この
記事 きじ には
暴力 ぼうりょく 的 てき または
猟奇 りょうき 的 てき な
記述 きじゅつ ・
表現 ひょうげん が
含 ふく まれています。
免責 めんせき 事項 じこう もお読 よ みください。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ (アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語 ご : Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 、ポーランド語 ご : Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau )は、ナチス・ドイツ が第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか に国家 こっか を挙 あ げて推進 すいしん した人種 じんしゅ 差別 さべつ による絶滅 ぜつめつ 政策 せいさく (ホロコースト )および強制 きょうせい 労働 ろうどう により、最大 さいだい 級 きゅう の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ した強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ である。収容 しゅうよう 者 しゃ の90%がユダヤ人 じん (アシュケナジム )であった。
アウシュヴィッツ第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ は、ドイツ占領 せんりょう 地 ち のポーランド 南部 なんぶ オシフィエンチム 市 し (ドイツ語 ご 名 めい アウシュヴィッツ[注 ちゅう 1] )に、アウシュヴィッツ第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ は隣接 りんせつ するブジェジンカ 村 むら (ドイツ語 ご 名 めい ビルケナウ)に作 つく られた。周辺 しゅうへん には副 ふく 収容 しゅうよう 所 しょ が50箇所 かしょ 程度 ていど 存在 そんざい した。ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん 委員 いいん 会 かい は、二度 にど と同 おな じような過 あやま ちが起 お こらないようにとの願 ねが いを込 こ めて、1979年 ねん に世界 せかい 遺産 いさん リストに登録 とうろく した。公式 こうしき な分類 ぶんるい ではないが、日本 にっぽん ではいわゆる「負 まけ の世界 せかい 遺産 いさん 」に分類 ぶんるい されることがしばしばである[1] 。一部 いちぶ 現存 げんそん する施設 しせつ は「アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん (en:Auschwitz-Birkenau State Museum )」(以降 いこう 、「アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん 」と表記 ひょうき )が管理 かんり ・公開 こうかい している。
この項 こう では、これらのアウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ 群 ぐん 全体 ぜんたい について述 の べる。
アドルフ・ヒトラー 率 ひき いるドイツが行 おこな ったホロコースト の象徴 しょうちょう と言 い われる「アウシュヴィッツ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 」とは、1940年 ねん から1945年 ねん にかけてドイツが占領 せんりょう 下 か においた現在 げんざい のポーランド南部 なんぶ オシフィエンチム市 し 郊外 こうがい に作 つく られた、強制 きょうせい 的 てき な収容 しゅうよう が可能 かのう な施設 しせつ 群 ぐん (List of subcamps of Auschwitzに一覧 いちらん )の総称 そうしょう である。ソ連 それん への領土 りょうど 拡張 かくちょう をも視野 しや に入 い れた「東部 とうぶ ヨーロッパ地域 ちいき の植民 しょくみん 計画 けいかく 」[注 ちゅう 2] を推 お し進 すす め、併 あわ せて占領 せんりょう 地 ち での労働 ろうどう 力 りょく 確保 かくほ および民族 みんぞく 浄化 じょうか のモデル施設 しせつ として建設 けんせつ 、その規模 きぼ を拡大 かくだい させていった。
地政学 ちせいがく 的 まと には「ヨーロッパの中心 ちゅうしん に位置 いち する」「鉄道 てつどう の接続 せつぞく が良 よ い」「工業 こうぎょう に欠 か かせない炭鉱 たんこう や石灰 せっかい の産地 さんち が隣接 りんせつ する」「もともと軍馬 ぐんば の調教 ちょうきょう 場 じょう であり、広 ひろ い土地 とち の確保 かくほ が容易 ようい 」など、広範 こうはん なドイツ占領 せんりょう 下 か および関係 かんけい の国々 くにぐに から膨大 ぼうだい な数 かず の労働 ろうどう 力 りょく を集 あつ め、戦争 せんそう 遂行 すいこう に欠 か かせない物資 ぶっし の生産 せいさん を行 おこな うのに適 てき していると言 い える。また、次第 しだい に顕著 けんちょ となったアーリア人 じん 至上 しじょう 主義 しゅぎ に基 もと づいた「アーリア人 じん 以外 いがい をドイツに入国 にゅうこく させない」といった政策 せいさく がドイツ国内 こくない の収容 しゅうよう 所 しょ の閉鎖 へいさ を推 お し進 すす め、ポーランドに大 だい 規模 きぼ な強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ を建設 けんせつ する要因 よういん にもなった。
労働 ろうどう 力 りょく 確保 かくほ の一方 いっぽう で、労働 ろうどう に適 てき さない女性 じょせい ・子供 こども ・老人 ろうじん 、さらには「劣等 れっとう 民族 みんぞく 」を処分 しょぶん する「絶滅 ぜつめつ 収容 しゅうよう 所 しょ 」としての機能 きのう も併 あわ せ持 も つ[注 ちゅう 3] (参考 さんこう :ホロコースト ・ホロコースト否認 ひにん )。
収容 しゅうよう されたのは、ユダヤ人 じん をはじめ、政治 せいじ 犯 はん 、ロマ ・シンティ (ジプシー )、精神 せいしん 障害 しょうがい 者 しゃ 、身体 しんたい 障害 しょうがい 者 しゃ 、同性愛 どうせいあい 者 もの 、捕虜 ほりょ 、聖職 せいしょく 者 しゃ 、エホバの証人 しょうにん 、さらにはこれらを匿 かくま った者 もの など。その出身 しゅっしん 国 こく は28に及 およ ぶ。ドイツ本国 ほんごく の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 閉鎖 へいさ による流入 りゅうにゅう や、1941年 ねん を境 さかい にして顕著 けんちょ になった強引 ごういん な労働 ろうどう 力 りょく 確保 かくほ (強制 きょうせい 連行 れんこう )[注 ちゅう 4] により規模 きぼ を拡大 かくだい 。ピーク時 じ の1943年 ねん にはアウシュヴィッツ全体 ぜんたい で14万 まん 人 にん が収容 しゅうよう されている。
なお1942年 ねん 初 はじ めには、イギリス のBBC はラジオ で「ユダヤ人 じん がヨーロッパ内部 ないぶ の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られ、多数 たすう が殺害 さつがい されている」と報 ほう じているが、同 おな じ連合 れんごう 国 こく のアメリカ では、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の存在 そんざい については犯罪 はんざい 者 しゃ 隔離 かくり 施設 しせつ であるかのように見 み せかけるドイツの計画 けいかく がうまくいったためか、大戦 たいせん 終結 しゅうけつ まで殆 ほとん ど報 ほう じられぬままであった。
たとえ労働 ろうどう 力 りょく として認 みと められ、収容 しゅうよう されたとしても多 おお くは使 つか い捨 す てであり、非常 ひじょう に過酷 かこく な労働 ろうどう を強 し いられた。理由 りゆう として、
ナチス党 とう が掲 かか げるアーリア人 じん による理想郷 りそうきょう 建設 けんせつ における諸 しょ 問題 もんだい (ユダヤ人 じん 問題 もんだい など )の解決 かいけつ 策 さく が確立 かくりつ されるまで、厳 きび しい労働 ろうどう や懲罰 ちょうばつ によって社会 しゃかい 的 てき 不適合 ふてきごう 者 しゃ や劣等 れっとう 種族 しゅぞく が淘汰 とうた されることは、前 ぜん 段階 だんかい における解決 かいけつ の一 いち 手段 しゅだん として捉 とら えられていたこと
領土 りょうど 拡張 かくちょう が順調 じゅんちょう に進 すす んでいる間 あいだ は労働 ろうどう 力 りょく は豊富 ほうふ にあり、個々 ここ の労働 ろうどう 者 しゃ の再 さい 生産 せいさん 性 せい 確保 かくほ (必要 ひつよう な栄養 えいよう や休養 きゅうよう をとらせるなど)は一切 いっさい 考慮 こうりょ されなかったこと[注 ちゅう 5]
1941年 ねん 末 まつ の東部 とうぶ 戦線 せんせん の停滞 ていたい に端 はし を発 はっ した危急 ききゅう の生産 せいさん 体制 たいせい 拡大 かくだい の必要 ひつよう 性 せい と、戦災 せんさい に見舞 みま われたドイツの戦後 せんご 復興 ふっこう および壮麗 そうれい な都市 とし 建設 けんせつ 計画 けいかく など、戦中 せんちゅう と戦後 せんご を見越 みこ した需要 じゅよう に対 たい し、膨大 ぼうだい な労働 ろうどう 力 りょく を充 あ てる必要 ひつよう があったこと
などが挙 あ げられる。
併 あわ せて、劣悪 れつあく な住環境 じゅうかんきょう や食糧 しょくりょう 事情 じじょう 、蔓延 まんえん する伝染 でんせん 病 びょう 、過酷 かこく 懲罰 ちょうばつ や解放 かいほう 直前 ちょくぜん に数次 すうじ にわたって行 おこな われた他 ほか の収容 しゅうよう 所 しょ への移送 いそう の結果 けっか 、9割 わり 以上 いじょう が命 いのち を落 お としたとされる[注 ちゅう 6] 。生存 せいぞん は、1945年 ねん 1月 がつ の第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 解放 かいほう 時 じ に取 と り残 のこ されていた者 もの と、解放 かいほう 間際 まぎわ に他 た の収容 しゅうよう 所 しょ に移送 いそう されるなどした者 もの を合 あわ せても50,000人 にん 程度 ていど だったと言 い われている。
