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上杉うえすぎ慎吉しんきち

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上杉うえすぎ 慎吉しんきち
1910ねんみかどだい助教授じょきょうじゅ時代じだい上杉うえすぎ慎吉しんきち
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1878-08-18) 1878ねん8がつ18にち
日本の旗 日本にっぽん福井ふくいけん
死没しぼつ (1929-04-07) 1929ねん4がつ7にち(50さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学ほうがく
両親りょうしん 上杉うえすぎひろし父親ちちおや
学問がくもん
学派がくは 神権しんけん学派がくは天皇てんのう主権しゅけんせつ
研究けんきゅう分野ぶんや 憲法けんぽうがく
研究けんきゅう機関きかん 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
陸軍りくぐんだい学校がっこう
海軍かいぐんだい学校がっこう
学位がくい 法学ほうがく博士はかせ1909ねん文部もんぶ大臣だいじん
特筆とくひつすべき概念がいねん 天皇てんのう機関きかんせつ論争ろんそう
影響えいきょうけた人物じんぶつ ゲオルグ・イェリネック
穂積ほづみ八束やつか
影響えいきょうあたえた人物じんぶつ みかどだい七生しちしょうしゃ国本こくほんしゃなど右翼うよく活動かつどう全般ぜんぱん
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上杉うえすぎ 慎吉しんきち
多磨たま霊園れいえんにある上杉うえすぎ慎吉しんきちはか

上杉うえすぎ 慎吉しんきちきゅう字体じたい上杉うえすぎ 愼吉しんきち、うえすぎ しんきち、1878ねん明治めいじ11ねん8がつ18にち - 1929ねん昭和しょうわ4ねん4がつ7にち)は、日本にっぽん憲法けんぽう学者がくしゃ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ天皇てんのう主権しゅけんせつ主張しゅちょうする神権しんけん学派がくはきみけん学派がくは)であり、天皇てんのう機関きかんせつはげしい論争ろんそう展開てんかいした。また、いちくん万民ばんみんろん立場たちばから普通ふつう選挙せんきょ導入どうにゅう主張しゅちょうした。学位がくい法学ほうがく博士はかせ(1909ねん文部もんぶ大臣だいじん)。穂積ほづみ八束やつか師事しじおし竹内たけうち久治きゅうじ太田おおた耕造こうぞうきし信介しんすけなど。

生涯しょうがい

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1878ねん明治めいじ11ねん8がつ18にち福井ふくいけん足羽あすわぐん福井ふくいまちげん福井ふくいまれ。ちち上杉うえすぎひろし大聖寺だいしょうじはんげん石川いしかわけん加賀かがはんだった。

学生がくせい時代じだい

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旧制きゅうせいだいよん高等こうとう学校がっこう補充ほじゅう旧制きゅうせいだいよん高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう[1]よんだか法科ほうかいちねん下級かきゅう京都きょうと学派がくは憲法けんぽう学者がくしゃ佐々木ささき惣一そういちがいる[2]

1898ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく進学しんがく憲法けんぽうがく教授きょうじゅ天皇てんのう主権しゅけんせつ穂積ほづみ八束やつか師事しじし、憲法けんぽうまなぶ。

1903ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ学科がっかだいさんせき卒業そつぎょう明治天皇めいじてんのうより恩賜おんし銀時計ぎんどけい授与じゅよされる。同年どうねん政治せいじ学科がっか成績せいせき席次せきじは、首席しゅせき小野おの義一ぎいち大蔵おおくら官僚かんりょう高文たかふみ次席じせき)、2小川おがわごう太郎たろう大蔵おおくら官僚かんりょう商工しょうこうしょう鉄道てつどうしょう)、3上杉うえすぎ、4馬場ばば鍈一大蔵おおくら官僚かんりょう高文たかふみ首席しゅせき)。

