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ヴィルヘルム・カイテル

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム・カイテル
Wilhelm Keitel
カイテルの肖像しょうぞう写真しゃしん (1942ねん)
渾名あだな ラカイテル(LaKeitel)
生誕せいたん 1882ねん9月22にち
 ドイツ帝国ていこく
ブラウンシュヴァイク公国の旗 ブラウンシュヴァイク公国こうこく
ヘルムシュローデ
死没しぼつ 1946ねん10月16にち
連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうのドイツ
アメリカ占領せんりょう地域ちいき
ニュルンベルク
所属しょぞく組織そしき

 ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん

ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん陸軍りくぐん
ドイツ陸軍りくぐん
ぐんれき 1901ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん元帥げんすい(Generalfeldmarschall)
除隊じょたい 戦争せんそう犯罪はんざいじん
ニュルンベルク裁判さいばん
被告人ひこくにん
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ヴィルヘルム・カイテル
Wilhelm Keitel

ナチス・ドイツの旗 国防こくぼう閣僚かくりょう会議かいぎいん
内閣ないかく ヒトラー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1939ねん8がつ30にち - 1945ねん4がつ30にち
総統そうとう アドルフ・ヒトラー

ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
内閣ないかく枢密院すうみついん顧問こもんかん
内閣ないかく ヒトラー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1939ねん2がつ4にち - 1945ねん4がつ30にち
総統そうとう アドルフ・ヒトラー

内閣ないかく ヒトラー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1938ねん2がつ4にち - 1945ねん5がつ13にち
総統そうとう アドルフ・ヒトラー

ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
だい2だい国防省こくぼうしょう軍務ぐんむ局長きょくちょう
内閣ないかく ヒトラー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1935ねん10がつ1にち - 1938ねん2がつ4にち
総統そうとう アドルフ・ヒトラー
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ヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテルドイツ: Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel, 1882ねん9月22にち - 1946ねん10月16にち)は、ドイツ陸軍りくぐん軍人ぐんじんナチとう体制たいせいドイツにおける軍部ぐんぶ最高さいこう幹部かんぶであった。陸軍りくぐんにおける最終さいしゅう階級かいきゅう元帥げんすい

だい世界せかい大戦たいせんなか国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい(OKW)総長そうちょうつとめ、総統そうとうアドルフ・ヒトラー補佐ほさした。終戦しゅうせんにはソ連それんたいする降伏ごうぶく文書ぶんしょ英語えいごばんドイツ国防こくぼうぐん代表だいひょうして調印ちょういんした。戦後せんごニュルンベルク裁判さいばん死刑しけい判決はんけつけて刑死けいしした。

経歴けいれき

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1882ねんブラウンシュヴァイク公国こうこくハルツ山地さんちヘルムシェローデ(de:Helmscherode現在げんざいバート・ガンダースハイム併合へいごうされている)に出生しゅっしょう[1][2][3]

ちち小規模しょうきぼ農場のうじょう所持しょじしていた地主じぬしカール・カイテル(Carl Keitel)。はははそのつまアポロニア(Apollonia)(旧姓きゅうせいフィセリング(Vissering))[1]おとうとボーデヴィン・カイテル(de:Bodewin Keitel)がいる。おとうとものちに軍人ぐんじんとなり、カイテルのてで1938ねんから1942ねんまでドイツ陸軍りくぐん人事じんじ部長ぶちょうつとめることになる。

少年しょうねん時代じだい家族かぞくからはなれてゲッティンゲンギムナジウムまなんだ。

ドイツ帝国ていこくぐん時代じだい

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同校どうこう卒業そつぎょう父親ちちおや命令めいれい軍人ぐんじんみちすすむこととなった[4]士官しかん学校がっこうずして[4][5]、1901ねん3がつヴォルフェンビュッテル(de:Wolfenbüttel)のだい46野戦やせんほう兵隊へいたい士官しかん候補こうほせい(Fahnenjunker)として入隊にゅうたいした[1][6][疑問ぎもんてん]

1902ねん8がつ少尉しょうい(Leutnant)に進級しんきゅうするとともに[6]公国こうこく首都しゅとブラウンシュヴァイク勤務きんむとなる[4]同地どうち摂政せっしょう宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかいなどにまねかれるようになり、将来しょうらい約束やくそくされた軍人ぐんじんとなっていく。非常ひじょう真面目まじめで「ギャンブルもせず、いたうわさひとつもない」とわれていた[4]

野戦やせん砲兵ほうへい学校がっこう軍事ぐんじ乗馬じょうば学校がっこうのち、1908ねんには所属しょぞくするだい46野戦やせん砲兵ほうへい連隊れんたい連隊れんたいちょう副官ふっかんとなった[1][6]。1909ねんハノーファー資産しさん地主じぬしむすめリーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚けっこん[1][7]。カイテル夫妻ふさいは6をもうけた。

だいいち世界せかい大戦たいせん開戦かいせんしたさいにはだい46砲兵ほうへい連隊れんたいちょう副官ふっかん中尉ちゅういだった。カイテルの連隊れんたい西部せいぶ戦線せんせん動員どういんされた[1]。カイテルは榴弾りゅうだん破片はへん戦傷せんしょうい、きゅうてつじゅうあきら一級いっきゅうてつじゅうあきら、そして戦傷せんしょうあきらくろあきら受章じゅしょうした[6][7]。このだいいち世界せかい大戦たいせん初期しょき戦闘せんとう参加さんかはカイテルの生涯しょうがい唯一ゆいいつ実戦じっせん経験けいけんである[7]

病院びょういん退院たいいんしたのち、1915ねん3がつから参謀さんぼう本部ほんぶ配属はいぞくとなる。本部ほんぶないでは事務じむ能力のうりょくたかみとめられて、1917ねんにはドイツ陸軍りくぐん歴史れきしなか最年少さいねんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ首席しゅせき将校しょうこうとなった[8]。またこの参謀さんぼう本務ほんむ勤務きんむ時代じだいよんさい年長ねんちょうヴェルナー・フォン・ブロンベルク少佐しょうさ当時とうじ)としたしくなった[8]

ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん時代じだい

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だいいち世界せかい大戦たいせん敗戦はいせん義勇軍ぎゆうぐん(フライコール)活動かつどう参加さんか[9]。またヴェルサイユ条約じょうやくによってそう人員じんいん10まんにん将校しょうこうは4000にんにまで制限せいげんされたヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん (Reichswehr) の将校しょうこうえらのこされた。かれ事務じむ能力のうりょくたかさがうかがわれる[10]

ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐんではまずだい10旅団りょだん参謀さんぼう[6]、ついで1920ねんから1922ねんまでハノーファー騎兵きへい学校がっこう戦術せんじゅつ教官きょうかんとなる[1][6]。さらに1922ねんから1925ねんにかけてヴォルフェンビュッテルでだい6砲兵ほうへい連隊れんたい隷下れいかだい7中隊ちゅうたいちょうつとめた[6]

ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐんはヴェルサイユ条約じょうやく参謀さんぼう本部ほんぶこと禁止きんしされていたが、「兵務へいむきょく(Truppen amt)」と名前なまえ偽装ぎそうして事実じじつじょう参謀さんぼう本部ほんぶ復活ふっかつさせた。カイテルもこの兵務へいむきょく配属はいぞくとなり、1925ねんから1927ねんには兵務へいむきょく部署ぶしょのひとつ教育きょういく(T4)に配属はいぞくされ、「東部とうぶ国境こっきょう守備しゅびたい」の教育きょういく軍備ぐんび担当たんとうした[1][6][11]。 ついで1927ねんから1929ねんにかけてミンデンだい6砲兵ほうへい連隊れんたい隷下れいかだい2大隊だいたいちょうつとめた[1][6]

1929ねん10がつには兵務へいむきょくもどり、陸軍りくぐん編成へんせい部長ぶちょう就任しゅうにんした[1][6][12]。カイテルはヴェルサイユ条約じょうやくにより様々さまざま制限せいげんせられていたドイツぐん軍拡ぐんかくみち模索もさくした。武装ぶそう民兵みんぺい集団しゅうだんの「国境警備隊こっきょうけいびたい」に大量たいりょう武器ぶき提供ていきょうしてめい目上めうえぐん武器ぶきにならぬようにしたり、スペインオランダスウェーデン日本にっぽん[よう検証けんしょう]など比較的ひかくてき中立ちゅうりつてきかつ生産せいさん設備せつびととのった外国がいこく航空機こうくうき戦車せんしゃUボート建造けんぞうおこなった[12]

どく秘密ひみつ軍事ぐんじ協力きょうりょくおこなっていたソ連それんとも関係かんけいふかめようとした。ソ連それん軍事ぐんじ演習えんしゅうおこなわせ、また1931ねんにはカイテル自身じしんソ連それん訪問ほうもんしている。「共産きょうさん主義しゅぎ偉大いだいさ」をせつけるためにソ連それんがわ一方いっぽうてき設定せっていしたコルホーズなどのツアーコースをまわされるだけであったが、カイテルは共産きょうさん主義しゅぎ感化かんかされたところがかなりあったらしく、のちに「もうすこしでボルシェヴィキになってかえってくるところだった」などとかたっている[13]

ナチス政権せいけん時代じだい

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1938ねん9がつ12にち、ナチとうニュルンベルクとう大会たいかい出席しゅっせきしたドイツ国防こくぼうぐん幹部かんぶたち
ひだりからエアハルト・ミルヒ空軍くうぐん大将たいしょう国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうカイテル砲兵ほうへい大将たいしょうあいだにいる人物じんぶつ)、陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ砲兵ほうへい大将たいしょう海軍かいぐんそう司令しれいかんエーリヒ・レーダー海軍かいぐん上級じょうきゅう大将たいしょうだい8軍団ぐんだんちょうマクシミリアン・フォン・ヴァイクス騎兵きへい大将たいしょう

カイテルは国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)が1933ねん政権せいけん獲得かくとくするまではそれに一切いっさいかかわっていない。むしろ増長ぞうちょういちじるしいナチスの突撃とつげきたい(SA)をいまいましくさえおもい、アドルフ・ヒトラーを「だいぼら野郎やろう」とんで馬鹿ばかにしていた[14]

しかし1933ねん1がつ30にち自由じゆう選挙せんきょすえヒトラー内閣ないかく成立せいりつし、カイテルの親友しんゆうブロンベルクがヒトラー内閣ないかく国防こくぼうしょう任命にんめいされ、さらに1933ねん7がつにはバート・ライヘンヒルひらかれた「突撃とつげきたい指導しどうしゃ大会たいかい」でカイテル自身じしんがヒトラーと会見かいけんをもつ機会きかいがあり、徐々じょじょにヒトラーに心酔しんすいするようになった[15]。ただしナチとうには最後さいごまで入党にゅうとうしていない。1933ねん10がつ編成へんせい部長ぶちょうしょく離職りしょくし、1934ねん4がつ少将しょうしょう進級しんきゅうするとともにポツダム師団しだん師団しだんちょう代理だいりとなった[16]。1934ねん10がつにはブレーメン派遣はけんされだい22師団しだん編成へんせいにあたった[6]

ドイツがヴェルサイユ条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきしてさい軍備ぐんびはじめたとしにあたる1935ねんの10がつ1にちには国防こくぼう軍部ぐんぶ (Wehrmachtamt)の部長ぶちょう就任しゅうにんした[6]国防こくぼう軍部ぐんぶ国土こくど防衛ぼうえい対外たいがい防諜ぼうちょう軍需ぐんじゅ経済けいざい各課かくか保有ほゆうする国防省こくぼうしょうさい重要じゅうよう部署ぶしょであった。カイテルのメモによるとこの人事じんじ陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴェルナー・フォン・フリッチュのブロンベルクへの推挙すいきょによるという[17]以降いこうヒトラーとブロンベルクのした急速きゅうそく進級しんきゅうする。1936ねん1がつには中将ちゅうじょう進級しんきゅうし、1937ねんには砲兵ほうへい大将たいしょうとなった。ブロンベルクとカイテルはゲシュタポとも連携れんけいして「政治せいじてき信用しんようできないもの」を国防こくぼうぐんから次々つぎつぎ追放ついほうしていき、ぐんのナチをすすめた[18]

1938ねん10がつ3にちズデーテン併合へいごう道中どうちゅう昼食ちゅうしょくるナチとう首脳しゅのう国防こくぼうぐん将軍しょうぐんたち。
テーブルおくがわみぎからカイテル大将たいしょうズデーテン・ドイツじんとう党首とうしゅコンラート・ヘンライン総統そうとうアドルフ・ヒトラーだい10ぐん司令しれいかんヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将たいしょう親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃハインリヒ・ヒムラーだい16装甲そうこうぐん団長だんちょうハインツ・グデーリアン中将ちゅうじょう