すべての強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ は、ナチス親衛隊 しんえいたい (SS) の全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ であったハインリヒ・ヒムラー によって、SSの下 した に集約 しゅうやく されており、SSが企業 きぎょう 母体 ぼたい [注 ちゅう 7] となる400以上 いじょう [注 ちゅう 8] にも上 のぼ るレンガ工場 こうじょう はもとより、1941・1942年 ねん 末 まつ 以降 いこう の軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう も体系 たいけい 化 か された強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の労働 ろうどう 力 りょく を積極 せっきょく 的 てき に活用 かつよう 。敗戦 はいせん 後 ご は、SSのみならず多 おお くのドイツ企業 きぎょう が「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」を理由 りゆう に連合 れんごう 国 こく などによって裁 さば かれた。
「ARBEIT MACHT FREI(ドイツ
語 ご で
働 はたら けば自由 じゆう になるの
意味 いみ )」と
記 しる された、
第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の
門 もん のアーチ。
「B」のプレートのみ
明 あき らかに
上下 じょうげ 逆 ぎゃく に
付 つ けられているが、
一説 いっせつ には、
設置 せっち 作業 さぎょう にあたった
収容 しゅうよう 者 しゃ がせめてもの
抵抗 ていこう として、
上下 じょうげ 逆 ぎゃく に
取 と り
付 つ けたと
言 い われる。
ハンガリーから到着 とうちゃく したユダヤ人 じん 。(1944年 ねん )
オシフィエンチムの市街地 しがいち をとりまくように造 つく られた施設 しせつ 群 ぐん 。とりわけ第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の規模 きぼ が大 おお きい。
復元 ふくげん された焼却 しょうきゃく 炉 ろ 。(アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん 展示 てんじ )
ヘスの絞首刑 こうしゅけい 台 だい (アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん 展示 てんじ )
1940年 ねん 1月 がつ 25日 にち - ポーランド・オシフィエンチム市 し 郊外 こうがい の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 建設 けんせつ を決定 けってい 。
1940年 ねん 5月 がつ 20日 はつか - 「アウシュヴィッツ第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ (基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ )」[注 ちゅう 9] が親衛隊 しんえいたい (SS)全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ハインリヒ・ヒムラー の指示 しじ により、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん が接収 せっしゅう したポーランド軍 ぐん 兵営 へいえい の建物 たてもの を利用 りよう して開所 かいしょ 。強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ における画一 かくいつ 的 てき な管理 かんり システム、いわゆる「ダッハウモデル 」を踏襲 とうしゅう している。初代 しょだい 所長 しょちょう は、SS中佐 ちゅうさ ルドルフ・フェルディナント・ヘス [注 ちゅう 10] 。ザクセンハウゼン 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ から移送 いそう された犯罪 はんざい 常習 じょうしゅう 者 しゃ 30人 にん が、最初 さいしょ の被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ となった。
6月14日 にち - ポーランドの政治 せいじ 犯 はん 728人 にん が到着 とうちゃく 。
1941年 ねん - 最初 さいしょ のガス室 しつ を備 そな えた複 ふく 合 あい 施設 しせつ 「クレマトリウム1」が第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に完成 かんせい 。
10月 - 収容 しゅうよう 者 しゃ 増加 ぞうか のため、ブジェジンカ 村 むら に大 だい 規模 きぼ な「アウシュヴィッツ第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ ビルケナウ」を建設 けんせつ 。
1942年 ねん 1月 がつ 25日 にち - ドイツ国内 こくない や占領 せんりょう 地区 ちく におけるユダヤ人 じん の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ への移送 いそう や強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所内 しょない での大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ などの、いわゆるホロコーストの方針 ほうしん を決定 けってい づける「ヴァンゼー会議 かいぎ 」を受 う け、ヒトラーはドイツ国内 こくない のユダヤ人 じん 強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ (男性 だんせい 10万 まん 人 にん ・女性 じょせい 5万 まん 人 にん )のアウシュヴィッツ移送 いそう を命令 めいれい 。
1942年 ねん - 1944年 ねん - モノヴィッツ村 むら 周辺 しゅうへん に、当時 とうじ のドイツを代表 だいひょう する大 だい 企業 きぎょう の製造 せいぞう プラントや近隣 きんりん の炭鉱 たんこう に付随 ふずい する形 かたち で、大小 だいしょう 合 あ わせて40ほどの収容 しゅうよう 施設 しせつ を建設 けんせつ 。この施設 しせつ 群 ぐん は「アウシュヴィッツ第 だい 三 さん 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ モノヴィッツ」[注 ちゅう 11] とも呼 よ ばれる。
1943年 ねん 1月 がつ - 3月 - 105,000人 にん を超 こ えるユダヤ人 じん が到着 とうちゃく 。
1944年 ねん 4月 がつ - 11月 - 585,000人 にん を超 こ えるユダヤ人 じん が到着 とうちゃく 。
8月 がつ 2日 にち - 第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の家族 かぞく 棟 とう に収容 しゅうよう されていたジプシーに対 たい して最後 さいご の処刑 しょけい が行 おこな われる。当日 とうじつ 、約 やく 3,000人 にん が殺害 さつがい され、アウシュヴィッツからジプシー は一掃 いっそう された。殺害 さつがい された総数 そうすう は推定 すいてい で2万 まん 人 にん 。
10月7日 にち -ゾンダーコマンド による武装 ぶそう 蜂起 ほうき 。ガス室 しつ を備 そな えた複 ふく 合 あい 施設 しせつ 「クレマトリウム4」を破壊 はかい するが、まもなく鎮圧 ちんあつ された。
1945年 ねん 1月 がつ 27日 にち - ソ連 それん 軍 ぐん により解放 かいほう 。
1947年 ねん 4月 がつ 16日 にち - 初代 しょだい 所長 しょちょう ルドルフ・フェルディナント・ヘス、アウシュヴィッツにて絞首刑 こうしゅけい 。
1979年 ねん - 「アウシュヴィッツ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 」として、ユネスコ世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく 。
2007年 ねん 6月27日 にち -世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 上 じょう の名称 めいしょう を「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制 きょうせい ・絶滅 ぜつめつ 収容 しゅうよう 所 しょ (1940年 ねん -1945年 ねん )」に変更 へんこう 。
2009年 ねん - 「ARBEIT MACHT FREI (働 はたら けば自由 じゆう になる )」看板 かんばん が何者 なにもの かに盗 ぬす まれ、のち3つに切断 せつだん され捻 ね じ曲 ま げられた形 かたち で発見 はっけん される。2011年 ねん 5月 がつ に修復 しゅうふく 完了 かんりょう 。今後 こんご は複製 ふくせい 品 ひん を掲示 けいじ し、実物 じつぶつ は厳重 げんじゅう に保管 ほかん される予定 よてい 。
各 かく 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 施設 しせつ の概要 がいよう [ 編集 へんしゅう ]
アウシュヴィッツ第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ (基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ ) [ 編集 へんしゅう ]
航空 こうくう 写真 しゃしん
第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 正門 せいもん
「死 し の壁 かべ 」。多 おお くの被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ がこの壁 かべ の前 まえ で銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ された
