(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アドルフ・ヒトラー - Wikipedia コンテンツにスキップ

アドルフ・ヒトラー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アドルフ・ヒトラー
Adolf Hitler
1938ねん肖像しょうぞう写真しゃしん
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
総統そうとう指導しどうしゃけんドイツこく首相しゅしょう
任期にんき
1934ねん8がつ2にち[ちゅう 1] – 1945ねん4がつ30にち
前任ぜんにんしゃパウル・フォン・ヒンデンブルク
大統領だいとうりょう
後任こうにんしゃカール・デーニッツ
大統領だいとうりょう
ドイツ国の旗ドイツの旗ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
だい15だい 首相しゅしょう
任期にんき
1933ねん1がつ30にち – 1945ねん4がつ30にち
大統領だいとうりょうパウル・フォン・ヒンデンブルク(1933-1934)
ヒンデンブルク死去しきょともな首相しゅしょうしょくとの合一ごういつ個人こじんによる権限けんげん掌握しょうあく
(1934-1945)
前任ぜんにんしゃクルト・フォン・シュライヒャー
後任こうにんしゃヨーゼフ・ゲッベルス
国防こくぼうぐん
最高さいこう司令しれいかん
任期にんき
1938ねん2がつ4にち – 1945ねん4がつ30にち
前任ぜんにんしゃ創設そうせつ
後任こうにんしゃカール・デーニッツ
海軍かいぐん元帥げんすい
ドイツ陸軍りくぐん
そう司令しれいかん
任期にんき
1941ねん12月19にち – 1945ねん4がつ30にち
前任ぜんにんしゃヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
後任こうにんしゃフェルディナント・シェルナー
陸軍りくぐん
Aぐん集団しゅうだん司令しれいかん
任期にんき
1942ねん9がつ10日とおか – 1942ねん11月23にち
前任ぜんにんしゃヴィルヘルム・リスト
後任こうにんしゃエヴァルト・フォン・クライスト
国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
指導しどうしゃ
任期にんき
1921ねん6月29にち – 1945ねん4がつ30にち
前任ぜんにんしゃアントン・ドレクスラー
後任こうにんしゃマルティン・ボルマンとう担当たんとう大臣だいじん) 
突撃とつげきたい
最高さいこう指導しどうしゃ
任期にんき
1931ねん1がつ1にち – 1945ねん4がつ30にち
前任ぜんにんしゃフランツ・フォン・ザロモン
後任こうにんしゃ消滅しょうめつ
ドイツの旗 ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
国会こっかい議員ぎいん
任期にんき
1933ねん3月5にち – 1945ねん4がつ30にち
国会こっかい議長ぎちょうヘルマン・ゲーリング
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたん (1889-04-20) 1889ねん4がつ20日はつか
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく
うえオーストリア大公たいこうこく
ブラウナウ・アム・イン
死没しぼつ1945ねん4がつ30にち(1945-04-30)(56さいぼつ
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
プロイセン自由じゆうしゅうベルリン
市民しみんけん1889–1925:オーストリアじん
(0–35さい
1925–1932:国籍こくせき
(35–43さい
1932–1945 : ドイツじん
(43–56さい
政党せいとう ドイツ労働ろうどうしゃとう(1920ねん - 1921ねん
党員とういん番号ばんごう:555ばん
国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(1921ねん- 1945ねん
党員とういん番号ばんごう:1ばん
配偶はいぐうしゃエヴァ・ブラウン(1945ねん
おやアロイス・ヒトラーちち
クララ・ヒトラーはは
出身しゅっしんこう基礎きそ学校がっこう小学校しょうがっこう修了しゅうりょう
シュタイアー実科じっか学校がっこう中退ちゅうたい
民事みんじ受賞じゅしょう 黄金おうごん党員とういん名誉めいよあきら
血盟けつめい勲章くんしょう
署名しょめい
兵役へいえき経験けいけん
所属しょぞくこく ドイツ帝国ていこく
ヴァイマル共和きょうわこく
ドイツこく
所属しょぞく組織そしき ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
  • バイエルン王国おうこく陸軍りくぐん 
ヴァイマル共和きょうわこく陸軍りくぐん
突撃とつげきたい
ドイツ陸軍りくぐん
ぐんれき1914ねん - 1920ねん
(ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
1938ねん - 1945ねん
(ドイツ国防こくぼうぐん
最終さいしゅう階級かいきゅう 伍長ごちょう勤務きんむ上等じょうとうへい(ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
指揮しき 突撃とつげきたい最高さいこう指導しどうしゃ
国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかん
陸軍りくぐんそう司令しれいかん
戦闘せんとうだいいち世界せかい大戦たいせん
だい世界せかい大戦たいせん
軍事ぐんじ受賞じゅしょう 一級いっきゅうてつじゅうあきら
きゅうてつじゅうあきら
戦傷せんしょうあきらくろあきら

アドルフ・ヒトラードイツ: Adolf Hitler ドイツ[ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] ( 音声おんせいファイル)[1](アードルフ・ヒトゥラ), 1889ねん4がつ20日はつか - 1945ねん4がつ30にち)は、ドイツ政治せいじ[2]ドイツこく首相しゅしょう、および国家こっか元首げんしゅ総統そうとう)であり、国家こっか一体いったいであるとされた国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチス)の指導しどうしゃ[2]

1933ねん首相しゅしょう指名しめいされ、1ねん程度ていど指導しどうしゃ原理げんりもとづくとう指導しどうしゃによるいちきょく集中しゅうちゅう独裁どくさい指導しどう体制たいせいきずいたため、独裁どくさいしゃ代表だいひょうれいとされる[ちゅう 2]。ドイツ民族みんぞく至上しじょう主義しゅぎしゃであり[2]、その冒険ぼうけんてき外交がいこう政策せいさく人種じんしゅ主義しゅぎもとづく政策せいさくは、ぜん世界せかいだい世界せかい大戦たいせんへとみちびき、さらにアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制きょうせい収容しゅうようしょはじめとする強制きょうせい収容しゅうようしょ各地かくち設立せつりつ支配しはい地域ちいきユダヤじんなどにたいする組織そしきてきだい虐殺ぎゃくさつホロコースト」をこした[3]ベルリン陥落かんらく目前もくぜんにした1945ねん4がつ30にち夫人ふじんのエヴァ・ブラウンとともみずかいのちった

概要がいよう

[編集へんしゅう]

出生しゅっしょうオーストリア=ハンガリー帝国ていこくオーバーエスターライヒしゅうちちアロイス・ヒトラーオーストリア帝国ていこく大蔵省おおくらしょう守衛しゅえいであり、ははクララ・ヒトラーはアロイスたく家政かせいであった。

だいいち世界せかい大戦たいせんまでは無名むめいいち青年せいねんぎなかったが、戦後せんごにはバイエルンしゅうにおいて、国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチス)党首とうしゅとしてアーリア民族みんぞく中心ちゅうしんえた人種じんしゅ主義しゅぎはんユダヤ主義しゅぎかかげた政治せいじ活動かつどうおこなうようになった。1923ねん中央ちゅうおう政権せいけん転覆てんぷく目指めざしたミュンヘン一揆いっき首謀しゅぼうしゃとなり、一時いちじ投獄とうごくされるも、出獄しゅつごく合法ごうほうてき選挙せんきょにより勢力せいりょく拡大かくだいした。

1933ねんには大統領だいとうりょうによる指名しめいけてドイツこく首相しゅしょうとなり、首相しゅしょう就任しゅうにん政党せいとう党内とうないがい政敵せいてき弾圧だんあつし、ドイツ史上しじょうかつてない権力けんりょく掌握しょうあくした[ちゅう 3]。1934ねん8がつ大統領だいとうりょうパウル・フォン・ヒンデンブルク死去しきょともない、大統領だいとうりょう権能けんのう個人こじんとして継承けいしょうした(総統そうとう)。こうしてヒトラーという人格じんかくがドイツこく最高さいこう権力けんりょくである三権さんけん掌握しょうあく[6]、ドイツこくにおけるすべてのほうげんとなる存在そんざいとなり[6]、ヒトラーという人格じんかくかいしてナチズム運動うんどう国家こっか同一どういつのものになるという特異とくい支配しはい体制たいせいきずいた[7]。この時期じきドイツこく一般いっぱんてきに「ナチス・ドイツ」とばれることがおおい。

ヒトラーは人種じんしゅ主義しゅぎ優生ゆうせいがくファシズムなどに影響えいきょうされた選民せんみん思想しそうナチズム)にもとづき、北方ほっぽう人種じんしゅ世界せかい指導しどうするべきしゅたる人種じんしゅドイツばん主張しゅちょうしていた[8]。またニュルンベルクほう経済けいざい方面ほうめんにおけるアーリアなど、アーリアじん血統けっとうけがすとされた人種じんしゅである有色ゆうしょく人種じんしゅ黄色おうしょく人種じんしゅ黒色こくしょく人種じんしゅ)や、ユダヤけいスラブけいロマとドイツ国民こくみん接触せっしょくち、また迫害はくがいする政策せいさくすすめた。またドイツ民族みんぞくであるとされたものでも、性的せいてき少数しょうすうしゃ退廃たいはい芸術げいじゅつ障害しょうがいしゃ、ナチとうしたがわない政治せいじ団体だんたい宗教しゅうきょう団体だんたい、そのナチスがはん社会しゃかいてき人物じんぶつ認定にんていしたもの民族みんぞく共同きょうどうたいけがす「たねてき変質へんしつしゃ」であるとして迫害はくがい断種だんしゅされた(きるにあたいしないいのち[9][10]

さらに1937ねん官邸かんてい秘密ひみつ会議かいぎ著書ちょしょ闘争とうそう』でしめされているように、みずからが指導しどうする人種じんしゅやしなうため、旧来きゅうらい領土りょうどのみならず「東方とうほうに『生存せいぞんけん』が必要ひつようである」として帝国ていこく主義しゅぎてき領土りょうど拡張かくちょう侵略しんりゃく政策せいさくすすめた[11]。やがて1939ねんポーランド侵攻しんこうはじまるだい世界せかい大戦たいせんこし、大陸たいりくヨーロッパの大半たいはん占領せんりょうした。この戦争せんそう最中さいちゅうでユダヤじんたいするホロコースト障害しょうがいしゃたいするT4作戦さくせんなどの虐殺ぎゃくさつ政策せいさくすすめられた。幾度いくどくわだてられた暗殺あんさつ計画けいかくびたが、最終さいしゅうてき連合れんごうこく反撃はんげきけ、すべての占領せんりょう本土ほんど領土りょうどまれ、ナチとう政権せいけん崩壊ほうかいかうなか、ヒトラーは赤軍せきぐん包囲ほういされたベルリン総統そうとう地下ちかごううち自殺じさつした(アドルフ・ヒトラーの)。

出自しゅつじ

[編集へんしゅう]

ヒトラー

[編集へんしゅう]

ヒトラー出自しゅつじについてはなぞおおく、本人ほんにんも「わたし自分じぶん一族いちぞく歴史れきしについてなにらない。わたしほどらない人間にんげんはいない。親戚しんせきがいることすららなかった。(中略ちゅうりゃく)…わたし民族みんぞく共同きょうどうたいにのみぞくしている」とかたっている[12]出自しゅつじについて詮索せんさくされること非常ひじょうきらい、「自分じぶんだれか、どこからたか、どの一族いちぞくからまれたか、それを人々ひとびとってはいけないのだ!」とべており、いもうとパウラは「あにには一族いちぞくという意識いしきがなかった」としている[12]

そもそもヒトラーの実父じっぷアロイス・ヒトラーからして出自しゅつじ不明瞭ふめいりょう人物じんぶつで、かれ低地ていちオーストリア地方ちほうにあるシュトローネスむらマリア・アンナ・シックルグルーバーという未婚みこん女性じょせい私生児しせいじとして1837ねんまれ、アロイス・シックルグルーバー名付なづけられている[13][14]ちちアロイスは祖母そぼマリアが42さいときまれた高齢こうれい出産しゅっさんかつ初産しょさんであった[15]。さらに祖母そぼ子供こども父親ちちおやとしてかんがえられる相手あいて男性だんせいについてけっしてかたらず、結果けっかてきにアロイスの洗礼せんれい台帳だいちょう空白くうはくになっている[15]のちにマリアはアロイス出産しゅっさんこな職人しょくにんヨハン・ゲオルク・ヒードラー英語えいごばん結婚けっこん[15]、アロイスは「継父けいふははもうけたこん外子そとこ」でのち結婚けっこんしたのだろうとかたっているが、その根拠こんきょはない[16]職人しょくにんとして各地かくち放浪ほうろうしながらはたらいていたゲオルクとマリアに接点せってんがあったとはかんがえがたく、またアロイスはゲオルクの養子ようしにはされずシックルグルーバーせい青年せいねんまでごしている[17]

しばらくしてアロイスは継父けいふおとうとで、より安定あんていした生活せいかつおくっている農夫のうふヨーハン・ネーポムク・ヒードラー英語えいごばんられ、よし叔父おじネーポムクはアロイスを実子じっしのように可愛かわいがった[15]。なお、兄弟きょうだい名字みょうじことなるが、かたちがいであってつづりはおなHiedler記載きさいされている。もともとHiedlerは「日雇ひやと農夫のうふ」「小農しょうのう」を語源ごげんとする姓名せいめい[18][ちゅう 4]、それほどめずらしい姓名せいめいでもなかったとされている[19]。「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などのせい東方とうほう植民しょくみんしたボヘミアドイツじん、およびチェコじんスロバキアじんなどにられるともわれる。

1887ねん、アロイスは地元じもと公証こうしょうじんに「自分じぶん継父けいふヨハン・ゲオルク・ヒードラーの実子じっしである」と申請しんせいし、教会きょうかいにも同様どうよう書類しょるい提出ていしゅつした[18]改姓かいせいにあたっては叔父おじネーポムクが全面ぜんめんてき協力きょうりょくしているが、じつはネーポムクこそアロイスの実父じっぷであったのではないかとする意見いけんもある[17]。それまでシックルグルーバーせい満足まんぞくしていたアロイスが突然とつぜん改姓かいせいしたのはむすめしかいなかったネーポムクがかく一家いっか財産ざいさん相続そうぞくさせたかったからではないかと推測すいそくされており、現実げんじつだい部分ぶぶん遺産いさんゆずられている[17]。あるいは体面たいめんにするアロイスにとって自身じしん出自しゅつじ不明瞭ふめいりょうであることしめす、母方ははかたのシックルグルーバーせいまわしくかんじた可能かのうせいもある[18]改姓かいせい前後ぜんこうからアロイスは母方ははかた親族しんぞくまった連絡れんらくらなくなり、むすめ一人ひとりであるすえおんなパウラは親戚しんせきいがほとんどないことについて「とうさんにも親族しんぞくがいないはずはないのに」と不思議ふしぎがっていたという[20]

ともかくアロイスは「Hiedler」せい改姓かいせいしたが、かたについては「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー」とかれており、おそらく公証こうしょうじんみやすい名前なまえ記載きさいしたものとおもわれる[18]。なお、日本にっぽん最初さいしょ報道ほうどうされたさいには「ヒットレル」と表記ひょうきされ(舞台ぶたいドイツ発音はつおんもとになっている)[21]、そのは「ヒットラー」という表記ひょうきおおられた。

父母ちちはは兄弟きょうだい

[編集へんしゅう]
ブラウナウ・アム・インに現存げんそんするヒトラーの生家せいか
1898ねんから1905ねんまでヒトラーが家族かぞくんだリンツ郊外こうがいレオンディングいえ

ちちアロイスは叔父おじした小学校しょうがっこう国民こくみん学校がっこう)をのちウィーンくつ職人しょくにんとして徒弟とてい修行しゅぎょう出向でむいている。しかしウィーンにたアロイスは下層かそう労働ろうどうしゃわることのぞまず、19さいとき税務署ぜいむしょ採用さいよう試験しけん独学どくがく合格ごうかくして公務員こうむいんとなった[22]上昇じょうしょう志向しこうつよいアロイスは懸命けんめいはたらいて補佐ほさ監督かんとくかん監督かんとくかん最終さいしゅうてきには税関ぜいかん上級じょうきゅう事務じむかんまでつとげたが、これは学歴がくれき職員しょくいんとしては異例いれい栄達えいたつであった。40ねん勤続きんぞく退職たいしょくするころには1100グルデン以上いじょう年収ねんしゅうという、公立こうりつ学校がっこう校長こうちょうしょくよりたか給与きゅうよっていた。アロイスはこうした成功せいこうから人生じんせいつよ自尊心じそんしんち、親族しんぞくへの手紙てがみでも「最後さいごったとき以来いらいわたし飛躍ひやくてき出世しゅっせした」とほこらしげにいている[22]。また軍人ぐんじんふう短髪たんぱつ貴族きぞくしかとしたきびしい髭面ひげづらこのみ、役人やくにん口調くちょう気取きどった文章ぶんしょう手紙てがみくなど権威けんい主義しゅぎてき趣向しゅこうぬしであった[22]

アロイスはせい奔放ほんぽう人物じんぶつで、生涯しょうがいおおくの女性じょせい関係かんけいち、30さいときにはテレージアという自分じぶんおなじような私生児しせいじ最初さいしょとしてもうけており、生物せいぶつ学的がくてきには彼女かのじょがヒトラーの長姉ちょうしとなる[23]。1873ねん、36さいのアロイスは持参じさんきん目当めあてに裕福ゆうふく独身どくしん女性じょせいの50さいのアンナ・グラスルと結婚けっこんしたが、ははマリアのような高齢こうれい出産しゅっさんしかのぞみのないグラスルとはもうけることはなかった[23]わりにアロイスは召使めしつかい未成年みせいねん少女しょうじょだったフランツィスカを愛人あいじんとし、1880ねん事実じじつったつまアンナからは別居べっきょもうわたされたが、人目ひとめはばからずフランツィスカをつまのようにあつかって同棲どうせい生活せいかつおくった。1883ねん最初さいしょつまアンナの死後しごにアロイスはフランツィスカと再婚さいこんして結婚けっこんまえまれていた長男ちょうなんアロイスドイツばん正式せいしき認知にんちつづいて結婚けっこん長女ちょうじょアンゲラドイツばんもうけた[24]。だがアロイスはすでにフランツィスカへの興味きょうみうしないつつあり、あたらしい召使めしつかいであったクララ・ペルツルを愛人あいじんにしていた。

クララのちちはヨハン・バプティスト・ペルツル、はははヨハンナ・ペルツルという名前なまえだったが、このうちははヨハンナ・ペルツルの旧姓きゅうせいヒードラーだった。彼女かのじょでもないアロイスの叔父おじであり、実父じっぷともかんがえられるヨハン・ネポムク・ヒードラーのむすめであった[23]。もしアロイスがゲオルクのであったとすればヨハンナとは従兄じゅうけいいもうと間柄あいだがらとなり、ましてネポムクのであればあにいもうとですらあった。そのむすめクララは従妹じゅうまいあるいはめいということになる。クララはアロイスより23さい年下とししただった。フランツィスカはアンナのまいおそれて結婚けっこんまえにクララをいえからしたが、フランツィスカが病気びょうきたおれるとアロイスの手引てびきでクララは召使めしつかいとしてふたたはいんだ[23]

1884ねん、フランツィスカが病没びょうぼつすると1885ねん1がつ7にちに47さいのアロイスは24さいのクララとさん度目どめ結婚けっこんおこなった[24]すくなくとも法的ほうてきには従妹じゅうまいである以上いじょう結婚けっこんには教会きょうかいへの請願せいがん必要ひつようであったので「血族けつぞく結婚けっこんかんする特別とくべつ免除めんじょ」をリンツの教会きょうかい申請しんせいして、ローマ教皇きょうこうちょうから受理じゅりされている[24]。クララは結婚けっこんから5かげつ次男じなんグスタフをみ、つづいて1886ねん次女じじょイーダ、1887ねん三男さんなんオットーをんだがさん幼児ようじくなっている。1889ねんよんなんアドルフ(ヒトラー)がまれ、長男ちょうなんアロイス2せいとともに数少かずすくなく成人せいじんしたヒトラーいえとなった。1894ねんなんエドムント、1896ねんさんじょパウラがまれている。

また、上記じょうきにあるようにヒトラーのちちのアロイスがこん外子そとこということで、ヒトラーが政権せいけん把握はあくするとかれ自身じしんが「ユダヤけい」ではないかとちまたうわさ流布るふされたが、ヒトラーの死後しご史家しかによる徹底的てっていてき調査ちょうさ結果けっか否定ひていされている(下記かき参照さんしょう[25]

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

幼少ようしょう

[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]
幼少ようしょう写真しゃしん
ヒトラー(さい後列こうれつ中央ちゅうおう)が10さいから11さいまでかよった小学校しょうがっこう集合しゅうごう写真しゃしん

1889ねん4がつ20日はつか午後ごご630ふん当時とうじヒトラーらしていたブラウナウにある旅館りょかんガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーのよんおとことして出生しゅっしょう、2にちの4がつ22にちにローマ・カトリック教会きょうかいのイグナーツ・プロープスト司教しきょうから洗礼せんれいけ、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付なづけられた[26]洗礼せんれいには叔母おばハンニと産婆さんばポインテッカーの二人ふたりっている[26]

ヒトラーが3さいとき一家いっかべついえして、ドイツ帝国ていこくバイエルン王国おうこくパッサウ転居てんきょしている[27][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]バイエルン・オーストリアけんうち、オーストリア方言ほうげんからバイエルン方言ほうげん領域りょういき移住いじゅうしたことになった。かれもちいるドイツ語どいつごには標準ひょうじゅんドイツことなる独特どくとくの「なまり」が指摘してきされるが、それはバイエルンじんとしての出自しゅつじゆえのことである[28][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう][29][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう][30][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]おさないヒトラーは西部せいぶげきてくるインディアンの真似事まねごときょうじるようになった。またちち所有しょゆうしていたひろしふつ戦争せんそうほんみ、戦争せんそうたいする興味きょうみいだくようになった[31]。1895ねん、リンツに単身たんしん赴任ふにんしていたアロイスが定年ていねん退職たいしょくにより恩給おんきゅう生活せいかつはいると、一家いっかれてハーフェルトむらという田舎町いなかまち引越ひっこし、屋敷やしきって農業のうぎょう養蜂ようほうぎょうはじめていた。ヒトラーはランバッハ英語えいごばん郊外こうがいにあったフィッシュルハム英語えいごばん国民こくみん学校がっこう小学校しょうがっこう)にとおった。

1896ねん異母いぼけいアロイス2せいちちとの口論こうろん契機けいきに14さいいえからき、二度にどとヒトラーにはもどらなかった[32]異母弟いぼていヒトラーや継母けいぼいがわるかったこと一因いちいんられている[32]跡継あとつぎとなったヒトラーは1897ねんまで国民こくみん学校がっこう在籍ざいせきした記録きろくのこっているが[33][34][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]フィッシュルハム移住いじゅうから学校がっこう規律きりつしたがわない問題児もんだいじとして、ヒトラーもちちいさかいをこすようになった[35][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]1897ねん父親ちちおや農業のうぎょう失敗しっぱいわり、一家いっか郊外こうがい農地のうち手放てばなしてランバッハ市内しない定住ていじゅうしている。ヒトラーもベネディクト修道しゅうどうかいけい小学校しょうがっこう移籍いせきし、聖歌せいかたい所属しょぞくするなどキリスト教きりすときょう熱心ねっしん信仰しんこうして、聖職せいしょくしゃになることをのぞんだ[36]。ベネディクト修道しゅうどうかい聖堂せいどう彫刻ちょうこくにはのちにナチスのシンボルマークしょうとして採用さいようするスワスチカ使つかわれていた[37][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]本人ほんにんによれば、信仰しんこうしんというよりもはなやかな式典しきてん建物たてものへのあこがれがつよかったようである[38]

1898ねん、ランバッハからもはなれてリンツ近郊きんこうレオンディングにアロイスと一家いっか同地どうち定住ていじゅうしたが、後年こうねんにヒトラーから生家せいか案内あんないされたゲッベルスいわく「ちいさく粗末そまついえ」であったという。おとうとエドムントがくなる不幸ふこうなどをて、次第しだいにヒトラーはききわけの子供こどもから、ちち教師きょうし口答くちごたえする反抗はんこうてき性格せいかくへとわっていった[39]感傷かんしょうてき理由りゆうからではなく、単純たんじゅんにアロイス2せい家出いえでもあってヒトラーが唯一ゆいいつ跡継あとつぎになってしまい、一層いっそう父親ちちおやからの干渉かんしょうしたからである。1899ねん各地かくち転々てんてんとしていたヒトラーは義務ぎむ教育きょういくえ、小学校しょうがっこう卒業そつぎょう資格しかくた。

ちちとのいさかい

[編集へんしゅう]

ははクララとの関係かんけい良好りょうこうだったが、家父かふちょう主義しゅぎてきなアロイスとの関係かんけい不仲ふなかになる一方いっぽうだった。アロイスのがわ隠居いんきょ生活せいかつ自宅じたくにいる時間じかんえたことにくわえ、農業のうぎょう事業じぎょう失敗しっぱいした苛立いらだちから度々たびたびヒトラーにむち使つかった折檻せっかんをした[40]。アロイスは無学むがく自分じぶん税関ぜいかん事務じむかんになったことを一番いちばんほこりにしており、息子むすこたち税関ぜいかん事務じむかんにすることをのぞんでいた[41][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。これもますますヒトラーとの関係かんけい悪化あっかさせた。のちにヒトラーはちち自分じぶん強引ごういん税関ぜいかん事務じむきょくれてったときのことを、ちちとの対立たいりつ象徴しょうちょうする出来事できごととして脚色きゃくしょくしながらかたっている[42][43][44][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。1900ねん中等ちゅうとう教育きょういく中学校ちゅうがっこう高校こうこう)をまな年頃としごろになるとギムナジウム大学だいがく予備よび課程かてい)でまなびたいと主張しゅちょうしたヒトラーにたいして、アロイスはリンツのレアルシューレ実科じっか中等ちゅうとう学校がっこう、Realschule)への入学にゅうがく強制きょうせいした[45]自伝じでん闘争とうそう』によれば、ヒトラーは実科じっか学校がっこうでの授業じゅぎょう露骨ろこつにサボタージュしてちち抵抗ていこうしたが、成績せいせきわるくなってもけっしてアロイスはヒトラーのいいぶんみとめなかった[46]

おそらくヒトラーが最初さいしょドイツ民族みんぞく主義しゅぎドイツばんだいドイツ主義しゅぎ傾倒けいとうしたのはこのころからであるとかんがえられている[47][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。なぜならちちアロイスは生粋きっすいハプスブルク君主くんしゅこく支持しじしゃであり、その崩壊ほうかい意味いみする過激かげきだいドイツ主義しゅぎ毛嫌けぎらいしていたからである。また政治せいじてきにもおそらくは自由じゆう主義しゅぎてき人物じんぶつ宗教しゅうきょうてきにも世俗せぞくぞくした[48]周囲しゅうい人間にんげんもほとんどがちちおな価値かちかんであったが、ヒトラーはちちへの反抗はんこうねて統一とういつドイツへの合流ごうりゅう持論じろんにしていた。ヒトラーはハプスブルク君主くんしゅこくは「雑種ざっしゅ集団しゅうだん」であり、みずからはドイツという帰属きぞく意識いしきのみをつと主張しゅちょうした[49][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう][50][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。ヒトラーは学友がくゆうだいドイツ主義しゅぎ宣伝せんでんしてグループをつくり、仲間なかまないで「ハイル」の挨拶あいさつもちいたり、ハプスブルク君主くんしゅこく国歌こっかではなく「世界せかいかんたるドイツ帝国ていこく」をうたうようにびかけている[51]。ヒトラーはみずからのちち生涯しょうがいあいさず、「わたしちちきではなかった」との言葉ことばのこしている。

ただしアロイスによる強制きょうせいというヒトラーの主張しゅちょううたがわしいとする見解けんかいもある[52]税務ぜいむかんなどの官吏かんり登用とうようされるには法学ほうがくまな必要ひつようがあり、当時とうじのドイツで法律ほうりつまなぶにはラテン語らてんご必修ひっしゅうであった。実科じっか学校がっこうギムナジウムことなりラテン語らてんご教育きょういくほどこされることはまずなく、かり官吏かんりになったとしても税務ぜいむかんのような上級じょうきゅう役職やくしょくすすめる人間にんげんはそれこそアロイスのように特例とくれいであった。実際じっさい、ヒトラーの同窓生どうそうせいたち官吏かんりになったものも鉄道てつどういん郵便ゆうびん局員きょくいん動物どうぶつえん職員しょくいんなどにとどまっている[38]。もしアロイスが本当ほんとう税務ぜいむかんになることをのぞんだのなら、むしろギムナジウム入学にゅうがく強制きょうせいしたはずである。よってギムナジウムに進学しんがくできなかったのはたんにヒトラーの学力がくりょく不足ふそくであって、ちちアロイスは成績せいせき不良ふりょう息子むすこしょくけられるように気遣きづかった可能かのうせいたか[52]、というものである。

1901ねん田舎いなか小学校しょうがっこうまなんでいたヒトラーは都会とかい授業じゅぎょうについていけず、リンツ実科じっか中等ちゅうとう学校がっこういち年生ねんせいとき必修ひっしゅう数学すうがく博物学はくぶつがく試験しけん合格ごうかくとなり、留年りゅうねんとなった[52]。1902ねんには年生ねんせい進級しんきゅうしたが、学年がくねんまつにまたもや数学すうがく試験しけんとしてさい試験しけんけてかろうじてさん年生ねんせい進級しんきゅうした[52]。1903ねん1がつ3にち、14さいときちちアロイスが65さいかぞどし)で病没びょうぼつする。地元じもと名士めいしだったちち地方ちほう新聞しんぶん記事きじになっており、料理りょうりてん食事しょくじちゅう脳卒中のうそっちゅうたおれて死亡しぼうしたという[48]。しかしにく対象たいしょううしなったのちもヒトラーの問題もんだい行動こうどうおさまらず、成績せいせき悪化あっかつづけた。同年どうねんには外国がいこくフランス語ふらんすご)の試験しけん合格ごうかくとなって2度目どめ留年りゅうねん処分しょぶんけ、あつかねた学校がっこうからはよん年生ねんせいへの進級しんきゅうみとめてもらわりに退学たいがくめいじられる有様ありさまだった[52]

退学たいがく、リンツ近郊きんこうにあったシュタイアー実科じっか中等ちゅうとう学校がっこうよん年生ねんせい復学ふくがくしたが、前期ぜんき試験しけん国語こくご数学すうがく後期こうき試験しけんでは幾何きかがく合格ごうかくとなった。私生活しせいかつでも下宿げしゅく生活せいかつおくなか学友がくゆう酒場さかばしてったいきおいにまかせて在学ざいがく証明しょうめいしょうくなどの乱行らんぎょうおこない、教師きょうしたちから大目玉おおめだまらっている[31]結局けっきょく1905ねんには試験しけん授業じゅぎょうけなくなり[53][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]病気びょうき療養りょうよう理由りゆうに2度目どめ学校がっこう退校たいこうしている[54]

ヒトラーにとって唯一ゆいいつ正式せいしき教育きょういくえたのは先述せんじゅつ小学校しょうがっこうのみであり、息子むすこ学業がくぎょうのぞみをっていたちち結果けっかとしておな経歴けいれきとなった。

青年せいねん挫折ざせつ

[編集へんしゅう]

リンツでの日々ひび

[編集へんしゅう]

1905ねん実技じつぎ学校がっこうはなれたヒトラーは一旦いったん寡婦かふとなったははがいるリンツにもどった。アロイスの死後しご、ヒトラーははは溺愛できあい唯一ゆいいつ男子だんしという立場たちばから「ちいさなアロイス」として専横せんおうてき振舞ふるまった。ともちちからの体罰たいばつおびえていたはずのいもうとパウラ・ヒトラーにも家父かふちょうてきせっし、パウラが学校がっこうかうのを見張みはり、なにわない行動こうどうがあれば平手打ひらてうらわせた[55]

しかしいえそとひろがる社会しゃかいたいしては消極しょうきょくてきで、まずさもあってむかし友人ゆうじんともうのをけていたが、しばらくしてアウグスト・クビツェクという同年代どうねんだい青年せいねん交流こうりゅうつようになった。クビツェクはアロイスとおなじく小学校しょうがっこうてすぐにはたらきにていたため、実技じつぎ学校がっこうはなれたヒトラーにかえって憧憬どうけいいており、ヒトラーにしたがってリンツ郊外こうがいなどの散策さんさく歌劇かげきじょう観覧かんらん出向でむいていた[56]にシュテファニーという女性じょせいねつげていて、実際じっさいにアカデミーを画家がかになってから結婚けっこんもうみたいという手紙てがみおくっている[56]。リンツはヒトラーにとってだい故郷こきょうであり、総統そうとう就任しゅうにん青年せいねん構想こうそうしていたリンツの都市とし改造かいぞう計画けいかく実施じっししようと専用せんよう建築けんちく官房かんぼうまで設立せつりつしていた。また、このころのヒトラーはリヒャルト・ワーグナー完成かんせい台本だいほんもとづき《鍛冶屋かじやヴィーラント》というオペラの作曲さっきょくこころみた。

クビツェクによれば当時とうじのヒトラーは手入ていれのとどいた清潔せいけつ格好かっこうをしており、くろ帽子ぼうしかわ手袋てぶくろ象牙ぞうげもちいられたステッキなどをけていた[57]。この上流じょうりゅう趣味しゅみちちうしなってなおヒトラー富裕ふゆうそうであったことを意味いみしており、ヒトラー自身じしんも「パンのためにはたら仕事しごと」を軽蔑けいべつしていたという[57]ははクララは息子むすこなん仕事しごとにもかないことを心配しんぱいしており、義兄ぎけいあねおっと)のレオ・ラウバルも「アドルフをしょくかせるべきだ」とせまっていた[58]本来ほんらいであれば学業がくぎょうめたのなら同年代どうねんだい青年せいねんたちおなじく、なに従弟じゅうてい修行しゅぎょう職業しょくぎょう訓練くんれんけさせなければならなかった。だがヒトラーは執拗しつようはは画家がかになるゆめかたり、意志いしよわいクララは息子むすこゆめ理解りかいしめしていたが[57]内心ないしん不安ふあんでもあった[58]

クビツェクはしばしばクララからヒトラーが亡父ぼうふのぞんだようなかたえらぶように説得せっとくしてほしいとたのまれたという。そうはなすクララの容貌ようぼうを「じつ年齢ねんれいよりんでえた」と回想かいそうしており、息子むすこ芸術げいじゅつとしてどうやっててるのか、肝心かんじん部分ぶぶん曖昧あいまいだったこと不安ふあんおぼえていたのだろうと推測すいそくしている[58]。あるとき、ヒトラーはだけではなく音楽おんがく興味きょうみけ、クララはピアノをあたえて軍楽隊ぐんがくたい出身しゅっしん家庭かてい教師きょうしまでけているが、すうげつもしないうちに興味きょうみうしなってしている[58]。1907ねん1がつははクララがたおれ、エドゥアルド・ブロッホ医師いし診察しんさつ重度じゅうど乳癌にゅうがん診断しんだんされ、ヒトラーとパウラに「ほとんのぞみはない」ことを告知こくちした[59]るからにほそっていくクララにヒトラーは動揺どうようしたがなにもできず、介護かいご家事かじはほとんど叔母おばハンニやあねアンゲラ、さらにはまだ小学校しょうがっこうかよっていたいもうとパウラにまかせきりだった。

ウィーンへの移住いじゅう

[編集へんしゅう]
ヒトラーが受験じゅけんしたウィーン美術びじゅつアカデミー

1907ねん4がつ、18さいになったヒトラーは法律ほうりつじょう700クローネ相当そうとう遺産いさん分与ぶんよ権利けんりたが、これは当時とうじ郵便ゆうびん局員きょくいん収入しゅうにゅういちねんぶんであった[57]ちち遺産いさんくわえて遺族いぞく年金ねんきんから仕送しおくりを約束やくそく母親ははおやからもらい、芸術げいじゅつであるウィーン移住いじゅうして美術びじゅつまなぶことをめた[60]同年どうねん9がつウィーン美術びじゅつアカデミー受験じゅけんした。当時とうじのウィーン美術びじゅつアカデミーは大学だいがくなどの高等こうとう教育きょういく機関きかんではなく職業しょくぎょう訓練くんれん学校がっこうであり、年齢ねんれい制限せいげん学歴がくれきなどの条件じょうけんゆるく、実科じっか学校がっこう途中とちゅう放棄ほうきしたヒトラーでも受験じゅけん可能かのうであった。前年ぜんねんの1906ねんにはヒトラーよりいちさい年下とししたのち画家がかとしてしたエゴン・シーレ工芸こうげい学校がっこう卒業そつぎょう、16さい入学にゅうがくしている。

しかし、ヒトラーの結果けっか合格ごうかくであった[61]試験しけん記録きろくには「アドルフ・ヒトラー、実科じっか学校がっこう中退ちゅうたい、ブラウナウ出身しゅっしん、ドイツけい住民じゅうみん役人やくにん息子むすこ頭部とうぶデッサン提出ていしゅつなど課題かだい不足ふそくあり、成績せいせき不十分ふじゅうぶん」と記述きじゅつされている[62]受験じゅけん人数にんずうは113めい[57]しょう人数にんずうで、合格ごうかくしゃも28めい[57]と4ばい程度ていど倍率ばいりつで、極端きょくたん難関なんかんというわけではなかった。試験しけん内容ないよう実技じつぎとこれまで製作せいさくした作品さくひん審査しんさからなっていたが、前述ぜんじゅつとお頭部とうぶデッサンの提出ていしゅつなど、審査しんさよう作品さくひん不足ふそくがあると判断はんだんされて合格ごうかくとなった[57]。アカデミー受験じゅけん失敗しっぱいしたとき学長がくちょう直談判じかだんぱんしたさいには、人物じんぶつデッサンをきら傾向けいこうから「画家がかあきらめて建築けんちく目指めざしてはどうか」と助言じょげんされた[57]。ウィーンでの美術館びじゅつかんめぐりでは、建物たてもの自体じたい観賞かんしょうこのんだとのこすなど、ヒトラーも実際じっさいには建築けんちくぶつこのんでいて、この助言じょげんおおいにになったが、ほどなく画家がかよりさらに現実げんじつてきのぞみであることをって断念だんねんしたとのこしている。

画家がかから建築けんちくのぞみをえてから、ほどなくわたしにとってそれが困難こんなんであることにいた。わたしはらいせで退学たいがくした実科じっか学校がっこう卒業そつぎょうすべきところだった。建築けんちくアカデミーへすすむにはまず建築けんちく学校がっこうまなばねばならなかったし、そもそも建築けんちくアカデミーは中等ちゅうとう教育きょういくえていなければ入校にゅうこうできなかった。どれもたなかったわたし芸術げいじゅつてき野心やしんは、もろくもついえてしまったのだ…

画風がふうについては、丹念たんねん描写びょうしゃ情熱じょうねつそそぐものの独創どくそうせいとぼしいという評価ひょうかで、のち絵葉書えはがきりで生計せいけいてたとき既存きそん作品さくひん模写もしゃおおかったという[62]。ミュンヘン時代じだい知人ちじん証言しょうげんでは、ヒトラーは同地どうち生活せいかつしたころ名所めいしょ風景ふうけい中心ちゅうしんっていたが、本人ほんにん現地げんちにはかず、記憶きおくやほかの画家がかえがいたなどを参考さんこうえがくという独特どくとく手法しゅほうをとっていた。本人ほんにんはこうしたみずからの傾向けいこうを「古典こてん嗜好しこう」ゆえのことと自負じふしていたふしがあり、世紀せいきまつ芸術げいじゅつダダイズムキュビズムなどのあたらしい芸術げいじゅつ運動うんどう嫌悪けんおかんすらいていた。シーレらがアカデミーにむかえられたことについて、後年こうねんまでルサンチマンをいだき、総統そうとうとなってからは、かれらの作品さくひんやアカデミーを「退廃たいはい芸術げいじゅつ」として徹底的てっていてき糾弾きゅうだんし、弾圧だんあついている。芸術げいじゅつかぎらず、ヒトラーはみずからをみとめなかった「硬直こうちょくてき正規せいき教育きょういく課程かてい」をにくみ、晩年ばんねんまで憎悪ぞうおくちにしていた[63]

ウィーンに出向でむいているあいだ、ヒトラーは故郷こきょうとの連絡れんらくをなるべくけ、おもやブロッホらに葉書はがきおくときたりさわりのない内容ないようめて受験じゅけん結果けっかつたえなかった。クララは見舞みまいにたクビツェクにせきったように息子むすこへのいかりやかなしみをなげき、「あの自分じぶんみちあゆんでいる、ひとなんかいないみたいにね…あのひとちしたとしても、わたしられないでしょうね」とあきらめたこえつぶやいたという[64]

1907ねん10月、ブロッホはクララに正式せいしき余命よめい宣告せんこくおこなって親族しんぞくにも告知こくちした[64]流石さすがのヒトラーも実家じっかもどり、わりてたはは姿すがた呆然ぼうぜんとした。一生いっしょうとおしてはじめて叔母おばいもうと家事かじ手伝てつだうようになり、いたみでくるしみすすりはははた片時かたときはなれず、よるもベッドのとなりいた長椅子ながいすねむった[64]。1907ねん12月21にち、クララは47さい病没びょうぼつし、レオンディングにあるちちアロイスのはかとなりほうむられた[64]葬儀そうぎわったのち、ブロッホのしたをヒトラーがおとずれ、出来できうるかぎりの治療ちりょうをしてくれたことしんからの感謝かんしゃべた。その様子ようすについてブロッホは「わたしの一生いっしょうで、アドルフ・ヒトラーほどふかかなしみにちひしがれた人間にんげんたことがなかった」と回想かいそうしている[65]のちにヒトラーは『闘争とうそう』のなか以下いかのようにかたっている[59]

はははかまえにしてっていたあの以来いらいわたしいちいたことがない。

放浪ほうろう生活せいかつ

[編集へんしゅう]

1908ねん2がついもうとパウラを異母いぼあねアンゲラのとついだラウバルあづけてふたた首都しゅとウィーンにもどると今度こんど生活せいかつ拠点きょてんうつし、シュトゥンペルがい下宿げしゅくさきりた[66]ほどなくして音楽おんがく学校がっこう合格ごうかくしたクビツェクがウィーンへやってくると、シュトゥンペルの下宿げしゅくさき共同きょうどう生活せいかつおくるようになった。ウィーンの裏通うらどおりにある下宿げしゅくさきつき20クローネの2人ふたり部屋へやで、ゆったりとした生活せいかつスペースにクビツェクが練習れんしゅうようりたグランドピアノと2つのベッドかれていた。あさ学校がっこうかうクビツェクにたいしてヒトラーは部屋へやており、かえってきたクビツェクがピアノの練習れんしゅうするときあいだたいになると図書館としょかん公園こうえんかけていった。ときむかしのように2人ふたり美術館びじゅつかんまち散策さんさくかけると、美術びじゅつじょう知識ちしき持論じろん延々えんえんかたっていた[66]。クビツェクが音楽おんがく学校がっこう休暇きゅうかでリンツにかえったのち滞在たいざいつづけ、手紙てがみのやりりをしている。