憲法けんぽう学者がくしゃ

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一木いちき喜徳郎きとくろう推薦すいせんにより[3]同年どうねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく助教授じょきょうじゅ行政ぎょうせいほう就任しゅうにん。このころ上杉うえすぎキリスト教きりすときょう傾倒けいとうしたり、1905ねん公刊こうかんした『帝国ていこく憲法けんぽう』・よく1906ねん発表はっぴょうした『比較ひかく各国かっこく憲法けんぽうろん』では国家こっか法人ほうじんせつ立場たちば穂積ほづみせつ批判ひはんする立場たちばだった。

1906ねんから1909ねんまでドイツへ留学りゅうがく(「西遊せいゆう研学けんがく」)。ハイデルベルク大学だいがくまなび、ゲオルク・イェリネック親密しんみつ交流こうりゅうする[3]帰国きこくもイェリネック夫妻ふさい手紙てがみのやりりをおこない、イェリネックの死去しきょには弔辞ちょうじ日本にっぽん発表はっぴょうしている[3]。ドイツ滞在たいざいには、トルコ憲法けんぽうカールスルーエ市政しせい研究けんきゅうおこなったほか、日本にっぽん西洋せいよう状況じょうきょうをドイツ論文ろんぶん発信はっしんした[3]。また、カミラ・イェリネック(ゲオルクの夫人ふじん)の女給じょきゅう救済きゅうさい運動うんどう影響えいきょうはい運動うんどう接近せっきんした[3]

国家こっか法人ほうじんせつとなえていたイェリネックの指導しどうけて以降いこう穂積ほづみせつ後継こうけいしゃ自任じにんするようになった。陸軍りくぐんだい学校がっこう海軍かいぐんだい学校がっこう教授きょうじゅつとめ、皇族こうぞくにも進講しんこうし、同僚どうりょうかけい克彦かつひこは「みことのりそうにん行政ぎょうせいかんにして教授きょうじゅ憲法けんぽう学説がくせつしたしまざるもの殆んど悉無といふべし」とひょうしている[4][5]明治大学めいじだいがくでも講師こうしつとめたが[6]乗馬じょうばふく姿すがた教壇きょうだんち、「天下てんか上杉うえすぎが」という講義こうぎスタイルが明大めいだいせいあいだ不評ふひょうい、ついにはボイコット事件じけんまできた[7]

1910年代ねんだいはいると「天皇てんのうそく国家こっか[8]かみとすべきは唯一ゆいいつ天皇てんのう」「天皇てんのう絶対ぜったい無限むげん」「現人神あらひとがみ[9]とする立場たちばからおなじく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく美濃部みのべ達吉たつきちした天皇てんのう機関きかんせつ批判ひはんするようになる(天皇てんのう機関きかんせつ論争ろんそう)。陸軍りくぐん元帥げんすい山縣やまがた有朋ありとも接触せっしょく[10]、1913ねんには上杉うえすぎ発起人ほっきにんけん幹事かんじ大島おおしま健一けんいち江木えぎせんこれ杉浦すぎうら重剛しげたけかけい克彦かつひこ[11]きりはな学会がっかい創設そうせつ[12]1916ねん吉野よしの作造さくぞう民本主義みんぽんしゅぎ批判ひはん1920ねんには森戸もりと辰男たつお発表はっぴょうした論文ろんぶんクロポトキン社会しゃかい思想しそう研究けんきゅう」を「学術がくじゅつ研究けんきゅうず、純然じゅんぜんたる政府せいふ主義しゅぎ宣伝せんでん[13]排撃はいげきして森戸もりと事件じけんこす一方いっぽう1923ねんからのちに「資本しほんろんかい」や葬儀そうぎ参加さんかするほど高畠たかはた素之もとゆき親交しんこうふかめて高畠たかはた一派いっぱ経綸けいりんがくめい設立せつりつするなど国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうすすめ、1926ねんには建国けんこくかい会長かいちょう就任しゅうにん顧問こもん平沼ひらぬま騏一郎きいちろう頭山とうやまみつる荒木あらき貞夫さだお理事りじちょう赤尾あかおさとし書記しょきちょう高畠たかはた門下もんか津久井つくい竜雄たつお)。甘粕あまかす事件じけん甘粕あまかす正彦まさひこ擁護ようごから軍部ぐんぶ石光いしみつしんしん福田ふくだ雅太郎まさたろう山縣やまがた有朋ありともともむすびついた[14]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)に水野みずの文相ぶんしょう優諚ゆうじょう問題もんだい発生はっせいすると田中たなか義一ぎいち内閣ないかく痛烈つうれつ批判ひはん。なお、対立たいりつする美濃部みのべ達吉たつきち田中たなか内閣ないかく批判ひはん声明せいめい発表はっぴょうしている。正義せいぎかん観点かんてんから「田中たなか内閣ないかく死刑しけいあたえよ」と喝破かっぱした[15]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)、肋膜炎ろくまくえんわずら東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく稲田いなだ内科ないか入院にゅういん加療かりょうつづけたが同年どうねん4がつ7にち死去しきょした[16]