1940年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん が接収 せっしゅう したポーランド軍 ぐん 兵営 へいえい の建物 たてもの をSSが譲 ゆず り受 う け開所 かいしょ 。約 やく 30の施設 しせつ から成 な る。平均 へいきん して13,000 - 16,000人 にん 、多 おお いときで20,000人 にん が収容 しゅうよう された。被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ の内訳 うちわけ は、ソ連 それん 兵 へい 捕虜 ほりょ 、ドイツ人 じん 犯罪 はんざい 者 しゃ や同性愛 どうせいあい 者 しゃ 、ポーランド人 じん 政治 せいじ 犯 はん が主 おも となっている[注 ちゅう 12] 。後 のち に開所 かいしょ する「第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ ビルケナウ」や「第 だい 三 さん 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ モノヴィッツ」を含 ふく め、アウシュヴィッツ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 全体 ぜんたい を管理 かんり する機関 きかん が置 お かれていた。
赤 あか レンガ の積 つ み立 た てられた2階 かい 建 だ ての建物 たてもの で、周 まわ りは鉄製 てつせい のバリケード に覆 おお われており一 いち か所 しょ だけバリケードがない部分 ぶぶん が入 い り口 くち である[2] 。入 い り口 くち には「ARBEIT MACHT FREI(働 はたら けば自由 じゆう になる )」の一文 いちぶん が掲 かか げられている[2] 。「B」の文字 もじ が逆 さか さまに見 み えることについて、SSの欺瞞 ぎまん (ぎまん)に対 たい する作者 さくしゃ (被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ )のささやかな抵抗 ていこう と考 かんが える向 む きもあるが、実際 じっさい にはこの書体 しょたい は当時 とうじ の流行 りゅうこう であった。10号棟 ごうとう には人体 じんたい 実験 じっけん が行 おこな われたとされる実験 じっけん 施設 しせつ が、11号棟 ごうとう には逃亡 とうぼう 者 しゃ や収容 しゅうよう 所内 しょない でのレジスタンス活動 かつどう を行 おこな った者 もの に対 たい して銃殺 じゅうさつ 刑 けい を執行 しっこう するための「死 し の壁 かべ 」があり、そのほかには、裁判所 さいばんしょ 、病院 びょういん などがあった。収容 しゅうよう 施設 しせつ は、女性 じょせい 専用 せんよう の監房 かんぼう 、ソ連 それん 兵 へい 捕虜 ほりょ 専用 せんよう の監房 かんぼう などといった具合 ぐあい に分 わ けられている。また、アウシュヴィッツ最初 さいしょ のガス室 しつ とされる施設 しせつ が作 つく られたが、後 のち に強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 管理 かんり のための施設 しせつ となった。戦後 せんご 、ガス室 しつ として復元 ふくげん され、一般 いっぱん に公開 こうかい されている。
アウシュヴィッツ第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ ビルケナウ [ 編集 へんしゅう ]
航空 こうくう 写真 しゃしん
広大 こうだい な敷地 しきち に300余 あま りの施設 しせつ が建設 けんせつ された
ガス室 しつ のあった複 ふく 合 あい 施設 しせつ (クレマトリウム)の破壊 はかい 跡 あと
被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ 増 ぞう を補 おぎな うため、1941年 ねん 10月 がつ 、ブジェジンカ村 むら に絶滅 ぜつめつ 収容 しゅうよう 所 しょ として問題 もんだい 視 し される「第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ ビルケナウ」が開所 かいしょ 。総 そう 面積 めんせき は1.75平方 へいほう キロメートル(東京 とうきょう ドーム約 やく 37個 こ 分 ぶん )で、300以上 いじょう の施設 しせつ から成 な る。建設 けんせつ には主 おも にソ連 それん 兵 へい 捕虜 ほりょ が従事 じゅうじ したとされる。ピーク時 じ の1944年 ねん には90,000人 にん が収容 しゅうよう された。そのほとんどはユダヤ人 じん であり、このほかに主 おも だったものとしてロマ・シンティが挙 あ げられる。
アウシュヴィッツの象徴 しょうちょう として映画 えいが や書籍 しょせき などで見 み られる「強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所内 しょない まで延 の びる鉄道 てつどう 引込 ひきこ み線 せん 」は1944年 ねん 5月 がつ に完成 かんせい 。被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ から猟 りょう 奪 だつ した品々 しなじな を一時 いちじ 保管 ほかん する倉庫 そうこ や病院 びょういん (人体 じんたい 実験 じっけん の施設 しせつ でもあったとされる)、防疫 ぼうえき 施設 しせつ 、防火 ぼうか 用 よう の貯水 ちょすい 槽 そう とされるプールがあった。ガス室 しつ は、農家 のうか を改造 かいぞう したものが2棟 むね と複 ふく 合 あい 施設 しせつ (クレマトリウム)が4棟 むね の計 けい 6棟 むね があったとされるが、これらは被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ の反乱 はんらん や撤退 てったい 時 じ に行 おこな われた何 なに かしらの証拠 しょうこ 隠滅 いんめつ を目的 もくてき とした破壊 はかい により原型 げんけい をとどめていない。収容 しゅうよう 施設 しせつ は、家族 かぞく 向 む けの監房 かんぼう 、労働 ろうどう 者 しゃ 向 む けの監房 かんぼう 、女性 じょせい 専用 せんよう の監房 かんぼう などに分 わ けられており、1943年 ねん 以降 いこう に建 た てられた南側 みなみがわ の収容 しゅうよう 施設 しせつ (全体 ぜんたい の3分 ぶん の1程度 ていど の棟 むね 数 すう )は、湿地 しっち の上 うえ に満足 まんぞく な基礎 きそ 工事 こうじ もなく建 た てられており、特 とく に粗末 そまつ な作 つく りであったと伝 つた えられている。ここには主 おも に女性 じょせい が収容 しゅうよう された。
アウシュヴィッツ第 だい 三 さん 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ モノヴィッツ [ 編集 へんしゅう ]
航空 こうくう 写真 しゃしん
最大 さいだい の規模 きぼ があったとされるイーゲー・ファルベン社 しゃ の化学 かがく プラント(1941)
生産 せいさん プラントは連合 れんごう 国 こく 爆撃 ばくげき 機 き の標的 ひょうてき となった(1944)
1942年 ねん から1944年 ねん の間 あいだ に、当時 とうじ のドイツを代表 だいひょう する イーゲー・ファルベン 社 しゃ (化学 かがく )、クルップ 社 しゃ (重工業 じゅうこうぎょう )、シーメンス 社 しゃ (重 じゅう 電 でん 産業 さんぎょう )といった大 だい 企業 きぎょう の製造 せいぞう プラントや、近隣 きんりん の炭鉱 たんこう に付随 ふずい する形 かたち で大小 だいしょう 合 あ わせて40ほどの収容 しゅうよう 施設 しせつ がモノビツェ村 むら (ドイツ語 ご 名 めい モノヴィッツ)に作 つく られた。これらの施設 しせつ 群 ぐん を「第 だい 三 さん 収容 しゅうよう 所 しょ モノヴィッツ」と呼 よ ぶ。
オシフィエンチム市 し は鉄道 てつどう の接続 せつぞく が良 よ く、近郊 きんこう は石炭 せきたん と石灰 せっかい の産出 さんしゅつ 地 ち 。さらには内陸 ないりく に位置 いち することもあり、既存 きそん の生産 せいさん 拠点 きょてん への空襲 くうしゅう が危惧 きぐ されるようになると、安 やす い労働 ろうどう 力 りょく と併 あわ せて注目 ちゅうもく されるようになった。
なかでも最大 さいだい 規模 きぼ であったのが、700万 まん ライヒスマルク を投資 とうし して建 た てられたイーゲー・ファルベン社 しゃ の合成 ごうせい ゴム・合成 ごうせい 石油 せきゆ プラント「ブナ」。同社 どうしゃ は、1925年 ねん にドイツの化学 かがく 関連 かんれん 企業 きぎょう 6社 しゃ が合体 がったい してできたコンツェルン であり、当時 とうじ の総合 そうごう 化学 かがく 業界 ぎょうかい としては世界 せかい を三 さん 分 ふん するうちの1社 しゃ であった。また、1936年 ねん 4月 がつ 、ナチス率 ひき いるドイツ政府 せいふ によって示 しめ された国家 こっか の重要 じゅうよう な指針 ししん をとなる「四 よん ヵ年 かねん 計画 けいかく 」の遂行 すいこう にあたって、産業 さんぎょう 面 めん で大 おお きな役割 やくわり を果 は たすなどドイツ政府 せいふ とは緊密 きんみつ に連携 れんけい し合 あ う関係 かんけい にあった。
戦後 せんご のニュルンベルク裁判 さいばん では「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」を理由 りゆう に役員 やくいん や技術 ぎじゅつ 者 しゃ など被告 ひこく の24人 にん 全員 ぜんいん が有罪 ゆうざい となり[注 ちゅう 13] 、次 つ いで1948年 ねん の「米 べい 英 えい 占領 せんりょう 地区 ちく の合同 ごうどう 管理 かんり 理事 りじ 会 かい 」でコンツェルンの解体 かいたい が決定 けってい する[注 ちゅう 14] 。各 かく プラントは連合 れんごう 国軍 こくぐん の爆 ばく 撃 げき 目標 もくひょう とされ、さらには1945年 ねん 1月 がつ の解放 かいほう の後 のち 、ソ連 それん 軍 ぐん によって破壊 はかい されたため現在 げんざい は残 のこ っていない。
収容 しゅうよう 所 しょ での暮 く らし[ 編集 へんしゅう ]
