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ポーランド侵攻しんこう

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ポーランド侵攻しんこう

戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1939ねん9月1にちから10月6にち
場所ばしょポーランド
結果けっか枢軸すうじくこくソ連それん勝利しょうり、ポーランドの領土りょうどがドイツとソ連それんあいだ分割ぶんかつされた
交戦こうせん勢力せいりょく
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
スロバキア共和国の旗 スロバキア共和きょうわこく
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ポーランドの旗 ポーランド
指導しどうしゃ指揮しきかん
ナチス・ドイツの旗 フェードア・フォン・ボック
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
ナチス・ドイツの旗 ゲオルク・フォン・キュヒラー
ナチス・ドイツの旗 ギュンター・フォン・クルーゲ
ナチス・ドイツの旗 ヨハネス・ブラスコヴィッツ
ナチス・ドイツの旗 ヴァルター・フォン・ライヒェナウ
ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・リスト
ナチス・ドイツの旗 コンラート・アルブレヒト
スロバキア独立国の旗 フェルディナンド・チャトロシュ
ソビエト連邦の旗 ミハイル・コワリョフ
ソビエト連邦の旗 セミョーン・チモシェンコ
ソビエト連邦の旗 ワシーリー・チュイコフ
ソビエト連邦の旗 フィリップ・ゴリコフ
ソビエト連邦の旗 イワン・チュレネフ
ポーランドの旗 エドヴァルト・リッツ=シミグウィ
ポーランドの旗 ヴワディスワフ・ボルトノフスキ
ポーランドの旗 ユリウシュ・ルンメル英語えいごばん
ポーランドの旗 アントニ・シュリング英語えいごばん
ポーランドの旗 カジミェシュ・ファブリシー英語えいごばん
ポーランドの旗 ステファン・ドンプ=ビェルナツキ
戦力せんりょく
2,967,000 950,000
損害そんがい
戦死せんし 17,098
負傷ふしょう 29,299
行方ゆくえ不明ふめい 379
戦死せんし 66,000
負傷ふしょう 133,700
捕虜ほりょ 694,000
だい大戦たいせんヨーロッパ戦線せんせん
1939ねん時点じてんのヨーロッパの情勢じょうせい ポーランドはドイツスロバキア同盟どうめいぐんうすあお)とソ連それん赤軍せきぐんうすきみどり)によって東西とうざいから侵攻しんこうけた

ポーランド侵攻しんこう(ポーランドしんこう)とは、1939ねん9月1にちドイツこくおよびドイツと同盟どうめいスロバキア共和きょうわこくが、つづいて1939ねん9月17にちソビエト連邦れんぽうポーランド領内りょうない侵攻しんこうした出来事できごと。ポーランドの同盟どうめいこくであったイギリスフランスイギリス・ポーランド相互そうご援助えんじょ条約じょうやく英語えいごばんフランス・ポーランド相互そうご援助えんじょ条約じょうやく英語えいごばんもと9月3にちにドイツに宣戦せんせん布告ふこくし、だい世界せかい大戦たいせんはじまった[ちゅう 1]

名称めいしょう(詳細しょうさい)

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  • 英語えいご: Polish September Campaign(ポーランド9がつ戦役せんえき)、あるいは Polish-German War of 1939(1939ねんポーランド=ドイツ戦争せんそう
  • ポーランド: Wojna obronna 1939 roku(1939ねん防衛ぼうえい戦争せんそう
  • ドイツ: Polenfeldzug(ポーランド戦役せんえき

概要がいよう

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ドイツとポーランドのあいだでは、自由じゆう都市としダンツィヒ帰属きぞくポーランド回廊かいろうあつかいについて対立たいりつがあったが、外交がいこう交渉こうしょうでは進展しんてんはなかった。1939ねん3がつに、チェコスロバキアが解体かいたいされると、イギリスはつよ反発はんぱつし、首相しゅしょうネヴィル・チェンバレンは、ポーランドに保障ほしょうあたえることを表明ひょうめいした。

えいふつ両国りょうこくとドイツから、ソ連それん陣営じんえいきが4がつから8がつあいだつづいたが、結局けっきょくソ連それんはドイツをえらび、8がつ23にちどく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつされた。この条約じょうやくには、ポーランドの分割ぶんかつさだめた秘密ひみつ議定ぎていしょ付属ふぞくしていた。

9月1にちに、ヒトラーは、自作じさく自演じえんの「ポーランド正規せいきぐんによるドイツりょうのラジオ放送ほうそうきょくへの攻撃こうげき」(グライヴィッツ事件じけん)およびポーランド国内こくないでのドイツじんへの迫害はくがいならびに16箇条かじょう要求ようきゅうたいする回答かいとう開戦かいせん事由じゆうとして、ポーランド侵攻しんこうめいじた。

9月3にちに、ポーランドと相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやくむすんでいたえいふつ両国りょうこくは、ポーランドりょうからの即時そくじ無条件むじょうけん撤退てったい要求ようきゅうした最後さいご通牒つうちょうにドイツが回答かいとうしなかったので、ドイツに宣戦せんせんした。

ドイツとせっする長大ちょうだい国境こっきょうせんうすあさくしか防衛ぼうえい準備じゅんびできなかったポーランド陸軍りくぐんは、開戦かいせんすぐにドイツぐんされてひがし戦線せんせん後退こうたいさせられた。9月中旬ちゅうじゅんワルシャワ西方せいほうクトノでの反撃はんげきブルザのたたか)に失敗しっぱいすると、戦局せんきょくドイツ国防こくぼうぐん有利ゆうりとなった。ポーランドぐん戦略せんりゃくは、首都しゅとワルシャワルーマニア国境こっきょう沿いのルーマニア橋頭堡きょうとうほ英語えいごばん固持こじし、えいふつ両国りょうこくによるドイツ攻撃こうげき救援きゅうえんち、持久じきゅうする計画けいかくであった。

9月17にちソ連それん赤軍せきぐんポーランド東部とうぶ侵攻しんこう開始かいしした。ポーランドぐん主力しゅりょくは、たいどくせん投入とうにゅうされており、東部とうぶ国境こっきょうまもりは手薄てうすだった。9月18にちに、ポーランドぐんそう司令しれいかんエドヴァルト・リッツ=シミグウィ元帥げんすいは、国土こくど防衛ぼうえい不可能ふかのう判断はんだんし、国軍こくぐん兵士へいし赤軍せきぐんとの戦闘せんとう中立ちゅうりつこくハンガリーかルーマニアへ脱出だっしゅつするようめいずるとともに、自身じしん大統領だいとうりょうふく政府せいふぐん要人ようじんはルーマニアに脱出だっしゅつし、同国どうこく抑留よくりゅうされ、政府せいふ機能きのう停止ていしした。

空軍くうぐんは、可動かどう残存ざんそん国外こくがい脱出だっしゅつ命令めいれいしたので、9月20にち以降いこう、ポーランドぐん空軍くうぐんなしで戦闘せんとうつづけることになった。

首都しゅとワルシャワとその北部ほくぶモドリンには、各地かくち敗残はいざん部隊ぶたいんで、総計そうけい20まんちかくのぐんもっていたが、9月17にちよりドイツぐん包囲ほうい攻撃こうげきはじまった。9月28にちにはワルシャワ地区ちく司令しれいかんとドイツぐんあいだ降伏ごうぶくについての協定きょうてい成立せいりつし、9月29にちにワルシャワは陥落かんらくした。

10月6にちには、ポーランドでの戦闘せんとう終結しゅうけつし、ポーランドはどく両国りょうこくによって分割ぶんかつされた。

開戦かいせんまえ両国りょうこく関係かんけい

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1933ねん国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう政権せいけんにぎと、ヒトラーはまずポーランドとの友好ゆうこう政策せいさくはかり、1934ねんにはドイツ・ポーランド不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつした。えいふつたいドイツ宥和ゆうわ政策せいさく結果けっかとしてドイツは領土りょうど問題もんだい強硬きょうこうてき姿勢しせいをとるようになり、1938ねんオーストリアを併合へいごうし、1939ねんチェコスロバキアを解体かいたいして、ベーメン・メーレン保護ほごりょう設置せっちスロバキア保護ほごこくおこない、係争けいそうちゅう地域ちいきをあらかた自国じこくりょう編入へんにゅうしてしまった。こうして問題もんだい解決かいけつするとナチス政権せいけん悲願ひがんだったポーランド回廊かいろう問題もんだい解決かいけつ決定けっていした。ドイツのおも関心事かんしんじ国際こくさい連盟れんめい管理かんりするドイツじん自由じゆう都市としダンツィヒ存在そんざいと、ポーランド回廊かいろうばれたバルト海ばるとかいつづくポーランドりょうによってドイツ本土ほんどからはなされているひがしプロイセン存在そんざいであった。

ポーランドの状況じょうきょうユゼフ・ピウスツキ契機けいきわっていく。1936ねんはんドイツてき史観しかんから、教科書きょうかしょ改訂かいていおよ従来じゅうらい教科書きょうかしょ回収かいしゅう各国かっこくもとめるうごきがはじまる。

ダンツィヒの状況じょうきょうはドイツにとって腹立はらだたしい存在そんざいだった。ここはだいいち大戦たいせんにおけるドイツの敗戦はいせんによってドイツからうばられた領土りょうどであるため、ヒトラーはダンツィヒのドイツけい住民じゅうみん解放かいほう大義名分たいぎめいぶんとした。1939ねん初頭しょとうにヒトラーは軍事ぐんじりょくによるポーランド問題もんだい解決かいけつ準備じゅんびする秘密ひみつ命令めいれいくだし、つづいてドイツ政府せいふ自由じゆう都市としダンツィヒのドイツへの編入へんにゅう要求ようきゅうと、ポーランド回廊かいろう通過つうかひがしプロイセンとドイツ本土ほんどむす治外法権ちがいほうけん道路どうろ建設けんせつ要求ようきゅうつよめた。ポーランド侵攻しんこう計画けいかく4がつ3にちまでに準備じゅんびととのっていた。

1920ねん国境こっきょうせんしめした地図ちず。ドイツりょう小豆色あずきいろで、ポーランドりょう黄色おうしょくしめされている。ポーランドりょうのうち西北せいほくはしバルト海ばるとかいめんした細長ほそなが部分ぶぶんポーランド回廊かいろうぶ。

