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ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん

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ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
Deutsches Heer
活動かつどう期間きかん 1871ねん1がつ18にち(ドイツ統一とういつ)–1919ねん
国籍こくせき ドイツ帝国ていこく
所属しょぞく組織そしき ドイツ帝国ていこくぐん
ぐんしゅ 陸軍りくぐん
兵力へいりょく 500,000(1871ねん
3,800,000(1914ねん
4,500,000+(1918ねん
13,250,000+(1914ねん - 1918ねん
本部ほんぶ 陸軍りくぐん最高さいこう司令しれい
標語ひょうごかみわれらととも
装備そうび 詳細しょうさいはリストを参照さんしょう
おも戦歴せんれきひろしふつ戦争せんそう
サモア内戦ないせん
アブシリの反乱はんらん
だいサモア内戦ないせん
義和よしかずだんらん
・アダマワ戦争せんそう
・ヘレロ戦争せんそう
マジ・マジ反乱はんらん
・ソケースの反乱はんらん
だいいち世界せかい大戦たいせん
フィンランド内戦ないせん
ドイツ革命かくめい
指揮しき
大元帥だいげんすいヴィルヘルム1せい
フリードリヒ3せい
ヴィルヘルム2せい
陸軍りくぐん最高さいこう司令しれい部長ぶちょうヘルムート・フォン・モルトケ
エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン
パウル・フォン・ヒンデンブルク
陸軍りくぐん大臣だいじん プロイセン陸軍りくぐん大臣だいじん
参謀さんぼう本部ほんぶ総長そうちょう 参謀さんぼう本部ほんぶ総長そうちょう
識別しきべつ
軍旗ぐんき(1871ねん - 1892ねん
軍旗ぐんき(1892ねん-1903ねん
軍旗ぐんき(1903ねん - 1919ねん
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ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん(ドイツていこくりくぐん、ドイツ: Deutsches Heer)は、1871ねんドイツ統一とういつから1918ねんだいいち世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくにかけて存在そんざいしたプロイセン王国おうこく陸軍りくぐんバイエルン王国おうこく陸軍りくぐんザクセン王国おうこく陸軍りくぐんヴュルテンベルク王国おうこく陸軍りくぐんなど、帝国ていこくかく王国おうこく陸軍りくぐんによって構成こうせいされていた軍団ぐんだんである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

帝国ていこく陸軍りくぐん紋章もんしょうであるてつじゅう

ドイツ帝国ていこく1871ねん近代きんだい国民こくみん国家こっかてき要素ようそ国家こっかとして統一とういつされた。とはいえ、帝国ていこく制定せいていされた憲法けんぽうドイツ帝国ていこく憲法けんぽう)に記載きさいされているとおり、プロイセン中心ちゅうしんとした連邦れんぽう国家こっかであり、バイエルンザクセンなどの旧来きゅうらい地方ちほう権力けんりょくがそのままのこつづけた。このことは陸軍りくぐんにおいても同様どうようであったが、憲法けんぽうじょう戦時せんじ統帥とうすいけんについてはプロイセン国王こくおうおよドイツ皇帝こうていゆだねられた。しかしながら、それ以外いがい軍政ぐんせいかんする権限けんげんおおくは 1871ねん以後いごりょうくにのこされており、帝国ていこく陸軍りくぐんしょうのような軍政ぐんせい統一とういつてきあつか機関きかんとく存在そんざいしなかった。

また、バイエルン王国おうこくザクセン王国おうこくヴュルテンベルク王国おうこくの3王国おうこく独自どくじ複数ふくすう軍団ぐんだん保持ほじしており、バイエルン陸軍りくぐんしょうはじ独自どくじ陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ存在そんざいしていた。これらの軍団ぐんだん戦時せんじにおいてはドイツ帝国ていこく陸軍りくぐんとしてられるが基本きほんてきには「王国おうこく軍隊ぐんたい」であり、「帝国ていこく軍隊ぐんたい」としては存在そんざいしなかった。3王国おうこく国王こくおう軍団ぐんだん指揮しきする将軍しょうぐん地位ちいみとめられていた。さらに、これらの旧領きゅうりょうくに軍隊ぐんたい中核ちゅうかくにな将校しょうこうだんはや段階だんかいから、プロイセンなどのそれとくらべて財産ざいさん市民しみんなどの上層じょうそう中産ちゅうさん階級かいきゅう大半たいはんであった。バイエルンでは、1799ねん時点じてん将校しょうこうだんのおよそ50 %が市民しみん出身しゅっしんしゃから構成こうせいされており、1890ねんだいまで増加ぞうかつづけた。また、プロイセンでは1890ねんにようやく、ギムナジウム出身しゅっしんしゃ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入学にゅうがく資格しかくしゃくわえられたのにたいして、バイエルンとうでは1860ねんだいからアビトゥーア出身しゅっしんしゃにも陸軍りくぐん将校しょうこうへのみちひらかれていた。このように、将校しょうこうだん構成こうせいはプロイセンでは貴族きぞく出身しゅっしんしゃおおく、みなみドイツしょくにでは自由じゆう主義しゅぎてき社会しゃかいてき構成こうせいであった。それに起因きいんする近代きんだいてき技術ぎじゅつたいする精神せいしんめん差異さい存在そんざいした。だが、この陸軍りくぐん精神せいしん文化ぶんかてき差異さいは、1890ねんだい以降いこうプロイセンとそのりょうくに双方そうほうにおいて平準へいじゅんされる。