ドイツ統治 とうち 下 か の各地 かくち より貨車 かしゃ などで運 はこ ばれてくる。この全体 ぜんたい は貨車 かしゃ が幾 いく つも連 つら なったような状態 じょうたい で、中 ちゅう は狭 せま く多 おお くの人 ひと がぎゅうぎゅう詰 つ めに入 い れられた。運 はこ ばれてきた被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ は、オシフィエンチム(ドイツ語 ご 名 めい 、アウシュヴィッツ)の貨物 かもつ 駅 えき (1944年 ねん 5月 がつ 以降 いこう は第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ ビルケナウに作 つく られた鉄道 てつどう 引込線 ひきこみせん 終着 しゅうちゃく 点 てん )で降 お ろされる。貨物 かもつ 駅 えき ではアウシュビッツ・オーケストラ なる音楽 おんがく 隊 たい が演奏 えんそう を奏 かな でているが[3] 、その後 ご すぐに「収容 しゅうよう 理由 りゆう 」「思想 しそう 」「職能 しょくのう 」「人種 じんしゅ 」「宗教 しゅうきょう 」「性別 せいべつ 」「健康 けんこう 状態 じょうたい 」などの情報 じょうほう をもとに「労働 ろうどう 者 しゃ 」「人体 じんたい 実験 じっけん の検体 けんたい 」、そして「価値 かち なし」などに分 わ けられた。価値 かち なしと判断 はんだん された被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ はガス室 しつ などで処分 しょぶん となる。その多 おお くが「女性 じょせい 、子供 こども 、老人 ろうじん 」であったとされる。ここで言 い う「子供 こども 」とは身長 しんちょう 120cm以下 いか の者 もの を指 さ すが、学校 がっこう や孤児 こじ 院 いん から集団 しゅうだん で送 おく られて来 き ていた子供 こども たちは形式 けいしき 的 てき な審査 しんさ もなく、引率 いんそつ の教師 きょうし とともにガス室 しつ へ送 おく られた。
ナチス政権 せいけん 下 か のドイツ政府 せいふ の制定 せいてい した法 ほう の多 おお くがそうであったように、選別 せんべつ は、「法令 ほうれい 」に比 くら べ規範 きはん (簡単 かんたん に言 い えばルール)のあいまいな「訓令 くんれい (または通達 つうたつ )」を受 う けて遂行 すいこう されている。そのため規範 きはん の細部 さいぶ については「担当 たんとう 者 しゃ 」や「担当 たんとう 者 しゃ が所属 しょぞく するグループ」の裁量 さいりょう に任 まか された(「人体 じんたい 実験 じっけん の検体 けんたい として”双子 ふたご ”を選別 せんべつ する」といったような規範 きはん が、医師 いし のヨーゼフ・メンゲレ によって付 つ け加 くわ えられたのはその一 いち 例 れい )。このため個々 ここ の事例 じれい で、具体 ぐたい 的 てき にどのような行為 こうい が行 おこな われたのかが書面 しょめん として残 のこ っていないことも多 おお く、戦後 せんご の各 かく 裁判 さいばん での事実 じじつ 認定 にんてい を難 むずか しくしている主 おも な原因 げんいん となっている。
収容 しゅうよう の際 さい に撮影 さつえい された被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ たち。縦 たて じまの囚人 しゅうじん 服 ふく には、分類 ぶんるい のためのマークがつけられている(アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん 展示 てんじ )
即刻 そっこく の処分 しょぶん を免 まぬか れた被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ は、男女 だんじょ 問 と わず頭髪 とうはつ をすべて刈 か り、消毒 しょうどく 、写真 しゃしん 撮影 さつえい [注 ちゅう 15] 、管理 かんり 番号 ばんごう を刺青 しせい するなど入所 にゅうしょ にあたっての準備 じゅんび や手続 てつづ きを行 おこな う。管理 かんり 番号 ばんごう は一人 ひとり ひとりに与 あた えられ、その総数 そうすう は約 やく 40万 まん 件 けん とされる。私物 しぶつ は「選別 せんべつ 」の段階 だんかい までに、戦争 せんそう 遂行 すいこう に欠 か かせない資源 しげん としてすべて没収 ぼっしゅう されており、与 あた えられる縦 たて じま(色 いろ は青 あお と白 しろ )の囚人 しゅうじん 服 ふく が唯一 ゆいいつ の所持 しょじ 品 ひん となる。最後 さいご に、人種 じんしゅ 別 べつ ・性別 せいべつ などに分 わ けられた収容 しゅうよう 棟 とう に送 おく られた。
囚人 しゅうじん 服 ふく には「政治 せいじ 犯 はん 」「一般 いっぱん 犯罪 はんざい 者 しゃ 」「移民 いみん 」「同性愛 どうせいあい 者 しゃ 」、さらには「ユダヤ」などを区別 くべつ するマークがつけられている(ナチ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ のバッジ を参照 さんしょう )。これは、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所内 しょない にヒエラルキー が形成 けいせい されていたことを意味 いみ し、労働 ろうどう 、食事 しょくじ 、住環境 じゅうかんきょう など生活 せいかつ のあらゆる面 めん で影響 えいきょう を及 およ ぼしたと考 かんが えられる。ドイツ人 じん を頂点 ちょうてん に、西 にし ・北 きた ヨーロッパ人 じん 、スラブ人 じん 、最下 さいか 層 そう にユダヤ人 じん や同性愛 どうせいあい 者 しゃ 、ロマ・シンティが置 お かれ、下層 かそう にあればあるほど食料 しょくりょう 配給 はいきゅう 量 りょう や宿舎 しゅくしゃ の設備 せつび 、労働 ろうどう 時間 じかん などあらゆる面 めん で過酷 かこく 状況 じょうきょう に置 お かれ、死亡 しぼう 率 りつ も高 たか くなった[注 ちゅう 16] 。心理 しんり 面 めん では、下層 かそう の被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ がいることで上層 じょうそう の者 もの に多少 たしょう の安心 あんしん を与 あた えると共 とも に、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ 全体 ぜんたい がまとまって反抗 はんこう する機運 きうん を作 つく らせない狙 ねら いがあったと考 かんが えられる。
イーゲ・ファルベン社 しゃ の化学 かがく プラントで道路 どうろ 舗装 ほそう を行 おこな う被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ (1941)
労働 ろうどう は主 おも に4つのタイプに分 わ けることができる。一 ひと つ目 め は被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ の肉体 にくたい 的 てき 消耗 しょうもう を目的 もくてき とした労働 ろうどう 。たとえば、石 いし 切 ぎ り場 じょう での作業 さぎょう や道路 どうろ の舗装 ほそう 工事 こうじ などを行 おこな う「懲罰 ちょうばつ 部隊 ぶたい 」がこれに該当 がいとう する。場合 ばあい によっては、「午前 ごぜん 中 ちゅう は穴 あな を掘 ほ り、午後 ごご その穴 あな を埋 う める」といったような、なんら生産 せいさん 性 せい のない作業 さぎょう を命 めい じられることもある。懲罰 ちょうばつ 部隊 ぶたい に組織 そしき された被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ の多 おお くは短期間 たんきかん のうちに死亡 しぼう したとされる。
二 ふた つ目 め は、戦争 せんそう 遂行 すいこう に欠 か かせない資材 しざい ・兵器 へいき などの生産 せいさん や、収容 しゅうよう 施設 しせつ の維持 いじ ・管理 かんり などを目的 もくてき とした労働 ろうどう 。工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ や各 かく 施設 しせつ の拡張 かくちょう ・管理 かんり 作業 さぎょう などがこれに該当 がいとう し、何 なん らかの技能 ぎのう や知識 ちしき (電気 でんき 工事 こうじ 士 し 、医師 いし 、化学 かがく 者 しゃ 、建築 けんちく 士 し など)を持 も つ被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ が作業 さぎょう にあたった。懲罰 ちょうばつ 部隊 ぶたい での労働 ろうどう と比較 ひかく して程度 ていど の差 さ こそあれ、劣悪 れつあく な食料 しょくりょう 事情 じじょう や蔓延 まんえん する伝染 でんせん 病 びょう などにより命 いのち を脅 おびや かされる状況 じょうきょう にあったことに違 ちが いはない。
三 みっ つ目 め は、所内 しょない で死亡 しぼう した被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ の処分 しょぶん を目的 もくてき とした労働 ろうどう 。ガス室 しつ や病気 びょうき 、栄養失調 えいようしっちょう などで死亡 しぼう したおびただしい数 かず の遺体 いたい を、焼却 しょうきゃく 炉 ろ などに運 はこ び処分 しょぶん する「ゾンダーコマンド (特別 とくべつ 労務 ろうむ 班 はん 員 いん )」がこれに該当 がいとう する。比較的 ひかくてき 待遇 たいぐう は良 よ かったが、一方 いっぽう で口 くち 封 ふう じのため数 すう ヵ月 かげつ ごとに彼 かれ ら自身 じしん も処分 しょぶん された[注 ちゅう 17] 。1期 き から13期 き まであり、解放 かいほう 直前 ちょくぜん に結成 けっせい された12期 き のメンバーは武力 ぶりょく 蜂起 ほうき による反抗 はんこう を試 こころ みている。
四 よっ つ目 め は、ほかの被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ たちを監視 かんし する「カポ(労働 ろうどう 監視 かんし 員 いん 、収容 しゅうよう 所 しょ 監視 かんし 員 いん などと訳 やく される)」である。主 おも に第 だい 一 いち 収容 しゅうよう 所 しょ のドイツ人 じん 犯罪 はんざい 者 しゃ から選 えら ばれることが多 おお かったとされ、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ ヒエラルキー の頂点 ちょうてん に立 た った。戦後 せんご 、過酷 かこく な懲罰 ちょうばつ を課 か したことで裁 さば かれる者 もの もいた。
バラック内部 ないぶ 。三 さん 段 だん ベッドの下 した は汚物 おぶつ を流 なが す溝 みぞ 。右 みぎ 端 はし は暖房 だんぼう (第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ )
住環境 じゅうかんきょう は非常 ひじょう に劣悪 れつあく であった。この地域 ちいき は、夏 なつ は最高 さいこう 37度 ど 、冬 ふゆ は最低 さいてい マイナス20度 ど を下回 したまわ る。第 だい 一 いち 収容 しゅうよう 所 しょ はもともとポーランド軍 ぐん の兵営 へいえい であったため暖房 だんぼう 設備 せつび は完備 かんび されていたが、収容 しゅうよう 所 しょ として利用 りよう された時 とき には薪 たきぎ などの燃料 ねんりょう は供給 きょうきゅう されなかったと言 い われている。掛 か け布団 ぶとん は汚 よご れて穴 あな だらけの毛布 もうふ (薄手 うすで の麻布 まふ に過 す ぎない)のみであった。カポなどSSに協力 きょうりょく する者 もの には個室 こしつ やまともな食事 しょくじ が与 あた えられている。
第 だい 二 に 収容 しゅうよう 所 しょ はバラックと言 い うべき非常 ひじょう に粗末 そまつ な作 つく りで、もともとポーランド軍 ぐん の馬小屋 うまごや であったものや、のちに一部 いちぶ は基礎 きそ 工事 こうじ なしで建 た てられたため床 ゆか がなく、上下水道 じょうげすいどう が完備 かんび されていないため地面 じめん は土 ど 泥 どろ 化 か していた(汚水 おすい は収容 しゅうよう 者 しゃ が敷地 しきち 内 ない に溝 みぞ を掘 ほ って流 なが した)。暖房 だんぼう は簡素 かんそ なものがあったが、燃料 ねんりょう の供給 きょうきゅう はされなかったと言 い われ、なぜこのような暖房 だんぼう 設備 せつび が作 つく られたのか、理由 りゆう は不明 ふめい であり、隙間風 すきまかぜ がいやおうなく吹 ふ き込 こ み役目 やくめ を果 は たしていなかったと言 い われる。排水 はいすい がままならない不衛生 ふえいせい なトイレ(長大 ちょうだい な縦長 たてなが の大 おお きな桶 おけ の上 うえ にコンクリート板 ばん を置 お き、表面 ひょうめん の左右 さゆう に丸 まる い穴 あな をあけただけのもの)を真 ま ん中 なか にはさむ形 かたち で三 さん 段 だん ベッドが並 なら べられ、マットレス代 か わりにわらを敷 し いて使用 しよう した。トイレ使用 しよう は、午前 ごぜん ・午後 ごご 2回 かい に制限 せいげん され、目隠 めかく しになるものもなく、一斉 いっせい に使用 しよう を強制 きょうせい された。非 ひ 衛生 えいせい 的 てき 環境 かんきょう であったため、病原 びょうげん 性 せい の下痢 げり も蔓延 まんえん し、きわめて非 ひ 人間 にんげん 的 てき 扱 あつか いがなされた。
収容 しゅうよう した側 がわ された側 がわ 双方 そうほう の証言 しょうげん によると、食料 しょくりょう の奪 うば い合 あ いが個人 こじん やグループ間 あいだ で日常 にちじょう 的 てき にあったとされる[注 ちゅう 18] 。公式 こうしき には重労働 じゅうろうどう 者 しゃ に2150キロカロリー、一般 いっぱん 労働 ろうどう 者 しゃ に1700キロカロリーの食事 しょくじ を与 あた えるという規定 きてい があったが、現場 げんば 監督 かんとく によって量 りょう は左右 さゆう され、監視 かんし 兵 へい に厨房 ちゅうぼう の食料 しょくりょう を奪 うば われるなど、実情 じつじょう はかけ離 はな れていた[5] 。
配給 はいきゅう 量 りょう についてはさまざまな証言 しょうげん があり、アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん に展示 てんじ されている「朝食 ちょうしょく :約 やく 50CCのコーヒーと呼 よ ばれる濁 にご った飲 の み物 もの (コーヒー豆 まめ から抽出 ちゅうしゅつ されたものではない)。昼食 ちゅうしょく :ほとんど具 ぐ のないスープ。夕食 ゆうしょく :300gほどの黒 くろ パン、3グラムのマーガリンなど[6] 」は一 いち 例 れい で、実際 じっさい は被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ 間 あいだ のヒエラルキーや個々 ここ の労働 ろうどう 能力 のうりょく 、さらには収容 しゅうよう 時期 じき によって待遇 たいぐう にかなりの差 さ があったと見 み るのが自然 しぜん だろう[独自 どくじ 研究 けんきゅう ? ] 。実際 じっさい 、1943・1944年 ねん 以降 いこう は「業績 ぎょうせき に連結 れんけつ した食料 しょくりょう 配給 はいきゅう 体制 たいせい 」[注 ちゅう 19] が多 おお くの労働 ろうどう 者 しゃ に対 たい し実施 じっし されている。この制度 せいど は生産 せいさん の全量 ぜんりょう 的 てき 向上 こうじょう を目的 もくてき としており、戦況 せんきょう 悪化 あっか に伴 ともな い厳 きび しくなった食料 しょくりょう 自給 じきゅう 環境 かんきょう において、生産 せいさん 性 せい の高 たか い労働 ろうどう 者 しゃ に優先 ゆうせん 配給 はいきゅう を行 おこな うというもの。
一般 いっぱん 的 てき ドイツ人 じん の業績 ぎょうせき を基準 きじゅん に、業績 ぎょうせき の良 よ い労働 ろうどう 者 しゃ に多 おお く配給 はいきゅう し、逆 ぎゃく に悪 わる い労働 ろうどう 者 しゃ は以前 いぜん よりもさらに減 へ らすというものだが、もともとほとんどの被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ は一般 いっぱん 成人 せいじん が一 いち 日 にち に必要 ひつよう とするカロリーに遠 とお く及 およ ばない量 りょう の食料 しょくりょう [注 ちゅう 20] しか与 あた えられていないなかで、比較 ひかく すること自体 じたい 無理 むり があり、不幸 ふこう にも減 へ らされれば死 し は確実 かくじつ になるばかりである。生 い き抜 ぬ くためにほんのわずかな増加 ぞうか 分 ぶん を得 え ようとする「人間 にんげん の精神 せいしん 力 りょく 」に期待 きたい しての制度 せいど であり、結果 けっか として被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ 同士 どうし が食料 しょくりょう を奪 うば い合 あ うことが日常 にちじょう 的 てき にあったというのは、いかにその状況 じょうきょう が過酷 かこく であったかを表 あらわ している。
強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所内 しょない は栄養失調 えいようしっちょう や不衛生 ふえいせい な環境 かんきょう によりチフス などの伝染 でんせん 病 びょう が蔓延 まんえん し、それらによる死者 ししゃ はかなりの数 かず に上 のぼ ったとされる。被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ の中 なか には医師 いし や看護 かんご 師 し などもおり、主 おも に彼 かれ らが治療 ちりょう にあたった。
医療 いりょう 現場 げんば は「第 だい 二 に の選別 せんべつ の場 ば 」でもあり、回復 かいふく が難 むずか しいと診断 しんだん された被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ は処分 しょぶん 施設 しせつ へまわされることになる。このため、選別 せんべつ が収容 しゅうよう 所内 しょない に知 し れ渡 わた るまで医師 いし は患者 かんじゃ に対 たい して極力 きょくりょく 入院 にゅういん を拒 こば んだという。一方 いっぽう 、当時 とうじ のドイツ政府 せいふ に組 く み込 こ まれていた当時 とうじ のドイツ赤十字 せきじゅうじ (DRK)から派遣 はけん された医師 いし は、治療 ちりょう 以外 いがい に選別 せんべつ や人体 じんたい 実験 じっけん に携 たずさ わっていたとされる。
高 こう 圧 あつ 電流 でんりゅう が流 なが れた鉄条 てつじょう 網 もう (第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ )
アウシュヴィッツ全体 ぜんたい の警備 けいび は約 やく 6,000名 めい のSSによって行 おこな われているにすぎず、対 たい して被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ は最大 さいだい で14万 まん 人 にん を数 かぞ える。一般 いっぱん 予防 よぼう としての懲罰 ちょうばつ は、圧倒的 あっとうてき 多数 たすう の被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ に多大 ただい の心理 しんり 的 てき な抑圧 よくあつ を与 あた えることを目的 もくてき とし、行使 こうし 以外 いがい にも見 み せしめによる擬似 ぎじ 的 てき な体験 たいけん 、連帯 れんたい 責任 せきにん 制 せい や強烈 きょうれつ な恐怖 きょうふ 心 しん を抱 いだ かせる懲罰 ちょうばつ の流布 るふ などにより、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ をコントロールする要 よう となった。一方 いっぽう 、先 さき に触 ふ れた「口 くち 封 ふう じのためにゾンダーコマンドが"数 すう ヵ月 かげつ おき”に処分 しょぶん される」ことは、これが事実 じじつ であれば、人種 じんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき な抑圧 よくあつ も併 あわ せることによって発生 はっせい した「多 おお すぎる死 し 」を被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ に隠 かく すための処置 しょち であり、つまり懲罰 ちょうばつ はむやみやたらというよりも、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ のコントロールと人種 じんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき な抑圧 よくあつ のバランスの中 なか で計画 けいかく 的 てき に遂行 すいこう されていたと見 み ることができる。
