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水野みずの文相ぶんしょう優諚ゆうじょう問題もんだい

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水野みずの文相ぶんしょう優諚ゆうじょう問題もんだい(みずのぶんしょうゆうじょうもんだい)は、1928ねん発生はっせいした田中たなか義一ぎいち内閣ないかく文部もんぶ大臣だいじん水野みずの錬太郎れんたろう進退しんたい問題もんだいめぐ政争せいそう

内容ないよう[編集へんしゅう]

1928ねんだい16かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおいて、内務ないむ大臣だいじん鈴木すずき喜三郎きさぶろうだい規模きぼ選挙せんきょ干渉かんしょうおこない、野党やとう立憲りっけん民政みんせいとう無産むさん政党せいとう進出しんしゅつめようとしたが、これが内外ないがいからの非難ひなんびて辞任じにんまれた。

そこで内閣ないかく総理そうり大臣だいじん田中たなか義一ぎいちは、逓信ていしん大臣だいじん望月もちづき圭介けいすけ後任こうにん内務ないむ大臣だいじん任命にんめいし、いた逓信ていしん大臣だいじん地位ちいには田中たなか首相しゅしょう自身じしん政界せいかいりをすすめた同郷どうきょう財界ざいかいじん久原くはら房之助ふさのすけ任命にんめいしようとした。だが久原くはら今回こんかい選挙せんきょはつ当選とうせんした新人しんじん議員ぎいんであることにくわえ、久原くはら財閥ざいばつきずきながら経営けいえい失敗しっぱいから1だい身売みうりにまでまれた経歴けいれきから、政治せいじとしての資質ししつにも疑問ぎもんたれていた。久原くはら大臣だいじん登用とうようには、大蔵おおくら大臣だいじん三土みつち忠造ちゅうぞう文部もんぶ大臣だいじん水野みずの錬太郎れんたろうつよ反対はんたいしたが、田中たなか首相しゅしょう意思いしわらず、憤慨ふんがいした水野みずの文相ぶんしょう5がつ20日はつか大臣だいじん辞表じひょう提出ていしゅつした。

5月23にちおこなわれた望月もちづき久原くはら親任しんにんしき直後ちょくご昭和しょうわ天皇てんのうからの優諚ゆうじょう慰留いりゅう発言はつげん)をけた水野みずの文相ぶんしょうは、辞表じひょう撤回てっかいしたとの声明せいめいした。これにたい立憲りっけん民政みんせいとう貴族きぞくいんは、田中たなか首相しゅしょう水野みずの文相ぶんしょう事態じたいまるおさめるために天皇てんのう発言はつげん政治せいじてき利用りようしたと非難ひなんこえげ、世論せろんはげしく反発はんぱつした。政府せいふは「水野みずの文相ぶんしょう優諚ゆうじょうけたのは辞表じひょう撤回てっかいのちである5月22にちであり、天皇てんのう意向いこう辞表じひょう撤回てっかいしたわけではない」と弁明べんめいして事態じたい沈静ちんせいはかったが、非難ひなんはげしさをすばかりであり、5月24にち水野みずの文相ぶんしょう辞意じい表明ひょうめい田中たなか首相しゅしょうがこれを天皇てんのう裁可さいかされ、辞職じしょく決定けっていした。

5月30にちには新渡戸にとべ稲造いなぞう美濃部みのべ達吉たつきち上杉うえすぎ慎吉しんきち学者がくしゃ17めい田中たなか首相しゅしょう批判ひはん声明せいめい発表はっぴょう華族かぞく出身しゅっしん議員ぎいんおおく、政党せいとうないかく成立せいりつはその存在そんざいかん低下ていかさせていた貴族きぞくいんでは、政党せいとうないかくおよ与党よとう立憲りっけん政友せいゆうかい攻撃こうげき好機こうきとして田中たなか批判ひはん激化げきかさせ、6月3にちには研究けんきゅうかい火曜かようかいどうなりかい同和どうわかい公正こうせいかい貴族きぞくいん主要しゅよう5会派かいは共同きょうどうで、政府せいふ問責もんせき声明せいめい発表はっぴょうした。

6月4にちにはちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん発生はっせい。これにたった政府せいふ対応たいおうつたなさはさらに帝国ていこく議会ぎかい世論せろん双方そうほう硬化こうかさせ、1929ねん2がつ22にちにはあらためて政府せいふ問責もんせき決議けつぎ採択さいたくされた。田中たなか内閣ないかくそう辞職じしょくはそれから4ヵ月かげつのことであった。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

筒井つついきよしちゅう昭和しょうわせん前期ぜんき政党せいとう政治せいじ ――だい政党せいとうせいはなぜ挫折ざせつしたのか』ちくま新書しんしょ、2012ねん