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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制きょうせい収容しゅうようしょ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界遺産 アウシュヴィッツ・ビルケナウ
ナチス・ドイツの強制きょうせい絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょ(1940ねん-1945ねん
ポーランド
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
もん」・アウシュヴィッツだい強制きょうせい収容しゅうようしょ(ビルケナウ)の鉄道てつどう引込線ひきこみせん
英名えいめい Auschwitz Birkenau
German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945)
ふつめい Auschwitz Birkenau
Camp allemand nazi de concentration et d'extermination (1940-1945)
面積めんせき 192 ha
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (6)
登録とうろくねん 1979ねん
備考びこう まけ遺産いさん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
地図ちず
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置(オシフィエンチム内)
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置(マウォポルスカ県内)
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置(ポーランド内)
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制きょうせい収容しゅうようしょ(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenauポーランド: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、ナチス・ドイツだい世界せかい大戦たいせんなか国家こっかげて推進すいしんした人種じんしゅ差別さべつによる絶滅ぜつめつ政策せいさくホロコースト)および強制きょうせい労働ろうどうにより、最大さいだいきゅう犠牲ぎせいしゃした強制きょうせい収容しゅうようしょである。収容しゅうようしゃの90%がユダヤじんアシュケナジム)であった。

アウシュヴィッツだいいち強制きょうせい収容しゅうようしょは、ドイツ占領せんりょうポーランド南部なんぶオシフィエンチム(ドイツめいアウシュヴィッツ[ちゅう 1])に、アウシュヴィッツだい強制きょうせい収容しゅうようしょ隣接りんせつするブジェジンカむら(ドイツめいビルケナウ)につくられた。周辺しゅうへんにはふく収容しゅうようしょが50箇所かしょ程度ていど存在そんざいした。ユネスコ世界せかい遺産いさん委員いいんかいは、二度にどおなじようなあやまちがこらないようにとのねがいをめて、1979ねん世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくした。公式こうしき分類ぶんるいではないが、日本にっぽんではいわゆる「まけ世界せかい遺産いさん」に分類ぶんるいされることがしばしばである[1]一部いちぶ現存げんそんする施設しせつは「アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立こくりつ博物館はくぶつかんen:Auschwitz-Birkenau State Museum)」(以降いこう、「アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん」と表記ひょうき)が管理かんり公開こうかいしている。

このこうでは、これらのアウシュヴィッツ収容しゅうようしょぐん全体ぜんたいについてべる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

アドルフ・ヒトラーひきいるドイツがおこなったホロコースト象徴しょうちょうわれる「アウシュヴィッツ強制きょうせい収容しゅうようしょ」とは、1940ねんから1945ねんにかけてドイツが占領せんりょうにおいた現在げんざいのポーランド南部なんぶオシフィエンチム郊外こうがいつくられた、強制きょうせいてき収容しゅうよう可能かのう施設しせつぐんList of subcamps of Auschwitzに一覧いちらん)の総称そうしょうである。ソ連それんへの領土りょうど拡張かくちょうをも視野しやれた「東部とうぶヨーロッパ地域ちいき植民しょくみん計画けいかく[ちゅう 2]すすめ、あわせて占領せんりょうでの労働ろうどうりょく確保かくほおよび民族みんぞく浄化じょうかのモデル施設しせつとして建設けんせつ、その規模きぼ拡大かくだいさせていった。

地政学ちせいがくまとには「ヨーロッパの中心ちゅうしん位置いちする」「鉄道てつどう接続せつぞくい」「工業こうぎょうかせない炭鉱たんこう石灰せっかい産地さんち隣接りんせつする」「もともと軍馬ぐんば調教ちょうきょうじょうであり、ひろ土地とち確保かくほ容易ようい」など、広範こうはんなドイツ占領せんりょうおよび関係かんけい国々くにぐにから膨大ぼうだいかず労働ろうどうりょくあつめ、戦争せんそう遂行すいこうかせない物資ぶっし生産せいさんおこなうのにてきしているとえる。また、次第しだい顕著けんちょとなったアーリアじん至上しじょう主義しゅぎもとづいた「アーリアじん以外いがいをドイツに入国にゅうこくさせない」といった政策せいさくがドイツ国内こくない収容しゅうようしょ閉鎖へいさすすめ、ポーランドにだい規模きぼ強制きょうせい収容しゅうようしょ建設けんせつする要因よういんにもなった。

労働ろうどうりょく確保かくほ一方いっぽうで、労働ろうどうてきさない女性じょせい子供こども老人ろうじん、さらには「劣等れっとう民族みんぞく」を処分しょぶんする「絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょ」としての機能きのうあわ[ちゅう 3]参考さんこうホロコーストホロコースト否認ひにん)。

収容しゅうようされたのは、ユダヤじんをはじめ、政治せいじはんロマシンティジプシー)、精神せいしん障害しょうがいしゃ身体しんたい障害しょうがいしゃ同性愛どうせいあいもの捕虜ほりょ聖職せいしょくしゃエホバの証人しょうにん、さらにはこれらをかくまったものなど。その出身しゅっしんこくは28におよぶ。ドイツ本国ほんごく強制きょうせい収容しゅうようしょ閉鎖へいさによる流入りゅうにゅうや、1941ねんさかいにして顕著けんちょになった強引ごういん労働ろうどうりょく確保かくほ強制きょうせい連行れんこう[ちゅう 4]により規模きぼ拡大かくだい。ピークの1943ねんにはアウシュヴィッツ全体ぜんたいで14まんにん収容しゅうようされている。

なお1942ねんはじめには、イギリスBBCラジオで「ユダヤじんがヨーロッパ内部ないぶ強制きょうせい収容しゅうようしょおくられ、多数たすう殺害さつがいされている」とほうじているが、おな連合れんごうこくアメリカでは、強制きょうせい収容しゅうようしょ存在そんざいについては犯罪はんざいしゃ隔離かくり施設しせつであるかのようにせかけるドイツの計画けいかくがうまくいったためか、大戦たいせん終結しゅうけつまでほとんほうじられぬままであった。

たとえ労働ろうどうりょくとしてみとめられ、収容しゅうようされたとしてもおおくは使つかてであり、非常ひじょう過酷かこく労働ろうどういられた。理由りゆうとして、

  1. ナチスとうかかげるアーリアじんによる理想郷りそうきょう建設けんせつにおけるしょ問題もんだいユダヤじん問題もんだいなど)の解決かいけつさく確立かくりつされるまで、きびしい労働ろうどう懲罰ちょうばつによって社会しゃかいてき不適合ふてきごうしゃ劣等れっとう種族しゅぞく淘汰とうたされることは、ぜん段階だんかいにおける解決かいけついち手段しゅだんとしてとらえられていたこと
  2. 領土りょうど拡張かくちょう順調じゅんちょうすすんでいるあいだ労働ろうどうりょく豊富ほうふにあり、個々ここ労働ろうどうしゃさい生産せいさんせい確保かくほ必要ひつよう栄養えいよう休養きゅうようをとらせるなど)は一切いっさい考慮こうりょされなかったこと[ちゅう 5]
  3. 1941ねんまつ東部とうぶ戦線せんせん停滞ていたいはしはっした危急ききゅう生産せいさん体制たいせい拡大かくだい必要ひつようせいと、戦災せんさい見舞みまわれたドイツの戦後せんご復興ふっこうおよび壮麗そうれい都市とし建設けんせつ計画けいかくなど、戦中せんちゅう戦後せんご見越みこした需要じゅようたいし、膨大ぼうだい労働ろうどうりょくてる必要ひつようがあったこと

などがげられる。

あわせて、劣悪れつあく住環境じゅうかんきょう食糧しょくりょう事情じじょう蔓延まんえんする伝染でんせんびょう過酷かこく懲罰ちょうばつ解放かいほう直前ちょくぜん数次すうじにわたっておこなわれたほか収容しゅうようしょへの移送いそう結果けっか、9わり以上いじょういのちとしたとされる[ちゅう 6]生存せいぞんは、1945ねん1がつだいいち強制きょうせい収容しゅうようしょ解放かいほうのこされていたものと、解放かいほう間際まぎわ収容しゅうようしょ移送いそうされるなどしたものあわせても50,000にん程度ていどだったとわれている。

すべての強制きょうせい収容しゅうようしょは、ナチス親衛隊しんえいたい(SS)全国ぜんこく指導しどうしゃであったハインリヒ・ヒムラーによって、SSのした集約しゅうやくされており、SSが企業きぎょう母体ぼたい[ちゅう 7]となる400以上いじょう[ちゅう 8]にものぼるレンガ工場こうじょうはもとより、1941・1942ねんまつ以降いこう軍需ぐんじゅ産業さんぎょう体系たいけいされた強制きょうせい収容しゅうようしょ労働ろうどうりょく積極せっきょくてき活用かつよう敗戦はいせんは、SSのみならずおおくのドイツ企業きぎょうが「人道じんどうたいするつみ」を理由りゆう連合れんごうこくなどによってさばかれた。

経過けいか[編集へんしゅう]

ヘスの絞首刑こうしゅけいだい(アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん展示てんじ
  • 1940ねん1がつ25にち - ポーランド・オシフィエンチム郊外こうがい強制きょうせい収容しゅうようしょ建設けんせつ決定けってい
  • 1940ねん5がつ20日はつか - 「アウシュヴィッツだいいち強制きょうせい収容しゅうようしょ基幹きかん収容しゅうようしょ)」[ちゅう 9]親衛隊しんえいたい(SS)全国ぜんこく指導しどうしゃハインリヒ・ヒムラー指示しじにより、ドイツ国防こくぼうぐん接収せっしゅうしたポーランドぐん兵営へいえい建物たてもの利用りようして開所かいしょ強制きょうせい収容しゅうようしょにおける画一かくいつてき管理かんりシステム、いわゆる「ダッハウモデル」を踏襲とうしゅうしている。初代しょだい所長しょちょうは、SS中佐ちゅうさルドルフ・フェルディナント・ヘス[ちゅう 10]ザクセンハウゼン強制きょうせい収容しゅうようしょから移送いそうされた犯罪はんざい常習じょうしゅうしゃ30にんが、最初さいしょ収容しゅうようしゃとなった。
    • 6月14にち - ポーランドの政治せいじはん728にん到着とうちゃく
  • 1941ねん - 最初さいしょのガスしつそなえたふくあい施設しせつ「クレマトリウム1」がだいいち強制きょうせい収容しゅうようしょ完成かんせい
    • 10月 - 収容しゅうようしゃ増加ぞうかのため、ブジェジンカむらだい規模きぼな「アウシュヴィッツだい強制きょうせい収容しゅうようしょビルケナウ」を建設けんせつ
  • 1942ねん1がつ25にち - ドイツ国内こくない占領せんりょう地区ちくにおけるユダヤじん強制きょうせい収容しゅうようしょへの移送いそう強制きょうせい収容しゅうよう所内しょないでの大量たいりょう虐殺ぎゃくさつなどの、いわゆるホロコーストの方針ほうしん決定けっていづける「ヴァンゼー会議かいぎ」をけ、ヒトラーはドイツ国内こくないのユダヤじん強制きょうせい労働ろうどうしゃ男性だんせい10まんにん女性じょせい5まんにん)のアウシュヴィッツ移送いそう命令めいれい
  • 1942ねん - 1944ねん - モノヴィッツむら周辺しゅうへんに、当時とうじのドイツを代表だいひょうするだい企業きぎょう製造せいぞうプラントや近隣きんりん炭鉱たんこう付随ふずいするかたちで、大小だいしょうわせて40ほどの収容しゅうよう施設しせつ建設けんせつ。この施設しせつぐんは「アウシュヴィッツだいさん強制きょうせい収容しゅうようしょモノヴィッツ」[ちゅう 11]ともばれる。
  • 1943ねん1がつ - 3月 - 105,000にんえるユダヤじん到着とうちゃく
  • 1944ねん4がつ - 11月 - 585,000にんえるユダヤじん到着とうちゃく
    • 8がつ2にち - だい強制きょうせい収容しゅうようしょ家族かぞくとう収容しゅうようされていたジプシーにたいして最後さいご処刑しょけいおこなわれる。当日とうじつやく3,000にん殺害さつがいされ、アウシュヴィッツからジプシー一掃いっそうされた。殺害さつがいされた総数そうすう推定すいていで2まんにん
    • 10月7にち -ゾンダーコマンドによる武装ぶそう蜂起ほうき。ガスしつそなえたふくあい施設しせつ「クレマトリウム4」を破壊はかいするが、まもなく鎮圧ちんあつされた。
  • 1945ねん1がつ27にち - ソ連それんぐんにより解放かいほう
  • 1947ねん4がつ16にち - 初代しょだい所長しょちょうルドルフ・フェルディナント・ヘス、アウシュヴィッツにて絞首刑こうしゅけい
  • 1979ねん - 「アウシュヴィッツ強制きょうせい収容しゅうようしょ」として、ユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろく
  • 2007ねん6月27にち -世界せかい遺産いさん登録とうろくじょう名称めいしょうを「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制きょうせい絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょ(1940ねん-1945ねん)」に変更へんこう
  • 2009ねん - 「ARBEIT MACHT FREIはたらけば自由じゆうになる)」看板かんばん何者なにものかにぬすまれ、のち3つに切断せつだんされげられたかたち発見はっけんされる。2011ねん5がつ修復しゅうふく完了かんりょう今後こんご複製ふくせいひん掲示けいじし、実物じつぶつ厳重げんじゅう保管ほかんされる予定よてい

