ヴェルナー・フォン・フリッチュ

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ヴェルナー・フォン・フリッチュ
Werner von Fritsch
フリッチュの肖像しょうぞう写真しゃしん (1932ねん)
生誕せいたん 1880ねん8がつ4にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく デュッセルドルフ
死没しぼつ (1939-09-22) 1939ねん9月22にち(59さいぼつ
ポーランドの旗 ポーランド
ワルシャワ
所属しょぞく組織そしき  ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
 ヴァイマル共和きょうわこく陸軍りくぐん
 ドイツ陸軍りくぐん
ぐんれき 1898ねん1939ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん上級じょうきゅう大将たいしょう
墓所はかしょ ベルリン軍人ぐんじん墓地ぼち
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ヴェルナー・フォン・フリッチュ
Werner von Fritsch
所属しょぞく政党せいとう 国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
(1937ねん入党にゅうとう)
称号しょうごう 男爵だんしゃく(Baron)

内閣ないかく ヒトラー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1935ねん6月1にち - 1938ねん2がつ4にち
総統そうとう アドルフ・ヒトラー

ヴァイマル共和きょうわこく陸軍りくぐん
だい5だい 陸軍りくぐん統帥とうすい長官ちょうかん
内閣ないかく ヒトラー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1934ねん2がつ1にち - 1935ねん6月1にち
大統領だいとうりょう パウル・フォン・ヒンデンブルク
総統そうとう アドルフ・ヒトラー
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ヴェルナー・フォン・フリッチュ男爵だんしゃくドイツ: Werner Freiherr von Fritsch, 1880ねん8がつ4にち - 1939ねん9月22にち)は、ドイツ陸軍りくぐん軍人ぐんじん。1935ねんから1938ねんあいだ陸軍りくぐんそう司令しれいかんつとめる。ブロンベルク罷免ひめん事件じけん関連かんれん失脚しっきゃくしたのちだい世界せかい大戦たいせん開戦かいせん直後ちょくごポーランド侵攻しんこうとき戦死せんしした。最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん上級じょうきゅう大将たいしょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

プロイセン軍人ぐんじん[編集へんしゅう]

フリッチュは、ドイツ帝国ていこくデュッセルドルフ近郊きんこうのベンラートせいまた。父親ちちおや陸軍りくぐん中将ちゅうじょうだった。1898ねん、18さい士官しかん候補こうほせいとしてプロイセン野砲やほうへいだい25連隊れんたい入営にゅうえい。2ねん少尉しょうい任官にんかん1901ねんプロイセン陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうまなぶ。1907ねんから3年間ねんかんベルリン陸軍りくぐんだい学校がっこうまなぶ。1911ねん参謀さんぼう本部ほんぶづけ1913ねん大尉たいい昇進しょうしんだいいち世界せかい大戦たいせんにはさまざまな部隊ぶたい参謀さんぼう将校しょうこうとして従軍じゅうぐん設立せつりつあいだもない航空こうくう部隊ぶたいにもせきいた。1917ねん少佐しょうさ昇進しょうしんし、同年どうねんプール・ル・メリット勲章くんしょう受章じゅしょう

戦後せんごヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん採用さいようされ、国防省こくぼうしょうづけとなる。のちだい5砲兵ほうへい連隊れんたい部長ぶちょう。1923ねん中佐ちゅうさ昇進しょうしん。1924ねんだい1歩兵ほへい師団しだん参謀さんぼうちょう就任しゅうにんしている。また同年どうねんフリッチはおな軍人ぐんじんのヨアヒム・フォン・シュテュルプナーゲルに手紙てがみき、民主みんしゅ主義しゅぎにくみ、ハンス・フォン・ゼークト将軍しょうぐん軍部ぐんぶ独裁どくさい確立かくりつするための、クーデタをのぞむとべている[1]かれヴァイマル共和きょうわこくにも批判ひはんてきで、ドイツは「ユダヤじん新聞しんぶんのプロパガンダ」によってほろぼされていると手紙てがみしるした。フリッチュの手紙てがみには、かれきらっているすべてのひとのリストでめくくられていた[1]

