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アドルフ・ヒトラー (ドイツ語 ご : Adolf Hitler ドイツ語 ご : [ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] ( 音声 おんせい ファイル ) [ 1] (アードルフ・ヒトゥラ) , 1889年 ねん 4月 がつ 20日 はつか - 1945年 ねん 4月 がつ 30日 にち )は、ドイツ の政治 せいじ 家 か [ 2] 。ドイツ国 こく 首相 しゅしょう 、および国家 こっか 元首 げんしゅ (総統 そうとう )であり、国家 こっか と一体 いったい であるとされた国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチス)の指導 しどう 者 しゃ [ 2] 。
1933年 ねん に首相 しゅしょう に指名 しめい され、1年 ねん 程度 ていど で指導 しどう 者 しゃ 原理 げんり に基 もと づく党 とう と指導 しどう 者 しゃ による一 いち 極 きょく 集中 しゅうちゅう 独裁 どくさい 指導 しどう 体制 たいせい を築 きず いたため、独裁 どくさい 者 しゃ の代表 だいひょう 例 れい とされる[ 注 ちゅう 2] 。ドイツ民族 みんぞく 至上 しじょう 主義 しゅぎ 者 しゃ であり[ 2] 、その冒険 ぼうけん 的 てき な外交 がいこう 政策 せいさく と人種 じんしゅ 主義 しゅぎ に基 もと づく政策 せいさく は、全 ぜん 世界 せかい を第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん へと導 みちび き、さらにアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ を始 はじ めとする強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ を各地 かくち に設立 せつりつ 、支配 しはい 地域 ちいき でユダヤ人 じん などに対 たい する組織 そしき 的 てき な大 だい 虐殺 ぎゃくさつ 「ホロコースト 」を引 ひ き起 お こした[ 3] 。ベルリン陥落 かんらく を目前 もくぜん にした1945年 ねん 4月 がつ 30日 にち 、夫人 ふじん のエヴァ・ブラウンと共 とも に自 みずか ら命 いのち を絶 た った 。
出生 しゅっしょう 地 ち はオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく オーバーエスターライヒ州 しゅう 。父 ちち のアロイス・ヒトラー はオーストリア帝国 ていこく 大蔵省 おおくらしょう の守衛 しゅえい であり、母 はは のクララ・ヒトラー はアロイス宅 たく の住 す み込 こ み家政 かせい 婦 ふ であった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん までは無名 むめい の一 いち 青年 せいねん に過 す ぎなかったが、戦後 せんご にはバイエルン州 しゅう において、国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチス) の党首 とうしゅ としてアーリア民族 みんぞく を中心 ちゅうしん に据 す えた人種 じんしゅ 主義 しゅぎ と反 はん ユダヤ主義 しゅぎ を掲 かか げた政治 せいじ 活動 かつどう を行 おこな うようになった。1923年 ねん に中央 ちゅうおう 政権 せいけん の転覆 てんぷく を目指 めざ したミュンヘン一揆 いっき の首謀 しゅぼう 者 しゃ となり、一時 いちじ 投獄 とうごく されるも、出獄 しゅつごく 後 ご は合法 ごうほう 的 てき な選挙 せんきょ により勢力 せいりょく を拡大 かくだい した。
1933年 ねん には大統領 だいとうりょう による指名 しめい を受 う けてドイツ国 こく 首相 しゅしょう となり、首相 しゅしょう 就任 しゅうにん 後 ご に他 た 政党 せいとう や党内 とうない 外 がい の政敵 せいてき を弾圧 だんあつ し、ドイツ史上 しじょう かつてない権力 けんりょく を掌握 しょうあく した [ 注 ちゅう 3] 。1934年 ねん 8月 がつ 、大統領 だいとうりょう パウル・フォン・ヒンデンブルク の死去 しきょ に伴 ともな い、大統領 だいとうりょう の権能 けんのう を個人 こじん として継承 けいしょう した(総統 そうとう )。こうしてヒトラーという人格 じんかく がドイツ国 こく の最高 さいこう 権力 けんりょく である三権 さんけん を掌握 しょうあく し、ドイツ国 こく における全 すべ ての法 ほう 源 げん となる存在 そんざい となり、ヒトラーという人格 じんかく を介 かい してナチズム 運動 うんどう が国家 こっか と同一 どういつ のものになるという特異 とくい な支配 しはい 体制 たいせい を築 きず いた。この時期 じき のドイツ国 こく は一般 いっぱん 的 てき に「ナチス・ドイツ 」と呼 よ ばれることが多 おお い。
ヒトラーは人種 じんしゅ 主義 しゅぎ 、優生 ゆうせい 学 がく 、ファシズム などに影響 えいきょう された選民 せんみん 思想 しそう (ナチズム )に基 もと づき、北方 ほっぽう 人種 じんしゅ が世界 せかい を指導 しどう するべき主 しゅ たる人種 じんしゅ (ドイツ語 ご 版 ばん ) と主張 しゅちょう していた[ 8] 。またニュルンベルク法 ほう や経済 けいざい 方面 ほうめん におけるアーリア化 か など、アーリア人 じん の血統 けっとう を汚 けが すとされた他 た 人種 じんしゅ である有色 ゆうしょく 人種 じんしゅ (黄色 おうしょく 人種 じんしゅ ・黒色 こくしょく 人種 じんしゅ )や、ユダヤ系 けい 、スラブ系 けい 、ロマ とドイツ国民 こくみん の接触 せっしょく を断 た ち、また迫害 はくがい する政策 せいさく を推 お し進 すす めた。またドイツ民族 みんぞく であるとされた者 もの でも、性的 せいてき 少数 しょうすう 者 しゃ 、退廃 たいはい 芸術 げいじゅつ 、障害 しょうがい 者 しゃ 、ナチ党 とう に従 したが わない政治 せいじ 団体 だんたい ・宗教 しゅうきょう 団体 だんたい 、その他 た ナチスが反 はん 社会 しゃかい 的 てき 人物 じんぶつ と認定 にんてい した者 もの は民族 みんぞく 共同 きょうどう 体 たい の血 ち を汚 けが す「種 たね 的 てき 変質 へんしつ 者 しゃ 」であるとして迫害 はくがい ・断種 だんしゅ された(生 い きるに値 あたい しない命 いのち )[ 9] [ 10] 。
さらに1937年 ねん の官邸 かんてい 秘密 ひみつ 会議 かいぎ や著書 ちょしょ 『我 わ が闘争 とうそう 』で示 しめ されているように、自 みずか らが指導 しどう する人種 じんしゅ を養 やしな うため、旧来 きゅうらい の領土 りょうど のみならず「東方 とうほう に『生存 せいぞん 圏 けん 』が必要 ひつよう である 」として帝国 ていこく 主義 しゅぎ 的 てき な領土 りょうど 拡張 かくちょう と侵略 しんりゃく 政策 せいさく を進 すす めた[ 11] 。やがて1939年 ねん のポーランド侵攻 しんこう に始 はじ まる第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を引 ひ き起 お こし、大陸 たいりく ヨーロッパの大半 たいはん を占領 せんりょう した。この戦争 せんそう の最中 さいちゅう でユダヤ人 じん に対 たい するホロコースト 、障害 しょうがい 者 しゃ に対 たい するT4作戦 さくせん などの虐殺 ぎゃくさつ 政策 せいさく が推 お し進 すす められた。幾度 いくど か企 くわだ てられた暗殺 あんさつ 計画 けいかく を生 い き延 の びたが、最終 さいしゅう 的 てき に連合 れんごう 国 こく の反撃 はんげき を受 う け、全 すべ ての占領 せんりょう 地 ち と本土 ほんど 領土 りょうど で押 お し込 こ まれ、ナチ党 とう 政権 せいけん が崩壊 ほうかい に向 む かう中 なか 、ヒトラーは赤軍 せきぐん に包囲 ほうい されたベルリン の総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう 内 うち で自殺 じさつ した(アドルフ・ヒトラーの死 し )。
ヒトラー家 か の出自 しゅつじ については謎 なぞ が多 おお く、本人 ほんにん も「私 わたし は自分 じぶん の一族 いちぞく の歴史 れきし について何 なに も知 し らない。私 わたし ほど知 し らない人間 にんげん はいない。親戚 しんせき がいることすら知 し らなかった。(中略 ちゅうりゃく )…私 わたし は民族 みんぞく 共同 きょうどう 体 たい にのみ属 ぞく している」と語 かた っている。出自 しゅつじ について詮索 せんさく される事 こと も非常 ひじょう に嫌 きら い、「自分 じぶん が誰 だれ か、どこから来 き たか、どの一族 いちぞく から生 う まれたか、それを人々 ひとびと は知 し ってはいけないのだ!」と述 の べており、妹 いもうと パウラ は「兄 あに には一族 いちぞく という意識 いしき がなかった」としている。
そもそもヒトラーの実父 じっぷ アロイス・ヒトラーからして出自 しゅつじ が不明瞭 ふめいりょう な人物 じんぶつ で、彼 かれ は低地 ていち オーストリア地方 ちほう にあるシュトローネス村 むら にマリア・アンナ・シックルグルーバー という未婚 みこん 女性 じょせい の私生児 しせいじ として1837年 ねん に生 う まれ、アロイス・シックルグルーバー と名付 なづ けられている[ 13] [ 14] 。父 ちち アロイスは祖母 そぼ マリアが42歳 さい の時 とき に生 う まれた高齢 こうれい 出産 しゅっさん かつ初産 しょさん であった。さらに祖母 そぼ は子供 こども の父親 ちちおや として考 かんが えられる相手 あいて の男性 だんせい について決 けっ して語 かた らず、結果 けっか 的 てき にアロイスの洗礼 せんれい 台帳 だいちょう は空白 くうはく になっている。後 のち にマリアはアロイス出産 しゅっさん 後 ご に粉 こな 引 び き職人 しょくにん ヨハン・ゲオルク・ヒードラー (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん 、アロイスは「継父 けいふ と母 はは が設 もう けた婚 こん 外子 そとこ 」で後 のち に結婚 けっこん したのだろうと語 かた っているが、その根拠 こんきょ はない[ 16] 。職人 しょくにん として各地 かくち を放浪 ほうろう しながら働 はたら いていたゲオルクとマリアに接点 せってん があったとは考 かんが えがたく、またアロイスはゲオルクの養子 ようし にはされずシックルグルーバー姓 せい で青年 せいねん 期 き まで過 す ごしている。
暫 しばら くしてアロイスは継父 けいふ の弟 おとうと で、より安定 あんてい した生活 せいかつ を送 おく っている農夫 のうふ ヨーハン・ネーポムク・ヒードラー (英語 えいご 版 ばん ) に引 ひ き取 と られ、義 よし 叔父 おじ ネーポムクはアロイスを実子 じっし のように可愛 かわい がった。なお、兄弟 きょうだい で名字 みょうじ が異 こと なるが、読 よ み方 かた の違 ちが いであって綴 つづ りは同 おな じHiedler と記載 きさい されている。もともとHiedler は「日雇 ひやと い農夫 のうふ 」「小農 しょうのう 」を語源 ごげん とする姓名 せいめい で[ 注 ちゅう 4] 、それほど珍 めずら しい姓名 せいめい でもなかったとされている[ 19] 。「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓 せい は東方 とうほう 植民 しょくみん したボヘミア ドイツ人 じん 、およびチェコ人 じん ・スロバキア人 じん などに見 み られるとも言 い われる。
1887年 ねん 、アロイスは地元 じもと の公証 こうしょう 人 じん に「自分 じぶん は継父 けいふ ヨハン・ゲオルク・ヒードラーの実子 じっし である」と申請 しんせい を出 だ し、教会 きょうかい にも同様 どうよう の書類 しょるい を提出 ていしゅつ した。改姓 かいせい にあたっては義 ぎ 叔父 おじ ネーポムクが全面 ぜんめん 的 てき に協力 きょうりょく しているが、実 じつ はネーポムクこそアロイスの実父 じっぷ であったのではないかとする意見 いけん もある。それまでシックルグルーバー姓 せい で満足 まんぞく していたアロイスが突然 とつぜん 改姓 かいせい したのは娘 むすめ しかいなかったネーポムクが隠 かく し子 ご に一家 いっか の名 な と財産 ざいさん を相続 そうぞく させたかったからではないかと推測 すいそく されており、現実 げんじつ に大 だい 部分 ぶぶん の遺産 いさん を譲 ゆず られている。あるいは体面 たいめん を気 き にするアロイスにとって自身 じしん の出自 しゅつじ が不明瞭 ふめいりょう である事 こと を示 しめ す、母方 ははかた のシックルグルーバー姓 せい を忌 い まわしく感 かん じた可能 かのう 性 せい もある。改姓 かいせい 前後 ぜんこう からアロイスは母方 ははかた の親族 しんぞく と全 まった く連絡 れんらく を取 と らなくなり、娘 むすめ の一人 ひとり である末 すえ 女 おんな パウラは親戚 しんせき 付 つ き合 あ いがほとんどない事 こと について「父 とう さんにも親族 しんぞく がいないはずはないのに」と不思議 ふしぎ がっていたという。
ともかくアロイスは「Hiedler」姓 せい に改姓 かいせい したが、読 よ み方 かた については「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー 」と書 か かれており、おそらく公証 こうしょう 人 じん が読 よ みやすい名前 なまえ で記載 きさい したものと思 おも われる。なお、日本 にっぽん で最初 さいしょ に報道 ほうどう された際 さい には「ヒットレル 」と表記 ひょうき され(舞台 ぶたい ドイツ語 ご の発音 はつおん が基 もと になっている)[ 21] 、その後 ご は「ヒットラー 」という表記 ひょうき も多 おお く見 み られた。
ブラウナウ・アム・インに現存 げんそん するヒトラーの生家 せいか
1898年 ねん から1905年 ねん までヒトラーが家族 かぞく と住 す んだリンツ 郊外 こうがい レオンディング の家 いえ
父 ちち アロイスは義 ぎ 叔父 おじ の下 した で小学校 しょうがっこう (国民 こくみん 学校 がっこう )を出 で た後 のち 、ウィーン へ靴 くつ 職人 しょくにん として徒弟 とてい 修行 しゅぎょう に出向 でむ いている。しかしウィーンに出 で たアロイスは下層 かそう 労働 ろうどう 者 しゃ で終 お わる事 こと を望 のぞ まず、19歳 さい の時 とき に税務署 ぜいむしょ の採用 さいよう 試験 しけん に独学 どくがく で合格 ごうかく して公務員 こうむいん となった。上昇 じょうしょう 志向 しこう が強 つよ いアロイスは懸命 けんめい に働 はたら いて補佐 ほさ 監督 かんとく 官 かん や監督 かんとく 官 かん を経 へ て最終 さいしゅう 的 てき には税関 ぜいかん 上級 じょうきゅう 事務 じむ 官 かん まで勤 つと め上 あ げたが、これは無 む 学歴 がくれき の職員 しょくいん としては異例 いれい の栄達 えいたつ であった。40年 ねん 勤続 きんぞく で退職 たいしょく する頃 ころ には1100グルデン以上 いじょう の年収 ねんしゅう という、公立 こうりつ 学校 がっこう の校長 こうちょう 職 しょく より高 たか い給与 きゅうよ も勝 か ち取 と っていた。アロイスはこうした成功 せいこう から人生 じんせい に強 つよ い自尊心 じそんしん を持 も ち、親族 しんぞく への手紙 てがみ でも「最後 さいご に会 あ った時 とき 以来 いらい 、私 わたし は飛躍 ひやく 的 てき に出世 しゅっせ した」と誇 ほこ らしげに書 か いている。また軍人 ぐんじん 風 ふう の短髪 たんぱつ や貴族 きぞく 然 しか とした厳 きび しい髭面 ひげづら を好 この み、役人 やくにん 口調 くちょう の気取 きど った文章 ぶんしょう で手紙 てがみ を書 か くなど権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき な趣向 しゅこう の持 も ち主 ぬし であった。
アロイスは性 せい に奔放 ほんぽう な人物 じんぶつ で、生涯 しょうがい で多 おお くの女性 じょせい と関係 かんけい を持 も ち、30歳 さい の時 とき にはテレージアという自分 じぶん と同 おな じような私生児 しせいじ を最初 さいしょ の子 こ として儲 もう けており、生物 せいぶつ 学的 がくてき には彼女 かのじょ がヒトラーの長姉 ちょうし となる。1873年 ねん 、36歳 さい のアロイスは持参 じさん 金 きん 目当 めあ てに裕福 ゆうふく な独身 どくしん 女性 じょせい の50歳 さい のアンナ・グラスルと結婚 けっこん したが、母 はは マリアのような高齢 こうれい 出産 しゅっさん しか望 のぞ みのないグラスルとは子 こ を儲 もう ける事 こと はなかった。代 か わりにアロイスは召使 めしつかい で未成年 みせいねん の少女 しょうじょ だったフランツィスカを愛人 あいじん とし、1880年 ねん に事実 じじつ を知 し った妻 つま アンナからは別居 べっきょ を申 もう し渡 わた されたが、人目 ひとめ も憚 はばか らずフランツィスカを妻 つま のように扱 あつか って同棲 どうせい 生活 せいかつ を送 おく った。1883年 ねん 、最初 さいしょ の妻 つま アンナの死後 しご にアロイスはフランツィスカと再婚 さいこん して結婚 けっこん 前 まえ に生 う まれていた長男 ちょうなん アロイス (ドイツ語 ご 版 ばん ) を正式 せいしき に認知 にんち 、続 つづ いて結婚 けっこん 後 ご に長女 ちょうじょ アンゲラ (ドイツ語 ご 版 ばん ) を儲 もう けた。だがアロイスは既 すで にフランツィスカへの興味 きょうみ を失 うしな いつつあり、新 あたら しい召使 めしつかい であったクララ・ペルツルを愛人 あいじん にしていた。
クララの父 ちち はヨハン・バプティスト・ペルツル、母 はは はヨハンナ・ペルツルという名前 なまえ だったが、このうち母 はは ヨハンナ・ペルツルの旧姓 きゅうせい はヒードラー だった。彼女 かのじょ は他 た でもないアロイスの義 ぎ 叔父 おじ であり、実父 じっぷ とも考 かんが えられるヨハン・ネポムク・ヒードラーの娘 むすめ であった。もしアロイスがゲオルクの子 こ であったとすればヨハンナとは従兄 じゅうけい 妹 いもうと の間柄 あいだがら となり、ましてネポムクの子 こ であれば兄 あに と妹 いもうと ですらあった。その娘 むすめ クララは従妹 じゅうまい の子 こ あるいは姪 めい ということになる。クララはアロイスより23歳 さい 年下 としした だった。フランツィスカはアンナの二 に の舞 まい を恐 おそ れて結婚 けっこん 前 まえ にクララを家 いえ から追 お い出 だ したが、フランツィスカが病気 びょうき で倒 たお れるとアロイスの手引 てび きでクララは召使 めしつかい として再 ふたた び入 はい り込 こ んだ。
1884年 ねん 、フランツィスカが病没 びょうぼつ すると1885年 ねん 1月 がつ 7日 にち に47歳 さい のアロイスは24歳 さい のクララと三 さん 度目 どめ の結婚 けっこん を行 おこな った。少 すく なくとも法的 ほうてき には従妹 じゅうまい である以上 いじょう 、結婚 けっこん には教会 きょうかい への請願 せいがん が必要 ひつよう であったので「血族 けつぞく 結婚 けっこん に関 かん する特別 とくべつ 免除 めんじょ 」をリンツの教会 きょうかい に申請 しんせい して、ローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう から受理 じゅり されている。クララは結婚 けっこん から5か月 げつ 後 ご に次男 じなん グスタフを生 う み、続 つづ いて1886年 ねん に次女 じじょ イーダ、1887年 ねん に三男 さんなん オットーを生 う んだが三 さん 子 し は幼児 ようじ で亡 な くなっている。1889年 ねん 、四 よん 男 なん アドルフ(ヒトラー)が生 う まれ、長男 ちょうなん アロイス2世 せい とともに数少 かずすく なく成人 せいじん したヒトラー家 いえ の子 こ となった。1894年 ねん に五 ご 男 なん エドムント、1896年 ねん に三 さん 女 じょ パウラが生 う まれている。
また、上記 じょうき にあるようにヒトラーの父 ちち のアロイスが婚 こん 外子 そとこ ということで、ヒトラーが政権 せいけん を把握 はあく すると彼 かれ 自身 じしん が「ユダヤ系 けい 」ではないかと巷 ちまた の噂 うわさ が流布 るふ されたが、ヒトラーの死後 しご の史家 しか による徹底的 てっていてき な調査 ちょうさ の結果 けっか 、否定 ひてい されている(下記 かき も参照 さんしょう )[ 25] 。
幼少 ようしょう 期 き の写真 しゃしん
ヒトラー(最 さい 後列 こうれつ の中央 ちゅうおう )が10歳 さい から11歳 さい まで通 かよ った小学校 しょうがっこう の集合 しゅうごう 写真 しゃしん
1889年 ねん 4月 がつ 20日 はつか の午後 ごご 6時 じ 30分 ふん 、当時 とうじ ヒトラー家 か が暮 く らしていたブラウナウ にある旅館 りょかん ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四 よん 男 おとこ として出生 しゅっしょう 、2日 にち 後 ご の4月 がつ 22日 にち にローマ・カトリック教会 きょうかい のイグナーツ・プロープスト司教 しきょう から洗礼 せんれい を受 う け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付 なづ けられた。洗礼 せんれい には叔母 おば ハンニと産婆 さんば ポインテッカーの二人 ふたり が立 た ち会 あ っている。
ヒトラーが3歳 さい の時 とき に一家 いっか は別 べつ の家 いえ に引 ひ っ越 こ して、ドイツ帝国 ていこく バイエルン王国 おうこく のパッサウ 市 し へ転居 てんきょ している[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。バイエルン・オーストリア語 ご 圏 けん の内 うち 、オーストリア方言 ほうげん からバイエルン方言 ほうげん の領域 りょういき へ移住 いじゅう したことになった。彼 かれ の用 もち いるドイツ語 どいつご には標準 ひょうじゅん ドイツ語 ご と異 こと なる独特 どくとく の「訛 なま り」が指摘 してき されるが、それはバイエルン人 じん としての出自 しゅつじ ゆえのことである[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。幼 おさな いヒトラーは西部 せいぶ 劇 げき に出 で てくるインディアンの真似事 まねごと に興 きょう じるようになった。また父 ちち が所有 しょゆう していた普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう の本 ほん を読 よ み、戦争 せんそう に対 たい する興味 きょうみ を抱 いだ くようになった[ 31] 。1895年 ねん 、リンツに単身 たんしん 赴任 ふにん していたアロイスが定年 ていねん 退職 たいしょく により恩給 おんきゅう 生活 せいかつ に入 はい ると、一家 いっか を連 つ れてハーフェルト村 むら という田舎町 いなかまち に引越 ひっこ し、屋敷 やしき を買 か って農業 のうぎょう と養蜂 ようほう 業 ぎょう を始 はじ めていた。ヒトラーはランバッハ (英語 えいご 版 ばん ) の郊外 こうがい にあったフィッシュルハム (英語 えいご 版 ばん ) の国民 こくみん 学校 がっこう (小学校 しょうがっこう )に通 とお った。
1896年 ねん 、異母 いぼ 兄 けい アロイス2世 せい が父 ちち との口論 こうろん を契機 けいき に14歳 さい で家 いえ から出 で て行 い き、二度 にど とヒトラー家 か には戻 もど らなかった。異母弟 いぼてい ヒトラーや継母 けいぼ と折 お り合 あ いが悪 わる かった事 こと も一因 いちいん と見 み られている。跡継 あとつ ぎとなったヒトラーは1897年 ねん まで国民 こくみん 学校 がっこう に在籍 ざいせき した記録 きろく が残 のこ っているが[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 、フィッシュルハム 移住 いじゅう 後 ご から学校 がっこう の規律 きりつ に従 したが わない問題児 もんだいじ として、ヒトラーも父 ちち と諍 いさか いを起 お こすようになった[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。1897年 ねん 、父親 ちちおや の農業 のうぎょう は失敗 しっぱい に終 お わり、一家 いっか は郊外 こうがい の農地 のうち を手放 てばな してランバッハ市内 しない に定住 ていじゅう している。ヒトラーもベネディクト修道 しゅうどう 会 かい 系 けい の小学校 しょうがっこう に移籍 いせき し、聖歌 せいか 隊 たい に所属 しょぞく するなどキリスト教 きりすときょう を熱心 ねっしん に信仰 しんこう して、聖職 せいしょく 者 しゃ になることを望 のぞ んだ[ 36] 。ベネディクト修道 しゅうどう 会 かい の聖堂 せいどう の彫刻 ちょうこく には後 のち にナチスのシンボルマーク章 しょう として採用 さいよう するスワスチカ が使 つか われていた[ 37] [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。本人 ほんにん によれば、信仰 しんこう 心 しん というよりも華 はな やかな式典 しきてん や建物 たてもの への憧 あこが れが強 つよ かったようである。
1898年 ねん 、ランバッハからも離 はな れてリンツ近郊 きんこう のレオンディング にアロイスと一家 いっか は同地 どうち に定住 ていじゅう したが、後年 こうねん にヒトラーから生家 せいか を案内 あんない されたゲッベルス曰 いわ く「小 ちい さく粗末 そまつ な家 いえ 」であったという。弟 おとうと エドムントが亡 な くなる不幸 ふこう などを経 へ て、次第 しだい にヒトラーはき分 きわ けの良 よ い子供 こども から、父 ちち や教師 きょうし に口答 くちごた えする反抗 はんこう 的 てき な性格 せいかく へと変 か わっていった。感傷 かんしょう 的 てき な理由 りゆう からではなく、単純 たんじゅん にアロイス2世 せい の家出 いえで もあってヒトラーが唯一 ゆいいつ の跡継 あとつ ぎになってしまい、一層 いっそう に父親 ちちおや からの干渉 かんしょう が増 ま したからである。1899年 ねん 、各地 かくち を転々 てんてん としていたヒトラーは義務 ぎむ 教育 きょういく を終 お え、小学校 しょうがっこう の卒業 そつぎょう 資格 しかく を得 え た。
母 はは クララとの関係 かんけい は良好 りょうこう だったが、家父 かふ 長 ちょう 主義 しゅぎ 的 てき なアロイスとの関係 かんけい は不仲 ふなか になる一方 いっぽう だった。アロイスの側 がわ も隠居 いんきょ 生活 せいかつ で自宅 じたく にいる時間 じかん が増 ふ えたことに加 くわ え、農業 のうぎょう 事業 じぎょう に失敗 しっぱい した苛立 いらだ ちから度々 たびたび ヒトラーに鞭 むち を使 つか った折檻 せっかん をした[ 40] 。アロイスは無学 むがく な自分 じぶん が税関 ぜいかん 事務 じむ 官 かん になったことを一番 いちばん の誇 ほこ りにしており、息子 むすこ 達 たち も税関 ぜいかん 事務 じむ 官 かん にすることを望 のぞ んでいた[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。これもますますヒトラーとの関係 かんけい を悪化 あっか させた。後 のち にヒトラーは父 ちち が自分 じぶん を強引 ごういん に税関 ぜいかん 事務 じむ 局 きょく へ連 つ れて行 い った時 とき のことを、父 ちち との対立 たいりつ を象徴 しょうちょう する出来事 できごと として脚色 きゃくしょく しながら語 かた っている[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。1900年 ねん 、中等 ちゅうとう 教育 きょういく (中学校 ちゅうがっこう ・高校 こうこう )を学 まな ぶ年頃 としごろ になるとギムナジウム (大学 だいがく 予備 よび 課程 かてい )で学 まな びたいと主張 しゅちょう したヒトラーに対 たい して、アロイスはリンツのレアルシューレ (実科 じっか 中等 ちゅうとう 学校 がっこう 、Realschule)への入学 にゅうがく を強制 きょうせい した。自伝 じでん 『我 わ が闘争 とうそう 』によれば、ヒトラーは実科 じっか 学校 がっこう での授業 じゅぎょう を露骨 ろこつ にサボタージュして父 ちち に抵抗 ていこう したが、成績 せいせき が悪 わる くなっても決 けっ してアロイスはヒトラーのい分 いぶん を認 みと めなかった。
恐 おそ らくヒトラーが最初 さいしょ にドイツ民族 みんぞく 主義 しゅぎ (ドイツ語 ご 版 ばん ) や大 だい ドイツ主義 しゅぎ に傾倒 けいとう したのはこの頃 ころ からであると考 かんが えられている[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。なぜなら父 ちち アロイスは生粋 きっすい のハプスブルク君主 くんしゅ 国 こく の支持 しじ 者 しゃ であり、その崩壊 ほうかい を意味 いみ する過激 かげき な大 だい ドイツ主義 しゅぎ を毛嫌 けぎら いしていたからである。また政治 せいじ 的 てき にもおそらくは自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な人物 じんぶつ で宗教 しゅうきょう 的 てき にも世俗 せぞく 派 は に俗 ぞく した。周囲 しゅうい の人間 にんげん もほとんどが父 ちち と同 おな じ価値 かち 観 かん であったが、ヒトラーは父 ちち への反抗 はんこう も兼 か ねて統一 とういつ ドイツへの合流 ごうりゅう を持論 じろん にしていた。ヒトラーはハプスブルク君主 くんしゅ 国 こく は「雑種 ざっしゅ の集団 しゅうだん 」であり、自 みずか らはドイツという帰属 きぞく 意識 いしき のみを持 も つと主張 しゅちょう した[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。ヒトラーは学友 がくゆう に大 だい ドイツ主義 しゅぎ を宣伝 せんでん してグループを作 つく り、仲間 なかま 内 ない で「ハイル」の挨拶 あいさつ を用 もち いたり、ハプスブルク君主 くんしゅ 国 こく の国歌 こっか ではなく「世界 せかい に冠 かん たるドイツ帝国 ていこく 」を謡 うた うように呼 よ びかけている。ヒトラーは自 みずか らの父 ちち を生涯 しょうがい 愛 あい さず、「私 わたし は父 ちち が好 す きではなかった」との言葉 ことば を残 のこ している。
ただしアロイスによる強制 きょうせい というヒトラーの主張 しゅちょう は疑 うたが わしいとする見解 けんかい もある。税務 ぜいむ 官 かん などの官吏 かんり に登用 とうよう されるには法学 ほうがく を学 まな ぶ必要 ひつよう があり、当時 とうじ のドイツで法律 ほうりつ を学 まな ぶにはラテン語 らてんご が必修 ひっしゅう であった。実科 じっか 学校 がっこう はギムナジウム と異 こと なりラテン語 らてんご 教育 きょういく が施 ほどこ されることはまずなく、仮 かり に官吏 かんり になったとしても税務 ぜいむ 官 かん のような上級 じょうきゅう 役職 やくしょく に進 すす める人間 にんげん はそれこそアロイスのように特例 とくれい であった。実際 じっさい 、ヒトラーの同窓生 どうそうせい 達 たち で官吏 かんり になったものも鉄道 てつどう 員 いん 、郵便 ゆうびん 局員 きょくいん 、動物 どうぶつ 園 えん 職員 しょくいん などに留 とど まっている。もしアロイスが本当 ほんとう に税務 ぜいむ 官 かん になることを望 のぞ んだのなら、むしろギムナジウム 入学 にゅうがく を強制 きょうせい したはずである。よってギムナジウムに進学 しんがく できなかったのは単 たん にヒトラーの学力 がくりょく 不足 ふそく であって、父 ちち アロイスは成績 せいせき 不良 ふりょう の息子 むすこ が手 て に職 しょく を就 つ けられるように気遣 きづか った可能 かのう 性 せい が高 たか い、というものである。
1901年 ねん 、田舎 いなか の小学校 しょうがっこう で学 まな んでいたヒトラーは都会 とかい の授業 じゅぎょう についていけず、リンツ実科 じっか 中等 ちゅうとう 学校 がっこう 一 いち 年生 ねんせい の時 とき に必修 ひっしゅう の数学 すうがく と博物学 はくぶつがく の試験 しけん に不 ふ 合格 ごうかく となり、留年 りゅうねん となった。1902年 ねん には二 に 年生 ねんせい に進級 しんきゅう したが、学年 がくねん 末 まつ にまたもや数学 すうがく の試験 しけん を落 お として再 さい 試験 しけん を受 う けて辛 かろ うじて三 さん 年生 ねんせい に進級 しんきゅう した。1903年 ねん 1月 がつ 3日 にち 、14歳 さい の時 とき に父 ちち アロイスが65歳 さい (数 かぞ え年 どし )で病没 びょうぼつ する。地元 じもと の名士 めいし だった父 ちち の死 し は地方 ちほう 新聞 しんぶん の記事 きじ になっており、料理 りょうり 店 てん で食事 しょくじ 中 ちゅう に脳卒中 のうそっちゅう で倒 たお れて死亡 しぼう したという。しかし憎 にく む対象 たいしょう を失 うしな った後 のち もヒトラーの問題 もんだい 行動 こうどう は収 おさ まらず、成績 せいせき も悪化 あっか を続 つづ けた。同年 どうねん には外国 がいこく 語 ご (フランス語 ふらんすご )の試験 しけん に不 ふ 合格 ごうかく となって2度目 どめ の留年 りゅうねん 処分 しょぶん を受 う け、扱 あつか い兼 か ねた学校 がっこう からは四 よん 年生 ねんせい への進級 しんきゅう を認 みと めて貰 もら う代 か わりに退学 たいがく を命 めい じられる有様 ありさま だった。
退学 たいがく 後 ご 、リンツ近郊 きんこう にあったシュタイアー 市 し の実科 じっか 中等 ちゅうとう 学校 がっこう の四 よん 年生 ねんせい に復学 ふくがく したが、前期 ぜんき 試験 しけん で国語 こくご と数学 すうがく 、後期 こうき 試験 しけん では幾何 きか 学 がく で不 ふ 合格 ごうかく となった。私生活 しせいかつ でも下宿 げしゅく 生活 せいかつ を送 おく る中 なか 、学友 がくゆう と酒場 さかば に繰 く り出 だ して酔 よ った勢 いきお いに任 まか せて在学 ざいがく 証明 しょうめい 証 しょう を引 ひ き裂 さ くなどの乱行 らんぎょう を行 おこな い、教師 きょうし 達 たち から大目玉 おおめだま を食 く らっている[ 31] 。結局 けっきょく 、1905年 ねん には試験 しけん や授業 じゅぎょう を受 う けなくなり[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 、病気 びょうき 療養 りょうよう を理由 りゆう に2度目 どめ の学校 がっこう も退校 たいこう している。
ヒトラーにとって唯一 ゆいいつ 正式 せいしき に教育 きょういく を終 お えたのは先述 せんじゅつ の小学校 しょうがっこう のみであり、息子 むすこ の学業 がくぎょう に望 のぞ みを持 も っていた父 ちち と結果 けっか として同 おな じ経歴 けいれき となった。
1905年 ねん 、実技 じつぎ 学校 がっこう を離 はな れたヒトラーは一旦 いったん は寡婦 かふ となった母 はは がいるリンツに戻 もど った。アロイスの死後 しご 、ヒトラーは母 はは の溺愛 できあい と唯一 ゆいいつ の男子 だんし という立場 たちば から「小 ちい さなアロイス」として専横 せんおう 的 てき に振舞 ふるま った。共 とも に父 ちち からの体罰 たいばつ に怯 おび えていたはずの妹 いもうと パウラ・ヒトラー にも家父 かふ 長 ちょう 的 てき に接 せっ し、パウラが学校 がっこう に向 む かうのを見張 みは り、何 なに か気 き に食 く わない行動 こうどう があれば平手打 ひらてう ち を食 く らわせた。
しかし家 いえ の外 そと に広 ひろ がる社会 しゃかい に対 たい しては消極 しょうきょく 的 てき で、気 き まずさもあって昔 むかし の友人 ゆうじん とも会 あ うのを避 さ けていたが、暫 しばら くしてアウグスト・クビツェク という同年代 どうねんだい の青年 せいねん と交流 こうりゅう を持 も つようになった。クビツェクはアロイスと同 おな じく小学校 しょうがっこう を出 で てすぐに働 はたら きに出 で ていたため、実技 じつぎ 学校 がっこう を離 はな れたヒトラーにかえって憧憬 どうけい を抱 だ いており、ヒトラーに付 つ き従 したが ってリンツ郊外 こうがい などの散策 さんさく や歌劇 かげき 場 じょう の観覧 かんらん に出向 でむ いていた。他 た にシュテファニーという女性 じょせい に熱 ねつ を上 あ げていて、実際 じっさい にアカデミーを出 で て画家 がか になってから結婚 けっこん を申 もう し込 こ みたいという手紙 てがみ を送 おく っている。リンツはヒトラーにとって第 だい 二 に の故郷 こきょう であり、総統 そうとう 就任 しゅうにん 後 ご も青年 せいねん 期 き に構想 こうそう していたリンツの都市 とし 改造 かいぞう 計画 けいかく を実施 じっし しようと専用 せんよう の建築 けんちく 官房 かんぼう まで設立 せつりつ していた。また、この頃 ころ のヒトラーはリヒャルト・ワーグナー の未 み 完成 かんせい の台本 だいほん に基 もと づき《鍛冶屋 かじや ヴィーラント 》というオペラの作曲 さっきょく を試 こころ みた。
クビツェクによれば当時 とうじ のヒトラーは手入 てい れの行 い き届 とど いた清潔 せいけつ な格好 かっこう をしており、黒 くろ い帽子 ぼうし や皮 かわ 手袋 てぶくろ 、象牙 ぞうげ が用 もち いられたステッキ などを身 み に付 つ けていた。この上流 じょうりゅう 趣味 しゅみ は父 ちち を失 うしな ってなおヒトラー家 か が富裕 ふゆう 層 そう であったことを意味 いみ しており、ヒトラー自身 じしん も「パンのために働 はたら く仕事 しごと 」を軽蔑 けいべつ していたという。母 はは クララは息子 むすこ が何 なん の仕事 しごと にも就 つ かないことを心配 しんぱい しており、義兄 ぎけい (姉 あね の夫 おっと )のレオ・ラウバルも「アドルフを職 しょく に就 つ かせるべきだ」と迫 せま っていた。本来 ほんらい であれば学業 がくぎょう を辞 や めたのなら同年代 どうねんだい の青年 せいねん 達 たち と同 おな じく、何 なに か従弟 じゅうてい 修行 しゅぎょう や職業 しょくぎょう 訓練 くんれん を受 う けさせなければならなかった。だがヒトラーは執拗 しつよう に母 はは に画家 がか になる夢 ゆめ を語 かた り、意志 いし の弱 よわ いクララは息子 むすこ の夢 ゆめ に理解 りかい を示 しめ していたが、内心 ないしん で不安 ふあん でもあった。
クビツェクはしばしばクララからヒトラーが亡父 ぼうふ が望 のぞ んだような生 い き方 かた を選 えら ぶように説得 せっとく してほしいと頼 たの まれたという。そう話 はな すクララの容貌 ようぼう を「実 じつ 年齢 ねんれい より老 ふ け込 こ んで見 み えた」と回想 かいそう しており、息子 むすこ が芸術 げいじゅつ 家 か としてどうやって身 み を立 た てるのか、肝心 かんじん な部分 ぶぶん が曖昧 あいまい だった事 こと に不安 ふあん を覚 おぼ えていたのだろうと推測 すいそく している。ある時 とき 、ヒトラーは絵 え だけではなく音楽 おんがく に興味 きょうみ を向 む け、クララはピアノを買 か い与 あた えて軍楽隊 ぐんがくたい 出身 しゅっしん の家庭 かてい 教師 きょうし まで付 つ けているが、数 すう か月 げつ もしないうちに興味 きょうみ を失 うしな って投 な げ出 だ している。1907年 ねん 1月 がつ 、母 はは クララが倒 たお れ、エドゥアルド・ブロッホ 医師 いし の診察 しんさつ で重度 じゅうど の乳癌 にゅうがん と診断 しんだん され、ヒトラーとパウラに「殆 ほとん ど望 のぞ みはない」ことを告知 こくち した。見 み るからに痩 や せ細 ほそ っていくクララにヒトラーは動揺 どうよう したが何 なに もできず、介護 かいご や家事 かじ はほとんど叔母 おば ハンニや姉 あね アンゲラ、さらにはまだ小学校 しょうがっこう に通 かよ っていた妹 いもうと パウラに任 まか せきりだった。
ヒトラーが受験 じゅけん したウィーン美術 びじゅつ アカデミー
1907年 ねん 4月 がつ 、18歳 さい になったヒトラーは法律 ほうりつ 上 じょう 700クローネ 相当 そうとう の遺産 いさん 分与 ぶんよ の権利 けんり を得 え たが、これは当時 とうじ の郵便 ゆうびん 局員 きょくいん の収入 しゅうにゅう の一 いち 年 ねん 分 ぶん であった。父 ちち の遺産 いさん に加 くわ えて遺族 いぞく 年金 ねんきん から仕送 しおく りを得 え る約束 やくそく を母親 ははおや から貰 もら い、芸術 げいじゅつ の都 と であるウィーン へ移住 いじゅう して美術 びじゅつ を学 まな ぶことを決 き めた[ 60] 。同年 どうねん 9月 がつ にウィーン美術 びじゅつ アカデミー を受験 じゅけん した。当時 とうじ のウィーン美術 びじゅつ アカデミーは大学 だいがく などの高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん ではなく職業 しょくぎょう 訓練 くんれん 学校 がっこう であり、年齢 ねんれい 制限 せいげん や学歴 がくれき などの条件 じょうけん が緩 ゆる く、実科 じっか 学校 がっこう を途中 とちゅう で放棄 ほうき したヒトラーでも受験 じゅけん が可能 かのう であった。前年 ぜんねん の1906年 ねん にはヒトラーより一 いち 歳 さい 年下 としした で後 のち に画家 がか として名 な を成 な したエゴン・シーレ が工芸 こうげい 学校 がっこう を卒業 そつぎょう 後 ご 、16歳 さい で入学 にゅうがく している。
しかし、ヒトラーの結果 けっか は不 ふ 合格 ごうかく であった。試験 しけん 記録 きろく には「アドルフ・ヒトラー、実科 じっか 学校 がっこう 中退 ちゅうたい 、ブラウナウ出身 しゅっしん 、ドイツ系 けい 住民 じゅうみん 、役人 やくにん の息子 むすこ 。頭部 とうぶ デッサン 未 み 提出 ていしゅつ など課題 かだい に不足 ふそく あり、成績 せいせき は不十分 ふじゅうぶん 」と記述 きじゅつ されている[ 62] 。受験 じゅけん 人数 にんずう は113名 めい と少 しょう 人数 にんずう で、合格 ごうかく 者 しゃ も28名 めい と4倍 ばい 程度 ていど の倍率 ばいりつ で、極端 きょくたん に難関 なんかん という訳 わけ ではなかった。試験 しけん 内容 ないよう は実技 じつぎ とこれまで製作 せいさく した作品 さくひん の審査 しんさ からなっていたが、前述 ぜんじゅつ の通 とお り頭部 とうぶ デッサンの未 み 提出 ていしゅつ など、審査 しんさ 用 よう の作品 さくひん に不足 ふそく があると判断 はんだん されて不 ふ 合格 ごうかく となった。アカデミー受験 じゅけん に失敗 しっぱい した時 とき に学長 がくちょう に直談判 じかだんぱん した際 さい には、人物 じんぶつ デッサンを嫌 きら う傾向 けいこう から「画家 がか は諦 あきら めて建築 けんちく 家 か を目指 めざ してはどうか」と助言 じょげん された。ウィーンでの美術館 びじゅつかん 巡 めぐ りでは、建物 たてもの 自体 じたい の観賞 かんしょう を好 この んだと書 か き残 のこ すなど、ヒトラーも実際 じっさい には建築 けんちく 物 ぶつ を好 この んでいて、この助言 じょげん に大 おお いに乗 の り気 き になったが、程 ほど なく画家 がか よりさらに非 ひ 現実 げんじつ 的 てき な望 のぞ みであることを知 し って断念 だんねん したと書 か き残 のこ している。
「
…画家 がか から建築 けんちく 家 か へ望 のぞ みを変 か えてから、程 ほど なく私 わたし にとってそれが困難 こんなん であることに気 き が付 つ いた。私 わたし が腹 はら いせで退学 たいがく した実科 じっか 学校 がっこう は卒業 そつぎょう すべき所 ところ だった。建築 けんちく アカデミーへ進 すす むにはまず建築 けんちく 学校 がっこう で学 まな ばねばならなかったし、そもそも建築 けんちく アカデミーは中等 ちゅうとう 教育 きょういく を終 お えていなければ入校 にゅうこう できなかった。どれも持 も たなかった私 わたし の芸術 げいじゅつ 的 てき な野心 やしん は、脆 もろ くも潰 つい えてしまったのだ…
」
画風 がふう については、丹念 たんねん な描写 びょうしゃ に情熱 じょうねつ を注 そそ ぐものの独創 どくそう 性 せい に乏 とぼ しいという評価 ひょうか で、後 のち に絵葉書 えはがき 売 う りで生計 せいけい を立 た てた時 とき も既存 きそん 作品 さくひん の模写 もしゃ が多 おお かったという[ 62] 。ミュンヘン時代 じだい の知人 ちじん の証言 しょうげん では、ヒトラーは同地 どうち で生活 せいかつ した頃 ころ は名所 めいしょ の風景 ふうけい 画 が を中心 ちゅうしん に売 う っていたが、本人 ほんにん は現地 げんち には行 い かず、記憶 きおく やほかの画家 がか が描 えが いた絵 え などを参考 さんこう に描 えが くという独特 どくとく の手法 しゅほう をとっていた。本人 ほんにん はこうした自 みずか らの傾向 けいこう を「古典 こてん 派 は 嗜好 しこう 」ゆえのことと自負 じふ していた節 ふし があり、世紀 せいき 末 まつ 芸術 げいじゅつ 、ダダイズム やキュビズム などの新 あたら しい芸術 げいじゅつ 運動 うんどう に嫌悪 けんお 感 かん すら抱 だ いていた。シーレらがアカデミーに迎 むか えられたことについて、後年 こうねん までルサンチマンを抱 いだ き、総統 そうとう となってからは、彼 かれ らの作品 さくひん やアカデミーを「退廃 たいはい 芸術 げいじゅつ 」として徹底的 てっていてき に糾弾 きゅうだん し、弾圧 だんあつ 下 か に置 お いている。芸術 げいじゅつ に限 かぎ らず、ヒトラーは自 みずか らを認 みと めなかった「硬直 こうちょく 的 てき な正規 せいき 教育 きょういく 課程 かてい 」を憎 にく み、晩年 ばんねん まで憎悪 ぞうお を口 くち にしていた。
ウィーンに出向 でむ いている間 あいだ 、ヒトラーは故郷 こきょう との連絡 れんらく をなるべく避 さ け、母 おも やブロッホらに葉書 はがき を送 おく る時 とき も当 あ たり障 さわ りのない内容 ないよう に留 と めて受験 じゅけん 結果 けっか も伝 つた えなかった。クララは見舞 みま いに来 き たクビツェクに堰 せき を切 き ったように息子 むすこ への怒 いか りや悲 かな しみを嘆 なげ き、「あの子 こ は自分 じぶん の道 みち を歩 あゆ んでいる、他 た の人 ひと なんかいないみたいにね…あの子 こ が独 ひと り立 だ ちしたとしても、私 わたし は見 み られないでしょうね」と諦 あきら めた声 こえ で呟 つぶや いたという。
1907年 ねん 10月、ブロッホはクララに正式 せいしき な余命 よめい 宣告 せんこく を行 おこな って親族 しんぞく にも告知 こくち した。流石 さすが のヒトラーも実家 じっか に戻 もど り、変 か わり果 は てた母 はは の姿 すがた を見 み て呆然 ぼうぜん とした。一生 いっしょう を通 とお して初 はじ めて叔母 おば と妹 いもうと と家事 かじ を手伝 てつだ うようになり、痛 いた みで苦 くる しみすすり泣 な く母 はは の傍 はた を片時 かたとき も離 はな れず、夜 よる もベッドの隣 となり に置 お いた長椅子 ながいす で眠 ねむ った。1907年 ねん 12月21日 にち 、クララは47歳 さい で病没 びょうぼつ し、レオンディングにある父 ちち アロイスの墓 はか の隣 となり に葬 ほうむ られた。葬儀 そうぎ が終 お わった後 のち 、ブロッホの下 した をヒトラーが訪 おとず れ、出来 でき うる限 かぎ りの治療 ちりょう をしてくれた事 こと に心 しん からの感謝 かんしゃ を述 の べた。その様子 ようす についてブロッホは「わたしの一生 いっしょう で、アドルフ・ヒトラーほど深 ふか く悲 かな しみに打 う ちひしがれた人間 にんげん を見 み たことがなかった」と回想 かいそう している。後 のち にヒトラーは『我 わ が闘争 とうそう 』の中 なか で以下 いか のように語 かた っている。
「
母 はは の墓 はか を前 まえ にして立 た っていたあの日 ひ 以来 いらい 、私 わたし は一 いち 度 ど も泣 な いた事 こと がない。
」
1908年 ねん 2月 がつ 、妹 いもうと パウラを異母 いぼ 姉 あね アンゲラの嫁 とつ いだラウバル家 か に預 あづ けて再 ふたた び首都 しゅと ウィーンに舞 ま い戻 もど ると今度 こんど は生活 せいかつ 拠点 きょてん も移 うつ し、シュトゥンペル街 がい に下宿 げしゅく 先 さき を借 か りた。程 ほど なくして音楽 おんがく 学校 がっこう に合格 ごうかく したクビツェクがウィーンへやってくると、シュトゥンペルの下宿 げしゅく 先 さき で共同 きょうどう 生活 せいかつ を送 おく るようになった。ウィーンの裏通 うらどお りにある下宿 げしゅく 先 さき は月 つき 20クローネの2人 ふたり 部屋 へや で、ゆったりとした生活 せいかつ スペースにクビツェクが練習 れんしゅう 用 よう に借 か りたグランドピアノ と2つのベッド が置 お かれていた。朝 あさ に学校 がっこう に向 む かうクビツェクに対 たい してヒトラーは部屋 へや で寝 ね ており、帰 かえ ってきたクビツェクがピアノの練習 れんしゅう する時 とき 間 あいだ 帯 たい になると図書館 としょかん や公園 こうえん に出 で かけていった。時 とき に昔 むかし のように2人 ふたり で美術館 びじゅつかん や街 まち の散策 さんさく に出 で かけると、美術 びじゅつ 上 じょう の知識 ちしき や持論 じろん を延々 えんえん と語 かた っていた。クビツェクが音楽 おんがく 学校 がっこう の休暇 きゅうか でリンツに帰 かえ った後 のち も滞在 たいざい を続 つづ け、手紙 てがみ のやり取 と りをしている。
すでにヒトラーは父 ちち からの遺産 いさん 分与 ぶんよ 700クローネをある程度 ていど 使用 しよう しており、また母親 ははおや の葬儀 そうぎ 費用 ひよう などで370クローネを支払 しはら っているが、母 はは からは父 ちち の遺産 いさん 全額 ぜんがく の3000クローネが残 のこ されたし、また妹 いもうと パウラとヒトラーが24歳 さい になるか就業 しゅうぎょう するまでは孤児 こじ 保護 ほご の恩給 おんきゅう として月 つき 50クローネの受給 じゅきゅう もオーストリア・ハンガリー帝国 ていこく 政府 せいふ から認 みと められた。ヴェルナー・マーザー とフランツ・イェッツインガー は、更 さら にクララの叔母 おば であるワルブルガ・ロメダーの遺産 いさん の一部 いちぶ 、最低 さいてい でも数 すう 百 ひゃく クローネがクララを通 つう じて入 はい ってきていたと指摘 してき している。孤児 こじ 恩給 おんきゅう の半額 はんがく は妹 いもうと パウラを引 ひ き取 と った義姉 ぎし アンゲラに養育 よういく 費 ひ として渡 わた されたが、10代の青年 せいねん としては十分 じゅうぶん 過 す ぎる程 ほど の遺産 いさん と当面 とうめん の生活 せいかつ 費 ひ が残 のこ されたのであり『わが闘争 とうそう 』にあるような無一文 むいちもん でウィーンにやってきたような描写 びょうしゃ とは異 こと なる[ 注 ちゅう 5] 。またシュトラールは「遺産 いさん を受 う け取 と り、労働 ろうどう が可能 かのう で、かつ就学 しゅうがく もしていないヒトラーの身 み の上 うえ を鑑 かんが みればパウラが恩給 おんきゅう の全額 ぜんがく を受 う け取 と る権利 けんり があったにもかかわらず、妹 いもうと や後見人 こうけんにん に無断 むだん で勝手 かって に孤児 こじ 恩給 おんきゅう の申請 しんせい 書 しょ を出 だ すなど策 さく を巡 めぐ らし、学校 がっこう に通 かよ っていた妹 いもうと から半分 はんぶん 恩給 おんきゅう を奪 うば い取 と っている」と指摘 してき している。
1908年 ねん 末 すえ 、この年 とし にもアカデミーを受験 じゅけん したが、再 ふたた び失敗 しっぱい した。2度目 どめ の試験 しけん では実技 じつぎ 試験 しけん にすら受 う からず、むしろ合格 ごうかく は遠 とお ざかっていた。同年 どうねん 9月 がつ 、クビツェクの前 まえ からヒトラーは突然 とつぜん 姿 すがた を消 け した。これは入試 にゅうし に失敗 しっぱい したことを知 し られたくなかったためと、徴兵 ちょうへい 忌避 きひ のためとであった。ウィーンに戻 もど ったクビツェクの側 がわ も特 とく に行方 ゆくえ を捜 さが すことはなかった。ヒトラーはたびたび住居 じゅうきょ を変 か え、1909年 ねん 11月 がつ 末 まつ 頃 ごろ には住所 じゅうしょ 不定 ふてい 無職 むしょく の人物 じんぶつ として浮浪 ふろう 者 しゃ 収容 しゅうよう 所 しょ に入 はい り、次 つ いでメルデマン街 がい にある独身 どくしん 者 もの 用 よう の公営 こうえい 寄宿舎 きしゅくしゃ に移 うつ り住 す んだ。経済 けいざい 上 じょう のことというよりは、20歳 さい から始 はじ まる徴兵 ちょうへい 義務 ぎむ を逃 のが れるためであったと見 み られている(兵役 へいえき 逃 のが れ )。この寄宿舎 きしゅくしゃ は休憩 きゅうけい 室 しつ や読書 どくしょ 室 しつ を備 そな え、就寝 しゅうしん 室 しつ は個室 こしつ になっており、食事 しょくじ も安 やす く、正業 せいぎょう を持 も っているものも一時 いちじ 的 てき に利用 りよう することがある施設 しせつ であった。ヒトラーはこの頃 ころ 絵葉書 えはがき や版画 はんが の模写 もしゃ をおこない、インテリ層 そう や商人 しょうにん などに絵画 かいが を売 う ることもあった。売 う り込 こ みはラインホルト・ハーニッシュ (ドイツ語 ご 版 ばん ) が行 おこな い、売上 うりあげ は折半 せっぱん していた。
1911年 ねん 、姉 あね アンゲラから孤児 こじ 恩給 おんきゅう 全額 ぜんがく を妹 いもうと パウラに譲 ゆず るようにリンツ地区 ちく 裁判所 さいばんしょ で訴訟 そしょう を起 お こされた。この背景 はいけい には叔母 おば ハンニからヒトラーが可愛 かわい がられており、遺産 いさん となる財産 ざいさん のほとんどをヒトラーの「芸術 げいじゅつ 活動 かつどう 」に援助 えんじょ していたことに、夫 おっと ラウバルの死後 しご も妹 いもうと パウラを養 やしな い女子 じょし 実科 じっか 中等 ちゅうとう 学校 がっこう にも通 かよ わせていたアンゲラが憤慨 ふんがい したためである。ハンニがヒトラーに与 あた えた財産 ざいさん がどの程度 ていど だったのは定 さだ かではないが、ハンニの死後 しご その預金 よきん 3800クローネが引 ひ き出 だ されたにもかかわらず、ハンニの実妹 じつまい は遺産 いさん を相続 そうぞく していないため、少 すく なくとも2000クローネ程度 ていど は援助 えんじょ されていたと見 み られている。仮 かり に今 いま までの生活 せいかつ で父母 ちちはは の遺産 いさん を使 つか い果 は たし、孤児 こじ 恩給 おんきゅう を失 うしな ったとしても、今度 こんど は叔母 おば ハンニの財産 ざいさん でまだ数 すう 年 ねん は「寝 ね て暮 く らせる」生活 せいかつ であった。また遺産 いさん を取 と り崩 くず しながらの生活 せいかつ ながら自作 じさく の絵葉書 えはがき や風景 ふうけい 画 が を売 う ることで小額 しょうがく の生活 せいかつ 費 ひ は稼 かせ いでいた。ヒトラー自身 じしん も『我 わ が闘争 とうそう 』の中 なか で「ささやかな素描 そびょう 家 か 兼 けん 水彩 すいさい 画家 がか として独立 どくりつ した生活 せいかつ を送 おく っていた」と記述 きじゅつ しており、裁判 さいばん において「自分 じぶん で生活 せいかつ できる」と証言 しょうげん し、孤児 こじ 恩給 おんきゅう の放棄 ほうき に同意 どうい した。
この頃 ころ ヒトラーは食費 しょくひ を切 き り詰 つ めてでも歌劇 かげき 場 じょう に通 かよ うほどリヒャルト・ワーグナー に心酔 しんすい していたとされる。また暇 ひま な時 とき に図書館 としょかん から多 おお くの本 ほん を借 か りて、歴史 れきし ・科学 かがく などに関 かん して豊富 ほうふ な、しかし偏 かたよ った知識 ちしき を得 え ていった。その中 なか にはアルテュール・ド・ゴビノー やヒューストン・チェンバレン らが提起 ていき した人種 じんしゅ 理論 りろん や反 はん ユダヤ主義 しゅぎ なども含 ふく まれていた。キリスト教 きりすときょう 社会党 しゃかいとう を指導 しどう していたカール・ルエーガー (後 のち にウィーン市長 しちょう )や汎 ひろし ゲルマン主義 しゅぎ に基 もと づく民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政治 せいじ 運動 うんどう を率 ひき いていたゲオルク・フォン・シェーネラー などにも影響 えいきょう を受 う け、彼 かれ らが往々 おうおう に唱 とな えていた民族 みんぞく 主義 しゅぎ ・社会 しゃかい 思想 しそう ・反 はん ユダヤ主義 しゅぎ も後 ご のヒトラーの政治 せいじ 思想 しそう に影響 えいきょう を与 あた えたといわれる。この時代 じだい にヒトラーの思想 しそう が固 かた まっていったと思 おも われているが、仮 かり にそうだとしても、ヒトラーは少 すく なくとも青年 せいねん 時代 じだい には政治 せいじ 思想 しそう に熱意 ねつい を注 そそ いではいなかった。1913年 ねん の頃 ころ のヒトラーはイエズス会 かい や共産 きょうさん 主義 しゅぎ を批判 ひはん していたが、反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 的 てき な発言 はつげん の記録 きろく はない[ 79] 。ヒトラーは絵画 かいが をユダヤ人 じん 画商 がしょう に好 この んで売 う り、ユダヤ人 じん は頭 あたま がよく協力 きょうりょく しあうと称賛 しょうさん することもあったし[ 79] 、ユダヤ系 けい 画商 がしょう との夕食 ゆうしょく 会 かい に参加 さんか するなど親睦 しんぼく も結 むす んでいた[ 80] 。一方 いっぽう で、ユダヤ人種 じんしゅ は体臭 たいしゅう が違 ちが うし、ユダヤの血 ち はテロ に走 はし りやすいとも述 の べていた[ 79] 。またクビツェクは「リンツにいた頃 ころ から反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 者 しゃ だった」と述 の べている[ 81] 。