懲罰 ちょうばつ は「鞭打 むちう ち」「後 うし ろ手 で に縛 しば り体 からだ を杭 くい に吊 つ るす」「特別 とくべつ 監房 かんぼう への移送 いそう 」「過重 かじゅう 労働 ろうどう (懲罰 ちょうばつ 隊 たい への入隊 にゅうたい )」「懲罰 ちょうばつ 点呼 てんこ 」などが挙 あ げられる。いずれも激 はげ しい飢餓 きが に苦 くる しむ被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ にとっては死 し を意味 いみ するものであったと言 い える。たとえば、90cm×90cmの狭 せま いスペースに4人 にん を押 お し込 こ む「立 た ち牢 ろう 」や、一切 いっさい の水 みず ・食料 しょくりょう を与 あた えない「飢餓 きが 牢 ろう 」[注 ちゅう 21] は、体力 たいりょく を確実 かくじつ に消耗 しょうもう させ、死 し に至 いた らしめる。永続 えいぞく 的 てき に続 つづ くかのような苦痛 くつう と絶望 ぜつぼう が介在 かいざい する懲罰 ちょうばつ の存在 そんざい は、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ たちに計 はか り知 し れない恐怖 きょうふ を与 あた えたと考 かんが えられる。また「銃殺 じゅうさつ 刑 けい 」や「絞首刑 こうしゅけい 」[注 ちゅう 22] は、具体 ぐたい 的 てき な死 し の姿 すがた を瞬間 しゅんかん 的 てき に見 み せつけ、しばしば所内 しょない にとどろく銃声 じゅうせい は直接 ちょくせつ これを見 み ずとも緊張 きんちょう と忘 わす れがたい恐怖 きょうふ を植 う えつけるのに十分 じゅうぶん であったと言 い える。絶望 ぜつぼう のあまり自 みずか ら高 だか 圧 あつ 電流 でんりゅう が流 なが れる鉄条 てつじょう 網 もう に触 ふ れて自殺 じさつ する者 もの もいたという。
このような状況 じょうきょう の中 なか で脱走 だっそう 者 しゃ も少 すく なからず存在 そんざい する。脱出 だっしゅつ した人数 にんずう は約 やく 100人 にん - 400人 にん 程度 ていど だが強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ からの脱走 だっそう と考 かんが えると脱走 だっそう 率 りつ は高 たか いと言 い える。最終 さいしゅう 的 てき に成功 せいこう した脱走 だっそう 者 しゃ 数 すう は、約 やく 150名 めい とされている。成功 せいこう した背景 はいけい には内部 ないぶ のレジスタンスの協力 きょうりょく があったとされている。中 なか でも一番 いちばん 脱走 だっそう 者 しゃ が多 おお かったのがアウシュヴィッツ3である。しかし、収容 しゅうよう 所 しょ では、脱走 だっそう があるごとに、脱走 だっそう 者 しゃ の10倍 ばい の人数 にんずう を見 み せしめとして無 む 作為 さくい に選 えら び、「飢餓 きが 刑 けい 」にすることが恒常 こうじょう 的 てき に行 おこな われていた。マキシミリアノ・コルベ 神父 しんぷ が身代 みが わりとなったのは、失敗 しっぱい した脱走 だっそう 者 しゃ に対 たい する見 み せしめとしてであった。
また、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ による「オーケストラ」が組織 そしき されていた。強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 到着 とうちゃく 直後 ちょくご の被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ には明 あか るい曲 きょく を、強制 きょうせい 労働 ろうどう に向 む かう被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ には行進曲 こうしんきょく を奏 かな でたとされる。オーケストラの存在 そんざい は、収容 しゅうよう 所 しょ が「人道的 じんどうてき に」運営 うんえい されていると主張 しゅちょう するための、カモフラージュの一環 いっかん として行 おこな われた。多 おお くを奪 うば われ、失意 しつい のうちにアウシュヴィッツへ送 おく られてきたばかりの人々 ひとびと にはかすかな希望 きぼう を与 あた え、日々 ひび 重労働 じゅうろうどう を課 か せられる被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ には逆 ぎゃく に腹立 はらだ たしさを覚 おぼ えさせた。SSにとっては余興 よきょう でもあり、その本分 ほんぶん は人心 じんしん を巧 たく みに利用 りよう した被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ に対 たい しての欺瞞 ぎまん と侮辱 ぶじょく であったと言 い える。奏者 そうしゃ は特別 とくべつ 待遇 たいぐう を受 う けたが(アルマ・ロゼ に概要 がいよう )、ゾフィア・チコビアク のように、「人々 ひとびと の死 し に自 みずか らの行為 こうい が間接 かんせつ 的 てき に関与 かんよ していた」という思 おも いから心 しん に生涯 しょうがい にわたる傷 きず を負 お った者 もの もいた。
戦後 せんご 、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ としての経験 けいけん を持 も つ精神 せいしん 科 か 医 い たちは、自 みずか らの抑圧 よくあつ 体験 たいけん を研究 けんきゅう し精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく の発展 はってん に貢献 こうけん した。たとえば、精神 せいしん 科 か 医 い ヴィクトール・フランクル は、実体験 じつたいけん を記 しる した著書 ちょしょ 「夜 よる と霧 きり 」で、激 はげ しい苦痛 くつう の中 なか で精神 せいしん がどのようにして順応 じゅんのう し、内面 ないめん 的 てき な勝利 しょうり を勝 か ち得 え ていくかについて語 かた るとともに、患者 かんじゃ に対 たい し実存 じつぞん 主義 しゅぎ 的 てき アプローチを採 と る「ロゴセラピー 」を新 あら たに提唱 ていしょう した。
大量 たいりょう 殺害 さつがい のための施設 しせつ (殺人 さつじん ガス室 しつ )[ 編集 へんしゅう ]
ガス室 しつ を備 そな えた複 ふく 合 あい 施設 しせつ 「クレマトリウム2」。最大 さいだい の規模 きぼ があったとされる。(1)入 い り口 くち (2)脱衣 だつい 室 しつ (3)ガス室 しつ (4)ガスを投入 とうにゅう するための穴 あな (5)遺体 いたい 運搬 うんぱん のためのエレベータ(6)5つの搬入 はんにゅう 口 こう から成 な る焼却 しょうきゃく 炉 ろ
ルドルフ・ヘス の回想 かいそう 録 ろく によると、1941年 ねん 夏 なつ 、ヘスはベルリンに出頭 しゅっとう し、ヒムラー から直接 ちょくせつ 「総統 そうとう は、ユダヤ人 じん 問題 もんだい の最終 さいしゅう 的 てき 解決 かいけつ を命 めい じた。われわれSSはこの命令 めいれい を実行 じっこう しなければならない」として、アウシュヴィッツでのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ に向 む けての準備 じゅんび をアイヒマン とともに進 すす めるように命 めい じられた。ヘスとアイヒマンの相談 そうだん でガスを用 もち いることは決定 けってい したものの、二人 ふたり の間 あいだ ではどのガスを使 つか うかは決定 けってい 出来 でき なかった。しかし、ヘスの公務 こうむ 旅行 りょこう 中 ちゅう に、カール・フリッチュ司令 しれい 官 かん 代理 だいり が、基幹 きかん 収容 しゅうよう 所内 しょない のブロック11の地下 ちか 室 しつ を用 もち いて、ロシア人 じん 捕虜 ほりょ を部屋 へや に鮨詰 すしづ めにし、シラミ駆除 くじょ のために保管 ほかん していたツィクロンB を用 もち い、殺害 さつがい 実験 じっけん を行 おこ なった(1941年 ねん 9月 がつ 3日 にち とも5日 にち とも言 い われる)。この実験 じっけん が成功 せいこう 裡 うら に終 お わり、アウシュヴィッツで用 もち いる殺害 さつがい 用 よう のガスは、ツィクロンB (シアン化水素 しあんかすいそ ガス)に決定 けってい した。
しかし、ブロック11の地下 ちか 室 しつ での実験 じっけん は、換気 かんき に時間 じかん がかかるため、最初 さいしょ の実験 じっけん の一 いち 度 ど きりしか使用 しよう されず、代 か わりに基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ の火葬 かそう 場 じょう にあった死体 したい 安置 あんち 所 しょ をガス室 しつ として使用 しよう することとなった。このガス室 しつ では、犠牲 ぎせい 者 しゃ がガス室 しつ に詰 つ め込 こ まれると、気密 きみつ 扉 とびら が閉 し められた後 のち 、天井 てんじょう に開 あ けられた数箇所 すうかしょ の穴 あな からツィクロンB が室内 しつない に投下 とうか された。
チクロンBの缶 かん (アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん 展示 てんじ )
この基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ の第 だい 一 いち ガス室 しつ は、基本 きほん 的 てき にはユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ にはほとんど使用 しよう されなかったようである。ヘスによると、ユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ が始 はじ まったのは、ビルケナウ敷地 しきち 外 がい の農家 のうか を改造 かいぞう して作 つく られた「ブンカー」と呼 よ ばれるガス室 しつ で、1941年 ねん 1月 がつ のことだったと述 の べられている。続 つづ いて、続々 ぞくぞく とユダヤ人 じん が移送 いそう されてくるようになると、少 すこ し離 はな れたところにある別 べつ の農家 のうか を改造 かいぞう して二 ふた つ目 め の「ブンカー」でのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ が実施 じっし されるようになった。
しかし、このガス室 しつ で殺害 さつがい された遺体 いたい は、当初 とうしょ は壕 ごう を掘 ほ って埋葬 まいそう していただけだったが、後 のち に再度 さいど 掘 ほ り起 お こして野外 やがい 火葬 かそう するようになると(後述 こうじゅつ )、その火葬 かそう 作業 さぎょう による悪臭 あくしゅう が周囲 しゅうい 数 すう キロにわたって広 ひろ がることとなり、周辺 しゅうへん 住民 じゅうみん がユダヤ人 じん の焼却 しょうきゃく のことを話題 わだい にし始 はじ めてしまう有様 ありさま となってしまう。そこで、ビルケナウですでに建設 けんせつ 中 ちゅう だった、大型 おおがた 火葬 かそう 場 じょう でのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ と焼却 しょうきゃく が進 すす められることとなったのである。結果 けっか として、ビルケナウに建設 けんせつ されることとなった4箇所 かしょ の火葬 かそう 場 じょう に、基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ の火葬 かそう 場 じょう 同様 どうよう 、ガス室 しつ も併設 へいせつ されることとなった。さらにはそれら火葬 かそう 場 じょう には脱衣 だつい 室 しつ も併設 へいせつ され、ガス室 しつ での殺害 さつがい 後 ご 、囚人 しゅうじん によって遺体 いたい から金歯 きんば が抜 ぬ かれた後 のち 、火葬 かそう 処理 しょり に回 まわ された。火葬 かそう 後 ご の遺骨 いこつ 等 とう の残骸 ざんがい は細 こま かく砕 くだ かれて、近 ちか くの川 かわ に捨 す てられた。