かく強制きょうせい収容しゅうよう施設しせつ概要がいよう[編集へんしゅう]

アウシュヴィッツだいいち強制きょうせい収容しゅうようしょ基幹きかん収容しゅうようしょ[編集へんしゅう]

航空こうくう写真しゃしん

だいいち強制きょうせい収容しゅうようしょ正門せいもん
かべ」。おおくの収容しゅうようしゃがこのかべまえ銃殺じゅうさつけいしょされた

1940ねん5がつ20日はつか、ドイツ国防こくぼうぐん接収せっしゅうしたポーランドぐん兵営へいえい建物たてものをSSがゆず開所かいしょやく30の施設しせつからる。平均へいきんして13,000 - 16,000にんおおいときで20,000にん収容しゅうようされた。収容しゅうようしゃ内訳うちわけは、ソ連それんへい捕虜ほりょ、ドイツじん犯罪はんざいしゃ同性愛どうせいあいしゃ、ポーランドじん政治せいじはんおもとなっている[ちゅう 12]のち開所かいしょする「だい強制きょうせい収容しゅうようしょビルケナウ」や「だいさん強制きょうせい収容しゅうようしょモノヴィッツ」をふくめ、アウシュヴィッツ強制きょうせい収容しゅうようしょ全体ぜんたい管理かんりする機関きかんかれていた。

あかレンガてられた2かいての建物たてもので、まわりは鉄製てつせいバリケードおおわれておりいちしょだけバリケードがない部分ぶぶんくちである[2]くちには「ARBEIT MACHT FREI(はたらけば自由じゆうになる)」の一文いちぶんかかげられている[2]。「B」の文字もじさかさまにえることについて、SSの欺瞞ぎまん(ぎまん)にたいする作者さくしゃ収容しゅうようしゃ)のささやかな抵抗ていこうかんがえるきもあるが、実際じっさいにはこの書体しょたい当時とうじ流行りゅうこうであった。10号棟ごうとうには人体じんたい実験じっけんおこなわれたとされる実験じっけん施設しせつが、11号棟ごうとうには逃亡とうぼうしゃ収容しゅうよう所内しょないでのレジスタンス活動かつどうおこなったものたいして銃殺じゅうさつけい執行しっこうするための「かべ」があり、そのほかには、裁判所さいばんしょ病院びょういんなどがあった。収容しゅうよう施設しせつは、女性じょせい専用せんよう監房かんぼうソ連それんへい捕虜ほりょ専用せんよう監房かんぼうなどといった具合ぐあいけられている。また、アウシュヴィッツ最初さいしょのガスしつとされる施設しせつつくられたが、のち強制きょうせい収容しゅうようしょ管理かんりのための施設しせつとなった。戦後せんご、ガスしつとして復元ふくげんされ、一般いっぱん公開こうかいされている。

アウシュヴィッツだい強制きょうせい収容しゅうようしょビルケナウ[編集へんしゅう]

航空こうくう写真しゃしん

広大こうだい敷地しきちに300あまりの施設しせつ建設けんせつされた
ガスしつのあったふくあい施設しせつ(クレマトリウム)の破壊はかいあと

収容しゅうようしゃぞうおぎなうため、1941ねん10がつ、ブジェジンカむら絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょとして問題もんだいされる「だい強制きょうせい収容しゅうようしょビルケナウ」が開所かいしょそう面積めんせきは1.75平方へいほうキロメートル(東京とうきょうドームやく37ぶん)で、300以上いじょう施設しせつからる。建設けんせつにはおもソ連それんへい捕虜ほりょ従事じゅうじしたとされる。ピークの1944ねんには90,000にん収容しゅうようされた。そのほとんどはユダヤじんであり、このほかにおもだったものとしてロマ・シンティがげられる。

アウシュヴィッツの象徴しょうちょうとして映画えいが書籍しょせきなどでられる「強制きょうせい収容しゅうよう所内しょないまでびる鉄道てつどう引込ひきこせん」は1944ねん5がつ完成かんせい収容しゅうようしゃからりょうだつした品々しなじな一時いちじ保管ほかんする倉庫そうこ病院びょういん人体じんたい実験じっけん施設しせつでもあったとされる)、防疫ぼうえき施設しせつ防火ぼうかよう貯水ちょすいそうとされるプールがあった。ガスしつは、農家のうか改造かいぞうしたものが2むねふくあい施設しせつ(クレマトリウム)が4むねけい6むねがあったとされるが、これらは収容しゅうようしゃ反乱はんらん撤退てったいおこなわれたなにかしらの証拠しょうこ隠滅いんめつ目的もくてきとした破壊はかいにより原型げんけいをとどめていない。収容しゅうよう施設しせつは、家族かぞくけの監房かんぼう労働ろうどうしゃけの監房かんぼう女性じょせい専用せんよう監房かんぼうなどにけられており、1943ねん以降いこうてられた南側みなみがわ収容しゅうよう施設しせつ全体ぜんたいの3ぶんの1程度ていどむねすう)は、湿地しっちうえ満足まんぞく基礎きそ工事こうじもなくてられており、とく粗末そまつつくりであったとつたえられている。ここにはおも女性じょせい収容しゅうようされた。

アウシュヴィッツだいさん強制きょうせい収容しゅうようしょモノヴィッツ[編集へんしゅう]

航空こうくう写真しゃしん

最大さいだい規模きぼがあったとされるイーゲー・ファルベンしゃ化学かがくプラント(1941)
生産せいさんプラントは連合れんごうこく爆撃ばくげき標的ひょうてきとなった(1944)

1942ねんから1944ねんあいだに、当時とうじのドイツを代表だいひょうする イーゲー・ファルベンしゃ化学かがく)、クルップしゃ重工業じゅうこうぎょう)、シーメンスしゃじゅうでん産業さんぎょう)といっただい企業きぎょう製造せいぞうプラントや、近隣きんりん炭鉱たんこう付随ふずいするかたち大小だいしょうわせて40ほどの収容しゅうよう施設しせつがモノビツェむら(ドイツめいモノヴィッツ)につくられた。これらの施設しせつぐんを「だいさん収容しゅうようしょモノヴィッツ」とぶ。

オシフィエンチム鉄道てつどう接続せつぞくく、近郊きんこう石炭せきたん石灰せっかい産出さんしゅつ。さらには内陸ないりく位置いちすることもあり、既存きそん生産せいさん拠点きょてんへの空襲くうしゅう危惧きぐされるようになると、やす労働ろうどうりょくあわせて注目ちゅうもくされるようになった。

なかでも最大さいだい規模きぼであったのが、700まんライヒスマルク投資とうししててられたイーゲー・ファルベンしゃ合成ごうせいゴム・合成ごうせい石油せきゆプラント「ブナ」。同社どうしゃは、1925ねんにドイツの化学かがく関連かんれん企業きぎょう6しゃ合体がったいしてできたコンツェルンであり、当時とうじ総合そうごう化学かがく業界ぎょうかいとしては世界せかいさんふんするうちの1しゃであった。また、1936ねん4がつ、ナチスひきいるドイツ政府せいふによってしめされた国家こっか重要じゅうよう指針ししんをとなる「よんヵ年かねん計画けいかく」の遂行すいこうにあたって、産業さんぎょうめんおおきな役割やくわりたすなどドイツ政府せいふとは緊密きんみつ連携れんけい関係かんけいにあった。

戦後せんごニュルンベルク裁判さいばんでは「人道じんどうたいするつみ」を理由りゆう役員やくいん技術ぎじゅつしゃなど被告ひこくの24にん全員ぜんいん有罪ゆうざいとなり[ちゅう 13]いで1948ねんの「べいえい占領せんりょう地区ちく合同ごうどう管理かんり理事りじかい」でコンツェルンの解体かいたい決定けっていする[ちゅう 14]かくプラントは連合れんごう国軍こくぐんばくげき目標もくひょうとされ、さらには1945ねん1がつ解放かいほうのちソ連それんぐんによって破壊はかいされたため現在げんざいのこっていない。

収容しゅうようしょでのらし[編集へんしゅう]

選別せんべつ[編集へんしゅう]

ドイツ統治とうち各地かくちより貨車かしゃなどではこばれてくる。この全体ぜんたい貨車かしゃいくつもつらなったような状態じょうたいで、ちゅうせまおおくのひとがぎゅうぎゅうめにれられた。はこばれてきた収容しゅうようしゃは、オシフィエンチム(ドイツめい、アウシュヴィッツ)の貨物かもつえき(1944ねん5がつ以降いこうだい強制きょうせい収容しゅうようしょビルケナウにつくられた鉄道てつどう引込線ひきこみせん終着しゅうちゃくてん)でろされる。貨物かもつえきではアウシュビッツ・オーケストラなる音楽おんがくたい演奏えんそうかなでているが[3]、そのすぐに「収容しゅうよう理由りゆう」「思想しそう」「職能しょくのう」「人種じんしゅ」「宗教しゅうきょう」「性別せいべつ」「健康けんこう状態じょうたい」などの情報じょうほうをもとに「労働ろうどうしゃ」「人体じんたい実験じっけん検体けんたい」、そして「価値かちなし」などにけられた。価値かちなしと判断はんだんされた収容しゅうようしゃはガスしつなどで処分しょぶんとなる。そのおおくが「女性じょせい子供こども老人ろうじん」であったとされる。ここでう「子供こども」とは身長しんちょう120cm以下いかものすが、学校がっこう孤児こじいんから集団しゅうだんおくられてていた子供こどもたちは形式けいしきてき審査しんさもなく、引率いんそつ教師きょうしとともにガスしつおくられた。

ナチス政権せいけんのドイツ政府せいふ制定せいていしたほうおおくがそうであったように、選別せんべつは、「法令ほうれい」にくら規範きはん簡単かんたんえばルール)のあいまいな「訓令くんれい(または通達つうたつ)」をけて遂行すいこうされている。そのため規範きはん細部さいぶについては「担当たんとうしゃ」や「担当たんとうしゃ所属しょぞくするグループ」の裁量さいりょうまかされた(「人体じんたい実験じっけん検体けんたいとして”双子ふたご”を選別せんべつする」といったような規範きはんが、医師いしヨーゼフ・メンゲレによってくわえられたのはそのいちれい)。このため個々ここ事例じれいで、具体ぐたいてきにどのような行為こういおこなわれたのかが書面しょめんとしてのこっていないこともおおく、戦後せんごかく裁判さいばんでの事実じじつ認定にんていむずかしくしているおも原因げんいんとなっている。

