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高畠たかはた素之もとゆき

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高畠たかはた素之もとゆき
人物じんぶつ情報じょうほう
ぜん 高畠たかはた素之もとゆき
生誕せいたん 1886ねん1がつ4にち
群馬ぐんまけん前橋まえばし
死没しぼつ (1928-12-13) 1928ねん12月13にち(42さいぼつ
国籍こくせき 日本にっぽん
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 哲学てつがく・マルクスまなぶ
おも業績ぎょうせき カール・マルクス『資本しほんろん全訳ぜんやく
主要しゅよう作品さくひん 社會しゃかい主義しゅぎ進化しんかろん
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高畠たかはた 素之もとゆき(たかばたけ もとゆき、1886ねん1がつ4にち - 1928ねん12月23にち)は日本にっぽん社会しゃかい思想家しそうか哲学てつがくしゃ資本しほんろん全訳ぜんやくおこない、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎとなえた。

人物じんぶつ

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きゅう前橋まえばしはん子息しそくクリスチャンとなり同志社大学どうししゃだいがくはいるも、途中とちゅうキリスト教きりすときょう中退ちゅうたい高崎たかさき社会しゃかい主義しゅぎ雑誌ざっし東北とうほく評論ひょうろん』を発刊はっかん、1908ねん新聞紙しんぶんし条例じょうれいにより禁固きんこ2ヶ月かげつけい入獄にゅうごく獄中ごくちゅう英訳えいやくのカール・マルクス『資本しほんろん』(1867ねん出版しゅっぱん)に出合であう。

1911ねん売文ばいぶんしゃはい社会しゃかい主義しゅぎ活動かつどうていす。1915ねんさかい利彦としひこ山川やまかわひとしらと『しん社会しゃかい』を発行はっこうすることで、マルクス主義まるくすしゅぎ紹介しょうかいした。とくに1917ねんからカール・カウツキーの『資本しほんろん解説かいせつ』(原題げんだい『カール・マルクスの経済けいざい学説がくせつ』、1887ねん出版しゅっぱん)を翻訳ほんやくしたことは、かれマルクス研究けんきゅうしゃとしての地位ちい確固かっこのものとした。

一方いっぽうおりからのロシア革命かくめい影響えいきょうけ、1918ねん1がつ、『しん社会しゃかい』に「政治せいじ運動うんどう経済けいざい運動うんどう」を発表はっぴょうし、山川やまかわひとし荒畑あらはた寒村かんそんらと社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう方法ほうほうろんをめぐってあらそった。こののち国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ傾向けいこうふかめたため、さかい利彦としひこ山川やまかわひとしらとは分裂ぶんれつし、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう旗手きしゅとなる。

1919ねんから1925ねんにかけて福田ふくだ徳三とくぞうらとともにカール・マルクスの『資本しほんろん日本にっぽんはつ全訳ぜんやく成功せいこうし、当時とうじのマルクス研究けんきゅう主要しゅよう研究けんきゅうしゃされながらも、右翼うよく団体だんたい国粋こくすい団体だんたい提携ていけいして右傾うけい傾向けいこうふかめた。1923ねん1がつ上杉うえすぎ慎吉しんきちらとけいりんがくめい設立せつりつした[1]翻訳ほんやく執筆しっぴつほん多数たすう発刊はっかんした。

生涯しょうがい

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高畠たかはた素之もとゆき生涯しょうがいおおきくみっつの時期じきけられる。(1)生誕せいたんから社会しゃかい主義しゅぎ思想家しそうかとしてつまで、(2)そこから国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ提唱ていしょうするまでのいわゆる正統せいとうマルクス主義まるくすしゅぎしゃ時代じだい、(3)国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ提唱ていしょうから晩年ばんねんまでである。

だいいち 生誕せいたん

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高畠たかはたは、1886ねん明治めいじ19ねん)1がつ4にちきゅう前橋まえばしはんおとことして群馬ぐんまけん前橋まえばしうまれた。

地元じもと旧制きゅうせい前橋まえばし中学ちゅうがく入学にゅうがく在学ざいがくちゅう前橋まえばしおとずれた海老名えびな弾正だんじょう木下きのした尚江なおえ講演こうえんき、キリストきょう社会しゃかい主義しゅぎ影響えいきょうける。

1906ねん明治めいじ39ねん)、前橋まえばし中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう経済けいざいてき問題もんだいから同志社どうししゃ神学しんがく奨学しょうがくきん給付きゅうふされていた)に入学にゅうがくし、哲学てつがく宗教しゅうきょうまなぶ。高畠たかはた同志社どうししゃ入学にゅうがくにち戦争せんそう直後ちょくごであった。そのため平民へいみんしゃけい社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう影響えいきょうけ、遠藤えんどうとも四郎しろう[2]伊庭いばたかし[3]と、同志社どうししゃない社会しゃかい主義しゅぎ宣伝せんでんした。そのため在学ざいがくいちねん程度ていど退学たいがく社会しゃかい主義しゅぎしゃとして著名ちょめいであったさかい利彦としひこたよるも、相手あいてにされず郷里きょうり前橋まえばしもどった。

前橋まえばしもどった高畠たかはたは、1908ねん明治めいじ41ねん)5がつ遠藤えんどうともよんろうらと『東北とうほく評論ひょうろん』を発行はっこうし、地元じもと柳川やないごまち社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう第一歩だいいっぽす。このころ高畠たかはたは、時代じだい影響えいきょうから正統せいとう社会しゃかい主義しゅぎ論陣ろんじんっていた。1908ねん明治めいじ41ねん)には赤旗あかはた事件じけんたいする筆禍ひっかわれ、高畠たかはた編集へんしゅうしゃとして禁錮きんこ4がつ判決はんけつけた。

だい 正統せいとうマルクス主義まるくすしゅぎしゃ 

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1908ねん出所しゅっしょした高畑たかはたは、あらたな運動うんどう可能かのうせいもと神戸こうべ大阪おおさか名古屋なごや放浪ほうろう京都きょうとではだいさん高等こうとう学校がっこう英語えいご教師きょうしケデーの門番もんばんをつとめたほか、夜間やかん学校がっこう英語えいご教師きょうしつとめた。