影響えいきょう

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上杉うえすぎ学説がくせつ熱心ねっしん支持しじする学生がくせいたち国家こっか主義しゅぎ先駆さきがけとなる木曜もくようかい形成けいせいして右翼うよく学生がくせい運動うんどう源流げんりゅうとなり[17]、1918ねん上杉うえすぎ影響えいきょう[18]でつくられた興国こうこく同志どうしかいのち上杉うえすぎ弟子でし[19]竹内たけうち久治きゅうじ太田おおた耕造こうぞうによって国本こくほんしゃあらためて平沼ひらぬま騏一郎きいちろう東郷とうごう平八郎へいはちろうぐんせいざい官界かんかい有力ゆうりょくしゃかつ巨大きょだい右翼うよく団体だんたいとなり、1925ねん結成けっせいされたみかどだい七生しちしょうしゃはのち4にん七生しちしょうしゃメンバーが1932ねんきた血盟けつめいだん事件じけん犯行はんこうグループに参加さんかした(このうち四元よつもと義隆よしたか池袋いけぶくろただし釟郎ひさし木田きだゆうひろし金鶏きんけい学院がくいん塾生じゅくせい)。

おしきし信介しんすけ[20]木曜もくようかい興国こうこく同志どうしかい会員かいいん[21])、安岡やすおか正篤まさあつ[20]福田ふくだ赳夫たけお[22][23]などに大学だいがくみずからの講座こうざ後継こうけいしゃとしてのこるようにすすめたが、かれらは官界かんかいすすんでいる。

興国こうこく同志どうしかい会員かいいんだったみのむね上杉うえすぎおなじように機関きかんせつ排撃はいげきする国体こくたい明徴めいちょう運動うんどうせ、国体こくたい擁護ようご連合れんごうかい中心ちゅうしんてき存在そんざいとなった。

特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ

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また、上杉うえすぎおしなかには、内務ないむ官僚かんりょうとなり内務省ないむしょう特別とくべつ高等こうとう警察けいさつつとめたものすくなくなかったため、かれらをつうじて上杉うえすぎ慎吉しんきち主張しゅちょうした天皇てんのうぞう治安ちあん維持いじほうさだめる処罰しょばつ事項じこうである国体こくたい(天皇てんのうせい)否定ひてい基準きじゅんひとつにもなっていたといわれる[だれによって?]

関東大震災かんとうだいしんさいにおける発言はつげん

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1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にちきた関東大震災かんとうだいしんさいのち、すでに同日どうじつから朝鮮ちょうせんじん暴動ぼうどう流言りゅうげん流布るふしており、2にち正午しょうごまでには東京とうきょう全市ぜんし横浜よこはま全市ぜんしつたわった[24]。これは住民じゅうみん口伝くちづたえだけではなく、官憲かんけん措置そちによるところもおおきく、上杉うえすぎは、同年どうねん10がつ、『国民こくみん新聞しんぶん』において、9月2にちから3にちにわたり、震災しんさい一帯いったい流言りゅうげん伝播でんぱし、関東かんとう全体ぜんたい動乱どうらん情勢じょうせいいたったのは、警察けいさつの「大袈裟おおげさなる宣伝せんでん」によるものとし、警察けいさつが「無根むこん流言りゅうげん蜚語ひご流布るふして民心みんしんさわがせ、ふるえ火災かさい惨禍さんか一層いっそうだいならしめたるにたいして」責任せきにんうべきだと指摘してき批判ひはんしている[25]