登録とうろく[編集へんしゅう]

収容しゅうようさい撮影さつえいされた収容しゅうようしゃたち。たてじまの囚人しゅうじんふくには、分類ぶんるいのためのマークがつけられている(アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん展示てんじ)

即刻そっこく処分しょぶんまぬかれた収容しゅうようしゃは、男女だんじょわず頭髪とうはつをすべてり、消毒しょうどく写真しゃしん撮影さつえい[ちゅう 15]管理かんり番号ばんごう刺青しせいするなど入所にゅうしょにあたっての準備じゅんび手続てつづきをおこなう。管理かんり番号ばんごう一人ひとりひとりにあたえられ、その総数そうすうやく40まんけんとされる。私物しぶつは「選別せんべつ」の段階だんかいまでに、戦争せんそう遂行すいこうかせない資源しげんとしてすべて没収ぼっしゅうされており、あたえられるたてじま(いろあおしろ)の囚人しゅうじんふく唯一ゆいいつ所持しょじひんとなる。最後さいごに、人種じんしゅべつ性別せいべつなどにけられた収容しゅうようとうおくられた。

囚人しゅうじんふくには「政治せいじはん」「一般いっぱん犯罪はんざいしゃ」「移民いみん」「同性愛どうせいあいしゃ」、さらには「ユダヤ」などを区別くべつするマークがつけられている(ナチ強制きょうせい収容しゅうようしょのバッジ参照さんしょう)。これは、強制きょうせい収容しゅうよう所内しょないヒエラルキー形成けいせいされていたことを意味いみし、労働ろうどう食事しょくじ住環境じゅうかんきょうなど生活せいかつのあらゆるめん影響えいきょうおよぼしたとかんがえられる。ドイツじん頂点ちょうてんに、西にしきたヨーロッパじん、スラブじん最下さいかそうにユダヤじん同性愛どうせいあいしゃ、ロマ・シンティがかれ、下層かそうにあればあるほど食料しょくりょう配給はいきゅうりょう宿舎しゅくしゃ設備せつび労働ろうどう時間じかんなどあらゆるめん過酷かこく状況じょうきょうかれ、死亡しぼうりつたかくなった[ちゅう 16]心理しんりめんでは、下層かそう収容しゅうようしゃがいることで上層じょうそうもの多少たしょう安心あんしんあたえるとともに、収容しゅうようしゃ全体ぜんたいがまとまって反抗はんこうする機運きうんつくらせないねらいがあったとかんがえられる。

労働ろうどう[編集へんしゅう]

イーゲ・ファルベンしゃ化学かがくプラントで道路どうろ舗装ほそうおこな収容しゅうようしゃ(1941)

労働ろうどうおもに4つのタイプにけることができる。ひと収容しゅうようしゃ肉体にくたいてき消耗しょうもう目的もくてきとした労働ろうどう。たとえば、いしじょうでの作業さぎょう道路どうろ舗装ほそう工事こうじなどをおこなう「懲罰ちょうばつ部隊ぶたい」がこれに該当がいとうする。場合ばあいによっては、「午前ごぜんちゅうあなり、午後ごごそのあなめる」といったような、なんら生産せいさんせいのない作業さぎょうめいじられることもある。懲罰ちょうばつ部隊ぶたい組織そしきされた収容しゅうようしゃおおくは短期間たんきかんのうちに死亡しぼうしたとされる。

ふたは、戦争せんそう遂行すいこうかせない資材しざい兵器へいきなどの生産せいさんや、収容しゅうよう施設しせつ維持いじ管理かんりなどを目的もくてきとした労働ろうどう工場こうじょう労働ろうどうしゃかく施設しせつ拡張かくちょう管理かんり作業さぎょうなどがこれに該当がいとうし、なんらかの技能ぎのう知識ちしき電気でんき工事こうじ医師いし化学かがくしゃ建築けんちくなど)を収容しゅうようしゃ作業さぎょうにあたった。懲罰ちょうばつ部隊ぶたいでの労働ろうどう比較ひかくして程度ていどこそあれ、劣悪れつあく食料しょくりょう事情じじょう蔓延まんえんする伝染でんせんびょうなどによりいのちおびやかされる状況じょうきょうにあったことにちがいはない。

みっは、所内しょない死亡しぼうした収容しゅうようしゃ処分しょぶん目的もくてきとした労働ろうどう。ガスしつ病気びょうき栄養失調えいようしっちょうなどで死亡しぼうしたおびただしいかず遺体いたいを、焼却しょうきゃくなどにはこ処分しょぶんする「ゾンダーコマンド特別とくべつ労務ろうむはんいん)」がこれに該当がいとうする。比較的ひかくてき待遇たいぐうかったが、一方いっぽうくちふうじのためすうヵ月かげつごとにかれ自身じしん処分しょぶんされた[ちゅう 17]。1から13まであり、解放かいほう直前ちょくぜん結成けっせいされた12のメンバーは武力ぶりょく蜂起ほうきによる反抗はんこうこころみている。

よっは、ほかの収容しゅうようしゃたちを監視かんしする「カポ(労働ろうどう監視かんしいん収容しゅうようしょ監視かんしいんなどとやくされる)」である。おもだいいち収容しゅうようしょのドイツじん犯罪はんざいしゃからえらばれることがおおかったとされ、収容しゅうようしゃヒエラルキー頂点ちょうてんった。戦後せんご過酷かこく懲罰ちょうばつしたことでさばかれるものもいた。

住環境じゅうかんきょう[編集へんしゅう]

バラック内部ないぶさんだんベッドのした汚物おぶつながみぞみぎはし暖房だんぼう(だい強制きょうせい収容しゅうようしょ)

住環境じゅうかんきょう非常ひじょう劣悪れつあくであった。この地域ちいきは、なつ最高さいこう37ふゆ最低さいていマイナス20下回したまわる。だいいち収容しゅうようしょはもともとポーランドぐん兵営へいえいであったため暖房だんぼう設備せつび完備かんびされていたが、収容しゅうようしょとして利用りようされたときにはたきぎなどの燃料ねんりょう供給きょうきゅうされなかったとわれている。布団ぶとんよごれてあなだらけの毛布もうふ薄手うすで麻布まふぎない)のみであった。カポなどSSに協力きょうりょくするものには個室こしつやまともな食事しょくじあたえられている。

だい収容しゅうようしょはバラックとうべき非常ひじょう粗末そまつつくりで、もともとポーランドぐん馬小屋うまごやであったものや、のちに一部いちぶ基礎きそ工事こうじなしでてられたためゆかがなく、上下水道じょうげすいどう完備かんびされていないため地面じめんどろしていた(汚水おすい収容しゅうようしゃ敷地しきちないみぞってながした)。暖房だんぼう簡素かんそなものがあったが、燃料ねんりょう供給きょうきゅうはされなかったとわれ、なぜこのような暖房だんぼう設備せつびつくられたのか、理由りゆう不明ふめいであり、隙間風すきまかぜがいやおうなく役目やくめたしていなかったとわれる。排水はいすいがままならない不衛生ふえいせいなトイレ(長大ちょうだい縦長たてながおおきなおけうえにコンクリートばんき、表面ひょうめん左右さゆうまるあなをあけただけのもの)をなかにはさむかたちさんだんベッドがならべられ、マットレスわりにわらをいて使用しようした。トイレ使用しようは、午前ごぜん午後ごご2かい制限せいげんされ、目隠めかくしになるものもなく、一斉いっせい使用しよう強制きょうせいされた。衛生えいせいてき環境かんきょうであったため、病原びょうげんせい下痢げり蔓延まんえんし、きわめて人間にんげんてきあつかいがなされた。

食事しょくじ[編集へんしゅう]

収容しゅうようしたがわされたがわ双方そうほう証言しょうげんによると、食料しょくりょううばいが個人こじんやグループあいだ日常にちじょうてきにあったとされる[ちゅう 18]公式こうしきには重労働じゅうろうどうしゃに2150キロカロリー、一般いっぱん労働ろうどうしゃに1700キロカロリーの食事しょくじあたえるという規定きていがあったが、現場げんば監督かんとくによってりょう左右さゆうされ、監視かんしへい厨房ちゅうぼう食料しょくりょううばわれるなど、実情じつじょうはかけはなれていた[5]

配給はいきゅうりょうについてはさまざまな証言しょうげんがあり、アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん展示てんじされている「朝食ちょうしょくやく50CCのコーヒーとばれるにごったもの(コーヒーまめから抽出ちゅうしゅつされたものではない)。昼食ちゅうしょく:ほとんどのないスープ。夕食ゆうしょく:300gほどのくろパン、3グラムのマーガリンなど[6]」はいちれいで、実際じっさい収容しゅうようしゃあいだのヒエラルキーや個々ここ労働ろうどう能力のうりょく、さらには収容しゅうよう時期じきによって待遇たいぐうにかなりのがあったとるのが自然しぜんだろう[独自どくじ研究けんきゅう?]実際じっさい、1943・1944ねん以降いこうは「業績ぎょうせき連結れんけつした食料しょくりょう配給はいきゅう体制たいせい[ちゅう 19]おおくの労働ろうどうしゃたい実施じっしされている。この制度せいど生産せいさん全量ぜんりょうてき向上こうじょう目的もくてきとしており、戦況せんきょう悪化あっかともなきびしくなった食料しょくりょう自給じきゅう環境かんきょうにおいて、生産せいさんせいたか労働ろうどうしゃ優先ゆうせん配給はいきゅうおこなうというもの。

一般いっぱんてきドイツじん業績ぎょうせき基準きじゅんに、業績ぎょうせき労働ろうどうしゃおお配給はいきゅうし、ぎゃくわる労働ろうどうしゃ以前いぜんよりもさらにらすというものだが、もともとほとんどの収容しゅうようしゃ一般いっぱん成人せいじんいちにち必要ひつようとするカロリーにとおおよばないりょう食料しょくりょう[ちゅう 20]しかあたえられていないなかで、比較ひかくすること自体じたい無理むりがあり、不幸ふこうにもらされれば確実かくじつになるばかりである。くためにほんのわずかな増加ぞうかぶんようとする「人間にんげん精神せいしんりょく」に期待きたいしての制度せいどであり、結果けっかとして収容しゅうようしゃ同士どうし食料しょくりょううばうことが日常にちじょうてきにあったというのは、いかにその状況じょうきょう過酷かこくであったかをあらわしている。

医療いりょう[編集へんしゅう]

強制きょうせい収容しゅうよう所内しょない栄養失調えいようしっちょう不衛生ふえいせい環境かんきょうによりチフスなどの伝染でんせんびょう蔓延まんえんし、それらによる死者ししゃはかなりのかずのぼったとされる。収容しゅうようしゃなかには医師いし看護かんごなどもおり、おもかれらが治療ちりょうにあたった。

医療いりょう現場げんばは「だい選別せんべつ」でもあり、回復かいふくむずかしいと診断しんだんされた収容しゅうようしゃ処分しょぶん施設しせつへまわされることになる。このため、選別せんべつ収容しゅうよう所内しょないわたるまで医師いし患者かんじゃたいして極力きょくりょく入院にゅういんこばんだという。一方いっぽう当時とうじのドイツ政府せいふまれていた当時とうじドイツ赤十字せきじゅうじ(DRK)から派遣はけんされた医師いしは、治療ちりょう以外いがい選別せんべつ人体じんたい実験じっけんたずさわっていたとされる。

抑圧よくあつ[編集へんしゅう]

こうあつ電流でんりゅうながれた鉄条てつじょうもう(だいいち強制きょうせい収容しゅうようしょ)