ビルケナウのガス室 しつ の収容 しゅうよう 能力 のうりょく は、ヘスによると、火葬 かそう 場 じょう ⅡおよびⅢのガス室 しつ では、最大 さいだい で3000人 にん と述 の べられているが、「その数 かず に達 たっ したことは一 いち 度 ど もない」とも述 の べている。ⅣおよびⅤの収容 しゅうよう 能力 のうりょく は述 の べられていない。ガス(ツィクロンB )のガス室 しつ への投入 とうにゅう 方法 ほうほう は、火葬 かそう 場 じょう ⅡおよびⅢでは、基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ の火葬 かそう 場 じょう 同様 どうよう に、天井 てんじょう に開 あ けられた4箇所 かしょ の穴 あな から投入 とうにゅう されたが、広 ひろ いガス室内 しつない に効率 こうりつ 的 てき にガスを拡散 かくさん させるためと、ツィクロンB は殺害 さつがい 後 ご も数時間 すうじかん ガスを発生 はっせい し続 つづ けるので、半地 はんじ 下 か 構造 こうぞう であるために換気 かんき システム以外 いがい に新鮮 しんせん な空気 くうき を導入 どうにゅう しにくいことから、殺害 さつがい 後 ご にツィクロンB をガス室 しつ 内 ない から撤去 てっきょ してしまう目的 もくてき で、金網 かなあみ 導入 どうにゅう 装置 そうち と呼 よ ばれる特殊 とくしゅ な構造 こうぞう 体 たい が設置 せっち されていた。ツィクロンB がガス室内 しつない に残 のこ らないので、火葬 かそう 処理 しょり に回 まわ すための遺体 いたい 搬送 はんそう 作業 さぎょう を迅速 じんそく に開始 かいし 可能 かのう になっていた。火葬 かそう 場 じょう ⅣおよびⅤのガス室 しつ には換気 かんき 装置 そうち はなかったが、これらのガス室 しつ は地上 ちじょう 型 がた だったため、新鮮 しんせん な空気 くうき を導入 どうにゅう しやすいので、毒 どく ガスの濃度 のうど を致死 ちし 濃度 のうど 以下 いか に容易 ようい に下 さ げることができたと考 かんが えられる。また、これらの遺体 いたい 搬送 はんそう 作業 さぎょう を行 おこ なったユダヤ人 じん 囚人 しゅうじん によるゾンダーコマンドは、ガスマスクを使用 しよう することも可能 かのう だった。なお、火葬 かそう 場 じょう ⅣとⅤではツィクロンB は壁面 へきめん の上部 じょうぶ にある数箇所 すうかしょ のシャッターからガス室内 しつない に投入 とうにゅう された。ブンカーも同様 どうよう である。
ビルケナウの4箇所 かしょ の火葬 かそう 場 じょう は、ソ連 それん 軍 ぐん の接近 せっきん を前 まえ にして1944年 ねん 12月から設備 せつび 等 とう の解体 かいたい 撤去 てっきょ 作業 さぎょう が始 はじ まり、翌年 よくねん 1月 がつ に親衛隊 しんえいたい によってダイナマイトで破壊 はかい された。ブンカーについては、最初 さいしょ に作 つく られたブンカー1は1943年 ねん の最初 さいしょ の頃 ころ に使用 しよう 終了 しゅうりょう するとともに撤去 てっきょ され、ブンカー2は1944年 ねん の中頃 なかごろ まで使用 しよう された後 のち 、これも撤去 てっきょ された(いずれも詳細 しょうさい な時期 じき は不明 ふめい )。
基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ の火葬 かそう 場 じょう 1については、1942年 ねん 12月 がつ 頃 ごろ にガス室 しつ の使用 しよう は中止 ちゅうし され、1943年 ねん 7月 がつ には火葬 かそう 場 じょう としても使用 しよう されなくなり、1944年 ねん の中頃 なかごろ に防空壕 ぼうくうごう に改修 かいしゅう された。戦後 せんご 、アウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ は博物館 はくぶつかん 化 か されることになり、それに伴 ともな って、火葬 かそう 場 じょう 1はガス室 しつ が存在 そんざい した頃 ころ に近 ちか い状態 じょうたい にまで復元 ふくげん 工事 こうじ が行 おこな われた。但 ただ し、防空壕 ぼうくうごう 用 よう に設置 せっち された以上 いじょう の数 かず の隔壁 かくへき を撤去 てっきょ していたり、火葬 かそう 場 じょう とガス室 しつ の間 あいだ にあった出入 でい り口 ぐち とは別 べつ のところに開口 かいこう 部 ぶ を作 つく ったり、ガス室 しつ の気密 きみつ ドアを再現 さいげん しなかったり、防空壕 ぼうくうごう 改修 かいしゅう 時 じ に作 つく られた新 あたら しい出入 でい り口 ぐち をそのままにするなど、復元 ふくげん 工事 こうじ としては杜撰 ずさん さの残 のこ るものとなっている。この戦後 せんご の復元 ふくげん 工事 こうじ の文書 ぶんしょ 記録 きろく はアウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん にも一切 いっさい 残 のこ っていないようであるが、残 のこ された戦時 せんじ 中 ちゅう の図面 ずめん の変化 へんか を見 み ると、明 あき らかに戦後 せんご に復元 ふくげん 工事 こうじ を行 おこ なったものであることがわかる。
人体 じんたい 実験 じっけん の舞台 ぶたい となった第 だい 10号棟 ごうとう の病院 びょういん (第 だい 一 いち 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ )
ドイツ人 じん 医師 いし たちは、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ をさまざまな実験 じっけん の検体 けんたい とした。いわゆる「人体 じんたい 実験 じっけん 」である。カール・ゲープハルト 、エルンスト・ロベルト・グラーヴィッツ 、ホルスト・シューマン らはスラブ民族 みんぞく 撲滅 ぼくめつ のために男女 だんじょ の断種 だんしゅ 実験 じっけん を、ヨーゼフ・メンゲレ は双子 ふたご や身体 しんたい 障害 しょうがい 者 もの 、精神 せいしん 障害 しょうがい 者 もの を使 つか った遺伝 いでん 学 がく や人類 じんるい 学 がく の研究 けんきゅう を行 おこな ったとされる。
ほかにも新薬 しんやく 投与 とうよ 実験 じっけん や有害 ゆうがい 物質 ぶっしつ を囚人 しゅうじん の皮膚 ひふ に塗布 とふ する実験 じっけん などが行 おこな われた。命 いのち を落 お とした者 もの は数 すう 百 ひゃく に及 およ び、たとえ生還 せいかん できても多 おお くには障害 しょうがい が残 のこ った。ニュルンベルク裁判 さいばん などはこれらの行為 こうい を医療 いりょう 犯罪 はんざい として裁 さば いた(医者 いしゃ 裁判 さいばん に概要 がいよう )。また、裁判 さいばん の結果 けっか を受 う け、医学 いがく 的 てき 研究 けんきゅう における被験者 ひけんしゃ の意思 いし と自由 じゆう を保護 ほご する「ニュルンベルク綱領 こうりょう 」が示 しめ された。
死体 したい 焼却 しょうきゃく 施設 しせつ (火葬 かそう 場 じょう 、クレマトリウム)[ 編集 へんしゅう ]
火葬 かそう 場 じょう 1(アウシュヴィッツ第 だい 一 いち 収容 しゅうよう 所 しょ (基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ ))[ 編集 へんしゅう ]
アウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ で設営 せつえい された最初 さいしょ の火葬 かそう 場 じょう は、アウシュヴィッツ第 だい 一 いち 収容 しゅうよう 所 しょ に現在 げんざい も観光 かんこう 用 よう に公開 こうかい されている火葬 かそう 場 じょう 1である。この火葬 かそう 場 じょう は1940年 ねん 6月 がつ ごろ、元々 もともと ポーランド軍 ぐん が弾薬 だんやく 庫 こ として使 つか っていた建造 けんぞう 物 ぶつ を改修 かいしゅう して作 つく られた。火葬 かそう 炉 ろ の設計 せっけい ・製作 せいさく 担当 たんとう 会社 かいしゃ はトップフ・ウント・ゼーネ 社 しゃ (技術 ぎじゅつ 担当 たんとう 責任 せきにん 者 しゃ はクルト・プリューファー )であり[8] 、最初 さいしょ は炉 ろ (マッフル)が二 ふた つある火葬 かそう 炉 ろ を2基 き 設置 せっち していた。また火葬 かそう 炉 ろ のある部屋 へや のすぐ隣 となり にある部屋 へや は死体 したい 安置 あんち 所 しょ が設定 せってい された。
翌年 よくねん 9月 がつ 頃 ごろ の図面 ずめん では、もう一基 いっき の火葬 かそう 炉 ろ を追加 ついか して、合計 ごうけい 3基 き (マッフルの数 かず は6箇所 かしょ )が描 えが かれており、正確 せいかく な時期 じき は不明 ふめい であるが、この設計 せっけい 通 どお りに追加 ついか 設置 せっち された。
火葬 かそう 場 じょう Ⅰの火葬 かそう 炉 ろ は1943年 ねん 7月 がつ 頃 ごろ まで使用 しよう された後 のち 、ビルケナウでのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ が本格 ほんかく 化 か すると使用 しよう が中止 ちゅうし され、翌年 よくねん 中頃 なかごろ にはガス室 しつ として使用 しよう していた死体 したい 安置 あんち 所 しょ があった箇所 かしょ を中心 ちゅうしん に大幅 おおはば に改良 かいりょう して防空壕 ぼうくうごう とするとともに、火葬 かそう 炉 ろ を一旦 いったん 解体 かいたい し、煙突 えんとつ なども撤去 てっきょ していた。従 したが って、現在 げんざい の状態 じょうたい は戦後 せんご にポーランド当局 とうきょく がガス室 しつ のあった時 とき の状態 じょうたい に復元 ふくげん 工事 こうじ を行 おこ なったものである。煙突 えんとつ もその時 とき に再建 さいけん されている。