一方いっぽう、1910ねん明治めいじ43ねん)9がつには、社会しゃかい主義しゅぎしゃで『共産党きょうさんとう宣言せんげん翻訳ほんやくしゃさかい利彦としひこが、大逆だいぎゃく事件じけん壊滅かいめつした日本にっぽん社会しゃかい主義しゅぎしゃのため、東京とうきょう四谷よつや南寺みなみてらまちげん須賀すかまち売文ばいぶんしゃげ、そのとおりの売文ばいぶん稼業かぎょう生計せいけいてていた。さかいはその大逆だいぎゃく事件じけん死刑しけいになった人々ひとびと遺族いぞくとむらうべく、西日本にしにほんたびしていた。高畠たかはた転機てんきおとずれるのは、1911ねん明治めいじ44ねんごろに、岩崎いわさきかわ手引てびきでさかい再会さいかいしたことにある。さかいは、高畠たかはたすでドイツにつけていたので、すぐさま売文ばいぶんしゃ技手ぎしゅとしてやとうことにした。

こうして高畠たかはたは1911ねん明治めいじ44ねん)9がつ売文ばいぶんしゃ入社にゅうしゃした。当時とうじ大杉おおすぎさかえフランス語ふらんすごを、高畠たかはた素之もとゆきがドイツ担当たんとうしていた。明治めいじから大正たいしょう初年しょねんにかけては、日本にっぽんでは社会しゃかい主義しゅぎしゃたいするまりが極度きょくどいかめしかったため、売文ばいぶんしゃでは、政府せいふ圧迫あっぱくけるため、『へちまのはな』とだいした文芸ぶんげい雑誌ざっしふうもの編集へんしゅうし、わずかに同志どうしあいだ連絡れんらくたもつことしかできなかった。しかしだいいち世界せかい大戦たいせんによる政治せいじ情勢じょうせい変化へんかし、社会しゃかい主義しゅぎたいするまりの軟化なんかてとったさかいは、ただちに『へちまのはな』を『しん社会しゃかい』と改題かいだいし、1915ねん大正たいしょう4ねん)9がつ社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう高唱こうしょうはじめた[4]

1916ねん大正たいしょう5ねん)には山川やまかわひとし売文ばいぶんしゃ合流ごうりゅうし、しばらくして売文ばいぶんしゃさかい利彦としひこ山川やまかわひとし高畠たかはた素之もとゆき合名ごうめい会社かいしゃとなった。

高畠たかはたは、1917ねん大正たいしょう6ねん)から『資本しほんろん解説かいせつ』の翻訳ほんやく開始かいし。マルクス経済けいざいがく数少かずすくない参考さんこうしょ世間せけん発表はっぴょうする。また売文ばいぶんしゃでも、山川やまかわひとしとともに中枢ちゅうすうてき位置いちめるようになった。

だいさん 国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ提唱ていしょう

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高畠たかはたは、だいいち世界せかい大戦たいせんとこれにつづロシア革命かくめい影響えいきょうけ、1918ねん大正たいしょう7ねん)に「政治せいじ運動うんどう経済けいざい運動うんどう」を執筆しっぴつする。社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうは、たん経済けいざい運動うんどう(ストライキなどによる革命かくめい)のみならず、政治せいじ運動うんどう議会ぎかい進出しんしゅつ必要ひつようであることを強調きょうちょうした。この提言ていげんは、政府せいふ主義しゅぎ=アナーキズムてき色彩しきさいつよかった日本にっぽん社会しゃかい主義しゅぎおおきい波紋はもんひろげた。

この高畠たかはた提言ていげんけ、ただちに山川やまかわひとし荒畑あらはた寒村かんそんらが反論はんろんかかげ、しばし論争ろんそうとなった。このころから、高畠たかはたにようやく後年こうねん国家こっか社会しゃかい主義しゅぎてき傾向けいこう芽生めばえはじめ、さかい利彦としひことともに軍人ぐんじん右翼うよく集会しゅうかいであったろうたけしかい出入でいりするなどし、売文ばいぶんしゃあいだ微妙びみょう空気くうきかもすことになった。しかし山川やまかわらとの論争ろんそうのち山川やまかわ荒畑あらはた偶然ぐうぜんにも『あおふく』の筆禍ひっか事件じけん禁固きんこ4ヶ月かげつしょされる。これにより売文ばいぶん社内しゃない勢力せいりょく関係かんけい一変いっぺんし、高畠たかはた圧倒的あっとうてき優位ゆうい状況じょうきょう変化へんかした。

これをけ、高畠たかはた自己じこ影響えいきょうにあった北原きたはら龍雄たつお遠藤えんどうとも四郎しろう茂木もき久平きゅうへい尾崎おざき士郎しろうらとともに国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう開始かいしさかい利彦としひこ打診だしんする。さかい社会しゃかい主義しゅぎ実践じっせん活動かつどう時期じき尚早しょうそう判断はんだんし、山川やまかわ荒畑あらはた復帰ふっき売文ばいぶんしゃけることを提案ていあんし、高畠たかはた了承りょうしょうした。1919ねん大正たいしょう8ねん)4がつ高畠たかはた一派いっぱ牛耳ぎゅうじるところとなった売文ばいぶんしゃは、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ発行はっこうしょとなった。国家こっか社会しゃかい主義しゅぎしゃとして高畠たかはたは、その没年ぼつねんいたるまで、しゅとして『資本しほんろん』の翻訳ほんやく時間じかんついやした。この時期じき高畠たかはた以下いかみっつの側面そくめんがある。

(1)国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ

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高畠たかはたさかい山川やまかわたもとかったのち、支持しじしゃとともにあらたな売文ばいぶんしゃで『国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ』を創刊そうかんした。当時とうじ日本にっぽんはヨーロッパの政局せいきょく変化へんかけ、社会しゃかい主義しゅぎたいするまりが若干じゃっかんゆるくなりつつあった。この機会きかいとらえた高畠たかはたは、暴力ぼうりょく革命かくめい否定ひてい強調きょうちょうすることで、政府せいふ弾圧だんあつをかわすことができるとかんがえていた。しかし、『国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ創刊そうかんごう発売はつばい禁止きんしとなり、ただちに財政ざいせいてき打撃だげきけた。本誌ほんしは、だい2ごう以下いか、4ごうまで発刊はっかんしたが、結局けっきょく発売はつばい中止ちゅうし廃刊はいかんのやむなきにいたった。

高畠たかはたは、『国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ』の廃刊はいかん直後ちょくごには友人ゆうじん遠藤えんどうとも四郎しろうとともに『霹靂へきれき』を創刊そうかん[5]いで1920ねん大正たいしょう9ねん)には『大衆たいしゅう運動うんどう』を[6]同年どうねんふたただい1局外きょくがい』を創刊そうかんした[7]。『局外きょくがい』は、翌年よくねんにはかみすう大幅おおはば増補ぞうほした拡大かくだいばん局外きょくがい』(だい2)に発展はってんしたものの、関東大震災かんとうだいしんさいによって壊滅かいめつ廃刊はいかんした。