最後さいご手段しゅだんとしては、「エーベルト」、「平和へいわ主義しゅぎしゃ」、「ユダヤじん」、「民主みんしゅ主義しゅぎしゃ」、「くろあかかね[注釈ちゅうしゃく 1]、そして「フランスじん」、そしてこれらのおんなたち、売春ばいしゅんたちはきみっておくがすべておなじもの、すなわちドイツを破壊はかいしたいひとたちなのです。ちいさなちがいはあっても、結局けっきょくおなじことです。わたしたちがしんじられるのは、自分じぶん自身じしんだけなのです。信頼しんらい真実しんじつ、そしてあい......それがわたしたちドイツじんあいだにしかないのです。Prösterchen, prostata ![1]
- フォン・フリッチュ

1938ねん11月はんユダヤ暴動ぼうどう水晶すいしょうよる」ののち12月11にち、マルゴー・フォン・シュッツバー男爵だんしゃく夫人ふじん手紙てがみした[2][3][4][5][6][7][8][9]

戦後せんごまもなく、わたしは、ドイツがふたた強大きょうだいになるには、3つのたたかいにたなければならないとかんがえるようになった。

1. 労働ろうどうしゃ階級かいきゅうとのたたかい- ヒトラーはこれに勝利しょうりした。

2. カトリック教会きょうかいたいするたたかい。

3. ユダヤじん対抗たいこうして

わたしたちはこれらのたたかいと、ユダヤじんたいするたたかいの只中ただなかにいるのです。 - フォン・フリッチュ

ドイツの歴史れきしヴォルフラム・ヴェッテは、フリッチュは民主みんしゅ主義しゅぎまもるために帝国ていこく主義しゅぎまもちかいをてており、フリッチュがまもることをちかった民主みんしゅ主義しゅぎ破壊はかいするための暴動ぼうどうびかけることは「かれちかいをてた共和きょうわこくきわめて不誠実ふせいじつ行為こうい」であり、かれのこれらの手紙てがみ大逆だいぎゃくざいちかいものであるとべている[1] 。フリッチュは1920年代ねんだいのドイツの秘密ひみつさい軍備ぐんびふかかかわっており、ドイツはヴェルサイユ条約じょうやくだい条件じょうけんからのがれようとした。1926ねん兵務へいむきょく参謀さんぼう本部ほんぶ偽称ぎしょう)で陸軍りくぐん部長ぶちょう1927ねん大佐たいさ昇進しょうしん1928ねん砲兵ほうへいだい2連隊れんたいちょう就任しゅうにんした。また同年どうねん、フリッチュは1939ねんおこなわれるポーランド侵攻しんこう計画けいかく着手ちゃくしゅした[10]1932ねんクルト・フォン・シュライヒャー少将しょうしょう昇進しょうしんさせられ、同年どうねんだい1騎兵きへい団長だんちょう翌年よくねんだい3歩兵ほへい団長だんちょうおよびだい3ぐん管区かんく司令しれいかんてんじる。シュライヒャーはフリッチュとゲルト・フォン・ルントシュテットに、プロイセン社会しゃかい民主党みんしゅとう政権せいけん転覆てんぷくするクーデターの実行じっこうまかせた[10]

陸軍りくぐんそう司令しれいかん[編集へんしゅう]

1935ねん1がつ、ヒトラーに新年しんねん祝辞しゅくじべるブロンベルク国防こくぼうしょう左端ひだりはし)と三軍さんぐん司令しれいかんひだりからゲーリング、フリッチュ、レーダー