ヒトラーは、ポーランドがドイツの要求ようきゅう譲歩じょうほするものとかんがえていた。しかし、ポーランド政府せいふ要求ようきゅう拒否きょひした。ドイツの国威こくい復興ふっこう危機ききかんいたイギリスフランス3月30にちにポーランドにたいし、軍事ぐんじ援助えんじょ保証ほしょうをしてポーランド政府せいふ方針ほうしん支持しじした。ヒトラーはイギリスとフランスを、きたるべきポーランドとの戦争せんそう介入かいにゅうさせないようにできるとかんがえていた。4がつ28にちにドイツは、1934ねん締結ていけつされていたドイツ・ポーランド不可侵ふかしん条約じょうやくと、1935ねん締結ていけつされていたロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく両方りょうほう破棄はきした。一方いっぽうポーランドは、1938ねんミュンヘン協定きょうてい直後ちょくごに、チェシンのうちチェコスロバキアりょうだった部分ぶぶん(チェスキー・チェシンČeský Těšín)を自国じこくりょう併合へいごうすることでドイツの拡張かくちょう主義しゅぎから利益りえきることとなった。この以前いぜんからポーランドとチェコスロバキアで領有りょうゆうけんあらそっていた経緯けいいがある。チェスキー・チェシンは面積めんせきこそちいさいが、人口じんこう構成こうせいはポーランドじん多数たすうで、炭鉱たんこう中心ちゅうしんとしたその経済けいざいはポーランドの中央ちゅうおう産業さんぎょう地帯ちたい (Centralny Okręg Przemysłowy) と密接みっせつ相互そうご依存いぞん関係かんけいにあった。ドイツとの戦争せんそう可能かのうせい年々ねんねんたかまってきており、ポーランドは自国じこく工業こうぎょういそぐため中央ちゅうおう産業さんぎょう地帯ちたい多大ただい投資とうしをしていた。

1919ねんから1939ねんまでの期間きかん、イギリスの基本きほんてき外交がいこう政策せいさく主眼しゅがんは、あめむち使つかけによって世界せかい大戦たいせん再発さいはつふせぐことにあった。むちとは1939ねんはるにポーランドに保証ほしょうした軍事ぐんじ援助えんじょで、これはドイツがポーランドやルーマニア攻撃こうげきするのをふせぐためであった。同時どうじに、首相しゅしょうネヴィル・チェンバレン外相がいしょうハリファックスきょうen)はミュンヘン協定きょうてい同様どうようのやりかたでヒトラーにアメをあたえることをかんがえた。これは自由じゆう都市としダンツィヒポーランド回廊かいろうを、ポーランドのほか部分ぶぶん領土りょうど保全ほぜん保障ほしょうえにドイツに割譲かつじょうすることであった。

これはしかし、ポーランド外相がいしょうユゼフ・ベック大佐たいさがチェンバレンやハリファックスきょう会談かいだんしたのち変更へんこうされた。1939ねん8がつ25にちにフランス・ポーランドあいだ軍事ぐんじ同盟どうめい補完ほかんするものとしてイギリス・ポーランド相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつされた。これでイギリスはポーランドの独立どくりつまも義務ぎむった。

ソ連それん外相がいしょうヴャチェスラフ・モロトフどく不可侵ふかしん条約じょうやく署名しょめい。モロトフのうしろにつのはひだりがドイツ外相がいしょうヨアヒム・フォン・リッベントロップみぎソ連それん首相しゅしょうヨシフ・スターリン

一方いっぽうモスクワではドイツとソ連それん秘密ひみつ会談かいだんつづけられ、8がつ23にちにはどく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつされた。ヒトラーはこの条約じょうやくによって、ドイツがポーランドを侵攻しんこうしてもソ連それんがそれに反対はんたいしないことを確実かくじつにした。また、条約じょうやく秘密ひみつ議定ぎていしょに、ドイツとソ連それんはポーランドを分割ぶんかつ占領せんりょう西側にしがわ3ぶんの1はドイツが、東側ひがしがわ3ぶんの2はソ連それん占領せんりょう)することに合意ごういした。

ドイツによるポーランドへの奇襲きしゅう攻撃こうげきは、8がつ26にち午前ごぜん4予定よていされていた。しかし8がつ25にちにイギリス政府せいふは、ポーランドの独立どくりつはイギリス・ポーランドあいだ同盟どうめいによって正式せいしき保障ほしょうされたと発表はっぴょうした。ヒトラーは予定よてい奇襲きしゅうをためらい、攻撃こうげき開始かいし9月1にち延期えんきした。そのあいだドイツは8がつ26にち、ポーランドとのきたるべき軍事ぐんじ衝突しょうとつにイギリスとフランスが介入かいにゅうすることをおもいとどまらせようと、両国りょうこく相手あいて交渉こうしょうした。ヒトラーは、ドイツがポーランドを攻撃こうげきしても、ポーランドの西側にしがわ同盟どうめいこくがドイツにたい宣戦せんせん布告ふこくする可能かのうせいはほとんどないとの確証かくしょうた。もし宣戦せんせん布告ふこくしても、ポーランドにたいする国境こっきょうせん確約かくやくはないのだから、ポーランドを占領せんりょうしてしまえば交渉こうしょうによって、ドイツにとって有利ゆうり譲歩じょうほせるとかんがえた。また23にち、ヒトラーはすでにハリファックスにたいして「ことの本質ほんしつ長年ながねん政治せいじてき問題もんだいにあるのであり、軍事ぐんじりょく大小だいしょうにあるのではないこと」をげており、えいふつ参戦さんせんはドイツにとって問題もんだいではなかった。米国べいこくやイタリアらの交渉こうしょうをポーランドや西側にしがわ同盟どうめいこく拒否きょひするまで、宣戦せんせん布告ふこく長引ながびいた。ドイツ国防こくぼうぐん情報じょうほうアプヴェーア)による国境こっきょうえた襲撃しゅうげき破壊はかい行為こういとそれに対応たいおうしたポーランドがわとの小競こぜい、ドイツのこう偵察ていさつによる領空りょうくう侵犯しんぱん件数けんすう増加ぞうかし、戦争せんそう勃発ぼっぱつせまった状態じょうたいになっていた[1][2][3][1][2][4][3][5][6]

8がつ29にち、ドイツはポーランドにたいポーランド回廊かいろう割譲かつじょう要求ようきゅうする最後さいご通牒つうちょうきつけた。ポーランドは内容ないようをすべてを理解りかいするのに手間取てまどり、説明せつめいけるために役人やくにんをドイツ外務省がいむしょう出向でむかせることをかんがえたが、しなしに一方いっぽうてきにドイツ外務省がいむしょう出向でむくのは貴族きぞくてきではないとしてこれをめた。くわえてドイツが内容ないよう説明せつめいのために何者なにものかを派遣はけんしてくるだろうと予測よそくをしていたためなに行動こうどうこすこともなかったが、そのうちに最後さいご通牒つうちょう回答かいとう期限きげんてしまった。ドイツはこれをポーランドが黙殺もくさつしたと主張しゅちょうして、ドイツ外相がいしょうリッベントロップはポーランドとの交渉こうしょうりを宣言せんげんした。

8がつ30にちポーランド海軍かいぐん駆逐くちくかん艦隊かんたいをイギリスにけて出航しゅっこうさせた(ペキン作戦さくせん Plan Peking)。ドイツ海軍かいぐんおとるポーランド海軍かいぐんが、バルト海ばるとかい破壊はかいされないようにするための措置そちだった。同日どうじつ、ポーランドのエドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥げんすいはポーランドぐんの「戦時せんじ動員どういん」を布告ふこくした。

1939ねん8がつ31にち、ヒトラーは戦争せんそう開始かいし翌日よくじつあさ445ふんとする命令めいれいくだした。この時点じてんでポーランドぐん動員どういん予定よていの70%(予備よびやくふくめたぜんぐん半分はんぶん)しか達成たっせいできておらず、おおくの部隊ぶたい隊形たいけいととのえることすらできていなかった。開戦かいせんには守備しゅびたいまもりをかためることはおろか、それぞれがあたえられた守備しゅび位置いちかって移動いどうをしている最中さいちゅうという有様ありさまであった。

日本にっぽん反応はんのう

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ドイツ外務省がいむしょう侵攻しんこうまえの8がつ21にちに「1、2週間しゅうかん以内いないにはポーランドは自己じこ認識にんしきするだろう」というむね声明せいめいしており、大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶんはこれを「時期じきがひっぱくしているにちがいない」、「どく連盟れんめいはポーランド分割ぶんかつかんすで秘密ひみつ協定きょうてい締結ていけつしたとわれ」、ドイツのポーランドへの態度たいどが「俄然がぜん硬化こうかしてたのも、どく連盟れんめい諒解りょうかい成立せいりつ」したからだなどのうわさがあるとほうじた[7]日本にっぽんは1922ねんにちえい通商つうしょう条約じょうやくをモデルとしてポーランドともにち通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく締結ていけつ居住きょじゅう通商つうしょう事項じこうめていたが[8]当時とうじソ連それん対抗たいこうするためにちどく防共ぼうきょう協定きょうていにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい締結ていけつしており、目立めだったうごきはしなかった。

それぞれの兵力へいりょく

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ドイツはポーランドぐんたいして圧倒的あっとうてきすうてき優位ゆうい維持いじし、強大きょうだい軍事ぐんじりょく準備じゅんびしていた。陸軍りくぐんIごう戦車せんしゃIIごう戦車せんしゃといったけい戦車せんしゃ主力しゅりょくとして、より攻撃こうげきりょくのあるIIIごう戦車せんしゃIVごう戦車せんしゃふくめてやく2,400りょう戦車せんしゃ保有ほゆうし、6装甲そうこう師団しだん編制へんせいあたらしい攻撃こうげき理論りろん構築こうちくしていた。理論りろんじょうでは戦車せんしゃ部隊ぶたい集中しゅうちゅう運用うんようによって、作戦さくせん部隊ぶたいともてき戦線せんせんのあちこちに突破口とっぱこう穿うがち、てき部隊ぶたい孤立こりつさせ、そのうえ歩兵ほへい部隊ぶたい孤立こりつしたてき部隊ぶたい各個かっこ撃破げきはすることとなっていた。作戦さくせん適宜てきぎかえされ、自動車じどうしゃされていない歩兵ほへい部隊ぶたいかく歩兵ほへいによって補完ほかんされることとなっていた。空軍くうぐん戦術せんじゅつてき戦略せんりゃくてきそらからの軍事ぐんじりょく提供ていきょうした。とくに急降下きゅうこうか爆撃ばくげきてき補給ほきゅうせん通信つうしんせん遮断しゃだんすることになっていた。りくそらからの攻撃こうげきをあわせた立体りったい作戦さくせんには電撃でんげきせんというニックネームがつけられた。 航空機こうくうき侵攻しんこう作戦さくせんにおける主力しゅりょくであった。ばくげき差別さべつ爆撃ばくげきにより都市とし一般いっぱん市民しみん攻撃こうげきし、一般いっぱん市民しみんあいだおおくの犠牲ぎせいしゃした。ドイツ空軍くうぐんは1,180戦闘せんとう、290Ju 87 シュトゥーカ急降下きゅうこうか爆撃ばくげき、290ばくげきおもハインケル He 111双発そうはつ爆撃ばくげき)、240種々しゅじゅ水上すいじょうから編成へんせいされていた。当時とうじのドイツは全部ぜんぶで3,000ちか航空機こうくうき(そのうち2,000新鋭しんえい)を保有ほゆうしており、半数はんすうがポーランド戦線せんせん投入とうにゅうされた。