一方いっぽうで、1922ねん大正たいしょう11ねん)12月には、東京帝大とうきょうていだい教授きょうじゅ上杉うえすぎ慎吉しんきち経綸けいりんがくめい締結ていけつし、1923ねん大正たいしょう12ねん)に極右きょくうしょうされた大化たいかかい顧問こもんとなった。この大化たいかかい援助えんじょけ、ふたた高畠たかはた門下もんか動員どういんして『週刊しゅうかん日本にっぽん』の発刊はっかんおこな[6]国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ宣伝せんでんつとめた。

こののちだいあぶみかくばん資本しほんろん』の翻訳ほんやく完成かんせい前後ぜんこうから大化たいかかいとの関係かんけいうすまると、ふたた高畠たかはた門下もんか動員どういんし、1924ねんにはだい1急進きゅうしん[8]、1925ねんにはだい3局外きょくがい[9]などのしょう雑誌ざっし発刊はっかんし、なん主義しゅぎ宣伝せんでんつとめている。

1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつ5にち故郷こきょう前橋まえばし講演こうえんおこなっている。講演こうえん内容ないようは「急進きゅうしん愛国あいこく主義しゅぎ理論りろんてき根拠こんきょ」であったとされている[10]。この講演こうえん内容ないようは、高畠たかはたぼつ、その門下もんかによってなん出版しゅっぱんされ、高畠たかはた国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ簡便かんべん解説かいせつしょとして流通りゅうつうした。

(2)マルクス研究けんきゅうしゃ

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1918ねん大正たいしょう7ねん)から昭和しょうわ初期しょきにかけては日本にっぽん社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう進捗しんちょくであったが、世間せけん要求ようきゅうこたえられる手頃てごろ入門にゅうもんしょはほとんどなかった。こうしたなか高畠たかはたは、マルクス研究けんきゅうしゃとしても活動かつどうし、マルクス主義まるくすしゅぎしゃとして日本にっぽんでも高名こうみょうであったカウツキーの『資本しほんろん解説かいせつ』を翻訳ほんやくした。

高畠たかはたは『資本しほんろん解説かいせつ』のそと、『財産ざいさん進化しんかろん』、『社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかいがく』などの社会しゃかい主義しゅぎ関連かんれん書籍しょせき翻訳ほんやくしょ多数たすう発表はっぴょうしているが、自身じしん研究けんきゅう成果せいか公表こうひょうしている。それらは『社会しゃかい主義しゅぎ進化しんかろん』、『マルクスまなぶ研究けんきゅう』、『社会しゃかい主義しゅぎてきしょ研究けんきゅう』、『マルクスじゅうこう』(のちに『マルクスまなぶ解説かいせつ』)『地代じだい思想しそう』『マルクス経済けいざいがく』などとなってあらわれた[11]

(3)社会しゃかい評論ひょうろん

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資本しほんろん翻訳ほんやくしゃや、社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうしゃなどのそと社会しゃかい評論ひょうろんとしても活動かつどうした。

高畠たかはた投稿とうこうさきは、自身じしん機関きかんそと、『太陽たいよう』、『改造かいぞう』、『解放かいほう』、『中央公論ちゅうおうこうろん』、『経済けいざい往来おうらい』(の『日本にっぽん評論ひょうろん』)、『読売新聞よみうりしんぶん』、『報知ほうち新聞しんぶん』などの中央ちゅうおう雑誌ざっし新聞しんぶんであり、多数たすうのエッセイや論文ろんぶんのこしている。これらのなか比較的ひかくてき有名ゆうめいなものは、『自己じこかたる』『ろんそうだん』にまとめられた。

高畑たかはたは『資本しほんろん全訳ぜんやく、マルクス経済けいざいがく権威けんい国家こっか社会しゃかい主義しゅぎしゃ社会しゃかい評論ひょうろんと、多数たすうかおったが、その絶頂ぜっちょうともえる時期じきやまいたおれ、そして突如とつじょとして1928ねん昭和しょうわ3ねん)12月23にちに、胃癌いがんのため自宅じたくにてぼっした[12]葬式そうしきには、さかい利彦としひこ左翼さよく高畠たかはた門下もんかはじめ、上杉うえすぎ慎吉しんきち赤尾あかおさとし梅津うめづ勘兵衛かんべえなど多数たすう右翼うよく関係かんけいしゃあつまった[13]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

資本しほんろん翻訳ほんやく

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高畠たかはたが『資本しほんろん』に出会であったのは、『東北とうほく評論ひょうろん』の筆禍ひっか事件じけん下獄げごくした1908ねんである。それは当時とうじ出版しゅっぱんされつつあった英訳えいやくの『資本しほんろん』であったが、以後いごだかばたけはドイツ原本げんぽんで『資本しほんろん』を必要ひつようかんじ、独学どくがくでドイツ習得しゅうとくした。

資本しほんろん』は、ユニテリアン教会きょうかい伝道でんどう団体だんたい統一とういつ基督教きりすときょう弘道こうどうかい会長かいちょう社会しゃかい民衆みんしゅうとう議長ぎちょう安部あべ磯雄いそおにより1909ねんからごく一部いちぶ翻訳ほんやくされたことはあったが[14]、マルクス経済けいざいがく独自どくじ用語ようご難解なんかいさもあり、かならずしも読者どくしゃ満足まんぞくさせるものではなかった。しかし以後いごのマルクス経済けいざいがく進捗しんちょくと、だいいち世界せかい大戦たいせんよりたった社会しゃかい主義しゅぎ流行りゅうこう相俟あいまって、日本にっぽん読書どくしょかいにも『資本しほんろん翻訳ほんやく熱望ねつぼうされるにいたった。

高畠たかはたは1911ねん売文ばいぶんしゃ入社にゅうしゃする以前いぜんから『資本しほんろん』の研究けんきゅうはじめていたが、売文ばいぶんしゃ入社にゅうしゃと『しん社会しゃかい発刊はっかん以後いご、マルクス研究けんきゅう果敢かかんしていく。とくに『しん社会しゃかい』に連載れんさいされたカウツキーの『資本しほんろん解説かいせつ』は苦心くしん産物さんぶつであり、このときされたおおくの専門せんもん用語ようごが、のち高畠たかはたやく資本しほんろん』にながんでいった。高畠たかはた自身じしんうように、高畠たかはたの『資本しほんろん理解りかいは、カウツキーの『資本しほんろん解説かいせつ』によるところおおきい。