アウシュヴィッツ全体ぜんたい警備けいびやく6,000めいのSSによっておこなわれているにすぎず、たいして収容しゅうようしゃ最大さいだいで14まんにんかぞえる。一般いっぱん予防よぼうとしての懲罰ちょうばつは、圧倒的あっとうてき多数たすう収容しゅうようしゃ多大ただい心理しんりてき抑圧よくあつあたえることを目的もくてきとし、行使こうし以外いがいにもせしめによる擬似ぎじてき体験たいけん連帯れんたい責任せきにんせい強烈きょうれつ恐怖きょうふしんいだかせる懲罰ちょうばつ流布るふなどにより、収容しゅうようしゃをコントロールするようとなった。一方いっぽうさきれた「くちふうじのためにゾンダーコマンドが"すうヵ月かげつおき”に処分しょぶんされる」ことは、これが事実じじつであれば、人種じんしゅ主義しゅぎてき抑圧よくあつあわせることによって発生はっせいした「おおすぎる」を収容しゅうようしゃかくすための処置しょちであり、つまり懲罰ちょうばつはむやみやたらというよりも、収容しゅうようしゃのコントロールと人種じんしゅ主義しゅぎてき抑圧よくあつのバランスのなか計画けいかくてき遂行すいこうされていたとることができる。

懲罰ちょうばつは「鞭打むちうち」「うししばからだくいるす」「特別とくべつ監房かんぼうへの移送いそう」「過重かじゅう労働ろうどう懲罰ちょうばつたいへの入隊にゅうたい)」「懲罰ちょうばつ点呼てんこ」などがげられる。いずれもはげしい飢餓きがくるしむ収容しゅうようしゃにとっては意味いみするものであったとえる。たとえば、90cm×90cmのせまいスペースに4にんむ「ろう」や、一切いっさいみず食料しょくりょうあたえない「飢餓きがろう[ちゅう 21]は、体力たいりょく確実かくじつ消耗しょうもうさせ、いたらしめる。永続えいぞくてきつづくかのような苦痛くつう絶望ぜつぼう介在かいざいする懲罰ちょうばつ存在そんざいは、収容しゅうようしゃたちにはかれない恐怖きょうふあたえたとかんがえられる。また「銃殺じゅうさつけい」や「絞首刑こうしゅけい[ちゅう 22]は、具体ぐたいてき姿すがた瞬間しゅんかんてきせつけ、しばしば所内しょないにとどろく銃声じゅうせい直接ちょくせつこれをずとも緊張きんちょうわすれがたい恐怖きょうふえつけるのに十分じゅうぶんであったとえる。絶望ぜつぼうのあまりみずかだかあつ電流でんりゅうながれる鉄条てつじょうもうれて自殺じさつするものもいたという。

このような状況じょうきょうなか脱走だっそうしゃすくなからず存在そんざいする。脱出だっしゅつした人数にんずうやく100にん - 400にん程度ていどだが強制きょうせい収容しゅうようしょからの脱走だっそうかんがえると脱走だっそうりつたかいとえる。最終さいしゅうてき成功せいこうした脱走だっそうしゃすうは、やく150めいとされている。成功せいこうした背景はいけいには内部ないぶのレジスタンスの協力きょうりょくがあったとされている。なかでも一番いちばん脱走だっそうしゃおおかったのがアウシュヴィッツ3である。しかし、収容しゅうようしょでは、脱走だっそうがあるごとに、脱走だっそうしゃの10ばい人数にんずうせしめとして作為さくいえらび、「飢餓きがけい」にすることが恒常こうじょうてきおこなわれていた。マキシミリアノ・コルベ神父しんぷ身代みがわりとなったのは、失敗しっぱいした脱走だっそうしゃたいするせしめとしてであった。

また、収容しゅうようしゃによる「オーケストラ」が組織そしきされていた。強制きょうせい収容しゅうようしょ到着とうちゃく直後ちょくご収容しゅうようしゃにはあかるいきょくを、強制きょうせい労働ろうどうかう収容しゅうようしゃには行進曲こうしんきょくかなでたとされる。オーケストラの存在そんざいは、収容しゅうようしょが「人道的じんどうてきに」運営うんえいされていると主張しゅちょうするための、カモフラージュの一環いっかんとしておこなわれた。おおくをうばわれ、失意しついのうちにアウシュヴィッツへおくられてきたばかりの人々ひとびとにはかすかな希望きぼうあたえ、日々ひび重労働じゅうろうどうせられる収容しゅうようしゃにはぎゃく腹立はらだたしさをおぼえさせた。SSにとっては余興よきょうでもあり、その本分ほんぶん人心じんしんたくみに利用りようした収容しゅうようしゃたいしての欺瞞ぎまん侮辱ぶじょくであったとえる。奏者そうしゃ特別とくべつ待遇たいぐうけたが(アルマ・ロゼ概要がいよう)、ゾフィア・チコビアクのように、「人々ひとびとみずからの行為こうい間接かんせつてき関与かんよしていた」というおもいからしん生涯しょうがいにわたるきずったものもいた。

戦後せんご収容しゅうようしゃとしての経験けいけん精神せいしんたちは、みずからの抑圧よくあつ体験たいけん研究けんきゅう精神せいしん分析ぶんせきがく発展はってん貢献こうけんした。たとえば、精神せいしんヴィクトール・フランクルは、実体験じつたいけんしるした著書ちょしょよるきり」で、はげしい苦痛くつうなか精神せいしんがどのようにして順応じゅんのうし、内面ないめんてき勝利しょうりていくかについてかたるとともに、患者かんじゃたい実存じつぞん主義しゅぎてきアプローチをる「ロゴセラピー」をあらたに提唱ていしょうした。

大量たいりょう殺害さつがいのための施設しせつ殺人さつじんガスしつ[編集へんしゅう]

ガスしつそなえたふくあい施設しせつ「クレマトリウム2」。最大さいだい規模きぼがあったとされる。(1)くち(2)脱衣だついしつ(3)ガスしつ(4)ガスを投入とうにゅうするためのあな(5)遺体いたい運搬うんぱんのためのエレベータ(6)5つの搬入はんにゅうこうから焼却しょうきゃく

ルドルフ・ヘス回想かいそうろく[7]によると、1941ねんなつ、ヘスはベルリンに出頭しゅっとうし、ヒムラーから直接ちょくせつ総統そうとうは、ユダヤじん問題もんだい最終さいしゅうてき解決かいけつめいじた。われわれSSはこの命令めいれい実行じっこうしなければならない」として、アウシュヴィッツでのユダヤじん絶滅ぜつめつけての準備じゅんびアイヒマンとともにすすめるようにめいじられた。ヘスとアイヒマンの相談そうだんでガスをもちいることは決定けっていしたものの、二人ふたりあいだではどのガスを使つかうかは決定けってい出来できなかった。しかし、ヘスの公務こうむ旅行りょこうちゅうに、カール・フリッチュ司令しれいかん代理だいりが、基幹きかん収容しゅうよう所内しょないのブロック11の地下ちかしつもちいて、ロシアじん捕虜ほりょ部屋へや鮨詰すしづめにし、シラミ駆除くじょのために保管ほかんしていたツィクロンBもちい、殺害さつがい実験じっけんおこなった(1941ねん9がつ3にちとも5にちともわれる)。この実験じっけん成功せいこううらわり、アウシュヴィッツでもちいる殺害さつがいようのガスは、ツィクロンBシアン化水素しあんかすいそガス)に決定けっていした。

しかし、ブロック11の地下ちかしつでの実験じっけんは、換気かんき時間じかんがかかるため、最初さいしょ実験じっけんいちきりしか使用しようされず、わりに基幹きかん収容しゅうようしょ火葬かそうじょうにあった死体したい安置あんちしょをガスしつとして使用しようすることとなった。このガスしつでは、犠牲ぎせいしゃがガスしつまれると、気密きみつとびらめられたのち天井てんじょうけられた数箇所すうかしょあなからツィクロンB室内しつない投下とうかされた。

チクロンBのかん(アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん展示てんじ)

この基幹きかん収容しゅうようしょだいいちガスしつは、基本きほんてきにはユダヤじん絶滅ぜつめつにはほとんど使用しようされなかったようである。ヘスによると、ユダヤじん絶滅ぜつめつはじまったのは、ビルケナウ敷地しきちがい農家のうか改造かいぞうしてつくられた「ブンカー」とばれるガスしつで、1941ねん1がつのことだったとべられている。つづいて、続々ぞくぞくとユダヤじん移送いそうされてくるようになると、すこはなれたところにあるべつ農家のうか改造かいぞうしてふたの「ブンカー」でのユダヤじん絶滅ぜつめつ実施じっしされるようになった。

しかし、このガスしつ殺害さつがいされた遺体いたいは、当初とうしょごうって埋葬まいそうしていただけだったが、のち再度さいどこして野外やがい火葬かそうするようになると(後述こうじゅつ)、その火葬かそう作業さぎょうによる悪臭あくしゅう周囲しゅういすうキロにわたってひろがることとなり、周辺しゅうへん住民じゅうみんがユダヤじん焼却しょうきゃくのことを話題わだいにしはじめてしまう有様ありさまとなってしまう。そこで、ビルケナウですでに建設けんせつちゅうだった、大型おおがた火葬かそうじょうでのユダヤじん絶滅ぜつめつ焼却しょうきゃくすすめられることとなったのである。結果けっかとして、ビルケナウに建設けんせつされることとなった4箇所かしょ火葬かそうじょうに、基幹きかん収容しゅうようしょ火葬かそうじょう同様どうよう、ガスしつ併設へいせつされることとなった。さらにはそれら火葬かそうじょうには脱衣だついしつ併設へいせつされ、ガスしつでの殺害さつがい囚人しゅうじんによって遺体いたいから金歯きんばかれたのち火葬かそう処理しょりまわされた。火葬かそう遺骨いこつとう残骸ざんがいこまかくくだかれて、ちかくのかわてられた。

ビルケナウのガスしつ収容しゅうよう能力のうりょくは、ヘスによると、火葬かそうじょうⅡおよびⅢのガスしつでは、最大さいだいで3000にんべられているが、「そのかずたっしたことはいちもない」ともべている。ⅣおよびⅤの収容しゅうよう能力のうりょくべられていない。ガス(ツィクロンB)のガスしつへの投入とうにゅう方法ほうほうは、火葬かそうじょうⅡおよびⅢでは、基幹きかん収容しゅうようしょ火葬かそうじょう同様どうように、天井てんじょうけられた4箇所かしょあなから投入とうにゅうされたが、ひろいガス室内しつない効率こうりつてきにガスを拡散かくさんさせるためと、ツィクロンB殺害さつがい数時間すうじかんガスを発生はっせいつづけるので、半地はんじ構造こうぞうであるために換気かんきシステム以外いがい新鮮しんせん空気くうき導入どうにゅうしにくいことから、殺害さつがいツィクロンBをガスしつないから撤去てっきょしてしまう目的もくてきで、金網かなあみ導入どうにゅう装置そうちばれる特殊とくしゅ構造こうぞうたい設置せっちされていた。ツィクロンBがガス室内しつないのこらないので、火葬かそう処理しょりまわすための遺体いたい搬送はんそう作業さぎょう迅速じんそく開始かいし可能かのうになっていた。火葬かそうじょうⅣおよびⅤのガスしつには換気かんき装置そうちはなかったが、これらのガスしつ地上ちじょうがただったため、新鮮しんせん空気くうき導入どうにゅうしやすいので、どくガスの濃度のうど致死ちし濃度のうど以下いか容易よういげることができたとかんがえられる。また、これらの遺体いたい搬送はんそう作業さぎょうおこなったユダヤじん囚人しゅうじんによるゾンダーコマンドは、ガスマスクを使用しようすることも可能かのうだった。なお、火葬かそうじょうⅣとⅤではツィクロンB壁面へきめん上部じょうぶにある数箇所すうかしょのシャッターからガス室内しつない投入とうにゅうされた。ブンカーも同様どうようである。