すでにヒトラーはちちからの遺産いさん分与ぶんよ700クローネをある程度ていど使用しようしており、また母親ははおや葬儀そうぎ費用ひようなどで370クローネを支払しはらっている[63]が、ははからはちち遺産いさん全額ぜんがくの3000クローネがのこされたし、またいもうとパウラとヒトラーが24さいになるか就業しゅうぎょうするまでは孤児こじ保護ほご恩給おんきゅうとしてつき50クローネの受給じゅきゅうオーストリア・ハンガリー帝国ていこく政府せいふからみとめられた[63]ヴェルナー・マーザーフランツ・イェッツインガーは、さらにクララの叔母おばであるワルブルガ・ロメダーの遺産いさん一部いちぶ最低さいていでもすうひゃくクローネがクララをつうじてはいってきていたと指摘してきしている[67]孤児こじ恩給おんきゅう半額はんがくいもうとパウラをった義姉ぎしアンゲラに養育よういくとしてわたされたが[63]、10代の青年せいねんとしては十分じゅうぶんぎるほど遺産いさん当面とうめん生活せいかつのこされたのであり『わが闘争とうそう』にあるような無一文むいちもんでウィーンにやってきたような描写びょうしゃとはことなる[68][ちゅう 5]。またシュトラールは「遺産いさんり、労働ろうどう可能かのうで、かつ就学しゅうがくもしていないヒトラーのうえかんがみればパウラが恩給おんきゅう全額ぜんがく権利けんりがあったにもかかわらず[70]いもうと後見人こうけんにん無断むだん勝手かって孤児こじ恩給おんきゅう申請しんせいしょすなどさくめぐらし、学校がっこうかよっていたいもうとから半分はんぶん恩給おんきゅううばっている[71]」と指摘してきしている。

1908ねんすえ、このとしにもアカデミーを受験じゅけんしたが、ふたた失敗しっぱいした。2度目どめ試験しけんでは実技じつぎ試験しけんにすらからず、むしろ合格ごうかくとおざかっていた[72]同年どうねん9がつ、クビツェクのまえからヒトラーは突然とつぜん姿すがたした。これは入試にゅうし失敗しっぱいしたことをられたくなかったためと、徴兵ちょうへい忌避きひのためとであった[73]。ウィーンにもどったクビツェクのがわとく行方ゆくえさがすことはなかった[72]。ヒトラーはたびたび住居じゅうきょえ、1909ねん11がつまつごろには住所じゅうしょ不定ふてい無職むしょく人物じんぶつとして浮浪ふろうしゃ収容しゅうようしょはいり、いでメルデマンがいにある独身どくしんものよう公営こうえい寄宿舎きしゅくしゃうつんだ。経済けいざいじょうのことというよりは、20さいからはじまる徴兵ちょうへい義務ぎむのがれるためであったとられている(兵役へいえきのが[74]。この寄宿舎きしゅくしゃ休憩きゅうけいしつ読書どくしょしつそなえ、就寝しゅうしんしつ個室こしつになっており、食事しょくじやすく、正業せいぎょうっているものも一時いちじてき利用りようすることがある施設しせつであった[75]。ヒトラーはこのころ絵葉書えはがき版画はんが模写もしゃをおこない、インテリそう商人しょうにんなどに絵画かいがることもあった。みはラインホルト・ハーニッシュドイツばんおこない、売上うりあげ折半せっぱんしていた[76]

1911ねんあねアンゲラから孤児こじ恩給おんきゅう全額ぜんがくいもうとパウラにゆずるようにリンツ地区ちく裁判所さいばんしょ訴訟そしょうこされた[77]。この背景はいけいには叔母おばハンニからヒトラーが可愛かわいがられており、遺産いさんとなる財産ざいさんのほとんどをヒトラーの「芸術げいじゅつ活動かつどう」に援助えんじょしていたことに、おっとラウバルの死後しごいもうとパウラをやしな女子じょし実科じっか中等ちゅうとう学校がっこうにもかよわせていたアンゲラが憤慨ふんがいしたためである。ハンニがヒトラーにあたえた財産ざいさんがどの程度ていどだったのはさだかではないが、ハンニの死後しごその預金よきん3800クローネがされたにもかかわらず、ハンニの実妹じつまい遺産いさん相続そうぞくしていないため、すくなくとも2000クローネ程度ていど援助えんじょされていたとられている[77]かりいままでの生活せいかつ父母ちちはは遺産いさん使つかたし、孤児こじ恩給おんきゅううしなったとしても、今度こんど叔母おばハンニの財産ざいさんでまだすうねんは「らせる」生活せいかつであった[77]。また遺産いさんくずしながらの生活せいかつながら自作じさく絵葉書えはがき風景ふうけいることで小額しょうがく生活せいかつかせいでいた[78]。ヒトラー自身じしんも『闘争とうそう』のなかで「ささやかな素描そびょうけん水彩すいさい画家がかとして独立どくりつした生活せいかつおくっていた」と記述きじゅつしており、裁判さいばんにおいて「自分じぶん生活せいかつできる」と証言しょうげんし、孤児こじ恩給おんきゅう放棄ほうき同意どういした[77]

このころヒトラーは食費しょくひめてでも歌劇かげきじょうかようほどリヒャルト・ワーグナー心酔しんすいしていたとされる。またひまとき図書館としょかんからおおくのほんりて、歴史れきし科学かがくなどにかんして豊富ほうふな、しかしかたよった知識ちしきていった。そのなかにはアルテュール・ド・ゴビノーヒューストン・チェンバレンらが提起ていきした人種じんしゅ理論りろんはんユダヤ主義しゅぎなどもふくまれていた。キリスト教きりすときょう社会党しゃかいとう指導しどうしていたカール・ルエーガーのちにウィーン市長しちょう)やひろしゲルマン主義しゅぎもとづく民族みんぞく主義しゅぎ政治せいじ運動うんどうひきいていたゲオルク・フォン・シェーネラーなどにも影響えいきょうけ、かれらが往々おうおうとなえていた民族みんぞく主義しゅぎ社会しゃかい思想しそうはんユダヤ主義しゅぎのヒトラーの政治せいじ思想しそう影響えいきょうあたえたといわれる。この時代じだいにヒトラーの思想しそうかたまっていったとおもわれているが、かりにそうだとしても、ヒトラーはすくなくとも青年せいねん時代じだいには政治せいじ思想しそう熱意ねついそそいではいなかった。1913ねんころのヒトラーはイエズスかい共産きょうさん主義しゅぎ批判ひはんしていたが、はんユダヤ主義しゅぎてき発言はつげん記録きろくはない[79]。ヒトラーは絵画かいがをユダヤじん画商がしょうこのんでり、ユダヤじんあたまがよく協力きょうりょくしあうと称賛しょうさんすることもあったし[79]、ユダヤけい画商がしょうとの夕食ゆうしょくかい参加さんかするなど親睦しんぼくむすんでいた[80]一方いっぽうで、ユダヤ人種じんしゅ体臭たいしゅうちがうし、ユダヤのテロはしりやすいともべていた[79]。またクビツェクは「リンツにいたころからはんユダヤ主義しゅぎしゃだった」とべている[81]

ミュンヘンへの移住いじゅう逮捕たいほ

[編集へんしゅう]

1913ねん5月、24さいになったヒトラーは隣国りんごくドイツの南部なんぶにあるミュンヘン移住いじゅうし、仕立した職人しょくにんポップのもと下宿げしゅく生活せいかつおくった。ヒトラー自身じしんはオーストリアとウィーンの腐敗ふはいした環境かんきょうえられなかったとべているが、実際じっさいには徴兵ちょうへい忌避きひざいのがれるためであったとられている[82]。ヒトラーは故郷こきょうリンツにおいて徴兵ちょうへい検査けんさけなかったことで兵役へいえき忌避きひざいと、その事実じじつかくして国外こくがい逃亡とうぼうするという2つの犯罪はんざいおかした立場たちばとなった。事実じじつ発覚はっかくして逮捕たいほされた場合ばあい、1かげつから1ねん禁固刑きんこけいと2000クローネの罰金ばっきんという重罪じゅうざいせられることが想定そうていされた[83]。この移住いじゅうさいしてヒトラーは、自分じぶんをオーストリア国民こくみんではなく「国籍こくせきしゃ」であると申請しんせいしている[82]

リンツ警察けいさつは8がつ11にちから捜索そうさく開始かいしし、ヒトラーは1914ねん1がつ18にちにミュンヘン警察けいさつによって逮捕たいほ、オーストリア領事館りょうじかん連行れんこうされた[83]仰天ぎょうてんしたヒトラーは領事館りょうじかんいんのすすめでいた弁明べんめいしょで、1910ねん2がつにウィーンで兵役へいえき申告しんこくおこなったとしたうえで、「(1909ねんごろには)だれからの金銭きんせんじょう援助えんじょがなく」と、みずからの貧困ひんこんうったえるうそつらねている[83]。ヒトラーは納税のうぜい証書しょうしょ同封どうふうし、労働ろうどうしゃ階級かいきゅうとしてはおお年収ねんしゅう1200マルクの収入しゅうにゅうがあったが、支出ししゅつおおいため現在げんざい裕福ゆうふくではないと弁明べんめいしている[84]実際じっさいにはミュンヘンでの生活せいかつ安定あんていしており、近所きんじょ人々ひとびとからも信用しんようされていた。ヒトラーはインテリふうなりをしており、家主やぬしのポップとはよく政治せいじろんたたかわせていたという[85]。このころの月収げっしゅうは100マルク程度ていどあったが、当時とうじどう年齢ねんれい銀行ぎんこういん月収げっしゅうは70マルクであった[86]。さらに1913ねん5がつ16にちには、孤児こじ金庫きんこから819クローネ98ヘラーの資産しさん交付こうふされている[85]。1914ねん1がつ18にちザルツブルクおこなわれた検査けんさ適格てきかく判定はんていされたため兵役へいえき免除めんじょされ、つみ免除めんじょされた[87]

だいいち世界せかい大戦たいせん

[編集へんしゅう]
従軍じゅうぐんのヒトラー(椅子いすすわ兵士へいしみぎはし)と戦友せんゆうたち

同年どうねん8がつ1にち勃発ぼっぱつしただいいち世界せかい大戦たいせんではバイエルンおうあて請願せいがんしょおくり、バイエルン陸軍りくぐん志願しがんした。翌日よくじつには入隊にゅうたい許可きょかしょとどき、バイエルン王国おうこくだい16予備よび歩兵ほへい連隊れんたい義勇ぎゆうへいとして入営にゅうえいした。連隊れんたいおも西部せいぶ戦線せんせんきたふつ・ベルギーなどに従軍じゅうぐんしてソンムパッシェンデールなどいくつかの会戦かいせんくわわっている[88]

ヒトラーは、フランスへいとらえるとう功績こうせき伝令でんれいへいとしての勤務きんむぶりを評価ひょうかされ、6かい受勲じゅくんしている(1914ねんきゅうてつじゅうあきら1917ねんけんづけさんきゅう戦功せんこうじゅうあきら1918ねん連隊れんたい感状かんじょう戦傷せんしょうしゃ勲章くんしょう一級いっきゅうてつじゅうあきらさんきゅう軍務ぐんむ勲章くんしょう)。しかし階級かいきゅうゲフライター[ちゅう 6]まりであり、受勲じゅくん回数かいすうわりにはひく階級かいきゅうのままで終戦しゅうせんむかえている[89]理由りゆうについては、「本人ほんにん伝令でんれいへい地位ちい満足まんぞく昇進しょうしん希望きぼうしなかった」、「伝令でんれいとしての優秀ゆうしゅうさから司令しれい昇進しょうしんによってかれうしなうのをしぶった」、「上官じょうかんびて授勲されただけで昇進しょうしん活躍かつやくはなかった」[90]など諸説しょせつあるが、もっと信憑しんぴょうせいがあるとられているのは「指導しどうりょくけており、部下ぶかつことになる伍長ごちょう以上いじょう階級かいきゅうには相応ふさわしくない」と司令しれい判断はんだんしたというせつで、直属ちょくぞく上官じょうかんフリッツ・ヴィーデマン中尉ちゅうい証言しょうげんしている[91]

軍装ぐんそう姿すがた証明しょうめい写真しゃしん

1916ねんソンムのたたかでヒトラーはあし鼠蹊そけい)に怪我けがって入院にゅういんしている(ひだり大腿だいたいであったとする論者ろんしゃもいる)[92]。またこの負傷ふしょうでヒトラーが生殖せいしょく機能きのう障害しょうがいったとする俗説ぞくせつがあるが、真実しんじつほどさだかでない[93]負傷ふしょうそのものは会戦かいせん戦傷せんしょうあきら受勲じゅくんした記録きろくのこっている。

ヒトラーは大戦たいせん以前いぜんから熱心ねっしんだいドイツ主義しゅぎしゃであり、また大戦たいせんでドイツぐん正確せいかくにはバイエルンぐん)の一員いちいんとしてたたかったことで益々ますますドイツへの愛国あいこく主義しゅぎたかまっていった(しかしドイツ市民しみんけん1932ねんまで取得しゅとくしていない)。ヒトラーは戦争せんそう人生じんせい重要じゅうよう経験けいけんであるととらえ、周囲しゅういからも勇敢ゆうかん兵士へいしであったと評価ひょうかけた[94]

大戦たいせん末期まっき1918ねん10月15にち、ヒトラーはてきぐんマスタードガスによる化学かがく兵器へいき攻撃こうげきまれて視力しりょく一時いちじてきうしない、ポンメルン地方ちほうパーゼヴァルクドイツばんにある野戦やせん病院びょういん入院にゅういんしている。一時いちじ失明しつめい原因げんいんについてはガスによる障害しょうがいというせつ以外いがいに、精神せいしんてき動揺どうよう一種いっしゅヒステリー)によるものとするせつがある[95]。ヒトラーは治療ちりょうけるなか自分じぶん使命しめいが「ドイツをすくうこと」にあると確信かくしんしたとはなしており[96]、ユダヤじん根絶こんぜつという発想はっそう具体ぐたいてき手段しゅだんべつとして決意けついされたとおもわれている。1918ねん11月、ヒトラーはだいいち世界せかい大戦たいせんがドイツの降伏ごうぶく終結しゅうけつしたときはげしい動揺どうようせた兵士へいし一人ひとりであった[97]。この、もしくはつぎにヒトラーはちょう自然しぜんてき幻影げんえい視力しりょく回復かいふくした。この回復かいふく課程かていには、治療ちりょうたっていたエトムント・フォルスタードイツばん博士はかせ催眠さいみんじゅつによる暗示あんじ可能かのうせいがあるとされる[98]

ヒトラーは民族みんぞく主義しゅぎしゃ国粋こくすい主義しゅぎしゃあいだ流行りゅうこうした「敗北はいぼく主義しゅぎしゃ反乱はんらんしゃによる後方こうほうでの策動さくどう前線ぜんせんでの勝利しょうり阻害そがいされた」とする背後はいごからのいちとっろんつよしんじるようになった。

政界せいかい進出しんしゅつ

[編集へんしゅう]
ヒトラーのドイツ労働ろうどうしゃとう党員とういんしょう。しかし、かれ入党にゅうとう正式せいしき党員とういんしょうはまだなく、のち偽造ぎぞうされたものである。

政治せいじへの転身てんしんかんがえたのちぐん在籍ざいせきつづけるみちえらび、陸軍りくぐん病院びょういんから退院たいいんすると部隊ぶたい根拠地こんきょちであるミュンヘンへともどった。同地どうちでは1918ねん11月8にちクルト・アイスナーによって共和きょうわせい宣言せんげんされて「バイエルン人民じんみんこく英語えいごばん」が成立せいりつしており、バイエルンの陸軍りくぐん当初とうしょこれを支援しえんしていた[99]。ヒトラーも1919ねん2がつ16にちからミュンヘンのレーテはいっていた[99]。また、2がつ26にち暗殺あんさつされたアイスナーの国葬こくそうパレードに参加さんかした[100][101]。1919ねん4がつ13にちにはオイゲン・レヴィーネによって共産党きょうさんとう主導しゅどうバイエルン・レーテ共和きょうわこく成立せいりつした。4月15にちにヒトラーはレーテの評議ひょうぎいん立候補りっこうほしており、19ひょう獲得かくとくして当選とうせんしている[99][102][103][104]

5月、ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐんによってミュンヘンが占領せんりょうされると、ヒトラーは革命かくめいちゅう政治せいじ活動かつどうをしていた人物じんぶつに、共産きょうさん主義しゅぎ傾向けいこうがあるかを調しらべる革命かくめい調査ちょうさ委員いいんかい委員いいんとなった[99][103]。この委員いいんかいでのはたらきがみとめられ、ヒトラーは帰還きかんへいへの政治せいじ教育きょういくおこな啓発けいはつ教育きょういく部隊ぶたいはいることとなった[99]。6月には国軍こくぐん情報じょうほう将校しょうこうであったカール・マイヤー大尉たいいによってミュンヘン大学だいがく予備よび教育きょういくけるようめいぜられた。ヒトラーはこのときはじめて大学だいがくゴットフリート・フェーダーなどの知識ちしきじん専門せんもんてき講義こうぎ機会きかいち、潜入せんにゅう捜査そうさ技能ぎのうと「戦争せんそう士気しき阻喪そそうし、ボリシェヴィキした部隊ぶたい民族みんぞく主義しゅぎけさせる」のに必要ひつよう教養きょうようあたえられた[105]。このさいヒトラーはおなじく講習こうしゅうけていた兵士へいしたちにはんユダヤ主義しゅぎまじえた演説えんぜつおこない、兵士へいしたちを感激かんげきさせた[106]。ヒトラー自身じしんもはじめての演説えんぜつこう感触かんしょくて、「わたし演説えんぜつすることができた」と回想かいそうしている[106]

7がつ、ヒトラーは正式せいしき国軍こくぐん情報じょうほう提供ていきょうしゃ(Verbindungsmann)の名簿めいぼ軍属ぐんぞく情報じょうほういん(Aufklärungskommando)として登録とうろくされ、諜報ちょうほう組織そしき末端まったんとなった。9月12にち、ヒトラーはマイヤー大尉たいい命令めいれいドイツ労働ろうどうしゃとう(DAP)の調査ちょうさはいった。ヒトラーはこのとき、オーストリアとバイエルンの連合れんごうとなえる大学だいがく教授きょうじゅのバウマンと論戦ろんせんになった。ドイツ労働ろうどうしゃとう創設そうせつしゃアントン・ドレクスラーは「みじかいがキビキビとした演説えんぜつおこない、みな熱狂ねっきょうさせた」と回想かいそうしている[106]。ドレクスラーはヒトラーの演説えんぜつさい感銘かんめいけ、いち週間しゅうかんふたた弁士べんしとしてるよう依頼いらいし、入党にゅうとう要請ようせいした[106]。ヒトラーはマイヤーにたいして「この人々ひとびと前線ぜんせん兵士へいし思想しそう主張しゅちょうしているため、入党にゅうとう許可きょかしていただきたい」とする報告ほうこくしょ提出ていしゅつし、55にん党員とういんとして入党にゅうとうした[107][108]神秘しんぴ主義しゅぎてき秘密ひみつ結社けっしゃトゥーレ協会きょうかい」に所属しょぞくする思想家しそうかディートリヒ・エッカートともこのときった[109]。9月16にちにはマイヤーの命令めいれいで、アドルフ・ゲムリッヒという国軍こくぐん兵士へいしのユダヤじんかんする疑問ぎもんこたえるかたちで「ゲムリッヒ書簡しょかん英語えいごばん」を執筆しっぴつした。これは現存げんそんするかぎりでヒトラーがはんユダヤ主義しゅぎ思想しそうしめした最古さいこ記録きろくである[110][111]

ヒトラーがぐん諜報ちょうほう機関きかんはなれた時期じきさだかではないが、いつしか政治せいじ活動かつどうにのめりんでDAPの専従せんじゅう職員しょくいんになったのは間違まちがいないとられている。かれ周辺しゅうへんこく国内こくない政治せいじ団体だんたいたいする過激かげき演説えんぜつ名前なまえられるようになり、DAPでも有力ゆうりょく政治せいじされていった。このころ、マイヤーが自身じしん所属しょぞくしていた将校しょうこう政治せいじ団体だんたい鉄拳てっけんだんドイツばん」の代表だいひょうであったエルンスト・レームとヒトラーをわせた。レームやエッカート、ルドルフ・ヘスらはヒトラー形成けいせい党内とうない次第しだい制圧せいあつするようになった。1920ねん2がつ24にち党内とうない協議きょうぎにより党名とうめいを「国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(NSDAP、ナチとう)」へと改名かいめいする。ヒトラーは当初とうしょ社会しゃかい革命かくめいとう」を提案ていあんしたが、ルドルフ・ユング英語えいごばんが、オーストリアにあった政党せいとうドイツ国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう(DNSAP)」にならうように説得せっとくした[112]1921ねん7がつ29にち党内とうない分派ぶんぱ闘争とうそうきると、一時いちじてきにドレクスラーによって党内とうないから追放ついほうされるが、とう執行しっこうのクーデターによりぎゃくかれ名誉めいよ議長ぎちょうとして実権じっけんうばわれ、わりにヒトラーがだいいち議長ぎちょう指名しめいされた。このころより支持しじしゃから「Führer(指導しどうしゃ)」とばれるようになり、次第しだい党内とうない定着ていちゃくした[113]。すでにイタリアでいちとう独裁どくさい政治せいじおこなっていたムッソリーニ採用さいようしていたローマしき敬礼けいれいならって、ナチスしき敬礼けいれいれたのもこのころのことである。

突撃とつげきたい活動かつどうなどでミュンヘン政界せいかいでもられる存在そんざいとなったヒトラーは、エッカート、エルンスト・ハンフシュテングルマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターらの紹介しょうかいで、社交しゃこうかいでもられるようになった。ピアノメーカーベヒシュタインのオーナー未亡人みぼうじんであったヘレーネ・ベヒシュタインドイツばんなどの上流じょうりゅう階級かいきゅう婦人ふじん熱心ねっしん後援こうえんしゃとなり、生活せいかつ援助えんじょをしたほか、ヒトラーに紳士しんしいをにつけさせた[114]

ミュンヘン一揆いっき

[編集へんしゅう]

党勢とうせい拡大かくだいしたナチとうふくんだ左派さは政党せいとう団体だんたいであるドイツ闘争とうそう連盟れんめいドイツばんは、イタリア王国おうこくファシストとうおこなったローマ進軍しんぐん真似まねベルリン進軍しんぐんのぞむようになった。バイエルンしゅう独裁どくさいけんにぎっていたしゅう総督そうとくグスタフ・フォン・カール同様どうようにベルリン進軍しんぐんのぞんでおり(バイエルンは伝統でんとうてきはんベルリン気質きしつがあり、独立どくりつ意識いしきつよかった)、ドイツ闘争とうそう連盟れんめい接触せっしょくはかっていたが、カールは中央ちゅうおう政府せいふ圧力あつりょくけてやがてそのうごきをにぶくした。

不満ふまんかんじたヒトラーは、カールにベルリン進軍しんぐん決意けついさせるため、1923ねん11月8にちよるにドイツ闘争とうそう連盟れんめいひきいて、かれ演説えんぜつちゅうビアホールビュルガーブロイケラー」を占拠せんきょし、身柄みがらさえた。ヒトラーから連絡れんらくけたぜん大戦たいせん英雄えいゆうエーリヒ・ルーデンドルフ大将たいしょうけ、かれ説得せっとくけてカールもいち一揆いっきへの協力きょうりょく表明ひょうめいした。しかしヒトラーがビュルガーブロイケラーをけたすきに、カールらはルーデンドルフをいくるめて脱出だっしゅつし、一揆いっき鎮圧ちんあつめいじた。

ミュンヘン一揆いっきさいマリエン広場ひろば

11月9にちあさ、ヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争とうそう連盟れんめいひきいてミュンヘン中心ちゅうしんけて行進こうしん開始かいしした。ヒトラーもルーデンドルフも大戦たいせん英雄えいゆうたいしてはぐん警察けいさつ強硬きょうこう手段しゅだんらないだろうという過信かしんがあった。しかし、バイエルンしゅう警察けいさつかまわず発砲はっぽうし、一揆いっき総崩そうくずれとなった。ヒトラーは逃亡とうぼうはかり、党員とういんエルンスト・ハンフシュテングル別荘べっそう潜伏せんぷくしたが、11月11にちには逮捕たいほされた。逮捕たいほ直前ちょくぜんには自殺じさつこころみるが、ハンフシュテングルのつまヘレーネによって制止せいしされた[115]収監しゅうかんしばらくは虚脱きょだつ状態じょうたいとなり、絶食ぜっしょくした。失意しついのヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数ふくすう人物じんぶつ激励げきれいしたとしている[116]

裁判さいばんでヒトラーは自信じしんもどし、弁解べんかいおこなわず一揆いっきぜん責任せきにんみずからの主張しゅちょうべる戦術せんじゅつり、ルーデンドルフとなら大物おおものられるようになった[117]花束はなたばった女性じょせい支持しじしゃ連日れんじつ留置とめおきじょうしかけ、ヒトラーの使つかった浴槽よくそう入浴にゅうよくさせてくれとものまであらわれた[118]司法しほうがわもヒトラーにきわめて同情どうじょうてきであり、主任しゅにん検事けんじ起訴きそじょうで「ドイツ精神せいしんたいする自信じしん回復かいふくさせようとしたかれ誠実せいじつ尽力じんりょくは、なんとおうともひとつの功績こうせきでありつづける。演説えんぜつとしての無類むるい才能さいのう駆使くしして意義いぎあることをげた」とひょうするほどであった[119]

判決はんけつ直後ちょくごにミュンヘンでホフマンった集合しゅうごう写真しゃしんみぎから4にんがヒトラー
ランツベルク刑務所けいむしょでのヒトラーと幹部かんぶひだりよりヒトラー、エミール・モーリス闘争とうそう連盟れんめい代表だいひょうヘルマン・クリーベルルドルフ・ヘスオーバーラント義勇軍ぎゆうぐんドイツばん指導しどうしゃフリードリヒ・ヴェーバードイツばん

1924ねん4がつ1にち、ヒトラーは禁錮きんこ5ねん判決はんけつランツベルク要塞ようさい刑務所けいむしょ収容しゅうようされるが、所内しょないでは特別とくべつ待遇たいぐうけた。オーストリア国籍こくせきっていたヒトラーは国外こくがい追放ついほうされるおそれがあったが[120]判決はんけつでは「ヒトラーほどドイツ人的じんてき思考しこう感情かんじょうぬしはいない」として適用てきようされなかった[121]。このあいだ、ヒトラーは禁止きんしされていたとうアルフレート・ローゼンベルク指導しどうまかせていたが、ドイツ北部ほくぶ実力じつりょくしゃグレゴール・シュトラッサーオットー・シュトラッサー兄弟きょうだいらとの反目はんもくはげしくなった。シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携れんけいした偽装ぎそう政党せいとう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ自由じゆう運動うんどう」をげて国会こっかい議席ぎせき獲得かくとく[122]、さらにとうをルーデンドルフのドイツ民族みんぞく自由党じゆうとう合同ごうどうさせた。これによりローゼンベルク、ヘルマン・エッサーらミュンヘン、シュトラッサー兄弟きょうだいらの北部ほくぶナチス左派さは)の関係かんけい悪化あっかしたが、ヒトラーは介入かいにゅうしなかった。7月7にちには著書ちょしょ執筆しっぴつ理由りゆうとして「国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう指導しどうしゃたることをめて、刑期けいきわるまで一切いっさい政治せいじ活動かつどうからく」ことを発表はっぴょうする[123]。このさいにヘスによる口述こうじゅつ筆記ひっき執筆しっぴつされたのが『闘争とうそう』である。ヒトラーは刑務所けいむしょ職員しょくいんまで信服しんぷくさせ、9がつごろには所長しょちょうから仮釈放かりしゃくほう申請しんせいおこなわれはじめた。しゅう政府せいふ抵抗ていこうしたが、裁判さいばんおこなった判事はんじがヒトラーのためにアピールをおこなうという通告つうこくもあり[124]、12月20にち釈放しゃくほうされた。シュトラッサーの運動うんどう内部ないぶ抗争こうそうによって分裂ぶんれつし、12月の選挙せんきょでも大敗たいはいきっした。

権力けんりょく闘争とうそう

[編集へんしゅう]

1925ねん2がつ27にち禁止きんし解除かいじょされたナチとう再建さいけんされた。しかしだい規模きぼ集会しゅうかい政府せいふ批判ひはんおこなったため、しゅう政府せいふからヒトラーにたいして2年間ねんかん演説えんぜつ禁止きんし処分しょぶんくだされ、しゅう追随ついずいした。このあいだにヒトラーはミュンヘンの派閥はばつをまとめげ、4がつには突撃とつげきたい指導しどうしゃであったレームを引退いんたいさせた。私生活しせいかつではこのころオーストリア市民しみんけん抹消まっしょう手続てつづきをとり、移民いみん許可きょかをとった[125]。また『闘争とうそう』の執筆しっぴつ作業さぎょうおこない、7がつ18にちだいいちかん発売はつばいされた。

あきごろには社会しゃかい主義しゅぎしょくつよいシュトラッサーら北部ほくぶと、ミュンヘン対立たいりつ激化げきかした。一時いちじはシュトラッサーの秘書ひしょヨーゼフ・ゲッベルスらが「日和見ひよりみ主義しゅぎしゃ」ヒトラーの除名じょめい提案ていあんするほどであったが、1926ねん2がつ24にちバンベルク会議かいぎによって「指導しどうしゃヒトラー」の指導しどうしゃ原理げんりによる党内とうない独裁どくさい体制たいせい確立かくりつした。一方いっぽうシュトラッサーは党内とうない役職やくしょくあたえられて懐柔かいじゅうされ、ゲッベルスはヒトラーに信服しんぷくするようになり、党内とうない左派さは勢力せいりょくおおきく減退げんたいした。

1928ねん5がつ20日はつか、ナチとうとしてはじめての国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょいどんだが、黄金おうごんの20年代ねんだいばれる好景気こうけいきいていた状況じょうきょう支持しじひろがらず、12にん当選とうせんにとどまった。このあいだにヒトラーは『ヒトラーだいしょ』(ぞく闘争とうそう)とばれるほん執筆しっぴつしたが、最後さいごまで出版しゅっぱんはされなかった。

ヒトラーの財政ざいせい状況じょうきょうわるくなく、オーバーザルツベルク別荘べっそうベルクホーフ」を余裕よゆうもできた。また1929ねんごろにはとう公式こうしき写真しゃしんであったハインリヒ・ホフマン経営けいえいする写真しゃしんてん店員てんいんエヴァ・ブラウンい、交際こうさいはじめた。

ナチとう躍進やくしん

[編集へんしゅう]
1932ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ投票とうひょう用紙ようしだい2かい投票とうひょう
候補者こうほしゃめいうえからヒンデンブルク(無所属むしょぞく)、ヒトラー(ナチとう)、テールマン共産党きょうさんとう

1929ねん世界せかい恐慌きょうこうによって急速きゅうそく景気けいき悪化あっかしたドイツでは、まち大量たいりょう失業しつぎょうしゃあふれかえり、社会しゃかい情勢じょうせい不安ふあん一途いっとをたどっていた。さらにヤングあんへの反発はんぱつドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう(SPD)政府せいふへの反感はんかんもととなった。

おなじくドイツ共産党きょうさんとう社会しゃかいてき混乱こんらんじょうじて伸張しんちょうし、1930ねん国会こっかい選挙せんきょではナチとう得票とくひょうりつ18%、共産党きょうさんとう得票とくひょうりつ13%を獲得かくとくし、SPDの得票とくひょうりつ24.5%にだい2とうだい3とう成長せいちょうし、各地かくち都市とし突撃とつげきたいとドイツ共産党きょうさんとう武装ぶそう部隊ぶたい赤色あかいろ戦線せんせん戦士せんし同盟どうめい」によるこうそう激化げきかするようになった。党勢とうせい拡大かくだいにもかかわらず、待遇たいぐう改善かいぜんされない突撃とつげきたいにはとう幹部かんぶたいする反感はんかんまれ、ヒトラーは突撃とつげきたいさえるためにボリビア軍事ぐんじ顧問こもんをしていたレームをもどさざるをなくなった。

1931ねん9月18にち溺愛できあいしていためいゲリ・ラウバル自殺じさつし、ヒトラーはおおきな衝撃しょうげきけた。一時いちじ政界せいかいからの引退いんたいもほのめかしたが、数日すうじつ復帰ふっきした。こののち菜食さいしょく宣言せんげんし、肉食にくしょくことわった[126]

1932ねん2がつ25にちにはとう幹部かんぶヴィルヘルム・フリックディートリヒ・クラゲス手配てはいにより、ブラウンシュヴァイク自由じゆうしゅうのベルリン駐在ちゅうざいしゅう公使館こうしかんづけ参事官さんじかんとなった。これは名目めいもくじょうのことであり、公務員こうむいん自動的じどうてきあたえられるドイツ国籍こくせき取得しゅとくするためのものであった[127]ドイツ国籍こくせき取得しゅとくドイツばんしたヒトラーは、大統領だいとうりょう選挙せんきょ出馬しゅつばする。大統領だいとうりょう選挙せんきょでは現職げんしょくパウル・フォン・ヒンデンブルクドイツ共産党きょうさんとうエルンスト・テールマン鉄兜てつかぶとだん代表だいひょう国家こっか人民じんみんとう支持しじけたテオドール・デュスターベルク作家さっかグスタフ・アドルフ・ヴィンタードイツばんの5めい立候補りっこうほした。

選挙せんきょでは「ヒンデンブルクに敬意けいいを、ヒトラーに投票とうひょうを」をスローガンにし、膨大ぼうだいりょうのビラをまき、すうひゃくまんまいのポスター、財界ざいかいからの支援しえん購入こうにゅうした飛行機ひこうき使つかった遊説ゆうぜい当時とうじはまだあたらしいメディアだったラジオなどで国民こくみん鮮烈せんれつなイメージをのこした。だい1選挙せんきょ結果けっかはヒンデンブルク1865まん1497ひょう得票とくひょうりつ49.6%)、ヒトラー1133まん9446ひょう得票とくひょうりつ30.2%)、テールマン498まん3341ひょう得票とくひょうりつ13.2%)、デュスターベルク255まん7729ひょう得票とくひょうりつ6.8%)、ヴィンター11まん1423ひょう得票とくひょうりつ0.3%)となり、ヒトラーは候補こうほおおきくをつけた2となっただけでなく、現役げんえき大統領だいとうりょうヒンデンブルクの得票とくひょうりつ過半数かはんすう獲得かくとくふせ善戦ぜんせんをした。

しかし大統領だいとうりょうになるには過半数かはんすう得票とくひょうりつ必要ひつようであったため、上位じょういしゃ3めいによる決選けっせん投票とうひょうおこなわれた。その投票とうひょうでヒンデンブルク1935まん9983ひょう得票とくひょうりつ53.1%)、ヒトラー1341まん8517ひょう得票とくひょうりつ36.7%)、テールマン370まん6759ひょう得票とくひょうりつ10.1%)をそれぞれ獲得かくとくした。ヒトラーはヒンデンブルクにやぶれたものの、1選挙せんきょよりもおおきく得票とくひょうやして存在そんざいかんせつけ、ドイツ共産党きょうさんとうにとってはナチとうとの決定的けっていてきとなったことを物語ものがた選挙せんきょとなった。

つづく1932ねん7がつ国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょでは、ナチとうは37.8%(1930ねん選挙せんきょ18.3%)の得票とくひょうりつて230議席ぎせき改選かいせんまえ107議席ぎせき)を獲得かくとくし、改選かいせんぜんだい1とうだったSDPをいて国会こっかいだい1とうとなった。

首相しゅしょう就任しゅうにん

[編集へんしゅう]
ポツダムの」にヒンデンブルクと握手あくしゅするヒトラー(1933ねん3がつ
全権ぜんけん委任いにんほう成立せいりつ演説えんぜつおこなうヒトラー(1933ねん3がつ

1932ねん11月ドイツ国会こっかい選挙せんきょでは、パーペン内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつして可決かけつ選挙せんきょむかえた。このときベルリンだい管区かんく指導しどうしゃゲッベルスは、ドイツ共産党きょうさんとう主導しゅどうするだい規模きぼ交通こうつうストライキ突撃とつげき隊員たいいん参加さんかさせた。しかし、共産党きょうさんとうとの共闘きょうとう暴力ぼうりょくてき手法しゅほううったえたやりかた反共はんきょう財界ざいかい穏健おんけんベルリン市民しみん離反りはんさせ、ナチとう得票とくひょうりつは4%ほどちて33.1%になり、議席ぎせきすうも196に減少げんしょうしたが、だい1とう地位ちい保持ほじした。

しかし、この選挙せんきょ共産党きょうさんとう得票とくひょうばし、とく首都しゅとベルリンでは投票とうひょう総数そうすうの31%を獲得かくとくしてだい1とうになったことに[128]保守ほしゅそう危機ききかんいた。財界ざいかい伝統でんとうてき保守ほしゅ主義しゅぎしゃなどの富裕ふゆうそうは、ナチスのイデオロギー懐疑かいぎてきであったが、それ以上いじょう共産党きょうさんとうがこれ以上いじょう伸張しんちょうしてロシア革命かくめいまいのような事態じたいだけはけなくてはならず、ナチとう共産党きょうさんとう対抗たいこうできる政党せいとうとみなされた。ナチとうへの献金けんきん増加ぞうかしたが、この段階だんかいでも政財界せいざいかいからの政治せいじ献金けんきん圧倒的あっとうてきりょうはんナチ勢力せいりょくながれており、この時点じてんでのとう財政ざいせい大半たいはん党費とうひ収入しゅうにゅうによるものであった[129]

一方いっぽう事態じたい打開だかいすることができなかったパーペンないかくクルト・フォン・シュライヒャー策動さくどうにより崩壊ほうかいし、後継こうけいないかくはシュライヒャーが組織そしきした。かれはシュトラッサーらナチス左派さはもうとしたが失敗しっぱいした。シュライヒャーに反発はんぱつしたパーペンの協力きょうりょくもあり、大統領だいとうりょうヒンデンブルクの承認しょうにんたヒトラーは国家こっか人民じんみんとう協力きょうりょくけることに成功せいこう、1933ねん1がつ30にちヒトラー内閣ないかく発足ほっそくした。ヒトラーは就任しゅうにんした30にちよる内相ないしょうヴィルヘルム・フリックつうじた談話だんわで、(1) 国際こくさい社会しゃかいとの平和へいわうら共存きょうぞん、(2) ワイマール憲法けんぽう遵守じゅんしゅ、(3) 共産党きょうさんとう弾圧だんあつしないといった施政しせい方針ほうしん表明ひょうめいした[130]。しかし、これらはほどなくして反故ほごにされることとなった。

独裁どくさい政権せいけん

[編集へんしゅう]

内閣ないかく発足ほっそくの2にちたる2がつ1にち議会ぎかい解散かいさんし、国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょを3がつ5にち決定けっていした。2月27にち深夜しんや国会こっかい議事堂ぎじどう炎上えんじょうする事件じけん発生はっせいした(ドイツ国会こっかい議事堂ぎじどう放火ほうか事件じけん)。ヒトラーとゲーリングは「共産きょうさん主義しゅぎしゃ蜂起ほうきはじまり」と断定だんていし、ただちに共産きょうさん主義しゅぎもの逮捕たいほはじめた。よく28にちには大統領だいとうりょうヒンデンブルクに要請ようせいして憲法けんぽう基本きほんてき人権じんけん条項じょうこう停止ていしし、共産きょうさん党員とういんなどをほう手続てつづきらずに逮捕たいほできる大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいドイツ国民こくみん国家こっか保護ほごするための大統領だいとうりょうれい)を発令はつれいさせた。

この状況じょうきょう3月5にち選挙せんきょで、ナチとう議席ぎせきすうで45%の288議席ぎせき獲得かくとくしたが、単独たんどく過半数かはんすう獲得かくとくできなかった。しかし、共産党きょうさんとう議員ぎいんはすでに逮捕たいほ拘禁こうきんされており、さらにSDPや諸派しょは一部いちぶ議員ぎいん逮捕たいほされた。これらの議員ぎいんを「出席しゅっせきしたが、投票とうひょう参加さんかしないものなす」ように議院ぎいん運営うんえい規則きそく改正かいせいしたことで、ナチとう憲法けんぽう改正かいせいてき法令ほうれい必要ひつような3ぶんの2の賛成さんせい自動的じどうてき獲得かくとくできるようになった。

ヒトラーとヴィルヘルムもと皇太子こうたいし(1933ねん3がつ21にち

3月21にちしん国会こっかいひらかれた。このは「ポツダムの」とばれ、1871ねん帝国ていこく宰相さいしょうビスマルク最初さいしょ帝国ていこく議会ぎかいひらいたでもあった[131]。これを記念きねんする式典しきてんでは、空席くうせき皇帝こうていうしろにもと皇太子こうたいしヴィルヘルム着席ちゃくせきした[131]もと皇太子こうたいし見届みとどけるなかで、ヒトラーはモーニング姿すがた大統領だいとうりょうであるヒンデンブルクにあたまげた[132]。この演出えんしゅつによって、ヒトラーが帝政ていせい正統せいとう後継こうけいしゃであるかのような印象いんしょう人々ひとびとあたえられた[131]

3月24にちには国家こっか人民じんみんとう中央ちゅうおうとう協力きょうりょくて、しん国会こっかい全権ぜんけん委任いにんほう可決かけつさせ、議会ぎかい大統領だいとうりょう権限けんげん完全かんぜん形骸けいがいした。7月14にちにはナチとう以外いがい政党せいとう禁止きんしいちとうせい)し、12月1にちにはとう国家こっか不可分ふかぶん存在そんざいであるとされた。以降いこうドイツではナチとう中心ちゅうしんとした体制たいせい強化きょうかされ、とう思想しそうつよ反映はんえいした政治せいじおこなわれるようになった。しかし、幹部かんぶとはことなる政権せいけん構想こうそうっていた突撃とつげきたいではさらなる「だい革命かくめい」をもとめるこえたかまり、突撃とつげきたい幕僚ばくりょうちょうレームらとの対立たいりつ深刻しんこくした。ぎょうやしたヒンデンブルクや国軍こくぐんからの最後さいご通告つうこくらったヒトラーは、ゲーリングや親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃヒムラーらによって作成さくせいされた粛清しゅくせい計画けいかく承認しょうにんし、1934ねん6月30にち突撃とつげきたい幹部かんぶのほか、シュトラッサーらナチス左派さはなどの政敵せいてきをまとめて非合法ひごうほうてき手段しゅだん粛清しゅくせいした(ながいナイフのよる)。このときとう草創そうそうからのいであったレームの逮捕たいほにはヒトラーみずからがっている。