このように長時間ちょうじかんかけて『資本しほんろん研究けんきゅうつづけた高畠たかはたは、さかい山川やまかわたもとかったのちおりからの社会しゃかい主義しゅぎ流行りゅうこう関係かんけいして、みずからの主宰しゅさいする売文ばいぶんしゃ高畠たかはたやく資本しほんろん』の発行はっこう企図きとしていた。ところがこれをきつけたさかい利彦としひこ推薦すいせんもあり、高畠たかはた福田ふくだ徳三とくぞう門下もんか共同きょうどうで『マルクス全集ぜんしゅう』の一環いっかんとして、複数ふくすうじんによる『資本しほんろん翻訳ほんやく諒承りょうしょうした。そこでは高畠たかはたは『資本しほんろんだい1かん担当たんとうすることになっていた。

しかしこのうごきと前後ぜんごして、突如とつじょとして松浦まつうらかなめ生田長江いくたちょうこうの『資本しほんろん翻訳ほんやく出版しゅっぱんされた。この松浦まつうらやく生田いくたやくの『資本しほんろん』は、かならずしも識者しきしゃ満足まんぞくさせるにいたらなかったが、とう高畠たかはた自身じしん執拗しつよう攻撃こうげきし、また罵詈ばり雑言ぞうごんびせかけ、ついには完訳かんやく断念だんねんするのやむなきにいたらしめたほどであった。こうしてどう業者ぎょうしゃ駆逐くちくしたのち高畠たかはたは1920ねん6がつ、まず『資本しほんろんだい1かんだい1分冊ぶんさつだいあぶみかくから出版しゅっぱんした[15]

高畠たかはただい1かんだい2分冊ぶんさつ以下いか順調じゅんちょう刊行かんこうしていったが、途中とちゅう福田ふくだ徳三とくぞう門下もんか翻訳ほんやく放棄ほうきしたため、だい3かん高畠たかはた翻訳ほんやく担当たんとうとなり、つづいてだい2かん翻訳ほんやくしゃ遁走とんそうしたため、結局けっきょく高畠たかはたが『資本しほんろんぜん3かん独力どくりょく翻訳ほんやくすることになった。そのためだい1かんだい3かんだい2かんという順序じゅんじょ刊行かんこうされ、また出版しゅっぱんしゃだいあぶみかく関東大震災かんとうだいしんさい余波よは倒産とうさんし、而立じりつしゃだいあぶみかく番頭ばんがしらだっためんつくった出版しゅっぱんしゃ)でだい2かん出版しゅっぱんされるなどの変更へんこうがあった。しかしうさぎにもかくにも、このだいあぶみかく而立じりつしゃで、1924ねん大正たいしょう13ねん)7がつ日本にっぽんはじめて『資本しほんろん』が完訳かんやくされた。

しかしだいあぶみかくばん資本しほんろん』は、高畠たかはた自身じしん満足まんぞくできるものではなかった。高畠たかはたによると、あまりに原文げんぶん忠実ちゅうじつやくしすぎたため、訳文やくぶんのみではなにいているかわからないものになってしまったというのである。

新潮社しんちょうしゃばん

高畑たかはたは、大震災だいしんさいによる紙型しけい焼失しょうしつさいわいとして、また新潮社しんちょうしゃからのもうもあり、ただちに改訳かいやく着手ちゃくしゅした。高畠たかはたはまず原文げんぶんずにだいあぶみかくばん資本しほんろんちゅう難読なんどく箇所かしょ自在じざいあらため、ついでふたた原文げんぶんらしわせて訳文やくぶん完成かんせいした。そのため原文げんぶん直訳ちょくやくもとめつつ、極力きょくりょく日本にっぽんぶんとしてわかりやすい訳文やくぶんつく努力どりょくかえした。こうしてまれたのが、(1925ねん大正たいしょう14ねん)10がつから1926ねん大正たいしょう15ねん)10がつにかけて新潮社しんちょうしゃから出版しゅっぱんされた改訳かいやく資本しほんろんぜんよんさつである。

高畠たかはたもこれには自信じしんをもったらしく、だいあぶみかくばん完成かんせいおりことわったという翻訳ほんやく完成かんせい慰労いろうかいけ、1926ねん大正たいしょう15ねん)10がつ23にち本郷ほんごう燕楽えんらくのきで「資本しほんろんかい」がひらかれた。「資本しほんろんかい」は、60にんあまりの出席しゅっせきしゃだったとされるが、日頃ひごろ高畠たかはた意見いけんのあわなかった吉野よしの作造さくぞうはじめ、上杉うえすぎ慎吉しんきち石川いしかわ三四郎さんしろう平野ひらの力三りきぞう小川おがわ未明みめいつじじゅん左右さゆう両極りょうきょく修正しゅうせい政府せいふ主義しゅぎしゃ多彩たさいかおぶれであった[16]

改造かいぞうしゃばん

この新潮しんちょうばん資本しほんろん』から誤字ごじ脱字だつじ修正しゅうせいおこない、当時とうじ流行りゅうこうしつつあった円本えんもとブームにるかたちで出版しゅっぱんされたのが、1927ねんから翌年よくねんにかけて発行はっこうされた改造かいぞうしゃばんの『資本しほんろん』である。これは戦前せんぜん翻訳ほんやく資本しほんろん』の定本ていほんわれており、ぜん5さつであった[17]。これは高畠たかはたが「一先ひとまつたなやく資本しほんろん定本ていほんたらしめん」ことをしたものである。

高畠たかはたは1928ねん改造かいぞうしゃばん資本しほんろん終結しゅうけつの8ヶ月かげつ死去しきょした。『資本しほんろん翻訳ほんやくたずさわった時間じかんは、もっと精力せいりょくてき活躍かつやくした7年間ねんかんであったため、関係かんけいしゃには、高畠たかはたは『資本しほんろん』の翻訳ほんやくえにんだようなものだとうわさされた。高畠たかはたの『資本しほんろん翻訳ほんやくは、大変たいへん熱意ねつい努力どりょく継続けいぞく結晶けっしょうであった。事実じじつ高畠たかはた改造かいぞうしゃばん資本しほんろん』をえたとき座布団ざぶとんしたたたみすでくさっていたといわれている。

翻訳ほんやく特徴とくちょう

高畠たかはた翻訳ほんやく特徴とくちょうは、極力きょくりょく無駄むだ言葉ことばはぶき、日本にっぽんぶんとしてこなれたものをもとめたとわれる。これはだいあぶみかくばん資本しほんろん』が直訳ちょくやくてきであるのにたいし、改造かいぞうしゃばん流暢りゅうちょう日本語にほんごえられていることからも推察すいさつされる。しかしこのようなわけほうたいして批判ひはんがないわけではなかった。とく事実じじつじょう改造かいぞうしゃばん資本しほんろん』と商売しょうばいじょうあらそうことになった河上かわかみはじめは、自身じしんの『資本しほんろん翻訳ほんやくさいしては、極力きょくりょく原文げんぶん忠実ちゅうじつやくすことを目的もくてきとし、ためにまま日本語にほんごとして意味いみつうじぬところもむなしとしたほどであった。