1938ねん1がつ、カイテルの息子むすこカール・ハインツ・カイテルとブロンベルクのむすめドロテー・フォン・ブロンベルクが結婚けっこんすることとなったが、2がつにはヒトラーはスキャンダルを利用りようしてブロンベルク国防こくぼうしょう陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴェルナー・フォン・フリッチュ解任かいにんした(ブロンベルク罷免ひめん事件じけん)。さらに後継こうけい国防こくぼう大臣だいじん任命にんめいせず、直接ちょくせつ国防こくぼう三軍さんぐん指揮しきすると宣言せんげんした。このために国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい(OKW)をもうけられ、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうにカイテルをにんじた。国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいきゅう国防省こくぼうしょう任務にんむをほぼいでおり、カイテルの職位しょくい国務大臣こくむだいじん同位どういではあるが、ぐん指揮しきけんたない事務職じむしょくであった[19][20]。またあわせて国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい陸軍りくぐんへの支配しはいりょくたかめる意味いみからカイテルのおとうとであるボーデウィン・カイテル少将しょうしょう陸軍りくぐん人事じんじ部長ぶちょう任命にんめいされている[21]

1938ねん11月には上級じょうきゅう大将たいしょう進級しんきゅうしている。ドイツ国防こくぼうぐん国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ思想しそう徹底てっていさせることはげむカイテルは、かつて皇帝こうてい軍隊ぐんたい参謀さんぼう本部ほんぶ将校しょうこうだったにもかかわらず、皇帝こうていへの忠誠ちゅうせいしんをあっさりて、1939ねん1がつ27にちきゅうドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せい誕生たんじょう記念きねん式典しきてんにも軍部ぐんぶ一切いっさい参加さんかしてはならないと厳命げんめいした[22]。1939ねん4がつにはナチ党員とういんでないにもかかわらず、チェコスロバキア併合へいごうさい進軍しんぐん褒賞ほうしょうとして黄金おうごんナチ党員とういんバッジ授与じゅよされた[23]

カイテルは、同僚どうりょうからドイツのおべっか使づかい(Lakai)をもじった「ラカイテル」とばれたり[24][25][注釈ちゅうしゃく 1]始終しじゅうあたまたてるおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」ともばれた[25]。ヒトラーは後年こうねんカイテルについて「映画えいがかん案内あんないがかり程度ていどあたまぬし」とひょうし、これをいたある将校しょうこうが「ではなぜそのような人物じんぶつをドイツ国防こくぼうぐん最高さいこうにんじたのですか」とくと、ヒトラーは「それはあのおとこいぬのように忠実ちゅうじつだからだ」とこたえたという[26]

当時とうじカイテルの副官ふっかんだった将校しょうこう証言しょうげんによると、ヒトラーをまじえた作戦さくせん会議かいぎでは、つねに「総統そうとう閣下かっかおおせとおり」「総統そうとうかく、あなたは史上しじょう最高さいこう軍事ぐんじ指導しどうしゃです」「総統そうとうあやまちをおかされるはずはない」などと、口癖くちぐせのようにはなしていたという。ちなみに、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい作戦さくせん部長ぶちょうアルフレート・ヨードル上級じょうきゅう大将たいしょうは、カイテルの軍事ぐんじセンスのなさを見抜みぬき、作戦さくせんじょう詳細しょうさい一切いっさいつたえず、大枠おおわくのみつたえていたという。ただし実務じつむ能力のうりょくたかかったため、統制とうせいれにくかった国防こくぼうぐん短期間たんきかんでひとつにまとめるという功績こうせきのこしている。

だい世界せかい大戦たいせん

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1939ねん9がつ占領せんりょうしたポーランド・ウッチはしるカイテル上級じょうきゅう大将たいしょう自動車じどうしゃ

1939ねん9がつ1にちにドイツ国防こくぼうぐんによるポーランド侵攻しんこう開始かいしされ、イギリスフランスがドイツに宣戦せんせん布告ふこくし、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。ポーランド侵攻しんこうおも陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍りくぐんそう司令しれい中心ちゅうしんとなって作戦さくせん指導しどうしており、カイテルの国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい役割やくわりてきものだった。しかしポーランド侵攻しんこう、カイテルのもとには親衛隊しんえいたい(SS)アインザッツグルッペン虐殺ぎゃくさつかんする報告ほうこくしょがった。国防こくぼうぐん情報じょうほう部長ぶちょうヴィルヘルム・カナリス提督ていとくもカイテルにアインザッツグルッペンにかんする苦情くじょうもうてたが、カイテルは「国防こくぼうぐんがこうした虐殺ぎゃくさつ関与かんよしなくていいようにするためには親衛隊しんえいたいとゲシュタポがとなりにいること許可きょかするしかない」と回答かいとうしたという[27]

ヒトラーは1939ねんふゆのうちにもたいフランスせん開始かいしするつもりだったが、カイテルは陸軍りくぐんそう司令しれいかんブラウヒッチュのへい休息きゅうそくらせる必要ひつようがあるという意見いけんれて、1939ねんふゆ軍事ぐんじ行動こうどう反対はんたいし、ヒトラーとはげしい口論こうろんをした。カイテルはヒトラーの罵倒ばとう激怒げきどして前線ぜんせん部隊ぶたい指揮しきまわしてほしいともとめたが、ヒトラーの説得せっとくおもいとどまったという。結局けっきょくになってヒトラーは1939ねんふゆのフランス攻撃こうげきあきらめた[28]

1940ねんはる北欧ほくおう侵攻しんこうでは陸軍りくぐん海軍かいぐん空軍くうぐん共同きょうどう作戦さくせん重要じゅうようとされてカイテルの国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい主導しゅどうすることとなった。とく作戦さくせん本部ほんぶちょうアルフレート・ヨードル活躍かつやくし、ドイツぐんたい北欧ほくおうせん完全かんぜん勝利しょうりおさめた。以降いこうヨードルはヒトラーの戦略せんりゃくアドバイザーとしての役割やくわり敗戦はいせんまでになつづけた[29]

