ヴェルナー(ヴェルンヘル)[ 1] ・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵 だんしゃく )・フォン・ブラウン (Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, 1912年 ねん 3月23日 にち - 1977年 ねん 6月16日 にち )は、工学 こうがく 者 しゃ であり、ロケット 技術 ぎじゅつ 開発 かいはつ の最初 さいしょ 期 き における最 さい 重要 じゅうよう 指導 しどう 者 しゃ のひとりである。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち にドイツ からアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に移住 いじゅう し、研究 けんきゅう 活動 かつどう を行 おこな った。ソ連 それん のセルゲイ・コロリョフ と共 とも に米 べい ソの宇宙 うちゅう 開発 かいはつ 競争 きょうそう の代名詞 だいめいし 的 てき な人物 じんぶつ である。
ドイツ帝国 ていこく 東部 とうぶ ポーゼン (現 げん ポーランド )近郊 きんこう のヴィルジッツ (英語 えいご 版 ばん ) で貴族 きぞく (ユンカー )の家 いえ に生 う まれた。父親 ちちおや はマグヌス・フォン・ブラウン (ドイツ語 ご 版 ばん ) 男爵 だんしゃく 。後 ご のヴァイマル共和 きょうわ 政 せい 末期 まっき にフランツ・フォン・パーペン 内閣 ないかく で食糧 しょくりょう 農業 のうぎょう 大臣 だいじん となった人物 じんぶつ である。母親 ははおや は彼 かれ がルター派 は の堅 けん 信 しん 礼 れい を行 おこな った時 とき に望遠鏡 ぼうえんきょう を与 あた えた。天文学 てんもんがく と宇宙 うちゅう 分野 ぶんや への関心 かんしん が、彼 かれ を生涯 しょうがい にわたって動機付 どうきず けた。
1920年 ねん 、ヴィルジッツがヴェルサイユ条約 じょうやく に基 もと づいてポーランド 領 りょう になると、彼 かれ の一家 いっか は他 た の大勢 おおぜい と同様 どうよう にドイツ領 りょう へ移住 いじゅう し、シュレージエン 地方 ちほう で新 しん 生活 せいかつ を始 はじ めた。ここで、彼 かれ は音楽家 おんがくか パウル・ヒンデミット にピアノ を教 おそ わっている。
彼 かれ はロケットの先駆 せんく 者 しゃ ヘルマン・オーベルト の著 あらわ した論文 ろんぶん 『惑星 わくせい 間 あいだ 宇宙 うちゅう へのロケット(ドイツ語 ご 版 ばん ) (1923年 ねん )』を手 て に入 い れるまでは、物理 ぶつり 学 がく と数学 すうがく が不得意 ふとくい であった。しかしその論文 ろんぶん を手 て に入 い れてからの彼 かれ は数学 すうがく に打 う ち込 こ み、得意 とくい 科目 かもく にするまで努力 どりょく した。
1930年 ねん にベルリン工科 こうか 大学 だいがく に入学 にゅうがく した。ドイツ宇宙 うちゅう 旅行 りょこう 協会 きょうかい にも入会 にゅうかい し、ヘルマン・オーベルト の液体 えきたい 燃料 ねんりょう ロケットエンジン の試験 しけん を手伝 てつだ った。
その後 ご 、工学 こうがく 士 し の学位 がくい を得 え てベルリン大学 だいがく へ進 すす み[ 2] 、陸軍 りくぐん 兵器 へいき 局 きょく のヴァルター・ドルンベルガー 陸軍 りくぐん 大尉 たいい のもとで研究 けんきゅう するよう取 と り計 はか らった。フォン・ブラウンはドルンベルガーがすでに持 も っていたクマースドルフ (ドイツ語 ご 版 ばん ) の固体 こたい ロケット試験場 しけんじょう の隣 となり で研究 けんきゅう を続 つづ け、2年 ねん 後 ご に物理 ぶつり 学 がく の博士 はかせ 号 ごう を受 う けた。しかし、このとき公表 こうひょう された博士 はかせ 論文 ろんぶん は執筆 しっぴつ された一部 いちぶ だけであり、完全 かんぜん な論文 ろんぶん が公表 こうひょう されたのは1960年 ねん になってからであった。
ペーネミュンデの博物館 はくぶつかん に展示 てんじ されるV-2