これは『資本しほんろん』のごと難解なんかいしょやく場合ばあいには、訳者やくしゃわけほう影響えいきょうされるものであるが、これについて三木みききよし高畠たかはたやく批判ひはんしたため、いささか論争ろんそうこしたことがあった。また高畠たかはたも、河上かわかみ高畠たかはたやく批判ひはんするりに、自身じしん翻訳ほんやく一向いっこう完成かんせいさせないことに苛立いらだちをおぼえていたとわれている。しかし河上かわかみ翻訳ほんやく結局けっきょく完成かんせいせず、また高畠たかはた自身じしんもそれをることなくった。

没後ぼつご

資本しほんろん翻訳ほんやくは、高畠たかはた没後ぼつごも、河上かわかみはじめ(宮川みやがわみのるともやく岩波いわなみ文庫ぶんこだいいちかんだい分冊ぶんさつまで、その改造かいぞうしゃからだいいちかんじょうさつのみしもさつ校正こうせい段階だんかい中絶ちゅうぜつ)、その門下もんか長谷部はせべ文雄ふみお(日本にっぽん評論ひょうろんしゃだいいちかん上下じょうげのみだいかん以降いこう刊行かんこうできず)らによってこころみられるが、時勢じせい困難こんなんもあり、つい完訳かんやくにはいたらなかった。そのため高畠たかはたやく資本しほんろん』は、戦前せんぜんつうじて唯一ゆいいつ全訳ぜんやく資本しほんろん』となった。

敗戦はいせん高畠たかはたやく資本しほんろん』はほど出版しゅっぱんされたが(未来社みらいしゃ東洋とうようしょかん)、すで長谷部はせべ文雄ふみお(日本にっぽん評論ひょうろんしゃのちに青木あおき書店しょてん角川かどかわ文庫ぶんこ河出かわで書房しょぼう)、向坂さきさか逸郎いつお(岩波いわなみ文庫ぶんこ)、岡崎おかざき次郎じろう大月書店おおつきしょてん、マルクス・エンゲルス全集ぜんしゅう)らによって新訳しんやく刊行かんこうされたこともあり、時代じだいてき使命しめいえて今日きょういたっている。

国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう構想こうそう

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また、1920年代ねんだいには高畠たかはた国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとうとして無産むさん愛国あいこくとうなるものを構想こうそうしていた。現実げんじつてきには殆んどなにまっていなかったのだが、ぜんはちじょうからなる綱領こうりょうは、以後いご国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうにそれなりの影響えいきょうあたえた。以下いか要点ようてんのみをげておく[18]

    • だいいちじょう国家こっか国体こくたいたいする絶対ぜったいてき恭順きょうじゅん
    • だいじょう国家こっか国体こくたいたいする犯罪はんざい取締とりしまり法規ほうき極度きょくど峻厳しゅんげんする
    • だいさんじょう農民のうみん生活せいかつ安定あんていさく配給はいきゅうせい低利ていり資金しきん融資ゆうし)の実施じっし
    • だいよんじょう工場こうじょう労働ろうどうしゃ生活せいかつ安定あんてい
    • だいじょう徴兵ちょうへいともな失業しつぎょう防止ぼうしさく
    • だいろくじょう物価ぶっか公定こうていさく
    • だいななじょう軍備ぐんび拡張かくちょうてき充実じゅうじつ
    • だいはちじょうたい中国ちゅうごく外交がいこう帝国ていこく主義しゅぎてき合理ごうりによるにちちゅう共存きょうぞん

高畠たかはた以後いご

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高畠たかはたぼつ国家こっか社会しゃかい主義しゅぎは、津久井つくい龍雄たつお石川いしかわじゅん十郎じゅうろう中心ちゅうしんうごいていく。そのため高畠たかはた長生ちょうせいしても、政治せいじてき方面ほうめんとしては津久井つくい研究けんきゅうしゃてき側面そくめんとしては石川いしかわえるものではなかったであろうとされている。

津久井つくいしゅとして国家こっか主義しゅぎしゃとして実践じっせんてき活動かつどうした。1936ねん二・二六事件ににろくじけん以後いご日本にっぽん状勢じょうせい一変いっぺんすると、津久井つくいむし反軍はんぐん運動うんどう転向てんこうし、敗戦はいせんふたたにちちゅう友好ゆうこうとなえて転向てんこうするなど、てんさんてんした。しかし高畠たかはたてき冷徹れいてつ観察かんさつ保持ほじしていたといわれている。

それにたいし、石川いしかわは、しゅとして研究けんきゅうてき側面そくめん高畠たかはた理論りろん発展はってんさせた。とく石川いしかわは、高畠たかはたにあっては国家こっか社会しゃかいとの関係かんけい整合せいごうてきとらえられていなかったてんんで分析ぶんせきし、国家こっかほろびても社会しゃかいはなくならず、つね社会しゃかい基準きじゅんとしてふたた国家こっかもど運動うんどうこることを指摘してきしている。しかし国家こっかなき社会しゃかい如何いか悲惨ひさん境遇きょうぐうかれるかを指摘してきし、国家こっか必要ひつよう重要じゅうようせい強調きょうちょうしている。

また軍部ぐんぶにちちゅう戦争せんそうにも批判ひはんてきで、とく政府せいふたんなる支配しはい維持いじために、共産きょうさん主義しゅぎふくむあらゆる革新かくしんてき主義しゅぎ主張しゅちょう弾圧だんあつし、国民こくみんにそれらをらしめぬよう弾圧だんあつくわえることを批判ひはんしている。かれはそのような神国しんこく主義しゅぎ政治せいじは、かならずや決定的けっていてき危険きけんともなうことをかえ指摘してきし、数少かずすくない支持しじしゃとともに日夜にちや研究けんきゅうかさねていたといわれている。石川いしかわは1934ねんだい日本にっぽん国家こっか社会党しゃかいとう結成けっせいして党首とうしゅとなったが、大政たいせい翼賛よくさんかい以後いご次々つぎつぎ政党せいとう解党かいとうしていくなか最後さいごまで労働ろうどう組合くみあい背景はいけい政治せいじ活動かつどうをしていたことでもられている。