プロイセンでは、ギムナジウム出身しゅっしんしゃ以外いがいにも専門せんもんてき技術ぎじゅつてき職業しょくぎょう訓練くんれんけたギムナジウム出身しゅっしんしゃ増加ぞうかした。一方いっぽうで、バイエルンではぎゃく貴族きぞく出身しゅっしんしゃえた、いわゆる「プロイセン」が進行しんこうした。また、バイエルンをのぞしょくに陸軍りくぐん軍団ぐんだんも、事実じじつじょうドイツ帝国ていこく陸軍りくぐんいち軍隊ぐんたいとしてプロイセン陸軍りくぐんへと改組かいそされたいった。

機構きこう[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつとおり、ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん指揮しきかんドイツ皇帝こうていである。皇帝こうていぐん大元帥だいげんすいであり、統帥とうすいけん保有ほゆうする。皇帝こうてい軍事ぐんじ内局ないきょく助言じょげんけ、プロイセン陸軍りくぐんしょうドイツばんプロイセン参謀さんぼう本部ほんぶつうじて支配しはいけん行使こうしした。参謀さんぼう本部ほんぶ総長そうちょう皇帝こうてい主要しゅよう軍事ぐんじ顧問こもんとなり、帝国ていこくもっと強力きょうりょく軍事ぐんじ司令しれいかんとなった。一方いっぽうバイエルンは独自どくじ陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ保有ほゆうしていたが、プロイセン参謀さんぼう本部ほんぶ計画けいかく調整ちょうせいしていた。また、ザクセンやヴュルテンベルクも独自どくじ陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ保有ほゆうしていた。

ナポレオン戦争せんそうでプロイセンが敗北はいぼくしたことをけ、プロイセンぐん指揮しき改革かいかくされた。(軍政ぐんせい改革かいかく)プロイセン陸軍りくぐんは、軍事ぐんじてき専門せんもんしょく支配しはいした貴族きぞく出身しゅっしんしゃ武術ぶじゅつ依存いぞんするのではなく、リーダーシップ、組織そしき計画けいかく卓越たくえつせい確保かくほするために実力じつりょく重視じゅうしするよう変更へんこうした。軍事ぐんじてき卓越たくえつせい制度せいどしようとした参謀さんぼう制度せいどおも結果けっかであった。それは、よりひくいレベルでぐん才能さいのう特定とくていし、ぐん上級じょうきゅう計画けいかく機関きかんである大将軍だいしょうぐんいたるまで、師団しだん軍団ぐんだん、およびよりたかいスタッフにかんする学術がくじゅつ訓練くんれん実践じっせんてき経験けいけんつうじてそれを徹底的てっていてき育成いくせいしようとした。ドイツ統一とういつ戦争せんそうおよびドイツ統一とういつおおきく貢献こうけんしたプロイセン参謀さんぼう本部ほんぶはドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん主要しゅよう軍事ぐんじ機関きかんとなり、だいいち世界せかい大戦たいせんときには国政こくせい重要じゅうよう機関きかんともなった。

外交がいこう政策せいさく決定けっていにおける軍事ぐんじてき役割やくわり[編集へんしゅう]