1934ねん8がつ2にち大統領だいとうりょうのヒンデンブルクが在任ざいにんのまま死去しきょした。ヒトラーはただちに「ドイツこくおよび国民こくみん国家こっか元首げんしゅかんする法律ほうりつドイツばん」を発効はっこうさせ、国家こっか元首げんしゅである大統領だいとうりょう職務しょくむ首相しゅしょう職務しょくむ合体がったいさせ、「指導しどうしゃけん首相しゅしょう (Führer und Reichskanzler) であるアドルフ・ヒトラー」個人こじん大統領だいとうりょう職能しょくのううつした[133]。ただし「大統領だいとうりょう敬意けいいあらわして」、大統領だいとうりょう(Reichspräsident) という称号しょうごう使用しようせず、自身じしんのことは従来じゅうらいどおり「Führer(指導しどうしゃ)」とぶよう国民こくみんもとめた。この措置そちは8がつ19にち民族みんぞく投票とうひょうドイツばんおこない、89.93%という支持しじりつ承認しょうにんされた。これ以降いこう日本にっぽん報道ほうどうではヒトラーの地位ちいを「総統そうとう」とぶようになった。指導しどうしゃ国家こっかほううえ存在そんざいであり、その意思いし最高さいこう法規ほうきとなる存在そんざいであるとされた[134][135]

権力けんりょく掌握しょうあく以降いこう、ヒトラーの個人こじん崇拝すうはい国民こくみんてきなものとなった。1935ねん1がつ22にちには、公務員こうむいん一般いっぱん労働ろうどうしゃ右手みぎてげて「ハイル・ヒトラー」と挨拶あいさつすることや、おおやけわたし文書ぶんしょ末尾まつび記載きさいすることが義務付ぎむづけられた[136]民衆みんしゅうとう体制たいせいたいする不満ふまんつことがあっても、地方ちほう中央ちゅうおうとう幹部かんぶ批判ひはんけられ、ヒトラー自身じしん対象たいしょうとなることはほとんどなかった[137]

国家こっか元首げんしゅ就任しゅうにんして以降いこう国際こくさいてき行動こうどう実行じっこうするにしばしば土曜日どようびえらんだ。これは週末しゅうまつ他国たこく政府せいふ対応たいおうおそくなるという理由りゆうからである。1935ねん3月16にちドイツさい軍備ぐんび宣言せんげん1936ねん3月7にちラインラント進駐しんちゅうはどちらも土曜日どようびである[138]

政治せいじ

[編集へんしゅう]

ヒトラーは、従来じゅうらい合議ごうぎせいであった閣議かくぎをほとんど開催かいさいせず、書類しょるい回覧かいらんによって決裁けっさいおこなった。また重要じゅうよう方針ほうしんについては大筋おおすじ方針ほうしんめるだけで、詳細しょうさい所轄しょかつ官庁かんちょうまかせた。この「口頭こうとう政治せいじ」により、1941ねん成立せいりつした法律ほうりつは、回覧かいらんによる制定せいていほう11、総統そうとう布告ふこく24、総統そうとう命令めいれい9、国防こくぼう閣僚かくりょう評議ひょうぎかい命令めいれい27にたいし、所轄しょかつ官庁かんちょう命令めいれいが373にたっしている[139]。このため、かく官庁かんちょうとヒトラーのあいだって調整ちょうせいおこな総統そうとう官邸かんてい長官ちょうかんハンス・ハインリヒ・ラマースや、とう官房かんぼうちょうマルティン・ボルマン権力けんりょくたかまった。一方いっぽう親衛隊しんえいたいふくとうかく組織そしきや、ヒトラーが任命にんめいする全権ぜんけん国家こっか弁務べんむかんなどが並立へいりつしたため、それぞれの組織そしき自立じりつせいたかまる一方いっぽうで、とう国家こっかとの法的ほうてき関係かんけい曖昧あいまいなままとなり、法律ほうりつ行政ぎょうせい複雑ふくざつし、統一とういつせいうしなわれた[139]指導しどうしゃ原理げんりによってかく組織そしき指導しどうしゃは、ヒトラーにあたえられた権力けんりょく範囲はんいない絶大ぜつだい権力けんりょくつが、権限けんげん重複じゅうふくする相手あいてとの対立たいりつ混乱こんらんえず、結果けっかとして最終さいしゅうてきにこれらを調停ちょうてい唯一ゆいいつ存在そんざいとなったかれへの従属じゅうぞくをますますつよめることとなった。ヒトラー自身じしんもわざとそういった問題もんだい放置ほうちしたり、しばしば重要じゅうよう事項じこうかんする決断けつだん回避かいひしたため、余計よけい権力けんりょく闘争とうそう拍車はくしゃをかけることになった[140]ヨアヒム・フェストは、ナチス・ドイツのこうした体制たいせいを「ヒトラーだけにしか全体ぜんたい眺望ちょうぼうない国家こっか」とひょうしている[141]

個別こべつ政策せいさくでは、とう国家こっか一体化いったいかすすめる一方いっぽうで、航空こうくうしょう設置せっちなどベルサイユ条約じょうやく禁止きんしされていたさい軍備ぐんびすすめた。また同時どうじおこなわれていたラインハルト計画けいかくにより、1933ねんには600まんにんかぞえていた失業しつぎょうしゃも1934ねんには300まんにん減少げんしょうしている。一方いっぽう新聞しんぶん統制とうせいおこない、1934ねんにはやく300の新聞しんぶん廃刊はいかんとなった。営業えいぎょう不振ふしんとなった新聞しんぶんしゃ雑誌ざっししゃナチとう出版しゅっぱんしゃフランツ・エーア出版しゅっぱんしゃ買収ばいしゅうされ、情報じょうほう一元化いちげんかすすんでいった[142]。1935ねん3がつ16にちにはベルサイユ条約じょうやく軍事ぐんじ条項じょうこう破棄はきドイツさい軍備ぐんび宣言せんげん)、公然こうぜん軍備ぐんび拡張かくちょうおこなった。

1936ねんには武装ぶそう地帯ちたいとされていたラインラントへの進駐しんちゅうおこなった。ヒトラー自身じしんえいふつ対抗たいこう措置そち可能かのうせい完全かんぜん払拭ふっしょくれていたわけではなかったが[143]結局けっきょくえいふつうごかず、けに勝利しょうりしたヒトラーの威信いしんはさらに向上こうじょうした。また同年どうねんにはガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックベルリンオリンピック大会たいかいがドイツでおこなわれた。当初とうしょヒトラーはレニ・リーフェンシュタールたいして「自分じぶんはユダヤじん牛耳ぎゅうじるオリンピックには関心かんしんがない」とらしていたが[144]、1933ねん3がつにはベルリン大会たいかい支持しじ声明せいめいしている[145]。またこれまで都市とし主催しゅさいであったオリンピックに国家こっか積極せっきょくてき介入かいにゅうすることで、ベルリンオリンピックはかつてないだい規模きぼなものとなった。また、リーフェンシュタールが撮影さつえいした記録きろく映画えいがオリンピア』は世界せかいたか評価ひょうかた。

オリンピック
[編集へんしゅう]

ベルリンオリンピック開催かいさい前後ぜんこうにはしょ外国がいこくからの批判ひはんけ、一時いちじてきユダヤじん迫害はくがい政策せいさく緩和かんわし、はんユダヤ主義しゅぎのポスターや新聞しんぶん公共こうきょうから撤去てっきょされた[146][147][132]。また、発禁はっきんしょなども突如とつじょ姿すがたあらわし、ナイトクラブではジャズ演奏えんそうされた[132]。その国力こくりょく増強ぞうきょうとともに、ドイツ国民こくみん圧倒的あっとうてき支持しじしたゲルマン民族みんぞく優越ゆうえつ」と「はんユダヤ主義しゅぎ」をかかげ、ユダヤじんたいする人種じんしゅ差別さべつもとにした迫害はくがいふたた強化きょうかしていく。ただし、ヒトラーの人種じんしゅ差別さべつてき思想しそうはオリンピックの大会たいかいちゅうにもあらわれていた[146][147]。ユダヤじんだけでなく黒人こくじん劣等れっとう人種じんしゅ看做みなしていたヒトラーはオリンピックの試合しあいジェシー・オーエンスが4かん達成たっせいだい活躍かつやくしたことにたい[146][147]ヒトラー・ユーゲント指導しどうしゃバルドゥール・フォン・シーラッハがオーエンスを総統そうとう官邸かんてい招待しょうたいするようにヒトラーに提案ていあんしたところ、いかりとともした言葉ことばのこしている[132]

アメリカは黒人こくじんにメダルをらせたことをずべきだった。
わたしはこの黒人こくじんなど絶対ぜったいにぎったりはしないだろう。
わたし黒人こくじん原文げんぶんニグロ)と握手あくしゅしている写真しゃしんらせるとでも本気ほんきおもっているのかね?

また、アルベルト・シュペーアの回想かいそうろくなかでヒトラーは「素晴すばらしいいろ原文げんぶん表記ひょうき)のランナー、ジェシー・オーエンスの一連いちれん勝利しょうりに、非常ひじょうなやまされていた。」とべている[132]

ただ、ヒトラーがオーエンスの勝利しょうりかれ握手あくしゅするのを拒否きょひしたとの議論ぎろんがあるが、実際じっさいにはヒトラーはオリンピックの大会たいかい期間きかんちゅう、すなわち大会たいかい初日しょにちからスタジアムにいるどの選手せんしゅへの祝福しゅくふくもしていない[132][ちゅう 7]

この大会たいかいはヒトラーとナチとうが、持論じろんである白人はくじんたね(ゲルマン民族みんぞく)の優越ゆうえつせい証明しょうめいすることをのぞんだ大会たいかいだったが、ベルリン人々ひとびとは、オーエンスを「オリンピックのヒーロー」としてむかえた[148][146][147]

外交がいこう生存せいぞんけん

[編集へんしゅう]
オーストリア併合へいごうにウィーン市内しないをパレードするヒトラー(1938ねん10がつ

ナチとう政権せいけん時代じだい外交がいこう政策せいさくは、一般いっぱんにヒトラーの能動のうどうてき計画けいかくす「ヒトラー中心ちゅうしん主義しゅぎてき解釈かいしゃくおこなわれることがおお[149]。ヒトラーがとき外交がいこう政策せいさくおおきく関与かんよしたことは事実じじつであるが、近年きんねんではヨアヒム・フォン・リッベントロップやドイツ外務省がいむしょう、ゲーリングといった国内こくないしょ勢力せいりょく影響えいきょう研究けんきゅう対象たいしょうとなり、「ドイツの(外交がいこう政策せいさくを、ヒトラーと同一どういつつづけることができるであろうか」という歴史れきしウィリアム・カーの指摘してき存在そんざいする[150]

1922ねんからヒトラーがうったえてきた基本きほんてき外交がいこう方針ほうしんしんえいはんふつソであり、当時とうじのドイツ外務省がいむしょう方針ほうしんとはたいソビエト連邦れんぽう政策せいさくのぞいておおきくことならなかった[151]。ヒトラーには3つのかた信念しんねんがあった。だいいちベルサイユ条約じょうやくでバラバラになったドイツをさい統一とういつすること、だい資源しげん確保かくほのためにロシアあるいはバルカン半島ばるかんはんとう方面ほうめん領土りょうど拡張かくちょうすること、だいさんはロシアの共産きょうさん主義しゅぎしゃ根絶ねだやしにすることであった[152]

ヒトラーはだいいちてきであるソ連それん対抗たいこうするうえで、緩衝かんしょうこくとしておな反共はんきょう国家こっかポーランド存在そんざい評価ひょうかしており、ドイツの東方とうほう外交がいこうは、はんポーランド・たい連携れんけいから、はんソ・たいポーランド連携れんけいに180転換てんかんした。ポーランドはフランスのジュニアパートナーとしてたいどく包囲ほういもう構成こうせいし、ヒトラー政権せいけん誕生たんじょうもドイツ侵攻しんこう野心やしんてていなかったが、外交がいこう方針ほうしん転換てんかんさせ、1934ねん1がつ、ドイツとポーランドは不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつした[153]

1932ねん12月11にち、ドイツに他国たこく同様どうよう軍事ぐんじてき平等びょうどう原則げんそくてき承認しょうにんするべいえいふつどく大国たいこく宣言せんげんされて、ドイツのさい軍備ぐんび国際こくさいてき公認こうにんされた。ヒトラー政権せいけんさい軍備ぐんびは、パーペンシュライヒャー政権せいけんからの継続けいぞくであり、原則げんそくてきには戦勝せんしょうこく同意どういしていた。1933ねん3がつ16にちラムゼイ・マクドナルドえい首相しゅしょうジュネーブ軍縮ぐんしゅく会議かいぎで、欧州おうしゅう大陸たいりく陸軍りくぐん兵力へいりょくかんして、ドイツに20まんにんまで増強ぞうきょうすることをみとめ、フランスは40まんにん本国ほんごく20まんにん在外ざいがい20まんにん)、イタリアは25まんにん本国ほんごく20まんにん在外ざいがい5まんにん)、ポーランドは20まんにんチェコスロバキアは10まんにんベルギーは13.5まんにん本国ほんごく6まんにん在外ざいがい7.5まんにん)、ソ連それんは50まんにん削減さくげん空軍くうぐんについては現状げんじょう維持いじとし、ドイツにはみとめず、空爆くうばく禁止きんしという、マクドナルド・プランを提案ていあんし、5月16にちルーズベルトべい大統領だいとうりょう世界せかい指導しどうしゃにマクドナルド・プランに沿った軍縮ぐんしゅくもとめる声明せいめいはっした。ヒトラーは5月17にち議会ぎかい演説えんぜつで、これまでの政権せいけん同様どうよう他国たこくとの平等びょうどうもとめ、空軍くうぐんでの差別さべつてきあつかいには反対はんたいしつつ、マクドナルド・プランが目指めざ方向ほうこう賛意さんい表明ひょうめいし、べい大統領だいとうりょうしんからの感謝かんしゃ表明ひょうめいしたが、フランスは難色なんしょくしめし、軍縮ぐんしゅく会議かいぎ暗礁あんしょうげた。ヒトラーは10月15にち、ドイツが二流にりゅうこくとして軍事ぐんじてき対等たいとう地位ちいみとめられないことは許容きょようできないとして、軍縮ぐんしゅく会議かいぎのみならず国際こくさい連盟れんめいからも脱退だったいすると宣言せんげんした。1934ねん1がつ29にち、イギリスはドイツの陸軍りくぐん兵力へいりょく上限じょうげんやして空軍くうぐんみとめる一方いっぽう、フランスの要求ようきゅうれて突撃とつげきたい親衛隊しんえいたい武装ぶそうをドイツにもとめるあらたな軍縮ぐんしゅくあん提案ていあんした。ドイツは一部いちぶ修正しゅうせいもとめたものの、基本きほんてき同意どういしたが、4がつ17にち、フランスは交渉こうしょうりを宣言せんげんした[154]

1935ねん1がつベルサイユ条約じょうやくにより国際こくさい連盟れんめい管理かんりにあったザール地方ちほう帰属きぞくめる住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしされ、ドイツ復帰ふっき反対はんたいはんヒトラー・はん国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎキャンペーンにもかかわらず、50まんにんきょう有権者ゆうけんしゃの98%が投票とうひょうして、有効ゆうこう投票とうひょうの91%がドイツ復帰ふっき賛成さんせいした。この投票とうひょう結果けっかけて、ザール地方ちほうがドイツに返還へんかんされただけでなく、ドイツ内外ないがいでのヒトラーの威信いしんたかまった。こうして戦勝せんしょうこくはドイツ民族みんぞく自決じけつこえ無視むしできなくなった[155]

西にしヨーロッパの知識ちしきじん保守ほしゅけいはもちろんリベラルけい一部いちぶまでが、ロシア革命かくめい思想しそう伝播でんぱおそれており、その防波堤ぼうはていとして、ヒトラーに指導しどうされたドイツに期待きたいしていた。また、べルサイユ条約じょうやくもとづく戦後せんご欧州おうしゅう体制たいせいはドイツにたいして公平こうへいせいけるという認識にんしき根強ねづよかった。だいいち世界せかい大戦たいせんではたいどく強硬きょうこうであったもとえい首相しゅしょうロイド・ジョージ1934ねん11月28にちに、「ちかいうちに、おそらくいちねん以内いないだとおもうが、わがくに保守ほしゅ主義しゅぎ勢力せいりょくは、ドイツをヨーロッパで拡散かくさんする共産きょうさん主義しゅぎ思想しそう抵抗ていこうする前線ぜんせん基地きちだとするかんがえで一致いっちするであろう。ドイツのさい軍備ぐんび拙速せっそく批判ひはんするようなことがあってはならない。わがくに友邦ゆうほうとしてドイツを歓迎かんげいするる」とべている[156]。ドイツの軍拡ぐんかくはイギリスのお墨付すみつきのうえすすんだ。ヒトラーはフランス国会こっかい徴兵ちょうへい期間きかん延長えんちょう可決かけつした直後ちょくご1935ねん3月16にちさい軍備ぐんび宣言せんげんおこない、5月に徴兵ちょうへいせい実施じっしした。そして年間ねんかん秘密ひみつ交渉こうしょう結果けっか、1935ねん6がつえいどく海軍かいぐん協定きょうてい締結ていけつされた。ドイツ海軍かいぐん軍艦ぐんかん保有ほゆう上限じょうげんたいえい35%とし、潜水せんすいかんUボート)の建造けんぞうたいえい45%(状況じょうきょうによってはたいえい100%まで建造けんぞう可能かのう)であった。この協定きょうていはべルサイユ条約じょうやく実質じっしつ反故ほごにするものであり、主要しゅようこくには寝耳ねみみみず協定きょうていであった[157]。フランスにとってはおおきな打撃だげきとなった。

猛烈もうれつはんどく感情かんじょういだつづけるフランスはドイツのさい軍備ぐんびうごきに反応はんのうしてソ連それん接近せっきんした。1935ねん5がつ2にちふつ相互そうご援助えんじょ条約じょうやくパリ調印ちょういんされ、1936ねん2がつ27にち、フランスはこの条約じょうやく批准ひじゅんした。ヒトラーはこの条約じょうやくロカルノ条約じょうやく違反いはんであるとみなしており、批准ひじゅんされないことをねがっていたが、批准ひじゅんされた以上いじょうラインラント無防備むぼうびのままにしておけなかった。

1936ねん3がつにはベルサイユ条約じょうやくロカルノ条約じょうやくはんして武装ぶそう地帯ちたいさだめられていたラインラントへの進駐しんちゅう実行じっこうした。ただし、進駐しんちゅうした部隊ぶたい小規模しょうきぼであり、軍事ぐんじてきというより主権しゅけん回復かいふく象徴しょうちょうする政治せいじてき進駐しんちゅうであった。ヒトラーはふつ相互そうご援助えんじょ条約じょうやく発効はっこうによりロカルノ条約じょうやく失効しっこうしたとして、ラインラント進駐しんちゅう正当せいとうし、ソビエト赤化せっか工作こうさく攻勢こうせい対抗たいこうしなければならないとべた。そのためには、①ドイツとベルギー、フランス国境こっきょう地帯ちたい武装ぶそう地帯ちたいかかわるあらたな多国たこくあいだ協定きょうてい、②ベルギー、フランス、ドイツ、オランダによる期限きげん25ねん不可侵ふかしん条約じょうやく、③西にしヨーロッパ諸国しょこくたいするソビエトによる警告けいこく攻撃こうげきへの対処たいしょかかわる航空こうくう協定きょうてい、④ドイツの東方とうほう位置いちするくにとの不可侵ふかしん条約じょうやく、の4つのあたらしい条約じょうやく必要ひつようであるとうったえた[158]。イギリスのたいどく宥和ゆうわ姿勢しせいはだかんじていたヒトラーは、イギリスはこのうごきに理解りかいしめすだろうとの自信じしんはあったが、「ラインラントへへいすすめたのちの48あいだわたし人生じんせいもっと不安ふあんなときであった。もし、フランスぐんがラインラントに進軍しんぐんしてきたら、貧弱ひんじゃく軍備ぐんびのドイツぐん部隊ぶたいは、反撃はんげきできずに、尻尾しっぽいてさなければいけなかった」とのちべている。フランスぐんからの攻撃こうげきはなかった。フランスはこの問題もんだい国際こくさい連盟れんめい理事りじかい提訴ていそし、連盟れんめいはドイツの行為こういはベルサイユ条約じょうやくとロカルノ条約じょうやく違反いはん決議けつぎしたが、制裁せいさいについての議論ぎろんはなされなかった。3月26にち英国えいこくかい審議しんぎにおいて、イーデンえい外相がいしょうはフランスとベルギーが要求ようきゅうする経済けいざい政策せいさく手始てはじめとする段階だんかいてき制裁せいさいには反対はんたい明言めいげんし、野党やとう議員ぎいんのロイド・ジョージはヒトラーを擁護ようごするものではないといつつ、ロカルノ条約じょうやく締結ていけつこく軍縮ぐんしゅくおうじなかったことなどをげて、たいどく強硬きょうこういましめた。ヒトラーは3がつ29にち国民こくみん投票とうひょう実施じっしし、98.79%がラインラント進駐しんちゅうとした。ロカルノ体制たいせい崩壊ほうかいボルシェビキ思想しそう拡散かくさんにヨーロッパ諸国しょこくおびえた。一方いっぽうソビエトは、再生さいせいドイツをおそれるヨーロッパ諸国しょこくかって、かれらを救済きゅうさいするくにがソビエトであるとのポーズをとりはじめた。ヒトラーは1936ねん10がつ24にち共産きょうさん主義しゅぎ脅威きょうい対抗たいこうしヨーロッパ内部ないぶにおける地位ちいたかめたいという共通きょうつうおもいをつ、ムッソリーニどく協定きょうてい締結ていけつした。さらにヒトラーは、ベルサイユ条約じょうやくではドイツの重要じゅうよう河川かせん海運かいうん国際こくさい連盟れんめい国際こくさい委員いいんかい管理かんりかれることになっていたが、この条項じょうこう破棄はきすると発表はっぴょうした[159]

ベルサイユ条約じょうやくはんするさい軍備ぐんびとラインラント進駐しんちゅうがあったにもかかわらず、1936ねん8がつひらかれたベルリン・オリンピックはボイコットされることなく、ヒトラーにとって再生さいせいしたドイツを世界せかいらしめる絶好ぜっこう機会きかいになった[160]

ヒトラーは1936ねん7がつスペイン内戦ないせんにおいて、スペイン共和きょうわこく政府せいふ過激かげき思想しそう西にしヨーロッパ全体ぜんたいひろがることをおそれて、反乱はんらんぐんフランシスコ・フランコ支援しえん決定けっていした。同年どうねん9がつ、ヒトラーはもとえい首相しゅしょうロイド・ジョージとベルヒテスガーデン会談かいだんし、共産きょうさん主義しゅぎ思想しそうからドイツを防衛ぼうえいしていることを評価ひょうかされた。同年どうねん11がつ18にちどく両国りょうこくフランコ政権せいけん正式せいしき承認しょうにんし、ドイツは空軍くうぐん部隊ぶたい、イタリアは地上ちじょう部隊ぶたい派遣はけんした。1937ねん4がつ26にちには、人民戦線じんみんせんせんぐん退却たいきゃく阻止そしするために、ドイツ空軍くうぐんコンドル軍団ぐんだん」による、合法ごうほうてき軍事ぐんじ目標もくひょうであるはしなどをねらったゲルニカ空爆くうばくおこなわれたが、目標もくひょうをそれたばくだん市街地しがいち直撃ちょくげきし、付属ふぞくてき被害ひがいとして、一般いっぱん市民しみん犠牲ぎせいしゃ[161]

東欧とうおう主眼しゅがんとするヒトラーの対外たいがい政策せいさくにスペインはほとんど関係かんけいなかったが、スペイン内戦ないせん長引ながびけば長引ながびくほど、国際こくさい社会しゃかいはドイツさい軍備ぐんびからとおのき、人民戦線じんみんせんせん政府せいふ支援しえんをめぐり国論こくろん二分にぶんされたフランスの政治せいじてき混乱こんらんつづき、えいふつとイタリアの関係かんけい悪化あっかして、イタリアはドイツにたよらざるをなくなるなど、ヒトラーにとって好都合こうつごうであった。実際じっさいドイツは第三国だいさんごくつうじて、人民戦線じんみんせんせんぐんにも武器ぶき売却ばいきゃくしており、ヒトラーはスペイン内戦ないせん早期そうき終結しゅうけつはドイツの国益こくえき合致がっちしないとかんがえていた。1938ねんはる、ヒトラーは、フランスと国境こっきょうせっするカタロニア地方ちほうではなく、みなみバレンシアめるよう、フランコに進言しんげんすることをめいじたが、それは、人民戦線じんみんせんせん拠点きょてんであるカタロニアを占領せんりょうすれば、内戦ないせんわってしまうからであった[162]

オーストリアでのヒトラー
ミュンヘンにあつまったえいふつどく首脳しゅのうひだりからチェンバレン、ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ、外相がいしょうチャーノ

1931ねん発生はっせいした満州まんしゅう事変じへん以降いこうソ連それんイギリスアメリカとのあいだ関係かんけい悪化あっか鮮明せんめいしていた日本にっぽんとの関係かんけい親密しんみつし、1936ねん11月には、ちゅうどく日本にっぽんこく特命とくめい全権ぜんけん大使たいし武者小路むしゃのこうじ公共こうきょうとドイツ外相がいしょうヨアヒム・フォン・リッベントロップあいだにちどく防共ぼうきょう協定きょうていむすばれ、ヨシフ・スターリンひきいるソビエト連邦れんぽうへの対抗たいこう目指めざした。どう協定きょうていよく1937ねん11月6にちにイタリアもはいにちどく防共ぼうきょう協定きょうていとなった。

1937ねん1がつ30にち、ヒトラーは演説えんぜつで、ベルサイユ条約じょうやく戦争せんそう責任せきにん条項じょうこうだい231じょう)を弾劾だんがいし、ドイツがオーストリア、イタリア、日本にっぽん、ポーランドと締結ていけつした条約じょうやく協定きょうていげて、他国たこくとの協調きょうちょう重要じゅうようせいうったえ、ベルギーやオランダへの中立ちゅうりつ保障ほしょう案件あんけんやフランスとはことかまえるかんがえがないことを言及げんきゅうしたが、たいソビエトの姿勢しせいだけはいかめしかった[163]

1937ねん11月5にちには陸海空りくかいくうぐん首脳しゅのうあつめ、「東方とうほう生存せいぞんけん獲得かくとくのための戦争せんそう計画けいかくげた(ホスバッハ覚書おぼえがき)。計画けいかく批判ひはんてきであった国防こくぼうしょうブロンベルクらは陰謀いんぼうによって追放ついほうされ、独立どくりつ傾向けいこうがあったぐん完全かんぜん掌握しょうあくした(ブロンベルク罷免ひめん事件じけん)。

1937ねん11月19にち、ヒトラーはイギリスの枢密院すうみついん議長ぎちょうハリファックスきょうベルヒテスガーデン会談かいだんした。ハリファックスきょうはベルサイユ条約じょうやくによるオーストリアチェコスロバキアおよびダンツィヒかかわる線引せんひきの変更へんこうについては反対はんたいしない、とつたえた。ただし、それを平和へいわてき手段しゅだんおこなうことが条件じょうけんであった。ハリファックスきょうかんがえはイギリス政府せいふかんがえをしめすものであることは、かれ翌年よくねん2がつ外務がいむ大臣だいじん登用とうようされたことからもあきらかだった。かれ山荘さんそうのちにしたときのヒトラーは高揚こうようし、「ハリファックスはかしこ政治せいじだ。ドイツの主張しゅちょうを100%支持しじしてくれた」とべた[164]。ハリファックスきょう派遣はけんしたチェンバレンえい首相しゅしょうは11月26にちづけいもうとのアイダあて書簡しょかんで、平和へいわてき方法ほうほうであれば、ドイツがオーストリアとチェコスロバキアのズデーテン地方ちほう併合へいごうすることを容認ようにんするとしるしていた[165]

1934ねん7がつドルフスおう首相しゅしょう暗殺あんさつでドイツとオーストリアの関係かんけい悪化あっかしたのち、後継こうけい首相しゅしょうとなったシュシュニック圧政あっせい継続けいぞくしたため、国内こくないでの不満ふまんたかまり、ドイツとの合併がっぺいもとめるこえふたたたかまった。ドイツとの合併がっぺいもとめていたのは、オーストラリアNSDAPだけでなく、ともに非合法ひごうほうされていた社民党しゃみんとう合併がっぺい推進すいしんであった。シュシュニックは首相しゅしょう就任しゅうにん以来いらいいち選挙せんきょておらず、その正統せいとうせい疑問符ぎもんふいていた[166]。オーストリア併合へいごう第一歩だいいっぽである1936ねん7がつ11にちむすばれたどくおうあいだ合意ごういでは、両国りょうこくはドイツ文化ぶんかけんぞくしていることを確認かくにんし、文化ぶんか交流こうりゅう阻害そがいする規制きせい即時そくじ撤廃てっぱいうたっており、両国りょうこく新聞しんぶん相手あいてこく客観きゃっかんてき報道ほうどうし、攻撃こうげきてき内容ないようにしてはならないこと、オーストリアの外交がいこうは、ドイツのすすめる平和へいわ外交がいこう勘案かんあんしながらすすめることがめられていた。直後ちょくごに1まん5せんにんのNSDAP政治せいじはん恩赦おんしゃあたえられ、釈放しゃくほうされた。またオーストリアには野党やとうからも代表だいひょう指名しめいし、国家こっか運営うんえい責任せきにんをもたせることになった。ナチス・ドイツのプロパガンダ組織そしきは、表面ひょうめんじょう友好ゆうこうてき態度たいどであったが、そのうら国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ宣伝せんでんつとめていた。1938ねん2がつ4にち中央ちゅうおうヨーロッパで攻勢こうせいることに反対はんたいしていた国防こくぼうしょうブロンベルクらが突然とつぜん解任かいにんされた[167]

1938ねん2がつ12にち、ヒトラーはオーストリア首相しゅしょうクルト・シュシュニックベルヒテスガーデン会談かいだんし、自発じはつてき併合へいごうみちあゆむことをせまった。その手始てはじめとして、オーストリア・ナチスとう幹部かんぶ入閣にゅうかく、ナチス党員とういん釈放しゃくほうたいどく強硬きょうこう参謀さんぼう総長そうちょう解任かいにん要求ようきゅうし、「オーストリアをたすけにくにはどこにもない」とつづけた。イギリスでは、ベルサイユ体制たいせいゆがみの解消かいしょう理解りかいしめしたハリファックスきょうが、たいどく強硬きょうこうアンソニー・イーデンわって外相がいしょうき(2がつ21にち)、おなじく強硬きょうこうだった外務がいむ次官じかんロバート・ヴァンシタート更迭こうてつされた。首相しゅしょうのシュシュニックはヒトラーの要求ようきゅう表面ひょうめんてきれる一方いっぽう、3月9にち、4にちの3がつ13にちにオーストリアの独立どくりつ維持いじ国民こくみん投票とうひょう実施じっしすると発表はっぴょうした。しかし、選挙せんきょ地方ちほう選挙せんきょふくめてなんねん実施じっしされておらず、現実げんじつてき公平こうへい選挙せんきょ実施じっし不可能ふかのうであるだけでなく、シュシュニックが反対はんたいしゃ排除はいじょしたかたち選挙せんきょすすめようとしたため、国内こくない騒然そうぜんとなった。この状況じょうきょうたヒトラーは軍事ぐんじ侵攻しんこう決断けつだんし、3月12にちあさ、ドイツぐんオーストリア侵攻しんこうした。ただし、武力ぶりょく行使こうしけ、住民じゅうみん歓迎かんげいされる平和へいわてき行進こうしんとし、いかなる挑発ちょうはつてき行動こうどう禁止きんしした。カトリックきょうこくのオーストリアはもともとプロテスタント国家こっかプロイセンきらいで、ひろしおう戦争せんそう(1866ねん)の敗北はいぼくもあり、プロイセンぎらいの感情かんじょう根深ねぶかいものがあったが、ドイツぐんへの抵抗ていこう皆無かいむだった。オーストリア国民こくみん侵入しんにゅうするドイツぐんをむしろ歓迎かんげいした。発砲はっぽう事態じたいひとつもなく、花束はなたばむかえられた[168][169]

1938ねん3がつには武力ぶりょくによる威嚇いかくでオーストリアの首相しゅしょうアルトゥル・ザイス=インクヴァルト就任しゅうにんさせ、オーストリア併合へいごうにこぎつけた。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国ていこく皇太子こうたいしオットー・フォン・ハプスブルクがドイツの侵略しんりゃく計画けいかく対抗たいこうするかまえをみせたが、ヒトラーはこのうごきをさえつけてオーストリアの内閣ないかく交代こうたいさせたのである。なお、ヒトラーはハプスブルク憎悪ぞうおしており、オットーがオーストリア政府せいふ頂点ちょうてんった場合ばあいはただちにオーストリアに侵攻しんこうする計画けいかくっていた。そのも、ハプスブルク当主とうしゅオットーのかんした「オットー作戦さくせんドイツばん」というものだった。

こうしてオーストリア国内こくない抵抗ていこう勢力せいりょくふうめたのち、3月12にちにはヒトラー自身じしんがオーストリアにはいり、ウィーンやまれ故郷こきょうリンツにもどった。オーストリア国民こくみんはヒトラーを里帰さとがえりの凱旋がいせんのごとくむかえた。ヒトラーは故郷こきょうリンツでこのように演説えんぜつした。「もしかみがドイツ国家こっか指導しどうしゃたるべくわたしをこのまちしたのだとすれば、それはわたしひとつの任務にんむさづけるためである。その任務にんむとはわがあいする故国ここくをドイツ国家こっか還付かんぷすることである。わたしはその任務にんむしんじた。わたしはそのためにき、そのためにたたかってきた。そしていまその任務にんむたしたとしんじる」。なお、このとき、ヒトラーは、父親ちちおや生地きじ演習えんしゅうえら破壊はかいしている。ヒトラーは3がつ15にちあさ、ウィーン市民しみんまえ演説えんぜつした。広場ひろばにはヒトラーを一目いちもくようとする25まんにん市民しみんあつまった。ヒトラーは当初とうしょ連邦れんぽう国家こっかにするつもりであったが、予想よそうもしなかった熱烈ねつれつ歓迎かんげいて、だいドイツ帝国ていこく一部いちぶとして併合へいごうすることにめた。オーストリア国民こくみん歓迎かんげいは、だいいち世界せかい大戦たいせんにドイツとの合邦がっぽうアンシュルス)を禁止きんしし、「ドイツ・オーストリア」という国名こくめいゆるさなかったサン=ジェルマン条約じょうやくたいするうらみもあったが、ドイツのすすめてきた経済けいざい再建さいけん評価ひょうかし、オーストリアを苦境くきょうからすくってくれるのではないかとつよ期待きたいしたからであった。ドイツに併合へいごうされたオーストリアの経済けいざい発展はってん目覚めざましかった。投資とうし工業こうぎょう生産せいさん住宅じゅうたく建設けんせつ活発かっぱつ消費しょうひ増大ぞうだいした。観光かんこう旅行りょこうたのしむものえ、生活せいかつ水準すいじゅんはたちまちにがった。1937ねん失業しつぎょうりつは21.7%もあったが、1939ねんには3.2%まで低下ていかした[170][171]

1938ねん4がつ10日とおか併合へいごう正統せいとうせい内外ないがいしめすために、オーストリアだけでなく、ドイツでもおこなわれた国民こくみん投票とうひょうで、合併がっぺい賛成さんせい両国りょうこくとも99%をえた。ヒトラー政権せいけん成立せいりつの1935ねん国際こくさい管理かんりおこなわれたザール地方ちほう帰属きぞく投票とうひょうでも賛成さんせいひょうは90%をえており、オーストリアでも圧倒的あっとうてき多数たすう合併がっぺい賛成さんせいしていたことは確実かくじつである。だからこそ、えいふつもドイツの強圧きょうあつてき手法しゅほうたいして形式けいしきてき抗議こうぎしただけで、合併がっぺい既成きせい事実じじつとしてみとめざるをなかった。また、1940ねん2がつはんどくられ、のちに義父ぎふムッソリーニ命令めいれい処刑しょけいされたチアノ外相がいしょうは、ルーズベルトべい大統領だいとうりょう特使とくしとして欧州おうしゅう派遣はけんされたサムナー・ウェルズ国務こくむ次官じかんたいして、オーストリア併合へいごうについてはおおきな誤解ごかいがあり、オーストリアじん大半たいはんはドイツの一部いちぶとしてきることをのぞんでいるとべたうえで、シュシュニック首相しゅしょうもオーストリア占領せんりょうまえにローマをおとずれたさい、「もしドイツがオーストリアを占領せんりょうしたら、オーストリアじん大半たいはん占領せんりょう支持しじするだろうし、もしイタリアが占領せんりょうふせぐためにオーストリアにぐん派遣はけんしたら、オーストリアじん一体いったいとなってドイツじん一緒いっしょにイタリアとたたかっただろう」とみとめていたとくわえた[172]

オーストリアを支配しはいれたヒトラーはつづいて、だいいち大戦たいせん誕生たんじょうした民族みんぞく人工じんこう国家こっかで、東方とうほう進出しんしゅつへの障害しょうがいであるチェコスロバキア(チェコけい650まん、ドイツけい325まん、スロバキアけい300まん、ハンガリーけい70まん、ウクライナけい50まん、ポーランドけい6まん)をねらい、まずドイツけい住民じゅうみんがほとんどをめるズデーテン地方ちほう併合へいごうしようとした。1919ねんベルサイユ会議かいぎでは、ウィルソン民族みんぞく自決じけつ原則げんそくはんして、西部せいぶボヘミアではドイツけいおおいスデーテン地方ちほう北部ほくぶモラヴィアではポーランド炭鉱たんこう地帯ちたい南部なんぶハンガリー方面ほうめんではダニューブがわ流域りゅういき東部とうぶウクライナ南部なんぶにあたる地域ちいきがチェコスロバキアりょうふくまれた。チェコスロバキア政府せいふは、民族みんぞく独自どくじ教育きょういく容認ようにん信教しんきょう自由じゆう人口じんこう比例ひれいした議員ぎいんすうなど少数しょうすう民族みんぞくへの配慮はいりょ約束やくそくし、スイスのように民主みんしゅ主義しゅぎ構築こうちくいしずえになると約束やくそくしたが、人口じんこうの25%に相当そうとうするドイツけい、あるいはそれに匹敵ひってきするスロバキアけいマジャールけい議会ぎかい発言はつげんけんつことをふせぐために、選挙せんきょ区割くわりをチェコじん有利ゆうり変更へんこうし、500まんえるドイツけいやマジャールけいなどの民族みんぞくは、国会こっかいひとつの議席ぎせきてなかった。かれらの要求ようきゅうはチェコけいによってことごとく無視むしされた[173]。チェコスロバキアのサンジェルマン条約じょうやく不履行ふりこう結果けっかどう国内こくないかく民族みんぞく不満ふまんこうじた。とくにズデーテン地方ちほうのドイツけい憤懣ふんまんおおきかった[174]世界せかい同時どうじきょうはじまると、ドイツけい住民じゅうみんおお地域ちいきでは失業しつぎょうしゃばかりになったが、ドイツけい失業しつぎょうしゃへの手当てあては、チェコけいくらべてかなりすくないがくであった。1935ねんから36ねんにかけて成立せいりつした法律ほうりつで、チェコけい公務員こうむいんめることがおおくなり、ドイツけい住民じゅうみん地域ちいきにもチェコけい警官けいかん配置はいちされた。イギリス政府せいふは6ねんにわたってチェコスロバキア政府せいふ警告けいこくつづけ、1937ねんまつには、ドイツけい住民じゅうみんへの配慮はいりょ必要ひつようだ、そうでなければ物理ぶつりてき衝突しょうとつきるとつよ警告けいこくはっした。1938ねん5がつには、突然とつぜんチェコスロバキアがぐん動員どういんし、チェコじん警官けいかんがスデーテン地方ちほうで、誰何すいかこたえなかったドイツけい二人ふたりおとこ射殺しゃさつする事件じけん発生はっせいした[175]。1920ねんから1938ねんにかけて、少数しょうすうとなった民族みんぞく国際こくさい連盟れんめい請願せいがんかえした。そのうえ、1935ねん5がつにはチェコスロバキアはソビエト相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつしていた。

1937ねん12月、ヒトラーは時期じき特定とくていすることなく、チェコスロバキア侵攻しんこうみどり作戦さくせん準備じゅんびめいじ、1938ねん4がつ21にち国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうヴィルヘルム・カイテル作戦さくせん具体ぐたい指示しじし、1938ねん5がつ20日はつか、カイテルは計画けいかく提出ていしゅつした。ただし、チェコスロバキアがわからの挑発ちょうはつがないかぎり、軍事ぐんじ行動こうどうおこなわないこととされた。まさにその5月20にち、ドイツぐん動員どういんされ、チェコスロバキア国境こっきょう進軍しんぐんしたとして、チェコスロバキアぐん動員どういんされて戦闘せんとう態勢たいせいはいった。各国かっこく戦争せんそう危機きき大々的だいだいてき報道ほうどうされ、チェコスロバキアを挑発ちょうはつしたとして、ドイツ批判ひはんだい合唱がっしょうとなったが、実際じっさいには、ドイツの主張しゅちょうどおり、ドイツぐん動員どういん事実じじつはなく、たいどく強硬きょうこうのチェコスロバキア大統領だいとうりょうエドヴァルド・ベネシュ主導しゅどう捏造ねつぞうされたにせ情報じょうほうであったため、なにしょうじず、騒動そうどうわった。ところがドイツ国外こくがいでは、ヒトラーの軍事ぐんじてき威嚇いかくにチェコスロバキアが勇敢ゆうかんにもがったため、ヒトラーが「屈服くっぷく」したとられた。ベネシュ大統領だいとうりょうえいふつたいどく強硬きょうこう連携れんけいしており、イギリスたいどく強硬きょうこう中心ちゅうしん人物じんぶつであるチャーチルにせ情報じょうほうもとづくチェコスロバキアとドイツの関係かんけい悪化あっか激化げきかさせるために、はんどく論陣ろんじんった。ベネシュ大統領だいとうりょう挑発ちょうはつ面目めんぼくまるつぶれとなったヒトラーは、5月28にちぐん首脳しゅのうリッベントロップ外相がいしょうらにチェコスロバキア攻撃こうげき決意けついあきらかにし、5月30にちにチェコスロバキア侵攻しんこう計画けいかく決定けっていされ、期限きげんは1938ねん10がつ1にちとされた。ヘンダーソンえいちゅうどく大使たいしはのちに、にせ情報じょうほうもとづきチェコスロバキアの「5がつ21にち勝利しょうり」を喧伝けんでんした報道ほうどうが、ヒトラーに武力ぶりょく解決かいけつ決断けつだんさせるとともに、チェコスロバキアを致命ちめいてき過信かしんさせ、ズデーテン・ドイツじん要求ようきゅうれないように仕向しむけることになったときびしく批判ひはんしている。また、イギリスのたいどく強硬きょうこうジャーナリストのシーラ・ダフも、「これはベネシュによる意図いとてき挑発ちょうはつであり、それにたいかれはどれだけの犠牲ぎせいはらわねばならなくなったのか、わたしはすぐにることとなった」としるしている[176]