1940ねん6がつ、ドイツぐん代表だいひょうしてフランスとのあいだ休戦きゅうせん協定きょうてい文書ぶんしょ署名しょめいしたカイテル

1940ねん5がつからのたいフランスせんではドイツぐん連戦れんせん連勝れんしょうかさね、大国たいこくフランスをわずか6週間しゅうかんくだした[30]。1940ねん6がつ21にちから6がつ22にちにかけてパリ郊外こうがいコンピエーニュにおいて客車きゃくしゃだいいち大戦たいせんのときにドイツが休戦きゅうせん協定きょうていむすさい使用しようされた「休戦きゅうせん客車きゃくしゃ」)でドイツとフランスの休戦きゅうせん協定きょうてい交渉こうしょうおこなわれた[31]。カイテルはこの調印ちょういんしきにドイツぐん代表だいひょうとして出席しゅっせきし、フランスぐん代表だいひょうシャルル・アンツィジェール将軍しょうぐんたいして「この車両しゃりょうにおいてドイツ民族みんぞく受難じゅなんときはじまった。いち民族みんぞくあたえうる最大さいだい不名誉ふめいよ屈辱くつじょくはじまった。人間にんげんとしてのくるしみ、物質ぶっしつてきくるしみがここからはじまったのだ。(りゃく)その世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつより25ねんときた1939ねん9がつ3にちにイギリスとフランスは、またしてもなん根拠こんきょもなくドイツに宣戦せんせん布告ふこくした。いま武力ぶりょくによる決着けっちゃくはつけられた。フランスはたおされたのである。」と宣言せんげん[32]、フランスに休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつ調印ちょういんさせた。カイテルはこの復讐ふくしゅうげき大変たいへん満足まんぞくし、のちにこの瞬間しゅんかんを「わが軍隊ぐんたい生活せいかつ最高さいこうとき」とかたった[33]

1940ねん7がつ19にち元帥げんすい進級しんきゅうする。戦場せんじょう指揮しきったわけでもないカイテルの元帥げんすい進級しんきゅう一部いちぶ反対はんたいこえがったが、おおきな戦勝せんしょうなか元帥げんすいごう連発れんぱつされるのもゆるされるムードだった[34]

1941ねん3がつ28にち、ベルリンの日本にっぽん大使館たいしかんでのレセプション。日本にっぽん外相がいしょう松岡まつおか洋右ようすけ(ひだり)と外交がいこうかんハインリヒ・ゲオルク・スターマー(みぎ)とともに

カイテルはイギリスをたおまえソ連それん戦争せんそうをすることには反対はんたい立場たちばであった。外相がいしょうヨアヒム・フォン・リッベントロップんでヒトラーにヨシフ・スターリン協議きょうぎつことを提案ていあんしている。しかしヒトラーに相手あいてにされることはなかった[35]。それにもかかわらず1941ねんまつにモスクワ攻略こうりゃく失敗しっぱいしたさいにはカイテルがヒトラーからすさまじい叱責しっせきけ、カイテルが自殺じさつしそうになったとアルフレート・ヨードルはのち証言しょうげんしている[36]

1941ねん12月7にちには『よるきり布告ふこく』に副署ふくしょした。この布告ふこくではドイツ占領せんりょうぐん当局とうきょく反抗はんこうするもの軍法ぐんぽう会議かいぎによる判決はんけつくだされなかったならば、親族しんぞくへの通知つうちなしにドイツの強制きょうせい収容しゅうようしょへと移送いそうされることになった。この法令ほうれいによってフランスだけでも7000にんえるレジスタンスされた人物じんぶつ痕跡こんせきのこさず姿すがたした[37]

また1941ねん10がつにはゲリラに対処たいしょするための「報復ほうふくかんする命令めいれい」、ソ連それん政治せいじ将校しょうこう対処たいしょするための「政治せいじ委員いいんかんする命令めいれい」(en)に署名しょめいし、1942ねん10がつ18にちには破壊はかい工作こうさくいんなどに対処たいしょするための「コマンドにかんする指令しれい」(en)に署名しょめいした[25]

1941ねん7がつ25にち。ヒトラー総統そうとう中央ちゅうおう)、カイテル元帥げんすい(ヒトラーのひだり後方こうほう)、空軍くうぐんそう司令しれいかんゲーリング国家こっか元帥げんすいみぎはし)、空軍くうぐんエースパイロットメルダース大佐たいさ左端ひだりはし

スターリングラードのたたか以降いこう、ドイツの戦況せんきょう悪化あっかしてくると、ヒトラーが死守ししゅ命令めいれい連発れんぱつするようになる。撤退てったい許可きょかもとめるものたいしてはヒトラーが政治せいじてき理由りゆう却下きゃっかし、そのヒトラーは国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうカイテル元帥げんすいはなしり、カイテルも「自分じぶん意見いけんたない無駄むだなおしゃべり」(フランツ・ハルダー)をして結局けっきょく総統そうとうおな結論けつろんすのがドイツの作戦さくせん本部ほんぶ日常にちじょう姿すがたとなっていった。ドイツの戦況せんきょうがさらに悪化あっかしてもカイテルの主人しゅじんへの追従ついしょうぶりはわらなかった。むしろさらに追従ついしょうつよめていった。国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい会議かいぎ部下ぶか将校しょうこうがヒトラーの死守ししゅ命令めいれいわるあらたな戦術せんじゅつかんがえることを提案ていあんしただけでカイテルは「敗北はいぼく主義しゅぎしゃがこのにいる資格しかくはない」と絶叫ぜっきょうしてだまらせた。1943ねん1がつにはナチとう官房かんぼうちょうマルティン・ボルマン首相しゅしょう官房かんぼう長官ちょうかんハンス・ハインリヒ・ラマースとともに総統そうとうぐかどうかをめるための機関きかんとして「さんにん委員いいんかい(Dreimännerkollegiums)」を創設そうせつしている。