ポーランド

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ポーランド陸軍りくぐん7TPけい戦車せんしゃ
グディニャこう係留けいりゅうされ博物館はくぶつかんとなっているポーランド海軍かいぐん駆逐くちくかんブウィスカヴィツァ (ORP Błyskawica)

1936ねんから1939ねんにかけてポーランドは、国土こくど中西部ちゅうせいぶから南部なんぶひろがる中央ちゅうおう産業さんぎょう地帯ちたい (Centralny Okręg Przemysłowy) にだい規模きぼ産業さんぎょう投資とうしおこなった。しかし、産業さんぎょう鉄道てつどう関係かんけい中心ちゅうしんであり、製鉄せいてつ機械きかい製作せいさくすすんでいなかった。元々もともと農業のうぎょうこくであり、帝政ていせいドイツや帝政ていせいオーストリアの教育きょういくけたものがおおかったが、下級かきゅう将校しょうこうかずりなかった。数字すうじうえではおよそ100まんにん兵士へいしゆうしていたが、実際じっさいはほとんどが予備よびやくで、1939ねん9がつ1にちまでに実際じっさい動員どういんされたのはその半分はんぶんにもたなかった。ポーランドの鉄道てつどうとう大量たいりょう輸送ゆそうもうがドイツ空軍くうぐん目標もくひょうになると、動員どういんおくれたものおおくが犠牲ぎせいとなった。ポーランドぐんはドイツ国防こくぼうぐんくら装甲そうこう戦闘せんとう車両しゃりょうかずすくなく、そのうえそれらは各地かくち歩兵ほへい部隊ぶたい少数しょうすうずつ配置はいちされたので、有効ゆうこう活用かつようされなかった。しかし、これらの欠点けってんにもかかわらず、「ポーランドぐん勇敢ゆうかんたたかった(ヒトラー、9月19にち演説えんぜつ)」

ポーランド陸軍りくぐん (Wojsko Lądowe) の組織そしきおよび行動こうどう方針ほうしんは、ポーランド・ソビエト戦争せんそうでの経験けいけんのっとってなされていた。だいいち世界せかい大戦たいせん塹壕ざんごうせんことなり、騎兵きへい機動きどうりょくさい重要じゅうようされた。開戦かいせん当時とうじ、ポーランド陸軍りくぐんは、7ぐん (Modlin, Pomorze, Poznan, Lodz, Krakow, Lublin, Karpaty)、1個いっこ独立どくりつ作戦さくせんぐん (Narew)、予備よびたい独立どくりつぐん (Prusy) と3作戦さくせんぐん (ヴィシュクフ, Tarnow, Kutno) からり、39歩兵ほへい師団しだん、11個いっこ騎兵きへい旅団りょだん、3山岳さんがく旅団りょだん、2機械きかい装甲そうこう旅団りょだんようした。開戦かいせんには、さらに1個いっこぐん (Warszawa) と独立どくりつ作戦さくせんぐん (Polesie) が編成へんせいされた。

ポーランド空軍くうぐん (Wojska Lotnicze i Obrony Powietrznej通称つうしょうSiły Powietrzne) はドイツ空軍くうぐんくら不利ふりだったが、ぶこともせず地上ちじょう全滅ぜんめつさせられたというはなし事実じじつではない。ポーランド空軍くうぐんには最新さいしんしき戦闘せんとう配備はいびされていなかったが、当時とうじ世界せかいではもっともよく訓練くんれんされたパイロットたちがおり、すうてきにも質的しつてきにも有利ゆうりなドイツたいしうまくたたかった。ポーランドは戦闘せんとうよう軍用ぐんようを400ほど保有ほゆうし、そのうち戦闘せんとうは169だった(に400時代遅じだいおくれの偵察ていさつ練習れんしゅうがあった)。戦闘せんとうよう軍用ぐんようのうち近代きんだいてきなもの(PZL.37 ウォシばくげき)は36で、みなドイツ軍機ぐんきくら旧式きゅうしきだった。たとえば1930年代ねんだい前半ぜんはん生産せいさんされたPZL P.11戦闘せんとう最高さいこう速度そくどやく350km/hで、これはドイツのばくげきよりもおそかった。

ポーランド海軍かいぐん (Marynarka Wojenna) は駆逐くちくかん潜水せんすいかん、それと小型こがた護衛ごえいかん構成こうせいされた小規模しょうきぼなものであった。駆逐くちくかん3せきは、8がつ30にちにポーランドをはなれ、ドイツぐん回避かいひしながら北海ほっかいイギリス海軍かいぐん合流ごうりゅうするペキン作戦さくせん (Plan Peking) にしたがった。潜水せんすい艦隊かんたいふくろ作戦さくせん (Plan Worek) に参加さんかした。これは、バルト海ばるとかいにおいてドイツの海上かいじょう補給ほきゅうせん攻撃こうげきし、それに打撃だげきあたえるというものであったが、おおきな成功せいこうることができなかった。ポーランド商船しょうせんたいはイギリスのそれに合流ごうりゅうし、だい世界せかい大戦たいせんつうじさまざまな商船しょうせんたい参加さんかした。ポーランドの駆逐くちくかん戦艦せんかんビスマルクとのたたかいにも参加さんかし、水雷すいらいせんいどんでビスマルク撃沈げきちんこころみている。

戦闘せんとう詳細しょうさい

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1939ねん9月1にち時点じてんでのドイツぐんとポーランドぐん配置はいち

計画けいかく

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ドイツの計画けいかく

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侵攻しんこう作戦さくせん陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうフランツ・ハルダー起案きあんされ、陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴァルター・フォン・ブラウヒッチュによって指揮しきされた。軍事ぐんじ攻撃こうげき宣戦せんせん布告ふこくよりまえ開始かいしされることになっており、近代きんだいてき航空こうくう戦力せんりょく戦車せんしゃ部隊ぶたい使つかった伝統でんとうてき殲滅せんめつせん理論りろんそくしたものであった。歩兵ほへいはほとんど自動車じどうしゃされていなかったが、はしほう部隊ぶたい兵站へいたん部隊ぶたい維持いじして戦車せんしゃ部隊ぶたい支援しえんされ、トラックにせられた歩兵ほへい装甲そうこう擲弾へい前身ぜんしん)は敵前てきぜんせん集中しゅうちゅうする侵攻しんこう部隊ぶたい迅速じんそく移動いどうたすけ、孤立こりつしたてき部隊ぶたい包囲ほうい殲滅せんめつすることとなっていた。それにたいして、イギリス研究けんきゅうしゃたちによって提唱ていしょうされハインツ・グデーリアンひとしがドイツぐん戦術せんじゅつとして導入どうにゅうすることを主張しゅちょうしていた電撃でんげきせん理論りろんは、機甲きこう部隊ぶたい敵前てきぜんせんはげしい攻撃こうげき突破口とっぱこうひらき、てき後方こうほうふかくまで一気いっき進撃しんげきすることであったが、実際じっさいのところポーランドでの作戦さくせん電撃でんげきせんでなく、もっと伝統でんとうてき殲滅せんめつせん理論りろん沿ってたたかわれることとなった。これは装甲そうこう師団しだん機械きかい部隊ぶたい役割やくわり伝統でんとうてき歩兵ほへい部隊ぶたい支援しえん限定げんていすべきだとする、陸軍りくぐん上層じょうそうあいだ蔓延まんえんしていた保守ほしゅ主義しゅぎ原因げんいんするものであった。

ポーランドは西にしきたひがしプロイセンがわ)でドイツとそう延長えんちょう2,000キロメートルものなが国境こっきょうせっしていた。1938ねんミュンヘン協定きょうていこうはドイツとの国境こっきょう南部なんぶでさらに800キロメートル延長えんちょうされた。ドイツのベーメン・メーレン保護ほごりょう設置せっちと、ドイツの傀儡かいらい国家こっかであるスロバキア共和きょうわこく誕生たんじょうは、ポーランドの南側みなみがわめんがドイツによる攻撃こうげきたい防備ぼうびになっていることを意味いみしていた。

ドイツの戦争せんそう計画けいかく立案りつあんしゃなが国境こっきょうせん侵攻しんこう作戦さくせん殲滅せんめつせん理論りろん機動きどう戦術せんじゅつ存分ぞんぶん利用りようしようと目論もくろんだ。ドイツのかく部隊ぶたいはポーランドを3方面ほうめんから侵攻しんこうすることとなった:

すべての強襲きょうしゅう部隊ぶたいワルシャワかって進軍しんぐんし、その過程かていでポーランドぐん主力しゅりょく部隊ぶたいヴィスワがわ西にし包囲ほうい殲滅せんめつされることとなっていた。「しろ場合ばあい(ケースホワイト)」作戦さくせん1939ねん9月1にち開始かいしされ、だい世界せかい大戦たいせん最初さいしょ軍事ぐんじ作戦さくせんとなった。

ポーランドの計画けいかく

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ポーランドの防衛ぼうえい計画けいかく暗号あんごう西方せいほう (Zachód)」はポーランド・ドイツ国境こっきょう直接ちょくせつ兵力へいりょく展開てんかいするという内容ないようである。これはポーランドが他国たこくから侵略しんりゃくけたさいに、イギリスがポーランドにたい軍事ぐんじてき援助えんじょおこなうという約束やくそくもとてられた計画けいかくである。さらに、ポーランドにとってもっと価値かちのある天然てんねん資源しげん産業さんぎょう、そして人口じんこうおお地域ちいき西部せいぶ国境こっきょう付近ふきんシレジア地方ちほう)に集中しゅうちゅうしているため、ポーランドの政策せいさくはこれらの地域ちいき防衛ぼうえいすることを主眼しゅがんとしていた。