帝国ていこくないでは、外交がいこう関係かんけい帝国ていこく宰相さいしょう帝国ていこく外務がいむ大臣だいじん管轄かんかつであった。軍部ぐんぶ外交がいこうめん役割やくわりとしては軍事ぐんじ同盟どうめい戦争せんそう問題もんだいとなったときに外交がいこう政策せいさく作成さくせいすることであった。だいいち世界せかい大戦たいせんなか参謀さんぼう本部ほんぶはますます強力きょうりょくになり、陸軍りくぐん大臣だいじん権限けんげんえ、外交がいこうにも介入かいにゅうするようになった。 1871ねんから1890ねん帝国ていこく宰相さいしょうつとめたオットー・フォン・ビスマルク外交がいこう政策せいさくへの軍部ぐんぶ軍事ぐんじ干渉かんしょうなやまされていた。たとえば1887ねんに、かれらは皇帝こうていヴィルヘルム2せいロシアとの戦争せんそう宣言せんげんするよう説得せっとくしようとした。またかれらはオーストリアがロシアを攻撃こうげきすることを奨励しょうれいした。ビスマルクは軍隊ぐんたい統率とうそつすることはなかったが、かれはげしく不平ふへいてき発言はつげんつづけたが軍部ぐんぶもまたビスマルクを批判ひはんつづけた。1905ねんモロッコめぐってドイツとフランス衝突しょうとつしたモロッコ事件じけん国際こくさい政治せいじさわがせて、参謀さんぼう総長そうちょうアルフレート・フォン・シュリーフェンはフランスにたいする戦争せんそうびかけた。1914ねん7がつだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつで、参謀さんぼうちょうしょうモルトケは、皇帝こうてい首相しゅしょうげずに、オーストリアにロシアにたいしてすぐに動員どういんするように忠告ちゅうこくした。大戦たいせんちゅうパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥げんすい皇帝こうてい直接ちょくせつ協力きょうりょくし、ますます外交がいこう政策せいさくした。歴史れきしエドワード・ゴードン・クレイグは、1914ねん開戦かいせんは「兵士へいしによってなされたものであり、かれらをつくさいに、かれらは政治せいじてき配慮はいりょをほぼ完全かんぜん無視むしした」とべている。

歴代れきだい参謀さんぼう本部ほんぶ総長そうちょう (1871ねん - 1919ねん)[編集へんしゅう]

構造こうぞう[編集へんしゅう]

ドイツ皇帝こうていぐん大元帥だいげんすいとして統帥とうすいけん保有ほゆうしゃであったが、帝国ていこく陸軍りくぐん非常ひじょう複雑ふくざつ組織そしき構造こうぞうであった。帝国ていこく陸軍りくぐん基本きほんてき平時へいじ組織そしき構造こうぞうは、陸軍りくぐん検査官けんさかん(Armee-Inspektion)、軍団ぐんだん(Armeekorps)、師団しだん連隊れんたいであった。戦時せんじちゅう陸軍りくぐん検査官けんさかんは、軍団ぐんだん部下ぶか部隊ぶたい管理かんりするぐん指揮しきかん結成けっせいしていた。だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうに、よりたかいコマンドレベルであるぐん集団しゅうだん(Heeresgruppe)が作成さくせいされた。かくぐん集団しゅうだんは、いくつかの野戦やせんぐん支配しはいしていた。

陸軍りくぐん管区かんく[編集へんしゅう]

帝国ていこく本土ほんどはいくつかの陸軍りくぐん地区ちくけられ、それぞれの地区ちくは4つの軍団ぐんだんち、1871ねんには帝国ていこくないに5つの地区ちくができ、1907ねんから1914ねんあいだにはさらに3つの地区ちくつくられた。

だい1陸軍りくぐん管区かんくドイツばん : ダンツィヒ本部ほんぶく。1914ねん8がつ2にちだい8ぐんとなる。

だい2陸軍りくぐん管区かんくドイツばん : ベルリン本部ほんぶく。1914ねん8がつ2にちだい3ぐんとなる。

だい3陸軍りくぐん管区かんくドイツばん : ハノーファー本部ほんぶく。1914ねん8がつ2にちだい6ぐんとなる。

だい4陸軍りくぐん管区かんくドイツばん : カールスルーエ本部ほんぶく。1914ねん8がつ2にちだい7ぐんとなる。

だい5陸軍りくぐん管区かんくドイツばん : シュトゥットガルト本部ほんぶく。1914ねん8がつ2にちだい4ぐんとなる。

だい6陸軍りくぐん管区かんくドイツばん : ベルリン本部ほんぶく。1914ねん8がつ2にちだい5ぐんとなる。

だい7陸軍りくぐん管区かんくドイツばん : ザールブリュッケン本部ほんぶく。1914ねん8がつ2にちだい1ぐんとなる。

学校がっこう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]