1944ねん7がつ20日はつかヒトラー暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんさいには爆発ばくはつ現場げんば居合いあわせた。カイテルがさきに「総統そうとう無事ぶじですか」とさけびながらヒトラーにり、ヒトラーをいだきかかえてそとしている[38]。その陰謀いんぼう関与かんよした軍人ぐんじん軍法ぐんぽう会議かいぎではなく、反逆はんぎゃくざいさばローラント・フライスラー人民じんみん法廷ほうていにかけるために、ず、国防こくぼうぐん名誉めいよ法廷ほうてい (Ehrenhof) にかけられることとなった。エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥げんすい55にん軍人ぐんじん軍籍ぐんせき剥奪はくだつされた。ゲルト・フォン・ルントシュテットハインツ・グデーリアンならんでカイテルも名誉めいよ法廷ほうてい構成こうせいいん一人ひとりとして同僚どうりょう名誉めいよ剥奪はくだつ関与かんよした。また7がつ24にちにはカイテルは国防こくぼうぐんぜん軍人ぐんじんたいして敬礼けいれいはすべてかかげるナチスしき敬礼けいれいにするようめいじている。1945ねん1がつまつには「将兵しょうへい行動こうどうかんする規定きてい」に署名しょめいし、撤退てったい命令めいれい将校しょうこうは「敗北はいぼく主義しゅぎしゃ」として即決そっけつ裁判さいばん死刑しけい必要ひつようならばその即座そくざ殺害さつがいしてよいこととした。脱走だっそうへい親族しんぞく連帯れんたい責任せきにんらせる命令めいれいした。

ソ連それんぐんたいする降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいするカイテル

1945ねん5がつにヒトラーの自殺じさつると、ヒトラーの遺言ゆいごんにより大統領だいとうりょうけん国防こくぼうぐんそう司令しれいかんとなったカール・デーニッツ海軍かいぐん元帥げんすいフレンスブルク政府せいふしたさんじた。5月7にちアルフレート・ヨードル上級じょうきゅう大将たいしょうアイゼンハワー司令しれいにおいて降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいおこなった。5月8にちにヨードルがもどってくると、カイテルはデーニッツのいのちけてソ連それんとの休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつのためにヨードルとアイゼンハワーのあいだ条約じょうやくあんをもって英軍えいぐん輸送ゆそうベルリンかった。市内しないカールスホルストドイツばん工兵こうへい学校がっこうにおいて、降伏ごうぶく文書ぶんしょ批准ひじゅん措置そちおこなった。カイテル元帥げんすい国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうとして降伏ごうぶく文書ぶんしょ批准ひじゅんのための署名しょめいおこなった(海軍かいぐん代表だいひょうハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク提督ていとく空軍くうぐん代表だいひょうハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ上級じょうきゅう大将たいしょう副署ふくしょおこなっている)[39]現在げんざい、カイテルが降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいおこなった建物たてものベルリン=カールスホルスト・ドイツ=ロシア博物館はくぶつかんドイツばん になり、どくせんベルリン攻防こうぼうせん降伏ごうぶくしき資料しりょう展示てんじされている。 

逮捕たいほ

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カイテルはのフレンスブルク政府せいふ面々めんめんより一足早ひとあしはやく、5月13にちにアメリカぐん捕虜ほりょとなっている(後任こうにん国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうにはヨードルが就任しゅうにんした)[40]大物おおもの捕虜ほりょあつめられていたルクセンブルクバート・モンドルフドイツばんのホテルを使つかってつくられた収容しゅうようしょおくられた。自分じぶん戦犯せんぱんとして裁判さいばんにかけられる予定よていであることをったカイテルは、自己じこ弁護べんごのために戦友せんゆう犠牲ぎせいにすることはめようと決意けついし、5月15にち国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいてて「この戦友せんゆう仲間なかまから永遠えいえんわかれることはつらい。戦争せんそう捕虜ほりょであるわたしは、戦犯せんぱんとしての判決はんけつ直面ちょくめんしている。わたしのただひとつのねがいはわたしのかつての部下ぶかたちがわたしおな運命うんめいまぬかれることにある。わたし軍人ぐんじんとしての履歴りれきわった。わたし生涯しょうがい結末けつまつまえにしている。」といている[41]

しかしそのねがいもむなしく、5月23にちにはデーニッツ、ヨードルらのフレンスブルク政府せいふ面々めんめん連合れんごうぐんによって逮捕たいほされてモンドルフにおくられてきた。かれらやひと足早あしはやおくられてきていたゲーリングとともに8がつ中旬ちゅうじゅんまでモンドルフでごした[42]。このあいだロバート・ジャクソンらによってカイテルたちをさばくための遡及そきゅうほう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょう」が急遽きゅうきょ制定せいていされた。犯罪はんざい定義ていぎ法廷ほうてい構成こうせい訴訟そしょう手続てつづき、刑罰けいばつなどがこれによりさだめられた[43]

8がつ中旬ちゅうじゅん被告ひこくらとともにニュルンベルク裁判さいばんにかけるためにニュルンベルク刑務所けいむしょ移送いそうされた。この移送いそうさいにバート・モンドルフ、ついでニュルンベルクでも刑務所けいむしょちょうつとめるアメリカぐん大佐たいさバートン・アンドラスによってヨードルとともに起立きりつさせられ、「おまえたちはもはや軍人ぐんじんではない。犯罪はんざいしゃだ。」と宣告せんこくされて階級かいきゅうしょうがはぎられた[44]

ニュルンベルク裁判さいばん

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1945ねんニュルンベルク裁判さいばん前列ぜんれつひだりからヘルマン・ゲーリングヨアヒム・フォン・リッベントロップ、カイテル。

カイテルはだい1起訴きそ事項じこう侵略しんりゃく戦争せんそう共同きょうどう謀議ぼうぎ」、だい2起訴きそ事項じこう平和へいわたいするつみ」、だい3起訴きそ事項じこう戦争せんそう犯罪はんざい」、だい4起訴きそ事項じこう人道じんどうたいするつみ」とすべての訴因そいんにおいて起訴きそされた[45]刑務所けいむしょづけ心理しんり分析ぶんせきかんグスタフ・ギルバート博士はかせ起訴きそじょう感想かんそうもとめられると「軍人ぐんじんにとって命令めいれい命令めいれいである」とべた[46]

追従ついしょうしゃ」のかおはこの裁判さいばんさいにもえ、ヘルマン・ゲーリング被告ひこくに「団結だんけつ」をもとめたさいもっともゲーリングの支配しはいつよけていた人物じんぶつ一人ひとりがカイテルだったという。精神せいしん分析ぶんせきかんダグラス・ケリー少佐しょうさはこうしたカイテルの状態じょうたいについて「カイテルはすでにきる目的もくてきうしなったかのようになっている。自殺じさつ危険きけんもっとたか被告ひこくだ」などといている[47]