1913年 ねん 5月、24歳 さい になったヒトラーは隣国 りんごく ドイツの南部 なんぶ にあるミュンヘン に移住 いじゅう し、仕立 した て職人 しょくにん ポップの元 もと で下宿 げしゅく 生活 せいかつ を送 おく った。ヒトラー自身 じしん はオーストリアとウィーンの腐敗 ふはい した環境 かんきょう に耐 た えられなかったと述 の べているが、実際 じっさい には徴兵 ちょうへい 忌避 きひ 罪 ざい を逃 のが れるためであったと見 み られている。ヒトラーは故郷 こきょう リンツにおいて徴兵 ちょうへい 検査 けんさ を受 う けなかったことで兵役 へいえき 忌避 きひ 罪 ざい と、その事実 じじつ を隠 かく して国外 こくがい に逃亡 とうぼう するという2つの犯罪 はんざい を犯 おか した立場 たちば となった。事実 じじつ が発覚 はっかく して逮捕 たいほ された場合 ばあい 、1か月 げつ から1年 ねん の禁固刑 きんこけい と2000クローネの罰金 ばっきん という重罪 じゅうざい が科 か せられることが想定 そうてい された。この移住 いじゅう に際 さい してヒトラーは、自分 じぶん をオーストリア国民 こくみん ではなく「無 む 国籍 こくせき 者 しゃ 」であると申請 しんせい している。
リンツ警察 けいさつ は8月 がつ 11日 にち から捜索 そうさく を開始 かいし し、ヒトラーは1914年 ねん 1月 がつ 18日 にち にミュンヘン警察 けいさつ によって逮捕 たいほ 、オーストリア領事館 りょうじかん に連行 れんこう された。仰天 ぎょうてん したヒトラーは領事館 りょうじかん 員 いん のすすめで書 か いた弁明 べんめい 書 しょ で、1910年 ねん 2月 がつ にウィーンで兵役 へいえき の申告 しんこく を行 おこな ったとした上 うえ で、「(1909年 ねん ごろには)誰 だれ からの金銭 きんせん 上 じょう の援助 えんじょ がなく」と、自 みずか らの貧困 ひんこん を訴 うった える嘘 うそ を書 か き連 つら ねている。ヒトラーは納税 のうぜい 証書 しょうしょ を同封 どうふう し、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう としては多 おお い年収 ねんしゅう 1200マルクの収入 しゅうにゅう があったが、支出 ししゅつ が多 おお いため現在 げんざい も裕福 ゆうふく ではないと弁明 べんめい している。実際 じっさい にはミュンヘンでの生活 せいかつ は安定 あんてい しており、近所 きんじょ の人々 ひとびと からも信用 しんよう されていた。ヒトラーはインテリ風 ふう の良 よ い身 み なりをしており、家主 やぬし のポップとはよく政治 せいじ 論 ろん を戦 たたか わせていたという。このころの月収 げっしゅう は100マルク程度 ていど あったが、当時 とうじ 同 どう 年齢 ねんれい の銀行 ぎんこう 員 いん の月収 げっしゅう は70マルクであった。さらに1913年 ねん 5月 がつ 16日 にち には、孤児 こじ 金庫 きんこ から819クローネ98ヘラーの資産 しさん が交付 こうふ されている。1914年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、ザルツブルク で行 おこな われた検査 けんさ で不 ふ 適格 てきかく と判定 はんてい されたため兵役 へいえき を免除 めんじょ され、罪 つみ も免除 めんじょ された。
従軍 じゅうぐん 時 じ のヒトラー(椅子 いす に座 すわ る兵士 へいし の右 みぎ 端 はし )と戦友 せんゆう 達 たち
同年 どうねん 8月 がつ 1日 にち に勃発 ぼっぱつ した第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ではバイエルン王 おう 宛 あて に請願 せいがん 書 しょ を送 おく り、バイエルン陸軍 りくぐん に志願 しがん した。翌日 よくじつ には入隊 にゅうたい 許可 きょか 書 しょ が届 とど き、バイエルン王国 おうこく 第 だい 16予備 よび 歩兵 ほへい 連隊 れんたい に義勇 ぎゆう 兵 へい として入営 にゅうえい した。連隊 れんたい は主 おも に西部 せいぶ 戦線 せんせん の北 きた 仏 ふつ ・ベルギーなどに従軍 じゅうぐん してソンム やパッシェンデール など幾 いく つかの会戦 かいせん に加 くわ わっている[ 88] 。
ヒトラーは、フランス兵 へい を捕 とら える等 とう の功績 こうせき と伝令 でんれい 兵 へい としての勤務 きんむ ぶりを評価 ひょうか され、6回 かい 受勲 じゅくん している(1914年 ねん に二 に 級 きゅう 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら 、1917年 ねん に剣 けん 付 づけ 三 さん 級 きゅう 戦功 せんこう 十 じゅう 字 じ 章 あきら 、1918年 ねん に連隊 れんたい 感状 かんじょう 、戦傷 せんしょう 者 しゃ 勲章 くんしょう 、一級 いっきゅう 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら 、三 さん 級 きゅう 軍務 ぐんむ 勲章 くんしょう )。しかし階級 かいきゅう はゲフライター [ 注 ちゅう 6] 留 と まりであり、受勲 じゅくん 回数 かいすう の割 わり には低 ひく い階級 かいきゅう のままで終戦 しゅうせん を迎 むか えている[ 89] 。理由 りゆう については、「本人 ほんにん が伝令 でんれい 兵 へい の地位 ちい に満足 まんぞく し昇進 しょうしん を希望 きぼう しなかった」、「伝令 でんれい としての優秀 ゆうしゅう さから司令 しれい 部 ぶ が昇進 しょうしん によって彼 かれ を失 うしな うのを渋 しぶ った」、「上官 じょうかん に媚 こ びて授勲されただけで昇進 しょうしん に足 た る活躍 かつやく はなかった」[ 90] など諸説 しょせつ あるが、最 もっと も信憑 しんぴょう 性 せい があると見 み られているのは「指導 しどう 力 りょく が欠 か けており、部下 ぶか を持 も つことになる伍長 ごちょう 以上 いじょう の階級 かいきゅう には相応 ふさわ しくない」と司令 しれい 部 ぶ が判断 はんだん したという説 せつ で、直属 ちょくぞく の上官 じょうかん フリッツ・ヴィーデマン 中尉 ちゅうい が証言 しょうげん している[ 91] 。
軍装 ぐんそう 姿 すがた の証明 しょうめい 写真 しゃしん
1916年 ねん 、ソンムの戦 たたか い でヒトラーは脚 あし の付 つ け根 ね (鼠蹊 そけい 部 ぶ )に怪我 けが を負 お って入院 にゅういん している(左 ひだり 大腿 だいたい であったとする論者 ろんしゃ もいる)[ 92] 。またこの負傷 ふしょう でヒトラーが生殖 せいしょく 機能 きのう に障害 しょうがい を負 お ったとする俗説 ぞくせつ があるが、真実 しんじつ の程 ほど は定 さだ かでない[ 93] 。負傷 ふしょう そのものは会戦 かいせん 後 ご に戦傷 せんしょう 章 あきら を受勲 じゅくん した記録 きろく が残 のこ っている。
ヒトラーは大戦 たいせん 以前 いぜん から熱心 ねっしん な大 だい ドイツ主義 しゅぎ 者 しゃ であり、また大戦 たいせん でドイツ軍 ぐん (正確 せいかく にはバイエルン軍 ぐん )の一員 いちいん として戦 たたか ったことで益々 ますます ドイツへの愛国 あいこく 主義 しゅぎ は高 たか まっていった(しかしドイツ市民 しみん 権 けん は1932年 ねん まで取得 しゅとく していない)。ヒトラーは戦争 せんそう を人生 じんせい で重要 じゅうよう な経験 けいけん であると捉 とら え、周囲 しゅうい からも勇敢 ゆうかん な兵士 へいし であったと評価 ひょうか を受 う けた[ 94] 。
大戦 たいせん 末期 まっき の1918年 ねん 10月15日 にち 、ヒトラーは敵 てき 軍 ぐん のマスタードガス による化学 かがく 兵器 へいき 攻撃 こうげき に巻 ま き込 こ まれて視力 しりょく を一時 いちじ 的 てき に失 うしな い、ポンメルン地方 ちほう のパーゼヴァルク (ドイツ語 ご 版 ばん ) にある野戦 やせん 病院 びょういん に入院 にゅういん している。一時 いちじ 失明 しつめい の原因 げんいん についてはガスによる障害 しょうがい という説 せつ 以外 いがい に、精神 せいしん 的 てき 動揺 どうよう (一種 いっしゅ のヒステリー )によるものとする説 せつ がある[ 95] 。ヒトラーは治療 ちりょう を受 う ける中 なか で自分 じぶん の使命 しめい が「ドイツを救 すく うこと」にあると確信 かくしん したと話 はな しており[ 96] 、ユダヤ人 じん の根絶 こんぜつ という発想 はっそう も具体 ぐたい 的 てき 手段 しゅだん は別 べつ として決意 けつい されたと思 おも われている。1918年 ねん 11月、ヒトラーは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん がドイツの降伏 ごうぶく で終結 しゅうけつ した時 とき に激 はげ しい動揺 どうよう を見 み せた兵士 へいし の一人 ひとり であった[ 97] 。この日 ひ 、もしくは次 つぎ の日 ひ にヒトラーは超 ちょう 自然 しぜん 的 てき な幻影 げんえい を見 み て視力 しりょく を回復 かいふく した。この回復 かいふく の課程 かてい には、治療 ちりょう に当 あ たっていたエトムント・フォルスター (ドイツ語 ご 版 ばん ) 博士 はかせ の催眠 さいみん 術 じゅつ による暗示 あんじ の可能 かのう 性 せい があるとされる。
ヒトラーは民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ や国粋 こくすい 主義 しゅぎ 者 しゃ の間 あいだ で流行 りゅうこう した「敗北 はいぼく 主義 しゅぎ 者 しゃ や反乱 はんらん 者 しゃ による後方 こうほう での策動 さくどう で前線 ぜんせん での勝利 しょうり が阻害 そがい された」とする背後 はいご からの一 いち 突 とっ き論 ろん を強 つよ く信 しん じるようになった。
ヒトラーのドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう 党員 とういん 証 しょう 。しかし、彼 かれ の入党 にゅうとう 時 じ に正式 せいしき な党員 とういん 証 しょう はまだなく、後 のち に偽造 ぎぞう されたものである。
政治 せいじ 家 か への転身 てんしん を考 かんが えた後 のち も軍 ぐん に在籍 ざいせき を続 つづ ける道 みち を選 えら び、陸軍 りくぐん 病院 びょういん から退院 たいいん すると部隊 ぶたい の根拠地 こんきょち であるミュンヘンへと戻 もど った。同地 どうち では1918年 ねん 11月8日 にち にクルト・アイスナー によって共和 きょうわ 制 せい 宣言 せんげん が出 だ されて「バイエルン人民 じんみん 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) 」が成立 せいりつ しており、バイエルンの陸軍 りくぐん も当初 とうしょ これを支援 しえん していた。ヒトラーも1919年 ねん 2月 がつ 16日 にち からミュンヘンのレーテ に入 はい っていた。また、2月 がつ 26日 にち に暗殺 あんさつ されたアイスナーの国葬 こくそう パレードに参加 さんか した[ 100] [ 101] 。1919年 ねん 4月 がつ 13日 にち にはオイゲン・レヴィーネ によって共産党 きょうさんとう 主導 しゅどう のバイエルン・レーテ共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ した。4月15日 にち にヒトラーはレーテの評議 ひょうぎ 員 いん に立候補 りっこうほ しており、19票 ひょう を獲得 かくとく して当選 とうせん している[ 102] [ 103] [ 104] 。
5月、ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん によってミュンヘンが占領 せんりょう されると、ヒトラーは革命 かくめい 中 ちゅう に政治 せいじ 活動 かつどう をしていた人物 じんぶつ に、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 傾向 けいこう があるかを調 しら べる革命 かくめい 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい の委員 いいん となった[ 103] 。この委員 いいん 会 かい での働 はたら きが認 みと められ、ヒトラーは帰還 きかん 兵 へい への政治 せいじ 教育 きょういく を行 おこな う啓発 けいはつ 教育 きょういく 部隊 ぶたい に入 はい ることとなった。6月には国軍 こくぐん の情報 じょうほう 将校 しょうこう であったカール・マイヤー 大尉 たいい によってミュンヘン大学 だいがく で予備 よび 教育 きょういく を受 う けるよう命 めい ぜられた。ヒトラーはこの時 とき に初 はじ めて大学 だいがく でゴットフリート・フェーダー などの知識 ちしき 人 じん の専門 せんもん 的 てき な講義 こうぎ を聴 き く機会 きかい を持 も ち、潜入 せんにゅう 捜査 そうさ の技能 ぎのう と「戦争 せんそう で士気 しき が阻喪 そそう し、ボリシェヴィキ化 か した部隊 ぶたい に民族 みんぞく 主義 しゅぎ を植 う え付 つ けさせる」のに必要 ひつよう な教養 きょうよう を与 あた えられた。この際 さい ヒトラーは同 おな じく講習 こうしゅう を受 う けていた兵士 へいし たちに反 はん ユダヤ主義 しゅぎ を交 まじ えた演説 えんぜつ を行 おこな い、兵士 へいし たちを感激 かんげき させた。ヒトラー自身 じしん もはじめての演説 えんぜつ に好 こう 感触 かんしょく を得 え て、「私 わたし は演説 えんぜつ することができた」と回想 かいそう している。
7月 がつ 、ヒトラーは正式 せいしき に国軍 こくぐん の情報 じょうほう 提供 ていきょう 者 しゃ (Verbindungsmann)の名簿 めいぼ に軍属 ぐんぞく 情報 じょうほう 員 いん (Aufklärungskommando)として登録 とうろく され、諜報 ちょうほう 組織 そしき の末端 まったん となった。9月12日 にち 、ヒトラーはマイヤー大尉 たいい の命令 めいれい でドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (DAP)の調査 ちょうさ に入 はい った。ヒトラーはこのとき、オーストリアとバイエルンの連合 れんごう を唱 とな える大学 だいがく 教授 きょうじゅ のバウマンと論戦 ろんせん になった。ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう の創設 そうせつ 者 しゃ アントン・ドレクスラー は「短 みじか いがキビキビとした演説 えんぜつ を行 おこな い、皆 みな を熱狂 ねっきょう させた」と回想 かいそう している。ドレクスラーはヒトラーの演説 えんぜつ の際 さい に感銘 かんめい を受 う け、一 いち 週間 しゅうかん 後 ご に再 ふたた び弁士 べんし として来 く るよう依頼 いらい し、入党 にゅうとう を要請 ようせい した。ヒトラーはマイヤーに対 たい して「この人々 ひとびと は前線 ぜんせん の兵士 へいし の思想 しそう を主張 しゅちょう しているため、入党 にゅうとう を許可 きょか していただきたい」とする報告 ほうこく 書 しょ を提出 ていしゅつ し、55人 にん 目 め の党員 とういん として入党 にゅうとう した[ 107] [ 108] 。神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 的 てき な秘密 ひみつ 結社 けっしゃ 「トゥーレ協会 きょうかい 」に所属 しょぞく する思想家 しそうか ディートリヒ・エッカート ともこの時 とき に知 し り合 あ った[ 109] 。9月16日 にち にはマイヤーの命令 めいれい で、アドルフ・ゲムリッヒという国軍 こくぐん 兵士 へいし のユダヤ人 じん に関 かん する疑問 ぎもん に答 こた える形 かたち で「ゲムリッヒ書簡 しょかん (英語 えいご 版 ばん ) 」を執筆 しっぴつ した。これは現存 げんそん する限 かぎ りでヒトラーが反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 思想 しそう を書 か き示 しめ した最古 さいこ の記録 きろく である[ 110] [ 111] 。
ヒトラーが軍 ぐん や諜報 ちょうほう 機関 きかん を離 はな れた時期 じき は定 さだ かではないが、いつしか政治 せいじ 活動 かつどう にのめり込 こ んでDAPの専従 せんじゅう 職員 しょくいん になったのは間違 まちが いないと見 み られている。彼 かれ は周辺 しゅうへん 国 こく や国内 こくない の政治 せいじ 団体 だんたい に対 たい する過激 かげき な演説 えんぜつ で名前 なまえ を知 し られるようになり、DAPでも有力 ゆうりょく な政治 せいじ 家 か と目 め されていった。この頃 ころ 、マイヤーが自身 じしん も所属 しょぞく していた将校 しょうこう の政治 せいじ 団体 だんたい 「鉄拳 てっけん 団 だん (ドイツ語 ご 版 ばん ) 」の代表 だいひょう であったエルンスト・レーム とヒトラーを引 ひ き合 あ わせた。レームやエッカート、ルドルフ・ヘス らはヒトラー派 は を形成 けいせい 、党内 とうない を次第 しだい に制圧 せいあつ するようになった。1920年 ねん 2月 がつ 24日 にち 、党内 とうない 協議 きょうぎ により党名 とうめい を「国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (NSDAP、ナチ党 とう )」へと改名 かいめい する。ヒトラーは当初 とうしょ 「社会 しゃかい 革命 かくめい 党 とう 」を提案 ていあん したが、ルドルフ・ユング (英語 えいご 版 ばん ) が、オーストリア にあった政党 せいとう 「ドイツ国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (DNSAP)」に倣 なら うように説得 せっとく した[ 112] 。1921年 ねん 7月 がつ 29日 にち 、党内 とうない で分派 ぶんぱ 闘争 とうそう が起 お きると、一時 いちじ 的 てき にドレクスラーによって党内 とうない から追放 ついほう されるが、党 とう 執行 しっこう 部 ぶ のクーデターにより逆 ぎゃく に彼 かれ は名誉 めいよ 議長 ぎちょう として実権 じっけん を奪 うば われ、代 か わりにヒトラーが第 だい 一 いち 議長 ぎちょう に指名 しめい された。この頃 ころ より支持 しじ 者 しゃ から「Führer(指導 しどう 者 しゃ )」と呼 よ ばれるようになり、次第 しだい に党内 とうない に定着 ていちゃく した[ 113] 。すでにイタリアで一 いち 党 とう 独裁 どくさい 政治 せいじ を行 おこな っていたムッソリーニ が採用 さいよう していたローマ式 しき 敬礼 けいれい に倣 なら って、ナチス式 しき 敬礼 けいれい を取 と り入 い れたのもこの頃 ころ のことである。
突撃 とつげき 隊 たい の活動 かつどう などでミュンヘン政界 せいかい でも知 し られる存在 そんざい となったヒトラーは、エッカート、エルンスト・ハンフシュテングル 、マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター らの紹介 しょうかい で、社交 しゃこう 界 かい でも知 し られるようになった。ピアノメーカーベヒシュタイン のオーナー未亡人 みぼうじん であったヘレーネ・ベヒシュタイン (ドイツ語 ご 版 ばん ) などの上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう 婦人 ふじん が熱心 ねっしん な後援 こうえん 者 しゃ となり、生活 せいかつ の援助 えんじょ をしたほか、ヒトラーに紳士 しんし の立 た ち振 ぶ る舞 ま いを身 み につけさせた。
党勢 とうせい を拡大 かくだい したナチ党 とう を含 ふく んだ左派 さは 政党 せいとう の団体 だんたい であるドイツ闘争 とうそう 連盟 れんめい (ドイツ語 ご 版 ばん ) は、イタリア王国 おうこく のファシスト党 とう が行 おこな ったローマ進軍 しんぐん を真似 まね てベルリン 進軍 しんぐん を望 のぞ むようになった。バイエルン州 しゅう で独裁 どくさい 権 けん を握 にぎ っていた州 しゅう 総督 そうとく グスタフ・フォン・カール も同様 どうよう にベルリン進軍 しんぐん を望 のぞ んでおり(バイエルンは伝統 でんとう 的 てき に反 はん ベルリン気質 きしつ があり、独立 どくりつ 意識 いしき が強 つよ かった)、ドイツ闘争 とうそう 連盟 れんめい と接触 せっしょく を図 はか っていたが、カールは中央 ちゅうおう 政府 せいふ の圧力 あつりょく を受 う けてやがてその動 うご きを鈍 にぶ くした。
不満 ふまん を感 かん じたヒトラーは、カールにベルリン進軍 しんぐん を決意 けつい させるため、1923年 ねん 11月8日 にち 夜 よる にドイツ闘争 とうそう 連盟 れんめい を率 ひき いて、彼 かれ が演説 えんぜつ 中 ちゅう のビアホール 「ビュルガーブロイケラー 」を占拠 せんきょ し、身柄 みがら を押 お さえた。ヒトラーから連絡 れんらく を受 う けた前 ぜん 大戦 たいせん の英雄 えいゆう エーリヒ・ルーデンドルフ 大将 たいしょう も駆 か け付 つ け、彼 かれ の説得 せっとく を受 う けてカールも一 いち 度 ど は一揆 いっき への協力 きょうりょく を表明 ひょうめい した。しかしヒトラーがビュルガーブロイケラーを空 あ けた隙 すき に、カールらはルーデンドルフを言 い いくるめて脱出 だっしゅつ し、一揆 いっき の鎮圧 ちんあつ を命 めい じた。
ミュンヘン一揆 いっき の際 さい のマリエン広場 ひろば
11月9日 にち 朝 あさ 、ヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争 とうそう 連盟 れんめい を率 ひき いてミュンヘン中心 ちゅうしん 部 ぶ へ向 む けて行進 こうしん を開始 かいし した。ヒトラーもルーデンドルフも大戦 たいせん の英雄 えいゆう に対 たい しては軍 ぐん も警察 けいさつ も強硬 きょうこう 手段 しゅだん は取 と らないだろうという過信 かしん があった。しかし、バイエルン州 しゅう 警察 けいさつ は構 かま わず発砲 はっぽう し、一揆 いっき は総崩 そうくず れとなった。ヒトラーは逃亡 とうぼう を図 はか り、党員 とういん エルンスト・ハンフシュテングル の別荘 べっそう に潜伏 せんぷく したが、11月11日 にち には逮捕 たいほ された。逮捕 たいほ 直前 ちょくぜん には自殺 じさつ を試 こころ みるが、ハンフシュテングルの妻 つま ヘレーネ によって制止 せいし された。収監 しゅうかん 後 ご しばらくは虚脱 きょだつ 状態 じょうたい となり、絶食 ぜっしょく した。失意 しつい のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数 ふくすう の人物 じんぶつ が激励 げきれい したとしている。
裁判 さいばん でヒトラーは自信 じしん を取 と り戻 もど し、弁解 べんかい を行 おこな わず一揆 いっき の全 ぜん 責任 せきにん を引 ひ き受 う け自 みずか らの主張 しゅちょう を述 の べる戦術 せんじゅつ を取 と り、ルーデンドルフと並 なら ぶ大物 おおもの と見 み られるようになった[ 117] 。花束 はなたば を持 も った女性 じょせい の支持 しじ 者 しゃ が連日 れんじつ 、留置 とめおき 場 じょう に押 お しかけ、ヒトラーの使 つか った浴槽 よくそう で入浴 にゅうよく させてくれと言 い う者 もの まで現 あらわ れた。司法 しほう の側 がわ もヒトラーに極 きわ めて同情 どうじょう 的 てき であり、主任 しゅにん 検事 けんじ が起訴 きそ 状 じょう で「ドイツ精神 せいしん に対 たい する自信 じしん を回復 かいふく させようとした彼 かれ の誠実 せいじつ な尽力 じんりょく は、なんと言 い おうとも一 ひと つの功績 こうせき であり続 つづ ける。演説 えんぜつ 家 か としての無類 むるい の才能 さいのう を駆使 くし して意義 いぎ あることを成 な し遂 と げた」と評 ひょう するほどであった。
判決 はんけつ 直後 ちょくご にミュンヘンでホフマン が撮 と った集合 しゅうごう 写真 しゃしん 。右 みぎ から4人 にん 目 め がヒトラー
ランツベルク刑務所 けいむしょ でのヒトラーと幹部 かんぶ 。左 ひだり よりヒトラー、エミール・モーリス 、闘争 とうそう 連盟 れんめい 代表 だいひょう ヘルマン・クリーベル 、ルドルフ・ヘス 、オーバーラント義勇軍 ぎゆうぐん (ドイツ語 ご 版 ばん ) 指導 しどう 者 しゃ フリードリヒ・ヴェーバー (ドイツ語 ご 版 ばん )
1924年 ねん 4月 がつ 1日 にち 、ヒトラーは禁錮 きんこ 5年 ねん の判決 はんけつ を受 う けランツベルク要塞 ようさい 刑務所 けいむしょ に収容 しゅうよう されるが、所内 しょない では特別 とくべつ 待遇 たいぐう を受 う けた。オーストリア国籍 こくせき を持 も っていたヒトラーは国外 こくがい 追放 ついほう されるおそれがあったが、判決 はんけつ では「ヒトラーほどドイツ人的 じんてき な思考 しこう 、感情 かんじょう の持 も ち主 ぬし はいない」として適用 てきよう されなかった。この間 あいだ 、ヒトラーは禁止 きんし されていた党 とう をアルフレート・ローゼンベルク の指導 しどう に任 まか せていたが、ドイツ北部 ほくぶ の実力 じつりょく 者 しゃ グレゴール・シュトラッサー 、オットー・シュトラッサー 兄弟 きょうだい らとの反目 はんもく が激 はげ しくなった。シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携 れんけい した偽装 ぎそう 政党 せいとう 「国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 自由 じゆう 運動 うんどう 」を立 た ち上 あ げて国会 こっかい 議席 ぎせき を獲得 かくとく し、さらに党 とう をルーデンドルフのドイツ民族 みんぞく 自由党 じゆうとう と合同 ごうどう させた。これによりローゼンベルク、ヘルマン・エッサー らミュンヘン派 は 、シュトラッサー兄弟 きょうだい らの北部 ほくぶ 派 は (ナチス左派 さは )の関係 かんけい は悪化 あっか したが、ヒトラーは介入 かいにゅう しなかった。7月7日 にち には著書 ちょしょ の執筆 しっぴつ を理由 りゆう として「国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ たることを止 と めて、刑期 けいき が終 お わるまで一切 いっさい の政治 せいじ 活動 かつどう から手 て を引 ひ く」ことを発表 はっぴょう する。この際 さい にヘスによる口述 こうじゅつ 筆記 ひっき で執筆 しっぴつ されたのが『我 わ が闘争 とうそう 』である。ヒトラーは刑務所 けいむしょ の職員 しょくいん まで信服 しんぷく させ、9月 がつ 頃 ごろ には所長 しょちょう から仮釈放 かりしゃくほう の申請 しんせい が行 おこな われ始 はじ めた。州 しゅう 政府 せいふ は抵抗 ていこう したが、裁判 さいばん を行 おこな った判事 はんじ がヒトラーのためにアピールを行 おこな うという通告 つうこく もあり、12月20日 にち に釈放 しゃくほう された。シュトラッサーの運動 うんどう は内部 ないぶ 抗争 こうそう によって分裂 ぶんれつ し、12月の選挙 せんきょ でも大敗 たいはい を喫 きっ した。
1925年 ねん 2月 がつ 27日 にち 、禁止 きんし が解除 かいじょ されたナチ党 とう は再建 さいけん された。しかし大 だい 規模 きぼ 集会 しゅうかい で政府 せいふ 批判 ひはん を行 おこな ったため、州 しゅう 政府 せいふ からヒトラーに対 たい して2年間 ねんかん の演説 えんぜつ 禁止 きんし 処分 しょぶん が下 くだ され、他 た の州 しゅう も追随 ついずい した。この間 あいだ にヒトラーはミュンヘンの派閥 はばつ をまとめ上 あ げ、4月 がつ には突撃 とつげき 隊 たい の指導 しどう 者 しゃ であったレームを引退 いんたい させた。私生活 しせいかつ ではこの頃 ころ オーストリア市民 しみん 権 けん 抹消 まっしょう 手続 てつづ きをとり、移民 いみん の許可 きょか をとった。また『我 わ が闘争 とうそう 』の執筆 しっぴつ 作業 さぎょう を行 おこな い、7月 がつ 18日 にち に第 だい 一 いち 巻 かん が発売 はつばい された。
秋 あき 頃 ごろ には社会 しゃかい 主義 しゅぎ 色 しょく の強 つよ いシュトラッサーら北部 ほくぶ 派 は と、ミュンヘン派 は の対立 たいりつ が激化 げきか した。一時 いちじ はシュトラッサーの秘書 ひしょ ヨーゼフ・ゲッベルス らが「日和見 ひよりみ 主義 しゅぎ 者 しゃ 」ヒトラーの除名 じょめい を提案 ていあん するほどであったが、1926年 ねん 2月 がつ 24日 にち のバンベルク会議 かいぎ によって「指導 しどう 者 しゃ ヒトラー」の指導 しどう 者 しゃ 原理 げんり による党内 とうない 独裁 どくさい 体制 たいせい が確立 かくりつ した。一方 いっぽう シュトラッサーは党内 とうない 役職 やくしょく を与 あた えられて懐柔 かいじゅう され、ゲッベルスはヒトラーに信服 しんぷく するようになり、党内 とうない 左派 さは 勢力 せいりょく は大 おお きく減退 げんたい した。
1928年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、ナチ党 とう として初 はじ めての国会 こっかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ に挑 いど んだが、黄金 おうごん の20年代 ねんだい と呼 よ ばれる好景気 こうけいき に沸 わ いていた状況 じょうきょう で支持 しじ は広 ひろ がらず、12人 にん の当選 とうせん にとどまった。この間 あいだ にヒトラーは『ヒトラー第 だい 二 に の書 しょ 』(続 ぞく ・我 わ が闘争 とうそう )と呼 よ ばれる本 ほん を執筆 しっぴつ したが、最後 さいご まで出版 しゅっぱん はされなかった。
ヒトラーの財政 ざいせい 状況 じょうきょう は悪 わる くなく、オーバーザルツベルク に別荘 べっそう 「ベルクホーフ 」を買 か う余裕 よゆう もできた。また1929年 ねん 頃 ごろ には党 とう の公式 こうしき 写真 しゃしん 家 か であったハインリヒ・ホフマン の経営 けいえい する写真 しゃしん 店 てん の店員 てんいん エヴァ・ブラウン と知 し り合 あ い、交際 こうさい を始 はじ めた。
1932年 ねん 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ の投票 とうひょう 用紙 ようし (第 だい 2回 かい 投票 とうひょう 時 じ )候補者 こうほしゃ 名 めい は上 うえ からヒンデンブルク(無所属 むしょぞく )、ヒトラー(ナチ党 とう )、テールマン (共産党 きょうさんとう )
1929年 ねん の世界 せかい 恐慌 きょうこう によって急速 きゅうそく に景気 けいき の悪化 あっか したドイツでは、街 まち に大量 たいりょう の失業 しつぎょう 者 しゃ が溢 あふ れかえり、社会 しゃかい 情勢 じょうせい は不安 ふあん の一途 いっと をたどっていた。さらにヤング案 あん への反発 はんぱつ がドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう (SPD)政府 せいふ への反感 はんかん の元 もと となった。
同 おな じくドイツ共産党 きょうさんとう も社会 しゃかい 的 てき 混乱 こんらん に乗 じょう じて伸張 しんちょう し、1930年 ねん の国会 こっかい 選挙 せんきょ ではナチ党 とう が得票 とくひょう 率 りつ 18%、共産党 きょうさんとう が得票 とくひょう 率 りつ 13%を獲得 かくとく し、SPDの得票 とくひょう 率 りつ 24.5%に次 つ ぐ第 だい 2党 とう と第 だい 3党 とう に成長 せいちょう し、各地 かくち の都市 とし で突撃 とつげき 隊 たい とドイツ共産党 きょうさんとう の武装 ぶそう 部隊 ぶたい 「赤色 あかいろ 戦線 せんせん 戦士 せんし 同盟 どうめい 」による抗 こう 争 そう が激化 げきか するようになった。党勢 とうせい の拡大 かくだい にもかかわらず、待遇 たいぐう が改善 かいぜん されない突撃 とつげき 隊 たい には党 とう 幹部 かんぶ に対 たい する反感 はんかん が生 う まれ、ヒトラーは突撃 とつげき 隊 たい を押 お さえるためにボリビア で軍事 ぐんじ 顧問 こもん をしていたレームを呼 よ び戻 もど さざるを得 え なくなった。
1931年 ねん 9月18日 にち 、溺愛 できあい していた姪 めい のゲリ・ラウバル が自殺 じさつ し、ヒトラーは大 おお きな衝撃 しょうげき を受 う けた。一時 いちじ は政界 せいかい からの引退 いんたい もほのめかしたが、数日 すうじつ 後 ご に復帰 ふっき した。この後 のち 菜食 さいしょく を宣言 せんげん し、肉食 にくしょく を断 ことわ った[ 126] 。
1932年 ねん 2月 がつ 25日 にち には党 とう 幹部 かんぶ ヴィルヘルム・フリック 、ディートリヒ・クラゲス の手配 てはい により、ブラウンシュヴァイク自由 じゆう 州 しゅう のベルリン駐在 ちゅうざい 州 しゅう 公使館 こうしかん 付 づけ 参事官 さんじかん となった。これは名目 めいもく 上 じょう のことであり、公務員 こうむいん に自動的 じどうてき に与 あた えられるドイツ国籍 こくせき を取得 しゅとく するためのものであった。ドイツ国籍 こくせき を取得 しゅとく (ドイツ語 ご 版 ばん ) したヒトラーは、大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば する。大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では現職 げんしょく のパウル・フォン・ヒンデンブルク 、ドイツ共産党 きょうさんとう のエルンスト・テールマン 、鉄兜 てつかぶと 団 だん 代表 だいひょう で国家 こっか 人民 じんみん 党 とう の支持 しじ を受 う けたテオドール・デュスターベルク 、作家 さっか グスタフ・アドルフ・ヴィンター (ドイツ語 ご 版 ばん ) の5名 めい が立候補 りっこうほ した。
選挙 せんきょ では「ヒンデンブルクに敬意 けいい を、ヒトラーに投票 とうひょう を」をスローガンにし、膨大 ぼうだい な量 りょう のビラをまき、数 すう 百 ひゃく 万 まん 枚 まい のポスター、財界 ざいかい からの支援 しえん で購入 こうにゅう した飛行機 ひこうき を使 つか った遊説 ゆうぜい や当時 とうじ はまだ新 あたら しいメディアだったラジオなどで国民 こくみん に鮮烈 せんれつ なイメージを残 のこ した。第 だい 1次 じ 選挙 せんきょ の結果 けっか はヒンデンブルク1865万 まん 1497票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 49.6%)、ヒトラー1133万 まん 9446票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 30.2%)、テールマン498万 まん 3341票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 13.2%)、デュスターベルク255万 まん 7729票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 6.8%)、ヴィンター11万 まん 1423票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 0.3%)となり、ヒトラーは他 た の候補 こうほ と大 おお きく差 さ をつけた2位 い となっただけでなく、現役 げんえき 大統領 だいとうりょう ヒンデンブルクの得票 とくひょう 率 りつ 過半数 かはんすう 獲得 かくとく を防 ふせ ぐ善戦 ぜんせん をした。
しかし大統領 だいとうりょう になるには過半数 かはんすう の得票 とくひょう 率 りつ が必要 ひつよう であったため、上位 じょうい 者 しゃ 3名 めい による決選 けっせん 投票 とうひょう が行 おこな われた。その投票 とうひょう でヒンデンブルク1935万 まん 9983票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 53.1%)、ヒトラー1341万 まん 8517票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 36.7%)、テールマン370万 まん 6759票 ひょう (得票 とくひょう 率 りつ 10.1%)をそれぞれ獲得 かくとく した。ヒトラーはヒンデンブルクに敗 やぶ れたものの、1次 じ 選挙 せんきょ よりも大 おお きく得票 とくひょう を増 ふ やして存在 そんざい 感 かん を見 み せつけ、ドイツ共産党 きょうさんとう にとってはナチ党 とう との差 さ が決定的 けっていてき となったことを物語 ものがた る選挙 せんきょ となった。
続 つづ く1932年 ねん 7月 がつ の国会 こっかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ では、ナチ党 とう は37.8%(1930年 ねん 選挙 せんきょ 時 じ 18.3%)の得票 とくひょう 率 りつ を得 え て230議席 ぎせき (改選 かいせん 前 まえ 107議席 ぎせき )を獲得 かくとく し、改選 かいせん 前 ぜん 第 だい 1党 とう だったSDPを抜 ぬ いて国会 こっかい の第 だい 1党 とう となった。
「ポツダムの日 ひ 」にヒンデンブルクと握手 あくしゅ するヒトラー(1933年 ねん 3月 がつ )
全権 ぜんけん 委任 いにん 法 ほう 成立 せいりつ 後 ご に演説 えんぜつ を行 おこな うヒトラー(1933年 ねん 3月 がつ )
1932年 ねん 11月ドイツ国会 こっかい 選挙 せんきょ では、パーペン 内閣 ないかく に不信任 ふしんにん 案 あん を提出 ていしゅつ して可決 かけつ 、選挙 せんきょ を迎 むか えた。この時 とき ベルリン の大 だい 管区 かんく 指導 しどう 者 しゃ ゲッベルスは、ドイツ共産党 きょうさんとう が主導 しゅどう する大 だい 規模 きぼ な交通 こうつう ストライキ に突撃 とつげき 隊員 たいいん を参加 さんか させた。しかし、共産党 きょうさんとう との共闘 きょうとう や暴力 ぼうりょく 的 てき 手法 しゅほう に訴 うった えたやり方 かた が反共 はんきょう の財界 ざいかい や穏健 おんけん なベルリン 市民 しみん を離反 りはん させ、ナチ党 とう の得票 とくひょう 率 りつ は4%ほど落 お ちて33.1%になり、議席 ぎせき 数 すう も196に減少 げんしょう したが、第 だい 1党 とう の地位 ちい は保持 ほじ した。
しかし、この選挙 せんきょ で共産党 きょうさんとう が得票 とくひょう を伸 の ばし、特 とく に首都 しゅと ベルリンでは投票 とうひょう 総数 そうすう の31%を獲得 かくとく して第 だい 1党 とう になったことに[ 128] 、保守 ほしゅ 層 そう は危機 きき 感 かん を抱 だ いた。財界 ざいかい や伝統 でんとう 的 てき 保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ などの富裕 ふゆう 層 そう は、ナチスのイデオロギー に懐疑 かいぎ 的 てき であったが、それ以上 いじょう に共産党 きょうさんとう がこれ以上 いじょう 伸張 しんちょう してロシア革命 かくめい の二 に の舞 まい のような事態 じたい だけは避 さ けなくてはならず、ナチ党 とう は共産党 きょうさんとう に対抗 たいこう できる政党 せいとう とみなされた。ナチ党 とう への献金 けんきん は増加 ぞうか したが、この段階 だんかい でも政財界 せいざいかい からの政治 せいじ 献金 けんきん の圧倒的 あっとうてき な量 りょう は反 はん ナチ勢力 せいりょく に流 なが れており、この時点 じてん での党 とう 財政 ざいせい の大半 たいはん は党費 とうひ 収入 しゅうにゅう によるものであった。
一方 いっぽう で事態 じたい を打開 だかい することができなかったパーペン内 ない 閣 かく はクルト・フォン・シュライヒャー の策動 さくどう により崩壊 ほうかい し、後継 こうけい 内 ない 閣 かく はシュライヒャーが組織 そしき した。彼 かれ はシュトラッサーらナチス左派 さは を取 と り込 こ もうとしたが失敗 しっぱい した。シュライヒャーに反発 はんぱつ したパーペンの協力 きょうりょく もあり、大統領 だいとうりょう ヒンデンブルクの承認 しょうにん を得 え たヒトラーは国家 こっか 人民 じんみん 党 とう の協力 きょうりょく を取 と り付 つ けることに成功 せいこう 、1933年 ねん 1月 がつ 30日 にち にヒトラー内閣 ないかく が発足 ほっそく した。ヒトラーは就任 しゅうにん した30日 にち 夜 よる に内相 ないしょう ヴィルヘルム・フリック を通 つう じた談話 だんわ で、(1) 国際 こくさい 社会 しゃかい との平和 へいわ 裏 うら の共存 きょうぞん 、(2) ワイマール憲法 けんぽう の遵守 じゅんしゅ 、(3) 共産党 きょうさんとう を弾圧 だんあつ しないといった施政 しせい 方針 ほうしん を表明 ひょうめい した[ 130] 。しかし、これらは程 ほど なくして反故 ほご にされることとなった。
内閣 ないかく 発足 ほっそく の2日 にち 後 ご に当 あ たる2月 がつ 1日 にち に議会 ぎかい を解散 かいさん し、国会 こっかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ 日 び を3月 がつ 5日 にち と決定 けってい した。2月27日 にち の深夜 しんや 、国会 こっかい 議事堂 ぎじどう が炎上 えんじょう する事件 じけん が発生 はっせい した(ドイツ国会 こっかい 議事堂 ぎじどう 放火 ほうか 事件 じけん )。ヒトラーとゲーリングは「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 蜂起 ほうき の始 はじ まり 」と断定 だんてい し、直 ただ ちに共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの の逮捕 たいほ を始 はじ めた。翌 よく 28日 にち には大統領 だいとうりょう ヒンデンブルクに要請 ようせい して憲法 けんぽう の基本 きほん 的 てき 人権 じんけん 条項 じょうこう を停止 ていし し、共産 きょうさん 党員 とういん などを法 ほう 手続 てつづき に拠 よ らずに逮捕 たいほ できる大統領 だいとうりょう 緊急 きんきゅう 令 れい (ドイツ国民 こくみん と国家 こっか を保護 ほご するための大統領 だいとうりょう 令 れい )を発令 はつれい させた。
この状況 じょうきょう 下 か の3月5日 にち の選挙 せんきょ で、ナチ党 とう は議席 ぎせき 数 すう で45%の288議席 ぎせき を獲得 かくとく したが、単独 たんどく 過半数 かはんすう は獲得 かくとく できなかった。しかし、共産党 きょうさんとう 議員 ぎいん はすでに逮捕 たいほ ・拘禁 こうきん されており、さらにSDPや諸派 しょは の一部 いちぶ 議員 ぎいん も逮捕 たいほ された。これらの議員 ぎいん を「出席 しゅっせき したが、投票 とうひょう に参加 さんか しない者 もの と見 み なす」ように議院 ぎいん 運営 うんえい 規則 きそく を改正 かいせい したことで、ナチ党 とう は憲法 けんぽう 改正 かいせい 的 てき 法令 ほうれい に必要 ひつよう な3分 ぶん の2の賛成 さんせい を自動的 じどうてき に獲得 かくとく できるようになった。
ヒトラーとヴィルヘルム元 もと 皇太子 こうたいし (1933年 ねん 3月 がつ 21日 にち )
3月21日 にち 、新 しん 国会 こっかい が開 ひら かれた。この日 ひ は「ポツダムの日 ひ 」と呼 よ ばれ、1871年 ねん に帝国 ていこく 宰相 さいしょう ビスマルク が最初 さいしょ の帝国 ていこく 議会 ぎかい を開 ひら いた日 ひ でもあった。これを記念 きねん する式典 しきてん では、空席 くうせき の皇帝 こうてい の座 ざ の後 うし ろに元 もと 皇太子 こうたいし ヴィルヘルム が着席 ちゃくせき した。元 もと 皇太子 こうたいし が見届 みとど ける中 なか で、ヒトラーはモーニング姿 すがた で大統領 だいとうりょう であるヒンデンブルクに頭 あたま を下 さ げた[ 132] 。この演出 えんしゅつ によって、ヒトラーが帝政 ていせい の正統 せいとう な後継 こうけい 者 しゃ であるかのような印象 いんしょう が人々 ひとびと に与 あた えられた。
3月24日 にち には国家 こっか 人民 じんみん 党 とう と中央 ちゅうおう 党 とう の協力 きょうりょく を得 え て、新 しん 国会 こっかい で全権 ぜんけん 委任 いにん 法 ほう を可決 かけつ させ、議会 ぎかい と大統領 だいとうりょう の権限 けんげん は完全 かんぜん に形骸 けいがい 化 か した。7月14日 にち にはナチ党 とう 以外 いがい の政党 せいとう を禁止 きんし (一 いち 党 とう 制 せい )し、12月1日 にち には党 とう と国家 こっか が不可分 ふかぶん の存在 そんざい であるとされた。以降 いこう ドイツではナチ党 とう を中心 ちゅうしん とした体制 たいせい が強化 きょうか され、党 とう の思想 しそう を強 つよ く反映 はんえい した政治 せいじ が行 おこな われるようになった。しかし、他 た の幹部 かんぶ とは異 こと なる政権 せいけん 構想 こうそう を持 も っていた突撃 とつげき 隊 たい ではさらなる「第 だい 二 に 革命 かくめい 」を求 もと める声 こえ が高 たか まり、突撃 とつげき 隊 たい 幕僚 ばくりょう 長 ちょう レームらとの対立 たいりつ が深刻 しんこく 化 か した。業 ぎょう を煮 に やしたヒンデンブルクや国軍 こくぐん からの最後 さいご 通告 つうこく を食 く らったヒトラーは、ゲーリングや親衛隊 しんえいたい 全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ヒムラー らによって作成 さくせい された粛清 しゅくせい 計画 けいかく を承認 しょうにん し、1934年 ねん 6月30日 にち 、突撃 とつげき 隊 たい 幹部 かんぶ のほか、シュトラッサーらナチス左派 さは などの政敵 せいてき をまとめて非合法 ひごうほう 的 てき 手段 しゅだん で粛清 しゅくせい した(長 なが いナイフの夜 よる )。この時 とき 、党 とう 草創 そうそう 期 き からの付 つ き合 あ いであったレームの逮捕 たいほ にはヒトラー自 みずか らが立 た ち会 あ っている。
1934年 ねん 8月 がつ 2日 にち 、大統領 だいとうりょう のヒンデンブルクが在任 ざいにん のまま死去 しきょ した。ヒトラーは直 ただ ちに「ドイツ国 こく および国民 こくみん の国家 こっか 元首 げんしゅ に関 かん する法律 ほうりつ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 」を発効 はっこう させ、国家 こっか 元首 げんしゅ である大統領 だいとうりょう の職務 しょくむ を首相 しゅしょう の職務 しょくむ と合体 がったい させ、「指導 しどう 者 しゃ 兼 けん 首相 しゅしょう (Führer und Reichskanzler ) であるアドルフ・ヒトラー」個人 こじん に大統領 だいとうりょう の職能 しょくのう を移 うつ した。ただし「故 こ 大統領 だいとうりょう に敬意 けいい を表 あらわ して」、大統領 だいとうりょう (Reichspräsident ) という称号 しょうごう は使用 しよう せず、自身 じしん のことは従来 じゅうらい 通 どお り「Führer(指導 しどう 者 しゃ )」と呼 よ ぶよう国民 こくみん に求 もと めた。この措置 そち は8月 がつ 19日 にち に民族 みんぞく 投票 とうひょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) を行 おこな い、89.93%という支持 しじ 率 りつ を得 え て承認 しょうにん された。これ以降 いこう 、日本 にっぽん の報道 ほうどう ではヒトラーの地位 ちい を「総統 そうとう 」と呼 よ ぶようになった。指導 しどう 者 しゃ は国家 こっか や法 ほう の上 うえ に立 た つ存在 そんざい であり、その意思 いし が最高 さいこう 法規 ほうき となる存在 そんざい であるとされた。
権力 けんりょく 掌握 しょうあく 以降 いこう 、ヒトラーの個人 こじん 崇拝 すうはい は国民 こくみん 的 てき なものとなった。1935年 ねん 1月 がつ 22日 にち には、公務員 こうむいん や一般 いっぱん 労働 ろうどう 者 しゃ が右手 みぎて を挙 あ げて「ハイル・ヒトラー 」と挨拶 あいさつ することや、公 おおやけ ・私 わたし 文書 ぶんしょ の末尾 まつび に記載 きさい することが義務付 ぎむづ けられた。民衆 みんしゅう が党 とう や体制 たいせい に対 たい する不満 ふまん を持 も つことがあっても、地方 ちほう ・中央 ちゅうおう の党 とう 幹部 かんぶ に批判 ひはん が向 む けられ、ヒトラー自身 じしん が対象 たいしょう となることはほとんどなかった。
国家 こっか 元首 げんしゅ に就任 しゅうにん して以降 いこう 、国際 こくさい 的 てき な行動 こうどう を実行 じっこう する日 ひ にしばしば土曜日 どようび を選 えら んだ。これは週末 しゅうまつ は他国 たこく 政府 せいふ の対応 たいおう が遅 おそ くなるという理由 りゆう からである。1935年 ねん 3月16日 にち のドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん 、1936年 ねん 3月7日 にち のラインラント進駐 しんちゅう はどちらも土曜日 どようび である[ 138] 。
ヒトラーは、従来 じゅうらい 合議 ごうぎ 制 せい であった閣議 かくぎ をほとんど開催 かいさい せず、書類 しょるい の回覧 かいらん によって決裁 けっさい を行 おこな った。また重要 じゅうよう な方針 ほうしん については大筋 おおすじ の方針 ほうしん を決 き めるだけで、詳細 しょうさい は所轄 しょかつ 官庁 かんちょう に任 まか せた。この「口頭 こうとう 政治 せいじ 」により、1941年 ねん に成立 せいりつ した法律 ほうりつ は、回覧 かいらん による制定 せいてい 法 ほう 11、総統 そうとう 布告 ふこく 24、総統 そうとう 命令 めいれい 9、国防 こくぼう 閣僚 かくりょう 評議 ひょうぎ 会 かい 命令 めいれい 27に対 たい し、所轄 しょかつ 官庁 かんちょう 命令 めいれい が373に達 たっ している。このため、各 かく 官庁 かんちょう とヒトラーの間 あいだ に立 た って調整 ちょうせい を行 おこな う総統 そうとう 官邸 かんてい 長官 ちょうかん ハンス・ハインリヒ・ラマース や、党 とう 官房 かんぼう 長 ちょう マルティン・ボルマン の権力 けんりょく が高 たか まった。一方 いっぽう で親衛隊 しんえいたい を含 ふく む党 とう の各 かく 組織 そしき や、ヒトラーが任命 にんめい する全権 ぜんけん 、国家 こっか 弁務 べんむ 官 かん などが並立 へいりつ したため、それぞれの組織 そしき の自立 じりつ 性 せい が高 たか まる一方 いっぽう で、党 とう と国家 こっか との法的 ほうてき 関係 かんけい は曖昧 あいまい なままとなり、法律 ほうりつ と行政 ぎょうせい は複雑 ふくざつ 化 か し、統一 とういつ 性 せい は失 うしな われた。指導 しどう 者 しゃ 原理 げんり によって各 かく 組織 そしき の指導 しどう 者 しゃ は、ヒトラーに与 あた えられた権力 けんりょく の範囲 はんい 内 ない で絶大 ぜつだい な権力 けんりょく を持 も つが、権限 けんげん が重複 じゅうふく する相手 あいて との対立 たいりつ や混乱 こんらん が絶 た えず、結果 けっか として最終 さいしゅう 的 てき にこれらを調停 ちょうてい し得 え る唯一 ゆいいつ の存在 そんざい となった彼 かれ への従属 じゅうぞく をますます強 つよ めることとなった。ヒトラー自身 じしん もわざとそういった問題 もんだい を放置 ほうち したり、しばしば重要 じゅうよう 事項 じこう に関 かん する決断 けつだん を回避 かいひ したため、余計 よけい に権力 けんりょく 闘争 とうそう に拍車 はくしゃ をかけることになった。ヨアヒム・フェスト は、ナチス・ドイツのこうした体制 たいせい を「ヒトラーだけにしか全体 ぜんたい を眺望 ちょうぼう し得 え ない国家 こっか 」と評 ひょう している。
個別 こべつ の政策 せいさく では、党 とう と国家 こっか の一体化 いったいか を推 お し進 すす める一方 いっぽう で、航空 こうくう 省 しょう の設置 せっち などベルサイユ条約 じょうやく で禁止 きんし されていた再 さい 軍備 ぐんび を推 お し進 すす めた。また同時 どうじ に行 おこな われていたラインハルト計画 けいかく により、1933年 ねん には600万 まん 人 にん を数 かぞ えていた失業 しつぎょう 者 しゃ も1934年 ねん には300万 まん 人 にん に減少 げんしょう している。一方 いっぽう で新聞 しんぶん の統制 とうせい 化 か も行 おこな い、1934年 ねん には約 やく 300の新聞 しんぶん が廃刊 はいかん となった。営業 えいぎょう 不振 ふしん となった新聞 しんぶん 社 しゃ ・雑誌 ざっし 社 しゃ はナチ党 とう の出版 しゅっぱん 社 しゃ フランツ・エーア出版 しゅっぱん 社 しゃ に買収 ばいしゅう され、情報 じょうほう の一元化 いちげんか が進 すす んでいった[ 142] 。1935年 ねん 3月 がつ 16日 にち にはベルサイユ条約 じょうやく の軍事 ぐんじ 条項 じょうこう を破棄 はき (ドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん )、公然 こうぜん と軍備 ぐんび 拡張 かくちょう を行 おこな った。
1936年 ねん には非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい とされていたラインラントへの進駐 しんちゅう を行 おこな った。ヒトラー自身 じしん も英 えい 仏 ふつ が対抗 たいこう 措置 そち を採 と る可能 かのう 性 せい を完全 かんぜん に払拭 ふっしょく し切 き れていたわけではなかったが[ 143] 、結局 けっきょく 英 えい 仏 ふつ は動 うご かず、賭 か けに勝利 しょうり したヒトラーの威信 いしん はさらに向上 こうじょう した。また同年 どうねん にはガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック とベルリンオリンピック の二 に 大会 たいかい がドイツで行 おこな われた。当初 とうしょ ヒトラーはレニ・リーフェンシュタール に対 たい して「自分 じぶん はユダヤ人 じん が牛耳 ぎゅうじ るオリンピックには関心 かんしん がない」と漏 も らしていたが[ 144] 、1933年 ねん 3月 がつ にはベルリン大会 たいかい 支持 しじ の声明 せいめい を出 だ している[ 145] 。またこれまで都市 とし 主催 しゅさい であったオリンピックに国家 こっか が積極 せっきょく 的 てき に介入 かいにゅう することで、ベルリンオリンピックはかつてない大 だい 規模 きぼ なものとなった。また、リーフェンシュタールが撮影 さつえい した記録 きろく 映画 えいが 『オリンピア 』は世界 せかい で高 たか い評価 ひょうか を得 え た。
ベルリンオリンピック開催 かいさい 前後 ぜんこう には諸 しょ 外国 がいこく からの批判 ひはん を受 う け、一時 いちじ 的 てき にユダヤ人 じん 迫害 はくがい 政策 せいさく を緩和 かんわ し、反 はん ユダヤ主義 しゅぎ のポスターや新聞 しんぶん が公共 こうきょう の場 ば から撤去 てっきょ された[ 146] [ 147] [ 132] 。また、発禁 はっきん 書 しょ なども突如 とつじょ 、姿 すがた を表 あらわ し、ナイトクラブ ではジャズ が演奏 えんそう された[ 132] 。その後 ご は国力 こくりょく の増強 ぞうきょう とともに、ドイツ国民 こくみん の圧倒的 あっとうてき な支持 しじ の下 した 「ゲルマン民族 みんぞく の優越 ゆうえつ 」と「反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 」を掲 かか げ、ユダヤ人 じん に対 たい する人種 じんしゅ 差別 さべつ を基 もと にした迫害 はくがい を再 ふたた び強化 きょうか していく。ただし、ヒトラーの人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき な思想 しそう はオリンピックの大会 たいかい 中 ちゅう にも現 あらわ れていた[ 146] [ 147] 。ユダヤ人 じん だけでなく黒人 こくじん も劣等 れっとう 人種 じんしゅ と看做 みな していたヒトラーはオリンピックの試合 しあい でジェシー・オーエンス が4冠 かん を達成 たっせい し大 だい 活躍 かつやく したことに対 たい し[ 146] [ 147] 、ヒトラー・ユーゲント 指導 しどう 者 しゃ のバルドゥール・フォン・シーラッハ がオーエンスを総統 そうとう 官邸 かんてい に招待 しょうたい するようにヒトラーに提案 ていあん したところ、怒 いか りと共 とも に下 した の言葉 ことば を残 のこ している[ 132] 。
「
アメリカは黒人 こくじん にメダルを取 と らせたことを恥 は ずべきだった。私 わたし はこの黒人 こくじん の手 て など絶対 ぜったい に握 にぎ ったりはしないだろう。私 わたし が黒人 こくじん (原文 げんぶん :ニグロ )と握手 あくしゅ している写真 しゃしん を撮 と らせるとでも本気 ほんき で思 おも っているのかね?
