクトリアル』通巻つうかん695ごう p.110
  21. ^ 信州しんしゅう人脈じんみゃくうえ)』15ぺーじ
  22. ^ 猪野いいの健治けんじ侠客きょうかく条件じょうけん 吉田よしだいそよしつたえ』95-96ぺーじ
  23. ^ 信州しんしゅう人脈じんみゃくうえ)』16ぺーじ
  24. ^ 官報かんぽうだい343ごう叙任じょにん及辞れい」1928ねん2がつ22にち
  25. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい」1922ねん2がつ14にち
  26. ^ だいじゅうはん 大衆たいしゅう人事じんじろく』(昭和しょうわ9ねん)オよんぺーじより
  27. ^ 中村なかむら勝実かつみちょ信州しんしゅう大臣だいじんたち』 318ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • きた昤吉小川おがわ平吉へいきちおきな回顧かいこ』。政教せいきょうしゃ日本にっぽん日本人にっぽんじん』2(3)、p.55~66。1951ねん3がつ
  • 信濃しなの毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ信州しんしゅう人脈じんみゃくうえ)』 1966ねん 9-19ぺーじ
  • 小川おがわ平吉へいきち文書ぶんしょ研究けんきゅうかい小川おがわ平吉へいきち関係かんけい文書ぶんしょみすず書房しょぼう 1973ねん
    日記にっき電報でんぽうとう掲載けいさいちょうさく爆殺ばくさつ事件じけんにちちゅう平和へいわ交渉こうしょうとう研究けんきゅうにはかせない文献ぶんけんとして有名ゆうめい
  • 早川はやかわたかし日本にっぽん上流じょうりゅう社会しゃかいねやばつ』、鈴木すずき小川おがわ宮沢みやざわ 門閥もんばつゼロからのスタート(153-157ぺーじ角川書店かどかわしょてん 1983ねん
  • 昭和しょうわ人名じんめい辞典じてん だい1かん 東京とうきょうへん日本にっぽん図書としょセンター 1987ねん
  • 中村なかむら勝実かつみ信州しんしゅう大臣だいじんたち』 くぬぎ<いちい> 1996ねん 45-58ぺーじ
  • 三木みき京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう形成けいせい路線ろせん展開てんかい地域ちいき交通こうつう体系たいけい-」『鉄道てつどうピクトリアル』だい695ごう電気でんきしゃ研究けんきゅうかい、2000ねん12月、93-106ぺーじ 
  • 小川おがわいさお京阪けいはんグループの系譜けいふせん前期ぜんき太田おおたひかり凞社ちょう関係かんけい事業じぎょう中心ちゅうしんに-」『鉄道てつどうピクトリアル』だい695ごう電気でんきしゃ研究けんきゅうかい、2000ねん12月、107-119ぺーじ 
  • 佐藤さとうちょうたいごうばつ 地方ちほう豪族ごうぞくのネットワーク』、せいかんざい横断おうだんするちょうエリートだいねやばつ源流げんりゅう(442-457ぺーじたてふう書房しょぼう 2001ねん
  • はたいく日本にっぽんきん現代げんだい人物じんぶつ履歴りれき事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい 2002ねん
  • かみいちぎょうねやばつ 改訂かいてい新版しんぱん 特権とっけん階級かいきゅう盛衰せいすい系譜けいふ角川書店かどかわしょてん 2002ねん 198-199ぺーじ、205-207ぺーじ
  • 藤谷ふじたにひろしえつちょ井上いのうえ雅二まさじしゅう青春せいしゅんしゅうひろしゃ、(2019)、ISBN978-4-904213-66-7

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
井上いのうえただし四郎しろう
日本の旗 鉄道てつどう大臣だいじん
だい7だい:1927ねん - 1929ねん
次代じだい
江木えぎつばさ
先代せんだい
高橋たかはし是清これきよ
臨時りんじ兼任けんにん
日本の旗 司法しほう大臣だいじん
だい29だい:1925ねん
次代じだい
江木えぎつばさ