1945ねん11がつ20日はつかからニュルンベルク裁判さいばん開廷かいていした。しかしロンドン憲章けんしょう犯罪はんざいとみなされた決定けっていをヒトラーが公示こうじしたとき、カイテルはほとんど同席どうせきしてそれに署名しょめいしているため、死刑しけいははじめから決定けっていしており、カイテルにたいする反対はんたい尋問じんもん世論せろん意識いしきした見世物みせものぎなかった[48]。カイテルも反対はんたい尋問じんもんでそうした命令めいれい署名しょめいしたこと自体じたいには抗弁こうべんしなかった[49]

最終さいしゅう弁論べんろんつぎのようなつみみとめるニュアンスでおこなった。「わたし弁護士べんごし裁判さいばんちゅうわたしふたつの基本きほんてきいかけをしました。だいいちいは『勝利しょうりした場合ばあい貴方あなた自分じぶんがその成功せいこう部分ぶぶんてき参加さんかしたことを拒否きょひしたでしょうか』。それにわたしはこうこたえました。『いいえ。いたしません。わたしたしかにそれをほこりにしたでしょう』。だいいは『貴方あなたがもう一度いちどおな立場たちばったなら、貴方あなたはどうふるまうでしょうか』でした。わたしこたえは『こんな犯罪はんざいてき方法ほうほうあみなかまれるよりはえらぶでしょう』というものです。このふたつの返答へんとうから法廷ほうていはどうかわたし判断はんだん認識にんしきしていただきたいのです。わたししんじ、あやまりをおかしましたし、阻止そしせねばならぬものを阻止そしすることができませんでした。これはわたしつみです。わたし軍人ぐんじんとしてしめさなければならない最上さいじょうもの、すなわち従順じゅうじゅん忠誠ちゅうせいとが認識にんしきせざる目的もくてきのために悪用あくようされたとみとめざるをえないこと、そして軍人ぐんじんとしての義務ぎむ完遂かんすいにも限界げんかいがあることをらなかったこと、これは悲劇ひげきであります。これはわたし運命うんめいであります。今度こんど戦争せんそう事態じたい原因げんいんわざわいにちた手段しゅだんおそるべき結果けっか明晰めいせきなる認識にんしきから、どうかドイツ国民こくみんにとって、しょ国民こくみん共同きょうどう社会しゃかいにおけるあらたな未来みらいへの希望きぼうまれそだってほしいとねがものであります。」[50]同様どうよう趣旨しゅし遺言ゆいごんのこしている。2006ねんあらたに公開こうかいされた遺言ゆいごんじょうでは、ヒトラーにたいする忠誠ちゅうせいと、裏切うらぎものになることへの忌避きひつづられていた。

1946ねん10がつ1にち被告人ひこくにん全員ぜんいん判決はんけつがいいわたされた。まず被告人ひこくにん全員ぜんいんがそろったなか一人ひとりずつ判決はんけつぶんげられた。カイテルの判決はんけつぶんは、カイテルはオーストリア侵攻しんこう計画けいかくオットー計画けいかく(Case Otto)」、チェコスロヴァキア侵攻しんこう計画けいかくみどり作戦さくせん(Fall Grün)」、ポーランド侵攻しんこう計画けいかくしろ作戦さくせん(Fall Weiss)」、ソ連それん侵攻しんこう計画けいかくバルバロッサ作戦さくせん」の立案りつあん関与かんよしていたとし、さらに1942ねん8がつ4にち落下傘らっかさんへい部隊ぶたいSDわたすべしとの布告ふこくおこなったこと、ノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせんのちコマンド[よう曖昧あいまい回避かいひ]かんする命令めいれいさい確認かくにんをして範囲はんい拡張かくちょうさせたこと、1939ねん9がつ12にちにユダヤじんとポーランド知識ちしきじん清掃せいそうされるべきと発言はつげんしたこと、1941ねん9がつ16にち東方とうほうにおけるドイツへいたいする攻撃こうげきはドイツへい1にんたいして共産きょうさん主義しゅぎしゃ50にんから100にん死刑しけいしょするという手段しゅだんによって対処たいしょされるべきとの指令しれいくだしたこと、1941ねん12月7にちに『よるきり』の命令めいれい布告ふこくしたこと、1942ねん9がつ8にちにフランス・オランダ・ベルギーの市民しみんを『大西洋たいせいようかべ』ではたらかせるよう指令しれいくだしたことなどを列挙れっきょしたうえで、「以上いじょう記録きろく直面ちょくめんしてカイテルはこれらの行為こういたいするかれ関与かんよ否定ひていしていない。むしろかれ弁護人べんごにんかれ軍人ぐんじんだったという事実じじつ憲章けんしょう8じょう禁止きんしする『上層じょうそう』の原則げんそくたよっている。しかし減刑げんけい余地よちまったくない。このように衝撃しょうげきてきかつ広範囲こうはんいにわたる犯罪はんざい意識いしきてきかつ無慈悲むじひてき遂行すいこうした場合ばあい被告ひこくがたとえいち軍人ぐんじんであったとしても、上官じょうかん命令めいれいであったという弁明べんめい減刑げんけい理由りゆうにはできない」としてカイテルを4つの訴因そいんすべてで有罪ゆうざいとした[51]

その個別こべつにいいわたされる量刑りょうけい判決はんけつでカイテルは絞首刑こうしゅけい判決はんけつけた。絞首刑こうしゅけい判決はんけつけたとき、カイテルは上官じょうかん命令めいれいでもけるかのようにかるうなずいた[52]

処刑しょけい

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カイテルは1946ねん10がつ5にちに「判決はんけつ刑罰けいばつとしてわたしもとめていますが、わたしつぎのごとき希望きぼう表明ひょうめいして、よろこんでいのちしたいとおもいます。その希望きぼうとはこの犠牲ぎせいがドイツ国民こくみん幸福こうふく、ドイツ国防こくぼうぐん免責めんせきしてほしいということです。わたしじゅうによるあたえてもらいたいというねがいをつだけです」とする嘆願たんがんしょ提出ていしゅつしたが、却下きゃっかされた[53]

カイテルは死刑しけい執行しっこうまで回顧かいころくいた。そのなかで「1944ねん7がつ20日はつかヴォルフスシャンツェでヒトラーをねらったばくだん爆発ばくはつしたとき英雄えいゆうとしてぬことができていたらどんなによかったか」といた[54]