1934年 ねん の暮 く れまでに、フォン・ブラウンのグループは2.4 km以上 いじょう の高度 こうど に達 たっ するロケットを2基 き 射 う ち上 あ げることに成功 せいこう したが、この頃 ころ すでにドイツロケット協会 きょうかい はなく、ロケットの実験 じっけん は新 あら たな体制 たいせい では禁止 きんし されていた。軍用 ぐんよう の開発 かいはつ だけが許可 きょか され、ドイツ北部 ほくぶ のバルト海 ばるとかい のペーネミュンデ 村 むら により大 おお きな施設 しせつ が建 た てられた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん においてドイツ軍 ぐん が連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん に対 たい して劣勢 れっせい に傾 かたむ いていた1943年 ねん 、ドイツ国 こく 総統 そうとう のアドルフ・ヒトラー はA-4(独 どく :Aggregat 4型 がた )ロケットを「報復 ほうふく 兵器 へいき 」として使 つか うことを決定 けってい 。フォン・ブラウンらのグループはロンドン 攻撃 こうげき のために、弾道 だんどう ミサイル A-4の開発 かいはつ をすることになった。
ヒトラーの生産 せいさん 命令 めいれい から14ヶ月 かげつ 後 ご 、最初 さいしょ の軍用 ぐんよう A-4が、このころにはハインリヒ・ヒムラー の考 かんが えた名前 なまえ の「V-2 」と呼 よ ばれることになっており、1944年 ねん 9月7日 にち にヨーロッパ西部 せいぶ に対 たい し発射 はっしゃ された。
その後 ご ドルンベルガーは陸軍 りくぐん のロケット開発 かいはつ 指揮 しき 官 かん に、フォン・ブラウンは技術 ぎじゅつ 部長 ぶちょう になった。彼 かれ らは航空機 こうくうき とジェット補助 ほじょ 離陸 りりく (広義 こうぎ の「ジェット」の意味 いみ であり、空気 くうき を吸 す い込 こ まないロケットも含 ふく む)用 よう の液体 えきたい 燃料 ねんりょう ロケット エンジン、長 ちょう 射程 しゃてい 弾道 だんどう ミサイル ・A-4(V2ロケット )と、超 ちょう 音速 おんそく 対空 たいくう ミサイル 「ヴァッサーファル 」を開発 かいはつ した。
SS (ナチ親衛隊 しんえいたい )とゲシュタポ (国家 こっか 秘密 ひみつ 警察 けいさつ )は、「(軍事 ぐんじ 兵器 へいき の開発 かいはつ に優先 ゆうせん して)フォン・ブラウンが地球 ちきゅう を回 まわ る軌道 きどう に乗 の せるロケットや、おそらく月 つき に向 む かうロケットを建造 けんぞう することについて語 かた ることをやめない」、として [要 よう 出典 しゅってん ] フォン・ブラウンを国家 こっか 反逆 はんぎゃく 罪 ざい で逮捕 たいほ した。フォン・ブラウンの罪状 ざいじょう は、「より大型 おおがた のロケット爆 ばく 弾 だん 作成 さくせい に集中 しゅうちゅう すべき時 とき に、個人 こじん 的 てき な願望 がんぼう について語 かた りすぎる」、というものであった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
ドルンベルガーは、「もしフォン・ブラウンがいなければV-2は完成 かんせい しない、そうなればあなたたちは責任 せきにん を問 と われるだろう」とゲシュタポを説得 せっとく し、フォン・ブラウンを釈放 しゃくほう させようとした。しかし、それでもゲシュタポは許 ゆる そうとせず、最後 さいご はヒトラー自 みずか らがゲシュタポをとりなし、ようやくフォン・ブラウンは解放 かいほう された。そのときヒトラーは「私 わたし でも彼 かれ を釈放 しゃくほう することはかなり困難 こんなん だった」と言 い ったという。[ 3]
1945年 ねん 5月にドイツは連合 れんごう 国軍 こくぐん に敗北 はいぼく することが確実 かくじつ な状況 じょうきょう となり、フォン・ブラウンはペーネミュンデに戻 もど ると直 ただ ちに彼 かれ の計画 けいかく スタッフを招集 しょうしゅう し、どの国 くに に亡命 ぼうめい すべきか、どうやって亡命 ぼうめい するかを決 き めるよう求 もと めた。科学 かがく 者 しゃ たちのほとんどはロシア人 じん を恐 おそ れ、フランス人 じん は彼 かれ らを奴隷 どれい のように扱 あつか うだろうし、イギリス にはロケット計画 けいかく を賄 まかな うだけの十分 じゅうぶん な資力 しりょく がないと感 かん じていた。残 のこ ったのがアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく である。