ナチス研究けんきゅうは、すで日本にっぽん政府せいふが1934ねんにははじめていたが[19]石川いしかわが1943ねん出版しゅっぱんした『マイン・カンプの研究けんきゅう』は、そのとおり、ヒトラー闘争とうそうだい一部いちぶ研究けんきゅうしょであった。石川いしかわ自己じこ国家こっか社会しゃかい主義しゅぎただしさをしんじ、敗戦はいせん一貫いっかんして国家こっか社会しゃかい主義しゅぎほうじた。

編纂へんさん著書ちょしょ翻訳ほんやく

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編纂へんさん

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  • 社會しゃかい問題もんだい總覽そうらん』(公文こうぶん書院しょいん、1920ねん
  • 社會しゃかい經濟けいざい思想しそう叢書そうしょ』(事業じぎょう日本にっぽんしゃ高畠たかはた素之もとゆき編纂へんさん
  • 社會しゃかい問題もんだい辞典じてん』(新潮社しんちょうしゃ、1925ねん)- 高畠たかはた素之もとゆきちょとなっている。社会しゃかい問題もんだい辞典じてんるいでは最初さいしょのものである。
  • 經濟けいざい學説がくせつ大系たいけい』(而立じりつしゃ安倍あべひろしともやく)- 著名ちょめい経済けいざい学説がくせつ抜粋ばっすいしゅう高畠たかはた素之もとゆきは殆んどやくしていない。
  • 社會しゃかい哲學てつがくしん學説がくせつ大系たいけい』(新潮社しんちょうしゃきた昤吉と編輯へんしゅう)- 高畠たかはた門下もんか多数たすう動員どういんして編纂へんさんされたもの。著名ちょめい外国がいこくしょ訳述やくじゅつ。ただし短編たんぺん場合ばあい全訳ぜんやくちかいことをしている。
  • 『マルクス思想しそう叢書そうしょ』(新潮社しんちょうしゃ高畠たかはた素之もとゆき編輯へんしゅう

著書ちょしょ

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  • 社會しゃかい主義しゅぎ進化しんかろん』(賣文ばいぶんしゃ、1919ねん) - 高畠たかはた素之もとゆき最初さいしょ研究けんきゅうしょ公文こうぶん書院しょいん(1919ねん)、だいあぶみかく(1921ねん)でも改訂かいてい出版しゅっぱんしている。『社会しゃかい進化しんか思想しそう講話こうわ』と改題かいだいしてアテネ書院しょいん(1925ねん)で改訂かいてい出版しゅっぱんし、最終さいしゅうてき改造かいぞうしゃ昭和しょうわ2ねん)で『社会しゃかい主義しゅぎ進化しんかろん』にもどして出版しゅっぱんしている。売文ばいぶんしゃとアテネ書院しょいんとのあいだ大幅おおはば改訂かいていくわえられている。
  • 『マルクスまなぶ研究けんきゅう』(公文こうぶん書院しょいん、1919ねん) - 高畠たかはた素之もとゆきのマルクス研究けんきゅう初期しょき研究けんきゅうしょだいあぶみかくでも同年どうねん出版しゅっぱんしている。内容ないようおなじ。
  • 社會しゃかい主義しゅぎてきしょ研究けんきゅう』(大衆たいしゅうしゃ、1920ねん) - マルクス研究けんきゅうだい研究けんきゅうしょだいあぶみかくでも同年どうねん出版しゅっぱんしている。
  • 幻滅げんめつしゃ社會しゃかいかん』(だいあぶみかく、1922ねん) - はつのエッセイしゅう
  • 『マルクスじゅうこう』(新潮社しんちょうしゃ、1926ねん) - 高畠たかはた素之もとゆきもっと網羅もうらてきにマルクス研究けんきゅうおこなったもの。マルクスの伝記でんきより地代じだい学説がくせつおよぶ。『マルクスまなぶ解説かいせつ』と改題かいだい改訂かいていして改造かいぞうしゃ(1928ねん)より出版しゅっぱん
  • 自己じこかたる』(人文じんぶんかい出版しゅっぱん、1926ねん)- さつのエッセイしゅう増補ぞうほばんおな出版しゅっぱんしゃから1928ねんている。
  • 『マルキシズムと國家こっか主義しゅぎ』(改造かいぞうしゃ、1927ねん) - 『マルキシズム概説がいせつ』と『国家こっか主義しゅぎ概説がいせつ』をしたもの。それぞれ講座こうざぶつ発表はっぴょうされていた論文ろんぶん
  • ろんそうだん』(人文じんぶんかい出版しゅっぱん、1927ねん)- さんさつのエッセイしゅう
  • 地代じだい思想しそう』(日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1928ねん) - 『社会しゃかい科学かがく叢書そうしょ』のいちさつとして発売はつばいされた。冒頭ぼうとうに『農政のうせい研究けんきゅうだいろくかん所収しょしゅう論文ろんぶんおさめる。しゅとしてマルクスけい地代じだい研究けんきゅうしょ地代じだい論争ろんそうこる以前いぜんのものでもある。
  • 『ムッソリーニとその思想しそう』(事業じぎょう日本にっぽんしゃ、1928ねん) - ムッソリーニの伝記でんきとファシストとう概説がいせつぜんよんしょううちだいしょう津久井つくい龍雄たつお執筆しっぴつしている。
  • 『マルクス経済けいざいがく』(日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1929ねん) - 『現代げんだい経済けいざいがく全書ぜんしょ』のいちさつ高畠たかはた素之もとゆき絶筆ぜっぴつで、全体ぜんたいさんぶんいちほどを執筆しっぴつしている。
  • 批判ひはんマルクス主義まるくすしゅぎ』(日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1929ねん) - 高畠たかはた素之もとゆき死後しご門下もんかによって発表はっぴょうされた国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ関係かんけい論文ろんぶんしゅう大正たいしょうまつとしまでに完成かんせいしていた同名どうめい書物しょもつ発表はっぴょう)に、その論策ろんさくくわえたもの。マルクスの価値かち論争ろんそうくわわった「マルクス価値かちせつ矛盾むじゅん」などをふくむ。
  • 英雄えいゆう崇拝すうはい看板かんばん心理しんり』(忠誠ちゅうせいどう、1930ねん) - 門下もんか高畠たかはた素之もとゆき遺稿いこうあつめてつくったもの。