1938ねんはいると、西部せいぶズデーテン地方ちほうのドイツけい住民じゅうみんはドイツへの編入へんにゅうけて実力じつりょく行使こうした。1938ねん9がつ12にちから13にちには、ヒトラーはズデーテン地方ちほうのナチスとう指導しどうしゃコンラート・ヘンライン蜂起ほうきうながし、ドイツとの併合へいごう主張しゅちょうさせた。チェコスロバキア政府せいふ戒厳かいげんれい施行しこう対抗たいこうした。この状況じょうきょうをみたイギリス首相しゅしょうネヴィル・チェンバレンは9月15にち、ヒトラーと会談かいだんし、チェコスロバキア政府せいふとの事前じぜん交渉こうしょうなしで、ドイツけい住民じゅうみんが5わりえる地域ちいきのドイツ編入へんにゅう容認ようにんし、フランスにもそれを納得なっとくさせると約束やくそくした。9月22にち、チェンバレンはえいふつは9月15にち約束やくそく承認しょうにんしたとつたえたが、ヒトラーはハードルをげてズデーテン地方ちほう全域ぜんいき併合へいごう要求ようきゅうしたため、交渉こうしょう決裂けつれつした。チェコスロバキア、ドイツ、イギリス、フランスは臨戦りんせん態勢たいせいはいった。チェコスロバキアと同盟どうめい関係かんけいにあるソ連それんはすでに西部せいぶ国境こっきょう赤軍せきぐん終結しゅうけつさせていた。武力ぶりょく衝突しょうとつけられないとおもわれたが、チェンバレンえい首相しゅしょうとルーズベルトべい大統領だいとうりょう要請ようせいされたムッソリーニ首相しゅしょうが、えいふつどく首脳しゅのう一堂いちどうかいし、平和へいわてき問題もんだい解決かいけつすることを提案ていあんし、ヒットラーはれた。1938ねん9がつ29にち、ヒトラーはイギリス首相しゅしょうネヴィル・チェンバレン、フランス首相しゅしょうエドゥアール・ダラディエ、イタリア首相しゅしょうムッソリーニをまねいてミュンヘン会談かいだんおこない、チェコスロバキアの意志いしとは無関係むかんけいにズデーテン地方ちほうをドイツにゆずることが確定かくていした。イギリスとフランスからも屈服くっぷく要求ようきゅうされたチェコスロバキアはズデーテンをすしかなかった。ヒトラーは合意ごうい成立せいりつするとチェンバレンとにんきりで秘密ひみつ会談かいだんのぞみ、「ドイツ総統そうとう英国えいこく首相しゅしょうはミュンヘン協定きょうていえいどく海軍かいぐん協定きょうていこそが両国りょうこく二度にどたたかうことはないというあかしであるとみとめた」ということを明記めいきした、どくえい友好ゆうこうをうたう書面しょめん署名しょめいした[177][178]

イギリスの歴史れきし教育きょういくサイト[179]は、チェンバレンがたいどく宥和ゆうわ代名詞だいめいしとなったミュンヘン協定きょうていむすんだ背景はいけいつぎの6てんげている。

  1. えい国民こくみんはチェコスロバキアの領土りょうどをめぐって参戦さんせんすることに同意どういしなかっただろうこと
  2. ヒトラーの要求ようきゅうおおくが正当せいとうであるとおもわれていたこと
  3. チェンバレンは、ドイツがソビエト共産きょうさん主義しゅぎ防波堤ぼうはていになるためにはそれなりの強国きょうこくになる必要ひつようがあるとかんがえたこと
  4. 英国えいこく陸軍りくぐんたたか準備じゅんびができていなかったこと
  5. ヒトラーはドイツ経済けいざい成長せいちょうさせていただけに、おおくの人々ひとびとがヒトラーに意味いみ驚嘆きょうたんしていたこと(1938ねんのタイムはヒトラーを「Man of The Year」に選出せんしゅつしていた)
  6. チェンバレンはさき大戦たいせん悲惨ひさんさがみていたこと

当時とうじのヨーロッパ各国かっこく戦争せんそう回避かいひできたことを素直すなおよろこんだ。そのことは帰国きこくしたチェンバレンをロンドン市民しみん熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいしたことからもわかる。

1938ねん10がつ2にち、スデーテン地方ちほう併合へいごう混乱こんらんじょうじて、ポーランドはチェコスロバキアに侵攻しんこうし、チェシン併合へいごうした。チェコスロバキアに領土りょうど奪取だっしゅされたうらみがあったハンガリーも、ルテニア地方ちほうまちコシスげんスロバキア)をうばった。少数しょうすう民族みんぞく圧力あつりょく軽減けいげんするためチェコスロバキアは、スロバキア(スロバクけい)、カルパチア・ルテニア(マジァールけい・ウクライナけい)の自治じちみとめた。

自由じゆう都市としダンツィヒ国際こくさい連盟れんめい保護ほごかれ、実質じっしつてき経済けいざい運営うんえいはポーランドがになっていたが、人口じんこうの95%にあたる35まんのドイツけい住民じゅうみんはドイツへの帰属きぞくもとめる運動うんどう活発かっぱつさせていた。また、ドイツとダンツィヒを分断ぶんだんするポーランド回廊かいろうにもドイツへの復帰ふっきもとめる150まんのドイツけい住民じゅうみんがいた。ヒトラーは内政ないせいじょう、ダンツィヒとポーランド回廊かいろう問題もんだい放置ほうちすることはできなかった。ヒトラーはミュンヘン協定きょうてい交渉こうしょうズデーテン地方ちほう併合へいごうがドイツ最後さいご要求ようきゅうであると各国かっこく指導しどうしゃ説明せつめいしており、1934ねん1がつ期限きげん10ねんどく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつしていたポーランドとの領土りょうど回復かいふく交渉こうしょうは、こくあいだ円満えんまん合意ごういによって解決かいけつしたいとかんがえていた。

1938ねん10月24にち、ドイツの外相がいしょうヨアヒム・フォン・リッベントロップはポーランドちゅうどく大使たいしヨーゼフ・リプスキに「ダンツィヒのドイツ返還へんかん容認ようにんし、同市どうしへのアクセスルートとなる道路どうろおよび鉄道てつどうをポーランド回廊かいろうない施設しせつすることに同意どういしてほしい。そのわり、ダンツィヒの経済けいざいインフラストラクチャーおよび鉄道てつどう施設しせつについてはポーランドがこのまま管理かんり権限けんげんをもってもかまわない。現行げんこうのポーランド国境こっきょうについてはそれをみとめる。この問題もんだい解決かいけつでき次第しだいどく反共はんきょう同盟どうめいむすびたい」と提案ていあんした。ヒトラーもリッベントロップもこの提案ていあんをポーランドが容認ようにんするはずだとの自信じしんがあったが、ポーランドの外相がいしょうユゼフ・ベックはこの提案ていあん拒否きょひした[180]

1938ねん11月7にち、ポーランドからのがれてきたユダヤじん青年せいねんヘルシェル・グリュンシュパンがパリのドイツ大使館たいしかんおとずれ、さんとう書記官しょきかんエルンスト・フォム・ラート射殺しゃさつした。この事件じけんをきっかけにユダヤじんたいする略奪りゃくだつ暴行ぼうこうこった(水晶すいしょうよる)。11月13にち、ドイツ政府せいふはドイツ国内こくないのユダヤじんたい連帯れんたい責任せきにんとして10おくマルクの罰金ばっきんした。さらにすべてのユダヤじん生徒せいと高校こうこう大学だいがくから追放ついほうし、ユダヤじん特定とくてい職業しょくぎょうくことをきんじた。ユダヤじん映画えいがかん劇場げきじょう博物館はくぶつかん、コンサート、講演こうえんかいへのりが禁止きんしされ、運転うんてん免許めんきょ没収ぼっしゅうされた。ユダヤじん隔離かくり徹底てっていさせる命令めいれいた。アメリカ大統領だいとうりょうルーズベルトはドイツ政府せいふ措置そちきびしく批判ひはんし、ドイツ情勢じょうせいのききとりを理由りゆうちゅうどく大使たいしヒュー・ウィルソン召還しょうかんした。ドイツはこれに反発はんぱつしてディークホフ駐米ちゅうべい大使たいし召還しょうかんし、1938ねん4がつにドイツが合併がっぺいしたオーストリアの対外たいがい債務さいむ継承けいしょうこばんで以来いらいこじれていたべいどく関係かんけいはさらに悪化あっかした[181]

1938ねん12月6にちふつどく友好ゆうこう協定きょうてい調印ちょういんされ、フランスはヒトラーの東方とうほうへの拡張かくちょう計画けいかく同意どういする態度たいどをとった[182]

1939ねん1がつ5にち、ヒトラーはポーランドの外相がいしょうユゼフ・ベックベルヒテスガーデンまね直接ちょくせつ交渉こうしょうのぞんだ。ヒトラーの要求ようきゅうは、イギリスの歴史れきしベイジル・リデル=ハートおどろくほど穏健おんけんなものであったとくほどであったが、ベックはドイツの提案ていあんをすべて拒否きょひした。どく外相がいしょうリッベントロップとベックはこの案件あんけんについて、1がつ6にちベルリンで、1がつ25にちから27にちにかけてワルシャワはなったが、なん進捗しんちょくもなかった。3月になって、ヒトラーはベックとミュンヘンで会談かいだんし、ポーランドに格別かくべつ配慮はいりょせたが、ベックはヒトラーのしめした条件じょうけんをただちに拒否きょひした。こうしてヒトラーが期待きたいするダンツィヒ・ポーランド回廊かいろう問題もんだい外交がいこうてき処理しょり暗礁あんしょうげた[183][184]

1939ねん1がつ21にち、ヒトラーはチェコスロバキア外相がいしょうフランティシェク・フヴァルコフスキーをベルリンにび、チェコスロバキアはただちに国際こくさい連盟れんめい脱退だったいすること、その外交がいこうをナチス政権せいけん要求ようきゅう沿ったものにすること、陸軍りくぐん縮小しゅくしょうすることを要求ようきゅうした[185]

1939ねん2がつ、アメリカちゅうふつ大使たいしウィリアム・ブリットはポーランドのちゅうふつ大使たいしユリウシュ・ウカシェヴィチたいして、「たたかいがはじまればアメリカはすぐにでもえいふつがわって参戦さんせんする」とかたり、アメリカ大統領だいとうりょう決意けついつたえた。

1939ねん3がつになると、チェコスロバキアの少数しょうすう民族みんぞくうごきがはげしくなったため、3月7にち前年ぜんねん11がつ30にち就任しゅうにんした大統領だいとうりょうエミール・ハーハは、独立どくりつ主張しゅちょうするルテニア自治じち政府せいふ解散かいさんさせ、3がつ10日とおかおなじく独立どくりつ主張しゅちょうするスロバキア自治じち政府せいふ首相しゅしょうヨゼフ・ティソ解任かいにんし、スロバキアの首都しゅとブラチスラヴァ占領せんりょうした。ティソはウィーンに脱出だっしゅつし、3月13にちにヒトラーと会談かいだんした。よく14にち、スロバキアはチェコスロバキアからの独立どくりつ宣言せんげんし、ルテニアもカルパト・ウクライナとして独立どくりつ宣言せんげんした。ハンガリー王国おうこくはヒトラーの容認ようにんけてルテニアに侵攻しんこうした。ハーハはチェコけい多数たすうボヘミアモラヴィア安全あんぜん保障ほしょうかんがえなくてはならなくなった。3月15にち午前ごぜん1、ハーハ大統領だいとうりょうとヒトラーの交渉こうしょうがベルリンではじまり、午前ごぜん4、ハーハはチェコ民族みんぞくとその国家こっかをドイツの保護ほごゆだねる書面しょめん署名しょめいした。この、ヒトラーはプラハはいった[186]

ヒトラーの指示しじにより傀儡かいらい国家こっかスロバキア共和きょうわこく成立せいりつし、チェコはドイツの保護ほごりょうベーメン・メーレン保護ほごりょう」となった(チェコスロバキア併合へいごう)。この直後ちょくごの1939ねん3がつ23にちには、1923ねんリトアニアによって占領せんりょうされたメーメル返還へんかんさせることにも成功せいこうしている。

3月15にち、アメリカの大統領だいとうりょうルーズベルトはイギリスの外相がいしょうハリファックスたいして、イギリスがそのたいどく外交がいこう方針ほうしん変更へんこうしなければ、米国べいこく世論せろんはんえいかたむくとおどし、ドイツからえい大使たいし召還しょうかんすることまで要求ようきゅうした。えい首相しゅしょうチェンバレンはべい大統領だいとうりょうチャーチルらのたいどく強硬きょうこうから圧力あつりょくけて、それまでのたいどく宥和ゆうわ外交がいこうからたいどく強硬きょうこう外交がいこう変更へんこうし、3月31にち、ポーランドの独立どくりつ保障ほしょう宣言せんげんをした。フランスも追随ついずいした。一方いっぽうポーランドは、アメリカやイギリスから圧力あつりょくけてたいどく強硬きょうこう姿勢しせいった。その結果けっか、ヒトラーがダンツィヒ・ポーランド回廊かいろう問題もんだい外交がいこう交渉こうしょうによって解決かいけつするみちざされた[187]。4月13にちには、イギリスはフランスとともに、ギリシャとルーマニアにも軍事ぐんじ援助えんじょ約束やくそくした[188]

4がつ28にちいきどおったヒトラーはどくえい海軍かいぐん協定きょうていどく不可侵ふかしん条約じょうやく破棄はき発表はっぴょうした。しかし、ヒトラーはポーランドとの外交がいこう交渉こうしょうあきらめておらず、「ドイツとポーランドがあたらしい合意ごういいたるドアはまだひらいている。両国りょうこく対等たいとう立場たちばであることを前提ぜんていに、そのような合意ごういがなることを歓迎かんげいしたい」とうったえた。5月5にちえいふつ独立どくりつ保障ほしょうたポーランドのベックは議会ぎかい演説えんぜつで、ドイツとの交渉こうしょう拒絶きょぜつすると言明げんめいした。それでもドイツはあきらめず、ドイツメディアに反発はんぱつさせないようにさせた。「ドイツはえいふつ両国りょうこくがポーランドにたいして圧力あつりょくをかけ、交渉こうしょう再開さいかいさせるだろうとおもっている。ダンツィヒ帰属きぞく問題もんだいをめぐってヨーロッパが戦争せんそうする価値かちなどないことぐらいすぐにわかるだろう。それがドイツのかんがえである」とフランスちゅうどく大使たいし本省ほんしょう報告ほうこくした。しかしポーランドのたいどく交渉こうしょう拒否きょひ姿勢しせいわらなかった[189]

4がつ以降いこうえいふつ両国りょうこくソビエトさんこく軍事ぐんじ同盟どうめい締結ていけつのための交渉こうしょうつづけていた。えいふつさんこく同盟どうめい締結ていけつされれば、ドイツを牽制けんせいできることは確実かくじつだった。同盟どうめい政治せいじてき条件じょうけんについてのめは7がつまつわり、軍事ぐんじめんでの条件じょうけんめる作業さぎょうだけになっていた。8月11にちえいふつ代表だいひょうだんモスクワはいったが、交渉こうしょう一向いっこう進捗しんちょくせず、8がつ21にち期限きげん延期えんきとなった[190]えいふつ軍事ぐんじ使節しせつだん貨客船かきゃくせんで11日間にちかんかけてソ連それんりしたのちレニングラードからモスクワまで6にちかけて移動いどうしていた。しかも、使節しせつだんひきいたのは、えいふつりょうぐんなかでも地位ちいひく人物じんぶつで、ソ連それんがわ要求ようきゅうした政府せいふ高官こうかん派遣はけんえい政府せいふによって拒絶きょぜつされていた[191]

だい世界せかい大戦たいせん

[編集へんしゅう]
どく不可侵ふかしん条約じょうやく調印ちょういんするソ連それん外相がいしょうモロトフ後列こうれつみぎから2人ふたりはスターリン
フランス代表だいひょうとの降伏ごうぶく調印ちょういんしき出席しゅっせきしたヒトラー(1940ねん
ドイツを訪問ほうもんした日本にっぽん外相がいしょう松岡まつおか洋右ようすけともに(1941ねん

ヒトラーはなつごろまでに交渉こうしょう妥結だけつしなければポーランド軍事ぐんじ作戦さくせんおこなうこととし、3月31にち完成かんせいしたポーランド侵攻しんこう作戦さくせんしろ作戦さくせんドイツ: Fall Weiß)」の政治せいじ条項じょうこうみずか手書てがきでんでいるが、そのなかでも戦争せんそうをポーランドせんだけに局限きょくげんすることを目標もくひょうとしていた[192]。そのためにもえいふつ戦争せんそう参加さんかおもいとどまらせる方策ほうさく必要ひつようであり、またえいふつ戦争せんそうになった場合ばあい、ソビエトがえいふつがわって参戦さんせんする可能かのうせいかんがえられ、正面しょうめん作戦さくせんけるために、かねてからてき公言こうげんしていたソ連それんとの接触せっしょく水面すいめん開始かいしした。

5月3にち、ユダヤじんえいふつとの集団しゅうだん安全あんぜん保障ほしょう主張しゅちょうしていたソ連それん外相がいしょうマクシム・リトヴィノフ罷免ひめんされると、ヒトラーはスターリン本気ほんきでドイツとの関係かんけい改善かいぜん考慮こうりょしていることを理解りかいした。どくソの関係かんけい改善かいぜん交渉こうしょうは、最初さいしょ経済けいざい協力きょうりょくという名目めいもくすすめられ、8がつ19にちにはどくあいだ経済けいざい協力きょうりょく協定きょうてい締結ていけつされた。8月16にちえいふつ代表だいひょうとスターリンのモスクワでの交渉こうしょうあせりをつのらせていたどく外相がいしょうリッベントロップは「ドイツはソ連それん不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつし、もしソ連それん政府せいふ希望きぼうするなら、その期限きげんを25年間ねんかんとする用意よういがある。ドイツ外相がいしょうは8がつ18にち金曜きんよう以降いこう総統そうとうから委任いにんされた全権ぜんけんっていつでも空路くうろでモスクワに準備じゅんびができている」というメッセージをソ連それん首相しゅしょうけん外相がいしょうモロトフおくった。8がつ20日はつか、モロトフはちゅうどく大使たいしに、ソ連それんがわ作成さくせいした不可侵ふかしん条約じょうやく草案そうあん手渡てわたした。同日どうじつ午後ごご430ふんごろ、ヒトラーは不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつについてのソ連それんがわ提案ていあん了承りょうしょうするという電報でんぽうスターリンとどけた。8月23にち午後ごご4ぎ、どく外相がいしょうリッベントロップをせた飛行機ひこうきがモスクワに到着とうちゃくし、24にち午前ごぜん2ごろ、8がつ23にちづけどく不可侵ふかしん条約じょうやく調印ちょういんされ[191]世界せかいおどろかせた。この条約じょうやくには、バルト諸国しょこくはソビエトの勢力せいりょく範囲はんいであること、ポーランドをどくソで分割ぶんかつすること、ベッサラビア1918ねんにソビエトがうばわれた領土りょうどだとみとめ、ドイツは同地どうち利権りけん主張しゅちょうしないことという秘密ひみつ協定きょうていがあった[193]

開戦かいせん

[編集へんしゅう]

8がつ22にち、ヒトラーはベルヒテスガーデンの山荘さんそう国防こくぼうぐん将軍しょうぐんたちをあつめて、ポーランドと戦争せんそうする決意けついかたり、イギリスとフランスは戦争せんそう介入かいにゅうしてこないであろうという楽観らっかんてき見通みとおしをべた。開戦かいせん期日きじつはさしあたり8がつ26にちとされた[194]。8月24にち、ヒトラーはポーランド侵攻しんこうめいじたが、多方面たほうめんからの要請ようせい一旦いったん撤回てっかいした。8月25にち、ドイツ政府せいふちゅうどくイギリス大使たいしに、ドイツの要求ようきゅうは、ダンツィヒの回復かいふくとポーランド回廊かいろう問題もんだい解決かいけつ十分じゅうぶんであり、イギリスとのたたかいはのぞまないとつたえた。

8がつ29にち午後ごご715ふん、ドイツ政府せいふネヴィル・ヘンダーソンえいちゅうどく大使たいしに、イギリス政府せいふあらためてポーランド政府せいふ圧力あつりょくをかけたいどく直接ちょくせつ交渉こうしょうのぞむよう指導しどうしてほしいこと、ポーランド政府せいふからの特使とくしを8がつ30にちにベルリンにきたさせるようにしてほしいことがかれた覚書おぼえがきとどけた。ドイツがポーランドにもとめる最終さいしゅう条件じょうけんは、「ダンツィヒはドイツが併合へいごうする、ポーランド回廊かいろう地域ちいき住民じゅうみん投票とうひょうによりポーランドからの分離ぶんり是非ぜひめる、どう回廊かいろうへのアクセスはポーランドじんおよびドイツじんともにみとめる。また少数しょうすう民族みんぞく交換こうかんみとめる。この条件じょうけんをポーランドがみとめれば、ぐん動員どういん解除かいじょする」というものであった。ドイツは30にちにはポーランドがぜんぐん動員どういんをかけたことを確認かくにんした。30にちになってイギリスがポーランドに交渉こうしょうおうじさせたとつたえてきた。ドイツはポーランドにすぐに全権ぜんけん特使とくしおくるよう要請ようせいしたが、ポーランドは全権ぜんけん特使とくし派遣はけんしなかった。31にちユセフ・リプツキーちゅうどくポーランド大使たいしがリッベントロップをおとずれ、ポーランドはドイツの要求ようきゅう考慮こうりょしたいとつたえたが、全権ぜんけん委任いにんじょうっていなかった。ドイツは31にち午前ごぜんちゅうまでった[195]

8がつ31にち午後ごご、ヒトラーはぜんぐんにポーランド侵攻しんこうめいじた。どく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつ直後ちょくごの9がつ1にちソ連それんとの秘密ひみつ協定きょうていもとポーランド侵攻しんこう開始かいしした。どう9がつ3にちにはこれにたいしてイギリスとフランスがドイツへの宣戦せんせん布告ふこくおこない、これによってだい世界せかい大戦たいせん開始かいしされた。9月15にちノモンハン事件じけん停戦ていせん協定きょうてい成立せいりつさせたスターリンは、9月17にちにポーランド東部とうぶ侵攻しんこうした。イギリスとフランスは、ソビエトには宣戦せんせん布告ふこくしなかった。ドイツぐんどく不可侵ふかしん条約じょうやく秘密ひみつ付属ふぞく議定ぎていしょさだめられたヴィスワがわえて、首都しゅとワルシャワふくむワルシャワしゅう一部いちぶルブリンしゅう占領せんりょうしたため、リッベントロップが9月27にちにモスクワを訪問ほうもんし、9月28にちづけどく境界きょうかいならびに友好ゆうこう条約じょうやく秘密ひみつ付属ふぞく議定ぎていしょ調印ちょういんされた。10月ちゅうにポーランドはほぼ制圧せいあつされ、ヒトラーの視線しせん西にしかった。10月6にち、ヒトラーは国会こっかい演説えんぜつで、えいふつ両国りょうこく和平わへいけたが、10月12にちえい首相しゅしょうチェンバレンえい下院かいんで、ヒトラーの演説えんぜつにはチェコスロバキアとポーランドにくわえられた不正ふせいただなん示唆しさふくまれていないことを指摘してきし、ヒトラーの和平わへいもう拒絶きょぜつした[196]

1939ねん9がつから1940ねん4がつまでの6かげつあいだはドイツとえいふつとのあいだ本格ほんかくてき戦闘せんとうはほとんどおこなわれなかった。9月2にち、イギリスの内務ないむ大臣だいじんは「宣戦せんせん布告ふこくそく戦闘せんとう意味いみするわけではない」というかんがえをあきらかにしており、えいどくあいだには和平わへいのための密使みっしはげしく往来おうらいしていた。9月26にち、ヒトラーは「もしイギリスが本当ほんとう和平わへいねがっているのなら、かれらのメンツをつぶさずに、週間しゅうかん以内いない和平わへい達成たっせいすることができる。条件じょうけんはドイツがポーランドにおいて完全かんぜん自由じゆうることを、イギリスがみとめることだ」とかたったが、この条件じょうけんはチェンバレンがれることのできるものではなかった。えいどく高官こうかんたちはなにとか全面ぜんめん対決たいけつけようと秘密ひみつ交渉こうしょうつづけたが、すべて失敗しっぱいわった。5月10にちたいどく強硬きょうこうウィンストン・チャーチルがイギリス首相しゅしょうになって、えいどく全面ぜんめん対決たいけつはじまった[197]

1939ねん11月30にちソ連それんぐんがフィンランドに侵攻しんこうし、ソ連それん・フィンランド戦争せんそうはじまった。ソ連それん苦戦くせんし、死傷ししょうしゃ47まんにんした。1940ねん3がつ12にち和平わへい条約じょうやく締結ていけつされ、ソ連それんカレリア地峡ちきょうラドガ周辺しゅうへん獲得かくとくした。フィンランドの死傷ししょうしゃは17まんにんといわれる。ソ連それんぐん弱体じゃくたいぶりはヒトラーに多大ただい影響えいきょうあたえた[198]

1939ねん12月16にちアメリカからスカンジナビア諸国しょこく戦火せんかひろげよという圧力あつりょくけていたイギリスの戦時せんじ内閣ないかくは、スウェーデンさん鉄鉱てっこうせきノルウェーナルヴィクみなとからドイツに搬送はんそうされるのを阻止そしするために、ナルヴィク上陸じょうりく計画けいかく容認ようにんした。1940ねん2がつ5にち連合れんごうこく最高さいこう会議かいぎは、3師団しだんから4師団しだんをフィンランド方面ほうめん派遣はけんすることを決定けっていした。1940ねん4がつ8にち午前ごぜん4時半じはんから5に、イギリス海軍かいぐんはナルヴィク港西みなとにしかたフィヨルド機雷きらい設置せっちした[199]

1940ねん4がつ9にち、ヒトラーの命令めいれいけたドイツぐんきたヨーロッパのデンマークノルウェーへの侵攻しんこう開始かいしし、そののうちにデンマークを無血むけつ占領せんりょうし、ノルウェーはえいふつ連合れんごうぐん支援しえんけて抵抗ていこうしたが、6がつ10日とおか降伏ごうぶくした(北欧ほくおう侵攻しんこう[200]。5月10にちヒトラーはフェルゼンネスト(岩上いわかみドイツばんばれる前線ぜんせん指揮しきしょうつり、そこでベネルクスさんこくフランスへの侵攻しんこう指揮しきをとった。ヒトラーはこれ以降いこう大半たいはん各地かくち前線ぜんせん指揮しきしょごすことになるが、この指揮しきしょ総統そうとう大本営だいほんえいばれている。ヒトラーは作戦さくせん概要がいようだけではなく細部さいぶにもくちし、ダンケルクのたたかでは疲弊ひへいした連合れんごうぐん相手あいて空軍くうぐん十分じゅうぶんかんがえ、5月24にち戦車せんしゃ部隊ぶたいによる攻撃こうげき停止ていしさせた[201]。ヒトラーはこの、「6週間しゅうかん以内いない世界せかい平和へいわがやってきて、わたしはイギリスと紳士しんし協定きょうていむすんでいるであろう」とコメントしている[202]。この判断はんだんわざわいし、ダイナモ作戦さくせんによっておおくの連合れんごうぐん将兵しょうへい脱出だっしゅつゆるすこととなった。しかしフランス侵攻しんこう自体じたい順調じゅんちょうすすみ、6月6にちにはヒトラーも前線ぜんせんちかいベルギー南部なんぶヴォルフスシュルフト(おおかみたにドイツばんうつった。

このころイギリスに敗北はいぼくかんただよい、政権せいけん内部ないぶにすらヒトラーとの和平わへいもとめるこえがっていたが、えい首相しゅしょうチャーチルは和平わへい交渉こうしょう断固だんこ反対はんたい立場たちばとおした。6月4にち、チャーチルは下院かいんで「イギリスは断固だんこ最後さいごまでたたかつづける」とかたったのち、「新大陸しんたいりくがそのちからをもってきゅう大陸たいりく救出きゅうしゅつ解放かいほうしてくるまで」とアメリカの参戦さんせんのぞんだ[203]

6月14にちにドイツぐんパリ無血むけつ入城にゅうじょう、6月16にちにはフィリップ・ペタン首班しゅはんとするフランス政府せいふがドイツに降伏ごうぶくもうれた[204]講和こうわ条約じょうやく調印ちょういんは6がつ21にちからよく22にちにかけてコンピエーニュのもりおこなわれた。会場かいじょうにはだいいち世界せかい大戦たいせんでドイツが降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんした列車れっしゃ用意よういされ、初日しょにちにヒトラーは車内しゃないみフランス代表だいひょうとの交渉こうしょうに40ふんだけ[205]、そのパリ市内しない視察しさつおこなった。

7がつ19にち、ヒトラーはイギリスに最後さいご和平わへい提案ていあんおこなったが、イギリスはただちに拒否きょひし、ヒトラーはおおいに失望しつぼうした。ドイツ海軍かいぐんは、ノルウェー作戦さくせん巡洋艦じゅんようかん3、駆逐くちくかん10をしずめられ、めぐよう戦艦せんかん2、駆逐くちくかん8が大破たいはさせられ、のこされた戦力せんりょくは、じゅう巡洋艦じゅんようかん2、けい巡洋艦じゅんようかん2、駆逐くちくかん4となり、ドーバー海峡かいきょう突破とっぱしてイギリス本土ほんど上陸じょうりく作戦さくせん実施じっしするのは不可能ふかのうとなったため[206]、そのたいえいせんではヒトラーは空軍くうぐんによって制空権せいくうけん獲得かくとくしたのちにイギリス上陸じょうりくかんがえていた(アシカ作戦さくせん)。しかしバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍くうぐん撃退げきたいされ、イギリスの抗戦こうせん意思いしはゆるがなかった。7月30にち、ヒトラーは「ヨーロッパ大陸たいりく最後さいご戦争せんそう」であるたいせん開始かいしぐん首脳しゅのうたちげ、「ソ連それん粉砕ふんさいされれば、英国えいこく最後さいごのぞみも打破だはされる」[207]としてたいせん準備じゅんびめいじた。

一方いっぽうで8がつ30にちだいウィーン裁定さいていとそのクラヨーヴァ条約じょうやくでハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土りょうど問題もんだい調停ちょうていし、9月27にちには1937ねん締結ていけつされていたにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい強化きょうか画策かくさくしていた日本にっぽんとイタリアとの3こくあいだで「にちどくさんこく条約じょうやく」をむすぶなどしんドイツ諸国しょこく関係かんけい強化きょうかし、枢軸すうじくこく形成けいせいしつつあった。しかし10がつ22にちおこなわれたスペイン独裁どくさいしゃフランシスコ・フランコとの会談かいだん不調ふちょうわり、味方みかたむことはできなかった[208]

1940ねん8がつワシントンからの極秘ごくひ電報でんぽうで、アメリカからイギリスへの駆逐くちくかん50せき提供ていきょうけん進行しんこうちゅうつたえられ、ヒトラーは1940ねんのうちはアメリカはおとなしくしているであろうという、アメリカのうごきに楽観らっかんてき見解けんかいっていたが、アメリカのイギリス支援しえん予想よそうよりもはるかに迅速じんそくかつ効果こうかてきかたち本格ほんかくするであろうと確信かくしんした。これに対抗たいこうする手段しゅだんは、日本にっぽんをドイツの同盟どうめいこくとして獲得かくとくして、ひがしアジアと太平洋たいへいようでのアメリカにたいする強力きょうりょくおもしとして活用かつようすることしかないと、ヒトラーは判断はんだんした[209]。9月9にち10日とおかどく特使とくしハインリッヒ・シュターマー東京とうきょう外相がいしょう松岡まつおか洋右ようすけ会談かいだんし、まずにちどくさんこくあいだ同盟どうめい条約じょうやく成立せいりつさせてそのただちにソ連それん接近せっきんするのがい、にちソの親善しんぜんはドイツが仲介ちゅうかいにはいる以上いじょうたいした困難こんなんなく実現じつげんできる、どく関係かんけい良好りょうこうであるということをべ、これはリッベントロップ外相がいしょう言葉ことばってつかえないと保証ほしょうした。7月19にち荻窪おぎくぼ会談かいだん以来いらいだい近衛このえないかくどくとの提携ていけい強化きょうかにち国交こっこう飛躍ひやくてき改善かいぜんつよのぞんでいたため、9月27にち、ベルリンでにちどくさんこく同盟どうめい調印ちょういんされた[210]

どく関係かんけいは1940ねん6がつ以降いこう目立めだって悪化あっかしつつあった。ソ連それんは1940ねん6がつバルトさんこく占領せんりょうし、同年どうねん7がつには併合へいごうした。また同年どうねん6がつルーマニアベッサラビアきたブコヴィナ占領せんりょうした。ソ連それんバルト海ばるとかいバルカン半島ばるかんはんとう進出しんしゅつしたことはヒトラーを苛立いらだたせた。とくにブコヴィナはきゅうオーストリア帝国ていこくりょうであったため、多数たすうのドイツじん居住きょじゅうしており、ソ連それん要求ようきゅう承認しょうにんすることはできないと回答かいとうしたが、ソ連それんが、北部ほくぶかぎると通告つうこくしてきたので、ドイツはやむなく承認しょうにんしたのであった。一方いっぽう、ドイツが戦争せんそう遂行すいこうするためには、ルーマニアの石油せきゆ必要ひつようであった。ソ連それんがルーマニアから領土りょうどうばうと、ブルガリアもルーマニアのドブルジャ地方ちほう要求ようきゅうし、ハンガリートランシルヴァニア要求ようきゅうしたため、同年どうねん8がつ30にち、ヒトラーはソ連それんなん相談そうだんもなしにウィーン裁定さいていおこなった。しかも、ソ連それんみなみブコヴィナについてわせていたのに、ドイツは回答かいとうせず、ヒトラーは10月12にち、ドイツぐんをルーマニアの首都しゅとブカレスト進駐しんちゅうさせ、ルーマニアをドイツの軍事ぐんじてき支配しはいいた。また、ドイツは9月2にちソ連それんにまったく相談そうだんせずに、ドイツの軍隊ぐんたいフィンランド国内こくないみなみからきた通過つうかしてノルウェーキルケネスかうことを、フィンランドに承認しょうにんさせた。どく不可侵ふかしん条約じょうやく秘密ひみつ付属ふぞく議定ぎていしょでフィンランドはソ連それん勢力せいりょく範囲はんいはいることが明記めいきされており、ソ連それんはドイツの処置しょちおおきな不満ふまんいた[211]

どく関係かんけい打開だかいするために、1940ねん11月12にちと13にち、ヒトラーはソ連それん首相しゅしょうけん外相がいしょうモロトフとベルリンで会談かいだんおこなった。フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、ブコヴィナとベッサラビア、ダーダネルスボスポラスりょう海峡かいきょうをめぐり、両者りょうしゃ真正面ましょうめんから対立たいりつした。とくにフィンランドとルーマニアをめぐる対立たいりつ深刻しんこくであった。またヒトラーは、にちどく四国しこくだいえい帝国ていこく遺産いさん分割ぶんかつすることにけるべきだとべたが、モロトフはそんなゆめのようなはなしより、ソ連それんにとって切実せつじつなのはフィンランドとバルカンであるとかえした。11月13にちだい2かい会談かいだんでは、モロトフはヒトラーの言葉ことば逐一ちくいち反論はんろんし、ヒトラーをおこらせた。会談かいだんどく外相がいしょうリッペントロップがにちどく四国しこく協定きょうていについての自分じぶん草案そうあん提示ていじすると、モロトフはモスクワにかえってスターリンに相談そうだんしてから回答かいとうすると約束やくそくして、イギリス空軍くうぐんばくげきおびやかされていたベルリンをあとにした[212]

1940ねん11月25にちスターリンはモロトフの約束やくそくどおり、ヒトラーへ回答かいとうした。その内容ないようは、ソ連それん政府せいふはドイツ外相がいしょうしめしたにちどく四国しこく協商きょうしょうに、つぎの4つの条件じょうけんつきで加盟かめいする準備じゅんびがあるというものであった。

  1. ドイツぐんは、1939ねんどく不可侵ふかしん条約じょうやくのとおりに、ソ連それん勢力せいりょくけんぞくするフィンランドから即刻そっこく撤退てったいせよ。ただし、フィンランドからドイツへの、木材もくざいニッケル供給きょうきゅうは、ソ連それん保障ほしょうする。
  2. ソ連それんは、すうげつ以内いないブルガリア相互そうご援助えんじょ条約じょうやくむすび、また、ダーダネルス・ボスポラスりょう海峡かいきょう地方ちほうに、ソ連それん陸海りくかいぐん基地きちもうける。このことをドイツは了承りょうしょうしてほしい。
  3. ソ連それん領土りょうどてき希望きぼう中心ちゅうしんは、バツームおよびバクーみなみからほぼペルシャ湾ぺるしゃわんいた地域ちいきそんすることを了承りょうしょうしてほしい。
  4. 日本にっぽんは、きた樺太からふとにおける石油せきゆ石炭せきたん採掘さいくつけん放棄ほうきすること。

ヒトラーはこの4条件じょうけん法外ほうがい要求ようきゅうであると断定だんていして、どく開戦かいせん決意けついし、12月18にちバルバロッサ作戦さくせん指令しれいはっした。開戦かいせん予定よてい1941ねん5月15にちであった。スターリンは1941ねん2がつまつまでヒトラーのさい回答かいとう要求ようきゅうしつづけたが、同年どうねん3がつ2にち、ドイツぐんソ連それんねらっていたブルガリアに進駐しんちゅうした。同年どうねん3がつ27にち、3月25にちにちどくさんこく同盟どうめい加盟かめいしたばかりのユーゴスラビアはんどくクーデターがこり、4がつ6にちベオグラードしん政府せいふソ連それん不可侵ふかしん条約じょうやくむすび、どく関係かんけい一層いっそう悪化あっかした[213]

1941ねん3月5にち、ヒトラーは「さんこく同盟どうめいをベースにした提携ていけいで、日本にっぽん可能かのうかぎはや極東きょくとうでのたたかいに参戦さんせんさせなければならない。そうなれば英軍えいぐん相当そうとう部分ぶぶん極東きょくとうにくぎけになる。アメリカの関心かんしん太平洋たいへいよう方面ほうめんうつるだろう。今次こんじたたかいのだい方針ほうしんは、イギリスを早急そうきゅう敗北はいぼくみちびくこと、そして同時どうじにアメリカを参戦さんせんさせないことである」という秘密ひみつ指令しれいはっした。同年どうねん3がつ27にち、ヒトラーは外相がいしょう松岡まつおかとベルリンで会談かいだんし、日本にっぽんたいえい戦争せんそう早期そうき参戦さんせん要請ようせいしたが、松岡まつおかはコミットメントしなかった[214]

1941ねん4がつ6にちはんどくクーデター鎮圧ちんあつのためにユーゴスラビア侵攻しんこうおこなうとともに、ギリシアを占領せんりょうしてバルカン半島ばるかんはんとう制圧せいあつし、きたアフリカ戦線せんせんではイギリスぐんまえ敗退はいたいつづけていたイタリアぐんを援けて攻勢こうせいてんじた。

どくせん

[編集へんしゅう]
建造けんぞうちゅうのヴォルフスシャンツェで撮影さつえいされたヒトラーとその幕僚ばくりょうたち(1940ねん6がつ

同年どうねん6がつ22にちバルバロッサ作戦さくせん発動はつどうし、ドイツぐんソ連それん侵攻しんこう開始かいしした。ヒトラーは「作戦さくせんは5かげつあいだ終了しゅうりょうする」[207]や「まず10週間しゅうかん[215]と、先行さきゆきについてはきわめて楽観らっかんしていた。6月22にちひがしプロイセンかれた総統そうとう大本営だいほんえいヴォルフスシャンツェ」にうつり、1944ねん11月20にちまでの大半たいはんをここでごすことになった。ヴォルフスシャンツェは防空ぼうくう観点かんてんからもりなかかれたためにひるでも薄暗うすぐらく、その影響えいきょう不眠症ふみんしょうとなったヒトラーは、深夜しんやまで秘書ひしょ側近そっきん相手あいてにして一方いっぽうてきかたるようになった[216]。また8がつにはむねいたみをうったえるようになり、冠状かんじょう動脈どうみゃく硬化こうかしょう発症はっしょうしたことをった主治医しゅじいテオドール・モレルは、ヒトラーにも秘密ひみつ心臓しんぞうびょうやく投与とうよはじめた[217]

緒戦しょせん順調じゅんちょうすすみ、完全かんぜん奇襲きしゅうけて動揺どうようした赤軍せきぐん各地かくち撃破げきはした。しかし7がつにはヒトラーとぐん首脳しゅのうあいだ意見いけん相違そういまれた。ぐん首脳しゅのうモスクワ攻略こうりゃく主張しゅちょうしたが、ヒトラーはウクライナドネツ工業こうぎょう地帯ちたいレニングラード攻略こうりゃく優先ゆうせんさせるよう命令めいれい[218]、モスクワ方面ほうめんへの攻撃こうげき停止ていしさせた。ところが8がつまつにはわり、再度さいどモスクワ進撃しんげき命令めいれいした。ドイツぐん進撃しんげき再開さいかいしたが、10月にははやくもふゆ到来とうらいし、降雪こうせつラスプティツァ泥濘でいねい)が進撃しんげき速度そくど補給ほきゅう低下ていかさせた。そこに体勢たいせいなおした赤軍せきぐん反攻はんこう開始かいしされ、現場げんば指揮しきかんたちあいだ一時いちじ後退こうたいろんたかまった。ヒトラーは12月19にち陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥げんすいなど複数ふくすう将官しょうかん更迭こうてつしたうえみずからが陸軍りくぐんそう司令しれいかん兼任けんにんし、東部とうぶ戦線せんせんのドイツぐん後退こうたい厳禁げんきんした。このことで戦線せんせん全面ぜんめん崩壊ほうかいまぬかれた。

たいせんにおけるドイツぐん最初さいしょ後退こうたいおこなわれた直後ちょくごの12月11にちに、どう7にちおこなわれた日本にっぽん海軍かいぐんによるイギリスりょうマレまれ半島はんとうへの侵攻しんこうマレー作戦さくせん)と、それにつづいておこなわれたアメリカのじゅんしゅうであるハワイ真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきけて、これまで直接ちょくせつ対峙たいじすることのなかったアメリカへの宣戦せんせん布告ふこく[219]。これにたいしヒトラーは「けたことのない日本にっぽんぐん参戦さんせんおおきなちからあたえてくれる」とよろこんだといわれる。