ビルケナウの4箇所かしょ火葬かそうじょうは、ソ連それんぐん接近せっきんまえにして1944ねん12月から設備せつびとう解体かいたい撤去てっきょ作業さぎょうはじまり、翌年よくねん1がつ親衛隊しんえいたいによってダイナマイトで破壊はかいされた。ブンカーについては、最初さいしょつくられたブンカー1は1943ねん最初さいしょころ使用しよう終了しゅうりょうするとともに撤去てっきょされ、ブンカー2は1944ねん中頃なかごろまで使用しようされたのち、これも撤去てっきょされた(いずれも詳細しょうさい時期じき不明ふめい)。

基幹きかん収容しゅうようしょ火葬かそうじょう1については、1942ねん12がつごろにガスしつ使用しよう中止ちゅうしされ、1943ねん7がつには火葬かそうじょうとしても使用しようされなくなり、1944ねん中頃なかごろ防空壕ぼうくうごう改修かいしゅうされた。戦後せんご、アウシュヴィッツ収容しゅうようしょ博物館はくぶつかんされることになり、それにともなって、火葬かそうじょう1はガスしつ存在そんざいしたころちか状態じょうたいにまで復元ふくげん工事こうじおこなわれた。ただし、防空壕ぼうくうごうよう設置せっちされた以上いじょうかず隔壁かくへき撤去てっきょしていたり、火葬かそうじょうとガスしつあいだにあった出入でいぐちとはべつのところに開口かいこうつくったり、ガスしつ気密きみつドアを再現さいげんしなかったり、防空壕ぼうくうごう改修かいしゅうつくられたあたらしい出入でいぐちをそのままにするなど、復元ふくげん工事こうじとしては杜撰ずさんさののこるものとなっている。この戦後せんご復元ふくげん工事こうじ文書ぶんしょ記録きろくはアウシュヴィッツ博物館はくぶつかんにも一切いっさいのこっていないようであるが、のこされた戦時せんじちゅう図面ずめん変化へんかると、あきらかに戦後せんご復元ふくげん工事こうじおこなったものであることがわかる。

人体じんたい実験じっけん[編集へんしゅう]

人体じんたい実験じっけん舞台ぶたいとなっただい10号棟ごうとう病院びょういん(だいいち強制きょうせい収容しゅうようしょ)

ドイツじん医師いしたちは、収容しゅうようしゃをさまざまな実験じっけん検体けんたいとした。いわゆる「人体じんたい実験じっけん」である。カール・ゲープハルトエルンスト・ロベルト・グラーヴィッツホルスト・シューマンらはスラブ民族みんぞく撲滅ぼくめつのために男女だんじょ断種だんしゅ実験じっけんを、ヨーゼフ・メンゲレ双子ふたご身体しんたい障害しょうがいもの精神せいしん障害しょうがいもの使つかった遺伝いでんがく人類じんるいがく研究けんきゅうおこなったとされる。

ほかにも新薬しんやく投与とうよ実験じっけん有害ゆうがい物質ぶっしつ囚人しゅうじん皮膚ひふ塗布とふする実験じっけんなどがおこなわれた。いのちとしたものすうひゃくおよび、たとえ生還せいかんできてもおおくには障害しょうがいのこった。ニュルンベルク裁判さいばんなどはこれらの行為こうい医療いりょう犯罪はんざいとしてさばいた(医者いしゃ裁判さいばん概要がいよう)。また、裁判さいばん結果けっかけ、医学いがくてき研究けんきゅうにおける被験者ひけんしゃ意思いし自由じゆう保護ほごする「ニュルンベルク綱領こうりょう」がしめされた。

死体したい焼却しょうきゃく施設しせつ火葬かそうじょう、クレマトリウム)[編集へんしゅう]

火葬かそうじょう1(アウシュヴィッツだいいち収容しゅうようしょ基幹きかん収容しゅうようしょ))[編集へんしゅう]

アウシュヴィッツ収容しゅうようしょ設営せつえいされた最初さいしょ火葬かそうじょうは、アウシュヴィッツだいいち収容しゅうようしょ現在げんざい観光かんこうよう公開こうかいされている火葬かそうじょう1である。この火葬かそうじょうは1940ねん6がつごろ、元々もともとポーランドぐん弾薬だんやくとして使つかっていた建造けんぞうぶつ改修かいしゅうしてつくられた。火葬かそう設計せっけい製作せいさく担当たんとう会社かいしゃトップフ・ウント・ゼーネしゃ技術ぎじゅつ担当たんとう責任せきにんしゃクルト・プリューファー)であり[8]最初さいしょ(マッフル)がふたつある火葬かそうを2設置せっちしていた。また火葬かそうのある部屋へやのすぐとなりにある部屋へや死体したい安置あんちしょ設定せっていされた。

翌年よくねん9がつごろ図面ずめんでは、もう一基いっき火葬かそう追加ついかして、合計ごうけい3(マッフルのかずは6箇所かしょ)がえがかれており、正確せいかく時期じき不明ふめいであるが、この設計せっけいどおりに追加ついか設置せっちされた[9]

火葬かそうじょうⅠの火葬かそうは1943ねん7がつごろまで使用しようされたのち、ビルケナウでのユダヤじん絶滅ぜつめつ本格ほんかくすると使用しよう中止ちゅうしされ、翌年よくねん中頃なかごろにはガスしつとして使用しようしていた死体したい安置あんちしょがあった箇所かしょ中心ちゅうしん大幅おおはば改良かいりょうして防空壕ぼうくうごうとするとともに、火葬かそう一旦いったん解体かいたいし、煙突えんとつなども撤去てっきょしていた。したがって、現在げんざい状態じょうたい戦後せんごにポーランド当局とうきょくがガスしつのあったとき状態じょうたい復元ふくげん工事こうじおこなったものである。煙突えんとつもそのとき再建さいけんされている[10]

火葬かそうじょうⅡ〜Ⅴ(アウシュビッツだい収容しゅうようしょ(ビルケナウ収容しゅうようしょ))[編集へんしゅう]

アウシュヴィッツ中央ちゅうおう建設けんせつによる1943ねん6がつ28にちづけ文書ぶんしょ。5箇所かしょ火葬かそうじょう焼却しょうきゃく能力のうりょくとして、1にちあたりけい4,756たい記載きさいされている。

だい収容しゅうようしょであるビルケナウ収容しゅうようしょ建設けんせつすすみ、1942ねん中頃なかごろになると、ビルケナウでも火葬かそうじょう建物たてもの建設けんせつはじまった。当初とうしょ計画けいかくでは、ビルケナウ収容しゅうようしょにはおおくのソ連それんへい捕虜ほりょ収容しゅうようする予定よていだった[11]ので、ソ連それんへい捕虜ほりょよう大型おおがた火葬かそうじょう建物たてもの火葬かそうじょうⅡ)をいちむねのみてる予定よていだったが、ビルケナウでのユダヤじん絶滅ぜつめつ本格ほんかくするのにわせて、合計ごうけいむね火葬かそうじょうが1943ねん6がつごろにかけて建設けんせつされることとなった[12]。これら火葬かそうじょう火葬かそう仕様しよう以下いかとおりである。

  • 火葬かそうじょうⅡ・Ⅲ・・・火葬かそうかずかく5、1についての(マッフル)のかずは3箇所かしょ。トータルではⅡ、Ⅲわせて30箇所かしょのマッフルがあることになる。
  • 火葬かそうじょうⅣ・Ⅴ・・・火葬かそうかずかく2、1についての(マッフル)のかずは4箇所かしょ。トータルではⅣ、Ⅴわせて16箇所かしょのマッフルがあることになる。

したがって、ビルケナウだけで46箇所かしょのマッフルがあることになる。これらの火葬かそうじょう火葬かそう能力のうりょくについては、アウシュヴィッツ親衛隊しんえいたい中央ちゅうおう建設けんせつによる文書ぶんしょのこされており、だい1火葬かそうじょうわせて、あたり合計ごうけい4,756たい遺体いたい火葬かそう可能かのうとするものであった。

ビルケナウの4つの火葬かそうじょうは、ソ連それんぐん進行しんこうともなって1944ねん12がつごろから解体かいたい作業さぎょうはじまり、翌年よくねん1がつソ連それんによる収容しゅうようしょ解放かいほうまえにして、親衛隊しんえいたい撤収てっしゅうするまえすべてダイナマイトによって破壊はかいされた[13]

野外やがいでの死体したい焼却しょうきゃく[編集へんしゅう]

アウシュヴィッツでのユダヤじん絶滅ぜつめつ開始かいしされた時期じきについては、はっきりしたことは不明ふめいであるものの、1942ねんはるごろから、ビルケナウの敷地しきちがいでのけん農家のうか稼働かどう開始かいしことなる)を改造かいぞうしてつくられたガスしつである「ブンカー」からはじまったとされる[14]。この場所ばしょ使用しようしてユダヤじん大量たいりょう殺戮さつりくおこなっていた当初とうしょは、これらの死体したい焼却しょうきゃく処分しょぶんするつもりはなく、たんごうってめていただけであった[15]。しかし、なつごろになると遺体いたい腐敗ふはいすすんで、土壌どじょう地下水ちかすい汚染おせんすることになってしまった。そこで、ヒムラーからの命令めいれいにより、これらの死体したいすべ再度さいどこして、焼却しょうきゃく処分しょぶんすることになったのである[16]。この焼却しょうきゃく処分しょぶんはアウシュヴィッツだけの問題もんだいではなかったようで、ソ連それん地域ちいき前年ぜんねんから実施じっしされていた現地げんちでのユダヤじん虐殺ぎゃくさつによる大量たいりょう埋葬まいそうや、ヘウムノ収容しゅうようしょからはじまったアウシュヴィッツ以外いがい絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょでも同様どうようであった。そこで、親衛隊しんえいたいは、アインザッツグルッペBの指揮しきかん一人ひとりであった、パウロ・ブローベル大佐たいさ指揮しきもと野外やがいでの効率こうりつてき死体したい焼却しょうきゃく考案こうあん実施じっしすすめたのである。アウシュヴィッツの司令しれいかんヘスらは、当初とうしょ、ブローベル大佐たいさによってすすめられていたヘウムノでの死体したい焼却しょうきゃく現場げんば視察しさつ、そのビルケナウのブンカーでの大量たいりょう埋葬まいそうについて、死体したい焼却しょうきゃくすすめられたのであった[16]

ヘスの自伝じでんによると、このとき焼却しょうきゃくされた遺体いたいかず合計ごうけい10まん7000たいだったとのことである[15]

この野外やがい火葬かそうは、ビルケナウの大型おおがた火葬かそうじょう本格ほんかく稼働かどうすると中止ちゅうしされたが、1944ねん5がつはじまった、ハンガリーユダヤじん絶滅ぜつめつ作戦さくせんでは、あまりにも遺体いたいおおすぎたため、再度さいど野外やがい火葬かそうおこなって、それらの死体したい大半たいはん野外やがい焼却しょうきゃくすることとなった[17]

赤十字せきじゅうじ国際こくさい委員いいんかい(ICRC)とドイツ赤十字せきじゅうじ(DRK)[編集へんしゅう]