アドルフ・ヒトラー首相しゅしょう就任しゅうにんしたのち1934ねん2がつ1にちクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト将軍しょうぐん後任こうにんとして、ヒンデンブルク大統領だいとうりょうにより陸軍りくぐん統帥とうすい長官ちょうかん任命にんめいされる。これはヴェルナー・フォン・ブロンベルクしん国防こくぼうしょう任命にんめいともに、自分じぶんちか保守ほしゅてき伝統でんとうてきプロイセン軍人ぐんじんぐんのトップにえることで、ナチス勢力せいりょく伸張しんちょうさえねらいがあった。しかしこのねらいは成功せいこうしなかった。むしろフリッチュは1933ねんナチとう権力けんりょく掌握しょうあくつよ支持しじしていた[11] 。これは、フリッチュがはんユダヤ主義しゅぎものであったからである。またヒトラー自身じしんもフリッチュを自分じぶん政権せいけん支持しじしゃていたことと、国防こくぼうしょうヴェルナー・フォン・ブロンベルクがフリッチュのプロ意識いしきたか評価ひょうかしていたことも理由りゆうひとつであった。1934ねん2がつ、ブロンベルクがユダヤじんだとおもわれる兵士へいし全員ぜんいん不名誉ふめいよ除隊じょたいめいじたとき、フリッチュは異議いぎとなえずその命令めいれい実行じっこううつした。1934ねん12月31にち、フリッチュは「将校しょうこうがアーリアじん範囲はんいないでしかつまもとめないことはうまでもない」とし、ユダヤじん女性じょせい結婚けっこんした将校しょうこうただちに不名誉ふめいよ除隊じょたいになると発表はっぴょうした[12]。1934ねんまつから1935ねんはじめにかけて、フリッチュとブロンベルクは、ぜん首相しゅしょうながいナイフのよる暗殺あんさつされたクルト・フォン・シュライヒャー将軍しょうぐんをフランスに協力きょうりょくする反逆はんぎゃくしゃとして描写びょうしゃする報道ほうどうには将校しょうこうとしてえられないとし、ヒトラーに圧力あつりょくをかけ、名誉めいよ回復かいふくすることに成功せいこうした[13]

1935ねん5月ヒトラーによるさい軍備ぐんび宣言せんげんともない、同年どうねん6月1にちにドイツ陸軍りくぐんそう司令しれいかん(Oberbefehlshaber des Heeres)となった[14]

フリッチュはナチス政権せいけん支持しじしていたが、ナチとう幹部かんぶ親衛隊しんえいたいには反感はんかんっていた。ブリュッケンでのパレードで、フリッチュは親衛隊しんえいたいやヒトラー以下いかのナチス指導しどうしゃ皮肉ひにくった。かれはまた、ヒトラーがソ連それんとの戦争せんそうこすことを警戒けいかいしていた。しかし歴史れきしヴェッテは、保守ほしゅてき民族みんぞく主義しゅぎてきなフリッチュが、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ肯定こうていし、ヒトラーを独裁どくさいしゃとして完全かんぜんれていたことは議論ぎろん余地よちがないとべている。1936ねん4がつ20日はつか、ブロンベルクが陸軍りくぐん元帥げんすい昇進しょうしんすると、同時どうじにフリッチュも上級じょうきゅう大将たいしょう昇進しょうしんした。このとき、フリッチュは正式せいしき称号しょうごうたない、帝国ていこく大臣だいじんおな地位ちい権限けんげんあたえられた。1937ねん1がつ30にち、ナチス政権せいけん4周年しゅうねん記念きねんして、ヒトラーはフリッチュをふくのこりの無所属むしょぞく閣僚かくりょうぐん高官こうかんみずか黄金おうごんナチ党員とういんバッジ授与じゅよした。同時どうじにフリッチュも名目めいもくじょう、ナチ党員とういんとなった。(党員とういん番号ばんごう3805227)。同年どうねん11月5にち、ヒトラーはフリッチュらドイツ国防こくぼうぐん三軍さんぐんしょうまえ侵略しんりゃく戦争せんそう計画けいかくける。しかしフリッチュはブロンベルクととも時期じき尚早しょうそうとして異議いぎとなえ、ヒトラーの不興ふきょうった(ホスバッハ議事ぎじろく)。