10月16にち午前ごぜん110ふんから自殺じさつしたヘルマン・ゲーリングのぞ死刑しけいしゅう10にん絞首刑こうしゅけい順番じゅんばん執行しっこうされた。カイテルは、ヨアヒム・フォン・リッベントロップいで番目ばんめ処刑しょけいされた。

カイテルは軍人ぐんじんらしくほこたか態度たいど絞首こうしゅだいのぼった[55]最後さいご言葉ことばは「全能ぜんのうかみびかけます。どうかドイツ国民こくみんに憐みをたまわらんことを。ひゃくまんにん以上いじょう兵士へいし祖国そこくのためにんでいきました。いまわたし息子むすこたち[注釈ちゅうしゃく 2]のちいます。すべてにまさるドイツ!」[56][57][55]

カイテルはなかなか絶命ぜつめいせず、絞首刑こうしゅけい執行しっこうから死亡しぼうまでに24ふんもかかった[58]

自殺じさつしたゲーリングをふくめてカイテルら11にん遺体いたいは、アメリカぐんのカメラマンによって撮影さつえいされた。撮影さつえいばこれられ、アメリカぐん軍用ぐんようトラックでミュンヘン郊外こうがい墓地ぼち火葬かそうじょうはこばれ、そこでかれた。遺骨いこつイーザルがわ支流しりゅうコンヴェンツがわながされた[59]

遺体いたい画像がぞうがあります。表示ひょうじすと、表示ひょうじされます。
刑死けいしのカイテルの遺体いたい

人物じんぶつ

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1941ねん3がつ9にち総統そうとう官邸かんてい。ヒトラー総統そうとうとカイテル元帥げんすい
  • アメリカぐん拘留こうりゅう記録きろくによると身長しんちょうは185センチである[60]
  • ニュルンベルク刑務所けいむしょづけ心理しんり分析ぶんせきかんグスタフ・ギルバート大尉たいいが、開廷かいていまえ被告人ひこくにん全員ぜんいんたいしてったウェクスラー・ベルビュー成人せいじん知能ちのう検査けんさによると、カイテルの知能指数ちのうしすうは129だった[61]
  • だい世界せかい大戦たいせんにおいていち実戦じっせん指揮しき経験けいけんいままじょされた唯一ゆいいつ陸軍りくぐん元帥げんすいである。カイテル自身じしんもこれを軍人ぐんじんとしてコンプレックスかんじるところがあったらしく、ニュルンベルク裁判さいばん弁護士べんごしオットー・ネルテはなしたところによると、いち師団しだんでもいいから前線ぜんせん指揮しきをとらせてほしいとヘルマン・ゲーリング仲介ちゅうかいしてもらってヒトラーに嘆願たんがんしたことがあるという[62]。しかしヒトラーがカイテルに期待きたいする役割やくわりはあくまで「最高さいこう司令しれい総長そうちょう」であり、最後さいごまで嘆願たんがんれられることはなかった。
  • カイテルはその内面ないめん意志いしよわさにはんして立派りっぱなひげをやしたいかにもドイツ軍人ぐんじんらしい屈強くっきょう風貌ふうぼうであった。これをヒトラーがうまく利用りようすることもあった。1938ねん2がつ12にちにヒトラーがオーストリア首相しゅしょうクルト・フォン・シュシュニク恫喝どうかつおこなったさいにシュシュニクがためらっているのをるとヒトラーはつぎひかえていたカイテルを大声おおごえびつけた。ヒトラーは「ぐん準備じゅんびととのっておるか」とシュシュニク首相しゅしょうまえにしてわざわざカイテルにき、かれは「できております、総統そうとう」とこたえた。シュシュニク首相しゅしょうはこの問答もんどうふるえあがり、辞意じいかためたという[26]
  • カイテルのちちは1934ねん死去しきょした。このさいかれはヘルムシュローデへかえり、ちち地主じぬし仕事しごとぐため、ぐん退官たいかんとどけしている。しかしつまリーザはおっとぐんでのさらなる出世しゅっせもとめており、ぐんにとどまるよう説得せっとくされた。またカイテルの事務じむ能力のうりょく評価ひょうかしていたヴェルナー・フォン・フリッチュ陸軍りくぐんそう司令しれいかんからも留任りゅうにんもとめられ、結局けっきょくカイテルは辞表じひょう撤回てっかいした。しかし、自身じしん回顧かいころくには「しんそこからヘルムシュローデへかえりたかった」と記述きじゅつしている[63]
  • ニュルンベルク裁判さいばんちゅう、レオン・ゴールデンソーンからけたインタビューのなかで「わたし軍人ぐんじんだ。そして過去かこ44ねんにわたり、皇帝こうてい陛下へいかのため、エーベルトのため、ヒンデンブルクのため、そしてヒトラーのためにはたらいた」「わたしにはなん権限けんげんもなかった。陸軍りくぐん元帥げんすいとはばかりだった。ひきいるべき軍隊ぐんたいもなく、権限けんげんもない。ヒトラーの命令めいれい遂行すいこうしたにぎない。わたし誓約せいやくによってかれしばられていた」「ヒトラーに5かいわたって辞任じにんもうたが、きびしい言葉ことば拒否きょひされ、うしろめたさから仮病けびょう使つかえなかった」とべている[64]。またヒトラーについて「わたしわせればかれ天才てんさいだった。わたしにとっての天才てんさいとは、あのように非常ひじょう先見せんけんあかりがあり、直感ちょっかんりょくにあふれ、歴史れきし軍事ぐんじ造詣ぞうけいふか人間にんげんのことだ。だからヒトラーにかんしてはその言葉ことば使つかいたいとおもう」「戦況せんきょう悪化あっかして敗北はいぼくつづくとわたし自分じぶんにこういいきかせていた。物事ものごと順調じゅんちょうっているときだけ忠義ちゅうぎくすというのはいただけない。状況じょうきょう不利ふりになってくるしいとき善良ぜんりょう忠実ちゅうじつ軍人ぐんじんでいることのほうがずっと大変たいへんなのだ、と」「かれ政治せいじてき理念りねん追求ついきゅうするとなるとおそろしく残酷ざんこくになれた一方いっぽう個人こじん感情かんじょう一人ひとりいちにん人生じんせいについては自分じぶんきつけて理解りかいすることができた。すくなくともわたしにはそうかんじられた」「かれ演説えんぜつ聴衆ちょうしゅうをそれぞれおもいやっていた。たとえば将校しょうこうだんたいする演説えんぜつとう幹部かんぶたいする演説えんぜつ国民こくみんたいする演説えんぜつではどれもまったちがっていた。かれ演説えんぜつつね相手あいて心情しんじょうにぴたりとあてはまるものだった。それはかれ際立きわだった才能さいのうひとつ、つまり演説えんぜつによってひと納得なっとくさせるちからだった。軍人ぐんじんまえ演説えんぜつするときかれはいつもドイツ軍人ぐんじん貴族きぞくてき伝統でんとう言及げんきゅうした。かれ書斎しょさいには3まい肖像しょうぞうかざられていた。フリードリヒ大王だいおうビスマルクだいモルトケだ」[65]
  • アルベルト・シュペーアは1946ねん10がつ4にち日記にっきなかで「ドイツ国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうヴィルヘルム・カイテル。かれはかつては人気にんきがなく、軽蔑けいべつされていたが、ニュルンベルク裁判さいばんちゅう分別ふんべつある、尊敬そんけいすべきおとこになった」といている[66]