1942ねん中盤ちゅうばん日本にっぽんぐんがイギリスぐんインド洋いんどようから放逐ほうちくしたことをけて、同地どうちにおける通商つうしょう破壊はかいせんおこなうことを目的もくてきUボート封鎖ふうさ突破とっぱせん派遣はけんし、日本にっぽんぐん占領せんりょうペナン海軍かいぐん基地きち拠点きょてんにして日本にっぽん海軍かいぐん共同きょうどう作戦さくせんおこなったほか、ヒトラーみずからの指示しじでUボートを日本にっぽん海軍かいぐん提供ていきょうした。また日本にっぽん海軍かいぐんもドイツぐんからの依頼いらいけて潜水せんすいかん特殊とくしゅ潜航せんこうていをヴィシー政権せいけんぐんとイギリスぐんたたかっていたアフリカ南部なんぶマダガスカルとうおくり、イギリス海軍かいぐん艦艇かんてい攻撃こうげき撃沈げきちんするなど被害ひがいあたえた(マダガスカルのたたか)ほか、どく潜水せんすいかん作戦さくせんおこなうなど、いくつかの共同きょうどう作戦さくせん展開てんかいした。

なお、これらの共同きょうどう作戦さくせんのうちいくつかにはイタリアぐん参加さんかし、ドイツの降伏ごうぶくいたるまでつづけられることとなるものの、戦域せんいきおおきくはなれていたこともあり、両国りょうこく戦況せんきょう好転こうてんおおきく貢献こうけんすることはなかった。

守勢しゅせい転換てんかん

[編集へんしゅう]
作戦さくせん指揮しきおこなうヒトラー(1942ねん

同年どうねんには東部とうぶ戦線せんせんでの春季しゅんき攻勢こうせい計画けいかくされ、参謀さんぼう本部ほんぶは「ジークフリート計画けいかく」を提出ていしゅつした。しかしヒトラーはこの計画けいかく修正しゅうせいし、しゅ作戦さくせんたる部分ぶぶんみずか[220]ヴォロネジスターリングラード攻略こうりゃく主眼しゅがんとするブラウ作戦さくせん命令めいれいした。4月26にちにはドイツにおける最後さいご国会こっかい開会かいかいされ、ヒトラーには既存きそん権利けんりほうによらず処罰しょばつ解任かいにんおこな権利けんりがあることを承認しょうにんする決議けつぎドイツばん採択さいたくされた[221]

ブラウ作戦さくせん当初とうしょ順調じゅんちょうすすんだものの、スターリングラード攻略こうりゃく失敗しっぱい、ドイツぐん守勢しゅせい転換てんかんせざるをなくなったうえだい6ぐん包囲ほういされる事態じたいとなった(スターリングラード攻防こうぼうせん)。ヒトラーは撤退てったい降伏ごうぶくゆるさず、「ドイツ陸軍りくぐん史上しじょう降伏ごうぶくした元帥げんすいはいない」という理由りゆうだい6ぐん司令しれいかん大将たいしょうフリードリヒ・パウルス元帥げんすい昇格しょうかくさせ、あん自決じけつもとめた[222]。しかしパウルスは1943ねん1がつ31にち降伏ごうぶくし、ヒトラーを激怒げきどさせた。またきたアフリカ戦線せんせんにおいてはエル・アラメインのたたかトーチ作戦さくせんなどでの敗北はいぼくにより、枢軸すうじくこく勢力せいりょく一掃いっそうされた。戦局せんきょく退勢たいせいあきらかになったことで、国内こくないにおけるヒトラー崇拝すうはいにもかげりがはじめた[223]

救出きゅうしゅつされたムッソリーニとオットー・スコルツェニー(1943ねん9がつ

1943ねんにはクルスク突出とっしゅつしたソ連それんぐん包囲ほういする「ツィタデレ作戦さくせん」が計画けいかくされたが、ヒトラーはこの計画けいかくなん延期えんきさせ、攻勢こうせい開始かいしは7がつまでずれんだ。7月5にちから開始かいしされたこの攻撃こうげきクルスクのたたか)は激戦げきせんとなったが、7がつ13にち作戦さくせん中止ちゅうし命令めいれいした。7がつ10日とおかシチリアとう連合れんごうぐん上陸じょうりくハスキー作戦さくせん)したことで、イタリアの政治せいじ情勢じょうせい不安定ふあんていとなったという報告ほうこくけており、ヒトラーはその情勢じょうせいられていた。また赤軍せきぐんあたえた損害そんがい過大かだい評価ひょうかしていたことや、開発かいはつちゅう弾道だんどうミサイルV2ロケット)や電動でんどうUボート(UボートXXIがた)などの新兵しんぺいによって、翌年よくねんにはドイツぐん圧倒的あっとうてき優位ゆういたもたれるとかんがえていた[224]

7がつ25にちにムッソリーニが失脚しっきゃく、その9がつ8にちバドリオ政権せいけん休戦きゅうせん発表はっぴょうし(イタリアの降伏ごうぶく)、連合れんごうこくぐんはイタリア本土ほんど上陸じょうりくした。しかし9がつ12にちオットー・スコルツェニーひきいる特殊とくしゅ部隊ぶたいによりムッソリーニを救出きゅうしゅつし(グラン・サッソ襲撃しゅうげき)、ドイツが支配しはいいたきたイタリアに、ムッソリーニを首班しゅはんとするイタリア社会しゃかい共和きょうわこく成立せいりつさせた。こうして南部なんぶ連合れんごうぐん北部ほくぶ枢軸すうじくぐんによるイタリア戦線せんせん形成けいせいされた。

連合れんごうぐんによるドイツへの戦略せんりゃく爆撃ばくげきドイツ本土ほんど空襲くうしゅう)がはげしくなると、ヒトラーはドイツ上空じょうくうからばくげきったことが確認かくにんされるまでねむろうとしなかった。スターリングラードの敗戦はいせん以後いごきな音楽おんがくくこともめ、側近そっきんおなじようなはなし連日れんじつ連夜れんやかたるようになった[225]。このころには日本にっぽんぐん完全かんぜん守勢しゅせいまわるようになったこともあってヒトラーの不眠症ふみんしょうはげしくなり、健康けんこう状態じょうたいはますます悪化あっかした。

暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん

[編集へんしゅう]
暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん現場げんばをムッソリーニとおとずれたヒトラー(1944ねん7がつ

1944ねん6がつ西部せいぶノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうし、東部とうぶでは赤軍せきぐんだい攻勢こうせいバグラチオン作戦さくせん)により中央ちゅうおうぐん集団しゅうだん壊滅かいめつだい戦線せんせん確立かくりつし、ドイツははさちにされる格好かっこうとなった。

7がつ20日はつか陸軍りくぐん大佐たいさクラウス・フォン・シュタウフェンベルク仕掛しかけたばくだんによる暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんこり、すうにん側近そっきん死亡しぼうまいりせきしゃ全員ぜんいん負傷ふしょうしたが、ヒトラーは奇跡きせきてき軽傷けいしょうんだ。事件じけん直後ちょくご暗殺あんさつ計画けいかく関係かんけいしゃ追及ついきゅうおこない、処罰しょばつおこなった人数にんずうは、死刑しけいとなった海軍かいぐん大将たいしょうヴィルヘルム・カナリス国防こくぼうぐん情報じょうほう部長ぶちょう)、元帥げんすいエルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン上級じょうきゅう大将たいしょうフリードリヒ・フロムをはじめ4,000めいおよんだ。また、かつては英雄えいゆうされた元帥げんすいエルヴィン・ロンメルも、かかわりをうたがわれて自殺じさつ強要きょうようされた。ヒトラーが奇跡きせきてきまぬかれたことは、かれ特別とくべつ能力のうりょくっている証拠しょうこであるとされ、国民こくみんのヒトラーにたいする忠誠ちゅうせいしんもややなおした[223]。しかし、爆発ばくはつのショックで極度きょくど人間にんげん不信ふしんおちいったとわれており、心身しんしんども健康けんこう状態じょうたいさら悪化あっかしていった。

ドイツぐん必死ひっし抵抗ていこうつづけるも、連合れんごうぐん着実ちゃくじつきたフランスのかく都市とし解放かいほうし、8がつにはついパリせまった。このさいにヒトラーは「パリはえているか?」と部下ぶかなん質問しつもんし、どんな手段しゅだん使つかってもパリを廃墟はいきょにするようめいじたが、守備しゅびたい司令しれいかんディートリヒ・フォン・コルティッツ大将たいしょうしたがわずにわたし、パリは4ねんぶりに解放かいほうされた[226]

その、ヴィシー政権せいけん東欧とうおう同盟どうめいこく次々つぎつぎ脱落だつらくし、ドイツぐん完全かんぜん敗勢はいせいおちいった。とくプロイエシュティ油田ゆでんかかえるルーマニア脱落だつらくはドイツの石油せきゆ供給きょうきゅう逼迫ひっぱくさせた。労働ろうどうりょく不足ふそくおちいり、国内こくない秘密ひみつ工場こうじょうはたらかせるために、東方とうほう収容しゅうようしょやハンガリーのユダヤじん移送いそうされ、おおくの犠牲ぎせいしゃた。

あきわりに西部せいぶ戦線せんせん連合れんごうぐんラインがわ西岸せいがんせまると、ヒトラーはおおきなけにることを決断けつだんし、アルデンヌからアントワープまでドイツぐん突進とっしんさせ、連合れんごうぐん補給ほきゅう作戦さくせんみずか立案りつあんした。べい英軍えいぐんおおきな打撃だげきあたえれば、戦争せんそう休戦きゅうせんとドイツぐんたいする援助えんじょおこない、どくえいべいたいソ連それんの「東西とうざい戦争せんそう」が発生はっせいすると確信かくしんしていた[227]。ヒトラーは作戦さくせん準備じゅんび声帯せいたいポリープ手術しゅじゅつのため、11月20にちにヴォルフスシャンツェからベルリンの総統そうとう官邸かんていうつった。

12月16にち開始かいしされるドイツぐん反攻はんこう作戦さくせん「ラインのまもり」のため、ヒトラーは12月11にちにフランス国境こっきょうちかくに設置せっちされたアドラーホルスト総統そうとう指揮しきしょドイツばんうつった。作戦さくせん当初とうしょ成功せいこうし、連合れんごう国軍こくぐん一時いちじてきおおきくもどした。しかし、天候てんこう回復かいふくすると空軍くうぐん支援しえんけた連合れんごうぐん圧倒あっとうされ、戦線せんせん一時いちじてきおおきな突出とっしゅつつくるにとどまった。こうしてヒトラーの無謀むぼうけは、ドイツぐん最後さいご予備よび兵力へいりょく資材しざいをいたずらに損耗そんこうする結果けっかとなった(バルジのたたか)。

敗戦はいせん

[編集へんしゅう]
アルデンヌ攻勢こうせいたたかうドイツへい

1945ねん1がつから赤軍せきぐんヴィスワ=オーデル攻勢こうせい開始かいしした。これをけてヒトラーは、1がつ15にちにベルリンの総統そうとう官邸かんていもどったが有効ゆうこうてず、2がつにはドイツぐんオーデルがわのほとりまでまれた。同月どうげつにドイツぐん作戦さくせん開始かいし地点ちてんよりひがしまでもどしたべい英軍えいぐんは、3月にラインがわ突破とっぱした(レマーゲン鉄橋てっきょう)。またハンガリー戦線せんせん危機ききてきになり、領内りょうない油田ゆでん失陥しっかん可能かのうせいたかまった。3月15にちよりブダペスト奪還だっかん油田ゆでん安全あんぜん確保かくほのため「はる目覚めざ作戦さくせん」をおこなうが、またしても無謀むぼう命令めいれい連発れんぱつしたために失敗しっぱいし、ただでさえ消耗しょうもうしきった戦力せんりょくさら減退げんたいした。ヒトラーは1がつから総統そうとう地下ちかごう生活せいかつするようになり、3がつごろからラジオ演説えんぜつめ、ほとんどにわることもなくなった。視力しりょく脚力きゃくりょくおとろえ、ささしに30以上いじょうあるくことも困難こんなんになった[228]。このころになると利害りがいことなるかく官庁かんちょうからの意見いけん調整ちょうせいもままならず、3週間しゅうかんあいだまった方針ほうしんことなる総統そうとう命令めいれい有様ありさまであった[139]

3月19にち、ヒトラーは連合れんごうぐん利用りようされうるドイツ国内こくない生産せいさん施設しせつすべ破壊はかいするようめいずる「ネロ指令しれい」をはっしたが、戦後せんご国民こくみん生活せいかつさわると軍需ぐんじゅ大臣だいじんアルベルト・シュペーア反対はんたいされた。しかしヒトラーは「戦争せんそうければ国民こくみんもおしまいだ。(中略ちゅうりゃく)なぜなら国民こくみん弱者じゃくしゃであることが証明しょうめいされ、未来みらいはより強力きょうりょく東方とうほう国家こっかソ連それん)にぞくするからだ。いずれにしろ優秀ゆうしゅう人間にんげんはすでにんでしまったから、この戦争せんそうのちのこるのはおとった人間にんげんだけだろう。」とべ、国民こくみんかえりみることはなかった[229]結局けっきょくシュペーアはこの命令めいれい無視むしし、焦土しょうど作戦さくせんはほとんど実行じっこうされなかった。

4がつ16にち東部とうぶ最後さいご防衛ぼうえいせん突破とっぱした赤軍せきぐんはベルリンにかった(ベルリンのたたか)。側近そっきん高官こうかんはヒトラーに避難ひなんすすめたが、かれ拒絶きょぜつした。4がつ20日はつか、56さい誕生たんじょういわうために、ぐんとナチとう高官こうかん総統そうとう官邸かんていあつまった。この開催かいさいされた軍事ぐんじ会議かいぎで、連合れんごうぐんによってドイツが南北なんぼく分断ぶんだんされた場合ばあいそなえ、北部ほくぶ海軍かいぐん元帥げんすいカール・デーニッツ指揮しきすることになったが、南部なんぶ指揮しきけん明示めいじされなかった[ちゅう 8]。また、各種かくしゅ政府せいふ機関きかん即時そくじベルリンを退去たいきょすることがまり、ゲーリングら主要しゅよう幹部かんぶっていった。このころになると親衛隊しんえいたいすら信用しんようできなくなり、「全員ぜんいんわたしをあざむいた。だれわたし真実しんじつはなさなかった」とうほどであった[230][ちゅう 9]

部隊ぶたい視察しさつするヒトラーとゲーリング(1945ねん4がつ

赤軍せきぐんはベルリン市内しない砲撃ほうげきくわえ、じりじりとせまってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前もんぜんだい打撃だげきあたえ、戦局せんきょく劇的げきてきわるとつづけていた。しかし4がつ22にち作戦さくせん会議かいぎで、ヒトラーはついに「戦争せんそうけだ」とかたり、ベルリンでぬと宣言せんげんした[231]。しかしその態度たいど変化へんかさせ、ふたた指揮しきはじめた。しかしこれをけて4がつ23にちには、総統そうとう地下ちかごう脱出だっしゅつしたカール・コラー空軍くうぐん参謀さんぼう総長そうちょうが、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい作戦さくせん部長ぶちょうアルフレート・ヨードル上級じょうきゅう大将たいしょう伝言でんごんたずさえゲーリングのもとおとずれる。ヨードルの伝言でんごんは「総統そうとう自決じけつする意志いしかため、連合れんごうぐんとの交渉こうしょうはゲーリングが適任てきにんだとった」という内容ないようだった。ゲーリングは不仲ふなかであったボルマンの工作こうさくうたがい、総統そうとう地下ちかごうに1941ねん総統そうとう布告ふこくもとづく権限けんげん委譲いじょう確認かくにんもとめた電報でんぽうおくる。電報でんぽうったボルマンは、「ゲーリングに反逆はんぎゃく意図いとがある」とヒトラーにげた。これに激怒げきどしたヒトラーは、ゲーリングの逮捕たいほぜん官職かんしょくからの解任かいにん、そして別荘べっそうへの監禁かんきんめいじた。しかしシュペーアによると、この2あいだにヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉こうしょうをさせよう」とつぶやいたという。早期そうき降伏ごうぶくかんがえていたシュペーアは、ゲーリングが降伏ごうぶく責任せきにんしゃとなれば交渉こうしょう時間じかんかせぎをするとかんがえ、飛行機ひこうきって連合れんごうぐん交渉こうしょうしようとしたさいそなえて撃墜げきつい命令めいれいしていた[232]

ヒトラーのつたえる『星条旗せいじょうき新聞しんぶん号外ごうがい

4がつ23にち赤軍せきぐんがベルリン市内しない突入とつにゅうした(ベルリン市街しがいせん)。4月29にち親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃヒムラーが独断どくだんえいべいたい降伏ごうぶくもうたことがBBC放送ほうそうされ、ヒトラーは激怒げきどし、かれぜん官職かんしょくから解任かいにんするとともに、その逮捕たいほ命令めいれいされたが、もはやその執行しっこうすらできない状態じょうたいであった。

ヒムラーの裏切うらぎりに最後さいご打撃だげきけ、終末しゅうまつちかづいたことをさとったヒトラーは、個人こじんてき政治せいじてき遺書いしょ口述こうじゅつおこなった。後者こうしゃなか戦争せんそうはユダヤじん責任せきにんがあるとした。そして大統領だいとうりょうけん国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかんカール・デーニッツ海軍かいぐん元帥げんすい首相しゅしょうにゲッベルス、ナチとう担当たんとう大臣だいじんにボルマンをそれぞれ指名しめいした。さらに「国際こくさいユダヤじん」にたいする抵抗ていこう継続けいぞくうったえた。

個人こじんてき遺書いしょでは恋人こいびとエヴァ・ブラウンとの結婚けっこんと、自殺じさつ遺体いたい焼却しょうきゃくすることを希望きぼうした。この遺書いしょをタイプした秘書ひしょトラウドル・ユンゲにヒトラーは「ドイツじんわたし運動うんどうナチズム)にあたいしないことをみずか証明しょうめいした」とかたり、みずからの政治せいじ活動かつどう終焉しゅうえんしたことをみとめた[233]

遺書いしょをタイプしたのち午前ごぜん2[234][ちゅう 10]、エヴァと結婚式けっこんしきげた。そして4がつ30にち毒薬どくやく効果こうかたしかめるため愛犬あいけんブロンディ毒殺どくさつしたのち午後ごご3にエヴァととも自室じしつはいり、自殺じさつした。56さいぼつ

自殺じさつさいヒトラーは拳銃けんじゅうもちい(青酸せいさんカリを併用へいようしたとするせつもある[235])、エヴァはどくあおいだ。遺体いたい連合れんごうぐんわたるのをおそれ、140リットルのガソリンがかけられ焼却しょうきゃくされた。のこった遺体いたいのち赤軍せきぐん回収かいしゅうし、検死けんしソ連それんがわ医師いしのみによるものだったこと、また側近そっきんらの証言しょうげん曖昧あいまい矛盾むじゅんしたものがおおかったためながあいだヒトラーの詳細しょうさい西側にしがわ諸国しょこくにはつたわらなかった。これらのことが後年こうねん「ヒトラー生存せいぞんせつ」がとなえられる原因げんいんとなった。

ソ連それんによりヒトラーの死体したい秘密裏ひみつりめられたが、1970ねんこされ、完全かんぜん焼却しょうきゃくされたあとにエルベがわ散骨さんこつされた。これらの情報じょうほうは、冷戦れいせん終結しゅうけつ1992ねんきゅうソ連それんKGBと、後継こうけい組織そしきであるロシアFSB保管ほかんされていた記録きろく公開こうかいされたことによってあきらかになった。

りゃく年表ねんぴょう

[編集へんしゅう]
  • 1889ねん(0さい):オーストリア・ハンガリー帝国ていこくブラウナウ地方ちほうバイエルンじん税関ぜいかん吏アロイス・ヒトラーの4おとことしてまれる。
  • 1895ねん(6さい):ちちアロイスの農業のうぎょう事業じぎょうのためにバイエルン王国おうこくパッサウ地方ちほう移住いじゅう
  • 1897ねん(8さい):ちち事業じぎょう失敗しっぱいし、一家いっかはオーストリアへもどる。アロイスとヒトラーとのいさかいがはじまる。
  • 1900ねん(11さい):小学校しょうがっこう卒業そつぎょう大学だいがく予備よび課程かてい(ギムナジウム)にはすすめず、リンツの実技じつぎ学校がっこう(リアルシューレ)に入学にゅうがくする。
  • 1901ねん(12さい):年生ねんせいへの進級しんきゅう試験しけん失敗しっぱい留年りゅうねん
  • 1903ねん(14さい):アロイス病没びょうぼつ。リンツ実技じつぎ学校がっこう中退ちゅうたい
  • 1904ねん(15さい):シュタイアー実技じつぎ学校がっこう入学にゅうがく
  • 1905ねん(16さい):シュタイアー実技じつぎ学校がっこう中退ちゅうたい以後いご正規せいき教育きょういくけず。
  • 1906ねん(17さい):遺族いぞく年金ねんきん一部いちぶははから援助えんじょされてウィーン美術びじゅつアカデミー受験じゅけんするも合格ごうかく以降いこう下宿げしゅく生活せいかつつづける。
  • 1908ねん(19さい):アカデミー受験じゅけん断念だんねん下宿げしゅく生活せいかつえて住居じゅうきょ転々てんてんとする。
  • 1909ねん(20さい):住所じゅうしょ不定ふてい浮浪ふろうしゃとして警察けいさつ補導ほどうされる。独身どくしんしゃけの公営こうえい住宅じゅうたく入居にゅうきょ
  • 1911ねん(22さい):遺族いぞく年金ねんきんいもうとゆずるように一族いちぞくから非難ひなんされ、仕送しおくりがまる。水彩すいさい絵葉書えはがきりなどで生計せいけいてる。
  • 1913ねん(24さい):オーストリアぐんへの兵役へいえき回避かいひため国外こくがい逃亡とうぼう翌年よくねん強制きょうせい送還そうかんされるが「不適合ふてきごう」として徴兵ちょうへいされず。
  • 1914ねん(25さい):だいいち世界せかい大戦たいせんにドイツ帝国ていこく参戦さんせんするとバイエルンぐん義勇ぎゆうへいとして志願しがん
  • 1918ねん(29さい):マスタードガスによる一時いちじ失明しつめいとヒステリーにより野戦やせん病院びょういん収監しゅうかん入院にゅういんちゅうだいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつする。最終さいしゅう階級かいきゅう伍長ごちょう勤務きんむ上等じょうとうへい
  • 1919ねん(30さい):革命かくめいちゅうのバイエルンレーテ参加さんかし、大隊だいたい評議ひょうぎいんとなる。革命かくめい政権せいけん崩壊ほうかい、ミュンヘンを占領せんりょうした政府せいふぐん軍属ぐんぞく諜報ちょうほういんとして雇用こようされ、ドイツ労働ろうどうしゃとうへの潜入せんにゅう調査ちょうさ担当たんとうする。
  • 1920ねん(31さい):ドイツ労働ろうどうしゃとう活動かつどう傾倒けいとうし、ぐん除隊じょたいとう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう改名かいめいされる。
  • 1921ねん(32さい):党内とうない抗争こうそう初代しょだい党首とうしゅアントン・ドレクスラー失脚しっきゃくさせ、だいいち議長ぎちょう就任しゅうにんする。Führer(フューラー)の呼称こしょうがこのころからはじまる。
  • 1923ねん(34さい):ベニート・ムッソリーニローマ進軍しんぐん触発しょくはつされてミュンヘン一揆いっきこすが失敗しっぱい警察けいさつ逮捕たいほされる。
  • 1924ねん(35さい):禁錮きんこ5ねん判決はんけつけてランツベルク要塞ようさい刑務所けいむしょ収監しゅうかん。12月20にち仮釈放かりしゃくほうされる。
  • 1926ねん(37さい):『闘争とうそう出版しゅっぱん党内とうない左派さは勢力せいりょく弾圧だんあつし、指導しどうしゃ原理げんりによる党内とうない運営うんえい確立かくりつバンベルク会議かいぎ)。
  • 1928ねん(39さい):ナチとうとしての最初さいしょ国政こくせい選挙せんきょ。12の国会こっかい議席ぎせき獲得かくとく
  • 1930ねん(41さい):ナチとうだいとう躍進やくしん
  • 1932ねん(43さい):ドイツ国籍こくせき取得しゅとく大統領だいとうりょうせん出馬しゅつば決選けっせん投票とうひょうでヒンデンブルクに敗北はいぼくして落選らくせん。しかし国会こっかい選挙せんきょではだいいちとう躍進やくしんしてさらに影響えいきょうりょくたかめる。
  • 1933ねん(44さい):大統領だいとうりょうヒンデンブルクから首相しゅしょう指名しめいける。全権ぜんけん委任いにんほう制定せいていいちとう独裁どくさい体制たいせい確立かくりつ
  • 1934ねん(45さい):突撃とつげきたい幹部かんぶ粛清しゅくせいして独裁どくさい体制たいせい強化きょうかながいナイフのよる)。ヒンデンブルク病没びょうぼつ大統領だいとうりょう職能しょくのう継承けいしょうし、国家こっか元首げんしゅとなる(総統そうとう)。
  • 1936ねん(47さい):武装ぶそう地帯ちたいであったラインラントにぐん進駐しんちゅうさせる(ラインラント進駐しんちゅう)。ベルリンオリンピック開催かいさい
  • 1938ねん(49さい):オーストリアを武力ぶりょく恫喝どうかつし、併合へいごうする(アンシュルス)。ウィーン凱旋がいせんミュンヘン会談かいだんズデーテン地方ちほう獲得かくとく
  • 1939ねん(50さい):チェコスロバキアへ武力ぶりょく恫喝どうかつ、チェコを保護ほごりょうに、スロバキアを保護ほごこくチェコスロバキア併合へいごう)。同年どうねんどく不可侵ふかしん協定きょうてい締結ていけつポーランド侵攻しんこう開始かいしだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつする。以降いこう大半たいはん各地かくち総統そうとう大本営だいほんえいごす。
  • 1940ねん(51さい):ドイツぐんがノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻しんこう。フランス降伏ごうぶく、パリをおとずれる。
  • 1941ねん(52さい):ソビエト連邦れんぽう侵攻しんこう開始かいしどくせん)。年末ねんまつには日本にっぽん追随ついずいしてアメリカに宣戦せんせん布告ふこく
  • 1943ねん(54さい):スターリングラードのたたか大敗たいはい。また連合れんごうぐんきたアフリカ、南欧なんおう攻撃こうげき開始かいし、イタリアが降伏ごうぶくする。
  • 1944ねん(55さい):ソ連それんぐん一大いちだい反攻はんこうバグラチオン作戦さくせん)により東部とうぶ戦線せんせん崩壊ほうかい連合れんごうぐんきたフランスにだい規模きぼ部隊ぶたい上陸じょうりくさせる(ノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん)。7がつ20日はつか自身じしんたいする暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんによって負傷ふしょう
  • 1945ねん(56さい):エヴァ・ブラウン結婚けっこん。ベルリンない総統そうとう地下ちかごうない自殺じさつ

思想しそう

[編集へんしゅう]

はんユダヤ主義しゅぎ

[編集へんしゅう]

本人ほんにん著作ちょさく発言はつげんとうから、ヒトラーは少年しょうねんから様々さまざまはんユダヤ主義しゅぎ影響えいきょうされた「生粋きっすいアーリアじん至上しじょう主義しゅぎもの」となされる傾向けいこうつよい。それはキリスト教きりすときょう社会しゃかいであったヨーロッパ全体ぜんたいひろがっていた差別さべつ意識いしき発見はっけん政治せいじてき活用かつようした色彩しきさいつよく、ヒトラー個人こじんいがあった人々ひとびと証言しょうげんからは、ヒトラーがいつそのような差別さべつ意識いしきにつけたのか判断はんだんするのはむずかしいとしている。

ヒトラーがおさなころ母親ははおやとおった質屋しちや主人しゅじんがユダヤじんであり、その主人しゅじんがヒトラー親子ちかこしな安値やすねでしかってくれず、そのためヒトラーはユダヤじんたいして不信ふしんかんいだくようになったという俗説ぞくせつもあるが、ちち恩給おんきゅう受給じゅきゅうしていたヒトラー一家かずや経済けいざいてき困窮こんきゅうしていた事実じじつはない。なお、このころヒトラーの母親ははおや治療ちりょうした医師いしエドゥアルド・ブロッホはユダヤじんであった。ブロッホはのちにユダヤじん迫害はくがい開始かいしされたのちも「名誉めいよアーリアじん」として手厚てあつ保護ほごされ、その外国がいこく解放かいほうされたという。ヒトラーは自分じぶん恩義おんぎけた相手あいてにはユダヤじんであっても例外れいがいてきあつかったのではないかという指摘してきもある。このような待遇たいぐうけた人物じんぶつとしては、だいいち世界せかい大戦たいせんでヒトラーの叙勲じょくん推薦すいせんした上官じょうかんエルンスト・モーリッツ・ヘス英語えいごばんや、ヒトラー山荘さんそう勤務きんむした料理人りょうりにんマレーネ・フォン・エクスナー演説えんぜつボディ・ランゲージ指導しどうけた占星術せんせいじゅつエリック・ヤン・ハヌッセンなどがいる。エルンスト・モーリッツ・ヘスはナチとう政権せいけん掌握しょうあく、ナチス政府せいふ迫害はくがいけていたが、ヒトラーに迫害はくがい中止ちゅうしうったえ、待遇たいぐう改善かいぜんされている。しかし1941ねんになると強制きょうせい収容しゅうようしょおくられた[236]が、エルンスト・モーリッツ・ヘスは収容しゅうようしょび、1983ねんにフランクフルトで93さい死去しきょした。エクスナー夫人ふじんはヒトラーおりの調理人ちょうりにんであったが、ボルマンの調査ちょうさによってユダヤけいはいっていたことが発覚はっかくし、ヒトラーは彼女かのじょ解雇かいこするわりに彼女かのじょ家族かぞくに「名誉めいよアーリアじん待遇たいぐうあたえた。また、ナチス政権せいけんで、「名誉めいよアーリアじん」として航空こうくうしょう次官じかんとなったエアハルト・ミルヒ父親ちちおやはユダヤじんであったというせつがある。ドイツ海軍かいぐん提督ていとく活躍かつやくし、ヒトラーから柏葉はくようづけ騎士きしじゅうあきら授与じゅよされたベルンハルト・ロッゲもユダヤけいであった。

ヒトラー自身じしんっていたように、ウィーン生活せいかつおくる1910ねんなつごろはんユダヤ主義しゅぎてき思想しそうかためたとられている[ちゅう 11]。ウィーン時代じだい友人ゆうじんにユダヤじんがいたとされている。ただ、その友人ゆうじん金銭きんせんトラブルがあったようで、このことは警察けいさつにも記録きろくされていることから、このことがヒトラーにおおきな影響えいきょうあたえたというせつとなえるものもある。また、ヒトラーの友人ゆうじんであったクビツェクはウィーンで同居どうきょしていたころに、すでにはんユダヤてき思想しそうっていたと証言しょうげんしている[238]。それ以降いこうにヒトラーと関係かんけいがあったユダヤじんには、だいいち世界せかい大戦たいせんにヒトラーがミュンヘンでんだアパートの管理人かんりにんがいる。ヒトラーは管理人かんりにんつくった食事しょくじべながらとう幹部かんぶわせを度々たびたびっていたが、党勢とうせい拡大かくだいとともにヒトラーはアパートをはらった。

いずれにせよ、入党にゅうとうの1920ねん8がつ23にちには『ホーフブロイハウス』で「ユダヤじん寄生きせい動物どうぶつであり、かれらをころ以外いがいにはその被害ひがいからのがれる方法ほうほうはない」と演説えんぜつするほどの確固かっこたるはんユダヤ主義しゅぎしゃとなっていた[239]一方いっぽうでユダヤじんブロニスラフ・フーベルマンアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持しょじしていた[240]

ヒトラーは「いったい、なぜドイツがかくも衰退すいたいしたのであろうか?それは敵国てきこくとユダヤじんがドイツにたいして仕掛しかけた世界せかい大戦たいせんにまきまれて、敗北はいぼくしたからである。ドイツ革命かくめいはユダヤじん犯罪はんざいじんとがこしたものだ。ベルサイユ条約じょうやくはドイツを永遠えいえん奴隷どれいするための機構きこうだ」と演説えんぜつしている[241][ようページ番号ばんごう]

著作ちょさく

[編集へんしゅう]
わが闘争とうそうはつ版本はんぽん。1925ねん発行はっこう

ナチズム聖典せいてんというべきヒトラーの著書ちょしょ闘争とうそう』は、ナチとう政権せいけん時代じだいのドイツで聖書せいしょおなじくらいの部数ぶすう発行はっこうされたともいわれている。その内容ないようみずからの半生はんせい世界せかいかんかたっただい1民族みんぞく主義しゅぎてき世界せかいかん」と、今後こんご政策せいさく方針ほうしんしめしただい2国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう」の2つにかれる。このなかでヒトラーは「アーリア民族みんぞく人種じんしゅてき優越ゆうえつ東方とうほうにおける生存せいぞんけん獲得かくとく」をいている。

近代きんだいドイツ最大さいだい哲学てつがくしゃニーチェ著作ちょさくである『権力けんりょくへの意志いし』の影響えいきょうつよられ、ヒトラーの思想しそうを、「ちからこそがすべて」というニーチェのしょからの誤読ごどく、もしくは自分じぶんなりに解釈かいしゃくなおしているのではないかと指摘してきされることがおおい。ナチス政権せいけん発行はっこうすうからは「ナチス公認こうにんさい重要じゅうよう文献ぶんけん」としてあつかわれていたことがうかがえる。しかしヒトラーはのちに「わが闘争とうそうふるほんだ。わたしはあんなむかしからおおくのことをけすぎていた」とかたっている[242]。またハンス・フランクには「結局けっきょくわたし物書ものかきではなかった」「思想しそうくことによってわたしからしてしまった」「もしもわたしが、1924ねんにやがて首相しゅしょうになることをっていたら、わたしはあのほんかなかっただろう」とかたっている[243]

1928ねんには、マックス・アマン口述こうじゅつして執筆しっぴつしただい著作ちょさく完成かんせいした。しかし、生前せいぜんのヒトラーは「ヒトラーだいしょ」(ぞく闘争とうそう)とばれるこのほん公表こうひょうゆるさず、刊行かんこうされたのは戦後せんごになってからである。

現在げんざいのドイツでは『わが闘争とうそう』は民衆みんしゅう扇動せんどうざいによる発禁はっきんほんのリストのなかはいっている」とよく誤解ごかいされるが、実際じっさい理由りゆうは、著作ちょさくけん出版しゅっぱんけんゆだねられているバイエルンしゅう政府せいふがどの出版しゅっぱんしゃにも著作ちょさくけんわたさないことにあった。しかし保護ほご期間きかん出版しゅっぱんから90ねんの2015ねんまでのため、2016ねん以降いこう出版しゅっぱん自由じゆうとなり、歴史れきしてき意義いぎかんがみ、注釈ちゅうしゃくきで刊行かんこうされている。

ヒトラー自身じしん思想しそうつたえるものは、おおやけおこなわれた演説えんぜつ政治せいじてき文書ぶんしょのほかには関係かんけいしゃによる記録きろく存在そんざいする。「ヒトラーのテーブル・トーク」とばれるものは、1941ねんから1944ねんにかけてヒトラーが私的してきかたったものを、マルティン・ボルマンの命令めいれいによって記録きろくしたものである。このほかにボルマンがめたとされる、1945ねん2がつと4がつのヒトラーの談話だんわ存在そんざいする(ボルマンメモドイツばん)。ただしこの文書ぶんしょは、ヒュー・トレヴァー=ローパーアンドレ・フランソワ=ポンセ支持しじしたものの、ドイツによる原文げんぶん発見はっけんされておらず、イアン・カーショーなど複数ふくすう歴史れきしはきわめてうたがわしいとかんがえている。

に、幹部かんぶであったシュペーア、ヘルマン・ラウシュニングドイツばんエルンスト・ハンフシュテングル側近そっきんである秘書ひしょトラウデル・ユンゲ護衛ごえいへいであったローフス・ミシュなどがヒトラーの言動げんどうしるした著書ちょしょのこしている。

哲人てつじん総統そうとう哲人てつじんおう

[編集へんしゅう]

だいさん帝国ていこく」とはそもそも哲学てつがく神学しんがくうえ概念がいねんであり、物質ぶっしつてき世界せかい精神せいしんてき世界せかいとを統一とういつした「理想りそうてき人間にんげん社会しゃかい」を[244]社会しゃかい哲学てつがくものイヴォンヌ・シェラットの学術がくじゅつしょ『ヒトラーの哲学てつがくしゃたち Hitler's Philosophers』によると[ちゅう 12]だいさん帝国ていこくナチス・ドイツは様々さまざまかたち哲学てつがくしゃたちと相互そうご協力きょうりょくしており[245]、ヒトラー自身じしんも「哲人てつじん総統そうとう[246]、「哲人てつじん指導しどうしゃ」を自認じにんして活動かつどうしていた[247]

たとえばヒトラーは1924ねんランツベルク刑務所けいむしょなかで『闘争とうそう』の原稿げんこう執筆しっぴつ

哲学てつがく勝利しょうりへとみちびくには、これを闘争とうそう運動うんどう変換へんかんしなければならない」
哲学てつがく綱領こうりょうとは戦争せんそう宣言せんげんつくすことなのだ」

しるしている[248]。ヒトラーいわく、哲学てつがく思想しそうてきに「あらたな地質ちしつ時代じだい到来とうらいすれば、地球ちきゅう構造こうぞうはすべてわる」のであり、それは「平原ひらはら」や「大洋たいよう」の新生しんせいふく[248]。「おなじようにヨーロッパ全土ぜんど社会しゃかい秩序ちつじょもまたはげしい爆発ばくはつ崩壊ほうかい見舞みまわれて、こそぎにされることだろう」[248]同年どうねん自分じぶん刑務所けいむしょから出所しゅっしょした場面ばめんについて、ヒトラーは

所長しょちょう職員しょくいんも、わたしがランツベルクを出所しゅっしょするときにはいていた。わたしちがった。我々われわれみずからのいいぶんのすべてにおいてかれらにったのだ」

べている[248]。ヒトラーは古代こだいギリシア哲学てつがくドイツロマン主義しゅぎ哲学てつがくみずからの指針ししんとしており[249]ニーチェ真似まねて「ギリシア精神せいしん本質ほんしつらせるもの、それがギリシアの芸術げいじゅつなのだ」などとべていた[250]。ヒトラーの思想しそうは、社会しゃかい哲学てつがくものかつ動物どうぶつがくものであるエルンスト・ヘッケルのそれに酷似こくじしているという指摘してきもあり、たとえば以下いか学説がくせつがある[251]

「ヒトラーの歴史れきし政治せいじ宗教しゅうきょうキリスト教きりすときょう信仰しんこう自然しぜん優生ゆうせいがく科学かがく美術びじゅつ進化しんかなどにかんするかたはごたまぜ状態じょうたい情報じょうほうげん多様たようなのだが、ヘッケルのかたとほとんど一致いっちし、なんもまったくおな言葉ことば表現ひょうげんされていた」[251]

ヘッケルは古代こだいギリシア文化ぶんか重視じゅうししており[252]、「社会しゃかい進化しんかろん」や優生ゆうせい思想しそう代表だいひょうてき提唱ていしょうしゃとしてナチズムに影響えいきょうした[253]かれは「自然しぜんかみなのだ」とつよ主張しゅちょう[254]適者生存てきしゃせいぞんにおいてアーリア人種じんしゅこそが最高さいこう自然しぜん適者てきしゃだとした[255]かれうには、古代こだいギリシアの軍事ぐんじ国家こっかスパルタは「完璧かんぺきなまでに健康けんこうつよ子供こどもたち」以外いがいを──つまり病気びょうき障害しょうがいのある子供こどもを──抹殺まっさつすることで、スパルタじんは「継続けいぞくてきすぐれたつよさと活力かつりょく」を維持いじしていたのであり、この慣習かんしゅう手本てほんにされるべきである[256]。このようなあいだは「ころされるがわ子供こどもにも、ころがわ共同きょうどうたいにも利益りえきのある行為こうい」だという[256]

ヒトラーはドイツ思想しそうドイツ観念論かんねんろんからも多大ただい影響えいきょうされており、1925ねん2がつ27にちミュンヘン飲食いんしょくてんビアホール)で演説えんぜつしたさいは、そうした哲学てつがく自己流じこりゅう要約ようやくしていた[257]以下いかはそのれいである[258]

21世紀せいきでも哲学てつがくにおける「スター」のような学者がくしゃなされているマルティン・ハイデガー[260]、ヒトラーを理想りそうてき存在そんざいとしてえがいていた[261]。ナチ党員とういんとしてフライブルク大学だいがくしん総長そうちょうとなったハイデガーは1933ねん5がつ27にち古代こだいギリシア哲学てつがくプラトンの『国家こっか』)をもとに、ナチズムをたたえて以下いか演説えんぜつおこなった[262]

「この決起けっき栄光えいこう、そしてその偉大いだいさは、ギリシアの叡知えいちからはっせられたあの深淵しんえんかつ広範こうはん熟慮じゅくりょ言葉ことば我々われわれなかになってくときにはじめて、我々われわれ十全じゅうぜん理解りかいされるのである。『偉大いだいなるものはすべて、あらしなかつ』」[262]

この演説えんぜつからまもなくハイデガーは、自分じぶん熱烈ねつれつに「大学だいがく画一かくいつ」をすすめているという電報でんぽうをヒトラーへおくった[263]。そのヒトラーは、「アーリアじん」を大学だいがく公職こうしょくから排除はいじょする「バーデンれい」をめいじ、ハイデガーはそれを実行じっこうした[264]

宗教しゅうきょうかん

[編集へんしゅう]

ヒトラーは表面ひょうめんじょうこそキリスト教徒きりすときょうとであるとしていたが、教会きょうかいたいしてはナチズムに従順じゅうじゅんな「積極せっきょくてきキリスト教きりすときょう」の立場たちばのぞんでいた。またイエス・キリスト処女しょじょ懐胎かいたいのためユダヤじんまっていないとし、かれ生涯しょうがいをユダヤじんとのたたかいととらえ、「キリストがはじめたが完成かんせいできなかった仕事しごとを、わたしが―アドルフ・ヒトラーが―実現じつげんさせるのだ」ととなえた[265]。また内々うちうち談話だんわでは「聖書せいしょがドイツ翻訳ほんやくされたのはドイツじんにとっての不幸ふこう」「マ帝国まていこくほろんだのはフンぞくやゲルマン民族みんぞくのせいではなくキリスト教きりすときょうのせいである」とうとキリストきょう聖職せいしょくしゃ批判ひはんする発言はつげんをしていた[266]。ただしヒトラーはかみろんしゃではなく、自然しぜんなか全能ぜんのう存在そんざいがいるとかたっていた[267][ちゅう 13]