ブロンベルク=フリッチュ罷免ひめん事件じけん[編集へんしゅう]

ハインリヒ・ヒムラーヘルマン・ゲーリングは、ブロンベルクの辞任じにん触発しょくはつされて、未婚みこんのフリッチュが同性愛どうせいあい関与かんよしていると非難ひなんした。フリッチュはけっして女好おんなずきではなく、軍務ぐんむ専念せんねんしていた。1938ねん2がつ4にち陸軍りくぐんそう司令しれいかん更迭こうてつされた。後任こうにんヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ将軍しょうぐんはフリッチュの推薦すいせん就任しゅうにんした。ヒトラーはこの状況じょうきょう利用りようして、何人なんにんかの将軍しょうぐん大臣だいじんをナチスの忠実ちゅうじつ人物じんぶつえ、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい設置せっちしてドイツ国防こくぼうぐん直接ちょくせつ掌握しょうあくし、戦争せんそうへのみちすすむ。この事件じけんはすぐに冤罪えんざいであることがあきらかになり、将校しょうこうによる名誉めいよ裁判所さいばんしょがこの事件じけん調査ちょうさしたが、その主宰しゅさいしゃはゲーリングであった。3月12にちオーストリアのドイツへの併合へいごうアンシュルス)の成功せいこうにより、ヒトラー、ゲーリング、ヒムラーにたいする批判ひはんはすべて封印ふういんされた。フリッチュは3月18にち無罪むざいとされ名誉めいよ回復かいふくしたが、かれ名声めいせいきずつけられ、以後いご職務しょくむもどされることはなかった。 無罪むざい判決はんけつけたのち、フリッチュは親衛隊しんえいたい指導しどうしゃヒムラーに決闘けっとうもうもうとした。フリッチュは正式せいしき挑戦ちょうせんじょう作成さくせいし、軍務ぐんむ以外いがいのたっぷりある自由じゆう時間じかんにピストルの練習れんしゅうをしたとつたえられている。この挑戦ちょうせんじょうはゲルト・フォン・ルントシュテット将軍しょうぐんわたされたが、ルントシュテットはドイツ国防こくぼうぐん親衛隊しんえいたいあいだ不信ふしんかん解消かいしょうするために、最終さいしゅうてきにフリッチュを説得せっとくしてこのあんをあきらめさせたという。[注釈ちゅうしゃく 2][15]冤罪えんざいにもかかわらず、フリッチュはナチス政権せいけん忠実ちゅうじつであり、ドイツは国家こっか破滅はめつさせようとするユダヤじん国際こくさいてき陰謀いんぼう直面ちょくめんしているとかたしんじていたのである[16]。1938ねん11月の水晶すいしょうよるさわぎののち、フリッチは11月22にち友人ゆうじんてた手紙てがみなかで、「もちろん、国際こくさいユダヤじんとのたたかいはいま公式こうしきはじまっており、当然とうぜん結果けっかとして、ユダヤじん政治せいじてきとりでであるイギリスとアメリカとの戦争せんそうにつながるだろう」といている[17]。フリッチュは、自身じしんをヒトラー暗殺あんさつ計画けいかくもうとした外交がいこうかんウルリヒ・フォン・ハッセルに、「ヒトラーはドイツの宿命しゅくめいであり、その事実じじつえることはできない」とった[18]

戦死せんし[編集へんしゅう]