西方せいほう (Zachód) 計画けいかくはポーランド陸軍りくぐん自国じこくりょう奥深おくふかくに撤退てったいする余地よちあたえたが、撤退てったいかわ(ナレフがわ、ヴィスワがわ、サンがわ)の付近ふきん準備じゅんびされた場所ばしょから後方こうほうへとゆっくりとおこなわれなければならなかった。うまくいけばこれによって、ポーランドはぐん動員どういん完了かんりょうまでの時間じかんかせぎをし、「西側にしがわ同盟どうめい諸国しょこく」が約束やくそくどおりの攻勢こうせいをかけたとき自軍じぐんだい規模きぼな「反転はんてん攻勢こうせい」にかけられるはずであった。

ポーランドぐんにとってもっと悲観ひかんてきなケースとなる「退却たいきゃくせん計画けいかく」は、サンかわ後方こうほうから自国じこくりょうひがし南部なんぶ地方ちほうへの撤退てったいと、時間じかんかせぎのなが防戦ぼうせんルーマニア橋頭堡きょうとうほ作戦さくせん)をふくむものであった。

このポーランドの計画けいかくは、同盟どうめいこくがポーランドとむすんだ相互そうご援助えんじょ条約じょうやく遵守じゅんしゅして、すみやかにドイツにたい攻勢こうせいをかけることを前提ぜんていとしていた。しかし、実際じっさいにドイツのポーランド侵攻しんこう作戦さくせんおこなわれているあいだ、フランスもイギリスもドイツを攻撃こうげきする計画けいかくてていなかった。しかしポーランド政府せいふはこの両国りょうこく計画けいかくについてらされておらず、ポーランドのすべての防衛ぼうえい計画けいかく西側にしがわ同盟どうめい諸国しょこく迅速じんそく救援きゅうえん行動こうどうへの期待きたいうえてられていたのである。

ドイツによるポーランド侵攻しんこうあいだ、ポーランドぐん非常ひじょう広大こうだい国境こっきょうせんうすばされて配置はいちされ、コンパクトな防衛ぼうえいせん有利ゆうり防衛ぼうえい配置はいちをとることができず、補給ほきゅうせん充分じゅうぶんまもられずに、しばしば機械きかいされたドイツぐん包囲ほういされる結果けっかとなってしまった。ポーランドぐんのおよそ3ぶんの1はポーランド回廊かいろうとその周辺しゅうへん(ポーランド西北せいほく)に重点じゅうてん配備はいびされたが、かれらはひがしプロイセン西方せいほうからのてきにより孤立こりつさせられ、さらに挟撃きょうげき危険きけんさらされた。南部なんぶでは、進撃しんげきするドイツぐん主要しゅよう進撃しんげきたいし、ポーランドぐんうすひろ配置はいちされていた。同時どうじに、ポーランドぐんべつのほぼ3ぶんの1は前線ぜんせんからはなれ、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥げんすい指揮しき集結しゅうけつしたまま国土こくどなか北部ほくぶウッチワルシャワあいだのこされていた。前方ぜんぽう集結しゅうけつしたポーランドの部隊ぶたいだい部分ぶぶんてきうごきにおくれをとり、たたか機会きかいうしなってしまった。ドイツぐんちがい、動員どういん途中とちゅう装備そうびととのっていなかったポーランドへいおおくは徒歩とほ移動いどうせざるをえず、後方こうほう防衛ぼうえいせんまで移動いどうすることができず、侵略しんりゃくしゃ機械きかい部隊ぶたい国内こくない展開てんかいするまえ適切てきせつ配置はいちがなされなかった。

だいいち段階だんかい: ドイツによる侵攻しんこう

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9月1にちから9月14にちまでのたたかいの経過けいか。ドイツぐん殲滅せんめつせん理論りろん (Vernichtungsgedanke) にのっとって進撃しんげきしている。
1939ねん9月のドイツぐんとのたたかいに使用しようされたポーランド陸軍りくぐん装甲そうこう列車れっしゃ9月1にちモクラでの戦闘せんとう参加さんかしたNo.53「シミャウィごう

ドイツぐんはポーランド侵攻しんこうそなえて国境こっきょうちかくにぐん移動いどうさせた。イギリスの『デイリー・テレグラフ開戦かいせん先立さきだつ8がつ29にちづけで、クレア・ホリングワース記者きしゃによる目撃もくげき情報じょうほうもとに「戦車せんしゃ1000りょうがポーランド国境こっきょう集結しゅうけつ 10師団しだん侵攻しんこう準備じゅんびちゅう」とほうじていた。これはだい大戦たいせんはじまりをげた歴史れきしてきスクープとなされている[9][10]

ドイツによる種々しゅじゅ自作じさく自演じえん事件じけんヒムラー作戦さくせん)は、ドイツの軍事ぐんじ行動こうどう自衛じえいけん行使こうしなのだというプロパガンダ利用りようされた。1939ねん8がつ31にち当時とうじドイツりょう現在げんざいはポーランドりょう)にあったグライヴィッツ(ポーランドめいグリヴィツェのラジオ放送ほうそうきょくアルフレート・ナウヨックス親衛隊しんえいたい少佐しょうさひきいる特殊とくしゅ工作こうさく部隊ぶたいがやってきて、ドイツりょうシレジア地方ちほうのポーランドけい住民じゅうみんけて、ストライキ決行けっこうするようポーランドびかけた。「ポーランドによるラジオきょく襲撃しゅうげき事件じけん」にせかけるのが目的もくてきだった。よりそれらしくせるために、しんポーランドてきだとして前日ぜんじつゲシュタポ逮捕たいほされていたシレジアじんフランチシェック・ホニオック現場げんば連行れんこうし、ポーランドの反乱はんらんへい服装ふくそうをさせ、かれ致死ちしりょう毒物どくぶつ注射ちゅうしゃしてじゅうった。ホニオックの死体したいはまるでラジオきょく襲撃しゅうげきさい攻防こうぼう殺害さつがいされたかのように現場げんば放置ほうちされ、ドイツの警察けいさつとマスコミにたいして、これはポーランドがわ襲撃しゅうげきうごかぬ証拠しょうことしてされた。ドイツがわはこの偽装ぎそう工作こうさくを「缶詰かんづめ」(Konserve) という暗号あんごうんでいた。そのためこの偽装ぎそう工作こうさく事件じけんは「缶詰かんづめ作戦さくせん」という不正確ふせいかく名前なまえられている。ヒムラー作戦さくせん実行じっこうされたドイツによる偽装ぎそう工作こうさくはこのグライヴィッツ事件じけんのほか、ポーランド国境こっきょう付近ふきん放火ほうか事件じけんにせのプロパガンダ活動かつどう事件じけんなど全部ぜんぶで21けんとされている。アドルフ・ヒトラー帝国ていこく議会ぎかいでの宣戦せんせん布告ふこく演説えんぜつでこれら21けん事件じけんれ、ポーランドへの「自衛じえいけん行使こうしだいさん帝国ていこく正当せいとう権利けんりであるとした。

しろ場合ばあい計画けいかくによるだい規模きぼ軍事ぐんじ行動こうどう宣戦せんせん布告ふこくがないまま1939ねん9月1にち開始かいしされた。午前ごぜん4時半じはんぎにドイツ空軍くうぐん急降下きゅうこうか爆撃ばくげきトチェフ橋梁きょうりょう周囲しゅういのポーランドぐん爆撃ばくげき正式せいしき作戦さくせん開始かいし時刻じこく午前ごぜん445ふんには、ドイツ海軍かいぐんぜんいしゆみきゅう戦艦せんかんシュレスヴィヒ=ホルシュタイン」が自由じゆう都市としダンツィヒヴェステルプラッテ駐屯ちゅうとんするポーランドぐん守備しゅびたいたいかんほう射撃しゃげきはじめた。ドイツ空軍くうぐんつづきポーランドのかく都市とし爆撃ばくげきするとともに、ドイツ陸軍りくぐんはポーランド国境こっきょう西にしみなみきたの3ぽうから一斉いっせい進撃しんげき開始かいしした。

午前ごぜん8空軍くうぐん急降下きゅうこうか爆撃ばくげき支援しえんされたドイツ陸軍りくぐん南部なんぶぐん集団しゅうだんぞくする2装甲そうこう師団しだんおよび1個いっこ歩兵ほへい師団しだんが、ポーランドりょうシレジアむらモクラ近郊きんこうにおいて地上ちじょう攻撃こうげき開始かいししたが、ポーランドぐん1個いっこ騎兵きへい旅団りょだんヴォウィン騎兵きへい旅団りょだん)、1個いっこ歩兵ほへい師団しだんのいくつかの部隊ぶたい、および数時間すうじかん到着とうちゃくした1ほん装甲そうこう列車れっしゃ(No.53「シミャウィごう)によって同日どうじつちゅう撃退げきたいされた。ドイツぐん主力しゅりょくはポーランド西部せいぶ国境こっきょうからひがしかうルートをすすんだ。だい2のルートはきたひがしプロイセンから進軍しんぐんし、南方なんぽうスロバキアからはだい3のルートとしてドイツぐんスロバキアじん部隊ぶたいベルノラークぐん)が進軍しんぐんした。これらすべての侵略しんりゃくぐんはポーランドの首都しゅとワルシャワ最終さいしゅう目標もくひょうとした。

モクラむらにあるヴォウィン騎兵きへい旅団りょだんのモニュメント。ヴォウィン騎兵きへい旅団りょだんウッチぐんぞくする。

ポーランドの西側にしがわ同盟どうめいこく政府せいふ9月3にちにドイツに宣戦せんせん布告ふこくした。しかし実際じっさいにはポーランドにたいして具体ぐたいてき援助えんじょをしなかった。ドイツぐんのほとんどの戦力せんりょく装甲そうこう部隊ぶたいの85%)はポーランド攻撃こうげきけられていたのに、フランスはドイツを攻撃こうげきせず、どくふつ国境こっきょうしずかなままだった。ひとはこれはまやかし戦争せんそう英語えいごphony warフランス語ふらんすごDrôle de Guerre、ポーランドDziwna wojna、ドイツSitzkrieg)とんだ。