著作ちょさく

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しゅとして松田まつだ義男よしお作成さくせい上杉うえすぎ慎吉しんきち著作ちょさく目録もくろく」(2011ねん7がつ0にち改訂かいてい2023ねん1がつ20日はつか)にる。

著書ちょしょ

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  • 行政ぎょうせいほう原論げんろん』(有斐閣ゆうひかく書房しょぼう、1904ねん11月18にち
  • 帝国ていこく憲法けんぽう』(日本にっぽん大学だいがく、1905ねん10がつ17にち
  • 比較ひかく各国かっこく憲法けんぽうろん』(有斐閣ゆうひかく書房しょぼう、1906ねん6がつ14にち
    • かんやく比較ひかく各国かっこく憲法けんぽうろん東亜とうあ公司こうし書籍しょせき、1906ねん12月31にち
  • カールスルーエ公共こうきょう施設しせつ』(内務省ないむしょう地方ちほうきょく、1909ねん10がつ
  • 婦人ふじん問題もんだい』(いわおまつどう書店しょてん、1910ねん11月1にち
    • 再版さいはんさんしょろう、1910ねん12月30にち
  • 国体こくたい憲法けんぽう運用うんよう』(偕行社かいこうしゃ、1911ねん1がつ20日はつか
  • 国民こくみん教育きょういく帝国ていこく憲法けんぽう講義こうぎぜん』(有斐閣ゆうひかく書房しょぼう、1911ねん12月8にち
    • だい3はん:1913ねん12月
  • 帝国ていこく憲法けんぽう綱領こうりょうぜん』(有斐閣ゆうひかく、1912ねん6がつ20日はつか
    • 訂正ていせい増補ぞうほ3はん:1914ねん4がつ15にち
    • 訂正ていせい増補ぞうほ4はん:1914ねん9がつ25にち
  • 国体こくたい憲法けんぽう運用うんよう』(偕行社かいこうしゃ、1913ねん
  • 帝国ていこく憲法けんぽうじゅつよし』(有斐閣ゆうひかく書房しょぼう、1914ねん12月15にち
    • ぞうてい改版かいはん21はん有斐閣ゆうひかく、1923ねん3がつ
  • 国体こくたい憲法けんぽう憲政けんせい』(有斐閣ゆうひかく書房しょぼう、1916ねん6がつ25にち
  • 議会ぎかい政党せいとう政府せいふ』(有斐閣ゆうひかく書房しょぼう、1916ねん9がつ5にち
  • 帝国ていこく憲法けんぽう講話こうわ』(金光かねみつきょう本部ほんぶへんかん、1916ねん10がつ20日はつか
  • デモクラシー国体こくたい』(金光かねみつきょう本部ほんぶ、1919ねん6がつ15にち
  • 暴風ぼうふうらい』(洛陽らくようどう、1919ねん11月20にち
  • 国体こくたい精華せいか発揚はつよう 真正しんしょう日本にっぽん建設けんせつ挙国一致きょこくいっち提唱ていしょう』(洛陽らくようどう、1919ねん12月12にち
  • 憂国ゆうこくさけび』(東亜とうあどう、1921ねん3がつ14にち
  • 日本人にっぽんじんだい使命しめいしん機運きうん』(けいぶんかん、1921ねん8がつ15にち
  • 国家こっかしんろん』(けいぶんかん、1921ねん9がつ25にち
  • しん稿こう帝国ていこく憲法けんぽう』(有斐閣ゆうひかく、1922ねん9がつ28にち
    • 再版さいはん有斐閣ゆうひかく、1924ねん5がつ26にち
    • しん稿こう帝国ていこく憲法けんぽう だい2へん国体こくたい)』(さくら耶書いん、2015ねん) - 初版しょはんだいへん国体こくたい」を刊行かんこう