フリッチュ最期さいごてられた石碑せきひ大戦たいせん終了しゅうりょう撤去てっきょされのこっていない
インヴァーリデンフリートホーフにあるはか

1939ねん9月だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、だい12砲兵ほうへい連隊れんたい名誉めいよ連隊れんたいちょう大佐たいさ)として、異例いれいながら最前線さいぜんせん従軍じゅうぐんした。9月22にちワルシャワのプラガ地区ちくでの戦闘せんとう戦死せんしした。この大戦たいせん戦死せんしした二人ふたりのドイツぐん将官しょうかん[注釈ちゅうしゃく 3]だったため、状況じょうきょうくわしく調査ちょうさされたが、それによれば機関きかんじゅうたまいたいしへんかれ大腿だいたいたって大動脈だいどうみゃくったことによる失血死しっけつしであった。フリッチの副官ふっかんかれ目撃もくげきしたローゼンハーゲン中尉ちゅういはこうしるしている。

手当てあてをすればたすかるきずだったが、包帯ほうたいてようとするとモノクルはずして「ああ、やめたまえ」とったきりで応急おうきゅう処置しょち拒否きょひした。その意識いしきうしない、すすきわらいをかべながらんでいった。たれてからぬまで、わずか1ふんしかなかった。

のぞんでの前線ぜんせんでの従軍じゅうぐんであり戦死せんしだった。フリッチュは4にちベルリン国葬こくそうけた。

顕彰けんしょう[編集へんしゅう]

戦死せんしには直後ちょくご石碑せきひてられ(現存げんそんせず)、国葬こくそうを以っておくられた。ベルゲン=ホーネ演習えんしゅうじょうには現在げんざい顕彰けんしょう石碑せきひがある。ダルムシュタットツェレひとし、ドイツ各地かくちにある兵舎へいしゃのいくつかにはいまかれかんせられている。またかつて存在そんざいしたドイツ連邦れんぽうぐんだい177はしほう大隊だいたいPanzerartilleriebataillon 177)は部隊ぶたいしょうとしてフリッチュの頭文字かしらもじ「F」を使用しようしていた。

キャリア[編集へんしゅう]

階級かいきゅう[編集へんしゅう]

  • 1900ねん1がつ27にち少尉しょうい(Leutnant)[19]
  • 1909ねん10がつ18にち中尉ちゅうい(Oberleutnant)[19]
  • 1913ねん3がつ22にち大尉たいい(Hauptmann)[19]
  • 1917ねん9がつ16にち少佐しょうさ(Major)[19]
  • 1922ねん11月15にち中佐ちゅうさ(Oberstleutnant)[19]
  • 1927ねん3がつ1にち大佐たいさ(Oberst)[19]
  • 1930ねん11月1にち少将しょうしょう(Generalmajor)[19]
  • 1932ねん6がつ1にち中将ちゅうじょう(Generalleutnant)[19]
  • 1934ねん2がつ1にち砲兵ほうへい大将たいしょう(General der Artillerie)[19]
  • 1936ねん4がつ20日はつか上級じょうきゅう大将たいしょう(Generaloberst)[19]