」
また、アルベルト・シュペーアの回想 かいそう 録 ろく の中 なか でヒトラーは「素晴 すば らしい色 いろ (原文 げんぶん 表記 ひょうき )のランナー、ジェシー・オーエンスの一連 いちれん の勝利 しょうり に、非常 ひじょう に悩 なや まされていた。」と述 の べている[ 132] 。
ただ、ヒトラーがオーエンスの勝利 しょうり 後 ご 、彼 かれ と握手 あくしゅ するのを拒否 きょひ したとの議論 ぎろん があるが、実際 じっさい にはヒトラーはオリンピックの大会 たいかい 期間 きかん 中 ちゅう 、すなわち大会 たいかい の初日 しょにち からスタジアムにいるどの選手 せんしゅ への祝福 しゅくふく もしていない[ 132] [ 注 ちゅう 7] 。
この大会 たいかい はヒトラーとナチ党 とう が、持論 じろん である白人 はくじん 種 たね (ゲルマン民族 みんぞく )の優越 ゆうえつ 性 せい を証明 しょうめい することを望 のぞ んだ大会 たいかい だったが、ベルリン の人々 ひとびと は、オーエンスを「オリンピックのヒーロー」として迎 むか えた[ 148] [ 146] [ 147] 。
オーストリア併合 へいごう 後 ご にウィーン市内 しない をパレードするヒトラー(1938年 ねん 10月 がつ )
ナチ党 とう 政権 せいけん 下 か 時代 じだい の外交 がいこう 政策 せいさく は、一般 いっぱん にヒトラーの能動 のうどう 的 てき な計画 けいかく に帰 き す「ヒトラー中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ 」的 てき 解釈 かいしゃく が行 おこな われることが多 おお い。ヒトラーが時 とき に外交 がいこう 政策 せいさく に大 おお きく関与 かんよ したことは事実 じじつ であるが、近年 きんねん ではヨアヒム・フォン・リッベントロップ やドイツ外務省 がいむしょう 、ゲーリングといった国内 こくない 諸 しょ 勢力 せいりょく の影響 えいきょう も研究 けんきゅう 対象 たいしょう となり、「ドイツの(外交 がいこう )政策 せいさく を、ヒトラーと同一 どういつ 視 し し続 つづ けることができるであろうか」という歴史 れきし 家 か ウィリアム・カーの指摘 してき も存在 そんざい する。
1922年 ねん からヒトラーが訴 うった えてきた基本 きほん 的 てき な外交 がいこう 方針 ほうしん は親 しん 英 えい 伊 い ・反 はん 仏 ふつ ソであり、当時 とうじ のドイツ外務省 がいむしょう の方針 ほうしん とは対 たい ソビエト連邦 れんぽう 政策 せいさく を除 のぞ いて大 おお きく異 こと ならなかった。ヒトラーには3つの固 かた い信念 しんねん があった。第 だい 一 いち はベルサイユ条約 じょうやく でバラバラになったドイツを再 さい 統一 とういつ すること、第 だい 二 に は資源 しげん 確保 かくほ のためにロシアあるいはバルカン半島 ばるかんはんとう 方面 ほうめん に領土 りょうど を拡張 かくちょう すること、第 だい 三 さん はロシアの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ を根絶 ねだ やしにすることであった[ 152] 。
ヒトラーは第 だい 一 いち の敵 てき であるソ連 それん と対抗 たいこう するうえで、緩衝 かんしょう 国 こく として同 おな じ反共 はんきょう 国家 こっか ポーランド の存在 そんざい を評価 ひょうか しており、ドイツの東方 とうほう 外交 がいこう は、反 はん ポーランド・対 たい ソ連携 れんけい から、反 はん ソ・対 たい ポーランド連携 れんけい に180度 ど 転換 てんかん した。ポーランドはフランス のジュニアパートナーとして対 たい 独 どく 包囲 ほうい 網 もう を構成 こうせい し、ヒトラー政権 せいけん 誕生 たんじょう 後 ご もドイツ侵攻 しんこう の野心 やしん を捨 す てていなかったが、外交 がいこう 方針 ほうしん を転換 てんかん させ、1934年 ねん 1月 がつ 、ドイツとポーランドは不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ した[ 153] 。
1932年 ねん 12月11日 にち 、ドイツに他国 たこく と同様 どうよう の軍事 ぐんじ 的 てき 平等 びょうどう を原則 げんそく 的 てき に承認 しょうにん する米 べい 英 えい 仏 ふつ 独 どく 伊 い の五 ご 大国 たいこく 宣言 せんげん が出 だ されて、ドイツの再 さい 軍備 ぐんび が国際 こくさい 的 てき に公認 こうにん された。ヒトラー政権 せいけん 下 か の再 さい 軍備 ぐんび は、パーペン 、シュライヒャー 政権 せいけん からの継続 けいぞく であり、原則 げんそく 的 てき には戦勝 せんしょう 国 こく も同意 どうい していた。1933年 ねん 3月 がつ 16日 にち 、ラムゼイ・マクドナルド 英 えい 首相 しゅしょう がジュネーブ軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ で、欧州 おうしゅう 大陸 たいりく の陸軍 りくぐん 兵力 へいりょく に関 かん して、ドイツに20万 まん 人 にん まで増強 ぞうきょう することを認 みと め、フランス は40万 まん 人 にん (本国 ほんごく 20万 まん 人 にん ・在外 ざいがい 20万 まん 人 にん )、イタリア は25万 まん 人 にん (本国 ほんごく 20万 まん 人 にん ・在外 ざいがい 5万 まん 人 にん )、ポーランドは20万 まん 人 にん 、チェコスロバキア は10万 まん 人 にん 、ベルギー は13.5万 まん 人 にん (本国 ほんごく 6万 まん 人 にん ・在外 ざいがい 7.5万 まん 人 にん )、ソ連 それん は50万 まん 人 にん に削減 さくげん 、空軍 くうぐん については現状 げんじょう 維持 いじ とし、ドイツには認 みと めず、空爆 くうばく は禁止 きんし という、マクドナルド・プランを提案 ていあん し、5月16日 にち 、ルーズベルト 米 べい 大統領 だいとうりょう は世界 せかい の指導 しどう 者 しゃ にマクドナルド・プランに沿 そ った軍縮 ぐんしゅく を求 もと める声明 せいめい を発 はっ した。ヒトラーは5月17日 にち の議会 ぎかい 演説 えんぜつ で、これまでの政権 せいけん と同様 どうよう 、他国 たこく との平等 びょうどう を求 もと め、空軍 くうぐん での差別 さべつ 的 てき 取 と り扱 あつか いには反対 はんたい しつつ、マクドナルド・プランが目指 めざ す方向 ほうこう に賛意 さんい を表明 ひょうめい し、米 べい 大統領 だいとうりょう に心 しん からの感謝 かんしゃ を表明 ひょうめい したが、フランスは難色 なんしょく を示 しめ し、軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ は暗礁 あんしょう に乗 の り上 あ げた。ヒトラーは10月15日 にち 、ドイツが二流 にりゅう 国 こく として軍事 ぐんじ 的 てき に対等 たいとう の地位 ちい を認 みと められないことは許容 きょよう できないとして、軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ のみならず国際 こくさい 連盟 れんめい からも脱退 だったい すると宣言 せんげん した。1934年 ねん 1月 がつ 29日 にち 、イギリスはドイツの陸軍 りくぐん 兵力 へいりょく 上限 じょうげん を増 ふ やして空軍 くうぐん も認 みと める一方 いっぽう 、フランスの要求 ようきゅう を入 い れて突撃 とつげき 隊 たい ・親衛隊 しんえいたい の非 ひ 武装 ぶそう 化 か をドイツに求 もと める新 あら たな軍縮 ぐんしゅく 案 あん を提案 ていあん した。ドイツは一部 いちぶ 修正 しゅうせい を求 もと めたものの、基本 きほん 的 てき に同意 どうい したが、4月 がつ 17日 にち 、フランスは交渉 こうしょう 打 う ち切 き りを宣言 せんげん した[ 154] 。
1935年 ねん 1月 がつ 、ベルサイユ条約 じょうやく により国際 こくさい 連盟 れんめい 管理 かんり 下 か にあったザール地方 ちほう の帰属 きぞく を決 き める住民 じゅうみん 投票 とうひょう が実施 じっし され、ドイツ復帰 ふっき 反対 はんたい 派 は の反 はん ヒトラー・反 はん 国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ キャンペーンにもかかわらず、50万 まん 人 にん 強 きょう の有権者 ゆうけんしゃ の98%が投票 とうひょう して、有効 ゆうこう 投票 とうひょう の91%がドイツ復帰 ふっき に賛成 さんせい した。この投票 とうひょう 結果 けっか を受 う けて、ザール地方 ちほう がドイツに返還 へんかん されただけでなく、ドイツ内外 ないがい でのヒトラーの威信 いしん が高 たか まった。こうして戦勝 せんしょう 国 こく はドイツ民族 みんぞく 自決 じけつ の声 こえ を無視 むし できなくなった[ 155] 。
西 にし ヨーロッパの知識 ちしき 人 じん は保守 ほしゅ 系 けい はもちろんリベラル系 けい の一部 いちぶ までが、ロシア革命 かくめい 思想 しそう の伝播 でんぱ を恐 おそ れており、その防波堤 ぼうはてい として、ヒトラーに指導 しどう されたドイツに期待 きたい していた。また、べルサイユ条約 じょうやく に基 もと づく戦後 せんご 欧州 おうしゅう 体制 たいせい はドイツに対 たい して公平 こうへい 性 せい に欠 か けるという認識 にんしき も根強 ねづよ かった。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は であった元 もと 英 えい 首相 しゅしょう ロイド・ジョージ は1934年 ねん 11月28日 にち に、「近 ちか いうちに、おそらく一 いち 年 ねん 以内 いない だと思 おも うが、わが国 くに の保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく は、ドイツをヨーロッパで拡散 かくさん する共産 きょうさん 主義 しゅぎ 思想 しそう に抵抗 ていこう する前線 ぜんせん 基地 きち だとする考 かんが えで一致 いっち するであろう。ドイツの再 さい 軍備 ぐんび を拙速 せっそく に批判 ひはん するようなことがあってはならない。わが国 くに の友邦 ゆうほう としてドイツを歓迎 かんげい する日 ひ が来 く る」と述 の べている。ドイツの軍拡 ぐんかく はイギリスのお墨付 すみつ きの上 うえ で進 すす んだ。ヒトラーはフランス国会 こっかい が徴兵 ちょうへい 期間 きかん 延長 えんちょう を可決 かけつ した直後 ちょくご の1935年 ねん 3月16日 にち に再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん を行 おこな い、5月に徴兵 ちょうへい 制 せい を実施 じっし した。そして二 に 年間 ねんかん の秘密 ひみつ 交渉 こうしょう の結果 けっか 、1935年 ねん 6月 がつ 英 えい 独 どく 海軍 かいぐん 協定 きょうてい が締結 ていけつ された。ドイツ海軍 かいぐん は軍艦 ぐんかん 保有 ほゆう の上限 じょうげん を対 たい 英 えい 35%とし、潜水 せんすい 艦 かん (Uボート )の建造 けんぞう は対 たい 英 えい 45%(状況 じょうきょう によっては対 たい 英 えい 100%まで建造 けんぞう 可能 かのう )であった。この協定 きょうてい はべルサイユ条約 じょうやく を実質 じっしつ 反故 ほご にするものであり、主要 しゅよう 国 こく には寝耳 ねみみ に水 みず の協定 きょうてい であった。フランスにとっては大 おお きな打撃 だげき となった。
猛烈 もうれつ な反 はん 独 どく 感情 かんじょう を抱 いだ き続 つづ けるフランスはドイツの再 さい 軍備 ぐんび の動 うご きに反応 はんのう してソ連 それん に接近 せっきん した。1935年 ねん 5月 がつ 2日 にち 、仏 ふつ ソ相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく がパリ で調印 ちょういん され、1936年 ねん 2月 がつ 27日 にち 、フランスはこの条約 じょうやく を批准 ひじゅん した。ヒトラーはこの条約 じょうやく をロカルノ条約 じょうやく 違反 いはん であるとみなしており、批准 ひじゅん されないことを願 ねが っていたが、批准 ひじゅん された以上 いじょう はラインラント を無防備 むぼうび のままにしておけなかった。
1936年 ねん 3月 がつ にはベルサイユ条約 じょうやく とロカルノ条約 じょうやく に反 はん して非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい と定 さだ められていたラインラントへの進駐 しんちゅう を実行 じっこう した。ただし、進駐 しんちゅう した部隊 ぶたい は小規模 しょうきぼ であり、軍事 ぐんじ 的 てき というより主権 しゅけん 回復 かいふく を象徴 しょうちょう する政治 せいじ 的 てき 進駐 しんちゅう であった。ヒトラーは仏 ふつ ソ相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく 発効 はっこう によりロカルノ条約 じょうやく は失効 しっこう したとして、ラインラント進駐 しんちゅう を正当 せいとう 化 か し、ソビエト の赤化 せっか 工作 こうさく 攻勢 こうせい に対抗 たいこう しなければならないと述 の べた。そのためには、①ドイツとベルギー 、フランス国境 こっきょう 地帯 ちたい の非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい に関 かか わる新 あら たな多国 たこく 間 あいだ 協定 きょうてい 、②ベルギー、フランス、ドイツ、オランダ による期限 きげん 25年 ねん の不可侵 ふかしん 条約 じょうやく 、③西 にし ヨーロッパ諸国 しょこく に対 たい するソビエトによる無 む 警告 けいこく 攻撃 こうげき への対処 たいしょ に関 かか わる航空 こうくう 協定 きょうてい 、④ドイツの東方 とうほう に位置 いち する国 くに との不可侵 ふかしん 条約 じょうやく 、の4つの新 あたら しい条約 じょうやく が必要 ひつよう であると訴 うった えた。イギリスの対 たい 独 どく 宥和 ゆうわ 姿勢 しせい を肌 はだ で感 かん じていたヒトラーは、イギリスはこの動 うご きに理解 りかい を示 しめ すだろうとの自信 じしん はあったが、「ラインラントへ兵 へい を進 すす めた後 のち の48時 じ 間 あいだ は私 わたし の人生 じんせい で最 もっと も不安 ふあん なときであった。もし、フランス軍 ぐん がラインラントに進軍 しんぐん してきたら、貧弱 ひんじゃく な軍備 ぐんび のドイツ軍 ぐん 部隊 ぶたい は、反撃 はんげき できずに、尻尾 しっぽ を巻 ま いて逃 に げ出 だ さなければいけなかった」と後 のち に述 の べている。フランス軍 ぐん からの攻撃 こうげき はなかった。フランスはこの問題 もんだい を国際 こくさい 連盟 れんめい 理事 りじ 会 かい に提訴 ていそ し、連盟 れんめい はドイツの行為 こうい はベルサイユ条約 じょうやく とロカルノ条約 じょうやく 違反 いはん と決議 けつぎ したが、制裁 せいさい についての議論 ぎろん はなされなかった。3月26日 にち 、英国 えいこく 会 かい の審議 しんぎ において、イーデン英 えい 外相 がいしょう はフランスとベルギーが要求 ようきゅう する経済 けいざい 政策 せいさく を手始 てはじ めとする段階 だんかい 的 てき 制裁 せいさい には反対 はんたい と明言 めいげん し、野党 やとう 議員 ぎいん のロイド・ジョージはヒトラーを擁護 ようご するものではないと言 い いつつ、ロカルノ条約 じょうやく 締結 ていけつ 国 こく が軍縮 ぐんしゅく に応 おう じなかったことなどを挙 あ げて、対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は を戒 いまし めた。ヒトラーは3月 がつ 29日 にち に国民 こくみん 投票 とうひょう を実施 じっし し、98.79%がラインラント進駐 しんちゅう を是 ぜ とした。ロカルノ体制 たいせい の崩壊 ほうかい でボルシェビキ 思想 しそう の拡散 かくさん にヨーロッパ諸国 しょこく は怯 おび えた。一方 いっぽう ソビエトは、再生 さいせい ドイツを恐 おそ れるヨーロッパ諸国 しょこく に向 む かって、彼 かれ らを救済 きゅうさい する国 くに がソビエトであるとのポーズをとり始 はじ めた。ヒトラーは1936年 ねん 10月 がつ 24日 にち 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ の脅威 きょうい に対抗 たいこう しヨーロッパ内部 ないぶ における地位 ちい を高 たか めたいという共通 きょうつう の思 おも いを持 も つ、ムッソリーニ と独 どく 伊 い 協定 きょうてい を締結 ていけつ した。さらにヒトラーは、ベルサイユ条約 じょうやく ではドイツの重要 じゅうよう な河川 かせん 海運 かいうん は国際 こくさい 連盟 れんめい の国際 こくさい 委員 いいん 会 かい の管理 かんり 下 か に置 お かれることになっていたが、この条項 じょうこう を破棄 はき すると発表 はっぴょう した。
ベルサイユ条約 じょうやく に反 はん する再 さい 軍備 ぐんび とラインラント進駐 しんちゅう があったにもかかわらず、1936年 ねん 8月 がつ に開 ひら かれたベルリン・オリンピック はボイコットされることなく、ヒトラーにとって再生 さいせい したドイツを世界 せかい に知 し らしめる絶好 ぜっこう の機会 きかい になった[ 160] 。
ヒトラーは1936年 ねん 7月 がつ にスペイン内戦 ないせん において、スペイン共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ の過激 かげき な思想 しそう が西 にし ヨーロッパ全体 ぜんたい に広 ひろ がることを恐 おそ れて、反乱 はんらん 軍 ぐん のフランシスコ・フランコ 支援 しえん を決定 けってい した。同年 どうねん 9月 がつ 、ヒトラーは元 もと 英 えい 首相 しゅしょう ロイド・ジョージとベルヒテスガーデン で会談 かいだん し、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 思想 しそう からドイツを防衛 ぼうえい していることを評価 ひょうか された。同年 どうねん 11月 がつ 18日 にち 、独 どく 伊 い 両国 りょうこく はフランコ政権 せいけん を正式 せいしき に承認 しょうにん し、ドイツは空軍 くうぐん 部隊 ぶたい 、イタリアは地上 ちじょう 部隊 ぶたい を派遣 はけん した。1937年 ねん 4月 がつ 26日 にち には、人民戦線 じんみんせんせん 軍 ぐん の退却 たいきゃく を阻止 そし するために、ドイツ空軍 くうぐん 「コンドル軍団 ぐんだん 」による、合法 ごうほう 的 てき 軍事 ぐんじ 目標 もくひょう である橋 はし などを狙 ねら ったゲルニカ空爆 くうばく が行 おこな われたが、目標 もくひょう をそれた爆 ばく 弾 だん が市街地 しがいち を直撃 ちょくげき し、付属 ふぞく 的 てき 被害 ひがい として、一般 いっぱん 市民 しみん に犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で た[ 161] 。
東欧 とうおう を主眼 しゅがん とするヒトラーの対外 たいがい 政策 せいさく にスペインはほとんど関係 かんけい なかったが、スペイン内戦 ないせん が長引 ながび けば長引 ながび くほど、国際 こくさい 社会 しゃかい の目 め はドイツ再 さい 軍備 ぐんび から遠 とお のき、人民戦線 じんみんせんせん 政府 せいふ 支援 しえん をめぐり国論 こくろん が二分 にぶん されたフランスの政治 せいじ 的 てき 混乱 こんらん は続 つづ き、英 えい 仏 ふつ とイタリアの関係 かんけい が悪化 あっか して、イタリアはドイツに頼 たよ らざるを得 え なくなるなど、ヒトラーにとって好都合 こうつごう であった。実際 じっさい ドイツは第三国 だいさんごく を通 つう じて、人民戦線 じんみんせんせん 軍 ぐん にも武器 ぶき を売却 ばいきゃく しており、ヒトラーはスペイン内戦 ないせん の早期 そうき 終結 しゅうけつ はドイツの国益 こくえき に合致 がっち しないと考 かんが えていた。1938年 ねん 春 はる 、ヒトラーは、フランスと国境 こっきょう を接 せっ するカタロニア 地方 ちほう ではなく、南 みなみ のバレンシア を攻 せ めるよう、フランコに進言 しんげん することを命 めい じたが、それは、人民戦線 じんみんせんせん 派 は の拠点 きょてん であるカタロニアを占領 せんりょう すれば、内戦 ないせん が終 お わってしまうからであった[ 162] 。
オーストリアでのヒトラー
ミュンヘンに集 あつ まった英 えい 仏 ふつ 独 どく 伊 い の首脳 しゅのう 。左 ひだり からチェンバレン、ダラディエ 、ヒトラー、ムッソリーニ、伊 い 外相 がいしょう チャーノ
1931年 ねん に発生 はっせい した満州 まんしゅう 事変 じへん 以降 いこう 、ソ連 それん やイギリス 、アメリカ との間 あいだ の関係 かんけい 悪化 あっか が鮮明 せんめい 化 か していた日本 にっぽん との関係 かんけい が親密 しんみつ 化 か を増 ま し、1936年 ねん 11月には、駐 ちゅう 独 どく 日本 にっぽん 国 こく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし の武者小路 むしゃのこうじ 公共 こうきょう とドイツ外相 がいしょう ヨアヒム・フォン・リッベントロップ の間 あいだ で日 にち 独 どく 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい が結 むす ばれ、ヨシフ・スターリン 率 ひき いるソビエト連邦 れんぽう への対抗 たいこう を目指 めざ した。同 どう 協定 きょうてい は翌 よく 1937年 ねん 11月6日 にち にイタリアも入 はい り日 にち 独 どく 伊 い 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい となった。
1937年 ねん 1月 がつ 30日 にち 、ヒトラーは演説 えんぜつ で、ベルサイユ条約 じょうやく の戦争 せんそう 責任 せきにん 条項 じょうこう (第 だい 231条 じょう )を弾劾 だんがい し、ドイツがオーストリア、イタリア、日本 にっぽん 、ポーランドと締結 ていけつ した条約 じょうやく や協定 きょうてい を挙 あ げて、他国 たこく との協調 きょうちょう の重要 じゅうよう 性 せい を訴 うった え、ベルギーやオランダへの中立 ちゅうりつ 保障 ほしょう 案件 あんけん やフランスとは事 こと を構 かま える考 かんが えがないことを言及 げんきゅう したが、対 たい ソビエトの姿勢 しせい だけは厳 いかめ しかった。
1937年 ねん 11月5日 にち には陸海空 りくかいくう 軍 ぐん の首脳 しゅのう を集 あつ め、「東方 とうほう 生存 せいぞん 圏 けん 」獲得 かくとく のための戦争 せんそう 計画 けいかく を告 つ げた(ホスバッハ覚書 おぼえがき )。計画 けいかく に批判 ひはん 的 てき であった国防 こくぼう 相 しょう ブロンベルク らは陰謀 いんぼう によって追放 ついほう され、独立 どくりつ 傾向 けいこう があった軍 ぐん を完全 かんぜん に掌握 しょうあく した(ブロンベルク罷免 ひめん 事件 じけん )。
1937年 ねん 11月19日 にち 、ヒトラーはイギリスの枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう のハリファックス 卿 きょう とベルヒテスガーデン で会談 かいだん した。ハリファックス卿 きょう はベルサイユ条約 じょうやく によるオーストリア 、チェコスロバキア およびダンツィヒ に関 かか わる線引 せんひ きの変更 へんこう については反対 はんたい しない、と伝 つた えた。ただし、それを平和 へいわ 的 てき な手段 しゅだん で行 おこ なうことが条件 じょうけん であった。ハリファックス卿 きょう の考 かんが えはイギリス政府 せいふ の考 かんが えを示 しめ すものであることは、彼 かれ が翌年 よくねん 2月 がつ に外務 がいむ 大臣 だいじん に登用 とうよう されたことからも明 あき らかだった。彼 かれ が山荘 さんそう を後 のち にした時 とき のヒトラーは高揚 こうよう し、「ハリファックスは賢 かしこ い政治 せいじ 家 か だ。ドイツの主張 しゅちょう を100%支持 しじ してくれた」と述 の べた[ 164] 。ハリファックス卿 きょう を派遣 はけん したチェンバレン 英 えい 首相 しゅしょう は11月26日 にち 付 づけ の妹 いもうと のアイダ宛 あて 書簡 しょかん で、平和 へいわ 的 てき 方法 ほうほう であれば、ドイツがオーストリアとチェコスロバキアのズデーテン地方 ちほう を併合 へいごう することを容認 ようにん すると記 しる していた[ 165] 。
1934年 ねん 7月 がつ のドルフス 墺 おう 首相 しゅしょう 暗殺 あんさつ でドイツとオーストリアの関係 かんけい が悪化 あっか したのち、後継 こうけい 首相 しゅしょう となったシュシュニック が圧政 あっせい を継続 けいぞく したため、国内 こくない での不満 ふまん が高 たか まり、ドイツとの合併 がっぺい を求 もと める声 こえ が再 ふたた び高 たか まった。ドイツとの合併 がっぺい を求 もと めていたのは、オーストラリアNSDAPだけでなく、ともに非合法 ひごうほう 化 か されていた社民党 しゃみんとう も合併 がっぺい 推進 すいしん 派 は であった。シュシュニックは首相 しゅしょう 就任 しゅうにん 以来 いらい 一 いち 度 ど も選挙 せんきょ を経 へ ておらず、その正統 せいとう 性 せい に疑問符 ぎもんふ が付 つ いていた[ 166] 。オーストリア併合 へいごう の第一歩 だいいっぽ である1936年 ねん 7月 がつ 11日 にち に結 むす ばれた独 どく 墺 おう 間 あいだ の合意 ごうい では、両国 りょうこく はドイツ文化 ぶんか 圏 けん に属 ぞく していることを確認 かくにん し、文化 ぶんか 交流 こうりゅう を阻害 そがい する規制 きせい の即時 そくじ 撤廃 てっぱい を謳 うた っており、両国 りょうこく の新聞 しんぶん は相手 あいて 国 こく を客観 きゃっかん 的 てき に報道 ほうどう し、攻撃 こうげき 的 てき な内容 ないよう にしてはならないこと、オーストリアの外交 がいこう は、ドイツの進 すす める平和 へいわ 外交 がいこう を勘案 かんあん しながら進 すす めることが決 き められていた。直後 ちょくご に1万 まん 5千 せん 人 にん のNSDAP政治 せいじ 犯 はん に恩赦 おんしゃ が与 あた えられ、釈放 しゃくほう された。またオーストリアには野党 やとう からも代表 だいひょう を指名 しめい し、国家 こっか 運営 うんえい に責任 せきにん をもたせることになった。ナチス・ドイツのプロパガンダ組織 そしき は、表面 ひょうめん 上 じょう は友好 ゆうこう 的 てき な態度 たいど であったが、その裏 うら で国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の宣伝 せんでん に努 つと めていた。1938年 ねん 2月 がつ 4日 にち 、中央 ちゅうおう ヨーロッパで攻勢 こうせい に出 で ることに反対 はんたい していた国防 こくぼう 相 しょう ブロンベルク らが突然 とつぜん 解任 かいにん された。
1938年 ねん 2月 がつ 12日 にち 、ヒトラーはオーストリア首相 しゅしょう ・クルト・シュシュニック とベルヒテスガーデン で会談 かいだん し、自発 じはつ 的 てき に併合 へいごう の道 みち を歩 あゆ むことを迫 せま った。その手始 てはじ めとして、オーストリア・ナチス党 とう 幹部 かんぶ の入閣 にゅうかく 、ナチス党員 とういん の釈放 しゃくほう 、対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は の参謀 さんぼう 総長 そうちょう の解任 かいにん を要求 ようきゅう し、「オーストリアを助 たす けに来 く る国 くに はどこにもない」と続 つづ けた。イギリスでは、ベルサイユ体制 たいせい の歪 ゆが みの解消 かいしょう に理解 りかい を示 しめ したハリファックス 卿 きょう が、対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は のアンソニー・イーデン に代 か わって外相 がいしょう に就 つ き(2月 がつ 21日 にち )、同 おな じく強硬 きょうこう 派 は だった外務 がいむ 次官 じかん ロバート・ヴァンシタート は更迭 こうてつ された。首相 しゅしょう のシュシュニックはヒトラーの要求 ようきゅう を表面 ひょうめん 的 てき に容 い れる一方 いっぽう 、3月9日 にち 、4日 にち 後 ご の3月 がつ 13日 にち にオーストリアの独立 どくりつ 維持 いじ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう を実施 じっし すると発表 はっぴょう した。しかし、選挙 せんきょ は地方 ちほう 選挙 せんきょ も含 ふく めて何 なん 年 ねん も実施 じっし されておらず、現実 げんじつ 的 てき に公平 こうへい な選挙 せんきょ の実施 じっし が不可能 ふかのう であるだけでなく、シュシュニックが反対 はんたい 者 しゃ を排除 はいじょ した形 かたち で選挙 せんきょ を進 すす めようとしたため、国内 こくない は騒然 そうぜん となった。この状況 じょうきょう を見 み たヒトラーは軍事 ぐんじ 侵攻 しんこう を決断 けつだん し、3月12日 にち 朝 あさ 、ドイツ軍 ぐん はオーストリア に侵攻 しんこう した。ただし、武力 ぶりょく 行使 こうし を避 さ け、住民 じゅうみん に歓迎 かんげい される平和 へいわ 的 てき 行進 こうしん とし、いかなる挑発 ちょうはつ 的 てき 行動 こうどう も禁止 きんし した。カトリック 教 きょう 国 こく のオーストリアはもともとプロテスタント 国家 こっか のプロイセン が嫌 きら いで、普 ひろし 墺 おう 戦争 せんそう (1866年 ねん )の敗北 はいぼく もあり、プロイセン嫌 ぎら いの感情 かんじょう は根深 ねぶか いものがあったが、ドイツ軍 ぐん への抵抗 ていこう は皆無 かいむ だった。オーストリア国民 こくみん は侵入 しんにゅう するドイツ軍 ぐん をむしろ歓迎 かんげい した。発砲 はっぽう の事態 じたい が一 ひと つもなく、花束 はなたば で迎 むか えられた[ 169] 。
1938年 ねん 3月 がつ には武力 ぶりょく による威嚇 いかく でオーストリアの首相 しゅしょう にアルトゥル・ザイス=インクヴァルト を就任 しゅうにん させ、オーストリア併合 へいごう にこぎつけた。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 皇太子 こうたいし オットー・フォン・ハプスブルク がドイツの侵略 しんりゃく 計画 けいかく に対抗 たいこう する構 かま えをみせたが、ヒトラーはこの動 うご きを押 お さえつけてオーストリアの内閣 ないかく を交代 こうたい させたのである。なお、ヒトラーはハプスブルク家 か を憎悪 ぞうお しており、オットーがオーストリア政府 せいふ の頂点 ちょうてん に立 た った場合 ばあい はただちにオーストリアに侵攻 しんこう する計画 けいかく を練 ね っていた。その名 な も、ハプスブルク家 か 当主 とうしゅ オットーの名 な を冠 かん した「オットー作戦 さくせん (ドイツ語 ご 版 ばん ) 」というものだった。
こうしてオーストリア国内 こくない の抵抗 ていこう 勢力 せいりょく を封 ふう じ込 こ めた後 のち 、3月12日 にち にはヒトラー自身 じしん がオーストリアに入 はい り、ウィーンや生 う まれ故郷 こきょう リンツに戻 もど った。オーストリア国民 こくみん はヒトラーを里帰 さとがえ りの凱旋 がいせん のごとく迎 むか えた。ヒトラーは故郷 こきょう リンツでこのように演説 えんぜつ した。「もし神 かみ がドイツ国家 こっか の指導 しどう 者 しゃ たるべく私 わたし をこの町 まち に召 め したのだとすれば、それは私 わたし に一 ひと つの任務 にんむ を授 さづ けるためである。その任務 にんむ とはわが愛 あい する故国 ここく をドイツ国家 こっか に還付 かんぷ することである。私 わたし はその任務 にんむ を信 しん じた。私 わたし はそのために生 い き、そのために戦 たたか ってきた。そして今 いま その任務 にんむ を果 は たしたと信 しん じる」。なお、この時 とき 、ヒトラーは、父親 ちちおや の生地 きじ を演習 えんしゅう 地 ち に選 えら び破壊 はかい している。ヒトラーは3月 がつ 15日 にち 朝 あさ 、ウィーン市民 しみん の前 まえ で演説 えんぜつ した。広場 ひろば にはヒトラーを一目 いちもく 見 み ようとする25万 まん 人 にん の市民 しみん が集 あつ まった。ヒトラーは当初 とうしょ 、連邦 れんぽう 国家 こっか にするつもりであったが、予想 よそう もしなかった熱烈 ねつれつ な歓迎 かんげい を見 み て、大 だい ドイツ帝国 ていこく の一部 いちぶ として併合 へいごう することに決 き めた。オーストリア国民 こくみん の歓迎 かんげい は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご にドイツとの合邦 がっぽう (アンシュルス )を禁止 きんし し、「ドイツ・オーストリア」という国名 こくめい も許 ゆる さなかったサン=ジェルマン条約 じょうやく に対 たい する恨 うら みもあったが、ドイツの進 すす めてきた経済 けいざい 再建 さいけん を評価 ひょうか し、オーストリアを苦境 くきょう から救 すく ってくれるのではないかと強 つよ く期待 きたい したからであった。ドイツに併合 へいごう されたオーストリアの経済 けいざい 発展 はってん は目覚 めざ ましかった。投資 とうし 、工業 こうぎょう 生産 せいさん 、住宅 じゅうたく 建設 けんせつ が活発 かっぱつ 化 か し消費 しょうひ も増大 ぞうだい した。観光 かんこう 旅行 りょこう を楽 たの しむ者 もの が増 ふ え、生活 せいかつ 水準 すいじゅん はたちまちに上 あ がった。1937年 ねん の失業 しつぎょう 率 りつ は21.7%もあったが、1939年 ねん には3.2%まで低下 ていか した[ 170] [ 171] 。
1938年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 、併合 へいごう の正統 せいとう 性 せい を内外 ないがい に示 しめ すために、オーストリアだけでなく、ドイツでも行 おこな われた国民 こくみん 投票 とうひょう で、合併 がっぺい 賛成 さんせい は両国 りょうこく とも99%を超 こ えた。ヒトラー政権 せいけん 成立 せいりつ 後 ご の1935年 ねん に国際 こくさい 管理 かんり 下 か で行 おこな われたザール地方 ちほう 帰属 きぞく 投票 とうひょう でも賛成 さんせい 票 ひょう は90%を超 こ えており、オーストリアでも圧倒的 あっとうてき 多数 たすう が合併 がっぺい に賛成 さんせい していたことは確実 かくじつ である。だからこそ、英 えい 仏 ふつ もドイツの強圧 きょうあつ 的 てき 手法 しゅほう に対 たい して形式 けいしき 的 てき に抗議 こうぎ しただけで、合併 がっぺい を既成 きせい 事実 じじつ として認 みと めざるを得 え なかった。また、1940年 ねん 2月 がつ 、反 はん 独 どく で知 し られ、のちに義父 ぎふ ムッソリーニ の命令 めいれい で処刑 しょけい されたチアノ 伊 い 外相 がいしょう は、ルーズベルト 米 べい 大統領 だいとうりょう の特使 とくし として欧州 おうしゅう に派遣 はけん されたサムナー・ウェルズ 国務 こくむ 次官 じかん に対 たい して、オーストリア併合 へいごう については大 おお きな誤解 ごかい があり、オーストリア人 じん の大半 たいはん はドイツの一部 いちぶ として生 い きることを望 のぞ んでいると述 の べたうえで、シュシュニック首相 しゅしょう もオーストリア占領 せんりょう 前 まえ にローマを訪 おとず れた際 さい 、「もしドイツがオーストリアを占領 せんりょう したら、オーストリア人 じん の大半 たいはん は占領 せんりょう を支持 しじ するだろうし、もしイタリアが占領 せんりょう を防 ふせ ぐためにオーストリアに軍 ぐん を派遣 はけん したら、オーストリア人 じん は一体 いったい となってドイツ人 じん と一緒 いっしょ にイタリアと戦 たたか っただろう」と認 みと めていたと付 つ け加 くわ えた[ 172] 。
オーストリアを支配 しはい 下 か に入 い れたヒトラーは続 つづ いて、第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 後 ご に誕生 たんじょう した多 た 民族 みんぞく の人工 じんこう 国家 こっか で、東方 とうほう 進出 しんしゅつ への障害 しょうがい であるチェコスロバキア (チェコ系 けい 650万 まん 、ドイツ系 けい 325万 まん 、スロバキア系 けい 300万 まん 、ハンガリー系 けい 70万 まん 、ウクライナ系 けい 50万 まん 、ポーランド系 けい 6万 まん )を狙 ねら い、まずドイツ系 けい 住民 じゅうみん がほとんどを占 し めるズデーテン地方 ちほう を併合 へいごう しようとした。1919年 ねん のベルサイユ会議 かいぎ では、ウィルソン の民族 みんぞく 自決 じけつ の原則 げんそく に反 はん して、西部 せいぶ ボヘミア ではドイツ系 けい の多 おお いスデーテン地方 ちほう 、北部 ほくぶ モラヴィア ではポーランド の炭鉱 たんこう 地帯 ちたい 、南部 なんぶ ハンガリー方面 ほうめん ではダニューブ川 がわ 流域 りゅういき 、東部 とうぶ はウクライナ 南部 なんぶ にあたる地域 ちいき がチェコスロバキア領 りょう に含 ふく まれた。チェコスロバキア政府 せいふ は、民族 みんぞく 独自 どくじ の教育 きょういく の容認 ようにん 、信教 しんきょう の自由 じゆう 、人口 じんこう に比例 ひれい した議員 ぎいん 数 すう など少数 しょうすう 民族 みんぞく への配慮 はいりょ を約束 やくそく し、スイスのように民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の構築 こうちく の礎 いしずえ になると約束 やくそく したが、人口 じんこう の25%に相当 そうとう するドイツ系 けい 、あるいはそれに匹敵 ひってき するスロバキア 系 けい やマジャール 系 けい が議会 ぎかい で発言 はつげん 権 けん を持 も つことを防 ふせ ぐために、選挙 せんきょ 区割 くわ りをチェコ人 じん 有利 ゆうり に変更 へんこう し、500万 まん を超 こ えるドイツ系 けい やマジャール系 けい などの民族 みんぞく は、国会 こっかい で一 ひと つの議席 ぎせき も持 も てなかった。彼 かれ らの要求 ようきゅう はチェコ系 けい によってことごとく無視 むし された。チェコスロバキアのサンジェルマン条約 じょうやく 不履行 ふりこう の結果 けっか 、同 どう 国内 こくない の各 かく 民族 みんぞく の不満 ふまん が高 こう じた。特 とく にズデーテン地方 ちほう のドイツ系 けい の憤懣 ふんまん は大 おお きかった[ 174] 。世界 せかい 同時 どうじ 不 ふ 況 きょう が始 はじ まると、ドイツ系 けい 住民 じゅうみん が多 おお い地域 ちいき では失業 しつぎょう 者 しゃ ばかりになったが、ドイツ系 けい 失業 しつぎょう 者 しゃ への手当 てあて は、チェコ系 けい に比 くら べてかなり少 すく ない額 がく であった。1935年 ねん から36年 ねん にかけて成立 せいりつ した法律 ほうりつ で、チェコ系 けい が公務員 こうむいん を占 し めることが多 おお くなり、ドイツ系 けい 住民 じゅうみん の地域 ちいき にもチェコ系 けい の警官 けいかん が配置 はいち された。イギリス政府 せいふ は6年 ねん にわたってチェコスロバキア政府 せいふ に警告 けいこく を続 つづ け、1937年 ねん 末 まつ には、ドイツ系 けい 住民 じゅうみん への配慮 はいりょ が必要 ひつよう だ、そうでなければ物理 ぶつり 的 てき な衝突 しょうとつ が起 お きると強 つよ い警告 けいこく を発 はっ した。1938年 ねん 5月 がつ には、突然 とつぜん チェコスロバキアが軍 ぐん を動員 どういん し、チェコ人 じん 警官 けいかん がスデーテン地方 ちほう で、誰何 すいか に答 こた えなかったドイツ系 けい の二人 ふたり の男 おとこ を射殺 しゃさつ する事件 じけん が発生 はっせい した。1920年 ねん から1938年 ねん にかけて、少数 しょうすう 派 は となった民族 みんぞく は国際 こくさい 連盟 れんめい に請願 せいがん を繰 く り返 かえ した。そのうえ、1935年 ねん 5月 がつ にはチェコスロバキアはソビエト と相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく を締結 ていけつ していた。
1937年 ねん 12月、ヒトラーは時期 じき を特定 とくてい することなく、チェコスロバキア 侵攻 しんこう 「緑 みどり 」作戦 さくせん の準備 じゅんび を命 めい じ、1938年 ねん 4月 がつ 21日 にち 、国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 総長 そうちょう のヴィルヘルム・カイテル に作戦 さくせん 具体 ぐたい 化 か を指示 しじ し、1938年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、カイテルは計画 けいかく を提出 ていしゅつ した。ただし、チェコスロバキア側 がわ からの挑発 ちょうはつ がない限 かぎ り、軍事 ぐんじ 行動 こうどう は行 おこな わないこととされた。まさにその5月20日 にち 、ドイツ軍 ぐん が動員 どういん され、チェコスロバキア国境 こっきょう に進軍 しんぐん したとして、チェコスロバキア軍 ぐん が動員 どういん されて戦闘 せんとう 態勢 たいせい に入 はい った。各国 かっこく で戦争 せんそう の危機 きき が大々的 だいだいてき に報道 ほうどう され、チェコスロバキアを挑発 ちょうはつ したとして、ドイツ批判 ひはん の大 だい 合唱 がっしょう となったが、実際 じっさい には、ドイツの主張 しゅちょう 通 どお り、ドイツ軍 ぐん 動員 どういん の事実 じじつ はなく、対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は のチェコスロバキア大統領 だいとうりょう エドヴァルド・ベネシュ 主導 しゅどう で捏造 ねつぞう された偽 にせ 情報 じょうほう であったため、何 なに も生 しょう じず、騒動 そうどう は終 お わった。ところがドイツ国外 こくがい では、ヒトラーの軍事 ぐんじ 的 てき 威嚇 いかく にチェコスロバキアが勇敢 ゆうかん にも立 た ち上 あ がったため、ヒトラーが「屈服 くっぷく 」したと受 う け取 と られた。ベネシュ大統領 だいとうりょう は英 えい 仏 ふつ の対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は と連携 れんけい しており、イギリス対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ であるチャーチル は偽 にせ 情報 じょうほう に基 もと づくチェコスロバキアとドイツの関係 かんけい 悪化 あっか を激化 げきか させるために、反 はん 独 どく の論陣 ろんじん を張 は った。ベネシュ大統領 だいとうりょう の挑発 ちょうはつ で面目 めんぼく 丸 まる つぶれとなったヒトラーは、5月28日 にち 、軍 ぐん 首脳 しゅのう とリッベントロップ 外相 がいしょう らにチェコスロバキア攻撃 こうげき の決意 けつい を明 あき らかにし、5月30日 にち にチェコスロバキア侵攻 しんこう 計画 けいかく が決定 けってい され、期限 きげん は1938年 ねん 10月 がつ 1日 にち とされた。ヘンダーソン 英 えい 駐 ちゅう 独 どく 大使 たいし はのちに、偽 にせ 情報 じょうほう に基 もと づきチェコスロバキアの「5月 がつ 21日 にち の勝利 しょうり 」を喧伝 けんでん した報道 ほうどう が、ヒトラーに武力 ぶりょく 解決 かいけつ を決断 けつだん させるとともに、チェコスロバキアを致命 ちめい 的 てき に過信 かしん させ、ズデーテン・ドイツ人 じん の要求 ようきゅう を受 う け入 い れないように仕向 しむ けることになったと厳 きび しく批判 ひはん している。また、イギリスの対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は ジャーナリストのシーラ・ダフ も、「これはベネシュによる意図 いと 的 てき な挑発 ちょうはつ であり、それに対 たい し彼 かれ はどれだけの犠牲 ぎせい を払 はら わねばならなくなったのか、私 わたし はすぐに知 し ることとなった」と記 しる している[ 176] 。
1938年 ねん に入 はい ると、西部 せいぶ ズデーテン地方 ちほう のドイツ系 けい 住民 じゅうみん はドイツへの編入 へんにゅう に向 む けて実力 じつりょく 行使 こうし に出 で た。1938年 ねん 9月 がつ 12日 にち から13日 にち には、ヒトラーはズデーテン地方 ちほう のナチス党 とう 指導 しどう 者 しゃ コンラート・ヘンライン に蜂起 ほうき を促 うなが し、ドイツとの併合 へいごう を主張 しゅちょう させた。チェコスロバキア政府 せいふ は戒厳 かいげん 令 れい の施行 しこう で対抗 たいこう した。この状況 じょうきょう をみたイギリス の首相 しゅしょう ネヴィル・チェンバレン は9月15日 にち 、ヒトラーと会談 かいだん し、チェコスロバキア政府 せいふ との事前 じぜん 交渉 こうしょう なしで、ドイツ系 けい 住民 じゅうみん が5割 わり を超 こ える地域 ちいき のドイツ編入 へんにゅう を容認 ようにん し、フランスにもそれを納得 なっとく させると約束 やくそく した。9月22日 にち 、チェンバレンは英 えい 仏 ふつ は9月15日 にち の約束 やくそく を承認 しょうにん したと伝 つた えたが、ヒトラーはハードルを上 あ げてズデーテン地方 ちほう 全域 ぜんいき の併合 へいごう を要求 ようきゅう したため、交渉 こうしょう は決裂 けつれつ した。チェコスロバキア、ドイツ、イギリス、フランスは臨戦 りんせん 態勢 たいせい に入 はい った。チェコスロバキアと同盟 どうめい 関係 かんけい にあるソ連 それん はすでに西部 せいぶ 国境 こっきょう に赤軍 せきぐん を終結 しゅうけつ させていた。武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ は避 さ けられないと思 おも われたが、チェンバレン英 えい 首相 しゅしょう とルーズベルト米 べい 大統領 だいとうりょう に要請 ようせい されたムッソリーニ伊 い 首相 しゅしょう が、英 えい 仏 ふつ 独 どく 伊 い 首脳 しゅのう が一堂 いちどう に会 かい し、平和 へいわ 的 てき に問題 もんだい を解決 かいけつ することを提案 ていあん し、ヒットラーは受 う け入 い れた。1938年 ねん 9月 がつ 29日 にち 、ヒトラーはイギリス首相 しゅしょう ネヴィル・チェンバレン 、フランス首相 しゅしょう エドゥアール・ダラディエ 、イタリア首相 しゅしょう ムッソリーニを招 まね いてミュンヘン会談 かいだん を行 おこな い、チェコスロバキアの意志 いし とは無関係 むかんけい にズデーテン地方 ちほう をドイツに譲 ゆず ることが確定 かくてい した。イギリスとフランスからも屈服 くっぷく を要求 ようきゅう されたチェコスロバキアはズデーテンを差 さ し出 だ すしかなかった。ヒトラーは合意 ごうい が成立 せいりつ するとチェンバレンと二 に 人 にん きりで秘密 ひみつ 会談 かいだん に臨 のぞ み、「ドイツ総統 そうとう と英国 えいこく 首相 しゅしょう はミュンヘン協定 きょうてい と英 えい 独 どく 海軍 かいぐん 協定 きょうてい こそが両国 りょうこく が二度 にど と戦 たたか うことはないという証 あかし であると認 みと めた」ということを明記 めいき した、独 どく 英 えい 友好 ゆうこう をうたう書面 しょめん に署名 しょめい した[ 178] 。
イギリスの歴史 れきし 教育 きょういく サイト[ 179] は、チェンバレンが対 たい 独 どく 宥和 ゆうわ の代名詞 だいめいし となったミュンヘン協定 きょうてい を結 むす んだ背景 はいけい に次 つぎ の6点 てん を挙 あ げている。
英 えい 国民 こくみん はチェコスロバキアの領土 りょうど をめぐって参戦 さんせん することに同意 どうい しなかっただろうこと
ヒトラーの要求 ようきゅう の多 おお くが正当 せいとう であると思 おも われていたこと