エリック・ヤン・ハヌッセン専属せんぞくうらなとしているなど、オカルト傾倒けいとうしていたというせつがある。

たい日本にっぽんかん

[編集へんしゅう]
沢田さわだけん『ヒットラーつたえ

ヒトラーは『わが闘争とうそう』のなかで、日本人にっぽんじんについて、「文化ぶんかてきには創造そうぞうせいいた民族みんぞくである」[268]としている。『わが闘争とうそう』を原文げんぶんんだ井上いのうえ成美まさみは「ヒトラーは日本人にっぽんじん想像そうぞうりょく欠如けつじょした劣等れっとう民族みんぞく、ただしドイツの手先てさきとして使つかうなら小器用こぎよう小利口こりこうやく存在そんざいている」[269]として、ヒトラーやナチズムの根底こんていには強固きょうこ反日はんにち主義しゅぎ差別さべつ主義しゅぎがあると主張しゅちょうしている。

しかし篠原しのはらただしあきらは「しんちつけてよく含味がんみしてみると、ヒトラーの「日本にっぽん民族みんぞく文化ぶんかてき能力のうりょく批判ひはんはまことに正鵠せいこくたものであり、理性りせいてきな、公正こうせい論理ろんりうえっているとおもう。当時とうじ少数しょうすうではあったが、そのことをはっきりと指摘してきした日本にっぽん知識ちしきじんもいた。」とかたっている[270]

ヒトラーの遺言ゆいごんしるされたボルマンメモの1945ねん2がつ18にちづけには、「われわれにとって日本にっぽんは、いかなるとき友人ゆうじんであり、そして盟邦めいほうでいてくれるであろう。この戦争せんそうなかでわれわれは、日本にっぽんたか評価ひょうかするとともに、いよいよますます尊敬そんけいすることをまなんだ。この共同きょうどうのたたかいをとおして、日本にっぽんとわれわれとの関係かんけいさら密接みっせつな、そして堅固けんごなものとなるであろう。」と記述きじゅつされている[271]

おなじくボルマンメモの1945ねん2がつ13にちづけ記述きじゅつでは「わたしは、たとえば中国人ちゅうごくじんあるいは日本人にっぽんじん人種じんしゅとして劣等れっとうなどとおもったことはいちもない。 両方りょうほうともふる文化ぶんかった国民こくみんであり、そしてわたしとしては、かれらの伝統でんとうほうがわれわれの それよりもまさっていることをみとめるのにやぶさかではない。かれらには、それをほこりにおもうべき、りっぱな根拠こんきょがある。ちょうどわれわれが、われわれがぞくしている文化ぶんかけんほこりをもっているように。それどころかわたしは、中国人ちゅうごくじん日本人にっぽんじんかれらの人種じんしゅてきほこりを堅持けんじしていてくれればくれるほど、かれらと理解りかいしあうことがわたしにとってますます容易よういになるとさえしんじている。」とある[272]

1945ねん4がつ2にちづけ記述きじゅつでは「わたしは、日本人にっぽんじんと、中国人ちゅうごくじんと、そしてイスラムしょ国民こくみんとは、われわれにとって、たとえばフランスよりもつねに身近みぢか存在そんざいであると確信かくしんしている。しかもこのことは、ドイツじんとフランスじんとのあいだに存在そんざいしているのつながりにもかかわらずである。」としるされている[273]

大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんによるマレー作戦さくせん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき成功せいこう報告ほうこくけたさいには「我々われわれ戦争せんそうけるはずがない。我々われわれは3000年間ねんかんいちけたことのない味方みかたができたのだ」とかたたいべい宣戦せんせんおこな[ちゅう 14]当時とうじ日本にっぽんかい進撃しんげき誇大こだい発表はっぴょうかんじており、日本にっぽん発表はっぴょう直接ちょくせつ報道ほうどうしない措置そち承認しょうにんしている[275]。『わが闘争とうそう』では、だいいち世界せかい大戦たいせんまえのオーストリアを重視じゅうししたドイツの外交がいこう政策せいさく批判ひはんするさいにちえい同盟どうめいにち戦争せんそういに日本にっぽん外交がいこう政策せいさく称賛しょうさんしている。

軍事ぐんじめんではヒトラーが実権じっけんにぎったのちどく潜水せんすいかん作戦さくせんのような協力きょうりょくがあり、レーダーなど最新さいしん技術ぎじゅつ提供ていきょうおこなわれている。

日本にっぽんがドイツの最終さいしゅうてきなライバルになるとのかんがえもしばしばくちにしており、「ちか将来しょうらい我々われわれ東洋とうよう覇者はしゃ日本にっぽん)と対決たいけつしなければならない段階だんかいるだろう」とシュペーアたち側近そっきんかたっていたというエピソードがある。ポーランド侵攻しんこう直前ちょくぜんにはイギリス大使たいしネヴィル・ヘンダーソン英語えいごばんたいし、「大戦たいせんそうきれば各国かっこく共倒ともだおれになり、唯一ゆいいつ勝者しょうしゃ日本にっぽんになる」とつたえている[276]

にちどく防共ぼうきょう協定きょうてい成立せいりつ以降いこうは、ヒトラーとおおくの日本人にっぽんじん面会めんかいし、いずれもヒトラーが親日しんにちてきであるという感想かんそうった。鳩山はとやま一郎いちろうは「かれ日本にっぽんたいする憧憬どうけいおどろくべきものがある」とし、どう卓雄たくおは「かれ日本にっぽんたいするかんがかた絶対ぜったいてきである」ととらえ、ちゅうどく大使たいし武者小路むしゃのこうじ公共こうきょうは「ヒトラーの日本にっぽん贔屓びいきにち戦争せんそうときからだ」と発言はつげんしている[277][ちゅう 15]。またヒトラーはポーランド戦役せんえきのち大島おおしまひろし大使たいしに「貴国きこくには『ってかぶとのいとぐちめよ』ということわざのあることを承知しょうちしたが、これはまこと意味いみふか言葉ことばである。われわれはいまこそかぶといとぐちめるべきときである」この日本にっぽんことわざこのんでくちにしている。

1939ねんにベルリンでひらかれた「はくはやし日本にっぽん美術びじゅつてん」では、美術びじゅつてん公式こうしき訪問ほうもんしたヒトラーが雪村ゆきむらふう濤図ふくめたすうてん美術びじゅつひんふか興味きょうみしめしたという報道ほうどう日本にっぽんではおこなわれたが[ちゅう 16]、ドイツではヒトラーが興味きょうみった作品さくひんについてはほとんど報道ほうどうされなかったことからも、ヒトラーの美術びじゅつてん訪問ほうもんはあくまで儀礼ぎれいてきなものであったと安松やすまつみゆき主張しゅちょうしている。[279]

ヒトラーは「ユダヤじん日本人にっぽんじんこそがかれらのとどかない相手あいてだとている。日本人にっぽんじんにはするど直観ちょっかんそなわっており、さすがのユダヤじんうちから日本にっぽん攻撃こうげきできないということがかっているのだ」とべ、イギリスとアメリカが日本にっぽん和解わかいすれば多大ただい利益りえきられるが、その和解わかい妨害ぼうがいしているのがユダヤじんだとかたっている[280][ちゅう 17]

日本人にっぽんじんが「名誉めいよアーリアじん」としてのあつかいをけたというせつもあるが、帝国ていこく市民しみんほうドイツばんなどヒトラーが裁可さいかした人種じんしゅ差別さべつほうでは、日本人にっぽんじん明示めいじてき厚遇こうぐうけたわけではない。1934ねん日本人にっぽんじんかかわった事件じけん報道ほうどうさい人種じんしゅほうについてれないようにするという通達つうたつおこなわれたように、あくまで政治せいじてき配慮はいりょによって手心てごころくわえる範囲はんいのものであった。また「我々われわれドイツじん日本人にっぽんじん親近しんきんかんなどいてはいない。日本人にっぽんじん生活せいかつ様式ようしき文化ぶんかもあまりにも違和感いわかんおおきすぎるからだ」ともべている[281][ちゅう 18]

ホロコースト

[編集へんしゅう]
ヒトラーの生家せいかまえ歩道ほどうてられた戦争せんそうとファシズムに反対はんたいする記念きねん英語えいごばん。「平和へいわ自由じゆう、そして民主みんしゅ主義しゅぎのため 二度にどファシズムかえすな すうひゃくまんにん死者ししゃ警告けいこくする」ときざまれている。いしマウトハウゼン強制きょうせい収容しゅうようしょ採石さいせきじょうにあったものが使つかわれている。

1940ねんにヒトラーは、ドイツ国内こくないのユダヤじんマダガスカル移送いそうさせる計画けいかくマダガスカル計画けいかく)を検討けんとうさせた。これはドイツの影響えいきょうからユダヤ勢力せいりょく排除はいじょするための作戦さくせんであり絶滅ぜつめつ作戦さくせんではなかったが、戦局せんきょく悪化あっかにより移送いそう不可能ふかのうになった。1942ねん1がつにはドイツ国内こくない占領せんりょう地区ちくにおけるユダヤじん強制きょうせい収容しゅうようしょへの移送いそう強制きょうせい収容しゅうよう所内しょないでの大量たいりょう虐殺ぎゃくさつなどの、いわゆるホロコースト方針ほうしん決定けっていづける「ヴァンゼー会議かいぎ」がおこなわれた。しかしながら、文章ぶんしょうじょうでは「絶滅ぜつめつ」や「殺害さつがい」とった直接的ちょくせつてき語句ごく使つかわれず、「追放ついほう」や「移民いみん」とった語句ごく最後さいごまで使用しようされた。

政権せいけん奪取だっしゅ以降いこう、ユダヤじん迫害はくがい政策せいさく指揮しき指導しどうしていたヒトラー自身じしんが、ユダヤじん絶滅ぜつめつ自体じたいめいじたという書類しょるい現存げんそんしていない。このため、ホロコーストの命令めいれいかんしては「ヒトラーが包括ほうかつてき決定的けっていてき集中しゅうちゅうてきいちかいかぎりの絶滅ぜつめつ命令めいれい口頭こうとう指令しれいした」というジェラルド・フレミングクリストファー・ブロウニング英語えいごばんらのせつ、「正規せいき集中しゅうちゅうてき絶滅ぜつめつ命令めいれい存在そんざいせず、軍政ぐんせい民政みんせいとう親衛隊しんえいたいかく部局ぶきょく部分ぶぶんてき絶滅ぜつめつ政策せいさくおこなった。ヒトラーはこれらの政策せいさく同意どうい支持しじあたえていた」とし、絶滅ぜつめつ政策せいさく一貫いっかんしたものではなく即興そっきょうせいつものであるというミュンヘンの現代げんだい研究所けんきゅうじょ所長しょちょうマルティン・ブロシャートドイツばんハンス・モムゼンドイツばんラウル・ヒルバーグらのせつがある[282]

しかし、1941ねん12月12にち全国ぜんこく指導しどうしゃだい管区かんく指導しどうしゃあつめておこなわれた会議かいぎ(en)においてヒトラーは「ユダヤじん絶滅ぜつめつ必然ひつぜんてき結果けっかでなければならない」と演説えんぜつしており、その演説えんぜつはゲッベルスの日記にっき記録きろくされている[283]内々うちうちでも「この戦争せんそう終結しゅうけつはユダヤ民族みんぞく絶滅ぜつめつ意味いみする」とかたっている[ちゅう 19]

とう写真しゃしんハインリヒ・ホフマンむすめヒトラー・ユーゲント指導しどうしゃバルドゥール・フォン・シーラッハ夫人ふじんであったヘンリエッテ・フォン・シーラッハドイツばん回想かいそうは、ヒトラーがホロコーストにかんしてそれを指示しじし、賛同さんどうする立場たちばであったことを証明しょうめいするものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領せんりょうむユダヤじん次々つぎつぎ逮捕たいほされ、列車れっしゃまれ収容しゅうようしょおくられていることをり、ヒトラーに直訴じきそすることをかんがえた。1943ねん4がつ7にちにパーティのでヘンリエッテがそのことをげると、ヒトラーは激怒げきどして「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたとなん関係かんけいがある!ユダヤおんなのことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴どなりつけた[285]。その、ヘンリエッテは2とヒトラーから招待しょうたいけることはなかったという。

健康けんこう政策せいさく

[編集へんしゅう]

ヒトラーはドイツ民族みんぞく健康けんこうまもることにもつよ関心かんしんっていた。とくに、1907ねん母親ははおやクララを乳癌にゅうがんうしなったヒトラーにとって、がん治療ちりょう特別とくべつ意味いみっていた。厚生こうせい事業じぎょうのスローガンとして「健康けんこう国民こくみん義務ぎむ」をさだめ、喫煙きつえんたいしてもはんタバコ運動うんどう積極せっきょくてきった。環境かんきょう職場しょくばにおける危険きけん排除はいじょし(発癌はつがんせいのある殺虫さっちゅうざい着色ちゃくしょくりょう禁止きんし)、早期そうき発見はっけん推奨すいしょうした。医師いしたちはとくにタバコのがい熱心ねっしんうったえ、かれらは世界せかいもっとはや喫煙きつえん肺癌はいがんむすけた[286]

健全けんぜん民族みんぞく未来みらい女性じょせいにある」として女性じょせい体育たいいく奨励しょうれいしたことでもられる。そのため現在げんざいのドイツでは、政府せいふによる過度かど健康けんこう問題もんだいへの介入かいにゅう禁煙きんえん禁酒きんしゅ運動うんどうを「ナチズムを彷彿ほうふつさせるもの」としてタブーする傾向けいこうにある[287][288][289]

政治せいじ手法しゅほう

[編集へんしゅう]

演説えんぜつ

[編集へんしゅう]

ヒトラーは「ひと味方みかたにつけるには、かれた言葉ことばよりもかたられた言葉ことばのほうが役立やくだち、この偉大いだい運動うんどうはいずれも、偉大いだいではなく偉大いだい演説えんぜつのおかげで拡大かくだいする」と演説えんぜつちからきわめてたか評価ひょうかしていた[290]。 ヒトラーは若年じゃくねんころから演説えんぜつをするくせっており、親友しんゆうであったクビツェクもその演説えんぜつをたびたびかされている[291]だいいち世界せかい大戦たいせん直後ちょくごぐん情報じょうほういんとしてはたらいていたころからはじめておおくの人々ひとびとまえ演説えんぜつすることになり、おおきな喝采かっさい[106]。ヒトラーは「わたし演説えんぜつすることができた」と回顧かいこしている[106]。ナチとう指導しどうしゃになってからも「大衆たいしゅう興奮こうふんさせ、感激かんげきさせるじゅつ心得こころえており、」「俗物ぞくぶつおおきなうなりごえ金切かなきごえ大衆たいしゅう魅了みりょうした」[ちゅう 20]。またヒトラー自身じしんも『闘争とうそう』において、「大学だいがく教授きょうじゅあたえる印象いんしょうによってではなく、民衆みんしゅうおよぼす効果こうか」によって演説えんぜつ価値かちはかられるとしている[293]。ヒトラーの演説えんぜつ一見いっけんそののアドリブのようにえるが、実際じっさいには詳細しょうさいなメモきによって構成こうせいされていた。一見いっけんわったいいかたをしている場合ばあいにも、大衆たいしゅう興味きょうみをひく意図いとがあってあえて変更へんこうしていることもあった[294]。ミュンヘン一揆いっきにはバイエルンしゅうなどによって演説えんぜつきんじられ、アドルフ・ヴァーグナー演説えんぜつ代読だいどくさせることもあった[295]対比たいひほう平行へいこうほう駆使くしし、修辞しゅうじてきめんでにもヒトラーの演説えんぜつは1925ねんごろにすでに完成かんせいいきたっしていた[296]

しかしヒトラーの発声はっせいじゅつ独学どくがくによるものであり、1932ねんごろには声帯せいたい損傷そんしょうするおそれもでてきた。そこでヒトラーはオペラ歌手かしゅパウル・デフリーントドイツばん指導しどうけ、声帯せいたい負担ふたんをかけずよくとお発声はっせいじゅつや、効果こうかてきなジェスチャーをにつけた[297]。デフリーントはヒトラーがプロパガンダのために、おな内容ないよう演説えんぜつかえすことに辟易へきえきしていたよう記録きろくのこしている[298]。またエリック・ヤン・ハヌッセンからボディ・ランゲージ指導しどうけたとするせつがある。

政権せいけん獲得かくとくにはラジオによる演説えんぜつおこなわれるようになったが、大衆たいしゅうきるのもはやく、1934ねんごろからヒトラー演説えんぜつ放送ほうそう次第しだい減少げんしょうし、娯楽ごらく番組ばんぐみおおながされるようになった[299]亡命ぼうめいドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどうドイツばん通信員つうしんいんも、ヒトラー演説えんぜつ聴取ちょうしゅ義務ぎむづけられた大衆たいしゅうつめたい反応はんのうしめしているさま記録きろくのこしている[300]

戦局せんきょくくるしくなると、ヒトラーの演説えんぜつ次第しだい減少げんしょうし、だい規模きぼなラジオ演説えんぜつは1940ねんに9かい、1941ねんに7かい、1942ねんに5かい、1943ねんには3かいにまで減少げんしょうした[301]迫力はくりょくのある演説えんぜつ減少げんしょうし、原稿げんこうをただげるだけの演説えんぜつが、聴衆ちょうしゅう会場かいじょう収録しゅうろくされたものが放送ほうそうされるようになった[302]。1945ねん1がつ30にち放送ほうそうされた、ドイツ国民こくみんにむけた演説えんぜつ最後さいごのものとなった[303]

部下ぶか支配しはい

[編集へんしゅう]

ヒトラーは自身じしん行動こうどう評価ひょうかする組織そしき存在そんざいゆるさなかったし、制約せいやくする規範きはん法律ほうりつ制定せいていみとめなかった[141]。また部下ぶか決定けっていせまることでみずからに圧力あつりょくをかけることもきらい、そのような事態じたいきればわざと決定けってい延期えんきすることもしばしばあった[304]軍事ぐんじかんしてもそうであったが、もともと記憶きおくりょくにはすぐれたものがあったヒトラーは会議かいぎまえ統計とうけい文書ぶんしょ暗記あんきし、会議かいぎはじまると膨大ぼうだいなデータりょうでききてをうんざりさせ、はやわらせたいとおもわせて自分じぶんがあらかじめかんがえていたあんませることをおこなっていた。

ヒトラーと軍事ぐんじ

[編集へんしゅう]
ラジオ放送ほうそうおこなうヒトラー。1933ねん2がつ

ヒトラーは軍事ぐんじりょくきわめて重視じゅうししており、「なか武力ぶりょくによらず、経済けいざいによって建設けんせつされた国家こっかなどい」と、軍事ぐんじりょくこそが国家こっかいしずえであると主張しゅちょうしていた[305]。また政権せいけん掌握しょうあく直後ちょくごには国防こくぼうぐん首脳しゅのうといちはや協議きょうぎおこない、突撃とつげきたいさえんで協力きょうりょく体制たいせい構築こうちくしようとした。ヒトラーは膨大ぼうだい資産しさんと、国家こっか財産ざいさんから将軍しょうぐんたち個人こじんてき下賜かしきん土地とち供与きょうよおこない、かれらの歓心かんしんおうとした[306]。ヒンデンブルクは所有しょゆうしていたノイデック荘園しょうえんが2ばい規模きぼになるほどの優遇ゆうぐう措置そちけ、元帥げんすいアウグスト・フォン・マッケンゼン広大こうだい荘園しょうえん贈与ぞうよ優遇ゆうぐう措置そちけている[307]一方いっぽうでブロンベルク罷免ひめん事件じけん以降いこうぐん権力けんりょくさえることにもちかられるようになった。

ヒトラーは軍事ぐんじ指導しどう異常いじょうほど熱意ねついそそいだことも、独裁どくさいしゃくらべて顕著けんちょであった。大戦たいせんちゅう期間きかん、ほとんどを前線ぜんせんちか総統そうとう大本営だいほんえいこのんでごした。また1942ねんからはみずか陸軍りくぐんそう司令しれいかん兼任けんにん、1942ねん9がつから11がつまでは前線ぜんせんAぐん集団しゅうだん司令しれいかん兼任けんにんして指揮しきするなど元首げんしゅとして異例いれい行動こうどうった。またアルデンヌ反攻はんこう作戦さくせんなどみずか作戦さくせん発案はつあんするなど、作戦さくせん細部さいぶにまでかかわった。そのなかでヒトラーは退却たいきゃく降伏ごうぶく徹底てっていしてきらい、精神せいしんろんもとづいたかんがえをぐん強要きょうようした。同様どうようみずからの直感ちょっかん重視じゅうししてラインハルト・ゲーレンのような不利ふり報告ほうこくおこなもの戦略せんりゃくてき撤退てったい防御ぼうぎょなど「退嬰たいえいてき」な提案ていあんをする参謀さんぼう本部ほんぶとの関係かんけい険悪けんあくになった。そればかりか敗戦はいせんつづくのはみずからの命令めいれい正確せいかくおこなわない将軍しょうぐんたちの「裏切うらぎり」が原因げんいんであるとし、側近そっきんぐん幹部かんぶたりらした。1944ねん7がつ20日はつか暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん参謀さんぼう本部ほんぶ形成けいせいする高級こうきゅう軍人ぐんじんたちへの不信ふしんかん決定的けっていてきなものとした。1945ねん4がつ30にちという自殺じさつになっても、どくせん敗因はいいん堕落だらくした参謀さんぼう本部ほんぶ将軍しょうぐんにあるとかたり、官邸かんていない地下ちかごうないにスパイがいるとして、みずからの責任せきにんについては言及げんきゅうすることはなかった[308][ちゅう 21]

しかし、イタリアのムッソリーニやソ連それんのスターリンなどの独裁どくさいてき指導しどうしゃ大元帥だいげんすいじょされたのにたいして、ドイツには伝統でんとうてきにそうした習慣しゅうかんがなかったため、ヒトラーは最後さいごまで親衛隊しんえいたいのものふく階級かいきゅうしょうすることはなかった。

芸術げいじゅつやメディアの政治せいじ利用りよう

[編集へんしゅう]

当時とうじ最新さいしんメディアであったラジオテレビ映画えいがなどを活用かつようしてプロパガンダをひろめるなど、メディアちから重視じゅうししていた。情報じょうほう素早すばや伝達でんたつさせるため、ラジオを安値やすね普及ふきゅうさせた(国民こくみんラジオ)。また、これらの一環いっかんとしてベルリンオリンピックでは、女性じょせい監督かんとくレニ・リーフェンシュタールによる2さく記録きろく映画えいがオリンピア』を制作せいさくさせている。

若年じゃくねん芸術げいじゅつこころざして挫折ざせつした過去かこがあるためか、ヴェルナー・フォン・ブラウンハンナ・ライチュフェルディナント・ポルシェをはじめとしたわか才気さいきあふれるとみとめた人物じんぶつにはおおいに援助えんじょをした。

人物じんぶつぞう

[編集へんしゅう]

体格たいかく

[編集へんしゅう]
ベルクホーフ山荘さんそう執務しつむしつでの撮影さつえい(1936ねん

身長しんちょうについては中肉ちゅうにく中背ちゅうぜいである。172cmから173cmなどとされている資料しりょうがしばしば見受みうけられるものの、1914ねんのザルツブルクでの徴兵ちょうへい検査けんさで175cmとしるされているため、これが正確せいかく数字すうじであるとられている。「ヒトラーは自分じぶん身長しんちょう高官こうかんたちにしてひくいことに劣等れっとうかんいており、くつなか細工ざいくをして身長しんちょうたかせようとしたり、自分じぶんつくえ段差だんさうえいていた」などのはなしはあるが、これは戦後せんごヒトラーを小物こものとして印象いんしょうづけるためにされたデマのひとつである(もっともくるまについてはおおくのパレードようリムジンとおなじように、同乗どうじょうしゃより自身じしん目立めだたせるためにすわっていた座席ざせきくるまゆかのかさげがおこなわれていた)。遺体いたい検証けんしょうさい後述こうじゅつするやまい影響えいきょう萎縮いしゅくした体格たいかくから「推定すいてい163cmほど」と記録きろくされたことが小柄こがらというイメージにより拍車はくしゃをかけたとおもわれる。体重たいじゅう時期じきによっておおきくわるが、運動うんどう不足ふそくから1944ねん1がつには体重たいじゅうが230ポンド(やく104kg)にたっしたという[309]

ひとみ青色あおいろかみ幼少ようしょうまでは金髪きんぱつであったが、ながじるにしたが色素しきそ沈着ちんちゃくして青年せいねんには黒髪くろかみになった。現実げんじつのナチス高官こうかん理想りそうてきな「アーリア人種じんしゅ」の体格たいかく金髪きんぱつ碧眼へきがんかつ大柄おおがら健康けんこうてき)とはほどとお人物じんぶつおおく、当時とうじ流行はやったジョークにも「理想りそうてきアーリアじんとはヒトラーのように金髪きんぱつで、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのようにたかいこと」(エーミール・ルートヴィヒ)と皮肉ひにくられている。

口元くちもとちいさくひげたくわえていたこと有名ゆうめいである。元々もともとヒトラーははなあなひとよりおおきくえることに劣等れっとうかんいていたとされ、青年せいねんになってひげえるようになるとこれをかくすためにばすようになった。当初とうしょよこびたカイゼル髭かいぜるひげであったものの、だいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんちゅう、ガスマスクを装着そうちゃくするにあたって不便ふべんしょうじたため、ひげりょうはしとしてなかそろえたスタイルにえ、以降いこうこの「チョビひげ」を終生しゅうせいたもった。小柄こがらなイメージとあいまって「チビのチョビひげ」というイメージがチャーリー・チャップリン映画えいが独裁どくさいしゃ以降いこう定着ていちゃくするようになった(なおヒトラーは『独裁どくさいしゃ』を鑑賞かんしょうしているが、感想かんそうのこされていない)。エヴァ・ブラウンはヒトラーと出会であった当時とうじ、おかしな口髭くちひげおもっていたようである(エヴァ・ブラウン#ヒトラーとの出会であ)。だい大戦たいせんちゅう連合れんごう国軍こくぐんはヒトラーに女性じょせいホルモンを摂取せっしゅさせて女性じょせいしたかれにヒゲをらせてしまおうと計画けいかくした(ヒトラー女性じょせい計画けいかく)。ななさんけた髪形かみがた特徴とくちょうてきだが、ヒトラーは遺伝いでんてき薄毛うすげぜん頭部とうぶからぎわ後退こうたいしていることが写真しゃしん確認かくにんできる。

記録きろく

[編集へんしゅう]

テレビ番組ばんぐみなどではかれ映像えいぞうはもっぱら白黒しろくろもちいられるが、実際じっさいにはカラー映像えいぞう数多かずおおのこされている(れい:ベルリンオリンピック開会かいかいしきやエヴァがベルヒテスガーデンで撮影さつえいしたプライベートフィルムとう)。ただし、当時とうじはカラーフィルム黎明れいめい価格かかくたかく、技術ぎじゅつてき成熟せいじゅくでまだまだめずらしく、かれ登場とうじょうする公的こうてき記録きろく映像えいぞう演説えんぜつシーンなど)のほとんどは信頼しんらいせいたか白黒しろくろ撮影さつえいされている。

健康けんこう状態じょうたい

[編集へんしゅう]
ズデーテンラント進駐しんちゅうさい現地げんち野外やがい軽食けいしょくるヒトラーと関係かんけいしゃたち(1938ねん

ヒトラーは病弱びょうじゃくではなかったが、母親ははおやがんくるしむのをていたため、みずからもがんでぬのではないかという不安ふあんにとりつかれていた。父親ちちおや脳卒中のうそっちゅうくなっており、遺伝いでんてき病気びょうき神経質しんけいしつなほどにっていたが、その不安ふあん自体じたい悪循環あくじゅんかん精神せいしんやまい不安ふあん障害しょうがい)として体調たいちょう不良ふりょうにつながっていった。だいいち世界せかい大戦たいせんときてきぐん投下とうかした化学かがく兵器へいき動揺どうようして、ヒステリーによる失明しつめい症状しょうじょうこして精神せいしんによる治療ちりょうけている。1928ねんごろ不安ふあんによる強迫きょうはく観念かんねんからのがれるため、精神せいしん通院つういんして治療ちりょうこころみているがうまくいかなかった[310]

衛生えいせいめんへの気遣きづかいも人一倍ひといちばいで、いちにちなんかい風呂ふろはいっては念入ねんいりにからだあらうのが日課にっかだった[311]。しかし、口内こうない衛生えいせいについてはきわめてわるく、ヒトラーのばんでおり、口臭こうしゅうがあったと当時とうじ秘書ひしょ回想かいそうしている[312]。ヒトラーの遺骸いがい調査ちょうさしたマルク・ベネッケ英語えいごばんによれば、ヒトラーの状態じょうたいるいないほどわるく、虫歯むしばしゅうびょう口臭こうしゅう原因げんいんであった可能かのうせいたか[313]歯科しかが1945ねん記録きろくしたカルテではしもあご前歯まえばをはじめとした5ほんのぞいてほとんどが金属きんぞくせいあるいは陶器とうきせい義歯ぎしやブリッジ、あるいはもつほどこされており、上顎じょうがく奥歯おくばすべちて放置ほうちされたままだった。これは伴侶はんりょのエヴァの状態じょうたい治療ちりょう必要ひつようせいがないとひょうされるほど良好りょうこうであったのとは対照たいしょうてきだった。

ウィーンを深夜しんや徘徊はいかいするなど青年せいねん時代じだいからすでに不眠症ふみんしょう気味きみで、みだれた生活せいかつおくっていた。よるがたであったため、独裁どくさいしゃになってからもおも深夜しんや会議かいぎおこなうこともおおく、会議かいぎがないときでもがたちかくまで側近そっきんたちあつめてティー・パーティをひらいた。側近そっきんたちはヒトラーがねむるまで退席たいせきゆるされなかった。このため昼間ひるま業務ぎょうむおこなわなくてはならない側近そっきんたち非常ひじょう苦労くろうしたという。ヒトラーがねむりにつくと、なにがあろうとこすことはゆるされなかったが、これがわざわいしてノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん対応たいおうおくれたともわれている。

1933ねんごろになると消化しょうか器官きかん不調ふちょうなやまされ、50さいちかづいた1936ねんごろにはけいれん不眠ふみん、とめどない放屁ほうひくわえ、あし湿疹しっしんにもなやまされるようになる。持病じびょう治療ちりょうなやんでいたヒトラーに恋人こいびとであるエヴァ・ブラウンが紹介しょうかいしたのがテオドール・モレル医師いしであった。モレルの処方しょほうしたくすりにはげきぶつおおかったため依存いぞんせい副作用ふくさようつよく、ヒトラーの症状しょうじょう一時いちじてき改善かいぜんされたが、次第しだい副作用ふくさよう心身しんしんをむしばんでいった。モレルの診断しんだん処方しょほうする劇薬げきやく医師いしたち懐疑かいぎてきであり、紹介しょうかいしたエヴァをはじめとする側近そっきんたち次第しだい不信ふしんかんつよめたが、症状しょうじょう回復かいふくのぞんでいたヒトラーの信頼しんらいあつく、最期さいごむかえる寸前すんぜんまでモレルは主治医しゅじいつとめた[ちゅう 22]。モレルの個人こじんてきメモにはヘロインなどの記録きろくがあり、ジャーナリストのノーマン・オーラードイツばんとなえるようにヒトラーが薬物やくぶつ中毒ちゅうどく状態じょうたいにあったという主張しゅちょうもある[314]。ただし、モレルのメモにはりょう頻度ひんどかんする記載きさいがほとんどなく、あったとしてもごくわずかな頻度ひんどにとどまっているうえ、イアン・カーショーが指摘してきしたように、モレルとの出会であいの前後ぜんごでヒトラーの性格せいかく変化へんかしたということもないため、ヒトラーが麻薬まやく中毒ちゅうどく状態じょうたいにあったというせつおおくの歴史れきしから否定ひていされている[315][316]

大戦たいせんちゅうの1942ねんごろから、ヒトラーの左手ひだりてふるえるようになった。このふるえは、徹底てっていした撮影さつえいアングルの規制きせい検閲けんえつによって記録きろくフィルムからカットされたが、検閲けんえつれたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄はきされずにのこった一部いちぶのフィルムによって確認かくにんされている。映像えいぞう小長谷こながや正明まさあきなどの神経しんけいや、晩年ばんねんのヒトラーと接見せっけんした親衛隊しんえいたい大佐たいさけん国防こくぼうぐん軍医ぐんいエルンスト=ギュンター・シェンク教授きょうじゅパーキンソンびょう断定だんていしている。当時とうじ対処たいしょほうがなく、症状しょうじょう確実かくじつすすみ、肉体にくたい思考しこう能力のうりょく低下ていかさせていった。食事しょくじさいふるえはまらず、右手みぎて次第しだい不自由ふじゆうになったため、しばしばスープをこぼしてふくにしみがいた。1941ねんごろから発症はっしょうしたこのパーキンソンびょうにより、かつての柔軟じゅうなん外交がいこう政策せいさくったころことなり、頑迷がんめい無理むり戦争せんそう指導しどうこされたともわれる。

1944ねんごろになるとふるえにくわえて猫背ねこぜになり、歩行ほこうにも影響えいきょうはじめた。まだ55さいであったにもかかわらず、おとろえた容貌ようぼうから70だい老人ろうじんえたという。精神せいしんてきにも戦局せんきょく悪化あっかなどで癇癪かんしゃくこすような出来事できごとおおくなり、不眠症ふみんしょう拍車はくしゃけた。そのため体力たいりょく急速きゅうそくおとろえはじめ、すうじゅうメートルほどしかあるけなくなり、従者じゅうしゃからだりかかったり、専用せんようのベンチにすわって休憩きゅうけいをしなければならなくなった。シュペーアの証言しょうげんでは、晩年ばんねんには美術びじゅつ学生がくせい時代じだい技術ぎじゅつうしなわれ、対面たいめんしたさい地図ちず直線ちょくせんくつもりがせん次第しだいがっていったという。署名しょめい判読はんどくできなくなり、ボルマンに悪用あくようされることになった。視力しりょくおとろえ、専用せんよう通常つうじょうより3ばいおおきな文字もじかれた書類しょるいですらおおきな虫眼鏡むしめがねとおさなければならなかった。青年せいねんからの誇大妄想こだいもうそうやパラノイアも悪化あっかして、周囲しゅういをほとんど信用しんようしなくなった。

健康けんこうほう

[編集へんしゅう]

一般いっぱんてき健康けんこうほうである運動うんどうこのまず、色白いろじろあせをかかない姿すがたから不健康ふけんこう人物じんぶつという印象いんしょうあたえることもしばしばだった。本人ほんにん運動うんどう不足ふそく心配しんぱいした医者いしゃに「わたしにとっての最大さいだいのスポーツは演説えんぜつだ」と反論はんろんしたように、あまりにもはげしい熱弁ねつべんるったのち体重たいじゅうすうキロも減少げんしょうしていたという。ただし、だいいち世界せかい大戦たいせん戦傷せんしょうや、ミュンヘン一揆いっきでのかた脱臼だっきゅうなどではげしいスポーツができなかったという部分ぶぶんもあった。運動うんどうぎらいのヒトラーは食事しょくじ菜食さいしょく中心ちゅうしんつとめ、飲酒いんしゅ喫煙きつえんひかえること健康けんこうてき生活せいかつこころみている。のち宿敵しゅくてきとなるスターリンチャーチルだい酒飲さけのみでヘビースモーカーであったのとは対照たいしょうてきであった。

ウィーンを放浪ほうろうしていた時期じき人物じんぶつによると、わか時代じだいからヒトラーはあまりしゅたばここのまなかったという。禁煙きんえんについてボルマンがいた内容ないようによれば、青年せいねん時代じだいには喫煙きつえんしていたものの、きむそこをついたためめる決意けついをし、たばこをかわてたというヒトラー自身じしん回想かいそうれられている。母親ははおや嫌煙けんえんでかつがんくなったこと影響えいきょうしたという見方みかたもある。部下ぶかとう高官こうかん喫煙きつえんするのをときには、健康けんこうのため禁煙きんえんすすめるほどであったという。エヴァ・ブラウンをふくめ、ヒトラーの部下ぶか周辺しゅうへん人物じんぶつのほとんどが喫煙きつえんしゃであったが、ヒトラーのまえかれ使用しようする部屋へやでは全面ぜんめん禁煙きんえんかれていた。しかし、敗戦はいせん間際まぎわ総統そうとう地下ちかごうではその威厳いげんうすれ、ヒトラーがちかくをとおってもみな平然へいぜんとたばこをい、かれもそれをきびしくとがめることはなくなっていたとされる。禁酒きんしゅについては、上記じょうきちち飲酒いんしゅしているとき脳卒中のうそっちゅうになったことからけるようになった。一方いっぽうバルジのたたか初期しょきぐん攻勢こうせい順調じゅんちょうすすんでいることをいわい、ヒトラーがワインくちにするのをおどろいたという側近そっきん証言しょうげんのこされている。

菜食さいしょく主義しゅぎについては溺愛できあいしていためいゲリ・ラウバル自殺じさつになったともされるが、実際じっさいにはレバーのダンプリングや、ソーセージ鶏肉とりにくべることもあり[317]、それほど徹底てっていしてはいなかった。伝記でんき作家さっかのロバート・ペインによると、ヒトラーはソーセージ好物こうぶつであり、かれ厳格げんかく菜食さいしょく主義しゅぎしゃ[318]であったとする神話しんわは、ゲッベルスによる印象いんしょう操作そうさであると主張しゅちょうしている[319][ようページ番号ばんごう]一方いっぽうで、戦時せんじちゅう菜食さいしょく主義しゅぎしゃ団体だんたい弾圧だんあつしたというせつについては、アメリカベジタリアン協会きょうかい歴史れきしアドバイザーのリン・ベリー英語えいごばんらに否定ひていされている[320]

対人たいじん関係かんけい

[編集へんしゅう]
パレスチナ指導しどうしゃのハーッジ・アミーン・フサイニー会見かいけんするヒトラー(1941ねん

ヒトラーはコミュニケーション能力のうりょくにいささか問題もんだいがあったようで、シュペーアによれば「かれ気取きどらないリラックスした会話かいわができなかったようだ」と観察かんさつし、「不機嫌ふきげんとき言葉ことば学童がくどうとほぼおな程度ていどだった」と証言しょうげんした。粛清しゅくせいされたエルンスト・レームも「かれ批判ひはんされるのがきらいで、党内とうないかれ提案ていあん疑問ぎもんされるとすぐさまそのからえ、自分じぶんつうじていないはなしをするのもいやがった」としるしている。

ただしきゃくとして面会めんかいした人間にんげん魅了みりょうすることはよくられており、おおくのドイツじんや、デビッド・ロイド・ジョージといった外国がいこくじんもヒトラーと面会めんかいしたさいにはこう印象いんしょうったとかたっている。しかしいったんてきとなった人物じんぶつたいしてはくちをきわめてののしった。たとえば1933ねんニューヨーク・タイムズのインタビューでは、アメリカ大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルトたいして「共感きょうかんおぼえる」「ヨーロッパにおいて大統領だいとうりょう方法ほうほう動機どうき理解りかいをしめした唯一ゆいいつ指導しどうしゃ」などとかたっていたが[321]、アメリカの参戦さんせん以降いこう評価ひょうかはきわめて辛辣しんらつなものとなった。また枢軸すうじくこく首脳しゅのうなどには高額こうがくおくものおこない、ホルティ・ミクローシュは65まんライヒスマルク機関きかんきヨットの贈与ぞうよけている[322]

学者がくしゃ官僚かんりょうなどの高等こうとう教育きょういくけた知的ちてきエリートを「知識ちしきはあるが感性かんせいのない連中れんちゅう」ときらうなど、みずからの教育きょういく水準すいじゅん中等ちゅうとう教育きょういく途中とちゅう放棄ほうき)にコンプレックスをいていたことが複数ふくすう人物じんぶつから証言しょうげんされている。青年せいねん図書館としょかん書物しょもつあさって独学どくがくはげんだり、後年こうねんにも専門せんもんてき議論ぎろん必要ひつよう以上いじょうくちはさみたがった。地政学ちせいがく提唱ていしょうした学者がくしゃカール・ハウスホーファー自身じしん理論りろん積極せっきょくてき引用いんようしていたヒトラーと面会めんかいしたが、「正規せいき教育きょういくけたものたいして、はん独学どくがくしゃ特有とくゆう不信ふしんかんいている」とする感想かんそうのこしている[323][ちゅう 23]独学どくがくまなんだ知識ちしきについてはたしかにある程度ていど博識はくしきなものの、独学どくがくしゃにありがちなかたよった知識ちしき表面ひょうめんてき理解りかいのみという部分ぶぶんがあり、さきのハウスホーファーも「地政学ちせいがくまった理解りかいできていなかった」と指摘してきしている。

こうしたヒトラーを特徴付とくちょうづける劣等れっとうかん学識がくしきだけではなく、ぐんれきにおいてもそうであった。軍隊ぐんたいので最終さいしゅう階級かいきゅうひくかったため、元帥げんすいである大統領だいとうりょうのヒンデンブルク、現役げんえき軍人ぐんじんにおいてもゲルト・フォン・ルントシュテットエーリヒ・フォン・マンシュタイン国防こくぼうぐん将官しょうかんからは「ボヘミアの伍長ごちょう」としばしば蔑視べっしされていた(実際じっさいには、下士官かしかんである伍長ごちょうですらなかった)。ぎゃくにヒトラーのおりの軍人ぐんじんは、ドイツが攻勢こうせいであった大戦たいせん前半ぜんはんは、華々はなばなしい攻勢こうせい作戦さくせん指揮しきしたロンメル、マンシュタイン、ハインツ・グデーリアンらであったが、守勢しゅせいたされて以降いこうは、頑強がんきょう守備しゅび作戦さくせん指揮しき定評ていひょうのあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれにわった。また、元帥げんすいゲルト・フォン・ルントシュテットはそのきゅうプロイセン軍人ぐんじんふう威厳いげんこのまれて、なん解任かいにんされてはまた重要じゅうよう立場たちばさい起用きようされた。