まずは「赤十字せきじゅうじ国際こくさい委員いいんかい(ICRC)」と「ドイツ赤十字せきじゅうじ(DRK)」[ちゅう 23]ちがいを簡単かんたんにでも必要ひつようがある。ICRCは中立ちゅうりつせい重視じゅうしした赤十字せきじゅうじ組織そしきで、世界中せかいじゅう紛争ふんそう地域ちいき介入かいにゅうおこなうことを目的もくてきとした国際こくさい機関きかんであり、本部ほんぶはスイスのジュネーブにかれている。一方いっぽうDRKは、ジュネーブ条約じょうやく締約ていやくこくのドイツにもうけられた各国かっこく赤十字せきじゅうじ組織そしき[ちゅう 24]であり、活動かつどう中心ちゅうしんはドイツ国内こくないである。とくに、戦時せんじちゅう両者りょうしゃはまったくのべつ組織そしきであり、ホロコーストを研究けんきゅうするにあたっては、どちらの赤十字せきじゅうじ作成さくせいした資料しりょうかを見極みきわめる必要ひつようがある。

かがやかしい歴史れきしのなかの汚点おてん (ICRC)[編集へんしゅう]

ICRC(赤十字せきじゅうじ国際こくさい委員いいんかい)のエンブレム
ドイツにらわれた戦争せんそう捕虜ほりょ対面たいめんするICRC委員いいん

スイスじん技術ぎじゅつしゃなどは戦時せんじちゅうもドイツ国内こくない自由じゆう移動いどうでき、強制きょうせい収容しゅうよう所内しょない細部さいぶについてはさておき、1938ねんごろよりのちにもたらされたドイツにかんする情報じょうほう赤十字せきじゅうじ国際こくさい委員いいんかい(ICRC)が注視ちゅうしせざるをないものであった。

かく強制きょうせい収容しゅうようしょすうおおくの援助えんじょ物資ぶっしおくつづけるが、ナチスの人道的じんどうてきおこないの調査ちょうさ実効じっこうてき手段しゅだんによる行動こうどうについては消極しょうきょくてきであった。理由りゆうとして、本部ほんぶ依拠いきょするスイスと当事とうじこくドイツが国境こっきょうせっし、産業さんぎょうでもつよむすびついていたことにより、永世えいせい中立ちゅうりつこくえどもナチスの動向どうこうには敏感びんかんにならざるをない状況じょうきょうであったこと、赤十字せきじゅうじ活動かつどうには原則げんそく当事とうじこく承諾しょうだく必要ひつようなため表立おもてだった非難ひなん状況じょうきょうをさらに困難こんなんにするとかんがえられていたこと、さらにジュネーブ条約じょうやく条項じょうこう一般いっぱん市民しみん文民ぶんみん保護ほごかんする規定きていがなかった[ちゅう 25]ことなどがげられる。

とくにスイス国益こくえきかんする問題もんだいおおきなあしかせであった。1942ねん当時とうじ、ICRC委員いいんでもあったスイス大統領だいとうりょうフィリップ・エッターは、断固だんこたる態度たいどしめすことに反対はんたいし、ICRC委員いいんちょうカール・ヤーコプ・ブルクハルトは、ファシズムよりも共産きょうさん主義しゅぎ拡大かくだいおそれ、その防波堤ぼうはていとなるナチスと国際こくさい社会しゃかい仲介ちゅうかいしゃであろうとした(ブルクハルトがドイツけいスイスじんであったことも関係かんけい)。このような状況じょうきょう強制きょうせい収容しゅうようしょおくまれた視察しさついんは、意図いとしてつくられた平和へいわてき光景こうけいまどわされることになる[ちゅう 26]

ICRCが実効じっこうてき手段しゅだんるようになったのは、ドイツの敗色はいしょく濃厚のうこうになり、いよいよのこりすべての収容しゅうようしゃ処刑しょけいしはじめようとした1945ねんから。おもだった強制きょうせい収容しゅうようしょにICRC委員いいんを"常駐じょうちゅう"させ監視かんしできるようになったことで、それまでおくつづけていた援助えんじょ物資ぶっし収容しゅうようしゃ確実かくじつとどきはじめ、あわせてえかけたいのちすくわれた。

1995ねん、ICRC委員いいんちょうコルネリオ・ソマルガは、アウシュヴィッツ解放かいほう50ねん周年しゅうねん式典しきてん出席しゅっせきするにあたり、当時とうじ対応たいおうあやまりをみと遺憾いかん表明ひょうめいした[ちゅう 27]

ナチスとう政権せいけんのドイツにまれた赤十字せきじゅうじ (DRK)[編集へんしゅう]

赤十字せきじゅうじはた
とう大会たいかい講演こうえんするカール・エドゥアルトDRK総裁そうさい(1936)

1933ねんにイギリスの王族おうぞく出身しゅっしんでナチス党員とういんカール・エドゥアルトもと公爵こうしゃくドイツ赤十字せきじゅうじ(DRK)の総裁そうさいしょくに(のち国会こっかい議員ぎいん兼任けんにん)、1937ねんにSS高級こうきゅう将校しょうこうエルンスト・ロベルト・グラーヴィッツ総裁そうさい代行だいこうしょくにそれぞれ就任しゅうにんしたことは、DRKがナチスまたはSSの一部いちぶきょくであることを象徴しょうちょうするものであり、組織そしき改編かいへん決定的けっていてきとなる。

赤十字せきじゅうじ基本きほん原則げんそくである「平等びょうどう」が破棄はきされるとともに、ナチスの標榜ひょうぼうする人種じんしゅてき抑圧よくあつ政策せいさくまれた。強制きょうせい収容しゅうようしょ人体じんたい実験じっけん選別せんべつは、間接かんせつてき関係かんけいしたというあいまいなものではなく、DRKの行為こういそのものであったとえる[ちゅう 28]

1945ねん4がつ、エルンスト・グラーヴィッツはベルリンが戦場せんじょうになるなか家族かぞくえにして手榴弾しゅりゅうだん自殺じさつ。カール・エドゥアルトはナチ裁判さいばん有罪ゆうざいとなり、おも罰金ばっきんせられるとともに、財産ざいさんのほとんどをソ連それん没収ぼっしゅうされた。赤十字せきじゅうじ崇高すうこう理念りねんはんするだけでなく、まさに利用りようしていたことは、くるしい時代じだいきた人々ひとびと信頼しんらいいちじるしく失墜しっついさせた。

解放かいほう[編集へんしゅう]

1944ねんれ、ソ連それんぐん接近せっきんともな強制きょうせい収容しゅうようしょおよび強制きょうせい労働ろうどうしゃあつかいが問題もんだいとなる。11月には、SSの一部いちぶきょく親衛隊しんえいたい人種じんしゅおよ移住いじゅう本部ほんぶ」が「強制きょうせい労働ろうどうしゃ管理かんり組織そしき独自どくじ判断はんだん処刑しょけいするように」との通達つうたつしている。これを産業さんぎょうかいは、みずからのけがすまいと強制きょうせい労働ろうどうしゃをSSに返還へんかんすることをめており、SS、産業さんぎょうかい双方そうほうに「解放かいほう」という姿勢しせいうけられない。

アウシュヴィッツ収容しゅうようしゃは、なおも活動かつどうするドイツ本国ほんごく強制きょうせい収容しゅうようしょ移送いそうか、処刑しょけいのいずれかであった。実際じっさいやく7,500めいが1945ねん1がつ27にち解放かいほうにとどまっており、これはソ連それんぐん急速きゅうそく接近せっきんによる混乱こんらん一部いちぶ証言しょうげんの「ドイツへくかのこるかえらぶことができた」といったような処置しょち[ちゅう 29]、さらには処刑しょけい移送いそうわなかったなどの可能かのうせいかんがえられる。移送いそうされた収容しゅうようしゃ合計ごうけい60,000にんのぼるとされるが、移送いそう途中とちゅうにもおおくがいのちとしている。移送いそうのこったものは、べつ強制きょうせい収容しゅうようしょれられるだけのことで、実際じっさい解放かいほうまでに数ヵ月すうかげつあいだたなければならなかった。[ちゅう 30][ちゅう 31]

現在げんざいのアウシュヴィッツ[編集へんしゅう]

アウシュヴィッツを訪問ほうもんするローマ教皇きょうこうベネディクト16せい

おおくの要人ようじん公式こうしき非公式ひこうしきにかかわらずこのおとずれている。いちれいとして、1979ねんにはポーランド出身しゅっしんのローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいが、2006ねん5がつ28にちにはベネディクト16せい訪問ほうもんしている。ベネディクト16せいは「このゆう大量たいりょう殺戮さつりくがあったことは、キリスト教徒きりすときょうととして、ドイツじん教皇きょうこうとしてがたいことだ」とべた。

2016ねんにはフランシスコ訪問ほうもんし「惨劇さんげきでは言葉ことば無用むよう」と「かべ」のぜんや「せいコルベの監獄かんごく」のなか黙祷もくとうした。年間ねんかんつうイスラエルじん学生がくせい修学旅行しゅうがくりょこうのルートになっている。

日本にっぽんからの訪問ほうもんえており、おおくても200にん程度ていどだった年間ねんかん訪問ほうもんしゃ近年きんねんは5,000にんえた。なお、日本にっぽん国内こくないにはアウシュヴィッツ博物館はくぶつかんから展示てんじぶつゆずけた「アウシュヴィッツ平和へいわ博物館はくぶつかん」が福島ふくしまけん白河しらかわにある。

アウシュヴィッツの死亡しぼうしゃすうについて[編集へんしゅう]

おびただしいかず眼鏡めがねフレーム。収容しゅうようさい没収ぼっしゅうされたもの(アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん展示てんじ)
くつやま女性じょせいもののサンダルもふくまれている。(アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん展示てんじ)
慰霊いれい碑文ひぶん(オランダ)。「この永遠えいえん絶望ぜつぼうさけびとし、人類じんるいへの警告けいこくとせよ。ナチスはここで、ヨーロッパ各国かっこくのユダヤじん中心ちゅうしんに、およそ150まんにん男女だんじょ子供こども殺害さつがいした」(アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん

ニュルンベルク裁判さいばんでは、起訴きそじょうにおいて「アウシュビッツではやく400まんにん絶滅ぜつめつされ」と記述きじゅつされていた[18]が、判決はんけつぶんでは「400まんにん」はれられず、アウシュヴィッツ収容しゅうようしょ司令しれいかんだったルドルフ・ヘスが「アウシュヴィッツ収容しゅうようしょだけで250まんにん絶滅ぜつめつされ、さらに50まんにん病気びょうき飢餓きが死亡しぼうしたと見積みつもっている」と証言しょうげんしていたとして記載きさいされただけだった[19]

アウシュヴィッツ国立こくりつ博物館はくぶつかん記念きねん石碑せきひには「400まんにん」と記載きさいされていたが、1990ねん撤去てっきょされ、1995ねんに「150まんにん」にあらためられた。これは、アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん歴史れきし部門ぶもん責任せきにんしゃだったフランシスチェク・ピーパー博士はかせによる犠牲ぎせいしゃすう研究けんきゅう結果けっかれたものであり、「150まんにん」はその犠牲ぎせいしゃすう推計すいけい誤差ごさふくめた最大さいだいである。ただし、ピーパーの研究けんきゅう成果せいかとして一般いっぱんてきみとめられているアウシュヴィッツ収容しゅうようしょ犠牲ぎせいしゃすう110まんにんである[20]

アウシュヴィッツ博物館はくぶつかん公式こうしきページには、「すくなくとも130まんにん収容しゅうようしょ強制きょうせい送還そうかんされ、そのうちすくなくとも110まんにん死亡しぼうした。死亡しぼうしゃすうは150まんにんともわれている」と記載きさいされている[21]

終戦しゅうせん直後ちょくごの1945ねん当時とうじソ連それん主張しゅちょうした400まんにんというかずは、ニュルンベルク裁判さいばんソ連それんから提出ていしゅつされた、ソ連それん戦争せんそう犯罪はんざい調査ちょうさ委員いいんかい作成さくせいしたとされるアウシュヴィッツ収容しゅうようしょかんする報告ほうこくしょ[22]記載きさいされているものであるが、この400まんにんという犠牲ぎせいしゃすうは、複数ふくすうもと囚人しゅうじん証言しょうげんしている数字すうじでもあり[23] [24]ソ連それん報告ほうこくしょでは火葬かそう能力のうりょくからの推計すいけいとなっているものの、その火葬かそう能力のうりょく自体じたい算定さんてい根拠こんきょ記載きさいがないことや、アウシュヴィッツに強制きょうせい移送いそうされたそれら追放ついほうしゃかずもまったくしめしていないことなどから、それらもと囚人しゅうじん証言しょうげんにある「400まんにん」を採用さいようしたのではないかと推測すいそくされる。