チェンバレンは、ドイツがソビエト共産 きょうさん 主義 しゅぎ の防波堤 ぼうはてい になるためにはそれなりの強国 きょうこく になる必要 ひつよう があると考 かんが えたこと
英国 えいこく 陸軍 りくぐん は戦 たたか う準備 じゅんび ができていなかったこと
ヒトラーはドイツ経済 けいざい を成長 せいちょう させていただけに、多 おお くの人々 ひとびと がヒトラーに良 よ い意味 いみ で驚嘆 きょうたん していたこと(1938年 ねん のタイム誌 し はヒトラーを「Man of The Year」に選出 せんしゅつ していた)
チェンバレンは先 さき の大戦 たいせん の悲惨 ひさん さが身 み に染 し みていたこと
当時 とうじ のヨーロッパ各国 かっこく は戦争 せんそう が回避 かいひ できたことを素直 すなお に喜 よろこ んだ。そのことは帰国 きこく したチェンバレンをロンドン市民 しみん が熱狂 ねっきょう 的 てき に歓迎 かんげい したことからもわかる。
1938年 ねん 10月 がつ 2日 にち 、スデーテン地方 ちほう 併合 へいごう の混乱 こんらん に乗 じょう じて、ポーランド はチェコスロバキアに侵攻 しんこう し、チェシン を併合 へいごう した。チェコスロバキアに領土 りょうど を奪取 だっしゅ された恨 うら みがあったハンガリー も、ルテニア 地方 ちほう の町 まち コシス (現 げん スロバキア )を奪 うば った。少数 しょうすう 民族 みんぞく の圧力 あつりょく を軽減 けいげん するためチェコスロバキアは、スロバキア(スロバク系 けい )、カルパチア・ルテニア (マジァール系 けい ・ウクライナ系 けい )の自治 じち を認 みと めた。
自由 じゆう 都市 とし ダンツィヒ は国際 こくさい 連盟 れんめい 保護 ほご 下 か に置 お かれ、実質 じっしつ 的 てき な経済 けいざい 運営 うんえい はポーランドが担 にな っていたが、人口 じんこう の95%にあたる35万 まん のドイツ系 けい 住民 じゅうみん はドイツへの帰属 きぞく を求 もと める運動 うんどう を活発 かっぱつ 化 か させていた。また、ドイツとダンツィヒを分断 ぶんだん するポーランド回廊 かいろう にもドイツへの復帰 ふっき を求 もと める150万 まん のドイツ系 けい 住民 じゅうみん がいた。ヒトラーは内政 ないせい 上 じょう 、ダンツィヒとポーランド回廊 かいろう 問題 もんだい を放置 ほうち することはできなかった。ヒトラーはミュンヘン協定 きょうてい の交渉 こうしょう でズデーテン地方 ちほう 併合 へいごう がドイツ最後 さいご の要求 ようきゅう であると各国 かっこく 指導 しどう 者 しゃ に説明 せつめい しており、1934年 ねん 1月 がつ に期限 きげん 10年 ねん の独 どく 波 は 不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ していたポーランドとの領土 りょうど 回復 かいふく 交渉 こうしょう は、二 に 国 こく 間 あいだ の円満 えんまん な合意 ごうい によって解決 かいけつ したいと考 かんが えていた。
1938年 ねん 10月24日 にち 、ドイツの外相 がいしょう ヨアヒム・フォン・リッベントロップ はポーランド駐 ちゅう 独 どく 大使 たいし ヨーゼフ・リプスキ に「ダンツィヒのドイツ返還 へんかん を容認 ようにん し、同市 どうし へのアクセスルートとなる道路 どうろ および鉄道 てつどう をポーランド回廊 かいろう 内 ない に施設 しせつ することに同意 どうい してほしい。その代 か わり、ダンツィヒの経済 けいざい インフラストラクチャーおよび鉄道 てつどう 施設 しせつ についてはポーランドがこのまま管理 かんり 権限 けんげん をもっても構 かま わない。現行 げんこう のポーランド国境 こっきょう についてはそれを認 みと める。この問題 もんだい が解決 かいけつ でき次第 しだい 、独 どく 波 は 反共 はんきょう 同盟 どうめい を結 むす びたい」と提案 ていあん した。ヒトラーもリッベントロップもこの提案 ていあん をポーランドが容認 ようにん するはずだとの自信 じしん があったが、ポーランドの外相 がいしょう ユゼフ・ベック はこの提案 ていあん を拒否 きょひ した。
1938年 ねん 11月7日 にち 、ポーランドから逃 のが れてきたユダヤ人 じん の青年 せいねん ヘルシェル・グリュンシュパン がパリのドイツ大使館 たいしかん を訪 おとず れ、三 さん 等 とう 書記官 しょきかん エルンスト・フォム・ラート を射殺 しゃさつ した。この事件 じけん をきっかけにユダヤ人 じん に対 たい する略奪 りゃくだつ と暴行 ぼうこう が起 お こった(水晶 すいしょう の夜 よる )。11月13日 にち 、ドイツ政府 せいふ はドイツ国内 こくない のユダヤ人 じん に対 たい し連帯 れんたい 責任 せきにん として10億 おく マルクの罰金 ばっきん を科 か した。さらにすべてのユダヤ人 じん 生徒 せいと を高校 こうこう 、大学 だいがく から追放 ついほう し、ユダヤ人 じん が特定 とくてい の職業 しょくぎょう に就 つ くことを禁 きん じた。ユダヤ人 じん の映画 えいが 館 かん 、劇場 げきじょう 、博物館 はくぶつかん 、コンサート、講演 こうえん 会 かい への立 た ち入 い りが禁止 きんし され、運転 うんてん 免許 めんきょ も没収 ぼっしゅう された。ユダヤ人 じん 隔離 かくり を徹底 てってい させる命令 めいれい も出 で た。アメリカ の大統領 だいとうりょう ルーズベルトはドイツ政府 せいふ の措置 そち を厳 きび しく批判 ひはん し、ドイツ情勢 じょうせい のき取 きと りを理由 りゆう に駐 ちゅう 独 どく 大使 たいし ヒュー・ウィルソン を召還 しょうかん した。ドイツはこれに反発 はんぱつ してディークホフ駐米 ちゅうべい 大使 たいし を召還 しょうかん し、1938年 ねん 4月 がつ にドイツが合併 がっぺい したオーストリアの対外 たいがい 債務 さいむ の継承 けいしょう を拒 こば んで以来 いらい こじれていた米 べい 独 どく 関係 かんけい はさらに悪化 あっか した[ 181] 。
1938年 ねん 12月6日 にち 、仏 ふつ 独 どく 友好 ゆうこう 協定 きょうてい が調印 ちょういん され、フランスはヒトラーの東方 とうほう への拡張 かくちょう 計画 けいかく に同意 どうい する態度 たいど をとった[ 182] 。
1939年 ねん 1月 がつ 5日 にち 、ヒトラーはポーランドの外相 がいしょう ユゼフ・ベック をベルヒテスガーデン に招 まね き直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう に臨 のぞ んだ。ヒトラーの要求 ようきゅう は、イギリスの歴史 れきし 家 か ベイジル・リデル=ハート が驚 おどろ くほど穏健 おんけん なものであったと書 か くほどであったが、ベックはドイツの提案 ていあん をすべて拒否 きょひ した。独 どく 外相 がいしょう リッベントロップ とベックはこの案件 あんけん について、1月 がつ 6日 にち にベルリン で、1月 がつ 25日 にち から27日 にち にかけてワルシャワ で話 はな し合 あ ったが、何 なん の進捗 しんちょく もなかった。3月になって、ヒトラーはベックとミュンヘンで会談 かいだん し、ポーランドに格別 かくべつ の配慮 はいりょ を見 み せたが、ベックはヒトラーの示 しめ した条件 じょうけん をただちに拒否 きょひ した。こうしてヒトラーが期待 きたい するダンツィヒ・ポーランド回廊 かいろう 問題 もんだい の外交 がいこう 的 てき 処理 しょり は暗礁 あんしょう に乗 の り上 あ げた[ 184] 。
1939年 ねん 1月 がつ 21日 にち 、ヒトラーはチェコスロバキア外相 がいしょう フランティシェク・フヴァルコフスキー をベルリンに呼 よ び、チェコスロバキアはただちに国際 こくさい 連盟 れんめい を脱退 だったい すること、その外交 がいこう をナチス政権 せいけん の要求 ようきゅう に沿 そ ったものにすること、陸軍 りくぐん を縮小 しゅくしょう することを要求 ようきゅう した[ 185] 。
1939年 ねん 2月 がつ 、アメリカ駐 ちゅう 仏 ふつ 大使 たいし ウィリアム・ブリット はポーランドの駐 ちゅう 仏 ふつ 大使 たいし ユリウシュ・ウカシェヴィチ に対 たい して、「戦 たたか いが始 はじ まればアメリカはすぐにでも英 えい 仏 ふつ の側 がわ に立 た って参戦 さんせん する」と語 かた り、アメリカ大統領 だいとうりょう の決意 けつい を伝 つた えた。
1939年 ねん 3月 がつ になると、チェコスロバキアの少数 しょうすう 民族 みんぞく の動 うご きが激 はげ しくなったため、3月7日 にち 、前年 ぜんねん 11月 がつ 30日 にち に就任 しゅうにん した大統領 だいとうりょう エミール・ハーハ は、独立 どくりつ を主張 しゅちょう するルテニア自治 じち 政府 せいふ を解散 かいさん させ、3月 がつ 10日 とおか 、同 おな じく独立 どくりつ を主張 しゅちょう するスロバキア自治 じち 政府 せいふ の首相 しゅしょう ヨゼフ・ティソ を解任 かいにん し、スロバキアの首都 しゅと ブラチスラヴァ を占領 せんりょう した。ティソはウィーンに脱出 だっしゅつ し、3月13日 にち にヒトラーと会談 かいだん した。翌 よく 14日 にち 、スロバキアはチェコスロバキアからの独立 どくりつ を宣言 せんげん し、ルテニアもカルパト・ウクライナ として独立 どくりつ を宣言 せんげん した。ハンガリー王国 おうこく はヒトラーの容認 ようにん を受 う けてルテニアに侵攻 しんこう した。ハーハはチェコ系 けい が多数 たすう 派 は のボヘミア 、モラヴィア の安全 あんぜん 保障 ほしょう を考 かんが えなくてはならなくなった。3月15日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 、ハーハ大統領 だいとうりょう とヒトラーの交渉 こうしょう がベルリンで始 はじ まり、午前 ごぜん 4時 じ 、ハーハはチェコ民族 みんぞく とその国家 こっか をドイツの保護 ほご 下 か に委 ゆだ ねる書面 しょめん に署名 しょめい した。この日 ひ 、ヒトラーはプラハ に入 はい った。
ヒトラーの指示 しじ により傀儡 かいらい 国家 こっか のスロバキア共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ し、チェコはドイツの保護 ほご 領 りょう 「ベーメン・メーレン保護 ほご 領 りょう 」となった(チェコスロバキア併合 へいごう )。この直後 ちょくご の1939年 ねん 3月 がつ 23日 にち には、1923年 ねん にリトアニア によって占領 せんりょう されたメーメル を返還 へんかん させることにも成功 せいこう している。
3月15日 にち 、アメリカの大統領 だいとうりょう ルーズベルト はイギリスの外相 がいしょう ハリファックス に対 たい して、イギリスがその対 たい 独 どく 外交 がいこう 方針 ほうしん を変更 へんこう しなければ、米国 べいこく 世論 せろん は反 はん 英 えい に傾 かたむ くと脅 おど し、ドイツから英 えい 大使 たいし を召還 しょうかん することまで要求 ようきゅう した。英 えい 首相 しゅしょう チェンバレンは米 べい 大統領 だいとうりょう やチャーチル らの対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は から圧力 あつりょく を受 う けて、それまでの対 たい 独 どく 宥和 ゆうわ 外交 がいこう から対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 外交 がいこう に変更 へんこう し、3月31日 にち 、ポーランドの独立 どくりつ 保障 ほしょう 宣言 せんげん をした。フランスも追随 ついずい した。一方 いっぽう ポーランドは、アメリカやイギリスから圧力 あつりょく を受 う けて対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 姿勢 しせい を取 と った。その結果 けっか 、ヒトラーがダンツィヒ・ポーランド回廊 かいろう 問題 もんだい を外交 がいこう 交渉 こうしょう によって解決 かいけつ する道 みち は閉 と ざされた。4月13日 にち には、イギリスはフランスとともに、ギリシャとルーマニアにも軍事 ぐんじ 援助 えんじょ を約束 やくそく した[ 188] 。
4月 がつ 28日 にち 、憤 いきどお ったヒトラーは独 どく 英 えい 海軍 かいぐん 協定 きょうてい と独 どく 波 は 不可侵 ふかしん 条約 じょうやく の破棄 はき を発表 はっぴょう した。しかし、ヒトラーはポーランドとの外交 がいこう 交渉 こうしょう を諦 あきら めておらず、「ドイツとポーランドが新 あたら しい合意 ごうい に至 いた るドアはまだ開 ひら いている。両国 りょうこく が対等 たいとう な立場 たちば であることを前提 ぜんてい に、そのような合意 ごうい がなることを歓迎 かんげい したい」と訴 うった えた。5月5日 にち 、英 えい 仏 ふつ の独立 どくりつ 保障 ほしょう を得 え たポーランドのベックは議会 ぎかい 演説 えんぜつ で、ドイツとの交渉 こうしょう を拒絶 きょぜつ すると言明 げんめい した。それでもドイツは諦 あきら めず、ドイツメディアに反発 はんぱつ させないようにさせた。「ドイツは英 えい 仏 ふつ 両国 りょうこく がポーランドに対 たい して圧力 あつりょく をかけ、交渉 こうしょう 再開 さいかい させるだろうと思 おも っている。ダンツィヒ帰属 きぞく 問題 もんだい をめぐってヨーロッパが戦争 せんそう する価値 かち などないことぐらいすぐにわかるだろう。それがドイツの考 かんが えである」とフランス駐 ちゅう 独 どく 大使 たいし は本省 ほんしょう に報告 ほうこく した。しかしポーランドの対 たい 独 どく 交渉 こうしょう 拒否 きょひ の姿勢 しせい は変 か わらなかった。
4月 がつ 以降 いこう 、英 えい 仏 ふつ 両国 りょうこく はソビエト と三 さん 国 こく 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい 締結 ていけつ のための交渉 こうしょう を続 つづ けていた。英 えい 仏 ふつ ソ三 さん 国 こく 同盟 どうめい が締結 ていけつ されれば、ドイツを牽制 けんせい できることは確実 かくじつ だった。同盟 どうめい の政治 せいじ 的 てき 条件 じょうけん についての詰 つ めは7月 がつ 末 まつ に終 お わり、軍事 ぐんじ 面 めん での条件 じょうけん を詰 つ める作業 さぎょう だけになっていた。8月11日 にち 、英 えい 仏 ふつ 代表 だいひょう 団 だん はモスクワ に入 はい ったが、交渉 こうしょう は一向 いっこう に進捗 しんちょく せず、8月 がつ 21日 にち に無 む 期限 きげん 延期 えんき となった。英 えい 仏 ふつ 軍事 ぐんじ 使節 しせつ 団 だん は貨客船 かきゃくせん で11日間 にちかん かけてソ連 それん 入 い りした後 のち 、レニングラード からモスクワまで6日 にち かけて移動 いどう していた。しかも、使節 しせつ 団 だん を率 ひき いたのは、英 えい 仏 ふつ 両 りょう 軍 ぐん の中 なか でも地位 ちい の低 ひく い人物 じんぶつ で、ソ連 それん 側 がわ が要求 ようきゅう した政府 せいふ 高官 こうかん の派遣 はけん は英 えい 政府 せいふ によって拒絶 きょぜつ されていた[ 191] 。
独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく に調印 ちょういん するソ連 それん 外相 がいしょう モロトフ 。後列 こうれつ の右 みぎ から2人 ふたり 目 め はスターリン
フランス代表 だいひょう との降伏 ごうぶく 調印 ちょういん 式 しき に出席 しゅっせき したヒトラー(1940年 ねん )
ドイツを訪問 ほうもん した日本 にっぽん の外相 がいしょう 松岡 まつおか 洋右 ようすけ と共 とも に(1941年 ねん )
ヒトラーは夏 なつ 頃 ごろ までに交渉 こうしょう が妥結 だけつ しなければポーランド に軍事 ぐんじ 作戦 さくせん を行 おこな うこととし、3月31日 にち に完成 かんせい したポーランド侵攻 しんこう 作戦 さくせん 「白 しろ 作戦 さくせん (ドイツ語 ご : Fall Weiß )」の政治 せいじ 条項 じょうこう を自 みずか ら手書 てが きで書 か き込 こ んでいるが、その中 なか でも戦争 せんそう をポーランド戦 せん だけに局限 きょくげん することを目標 もくひょう としていた。そのためにも英 えい 仏 ふつ の戦争 せんそう 参加 さんか を思 おも いとどまらせる方策 ほうさく が必要 ひつよう であり、また英 えい 仏 ふつ と戦争 せんそう になった場合 ばあい 、ソビエトが英 えい 仏 ふつ 側 がわ に立 た って参戦 さんせん する可能 かのう 性 せい も考 かんが えられ、二 に 正面 しょうめん 作戦 さくせん を避 さ けるために、かねてから敵 てき と公言 こうげん していたソ連 それん との接触 せっしょく を水面 すいめん 下 か で開始 かいし した。
5月3日 にち 、ユダヤ人 じん で英 えい 仏 ふつ との集団 しゅうだん 安全 あんぜん 保障 ほしょう を主張 しゅちょう していたソ連 それん 外相 がいしょう マクシム・リトヴィノフ が罷免 ひめん されると、ヒトラーはスターリン が本気 ほんき でドイツとの関係 かんけい 改善 かいぜん を考慮 こうりょ していることを理解 りかい した。独 どく ソの関係 かんけい 改善 かいぜん の交渉 こうしょう は、最初 さいしょ は経済 けいざい 協力 きょうりょく という名目 めいもく で進 すす められ、8月 がつ 19日 にち には独 どく ソ間 あいだ で経済 けいざい 協力 きょうりょく 協定 きょうてい が締結 ていけつ された。8月16日 にち 、英 えい 仏 ふつ の代表 だいひょう とスターリンのモスクワでの交渉 こうしょう に焦 あせ りを募 つの らせていた独 どく 外相 がいしょう リッベントロップ は「ドイツはソ連 それん と不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ し、もしソ連 それん 政府 せいふ が希望 きぼう するなら、その期限 きげん を25年間 ねんかん とする用意 ようい がある。ドイツ外相 がいしょう は8月 がつ 18日 にち の金曜 きんよう 以降 いこう 、総統 そうとう から委任 いにん された全権 ぜんけん を持 も っていつでも空路 くうろ でモスクワに飛 と ぶ準備 じゅんび ができている」というメッセージをソ連 それん 首相 しゅしょう 兼 けん 外相 がいしょう モロトフ に送 おく った。8月 がつ 20日 はつか 、モロトフは駐 ちゅう ソ独 どく 大使 たいし に、ソ連 それん 側 がわ で作成 さくせい した不可侵 ふかしん 条約 じょうやく の草案 そうあん を手渡 てわた した。同日 どうじつ 午後 ごご 4時 じ 30分 ふん 頃 ごろ 、ヒトラーは不可侵 ふかしん 条約 じょうやく の締結 ていけつ についてのソ連 それん 側 がわ の提案 ていあん を了承 りょうしょう するという電報 でんぽう をスターリン に届 とど けた。8月23日 にち 午後 ごご 4時 じ 過 す ぎ、独 どく 外相 がいしょう リッベントロップを乗 の せた飛行機 ひこうき がモスクワに到着 とうちゃく し、24日 にち 午前 ごぜん 2時 じ 頃 ごろ 、8月 がつ 23日 にち 付 づけ の独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく が調印 ちょういん され[ 191] 、世界 せかい を驚 おどろ かせた。この条約 じょうやく には、バルト諸国 しょこく はソビエトの勢力 せいりょく 範囲 はんい であること、ポーランドを独 どく ソで二 に 分割 ぶんかつ すること、ベッサラビア は1918年 ねん にソビエトが奪 うば われた領土 りょうど だと認 みと め、ドイツは同地 どうち に利権 りけん を主張 しゅちょう しないことという秘密 ひみつ 協定 きょうてい があった。
8月 がつ 22日 にち 、ヒトラーはベルヒテスガーデンの山荘 さんそう に国防 こくぼう 軍 ぐん の将軍 しょうぐん たちを集 あつ めて、ポーランドと戦争 せんそう する決意 けつい を語 かた り、イギリスとフランスは戦争 せんそう に介入 かいにゅう してこないであろうという楽観 らっかん 的 てき な見通 みとお しを述 の べた。開戦 かいせん の期日 きじつ はさしあたり8月 がつ 26日 にち とされた[ 194] 。8月24日 にち 、ヒトラーはポーランド侵攻 しんこう を命 めい じたが、多方面 たほうめん からの要請 ようせい で一旦 いったん 撤回 てっかい した。8月25日 にち 、ドイツ政府 せいふ は駐 ちゅう 独 どく イギリス大使 たいし に、ドイツの要求 ようきゅう は、ダンツィヒの回復 かいふく とポーランド回廊 かいろう 問題 もんだい の解決 かいけつ で十分 じゅうぶん であり、イギリスとの戦 たたか いは望 のぞ まないと伝 つた えた。
8月 がつ 29日 にち 午後 ごご 7時 じ 15分 ふん 、ドイツ政府 せいふ はネヴィル・ヘンダーソン 英 えい 駐 ちゅう 独 どく 大使 たいし に、イギリス政府 せいふ が改 あらた めてポーランド政府 せいふ に圧力 あつりょく をかけ対 たい 独 どく 直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう に臨 のぞ むよう指導 しどう してほしいこと、ポーランド政府 せいふ からの特使 とくし を8月 がつ 30日 にち にベルリンに来 きた させるようにしてほしいことが書 か かれた覚書 おぼえがき を届 とど けた。ドイツがポーランドに求 もと める最終 さいしゅう 条件 じょうけん は、「ダンツィヒはドイツが併合 へいごう する、ポーランド回廊 かいろう 地域 ちいき は住民 じゅうみん 投票 とうひょう によりポーランドからの分離 ぶんり の是非 ぜひ を決 き める、同 どう 回廊 かいろう へのアクセスはポーランド人 じん およびドイツ人 じん ともに認 みと める。また少数 しょうすう 民族 みんぞく の交換 こうかん も認 みと める。この条件 じょうけん をポーランドが認 みと めれば、軍 ぐん の動員 どういん を解除 かいじょ する」というものであった。ドイツは30日 にち にはポーランドが全 ぜん 軍 ぐん に動員 どういん をかけたことを確認 かくにん した。30日 にち になってイギリスがポーランドに交渉 こうしょう に応 おう じさせたと伝 つた えてきた。ドイツはポーランドにすぐに全権 ぜんけん 特使 とくし を送 おく るよう要請 ようせい したが、ポーランドは全権 ぜんけん 特使 とくし を派遣 はけん しなかった。31日 にち 、ユセフ・リプツキー 駐 ちゅう 独 どく ポーランド大使 たいし がリッベントロップを訪 おとず れ、ポーランドはドイツの要求 ようきゅう を考慮 こうりょ したいと伝 つた えたが、全権 ぜんけん 委任 いにん 状 じょう は持 も っていなかった。ドイツは31日 にち 午前 ごぜん 中 ちゅう まで待 ま った。
8月 がつ 31日 にち 午後 ごご 、ヒトラーは全 ぜん 軍 ぐん にポーランド侵攻 しんこう を命 めい じた。独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく 締結 ていけつ 直後 ちょくご の9月 がつ 1日 にち にソ連 それん との秘密 ひみつ 協定 きょうてい を元 もと にポーランド侵攻 しんこう を開始 かいし した。同 どう 9月 がつ 3日 にち にはこれに対 たい してイギリスとフランスがドイツへの宣戦 せんせん 布告 ふこく を行 おこな い、これによって第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が開始 かいし された。9月15日 にち にノモンハン事件 じけん の停戦 ていせん 協定 きょうてい を成立 せいりつ させたスターリンは、9月17日 にち にポーランド東部 とうぶ に侵攻 しんこう した。イギリスとフランスは、ソビエトには宣戦 せんせん 布告 ふこく しなかった。ドイツ軍 ぐん が独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく 秘密 ひみつ 付属 ふぞく 議定 ぎてい 書 しょ で定 さだ められたヴィスワ川 がわ を越 こ えて、首都 しゅと ワルシャワ を含 ふく むワルシャワ州 しゅう の一部 いちぶ とルブリン州 しゅう を占領 せんりょう したため、リッベントロップが9月27日 にち にモスクワを訪問 ほうもん し、9月28日 にち 付 づけ の独 どく ソ境界 きょうかい ならびに友好 ゆうこう 条約 じょうやく と秘密 ひみつ 付属 ふぞく 議定 ぎてい 書 しょ が調印 ちょういん された。10月中 ちゅう にポーランドはほぼ制圧 せいあつ され、ヒトラーの視線 しせん は西 にし に向 む かった。10月6日 にち 、ヒトラーは国会 こっかい 演説 えんぜつ で、英 えい 仏 ふつ 両国 りょうこく に和平 わへい を呼 よ び掛 か けたが、10月12日 にち 、英 えい 首相 しゅしょう チェンバレン は英 えい 下院 かいん で、ヒトラーの演説 えんぜつ にはチェコスロバキア とポーランドに加 くわ えられた不正 ふせい を正 ただ す何 なん の示唆 しさ も含 ふく まれていないことを指摘 してき し、ヒトラーの和平 わへい の申 もう し出 で を拒絶 きょぜつ した[ 196] 。
1939年 ねん 9月 がつ から1940年 ねん 4月 がつ までの6か月 げつ 間 あいだ はドイツと英 えい 仏 ふつ との間 あいだ で本格 ほんかく 的 てき な戦闘 せんとう はほとんど行 おこな われなかった。9月2日 にち 、イギリスの内務 ないむ 大臣 だいじん は「宣戦 せんせん 布告 ふこく が即 そく 戦闘 せんとう を意味 いみ するわけではない」という考 かんが えを明 あき らかにしており、英 えい 独 どく 間 あいだ には和平 わへい のための密使 みっし が激 はげ しく往来 おうらい していた。9月26日 にち 、ヒトラーは「もしイギリスが本当 ほんとう に和平 わへい を願 ねが っているのなら、彼 かれ らのメンツを潰 つぶ さずに、二 に 週間 しゅうかん 以内 いない に和平 わへい を達成 たっせい することができる。条件 じょうけん はドイツがポーランドにおいて完全 かんぜん な自由 じゆう を得 え ることを、イギリスが認 みと めることだ」と語 かた ったが、この条件 じょうけん はチェンバレンが受 う け入 い れることのできるものではなかった。英 えい 独 どく 高官 こうかん たちは何 なに とか全面 ぜんめん 対決 たいけつ は避 さ けようと秘密 ひみつ 交渉 こうしょう を続 つづ けたが、すべて失敗 しっぱい に終 お わった。5月10日 にち 、対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は のウィンストン・チャーチル がイギリス首相 しゅしょう になって、英 えい 独 どく 全面 ぜんめん 対決 たいけつ が始 はじ まった。
1939年 ねん 11月30日 にち 、ソ連 それん 軍 ぐん がフィンランドに侵攻 しんこう し、ソ連 それん ・フィンランド戦争 せんそう が始 はじ まった。ソ連 それん は苦戦 くせん し、死傷 ししょう 者 しゃ 47万 まん 人 にん を出 だ した。1940年 ねん 3月 がつ 12日 にち に和平 わへい 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、ソ連 それん はカレリア地峡 ちきょう とラドガ湖 こ 周辺 しゅうへん を獲得 かくとく した。フィンランドの死傷 ししょう 者 しゃ は17万 まん 人 にん といわれる。ソ連 それん 軍 ぐん の弱体 じゃくたい ぶりはヒトラーに多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えた[ 198] 。
1939年 ねん 12月16日 にち 、アメリカ からスカンジナビア 諸国 しょこく に戦火 せんか を広 ひろ げよという圧力 あつりょく を受 う けていたイギリスの戦時 せんじ 内閣 ないかく は、スウェーデン 産 さん 鉄鉱 てっこう 石 せき がノルウェー のナルヴィク 港 みなと からドイツに搬送 はんそう されるのを阻止 そし するために、ナルヴィク上陸 じょうりく 計画 けいかく を容認 ようにん した。1940年 ねん 2月 がつ 5日 にち 、連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 会議 かいぎ は、3個 こ 師団 しだん から4個 こ 師団 しだん をフィンランド方面 ほうめん に派遣 はけん することを決定 けってい した。1940年 ねん 4月 がつ 8日 にち 午前 ごぜん 4時半 じはん から5時 じ に、イギリス海軍 かいぐん はナルヴィク港西 みなとにし 方 かた のフィヨルド に機雷 きらい を設置 せっち した[ 199] 。
1940年 ねん 4月 がつ 9日 にち 、ヒトラーの命令 めいれい を受 う けたドイツ軍 ぐん は北 きた ヨーロッパのデンマーク とノルウェー への侵攻 しんこう を開始 かいし し、その日 ひ のうちにデンマークを無血 むけつ 占領 せんりょう し、ノルウェーは英 えい 仏 ふつ 連合 れんごう 軍 ぐん の支援 しえん を受 う けて抵抗 ていこう したが、6月 がつ 10日 とおか に降伏 ごうぶく した(北欧 ほくおう 侵攻 しんこう )[ 200] 。5月10日 にち ヒトラーはフェルゼンネスト(岩上 いわかみ の巣 す ) (ドイツ語 ご 版 ばん ) と呼 よ ばれる前線 ぜんせん 指揮 しき 所 しょ に移 うつ り、そこでベネルクス三 さん 国 こく とフランスへの侵攻 しんこう の指揮 しき をとった。ヒトラーはこれ以降 いこう 大半 たいはん を各地 かくち の前線 ぜんせん 指揮 しき 所 しょ で過 す ごすことになるが、この指揮 しき 所 しょ は総統 そうとう 大本営 だいほんえい と呼 よ ばれている。ヒトラーは作戦 さくせん の概要 がいよう だけではなく細部 さいぶ にも口 くち を出 だ し、ダンケルクの戦 たたか い では疲弊 ひへい した連合 れんごう 軍 ぐん の相手 あいて は空軍 くうぐん で十分 じゅうぶん と考 かんが え、5月24日 にち 、戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい による攻撃 こうげき を停止 ていし させた[ 201] 。ヒトラーはこの日 ひ 、「6週間 しゅうかん 以内 いない に世界 せかい に平和 へいわ がやってきて、私 わたし はイギリスと紳士 しんし 協定 きょうてい を結 むす んでいるであろう」とコメントしている。この判断 はんだん は災 わざわ いし、ダイナモ作戦 さくせん によって多 おお くの連合 れんごう 軍 ぐん 将兵 しょうへい の脱出 だっしゅつ を許 ゆる すこととなった。しかしフランス侵攻 しんこう 自体 じたい は順調 じゅんちょう に進 すす み、6月6日 にち にはヒトラーも前線 ぜんせん に近 ちか いベルギー南部 なんぶ のヴォルフスシュルフト(狼 おおかみ の谷 たに ) (ドイツ語 ご 版 ばん ) に移 うつ った。
このころイギリスに敗北 はいぼく 感 かん が漂 ただよ い、政権 せいけん 内部 ないぶ にすらヒトラーとの和平 わへい を求 もと める声 こえ が上 あ がっていたが、英 えい 首相 しゅしょう チャーチルは和平 わへい 交渉 こうしょう に断固 だんこ 反対 はんたい の立場 たちば を押 お し通 とお した。6月4日 にち 、チャーチルは下院 かいん で「イギリスは断固 だんこ 、最後 さいご まで戦 たたか い続 つづ ける」と語 かた った後 のち 、「新大陸 しんたいりく がその力 ちから をもって旧 きゅう 大陸 たいりく の救出 きゅうしゅつ と解放 かいほう に乗 の り出 だ してくるまで」とアメリカの参戦 さんせん を待 ま ち望 のぞ んだ。
6月14日 にち にドイツ軍 ぐん はパリ に無血 むけつ 入城 にゅうじょう 、6月16日 にち にはフィリップ・ペタン を首班 しゅはん とするフランス政府 せいふ がドイツに降伏 ごうぶく を申 もう し入 い れた[ 204] 。講和 こうわ 条約 じょうやく の調印 ちょういん は6月 がつ 21日 にち から翌 よく 22日 にち にかけてコンピエーニュの森 もり で行 おこな われた。会場 かいじょう には第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でドイツが降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ の調印 ちょういん した列車 れっしゃ が用意 ようい され、初日 しょにち にヒトラーは車内 しゃない に乗 の り込 こ みフランス代表 だいひょう との交渉 こうしょう に40分 ふん だけ立 た ち合 あ い[ 205] 、その後 ご パリ 市内 しない の視察 しさつ を行 おこな った。
7月 がつ 19日 にち 、ヒトラーはイギリスに最後 さいご の和平 わへい 提案 ていあん を行 おこな ったが、イギリスは直 ただ ちに拒否 きょひ し、ヒトラーは大 おお いに失望 しつぼう した。ドイツ海軍 かいぐん は、ノルウェー作戦 さくせん で巡洋艦 じゅんようかん 3、駆逐 くちく 艦 かん 10を沈 しず められ、巡 めぐ 洋 よう 戦艦 せんかん 2、駆逐 くちく 艦 かん 8が大破 たいは させられ、残 のこ された戦力 せんりょく は、重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん 2、軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 2、駆逐 くちく 艦 かん 4となり、ドーバー海峡 かいきょう を突破 とっぱ してイギリス本土 ほんど 上陸 じょうりく 作戦 さくせん を実施 じっし するのは不可能 ふかのう となったため[ 206] 、その後 ご の対 たい 英 えい 戦 せん ではヒトラーは空軍 くうぐん によって制空権 せいくうけん を獲得 かくとく した後 のち にイギリス上陸 じょうりく を考 かんが えていた(アシカ作戦 さくせん )。しかしバトル・オブ・ブリテン でドイツ空軍 くうぐん は撃退 げきたい され、イギリスの抗戦 こうせん 意思 いし はゆるがなかった。7月30日 にち 、ヒトラーは「ヨーロッパ大陸 たいりく 最後 さいご の戦争 せんそう 」である対 たい ソ戦 せん の開始 かいし を軍 ぐん 首脳 しゅのう 達 たち に告 つ げ、「ソ連 それん が粉砕 ふんさい されれば、英国 えいこく の最後 さいご の望 のぞ みも打破 だは される」[ 207] として対 たい ソ戦 せん の準備 じゅんび を命 めい じた。
一方 いっぽう で8月 がつ 30日 にち の第 だい 二 に 次 じ ウィーン裁定 さいてい とその後 ご のクラヨーヴァ条約 じょうやく でハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土 りょうど 問題 もんだい を調停 ちょうてい し、9月27日 にち には1937年 ねん に締結 ていけつ されていた日 にち 独 どく 伊 い 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい の強化 きょうか を画策 かくさく していた日本 にっぽん とイタリアとの3国 こく の間 あいだ で「日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 条約 じょうやく 」を結 むす ぶなど親 しん ドイツ諸国 しょこく と関係 かんけい を強化 きょうか し、枢軸 すうじく 国 こく を形成 けいせい しつつあった。しかし10月 がつ 22日 にち に行 おこな われたスペイン の独裁 どくさい 者 しゃ フランシスコ・フランコ との会談 かいだん は不調 ふちょう に終 お わり、味方 みかた に引 ひ き込 こ むことはできなかった[ 208] 。
1940年 ねん 8月 がつ 、ワシントン からの極秘 ごくひ 電報 でんぽう で、アメリカからイギリスへの駆逐 くちく 艦 かん 50隻 せき 提供 ていきょう の件 けん 進行 しんこう 中 ちゅう と伝 つた えられ、ヒトラーは1940年 ねん のうちはアメリカはおとなしくしているであろうという、アメリカの動 うご きに楽観 らっかん 的 てき な見解 けんかい を持 も っていたが、アメリカのイギリス支援 しえん は予想 よそう よりもはるかに迅速 じんそく かつ効果 こうか 的 てき な形 かたち で本格 ほんかく 化 か するであろうと確信 かくしん した。これに対抗 たいこう する手段 しゅだん は、日本 にっぽん をドイツの同盟 どうめい 国 こく として獲得 かくとく して、東 ひがし アジアと太平洋 たいへいよう でのアメリカに対 たい する強力 きょうりょく な重 おも しとして活用 かつよう することしかないと、ヒトラーは判断 はんだん した[ 209] 。9月9日 にち と10日 とおか 、独 どく 特使 とくし ハインリッヒ・シュターマー は東京 とうきょう で外相 がいしょう 松岡 まつおか 洋右 ようすけ と会談 かいだん し、まず日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 間 あいだ に同盟 どうめい 条約 じょうやく を成立 せいりつ させてその後 ご ただちにソ連 それん に接近 せっきん するのが良 よ い、日 にち ソの親善 しんぜん はドイツが仲介 ちゅうかい にはいる以上 いじょう たいした困難 こんなん なく実現 じつげん できる、独 どく ソ関係 かんけい は良好 りょうこう であるということを述 の べ、これはリッベントロップ 外相 がいしょう の言葉 ことば と受 う け取 と って差 さ し支 つか えないと保証 ほしょう した。7月19日 にち の荻窪 おぎくぼ 会談 かいだん 以来 いらい 、第 だい 二 に 次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく は独 どく 伊 い との提携 ていけい 強化 きょうか と日 にち ソ国交 こっこう の飛躍 ひやく 的 てき 改善 かいぜん を強 つよ く望 のぞ んでいたため、9月27日 にち 、ベルリンで日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい が調印 ちょういん された[ 210] 。
独 どく ソ関係 かんけい は1940年 ねん 6月 がつ 以降 いこう 、目立 めだ って悪化 あっか しつつあった。ソ連 それん は1940年 ねん 6月 がつ にバルト三 さん 国 こく を占領 せんりょう し、同年 どうねん 7月 がつ には併合 へいごう した。また同年 どうねん 6月 がつ にルーマニア のベッサラビア と北 きた ブコヴィナ を占領 せんりょう した。ソ連 それん がバルト海 ばるとかい やバルカン半島 ばるかんはんとう に進出 しんしゅつ したことはヒトラーを苛立 いらだ たせた。特 とく にブコヴィナは旧 きゅう オーストリア帝国 ていこく 領 りょう であったため、多数 たすう のドイツ人 じん が居住 きょじゅう しており、ソ連 それん の要求 ようきゅう を承認 しょうにん することはできないと回答 かいとう したが、ソ連 それん が、北部 ほくぶ に限 かぎ ると通告 つうこく してきたので、ドイツはやむなく承認 しょうにん したのであった。一方 いっぽう 、ドイツが戦争 せんそう を遂行 すいこう するためには、ルーマニアの石油 せきゆ が必要 ひつよう であった。ソ連 それん がルーマニアから領土 りょうど を奪 うば うと、ブルガリア もルーマニアのドブルジャ 地方 ちほう を要求 ようきゅう し、ハンガリー もトランシルヴァニア を要求 ようきゅう したため、同年 どうねん 8月 がつ 30日 にち 、ヒトラーはソ連 それん に何 なん の相談 そうだん もなしにウィーン裁定 さいてい を行 おこな った。しかも、ソ連 それん が南 みなみ ブコヴィナについて問 と い合 あ わせていたのに、ドイツは回答 かいとう せず、ヒトラーは10月12日 にち 、ドイツ軍 ぐん をルーマニアの首都 しゅと ブカレスト に進駐 しんちゅう させ、ルーマニアをドイツの軍事 ぐんじ 的 てき 支配 しはい 下 か に置 お いた。また、ドイツは9月2日 にち 、ソ連 それん にまったく相談 そうだん せずに、ドイツの軍隊 ぐんたい がフィンランド 国内 こくない を南 みなみ から北 きた へ通過 つうか してノルウェー のキルケネス へ向 む かうことを、フィンランドに承認 しょうにん させた。独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく の秘密 ひみつ 付属 ふぞく 議定 ぎてい 書 しょ でフィンランドはソ連 それん の勢力 せいりょく 範囲 はんい に入 はい ることが明記 めいき されており、ソ連 それん はドイツの処置 しょち に大 おお きな不満 ふまん を抱 だ いた[ 211] 。
独 どく ソ関係 かんけい を打開 だかい するために、1940年 ねん 11月12日 にち と13日 にち 、ヒトラーはソ連 それん 首相 しゅしょう 兼 けん 外相 がいしょう のモロトフ とベルリンで会談 かいだん を行 おこな った。フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、ブコヴィナとベッサラビア、ダーダネルス ・ボスポラス 両 りょう 海峡 かいきょう をめぐり、両者 りょうしゃ は真正面 ましょうめん から対立 たいりつ した。とくにフィンランドとルーマニアをめぐる対立 たいりつ は深刻 しんこく であった。またヒトラーは、日 にち ソ独 どく 伊 い 四国 しこく で大 だい 英 えい 帝国 ていこく の遺産 いさん を分割 ぶんかつ することに目 め を向 む けるべきだと述 の べたが、モロトフはそんな夢 ゆめ のような話 はなし より、ソ連 それん にとって切実 せつじつ なのはフィンランドとバルカンであると切 き り返 かえ した。11月13日 にち の第 だい 2回 かい の会談 かいだん では、モロトフはヒトラーの言葉 ことば に逐一 ちくいち 反論 はんろん し、ヒトラーを怒 おこ らせた。会談 かいだん 後 ご 、独 どく 外相 がいしょう リッペントロップが日 にち ソ独 どく 伊 い 四国 しこく 協定 きょうてい についての自分 じぶん の草案 そうあん を提示 ていじ すると、モロトフはモスクワに帰 かえ ってスターリンに相談 そうだん してから回答 かいとう すると約束 やくそく して、イギリス空軍 くうぐん の爆 ばく 撃 げき に脅 おびや かされていたベルリンをあとにした[ 212] 。
1940年 ねん 11月25日 にち 、スターリン はモロトフの約束 やくそく 通 どお り、ヒトラーへ回答 かいとう した。その内容 ないよう は、ソ連 それん 政府 せいふ はドイツ外相 がいしょう が示 しめ した日 にち ソ独 どく 伊 い 四国 しこく 協商 きょうしょう に、次 つぎ の4つの条件 じょうけん つきで加盟 かめい する準備 じゅんび があるというものであった。
ドイツ軍 ぐん は、1939年 ねん の独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく のとおりに、ソ連 それん の勢力 せいりょく 圏 けん に属 ぞく するフィンランド から即刻 そっこく 撤退 てったい せよ。ただし、フィンランドからドイツへの、木材 もくざい とニッケル の供給 きょうきゅう は、ソ連 それん が保障 ほしょう する。
ソ連 それん は、来 く る数 すう か月 げつ 以内 いない にブルガリア と相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく を結 むす び、また、ダーダネルス・ボスポラス両 りょう 海峡 かいきょう 地方 ちほう に、ソ連 それん の陸海 りくかい 軍 ぐん 基地 きち を設 もう ける。このことをドイツは了承 りょうしょう してほしい。
ソ連 それん の領土 りょうど 的 てき 希望 きぼう の中心 ちゅうしん は、バツーム およびバクー の南 みなみ からほぼペルシャ湾 ぺるしゃわん に至 いた る地域 ちいき に存 そん することを了承 りょうしょう してほしい。
日本 にっぽん は、北 きた 樺太 からふと における石油 せきゆ と石炭 せきたん の採掘 さいくつ 権 けん を放棄 ほうき すること。
ヒトラーはこの4条件 じょうけん を法外 ほうがい な要求 ようきゅう であると断定 だんてい して、独 どく ソ開戦 かいせん を決意 けつい し、12月18日 にち 、バルバロッサ作戦 さくせん 指令 しれい を発 はっ した。開戦 かいせん 予定 よてい 日 び は1941年 ねん 5月15日 にち であった。スターリンは1941年 ねん 2月 がつ 末 まつ までヒトラーの再 さい 回答 かいとう を要求 ようきゅう しつづけたが、同年 どうねん 3月 がつ 2日 にち 、ドイツ軍 ぐん はソ連 それん の狙 ねら っていたブルガリアに進駐 しんちゅう した。同年 どうねん 3月 がつ 27日 にち 、3月25日 にち に日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい に加盟 かめい したばかりのユーゴスラビア で反 はん 独 どく クーデターが起 お こり、4月 がつ 6日 にち 、ベオグラード の新 しん 政府 せいふ はソ連 それん と不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を結 むす び、独 どく ソ関係 かんけい は一層 いっそう 悪化 あっか した[ 213] 。
1941年 ねん 3月5日 にち 、ヒトラーは「三 さん 国 こく 同盟 どうめい をベースにした提携 ていけい で、日本 にっぽん を可能 かのう な限 かぎ り早 はや く極東 きょくとう での戦 たたか いに参戦 さんせん させなければならない。そうなれば英軍 えいぐん の相当 そうとう 部分 ぶぶん が極東 きょくとう にくぎ付 づ けになる。アメリカの関心 かんしん も太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん に移 うつ るだろう。今次 こんじ の戦 たたか いの大 だい 方針 ほうしん は、イギリスを早急 そうきゅう に敗北 はいぼく に導 みちび くこと、そして同時 どうじ にアメリカを参戦 さんせん させないことである」という秘密 ひみつ 指令 しれい を発 はっ した。同年 どうねん 3月 がつ 27日 にち 、ヒトラーは外相 がいしょう 松岡 まつおか とベルリンで会談 かいだん し、日本 にっぽん の対 たい 英 えい 戦争 せんそう の早期 そうき 参戦 さんせん を要請 ようせい したが、松岡 まつおか はコミットメントしなかった[ 214] 。
1941年 ねん 4月 がつ 6日 にち 、反 はん 独 どく クーデター鎮圧 ちんあつ のためにユーゴスラビア侵攻 しんこう を行 おこな うとともに、ギリシアを占領 せんりょう してバルカン半島 ばるかんはんとう を制圧 せいあつ し、北 きた アフリカ戦線 せんせん ではイギリス軍 ぐん の前 まえ に敗退 はいたい を続 つづ けていたイタリア軍 ぐん を援けて攻勢 こうせい に転 てん じた。
建造 けんぞう 中 ちゅう のヴォルフスシャンツェで撮影 さつえい されたヒトラーとその幕僚 ばくりょう たち(1940年 ねん 6月 がつ )
同年 どうねん 6月 がつ 22日 にち 、バルバロッサ作戦 さくせん が発動 はつどう し、ドイツ軍 ぐん はソ連 それん に侵攻 しんこう を開始 かいし した。ヒトラーは「作戦 さくせん は5か月 げつ 間 あいだ で終了 しゅうりょう する」[ 207] や「まず10週間 しゅうかん 」[ 215] と、先行 さきゆ きについてはきわめて楽観 らっかん 視 し していた。6月22日 にち に東 ひがし プロイセン に置 お かれた総統 そうとう 大本営 だいほんえい 「ヴォルフスシャンツェ 」に移 うつ り、1944年 ねん 11月20日 にち までの大半 たいはん をここで過 す ごすことになった。ヴォルフスシャンツェは防空 ぼうくう の観点 かんてん から森 もり の中 なか に置 お かれたために昼 ひる でも薄暗 うすぐら く、その影響 えいきょう で不眠症 ふみんしょう となったヒトラーは、深夜 しんや まで秘書 ひしょ や側近 そっきん を相手 あいて にして一方 いっぽう 的 てき に語 かた るようになった[ 216] 。また8月 がつ には胸 むね の痛 いた みを訴 うった えるようになり、冠状 かんじょう 動脈 どうみゃく 硬化 こうか 症 しょう を発症 はっしょう したことを知 し った主治医 しゅじい のテオドール・モレル は、ヒトラーにも秘密 ひみつ で心臓 しんぞう 病 びょう 薬 やく の投与 とうよ を始 はじ めた[ 217] 。