外国がいこく勲章くんしょう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ヴァイマル共和きょうわこく国旗こっき
  2. ^ いずれにせよ、ヒトラーはヒムラーのようなとう幹部かんぶ決闘けっとうすることをきんじていたため、この決闘けっとうはありなかったとおもわれる
  3. ^ 最初さいしょ将官しょうかんは、1939ねん9がつ10日とおかポーランドのオポチュノ付近ふきん戦死せんししたSS司令しれいかんヴィルヘルム・フリッツ・フォン・レティッヒ少将しょうしょうである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d Wette, Wolfram The Wehrmacht Cambridge: Harvard University Press, 2006 page 83.
  2. ^ Criminality, United States Office of Chief of Counsel for the Prosecution of Axis (1946) (英語えいご). Nazi Conspiracy and Aggression. U.S. Government Printing Office. https://books.google.com/books?id=1yzPAAAAIAAJ&pg=PA585 
  3. ^ Department, United States War (1946) (英語えいご). Military Government, Weekly Information Bulletin. p. 10. https://books.google.com/books?id=3R5JAQAAIAAJ&pg=RA10-PA10 
  4. ^ Eichholtz, Dietrich (1989) (ドイツ). Der Weg in den Krieg: Studien zur Geschichte der Vorkriegsjahre, 1935/36 bis 1939. Pahl-Rugenstein. p. 138. ISBN 978-3-7609-1309-4. https://books.google.com/books?id=qUesAAAAIAAJ&q=%22Bald+nach+dem+Krieg+kam+ich+zur+Ansicht%22 
  5. ^ Knab, Jakob (1995) (ドイツ). Falsche Glorie: das Traditionsverständnis der Bundeswehr. Ch. Links Verlag. p. 72. ISBN 978-3-86153-089-3. https://books.google.com/books?id=MnH8gY4B2zMC&pg=PA72 
  6. ^ Tribunal, International Military (2021-05-07) (英語えいご). The Nuremberg Trials (Vol.2) (Second day, November 21, 1945). e-artnow. https://books.google.com/books?id=VhJiEAAAQBAJ&pg=PT141 
  7. ^ Wistrich, Robert S. (2013-07-04) (英語えいご). Who's Who in Nazi Germany. Routledge. pp. 67–68. ISBN 978-1-136-41388-9. https://books.google.com/books?id=7qlvzyEieyQC&pg=PA67 
  8. ^ DrGoogelberg, zusammengestellt aus Wikipediaseiten und publziert von (ドイツ). Die Massaker der Wehrmacht. Lulu.com. p. 50. ISBN 978-1-291-21067-5. https://books.google.com/books?id=UmwCBAAAQBAJ&pg=PA50 
  9. ^ “Letters to The Times; Von Fritsch's Formula” (英語えいご). The New York Times. (1964ねん9がつ28にち). ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1964/09/28/archives/letters-to-the-times-von-fritschs-formula.html 2022ねん10がつ3にち閲覧えつらん  [Note: typo in NYT, correct date of Von Fritsch's letter - 1938.]
  10. ^ a b Wheeler-Bennett, John The Nemesis of Power, London: Macmillan, 1967 page 302.
  11. ^ Wheeler-Bennett, John The Nemesis of Power, London: Macmillan, 1967 page 293.
  12. ^ Shirer, William (1960). The Rise and Fall of the Third Reich. Simon and Schuster. pp. 214–215. https://archive.org/details/risefallthirdreich00shir 
  13. ^ Wheeler-Bennett, John The Nemesis of Power, London: Macmillan, 1967, page 336.
  14. ^ Nazi Conspiracy and Aggression, Volume V, pp. 542-543, Document 2879-PS”. Office of United States Chief of Counsel For Prosecution of Axis Criminality (1946ねん). 2021ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  15. ^ Deutsch, Harold. Hitler and His Generals: The Hidden Crisis. January – June 1938. Minneapolis: University of Minnesota, 1974. p 365-68.
  16. ^ Wheeler-Bennett, John The Nemesis of Power, London: Macmillan, 1967 page 494.
  17. ^ Wheeler-Bennett, John The Nemesis of Power, London: Macmillan, 1967 page 433.
  18. ^ Wheeler-Bennett, John The Nemesis of Power, London: Macmillan, 1967 page 380.
  19. ^ a b c d e f g h i j Lexikon der Wehrmacht "Freiherr von Fritsch, Werner Thomas Ludwig"
  20. ^ どくこく外務がいむ大臣だいじん男爵だんしゃく「フォン、ノイラート」そとさんじゅうさんめい叙勲じょくんけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113228200 


外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ぐんしょく
先代せんだい
陸軍りくぐん統帥とうすい長官ちょうかんから改称かいしょう
ドイツ陸軍りくぐんそう司令しれいかん
1935ねん - 1938ねん
次代じだい
ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
先代せんだい
クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト
ドイツ陸軍りくぐん統帥とうすい長官ちょうかん
1934ねん - 1935ねん
次代じだい
陸軍りくぐんそう司令しれい改編かいへん