なお、ニュルンベルク裁判さいばん法廷ほうていでは、司令しれいかんルドルフ・ヘスは「250まんにん」(と餓死がし病死びょうしによる死者ししゃすう50まんにん)と証言しょうげんしていたが、ニュルンベルク裁判さいばんでの勾留こうりゅうちゅうに、囚人しゅうじん心理しんり観察かんさつおこなっていたグスタフ・ギルバートにたいしてヘスは自分じぶん自身じしん推計すいけいとして「最大さいだいでも150まんにん」とかたっており[25]、ポーランドでの勾留こうりゅうちゅうかれた自身じしん回想かいそうろくでは合計ごうけい113まんにん」の犠牲ぎせいしゃすうべている。また、ヘスはニュルンベルク裁判さいばん回想かいそうろくで、「250まんにん」はアイヒマン(あるいはアイヒマンの代理だいりであるギュンター)がかたったものだと明確めいかくべており、ベルリン包囲ほうい直前ちょくぜんに、親衛隊しんえいたい強制きょうせい収容しゅうようしょ総監そうかんであったリヒャルト・グリュックス親衛隊しんえいたい中将ちゅうじょうにアイヒマンがそうかたっているのをたからだ、とべている[26]

これら以外いがいのアウシュヴィッツの死亡しぼうしゃすう推定すいていについて記載きさいする。

125まんにんせつ ラウル・ヒルバーグRaul Hilberg)による。

「100まんにん」のユダヤじんと「25まんにん」のユダヤじん合計ごうけい「125まんにん」がころされた[27] [28]

120まんにんせつ

ユネスコの世界せかい遺産いさん登録とうろくされた人数にんずう。(2007ねん[よう出典しゅってん]


80まんから90まんにんせつ

ジェラルド・ライトリンガー(Gerald Reitlinger)による [27][28]

63まんにんから71まんにんせつ

ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)による。 (そのうちガスしつ犠牲ぎせいしゃは47まんにんから55まんにんであった) [27][28]

50まんにんせつ

フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)による。 (そのうちガスしつ犠牲ぎせいしゃは35まんにんであった) [27][28]

15まんにん以下いかせつ(そのうちやく10まんにんがユダヤじん

アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz) 「死亡しぼうしゃは15まんにんたっし、そのうち10まんがユダヤじんであった。かれらはころされたのではない。病気びょうきにより死亡しぼうしたのである。」[28]

カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno)13まん5500にんせつ(2023ねん[27]、など歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎしゃによる。

終戦しゅうせん直後ちょくごの1945ねん当時とうじソ連それん主張しゅちょうした400まんにんというかずは、当時とうじナチ影響えいきょうつよけていると認識にんしきされている。同様どうよう近年きんねんにおいても、あらたに主張しゅちょうされる死亡しぼうしゃすうおおすくないにかかわらず政治せいじまたは宗教しゅうきょうてき背景はいけい影響えいきょうされていることがおおい。たとえば、イスラム教徒きょうとはんユダヤ主義しゅぎしゃとの接触せっしょくうたがわれる「歴史れきし見直みなお研究所けんきゅうじょ」は15まんにんという数値すうちかかげている。このような問題もんだい根本こんぽんには「絶対ぜったいてき数値すうち今後こんごられる可能かのうせいひくく、主張しゅちょうすることによって自己じこまたはぞくする集団しゅうだん利益りえき有利ゆうりはたらく」という事情じじょうげられる。[よう出典しゅってん]

否認ひにん主義しゅぎ(または修正しゅうせい主義しゅぎ[編集へんしゅう]

アウシュヴィッツ=ビルケナウにおける虐殺ぎゃくさつ自体じたいや、その人数にんずう規模きぼうたがせつがある。

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

1979ねんだいいちだい強制きょうせい収容しゅうようしょ遺構いこうだい世界せかい大戦たいせんにおける悲劇ひげき証拠しょうこであり後世こうせいかたぐべきものとして、ユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。日本にっぽんでは、いわゆる「まけ世界せかい遺産いさん」にげられる。

登録とうろく基準きじゅん[編集へんしゅう]

この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (6) 顕著けんちょ普遍ふへんてき意義いぎゆうする出来事できごと現存げんそんする伝統でんとう思想しそう信仰しんこうまたは芸術げいじゅつてき文学ぶんがくてき作品さくひん直接ちょくせつにまたは明白めいはく関連かんれんするもの(この基準きじゅん基準きじゅんわせてもちいるのがのぞましいと世界せかい遺産いさん委員いいんかいかんがえている)。

改名かいめい提案ていあん[編集へんしゅう]

かねてからポーランド政府せいふは「ポーランドじんつくったかのような印象いんしょうあたえる」として登録とうろく名称めいしょう変更へんこう要請ようせいしており、ユネスコ世界せかい遺産いさん委員いいんかいは2007ねん6がつ27にちに「アウシュヴィッツ強制きょうせい収容しゅうようしょ」から「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制きょうせい絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょ(1940ねん-1945ねん」へ変更へんこうした。

おも人物じんぶつ五十音ごじゅうおんじゅん[編集へんしゅう]

収容しゅうようしゃ[編集へんしゅう]

獄死ごくしした人物じんぶつ
  • アルマ・ロゼ音楽家おんがくか。アウシュヴィッツのオーケストラを指揮しき。1944ねん4がつ4にち死亡しぼう死因しいん中毒ちゅうどくかれ日記にっきによると、「いたい!いたいとさけんでいた。ホロコーストは、ユダヤじん家畜かちくのようにねとうのとおなじ」とある。
  • アンネ・フランク:「アンネの日記にっき原作げんさくしゃ両親りょうしんあねふくむ、かく生活せいかつでの同居どうきょじんたちとともに移送いそうされてて、アウシュヴィッツに2ヵ月かげつあいだ収容しゅうようされる。さい移送いそうさきベルゲン・ベルゼン強制きょうせい収容しゅうようしょでチフスをわずらい1945ねん3がつごろ死亡しぼうちちオットーはアウシュヴィッツにとどまったが、かく生活せいかつでの同居どうきょ人中ひとなか唯一ゆいいつ生還せいかんしゃとなる。同居どうきょじんなかでは、ヘルマン・ファン・ペルスははエーディトが、どう収容しゅうようしょ死亡しぼう
  • ヴィクトル・ウルマン : 作家さっかかれ音楽おんがくはナチスドイツに頽廃たいはい音楽おんがくとレッテルをられ弾圧だんあつされた。1944ねん10がつ18にち殺害さつがいされたとされている。また、息子むすこペーデターとつまミールは、ガスしつころされた。
  • エーディト・シュタイン聖職せいしょくしゃ。1942ねん8がつ9にち実姉じっしとともにガスしつ処刑しょけい。1998ねん聖人せいじんれっせられた。
  • エルゼ・ベルク:オランダじん画家がかおっとモミー・シュワルツ英語えいごばんとともに1942ねん11月19にち殺害さつがいされた。
  • ギデオン・クライン音楽家おんがくか。アウシュヴィッツに収容しゅうようされていた時期じきもある。1945ねん1がつごろ強制きょうせい収容しゅうようしょ死亡しぼう
  • タデウシュ・タンスキ : 自動車じどうしゃ技術ぎじゅつしゃポーランド指導しどうそう知識ちしき階級かいきゅう対象たいしょうとしたAB行動こうどうとき逮捕たいほされ1941ねん3がつ23にち死去しきょ
  • ドーラ・ジェルソン女性じょせい歌手かしゅ。1943ねん2がつアウシュヴィッツにて死亡しぼう
  • パヴェル・ハース音楽家おんがくか。テレジン強制きょうせい収容しゅうようしょからアウシュヴィッツに移送いそうどう強制きょうせい収容しゅうようしょにて1944ねん10がつ17にち死亡しぼう
  • ハンス・クラーサ音楽家おんがくか作品さくひんには児童じどうオペラ「ブルンジバル」がある。チェコのテレジン強制きょうせい収容しゅうようしょからアウシュヴィッツに移送いそう直後ちょくごの1944ねん10月17にち、ガスしつ処刑しょけい
  • ハンナ・ブレイディ:「ハンナのかばん」主人公しゅじんこう。チェコのテレジン強制きょうせい収容しゅうようしょから実兄じっけいがいるアウシュヴィッツに移送いそうされる。13さいおさな少女しょうじょ労働ろうどうりょくとはみとめられず、1944ねんごろ処刑しょけい
  • マキシミリアノ・コルベ聖職せいしょくしゃ脱走だっそうしゃたための連帯れんたい責任せきにん餓死がしけい宣告せんこくされた収容しゅうようしゃ身代みがわりとなる。1982ねん聖人せいじんれっせられる。
  • マルツェル・テュベルク : 作曲さっきょく。テュベルクはカトリックであったが、母方ははかた高祖父こうそふがユダヤじんであったために16ぶんの1ユダヤじんとして逮捕たいほされ、ドイツにわたされた。1944ねん12月31にち死亡しぼうしたと記録きろくされている。
  • モミー・シュワルツ : 画家がか・エルゼ・ベルクのおっとつまエルゼ・ベルクとともに逮捕たいほされ、1942ねん11月19にち殺害さつがいされた。
戦後せんご解放かいほうされた人物じんぶつ
シモーヌ・ヴェイユ
脱獄だつごく

人物じんぶつ

加害かがいしゃてき立場たちばでアウシュヴィッツに関与かんよした人物じんぶつ[編集へんしゅう]

イルマ・グレーゼ

その[編集へんしゅう]

アウシュヴィッツにかんする作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが小説しょうせつ・ドラマ[編集へんしゅう]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