緒戦 しょせん は順調 じゅんちょう に進 すす み、完全 かんぜん な奇襲 きしゅう を受 う けて動揺 どうよう した赤軍 せきぐん を各地 かくち で撃破 げきは した。しかし7月 がつ にはヒトラーと軍 ぐん 首脳 しゅのう の間 あいだ で意見 いけん の相違 そうい が生 う まれた。軍 ぐん 首脳 しゅのう はモスクワ 攻略 こうりゃく を主張 しゅちょう したが、ヒトラーはウクライナ のドネツ 工業 こうぎょう 地帯 ちたい やレニングラード の攻略 こうりゃく を優先 ゆうせん させるよう命令 めいれい し[ 218] 、モスクワ方面 ほうめん への攻撃 こうげき を停止 ていし させた。ところが8月 がつ 末 まつ には気 き が変 か わり、再度 さいど モスクワ進撃 しんげき を命令 めいれい した。ドイツ軍 ぐん は進撃 しんげき を再開 さいかい したが、10月には早 はや くも冬 ふゆ が到来 とうらい し、降雪 こうせつ とラスプティツァ (泥濘 でいねい )が進撃 しんげき 速度 そくど と補給 ほきゅう を低下 ていか させた。そこに体勢 たいせい を立 た て直 なお した赤軍 せきぐん の反攻 はんこう が開始 かいし され、現場 げんば 指揮 しき 官 かん 達 たち の間 あいだ で一時 いちじ 後退 こうたい 論 ろん が高 たか まった。ヒトラーは12月19日 にち に陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ 元帥 げんすい など複数 ふくすう の将官 しょうかん を更迭 こうてつ した上 うえ に自 みずか らが陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん を兼任 けんにん し、東部 とうぶ 戦線 せんせん のドイツ軍 ぐん に後退 こうたい を厳禁 げんきん した。このことで戦線 せんせん の全面 ぜんめん 崩壊 ほうかい は免 まぬか れた。
対 たい ソ戦 せん におけるドイツ軍 ぐん の最初 さいしょ の後退 こうたい が行 おこな われた直後 ちょくご の12月11日 にち に、同 どう 7日 にち に行 おこな われた日本 にっぽん 海軍 かいぐん によるイギリス領 りょう マレ まれ ー半島 はんとう への侵攻 しんこう (マレー作戦 さくせん )と、それに続 つづ いて行 おこな われたアメリカの準 じゅん 州 しゅう であるハワイ の真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき を受 う けて、これまで直接 ちょくせつ 対峙 たいじ することのなかったアメリカへの宣戦 せんせん 布告 ふこく に踏 ふ み切 き る[ 219] 。これに対 たい しヒトラーは「負 ま けたことのない日本 にっぽん 軍 ぐん の参戦 さんせん は大 おお きな力 ちから を与 あた えてくれる」と喜 よろこ んだといわれる。
1942年 ねん 中盤 ちゅうばん に日本 にっぽん 軍 ぐん がイギリス軍 ぐん をインド洋 いんどよう から放逐 ほうちく したことを受 う けて、同地 どうち における通商 つうしょう 破壊 はかい 戦 せん を行 おこな うことを目的 もくてき にUボート や封鎖 ふうさ 突破 とっぱ 船 せん を派遣 はけん し、日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 下 か のペナン の海軍 かいぐん 基地 きち を拠点 きょてん にして日本 にっぽん 海軍 かいぐん と共同 きょうどう 作戦 さくせん を行 おこな ったほか、ヒトラー自 みずか らの指示 しじ でUボートを日本 にっぽん 海軍 かいぐん に提供 ていきょう した。また日本 にっぽん 海軍 かいぐん もドイツ軍 ぐん からの依頼 いらい を受 う けて潜水 せんすい 艦 かん と特殊 とくしゅ 潜航 せんこう 艇 てい をヴィシー政権 せいけん 軍 ぐん とイギリス軍 ぐん が戦 たたか っていたアフリカ南部 なんぶ のマダガスカル島 とう に送 おく り、イギリス海軍 かいぐん 艦艇 かんてい を攻撃 こうげき し撃沈 げきちん するなど被害 ひがい を与 あた えた(マダガスカルの戦 たたか い )ほか、遣 や 独 どく 潜水 せんすい 艦 かん 作戦 さくせん を行 おこな うなど、いくつかの共同 きょうどう 作戦 さくせん を展開 てんかい した。
なお、これらの共同 きょうどう 作戦 さくせん のうちいくつかにはイタリア軍 ぐん も参加 さんか し、ドイツの降伏 ごうぶく に至 いた るまで続 つづ けられることとなるものの、戦域 せんいき が大 おお きく離 はな れていたこともあり、両国 りょうこく の戦況 せんきょう の好転 こうてん に大 おお きく貢献 こうけん することはなかった。
作戦 さくせん 指揮 しき を行 おこな うヒトラー(1942年 ねん )
同年 どうねん には東部 とうぶ 戦線 せんせん での春季 しゅんき 攻勢 こうせい が計画 けいかく され、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は「ジークフリート 計画 けいかく 」を提出 ていしゅつ した。しかしヒトラーはこの計画 けいかく を修正 しゅうせい し、主 しゅ 作戦 さくせん に当 あ たる部分 ぶぶん は自 みずか ら書 か き替 か え[ 220] 、ヴォロネジ とスターリングラード の攻略 こうりゃく を主眼 しゅがん とするブラウ作戦 さくせん を命令 めいれい した。4月26日 にち にはドイツにおける最後 さいご の国会 こっかい が開会 かいかい され、ヒトラーには既存 きそん の権利 けんり や法 ほう によらず処罰 しょばつ や解任 かいにん を行 おこな う権利 けんり があることを承認 しょうにん する決議 けつぎ (ドイツ語 ご 版 ばん ) が採択 さいたく された[ 221] 。
ブラウ作戦 さくせん は当初 とうしょ 順調 じゅんちょう に進 すす んだものの、スターリングラード の攻略 こうりゃく に失敗 しっぱい 、ドイツ軍 ぐん は守勢 しゅせい に転換 てんかん せざるを得 え なくなった上 うえ に第 だい 6軍 ぐん が包囲 ほうい される事態 じたい となった(スターリングラード攻防 こうぼう 戦 せん )。ヒトラーは撤退 てったい や降伏 ごうぶく も許 ゆる さず、「ドイツ陸軍 りくぐん 史上 しじょう 、降伏 ごうぶく した元帥 げんすい はいない」という理由 りゆう で第 だい 6軍 ぐん 司令 しれい 官 かん の大将 たいしょう フリードリヒ・パウルス を元帥 げんすい に昇格 しょうかく させ、暗 あん に自決 じけつ を求 もと めた[ 222] 。しかしパウルスは1943年 ねん 1月 がつ 31日 にち に降伏 ごうぶく し、ヒトラーを激怒 げきど させた。また北 きた アフリカ戦線 せんせん においてはエル・アラメインの戦 たたか い やトーチ作戦 さくせん などでの敗北 はいぼく により、枢軸 すうじく 国 こく の勢力 せいりょく は一掃 いっそう された。戦局 せんきょく の退勢 たいせい が明 あき らかになったことで、国内 こくない におけるヒトラー崇拝 すうはい にも陰 かげ りが見 み え始 はじ めた。
救出 きゅうしゅつ されたムッソリーニとオットー・スコルツェニー (1943年 ねん 9月 がつ )
1943年 ねん にはクルスク で突出 とっしゅつ したソ連 それん 軍 ぐん を包囲 ほうい する「ツィタデレ作戦 さくせん 」が計画 けいかく されたが、ヒトラーはこの計画 けいかく を何 なん 度 ど も延期 えんき させ、攻勢 こうせい 開始 かいし は7月 がつ までずれ込 こ んだ。7月5日 にち から開始 かいし されたこの攻撃 こうげき (クルスクの戦 たたか い )は激戦 げきせん となったが、7月 がつ 13日 にち に作戦 さくせん の中止 ちゅうし を命令 めいれい した。7月 がつ 10日 とおか 、シチリア島 とう に連合 れんごう 軍 ぐん が上陸 じょうりく (ハスキー作戦 さくせん )したことで、イタリアの政治 せいじ 情勢 じょうせい が不安定 ふあんてい となったという報告 ほうこく を受 う けており、ヒトラーはその情勢 じょうせい に気 き を取 と られていた。また赤軍 せきぐん に与 あた えた損害 そんがい を過大 かだい 評価 ひょうか していたことや、開発 かいはつ 中 ちゅう の弾道 だんどう ミサイル (V2ロケット )や電動 でんどう Uボート(UボートXXI型 がた )などの新兵 しんぺい 器 き によって、翌年 よくねん にはドイツ軍 ぐん の圧倒的 あっとうてき な優位 ゆうい が保 たも たれると考 かんが えていた[ 224] 。
7月 がつ 25日 にち にムッソリーニが失脚 しっきゃく 、その後 ご 9月 がつ 8日 にち にバドリオ 政権 せいけん が休戦 きゅうせん を発表 はっぴょう し(イタリアの降伏 ごうぶく )、連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん はイタリア本土 ほんど に上陸 じょうりく した。しかし9月 がつ 12日 にち にオットー・スコルツェニー 率 ひき いる特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい によりムッソリーニを救出 きゅうしゅつ し(グラン・サッソ襲撃 しゅうげき )、ドイツが支配 しはい 下 か に置 お いた北 きた イタリアに、ムッソリーニを首班 しゅはん とするイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく を成立 せいりつ させた。こうして南部 なんぶ の連合 れんごう 軍 ぐん と北部 ほくぶ の枢軸 すうじく 軍 ぐん によるイタリア戦線 せんせん が形成 けいせい された。
連合 れんごう 軍 ぐん によるドイツへの戦略 せんりゃく 爆撃 ばくげき (ドイツ本土 ほんど 空襲 くうしゅう )が激 はげ しくなると、ヒトラーはドイツ上空 じょうくう から爆 ばく 撃 げき 機 き が去 さ ったことが確認 かくにん されるまで眠 ねむ ろうとしなかった。スターリングラードの敗戦 はいせん 以後 いご は好 す きな音楽 おんがく を聴 き くことも止 と め、側近 そっきん に同 おな じような話 はなし を連日 れんじつ 連夜 れんや 語 かた るようになった。この頃 ころ には日本 にっぽん 軍 ぐん も完全 かんぜん に守勢 しゅせい に回 まわ るようになったこともあってヒトラーの不眠症 ふみんしょう は激 はげ しくなり、健康 けんこう 状態 じょうたい はますます悪化 あっか した。
暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん 現場 げんば をムッソリーニと訪 おとず れたヒトラー(1944年 ねん 7月 がつ )
1944年 ねん 6月 がつ 、西部 せいぶ でノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん が成功 せいこう し、東部 とうぶ では赤軍 せきぐん の大 だい 攻勢 こうせい (バグラチオン作戦 さくせん )により中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん が壊滅 かいめつ 、第 だい 二 に 戦線 せんせん が確立 かくりつ し、ドイツは挟 はさ み撃 う ちにされる格好 かっこう となった。
7月 がつ 20日 はつか 、陸軍 りくぐん の大佐 たいさ クラウス・フォン・シュタウフェンベルク が仕掛 しか けた爆 ばく 弾 だん による暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん が起 お こり、数 すう 人 にん の側近 そっきん が死亡 しぼう 、参 まいり 席 せき 者 しゃ 全員 ぜんいん が負傷 ふしょう したが、ヒトラーは奇跡 きせき 的 てき に軽傷 けいしょう で済 す んだ。事件 じけん 直後 ちょくご に暗殺 あんさつ 計画 けいかく 関係 かんけい 者 しゃ の追及 ついきゅう を行 おこな い、処罰 しょばつ を行 おこな った人数 にんずう は、死刑 しけい となった海軍 かいぐん 大将 たいしょう ヴィルヘルム・カナリス (国防 こくぼう 軍 ぐん 情報 じょうほう 部長 ぶちょう )、元帥 げんすい エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン 、上級 じょうきゅう 大将 たいしょう フリードリヒ・フロム をはじめ4,000名 めい に及 およ んだ。また、かつては英雄 えいゆう 視 し された元帥 げんすい エルヴィン・ロンメル も、関 かか わりを疑 うたが われて自殺 じさつ を強要 きょうよう された。ヒトラーが奇跡 きせき 的 てき に死 し を免 まぬか れたことは、彼 かれ が特別 とくべつ な能力 のうりょく を持 も っている証拠 しょうこ であるとされ、国民 こくみん のヒトラーに対 たい する忠誠 ちゅうせい 心 しん もやや持 も ち直 なお した。しかし、爆発 ばくはつ のショックで極度 きょくど の人間 にんげん 不信 ふしん に陥 おちい ったと言 い われており、心身 しんしん 共 ども に健康 けんこう 状態 じょうたい が更 さら に悪化 あっか していった。
ドイツ軍 ぐん は必死 ひっし の抵抗 ていこう を続 つづ けるも、連合 れんごう 軍 ぐん は着実 ちゃくじつ に北 きた フランスの各 かく 都市 とし を解放 かいほう し、8月 がつ には遂 つい にパリ に迫 せま った。この際 さい にヒトラーは「パリは燃 も えているか? 」と部下 ぶか に何 なん 度 ど も質問 しつもん し、どんな手段 しゅだん を使 つか ってもパリを廃墟 はいきょ にするよう命 めい じたが、守備 しゅび 隊 たい 司令 しれい 官 かん ディートリヒ・フォン・コルティッツ 大将 たいしょう は従 したが わずに明 あ け渡 わた し、パリは4年 ねん ぶりに解放 かいほう された [ 226] 。
その後 ご 、ヴィシー政権 せいけん や東欧 とうおう の同盟 どうめい 国 こく は次々 つぎつぎ に脱落 だつらく し、ドイツ軍 ぐん は完全 かんぜん に敗勢 はいせい に陥 おちい った。特 とく にプロイエシュティ 油田 ゆでん を抱 かか えるルーマニア の脱落 だつらく はドイツの石油 せきゆ 供給 きょうきゅう を逼迫 ひっぱく させた。労働 ろうどう 力 りょく も不足 ふそく に陥 おちい り、国内 こくない の秘密 ひみつ 工場 こうじょう で働 はたら かせるために、東方 とうほう の収容 しゅうよう 所 しょ やハンガリーのユダヤ人 じん が移送 いそう され、多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で た。
秋 あき の終 お わりに西部 せいぶ 戦線 せんせん の連合 れんごう 軍 ぐん がライン川 がわ 西岸 せいがん に迫 せま ると、ヒトラーは大 おお きな賭 か けに出 で ることを決断 けつだん し、アルデンヌ からアントワープ までドイツ軍 ぐん を突進 とっしん させ、連合 れんごう 軍 ぐん の補給 ほきゅう を断 た つ作戦 さくせん を自 みずか ら立案 りつあん した。米 べい 英軍 えいぐん に大 おお きな打撃 だげき を与 あた えれば、戦争 せんそう の休戦 きゅうせん とドイツ軍 ぐん に対 たい する援助 えんじょ を行 おこな い、独 どく 英 えい 米 べい 対 たい ソ連 それん の「東西 とうざい 戦争 せんそう 」が発生 はっせい すると確信 かくしん していた[ 227] 。ヒトラーは作戦 さくせん の準備 じゅんび と声帯 せいたい ポリープ の手術 しゅじゅつ のため、11月20日 にち にヴォルフスシャンツェからベルリンの総統 そうとう 官邸 かんてい に移 うつ った。
12月16日 にち に開始 かいし されるドイツ軍 ぐん の反攻 はんこう 作戦 さくせん 「ラインの守 まも り」のため、ヒトラーは12月11日 にち にフランス国境 こっきょう 近 ちか くに設置 せっち されたアドラーホルスト総統 そうとう 指揮 しき 所 しょ (ドイツ語 ご 版 ばん ) に移 うつ った。作戦 さくせん は当初 とうしょ 成功 せいこう し、連合 れんごう 国軍 こくぐん を一時 いちじ 的 てき に大 おお きく押 お し戻 もど した。しかし、天候 てんこう が回復 かいふく すると空軍 くうぐん の支援 しえん を受 う けた連合 れんごう 軍 ぐん に圧倒 あっとう され、戦線 せんせん に一時 いちじ 的 てき に大 おお きな突出 とっしゅつ 部 ぶ を作 つく るに留 とど まった。こうしてヒトラーの無謀 むぼう な賭 か けは、ドイツ軍 ぐん 最後 さいご の予備 よび 兵力 へいりょく ・資材 しざい をいたずらに損耗 そんこう する結果 けっか となった(バルジの戦 たたか い )。
アルデンヌ攻勢 こうせい で戦 たたか うドイツ兵 へい
1945年 ねん 1月 がつ から赤軍 せきぐん はヴィスワ=オーデル攻勢 こうせい を開始 かいし した。これを受 う けてヒトラーは、1月 がつ 15日 にち にベルリンの総統 そうとう 官邸 かんてい に戻 もど ったが有効 ゆうこう な手 て は打 う てず、2月 がつ にはドイツ軍 ぐん がオーデル川 がわ のほとりまで押 お し込 こ まれた。同月 どうげつ にドイツ軍 ぐん を作戦 さくせん 開始 かいし 地点 ちてん より東 ひがし まで押 お し戻 もど した米 べい 英軍 えいぐん は、3月にライン川 がわ を突破 とっぱ した(レマーゲン鉄橋 てっきょう )。またハンガリー 戦線 せんせん も危機 きき 的 てき になり、領内 りょうない の油田 ゆでん 失陥 しっかん の可能 かのう 性 せい が高 たか まった。3月15日 にち よりブダペスト の奪還 だっかん と油田 ゆでん の安全 あんぜん 確保 かくほ のため「春 はる の目覚 めざ め作戦 さくせん 」を行 おこな うが、またしても無謀 むぼう な命令 めいれい を連発 れんぱつ したために失敗 しっぱい し、ただでさえ消耗 しょうもう しきった戦力 せんりょく は更 さら に減退 げんたい した。ヒトラーは1月 がつ から総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう で生活 せいかつ するようになり、3月 がつ 頃 ごろ からラジオ演説 えんぜつ も止 と め、ほとんど庭 にわ に出 で ることもなくなった。視力 しりょく や脚力 きゃくりょく も衰 おとろ え、支 ささ え無 な しに30歩 ほ 以上 いじょう 歩 ある くことも困難 こんなん になった[ 228] 。この頃 ころ になると利害 りがい が異 こと なる各 かく 官庁 かんちょう からの意見 いけん 調整 ちょうせい もままならず、3週間 しゅうかん の間 あいだ に全 まった く方針 ほうしん が異 こと なる総統 そうとう 命令 めいれい を出 だ す有様 ありさま であった。
3月19日 にち 、ヒトラーは連合 れんごう 軍 ぐん に利用 りよう されうるドイツ国内 こくない の生産 せいさん 施設 しせつ を全 すべ て破壊 はかい するよう命 めい ずる「ネロ指令 しれい 」を発 はっ したが、戦後 せんご の国民 こくみん 生活 せいかつ に差 さ し障 さわ ると軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん のアルベルト・シュペーア に反対 はんたい された。しかしヒトラーは「戦争 せんそう に負 ま ければ国民 こくみん もおしまいだ。(中略 ちゅうりゃく )なぜなら我 わ が国民 こくみん は弱者 じゃくしゃ であることが証明 しょうめい され、未来 みらい はより強力 きょうりょく な東方 とうほう 国家 こっか (ソ連 それん )に属 ぞく するからだ。いずれにしろ優秀 ゆうしゅう な人間 にんげん はすでに死 し んでしまったから、この戦争 せんそう の後 のち に生 い き残 のこ るのは劣 おと った人間 にんげん だけだろう。」と述 の べ、国民 こくみん を顧 かえり みることはなかった。結局 けっきょく シュペーアはこの命令 めいれい を無視 むし し、焦土 しょうど 作戦 さくせん はほとんど実行 じっこう されなかった。
4月 がつ 16日 にち 、東部 とうぶ の最後 さいご の防衛 ぼうえい 戦 せん を突破 とっぱ した赤軍 せきぐん はベルリンに向 む かった(ベルリンの戦 たたか い )。側近 そっきん や高官 こうかん はヒトラーに避難 ひなん を勧 すす めたが、彼 かれ は拒絶 きょぜつ した。4月 がつ 20日 はつか 、56歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ うために、軍 ぐん とナチ党 とう の高官 こうかん が総統 そうとう 官邸 かんてい に集 あつ まった。この日 ひ 開催 かいさい された軍事 ぐんじ 会議 かいぎ で、連合 れんごう 軍 ぐん によってドイツが南北 なんぼく に分断 ぶんだん された場合 ばあい に備 そな え、北部 ほくぶ を海軍 かいぐん 元帥 げんすい カール・デーニッツ が指揮 しき することになったが、南部 なんぶ の指揮 しき 権 けん は明示 めいじ されなかった[ 注 ちゅう 8] 。また、各種 かくしゅ 政府 せいふ 機関 きかん も即時 そくじ ベルリンを退去 たいきょ することが決 き まり、ゲーリングら主要 しゅよう な幹部 かんぶ も立 た ち去 さ っていった。この頃 ころ になると親衛隊 しんえいたい すら信用 しんよう できなくなり、「全員 ぜんいん が私 わたし をあざむいた。誰 だれ も私 わたし に真実 しんじつ を話 はな さなかった」と言 い うほどであった[ 230] [ 注 ちゅう 9] 。
部隊 ぶたい を視察 しさつ するヒトラーとゲーリング(1945年 ねん 4月 がつ )
赤軍 せきぐん はベルリン市内 しない に砲撃 ほうげき を加 くわ え、じりじりと迫 せま ってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前 もんぜん で大 だい 打撃 だげき を与 あた え、戦局 せんきょく が劇的 げきてき に変 か わると言 い い続 つづ けていた。しかし4月 がつ 22日 にち の作戦 さくせん 会議 かいぎ で、ヒトラーはついに「戦争 せんそう は負 ま けだ」と語 かた り、ベルリンで死 し ぬと宣言 せんげん した[ 231] 。しかしその後 ご は態度 たいど を変化 へんか させ、再 ふたた び指揮 しき を執 と り始 はじ めた。しかしこれを受 う けて4月 がつ 23日 にち には、総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう を脱出 だっしゅつ したカール・コラー 空軍 くうぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう が、国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 作戦 さくせん 部長 ぶちょう アルフレート・ヨードル 上級 じょうきゅう 大将 たいしょう の伝言 でんごん を携 たずさ えゲーリングの元 もと を訪 おとず れる。ヨードルの伝言 でんごん は「総統 そうとう が自決 じけつ する意志 いし を固 かた め、連合 れんごう 軍 ぐん との交渉 こうしょう はゲーリングが適任 てきにん だと言 い った」という内容 ないよう だった。ゲーリングは不仲 ふなか であったボルマンの工作 こうさく を疑 うたが い、総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう に1941年 ねん の総統 そうとう 布告 ふこく に基 もと づく権限 けんげん 委譲 いじょう の確認 かくにん を求 もと めた電報 でんぽう を送 おく る。電報 でんぽう を受 う け取 と ったボルマンは、「ゲーリングに反逆 はんぎゃく の意図 いと がある」とヒトラーに告 つ げた。これに激怒 げきど したヒトラーは、ゲーリングの逮捕 たいほ と全 ぜん 官職 かんしょく からの解任 かいにん 、そして別荘 べっそう への監禁 かんきん を命 めい じた。しかしシュペーアによると、この2時 じ 間 あいだ 後 ご にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉 こうしょう をさせよう」とつぶやいたという。早期 そうき の降伏 ごうぶく を考 かんが えていたシュペーアは、ゲーリングが降伏 ごうぶく 責任 せきにん 者 しゃ となれば交渉 こうしょう で時間 じかん 稼 かせ ぎをすると考 かんが え、飛行機 ひこうき に乗 の って連合 れんごう 軍 ぐん と交渉 こうしょう しようとした際 さい に備 そな えて撃墜 げきつい 命令 めいれい を出 だ していた[ 232] 。
ヒトラーの死 し を伝 つた える『星条旗 せいじょうき 新聞 しんぶん 』号外 ごうがい
4月 がつ 23日 にち 、赤軍 せきぐん がベルリン市内 しない に突入 とつにゅう した(ベルリン市街 しがい 戦 せん )。4月29日 にち 、親衛隊 しんえいたい 全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ヒムラーが独断 どくだん で英 えい 米 べい に対 たい し降伏 ごうぶく を申 もう し出 で たことがBBC で放送 ほうそう され、ヒトラーは激怒 げきど し、彼 かれ を全 ぜん 官職 かんしょく から解任 かいにん するとともに、その逮捕 たいほ 命令 めいれい が出 だ されたが、もはやその執行 しっこう すらできない状態 じょうたい であった。
ヒムラーの裏切 うらぎ りに最後 さいご の打撃 だげき を受 う け、終末 しゅうまつ が近 ちか づいたことを悟 さと ったヒトラーは、個人 こじん 的 てき 、政治 せいじ 的 てき 遺書 いしょ の口述 こうじゅつ を行 おこな った。後者 こうしゃ の中 なか で戦争 せんそう はユダヤ人 じん に責任 せきにん があるとした。そして大統領 だいとうりょう 兼 けん 国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん にカール・デーニッツ 海軍 かいぐん 元帥 げんすい 、首相 しゅしょう にゲッベルス、ナチ党 とう 担当 たんとう 大臣 だいじん にボルマンをそれぞれ指名 しめい した。さらに「国際 こくさい ユダヤ人 じん 」に対 たい する抵抗 ていこう の継続 けいぞく を訴 うった えた。
個人 こじん 的 てき 遺書 いしょ では恋人 こいびと エヴァ・ブラウン との結婚 けっこん と、自殺 じさつ 後 ご に遺体 いたい を焼却 しょうきゃく することを希望 きぼう した。この遺書 いしょ をタイプした秘書 ひしょ トラウドル・ユンゲ にヒトラーは「ドイツ人 じん は私 わたし の運動 うんどう (ナチズム )に値 あたい しないことを自 みずか ら証明 しょうめい した」と語 かた り、自 みずか らの政治 せいじ 活動 かつどう が終焉 しゅうえん したことを認 みと めた[ 233] 。
遺書 いしょ をタイプした後 のち の午前 ごぜん 2時 じ [ 234] [ 注 ちゅう 10] 、エヴァと結婚式 けっこんしき を挙 あ げた。そして4月 がつ 30日 にち 、毒薬 どくやく の効果 こうか を確 たし かめるため愛犬 あいけん ブロンディ を毒殺 どくさつ した後 のち 、午後 ごご 3時 じ にエヴァと共 とも に自室 じしつ に入 はい り、自殺 じさつ した。56歳 さい 没 ぼつ 。
自殺 じさつ の際 さい ヒトラーは拳銃 けんじゅう を用 もち い(青酸 せいさん カリを併用 へいよう したとする説 せつ もある[ 235] )、エヴァは毒 どく を仰 あお いだ。遺体 いたい が連合 れんごう 軍 ぐん の手 て に渡 わた るのを恐 おそ れ、140リットルのガソリン がかけられ焼却 しょうきゃく された。焼 や け残 のこ った遺体 いたい は後 のち に赤軍 せきぐん が回収 かいしゅう し、検死 けんし もソ連 それん 側 がわ の医師 いし のみによるものだったこと、また側近 そっきん らの証言 しょうげん も曖昧 あいまい で矛盾 むじゅん したものが多 おお かった為 ため 、長 なが い間 あいだ ヒトラーの死 し の詳細 しょうさい は西側 にしがわ 諸国 しょこく には伝 つた わらなかった。これらのことが後年 こうねん 「ヒトラー生存 せいぞん 説 せつ 」が唱 とな えられる原因 げんいん となった。
ソ連 それん によりヒトラーの死体 したい は秘密裏 ひみつり に埋 う められたが、1970年 ねん に掘 ほ り起 お こされ、完全 かんぜん に焼却 しょうきゃく されたあとにエルベ川 がわ に散骨 さんこつ された。これらの情報 じょうほう は、冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 後 ご の1992年 ねん に旧 きゅう ソ連 それん のKGB と、後継 こうけい 組織 そしき であるロシア のFSB に保管 ほかん されていた記録 きろく が公開 こうかい されたことによって明 あき らかになった。
1889年 ねん (0歳 さい ):オーストリア・ハンガリー帝国 ていこく のブラウナウ 地方 ちほう でバイエルン人 じん の税関 ぜいかん 吏アロイス・ヒトラーの4男 おとこ として生 う まれる。
1895年 ねん (6歳 さい ):父 ちち アロイスの農業 のうぎょう 事業 じぎょう のためにバイエルン王国 おうこく パッサウ地方 ちほう に移住 いじゅう 。
1897年 ねん (8歳 さい ):父 ちち の事業 じぎょう が失敗 しっぱい し、一家 いっか はオーストリアへ戻 もど る。アロイスとヒトラーとの諍 いさか いが始 はじ まる。
1900年 ねん (11歳 さい ):小学校 しょうがっこう を卒業 そつぎょう 。大学 だいがく 予備 よび 課程 かてい (ギムナジウム)には進 すす めず、リンツの実技 じつぎ 学校 がっこう (リアルシューレ)に入学 にゅうがく する。
1901年 ねん (12歳 さい ):二 に 年生 ねんせい への進級 しんきゅう 試験 しけん に失敗 しっぱい 、留年 りゅうねん 。
1903年 ねん (14歳 さい ):アロイス病没 びょうぼつ 。リンツ実技 じつぎ 学校 がっこう 中退 ちゅうたい 。
1904年 ねん (15歳 さい ):シュタイアー実技 じつぎ 学校 がっこう 入学 にゅうがく 。
1905年 ねん (16歳 さい ):シュタイアー実技 じつぎ 学校 がっこう 中退 ちゅうたい 。以後 いご 、正規 せいき 教育 きょういく は受 う けず。
1906年 ねん (17歳 さい ):遺族 いぞく 年金 ねんきん の一部 いちぶ を母 はは から援助 えんじょ されてウィーン美術 びじゅつ アカデミー を受験 じゅけん するも不 ふ 合格 ごうかく 。以降 いこう 、下宿 げしゅく 生活 せいかつ を続 つづ ける。
1908年 ねん (19歳 さい ):アカデミー受験 じゅけん を断念 だんねん 。下宿 げしゅく 生活 せいかつ を終 お えて住居 じゅうきょ を転々 てんてん とする。
1909年 ねん (20歳 さい ):住所 じゅうしょ 不定 ふてい の浮浪 ふろう 者 しゃ として警察 けいさつ に補導 ほどう される。独身 どくしん 者 しゃ 向 む けの公営 こうえい 住宅 じゅうたく に入居 にゅうきょ 。
1911年 ねん (22歳 さい ):遺族 いぞく 年金 ねんきん を妹 いもうと に譲 ゆず るように一族 いちぞく から非難 ひなん され、仕送 しおく りが止 と まる。水彩 すいさい の絵葉書 えはがき 売 う りなどで生計 せいけい を立 た てる。
1913年 ねん (24歳 さい ):オーストリア軍 ぐん への兵役 へいえき 回避 かいひ の為 ため に国外 こくがい 逃亡 とうぼう 。翌年 よくねん に強制 きょうせい 送還 そうかん されるが「不適合 ふてきごう 」として徴兵 ちょうへい されず。
1914年 ねん (25歳 さい ):第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん にドイツ帝国 ていこく が参戦 さんせん するとバイエルン軍 ぐん に義勇 ぎゆう 兵 へい として志願 しがん 。
1918年 ねん (29歳 さい ):マスタードガスによる一時 いちじ 失明 しつめい とヒステリーにより野戦 やせん 病院 びょういん に収監 しゅうかん 、入院 にゅういん 中 ちゅう に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ する。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は伍長 ごちょう 勤務 きんむ 上等 じょうとう 兵 へい 。
1919年 ねん (30歳 さい ):革命 かくめい 中 ちゅう のバイエルン でレーテ に参加 さんか し、大隊 だいたい の評議 ひょうぎ 員 いん となる。革命 かくめい 政権 せいけん 崩壊 ほうかい 後 ご 、ミュンヘンを占領 せんりょう した政府 せいふ 軍 ぐん に軍属 ぐんぞく 諜報 ちょうほう 員 いん として雇用 こよう され、ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう への潜入 せんにゅう 調査 ちょうさ を担当 たんとう する。
1920年 ねん (31歳 さい ):ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう の活動 かつどう に傾倒 けいとう し、軍 ぐん を除隊 じょたい 。党 とう は国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう に改名 かいめい される。
1921年 ねん (32歳 さい ):党内 とうない 抗争 こうそう で初代 しょだい 党首 とうしゅ アントン・ドレクスラー を失脚 しっきゃく させ、第 だい 一 いち 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん する。Führer(フューラー)の呼称 こしょう がこの頃 ころ から始 はじ まる。
1923年 ねん (34歳 さい ):ベニート・ムッソリーニ のローマ進軍 しんぐん に触発 しょくはつ されてミュンヘン一揆 いっき を起 お こすが失敗 しっぱい 。警察 けいさつ に逮捕 たいほ される。
1924年 ねん (35歳 さい ):禁錮 きんこ 5年 ねん の判決 はんけつ を受 う けてランツベルク要塞 ようさい 刑務所 けいむしょ に収監 しゅうかん 。12月20日 にち 、仮釈放 かりしゃくほう される。
1926年 ねん (37歳 さい ):『我 わ が闘争 とうそう 』出版 しゅっぱん 。党内 とうない 左派 さは の勢力 せいりょく を弾圧 だんあつ し、指導 しどう 者 しゃ 原理 げんり による党内 とうない 運営 うんえい を確立 かくりつ (バンベルク会議 かいぎ )。
1928年 ねん (39歳 さい ):ナチ党 とう としての最初 さいしょ の国政 こくせい 選挙 せんきょ 。12の国会 こっかい 議席 ぎせき を獲得 かくとく 。
1930年 ねん (41歳 さい ):ナチ党 とう が第 だい 二 に 党 とう に躍進 やくしん 。
1932年 ねん (43歳 さい ):ドイツ国籍 こくせき を取得 しゅとく 。大統領 だいとうりょう 選 せん に出馬 しゅつば 、決選 けっせん 投票 とうひょう でヒンデンブルクに敗北 はいぼく して落選 らくせん 。しかし国会 こっかい 選挙 せんきょ では第 だい 一 いち 党 とう に躍進 やくしん してさらに影響 えいきょう 力 りょく を高 たか める。
1933年 ねん (44歳 さい ):大統領 だいとうりょう ヒンデンブルクから首相 しゅしょう 指名 しめい を受 う ける。全権 ぜんけん 委任 いにん 法 ほう 制定 せいてい 、一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい を確立 かくりつ 。
1934年 ねん (45歳 さい ):突撃 とつげき 隊 たい 幹部 かんぶ を粛清 しゅくせい して独裁 どくさい 体制 たいせい を強化 きょうか (長 なが いナイフの夜 よる )。ヒンデンブルク病没 びょうぼつ 。大統領 だいとうりょう の職能 しょくのう を継承 けいしょう し、国家 こっか 元首 げんしゅ となる(総統 そうとう )。
1936年 ねん (47歳 さい ):非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい であったラインラントに軍 ぐん を進駐 しんちゅう させる(ラインラント進駐 しんちゅう )。ベルリンオリンピック 開催 かいさい 。
1938年 ねん (49歳 さい ):オーストリアを武力 ぶりょく 恫喝 どうかつ し、併合 へいごう する(アンシュルス )。ウィーン に凱旋 がいせん 。ミュンヘン会談 かいだん でズデーテン地方 ちほう を獲得 かくとく 。
1939年 ねん (50歳 さい ):チェコスロバキアへ武力 ぶりょく 恫喝 どうかつ 、チェコを保護 ほご 領 りょう に、スロバキアを保護 ほご 国 こく 化 か (チェコスロバキア併合 へいごう )。同年 どうねん に独 どく ソ不可侵 ふかしん 協定 きょうてい を締結 ていけつ 、ポーランド侵攻 しんこう を開始 かいし 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ する。以降 いこう 大半 たいはん を各地 かくち の総統 そうとう 大本営 だいほんえい で過 す ごす。
1940年 ねん (51歳 さい ):ドイツ軍 ぐん がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻 しんこう 。フランス降伏 ごうぶく 後 ご 、パリを訪 おとず れる。
1941年 ねん (52歳 さい ):ソビエト連邦 れんぽう に侵攻 しんこう を開始 かいし (独 どく ソ戦 せん )。年末 ねんまつ には日本 にっぽん に追随 ついずい してアメリカに宣戦 せんせん 布告 ふこく 。
1943年 ねん (54歳 さい ):スターリングラードの戦 たたか い で大敗 たいはい 。また連合 れんごう 軍 ぐん が北 きた アフリカ、南欧 なんおう に攻撃 こうげき を開始 かいし 、イタリアが降伏 ごうぶく する。
1944年 ねん (55歳 さい ):ソ連 それん 軍 ぐん の一大 いちだい 反攻 はんこう (バグラチオン作戦 さくせん )により東部 とうぶ 戦線 せんせん が崩壊 ほうかい 、連合 れんごう 軍 ぐん が北 きた フランスに大 だい 規模 きぼ 部隊 ぶたい を上陸 じょうりく させる(ノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん )。7月 がつ 20日 はつか 、自身 じしん に対 たい する暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん によって負傷 ふしょう 。
1945年 ねん (56歳 さい ):エヴァ・ブラウン と結婚 けっこん 。ベルリン内 ない の総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう 内 ない で自殺 じさつ 。
本人 ほんにん の著作 ちょさく や発言 はつげん 等 とう から、ヒトラーは少年 しょうねん 時 じ から様々 さまざま な反 はん ユダヤ主義 しゅぎ に影響 えいきょう された「生粋 きっすい のアーリア人 じん 至上 しじょう 主義 しゅぎ 者 もの 」と見 み なされる傾向 けいこう が強 つよ い。それはキリスト教 きりすときょう 社会 しゃかい であったヨーロッパ全体 ぜんたい に広 ひろ がっていた差別 さべつ 意識 いしき を発見 はっけん し政治 せいじ 的 てき に活用 かつよう した色彩 しきさい が強 つよ く、ヒトラー個人 こじん と付 つ き合 あ いがあった人々 ひとびと の証言 しょうげん からは、ヒトラーがいつそのような差別 さべつ 意識 いしき を身 み につけたのか判断 はんだん するのは難 むずか しいとしている。
ヒトラーが幼 おさな い頃 ころ に母親 ははおや と通 とお った質屋 しちや の主人 しゅじん がユダヤ人 じん であり、その主人 しゅじん がヒトラー親子 ちかこ の品 しな を安値 やすね でしか買 か い取 と ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人 じん に対 たい して不信 ふしん 感 かん を抱 いだ くようになったという俗説 ぞくせつ もあるが、父 ちち の恩給 おんきゅう を受給 じゅきゅう していたヒトラー一家 かずや が経済 けいざい 的 てき に困窮 こんきゅう していた事実 じじつ はない。なお、この頃 ころ ヒトラーの母親 ははおや を治療 ちりょう した医師 いし エドゥアルド・ブロッホ はユダヤ人 じん であった。ブロッホは後 のち にユダヤ人 じん 迫害 はくがい が開始 かいし された後 のち も「名誉 めいよ アーリア人 じん 」として手厚 てあつ く保護 ほご され、その後 ご 外国 がいこく に解放 かいほう されたという。ヒトラーは自分 じぶん が恩義 おんぎ を受 う けた相手 あいて にはユダヤ人 じん であっても例外 れいがい 的 てき に扱 あつか ったのではないかという指摘 してき もある。このような待遇 たいぐう を受 う けた人物 じんぶつ としては、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 下 か でヒトラーの叙勲 じょくん を推薦 すいせん した上官 じょうかん エルンスト・モーリッツ・ヘス (英語 えいご 版 ばん ) や、ヒトラー山荘 さんそう に勤務 きんむ した料理人 りょうりにん マレーネ・フォン・エクスナー 、演説 えんぜつ 時 じ のボディ・ランゲージ を指導 しどう を受 う けた占星術 せんせいじゅつ 師 し エリック・ヤン・ハヌッセン などがいる。エルンスト・モーリッツ・ヘスはナチ党 とう 政権 せいけん 掌握 しょうあく 後 ご 、ナチス政府 せいふ に迫害 はくがい を受 う けていたが、ヒトラーに迫害 はくがい の中止 ちゅうし を訴 うった え、待遇 たいぐう が改善 かいぜん されている。しかし1941年 ねん になると強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られた[ 236] が、エルンスト・モーリッツ・ヘスは収容 しゅうよう 所 しょ を生 い き延 の び、1983年 ねん にフランクフルトで93歳 さい で死去 しきょ した。エクスナー夫人 ふじん はヒトラーお気 き に入 い りの調理人 ちょうりにん であったが、ボルマンの調査 ちょうさ によってユダヤ系 けい の血 ち が入 はい っていたことが発覚 はっかく し、ヒトラーは彼女 かのじょ を解雇 かいこ する代 か わりに彼女 かのじょ と家族 かぞく に「名誉 めいよ アーリア人 じん 」待遇 たいぐう を与 あた えた。また、ナチス政権 せいけん 下 か で、「名誉 めいよ アーリア人 じん 」として航空 こうくう 省 しょう 次官 じかん となったエアハルト・ミルヒ の父親 ちちおや はユダヤ人 じん であったという説 せつ がある。ドイツ海軍 かいぐん 提督 ていとく で活躍 かつやく し、ヒトラーから柏葉 はくよう 付 づけ 騎士 きし 十 じゅう 字 じ 章 あきら を授与 じゅよ されたベルンハルト・ロッゲ もユダヤ系 けい であった。
ヒトラー自身 じしん も言 い っていたように、ウィーン生活 せいかつ を送 おく る1910年 ねん 夏 なつ 頃 ごろ に反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 的 てき 思想 しそう を固 かた めたと見 み られている[ 注 ちゅう 11] 。ウィーン時代 じだい の友人 ゆうじん にユダヤ人 じん がいたとされている。ただ、その友人 ゆうじん と金銭 きんせん トラブルがあったようで、このことは警察 けいさつ にも記録 きろく されていることから、このことがヒトラーに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたという説 せつ を唱 とな える者 もの もある。また、ヒトラーの友人 ゆうじん であったクビツェクはウィーンで同居 どうきょ していた頃 ころ に、すでに反 はん ユダヤ的 てき 思想 しそう を持 も っていたと証言 しょうげん している[ 238] 。それ以降 いこう にヒトラーと関係 かんけい があったユダヤ人 じん には、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご にヒトラーがミュンヘンで住 す んだアパートの管理人 かんりにん がいる。ヒトラーは管理人 かんりにん が作 つく った食事 しょくじ を食 た べながら党 とう 幹部 かんぶ と打 う ち合 あ わせを度々 たびたび 行 い っていたが、党勢 とうせい の拡大 かくだい とともにヒトラーはアパートを引 ひ き払 はら った。
いずれにせよ、入党 にゅうとう 後 ご の1920年 ねん 8月 がつ 23日 にち には『ホーフブロイハウス 』で「ユダヤ人 じん は寄生 きせい 動物 どうぶつ であり、彼 かれ らを殺 ころ す以外 いがい にはその被害 ひがい から逃 のが れる方法 ほうほう はない」と演説 えんぜつ するほどの確固 かっこ たる反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 者 しゃ となっていた[ 239] 。一方 いっぽう でユダヤ人 じん のブロニスラフ・フーベルマン やアルトゥル・シュナーベル のレコードを所持 しょじ していた[ 240] 。
ヒトラーは「いったい、なぜドイツがかくも衰退 すいたい したのであろうか?それは敵国 てきこく とユダヤ人 じん がドイツに対 たい して仕掛 しか けた世界 せかい 大戦 たいせん にまき込 こ まれて、敗北 はいぼく したからである。ドイツ革命 かくめい はユダヤ人 じん と犯罪 はんざい 人 じん とが起 お こしたものだ。ベルサイユ条約 じょうやく はドイツを永遠 えいえん に奴隷 どれい 化 か するための機構 きこう だ」と演説 えんぜつ している[要 よう ページ番号 ばんごう ] 。
わが闘争 とうそう 初 はつ 版本 はんぽん 。1925年 ねん 発行 はっこう
ナチズム の聖典 せいてん というべきヒトラーの著書 ちょしょ 『我 わ が闘争 とうそう 』は、ナチ党 とう 政権 せいけん 時代 じだい のドイツで聖書 せいしょ と同 おな じくらいの部数 ぶすう が発行 はっこう されたともいわれている。その内容 ないよう は自 みずか らの半生 はんせい と世界 せかい 観 かん を語 かた った第 だい 1部 ぶ 「民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき 世界 せかい 観 かん 」と、今後 こんご の政策 せいさく 方針 ほうしん を示 しめ した第 だい 2部 ぶ 「国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 運動 うんどう 」の2つに分 わ かれる。この中 なか でヒトラーは「アーリア民族 みんぞく の人種 じんしゅ 的 てき 優越 ゆうえつ 、東方 とうほう における生存 せいぞん 圏 けん の獲得 かくとく 」を説 と いている。
近代 きんだい ドイツ最大 さいだい の哲学 てつがく 者 しゃ ニーチェ の著作 ちょさく である『権力 けんりょく への意志 いし 』の影響 えいきょう が強 つよ く見 み られ、ヒトラーの思想 しそう を、「力 ちから こそが全 すべ て」というニーチェの書 しょ からの誤読 ごどく 、もしくは自分 じぶん なりに解釈 かいしゃく し直 なお しているのではないかと指摘 してき されることが多 おお い。ナチス政権 せいけん 時 じ の発行 はっこう 数 すう からは「ナチス公認 こうにん の最 さい 重要 じゅうよう 文献 ぶんけん 」として扱 あつか われていたことが窺 うかが える。しかしヒトラーは後 のち に「わが闘争 とうそう は古 ふる い本 ほん だ。私 わたし はあんな昔 むかし から多 おお くのことを決 き め付 つ けすぎていた」と語 かた っている[ 242] 。またハンス・フランク には「結局 けっきょく 私 わたし は物書 ものか きではなかった」「思想 しそう は書 か くことによって私 わたし から逃 に げ出 だ してしまった」「もしも私 わたし が、1924年 ねん にやがて首相 しゅしょう になることを知 し っていたら、私 わたし はあの本 ほん を書 か かなかっただろう」と語 かた っている。
1928年 ねん には、マックス・アマン に口述 こうじゅつ して執筆 しっぴつ した第 だい 二 に の著作 ちょさく が完成 かんせい した。しかし、生前 せいぜん のヒトラーは「ヒトラー第 だい 二 に の書 しょ 」(続 ぞく ・我 わ が闘争 とうそう )と呼 よ ばれるこの本 ほん の公表 こうひょう を許 ゆる さず、刊行 かんこう されたのは戦後 せんご になってからである。
「現在 げんざい のドイツでは『わが闘争 とうそう 』は民衆 みんしゅう 扇動 せんどう 罪 ざい による発禁 はっきん 本 ほん のリストの中 なか に入 はい っている」とよく誤解 ごかい されるが、実際 じっさい の理由 りゆう は、著作 ちょさく 権 けん と出版 しゅっぱん 権 けん を委 ゆだ ねられているバイエルン州 しゅう 政府 せいふ がどの出版 しゅっぱん 社 しゃ にも著作 ちょさく 権 けん を渡 わた さないことにあった。しかし保護 ほご 期間 きかん は出版 しゅっぱん から90年 ねん の2015年 ねん までのため、2016年 ねん 以降 いこう は出版 しゅっぱん は自由 じゆう となり、歴史 れきし 的 てき 意義 いぎ に鑑 かんが み、注釈 ちゅうしゃく 付 つ きで刊行 かんこう されている。
ヒトラー自身 じしん の思想 しそう を伝 つた える物 もの は、公 おおやけ の場 ば で行 おこな われた演説 えんぜつ 、政治 せいじ 的 てき 文書 ぶんしょ のほかには関係 かんけい 者 しゃ による記録 きろく が存在 そんざい する。「ヒトラーのテーブル・トーク 」と呼 よ ばれる物 もの は、1941年 ねん から1944年 ねん にかけてヒトラーが私的 してき な場 ば で語 かた ったものを、マルティン・ボルマンの命令 めいれい によって記録 きろく したものである。このほかにボルマンが書 か き留 と めたとされる、1945年 ねん 2月 がつ と4月 がつ のヒトラーの談話 だんわ が存在 そんざい する(ボルマンメモ (ドイツ語 ご 版 ばん ) )。ただしこの文書 ぶんしょ は、ヒュー・トレヴァー=ローパー やアンドレ・フランソワ=ポンセ が支持 しじ したものの、ドイツ語 ご による原文 げんぶん が発見 はっけん されておらず、イアン・カーショー など複数 ふくすう の歴史 れきし 家 か はきわめて疑 うたが わしいと考 かんが えている。