偽造 ぎぞう した書類 しょるい で列車 れっしゃ を盗 ぬす み出 だ した後 のち 、フォン・ブラウンはアメリカ軍 ぐん に投降 とうこう するためにペーネミュンデから500人 にん を連 つ れ出 だ した。その頃 ころ SSは、ドイツ軍 ぐん の管理 かんり から逃 のが れて記録 きろく を坑道 こうどう などに隠 かく しアメリカ軍 ぐん と接触 せっしょく を試 こころ みているドイツ人 じん 技術 ぎじゅつ 者 しゃ を、殺 ころ すよう命令 めいれい を受 う けていた。
ドイツが連合 れんごう 国軍 こくぐん に対 たい し降伏 ごうぶく した後 のち 、最終 さいしゅう 的 てき にロケットチームはアメリカの民間 みんかん 人 じん を見 み つけ投降 とうこう した。技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちの重要 じゅうよう 性 せい を知 し ると、アメリカ軍 ぐん は即座 そくざ にペーネミュンデとノルトハウゼン に向 む かい、残 のこ されたV-2ロケットとV-2の部品 ぶひん を全 すべ て捕獲 ほかく して2つの施設 しせつ を爆破 ばくは 破壊 はかい した。アメリカ人 じん は貨車 かしゃ 300両分 りょうぶん 以上 いじょう のV-2用 よう スペアパーツをアメリカに持 も っていった。しかしフォン・ブラウンの生産 せいさん チームの大半 たいはん は間 ま もなく進駐 しんちゅう してきたソ連 それん 赤軍 せきぐん の捕虜 ほりょ になった。
5月5日 にち 、フォン・ブラウンは当時 とうじ アメリカ軍 ぐん の大佐 たいさ [要 よう 出典 しゅってん ] で後 のち に中国 ちゅうごく の宇宙 うちゅう 開発 かいはつ を担 にな う銭 ぜに 学 がく 森 もり から最初 さいしょ の尋問 じんもん を受 う け[ 4] [ 5] 、尋問 じんもん の過程 かてい でフォン・ブラウンが作成 さくせい した報告 ほうこく 書 しょ 「ドイツにおける液体 えきたい 燃料 ねんりょう ロケット開発 かいはつ の調査 ちょうさ とその将来 しょうらい の展望 てんぼう 」は後 ご のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の宇宙 うちゅう 開発 かいはつ のロードマップを示 しめ すものだった[ 6] 。
ペーパークリップ作戦 さくせん で渡米 とべい したドイツ人工 じんこう 学者 がくしゃ 達 たち 。最 さい 前列 ぜんれつ 右 みぎ から7番目 ばんめ のポケットに手 て を入 い れている人物 じんぶつ がフォン・ブラウン博士 はかせ 。フォート・ブリスにて。
6月 がつ 20日 はつか に、アメリカのコーデル・ハル 国務 こくむ 長官 ちょうかん はフォン・ブラウンのロケット専門 せんもん 家 か 達 たち を移送 いそう することを承認 しょうにん した。この移送 いそう はペーパークリップ作戦 さくせん として知 し られる。その理由 りゆう は、多数 たすう のドイツ人 じん 技術 ぎじゅつ 者 しゃ が陸軍 りくぐん 兵器廠 へいきしょう に配属 はいぞく され、合衆国 がっしゅうこく に来 く るよう選 えら ばれた者 もの は紙 かみ クリップで印 しるし 付 つ けられたからである。彼 かれ らが移送 いそう されたのはデラウェア州 しゅう ウィルミントン のすぐ南方 なんぽう にあるニューカッスル空軍 くうぐん 基地 きち であった。その後 ご ボストン市 し を経由 けいゆ し、海路 かいろ ボストン湾 わん (英語 えいご 版 ばん ) のフォートストロング (英語 えいご 版 ばん ) にある陸軍 りくぐん 情報 じょうほう 部隊 ぶたい (英語 えいご 版 ばん ) の駐屯 ちゅうとん 地 ち に連 つ れて行 い かれた。後 のち に、フォン・ブラウンを除 のぞ いた専門 せんもん 家 か たちはメリーランド州 しゅう のアバディーン性能 せいのう 試験場 しけんじょう に移 うつ され、そこでペーネミュンデの文書 ぶんしょ を整理 せいり させられた。これらの文書 ぶんしょ があれば、工学 こうがく 者 しゃ たちが中断 ちゅうだん していたロケット実験 じっけん を続 つづ けられるのであった。