翻訳ほんやく

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  • 資本しほんろん解説かいせつ』(売文ばいぶんしゃ、1919ねん) - カウツキーの『カール・マルクスの経済けいざい学説がくせつ』を翻訳ほんやくしたもの。三田みた書房しょぼう(1919ねん)からおなじものが、而立じりつしゃ(1924ねん)とアテネ書院しょいん(1925ねん)からその改訂かいていばんが、最後さいご改造かいぞうしゃ(1927ねん)から決定けっていばん出版しゅっぱんされた。
だいあぶみかく『マルクス全集ぜんしゅう』の1920ねん官報かんぽう公告こうこく
  • 資本しほんろん
    1. だいあぶみかくだい1かんだい2かんだい3かん。1920ねん~1922ねん) - 『マルクス全集ぜんしゅう』に収録しゅうろくだい1かん(3さつ)、だい2かん(1さつ)、だい3かん(4さつ)のけい8さつ(全集ぜんしゅうだいいちかんからだいよんかんおよだいろくかんからだいきゅうかん)[20]当初とうしょともやく高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう教授きょうじゅ大塚おおつか金之助きんのすけおなじくこうしょう教授きょうじゅ金子かねこ鷹之助たかのすけ慶大けいだい教授きょうじゅ高橋たかはし誠一郎せいいちろう法学ほうがく博士はかせ福田ふくだ徳三とくぞうこうしょう教授きょうじゅ寺尾てらお隆一りゅういちこうしょう教授きょうじゅ坂西さかにし山蔵やまぞう法学ほうがく博士はかせ左右山そやま喜一郎きいちろうこう註は法学ほうがく博士はかせ福田ふくだ徳三とくぞうであったが、だいいちさつ刊行かんこう福田ふくだくと福田ふくだ門下もんか大塚おおつか金子かねこ寺尾てらお西山にしやま左右田そうだ各氏かくしき、だいかん担当たんとう高橋たかはしいた。
    2. 而立じりつしゃだいかん(2さつ全集ぜんしゅうだいななかん):1923ねん~1924ねん) -上記じょうきだいあぶみかくばん全集ぜんしゅうつづき。だいあぶみかく倒産とうさん而立じりつしゃ(じりゅうしゃ)が肩代かたがわりして出版しゅっぱんした。
    3. 新潮社しんちょうしゃ(1925ねん~1926ねん) - だいあぶみかく而立じりつしゃ全面ぜんめん改訂かいていばん大幅おおはば訳文やくぶんかわった。
    4. 改造かいぞうしゃ(1927ねん~1928ねん) - 高畠たかはた素之もとゆき翻訳ほんやく資本しほんろん』の決定けっていばん戦前せんぜん定本ていほんでもあった。当初とうしょ改造かいぞうしゃの『マルクス。エンゲルス全集ぜんしゅう』の一部いちぶとして企画きかく進行しんこうしていたが、他社たしゃより廉価れんかばんの「資本しほんろん」の訳書やくしょ刊行かんこうされることになったため独立どくりつしたものとして刊行かんこうされた。全集ぜんしゅうなかにはれられなかったが、はんがた小豆色あずきいろのカバーは同型どうけい
  • 社會しゃかい主義しゅぎ社會しゃかいがく』(三田みた書房しょぼう、1920ねん) - アーサー・M・ルイス(Arthur Morrow Lewis)の『社会しゃかいがくへの手引てびき』の訳述やくじゅつ[21]だいあぶみかく(1921ねん)でおなじものが出版しゅっぱんされ、『社会しゃかいがく講話こうわ』と改題かいだいしてアテネ書院しょいん(1925ねん)から再版さいはん最終さいしゅうてき改造かいぞうしゃ昭和しょうわねん)からも出版しゅっぱんされた。
  • 財産ざいさん進化しんかろん』(だいあぶみかく、1921ねん) - ポール・ラファルグ著書ちょしょ翻訳ほんやく。『財産ざいさん進化しんか』と改題かいだいして新潮社しんちょうしゃ(1925ねん)からも『しん学説がくせつ大系たいけい』のいちさつとしてた。
  • 古代こだい社會しゃかい』(上下じょうげさつ而立じりつしゃ、1924ねん) - ルイス・ヘンリー・モーガン著書ちょしょ翻訳ほんやく。ただしうえさつ大半たいはんしたさつすべては村尾むらお昇一しょういち翻訳ほんやくした。
  • 唯物ゆいぶつ史觀しかん改造かいぞう』(新潮社しんちょうしゃ、1924ねん) - ツガン・バラノヴスキイ(Tugan-Baranovsky)の著書ちょしょ『マルキシズムの学説がくせつてき基礎きそ』(部分ぶぶん)を訳述やくじゅつしたもの。
  • 社會しゃかいがく思想しそう人生じんせいてき價値かち』(新潮社しんちょうしゃ、1925ねん) - アルビオン・スモール著書ちょしょ訳述やくじゅつ。『しん学説がくせつ大系たいけい』のひとつ。
  • 『マルクスの余剰よじょう價値かちせつ』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1925ねん) - しゅとして『資本しほんろんちゅう剰余じょうよ価値かち学説がくせつ関係かんけいする部分ぶぶん抜粋ばっすいし、学者がくしゃせつ並置へいち解説かいせつしたもの。書名しょめい余剰よじょう高畠たかはた訳語やくご訳者やくしゃ剰余じょうよとしている。
  • 哲學てつがく窮乏きゅうぼう』(新潮社しんちょうしゃ、1927ねん) - 『マルクス著作ちょさくしゅう』のひとつ。現在げんざいは『哲学てつがく貧困ひんこん』とやくされているもの。独逸どいつやく(オリジナルは仏蘭西ふらんす、カウツキーとベルンシュタインのわけ)からの重訳じゅうやく