  • 甘粕あまかす大尉たいいことニ就テ』(1923ねん
  • 大権たいけん推移すいいおそれル』(1924ねん6がつ
  • しん稿こう憲法けんぽうじゅつよし』(有斐閣ゆうひかく、1924ねん7がつ10日とおか
    • 増補ぞうほ改訂かいていばん:『しん稿こう憲法けんぽうじゅつぜん』(有斐閣ゆうひかく、1925ねん8がつ5にち
    • だい16はん:『しん稿こう憲法けんぽうじゅつよし』(有斐閣ゆうひかく、1944ねん3がつ5にち
  • 日米にちべい衝突しょうとつ必至ひっし国民こくみん覚悟かくご』(だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい、1924ねん9がつ18にち
  • 日米にちべい関係かんけい国民こくみん自覚じかく』(金光かねみつきょう典籍てんせき出版しゅっぱんへんかん、1924ねん9がつ30にち
  • 国民こくみん精神せいしんてき一致いっち』(教化きょうか団体だんたい聯合れんごうかい、1925ねん4がつ2にち
  • ひろしせん大成たいせい運動うんどう趣旨しゅし』(ひろしせん大成たいせいかい、1925ねん5がつ25にち
  • 普通ふつう選挙せんきょ精神せいしん同胞どうほう国民こくみんぐ』(けいぶんかん、1925ねん8がつ1にち
  • 国家こっかろん』(有斐閣ゆうひかく、1925ねん9がつ22にち
  • 国体こくたいろん』(有斐閣ゆうひかく、1925ねん9がつ22にち
  • てよ無産むさんしゃ』(1926ねん3がつ
  • 『斯のしんこくすくいはん』(大成たいせいかい、1926ねん7がつ4にち
  • おくちょういちしん普通ふつう選挙せんきょ』(中央ちゅうおう報徳会ほうとくかい、1926ねん9がつ17にち
  • 新興しんこう勢力せいりょく国事こくじあたるのだいいち着手ちゃくしゅ』(日本にっぽん学術がくじゅつ普及ふきゅうかい、1926ねん10がつ10日とおか
  • 政治せいじじょう国民こくみん総動員そうどういん』(日本にっぽん学術がくじゅつ普及ふきゅうかい、1927ねん2がつ11にち
  • 選挙せんきょ及普どおり選挙せんきょ』(福岡ふくおかけん社会しゃかい教育きょういく、1927ねん4がつ10日とおか
  • 帝国ていこく憲法けんぽう逐條ちくじょう講義こうぎ』(日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1935ねん5がつ15にち) -『現代げんだい法学ほうがく全集ぜんしゅう』(だい1・2・3かん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1928ねん2がつ8にち、4がつ15にち、5月25にち掲載けいさい大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう講義こうぎ」の合冊がっさつ
  • 帝国ていこく憲法けんぽう』(国文こくぶんしゃ出版しゅっぱん、1929ねん2がつ15にち
  • 日本にっぽん運命うんめいいち事件じけん予言よげん』(日本にっぽん学術がくじゅつ普及ふきゅうかい、1933ねん9がつ18にち
    • 改訂かいていばん:9月26にち
  • 精神せいしん動員どういん根柢こんてい』(日本にっぽん学術がくじゅつ普及ふきゅうかい、1937ねん9がつ15にち
  • 暴風ぼうふうらい 普通ふつう選挙せんきょ精神せいしん おくちょういちしん普通ふつう選挙せんきょ』(書肆しょししんすい、2019ねん1がつ