社会しゃかい階級かいきゅうてきにもいわゆる貴族きぞく階級かいきゅうユンカーなどの上流じょうりゅう階級かいきゅうにくみ、自身じしんが「プロレタリアート」であることを演説えんぜつにおいて強調きょうちょうした。このことは党内とうない家柄いえがらではなく生物せいぶつがくてき条件じょうけん選抜せんばつした親衛隊しんえいたい指導しどうそういたり、帝政ていせいドイツ時代じだい皇帝こうていヴィルヘルム2せい会見かいけん要請ようせいにもおうじないなどの姿勢しせいあらわれている。プロイセンぐん時代じだいからの伝統でんとう国防こくぼうぐんにおいて、ユンカーとの対立たいりつ上記じょうき経緯けいいともぐん上層じょうそうとの対立たいりつんだ。戦争せんそうちゅうには参謀さんぼう本部ほんぶたいする不信ふしんをあらわにしてなん参謀さんぼう総長そうちょう更迭こうてつした。さらに平民へいみん出身しゅっしんしゃ多数たすうめる親衛隊しんえいたい武装ぶそう部門ぶもん武装ぶそう親衛隊しんえいたい)を巨大きょだいさせ、国防こくぼうぐん上層じょうそうからとうへとぐん権力けんりょく分散ぶんさんさせようとした。大戦たいせん末期まっきにはヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく関係かんけいしゃおおくのユンカーがくわわり、ヒトラーのがわ敗戦はいせん責任せきにんをユンカーが多数たすうめる陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ原因げんいんとしている。

ベニート・ムッソリーニ

[編集へんしゅう]
列車れっしゃからりるムッソリーニをむかえるヒトラー

どう時代じだい政治せいじでは政界せいかいりをこころざしてから政権せいけん獲得かくとくまで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔しんすいちか感情かんじょういていたことでられている。教師きょうし出身しゅっしん豊富ほうふ学識がくしきからあたらしい政治せいじ思想しそうファシズム」を理論りろんし、政治せいじとしてもイタリアでの独裁どくさいけん獲得かくとく経済けいざいなおしに成功せいこうしていたムッソリーニをヒトラーはみずからの手本てほんとしていた[324]。バイエルン時代じだいにはみずからが設計せっけいしたとう本部ほんぶ執務しつむしつフリードリヒ大王だいおう絵画かいがともに、ムッソリーニの胸像きょうぞうかかげていたという[324]同盟どうめいこく要人ようじん表彰ひょうしょうするべくドイツわし勲章くんしょう(ドイツわし騎士きしだん)をみずか創設そうせつすると、その最高さいこう等級とうきゅうである「ダイヤモンドづけドイツきんわしだい十字じゅうじ勲章くんしょう」(Grosskreuz des Deutschen Adlerordens in Gold und Brillanten) をムッソリーニのみに授与じゅよしている。ハンガリーのホルティ、ルーマニアのアントネスク、フィンランドのマンネルヘイム枢軸すうじくこく元首げんしゅぐん首脳しゅのうへの授与じゅよ等級とうきゅうとどまっていることとはあきらかに対照たいしょうてきである。

カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムひだり)、リスト・リュティみぎ)とともに。1942ねんにマンネルヘイム生誕せいたん75周年しゅうねん祝福しゅくふくするためフィンランドおとずれたさいのヒトラー。

こうした熱烈ねつれつなヒトラーからの親愛しんあいとは裏腹うらはらに、ムッソリーニのがわはヒトラーを「無学むがく新参しんざんしゃ」と見下みくだしているきがあった。「わたし二流にりゅうこく一流いちりゅう指導しどうしゃだが、かれ一流いちりゅうこく二流にりゅう指導しどうしゃだ」と皮肉ひにく発言はつげんをし、また北方ほっぽう人種じんしゅろんはんユダヤ主義しゅぎなどの人種じんしゅ主義しゅぎにも嫌悪けんおかんいていた。はつ会談かいだんせきもうけられたときもヒトラーを「道化者どうけもの」と酷評こくひょうしており、むしろかれ敵対てきたいするオーストリアのエンゲルベルト・ドルフースほうこう感情かんじょういていた。しかし、どく両国りょうこく侵略しんりゃく政策せいさく孤立こりつはじめると、急速きゅうそく接近せっきんするようになり、ムッソリーニもヒトラーの親愛しんあいおうじるようになった。公式こうしきひらかれたどく首脳しゅのう会談かいだんだけで16かいおこなわれ、歴訪れきほうについてもムッソリーニがドイツにいちかい、ヒトラーがイタリアにかいおもむいてっている。そのなかでもムッソリーニのだいいちドイツ歴訪れきほうでのヒトラーの歓待かんたいぶりはられているが、ムッソリーニもヒトラーへの心配こころくばりをわすれなかった。

ヒトラーのだいイタリア歴訪れきほうではローマ、ナポリ、フィレンツェなどを周遊しゅうゆうしたが、最後さいごおとずれたフィレンツェでヒトラーの古典こてん芸術げいじゅつ趣味しゅみっていたムッソリーニがまちちゅう美術館びじゅつかんすべりにし、公式こうしき行事ぎょうじすべ後回あとまわしにしてヒトラーと芸術げいじゅつ鑑賞かんしょうをするというサプライズを用意よういした。ヒトラーのよろこびようは尋常じんじょうではなく、ミケランジェロの絵画かいが陶酔とうすいしたながめ、フィレンツェの街並まちなみ一望いちぼうしたときにはわらいながら「とうとう、とうとうわたしベックリンフォイエルバッハかった!」とさけ有様ありさまだった[325][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。ムッソリーニは想像そうぞうえるヒトラーの上機嫌じょうきげんさはともかく、どの美術館びじゅつかんでも最後さいごかならず「ボリシェヴィキ到来とうらいすれば、この世界せかいすべてが破壊はかいされる」とおな台詞せりふくちにするのにはあきれた様子ようすだった。ミケランジェロ聖家族せいかぞくのちにヒトラーが「ボリシェビキがれば…」といつつかえると、ムッソリーニは「すべてが破壊はかいされる」と苦笑にがわらいしながらドイツこたえている[325]

だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ目覚めざましい圧勝あっしょうかさねるドイツにたいして、軍事ぐんじてき従属じゅうぞくするイタリアの発言はつげんけんよわまっていった。これにしたがいヒトラーとムッソリーニの間柄あいだがら主導しゅどうけんわり、クーデターでムッソリーニが失脚しっきゃくすると立場たちば完全かんぜん逆転ぎゃくてんした。一方いっぽうでヒトラーの友情ゆうじょう尊敬そんけいねんわらず、イタリア社会しゃかい共和きょうわこく建国けんこくするさいしんどくてき姿勢しせいから当初とうしょ予定よていされていたロベルト・ファリナッチがムッソリーニを批判ひはんする発言はつげんをしたことに激怒げきどして決定けってい撤回てっかいしている。ヒトラーにとってムッソリーニはただの傀儡かいらいではなくまぎれもないともであった[326]。ムッソリーニがパルチザン処刑しょけいされた報告ほうこくいたさい、ヒトラーははげしい動揺どうようしめしている。

クーデンホーフ=カレルギー

[編集へんしゅう]
ヒトラー(ひだり)とクーデンホーフ=カレルギー(みぎ)。2まいとも1920年代ねんだい写真しゃしん2人ふたりともにオーストリアそだち。

パン・ヨーロッパ連合れんごう主宰しゅさいしゃ日系にっけいオーストリアじん貴族きぞくリヒャルト・ニコラウス・栄次郎えいじろう・クーデンホーフ=カレルギー伯爵はくしゃく博士はかせ)にたいしては、「ぜん世界せかいてき雑種ざっしゅのクーデンホーフ」(= Allerweltsbastarden Coudenhove アラーヴェルツバスターデン・クーデンホーフ)[ちゅう 24]であると1928ねん執筆しっぴつ死後しごの1961ねん出版しゅっぱん)の自著じちょだいしょぞく闘争とうそう』で形容けいようしてきらっていた[327]。クーデンホーフ=カレルギーは根無ねなぐさコスモポリタン世界せかいじん)、エリート主義しゅぎ混血こんけつで、ハプスブルク一味いちみであった過去かこ失敗しっぱい大陸たいりく規模きぼでやるというのが、ヒトラーにとってのクーデンホーフ=カレルギーぞうであった[328]

クーデンホーフ=カレルギーのがわからもヒトラーへの批判ひはんがあり、その表立おもてだってのさまざまな応酬おうしゅうかえしてクーデンホーフ=カレルギーを米国べいこく亡命ぼうめいんだ。

女性じょせい関係かんけい

[編集へんしゅう]
ゲッベルスの子供こどもとヒトラー(1933ねん8がつ

ヒトラーは直前ちょくぜんまで結婚けっこんしなかった。これについては色々いろいろ理由りゆうがあるが、基本きほんてきにはヒトラーが女性じょせいたいして紳士しんしであろうとつとめていたことにくわえ、「結婚けっこんすればおおくの婦人ふじんひょううしなうことになる」とおそれていたためであるという[329]。ミュンヘン時代じだい下宿げしゅくさきであるアンネ・ポップ婦人ふじん当時とうじのヒトラーについてかれ夫妻ふさい部屋へやはいときかならずノックし、入室にゅうしつ許可きょかしても「はいっていいですか」とかさねてたずねた。「そんな堅苦かたくるしい礼儀れいぎはいい」と夫妻ふさいってもヒトラーはそれをつづけ、ヒトラーのかおがやせていることをにしたおっと食事しょくじをさせようとしてもことわった。それを彼女かのじょはヒトラーのことを「これほど礼儀れいぎただしい青年せいねんはなかなかいない」とかんじたと証言しょうげんしている。ヒトラーは身近みぢか女性じょせい子供こどもたいしては親切しんせつ寛容かんようであったという。秘書ひしょ使用人しようにんのミスに怒声どせいげたこともなく、専属せんぞく調理ちょうりにはつね敬意けいいをもってせっしていた。恰幅かっぷく女性じょせいよわかったという証言しょうげんもある。この傾向けいこう敗戦はいせんちかづくにつれ顕著けんちょになっていった。個人こじんてきせっした子供こどもたちからは「アディおじさん」とばれてしたしまれ、ヒトラー自身じしん子供こども可愛かわいがった。たとえば、ゲッベルスにたいしてはつねに、かれマクダ夫人ふじんとのあいだまれた6にん子供こども近況きんきょうはなすようにもとめたという。

ただし恋人こいびとエヴァのまえで「インテリは単純たんじゅんおろかなおんなをめとるほうがいい」とかたるほど[330]女性じょせい知性ちせい信頼しんらいしていなかったヒトラーは、女性じょせい政治せいじ関与かんよすることはみとめていなかった。「女性じょせい部屋へやにいて、政治せいじてきなことに干渉かんしょうされるのはまっぴらだ」と公言こうげんしていたこともあり、女性じょせい関係かんけいがヒトラーの政策せいさく影響えいきょうあたえることはほとんどかった[331]。また、ヒトラーには戦場せんじょう鼠径そけい負傷ふしょうしたさい生殖せいしょく能力のうりょくうしなっていたというせつ根強ねづよ存在そんざいしている[332]睾丸こうがんひとつしかなかったともいわれるが、ヒトラーの主治医しゅじいらはこれを否定ひていしている。しかし実際じっさいにヒトラーの睾丸こうがん確認かくにんしたかはさだかではなく、またソ連それんぐん遺体いたい検証けんしょうではひだり睾丸こうがんがなく、わざわざ恥骨ちこつんでいるのではないかと調査ちょうさしてもつからなかったという記録きろくがある。

女性じょせい恐怖症きょうふしょうであったことはなく、私生活しせいかつでは男性だんせいより女性じょせい会話かいわすることこのみ、ジョークや物真似ものまねといったくだけた会話かいわおこなっていたという[311]。ヒトラーの女性じょせいこのみは単純たんじゅん明快めいかいで、ふくよかなまるがお脚線美きゃくせんび女性じょせい美人びじんなした。青年せいねん友人ゆうじんであったアウグスト・クビツェクによると、リンツ時代じだいのヒトラーはシュテファニーというたかうつくしい女性じょせい一目惚ひとめぼれしたが、こえをかける勇気ゆうき彼女かのじょまって散歩さんぽをするみち2人ふたりせしてつめたり、あわただしい行動こうどうをとって関心かんしんをひこうとしたにとどまった。このときヒトラーはなかなかめない自分じぶん嫌悪けんおかん相当そうとうんでいたようで、クビツェクに「おれ彼女かのじょにどうはなしかけたらいいんだ」としばしば助言じょげんもとめていたという。ヒトラーからアプローチをけたとしょうする女性じょせいや、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードヴィニフレート・ワーグナーなどうわさになった女性じょせいすくなからず存在そんざいしている。なかでもヴィニフレートは、ワーグナーの息子むすこジークフリート未亡人みぼうじんであり、ワグネリアンとして有名ゆうめいであったヒトラーのつよ後援こうえんけていたため、彼女かのじょ主宰しゅさいするバイロイト音楽おんがくさい国家こっか行事ぎょうじしていた。当時とうじもヒトラーとヴィニフレートの結婚けっこんうわさなんながれている。めいゲリ・ラウバルには通常つうじょう叔父おじめい関係かんけいえた愛情あいじょうそそぎ、近親きんしん相姦そうかん関係かんけいにあったというせつとなえられている。しかしラウバルは1931ねん自殺じさつし、ヒトラーにおおきな衝撃しょうげきあたえた。

エヴァ・ブラウン

[編集へんしゅう]
ベルクホーフにて、エヴァ・ブラウンとヒトラー、愛犬あいけんブロンディ(1942ねん6がつ14にち

確実かくじつにヒトラーと恋人こいびと関係かんけいになったといえるのは最期さいごともにしたエヴァ・ブラウンのみである。エヴァ・ブラウンとヒトラーがったのは1927ねん10がつはじめのことで、ナチとう専属せんぞく写真しゃしんハインリヒ・ホフマン写真しゃしんかんつとめるエヴァにかれたヒトラーが食事しょくじ映画えいがさそうようになったという。ヒトラーは秘書ひしょクリスタ・シュレーダードイツばんに「エヴァはこのましい女性じょせいだ。しかし、わたし生涯しょうがい本当ほんとう情熱じょうねつをかきてさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚けっこんかんがえられない。生涯しょうがいむすびつけることができる女性じょせいは、ただ一人ひとり、ゲリだけだった」[329]かたるなど、この時点じてんではまだエヴァとの結婚けっこんかんがえていなかった。1932ねん11月1にち政治せいじ没頭ぼっとうしなかなかいにないヒトラーにしびれをらしたエヴァはピストル自殺じさつはかったが未遂みすいわり、このとき自殺じさつ失敗しっぱいしたエヴァがんだ医師いし写真しゃしんホフマンの義弟ぎていだったためにこのスキャンダルは内密ないみつおさまった。一般いっぱん病院びょういん連絡れんらくしなかったという配慮はいりょにヒトラーはいたく感動かんどうし、以後いご2にん関係かんけいはいっそうふかまった。しかし彼女かのじょ首相しゅしょうとして多忙たぼうとなったヒトラーの愛情あいじょううたがい、1935ねん5がつ28にちにもう一度いちど自殺じさつ未遂みすいおこなっている。

オーバーザルツベルクベルクホーフおんな主人しゅじんとなってからのエヴァは、一転いってんしてヒトラーの恋人こいびととしての立場たちばたしかなものにしていった。オーストリアにて故郷こきょうのリンツで熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいされたヒトラーは、そこからエヴァに電話でんわをかけてウィーンに同行どうこうさせている[333]。イギリスがドイツに宣戦せんせん布告ふこくしたさいにユニティが帰国きこくし、1940ねんなつ以降いこうにはバイロイト音楽おんがくさいかよわなくなっていたヒトラーはベルクホーフを頻繁ひんぱんおとずれるようになり、戦争せんそう二人ふたりをより親密しんみつにした[334]。エヴァは次第しだいひょうかおすようになり、ヒトラーの誕生たんじょういわいやムッソリーニの栄誉えいよたたえるレセプションにもまねかれた[335]。ヒトラーはゲーリングに「エヴァはわたしにとって生涯しょうがい女性じょせいで、戦争せんそうわったらわたし引退いんたいしてリンツのまちき、そこで彼女かのじょつまにすることにめている」とかたった[336]えが回想かいそうろくつづりながら余生よせいおくろうとかんがえ、「エヴァとわたし結婚けっこんしてリンツのうつくしいいえらすことになるだろう」とった。エヴァの姉妹しまいによるとかれ引退いんたいエヴァとらすための住居じゅうきょとして、リンツだけでなくエヴァの故郷こきょうであるミュンヘンにも土地とちっていた[337]

1945ねん戦局せんきょく悪化あっかしてベルリンの陥落かんらく間近まぢかせまったとき、エヴァはヒトラーの反対はんたいり、ベルリンの総統そうとう地下ちかごうにやってた。ヒトラーは彼女かのじょむくいるため4がつ29にち結婚けっこんし、正式せいしき夫婦ふうふとなった。エヴァは周囲しゅうい人々ひとびとに、とうとう結婚けっこんできたことをよろこび、「可哀かわいそうなアドルフ、かれ世界中せかいじゅう裏切うらぎられたけれど、わたしだけはそばにいてあげたい」とかたったという。翌日よくじつ、ヒトラー夫妻ふさい心中しんちゅうのした。結局けっきょく二人ふたり正式せいしき夫婦ふうふであったのは48あいだたなかった。

趣味しゅみ

[編集へんしゅう]

芸術げいじゅつ

[編集へんしゅう]
設計せっけいれるヒトラーとシュペーア(1934ねん

ヒトラーは「自分じぶん本質ほんしつ政治せいじではなく芸術げいじゅつである」としんじており、「(だいいち世界せかい大戦たいせんがなかったら)ドイツいちのとまではかないまでもドイツ有数ゆうすう建築けんちくになったとおもう」とこたえたこともあった。そしてった芸術げいじゅつとく建築けんちく)にたいしては敬意けいいってせっした。閣僚かくりょうじんでは建築けんちくでもある軍需ぐんじゅしょうアルベルト・シュペーアへの態度たいど格別かくべつで、シュペーアと建築けんちくはなしをしすとなん時間じかんでも熱中ねっちゅうし、そのあいだ政治せいじてき決裁けっさいすべ後回あとまわしにされて側近そっきんこまらせた。ナチとう唯一ゆいいつ知識ちしきじん自認じにんしていた宣伝せんでんしょうヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーとのはなしなかには、芸術げいじゅつ話題わだいりばめてヒトラーをたのしませることにしんくだいた。フェルメールだいファンだったという。音楽おんがくにおいてはワーグナー信仰しんこうしゃだった。

ただし芸術げいじゅつてき感性かんせいはかつてウィーン美術びじゅつアカデミー受験じゅけん再三さいさん失敗しっぱいしていたことからもあきらかなように先進せんしんてきとはいがたく、また古典こてん主義しゅぎしゃとしても洗練せんれんされてはいなかった。ナチ政権せいけん時代じだい芸術げいじゅつおおくは映画えいがなど近代きんだいてき分野ぶんやでの成功せいこうおおく、また工業こうぎょうデザインは生産せいさんせいてきしたモダンデザイン採用さいようされており、かならずしもヒトラーのこのみが反映はんえいされていない分野ぶんや集中しゅうちゅうした。ぎゃくにヒトラーがしん古典こてん主義しゅぎ復活ふっかつうたって推進すいしんした絵画かいが彫刻ちょうこくなどはほとんどめいのこらなかった。現代げんだいにおける古典こてん主義しゅぎさい評価ひょうかながれにおいてすら、これらの粗悪そあく模倣もほうひんかえりみられることはあまりない。むしろ頽廃たいはい芸術げいじゅつてんバウハウス強制きょうせい閉鎖へいさなどドイツにおける芸術げいじゅつ自由じゆうめる行為こういひろげた。

側近そっきんたちとのピクニック散歩さんぽこのみ、戦局せんきょくがかなり悪化あっかしてからもティータイムをることをかさなかった。

その

[編集へんしゅう]
いぬ
ヒトラーが愛犬あいけんであったことは有名ゆうめいである。側近そっきんに「いぬ忠実ちゅうじつおも最後さいごまで裏切うらぎらない」と常々つねづねかたっていた。だいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんしたとき戦場せんじょうテリアいぬひろい、「フクスル」と名付なづけ、えさあたげい仕込しこむなど可愛かわいがった。そのぬすまれたとのせつがあるが、ヒトラー自身じしんかたるところによると大戦たいせん中陣なかじんからたフクスルをってヒトラーがした直後ちょくごじん砲弾ほうだん直撃ちょくげきしてヒトラーはたすかったが、フクスルはんだという。ヒトラーは後年こうねんいぬいのちしてたすけてくれたとかたっている。[よう出典しゅってん]
政治せいじ転身てんしんしたのちも、ヒトラーはすうとういぬっている。大成たいせいしたのちのヒトラーの愛犬あいけんアルザスいぬの「ブロンディ」である。ブロンディはすうひき子犬こいぬみ、ヒトラーのがわちかくでわれつづけたが、自殺じさつまえの1945ねん4がつまつ自殺じさつよう青酸せいさんカリ効能こうのう確認かくにんするため薬殺やくさつされた。
乗用車じょうようしゃ
ヒトラーは乗用車じょうようしゃ愛好あいこう(カーマニア)でもあった[338][出典しゅってん無効むこう]。ナチスが弱小じゃくしょう政党せいとうだった1920年代ねんだい初頭しょとうにナチスとう財政ざいせい金策きんさく私財しざいとうじて質素しっそ生活せいかつおくっていたなかくるま執着しゅうちゃくし、自分じぶん資産しさんえる範囲はんいとしてはじめて購入こうにゅうしたくるま天蓋てんがいがない中古ちゅうこしゃであった(ただし、ヒトラー自身じしんくるま運転うんてんをすることはなかった)。
1933ねんにヒトラーは首相しゅしょう時代じだい自動車じどうしゃ設計せっけいしゃフェルディナント・ポルシェがナチスにおくった高性能こうせいのう小型こがた大衆たいしゅうしゃ構想こうそう興味きょうみしめして、ポルシェと会談かいだんおこなった。そのに、ベルリン自動車じどうしゃショーの席上せきじょうでアウトバーン建設けんせつともに、国民こくみんしゃ構想こうそう計画けいかくして具現ぐげんすすむ。しかし、ヒトラーはポルシェにたいして国民こくみんしゃについててい価格かかく頑丈がんじょうせいてい燃費ねんぴ高速こうそく性能せいのう空冷くうれいなど条件じょうけんきつけたことで難航なんこうする(もっとも、ヒトラーの条件じょうけん価格かかくのぞけばポルシェの目指めざしていた国民こくみんしゃコンセプトにおお合致がっちしていた)。しかし1938ねんには最終さいしゅうプロトタイプが完成かんせいし、1939ねん工場こうじょう建設けんせつ終了しゅうりょう目前もくぜんになり量産りょうさん目前もくぜんになったが、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつによって軍用ぐんようしゃ生産せいさん優先ゆうせんとなったため、この計画けいかくによる大衆たいしゅうしゃ生産せいさん中止ちゅうしとなった。しかし、この大衆たいしゅうしゃ構想こうそう戦争せんそうなかでも工業こうぎょう基盤きばんのこり、最終さいしゅうプロトタイプは1945ねん戦争せんそう終了しゅうりょうしたのちフォルクスワーゲン・ビートルとなってドイツの国民こくみんしゃとして浸透しんとうした。ビートルは2003ねん生産せいさん終了しゅうりょうとなるまで65ねん長期ちょうきにわたって生産せいさんされつづける伝説でんせつてき大衆たいしゅうしゃとなった。なお、ヒトラーがビートルの試作しさくしゃっている写真しゃしん存在そんざいする。
競馬けいば
ヒトラーは並外なみはずれた競馬けいばきであった。競馬けいばねつれていたのはナチとう結成けっせいから政権せいけんにぎるまでのあいだであるものの、かれ最期さいご直前ちょくぜんまでけい種馬たねうま血統けっとう改良かいりょうおこなっていたほどだった。ベルリンにあるホッペガルテン競馬けいばじょうで、ヒトラーはみずか馬主ばしゅとなって、自分じぶんうま応援おうえんする姿すがたがよくられたという。政権せいけんってから多忙たぼうになったヒトラーは、競馬けいばじょうくことができなくなったわりに、サラブレッドの血統けっとう改良かいりょうし、ヒトラーは「トラケーネンファーム」というひとつのまちおおきさのだい牧場ぼくじょうつくると、すぐさま300とうはだ繁殖はんしょく牝馬ひんば)に様々さまざまたね牡馬ぼば配合はいごうし、サラブレッドの改良かいりょうちからそそいでいる。この記録きろくは、ヒトラーがのこした競馬けいばにおける貴重きちょう資料しりょうでもある。この試験しけんでヒトラーはドイツに世界せかいてきたね牡馬ぼばがいないことになやんだすえ、ナチス・ドイツぐん侵略しんりゃくしたくにから様々さまざまたね牡馬ぼばをトラケーネンファームにおくんだ。このとき最大さいだいのターゲットとなったのはフランスで、フランスの至宝しほうてき名馬めいばファリスをはじめ、おおくのめいたね牡馬ぼばをドイツにはこんだ。そのさい、ヒトラーはこれらしゅ牡馬ぼば重要じゅうよう美術びじゅつひん位置付いちづけ、ヒトラーはフランスの美術びじゅつひんかれ居城きょじょうノイシュヴァンシュタインじょうあつめたことは有名ゆうめいだが、サラブレッドを芸術げいじゅつひんみとめたこともおな発想はっそうからとおもわれる。[よう出典しゅってん]
1945ねん4がつ30にちにヒトラーは愛妻あいさいエヴァ・ブラウンとともに心中しんちゅうのするが、かれあとにナチス後任こうにんしゃになったカール・デーニッツは、おおくの美術びじゅつひん同様どうように、たね牡馬ぼばたち美術びじゅつひん同格どうかくあつかい、フランスとうおくかえさい専任せんにん将校しょうこう小隊しょうたいくほど周知しゅうち徹底てっていした[339]。そしてヒトラー死後しごちょうど50ねんの1995ねん東京競馬場とうきょうけいばじょうおこなわれただい15かいジャパンカップで、ジャパンカップ史上しじょうはつのドイツさんランドが6ばん人気にんきながらジャパンカップをせいするのだが、このランドの血統けっとう紐解ひもといていくと、かつてヒトラーのトラケーネンファームでのけい種馬たねうま育種いくしゅであることが証明しょうめいされ、ヒトラーの長年ながねんゆめはん世紀せいきぎて競馬けいばかい栄光えいこうのこした[340]
ディズニー
政治せいじになるまえ画家がか目指めざしていたヒトラーはディズニー作品さくひんのファンであったことはあまりられていない。政治せいじになったとき国税こくぜいつかい、「ディズニーをたおせ」とばかり国営こくえいアニメーションスタジオもげている。[よう出典しゅってん]2008ねん2がつ23にちけのえいテレグラフかみ記事きじにおいて、ヒトラーがえがいたとされるディズニーキャラクターの水彩すいさい4てんノルウェー北部ほくぶ戦争せんそう博物館はくぶつかん発見はっけんされたとほうじられた[341]。この水彩すいさいは1937ねん公開こうかいの『白雪姫しらゆきひめ』のキャラクターをスケッチしたもので、どう館長かんちょうはドイツのオークションで300ドルで落札らくさつ。スケッチのひとつには「A.H.」のイニシャルが明記めいきされていた。
巨大きょだいものへの関心かんしん
画家がか目指めざしていたころからヒトラーは、人物じんぶつたいして関心かんしんいだかず、建築けんちくぶつ主題しゅだいとした数多かずおおのこしている。その傾向けいこう政治せいじになってもかわらず、建築けんちく出身しゅっしんのシュペーアを寵愛ちょうあいしたことからもうかがえる。また、ヒトラーは巨大きょだいものたい並々なみなみならぬ執着心しゅうちゃくしんがあり、首都しゅとベルリンに巨大きょだい建築けんちくぶつ道路どうろ建設けんせつ計画けいかくしたゲルマニア計画けいかくだけではなく、V2ロケットやドーラという大型おおがた破壊はかいりょくのある兵器へいき開発かいはつもとめ、将兵しょうへい消耗しょうもうしているなか生産せいさんせいたか使つか勝手がって兵器へいきもとめていた現場げんばこえ無視むししていた。[よう出典しゅってん]

資産しさん

[編集へんしゅう]

ヒトラーは『闘争とうそう』などで困窮こんきゅうしたことをアピールしているが、だいいち世界せかい大戦たいせんにはぐんや、ナチとう党首とうしゅとなってからはパトロンの支援しえんもあり、運転うんてん手付てつきの自動車じどうしゃまわすなど、経済けいざい状態じょうたいはかなりかった[342]。『闘争とうそう』の出版しゅっぱんなどで一定いってい財産ざいさんができると、税務ぜいむ当局とうきょくはヒトラーに納税のうぜいうながした。しかし、ヒトラーは1924ねんから1925ねんにかけては完全かんぜん収入しゅうにゅうであったと弁明べんめいしたほか[343]政治せいじてき経費けいひかるとして、税務署ぜいむしょ要求ようきゅうしたがわなかった。1933ねん首相しゅしょうになった時点じてんでヒトラーが滞納たいのうしていたがくは40まんライヒスマルクのぼ[344]

1933ねん2がつ、『フェルキッシャー・ベオバハター』は、ヒトラーが首相しゅしょう給与きゅうよっていないという記事きじ掲載けいさい[345][346]財産ざいさんより清貧せいひんさをもとめる人物じんぶつとしてアピールした。しかし、1934ねん国家こっか元首げんしゅ就任しゅうにんさいにはかれ首相しゅしょうとしての給与きゅうよあつか事務じむ処理しょりおこなわれており、ヒトラーは国家こっか元首げんしゅ首相しゅしょうとしての給与きゅうよるようになった[345][346]。また、1933ねんの1年間ねんかんには『闘争とうそう』の莫大ばくだい印税いんぜい発生はっせいし、ミュンヘン税務署ぜいむしょ所得しょとくがく半分はんぶん控除こうじょして60まんライヒスマルクの納税のうぜいもとめた。しかしヒトラーとナチとう納税のうぜいしようとしなかった[347]。1934ねん12月、ミュンヘン税務署ぜいむしょは「総統そうとう非課税ひかぜいとなる」という措置そちおこなった[344]。1935ねんには中央ちゅうおう税務ぜいむ当局とうきょくとも合意ごういおこなわれ、3月12にちにヒトラーの名前なまえ納税のうぜいしゃリストから削除さくじょされた[347][348]

ヒトラーの首相しゅしょうけん国家こっか元首げんしゅとしての給与きゅうよ年額ねんがく4まん5000ライヒスマルク程度ていどであったが[348]自治体じちたい新婚しんこん家庭かていおくるために購入こうにゅうするなど、なか強制きょうせいてき販売はんばいされた『闘争とうそう』の印税いんぜいは、ヒトラー死亡しぼう時点じてん総額そうがくで800まんライヒスマルクにおよぶとられている[349]。その帝国ていこく郵政ゆうせい印刷いんさつするみずからの肖像しょうぞう切手きって肖像しょうぞう使用しようりょうっていた[345]前任ぜんにんしゃであるヒンデンブルクはこうした使用しようりょうっていなかったが、ヒトラーは額面がくめんの1%にたる金額きんがくおおとしには5000まんライヒスマルクをっていた[350]。ゲッベルスはその日記にっきに「ヒトラーが大金たいきん(viel Geld)をにするだろう」と記述きじゅつしている[345][350]。1943ねんにヒトラーは遺言ゆいごんしょいているが、そのさい処理しょりするべき財産ざいさんは550まんライヒスマルクにのぼっていた[351]。また、ヴァイマル時代じだい大統領だいとうりょう自己じこ裁量さいりょう利用りようできる基金ききん存在そんざいしていたが、ヒトラーはこの基金ききんてられたかね会計検査院かいけいけんさいん国会こっかい審査しんさしに使用しようすることもできた[352]ほか、財界ざいかいから拠出きょしゅつされた献金けんきん設立せつりつされたドイツ産業さんぎょうのためのアドルフ・ヒトラー基金ききんドイツばんもヒトラー自身じしん裁量さいりょう自由じゆう使用しようできる性質せいしつ基金ききんであったため、事実じじつじょうヒトラーの個人こじん財産ざいさんであった。その総額そうがくは700まんライヒスマルクにおよ[349]。さらにヒトラー山荘さんそう総統そうとう官邸かんていでのらしはとう政府せいふによって支弁しべんされていた[353]。こうした財産ざいさん基金ききんからヒトラーはぐん将軍しょうぐんたちや党内とうないがい有力ゆうりょくしゃに「おくもの」をおこない、かれらの忠誠ちゅうせいたもとうとしていた。

ヒトラーの死後しご財産ざいさんバイエルンしゅう管理かんりすることとなった。ヒトラーのいもうとパウラが相続そうぞくけん主張しゅちょうし、1960ねん2がつ17にち不動産ふどうさんの3ぶんの2を相続そうぞくする決定けっていおこなわれたが、まもなくパウラが死去しきょしたため、そのもバイエルンしゅう財産ざいさん管理かんりつづけている。

親族しんぞく

[編集へんしゅう]

シックルグルーバー

[編集へんしゅう]

マリア・シックルグルーバーの生涯しょうがい出産しゅっさん、そしてアロイスの改姓かいせい母方ははかた一族いちぞくけるというなぞおお行動こうどうは「なにかをかくしている」としてうわさ対象たいしょうとなった。ちちアロイスが10さいとき祖母そぼマリアはくなったが、彼女かのじょ出産しゅっさん経緯けいい息子むすこのアロイスだけでなく、まごのヒトラーにも「出自しゅつじなぞ」としていてまわことになる[15]顧問こもん弁護士べんごしであり、ポーランド総督そうとくでもあったハンス・フランクは、1930ねん異母いぼけいアロイス2せいであるおいウィリアム・パトリック・ヒトラーから「ヒトラーがユダヤじん私生児しせいじであるというはなし新聞しんぶん興味きょうみっている」とおどしをかけられたことにヒトラーが動揺どうようし、家系かけい調査ちょうさおこなわせていたと証言しょうげんしている[354]

フランクの調査ちょうさ結果けっかは「マリアはグラーツのユダヤじん資産しさん、フランケンベルガー奉公ほうこうていた時期じきにアロイスをんでおり、子息しそくレオポルト・フランケンベルガースペインばんから14年間ねんかん養育よういくっていた」として、アロイスの父親ちちおやがレオポルトであるとられるというものであった[355][356]。フランクの「フランケンベルガー実父じっぷせつ」は1950年代ねんだいまでひろしんじられていたが、次第しだい史学しがくじょう根拠こんきょけると指摘してきされるようになった[357][358]。またフランクは「ヒトラーは由緒ゆいしょただしいアーリアけいである」と矛盾むじゅんする証言しょうげんもしている[356]

1932ねんにはオーストリアの首相しゅしょうエンゲルベルト・ドルフースがヒトラーの家系かけい調査ちょうささせ、「ハイル・シックルグルーバー」という記事きじせた新聞しんぶん配布はいふし、攻撃こうげき材料ざいりょうとしたこともある[359]。またニコラウス・フォン・プレラドヴィッチドイツばんはアロイス出生しゅっしょうのグラーツでユダヤけい住民じゅうみんがすでに追放ついほうされていたことからこのせつ否定ひてい[360]、1998ねんには歴史れきし学者がくしゃでヒトラー研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃであるイアン・カーショーも「政治せいじてき攻撃こうげき材料ざいりょう以外いがいのものではない」と結論けつろんしている[358]

2010ねんには、ヒトラーの近親きんしんしゃから採取さいしゅしたDNA分析ぶんせきした結果けっか西にしヨーロッパけいにはめずらしく、きたアフリカのベルベルじんやソマリアじん、ユダヤじん一般いっぱんてきられるかたち染色せんしょくたいがあるという調査ちょうさ結果けっか発表はっぴょうされたと報道ほうどうされたが[361]とう記事きじほうじた研究けんきゅうしゃからこの報道ほうどう内容ないよう疑義ぎぎていされている[362]。むしろこの研究けんきゅう結果けっかちちアロイスがヒトラーいていることが確実かくじつとなった。

ペルツル

[編集へんしゅう]

父方ちちかたのシックルグルーバーならんでヒトラーのなやみのたねであったのが、母方ははかたのペルツルであった。祖母そぼ同名どうめいであるために、ヒトラーからは「ハンニおばさん」の渾名あだなばれていたははいもうとヨハンナ・ペルツルは重度じゅうど猫背ねこぜくるびょう)で精神せいしん疾患しっかんわずらっていた。ハンニはいもうと一家いっかから家事かじ手伝てつだいやおいめい面倒めんどうまかされ、とくあねからはたよりにされていたが、ヒトラー家政かせいヘルルからは「あたまのいかれたせむしおんな(ハンニ)」と陰口かげぐちたたかれている[363]。ハンニを診察しんさつしたブラウナウ医師いし現代げんだいてき呼称こしょうえば統合とうごう失調しっちょうしょう相当そうとうする症状しょうじょうているとの診断しんだんくだし、ヒトラーかかりつけの医師いしエドゥアルド・ブロッホもヒトラーはヨハンナを周囲しゅういからかくしていたと証言しょうげんし、「おそらく軽度けいど精神せいしん薄弱はくじゃくである」と診断しんだんしている[363]

後年こうねんT4作戦さくせん劣等れっとう人種じんしゅ障碍しょうがいしゃならんで精神せいしん患者かんじゃ抹殺まっさつしようとしたナチスやヒトラーにとって、その親族しんぞく精神せいしん患者かんじゃ存在そんざいしたという過去かこかくさねばならなかった[363]。ナチ政権せいけん歴史れきしたちはヒトラー顕彰けんしょうつとめたが、ペルツル存在そんざいだけはほとんどれられていない[363]。なお、ペルツル以外いがいにも低地ていちオーストリアヴァルトフィアテルドイツばん地方ちほうにはペルツル親族しんぞくいくらか点在てんざいしているが、一族いちぞくという概念がいねんきらうヒトラーからはその存在そんざいをほとんど無視むしされていた。それにもかかわらずかれ一族郎党いちぞくろうとう後年こうねん「アドルフ・ヒトラーの血族けつぞく」として迫害はくがいけることになった[364]

長兄ちょうけいアロイス2せいのヒトラー

[編集へんしゅう]

長兄ちょうけいアロイスはブリジット・ダウリング英語えいごばんという女性じょせい結婚けっこんしてウィリアム・パトリック・ヒトラーもうけたが、離婚りこんしている。のちハインリヒ・ヒトラーもうけた。ウィリアム・パトリックはのちにヒトラーの血縁けつえんしゃとしてべいえいのメディアに紹介しょうかいされ、だい世界せかい大戦たいせんでは連合れんごうこくがわ従軍じゅうぐんしている。ハインリヒはドイツぐん従軍じゅうぐんし、東部とうぶ戦線せんせんで1942ねん死亡しぼうしている。

長姉ちょうしアンゲラの血縁けつえん

[編集へんしゅう]

長女ちょうじょアンゲラはちちおな税務ぜいむかんであったレオ・ラウバルと結婚けっこんし、アンゲラことゲリ・ラウバル、レオドイツばん、エルフリードをもうけた。アンゲラはおっと死別しべつ建築けんちくマルティン・ハミッチュドイツばん再婚さいこんしている。レオもハインリヒ・ヒトラー同様どうようだい世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんし、スターリングラードのたたかいで捕虜ほりょとなった。ソ連それんがわからスターリンの息子むすこヤーコフ・ジュガシヴィリとの捕虜ほりょ交換こうかんちかけられたが、ヒトラーは拒否きょひしている。レオは捕虜ほりょとなりながらもび、戦後せんご帰還きかんしている。

勲章くんしょう

[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん軍人ぐんじんだったこともあり数々かずかず勲章くんしょうけているが、普段ふだん佩用はいようしていたのは黄金おうごん党員とういんあきら一級いっきゅうてつじゅうあきら戦傷せんしょうしょうの3つだけだった。

ドイツ国内こくない

[編集へんしゅう]

ドイツ国外こくがい

[編集へんしゅう]

逸話いつわ

[編集へんしゅう]

生存せいぞんせつ

[編集へんしゅう]

ヒトラーの遺体いたい西側にしがわ諸国しょこく公式こうしき確認かくにんされなかったうえ終戦しゅうせん直前ちょくぜんから戦後せんごにかけて、アドルフ・アイヒマンなどのおおくのナチス高官こうかんUボート使用しようしたり、バチカンなどの協力きょうりょくけ、イタリアやスペイン北欧ほくおう経由けいゆしてアルゼンチンやチリなどの中南米ちゅうなんべい友好国ゆうこうこくなどに逃亡とうぼうしたため、ヒトラーもおなじように逃亡とうぼうしたというせつ戦後せんごまことしやかにささやかれるようになった。