ポーランドぐん国境こっきょう付近ふきんでのいくつかの戦闘せんとう勝利しょうりおさめることができたが、全体ぜんたいとしてのドイツぐん戦略せんりゃくてき戦術せんじゅつてきすうてき優位ゆういはゆるがず、国境こっきょう地帯ちたいからワルシャワルヴフほうへと後退こうたいさせられていった。ドイツ空軍くうぐん作戦さくせんはや段階だんかい制空権せいくうけん確保かくほした。きたからクルーゲ部隊ぶたい当時とうじ国境こっきょうせんから10キロメートルさきにあったヴィスワがわ到達とうたつし、キュヒラー部隊ぶたいナレフがわいた9月3にちまでに、ライヒェナウ機甲きこう部隊ぶたいヴァルタがわえていた。2にちにはライヒェナウの部隊ぶたい左翼さよくウッチ後方こうほうすすみ、右翼うよくキェルツェ到達とうたつした。そのうちの1部隊ぶたい9月8にちにはワルシャワ近郊きんこうまでせまったが、これは最初さいしょの1週間しゅうかんで224キロメートルをすすんだことになる。ライヘナウの右翼うよくのうちの軽装けいそう部隊ぶたい9月9にちまでにワルシャワサンドミェシュあいだにあるヴィスワ河畔かはん地域ちいき到達とうたつしていた。このとき南部なんぶリスト部隊ぶたいプシェミシル近郊きんこうサン河畔かはんにいた。このあいだグデーリアンだい3ぐん戦車せんしゃひきいてナレフがわわたり、ワルシャワ包囲ほういするようにして、ブークがわてき戦線せんせん攻撃こうげきしていた。ドイツぐんぜんぐん予定よていどおりに「しろ場合ばあい作戦さくせん実行じっこうしていた。ポーランド陸軍りくぐん寸断すんだんされてたがいに連絡れんらくがつかず、いくつかの部隊ぶたい退却たいきゃくし、部隊ぶたいはなれた味方みかた連携れんけいのとれないままちかくのドイツ部隊ぶたい攻撃こうげき敢行かんこうせざるをなかった。

ポーランドぐんはこの国境こっきょうたたかばれる一連いちれん戦闘せんとうのち最初さいしょの1週間しゅうかんポモージェ地方ちほうヴィエルコポルスカ地方ちほうシロンスク地方ちほう放棄ほうきせざるをなかった。これによって、国境こっきょう地帯ちたいひろ防衛ぼうえいするというポーランドの当初とうしょ計画けいかく完全かんぜんあやまりであったことがあきらかとなった。一部いちぶおくれがあったものの[ちゅう 2]全体ぜんたいとしてドイツぐん進軍しんぐんはほぼ予定よていどおりにおこなわれた。あたらしく設定せっていされた東方とうほう防衛ぼうえいせんにまで後退こうたいするポーランド部隊ぶたいはドイツぐん進撃しんげきのペースにわなかった。9がつ10日とおかには、ポーランドぐんそう司令しれいかんルィツ=シミグウィ元帥げんすいぜんぐんたいひがし南部なんぶのいわゆるルーマニア橋頭堡きょうとうほ地方ちほうへの全面ぜんめん撤退てったい命令めいれいした。

一方いっぽうドイツぐんヴィスワがわ西方にしかたウッチポズナニなど)のポーランドぐんたい包囲ほういもうせばめており、東部とうぶへの進撃しんげき準備じゅんびにとりかかっていた。戦争せんそう最初さいしょ数時間すうじかん猛烈もうれつばくげきけたワルシャワ9月9にちにドイツ地上ちじょう部隊ぶたい最初さいしょ攻撃こうげきけ、9月13にちからは攻囲こういけた。そのころ、ドイツぐん最前線さいぜんせん部隊ぶたいひがしポーランドの中心ちゅうしん都市としであるルヴフにまで到達とうたつしていた。

9月14にちにはラドム陥落かんらくし、将官しょうかんきゅうふくむポーランドぐん兵士へいしやく6000にん捕虜ほりょとなった。また同日どうじつ、チェコ国境こっきょう付近ふきんでもやく6000にん兵士へいし捕虜ほりょとなった。さらに同日どうじつ、ドイツぐんはワルシャワ市街地しがいち手前てまえのヴィスワがわ複数ふくすう地点ちてん渡河とか成功せいこう参謀さんぼうふくむポーランドだい18師団しだん捕虜ほりょとなった[12]。さらに9月24にちには1,150ものドイツ軍機ぐんきがワルシャワ市街しがい攻撃こうげきした。

ブズラのたたかいにおけるポーランドぐんヴィエルコポルスカ騎兵きへい旅団りょだんボフォース 37mmたい戦車せんしゃほう装備そうびしている。

ポーランド侵攻しんこう9がつ作戦さくせんにおける最大さいだいたたかブズラのたたか(英語えいごばん))は、ワルシャワの西方せいほうにあるブズラがわ付近ふきん9月9にちから9月18にちにかけておこなわれた。この8日間にちかん激戦げきせんでは、ポーランド回廊かいろうから後退こうたいしてきた「ポズナン」軍団ぐんだんと「ポモージェ(ポメラニア)」軍団ぐんだんが、進撃しんげきするドイツだい8ぐん側面そくめん攻撃こうげきした。はじめはポーランドがわしていたが、物量ぶつりょうまさるドイツぐんたいするこの攻撃こうげき作戦さくせん失敗しっぱいわることとなった。この敗北はいぼくによってポーランドぐん主導しゅどうけん完全かんぜんうばわれ、だい規模きぼ反撃はんげきはもはや不可能ふかのう状況じょうきょうとなった。

イグナツィ・モシチツキ大統領だいとうりょうとするポーランド政府せいふと、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥げんすいのポーランドぐん最高さいこう司令しれい9月1にちにワルシャワをはなれてひがし南部なんぶへとかい、9月6にちブジェシチ到着とうちゃくした。そこでルィツ=シミグウィ元帥げんすいぜんぐんたいヴィスワがわサンかわえて東方とうほう移動いどうすることを命令めいれいし、ルーマニア橋頭堡きょうとうほでの長期ちょうき防衛ぼうえいせん準備じゅんびりかかった。

だい段階だんかい: ソ連それんによる侵攻しんこう

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9月17にち時点じてんではポーランドの当初とうしょ計画けいかくされた防衛ぼうえいせんはすでに崩壊ほうかいしていた。ポーランドの唯一ゆいいつのぞみは国土こくどひがし南部なんぶ(いわゆるルーマニア橋頭堡きょうとうほ)までうまく後退こうたいして体勢たいせいなおすことであったが、そののぞみは突然とつぜんにしてたれることとなった。9月17にちソ連それん宣戦せんせん布告ふこくおこなわずソ連それん・ポーランド不可侵ふかしん条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきするとともに赤軍せきぐんが80まんにんもの兵力へいりょくようしてベラルーシウクライナからかれ、まだ戦闘せんとう地域ちいきではなかったポーランド東部とうぶ国境こっきょう地帯ちたい (Kresy) に侵攻しんこうしてきたのである。この行為こういは、ポーランド・ソビエト戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくとして1921ねん締結ていけつされたリガ条約じょうやく1919ねん国際こくさい連盟れんめい憲章けんしょうソ連それん1934ねん国際こくさい連盟れんめい加盟かめい)、1928ねんケロッグ=ブリアン条約じょうやく(パリ不戦ふせん条約じょうやく)、1933ねんにロンドンで締結ていけつされた侵略しんりゃく定義ていぎかんする条約じょうやくなどの国際こくさいほう違反いはんするが、 ちゅうソビエト ポーランド大使たいしわたされた通牒つうちょうには「ポーランドこくはすでに現存げんそんせるものとみとめない。ゆえにソビエトはポーランドとのあいだしょ条約じょうやく解消かいしょうしたものとみとめる」との一文いちぶんくわえられていた[13]

ソ連それんは、「国家こっか崩壊ほうかいせまったポーランドにおけるウクライナけい住民じゅうみんとベラルーシけい住民じゅうみん保護ほご」を大義名分たいぎめいぶんとしたが[ちゅう 3]実際じっさいのところはモロトフ・リッベントロップ協定きょうていの「秘密ひみつ議定ぎていしょ」に詳記しょうきされた、ドイツとソ連それんとでヨーロッパを二分にぶんするというしめわせにもとづいた共同きょうどう侵略しんりゃく行為こういであった。[1][2]

9月14にちからのたたかいの経過けいかソ連それんぐん9月17にちにポーランド侵攻しんこう開始かいしした。

およそ25大隊だいたいからなるポーランド国境こっきょう防衛ぼうえいたい東部とうぶ国境こっきょう防衛ぼうえい任務にんむについていたが、それでもソ連それんだい規模きぼ侵入しんにゅうふせぐことはできず、ルィツ=シミグウィ元帥げんすい国境こっきょう防衛ぼうえいたいたいし、ソ連それんぐんとはじか交戦こうせんすることをけて退却たいきゃくせよと命令めいれいした。それでも多少たしょうしょうぜりごういや戦闘せんとうけることができなかった。グロドノのたたかでは兵士へいしだけでなく地元じもと市民しみんまでもが防衛ぼうえいせん参加さんかした。ソ連それんぐんはポーランドぐん司令しれいかん一人ひとりユゼフ・オルシナ=ヴィルチニスキ将軍しょうぐんふくむポーランドじん捕虜ほりょや、民間みんかんじん多数たすう殺害さつがいした。ウクライナじんポーランドじんたいする暴動ぼうどうこした。また共産きょうさん主義しゅぎゲリラ各地かくち反乱はんらん組織そしきし、たとえばスキデルというまちではこののゲリラによってポーランドじんたいする強盗ごうとう殺人さつじんおこなわれた。

ソ連それんぐんによる侵攻しんこうは、ポーランド政府せいふ自国じこく敗戦はいせん覚悟かくごさせる決定的けっていてき要素ようそとなった。東方とうほうからのソ連それんぐん侵攻しんこう先立さきだって、ポーランドぐんみずからの西側にしがわ同盟どうめい諸国しょこく西にしからドイツへ攻撃こうげきするのをあいだひがし南部なんぶ地域ちいきルーマニア国境こっきょう付近ふきんにおける長期ちょうき防衛ぼうえいせん敢行かんこうしようとしていた。ナチス・ドイツソビエト連邦れんぽうという2つの強敵きょうてき直面ちょくめんしたポーランド政府せいふは、ポーランド領土りょうど防衛ぼうえいはもはや不可能ふかのうであると判断はんだんした。しかし、ポーランド政府せいふはドイツへの降伏ごうぶくやドイツとの交渉こうしょう拒否きょひし、ぜんぐんたいしポーランドからの脱出だっしゅつとフランスでのポーランドぐんさい編成へんせい命令めいれいした。