共編きょうへんちょ

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  • 独逸どいつ農村のうそん実況じっきょう[上杉うえすぎ慎吉しんきち講演こうえん]おうしゅう農家のうか家庭かてい[広瀬ひろせ次郎じろう講演こうえん]』(博文ひろぶみかん印刷所いんさつしょ売品ばいひん、1911ねん - 「独逸どいつ農村のうそん実況じっきょう
  • 上杉うえすぎ慎吉しんきちへんかん穂積ほづみ八束やつか博士はかせろん文集ぶんしゅう』(1913ねん12月25にち
  • 中田なかたかおるへん宮崎みやざき教授きょうじゅ在職ざいしょく廿にじゅうねん記念きねんろん文集ぶんしゅう』(有斐閣ゆうひかく書房しょぼう、1914ねん5がつ20日はつか) - 「国務大臣こくむだいじん各省かくしょう大臣だいじん
  • ハンス・デルブリユックしる後藤ごとう新平しんぺいわけ政治せいじ民意みんい』(、有斐閣ゆうひかく、1915ねん4がつ28にち) - 「解題かいだい
  • 上杉うえすぎ慎吉しんきちへん憲政けんせい大意たいい法学ほうがく博士はかせ穂積ほづみ八束やつか先生せんせい遺稿いこう』(、憲政けんせい大意たいい発行はっこうしょ、1917ねん3がつ23にち
    • 再刊さいかん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1935ねん7がつ10日とおか
  • だいさんじゅう八帝国議会解散後名士演説集』(さんえいしゃ、1917ねん4がつ10日とおか) - 「帝国ていこく憲政けんせい本義ほんぎろんじて寺内てらうち首相しゅしょう訓示くんじ演説えんぜつおよぶ」
  • 布教ふきょう講習こうしゅうかい講演こうえんろく だい4輯』(はちすむね宗務しゅうむいん、1918ねん7がつ10日とおか) - 「帝国ていこく憲法けんぽう大意たいい
  • 『此一途いっとじゅう大家たいか執筆しっぴつ』(太田おおたじゅん片岡かたおかひろしへん、警眼しゃ、1922ねん10がつ10日とおか) - 「ひと相関そうかん連続れんぞく
  • 近代きんだい無類むるい膝栗毛ひざくりげ文明ぶんめい叛逆はんぎゃく』(小原おはらけんちょ近代きんだい無類むるい膝栗毛ひざくりげ刊行かんこうかい、1923ねん3がつ15にち) - 「ついで
  • 貴族きぞくいん改革かいかく論集ろんしゅう』(報知ほうち新聞しんぶん出版しゅっぱん、1924ねん11月15にち) - 「ゆう議員ぎいん選出せんしゅつ方法ほうほうに就て貴族きぞくいん改革かいかくいち提案ていあん
  • たい米国べいこくさく論集ろんしゅう』(読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1924ねん12月25にち) - 「日本にっぽん国民こくみん覚悟かくご
  • 川島かわしまきよし治郎じろうちょ日米にちべいいちせんろん』(けいぶんかん、1925ねん2がつ18にち) - 「ついで
  • 純正じゅんせいせん講演こうえんかい速記そっきろく』(純正じゅんせいせん期成きせいかい、1925ねん3がつ1にち) - 「げん政府せいふせん法案ほうあん反対はんたいする所以ゆえん
  • 藤田ふじた政平まさへいへんかん自治じち講習こうしゅうかい講演こうえんしゅう』(1925ねん11月15にち) - 「国家こっか本質ほんしつ国体こくたい及憲ほう
  • うずらさん学堂がくどうへんかんぼくれつ問題もんだい批判ひはん』(1926ねん10がつ10日とおか) - 「ぼくれつ問題もんだい解決かいけつ唯一ゆいいつ方策ほうさく
  • 『瞻仰』(瞻仰かい、1926ねん11月1にち) - 「国家こっか信仰しんこう
  • 帝国ていこく政治せいじ雄弁ゆうべん協会きょうかいへんかん国民こくみん政治せいじ言論げんろんせん』(1926ねん12月13にち) - 「ひろしせん即行そっこう政治せいじてき準備じゅんび
  • 社会しゃかい教化きょうか指針ししん』(てんはれあかりかい、1927ねん2がつ) - 「国民こくみん精神せいしんてき一致いっち
  • 現代げんだい法学ほうがく全集ぜんしゅう』(だい1・2・3かん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1928ねん2がつ8にち、4がつ15にち、5月25にち) - 「大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう講義こうぎ
  • だい日本にっぽん護国ごこくかい講演こうえん輯録』(だい日本にっぽん護国ごこくかい、1929ねん4がつ10日とおか) - 「大和やまと民族みんぞくちから
  • 東京とうきょう雄弁ゆうべん協会きょうかいへん『これからのあたらしい演説えんぜつ』(大阪おおさかどう、1930ねん1がつ20日はつか) - 「国民こくみん精神せいしん作興さっこう
  • たけ村民そんみんろうへん経済けいざいがく批判ひはんへの契機けいき』(さんいち書房しょぼう、1974ねん2がつ15にち) - 「上杉うえすぎ慎吉しんきち社会しゃかいがく遺稿いこう抜粋ばっすい)」