他 た に、幹部 かんぶ であったシュペーア、ヘルマン・ラウシュニング (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、エルンスト・ハンフシュテングル 、側近 そっきん である秘書 ひしょ のトラウデル・ユンゲ や護衛 ごえい 兵 へい であったローフス・ミシュ などがヒトラーの言動 げんどう を記 しる した著書 ちょしょ を残 のこ している。
「第 だい 三 さん 帝国 ていこく 」とはそもそも哲学 てつがく ・神学 しんがく 上 うえ の概念 がいねん であり、物質 ぶっしつ 的 てき 世界 せかい と精神 せいしん 的 てき 世界 せかい とを統一 とういつ した「理想 りそう 的 てき な人間 にんげん 社会 しゃかい 」を指 さ す。社会 しゃかい 哲学 てつがく 者 もの イヴォンヌ・シェラットの学術 がくじゅつ 書 しょ 『ヒトラーの哲学 てつがく 者 しゃ たち Hitler's Philosophers』によると[ 注 ちゅう 12] 、第 だい 三 さん 帝国 ていこく ナチス・ドイツは様々 さまざま な形 かたち で哲学 てつがく 者 しゃ たちと相互 そうご 協力 きょうりょく しており、ヒトラー自身 じしん も「哲人 てつじん 総統 そうとう 」、「哲人 てつじん 指導 しどう 者 しゃ 」を自認 じにん して活動 かつどう していた。
例 たと えばヒトラーは1924年 ねん 、ランツベルク刑務所 けいむしょ の中 なか で『我 わ が闘争 とうそう 』の原稿 げんこう 執筆 しっぴつ 時 じ に
と記 しる している。ヒトラーいわく、哲学 てつがく 思想 しそう 的 てき に「新 あら たな地質 ちしつ 時代 じだい が到来 とうらい すれば、地球 ちきゅう の構造 こうぞう はすべて変 か わる」のであり、それは「平原 ひらはら 」や「大洋 たいよう 」の新生 しんせい も含 ふく む。「同 おな じようにヨーロッパ全土 ぜんど の社会 しゃかい 秩序 ちつじょ もまた激 はげ しい爆発 ばくはつ と崩壊 ほうかい に見舞 みま われて、根 ね こそぎにされることだろう」。同年 どうねん に自分 じぶん が刑務所 けいむしょ から出所 しゅっしょ した場面 ばめん について、ヒトラーは
「所長 しょちょう も他 た の職員 しょくいん も、私 わたし がランツベルクを出所 しゅっしょ する時 とき には泣 な いていた。私 わたし は違 ちが った。我々 われわれ は自 みずか らのい分 いぶん のすべてにおいて彼 かれ らに打 う ち勝 か ったのだ」
と述 の べている。ヒトラーは古代 こだい ギリシア哲学 てつがく やドイツロマン主義 しゅぎ 哲学 てつがく を自 みずか らの指針 ししん としており、ニーチェ を真似 まね て「ギリシア精神 せいしん の本質 ほんしつ を告 つ げ知 し らせるもの、それがギリシアの芸術 げいじゅつ なのだ」などと述 の べていた。ヒトラーの思想 しそう は、社会 しゃかい 哲学 てつがく 者 もの かつ動物 どうぶつ 学 がく 者 もの であるエルンスト・ヘッケル のそれに酷似 こくじ しているという指摘 してき もあり、例 たと えば以下 いか の学説 がくせつ がある。
ヘッケルは古代 こだい ギリシア文化 ぶんか を重視 じゅうし しており、「社会 しゃかい 進化 しんか 論 ろん 」や優生 ゆうせい 思想 しそう の代表 だいひょう 的 てき な提唱 ていしょう 者 しゃ としてナチズムに影響 えいきょう した。彼 かれ は「自然 しぜん が神 かみ なのだ 」と強 つよ く主張 しゅちょう し、適者生存 てきしゃせいぞん においてアーリア人種 じんしゅ こそが最高 さいこう で自然 しぜん な適者 てきしゃ だとした。彼 かれ が言 い うには、古代 こだい ギリシアの軍事 ぐんじ 国家 こっか スパルタ は「完璧 かんぺき なまでに健康 けんこう で強 つよ い子供 こども たち」以外 いがい を──つまり病気 びょうき や障害 しょうがい のある子供 こども を──抹殺 まっさつ することで、スパルタ人 じん は「継続 けいぞく 的 てき に優 すぐ れた強 つよ さと活力 かつりょく 」を維持 いじ していたのであり、この慣習 かんしゅう は手本 てほん にされるべきである。このような間 あいだ 引 び き は「殺 ころ される側 がわ の子供 こども にも、殺 ころ す側 がわ の共同 きょうどう 体 たい にも利益 りえき のある行為 こうい 」だという。
ヒトラーはドイツ思想 しそう やドイツ観念論 かんねんろん からも多大 ただい に影響 えいきょう されており、1925年 ねん 2月 がつ 27日 にち にミュンヘン の飲食 いんしょく 店 てん (ビアホール )で演説 えんぜつ した際 さい は、そうした哲学 てつがく を自己流 じこりゅう に要約 ようやく していた。以下 いか はその例 れい である。
21世紀 せいき でも哲学 てつがく における「スター」のような学者 がくしゃ と見 み なされているマルティン・ハイデガー は、ヒトラーを理想 りそう 的 てき な存在 そんざい として描 えが いていた。ナチ党員 とういん としてフライブルク大学 だいがく 新 しん 総長 そうちょう となったハイデガーは1933年 ねん 5月 がつ 27日 にち 、古代 こだい ギリシア哲学 てつがく (プラトン の『国家 こっか 』)を元 もと に、ナチズムを讃 たた えて以下 いか の演説 えんぜつ を行 おこな った。
「この決起 けっき の栄光 えいこう 、そしてその偉大 いだい さは、ギリシアの叡知 えいち から発 はっ せられたあの深淵 しんえん かつ広範 こうはん な熟慮 じゅくりょ の言葉 ことば を我々 われわれ の中 なか に担 にな って行 い くときに初 はじ めて、我々 われわれ に十全 じゅうぜん に理解 りかい されるのである。『偉大 いだい なるものはすべて、嵐 あらし の中 なか に立 た つ』」。
この演説 えんぜつ からまもなくハイデガーは、自分 じぶん が熱烈 ねつれつ に「大学 だいがく の画一 かくいつ 化 か 」を進 すす めているという電報 でんぽう をヒトラーへ送 おく った。その後 ご ヒトラーは、「非 ひ アーリア人 じん 」を大学 だいがく と公職 こうしょく から排除 はいじょ する「バーデン令 れい 」を命 めい じ、ハイデガーはそれを実行 じっこう した。
ヒトラーは表面 ひょうめん 上 じょう こそキリスト教徒 きりすときょうと であるとしていたが、教会 きょうかい に対 たい してはナチズムに従順 じゅうじゅん な「積極 せっきょく 的 てき キリスト教 きりすときょう 」の立場 たちば を望 のぞ んでいた。またイエス・キリスト は処女 しょじょ 懐胎 かいたい のためユダヤ人 じん の血 ち に染 そ まっていないとし、彼 かれ の生涯 しょうがい をユダヤ人 じん との戦 たたか いと捉 とら え、「キリストが始 はじ めたが完成 かんせい できなかった仕事 しごと を、わたしが―アドルフ・ヒトラーが―実現 じつげん させるのだ」と唱 とな えた。また内々 うちうち の談話 だんわ では「聖書 せいしょ がドイツ語 ご に翻訳 ほんやく されたのはドイツ人 じん にとっての不幸 ふこう 」「ロ ろ ーマ帝国 まていこく が滅 ほろ んだのはフン族 ぞく やゲルマン民族 みんぞく のせいではなくキリスト教 きりすときょう のせいである」等 とう とキリスト教 きょう や聖職 せいしょく 者 しゃ を批判 ひはん する発言 はつげん をしていた。ただしヒトラーは無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ ではなく、自然 しぜん の中 なか に全能 ぜんのう の存在 そんざい がいると語 かた っていた[ 注 ちゅう 13] 。
エリック・ヤン・ハヌッセン を専属 せんぞく の占 うらな い師 し としているなど、オカルト に傾倒 けいとう していたという説 せつ がある。
沢田 さわだ 謙 けん 『ヒットラー傳 つたえ 』
ヒトラーは『わが闘争 とうそう 』の中 なか で、日本人 にっぽんじん について、「文化 ぶんか 的 てき には創造 そうぞう 性 せい を欠 か いた民族 みんぞく である」としている。『わが闘争 とうそう 』を原文 げんぶん で読 よ んだ井上 いのうえ 成美 まさみ は「ヒトラーは日本人 にっぽんじん を想像 そうぞう 力 りょく の欠如 けつじょ した劣等 れっとう 民族 みんぞく 、ただしドイツの手先 てさき として使 つか うなら小器用 こぎよう ・小利口 こりこう で役 やく に立 た つ存在 そんざい と見 み ている」[ 269] として、ヒトラーやナチズムの根底 こんてい には強固 きょうこ な反日 はんにち 主義 しゅぎ ・差別 さべつ 主義 しゅぎ があると主張 しゅちょう している。
しかし篠原 しのはら 正 ただし 瑛 あきら は「心 しん を落 お ちつけてよく含味 がんみ してみると、ヒトラーの「日本 にっぽん 民族 みんぞく の文化 ぶんか 的 てき 能力 のうりょく 」批判 ひはん はまことに正鵠 せいこく を得 え たものであり、理性 りせい 的 てき な、公正 こうせい な論理 ろんり の上 うえ に立 た っていると思 おも う。当時 とうじ 、少数 しょうすう ではあったが、そのことをはっきりと指摘 してき した日本 にっぽん の知識 ちしき 人 じん もいた。」と語 かた っている[ 270] 。
ヒトラーの遺言 ゆいごん が記 しる されたボルマンメモの1945年 ねん 2月 がつ 18日 にち 付 づけ には、「われわれにとって日本 にっぽん は、いかなる時 とき も友人 ゆうじん であり、そして盟邦 めいほう でいてくれるであろう。この戦争 せんそう の中 なか でわれわれは、日本 にっぽん を高 たか く評価 ひょうか するとともに、いよいよますます尊敬 そんけい することをまなんだ。この共同 きょうどう のたたかいを通 とお して、日本 にっぽん とわれわれとの関係 かんけい は更 さら に密接 みっせつ な、そして堅固 けんご なものとなるであろう。」と記述 きじゅつ されている[ 271] 。
同 おな じくボルマンメモの1945年 ねん 2月 がつ 13日 にち 付 づけ の記述 きじゅつ では「私 わたし は、たとえば中国人 ちゅうごくじん あるいは日本人 にっぽんじん が人種 じんしゅ として劣等 れっとう などと思 おも ったことは一 いち 度 ど もない。 両方 りょうほう とも古 ふる い文化 ぶんか を持 も った国民 こくみん であり、そして私 わたし としては、彼 かれ らの伝統 でんとう の方 ほう がわれわれの それよりも優 まさ っていることを認 みと めるのにやぶさかではない。彼 かれ らには、それを誇 ほこ りに思 おも うべき、りっぱな根拠 こんきょ がある。ちょうどわれわれが、われわれが属 ぞく している文化 ぶんか 圏 けん に誇 ほこ りをもっているように。それどころか私 わたし は、中国人 ちゅうごくじん や日本人 にっぽんじん が彼 かれ らの人種 じんしゅ 的 てき な誇 ほこ りを堅持 けんじ していてくれればくれるほど、彼 かれ らと理解 りかい しあうことが私 わたし にとってますます容易 ようい になるとさえ信 しん じている。」とある[ 272] 。
1945年 ねん 4月 がつ 2日 にち 付 づけ の記述 きじゅつ では「わたしは、日本人 にっぽんじん と、中国人 ちゅうごくじん と、そしてイスラム諸 しょ 国民 こくみん とは、われわれにとって、たとえばフランスよりもつねに身近 みぢか な存在 そんざい であると確信 かくしん している。しかもこのことは、ドイツ人 じん とフランス人 じん とのあいだに存在 そんざい している血 ち のつながりにもかかわらずである。」と記 しる されている[ 273] 。
大日本帝国 だいにっぽんていこく 海軍 かいぐん によるマレー作戦 さくせん と真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の成功 せいこう の報告 ほうこく を受 う けた際 さい には「我々 われわれ は戦争 せんそう に負 ま けるはずがない。我々 われわれ は3000年間 ねんかん 一 いち 度 ど も負 ま けたことのない味方 みかた ができたのだ」と語 かた り対 たい 米 べい 宣戦 せんせん を行 おこな い[ 注 ちゅう 14] 、当時 とうじ の日本 にっぽん の快 かい 進撃 しんげき を誇大 こだい 発表 はっぴょう と感 かん じており、日本 にっぽん の発表 はっぴょう を直接 ちょくせつ 報道 ほうどう しない措置 そち を承認 しょうにん している。『わが闘争 とうそう 』では、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ のオーストリアを重視 じゅうし したドイツの外交 がいこう 政策 せいさく を批判 ひはん する際 さい 、日 にち 英 えい 同盟 どうめい と日 にち 露 ろ 戦争 せんそう を引 ひ き合 あ いに出 だ し日本 にっぽん の外交 がいこう 政策 せいさく を称賛 しょうさん している。
軍事 ぐんじ 面 めん ではヒトラーが実権 じっけん を握 にぎ った後 のち も遣 や 独 どく 潜水 せんすい 艦 かん 作戦 さくせん のような協力 きょうりょく があり、レーダーなど最新 さいしん 技術 ぎじゅつ の提供 ていきょう も行 おこな われている。
日本 にっぽん がドイツの最終 さいしゅう 的 てき なライバルになるとの考 かんが えもしばしば口 くち にしており、「近 ちか い将来 しょうらい 、我々 われわれ は東洋 とうよう の覇者 はしゃ (日本 にっぽん )と対決 たいけつ しなければならない段階 だんかい が来 く るだろう」とシュペーアたち側近 そっきん に語 かた っていたというエピソードがある。ポーランド侵攻 しんこう 直前 ちょくぜん にはイギリス大使 たいし ネヴィル・ヘンダーソン (英語 えいご 版 ばん ) に対 たい し、「大戦 たいせん 争 そう が起 お きれば各国 かっこく が共倒 ともだお れになり、唯一 ゆいいつ の勝者 しょうしゃ が日本 にっぽん になる」と伝 つた えている。
日 にち 独 どく 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい 成立 せいりつ 以降 いこう は、ヒトラーと多 おお くの日本人 にっぽんじん が面会 めんかい し、いずれもヒトラーが親日 しんにち 的 てき であるという感想 かんそう を持 も った。鳩山 はとやま 一郎 いちろう は「彼 かれ の日本 にっぽん に対 たい する憧憬 どうけい は驚 おどろ くべきものがある」とし、伍 ご 堂 どう 卓雄 たくお は「彼 かれ の日本 にっぽん に対 たい する考 かんが え方 かた は絶対 ぜったい 的 てき である」と捉 とら え、駐 ちゅう 独 どく 大使 たいし 武者小路 むしゃのこうじ 公共 こうきょう は「ヒトラーの日本 にっぽん 贔屓 びいき は日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の時 とき からだ」と発言 はつげん している[ 注 ちゅう 15] 。またヒトラーはポーランド戦役 せんえき 後 のち 大島 おおしま 浩 ひろし 大使 たいし に「貴国 きこく には『勝 か ってかぶとの緒 いとぐち を締 し めよ』という諺 ことわざ のあることを承知 しょうち したが、これは誠 まこと に意味 いみ の深 ふか い言葉 ことば である。われわれは今 いま こそ兜 かぶと の緒 いとぐち を締 し めるべき時 とき である」この日本 にっぽん の諺 ことわざ を好 この んで口 くち にしている。
1939年 ねん にベルリンで開 ひら かれた「伯 はく 林 はやし 日本 にっぽん 古 こ 美術 びじゅつ 展 てん 」では、美術 びじゅつ 展 てん を公式 こうしき 訪問 ほうもん したヒトラーが雪村 ゆきむら の風 ふう 濤図 を含 ふく めた数 すう 点 てん の美術 びじゅつ 品 ひん に深 ふか く興味 きょうみ を示 しめ したという報道 ほうどう が日本 にっぽん では行 おこな われたが[ 注 ちゅう 16] 、ドイツではヒトラーが興味 きょうみ を持 も った作品 さくひん についてはほとんど報道 ほうどう されなかったことからも、ヒトラーの美術 びじゅつ 展 てん 訪問 ほうもん はあくまで儀礼 ぎれい 的 てき なものであったと安松 やすまつ みゆき は主張 しゅちょう している。。
ヒトラーは「ユダヤ人 じん は日本人 にっぽんじん こそが彼 かれ らの手 て の届 とど かない相手 あいて だと見 み ている。日本人 にっぽんじん には鋭 するど い直観 ちょっかん が備 そな わっており、さすがのユダヤ人 じん も内 うち から日本 にっぽん を攻撃 こうげき できないということが分 わ かっているのだ」と述 の べ、イギリスとアメリカが日本 にっぽん と和解 わかい すれば多大 ただい な利益 りえき を得 え られるが、その和解 わかい を妨害 ぼうがい しているのがユダヤ人 じん だと語 かた っている[ 注 ちゅう 17] 。
日本人 にっぽんじん が「名誉 めいよ アーリア人 じん 」としての扱 あつか いを受 う けたという説 せつ もあるが、帝国 ていこく 市民 しみん 法 ほう (ドイツ語 ご 版 ばん ) などヒトラーが裁可 さいか した人種 じんしゅ 差別 さべつ 法 ほう では、日本人 にっぽんじん が明示 めいじ 的 てき に厚遇 こうぐう を受 う けたわけではない。1934年 ねん に日本人 にっぽんじん が関 かか わった事件 じけん の報道 ほうどう の際 さい 、人種 じんしゅ 法 ほう について触 ふ れないようにするという通達 つうたつ が行 おこな われたように、あくまで政治 せいじ 的 てき 配慮 はいりょ によって手心 てごころ を加 くわ える範囲 はんい のものであった。また「我々 われわれ ドイツ人 じん は日本人 にっぽんじん に親近 しんきん 感 かん など抱 だ いてはいない。日本人 にっぽんじん は生活 せいかつ 様式 ようしき も文化 ぶんか もあまりにも違和感 いわかん が大 おお きすぎるからだ」とも述 の べている[ 注 ちゅう 18] 。
ヒトラーの生家 せいか の前 まえ の歩道 ほどう に建 た てられた戦争 せんそう とファシズムに反対 はんたい する記念 きねん 碑 ひ (英語 えいご 版 ばん ) 。「平和 へいわ 、自由 じゆう 、そして民主 みんしゅ 主義 しゅぎ のため 二度 にど とファシズム を繰 く り返 かえ すな 数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん の死者 ししゃ は警告 けいこく する」と刻 きざ まれている。石 いし はマウトハウゼン強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の採石 さいせき 場 じょう にあったものが使 つか われている。
1940年 ねん にヒトラーは、ドイツ国内 こくない のユダヤ人 じん をマダガスカル に移送 いそう させる計画 けいかく (マダガスカル計画 けいかく )を検討 けんとう させた。これはドイツの影響 えいきょう 下 か からユダヤ勢力 せいりょく を排除 はいじょ するための作戦 さくせん であり絶滅 ぜつめつ 作戦 さくせん ではなかったが、戦局 せんきょく の悪化 あっか により移送 いそう は不可能 ふかのう になった。1942年 ねん 1月 がつ にはドイツ国内 こくない や占領 せんりょう 地区 ちく におけるユダヤ人 じん の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ への移送 いそう や強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所内 しょない での大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ などの、いわゆるホロコースト の方針 ほうしん を決定 けってい づける「ヴァンゼー会議 かいぎ 」が行 おこな われた。しかしながら、文章 ぶんしょう 上 じょう では「絶滅 ぜつめつ 」や「殺害 さつがい 」と言 い った直接的 ちょくせつてき な語句 ごく は使 つか われず、「追放 ついほう 」や「移民 いみん 」と言 い った語句 ごく が最後 さいご まで使用 しよう された。
政権 せいけん 奪取 だっしゅ 以降 いこう 、ユダヤ人 じん 迫害 はくがい 政策 せいさく を指揮 しき 、指導 しどう していたヒトラー自身 じしん が、ユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ 自体 じたい を命 めい じたという書類 しょるい は現存 げんそん していない。このため、ホロコーストの命令 めいれい に関 かん しては「ヒトラーが包括 ほうかつ 的 てき ・決定的 けっていてき ・集中 しゅうちゅう 的 てき な一 いち 回 かい 限 かぎ りの絶滅 ぜつめつ 命令 めいれい を口頭 こうとう で指令 しれい した」というジェラルド・フレミング 、クリストファー・ブロウニング (英語 えいご 版 ばん ) らの説 せつ 、「正規 せいき の集中 しゅうちゅう 的 てき 絶滅 ぜつめつ 命令 めいれい は存在 そんざい せず、軍政 ぐんせい ・民政 みんせい ・党 とう ・親衛隊 しんえいたい の各 かく 部局 ぶきょく が部分 ぶぶん 的 てき 絶滅 ぜつめつ 政策 せいさく を行 おこな った。ヒトラーはこれらの政策 せいさく に同意 どうい や支持 しじ を与 あた えていた」とし、絶滅 ぜつめつ 政策 せいさく が一貫 いっかん したものではなく即興 そっきょう 性 せい を持 も つものであるというミュンヘンの現代 げんだい 史 し 研究所 けんきゅうじょ 所長 しょちょう マルティン・ブロシャート (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ハンス・モムゼン (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ラウル・ヒルバーグ らの説 せつ がある[ 282] 。
しかし、1941年 ねん 12月12日 にち に全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ や大 だい 管区 かんく 指導 しどう 者 しゃ を集 あつ めて行 おこな われた会議 かいぎ (en )においてヒトラーは「ユダヤ人 じん の絶滅 ぜつめつ は必然 ひつぜん 的 てき 結果 けっか でなければならない」と演説 えんぜつ しており、その演説 えんぜつ はゲッベルスの日記 にっき に記録 きろく されている[ 283] 。内々 うちうち でも「この戦争 せんそう の終結 しゅうけつ はユダヤ民族 みんぞく の絶滅 ぜつめつ を意味 いみ する」と語 かた っている[ 注 ちゅう 19] 。
党 とう 写真 しゃしん 家 か ハインリヒ・ホフマン の娘 むすめ でヒトラー・ユーゲント 指導 しどう 者 しゃ バルドゥール・フォン・シーラッハ の夫人 ふじん であったヘンリエッテ・フォン・シーラッハ (ドイツ語 ご 版 ばん ) の回想 かいそう は、ヒトラーがホロコーストに関 かん してそれを指示 しじ し、賛同 さんどう する立場 たちば であったことを証明 しょうめい するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領 せんりょう 下 か の地 ち に住 す むユダヤ人 じん が次々 つぎつぎ と逮捕 たいほ され、列車 れっしゃ に詰 つ め込 こ まれ収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られていることを知 し り、ヒトラーに直訴 じきそ することを考 かんが えた。1943年 ねん 4月 がつ 7日 にち にパーティの場 ば でヘンリエッテがそのことを告 つ げると、ヒトラーは激怒 げきど して「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたと何 なん の関係 かんけい がある!ユダヤ女 おんな のことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴 どな りつけた。その後 ご 、ヘンリエッテは2度 ど とヒトラーから招待 しょうたい を受 う けることはなかったという。
ヒトラーはドイツ民族 みんぞく の健康 けんこう を守 まも ることにも強 つよ い関心 かんしん を持 も っていた。特 とく に、1907年 ねん に母親 ははおや クララを乳癌 にゅうがん で失 うしな ったヒトラーにとって、癌 がん の治療 ちりょう は特別 とくべつ な意味 いみ を持 も っていた。厚生 こうせい 事業 じぎょう のスローガンとして「健康 けんこう は国民 こくみん の義務 ぎむ 」を定 さだ め、喫煙 きつえん に対 たい しても反 はん タバコ運動 うんどう を積極 せっきょく 的 てき に行 い った。環境 かんきょう や職場 しょくば における危険 きけん を排除 はいじょ し(発癌 はつがん 性 せい のある殺虫 さっちゅう 剤 ざい や着色 ちゃくしょく 料 りょう の禁止 きんし )、早期 そうき 発見 はっけん を推奨 すいしょう した。医師 いし 達 たち はとくにタバコの害 がい を熱心 ねっしん に訴 うった え、彼 かれ らは世界 せかい で最 もっと も早 はや く喫煙 きつえん を肺癌 はいがん と結 むす び付 つ けた[ 286] 。
「健全 けんぜん な民族 みんぞく の未来 みらい は女性 じょせい にある」として女性 じょせい の体育 たいいく を奨励 しょうれい したことでも知 し られる。そのため現在 げんざい のドイツでは、政府 せいふ による過度 かど の健康 けんこう 問題 もんだい への介入 かいにゅう や禁煙 きんえん ・禁酒 きんしゅ 運動 うんどう を「ナチズムを彷彿 ほうふつ させるもの」としてタブー視 し する傾向 けいこう にある[ 287] [ 288] [ 289] 。
ヒトラーは「人 ひと を味方 みかた につけるには、書 か かれた言葉 ことば よりも語 かた られた言葉 ことば のほうが役立 やくだ ち、この世 よ の偉大 いだい な運動 うんどう はいずれも、偉大 いだい な書 か き手 て ではなく偉大 いだい な演説 えんぜつ 家 か のおかげで拡大 かくだい する」と演説 えんぜつ の力 ちから を極 きわ めて高 たか く評価 ひょうか していた。
ヒトラーは若年 じゃくねん の頃 ころ から演説 えんぜつ をする癖 くせ を持 も っており、親友 しんゆう であったクビツェクもその演説 えんぜつ をたびたび聴 き かされている。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 直後 ちょくご に軍 ぐん の情報 じょうほう 員 いん として働 はたら いていたころから初 はじ めて多 おお くの人々 ひとびと の前 まえ で演説 えんぜつ することになり、大 おお きな喝采 かっさい を得 え た。ヒトラーは「私 わたし は演説 えんぜつ することができた」と回顧 かいこ している。ナチ党 とう の指導 しどう 者 しゃ になってからも「大衆 たいしゅう を興奮 こうふん させ、感激 かんげき させる術 じゅつ を心得 こころえ ており、」「俗物 ぞくぶつ の大 おお きなうなり声 ごえ と金切 かなき り声 ごえ で大衆 たいしゅう を魅了 みりょう した」[ 注 ちゅう 20] 。またヒトラー自身 じしん も『我 わ が闘争 とうそう 』において、「大学 だいがく 教授 きょうじゅ に与 あた える印象 いんしょう によってではなく、民衆 みんしゅう に及 およ ぼす効果 こうか 」によって演説 えんぜつ の価値 かち が量 はか られるとしている。ヒトラーの演説 えんぜつ は一見 いっけん その場 ば のアドリブのように見 み えるが、実際 じっさい には詳細 しょうさい なメモ書 が きによって構成 こうせい されていた。一見 いっけん 変 か わったい方 いかた をしている場合 ばあい にも、大衆 たいしゅう の興味 きょうみ をひく意図 いと があってあえて変更 へんこう していることもあった。ミュンヘン一揆 いっき 後 ご にはバイエルン州 しゅう などによって演説 えんぜつ を禁 きん じられ、アドルフ・ヴァーグナー に演説 えんぜつ を代読 だいどく させることもあった。対比 たいひ 法 ほう 、平行 へいこう 法 ほう を駆使 くし し、修辞 しゅうじ 的 てき な面 めん でにもヒトラーの演説 えんぜつ は1925年 ねん 頃 ごろ にすでに完成 かんせい の域 いき に達 たっ していた。
しかしヒトラーの発声 はっせい 術 じゅつ は独学 どくがく によるものであり、1932年 ねん 頃 ごろ には声帯 せいたい を損傷 そんしょう する恐 おそ れもでてきた。そこでヒトラーはオペラ歌手 かしゅ パウル・デフリーント (ドイツ語 ご 版 ばん ) の指導 しどう を受 う け、声帯 せいたい に負担 ふたん をかけずよく通 とお る発声 はっせい 術 じゅつ や、効果 こうか 的 てき なジェスチャーを身 み につけた。デフリーントはヒトラーがプロパガンダのために、同 おな じ内容 ないよう の演説 えんぜつ を繰 く り返 かえ すことに辟易 へきえき していた様 よう を記録 きろく に残 のこ している。またエリック・ヤン・ハヌッセン からボディ・ランゲージ の指導 しどう を受 う けたとする説 せつ がある。
政権 せいけん 獲得 かくとく 後 ご にはラジオによる演説 えんぜつ も行 おこな われるようになったが、大衆 たいしゅう が飽 あ きるのも早 はや く、1934年 ねん 頃 ごろ からヒトラー演説 えんぜつ の放送 ほうそう は次第 しだい に減少 げんしょう し、娯楽 ごらく 番組 ばんぐみ が多 おお く流 なが されるようになった。亡命 ぼうめい ドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 指導 しどう 部 ぶ (ドイツ語 ご 版 ばん ) の通信員 つうしんいん も、ヒトラー演説 えんぜつ の聴取 ちょうしゅ を義務 ぎむ づけられた大衆 たいしゅう が冷 つめ たい反応 はんのう を示 しめ している様 さま を記録 きろく に残 のこ している。
戦局 せんきょく が苦 くる しくなると、ヒトラーの演説 えんぜつ は次第 しだい に減少 げんしょう し、大 だい 規模 きぼ なラジオ演説 えんぜつ は1940年 ねん に9回 かい 、1941年 ねん に7回 かい 、1942年 ねん に5回 かい 、1943年 ねん には3回 かい にまで減少 げんしょう した。迫力 はくりょく のある演説 えんぜつ も減少 げんしょう し、原稿 げんこう をただ読 よ み上 あ げるだけの演説 えんぜつ が、聴衆 ちょうしゅう の無 な い会場 かいじょう で収録 しゅうろく されたものが放送 ほうそう されるようになった。1945年 ねん 1月 がつ 30日 にち に放送 ほうそう された、ドイツ国民 こくみん にむけた演説 えんぜつ が最後 さいご のものとなった。
ヒトラーは自身 じしん の行動 こうどう を評価 ひょうか する組織 そしき の存在 そんざい も許 ゆる さなかったし、制約 せいやく する規範 きはん や法律 ほうりつ の制定 せいてい を認 みと めなかった。また部下 ぶか が決定 けってい を迫 せま ることで自 みずか らに圧力 あつりょく をかけることも嫌 きら い、そのような事態 じたい が起 お きればわざと決定 けってい を延期 えんき することもしばしばあった。軍事 ぐんじ に関 かん してもそうであったが、もともと記憶 きおく 力 りょく には優 すぐ れたものがあったヒトラーは会議 かいぎ の前 まえ に統計 とうけい や文書 ぶんしょ を暗記 あんき し、会議 かいぎ が始 はじ まると膨大 ぼうだい なデータ量 りょう でき手 きて をうんざりさせ、早 はや く終 お わらせたいと思 おも わせて自分 じぶん があらかじめ考 かんが えていた案 あん を呑 の ませることを行 おこな っていた。
ラジオ放送 ほうそう を行 おこな うヒトラー。1933年 ねん 2月 がつ
ヒトラーは軍事 ぐんじ 力 りょく を極 きわ めて重視 じゅうし しており、「世 よ の中 なか に武力 ぶりょく によらず、経済 けいざい によって建設 けんせつ された国家 こっか など無 な い」と、軍事 ぐんじ 力 りょく こそが国家 こっか の礎 いしずえ であると主張 しゅちょう していた[ 305] 。また政権 せいけん 掌握 しょうあく 直後 ちょくご には国防 こくぼう 軍 ぐん 首脳 しゅのう といち早 はや く協議 きょうぎ を行 おこな い、突撃 とつげき 隊 たい を押 お さえ込 こ んで協力 きょうりょく 体制 たいせい を構築 こうちく しようとした。ヒトラーは膨大 ぼうだい な資産 しさん と、国家 こっか の財産 ざいさん から将軍 しょうぐん 達 たち に個人 こじん 的 てき な下賜 かし 金 きん 、土地 とち の供与 きょうよ を行 おこな い、彼 かれ らの歓心 かんしん を買 か おうとした。ヒンデンブルクは所有 しょゆう していたノイデック荘園 しょうえん が2倍 ばい の規模 きぼ になるほどの優遇 ゆうぐう 措置 そち を受 う け、元帥 げんすい アウグスト・フォン・マッケンゼン も広大 こうだい な荘園 しょうえん の贈与 ぞうよ と優遇 ゆうぐう 措置 そち を受 う けている。一方 いっぽう でブロンベルク罷免 ひめん 事件 じけん 以降 いこう は軍 ぐん の権力 けんりょく を押 お さえることにも力 ちから を入 い れるようになった。
ヒトラーは軍事 ぐんじ 指導 しどう に異常 いじょう な程 ほど の熱意 ねつい を注 そそ いだことも、他 た の独裁 どくさい 者 しゃ に比 くら べて顕著 けんちょ であった。大戦 たいせん 中 ちゅう 期間 きかん 、ほとんどを前線 ぜんせん に近 ちか い総統 そうとう 大本営 だいほんえい で好 この んで過 す ごした。また1942年 ねん からは自 みずか ら陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん を兼任 けんにん 、1942年 ねん 9月 がつ から11月 がつ までは前線 ぜんせん のA軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん を兼任 けんにん して指揮 しき するなど元首 げんしゅ として異例 いれい の行動 こうどう を採 と った。またアルデンヌ反攻 はんこう 作戦 さくせん など自 みずか ら作戦 さくせん を発案 はつあん するなど、作戦 さくせん の細部 さいぶ にまで関 かか わった。その中 なか でヒトラーは退却 たいきゃく や降伏 ごうぶく を徹底 てってい して嫌 きら い、精神 せいしん 論 ろん に基 もと づいた考 かんが えを軍 ぐん に強要 きょうよう した。同様 どうよう に自 みずか らの直感 ちょっかん を重視 じゅうし してラインハルト・ゲーレン のような不利 ふり な報告 ほうこく を行 おこな う者 もの 、戦略 せんりゃく 的 てき 撤退 てったい や防御 ぼうぎょ など「退嬰 たいえい 的 てき 」な提案 ていあん をする参謀 さんぼう 本部 ほんぶ との関係 かんけい が険悪 けんあく になった。そればかりか敗戦 はいせん が続 つづ くのは自 みずか らの命令 めいれい を正確 せいかく に行 おこな わない将軍 しょうぐん 達 たち の「裏切 うらぎ り」が原因 げんいん であるとし、側近 そっきん や軍 ぐん 幹部 かんぶ に当 あ たり散 ち らした。1944年 ねん 7月 がつ 20日 はつか の暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん は参謀 さんぼう 本部 ほんぶ を形成 けいせい する高級 こうきゅう 軍人 ぐんじん 達 たち への不信 ふしん 感 かん を決定的 けっていてき なものとした。1945年 ねん 4月 がつ 30日 にち という自殺 じさつ の日 ひ になっても、独 どく ソ戦 せん 敗因 はいいん は堕落 だらく した参謀 さんぼう 本部 ほんぶ と将軍 しょうぐん にあると語 かた り、官邸 かんてい 内 ない や地下 ちか 壕 ごう 内 ない にスパイがいるとして、自 みずか らの責任 せきにん については言及 げんきゅう することはなかった[ 308] [ 注 ちゅう 21] 。
しかし、イタリアのムッソリーニやソ連 それん のスターリンなどの独裁 どくさい 的 てき 指導 しどう 者 しゃ が大元帥 だいげんすい に叙 じょ されたのに対 たい して、ドイツには伝統 でんとう 的 てき にそうした習慣 しゅうかん がなかったため、ヒトラーは最後 さいご まで親衛隊 しんえいたい のもの を含 ふく め階級 かいきゅう を称 しょう することはなかった。
当時 とうじ の最新 さいしん メディアであったラジオ やテレビ 、映画 えいが などを活用 かつよう してプロパガンダを広 ひろ めるなど、メディア の力 ちから を重視 じゅうし していた。情報 じょうほう を素早 すばや く伝達 でんたつ させるため、ラジオを安値 やすね で普及 ふきゅう させた(国民 こくみん ラジオ )。また、これらの一環 いっかん としてベルリンオリンピックでは、女性 じょせい 監督 かんとく のレニ・リーフェンシュタール による2部 ぶ 作 さく の記録 きろく 映画 えいが 『オリンピア 』を制作 せいさく させている。
若年 じゃくねん 期 き 芸術 げいじゅつ 家 か を志 こころざ して挫折 ざせつ した過去 かこ があるためか、ヴェルナー・フォン・ブラウン 、ハンナ・ライチュ 、フェルディナント・ポルシェ をはじめとした若 わか く才気 さいき あふれると認 みと めた人物 じんぶつ には大 おお いに援助 えんじょ をした。
ベルクホーフ 山荘 さんそう 執務 しつむ 室 しつ での撮影 さつえい (1936年 ねん )
身長 しんちょう については中肉 ちゅうにく 中背 ちゅうぜい である。172cmから173cmなどとされている資料 しりょう がしばしば見受 みう けられるものの、1914年 ねん のザルツブルクでの徴兵 ちょうへい 検査 けんさ で175cmと記 しる されているため、これが正確 せいかく な数字 すうじ であると見 み られている。「ヒトラーは自分 じぶん の身長 しんちょう が高官 こうかん たちに比 ひ して低 ひく いことに劣等 れっとう 感 かん を抱 だ いており、靴 くつ の中 なか に細工 ざいく をして身長 しんちょう を高 たか く見 み せようとしたり、自分 じぶん の机 つくえ は段差 だんさ の上 うえ に置 お いていた」などの話 はなし はあるが、これは戦後 せんご ヒトラーを小物 こもの として印象 いんしょう づけるために成 な されたデマの一 ひと つである(もっとも車 くるま については多 おお くのパレード用 よう リムジンと同 おな じように、同乗 どうじょう 者 しゃ より自身 じしん を目立 めだ たせるために座 すわ っていた座席 ざせき と車 くるま の床 ゆか のかさ上 あ げが行 おこな われていた)。遺体 いたい 検証 けんしょう の際 さい 、後述 こうじゅつ する病 やまい の影響 えいきょう で萎縮 いしゅく した体格 たいかく から「推定 すいてい 163cmほど」と記録 きろく されたことが小柄 こがら というイメージにより拍車 はくしゃ をかけたと思 おも われる。体重 たいじゅう は時期 じき によって大 おお きく変 か わるが、運動 うんどう 不足 ふそく から1944年 ねん 1月 がつ には体重 たいじゅう が230ポンド(約 やく 104kg)に達 たっ したという[ 309] 。
瞳 ひとみ は青色 あおいろ で髪 かみ も幼少 ようしょう 時 じ までは金髪 きんぱつ であったが、長 なが じるに従 したが い色素 しきそ が沈着 ちんちゃく して青年 せいねん 期 き には黒髪 くろかみ になった。現実 げんじつ のナチス高官 こうかん は理想 りそう 的 てき な「アーリア人種 じんしゅ 」の体格 たいかく (金髪 きんぱつ 碧眼 へきがん かつ大柄 おおがら で健康 けんこう 的 てき )とはほど遠 とお い人物 じんぶつ が多 おお く、当時 とうじ 流行 はや ったジョークにも「理想 りそう 的 てき アーリア人 じん とはヒトラーのように金髪 きんぱつ で、ゲーリング のようにスマートで、ゲッベルス のように背 せ が高 たか いこと」(エーミール・ルートヴィヒ )と皮肉 ひにく られている。
他 た に口元 くちもと に小 ちい さく髭 ひげ を蓄 たくわ えていた事 こと は有名 ゆうめい である。元々 もともと ヒトラーは鼻 はな の穴 あな が他 た の人 ひと より大 おお きく見 み えることに劣等 れっとう 感 かん を抱 だ いていたとされ、青年 せいねん になって髭 ひげ が生 は えるようになるとこれを隠 かく すために伸 の ばすようになった。当初 とうしょ は横 よこ に伸 の びたカイゼル髭 かいぜるひげ であったものの、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に従軍 じゅうぐん 中 ちゅう 、ガスマスクを装着 そうちゃく するにあたって不便 ふべん が生 しょう じたため、髭 ひげ の両 りょう 端 はし を切 き り落 お として真 ま ん中 なか で揃 そろ えたスタイルに変 か え、以降 いこう この「チョビ髭 ひげ 」を終生 しゅうせい 保 たも った。小柄 こがら なイメージと相 あい まって「チビのチョビ髭 ひげ 」というイメージがチャーリー・チャップリン の映画 えいが 『独裁 どくさい 者 しゃ 』以降 いこう 定着 ていちゃく するようになった(なおヒトラーは『独裁 どくさい 者 しゃ 』を二 に 度 ど 鑑賞 かんしょう しているが、感想 かんそう は残 のこ されていない)。エヴァ・ブラウンはヒトラーと出会 であ った当時 とうじ 、おかしな口髭 くちひげ と思 おも っていたようである(エヴァ・ブラウン#ヒトラーとの出会 であ い )。第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 中 ちゅう に連合 れんごう 国軍 こくぐん はヒトラーに女性 じょせい ホルモンを摂取 せっしゅ させて女性 じょせい 化 か した彼 かれ にヒゲを剃 そ らせてしまおうと計画 けいかく した(ヒトラー女性 じょせい 化 か 計画 けいかく )。七 なな 三 さん に分 わ けた髪形 かみがた も特徴 とくちょう 的 てき だが、ヒトラーは遺伝 いでん 的 てき に薄毛 うすげ で前 ぜん 頭部 とうぶ から生 は え際 ぎわ が後退 こうたい していることが写真 しゃしん で確認 かくにん できる。
テレビ番組 ばんぐみ などでは彼 かれ の映像 えいぞう はもっぱら白黒 しろくろ が用 もち いられるが、実際 じっさい にはカラー映像 えいぞう も数多 かずおお く残 のこ されている(例 れい :ベルリンオリンピック開会 かいかい 式 しき やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影 さつえい したプライベートフィルム等 とう )。ただし、当時 とうじ はカラーフィルム黎明 れいめい 期 き で価格 かかく も高 たか く、技術 ぎじゅつ 的 てき に未 み 成熟 せいじゅく でまだまだ珍 めずら しく、彼 かれ の登場 とうじょう する公的 こうてき 記録 きろく 映像 えいぞう (演説 えんぜつ シーンなど)のほとんどは信頼 しんらい 性 せい が高 たか い白黒 しろくろ で撮影 さつえい されている。
ズデーテンラント進駐 しんちゅう の際 さい 、現地 げんち の野外 やがい で軽食 けいしょく を摂 と るヒトラーと関係 かんけい 者 しゃ たち(1938年 ねん )
ヒトラーは病弱 びょうじゃく ではなかったが、母親 ははおや ががん で苦 くる しむのを見 み ていたため、自 みずか らもがんで死 し ぬのではないかという不安 ふあん にとりつかれていた。父親 ちちおや も脳卒中 のうそっちゅう で亡 な くなっており、遺伝 いでん 的 てき な病気 びょうき に神経質 しんけいしつ なほどに気 き を遣 や っていたが、その不安 ふあん 自体 じたい が悪循環 あくじゅんかん に精神 せいしん の病 やまい (不安 ふあん 障害 しょうがい )として体調 たいちょう 不良 ふりょう につながっていった。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 とき に敵 てき 軍 ぐん が投下 とうか した化学 かがく 兵器 へいき に動揺 どうよう して、ヒステリー による失明 しつめい 症状 しょうじょう を起 お こして精神 せいしん 科 か 医 い による治療 ちりょう を受 う けている。1928年 ねん 頃 ごろ 、不安 ふあん による強迫 きょうはく 観念 かんねん から逃 のが れるため、精神 せいしん 科 か に通院 つういん して治療 ちりょう を試 こころ みているがうまくいかなかった。
衛生 えいせい 面 めん への気遣 きづか いも人一倍 ひといちばい で、一 いち 日 にち に何 なん 回 かい も風呂 ふろ に入 はい っては念入 ねんい りに体 からだ を洗 あら うのが日課 にっか だった[ 311] 。しかし、口内 こうない 衛生 えいせい については極 きわ めて悪 わる く、ヒトラーの歯 は は黄 き ばんでおり、口臭 こうしゅう があったと当時 とうじ の秘書 ひしょ が回想 かいそう している[ 312] 。ヒトラーの遺骸 いがい を調査 ちょうさ したマルク・ベネッケ (英語 えいご 版 ばん ) によれば、ヒトラーの歯 は の状態 じょうたい は他 た に類 るい を見 み ないほど悪 わる く、虫歯 むしば と歯 は 周 しゅう 病 びょう が口臭 こうしゅう の原因 げんいん であった可能 かのう 性 せい が高 たか い[ 313] 。歯科 しか 医 い が1945年 ねん に記録 きろく したカルテでは下 しも 顎 あご の前歯 まえば をはじめとした5本 ほん を除 のぞ いてほとんどが金属 きんぞく 製 せい あるいは陶器 とうき 製 せい の義歯 ぎし やブリッジ、あるいは被 ひ せ物 もつ を施 ほどこ されており、上顎 じょうがく の奥歯 おくば は全 すべ て抜 ぬ け落 お ちて放置 ほうち されたままだった。これは伴侶 はんりょ のエヴァの歯 は の状態 じょうたい が治療 ちりょう の必要 ひつよう 性 せい がないと評 ひょう されるほど良好 りょうこう であったのとは対照 たいしょう 的 てき だった。
ウィーンを深夜 しんや 徘徊 はいかい するなど青年 せいねん 時代 じだい からすでに不眠症 ふみんしょう 気味 きみ で、乱 みだ れた生活 せいかつ を送 おく っていた。夜 よる 型 がた であったため、独裁 どくさい 者 しゃ になってからも主 おも に深夜 しんや に会議 かいぎ を行 おこな うことも多 おお く、会議 かいぎ がない時 とき でも明 あ け方 がた 近 ちか くまで側近 そっきん 達 たち を集 あつ めてティー・パーティを開 ひら いた。側近 そっきん 達 たち はヒトラーが眠 ねむ るまで退席 たいせき を許 ゆる されなかった。このため昼間 ひるま の業務 ぎょうむ も行 おこな わなくてはならない側近 そっきん 達 たち は非常 ひじょう に苦労 くろう したという。ヒトラーが眠 ねむ りにつくと、なにがあろうと起 お こすことは許 ゆる されなかったが、これが災 わざわ いしてノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん の対応 たいおう に遅 おく れたとも言 い われている。
1933年 ねん 頃 ごろ になると消化 しょうか 器官 きかん の不調 ふちょう に悩 なや まされ、50歳 さい に近 ちか づいた1936年 ねん 頃 ごろ には胃 い けいれん 、不眠 ふみん 、とめどない放屁 ほうひ に加 くわ え、足 あし の湿疹 しっしん にも悩 なや まされるようになる。持病 じびょう の治療 ちりょう に悩 なや んでいたヒトラーに恋人 こいびと であるエヴァ・ブラウンが紹介 しょうかい したのがテオドール・モレル 医師 いし であった。モレルの処方 しょほう した薬 くすり には劇 げき 物 ぶつ が多 おお かったため依存 いぞん 性 せい や副作用 ふくさよう が強 つよ く、ヒトラーの症状 しょうじょう は一時 いちじ 的 てき に改善 かいぜん されたが、次第 しだい に副作用 ふくさよう が心身 しんしん をむしばんでいった。モレルの診断 しんだん や処方 しょほう する劇薬 げきやく に他 た の医師 いし 達 たち は懐疑 かいぎ 的 てき であり、紹介 しょうかい したエヴァをはじめとする側近 そっきん 達 たち も次第 しだい に不信 ふしん 感 かん を強 つよ めたが、症状 しょうじょう 回復 かいふく を望 のぞ んでいたヒトラーの信頼 しんらい は厚 あつ く、最期 さいご を迎 むか える寸前 すんぜん までモレルは主治医 しゅじい を務 つと めた[ 注 ちゅう 22] 。モレルの個人 こじん 的 てき メモにはヘロイン などの記録 きろく があり、ジャーナリストのノーマン・オーラー (ドイツ語 ご 版 ばん ) が唱 とな えるようにヒトラーが薬物 やくぶつ 中毒 ちゅうどく の状態 じょうたい にあったという主張 しゅちょう もある[ 314] 。ただし、モレルのメモには量 りょう や頻度 ひんど に関 かん する記載 きさい がほとんどなく、あったとしてもごく僅 わず かな頻度 ひんど にとどまっている上 うえ 、イアン・カーショーが指摘 してき したように、モレルとの出会 であ いの前後 ぜんご でヒトラーの性格 せいかく が変化 へんか したということもないため、ヒトラーが麻薬 まやく 中毒 ちゅうどく 状態 じょうたい にあったという説 せつ は多 おお くの歴史 れきし 家 か から否定 ひてい されている[ 315] [ 316] 。