参考さんこう文献ぶんけん

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主要しゅよう人物じんぶつろん回想かいそう
    • 伊井いいたかし近藤こんどう栄蔵えいぞう)「高畠たかはた素之もとゆき」。『解放かいほうだい3かんだい5ごう、1921ねん5がつ
    • おか陽之助ようのすけ岩沢いわさわいわお)「高畠たかはた素之もとゆきろん」。だい解放かいほうだい5かんだい2ごう、1926ねん2がつ
    • 高畠たかはた素之もとゆき印象いんしょう」。だい随筆ずいひつだい2かんだい2ごう、1927ねん2がつ
    • XYZ「高畠たかはた素之もとゆきろん」。『経済けいざい往来おうらいだい3かんだい10ごう、1928ねん10がつ人物じんぶつ評論ひょうろん(19)。
    • さかい利彦としひこ高畠たかはた素之もとゆきくんなつけふ」。『経済けいざい往来おうらいだい4かんだい2ごう、1929ねん2がつ
    • 白柳しらやなぎ秀湖しゅうこ哲學てつがくしゃやりさび―ける高畠たかはたのことども―」。『改造かいぞうだい11かんだい2ごう、1929ねん2がつ
    • 茂木もきみのるしんへん高畠たかはた素之もとゆき先生せんせい思想しそう人物じんぶつ急進きゅうしん愛国あいこく主義しゅぎ理論りろんてき根拠こんきょ―』。大衆たいしゅうしゃ、1930ねん9がつ現在げんざい大空おおぞらしゃの『伝記でんき叢書そうしょ』215に収録しゅうろくISBN 4-87236-514-3
    • 高畠たかはた素之もとゆき追悼ついとう記念きねんごう」。『急進きゅうしんだい2かんだい11ごう、1930ねん12月。
    • 津久井つくい龍雄たつお日本にっぽん国家こっか主義しゅぎ運動うんどうろん』。中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1942ねん
    • どうわたし昭和しょうわ』。そうもとしゃ、1958ねん
    • 高畠たかはた素之もとゆき思想しそう人間にんげん」。『しん勢力せいりょくだい12かんだい4ごう、1967ねん5がつ
    • 田中たなか真人まさと高畠たかはた素之もとゆき : 日本にっぽん国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ』。現代げんだい評論ひょうろんしゃ、1978ねん
資本しほんろん関連かんれん
  • 高畠たかはた素之もとゆき資本しほんろんりょうへて」。『自己じこかたる』、人文じんぶんかい出版しゅっぱん、1926ねん
  • どう資本しほんろんかい」。同上どうじょう
  • さかい利彦としひこ新訳しんやく資本しほんろん一節いっせつむ」。『マルクス主義まるくすしゅぎだい4かんだい3ごう、1926ねん3がつ
  • 青野あおの季吉すえきちふたつの『資本しほんろん』―高畠たかはた訳本やくほん河上かわかみ宮川みやがわ訳本やくほんについて―」。『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(朝刊ちょうかん)1927ねん10がつ27にち
  • 三木みききよし「『資本しほんろん』にける日本語にほんごやくちょ対立たいりつ」。『三木みききよし全集ぜんしゅうだい20かん岩波書店いわなみしょてん、1986ねん。もと『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1927ねん11月7にち
  • どう翻訳ほんやく批判ひはん基準きじゅんこう畠本はたもと資本しほんろん』は如何いか辯護べんごされたか―」。『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん同年どうねん同月どうげつ21にち
  • 石川いしかわじゅん十郎じゅうろう高畠たかはたほん忠実ちゅうじつせいりょう資本しほんろん』の批判ひはん─」。『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1927ねん11月12にち
  • 福田ふくだ徳三とくぞう「アリストテーレスの「流通りゅうつう正義せいぎ」=マルクスの其解釈かいしゃくかんするうたぐ」。『改造かいぞうだい10かんだい1ごう、1928ねん1がつ
  • 河上かわかみはじめ反動はんどう学派がくは陣営じんえいにおける窮余きゅうよいち戦術せんじゅつとしての虚構きょこうつたなやく資本しほんろんたいする福田ふくだ博士はかせ非難ひなんについて―」。『社会しゃかい問題もんだい研究けんきゅうだい84さつ、1927ねん12月。[22]
  • 福田ふくだ徳三とくぞう河上かわかみ博士はかせの『真摯しんしなる態度たいど』と『事実じじつ虚構きょこう』」。『改造かいぞうだい10かんだい2ごう、1928ねん2がつ
  • 鈴木すずきひろし一郎いちろう『「資本しほんろん」と日本にっぽん』。弘文こうぶんどう、1959ねん
  • 水島みずしま治男はるお改造かいぞうしゃ時代じだい戦前せんぜんへん)』。図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1976ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 司法しほう研究けんきゅう19輯
  2. ^ 遠藤無水えんどうむすい天皇てんのう中心ちゅうしん社会しゃかい主義しゅぎとなえる
  3. ^ 音楽家おんがくか
  4. ^ この前後ぜんご大杉おおすぎさかえ荒畑あらはた寒村かんそんとともにさかい一派いっぱ決別けつべつした。
  5. ^ 創刊そうかんごうのみ。
  6. ^ a b 週刊しゅうかん新聞しんぶん。11ごう廃刊はいかん
  7. ^ 8ぺーじ雑誌ざっし
  8. ^ 大正たいしょう13ねん(1924ねん)~大正たいしょう14ねん(1925ねん)。
  9. ^ 大正たいしょう14ねん(1925ねん)~大正たいしょう15ねん(1926ねん)。
  10. ^ 高畠たかはた素之もとゆき先生せんせい思想しそう人物じんぶつ』に収録しゅうろく
  11. ^ なお未完みかんとなった『マルクス経済けいざいがく』は、高畠たかはた絶筆ぜっぴつである(現在げんざいのものは、半分はんぶんじゃく高畠たかはたが、完成かんせい後半こうはん高畠たかはた門下もんか執筆しっぴつしたものである)
  12. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)17ぺーじ
  13. ^ さかい利彦としひこ高畠たかはた素之もとゆきくんなつけふ』
  14. ^ 週刊しゅうかん社会しゃかい新聞しんぶん』、明治めいじ42ねん(1909ねん)~明治めいじ43ねん(1910ねん))
  15. ^ 大正たいしょう9ねん(1920ねん)6がつほんさつだい2分冊ぶんさつのみ福田ふくだ徳三とくぞうこうちゅうがついているが、こうちゅう番号ばんごうがあるのみで、ちゅう本文ほんぶんはない。
  16. ^ さかい利彦としひこ共産党きょうさんとう事件じけん下獄げごくちゅうであり、参加さんかもうめなかった。
  17. ^ だい1かんを2さつ分冊ぶんさつ昭和しょうわ2ねん(1927ねん)10がつ昭和しょうわ3ねん(1928ねん)4がつ
  18. ^ 原典げんてんは『批判ひはんマルクス主義まるくすしゅぎ無産むさん愛国あいこくとう基調きちょう。1929ねん
  19. ^ ナチスの刑法けいほう(プロシヤくに司法しほう大臣だいじん覚書おぼえがき』、1934ねん。『ナチスの法制ほうせいおよ立法りっぽう綱要こうよう刑法けいほうおよ刑事けいじ訴訟そしょうほう』、1936ねん司法省しほうしょう司法しほう資料しりょう』。
  20. ^ 11さつは『[経済けいざいがく批判ひはん』(法学ほうがく佐野さのまなぶわけ)、12さつは『神聖しんせい家族かぞく』(河野こうのひそかわけ)。
  21. ^ アーサー・M・ルイス - ウィキソース英語えいごばん
  22. ^ 上記じょうき福田ふくだ論文ろんぶんたいする批判ひはん日付ひづけ混乱こんらんしているようであるが、河上かわかみ書店しょてんつうじて福田ふくだ論文ろんぶんすでっていたため、福田ふくだ論文ろんぶん発刊はっかんされる以前いぜん批判ひはんしたもの。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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