  • 1945ねん7がつ17にちポツダム会談かいだん席上せきじょう、スターリンが連合れんごうこく首脳しゅのうたちに「ヒトラーは逃亡とうぼうした」とつたえられたことが最初さいしょとするせつもある。
  • そのうえ副官ふっかんオットー・ギュンシェハインツ・リンゲらをはじめとするヒトラーの遺体いたい処分しょぶんした側近そっきんたちの証言しょうげんが、それぞれ「拳銃けんじゅう自殺じさつした」「青酸せいさんカリをんだ」「安楽あんらく」とまったくことなることもうわさをつけた。
  • 戦後せんごアルゼンチンで降伏ごうぶくした潜水せんすいかんU977ドイツばん」のハインツ・シェッファー (Heinz Schäffer) 艦長かんちょうは、ヒトラーをどこにはこんだかを尋問じんもんされたことや、当時とうじ新聞しんぶんでのいい加減かげん生存せいぞんせつ報道ほうどうぶりを自伝じでん戦記せんきのこしている。アメリカやイギリスなどの西側にしがわ諸国しょこくもこの可能かのうせい本気ほんきさぐったものの、のち公式こうしき否定ひていした。FBIは、ヒトラー自殺じさつかんする捜査そうさを1956ねん終了しゅうりょうしている。
  • それらのうわさほかに、「まだ戦争せんそうつづけていた同盟どうめいこく日本にっぽんにUボートで亡命ぼうめいした」というせつ[365]や、「アルゼンチン経由けいゆ戦前せんぜん南極なんきょくつくられた探検たんけん基地きちまでげた」という突飛とっぴせつては「ヒトラーはずっときていて、つい最近さいきん心臓しんぞう発作ほっさのため103さい死亡しぼうした」という報道ほうどう1992ねんフロリダしゅう発行はっこうされているタブロイド新聞しんぶんより)まであらわれた。
  • そのひがし機関きかん(TO諜報ちょうほう機関きかんとも)のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ証言しょうげんなかに、「ヒトラーは自殺じさつせず、ボルマンにれられて逃亡とうぼうした」というものもある。この生存せいぞんせつ主題しゅだいにした作品さくひんひとつに落合おちあい信彦のぶひこの『20世紀せいき最後さいご真実しんじつ』がある。
ヒトラーの頭蓋骨ずがいこつ
俗説ぞくせつひとつに、「晩年ばんねんのスターリンが『ヒトラーが生存せいぞんしているのではないか』といううわさつたびに、自宅じたく裏庭うらにわからばここしちゅう頭蓋骨ずがいこつ確認かくにんしてもどした」というエピソードがある。
2009ねん9がつ29にち、アメリカのコネチカット大学だいがく考古こうこ学者がくしゃニック・ベラントーニ (Nick Bellantoni) が、それまでヒトラーのものであるとされてきた頭蓋骨ずがいこつ鑑定かんていし、頭蓋骨ずがいこつ女性じょせいとしての特徴とくちょうしめしたためにDNA鑑定かんていおこなったところ、ヒトラーのものではなく非常ひじょうわか女性じょせい頭蓋骨ずがいこつであると結論けつろんけられている(en:MysteryQuest#Notable case findings参照さんしょう[366][367][368][出典しゅってん無効むこう]
また、ヒトラーが自殺じさつしたときすわっていたソファーの断片だんぺん付着ふちゃくした血痕けっこんからDNAを抽出ちゅうしゅつすることに成功せいこうしたが、アメリカ在住ざいじゅうのヒトラーの近親きんしんしゃあにアロイス2せい子孫しそん)から比較ひかくサンプルの提供ていきょう拒否きょひされ、同定どうていいたっていない。ただし同年どうねん12がつ8にちさき報道ほうどうについてロシア連邦れんぽう保安庁ほあんちょう (FSB) は現存げんそんしているあごほねをコネチカット大学だいがく入手にゅうしゅしたことはないと否定ひていしているとインタファクス通信いんたふぁくすつうしん報道ほうどうされた[369][370]
CIAもと極秘ごくひ文書ぶんしょ
2015ねん11月15にちづけ英紙えいしデイリー・メールひとしによると、コロンビアジャーナリスト、ホセ・カルデナスが1990年代ねんだい機密きみつ指定してい解除かいじょされたCIAもと極秘ごくひ文書ぶんしょなかにヒトラーにかんする資料しりょうがあることを発見はっけんツイッター公開こうかいしたことでヒトラー生存せいぞんせつ注目ちゅうもくあつめている。
どう文書ぶんしょにはヒトラーが戦後せんご、コロンビアに逃亡とうぼうし、もとナチス党員とういんのコミュニティを形成けいせいしているという情報じょうほうせられており、1954ねんにコロンビアのトゥンハ撮影さつえいされたとされる写真しゃしん同封どうふうされているという。そこにはインフォーマントであるフィリッピ・シトロエンとともにヒトラーらしき人物じんぶつうつっている[371][よう検証けんしょう]
どう文書ぶんしょによると、シトロエンは鉄道てつどう会社かいしゃ勤務きんむしていたとき、トゥンハの“レシデンシエス・コロニアス(殖民しょくみん住居じゅうきょ)”で“長老ちょうろう総統そうとう”とばれるヒトラーに酷似こくじした人物じんぶつ紹介しょうかいされた。トゥンハにはもとナチス兵士へいし党員とういんおもわれるドイツじん多数たすう居住きょじゅうしており、長老ちょうろう総統そうとうナチスしき敬礼けいれいをしていたという。シトロエンはCIAエージェントに長老ちょうろう総統そうとう写真しゃしんせたが、真剣しんけんってもらえなかった。
しかし、1955ねんに「Cimelody-3」というコードネームのおとこがエージェントに接触せっしょくし、シトロエンのはなし真実しんじつであり、いま定期ていきてき長老ちょうろう総統そうとう連絡れんらくっているが、長老ちょうろう総統そうとう自身じしんは1955ねんにコロンビアからアルゼンチンわたり、すでにトゥンハにはいないとかたった。このはなし興味きょうみいたエージェントは上司じょうし報告ほうこくしたが、「確実かくじつ証拠しょうこつかむためには多大ただい努力どりょくようする」との理由りゆうやみほうむられた[372]

子供こども

[編集へんしゅう]

ヒトラーがだいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんしたさい部隊ぶたい駐屯ちゅうとんであったフランス北部ほくぶサン=カンタン現地げんち女性じょせいしたしい関係かんけいになり、おとこまれたというせつがある。

このせつは1978ねん6がつにミュンヘン現代げんだい研究所けんきゅうじょヴェルナー・マーザー発表はっぴょうした。マーザーはその子供こどもを、現地げんちでドイツへい私生児しせいじとしてられていたジャン=マリー・ロレ (Jean-Marie Loret) と推定すいていした。ロレは母親ははおやさい父親ちちおやがヒトラーであるとかたったと証言しょうげんしていた。ロレの証言しょうげんによると、ロレがまれたときにはヒトラーは負傷ふしょうにより後方こうほうおくられていたため、ロレの存在そんざいかれつたえられなかったとしている。また、ロレはだい世界せかい大戦たいせんにはたいどくレジスタンスくわわり、ドイツぐん逮捕たいほされたこともあるが出自しゅつじへの同情どうじょうからか釈放しゃくほうされ、のち経済けいざいてき支援しえんけたと主張しゅちょうしていた。

このニュースは世界中せかいじゅう話題わだいとなり、日本にっぽんにもTBSのテレビ番組ばんぐみ出演しゅつえんするためにロレがおとずれている。同年どうねんTBSブリタニカから『ヒトラー・ある息子むすこ父親ちちおや』という書籍しょせき発売はつばいされている。

しかし、ロレの叔母おばはロレの母親ははおや相手あいてであるドイツへいはヒトラーではないと主張しゅちょうしており、ロレの母親ははおやが『ドイツじん息子むすこ』とっただけであるのに『ヒトラー』と勘違かんちがいしたとしている。そのおおくの矛盾むじゅんてんつかり、マーザーのせつ支持しじするもの少数しょうすうとなった。1979ねんアシャッフェンブルクひらかれた歴史れきし討論とうろんかいにおいてこの問題もんだい議論ぎろんされたさい、マーザーは当初とうしょしずかだったが、突然とつぜん「ヒトラーに嫡出ちゃくしゅつがいたかどうかが問題もんだい」だと宣言せんげんし、以降いこう議論ぎろんにおいて完全かんぜん沈黙ちんもくした。マーザーは経済けいざいてき理由りゆうでロレとも衝突しょうとつし、以降いこうロレに言及げんきゅうすることはくなった。ロレはその自叙伝じじょでんしたが、1985ねん死亡しぼうした。

2008ねんになりベルギーのジャーナリストジャン=ポール・ムルダーオランダばんはヒトラーの血縁けつえんしゃDNA、およびロレのDNAを専門せんもん機関きかんおく比較ひかく検査けんささせた。その結果けっかとして「ロレはヒトラーの子供こどもではない」という結論けつろん発表はっぴょうしている。

このほかに、エヴァ・ブラウンのこしたとされるタイプ日記にっき記述きじゅつから、1942ねんなつにエヴァがドレスデン男児だんじ出産しゅっさんしており、その男児だんじはこれまで実子じっしがいないとされてきたヒトラーの子供こどもではないかとするせつがある[373]

戦後せんご西にしドイツ国内こくない評価ひょうか

[編集へんしゅう]

1975ねん西にしドイツのアレンスバッハ世論せろん調査ちょうさしょが「ドイツにもっとも貢献こうけんした人物じんぶつ」のアンケートをったところ、ヒトラーと回答かいとうしたものが 3%におよんだ。割合わりあいすくないものの6200まんにん西にしドイツ国民こくみんのうちやく200まんにんはヒトラーをたか評価ひょうかしていたこととなる[374]

創作そうさく作品さくひん

[編集へんしゅう]

映画えいが

[編集へんしゅう]

テレビ映画えいが

[編集へんしゅう]

テレビドラマ

[編集へんしゅう]

テレビ番組ばんぐみ

[編集へんしゅう]
  • ジョン・クリーズそらぶモンティ・パイソン』『フォルティ・タワーズ』など(ただしヒトラーなど象徴しょうちょうされるナチズムそのものをカリカチュアしている)
  • NHKスペシャル 映像えいぞう世紀せいき だい4しょう〜ヒトラーの野望やぼう
  • NHKスペシャル しん映像えいぞう世紀せいき だい3しょう時代じだい独裁どくさいしゃもとめた〜

舞台ぶたい

[編集へんしゅう]

ドキュメンタリー

[編集へんしゅう]

小説しょうせつ

[編集へんしゅう]
  • ほし新一しんいち『ほら男爵だんしゃく現代げんだい冒険ぼうけん』(1970ねん[378] - ある場所ばしょ潜伏せんぷくしているヒトラーと主人公しゅじんこう出会であう。
  • 川田かわたたけしがつじゅうにちのチャップリン』(2005ねん[379] - 政権せいけん以前いぜんのヒトラーが訪独ほうどくしたチャールズ・チャップリン出会であい、以後いごふかかかわっていく歴史れきしミステリー。
  • ティムール・ヴェルメシュかえってきたヒトラー』(2012ねん) - 2011ねんのドイツにタイムスリップしたヒトラーが、コメディアンとして有名ゆうめいになりながらもふたた政界せいかいへの復帰ふっき目指めざしていく姿すがたえがいた風刺ふうし小説しょうせつ
  • ゴルゴ13 だいいちしょうしん々の黄昏たそがれ』 - ネオナチ最新さいしん技術ぎじゅつのうだけできており、ラストボスとなる。
  • ヒットラーの復活ふっかつ トップシークレット』 - 表題ひょうだいどおり、てき勢力せいりょくである帝国ていこくぐんがヒトラーの復活ふっかつ画策かくさくしており、最終さいしゅうてきには復活ふっかつしたヒトラーが帝国ていこくぐん総統そうとうころし、飛行ひこう戦艦せんかんんでラストボスとなる。
  • ダウンロード2』 - ラストボスとして登場とうじょう。データじょう意識いしきとしてさい構成こうせいされたものを民族みんぞく評議ひょうぎかいぬすんで利用りようしようとしたものの、ぎゃくかれらを壊滅かいめつさせてネットワークじょう暴走ぼうそうする。名前なまえず「だい世界せかい大戦たいせんとき独裁どくさいしゃで、あく帝王ていおうばれた人物じんぶつ」としかかたられない(スタッフロールでの表記ひょうきは「EMPEROR」)が、外見がいけんはヒトラーにもとづいている。
  • ペルソナ2〜つみ』 - 物語ものがたりかぎにぎ奇書きしょ「イン・ラケチ」によりひろまったうわさもとづき、物語ものがたり舞台ぶたいであるたまあいだ瑠市にラスト・バタリオンをひきいて襲来しゅうらいしてくる。本人ほんにんというわけではなく、物語ものがたり黒幕くろまく・ニャルラトホテプの化身けしんひとつ。PSPばんではかおグラフィックに一部いちぶ修正しゅうせいがされ、「フューラー」と名乗なの登場とうじょうする(またムービー「ラスト・バタリオン襲来しゅうらい」も一部いちぶ修正しゅうせいされている)。
  • ウルフェンシュタインシリーズ』-「Wolfenstein3D」ではボスてきとして人造じんぞう人間にんげん姿すがた登場とうじょうするほか。「Wolfenstein II: The New Colossus」では金星きんぼし居住きょじゅう登場とうじょうする(ドイツばんでは一部いちぶ修正しゅうせいしている)。

漫画まんが

[編集へんしゅう]

発表はっぴょう年代ねんだいじゅん

関連かんれん書籍しょせき

[編集へんしゅう]
  • 戦前せんぜん戦中せんちゅう文献ぶんけん
    • 『ヒトラーの獅子吼ししく 復興ふっこう独逸どいつ英雄えいゆうヒトラー首相しゅしょう演説えんぜつしゅうたききよしやく日本にっぽん講演こうえんしゃ、1933ねん
      • (Das junge Deutschland will Arbeit und Frieden 1933ねん
    • 『ナチとはなにか』佐藤さとう荘一しょういちろうやく青年せいねん書房しょぼう、1939ねん
      • (Adolf Hitlers Reden だいはん 1933ねん
    • 『わが闘争とうそう大久保おおくぼ康雄やすおわけ三笠みかさ書房しょぼう、1937ねん抄訳しょうやく
    • 『ヒットラー語録ごろく西村にしむら隆三郎りゅうざぶろうへんやく(ヘラルド雑誌ざっししゃ、1939ねん
    • 青年せいねんげきす』近藤こんどう春雄はるおへんやく三省堂さんせいどう、1940ねん
    • 『ヒトラー総統そうとう演説えんぜつしゅう工藤くどうちょうしゅくやくてつじゅうしゃ、1940ねん
    • しん秩序ちつじょ上巻じょうかん)』ほり真琴まことやく青年せいねん書房しょぼう、1942ねん
    • しん秩序ちつじょ下巻げかん)』ほり真琴まこと内山うちやま賢次けんじ村上むらかみあきらおっとやく高山たかやま書院しょいん、1944ねん
      • (My New Order :Raoul de Roussy De Salesへん 1941ねん
    • 独逸どいつ決戦けっせん態度たいど ヒトラー総統そうとう最近さいきん宣言せんげん工藤くどうちょうしゅくやくてつじゅうしゃ、1943ねん
    研究けんきゅうしょ
    • 石田いしだ勇治ゆうじ 『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2015ねん
    • 大澤おおさわ武男たけお 『ヒトラーとユダヤじん』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、1995ねん
    • しば健介けんすけ『ヒトラー 虚像きょぞう独裁どくさいしゃ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2021ねん9がつISBN 9784004318958全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:23608987 
    • ヒトラーとは何者なにものだったのか? 厳選げんせん220さつからく (学研がっけんM文庫ぶんこ 2008ねん)、阿部あべ良男よしお編著へんちょ
    • Christin-Désirée Rudolph 『ヒトラーの論文ろんぶんのリーク: Eine Psychopathographie』(ルドルフ 2016)ISBN 978-3-00-053332-7

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 国家こっか元首げんしゅ権能けんのう掌握しょうあくした
  2. ^ れいとしては、『広辞苑こうじえんだいさんはん、『大辞林だいじりんだいはんでは「ナチズム」を古代こだいローマコンスルによる執政しっせい、ファシズムとなら独裁どくさい政治せいじ典型てんけいとしている。また、平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんだいはんの「独裁どくさい」(加藤かとう哲郎てつろう執筆しっぴつ)のこうには「歴史れきしじょう独裁どくさいは、個人こじん名前なまえむすびつけられることがおおく、古代こだいローマのカエサルはた始皇帝しこうてい、イギリス清教徒せいきょうと革命かくめいイングランド共和きょうわこく時代じだい)のオリバー・クロムウェル、フランスのナポレオン・ボナパルト、ナチスドイツのヒトラー、ソ連それんヨシフ・スターリンなどがそのれいである。」と代表だいひょうてき独裁どくさいしゃとしてかれげている。
  3. ^ 全権ぜんけん委任いにんほう成立せいりつを、カール・シュミット政府せいふ制限せいげん権力けんりょくあたえられたとひょうしている[4]。また伝統でんとうてきしょうくに分立ぶんりつしていたドイツでは、ドイツ統一とういつ以降いこうバイエルン王国おうこくなどしゅうくに自治じち権力けんりょくつよく、1933ねんのナチとうによる各州かくしゅう政府せいふのクーデターまでその状態じょうたいつづいていた。ナチとう自身じしんもその権力けんりょくおおきさを認識にんしきしており、1934ねん8がつ国家こっか元首げんしゅ就任しゅうにんおこなわれたヒトラーの布告ふこくでは「ライヒの最高さいこう権力けんりょくからぜん行政ぎょうせい機構きこう末端まったん地区ちく指導しどういたるまで、ドイツライヒはナチスとうなかにある」と言明げんめいし、そのとしとう大会たいかいでは「民族みんぞく指導しどう今日きょうドイツにおいてあらゆる権力けんりょく掌握しょうあくしている」と宣言せんげんされている[5]
  4. ^ 名前なまえ研究けんきゅうユルゲン・ウードルフはヒトラーせいはバイエルンやオーストリア各地かくちつたわる「地下水ちかすいみゃく」と「いずみ」などをあらわ方言ほうげん語源ごげんとするせつ主張しゅちょうしている
  5. ^ 闘争とうそう』には「役所やくしょからわたしのために扶助ふじょりょうのやうなものががるけれど、それではみずめないほど僅」「ちち遺産いさん多少たしょうあつたけれども、はは病気びょうきほとんえてしまった」[69]べている。当時とうじわか教師きょうし月給げっきゅうが66クローネ、ウィーン実科じっか学校がっこう高級こうきゅう事務じむかん月給げっきゅうが82クローネであった(村瀬むらせ 1977, p. 116-117)。
  6. ^ 上等じょうとうへい伍長ごちょう勤務きんむ上等じょうとうへいとも邦訳ほうやくされるが、確定かくていてきわけはない。現代げんだいにおいてもこの階級かいきゅうドイツ連邦れんぽうぐんオーストリアぐんスイスぐんひとしドイツ語どいつごけん存在そんざいしており、NATOぐん階級かいきゅう一覧いちらんひょう英語えいごばんでは、OR-2(一等いっとうへい)に相当そうとうする分類ぶんるいになっている。しばしばヒトラーの最終さいしゅう階級かいきゅうひくさを揶揄やゆして「ボヘミアの伍長ごちょう」などと呼称こしょうするれいおおいが、ゲフライターは下士官かしかん伍長ごちょう)ではないため、正確せいかく表現ひょうげんとはえない。
  7. ^ フィンランドドイツのメダル受賞じゅしょうしゃ握手あくしゅわしたものの、ベルギー出身しゅっしん当時とうじのIOC会長かいちょうであったアンリ・ド・バイエ=ラトゥールすべての受賞じゅしょうしゃおなじことをするつもりがないなら、握手あくしゅをやめるようっており、そのおそらくオーエンスの勝利しょうりおそ以降いこう、ヒトラーが選手せんしゅたい祝福しゅくふくをすることはなかった[132]
  8. ^ 4がつ24にち陸軍りくぐんそう司令しれい統帥とうすいけんはノイルーフェン基地きち脱出だっしゅつした国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい委譲いじょうされ、南部なんぶ指揮しきけん国防こくぼうぐんそう司令しれい次長じちょうヴィンター中将ちゅうじょう中央ちゅうおうぐん集団しゅうだん司令しれいかんシェルナー元帥げんすい南部なんぶ方面ほうめんぐん集団しゅうだんレンデュリック大将たいしょう分担ぶんたんすることになった。
  9. ^ 4がつ22にちゴットロープ・ベルガー親衛隊しんえいたい大将たいしょうとの会話かいわ[230]
  10. ^ ただしジョン・トーランドは、結婚けっこん証明しょうめいしょ日付ひづけなおされていることから、4がつ28にちちゅう結婚けっこんおこなわれたものとている。
  11. ^ フランツ・イェツィンガー、村瀬むらせきょうゆう[237]
  12. ^ 邦訳ほうやくだいは『ヒトラーと哲学てつがくしゃ哲学てつがくナチズムとどうかかわったか』。
  13. ^ 1941ねん7がつ21にちから22にちのヒトラー談話だんわ[267]
  14. ^ べつ味方みかた(イタリア)も結局けっきょくただしいがわについて戦争せんそうえるくにだ」とくわえている。これはナポレオン・ボナパルトの「イタリアはけっして開戦かいせん味方みかたこく最後さいごまでくだりともにしたことはない。味方みかたえた場合ばあいべつだが」をもじったものである[274]
  15. ^ 闘争とうそう』では、「にち戦争せんそうではわたしはじめから日本にっぽん味方みかたした」とかれているが、これはロシアの敗北はいぼくがオーストリア国内こくないにいるスラブ民族みんぞく敗北はいぼくにつながるという理屈りくつからである[278]
  16. ^ 改造かいぞうごう児島こじま喜久雄きくお記事きじでは、ふう濤図のほか六波羅蜜ろくはらみつてら平清盛たいらのきよもり坐像ざぞう俵屋たわらや宗達そうたつ扇面せんめん尾形おがた光琳こうりん鳥類ちょうるい写生しゃせいちょうげられている。またほかの記事きじではいくつかの美術びじゅつひんがヒトラーのとどまったとかれている(安松やすまつみゆき 2000, p. 145)。
  17. ^ 1942ねん2がつ17にちのヒトラー談話だんわ[280]
  18. ^ 1942ねん1がつ7にちのヒトラー談話だんわ[281]
  19. ^ 1941ねん11月5にちのヒトラー談話だんわ[284]
  20. ^ 作家さっかカール・ツックマイヤー回想かいそう[292]
  21. ^ ヴィルヘルム・モーンケ親衛隊しんえいたい少将しょうしょうとの会話かいわ[308]
  22. ^ 1944ねん10がつ1にちには総統そうとう医師いしだん一人ひとり、ギーシングがモレルの解任かいにんもとめたがヒトラーは承諾しょうだくしなかった。その、ヒトラーの指示しじけたヒムラーによってモレル以外いがい総統そうとう専属せんぞく医師いし解任かいにんされた。ただしモレルの治療ちりょう投薬とうやく中止ちゅうしされ、以降いこうヒトラーの治療ちりょうシュトゥンプフエッガーSS少佐しょうさ担当たんとうすることになる。
  23. ^ 1945ねん10がつ17にち、ニュルンベルクにおけるハウスホーファーの証言しょうげん[323]
  24. ^ bastarden (bastard) とはしなのない言葉ことばで「野郎やろう」のほか雑種ざっしゅいぬ)、結婚けっこんしていない男女だんじょども、ということにもなる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. (2005). p. 135, 405. ISBN 978-3-411-04066-7 
  2. ^ a b c きょうゆう, 村瀬むらせ日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) コトバンク. 2019ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  3. ^ エバーハルト・イェッケルドイツばんなどがとなえるヒトラーがホロコーストの中心ちゅうしんてき推進すいしんしゃであったというかんがえは「意図いとせつ」とばれ、マルティン・ブロシャート提唱ていしょうしたナチス・ドイツの機構きこう自体じたい即興そっきょうてきった政策せいさくかさねが大量たいりょう虐殺ぎゃくさつにつながったというかんがえは「構造こうぞう機能きのう」とばれる。構造こうぞうなかにもその構造こうぞう中心ちゅうしんにいたのはヒトラーであると解釈かいしゃくする研究けんきゅうしゃもいる。 しば健介けんすけ『ホロコースト』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2008ねんISBN 9784121019431 、243-248p
  4. ^ みなみ利明としあき民族みんぞく共同きょうどうたいほう() : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「ほう」なき支配しはい体制たいせい」『静岡大学しずおかだいがくほうけい研究けんきゅうだい24かんだい2ごう静岡大学しずおかだいがくほうけい学会がっかい、1988ねん、199-223ぺーじdoi:10.14945/00003567NAID 110007616176 
  5. ^ みなみ 2003a, pp. 23–24.
  6. ^ a b みなみ 2003b, pp. 69–70.
  7. ^ みなみ 2003a, p. 20.
  8. ^ みなみ利明としあき民族みんぞく共同きょうどうたいほう(1) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「ほう」なき支配しはい体制たいせい」『静岡大学しずおかだいがくほうけい研究けんきゅうだい37かんだい3ごう静岡大学しずおかだいがくほうけい学会がっかい、1988ねん1がつ、3-4ぺーじdoi:10.14945/00003568NAID 110007653230 
  9. ^ みなみ利明としあき民族みんぞく共同きょうどうたいほう(6) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「ほう」なき支配しはい体制たいせい」『静岡大学しずおかだいがくほうけい研究けんきゅうだい39かんだい3ごう静岡大学しずおかだいがくほうけい学会がっかい、1990ねん12月、147-158ぺーじ 
  10. ^ みなみ利明としあき民族みんぞく共同きょうどうたいほう(12) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「ほう」なき支配しはい体制たいせい」『静岡大学しずおかだいがくほうけい研究けんきゅうだい41かんだい2ごう静岡大学しずおかだいがくほうけいけん学会がっかい、1992ねん8がつ、48-58ぺーじ 
  11. ^ 堀内ほりうち直哉なおや「1937ねん11月5にちの「総統そうとう官邸かんてい」における秘密ひみつ会議かいぎ : ヒトラー政権せいけん軍備ぐんび問題もんだいをめぐって」(PDF)『目白大学めじろだいがくじん文学ぶんがく研究けんきゅうだい3ごう目白大学めじろだいがく、2006ねん、pp.47-63、NAID 110007000946 
  12. ^ a b シュトラール 2006, p. 82.
  13. ^ Shirer, W. L. (1960), The Rise and Fall of the Third Reich, New York: Simon and Schuster
  14. ^ Rosenbaum, R. (1999). Explaining Hitler: The Search for the Origins of His Evil. Harper Perennial. ISBN 0-06-095339-X
  15. ^ a b c d e シュトラール 2006, p. 12-13.
  16. ^ Shirer (1990-11-15), The Rise and Fall of the Third Reich, p.7.
  17. ^ a b c シュトラール 2006, p. 18-19.
  18. ^ a b c d シュトラール 2006, p. 16-17.
  19. ^ クビツェク『アドルフ・ヒトラーの青春せいしゅん』p.392、三交社さんこうしゃ、2005ねん
  20. ^ シュトラール 2006, p. 15.
  21. ^ 1920ねん大正たいしょう9ねん)11がつ10日とおか、ミュンヘン一揆いっき情報じょうほう大野おおの代理だいり大使たいし外務省がいむしょう打電だでんしたが、その電文でんぶんでは『情報じょうほうレハKabr Losoaw革命かくめい政府せいふ任命にんめいだくセルハHither いち脅迫きょうはくもとキタルモノナルよしニテ「カール」ハ其及かんない革命かくめい逮捕たいほいのちシRachnerハおのれ逮捕たいほセラレ「ヒットレル」「ルーデンドルフ」ハ「ミューンヘン」陸軍りくぐん省内しょうない押込おしごめラレもどレリト』とある(JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)、Ref.B03050996700、だい6画像がぞう)。また、合同ごうどう通信つうしん配信はいしんした記事きじにも「復辟ふくへき首領しゅりょうヒットレル」と記載きさいされている(児島こじま だい1かん、67ぺーじ)。
  22. ^ a b c シュトラール 2006, p. 14.
  23. ^ a b c d シュトラール 2006, p. 22-23.
  24. ^ a b c シュトラール 2006, p. 24-25.
  25. ^ 増谷ますたに英樹ひでき古田ふるた善文よしふみ図説ずせつオーストリアの歴史れきし河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ〈ふくろうのほん〉、2011ねん9がつ、64ぺーじISBN 9784309761756 
  26. ^ a b シュトラール 2006, p. 32.
  27. ^ Rosmus 2004, p. 33.
  28. ^ Keller 2010, p. 15.
  29. ^ Hamann 2010, pp. 7–8.
  30. ^ Kubizek 2006, p. 37.
  31. ^ a b Payne 1990[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  32. ^ a b シュトラール 2006, p. 159.
  33. ^ Kubizek 2006, p. 92.
  34. ^ Hitler 1999, p. 6.
  35. ^ Fromm 1977, pp. 493–498.
  36. ^ Shirer, p.27[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  37. ^ Rosmus, op cit, p. 35
  38. ^ a b 村瀬むらせ 1977, p. 102-103.
  39. ^ Payne 1990, p. 22.
  40. ^ "Adolf Hitler Video ?". History.com. Retrieved 2010-04-28.
  41. ^ Kershaw 2008, p. 9.
  42. ^ Hitler 1999, p. 8.
  43. ^ Keller 2010, pp. 33–34.
  44. ^ Fest 1977, p. 32.
  45. ^ Kershaw 2008, p. 8.
  46. ^ Hitler 1999, p. 10.
  47. ^ Evans 2003, pp. 163–164.
  48. ^ a b 村瀬むらせ 1977, p. 90-91.
  49. ^ Bendersky 2000, p. 26.
  50. ^ Ryschka 2008, p. 35.
  51. ^ Hamann 2010, p. 13.
  52. ^ a b c d e 村瀬むらせ 1977, p. 104-105.
  53. ^ Kershaw 1999, p. 20.
  54. ^ トーランド 1990a, p. 55.
  55. ^ シュトラール 2006, p. 244-245.
  56. ^ a b 村瀬むらせ 1977, p. 108-109.
  57. ^ a b c d e f g h 村瀬むらせ 1977, p. 112-113.
  58. ^ a b c d シュトラール 2006, p. 51-52.
  59. ^ a b シュトラール 2006, p. 52-53.
  60. ^ Bullock 1962, pp. 30–31
  61. ^ Bullock 1962, pp. 30–31.
  62. ^ a b ズビニェク・ゼーマン ちょ山田やまだよしあきら やく『ヒトラーをやじりたおせ― だいさん帝国ていこくのカリカチュア』平凡社へいぼんしゃ、1990ねん8がつISBN 4582286046 [ようページ番号ばんごう]
  63. ^ a b c d 村瀬むらせ 1977, p. 116-117.
  64. ^ a b c d シュトラール 2006, p. 54-55.
  65. ^ トーランド 1990a, p. 71.
  66. ^ a b 村瀬むらせ 1977, p. 117-118.
  67. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 116.
  68. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 117.
  69. ^ ヒトラー総統そうとうちょ マイン・カムプの内政ないせいへん (いち)/1939ねん(じょう_127)(外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B10070249400  31-32ぺーじ
  70. ^ シュトラール 2006, p. 250-251.
  71. ^ シュトラール 2006, p. 248-249.
  72. ^ a b 村瀬むらせ 1977, p. 119-120.
  73. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 121-122.
  74. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 122.
  75. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 134-135.
  76. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 137.
  77. ^ a b c d 村瀬むらせ 1977, p. 144-145.
  78. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 137-138.
  79. ^ a b c カーショー上巻じょうかん,pp.60-96.
  80. ^ Hamann & Thornton 1999
  81. ^ Hitler 1998, §2
  82. ^ a b 村瀬むらせ 1977, p. 146.
  83. ^ a b c 村瀬むらせ 1977, p. 146-147.
  84. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 148.
  85. ^ a b 村瀬むらせ 1977, p. 152.
  86. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 153.
  87. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 151.
  88. ^ Shirer 1990, p. 53
  89. ^ Bullock 1962, p. 52
  90. ^ “Adolf Hitler a war hero? Anything but, said first world war comrades”. The Guardian. (2010ねん8がつ16にち). https://www.theguardian.com/world/2010/aug/16/new-evidence-adolf-hitler 2019ねん2がつ8にち閲覧えつらん 
  91. ^ 児島こじまじょうだい世界せかい大戦たいせん ヒトラーのたたかい』[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  92. ^ Rosenbaum, Ron, "Everything You Need To Know About Hitler's "Missing" Testicle", Slate, 28 Nov. 2008
  93. ^ Alastair Jamieson (2008ねん11月19にち). “Nazi leader Hitler really did have only one ball - Telegraph”. The Telegraph. https://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/howaboutthat/3481932/Nazi-leader-Hitler-really-did-have-only-one-ball.html 2019ねん2がつ8にち閲覧えつらん 
  94. ^ Keegan 1987, pp. 238–240
  95. ^ Lewis 2003
  96. ^ Dawidowicz 1986
  97. ^ Bullock 1962, p. 60
  98. ^ トーランド 1990a, p. 23.
  99. ^ a b c d e 高田たかだ博行ひろゆき 2014, p. 20.
  100. ^ 1919 Picture of Hitler, Historisches Lexikon Bayerns, オリジナルの2015-11-07時点じてんにおけるアーカイブ。, https://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/howaboutthat/3481932/Nazi-leader-Hitler-really-did-have-only-one-ball.html 2008ねん5がつ22にち閲覧えつらん 
  101. ^ Josef Schüßlburner (2009ねん5がつ1にち). “Vergangenheitsbewältigung am Ersten Mai: Sozialdemokrat Adolf Hitler”. Lichtschlag Medien und Werbung KG. 2019ねん2がつ8にち閲覧えつらん
  102. ^ 1922ねん3がつ24にちづけミュンヒナー・ポスト
  103. ^ a b Ian Kershaw: Hitler. 1889–1936. Stuttgart 1998, S. 164; David Clay Large: Hitlers München – Aufstieg und Fall der Hauptstadt der Bewegung, München 2001, S. 159.
  104. ^ Josef Schüßlburner (2013ねん5がつ23にち). “Sozialdemokratie und Nationalsozialismus: Heil Dir, Lassalle!”. eigentümlich frei. Lichtschlag Medien und Werbung KG. 2019ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  105. ^ 村瀬むらせ 1977, p. 164.
  106. ^ a b c d e f 高田たかだ博行ひろゆき 2014, p. 22.
  107. ^ Stackelberg, Roderick (2007), The Routledge Companion to Nazi Germany, New York, NY: Routledge, p. 9, ISBN 0-415-30860-7 
  108. ^ Samuel W. Mitcham, Why Hitler?: the genesis of the Nazi Reich. Praeger, 1996, p.67
  109. ^ Fest 1970, p. 21
  110. ^ Ewing, Jack (2011ねん6がつ3にち). “Letter of Hitler’s First Anti-Semitic Writing May Be the Original”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2011/06/03/world/europe/03iht-hitler03.html 2011ねん6がつ12にち閲覧えつらん 
  111. ^ Rawlings, Nate (2011-06-08). “The Seeds of Hitler's Hatred: Infamous 1919 Genocide Letter Unveiled to the Public”. Time. http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,2076346,00.html 2011ねん6がつ12にち閲覧えつらん. 
  112. ^ Konrad Heiden, "Les débuts du national-socialisme", Revue d'Allemagne, VII, No. 71 (Sept. 15, 1933), p. 821
  113. ^ 村瀬むらせ、208p[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  114. ^ 小松こまつ 2001, pp. 124–125.
  115. ^ トーランド 1990a, p. 352.
  116. ^ トーランド 1990a, p. 362.
  117. ^ 村瀬むらせ、ナチズム、183-186p[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  118. ^ トーランド 1990a, p. 380.
  119. ^ 高田たかだ博行ひろゆき 2014, p. 45-46.
  120. ^ 高田たかだ博行ひろゆき 2014, p. 43.
  121. ^ 高田たかだ博行ひろゆき 2014, p. 46.
  122. ^ トーランド 1990a, p. 386.
  123. ^ トーランド 1990a, p. 388.
  124. ^ トーランド 1990a, p. 399.
  125. ^ トーランド 1990a, p. 415.
  126. ^ 児島こじま だい1かん、177-178p
  127. ^ 阿部あべ 2001, p. 191.
  128. ^ Wahlen in der Weimarer Republik website”. Gonschior.de. 2019ねん10がつ16にち閲覧えつらん
  129. ^ トーランド 1990b, p. 95.
  130. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ1にちだい1めん
  131. ^ a b c 斉藤さいとう 1990, p. 40.
  132. ^ a b c d e f g h フランク・マクドノー (Frank McDonough) しるつじもとよしふみ やくだいしょう」『だいさん帝国ていこくぜん うえ ヒトラー 1933ー1939』(初版しょはん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2023ねん11月30にちISBN 978-4-309-22901-0https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309229010/2024ねん7がつ27にち閲覧えつらん 
  133. ^ みなみ 2003a, p. 19.
  134. ^ みなみ 2003b, p. 115.
  135. ^ みなみ 2003c, p. 162.
  136. ^ 田中たなか 2009, p. 216.
  137. ^ 田中たなか 2009, pp. 220–222.
  138. ^ 柳川やながわ創造そうぞう古城こじょう武司たけし集英社しゅうえいしゃばん学習がくしゅう漫画まんが 世界せかい歴史れきし 15 ヒトラーとだい世界せかい大戦たいせん -だい世界せかい大戦たいせん-』集英社しゅうえいしゃ、1987ねん5がつ、164ぺーじ 
  139. ^ a b c しば健介けんすけ 1992, p. 27.
  140. ^ しば健介けんすけ 1992, pp. 24–25.
  141. ^ a b しば健介けんすけ 1992, p. 26.
  142. ^ 児島こじま だい1かん 392-396P
  143. ^ Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny (London: Odhams, 1952), p. 135.
  144. ^ レニ・リーフェンシュタールがかたる”政治せいじとオリンピック””. 岩上いわかみやすし. 2016ねん3がつ5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん2がつ9にち閲覧えつらん
  145. ^ 児島こじま だい1かん 474-485
  146. ^ a b c d e 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “平和へいわ祭典さいてん」、おおいなる矛盾むじゅん - 映像えいぞう世紀せいきバタフライエフェクト”. 映像えいぞう世紀せいきバタフライエフェクト - NHK. 2024ねん7がつ25にち閲覧えつらん
  147. ^ a b c d e 映像えいぞう世紀せいきバタフライエフェクト オリンピック 聖火せいか戦火せんか”. plus.nhk.jp. 2024ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  148. ^ Owens pierced a myth”. ESPN. 2010ねん12月23にち閲覧えつらん
  149. ^ 田島たじま 1981, p. 275.
  150. ^ 田島たじま 1981, pp. 275–277.
  151. ^ 堀内ほりうち 2006, pp. 56–57.
  152. ^ ハーバート・フーバー ちょ、ジョージ・H・ナッシュ へん裏切うらぎられた自由じゆう上巻じょうかんp.232、くさおもえしゃ、2017ねん [よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  153. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃ2023ねん、p.98
  154. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃ2023ねん、pp.94-96
  155. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃ2023ねん、p.105
  156. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 175–176.
  157. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 177–178.
  158. ^ タンシル 2018a, p. 496.
  159. ^ タンシル 2018a, pp. 501–510.
  160. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃ2023ねん、p.115
  161. ^ 福井ふくい義高よしたか日本人にっぽんじんらない最先端さいせんたん世界せかい2』PHP研究所けんきゅうじょ2017ねん、pp.74-75
  162. ^ 福井ふくい義高よしたか日本人にっぽんじんらない最先端さいせんたん世界せかい2』PHP研究所けんきゅうじょ2017ねん、pp.112-113
  163. ^ タンシル 2018a, p. 518.
  164. ^ 渡辺わたなべそうじゅだれだい世界せかい大戦たいせんこしたのか フーバー大統領だいとうりょう裏切うらぎられた自由じゆう』をく』くさおもえしゃ、2017ねん7がつ、62ぺーじISBN 9784794222770 
  165. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃp.130
  166. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃp.128
  167. ^ タンシル 2018b, pp. 75–79.
  168. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 249–251.
  169. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃpp.130-131
  170. ^ 渡辺わたなべそうじゅだれだい世界せかい大戦たいせんこしたのか フーバー大統領だいとうりょう裏切うらぎられた自由じゆう』をく』くさおもえしゃ、2017ねん7がつ、79-80ぺーじISBN 9784794222770 
  171. ^ Mark Weber. “How Hitler Tackled Unemployment”. INSTITUTE FOR HISTORICAL REVIEW. 2019ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  172. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃpp.132-133
  173. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 262–263.
  174. ^ ハーバート・フーバー『裏切うらぎられた自由じゆう上巻じょうかんくさおもえしゃ2017ねん、p.300
  175. ^ タンシル 2018b, pp. 110–140.
  176. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃpp.134-135
  177. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 264–269.
  178. ^ 福井ふくい義高よしたか教科書きょうかしょけないグローバリストにこうしたヒトラーの真実しんじつ』ビジネスしゃp.139
  179. ^ BBC - GCSE Bitesize: Reasons for appeasement”. 2018ねん4がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん2がつ8にち閲覧えつらん
  180. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 273–275.
  181. ^ 裏口うらぐちからの参戦さんせんした、p.177-181
  182. ^ 裏口うらぐちからの参戦さんせんした、p.189
  183. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 276–277.
  184. ^ 裏口うらぐちからの参戦さんせんした、p.282-284
  185. ^ 裏口うらぐちからの参戦さんせんした、p.196
  186. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 280–281.
  187. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 295–299.
  188. ^ 三宅みやけ正樹まさき『スターリン、ヒトラーとにちどく連合れんごう構想こうそう朝日あさひ選書せんしょ、p.29
  189. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 299–302.
  190. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 303–304.
  191. ^ a b 山崎やまざき雅弘まさひろ新版しんぱん どく戦史せんし朝日あさひ文庫ぶんこ2016ねん
  192. ^ 児島こじまじょう & だいかん, pp. 274–275.
  193. ^ 渡辺わたなべ 2017, pp. 306–307.
  194. ^ 三宅みやけ正樹まさき『スターリン、ヒトラーとにちどく連合れんごう構想こうそう朝日あさひ選書せんしょ、p.66
  195. ^ 渡辺わたなべ 2017, p. 308-311.
  196. ^ 三宅みやけ正樹まさき『ヒトラーとだい世界せかい大戦たいせんしんていばん 清水しみず書院しょいん 2017ねん、p.139-142
  197. ^ 菅原すがわら 2002, p. 63-65.
  198. ^ 三宅みやけ正樹まさき『スターリン、ヒトラーとにちどく連合れんごう構想こうそう朝日あさひ選書せんしょ、p.107-110
  199. ^ 裏口うらぐちからの参戦さんせんした、p.394-397
  200. ^ 三宅みやけ正樹まさき『スターリン、ヒトラーとにちどく連合れんごう構想こうそう朝日あさひ選書せんしょ、p.111
  201. ^ 児島こじま だい3かん、247-251p
  202. ^ 菅原すがわら 2002, p. 88.
  203. ^ 菅原すがわら 2002, p. 88-89.
  204. ^ 名誉めいようしなわぬ講和こうわを-ペタン降伏ごうぶく声明せいめい(『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ15ねん6がつ18にち)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p374 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  205. ^ ぜん大戦たいせん屈辱くつじょく列車れっしゃないすわるヒトラー(『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ15ねん6がつ23にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p374
  206. ^ 三宅みやけ正樹まさき『ヒトラーとだい世界せかい大戦たいせんしんていばん 清水しみず書院しょいん 2017ねん、p.149-150
  207. ^ a b 児島こじま だい3かん、333-336p。
  208. ^ 児島こじま だい3かん、365p
  209. ^ 三宅みやけ正樹まさき『スターリン、ヒトラーとにちどく連合れんごう構想こうそう』p.128-129
  210. ^ 三宅みやけ正樹まさき『ヒトラーとだい世界せかい大戦たいせんしんていばん 清水しみず書院しょいん 2017ねん、p.179-180
  211. ^ 三宅みやけ正樹まさき『ヒトラーとだい世界せかい大戦たいせんしんていばん 清水しみず書院しょいん 2017ねん、p.185-190
  212. ^ 三宅みやけ正樹まさき『ヒトラーとだい世界せかい大戦たいせんしんていばん 清水しみず書院しょいん 2017ねん、p.204-222
  213. ^ 三宅みやけ正樹まさき『ヒトラーとだい世界せかい大戦たいせんしんていばん 清水しみず書院しょいん 2017ねん、p.222-228
  214. ^ 裏口うらぐちからの参戦さんせんした、p.475-477
  215. ^ 児島こじま だい4かん、56p
  216. ^ 児島こじま だい4かん、115-116p
  217. ^ 児島こじま だい4かん、161p
  218. ^ 児島こじま だい4かん、151p
  219. ^ ヒトラー『いちせんねん歴史れきしつくらん : ヒトラー総統そうとうたいべい宣戦せんせん布告ふこくだい演説えんぜつにちどく旬刊じゅんかんしゃ出版しゅっぱんきょく やくへんにちどく旬刊じゅんかんしゃ出版しゅっぱんきょく、1941ねんNDLJP:1438837 
  220. ^ 児島こじま だい4かん、441-445p
  221. ^ 児島こじま だい4かん、454-455p
  222. ^ 児島こじま だい5かん、241p
  223. ^ a