大戦 たいせん 中 ちゅう の1942年 ねん 頃 ごろ から、ヒトラーの左手 ひだりて が震 ふる えるようになった。この震 ふる えは、徹底 てってい した撮影 さつえい アングルの規制 きせい と検閲 けんえつ によって記録 きろく フィルムからカットされたが、検閲 けんえつ に漏 も れたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄 はき されずに残 のこ った一部 いちぶ のフィルムによって確認 かくにん されている。映像 えいぞう を見 み た小長谷 こながや 正明 まさあき などの神経 しんけい 科 か 医 い や、晩年 ばんねん のヒトラーと接見 せっけん した親衛隊 しんえいたい 大佐 たいさ 兼 けん 国防 こくぼう 軍 ぐん 軍医 ぐんい のエルンスト=ギュンター・シェンク 教授 きょうじゅ はパーキンソン病 びょう と断定 だんてい している。当時 とうじ は対処 たいしょ 法 ほう がなく、症状 しょうじょう は確実 かくじつ に進 すす み、肉体 にくたい と思考 しこう 能力 のうりょく を低下 ていか させていった。食事 しょくじ の際 さい も震 ふる えは止 と まらず、右手 みぎて も次第 しだい に不自由 ふじゆう になったため、しばしばスープをこぼして服 ふく にしみが付 つ いた。1941年 ねん 頃 ごろ から発症 はっしょう したこのパーキンソン病 びょう により、かつての柔軟 じゅうなん な外交 がいこう 政策 せいさく を取 と った頃 ころ と異 こと なり、頑迷 がんめい で無理 むり な戦争 せんそう 指導 しどう が引 ひ き起 お こされたとも言 い われる。
1944年 ねん 頃 ごろ になると手 て の震 ふる えに加 くわ えて猫背 ねこぜ になり、歩行 ほこう にも影響 えいきょう が出 で 始 はじ めた。まだ55歳 さい であったにもかかわらず、衰 おとろ えた容貌 ようぼう から70代 だい の老人 ろうじん に見 み えたという。精神 せいしん 的 てき にも戦局 せんきょく の悪化 あっか などで癇癪 かんしゃく を起 お こすような出来事 できごと が多 おお くなり、不眠症 ふみんしょう に拍車 はくしゃ を掛 か けた。そのため体力 たいりょく も急速 きゅうそく に衰 おとろ えはじめ、数 すう 十 じゅう メートルほどしか歩 ある けなくなり、従者 じゅうしゃ の体 からだ に寄 よ りかかったり、専用 せんよう のベンチに座 すわ って休憩 きゅうけい をしなければならなくなった。シュペーアの証言 しょうげん では、晩年 ばんねん には美術 びじゅつ 学生 がくせい 時代 じだい の技術 ぎじゅつ は失 うしな われ、対面 たいめん した際 さい 地図 ちず に直線 ちょくせん を引 ひ くつもりが線 せん は次第 しだい に曲 ま がっていったという。署名 しょめい も判読 はんどく できなくなり、ボルマンに悪用 あくよう されることになった。視力 しりょく も衰 おとろ え、専用 せんよう の通常 つうじょう より3倍 ばい も大 おお きな文字 もじ で書 か かれた書類 しょるい ですら大 おお きな虫眼鏡 むしめがね で目 め を通 とお さなければならなかった。青年 せいねん 期 き からの誇大妄想 こだいもうそう やパラノイアも悪化 あっか して、周囲 しゅうい をほとんど信用 しんよう しなくなった。
一般 いっぱん 的 てき な健康 けんこう 法 ほう である運動 うんどう は好 この まず、色白 いろじろ で汗 あせ をかかない姿 すがた から不健康 ふけんこう な人物 じんぶつ という印象 いんしょう を与 あた える事 こと もしばしばだった。本人 ほんにん は運動 うんどう 不足 ふそく を心配 しんぱい した医者 いしゃ に「私 わたし にとっての最大 さいだい のスポーツは演説 えんぜつ だ」と反論 はんろん したように、あまりにも激 はげ しい熱弁 ねつべん を振 ふ るった後 のち の体重 たいじゅう は数 すう キロも減少 げんしょう していたという。ただし、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ の戦傷 せんしょう や、ミュンヘン一揆 いっき での肩 かた の脱臼 だっきゅう などで激 はげ しいスポーツができなかったという部分 ぶぶん もあった。運動 うんどう 嫌 ぎら いのヒトラーは食事 しょくじ を菜食 さいしょく 中心 ちゅうしん に努 つと め、飲酒 いんしゅ や喫煙 きつえん も控 ひか える事 こと で健康 けんこう 的 てき な生活 せいかつ を試 こころ みている。後 のち に宿敵 しゅくてき となるスターリン やチャーチル が大 だい 酒飲 さけの みでヘビースモーカー であったのとは対照 たいしょう 的 てき であった。
ウィーンを放浪 ほうろう していた時期 じき を知 し る人物 じんぶつ によると、若 わか い時代 じだい からヒトラーはあまり酒 しゅ やたばこ は好 この まなかったという。禁煙 きんえん についてボルマンが聞 き いた内容 ないよう によれば、青年 せいねん 時代 じだい には喫煙 きつえん していたものの、金 きむ が底 そこ をついた為 ため に止 と める決意 けつい をし、たばこを川 かわ に捨 す てたというヒトラー自身 じしん の回想 かいそう が触 ふ れられている。母親 ははおや が嫌煙 けんえん 家 か でかつ癌 がん で亡 な くなった事 こと も影響 えいきょう したという見方 みかた もある。部下 ぶか や党 とう 高官 こうかん が喫煙 きつえん するのを見 み た時 とき には、健康 けんこう のため禁煙 きんえん を勧 すす めるほどであったという。エヴァ・ブラウンを含 ふく め、ヒトラーの部下 ぶか や周辺 しゅうへん 人物 じんぶつ のほとんどが喫煙 きつえん 者 しゃ であったが、ヒトラーの前 まえ や彼 かれ が使用 しよう する部屋 へや では全面 ぜんめん 禁煙 きんえん が敷 し かれていた。しかし、敗戦 はいせん 間際 まぎわ の総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう ではその威厳 いげん も薄 うす れ、ヒトラーが近 ちか くを通 とお っても皆 みな 平然 へいぜん とたばこを吸 す い、彼 かれ もそれを厳 きび しく咎 とが めることはなくなっていたとされる。禁酒 きんしゅ については、上記 じょうき の父 ちち が飲酒 いんしゅ している時 とき に脳卒中 のうそっちゅう になった事 こと から避 さ けるようになった。一方 いっぽう でバルジの戦 たたか い の初期 しょき 、軍 ぐん の攻勢 こうせい が順調 じゅんちょう に進 すす んでいることを祝 いわ い、ヒトラーがワイン を口 くち にするのを見 み て驚 おどろ いたという側近 そっきん の証言 しょうげん が残 のこ されている。
菜食 さいしょく 主義 しゅぎ については溺愛 できあい していた姪 めい のゲリ・ラウバル の自殺 じさつ 後 ご になったともされるが、実際 じっさい にはレバーのダンプリング や、ソーセージ 、鶏肉 とりにく を食 た べることもあり[ 317] 、それほど徹底 てってい してはいなかった。伝記 でんき 作家 さっか のロバート・ペインによると、ヒトラーはソーセージ が好物 こうぶつ であり、彼 かれ が厳格 げんかく な菜食 さいしょく 主義 しゅぎ 者 しゃ [ 318] であったとする神話 しんわ は、ゲッベルスによる印象 いんしょう 操作 そうさ であると主張 しゅちょう している[要 よう ページ番号 ばんごう ] 。一方 いっぽう で、戦時 せんじ 中 ちゅう に菜食 さいしょく 主義 しゅぎ 者 しゃ 団体 だんたい を弾圧 だんあつ したという説 せつ については、アメリカベジタリアン協会 きょうかい 歴史 れきし アドバイザーのリン・ベリー (英語 えいご 版 ばん ) らに否定 ひてい されている[ 320] 。
パレスチナ の指導 しどう 者 しゃ のハーッジ・アミーン・フサイニー と会見 かいけん するヒトラー(1941年 ねん )
ヒトラーはコミュニケーション能力 のうりょく にいささか問題 もんだい があったようで、シュペーアによれば「彼 かれ は気取 きど らないリラックスした会話 かいわ ができなかったようだ」と観察 かんさつ し、「不機嫌 ふきげん な時 とき の言葉 ことば は学童 がくどう とほぼ同 おな じ程度 ていど だった」と証言 しょうげん した。粛清 しゅくせい されたエルンスト・レーム も「彼 かれ は批判 ひはん されるのが嫌 きら いで、党内 とうない で彼 かれ の提案 ていあん が疑問 ぎもん 視 し されるとすぐさまその場 ば から消 き え、自分 じぶん が通 つう じていない話 はなし をするのも嫌 いや がった」と記 しる している。
ただし客 きゃく として面会 めんかい した人間 にんげん を魅了 みりょう することはよく知 し られており、多 おお くのドイツ人 じん や、デビッド・ロイド・ジョージ といった外国 がいこく 人 じん もヒトラーと面会 めんかい した際 さい には好 こう 印象 いんしょう を持 も ったと語 かた っている。しかしいったん敵 てき となった人物 じんぶつ に対 たい しては口 くち をきわめて罵 ののし った。たとえば1933年 ねん のニューヨーク・タイムズ のインタビューでは、アメリカ大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト に対 たい して「共感 きょうかん を覚 おぼ える」「ヨーロッパにおいて大統領 だいとうりょう の方法 ほうほう や動機 どうき に理解 りかい をしめした唯一 ゆいいつ の指導 しどう 者 しゃ 」などと語 かた っていたが、アメリカの参戦 さんせん 以降 いこう の評価 ひょうか はきわめて辛辣 しんらつ なものとなった。また枢軸 すうじく 国 こく の首脳 しゅのう などには高額 こうがく な贈 おく り物 もの を行 おこな い、ホルティ・ミクローシュ は65万 まん ライヒスマルク の機関 きかん 付 つ きヨットの贈与 ぞうよ を受 う けている。
学者 がくしゃ や官僚 かんりょう などの高等 こうとう 教育 きょういく を受 う けた知的 ちてき エリート を「知識 ちしき はあるが感性 かんせい のない連中 れんちゅう 」と嫌 きら うなど、自 みずか らの教育 きょういく 水準 すいじゅん (中等 ちゅうとう 教育 きょういく の途中 とちゅう 放棄 ほうき )にコンプレックスを抱 だ いていたことが複数 ふくすう の人物 じんぶつ から証言 しょうげん されている。青年 せいねん 期 き に図書館 としょかん で書物 しょもつ を読 よ み漁 あさ って独学 どくがく に励 はげ んだり、後年 こうねん にも専門 せんもん 的 てき な議論 ぎろん へ必要 ひつよう 以上 いじょう に口 くち を挟 はさ みたがった。地政学 ちせいがく を提唱 ていしょう した学者 がくしゃ のカール・ハウスホーファー は自身 じしん の理論 りろん を積極 せっきょく 的 てき に引用 いんよう していたヒトラーと面会 めんかい したが、「正規 せいき の教育 きょういく を受 う けた者 もの に対 たい して、半 はん 独学 どくがく 者 しゃ 特有 とくゆう の不信 ふしん 感 かん を抱 だ いている」とする感想 かんそう を残 のこ している[ 注 ちゅう 23] 。独学 どくがく で学 まな んだ知識 ちしき については確 たし かにある程度 ていど は博識 はくしき なものの、独学 どくがく 者 しゃ にありがちな偏 かたよ った知識 ちしき や表面 ひょうめん 的 てき な理解 りかい のみという部分 ぶぶん があり、先 さき のハウスホーファーも「地政学 ちせいがく を全 まった く理解 りかい できていなかった」と指摘 してき している。
こうしたヒトラーを特徴付 とくちょうづ ける劣等 れっとう 感 かん は学識 がくしき だけではなく、軍 ぐん 歴 れき においてもそうであった。軍隊 ぐんたい ので最終 さいしゅう 階級 かいきゅう が低 ひく かったため、元帥 げんすい である大統領 だいとうりょう のヒンデンブルク、現役 げんえき 軍人 ぐんじん においてもゲルト・フォン・ルントシュテット やエーリヒ・フォン・マンシュタイン ら国防 こくぼう 軍 ぐん 将官 しょうかん からは「ボヘミアの伍長 ごちょう 」としばしば蔑視 べっし されていた(実際 じっさい には、下士官 かしかん である伍長 ごちょう ですらなかった)。逆 ぎゃく にヒトラーのお気 き に入 い りの軍人 ぐんじん は、ドイツが攻勢 こうせい であった大戦 たいせん 前半 ぜんはん は、華々 はなばな しい攻勢 こうせい 作戦 さくせん を指揮 しき したロンメル、マンシュタイン、ハインツ・グデーリアン らであったが、守勢 しゅせい に立 た たされて以降 いこう は、頑強 がんきょう な守備 しゅび 作戦 さくせん の指揮 しき に定評 ていひょう のあった、ヴァルター・モーデル 、フェルディナント・シェルナー らがこれに代 か わった。また、元帥 げんすい のゲルト・フォン・ルントシュテット はその旧 きゅう プロイセン軍人 ぐんじん 風 ふう の威厳 いげん が好 この まれて、何 なん 度 ど も解任 かいにん されてはまた重要 じゅうよう な立場 たちば に再 さい 起用 きよう された。
社会 しゃかい 階級 かいきゅう 的 てき にもいわゆる貴族 きぞく 階級 かいきゅう やユンカー などの上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう を憎 にく み、自身 じしん が「プロレタリアート 」であることを演説 えんぜつ において強調 きょうちょう した。このことは党内 とうない で家柄 いえがら ではなく生物 せいぶつ 学 がく 的 てき な条件 じょうけん で選抜 せんばつ した親衛隊 しんえいたい を指導 しどう 層 そう に置 お いたり、帝政 ていせい ドイツ時代 じだい の皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい の会見 かいけん 要請 ようせい にも応 おう じないなどの姿勢 しせい に現 あらわ れている。プロイセン軍 ぐん 時代 じだい からの伝統 でんとう を引 ひ き継 つ ぐ国防 こくぼう 軍 ぐん において、ユンカーとの対立 たいりつ は上記 じょうき の経緯 けいい と共 とも に軍 ぐん 上層 じょうそう 部 ぶ との対立 たいりつ を生 う んだ。戦争 せんそう 中 ちゅう には参謀 さんぼう 本部 ほんぶ に対 たい する不信 ふしん をあらわにして何 なん 度 ど も参謀 さんぼう 総長 そうちょう を更迭 こうてつ した。さらに平民 へいみん 出身 しゅっしん 者 しゃ が多数 たすう を占 し める親衛隊 しんえいたい の武装 ぶそう 部門 ぶもん (武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい )を巨大 きょだい 化 か させ、国防 こくぼう 軍 ぐん 上層 じょうそう 部 ぶ から党 とう へと軍 ぐん 権力 けんりょく を分散 ぶんさん させようとした。大戦 たいせん 末期 まっき にはヒトラー暗殺 あんさつ 計画 けいかく の関係 かんけい 者 しゃ に多 おお くのユンカーが加 くわ わり、ヒトラーの側 がわ も敗戦 はいせん の責任 せきにん をユンカーが多数 たすう を占 し める陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ が原因 げんいん としている。
列車 れっしゃ から降 お りるムッソリーニを迎 むか えるヒトラー
同 どう 時代 じだい の政治 せいじ 家 か では政界 せいかい 入 い りを志 こころざ してから政権 せいけん 獲得 かくとく まで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔 しんすい に近 ちか い感情 かんじょう を抱 だ いていたことで知 し られている。教師 きょうし 出身 しゅっしん で豊富 ほうふ な学識 がくしき から新 あたら しい政治 せいじ 思想 しそう 「ファシズム 」を理論 りろん 化 か し、政治 せいじ 家 か としてもイタリアでの独裁 どくさい 権 けん 獲得 かくとく と経済 けいざい 立 た て直 なお しに成功 せいこう していたムッソリーニをヒトラーは自 みずか らの手本 てほん としていた[ 324] 。バイエルン時代 じだい には自 みずか らが設計 せっけい した党 とう 本部 ほんぶ の執務 しつむ 室 しつ にフリードリヒ大王 だいおう の絵画 かいが と共 とも に、ムッソリーニの胸像 きょうぞう を掲 かか げていたという[ 324] 。同盟 どうめい 国 こく の要人 ようじん を表彰 ひょうしょう するべくドイツ鷲 わし 勲章 くんしょう (ドイツ鷲 わし 騎士 きし 団 だん )を自 みずか ら創設 そうせつ すると、その最高 さいこう 等級 とうきゅう である「ダイヤモンド付 づけ ドイツ金 きん 鷲 わし 大 だい 十字 じゅうじ 勲章 くんしょう 」(Grosskreuz des Deutschen Adlerordens in Gold und Brillanten) をムッソリーニのみに授与 じゅよ している。ハンガリーのホルティ 、ルーマニアのアントネスク 、フィンランドのマンネルヘイム ら他 た の枢軸 すうじく 国 こく の元首 げんしゅ ・軍 ぐん 首脳 しゅのう への授与 じゅよ が他 た の等級 とうきゅう に留 とど まっていることとは明 あき らかに対照 たいしょう 的 てき である。
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム (左 ひだり )、リスト・リュティ (右 みぎ )とともに。1942年 ねん にマンネルヘイム生誕 せいたん 75周年 しゅうねん を祝福 しゅくふく するためフィンランド を訪 おとず れた際 さい のヒトラー。
こうした熱烈 ねつれつ なヒトラーからの親愛 しんあい とは裏腹 うらはら に、ムッソリーニの側 がわ はヒトラーを「無学 むがく な新参 しんざん 者 しゃ 」と見下 みくだ している向 む きがあった。「私 わたし は二流 にりゅう 国 こく の一流 いちりゅう 指導 しどう 者 しゃ だが、彼 かれ は一流 いちりゅう 国 こく の二流 にりゅう 指導 しどう 者 しゃ だ」と皮肉 ひにく る発言 はつげん をし、また北方 ほっぽう 人種 じんしゅ 論 ろん や反 はん ユダヤ主義 しゅぎ などの人種 じんしゅ 主義 しゅぎ にも嫌悪 けんお 感 かん を抱 だ いていた。初 はつ 会談 かいだん の席 せき を設 もう けられた時 とき もヒトラーを「道化者 どうけもの 」と酷評 こくひょう しており、むしろ彼 かれ と敵対 てきたい するオーストリアのエンゲルベルト・ドルフース の方 ほう に好 こう 感情 かんじょう を抱 だ いていた。しかし、独 どく 伊 い 両国 りょうこく が侵略 しんりゃく 政策 せいさく で孤立 こりつ し始 はじ めると、急速 きゅうそく に接近 せっきん するようになり、ムッソリーニもヒトラーの親愛 しんあい に応 おう じるようになった。公式 こうしき に開 ひら かれた独 どく 伊 い 首脳 しゅのう 会談 かいだん だけで16回 かい も行 おこな われ、歴訪 れきほう についてもムッソリーニがドイツに一 いち 回 かい 、ヒトラーがイタリアに二 に 回 かい 赴 おもむ いて行 い っている。その中 なか でもムッソリーニの第 だい 一 いち 次 じ ドイツ歴訪 れきほう でのヒトラーの歓待 かんたい ぶりは良 よ く知 し られているが、ムッソリーニもヒトラーへの心配 こころくば りを忘 わす れなかった。
ヒトラーの第 だい 二 に 次 じ イタリア歴訪 れきほう ではローマ、ナポリ、フィレンツェなどを周遊 しゅうゆう したが、最後 さいご に訪 おとず れたフィレンツェ でヒトラーの古典 こてん 芸術 げいじゅつ 趣味 しゅみ を知 し っていたムッソリーニが街 まち 中 ちゅう の美術館 びじゅつかん を全 すべ て貸 か し切 き りにし、公式 こうしき 行事 ぎょうじ を全 すべ て後回 あとまわ しにしてヒトラーと芸術 げいじゅつ 鑑賞 かんしょう をするというサプライズを用意 ようい した。ヒトラーの喜 よろこ びようは尋常 じんじょう ではなく、ミケランジェロの絵画 かいが を陶酔 とうすい した目 め で眺 なが め、フィレンツェの街並 まちなみ を一望 いちぼう した時 とき には笑 わら いながら「とうとう、とうとう私 わたし はベックリン とフォイエルバッハ が分 わ かった!」と叫 さけ ぶ有様 ありさま だった[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。ムッソリーニは想像 そうぞう を超 こ えるヒトラーの上機嫌 じょうきげん さはともかく、どの美術館 びじゅつかん でも最後 さいご に必 かなら ず「ボリシェヴィキ が到来 とうらい すれば、この世界 せかい 全 すべ てが破壊 はかい される」と同 おな じ台詞 せりふ を口 くち にするのには呆 あき れた様子 ようす だった。ミケランジェロ の聖家族 せいかぞく を見 み た後 のち にヒトラーが「ボリシェビキが来 く れば…」と言 い いつつ振 ふ り返 かえ ると、ムッソリーニは「全 すべ てが破壊 はかい される」と苦笑 にがわら いしながらドイツ語 ご で答 こた えている。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 後 ご は目覚 めざま しい圧勝 あっしょう を重 かさ ねるドイツに対 たい して、軍事 ぐんじ 的 てき に従属 じゅうぞく するイタリアの発言 はつげん 権 けん は弱 よわ まっていった。これに従 したが いヒトラーとムッソリーニの間柄 あいだがら も主導 しゅどう 権 けん が入 い れ替 か わり、クーデターでムッソリーニが失脚 しっきゃく すると立場 たちば は完全 かんぜん に逆転 ぎゃくてん した。一方 いっぽう でヒトラーの友情 ゆうじょう や尊敬 そんけい の念 ねん は変 か わらず、イタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく を建国 けんこく する際 さい 、親 しん 独 どく 的 てき な姿勢 しせい から当初 とうしょ 予定 よてい されていたロベルト・ファリナッチ がムッソリーニを批判 ひはん する発言 はつげん をしたことに激怒 げきど して決定 けってい を撤回 てっかい している。ヒトラーにとってムッソリーニはただの傀儡 かいらい ではなく紛 まぎ れもない友 とも であった。ムッソリーニがパルチザン に処刑 しょけい された報告 ほうこく を聞 き いた際 さい 、ヒトラーは激 はげ しい動揺 どうよう を示 しめ している。
ヒトラー(左 ひだり )とクーデンホーフ=カレルギー(右 みぎ )。2枚 まい とも1920年代 ねんだい の写真 しゃしん 。2人 ふたり は共 とも にオーストリア育 そだ ち。
パン・ヨーロッパ連合 れんごう 主宰 しゅさい 者 しゃ の日系 にっけい オーストリア人 じん 貴族 きぞく リヒャルト・ニコラウス・栄次郎 えいじろう ・クーデンホーフ=カレルギー (伯爵 はくしゃく 、博士 はかせ )に対 たい しては、「全 ぜん 世界 せかい 的 てき な雑種 ざっしゅ のクーデンホーフ」(= Aller welts bastarden Coudenhove アラーヴェルツバスターデン・クーデンホーフ)[ 注 ちゅう 24] であると1928年 ねん 執筆 しっぴつ (死後 しご の1961年 ねん 出版 しゅっぱん )の自著 じちょ 『第 だい 二 に の書 しょ (続 ぞく ・我 わ が闘争 とうそう ) 』で形容 けいよう して嫌 きら っていた[ 327] 。クーデンホーフ=カレルギーは根無 ねな し草 ぐさ 、コスモポリタン (世界 せかい 人 じん )、エリート主義 しゅぎ の混血 こんけつ で、ハプスブルク 一味 いちみ であった過去 かこ の失敗 しっぱい を大陸 たいりく 規模 きぼ でやるというのが、ヒトラーにとってのクーデンホーフ=カレルギー像 ぞう であった[ 328] 。
クーデンホーフ=カレルギーの側 がわ からもヒトラーへの批判 ひはん があり、その後 ご 、表立 おもてだ ってのさまざまな応酬 おうしゅう を繰 く り返 かえ してクーデンホーフ=カレルギーを米国 べいこく 亡命 ぼうめい に追 お い込 こ んだ。
ゲッベルスの子供 こども とヒトラー(1933年 ねん 8月 がつ )
ヒトラーは死 し の直前 ちょくぜん まで結婚 けっこん しなかった。これについては色々 いろいろ な理由 りゆう があるが、基本 きほん 的 てき にはヒトラーが女性 じょせい に対 たい して紳士 しんし であろうと努 つと めていたことに加 くわ え、「結婚 けっこん すれば多 おお くの婦人 ふじん 票 ひょう を失 うしな うことになる」と恐 おそ れていた為 ため であるという。ミュンヘン時代 じだい の下宿 げしゅく 先 さき であるアンネ・ポップ婦人 ふじん は当時 とうじ のヒトラーについて彼 かれ が夫妻 ふさい の部屋 へや に入 はい る時 とき は必 かなら ずノックし、入室 にゅうしつ を許可 きょか しても「入 はい っていいですか」と重 かさ ねて尋 たず ねた。「そんな堅苦 かたくる しい礼儀 れいぎ はいい」と夫妻 ふさい が言 い ってもヒトラーはそれを続 つづ け、ヒトラーの顔 かお がやせていることを気 き にした夫 おっと が食事 しょくじ をさせようとしても断 ことわ った。それを見 み て彼女 かのじょ はヒトラーのことを「これほど礼儀 れいぎ 正 ただ しい青年 せいねん はなかなかいない」と感 かん じたと証言 しょうげん している。ヒトラーは身近 みぢか な女性 じょせい や子供 こども に対 たい しては親切 しんせつ で寛容 かんよう であったという。秘書 ひしょ や使用人 しようにん のミスに怒声 どせい を上 あ げたこともなく、専属 せんぞく の調理 ちょうり 婦 ふ には常 つね に敬意 けいい をもって接 せっ していた。恰幅 かっぷく の良 よ い女性 じょせい に弱 よわ かったという証言 しょうげん もある。この傾向 けいこう は敗戦 はいせん が近 ちか づくにつれ顕著 けんちょ になっていった。個人 こじん 的 てき に接 せっ した子供 こども たちからは「アディおじさん」と呼 よ ばれて親 した しまれ、ヒトラー自身 じしん も子供 こども を可愛 かわい がった。たとえば、ゲッベルスに対 たい しては常 つね に、彼 かれ とマクダ夫人 ふじん との間 あいだ に生 う まれた6人 にん の子供 こども の近況 きんきょう を話 はな すように求 もと めたという。
ただし恋人 こいびと エヴァの前 まえ で「インテリは単純 たんじゅん な愚 おろ かな女 おんな をめとるほうがいい」と語 かた るほど女性 じょせい の知性 ちせい を信頼 しんらい していなかったヒトラーは、女性 じょせい が政治 せいじ に関与 かんよ することは認 みと めていなかった。「女性 じょせい の部屋 へや にいて、政治 せいじ 的 てき なことに干渉 かんしょう されるのはまっぴらだ」と公言 こうげん していたこともあり、女性 じょせい 関係 かんけい がヒトラーの政策 せいさく に影響 えいきょう を与 あた えることはほとんど無 な かった。また、ヒトラーには戦場 せんじょう で鼠径 そけい 部 ぶ を負傷 ふしょう した際 さい に生殖 せいしょく 能力 のうりょく を失 うしな っていたという説 せつ も根強 ねづよ く存在 そんざい している[ 332] 。睾丸 こうがん が一 ひと つしかなかったともいわれるが、ヒトラーの主治医 しゅじい らはこれを否定 ひてい している。しかし実際 じっさい にヒトラーの睾丸 こうがん を確認 かくにん したかは定 さだ かではなく、またソ連 それん 軍 ぐん の遺体 いたい 検証 けんしょう では左 ひだり 睾丸 こうがん がなく、わざわざ恥骨 ちこつ に引 ひ っ込 こ んでいるのではないかと調査 ちょうさ しても見 み つからなかったという記録 きろく がある。
女性 じょせい 恐怖症 きょうふしょう であった事 こと はなく、私生活 しせいかつ では男性 だんせい より女性 じょせい と会話 かいわ する事 こと を好 この み、ジョークや物真似 ものまね といったくだけた会話 かいわ も行 おこな っていたという[ 311] 。ヒトラーの女性 じょせい の好 この みは単純 たんじゅん 明快 めいかい で、ふくよかな丸 まる 顔 がお と脚線美 きゃくせんび を持 も つ女性 じょせい を美人 びじん と見 み なした。青年 せいねん 期 き の友人 ゆうじん であったアウグスト・クビツェク によると、リンツ時代 じだい のヒトラーはシュテファニーという背 せ の高 たか い美 うつく しい女性 じょせい に一目惚 ひとめぼ れしたが、声 こえ をかける勇気 ゆうき が無 な く彼女 かのじょ が決 き まって散歩 さんぽ をする道 みち を2人 ふたり で待 ま ち伏 ぶ せして見 み つめたり、あわただしい行動 こうどう をとって関心 かんしん をひこうとしたにとどまった。この時 とき ヒトラーはなかなか踏 ふ み込 こ めない自分 じぶん に嫌悪 けんお 感 かん を持 も ち相当 そうとう 落 お ち込 こ んでいたようで、クビツェクに「俺 おれ は彼女 かのじょ にどう話 はな しかけたらいいんだ」としばしば助言 じょげん を求 もと めていたという。ヒトラーからアプローチを受 う けたと称 しょう する女性 じょせい や、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード やヴィニフレート・ワーグナー など噂 うわさ になった女性 じょせい も少 すく なからず存在 そんざい している。中 なか でもヴィニフレートは、ワーグナーの息子 むすこ ジークフリート の未亡人 みぼうじん であり、ワグネリアン として有名 ゆうめい であったヒトラーの強 つよ い後援 こうえん を受 う けていたため、彼女 かのじょ の主宰 しゅさい するバイロイト音楽 おんがく 祭 さい は国家 こっか 行事 ぎょうじ 化 か していた。当時 とうじ もヒトラーとヴィニフレートの結婚 けっこん の噂 うわさ が何 なん 度 ど も流 なが れている。姪 めい のゲリ・ラウバル には通常 つうじょう の叔父 おじ と姪 めい の関係 かんけい を超 こ えた愛情 あいじょう を注 そそ ぎ、近親 きんしん 相姦 そうかん 関係 かんけい にあったという説 せつ も唱 とな えられている。しかしラウバルは1931年 ねん に自殺 じさつ し、ヒトラーに大 おお きな衝撃 しょうげき を与 あた えた。
ベルクホーフ にて、エヴァ・ブラウン とヒトラー、愛犬 あいけん ブロンディ(1942年 ねん 6月 がつ 14日 にち )
確実 かくじつ にヒトラーと恋人 こいびと 関係 かんけい になったといえるのは最期 さいご を共 とも にしたエヴァ・ブラウン のみである。エヴァ・ブラウンとヒトラーが知 し り合 あ ったのは1927年 ねん 10月 がつ 初 はじ めのことで、ナチ党 とう 専属 せんぞく 写真 しゃしん 師 し ハインリヒ・ホフマン の写真 しゃしん 館 かん に勤 つと めるエヴァに魅 み かれたヒトラーが食事 しょくじ や映画 えいが に誘 さそ うようになったという。ヒトラーは秘書 ひしょ のクリスタ・シュレーダー (ドイツ語 ご 版 ばん ) に「エヴァは好 この ましい女性 じょせい だ。しかし、私 わたし の生涯 しょうがい で本当 ほんとう に情熱 じょうねつ をかき立 た てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚 けっこん は考 かんが えられない。生涯 しょうがい を結 むす びつけることができる女性 じょせい は、ただ一人 ひとり 、ゲリだけだった」と語 かた るなど、この時点 じてん ではまだエヴァとの結婚 けっこん を考 かんが えていなかった。1932年 ねん 11月1日 にち 、政治 せいじ に没頭 ぼっとう しなかなか会 あ いに来 こ ないヒトラーに痺 しび れを切 き らしたエヴァはピストル自殺 じさつ を図 はか ったが未遂 みすい に終 お わり、このとき自殺 じさつ に失敗 しっぱい したエヴァが呼 よ んだ医師 いし は写真 しゃしん 師 し ホフマンの義弟 ぎてい だったためにこのスキャンダルは内密 ないみつ に収 おさ まった。一般 いっぱん の病院 びょういん に連絡 れんらく しなかったという配慮 はいりょ にヒトラーはいたく感動 かんどう し、以後 いご 2人 にん の関係 かんけい はいっそう深 ふか まった。しかし彼女 かのじょ は首相 しゅしょう として多忙 たぼう となったヒトラーの愛情 あいじょう を疑 うたが い、1935年 ねん 5月 がつ 28日 にち にもう一度 いちど 自殺 じさつ 未遂 みすい を行 おこな っている。
オーバーザルツベルク のベルクホーフ の女 おんな 主人 しゅじん となってからのエヴァは、一転 いってん してヒトラーの恋人 こいびと としての立場 たちば を確 たし かなものにしていった。オーストリアにて故郷 こきょう のリンツで熱狂 ねっきょう 的 てき に歓迎 かんげい されたヒトラーは、そこからエヴァに電話 でんわ をかけてウィーンに同行 どうこう させている[ 333] 。イギリスがドイツに宣戦 せんせん 布告 ふこく した際 さい にユニティが帰国 きこく し、1940年 ねん の夏 なつ 以降 いこう にはバイロイト音楽 おんがく 祭 さい に通 かよ わなくなっていたヒトラーはベルクホーフを頻繁 ひんぱん に訪 おとず れるようになり、戦争 せんそう は二人 ふたり をより親密 しんみつ にした[ 334] 。エヴァは次第 しだい に表 ひょう に顔 かお を出 だ すようになり、ヒトラーの誕生 たんじょう 祝 いわ いやムッソリーニの栄誉 えいよ を称 たた えるレセプションにも招 まね かれた[ 335] 。ヒトラーはゲーリングに「エヴァは私 わたし にとって生涯 しょうがい の女性 じょせい で、戦争 せんそう が終 お わったら私 わたし は引退 いんたい してリンツの町 まち へ行 い き、そこで彼女 かのじょ を妻 つま にすることに決 き めている」と語 かた った[ 336] 。絵 え を描 えが き回想 かいそう 録 ろく を綴 つづ りながら余生 よせい を送 おく ろうと考 かんが え、「エヴァと私 わたし は結婚 けっこん してリンツの美 うつく しい家 いえ で暮 く らすことになるだろう」と請 う け合 あ った。エヴァの姉妹 しまい によると彼 かれ は引退 いんたい 後 ご エヴァと暮 く らすための住居 じゅうきょ として、リンツだけでなくエヴァの故郷 こきょう であるミュンヘンにも土地 とち を買 か っていた[ 337] 。
1945年 ねん に戦局 せんきょく が悪化 あっか してベルリンの陥落 かんらく が間近 まぢか に迫 せま った時 とき 、エヴァはヒトラーの反対 はんたい を押 お し切 き り、ベルリンの総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう にやって来 き た。ヒトラーは彼女 かのじょ に報 むく いるため4月 がつ 29日 にち に結婚 けっこん し、正式 せいしき な夫婦 ふうふ となった。エヴァは周囲 しゅうい の人々 ひとびと に、とうとう結婚 けっこん できたことを喜 よろこ び、「可哀 かわい そうなアドルフ、彼 かれ は世界中 せかいじゅう に裏切 うらぎ られたけれど、私 わたし だけはそばにいてあげたい」と語 かた ったという。翌日 よくじつ 、ヒトラー夫妻 ふさい は心中 しんちゅうの した。結局 けっきょく 、二人 ふたり が正式 せいしき な夫婦 ふうふ であったのは48時 じ 間 あいだ に満 み たなかった。
設計 せっけい 図 ず に手 て を入 い れるヒトラーとシュペーア(1934年 ねん )
ヒトラーは「自分 じぶん の本質 ほんしつ は政治 せいじ 家 か ではなく芸術 げいじゅつ 家 か である」と信 しん じており、「(第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん がなかったら)ドイツ一 いち のとまでは行 い かないまでもドイツ有数 ゆうすう の建築 けんちく 家 か になったと思 おも う」と答 こた えたこともあった。そして気 き に入 い った芸術 げいじゅつ 家 か (特 とく に建築 けんちく 家 か )に対 たい しては敬意 けいい を持 も って接 せっ した。閣僚 かくりょう 陣 じん では建築 けんちく 家 か でもある軍需 ぐんじゅ 相 しょう アルベルト・シュペーア への態度 たいど が格別 かくべつ で、シュペーアと建築 けんちく の話 はなし をし出 だ すと何 なん 時間 じかん でも熱中 ねっちゅう し、その間 あいだ は政治 せいじ 的 てき 決裁 けっさい は全 すべ て後回 あとまわ しにされて側近 そっきん を困 こま らせた。ナチ党 とう 唯一 ゆいいつ の知識 ちしき 人 じん を自認 じにん していた宣伝 せんでん 相 しょう ヨーゼフ・ゲッベルス も、ヒトラーとの話 はなし の中 なか には、芸術 げいじゅつ の話題 わだい を散 ち りばめてヒトラーを楽 たの しませることに心 しん を砕 くだ いた。フェルメール の大 だい ファンだったという。音楽 おんがく においてはワーグナー信仰 しんこう 者 しゃ だった。
ただし芸術 げいじゅつ 的 てき な感性 かんせい はかつてウィーン美術 びじゅつ アカデミー 受験 じゅけん に再三 さいさん 失敗 しっぱい していたことからも明 あき らかなように先進 せんしん 的 てき とは言 い いがたく、また古典 こてん 主義 しゅぎ 者 しゃ としても洗練 せんれん されてはいなかった。ナチ政権 せいけん 時代 じだい の芸術 げいじゅつ の多 おお くは映画 えいが など近代 きんだい 的 てき な分野 ぶんや での成功 せいこう が多 おお く、また工業 こうぎょう デザインは生産 せいさん 性 せい に適 てき したモダンデザイン が採用 さいよう されており、必 かなら ずしもヒトラーの好 この みが反映 はんえい されていない分野 ぶんや に集中 しゅうちゅう した。逆 ぎゃく にヒトラーが新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の復活 ふっかつ を謳 うた って推進 すいしん した絵画 かいが や彫刻 ちょうこく などはほとんど名 めい が残 のこ らなかった。現代 げんだい における古典 こてん 主義 しゅぎ の再 さい 評価 ひょうか の流 なが れにおいてすら、これらの粗悪 そあく な模倣 もほう 品 ひん が顧 かえり みられることはあまりない。むしろ頽廃 たいはい 芸術 げいじゅつ 展 てん やバウハウス の強制 きょうせい 閉鎖 へいさ などドイツにおける芸術 げいじゅつ の自由 じゆう を押 お し留 と める行為 こうい を繰 く り広 ひろ げた。
側近 そっきん 達 たち とのピクニック や散歩 さんぽ を好 この み、戦局 せんきょく がかなり悪化 あっか してからもティータイムを取 と ることを欠 か かさなかった。
犬 いぬ
ヒトラーが愛犬 あいけん 家 か であったことは有名 ゆうめい である。側近 そっきん に「犬 いぬ は忠実 ちゅうじつ で主 おも を最後 さいご まで裏切 うらぎ らない」と常々 つねづね 語 かた っていた。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に従軍 じゅうぐん した時 とき 、戦場 せんじょう でテリア 犬 いぬ を拾 ひろ い、「フクスル」と名付 なづ け、餌 えさ を与 あた え芸 げい を仕込 しこ むなど可愛 かわい がった。その後 ご 盗 ぬす まれたとの説 せつ があるが、ヒトラー自身 じしん が語 かた るところによると大戦 たいせん 中陣 なかじん から出 で たフクスルを追 お ってヒトラーが飛 と び出 だ した直後 ちょくご 、陣 じん に砲弾 ほうだん が直撃 ちょくげき してヒトラーは助 たす かったが、フクスルは死 し んだという。ヒトラーは後年 こうねん 、犬 いぬ が命 いのち を賭 と して助 たす けてくれたと語 かた っている。 [要 よう 出典 しゅってん ]
政治 せいじ 家 か に転身 てんしん した後 のち も、ヒトラーは数 すう 頭 とう の犬 いぬ を飼 か っている。大成 たいせい した後 のち のヒトラーの愛犬 あいけん はアルザス犬 いぬ の「ブロンディ 」である。ブロンディは数 すう 匹 ひき の子犬 こいぬ を産 う み、ヒトラーの側 がわ 近 ちか くで飼 か われ続 つづ けたが、自殺 じさつ 前 まえ の1945年 ねん 4月 がつ 末 まつ に自殺 じさつ 用 よう の青酸 せいさん カリ の効能 こうのう を確認 かくにん するため薬殺 やくさつ された。
乗用車 じょうようしゃ
ヒトラーは乗用車 じょうようしゃ 愛好 あいこう 家 か (カーマニア)でもあった[ 338] [出典 しゅってん 無効 むこう ] 。ナチスが弱小 じゃくしょう 政党 せいとう だった1920年代 ねんだい 初頭 しょとう にナチス党 とう 財政 ざいせい の金策 きんさく に私財 しざい を投 とう じて質素 しっそ な生活 せいかつ を送 おく っていた中 なか で車 くるま に執着 しゅうちゃく し、自分 じぶん の資産 しさん で買 か える範囲 はんい として初 はじ めて購入 こうにゅう した車 くるま が天蓋 てんがい がない中古 ちゅうこ 車 しゃ であった(ただし、ヒトラー自身 じしん が車 くるま を運転 うんてん をすることはなかった)。
1933年 ねん にヒトラーは首相 しゅしょう 時代 じだい に自動車 じどうしゃ 設計 せっけい 者 しゃ のフェルディナント・ポルシェ がナチスに送 おく った高性能 こうせいのう 小型 こがた 大衆 たいしゅう 車 しゃ 構想 こうそう に興味 きょうみ を示 しめ して、ポルシェと会談 かいだん を行 おこな った。その後 ご に、ベルリン自動車 じどうしゃ ショーの席上 せきじょう でアウトバーン建設 けんせつ と共 とも に、国民 こくみん 車 しゃ 構想 こうそう 計画 けいかく を打 う ち出 だ して具現 ぐげん 化 か が進 すす む。しかし、ヒトラーはポルシェに対 たい して国民 こくみん 車 しゃ について低 てい 価格 かかく 、頑丈 がんじょう 性 せい 、低 てい 燃費 ねんぴ 、高速 こうそく 性能 せいのう 、空冷 くうれい など条件 じょうけん を突 つ きつけたことで難航 なんこう する(もっとも、ヒトラーの条件 じょうけん は価格 かかく を除 のぞ けばポルシェの目指 めざ していた国民 こくみん 車 しゃ コンセプトに多 おお く合致 がっち していた)。しかし1938年 ねん には最終 さいしゅう プロトタイプが完成 かんせい し、1939年 ねん に工場 こうじょう 建設 けんせつ も終了 しゅうりょう 目前 もくぜん になり量産 りょうさん 化 か 目前 もくぜん になったが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ によって軍用 ぐんよう 車 しゃ 生産 せいさん が優先 ゆうせん となったため、この計画 けいかく による大衆 たいしゅう 車 しゃ 生産 せいさん が中止 ちゅうし となった。しかし、この大衆 たいしゅう 車 しゃ 構想 こうそう は戦争 せんそう の中 なか でも工業 こうぎょう 基盤 きばん が残 のこ り、最終 さいしゅう プロトタイプは1945年 ねん に戦争 せんそう が終了 しゅうりょう した後 のち でフォルクスワーゲン・ビートル となってドイツの国民 こくみん 車 しゃ として浸透 しんとう した。ビートルは2003年 ねん に生産 せいさん 終了 しゅうりょう となるまで65年 ねん の長期 ちょうき にわたって生産 せいさん され続 つづ ける伝説 でんせつ 的 てき 大衆 たいしゅう 車 しゃ となった。なお、ヒトラーがビートルの試作 しさく 車 しゃ に乗 の っている写真 しゃしん が存在 そんざい する。
競馬 けいば
ヒトラーは並外 なみはず れた競馬 けいば 好 す きであった。競馬 けいば に熱 ねつ を入 い れていたのはナチ党 とう 結成 けっせい から政権 せいけん を握 にぎ るまでの間 あいだ であるものの、彼 かれ が最期 さいご の直前 ちょくぜん まで軽 けい 種馬 たねうま の血統 けっとう 改良 かいりょう を行 おこな っていたほどだった。ベルリンにあるホッペガルテン競馬 けいば 場 じょう で、ヒトラーは自 みずか ら馬主 ばしゅ となって、自分 じぶん の馬 うま を応援 おうえん する姿 すがた がよく見 み られたという。政権 せいけん を執 と ってから多忙 たぼう になったヒトラーは、競馬 けいば 場 じょう に行 い くことができなくなった代 か わりに、サラブレッドの血統 けっとう 改良 かいりょう に乗 の り出 だ し、ヒトラーは「トラケーネンファーム」という一 ひと つの町 まち 位 い の大 おお きさの大 だい 牧場 ぼくじょう を作 つく ると、すぐさま300頭 とう の肌 はだ 馬 ば (繁殖 はんしょく 牝馬 ひんば )に様々 さまざま な種 たね 牡馬 ぼば を配合 はいごう し、サラブレッドの改良 かいりょう に力 ちから を注 そそ いでいる。この記録 きろく は、ヒトラーが残 のこ した競馬 けいば 史 し における貴重 きちょう な資料 しりょう でもある。この試験 しけん でヒトラーはドイツに世界 せかい 的 てき な種 たね 牡馬 ぼば がいないことに悩 なや んだ末 すえ 、ナチス・ドイツ軍 ぐん が侵略 しんりゃく した国 くに から様々 さまざま な種 たね 牡馬 ぼば をトラケーネンファームに送 おく り込 こ んだ。この時 とき の最大 さいだい のターゲットとなったのはフランス で、フランスの至宝 しほう 的 てき 名馬 めいば ・ファリス をはじめ、多 おお くの名 めい 種 たね 牡馬 ぼば をドイツに運 はこ び込 こ んだ。その際 さい 、ヒトラーはこれら種 しゅ 牡馬 ぼば を重要 じゅうよう 美術 びじゅつ 品 ひん と位置付 いちづ け、ヒトラーはフランスの美術 びじゅつ 品 ひん を彼 かれ の居城 きょじょう 、ノイシュヴァンシュタイン城 じょう に集 あつ めたことは有名 ゆうめい だが、サラブレッドを芸術 げいじゅつ 品 ひん と認 みと めたことも同 おな じ発想 はっそう からと思 おも われる。 [要 よう 出典 しゅってん ]
1945年 ねん 4月 がつ 30日 にち にヒトラーは愛妻 あいさい ・エヴァ・ブラウン とともに心中 しんちゅうの するが、彼 かれ が亡 な き後 あと にナチス後任 こうにん 者 しゃ になったカール・デーニッツ は、多 おお くの美術 びじゅつ 品 ひん 同様 どうよう に、種 たね 牡馬 ぼば 達 たち も美術 びじゅつ 品 ひん と同格 どうかく に扱 あつか い、フランス等 とう に送 おく り返 かえ す際 さい に専任 せんにん 将校 しょうこう と小隊 しょうたい を置 お くほど周知 しゅうち 徹底 てってい した[ 339] 。そしてヒトラー死後 しご ちょうど50年 ねん 後 ご の1995年 ねん 、東京競馬場 とうきょうけいばじょう で行 おこな われた第 だい 15回 かい ジャパンカップ で、ジャパンカップ史上 しじょう 初 はつ のドイツ産 さん 馬 ば のランド が6番 ばん 人気 にんき ながらジャパンカップを制 せい するのだが、このランドの血統 けっとう を紐解 ひもと いていくと、かつてヒトラーのトラケーネンファームでの軽 けい 種馬 たねうま 育種 いくしゅ であることが証明 しょうめい され、ヒトラーの長年 ながねん の夢 ゆめ が半 はん 世紀 せいき を過 す ぎて競馬 けいば 界 かい に栄光 えいこう を残 のこ した[ 340] 。
ディズニー
政治 せいじ 家 か になる前 まえ 、画家 がか を目指 めざ していたヒトラーはディズニー 作品 さくひん のファンであったことはあまり知 し られていない。政治 せいじ 家 か になった時 とき も国税 こくぜい を遣 つか い、「ディズニーを倒 たお せ」とばかり国営 こくえい アニメーションスタジオも立 た ち上 あ げている。[要 よう 出典 しゅってん ] 2008年 ねん 2月 がつ 23日 にち 付 づ けの英 えい テレグラフ 紙 かみ の記事 きじ において、ヒトラーが描 えが いたとされるディズニーキャラクターの水彩 すいさい 画 が 4点 てん がノルウェー 北部 ほくぶ の戦争 せんそう 博物館 はくぶつかん で発見 はっけん されたと報 ほう じられた[ 341] 。この水彩 すいさい 画 が は1937年 ねん 公開 こうかい の『白雪姫 しらゆきひめ 』のキャラクターをスケッチしたもので、同 どう 館長 かんちょう はドイツのオークションで300ドルで落札 らくさつ 。スケッチの一 ひと つには「A.H.」のイニシャルが明記 めいき されていた。
巨大 きょだい な物 もの への関心 かんしん
画家 がか を目指 めざ していた頃 ころ からヒトラーは、人物 じんぶつ 画 が に対 たい して関心 かんしん を抱 いだ かず、建築 けんちく 物 ぶつ を主題 しゅだい とした絵 え を数多 かずおお く残 のこ している。その傾向 けいこう は政治 せいじ 家 か になってもかわらず、建築 けんちく 家 か 出身 しゅっしん のシュペーアを寵愛 ちょうあい したことからも窺 うかが える。また、ヒトラーは巨大 きょだい な物 もの に対 たい し並々 なみなみ ならぬ執着心 しゅうちゃくしん があり、首都 しゅと ベルリンに巨大 きょだい な建築 けんちく 物 ぶつ と道路 どうろ の建設 けんせつ を計画 けいかく したゲルマニア計画 けいかく だけではなく、V2ロケットやドーラ という大型 おおがた で破壊 はかい 力 りょく のある兵器 へいき の開発 かいはつ を求 もと め、将兵 しょうへい が消耗 しょうもう している中 なか 、生産 せいさん 性 せい が高 たか く使 つか い勝手 がって の良 よ い兵器 へいき を求 もと めていた現場 げんば の声 こえ を無視 むし していた。[要 よう 出典 しゅってん ]