最終 さいしゅう 的 てき に、陸軍 りくぐん 兵器 へいき 技術 ぎじゅつ 情報 じょうほう チームの本部 ほんぶ 長 ちょう オルガー・N・トフトイ 陸軍 りくぐん 大佐 たいさ の副官 ふっかん であったジェイムズ・P・ハミル陸軍 りくぐん 少佐 しょうさ の命令 めいれい で、フォン・ブラウンと126人 にん のペーネミュンデの技術 ぎじゅつ 者 しゃ 達 たち は、エルパソ のすぐ北 きた にある大 おお きな陸軍 りくぐん 基地 きち テキサス州 しゅう フォートブリス (英語 えいご 版 ばん ) で、彼 かれ らに与 あた えられた新 あら たな家 いえ に移 うつ された。彼 かれ らは合衆国 がっしゅうこく で新 しん 生活 せいかつ を始 はじ めるにあたり、奇妙 きみょう な状況 じょうきょう にあることに気 き づいた。彼 かれ らは軍人 ぐんじん の護衛 ごえい なしにフォートブリスを出 で ることができなかったことから、時 とき には自 みずか らのことを「平時 へいじ 捕虜 ほりょ 」(Prisoners of Peace )――戦時 せんじ 捕虜 ほりょ (Prisoners of War )に掛 か けた洒落 しゃれ ――と呼 よ んだ。
フォートブリスに滞在 たいざい 中 ちゅう 、彼 かれ らは産 さん ・軍 ぐん ・学 がく の要員 よういん に複雑 ふくざつ なロケットや誘導 ゆうどう ミサイルに関 かん する訓練 くんれん と、ドイツからニューメキシコ州 しゅう ホワイトサンズ性能 せいのう 試験場 しけんじょう に運 はこ ばれてきた多数 たすう のV-2ロケットを修理 しゅうり し、組立 くみた て、そして打 う ち上 あ げる手伝 てつだ いをする仕事 しごと を課 か せられた。さらに、彼 かれ らは軍事 ぐんじ と研究 けんきゅう へ応用 おうよう するロケットが持 も つ将来 しょうらい 的 てき な可能 かのう 性 せい について学 まな ぶことになった。
この時期 じき 、フォン・ブラウンは従妹 じゅうまい で18歳 さい のマリア・フォン・クヴィストルプ (英語 えいご 版 ばん ) に求婚 きゅうこん する手紙 てがみ を書 か いた。1947年 ねん 3月1日 にち 、彼 かれ はマリアと、彼女 かのじょ の住 す む地域 ちいき のルター派 は 教会 きょうかい で結婚式 けっこんしき を挙 あ げた。1948年 ねん 12月に最初 さいしょ の娘 むすめ アイリスがフォートブリスの陸軍 りくぐん 病院 びょういん で誕生 たんじょう した。
1950年 ねん 、フォン・ブラウンと彼 かれ のチームはアラバマ州 しゅう ハンツヴィル に移 うつ され、そこがフォン・ブラウンの以後 いご 20年間 ねんかん の住 す みかとなった。
ウォルト・ディズニー(左 ひだり )とともに
1950年 ねん から1956年 ねん にかけ、フォン・ブラウンはレッドストーン兵器廠 へいきしょう で陸軍 りくぐん のロケット開発 かいはつ チームを率 ひき いて、兵器廠 へいきしょう の名 な にちなんだレッドストーン ロケットを生 う んだ。
1952年 ねん 、フォン・ブラウンは、なおもロケットが平和 へいわ 的 てき な探検 たんけん に使用 しよう される世界 せかい を夢見 ゆめみ て宇宙 うちゅう ステーション の概念 がいねん を「コリアーズ (英語 えいご 版 ばん ) 」誌 し (Collier's )に発表 はっぴょう した。この宇宙 うちゅう ステーションは直径 ちょっけい 75mで、高度 こうど 1700kmの軌道 きどう に置 お かれ、人工 じんこう 重力 じゅうりょく を発生 はっせい するために自転 じてん するとされた。彼 かれ の予見 よけん では、ここは月 つき 探検 たんけん のための理想 りそう 的 てき な出発 しゅっぱつ 点 てん のはずだった。
フォン・ブラウンはまた、ウォルト・ディズニー 率 ひき いるディズニー社 しゃ の宇宙 うちゅう 探検 たんけん に関 かん する3本 ほん のテレビ映画 えいが の制作 せいさく に技術 ぎじゅつ 監督 かんとく として参加 さんか した。フォン・ブラウンはその後 ご 何 なん 年 ねん も、未来 みらい の宇宙 うちゅう 計画 けいかく に対 たい してより多数 たすう の公衆 こうしゅう の興味 きょうみ を惹 ひ くことを望 のぞ んで、ディズニー社 しゃ との仕事 しごと を続 つづ けた。