そのあいだにも、ポーランドぐんかく部隊ぶたいルーマニア橋頭堡きょうとうほ地方ちほうけて移動いどうし、ドイツの侵略しんりゃくたい活発かっぱつ抵抗ていこうこころみていた。9月17にちから9がつ20日はつかにかけて、「クラクフ」軍団ぐんだんと「ルブリン」軍団ぐんだんはドイツぐんによるポーランド侵攻しんこう9がつ作戦さくせんにおける2番目ばんめおおきなたたかであるトマシュフ・ルベルスキのたたかにおいて敗北はいぼくきっした。ルヴフはいかにもかいなこの戦争せんそう例示れいじする一連いちれん出来事できごとのなか9月22にち開城かいじょうした。というのは、1週間しゅうかんまえからドイツぐんがこのまち攻撃こうげきしていたのに、開城かいじょうソ連それんたいしておこなわれたのである。攻囲こうい最中さいちゅうにドイツぐん同盟どうめいぐんであるソ連それんぐんにこのまちゆずわたしたのだった。

ワルシャワは、ドイツぐんはげしい攻撃こうげきたいし、から退却たいきゃくしてきてさい編成へんせいされた部隊ぶたい義勇ぎゆう市民しみん応戦おうせんつづけたが、ついに9月28にち開城かいじょうした。ワルシャワ北部ほくぶモドリン要塞ようさいモドリンのたたかばれる16日間にちかんはげしい戦闘せんとうのち9月29にち降伏ごうぶくした。各地かくちのポーランド守備しゅびたいのいくつかはドイツぐん包囲ほういされてもながあいだたたかつづけた。自由じゆう都市としダンツィヒさきにあるポーランドのヴェステルプラッテの180にん守備しゅびたい人員じんいんすうやく20ばい、および火器かき規模きぼでは海上かいじょうのドイツ戦艦せんかんシュレスヴィヒ・ホルシュタインごう激烈げきれつかんほう射撃しゃげきをはじめそれ以上いじょう投入とうにゅうしたドイツぐん攻撃こうげき部隊ぶたい相手あいて果敢かかんちこたえたが、自軍じぐん弾薬だんやく医薬品いやくひんそこをついたため9月7にち降伏ごうぶくした。グディニャ郊外こうがいまちオクシヴィエ守備しゅびたい9月19にちまでちこたえた。ソ連それんぐん9月28にちまでにナレフがわ西にしブークがわヴィスワがわサンかわまで到達とうたつした。おおくの場合ばあい西にしから進撃しんげきしてきたドイツぐんたがいに出会であうことになった。ポーランドさい北部ほくぶバルト海ばるとかいのぞヘル半島はんとう守備しゅびたい10月2にちまで抵抗ていこうつづけた。ポーランド陸軍りくぐん最後さいご作戦さくせん部隊ぶたいとなったフランチシェック・クレーベルク将軍しょうぐん独立どくりつ作戦さくせん部隊ぶたい「ポレシェ」はルブリン郊外こうがいの4日間にちかんにわたるコツクのたたかののち、10月6にち投降とうこうした。これによってポーランド侵攻しんこう9がつ作戦さくせん終了しゅうりょうした。

かくぐん損失そんしつ

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ポーランドぐん死者ししゃすうは66,000にん負傷ふしょうしゃ133,700にん捕虜ほりょとなったもの694,000にん損失そんしつ戦車せんしゃ132りょう、その車両しゃりょう300だい航空機こうくうき327(そのうち戦闘せんとう118)、駆逐くちくかん1せき機雷きらい敷設ふせつかん1せきとなっている。

ドイツぐんとスロヴァキアぐん同盟どうめいぐん死者ししゃすうわせて16,343にん負傷ふしょうしゃ27,280にん行方ゆくえ不明ふめい320にん捕虜ほりょとなったもの解放かいほうされたためそのかず記録きろくされていない。損失そんしつ戦車せんしゃ300りょう、その車両しゃりょう1,000だい航空機こうくうき最大さいだいで141機雷きらい敷設ふせつかん1せきとなっている。

ソ連それん死傷ししょうしゃすう負傷ふしょうしゃすう不明ふめい捕虜ほりょとなったもの解放かいほうされたためそのかず記録きろくされていない。損失そんしつ戦車せんしゃ42りょう破壊はかいされ、戦車せんしゃすうひゃくりょう故障こしょう使用しよう不能ふのうとなった。

犠牲ぎせいとなった市民しみん

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ポーランド侵攻しんこうは、戦闘せんとうちゅう戦闘せんとうころされた市民しみんおおく、ヨーロッパでおこなわれたもっと犠牲ぎせいおおきな全面ぜんめん戦争せんそうひとつであった。侵攻しんこう開始かいし直後ちょくごからドイツ空軍くうぐん民間みんかんじん避難ひなんみん行列ぎょうれつ攻撃こうげき対象たいしょうにして凄惨せいさん損害そんがいあたえ、ポーランドぐん後方こうほう通信つうしん混乱こんらんさせた。このような戦略せんりゃく爆撃ばくげき9月1にち午前ごぜん4からのヴィエルニ空襲くうしゅう最初さいしょで、このヴィエルニへの攻撃こうげきではドイツ空軍くうぐんによっておよそ1,200にん民間みんかんじん犠牲ぎせいになった。最終さいしゅうてきには、戦闘せんとうでの直接ちょくせつ犠牲ぎせいしゃとはべつに、国防こくぼうぐん親衛隊しんえいたいなんまんにんものポーランドじん捕虜ほりょ民間みんかんじんたいする大量たいりょう虐殺ぎゃくさつおかしたとされている。

また、 タンネンベルク作戦さくせんによって、国防こくぼうぐん親衛隊しんえいたい自衛じえいだん(ドイツけいポーランドじん構成こうせいされ、メンバーは戦前せんぜんから編成へんせいされ、ドイツでゲリラせん訓練くんれんけていた)のほか特別とくべつ行動こうどう部隊ぶたい (Einsatzgruppen) という特別とくべつ部隊ぶたいわせてドイツじんのあらゆる武装ぶそう組織そしきが、作戦さくせん開始かいし1939ねん8がつから1939ねん10がつまでにやく760箇所かしょでおよそ20,000にんのポーランドじん民間みんかんじんおも知識ちしきそう芸術げいじゅつ社会しゃかいてき指導しどうそうぞくする人々ひとびと銃殺じゅうさつした(そのうち2,000にんはドイツ国籍こくせきちドイツにんでいたポーランドけいドイツじんで、かれらは開戦かいせんまえ1939ねん8がつちゅう殺害さつがいされた)。タンネンベルク作戦さくせん1939ねん5月から計画けいかくされ、ポーランドにんでいるドイツけいポーランドじんおも自衛じえいだんいん)もこの計画けいかく協力きょうりょくして、総計そうけい61,000にんにものぼる「ポーランド特別とくべつ指名しめい手配てはい台帳だいちょう」 (Sonderfahndungsbuch Polen) が作成さくせいされ、殺害さつがいはこのリストにのっとって実行じっこうされた。ヨーロッパにおけるだい世界せかい大戦たいせんぜん期間きかんつうじてドイツは占領せんりょうのポーランドでハーグ陸戦りくせん条約じょうやくジュネーヴ条約じょうやくといった戦時せんじ国際こくさいほう明確めいかく違反いはんする様々さまざま戦争せんそう犯罪はんざいおかしたが、タンネンベルク作戦さくせんにおけるポーランドじん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつ事件じけんはその最初さいしょ事例じれいひとつとなった。

また1939ねん9月3にちビドゴシチ(ドイツめいブロンベルク)市内しない通過つうかして退却たいきゃくするポーランドぐん部隊ぶたい兵士へいしちかくにいたポーランドじん住民じゅうみんたいして、ドイツのだいれつ構成こうせいいんおもわれる反乱はんらん分子ぶんし建物たてもの屋根やね教会きょうかいとうから銃撃じゅうげきしてきた。開戦かいせんまえのポーランドではドイツけいのポーランド人民じんみんあいだじんじゅうなどの火器かき所持しょじすることは厳重げんじゅう禁止きんしされていたが、ドイツけい住民じゅうみんはドイツ本土ほんどからの潜伏せんぷくしゃつうじて、大量たいりょう銃砲じゅうほう密輸みつゆ秘密裏ひみつり保持ほじしていた。この銃撃じゅうげき対応たいおうして、ポーランドがわ兵士へいし民間みんかんじんは、はんポーランド破壊はかい活動かつどう参加さんかしているとうたがわれるドイツけいポーランドじん住民じゅうみん家々いえいえ捜索そうさくし、私刑しけいおこなったと宣伝せんでんされている。ナチス・ドイツの情報じょうほうしょうによって1940ねんにアメリカニューヨーク刊行かんこうされたほん「Polish Acts of Atrocity Against the German Minority(ドイツけい少数しょうすう民族みんぞくたいするポーランドじん残虐ざんぎゃく行為こうい)」によると、このにちポーランドへいやポーランドけい住民じゅうみんは、あちこちで婦女子ふじょしふく無実むじつ人々ひとびとたいする残酷ざんこくきわまりない私刑しけいおこなったとした。ドイツ当局とうきょくによって、ビドゴシチ市内しない殺害さつがいされたドイツけいポーランドじん住民じゅうみんかず当初とうしょは223にんから358にんあいだ推定すいていされ、郊外こうがいむら々ではさらに多数たすうのドイツけい住民じゅうみん殺害さつがいされたとされた。当日とうじつビドゴシチとその周辺しゅうへんドイツ空軍くうぐんによるはげしい差別さべつ攻撃こうげきおこなわれていたこともあって、この事件じけん単独たんどく正確せいかく犠牲ぎせいしゃかずはいまだ不明ふめいであり、こののポーランドがわ対応たいおうによる直接ちょくせつ犠牲ぎせいしゃ現在げんざいでも議論ぎろん対象たいしょうとなっている。この事件じけんについて、ドイツがわ犠牲ぎせいしゃかずをまず5,000にん拡張かくちょうして国内外こくないがい発表はっぴょうし、これもすでにかなり誇張こちょうされた数字すうじであるが、そのもさらに国内外こくないがいけてのはんポーランドプロパガンダ政策せいさく推進すいしんのためその数字すうじをさらに大幅おおはば誇張こちょうして58,000にんとし、最終さいしゅうてきには60,000にん以上いじょうとして宣伝せんでんした。ドイツはこれを公式こうしきブロンベルク日曜日にちようび事件じけんづけた。