講義こうぎろく

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  • 法学ほうがく講義こうぎろくだいいちねんきゅう明治めいじさんじゅうなな年度ねんどだいじゅういちごう』(日本にっぽん大学だいがく、1904ねん1がつ13にち) - 「憲法けんぽう 高等こうとう專攻せんこう講義こうぎ
  • 法政大学ほうせいだいがく39年度ねんどだい3ねんきゅう講義こうぎろく 行政ぎょうせいほう各論かくろん』(法政大学ほうせいだいがく、1906ねん
  • 明治大学めいじだいがく法律ほうりつ42年度ねんどだい1学年がくねん講義こうぎろく 憲法けんぽう』(明治大学めいじだいがく出版しゅっぱん、1909ねん
  • 明治大学めいじだいがく警察けいさつ44年度ねんど講義こうぎろく 行政ぎょうせいほう』(明治大学めいじだいがく出版しゅっぱん、1911ねん
  • 中央大学ちゅうおうだいがく45年度ねんど法律ほうりつだいさん学年がくねん講義こうぎろく 行政ぎょうせいほう』(中央大学ちゅうおうだいがく、1912ねん
  • 中央大学ちゅうおうだいがく法律ほうりつ45ねんだい1学年がくねん講義こうぎろく 憲法けんぽう』(中央大学ちゅうおうだいがく、1912ねん
  • 明治大学めいじだいがく警察けいさつ45ねん講義こうぎろく 憲法けんぽう』(明治大学めいじだいがく出版しゅっぱん、1912ねん

パンフレット

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  • 独逸どいつ瓦解がかい原因げんいんに就て』(1921ねん2がつ
  • 全国ぜんこく軍人ぐんじん諸君しょくんぐ』(1923ねん12月15にち
  • 議会ぎかい解散かいさんまえ解散かいさんしてせん即行そっこうすべし』(1923ねん
  • てよ無産むさん愛国あいこくしゃ』(1924ねん1がつ
  • 少壮しょうそう憂国ゆうこく同志どうししめす』(1924ねん3がつ
  • 普通ふつう選挙せんきょ準備じゅんびかい設立せつりつせよ』(1925ねん1がつ
  • 政友せいゆうほんとうろん』(1925ねん1がつ

リーフレット

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  • 統帥とうすいけん国務大臣こくむだいじん責任せきにんとに就てあるといこたえふ』(1925ねん2がつ
  • 全国ぜんこく同志どうしげきして純正じゅんせいせん期成きせいかい解散かいさん宣言せんげんす』(1925ねん3がつ

翻訳ほんやく

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  • スコット・ニアリングしる上杉うえすぎ慎吉しんきち稻葉いなば一也かずやどもやく世界せかい征服せいふくせんとするべい大帝たいていこく』(未来社みらいしゃ、1925ねん5がつ22にち

家族かぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ きん現代げんだいじん履歴りれき事典じてんはたいく より。
  2. ^ だいよん高等こうとう学校がっこう一覧いちらん 明治めいじ30-32ねん
  3. ^ a b c d e 今野こんのはじめ「ゲオルク・イェリネックとさんにん日本人にっぽんじん留学生りゅうがくせい—―美濃部みのべ達吉たつきち上杉うえすぎ愼吉しんきち吉野よしの作造さくぞうにとってのハイデルベルク」日本にっぽんフンボルト協会きょうかい中部ちゅうぶ支部しぶ2021年度ねんど年次ねんじ総会そうかい
  4. ^ 立花たちばなたかし天皇てんのう東大とうだい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう上巻じょうかん430ぺーじ
  5. ^ 上杉うえすぎ先生せんせいを憶ふ』、七生しちしょうしゃ、1930ねん
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伝記でんき研究けんきゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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