キャリア

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ぐん階級かいきゅう

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受章じゅしょう

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カイテルをえんじた人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ フランス語ふらんすご下僕げぼく意味いみするlaquaisをへんじ、laquai-telすなわち、ラ・カイ・テル(La-Kei-tel)と揶揄やゆされたとするせつもある(ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気きょうき歴史れきし片岡かたおかあきら やく講談社こうだんしゃ、2000ねんISBN 4-06-159433-8、p.249)。
  2. ^ カイテルの長男ちょうなんは1941ねん東部とうぶ戦線せんせん戦死せんしし、次男じなんは1945ねんなかばに音信いんしん不通ふつうとなった。かれソ連それんぐん捕虜ほりょになっていたが、カイテルはそれをらず、息子むすこにんともうしなったとおもっていた(ゴールデンソーンp51、マーザーP392)

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j Biographie: Wilhelm Keitel, 1882-1946”. Deutches Historisches Museum. 2014ねん7がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
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  4. ^ a b c d クノップ、p.109
  5. ^ ゴールデンソーン、p.53
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  18. ^ クノップ、p.125
  19. ^ ゲルリッツ(文庫ぶんこばん)、下巻げかんp.169
  20. ^ クノップ、p.133
  21. ^ ゲルリッツ(文庫ぶんこばん)、下巻げかんp.168
  22. ^ クノップ、p.138
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  24. ^ クノップ、p.137
  25. ^ a b c パーシコ、上巻じょうかんp.126
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  27. ^ クノップ、p.138-139
  28. ^ クノップ、p.141
  29. ^ クノップ、p.141-142
  30. ^ クノップ、p.142-143
  31. ^ 阿部あべ、p.464
  32. ^ クノップ、p.144-145
  33. ^ クノップ、p.143
  34. ^ クノップ、p.145-146
  35. ^ クノップ、p.146
  36. ^ クノップ、p.151
  37. ^ クノップ、p.153
  38. ^ パーシコ、下巻げかんp.127
  39. ^ マーザー 1979, p. 71-75.
  40. ^ マーザー 1979, p. 71/75.
  41. ^ マーザー 1979, p. 211-212.
  42. ^ マーザー 1979, p. 76.
  43. ^ パーシコ、上巻じょうかん70ぺーじ
  44. ^ パーシコ、上巻じょうかんp.75
  45. ^ 『ニュルンベルク裁判さいばん記録きろく』、p.302
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  49. ^ マーザー 1979, p. 226-230.
  50. ^ マーザー 1979, p. 364.
  51. ^ 『ニュルンベルク裁判さいばん記録きろく』、p.302-304
  52. ^ パーシコ、下巻げかんp.278
  53. ^ マーザー 1979, p. 383-384.
  54. ^ パーシコ、下巻げかんp.288
  55. ^ a b マーザー、p.392
  56. ^ クノップ、p.167
  57. ^ パーシコ、下巻げかんp.309
  58. ^ マーザー 1979, p. 395.
  59. ^ パーシコ、下巻げかんp.313
  60. ^ べいぐん拘留こうりゅう記録きろく
  61. ^ レナード・モズレーしる伊藤いとうあきらわけ、『だいさん帝国ていこく演出えんしゅつしゃ ヘルマン・ゲーリングでん 』、1977ねん早川書房はやかわしょぼう 166ぺーじ
  62. ^ パーシコ、下巻げかんp.8
  63. ^ クノップ、p.122
  64. ^ ゴールデンソーン、p.42/54
  65. ^ ゴールデンソーン、p.55-56
  66. ^ マーザー 1979, p. 381.
  67. ^ どくこく外務がいむ大臣だいじん男爵だんしゃく「フォン、ノイラート」そとさんじゅうさんめい叙勲じょくんけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113228200 
  68. ^ どくこく総統そうとう幕僚ばくりょう全権ぜんけん公使こうし「ワルター、ヘーベル」そとじゅうめい叙勲じょくんけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113448500 

参考さんこう文献ぶんけん

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日本語にほんご文献ぶんけん

外国がいこく文献ぶんけん

  • Werner Maser (Hrsg.): Wilhelm Keitel. Mein Leben – Pflichterfüllung bis zum Untergang. Hitlers Generalfeldmarschall und Chef des Oberkommandos der Wehrmacht in Selbstzeugnissen. postum zusammengestellt, edition q im Quintessenz Verlag, Berlin 1998, ISBN 3861243539死後しご編纂へんさんされたカイテルの自伝じでん
  • Wilhelm Keitel, Walter Görlitz (Hrsg.): Generalfeldmarschall Keitel – Verbrecher oder Offizier? Erinnerungen, Briefe, Dokumente des Chefs OKW. 558 Seiten. Verlag Siegfried Bublies, Schnellbach 2000, (Lizenzausgabe des Verlags Musterschmidt, Göttingen 1961), ISBN 3-926584-47-5 (カイテル関連かんれん書簡しょかん集成しゅうせい

外部がいぶリンク

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ぐんしょく
先代せんだい
ヴェルナー・フォン・ブロンベルク
(国防こくぼうしょう)
ドイツ国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい(OKW)総長そうちょう
1938 - 1945
次代じだい
アルフレート・ヨードル