ヒトラーは『我 わ が闘争 とうそう 』などで困窮 こんきゅう したことをアピールしているが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご には軍 ぐん や、ナチ党 とう の党首 とうしゅ となってからはパトロンの支援 しえん もあり、運転 うんてん 手付 てつ きの自動車 じどうしゃ を乗 の り回 まわ すなど、経済 けいざい 状態 じょうたい はかなり良 よ かった。『我 わ が闘争 とうそう 』の出版 しゅっぱん などで一定 いってい の財産 ざいさん ができると、税務 ぜいむ 当局 とうきょく はヒトラーに納税 のうぜい を促 うなが した。しかし、ヒトラーは1924年 ねん から1925年 ねん にかけては完全 かんぜん な無 む 収入 しゅうにゅう であったと弁明 べんめい したほか、政治 せいじ 的 てき な経費 けいひ が掛 か かるとして、税務署 ぜいむしょ の要求 ようきゅう に従 したが わなかった。1933年 ねん に首相 しゅしょう になった時点 じてん でヒトラーが滞納 たいのう していた額 がく は40万 まん ライヒスマルク に上 のぼ る[ 344] 。
1933年 ねん 2月 がつ 、『フェルキッシャー・ベオバハター』は、ヒトラーが首相 しゅしょう の給与 きゅうよ を受 う け取 と っていないという記事 きじ を掲載 けいさい し[ 345] 、財産 ざいさん より清貧 せいひん さを求 もと める人物 じんぶつ としてアピールした。しかし、1934年 ねん の国家 こっか 元首 げんしゅ 就任 しゅうにん の際 さい には彼 かれ の首相 しゅしょう としての給与 きゅうよ を扱 あつか う事務 じむ 処理 しょり が行 おこな われており、ヒトラーは国家 こっか 元首 げんしゅ と首相 しゅしょう としての給与 きゅうよ を受 う け取 と るようになった[ 345] 。また、1933年 ねん の1年間 ねんかん には『我 わ が闘争 とうそう 』の莫大 ばくだい な印税 いんぜい が発生 はっせい し、ミュンヘン税務署 ぜいむしょ は所得 しょとく 額 がく の半分 はんぶん を控除 こうじょ して60万 まん ライヒスマルクの納税 のうぜい を求 もと めた。しかしヒトラーとナチ党 とう は納税 のうぜい しようとしなかった[ 347] 。1934年 ねん 12月、ミュンヘン税務署 ぜいむしょ は「総統 そうとう は非課税 ひかぜい となる」という措置 そち を行 おこな った[ 344] 。1935年 ねん には中央 ちゅうおう の税務 ぜいむ 当局 とうきょく とも合意 ごうい が行 おこな われ、3月12日 にち にヒトラーの名前 なまえ は納税 のうぜい 者 しゃ リストから削除 さくじょ された[ 347] [ 348] 。
ヒトラーの首相 しゅしょう 兼 けん 国家 こっか 元首 げんしゅ としての給与 きゅうよ は年額 ねんがく 4万 まん 5000ライヒスマルク程度 ていど であったが[ 348] 、自治体 じちたい が新婚 しんこん 家庭 かてい に贈 おく るために購入 こうにゅう するなど、半 なか ば強制 きょうせい 的 てき に販売 はんばい された『我 わ が闘争 とうそう 』の印税 いんぜい は、ヒトラー死亡 しぼう 時 じ の時点 じてん の総額 そうがく で800万 まん ライヒスマルクに及 およ ぶと見 み られている[ 349] 。その他 た に帝国 ていこく 郵政 ゆうせい が印刷 いんさつ する自 みずか らの肖像 しょうぞう 切手 きって の肖像 しょうぞう 使用 しよう 料 りょう も受 う け取 と っていた[ 345] 。前任 ぜんにん 者 しゃ であるヒンデンブルクはこうした使用 しよう 料 りょう を受 う け取 と っていなかったが、ヒトラーは額面 がくめん の1%に当 あ たる金額 きんがく 、多 おお い年 とし には5000万 まん ライヒスマルクを受 う け取 と っていた。ゲッベルスはその日記 にっき に「ヒトラーが大金 たいきん (viel Geld)を手 て にするだろう」と記述 きじゅつ している[ 345] 。1943年 ねん にヒトラーは遺言 ゆいごん 書 しょ を書 か いているが、その際 さい に処理 しょり するべき財産 ざいさん は550万 まん ライヒスマルクに上 のぼ っていた[ 351] 。また、ヴァイマル時代 じだい に大統領 だいとうりょう が自己 じこ の裁量 さいりょう で利用 りよう できる基金 ききん が存在 そんざい していたが、ヒトラーはこの基金 ききん に積 つ み立 た てられた金 かね を会計検査院 かいけいけんさいん や国会 こっかい の審査 しんさ 無 な しに使用 しよう することもできたほか、財界 ざいかい から拠出 きょしゅつ された献金 けんきん で設立 せつりつ されたドイツ産業 さんぎょう のためのアドルフ・ヒトラー基金 ききん (ドイツ語 ご 版 ばん ) もヒトラー自身 じしん の裁量 さいりょう で自由 じゆう に使用 しよう できる性質 せいしつ の基金 ききん であったため、事実 じじつ 上 じょう ヒトラーの個人 こじん 財産 ざいさん であった。その総額 そうがく は700万 まん ライヒスマルクに及 およ ぶ[ 349] 。さらにヒトラー山荘 さんそう や総統 そうとう 官邸 かんてい での暮 く らしは党 とう や政府 せいふ によって支弁 しべん されていた。こうした財産 ざいさん や基金 ききん からヒトラーは軍 ぐん の将軍 しょうぐん たちや党内 とうない 外 がい の有力 ゆうりょく 者 しゃ に「贈 おく り物 もの 」を行 おこな い、彼 かれ らの忠誠 ちゅうせい を保 たも とうとしていた。
ヒトラーの死後 しご 、財産 ざいさん はバイエルン州 しゅう が管理 かんり することとなった。ヒトラーの妹 いもうと パウラが相続 そうぞく 権 けん を主張 しゅちょう し、1960年 ねん 2月 がつ 17日 にち に不動産 ふどうさん の3分 ぶん の2を相続 そうぞく する決定 けってい が行 おこな われたが、まもなくパウラが死去 しきょ したため、その後 ご もバイエルン州 しゅう が財産 ざいさん の管理 かんり を続 つづ けている。
マリア・シックルグルーバーの生涯 しょうがい と出産 しゅっさん 、そしてアロイスの改姓 かいせい や母方 ははかた の一族 いちぞく を避 さ けるという謎 なぞ の多 おお い行動 こうどう は「何 なに かを隠 かく している」として噂 うわさ の対象 たいしょう となった。父 ちち アロイスが10歳 さい の時 とき に祖母 そぼ マリアは亡 な くなったが、彼女 かのじょ の出産 しゅっさん 経緯 けいい は息子 むすこ のアロイスだけでなく、孫 まご のヒトラーにも「出自 しゅつじ の謎 なぞ 」として付 つ いて回 まわ る事 こと になる。顧問 こもん 弁護士 べんごし であり、ポーランド総督 そうとく でもあったハンス・フランク は、1930年 ねん に異母 いぼ 兄 けい アロイス2世 せい の子 こ である甥 おい のウィリアム・パトリック・ヒトラー から「ヒトラーがユダヤ人 じん の私生児 しせいじ であるという話 はなし に新聞 しんぶん が興味 きょうみ を持 も っている」と脅 おど しをかけられた事 こと にヒトラーが動揺 どうよう し、家系 かけい 調査 ちょうさ を行 おこな わせていたと証言 しょうげん している。
フランクの調査 ちょうさ 結果 けっか は「マリアはグラーツのユダヤ人 じん 資産 しさん 家 か 、フランケンベルガー家 か に奉公 ほうこう に出 で ていた時期 じき にアロイスを産 う んでおり、子息 しそく レオポルト・フランケンベルガー (スペイン語 ご 版 ばん ) から14年間 ねんかん 養育 よういく 費 ひ を受 う け取 と っていた」として、アロイスの父親 ちちおや がレオポルトであると見 み られるというものであった[ 356] 。フランクの「フランケンベルガー実父 じっぷ 説 せつ 」は1950年代 ねんだい まで広 ひろ く信 しん じられていたが、次第 しだい に史学 しがく 上 じょう の根拠 こんきょ に欠 か けると指摘 してき されるようになった[ 357] [ 358] 。またフランクは「ヒトラーは由緒 ゆいしょ 正 ただ しいアーリア系 けい である」と矛盾 むじゅん する証言 しょうげん もしている[ 356] 。
1932年 ねん にはオーストリアの首相 しゅしょう エンゲルベルト・ドルフース がヒトラーの家系 かけい を調査 ちょうさ させ、「ハイル・シックルグルーバー」という記事 きじ を載 の せた新聞 しんぶん を配布 はいふ し、攻撃 こうげき 材料 ざいりょう としたこともある。またニコラウス・フォン・プレラドヴィッチ (ドイツ語 ご 版 ばん ) はアロイス出生 しゅっしょう 時 じ のグラーツでユダヤ系 けい 住民 じゅうみん がすでに追放 ついほう されていたことからこの説 せつ を否定 ひてい し、1998年 ねん には歴史 れきし 学者 がくしゃ でヒトラー研究 けんきゅう の第一人者 だいいちにんしゃ であるイアン・カーショー も「政治 せいじ 的 てき な攻撃 こうげき 材料 ざいりょう 以外 いがい のものではない」と結論 けつろん している[ 358] 。
2010年 ねん には、ヒトラーの近親 きんしん 者 しゃ から採取 さいしゅ したDNA を分析 ぶんせき した結果 けっか 、西 にし ヨーロッパ系 けい には珍 めずら しく、北 きた アフリカのベルベル人 じん やソマリア人 じん 、ユダヤ人 じん に一般 いっぱん 的 てき に見 み られる形 かたち の染色 せんしょく 体 たい があるという調査 ちょうさ 結果 けっか が発表 はっぴょう されたと報道 ほうどう されたが[ 361] 、当 とう の記事 きじ が報 ほう じた研究 けんきゅう 者 しゃ からこの報道 ほうどう 内容 ないよう に疑義 ぎぎ が呈 てい されている[ 362] 。むしろこの研究 けんきゅう の結果 けっか 、父 ちち アロイスがヒトラー家 か の血 ち を引 ひ いていることが確実 かくじつ となった。
父方 ちちかた のシックルグルーバー家 か と並 なら んでヒトラーの悩 なや みの種 たね であったのが、母方 ははかた のペルツル家 か であった。祖母 そぼ と同名 どうめい であるために、ヒトラー家 か からは「ハンニおばさん」の渾名 あだな で呼 よ ばれていた母 はは の妹 いもうと ヨハンナ・ペルツルは重度 じゅうど の猫背 ねこぜ (くる病 びょう )で精神 せいしん 疾患 しっかん も患 わずら っていた。ハンニは妹 いもうと 一家 いっか から家事 かじ 手伝 てつだ いや甥 おい や姪 めい の面倒 めんどう を任 まか され、特 とく に姉 あね からは頼 たよ りにされていたが、ヒトラー家 か の家政 かせい 婦 ふ ヘルルからは「頭 あたま のいかれたせむし女 おんな (ハンニ)」と陰口 かげぐち を叩 たた かれている。ハンニを診察 しんさつ したブラウナウ の医師 いし は現代 げんだい 的 てき な呼称 こしょう で言 い えば統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう に相当 そうとう する症状 しょうじょう が出 で ているとの診断 しんだん を下 くだ し、ヒトラー家 か かかりつけの医師 いし エドゥアルド・ブロッホ もヒトラー家 か はヨハンナを周囲 しゅうい から隠 かく していたと証言 しょうげん し、「恐 おそ らく軽度 けいど の精神 せいしん 薄弱 はくじゃく である」と診断 しんだん している。
後年 こうねん にT4作戦 さくせん で劣等 れっとう 人種 じんしゅ や障碍 しょうがい 者 しゃ と並 なら んで精神 せいしん 患者 かんじゃ を抹殺 まっさつ しようとしたナチスやヒトラーにとって、その親族 しんぞく に精神 せいしん 患者 かんじゃ が存在 そんざい したという過去 かこ は隠 かく さねばならなかった。ナチ政権 せいけん 下 か の歴史 れきし 家 か たちはヒトラー家 か の顕彰 けんしょう に努 つと めたが、ペルツル家 か の存在 そんざい だけはほとんど触 ふ れられていない。なお、ペルツル家 か 以外 いがい にも低地 ていち オーストリア のヴァルトフィアテル (ドイツ語 ご 版 ばん ) 地方 ちほう にはペルツル家 か の親族 しんぞく が幾 いく らか点在 てんざい しているが、一族 いちぞく という概念 がいねん を嫌 きら うヒトラーからはその存在 そんざい をほとんど無視 むし されていた。それにもかかわらず彼 かれ ら一族郎党 いちぞくろうとう は後年 こうねん 「アドルフ・ヒトラーの血族 けつぞく 」として迫害 はくがい を受 う ける事 こと になった。
長兄 ちょうけい アロイスはブリジット・ダウリング (英語 えいご 版 ばん ) という女性 じょせい と結婚 けっこん してウィリアム・パトリック・ヒトラー を儲 もう けたが、離婚 りこん している。後 のち にハインリヒ・ヒトラー を儲 もう けた。ウィリアム・パトリックは後 のち にヒトラーの血縁 けつえん 者 しゃ として米 べい 英 えい のメディアに紹介 しょうかい され、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では連合 れんごう 国 こく 側 がわ に従軍 じゅうぐん している。ハインリヒはドイツ軍 ぐん に従軍 じゅうぐん し、東部 とうぶ 戦線 せんせん で1942年 ねん に死亡 しぼう している。
長女 ちょうじょ アンゲラは父 ちち と同 おな じ税務 ぜいむ 官 かん であったレオ・ラウバルと結婚 けっこん し、アンゲラことゲリ・ラウバル、レオ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、エルフリードを儲 もう けた。アンゲラは夫 おっと と死別 しべつ 後 ご 、建築 けんちく 家 か のマルティン・ハミッチュ (ドイツ語 ご 版 ばん ) と再婚 さいこん している。レオもハインリヒ・ヒトラー同様 どうよう 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に従軍 じゅうぐん し、スターリングラードの戦 たたか いで捕虜 ほりょ となった。ソ連 それん 側 がわ からスターリンの息子 むすこ ヤーコフ・ジュガシヴィリ との捕虜 ほりょ 交換 こうかん を持 も ちかけられたが、ヒトラーは拒否 きょひ している。レオは捕虜 ほりょ となりながらも生 い き延 の び、戦後 せんご に帰還 きかん している。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ に軍人 ぐんじん だったこともあり数々 かずかず の勲章 くんしょう を受 う けているが、普段 ふだん 佩用 はいよう していたのは黄金 おうごん 党員 とういん 章 あきら 、一級 いっきゅう 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら 、戦傷 せんしょう 章 しょう の3つだけだった。
ヒトラーの遺体 いたい が西側 にしがわ 諸国 しょこく に公式 こうしき に確認 かくにん されなかった上 うえ 、終戦 しゅうせん 直前 ちょくぜん から戦後 せんご にかけて、アドルフ・アイヒマン などの多 おお くのナチス高官 こうかん がUボート を使用 しよう したり、バチカン などの協力 きょうりょく を受 う け、イタリアやスペイン 、北欧 ほくおう を経由 けいゆ してアルゼンチンやチリなどの中南米 ちゅうなんべい の友好国 ゆうこうこく などに逃亡 とうぼう したため、ヒトラーも同 おな じように逃亡 とうぼう したという説 せつ が戦後 せんご まことしやかに囁 ささや かれるようになった。
1945年 ねん 7月 がつ 17日 にち 、ポツダム会談 かいだん の席上 せきじょう 、スターリンが連合 れんごう 国 こく の首脳 しゅのう たちに「ヒトラーは逃亡 とうぼう した」と伝 つた えられたことが最初 さいしょ とする説 せつ もある。
その上 うえ 、副官 ふっかん のオットー・ギュンシェ やハインツ・リンゲ らをはじめとするヒトラーの遺体 いたい を処分 しょぶん した側近 そっきん たちの証言 しょうげん が、それぞれ「拳銃 けんじゅう で自殺 じさつ した」「青酸 せいさん カリを飲 の んだ」「安楽 あんらく 死 し 」とまったく異 こと なることも噂 うわさ に火 ひ をつけた。
戦後 せんご アルゼンチンで降伏 ごうぶく した潜水 せんすい 艦 かん 「U977 (ドイツ語 ご 版 ばん ) 」のハインツ・シェッファー (Heinz Schäffer) 艦長 かんちょう は、ヒトラーをどこに運 はこ んだかを尋問 じんもん されたことや、当時 とうじ の新聞 しんぶん でのいい加減 かげん な生存 せいぞん 説 せつ の報道 ほうどう ぶりを自伝 じでん の戦記 せんき に書 か き残 のこ している。アメリカやイギリスなどの西側 にしがわ 諸国 しょこく もこの可能 かのう 性 せい を本気 ほんき で探 さぐ ったものの、後 のち に公式 こうしき に否定 ひてい した。FBI は、ヒトラー自殺 じさつ に関 かん する捜査 そうさ を1956年 ねん で終了 しゅうりょう している。
それらの噂 うわさ の他 ほか に、「まだ戦争 せんそう を続 つづ けていた同盟 どうめい 国 こく 日本 にっぽん にUボートで亡命 ぼうめい した」という説 せつ [ 365] や、「アルゼンチン経由 けいゆ で戦前 せんぜん に南極 なんきょく に作 つく られた探検 たんけん 基地 きち まで逃 に げた」という突飛 とっぴ な説 せつ 、果 は ては「ヒトラーはずっと生 い きていて、つい最近 さいきん 心臓 しんぞう 発作 ほっさ のため103歳 さい で死亡 しぼう した」という報道 ほうどう (1992年 ねん 。フロリダ州 しゅう で発行 はっこう されているタブロイド新聞 しんぶん より)まで現 あらわ れた。
その他 た 、東 ひがし 機関 きかん (TO諜報 ちょうほう 機関 きかん とも)のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ の証言 しょうげん の中 なか に、「ヒトラーは自殺 じさつ せず、ボルマンに連 つ れられて逃亡 とうぼう した」というものもある。この生存 せいぞん 説 せつ を主題 しゅだい にした作品 さくひん の一 ひと つに落合 おちあい 信彦 のぶひこ の『20世紀 せいき 最後 さいご の真実 しんじつ 』がある。
ヒトラーの頭蓋骨 ずがいこつ
俗説 ぞくせつ の一 ひと つに、「晩年 ばんねん のスターリンが『ヒトラーが生存 せいぞん しているのではないか』という噂 うわさ が立 た つたびに、自宅 じたく の裏庭 うらにわ から木 き 箱 ばこ を掘 ほ り起 お こし中 ちゅう の頭蓋骨 ずがいこつ を確認 かくにん して埋 う め戻 もど した」というエピソードがある。
2009年 ねん 9月 がつ 29日 にち 、アメリカのコネチカット大学 だいがく の考古 こうこ 学者 がくしゃ ニック・ベラントーニ (Nick Bellantoni ) が、それまでヒトラーのものであるとされてきた頭蓋骨 ずがいこつ を鑑定 かんてい し、頭蓋骨 ずがいこつ が女性 じょせい としての特徴 とくちょう を示 しめ したためにDNA鑑定 かんてい を行 おこな ったところ、ヒトラーのものではなく非常 ひじょう に若 わか い女性 じょせい の頭蓋骨 ずがいこつ であると結論 けつろん 付 つ けられている(en:MysteryQuest#Notable case findings 参照 さんしょう )[ 366] [ 367] [ 368] [出典 しゅってん 無効 むこう ] 。
また、ヒトラーが自殺 じさつ した時 とき に座 すわ っていたソファーの断片 だんぺん に付着 ふちゃく した血痕 けっこん からDNAを抽出 ちゅうしゅつ することに成功 せいこう したが、アメリカ在住 ざいじゅう のヒトラーの近親 きんしん 者 しゃ (兄 あに アロイス2世 せい の子孫 しそん )から比較 ひかく サンプルの提供 ていきょう を拒否 きょひ され、同定 どうてい に至 いた っていない。ただし同年 どうねん 12月 がつ 8日 にち に先 さき の報道 ほうどう についてロシア連邦 れんぽう 保安庁 ほあんちょう (FSB) は現存 げんそん している顎 あご の骨 ほね をコネチカット大学 だいがく が入手 にゅうしゅ したことはないと否定 ひてい しているとインタファクス通信 いんたふぁくすつうしん で報道 ほうどう された[ 369] [ 370] 。
CIA元 もと 極秘 ごくひ 文書 ぶんしょ
2015年 ねん 11月15日 にち 付 づけ の英紙 えいし デイリー・メール 等 ひとし によると、コロンビア のジャーナリスト 、ホセ・カルデナスが1990年代 ねんだい に機密 きみつ 指定 してい 解除 かいじょ されたCIA 元 もと 極秘 ごくひ 文書 ぶんしょ の中 なか にヒトラーに関 かん する資料 しりょう があることを発見 はっけん 、ツイッター で公開 こうかい したことでヒトラー生存 せいぞん 説 せつ が注目 ちゅうもく を集 あつ めている。
同 どう 文書 ぶんしょ にはヒトラーが戦後 せんご 、コロンビアに逃亡 とうぼう し、元 もと ナチス党員 とういん のコミュニティを形成 けいせい しているという情報 じょうほう が載 の せられており、1954年 ねん にコロンビアのトゥンハ で撮影 さつえい されたとされる写真 しゃしん も同封 どうふう されているという。そこにはインフォーマント であるフィリッピ・シトロエンとともにヒトラーらしき人物 じんぶつ が写 うつ っている[ 371] [要 よう 検証 けんしょう – ノート ] 。
同 どう 文書 ぶんしょ によると、シトロエンは鉄道 てつどう 会社 かいしゃ に勤務 きんむ していた時 とき 、トゥンハの“レシデンシエス・コロニアス(殖民 しょくみん 住居 じゅうきょ )”で“長老 ちょうろう 総統 そうとう ”と呼 よ ばれるヒトラーに酷似 こくじ した人物 じんぶつ を紹介 しょうかい された。トゥンハには元 もと ナチス兵士 へいし や党員 とういん と思 おも われるドイツ人 じん が多数 たすう 居住 きょじゅう しており、長老 ちょうろう 総統 そうとう にナチス式 しき 敬礼 けいれい をしていたという。シトロエンはCIAエージェントに長老 ちょうろう 総統 そうとう の写真 しゃしん を見 み せたが、真剣 しんけん に取 と り合 あ ってもらえなかった。
しかし、1955年 ねん に「Cimelody-3」というコードネームの男 おとこ がエージェントに接触 せっしょく し、シトロエンの話 はなし は真実 しんじつ であり、今 いま も定期 ていき 的 てき に長老 ちょうろう 総統 そうとう と連絡 れんらく を取 と り合 あ っているが、長老 ちょうろう 総統 そうとう 自身 じしん は1955年 ねん にコロンビアからアルゼンチン に渡 わた り、すでにトゥンハにはいないと語 かた った。この話 はなし に興味 きょうみ を抱 だ いたエージェントは上司 じょうし に報告 ほうこく したが、「確実 かくじつ な証拠 しょうこ を掴 つか むためには多大 ただい な努力 どりょく を要 よう する」との理由 りゆう で闇 やみ に葬 ほうむ られた[ 372] 。
ヒトラーが第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に従軍 じゅうぐん した際 さい 、部隊 ぶたい の駐屯 ちゅうとん 地 ち であったフランス北部 ほくぶ サン=カンタン で現地 げんち の女性 じょせい と親 した しい関係 かんけい になり、男 おとこ の子 こ が生 う まれたという説 せつ がある。
この説 せつ は1978年 ねん 6月 がつ にミュンヘン現代 げんだい 史 し 研究所 けんきゅうじょ のヴェルナー・マーザー が発表 はっぴょう した。マーザーはその子供 こども を、現地 げんち でドイツ兵 へい の私生児 しせいじ として知 し られていたジャン=マリー・ロレ (Jean-Marie Loret ) と推定 すいてい した。ロレは母親 ははおや が死 し ぬ際 さい に父親 ちちおや がヒトラーであると語 かた ったと証言 しょうげん していた。ロレの証言 しょうげん によると、ロレが生 う まれた時 とき にはヒトラーは目 め の負傷 ふしょう により後方 こうほう に送 おく られていたため、ロレの存在 そんざい は彼 かれ に伝 つた えられなかったとしている。また、ロレは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ には対 たい 独 どく レジスタンス に加 くわ わり、ドイツ軍 ぐん に逮捕 たいほ されたこともあるが出自 しゅつじ への同情 どうじょう からか釈放 しゃくほう され、後 のち は経済 けいざい 的 てき 支援 しえん を受 う けたと主張 しゅちょう していた。
このニュースは世界中 せかいじゅう で話題 わだい となり、日本 にっぽん にもTBS のテレビ番組 ばんぐみ に出演 しゅつえん するためにロレが訪 おとず れている。同年 どうねん TBSブリタニカ から『ヒトラー・ある息子 むすこ の父親 ちちおや 』という書籍 しょせき も発売 はつばい されている。
しかし、ロレの叔母 おば はロレの母親 ははおや の相手 あいて であるドイツ兵 へい はヒトラーではないと主張 しゅちょう しており、ロレの母親 ははおや が『ドイツ人 じん の息子 むすこ 』と言 い っただけであるのに『ヒトラー』と勘違 かんちが いしたとしている。その他 た 多 おお くの矛盾 むじゅん 点 てん も見 み つかり、マーザーの説 せつ を支持 しじ する者 もの は少数 しょうすう 派 は となった。1979年 ねん にアシャッフェンブルク で開 ひら かれた歴史 れきし 討論 とうろん 会 かい においてこの問題 もんだい が議論 ぎろん された際 さい 、マーザーは当初 とうしょ は静 しず かだったが、突然 とつぜん 「ヒトラーに非 ひ 嫡出 ちゃくしゅつ 子 こ がいたかどうかが問題 もんだい 」だと宣言 せんげん し、以降 いこう の議論 ぎろん において完全 かんぜん に沈黙 ちんもく した。マーザーは経済 けいざい 的 てき な理由 りゆう でロレとも衝突 しょうとつ し、以降 いこう ロレに言及 げんきゅう することは無 な くなった。ロレはその後 ご 自叙伝 じじょでん を出 だ したが、1985年 ねん に死亡 しぼう した。
2008年 ねん になりベルギー のジャーナリストジャン=ポール・ムルダー (オランダ語 ご 版 ばん ) はヒトラーの血縁 けつえん 者 しゃ のDNA 、およびロレのDNAを専門 せんもん 機関 きかん に送 おく り比較 ひかく 検査 けんさ させた。その結果 けっか として「ロレはヒトラーの子供 こども ではない」という結論 けつろん を発表 はっぴょう している。
この他 ほか に、エヴァ・ブラウン が書 か き残 のこ したとされるタイプ打 う ち の日記 にっき の記述 きじゅつ から、1942年 ねん の夏 なつ にエヴァがドレスデン で男児 だんじ を出産 しゅっさん しており、その男児 だんじ はこれまで実子 じっし がいないとされてきたヒトラーの子供 こども ではないかとする説 せつ がある[ 373] 。
1975年 ねん 、西 にし ドイツのアレンスバッハ世論 せろん 調査 ちょうさ 所 しょ が「ドイツにもっとも貢献 こうけん した人物 じんぶつ 」のアンケートを取 と ったところ、ヒトラーと回答 かいとう したものが 3%に及 およ んだ。割合 わりあい は少 すく ないものの6200万 まん 人 にん の西 にし ドイツ国民 こくみん のうち約 やく 200万 まん 人 にん はヒトラーを高 たか く評価 ひょうか していたこととなる[ 374] 。
ジョン・クリーズ 『空 そら 飛 と ぶモンティ・パイソン 』『フォルティ・タワーズ 』など(ただしヒトラーなど象徴 しょうちょう されるナチズムそのものをカリカチュア化 か している)
NHKスペシャル 映像 えいぞう の世紀 せいき 第 だい 4章 しょう 〜ヒトラーの野望 やぼう 〜
NHKスペシャル 新 しん ・映像 えいぞう の世紀 せいき 第 だい 3章 しょう 〜時代 じだい は独裁 どくさい 者 しゃ を求 もと めた〜
『ヒトラー 』 - 1977年 ねん 、西 にし ドイツ(当時 とうじ )。監督 かんとく :ヨアヒム・フェスト 、クリスチャン・ヘンドェルフェル
ヒトラーの生涯 しょうがい とナチの盛衰 せいすい を描 えが いた、典型 てんけい 的 てき なヒトラーのドキュメンタリー。
『放浪 ほうろう 者 しゃ と独裁 どくさい 者 しゃ 』(The Tramp and the Dictator)[ 377] - 2001年 ねん 、英 えい 独 どく 合作 がっさく 。監督 かんとく :マイケル・クロフト、ケヴィン・ブラウンロウ
誕生 たんじょう 日 び が4日 にち 違 ちが いのヒトラーとチャップリンの生涯 しょうがい を、「独裁 どくさい 者 しゃ 」完成 かんせい までのストーリーを織 お り交 ま ぜつつ対比 たいひ させているドキュメンタリー。
『死因 しいん 検証 けんしょう ファイル アドルフ・ヒトラー』 - 2003年 ねん 、(ディスカバリーチャンネル )アメリカ
『ザ・ヒトラー ヒトラー家 か の人々 ひとびと 』 - 2005年 ねん 、ドイツ
ヒトラーの家系 かけい ・家族 かぞく に焦点 しょうてん を当 あ てたドキュメンタリー。
『ヒトラーの山荘 さんそう 』(Exploring Hitler’s Mountain) - 2005年 ねん 、ドイツSpiegel TV。監督 かんとく :マイケル・クロフト
1945年 ねん までベルヒテスガーデンにあったヒトラーの山荘 さんそう 「ベルクホーフ」を中心 ちゅうしん に、ヒトラーが構想 こうそう した戦略 せんりゃく を扱 あつか ったドキュメンタリー。
『ヒットラーと将軍 しょうぐん たち』 - 2005年 ねん 、ドイツ
『葬 ほうむ られた歴史 れきし の真相 しんそう 』シリーズ 第 だい 1回 かい 『ヒトラーの死 し 』 - (ナショナルジオグラフィックチャンネル )アメリカ
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 直後 ちょくご 、ヒトラーの遺体 いたい と自殺 じさつ の事実 じじつ を隠蔽 いんぺい し、生存 せいぞん 説 せつ を流布 るふ させ続 つづ けた旧 きゅう ソ連 それん スターリン書記 しょき 長 ちょう の思惑 おもわく を解説 かいせつ 。
『ノストラダムス・エフェクト〜予言 よげん と黙示録 もくしろく 〜 』シリーズ 第 だい 6回 かい 『ヒトラーの呪 のろ い』(ヒストリーチャンネル )- ヨハネの黙示録 もくしろく に記 しる されている反 はん キリスト 、および諸 しょ 世紀 せいき に記 しる された「ヒスター」がヒトラーを指 さ したものなのか、否 ひ かについて検証 けんしょう 。他 た 、国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう の新興 しんこう カルト宗教 しゅうきょう 団体 だんたい 的 てき 側面 そくめん 、人種 じんしゅ 政策 せいさく に見 み られるナチスドイツ国策 こくさく の特異 とくい 点 てん などを解説 かいせつ 。
『世界 せかい 10大 だい ミステリーを追 お え#9 ヒトラー生存 せいぞん 説 せつ 』 - (ヒストリーチャンネル)
星 ほし 新一 しんいち 『ほら男爵 だんしゃく 現代 げんだい の冒険 ぼうけん 』(1970年 ねん )[ 378] - ある場所 ばしょ で潜伏 せんぷく しているヒトラーと主人公 しゅじんこう が出会 であ う。
川田 かわた 武 たけし 『五 ご 月 がつ 十 じゅう 五 ご 日 にち のチャップリン』(2005年 ねん )[ 379] - 政権 せいけん を取 と る以前 いぜん のヒトラーが訪独 ほうどく したチャールズ・チャップリン と出会 であ い、以後 いご も深 ふか く関 かか わっていく歴史 れきし ミステリー。
ティムール・ヴェルメシュ 『帰 かえ ってきたヒトラー 』(2012年 ねん ) - 2011年 ねん のドイツにタイムスリップしたヒトラーが、コメディアンとして有名 ゆうめい になりながらも再 ふたた び政界 せいかい への復帰 ふっき を目指 めざ していく姿 すがた を描 えが いた風刺 ふうし 小説 しょうせつ 。
『ゴルゴ13 第 だい 一 いち 章 しょう 神 しん 々の黄昏 たそがれ 』 - ネオナチ の最新 さいしん 技術 ぎじゅつ で脳 のう だけで生 い きており、ラストボス となる。
『ヒットラーの復活 ふっかつ トップシークレット 』 - 表題 ひょうだい 通 どお り、敵 てき 勢力 せいりょく である帝国 ていこく 軍 ぐん がヒトラーの復活 ふっかつ を画策 かくさく しており、最終 さいしゅう 的 てき には復活 ふっかつ したヒトラーが帝国 ていこく 軍 ぐん の総統 そうとう を殺 ころ し、飛行 ひこう 戦艦 せんかん に乗 の り込 こ んでラストボスとなる。
『ダウンロード2 』 - ラストボスとして登場 とうじょう 。データ上 じょう の意識 いしき として再 さい 構成 こうせい されたものを民族 みんぞく 評議 ひょうぎ 会 かい が盗 ぬす んで利用 りよう しようとしたものの、逆 ぎゃく に彼 かれ らを壊滅 かいめつ させてネットワーク上 じょう を暴走 ぼうそう する。名前 なまえ は出 で ず「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の時 とき の独裁 どくさい 者 しゃ で、悪 あく の帝王 ていおう と呼 よ ばれた人物 じんぶつ 」としか語 かた られない(スタッフロールでの表記 ひょうき は「EMPEROR」)が、外見 がいけん はヒトラーに基 もと づいている。
『ペルソナ2〜罪 つみ 』 - 物語 ものがたり の鍵 かぎ を握 にぎ る奇書 きしょ 「イン・ラケチ」により広 ひろ まった噂 うわさ に基 もと づき、物語 ものがたり の舞台 ぶたい である珠 たま 閒 あいだ 瑠市にラスト・バタリオンを率 ひき いて襲来 しゅうらい してくる。本人 ほんにん というわけではなく、物語 ものがたり の黒幕 くろまく ・ニャルラトホテプの化身 けしん の一 ひと つ。PSP版 ばん では顔 かお グラフィックに一部 いちぶ 修正 しゅうせい がされ、「フューラー」と名乗 なの り登場 とうじょう する(またムービー「ラスト・バタリオン襲来 しゅうらい 」も一部 いちぶ 修正 しゅうせい されている)。
『ウルフェンシュタインシリーズ 』-「Wolfenstein3D」ではボス敵 てき として人造 じんぞう 人間 にんげん 姿 すがた で登場 とうじょう するほか。「Wolfenstein II: The New Colossus 」では金星 きんぼし の居住 きょじゅう 地 ち に登場 とうじょう する(ドイツ版 ばん では一部 いちぶ 修正 しゅうせい している)。
(発表 はっぴょう 年代 ねんだい 順 じゅん )
著書 ちょしょ ・語録 ごろく ・書簡 しょかん 集 しゅう
回想 かいそう ・証言 しょうげん
アルベルト・シュペーア 『第 だい 三 さん 帝国 ていこく の神殿 しんでん にて ナチス軍需 ぐんじゅ 相 しょう の証言 しょうげん 』(品田 しなだ 豊治 とよじ 訳 やく 、中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ (上下 じょうげ )、新版 しんぱん 2020年 ねん )
アウグスト・クビツェク 『アドルフ・ヒトラーの青春 せいしゅん 親友 しんゆう クビツェクの回想 かいそう と証言 しょうげん 』(橘 たちばな 正樹 まさき 訳 やく 、三交社 さんこうしゃ 、2005年 ねん )
ゲルハルト・エンゲル 『第 だい 三 さん 帝国 ていこく の中枢 ちゅうすう にて 総統 そうとう 付 つ き陸軍 りくぐん 副官 ふっかん の日記 にっき 』(八木 やぎ 正三 しょうさん 訳 やく 、バジリコ、2008年 ねん )
トラウデル・ユンゲ 『私 わたし はヒトラーの秘書 ひしょ だった 』(足立 あだち ラーベ加代 かよ ・高島 たかしま 市子 いちこ 訳 やく 、草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 、2004年 ねん ) ISBN 4794212763
ローフス・ミッシュ 『ヒトラーの死 し を見 み とどけた男 おとこ 地下 ちか 壕 ごう 最後 さいご の生 い き残 のこ りの証言 しょうげん 』 (小林 こばやし 修 おさむ 訳 やく 、草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 、2006年 ねん )
エレーナ・ルジェフスカヤ 『ヒトラーの最期 さいご ソ連 それん 軍 ぐん 女性 じょせい 通訳 つうやく の回想 かいそう 』(松本 まつもと 幸 みゆき 重訳 じゅうやく 、白水 しろみず 社 しゃ 、2011年 ねん )
『ヒトラー・コード』 ヘンリク・エーベルレ、マティアス・ウール編 へん (高木 たかぎ 玲 れい 訳 やく 、講談社 こうだんしゃ 、2006年 ねん )
『KGB秘 ひ 調書 ちょうしょ ヒトラー最期 さいご の真実 しんじつ 』(佐々 ささ 洋子 ようこ ・貝澤 かいざわ 哉 ・鴻 おおとり 英 えい 良 りょう 訳 わけ 、光文社 こうぶんしゃ 、2001年 ねん )
『ヒトラーは語 かた る 1931年 ねん の秘密 ひみつ 会談 かいだん の記録 きろく 』 カリック編 へん (鹿毛 かげ 達雄 たつお 訳 やく 、中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1977年 ねん )
『君 きみ はヒトラーを見 み たか―同 どう 時代 じだい 人 じん の証言 しょうげん としてのヒトラー体験 たいけん (ワルター・ケンポウスキ編 へん 、到 いた 津 つ 十 じゅう 三男 さんなん 訳 やく 、サイマル出版 しゅっぱん 会 かい 、1973年 ねん )
伝記 でんき (研究 けんきゅう 伝記 でんき の主要 しゅよう な著作 ちょさく 、上記 じょうき も以下 いか も品 しな 切 きり 絶版 ぜっぱん を含 ふく む)
戦前 せんぜん 戦中 せんちゅう 期 き の文献 ぶんけん
『ヒトラーの獅子吼 ししく 復興 ふっこう 独逸 どいつ の英雄 えいゆう ヒトラー首相 しゅしょう 演説 えんぜつ 集 しゅう 』滝 たき 清 きよし 訳 やく (日本 にっぽん 講演 こうえん 社 しゃ 、1933年 ねん )
(Das junge Deutschland will Arbeit und Frieden 1933年 ねん )
『ナチとは何 なに か』佐藤 さとう 荘一 しょういち 郎 ろう 訳 やく (青年 せいねん 書房 しょぼう 、1939年 ねん )
(Adolf Hitlers Reden 第 だい 二 に 版 はん 1933年 ねん )
『わが闘争 とうそう 』 大久保 おおくぼ 康雄 やすお 訳 わけ (三笠 みかさ 書房 しょぼう 、1937年 ねん ) 抄訳 しょうやく
『ヒットラー語録 ごろく 』西村 にしむら 隆三郎 りゅうざぶろう 編 へん 訳 やく (ヘラルド雑誌 ざっし 社 しゃ 、1939年 ねん )
『青年 せいねん に檄 げき す』近藤 こんどう 春雄 はるお 編 へん 訳 やく (三省堂 さんせいどう 、1940年 ねん )
『ヒトラー総統 そうとう 演説 えんぜつ 集 しゅう 』工藤 くどう 長 ちょう 祝 しゅく 訳 やく (鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 社 しゃ 、1940年 ねん )
『我 わ が新 しん 秩序 ちつじょ (上巻 じょうかん )』堀 ほり 真琴 まこと 訳 やく (青年 せいねん 書房 しょぼう 、1942年 ねん )
『我 わ が新 しん 秩序 ちつじょ (下巻 げかん )』堀 ほり 真琴 まこと ・内山 うちやま 賢次 けんじ ・村上 むらかみ 啓 あきら 夫 おっと 訳 やく (高山 たかやま 書院 しょいん 、1944年 ねん )
(My New Order :Raoul de Roussy De Sales編 へん 1941年 ねん )
『独逸 どいつ の決戦 けっせん 態度 たいど ヒトラー総統 そうとう 最近 さいきん の宣言 せんげん 』工藤 くどう 長 ちょう 祝 しゅく 訳 やく (鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 社 しゃ 、1943年 ねん )
研究 けんきゅう 書 しょ
^ 国家 こっか 元首 げんしゅ の権能 けんのう を掌握 しょうあく した日 ひ 。
^ 例 れい としては、『広辞苑 こうじえん 』第 だい 三 さん 版 はん 、『大辞林 だいじりん 』第 だい 二 に 版 はん では「ナチズム 」を古代 こだい ローマ のコンスル による執政 しっせい 、ファシズムと並 なら ぶ独裁 どくさい 政治 せいじ の典型 てんけい としている。また、平凡社 へいぼんしゃ 『世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 』第 だい 二 に 版 はん の「独裁 どくさい 」(加藤 かとう 哲郎 てつろう 執筆 しっぴつ )の項 こう には「歴史 れきし 上 じょう の独裁 どくさい は、個人 こじん の名前 なまえ と結 むす びつけられることが多 おお く、古代 こだい ローマのカエサル 、秦 はた の始皇帝 しこうてい 、イギリス清教徒 せいきょうと 革命 かくめい 期 き (イングランド共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい )のオリバー・クロムウェル 、フランスのナポレオン・ボナパルト 、ナチスドイツのヒトラー、ソ連 それん のヨシフ・スターリン などがその例 れい である。」と代表 だいひょう 的 てき な独裁 どくさい 者 しゃ として彼 かれ の名 な を挙 あ げている。
^ 全権 ぜんけん 委任 いにん 法 ほう の成立 せいりつ を、カール・シュミット は政府 せいふ に無 む 制限 せいげん の権力 けんりょく が与 あた えられたと評 ひょう している[ 4] 。また伝統 でんとう 的 てき に小 しょう 邦 くに が分立 ぶんりつ していたドイツでは、ドイツ統一 とういつ 以降 いこう もバイエルン王国 おうこく など州 しゅう 邦 くに の自治 じち 権力 けんりょく は強 つよ く、1933年 ねん のナチ党 とう による各州 かくしゅう 政府 せいふ のクーデターまでその状態 じょうたい が続 つづ いていた。ナチ党 とう 自身 じしん もその権力 けんりょく の大 おお きさを認識 にんしき しており、1934年 ねん 8月 がつ の国家 こっか 元首 げんしゅ 就任 しゅうにん 後 ご に行 おこな われたヒトラーの布告 ふこく では「ライヒの最高 さいこう 権力 けんりょく から全 ぜん 行政 ぎょうせい 機構 きこう を経 へ て末端 まったん の地区 ちく の指導 しどう に至 いた るまで、ドイツライヒはナチス党 とう の手 て の中 なか にある」と言明 げんめい し、その年 とし の党 とう 大会 たいかい では「民族 みんぞく の指導 しどう 部 ぶ が今日 きょう ドイツにおいてあらゆる権力 けんりょく を掌握 しょうあく している」と宣言 せんげん されている。
^ 他 た に名前 なまえ の研究 けんきゅう 家 か ユルゲン・ウードルフ はヒトラー姓 せい はバイエルンやオーストリア各地 かくち に伝 つた わる「地下水 ちかすい 脈 みゃく 」と「泉 いずみ 」などを表 あらわ す方言 ほうげん を語源 ごげん とする説 せつ を主張 しゅちょう している
^ 『我 わ が闘争 とうそう 』には「役所 やくしょ から私 わたし のために扶助 ふじょ 料 りょう のやうなものが下 さ がるけれど、それでは水 みず も飲 の めない程 ほど 僅」「父 ちち の遺産 いさん は多少 たしょう あつたけれども、母 はは の病気 びょうき で殆 ほとん ど消 き えてしまった」[ 69] と述 の べている。当時 とうじ 、若 わか い教師 きょうし の月給 げっきゅう が66クローネ、ウィーン実科 じっか 学校 がっこう の高級 こうきゅう 事務 じむ 官 かん の月給 げっきゅう が82クローネであった(村瀬 むらせ 1977 , p. 116-117)。
^ 上等 じょうとう 兵 へい 、伍長 ごちょう 勤務 きんむ 上等 じょうとう 兵 へい とも邦訳 ほうやく されるが、確定 かくてい 的 てき な訳 わけ はない。現代 げんだい においてもこの階級 かいきゅう はドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん 、オーストリア軍 ぐん 、スイス軍 ぐん 等 ひとし のドイツ語 どいつご 圏 けん に存在 そんざい しており、NATO軍 ぐん の階級 かいきゅう 一覧 いちらん 表 ひょう (英語 えいご 版 ばん ) では、OR-2(一等 いっとう 兵 へい )に相当 そうとう する分類 ぶんるい になっている。しばしばヒトラーの最終 さいしゅう 階級 かいきゅう の低 ひく さを揶揄 やゆ して「ボヘミアの伍長 ごちょう 」などと呼称 こしょう する例 れい も多 おお いが、ゲフライターは下士官 かしかん (伍長 ごちょう )ではないため、正確 せいかく な表現 ひょうげん とは言 い えない。
^ フィンランド とドイツ のメダル受賞 じゅしょう 者 しゃ と握手 あくしゅ を交 か わしたものの、ベルギー 出身 しゅっしん の当時 とうじ のIOC会長 かいちょう であったアンリ・ド・バイエ=ラトゥール が全 すべ ての受賞 じゅしょう 者 しゃ と同 おな じことをするつもりがないなら、握手 あくしゅ をやめるよう言 い っており、その後 ご 恐 おそ らくオーエンスの勝利 しょうり を恐 おそ れ以降 いこう 、ヒトラーが選手 せんしゅ に対 たい し祝福 しゅくふく をすることはなかった[ 132] 。
^ 4月 がつ 24日 にち に陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ の統帥 とうすい 権 けん はノイルーフェン基地 きち に脱出 だっしゅつ した国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ に委譲 いじょう され、南部 なんぶ の指揮 しき 権 けん は国防 こくぼう 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 次長 じちょう ヴィンター 中将 ちゅうじょう 、中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん シェルナー 元帥 げんすい 、南部 なんぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん 集団 しゅうだん レンデュリック 大将 たいしょう が分担 ぶんたん することになった。
^ 4月 がつ 22日 にち 、ゴットロープ・ベルガー 親衛隊 しんえいたい 大将 たいしょう との会話 かいわ [ 230] 。
^ ただしジョン・トーランド は、結婚 けっこん 証明 しょうめい 書 しょ の日付 ひづけ が書 か き直 なお されていることから、4月 がつ 28日 にち 中 ちゅう に結婚 けっこん が行 おこな われたものと見 み ている。
^ フランツ・イェツィンガー、村瀬 むらせ 興 きょう 雄 ゆう ら。
^ 邦訳 ほうやく 題 だい は『ヒトラーと哲学 てつがく 者 しゃ :哲学 てつがく はナチズム とどう関 かか わったか』。
^ 1941年 ねん 7月 がつ 21日 にち から22日 にち のヒトラー談話 だんわ 。
^ 「別 べつ の味方 みかた (イタリア)も結局 けっきょく は正 ただ しい側 がわ について戦争 せんそう を終 お える国 くに だ」と付 つ け加 くわ えている。これはナポレオン・ボナパルト の「イタリアは決 けっ して開戦 かいせん 時 じ の味方 みかた 国 こく と最後 さいご まで行 くだり を共 とも にしたことはない。二 に 度 ど 味方 みかた を変 か えた場合 ばあい は別 べつ だが」をもじったものである[ 274] 。
^ 『我 わ が闘争 とうそう 』では、「日 にち 露 ろ 戦争 せんそう では私 わたし は始 はじめ から日本 にっぽん に味方 みかた した」と書 か かれているが、これはロシアの敗北 はいぼく がオーストリア国内 こくない にいるスラブ民族 みんぞく の敗北 はいぼく につながるという理屈 りくつ からである[ 278] 。
^ 「改造 かいぞう 」号 ごう の児島 こじま 喜久雄 きくお の記事 きじ では、風 ふう 濤図のほか六波羅蜜 ろくはらみつ 寺 てら の平清盛 たいらのきよもり 坐像 ざぞう 、俵屋 たわらや 宗達 そうたつ の扇面 せんめん 散 ち 図 ず 、尾形 おがた 光琳 こうりん の鳥類 ちょうるい 写生 しゃせい 帳 ちょう が挙 あ げられている。またほかの記事 きじ ではいくつかの美術 びじゅつ 品 ひん がヒトラーの目 め に留 とど まったと書 か かれている(安松 やすまつ みゆき 2000 , p. 145)。
^ 1942年 ねん 2月 がつ 17日 にち のヒトラー談話 だんわ 。
^ 1942年 ねん 1月 がつ 7日 にち のヒトラー談話 だんわ 。
^ 1941年 ねん 11月5日 にち のヒトラー談話 だんわ 。
^ 作家 さっか カール・ツックマイヤー の回想 かいそう [ 292] 。
^ ヴィルヘルム・モーンケ 親衛隊 しんえいたい 少将 しょうしょう との会話 かいわ [ 308] 。
^ 1944年 ねん 10月 がつ 1日 にち には総統 そうとう 医師 いし 団 だん の一人 ひとり 、ギーシングがモレルの解任 かいにん を求 もと めたがヒトラーは承諾 しょうだく しなかった。その後 ご 、ヒトラーの指示 しじ を受 う けたヒムラーによってモレル以外 いがい の総統 そうとう 専属 せんぞく 医師 いし は解任 かいにん された。ただしモレルの治療 ちりょう と投薬 とうやく は中止 ちゅうし され、以降 いこう ヒトラーの治療 ちりょう はシュトゥンプフエッガー SS少佐 しょうさ が担当 たんとう することになる。
^ 1945年 ねん 10月 がつ 17日 にち 、ニュルンベルクにおけるハウスホーファーの証言 しょうげん
^ bastarden (bastard) とは品 しな のない言葉 ことば で「野郎 やろう 」の他 ほか 、雑種 ざっしゅ (犬 いぬ )、結婚 けっこん していない男女 だんじょ の子 こ ども、ということにもなる。
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