それから1週間しゅうかん9月9にちから9がつ10日とおかにかけて、実際じっさい先週せんしゅう事件じけんよりだい規模きぼとなった「もうひとつのブロンベルク日曜日にちようび事件じけん」がビドゴシチこった。この両日りょうじつ、すでに市内しない入城にゅうじょうしていたドイツぐん9月3にち事件じけん報復ほうふくしょう市内しない周辺しゅうへん各地かくちでおよそ3,000にんのポーランドじん無作為むさくいえらんで広場ひろば銃殺じゅうさつするなどの様々さまざま差別さべつ殺人さつじんおこなった。当時とうじ市内しないにいたイギリスじん目撃もくげきだんによると、最初さいしょ殺害さつがいされたのは12さいから16さいまでのボーイスカウトのメンバーの子供こどもたちで、かれらは市内しないのマーケット広場ひろばれてこられて銃殺じゅうさつされた。ドイツはさらに年末ねんまつまでに13,000にんのポーランドじんを、ポーランド北部ほくぶ建設けんせつされた、のちに絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょひとつとなるシュトゥットホーフ強制きょうせい収容しゅうようしょおくった。

ドイツぐんのポーランド侵攻しんこう期間きかん民間みんかんじんそう犠牲ぎせいしゃすうは、ポーランドじんやく150,000にん、ドイツじんおもにドイツけいポーランドじんやく5,000にん推定すいていされている。

その

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ヴィスワがわわたるドイツぐん閲兵えっぺいするヒトラー(1939ねん9がつ

ポーランド侵攻しんこう作戦さくせん直後ちょくご、ポーランドはナチス・ドイツソビエト連邦れんぽうリトアニアスロバキア共和きょうわこくの4カ国かこく分割ぶんかつ占領せんりょうされた。ドイツは占領せんりょうした西部にしべポーランドりょう一部いちぶをドイツ本土ほんど併合へいごうし、のこりの占領せんりょう地域ちいきをいわゆるポーランド総督そうとくりょうとして支配しはいした。ソビエトは東部とうぶポーランドりょうウクライナ共和きょうわこくはくロシア共和きょうわこく編入へんにゅう、リトアニアはヴィリニュスを、スロバキアは前年ぜんねんミュンヘン会談かいだんによりポーランドに割譲かつじょうされたチェシン地方ちほうふたた自国じこくりょうもどした。

このようにしてポーランドはおもにドイツとソ連それん分割ぶんかつされ、ドイツぐんソ連それんぐんはポーランドの土地とちにおいてたがいをむかえあった。9月28にち前月ぜんげつ締結ていけつされたモロトフ・リッベントロップ協定きょうてい秘密ひみつ議定ぎていしょ修正しゅうせいするあたらしい秘密ひみつ議定ぎていしょがドイツとソ連それんあいだわされ、リトアニアりょう全域ぜんいきをドイツでなくソ連それん支配しはいくこと、ポーランドを分割ぶんかつする境界きょうかいせんはドイツのためにひがしブークがわまで移動いどうすることがめられた。ブレスト=リトフスク(ポーランドめいブジェシチ)では、ドイツぐんあたらしいどく境界きょうかいせん西にしへと撤兵てっぺいするまえに、ソ連それんぐんとドイツぐんりょうぐん共同きょうどう勝利しょうりパレードおこなった。

共同きょうどう勝利しょうりパレードで閲兵えっぺいするソ連それん赤軍せきぐんセミヨン・クリボシェインとドイツぐんハインツ・グデーリアン、1939ねん

ポーランド侵攻しんこうではやく65,000にんのポーランド兵士へいし戦闘せんとう犠牲ぎせいとなり、やく680,000にん捕虜ほりょにされた(そのうちドイツぐんソ連それんぐんはそれぞれすくなくとも420,000にん、240,000にん捕虜ほりょにした)。ポーランド将兵しょうへいのうちやく120,000にんルーマニア橋頭堡きょうとうほばれる地域ちいきとおって当時とうじ中立ちゅうりつこくであったルーマニアハンガリー脱出だっしゅつし、やく20,000にんラトビアリトアニア脱出だっしゅつした。脱出だっしゅつ成功せいこうした将兵しょうへいだい多数たすう最終さいしゅうてきフランスイギリスわたった。ポーランド海軍かいぐん艦艇かんていのほとんどはイギリスへうまくけることに成功せいこうした(ペキン作戦さくせん Plan Peking)。ポーランドぐんたいしてドイツぐん犠牲ぎせい比較的ひかくてきすくなかった(戦闘せんとうでの死者ししゃすうやく16,000にん見積みつもられている)。しかしその一方いっぽうでポーランド侵攻しんこう作戦さくせん参加さんかした戦車せんしゃなどのドイツぐん装甲そうこう戦闘せんとう車両しゃりょうの30%以上いじょううしなわれたのも事実じじつで、これが理由りゆうでドイツは西欧せいおう諸国しょこく即時そくじ攻撃こうげきする計画けいかく放棄ほうきせざるをなかった。

ドイツ、ソ連それんポーランドの西側にしがわ同盟どうめい諸国しょこくのどのくにも、ポーランドでおこなわれた戦争せんそう規模きぼにおいても被害ひがいにおいてもだいいち世界せかい大戦たいせん凌駕りょうがするだい規模きぼ戦争せんそうにつながるとは予想よそうしていなかった。1939ねん段階だんかいではドイツの戦争せんそう準備じゅんび充分じゅうぶんととのっておらず、ヒトラーはフランスなどの西側にしがわ諸国しょこく攻撃こうげきしようとはしていなかった。ヒトラーがイギリスフランスとの平和へいわ交渉こうしょうがもはや無益むえきだと判断はんだんするまではすうヵ月かげつかかった。日本にっぽんがヒトラーと同盟どうめいしてアメリカ攻撃こうげきしたり、ソ連それんとアメリカがヒトラーと日本にっぽん対抗たいこうする同盟どうめいむすんでヨーロッパ太平洋たいへいようそれぞれにおける戦争せんそう結合けつごうし、本当ほんとう世界せかい大戦たいせんにまで発展はってんするのはなんねんさきはなしだった。1939ねん当時とうじ政治せいじ将軍しょうぐんたちには見通みとおせなくても、歴史れきしてきにみればあきらかなことは、このポーランド9がつ戦争せんそうポーランド侵攻しんこう)こそがヨーロッパにおけるだい世界せかい大戦たいせんはじまりであり、それが1937ねんはじまったにちちゅう戦争せんそう1941ねんはじまった太平洋戦争たいへいようせんそうむすびついて、のち本当ほんとう意味いみでのだい世界せかい大戦たいせんとしてられるようになった大戦たいせんそう発展はってんしていったことである。

9月1にちにポーランドが侵略しんりゃくされたことをけて、イギリスとフランスは9月3にちにドイツに宣戦せんせん布告ふこくしたが、ポーランド にたいして直接ちょくせつへいおくることをせず、ドイツ国境こっきょうでは10kmほど侵攻しんこうしたが、すぐにぐんげてしまい、それ以上いじょう攻勢こうせいることはなかった。人々ひとびとはこれをまやかし戦争せんそうんだ。ポーランドじんおおくは自分じぶんたちが西側にしがわ同盟どうめい諸国しょこく裏切うらぎられたのだとかんじた。一方いっぽうポーランドは、同盟どうめい諸国しょこくたいするみずからの義務ぎむ事項じこう遵守じゅんしゅし、国家こっかとしてはけっして降伏ごうぶくせず、フランス(のちにイギリス)に亡命ぼうめい政府せいふポーランド亡命ぼうめい政府せいふ)を樹立じゅりつした。このポーランド亡命ぼうめい政府せいふは、1939ねん以前いぜん政府せいふ法的ほうてき継承けいしょうしゃで、ポーランドにのこされた人々ひとびとによる民間みんかんの、あるいは軍事ぐんじてき地下ちか組織そしきポーランド秘密ひみつ国家こっか)と連携れんけいした。ドイツ占領せんりょうにおけるポーランドじんは、だい世界せかい大戦たいせんにおけるすべてのドイツ占領せんりょう地域ちいきなかもっと強力きょうりょくで、もっともよく組織そしきされた抵抗ていこう勢力せいりょくとしてたたかつづけた。

ポーランド侵攻しんこうは、ひがしヨーロッパにドイツ民族みんぞくの「生存せいぞんけん」を確保かくほするというヒトラーの東方とうほう植民しょくみん計画けいかく (Generalplan Ost) の最初さいしょのステップであった。当時とうじはまだ不完全ふかんぜんであったにせよ電撃でんげきせん原型げんけいとなった戦術せんじゅつ住宅じゅうたく破壊はかいし、まもなく民間みんかんじん戦闘せんとういん区別くべつがつかなくなった。つづいておこなわれたポーランド占領せんりょうは、だい世界せかい大戦たいせんにおけるもっと残忍ざんにん出来事できごととなった。

ポーランド総督そうとく統治とうち地域ちいき以外いがいのドイツ占領せんりょう地域ちいきすべてドイツ本土ほんど編入へんにゅうされ(ポーランド領域りょういきにはヴァルテラント帝国ていこくだい管区かんくダンツィヒ=西にしプロイセン帝国ていこくだい管区かんくふたつの帝国ていこくだい管区かんくオーバーシュレージエンだい管区かんく新設しんせつされた。一部いちぶひがしプロイセンだい管区かんく編入へんにゅうされ、残部ざんぶポーランド総督そうとく統治とうちした)、それらの地域ちいきんでいたポーランドじん多数たすうが、身着みきのまま総督そうとく府領ふりょうへと追放ついほうされた。一方いっぽう、ドイツとソ連それんわされた住民じゅうみん交換こうかん約束やくそくしたがって、バルト海ばるとかい沿岸えんがん地方ちほうバルトさんこく)、ガリツィアベッサラビアんでいたドイツじんは、これらの地域ちいきから退きを強制きょうせいされた。やく400,000にんのドイツじんが、ドイツりょう編入へんにゅうされたポーランドに移住いじゅうさせられた。対照たいしょうてきに、戦後せんごはポツダム協定きょうていしたがって、オーデル・ナイセせんよりひがしんでいたドイツじん連合れんごうこくによってあたらしくめられたドイツりょう追放ついほうされた。ドイツじんはポーランドりょうのこることも選択せんたくできたが、その場合ばあいはポーランドの共産きょうさん主義しゅぎ政府せいふによってすべての私有しゆう財産ざいさん没収ぼっしゅうされ、あらためてポーランド住民じゅうみんとして承認しょうにんされた。戦前せんぜんにポーランド市民しみんだったやく2,700,000にんのドイツじん (Volksdeutsche) はドイツ占領せんりょうでは「ドイツ民族みんぞく」にしたがって4つのカテゴリーにけられ、「民族みんぞくリスト」 (Volksliste) に記載きさいされてあつかわれたが、戦後せんご、この「ドイツけいポーランドじん」のうちポーランドにのこったものはポーランドで国家こっか反逆はんぎゃくざいわれ、裁判さいばんけた。