1957年 ねん のソ連 それん の世界 せかい 初 はつ の人工 じんこう 衛星 えいせい スプートニク1号 ごう の打 う ち上 あ げ成功 せいこう と、それに対抗 たいこう する海軍 かいぐん のヴァンガード計画 けいかく の失敗 しっぱい を受 う けて、陸軍 りくぐん 弾道 だんどう ミサイル局 きょく (ABMA) の開発 かいはつ オペレーション部門 ぶもん の長 ちょう として、フォン・ブラウンのチームはレッドストーンを改良 かいりょう したジュピターC ロケットを開発 かいはつ した。ジュピターCは1958年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、西側 にしがわ 諸国 しょこく として初 はじ めての人工 じんこう 衛星 えいせい エクスプローラー1号 ごう の打 う ち上 あ げに成功 せいこう した。この出来事 できごと は米国 べいこく の宇宙 うちゅう 計画 けいかく の誕生 たんじょう を告 つ げる物 もの であった。
背後 はいご はサターンV型 がた ロケット第 だい 一 いち 段 だん エンジン
1958年 ねん 7月 がつ 29日 にち にはアメリカ航空 こうくう 宇宙 うちゅう 局 きょく (NASA)が法律 ほうりつ 上 じょう 成立 せいりつ した。翌日 よくじつ 、50番目 ばんめ のレッドストーンロケットが核 かく 実験 じっけん ハードタック作戦 さくせん の一部 いちぶ として南太平洋 みなみたいへいよう のジョンストン島 とう から成功裏 せいこうり に打 う ち上 あ げられた。
2年 ねん 後 ご 、NASAはアラバマ州 しゅう ハンツヴィル にマーシャル宇宙 うちゅう 飛行 ひこう センター を新設 しんせつ し、フォン・ブラウンと彼 かれ の開発 かいはつ チームをレッドストーン兵器廠 へいきしょう からNASAに移籍 いせき させた。フォン・ブラウンは1960年 ねん から1970年 ねん まで同 どう センターの初代 しょだい 所長 しょちょう を務 つと めた。
マーシャル宇宙 うちゅう 飛行 ひこう センターの大 おお きな初 はつ 仕事 しごと は、1960年 ねん に就任 しゅうにん したジョン・F・ケネディ 大統領 だいとうりょう の指揮 しき 下 か で計画 けいかく がスタートした、宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し を月 つき に運 はこ べるサターンロケット の開発 かいはつ であった。
フォン・ブラウンの子供 こども 時代 じだい の方針 ほうしん であった「時代 じだい を動 うご かすこと」とその後 ご の夢 ゆめ となっていた人類 じんるい が月面 げつめん を踏 ふ む手助 てだす けをすることは、1969年 ねん 7月 がつ 16日 にち 、マーシャル宇宙 うちゅう 飛行 ひこう センターが開発 かいはつ したサターンVロケット がアポロ11号 ごう の搭乗 とうじょう 員 いん を打 う ち上 あ げた時 とき に現実 げんじつ のものとなった。アポロ計画 けいかく の過程 かてい で6組 くみ の宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し チームが月面 げつめん を探検 たんけん した。
1970年 ねん フォン・ブラウンと家族 かぞく はハンツヴィルからワシントンD.C. に移 うつ り、NASA本部 ほんぶ の計画 けいかく 担当 たんとう 副 ふく 長官 ちょうかん 補 ほ に任命 にんめい され、テクノクラート としての役割 やくわり を果 はた すが、アポロ計画 けいかく 後 ご 、フォン・ブラウンは彼 かれ の将来 しょうらい の宇宙 うちゅう 飛行 ひこう の方針 ほうしん がNASAのものとは違 ちが うと感 かん じ、1972年 ねん 6月 がつ にNASAを辞 じ した。彼 かれ はメリーランド州 しゅう ジャーマンタウン にあるフェアチャイルド 社 しゃ の副 ふく 社長 しゃちょう に就任 しゅうにん し、米国 べいこく 宇宙 うちゅう 研究所 けんきゅうじょ (英語 えいご 版 ばん ) (1987年 ねん に設立 せつりつ された現在 げんざい の米国 べいこく 宇宙 うちゅう 協会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) の前身 ぜんしん )を創立 そうりつ し振興 しんこう する活動 かつどう を行 おこな った。