漫画まんが[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「アウシュビッツ」と表記ひょうきしている日本にっぽん歴史れきし教科書きょうかしょもある。たとえば、『中学ちゅうがく社会しゃかい 歴史れきし』(教育きょういく出版しゅっぱん株式会社かぶしきがいしゃ文部省もんぶしょう検定けんていずみ教科書きょうかしょ中学校ちゅうがっこう社会しゃかいよう平成へいせい8ねん2がつ29にち文部省もんぶしょう検定けんていずみ平成へいせい10ねん1がつ10日とおか印刷いんさつ平成へいせい10ねん1がつ20日はつか発行はっこう教科書きょうかしょ番号ばんごう17きょう歴史れきし762)p 255では「また, 各国かっこくのユダヤじんは, ユダヤじんであるという理由りゆうだけでアウシュビッツなどの強制きょうせい収容しゅうようしょれられて虐殺ぎゃくさつされた。」と記載きさいされている。
  2. ^ 東部とうぶ併合へいごう地域ちいきからすべてのユダヤじんと300-400まんにんおよポーランドけいユダヤじん移送いそうし、わりに20 まんのドイツじん入植にゅうしょくさせる計画けいかく
  3. ^ アンネの日記にっき」「ハンナのかばん」などが著名ちょめい
  4. ^ 前記ぜんき収容しゅうよう理由りゆう以外いがいに、労働ろうどうしゃ一般いっぱん募集ぼしゅうおこない、工場こうじょうなどへ派遣はけんしていた。労働ろうどうりょく不足ふそく顕著けんちょになってからは、募集ぼしゅうのほかに、強制きょうせいてき占領せんりょう住民じゅうみん連行れんこうするようになる。
  5. ^ 戦況せんきょう悪化あっかして労働ろうどうりょく確保かくほむずかしくなると、人道的じんどうてき観点かんてんからではなく、生産せいさんとさないために労働ろうどうしゃさい生産せいさんについて考慮こうりょされるようになるが、同時どうじ食料しょくりょう自給じきゅう悪化あっかしており、結局けっきょくは、よりきびしい状況じょうきょう労働ろうどうしゃはおかれるだけであった。
  6. ^ 終戦しゅうせん直後ちょくごソ連それんは「400まんにん虐殺ぎゃくさつされた」と発表はっぴょうしたが、現在げんざいでは誇張こちょう可能かのうせいたかいとるむきがつよい。ビルケナウ強制きょうせい収容しゅうようしょあとにある慰霊いれいきざまれた死亡しぼうしゃすうは、東西とうざい冷戦れいせん終結しゅうけつの1995ねんに「400まんにん」から「150まんにん」にあらためられ、世界せかい遺産いさん登録とうろくしたユネスコの2007ねん6がつ28にちのリリースには「120まんにん」と記載きさいされている。近年きんねん客観きゃっかんてき研究けんきゅう結果けっかまえて死亡しぼうしゃ総数そうすう減少げんしょうしたが、収容しゅうようしゃ総数そうすう同様どうよう確定かくていてき数値すうち把握はあくにはいたっていない
  7. ^ かぶ会社かいしゃのドイツ経済けいざい企業きぎょう有限ゆうげん会社かいしゃ(DWB)、ドイツ装備そうびひん産業さんぎょう有限ゆうげん会社かいしゃ (DAW)、ドイツ食糧しょくりょう試験しけんしょがSSの運営うんえいする企業きぎょう。ドイツ食糧しょくりょう試験しけんしょダッハウ強制きょうせい収容しゅうようしょ調味ちょうみりょう確保かくほのためのハーブ栽培さいばい施設しせつつくったことでもられる。
  8. ^ 1940ねん1がつ現在げんざい工場こうじょうすう
  9. ^ アウシュヴィッツ全体ぜんたい管理かんりする組織そしきかれていたため、基幹きかん収容しゅうようしょばれる。
  10. ^ 1943ねん12がつまで所長しょちょうとして強制きょうせい収容しゅうようしょ指揮しき後任こうにんアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任こうにん最後さいご所長しょちょうリヒャルト・ベーア戦後せんごフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判さいばん被告ひこくとなるが収監しゅうかんちゅう死亡しぼう)。
  11. ^ 当初とうしょ「ブナ収容しゅうようしょ」とばれていたが、1944ねん以降いこうは「モノヴィッツ収容しゅうようしょ」に改称かいしょう
  12. ^ 3ねん脱出だっしゅつし、アウシュヴィッツの証言しょうげんしゃとなったカジミェシ・アルビンふくまれていた。
  13. ^ 戦後せんご、ユダヤじんがイーゲー・ファルベンしゃたいしてこした損害そんがい賠償ばいしょう慰謝いしゃりょうもとめる民事みんじ訴訟そしょうは1957ねん和解わかい成立せいりつ和解わかいきんとして3,000まんマルクが(このうち2,700まんマルクがユダヤじん団体だんたいに、300まんマルクがユダヤじん強制きょうせい労働ろうどうしゃに)支払しはらわれている。
  14. ^ BASFしゃバイエルしゃヘキストしゃの3しゃ分割ぶんかつされた。
  15. ^ 正面しょうめん」「正面しょうめん視線しせんを(撮影さつえいしゃからて)左上ひだりうえげたもの」「横向よこむき」の写真しゃしん撮影さつえいされた。
  16. ^ 「Herbert, Geschichte der Ausländerpolitik, S.154.」ではさらこまかく分類ぶんるいしている。「だいいちにドイツじんつづいて西欧せいおう労働ろうどうしゃ(フランスじん市民しみん労働ろうどうしゃつづいてベルギー、オランダじん労働ろうどうしゃ)、そしてつづいてドイツと同盟どうめいあるいは従属じゅうぞく関係かんけいにある南東なんとうヨーロッパ出身しゅっしん労働ろうどうしゃ(ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、つぎにチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身しゅっしん労働ろうどうしゃ、そしてポーランドじん最後さいごソ連それんじん、(1943ねんイタリア降伏ごうぶくは)イタリアじん最下さいかそうにはユダヤじん位置いちしていた」。
  17. ^ 例外れいがいてきなケースとしてフィリップ・ミューラーけんげられる。かれ自身じしん証言しょうげんによれば1942ねんはるから年末ねんまつまでゾンダーコマンドであったが、のちべつ労働ろうどううつることになりのこることができたとしている。かれはニュルンベルク裁判さいばん証言しょうげんだいった。
  18. ^ あらそいをけるため収容しゅうようしゃあいだでパンくずりょうまではかって配分はいぶんしたという証言しょうげんもある[4]
  19. ^ かく労働ろうどうしゃ労働ろうどうりょくを3つのランク(ランク1. 一般いっぱんてきドイツじん業績ぎょうせきの100%以上いじょう、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下いか)いずれかに評価ひょうかし、ランクによる配給はいきゅう制度せいど産業さんぎょうかい生産せいさんせい向上こうじょう目的もくてき労働ろうどうしゃさい生産せいさん環境かんきょう向上こうじょうを1943ねんごろよりもとめている。背景はいけいには、食料しょくりょう自給じきゅうじょうきょう悪化あっかのほかに、東部とうぶ戦線せんせん停滞ていたいさらには、ソ連それんぐん反攻はんこうによる労働ろうどうりょく確保かくほまりがげられる。
  20. ^ たとえば、スラブじんたいしては、最低さいていレベルにぞくするドイツじん労働ろうどうしゃのさらに半分はんぶんなどと規定きていされていた。
  21. ^ のち聖人せいじんれっせられたマキシミリアノ・コルベ神父しんぷは、他人たにん身代みがわりとしてこの餓死がしろうはいっている。
  22. ^ 絞首刑こうしゅけいには移動いどうしき絞首刑こうしゅけいだいなどももちいられた。せしめによる精神せいしんてき抑圧よくあつだいいち目的もくてきとしているとえる。
  23. ^ バイエルン赤十字せきじゅうじ(BRK)もこれにふくまれる。
  24. ^ 日本にっぽん赤十字せきじゅうじ東京とうきょう支部しぶ」に概要がいよう
  25. ^ 1949ねん改定かいていだい4こう)。
  26. ^ もと視察しさついんモーリス・ロッセルはBBCのインタビューにたいし、強制きょうせい収容しゅうようしょ状況じょうきょうみずからの安全あんぜん考慮こうりょしたうえ直接ちょくせつ現地げんちから"正直しょうじき"に報告ほうこくすることのむずかしさをべている。
  27. ^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューにたいし、スイスの国政こくせいにかかわる人間にんげんがICRC委員いいんであったことに問題もんだいがあったともべている。
  28. ^ 1939ねんから1941ねん実施じっしされたT4作戦さくせんにも関与かんよした。
  29. ^ ただし、ナチスはドイツ国内こくない民族みんぞく(スラブじんなど)が労働ろうどうすることを許可きょかしない傾向けいこうにあり、もしこのような処置しょちがあったとしてもすべての収容しゅうようしゃたいしてとはかんがえにくい。また、当時とうじからソ連それん体制たいせいたいする恐怖きょうふ一般いっぱん大衆たいしゅうすくなからずあったことも事実じじつであり、自主じしゅてき選択せんたくはもちろん、強制きょうせい収容しゅうようしょという特殊とくしゅ環境かんきょうにおいてこの恐怖きょうふ利用りようしてドイツ移送いそう誘導ゆうどうてき承諾しょうだくさせたともかんがえられる(ストックホルム症候群しょうこうぐん)。
  30. ^ アウシュヴィッツなどの強制きょうせい収容しゅうようしょから解放かいほうされ帰還きかんしたソ連それんへい捕虜ほりょ一般いっぱんソ連それんじん(ソ連邦それんぽうぞくする人々ひとびと)のおおくは、てき協力きょうりょくした反逆はんぎゃくしゃとしてソ連それんによって教化きょうか施設しせつ(強制きょうせい労働ろうどう施設しせつ)におくられることになる。
  31. ^ 強制きょうせい収容しゅうようしょのこり、ソ連それんぐん解放かいほうされた人々ひとびとについてもかならずしも安全あんぜん保障ほしょうされたわけではなかったとする証言しょうげんもある。ソ連それん解放かいほうからやくひとがつあいだ連合れんごう諸国しょこくがアウシュヴィッツにることを許可きょかしなかった。このことがのちにさまざまな疑念ぎねんむひとつの原因げんいんにもなる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 世界せかい遺産いさんアカデミー監修かんしゅう (2012) 『すべてがわかる世界せかい遺産いさんだい事典じてんうえマイナビ、p.23
  2. ^ a b 早乙女さおとめ(1980)p.15
  3. ^ 早乙女さおとめ(1980)p.32
  4. ^ 『アウシュビッツの沈黙ちんもくはなもときよし 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2008ねん
  5. ^ 『アウシュビッツ博物館はくぶつかん案内あんない中谷なかたにつよし 凱風社がいふうしゃ 2005ねん
  6. ^ アウシュヴィッツ徹底てっていガイド 6号棟ごうとうその2「日々ひび生活せいかつArchived 2007ねん12月17にち, at the Wayback Machine.
  7. ^ ヘス 2019.
  8. ^ フォルクハルト クニッゲ; しば雅子まさこ (2008). “「最終さいしゅうてき解決かいけつ」の技術ぎじゅつしゃたち”. 国際こくさい研究けんきゅう論叢ろんそう : 大阪国際大学おおさかこくさいだいがく紀要きよう 21 (3). http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/. 
  9. ^ PRESSAC 1989, p. 151.
  10. ^ PRESSAC 1989, pp. 132–133.
  11. ^ PRESSAC 1989, p. 183.
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  14. ^ ヘス 2019, p. 297.
  15. ^ a b ヘス 2019, p. 388.
  16. ^ a b ヘス 2019, p. 389.
  17. ^ ヘス 2019, p. 396.
  18. ^ https://avalon.law.yale.edu/imt/count3.asp About 1,500,000 persons were exterminated in Maidanek and about 4,000,000 persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, France, and other countries.
  19. ^ https://avalon.law.yale.edu/imt/judwarcr.asp With regard to Auschwitz, the Tribunal heard the evidence of Hoess, the Commandant of the camp from 1st May, 1940, to 1st December, 1943. He estimated that in the camp of Auschwitz alone in that time 2,500,000 persons were exterminated, and that a further 500,000 died from disease and starvation.
  20. ^ Estimating the number of deportees to and victims of the Auschwitz-Birkenau camp, Franciszek Piper
  21. ^ https://www.auschwitz.org/en/history/kl-auschwitz-birkenau/the-topography-of-the-camp/ At least 1,300,000 people were deported to the camp, of whom at least 1,100,000 perished. Some estimates of the number killed are as high as 1,500,000.
  22. ^ Translation of USSR-8 Soviet War Crimes Report on Auschwitz Nuremberg Trial - 6 May 1945
  23. ^ ヘンリク・タウバーの証言しょうげん"I estimate that the total number of people who were gassed in Auschwitz amounts to about four million."(わたしは、アウシュビッツでガス処刑しょけいされた人々ひとびと総数そうすうやく400まんにんたっすると推定すいていしている)
  24. ^ シュロモ・ドラゴンの証言しょうげん "I believe that the number of people gassed in both bunkers and the four crematoria was over four million."(わたしは、ブンカーと4つの火葬かそうじょう両方りょうほうでガス処刑しょけいされたひとかずは400まんにんえるとかんがえている)
  25. ^ The Van Pelt Report by Robert Jan van Pelt
  26. ^ ヘス 2019, p. 399.
  27. ^ a b c d e Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P127
  28. ^ a b c d e How many deaths at Auschwitz?

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]