ドイツによるポーランド占領せんりょうちゅうにポーランドじんは、抵抗ていこう組織そしき活動かつどうしたりユダヤじんをかくまうといったはんドイツてき行為こういのほか、許可きょかなく家畜かちくうなどの微罪びざいでも即座そくざ死刑しけい(ほとんどの場合ばあい発覚はっかく次第しだいその銃殺じゅうさつ)となり、最終さいしゅうてきに600まんにんのポーランドじん(ポーランドぜん人口じんこうの20%[よう出典しゅってん]殺害さつがいされ、そのうち300まんにんアウシュヴィッツなどの絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょ大量たいりょう虐殺ぎゃくさつされたといわれている。

また、1940ねんなつAB行動こうどうおこなわれた。これは前年ぜんねん1939ねん8がつから10がつおこなわれたタンネンベルク作戦さくせんおなじようにして、ドイツ占領せんりょうのポーランドでポーランドじん社会しゃかいてき指導しどうそう知識ちしきそうぞくする人々ひとびと殺害さつがいする作戦さくせんであり、結果けっかてきにポーランド民族みんぞく文化ぶんかてき無力むりょくすることを最終さいしゅう目標もくひょうとした。これによってやく30,000にん逮捕たいほされ、そのうちほぼ7,000にん即座そくざ殺害さつがいされ、のこりは各地かくち強制きょうせい収容しゅうようしょおくられた。

タンネンベルク作戦さくせんAB行動こうどうも、ドイツしん領土りょうどからのポーランドじん追放ついほうとともに、ドイツ東方とうほうにおける民族みんぞく浄化じょうか計画けいかくである東方とうほう植民しょくみん計画けいかく一環いっかんでポーランド民族みんぞくたいしておこなわれた事件じけんれいである。

一方いっぽう1939ねんから1941ねんにかけてのソ連それんによるポーランド占領せんりょうでも、180まんにんものポーランド市民しみん殺害さつがいされるか国外こくがい追放ついほうされた。NKVDによって共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいにとって潜在せんざいてき危険きけんであるとなされた人々ひとびとはすべて、ソビエト教育きょういくけるか、シベリアなどに移住いじゅうさせられるか、労働ろうどう収容しゅうようしょグラーク)に収監しゅうかんされるか、または殺害さつがい対象たいしょうになった。ナチス同様どうようソ連それんがわも「はん革命かくめい分子ぶんし」にたいしてなさ容赦ようしゃしなかった。ソ連それん支配しはい反抗はんこうするとその人物じんぶつふくめて家族かぞく全員ぜんいんがNKVDに逮捕たいほされた。国内こくないだい粛清しゅくせいすすめたスターリンはかつてのポーランド・ソビエト戦争せんそう敗北はいぼくでポーランドへかねてから雪辱せつじょくたす機会きかいねらっていた。カティンのもり事件じけんはポーランドぐん将校しょうこう虐殺ぎゃくさつされた事件じけんひとつである。ソ連それん残虐ざんぎゃく行為こうい1944ねんにポーランドが赤軍せきぐんによって「解放かいほう」されたのちふたたはじまった。戦争せんそうあいだロンドン亡命ぼうめい政府せいふ指揮しき抵抗ていこう活動かつどうつづけてきた国内こくないぐんArmia Krajowa略称りゃくしょうAK)の兵士へいしたいする迫害はくがいや、国内こくないぐん将校しょうこう処刑しょけいソ連それんによっておこなわれた(モスクワにおける「じゅうろくにん裁判さいばん」)。

関連かんれん映画えいが作品さくひん

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  • リュッツォ爆撃ばくげきたい」(1941ねん、ドイツ映画えいが
  • きるべきかぬべきか」(1942ねん、アメリカ映画えいが
  • 不屈ふくつ都市とし」(1950ねん、ポーランド映画えいが、1951ねんカルロヴィ・ヴァリ国際こくさい映画えいがさい名誉めいよしょう
  • しろ決死けっしたい」(1954ねん、ポーランド映画えいが、1955ねんヴェニス国際こくさい短編たんぺん記録きろく映画えいがさい受賞じゅしょう、トレント山岳さんがく映画えいがさい受賞じゅしょう
  • 世代せだい」(1954ねん、ポーランド映画えいが
  • 地下水ちかすいどう」(1956ねん、ポーランド映画えいが、1957ねんカンヌ国際こくさい映画えいが審査しんさいん特別とくべつしょう、モスクワ国際こくさい青年せいねん学生がくせいさい金賞きんしょう
  • エロイカ」(1958ねん、ポーランド映画えいが、1959ねんマル・デル・プラタ国際こくさい映画えいがさい国際こくさい映画えいが批評ひひょうしょう
  • 暴力ぼうりょくへの回答かいとう」(1958ねん、ポーランド映画えいが、1959ねんマル・デル・プラタ国際こくさい映画えいがさいだい2、サン・セバスチャン映画えいがさい国際こくさい映画えいが批評ひひょうしょう
  • ブリキの太鼓たいこ」(1979ねん西にしドイツ・フランス合作がっさく映画えいが、1979ねんアカデミーしょう外国がいこく映画えいがしょうカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルム・ドール受賞じゅしょう
  • コルチャック先生せんせい」(1990ねん、ポーランド・西にしドイツ合作がっさく映画えいが
  • シンドラーのリスト」 (1993ねん、アメリカ映画えいが
  • せい週間しゅうかん」(1996ねん、ポーランド・ドイツ・フランス合作がっさく映画えいが
  • ぼくのかみさま」(2000ねん、アメリカ映画えいが
  • 戦場せんじょうのピアニスト」(2002ねん、ポーランド・フランス合作がっさく映画えいが、2002ねんアカデミーしょうあいだ監督かんとくしょうなど3部門ぶもん受賞じゅしょうカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルム・ドール受賞じゅしょう全米ぜんべい批評ひひょう協会きょうかいしょう作品さくひんしょうなど4部門ぶもん受賞じゅしょう英国えいこくアカデミーしょう作品さくひんしょうなど2部門ぶもん受賞じゅしょう
  • カティンのもり」(2007ねん、ポーランド映画えいが
  • ソハの地下水ちかすいどう」 (2011ねん、ポーランド映画えいが日本にっぽん公開こうかいは2012ねん

関連かんれん書籍しょせき

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく」でも、ほん戦役せんえきだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした定義ていぎしている。
  2. ^ 9月9にちには、ドイツ国防こくぼうぐんだい4装甲そうこう師団しだん がワルシャワ正面しょうめん堅固けんご防衛ぼうえいじん拘束こうそくされ、3あいだあいだ保有ほゆう戦車せんしゃ120りょうやく半数はんすう対戦たいせんしゃほう撃破げきはされるだい損害そんがいこうむっている[11]
  3. ^ ソ連それん政府せいふざいモスクワのポーランド大使館たいしかんたいして『ポーランド政府せいふ事実じじつじょう存在そんざいせざるにいたり、ポーランドはだい混乱こんらんおとしいれるをもっソ連邦それんぽうはその中立ちゅうりつてき地位ちい保持ほじしつつ、17にち午前ごぜん6自国じこく権益けんえき擁護ようごし、はくロシアおよ西にしウクライナの少数しょうすう民族みんぞく保護ほごのため、きたはプロスクラフよりみなみはカメネツにいたあいだおいてポーランドりょうぐんれることにけっしたり。』と通告つうこくし、赤軍せきぐんただちにポーランドにむかって進駐しんちゅう開始かいし同時どうじに17にち午前ごぜんモロトフ人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょうはラジオをつうじてぜんソ連それん国民こくみんに『ポーランドはいま崩壊ほうかいした。ポーランド在住ざいじゅうはくロシアじんおよびウクライナじんたい同胞どうほうとしての援助えんじょ差伸さしのべることはソ連それん義務ぎむであろう。ソ連邦それんぽう政府せいふはポーランド国民こくみん彼等かれら指導しどうしゃ失敗しっぱいによってまれた窮状きゅうじょうから救助きゅうじょせんと希望きぼうするものである。』と、赤軍せきぐんのポーランド進駐しんちゅう目的もくてきについて放送ほうそうした[14]
出典しゅってん
  1. ^ a b The Brandenburger commandos Germany ... - Google Books
  2. ^ a b Grupa Operacyjna Bielsko
  3. ^ a b canaris the life and death of ... - Google Books
  4. ^ Rykoszety historii, czyli… „gdzie padły pierwsze strzały, gdy wybuchła wojna” - Czasopisma - Onet.pl Portal wiedzy
  5. ^ Piąta kolumna - Polityka.pl
  6. ^ Świat Polonii - witryna Stowarzyszenia Wspólnota Polska - Kraj i Polonia - O Polsce
  7. ^ 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶんポーランド分割ぶんかつ秘密ひみつ協定きょうてい締結ていけつせつ」。1939ねん8がつ23にち
  8. ^ にち通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく 交換こうかん公文こうぶん追加ついか説明せつめいしょ(条約じょうやくだい1じょう)(平沼ひらぬま騏一郎きいちろう 関係かんけい文書ぶんしょ目録もくろく)。1924ねん
  9. ^ “Clare Hollingworth dies aged 105: Telegraph correspondent who broke the news of World War II passes away in Hong Kong”. デイリー・テレグラフ. (2017ねん1がつ10日とおか). http://www.telegraph.co.uk/news/2017/01/10/clare-hollingworth-dies-aged-105-telegraph-correspondent-broke/ 
  10. ^ だい大戦たいせん開始かいし速報そくほうえい記者きしゃ死去しきょ C・ホリングワースさん”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2017ねん1がつ11にち). https://web.archive.org/web/20170112172805/http://www.sankei.com/world/news/170111/wor1701110009-n1.html 
  11. ^ 白石しらいしひかり (2019). “ドイツ装甲そうこう師団しだん戦史せんし① ポーランドせん”. 世界せかいじん (KKベストセラーズ) 12: 19-21. 
  12. ^ ドイツぐん各所かくしょでポーランドぐん撃破げきは(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ14ねん9がつ15にち)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p363 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  13. ^ ソ連それんぐん突如とつじょポーランドりょう侵入しんにゅう(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ14ねん9がつ18にち)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p363 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  14. ^ 外務省がいむしょう情報じょうほうソ連それんぐんのポーランド進駐しんちゅう」『官報かんぽう附録ふろく 週報しゅうほう内閣ないかく印刷いんさつきょく 1939ねん9がつ27にち pp.40-41。

関連かんれん文献ぶんけん

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  • Forczyk, Robert (2019-10-29). Case White - The Invasion of Poland 1939. Osprey Publishers. ISBN 978-1472834959 

外部がいぶリンク

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