宇宙 うちゅう 協会 きょうかい の活動 かつどう の頂点 ちょうてん で、フォン・ブラウンは自分 じぶん が癌 がん であることを知 し った。手術 しゅじゅつ を受 う けたが癌 がん は進行 しんこう し、1976年 ねん 12月31日 にち にフェアチャイルド社 しゃ の辞職 じしょく を余儀 よぎ なくされた。1977年 ねん 6月16日 にち 、バージニア州 しゅう アレクサンドリア にて死去 しきょ 。65歳 さい 没 ぼつ 。
ジョン・F・ケネディ大統領 だいとうりょう とともに
フォン・ブラウンは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか は、ナチス党 とう 政権 せいけん 下 か のドイツ のために、V2号 ごう ミサイル の製作 せいさく を指揮 しき し、ナチス党 とう 員 いん 、親衛隊 しんえいたい 少佐 しょうさ でもあった。
戦後 せんご 渡 わた ったアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では、その経歴 けいれき のために様々 さまざま な非難 ひなん を受 う けたが、「ナチズム には前 まえ から反対 はんたい だった」「宇宙 うちゅう に行 い く為 ため なら悪魔 あくま に魂 たましい を売 う り渡 わた してもよいと思 おも った」と弁明 べんめい した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか は、ドイツ軍 ぐん の勝利 しょうり のために弾道 だんどう ミサイル を開発 かいはつ し、ドイツの敗戦 はいせん 後 ご には、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう にドイツの敵国 てきこく であったアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の国家 こっか の威信 いしん のためにロケット を作 つく るという変節 へんせつ は、両国 りょうこく の評論 ひょうろん 家 か よりしばしば非難 ひなん される。
風刺 ふうし 家 か でシンガーソングライターのトム・レーラー は『ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌 うた 』という曲 きょく を作 つく り、フォン・ブラウンのことを「忠誠 ちゅうせい が便宜 べんぎ に支配 しはい された男 おとこ 」("A man whose allegiance is ruled by expedience ")と評 ひょう している。とはいえ、人生 じんせい をロケットの研究 けんきゅう にかけ、ドイツやアメリカのような一部 いちぶ の国家 こっか の発展 はってん にではなく、グレートジャーニー 以来 いらい の生息 せいそく 域 いき の拡大 かくだい という、ホモ・サピエンス という生物 せいぶつ 種 しゅ すなわち人類 じんるい 全体 ぜんたい の発展 はってん に忠義 ちゅうぎ を尽 つ くしたともいえ、またフォン・ブラウンの西側 にしがわ 諸国 しょこく の科学 かがく ・技術 ぎじゅつ 界 かい における貢献 こうけん は大 おお きく、1962年 ねん にエリオット・クレッソン・メダル 、1969年 ねん にヴィルヘルム・エクスナー・メダル 、1975年 ねん にアメリカ国家 こっか 科学 かがく 賞 しょう を受賞 じゅしょう している。
自伝 じでん を書 か いた作家 さっか によると「宇宙 うちゅう 依存 いぞん 症 しょう 」[ 7] 。
西條 さいじょう 寿雄 よしお 『ロケットと火薬 かやく の歴史 れきし 書 しょ :その起源 きげん から近代 きんだい ロケットの誕生 たんじょう まで』イーブックスパブリッシング 、 2014年 ねん ASIN B00JT3OZ5A
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