火葬 かそう 場 じょう Ⅱ〜Ⅴ(アウシュビッツ第 だい 二 に 収容 しゅうよう 所 しょ (ビルケナウ収容 しゅうよう 所 しょ ))[ 編集 へんしゅう ]
アウシュヴィッツ中央 ちゅうおう 建設 けんせつ 部 ぶ による1943年 ねん 6月 がつ 28日 にち 付 づけ の文書 ぶんしょ 。5箇所 かしょ の火葬 かそう 場 じょう の焼却 しょうきゃく 能力 のうりょく として、1日 にち あたり計 けい 4,756体 たい と記載 きさい されている。 第 だい 2収容 しゅうよう 所 しょ であるビルケナウ収容 しゅうよう 所 しょ の建設 けんせつ が進 すす み、1942年 ねん 中頃 なかごろ になると、ビルケナウでも火葬 かそう 場 じょう 建物 たてもの の建設 けんせつ が始 はじ まった。当初 とうしょ の計画 けいかく では、ビルケナウ収容 しゅうよう 所 しょ には多 おお くのソ連 それん 兵 へい 捕虜 ほりょ を収容 しゅうよう する予定 よてい だったので、ソ連 それん 兵 へい 捕虜 ほりょ 用 よう の大型 おおがた 火葬 かそう 場 じょう 建物 たてもの (火葬 かそう 場 じょう Ⅱ)を一 いち 棟 むね のみ建 た てる予定 よてい だったが、ビルケナウでのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ が本格 ほんかく 化 か するのに合 あ わせて、合計 ごうけい 4棟 むね の火葬 かそう 場 じょう が1943年 ねん 6月 がつ 頃 ごろ にかけて建設 けんせつ されることとなった。これら火葬 かそう 場 じょう の火葬 かそう 炉 ろ の仕様 しよう は以下 いか の通 とお りである。
火葬 かそう 場 じょう Ⅱ・Ⅲ・・・火葬 かそう 炉 ろ の数 かず は各 かく 5基 き 、1基 き についての炉 ろ (マッフル)の数 かず は3箇所 かしょ 。トータルではⅡ、Ⅲ合 あ わせて30箇所 かしょ のマッフルがあることになる。
火葬 かそう 場 じょう Ⅳ・Ⅴ・・・火葬 かそう 炉 ろ の数 かず は各 かく 2基 き 、1基 き についての炉 ろ (マッフル)の数 かず は4箇所 かしょ 。トータルではⅣ、Ⅴ合 あ わせて16箇所 かしょ のマッフルがあることになる。
従 したが って、ビルケナウだけで46箇所 かしょ のマッフルがあることになる。これらの火葬 かそう 場 じょう の火葬 かそう 能力 のうりょく については、アウシュヴィッツ親衛隊 しんえいたい 中央 ちゅうおう 建設 けんせつ 部 ぶ による文書 ぶんしょ が残 のこ されており、第 だい 1火葬 かそう 場 じょう と合 あ わせて、日 ひ あたり合計 ごうけい 4,756体 たい の遺体 いたい を火葬 かそう 可能 かのう とするものであった。
ビルケナウの4つの火葬 かそう 場 じょう は、ソ連 それん 軍 ぐん の進行 しんこう に伴 ともな って1944年 ねん 12月 がつ 頃 ごろ から解体 かいたい 作業 さぎょう が始 はじ まり、翌年 よくねん 1月 がつ のソ連 それん による収容 しゅうよう 所 しょ 解放 かいほう を前 まえ にして、親衛隊 しんえいたい が撤収 てっしゅう する前 まえ に全 すべ てダイナマイトによって破壊 はかい された。
野外 やがい での死体 したい 焼却 しょうきゃく [ 編集 へんしゅう ]
アウシュヴィッツでのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ が開始 かいし された時期 じき については、はっきりしたことは不明 ふめい であるものの、1942年 ねん の春 はる 頃 ごろ から、ビルケナウの敷地 しきち 外 がい での二 に 軒 けん の農家 のうか (稼働 かどう 開始 かいし 日 び は異 こと なる)を改造 かいぞう して作 つく られたガス室 しつ である「ブンカー」から始 はじ まったとされる。この場所 ばしょ を使用 しよう してユダヤ人 じん の大量 たいりょう 殺戮 さつりく を行 おこな っていた当初 とうしょ は、これらの死体 したい を焼却 しょうきゃく 処分 しょぶん するつもりはなく、単 たん に壕 ごう を掘 ほ って埋 う めていただけであった。しかし、夏 なつ 頃 ごろ になると遺体 いたい の腐敗 ふはい が進 すす んで、土壌 どじょう や地下水 ちかすい を汚染 おせん することになってしまった。そこで、ヒムラーからの命令 めいれい により、これらの死体 したい を全 すべ て再度 さいど 掘 ほ り起 お こして、焼却 しょうきゃく 処分 しょぶん することになったのである。この焼却 しょうきゃく 処分 しょぶん はアウシュヴィッツだけの問題 もんだい ではなかったようで、ソ連 それん 地域 ちいき で前年 ぜんねん から実施 じっし されていた現地 げんち でのユダヤ人 じん 虐殺 ぎゃくさつ による大量 たいりょう 埋葬 まいそう 墓 ぼ や、ヘウムノ収容 しゅうよう 所 しょ から始 はじ まったアウシュヴィッツ以外 いがい の絶滅 ぜつめつ 収容 しゅうよう 所 しょ でも同様 どうよう であった。そこで、親衛隊 しんえいたい は、アインザッツグルッペBの指揮 しき 官 かん の一人 ひとり であった、パウロ・ブローベル大佐 たいさ 指揮 しき の元 もと 、野外 やがい での効率 こうりつ 的 てき な死体 したい 焼却 しょうきゃく の考案 こうあん と実施 じっし を進 すす めたのである。アウシュヴィッツの司令 しれい 官 かん ヘスらは、当初 とうしょ 、ブローベル大佐 たいさ によって進 すす められていたヘウムノでの死体 したい 焼却 しょうきゃく 現場 げんば を視察 しさつ 、その後 ご ビルケナウのブンカーでの大量 たいりょう 埋葬 まいそう 墓 ぼ について、死体 したい 焼却 しょうきゃく が進 すす められたのであった。
ヘスの自伝 じでん によると、この時 とき に焼却 しょうきゃく された遺体 いたい の数 かず は合計 ごうけい 10万 まん 7000体 たい だったとのことである。
この野外 やがい 火葬 かそう は、ビルケナウの大型 おおがた 火葬 かそう 場 じょう が本格 ほんかく 稼働 かどう すると中止 ちゅうし されたが、1944年 ねん 5月 がつ に始 はじ まった、ハンガリーユダヤ人 じん の絶滅 ぜつめつ 作戦 さくせん では、あまりにも遺体 いたい が多 おお すぎたため、再度 さいど 、野外 やがい 火葬 かそう を行 おこな って、それらの死体 したい の大半 たいはん を野外 やがい で焼却 しょうきゃく することとなった。
赤十字 せきじゅうじ 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい (ICRC)とドイツ赤十字 せきじゅうじ (DRK)[ 編集 へんしゅう ]
まずは「赤十字 せきじゅうじ 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい (ICRC)」と「ドイツ赤十字 せきじゅうじ (DRK)」[注 ちゅう 23] の違 ちが いを簡単 かんたん にでも知 し る必要 ひつよう がある。ICRCは中立 ちゅうりつ 性 せい を重視 じゅうし した赤十字 せきじゅうじ 組織 そしき で、世界中 せかいじゅう の紛争 ふんそう 地域 ちいき へ介入 かいにゅう を行 おこな うことを目的 もくてき とした国際 こくさい 機関 きかん であり、本部 ほんぶ はスイスのジュネーブに置 お かれている。一方 いっぽう DRKは、ジュネーブ条約 じょうやく 締約 ていやく 国 こく のドイツに設 もう けられた各国 かっこく 赤十字 せきじゅうじ 組織 そしき [注 ちゅう 24] であり、活動 かつどう の中心 ちゅうしん はドイツ国内 こくない である。特 とく に、戦時 せんじ 中 ちゅう の両者 りょうしゃ はまったくの別 べつ 組織 そしき であり、ホロコーストを研究 けんきゅう するにあたっては、どちらの赤十字 せきじゅうじ が作成 さくせい した資料 しりょう かを見極 みきわ める必要 ひつよう がある。
輝 かがや かしい歴史 れきし のなかの汚点 おてん (ICRC)[ 編集 へんしゅう ]
ICRC(赤十字 せきじゅうじ 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい )のエンブレム
ドイツに捕 と らわれた戦争 せんそう 捕虜 ほりょ と対面 たいめん するICRC委員 いいん
スイス人 じん 技術 ぎじゅつ 者 しゃ などは戦時 せんじ 中 ちゅう もドイツ国内 こくない を自由 じゆう に移動 いどう でき、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所内 しょない の細部 さいぶ についてはさておき、1938年 ねん 頃 ごろ より後 のち にもたらされたドイツに関 かん する情報 じょうほう は赤十字 せきじゅうじ 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい (ICRC)が注視 ちゅうし せざるを得 え ないものであった。
各 かく 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に数 すう 多 おお くの援助 えんじょ 物資 ぶっし を送 おく り続 つづ けるが、ナチスの非 ひ 人道的 じんどうてき な行 おこな いの調査 ちょうさ と実効 じっこう 的 てき な手段 しゅだん による行動 こうどう については消極 しょうきょく 的 てき であった。理由 りゆう として、本部 ほんぶ の依拠 いきょ するスイスと当事 とうじ 国 こく ドイツが国境 こっきょう を接 せっ し、産業 さんぎょう でも強 つよ く結 むす びついていたことにより、永世 えいせい 中立 ちゅうりつ 国 こく と言 い えどもナチスの動向 どうこう には敏感 びんかん にならざるを得 え ない状況 じょうきょう であったこと、赤十字 せきじゅうじ の活動 かつどう には原則 げんそく 当事 とうじ 国 こく の承諾 しょうだく が必要 ひつよう なため表立 おもてだ った非難 ひなん は状況 じょうきょう をさらに困難 こんなん にすると考 かんが えられていたこと、さらにジュネーブ条約 じょうやく の条項 じょうこう に一般 いっぱん 市民 しみん (文民 ぶんみん )保護 ほご に関 かん する規定 きてい がなかった[注 ちゅう 25] ことなどが挙 あ げられる。
特 とく にスイス国益 こくえき に関 かん する問題 もんだい は大 おお きな足 あし かせであった。1942年 ねん 当時 とうじ 、ICRC委員 いいん でもあったスイス大統領 だいとうりょう フィリップ・エッター は、断固 だんこ たる態度 たいど を示 しめ すことに反対 はんたい し、ICRC委員 いいん 長 ちょう カール・ヤーコプ・ブルクハルト は、ファシズムよりも共産 きょうさん 主義 しゅぎ 拡大 かくだい を恐 おそ れ、その防波堤 ぼうはてい となるナチスと国際 こくさい 社会 しゃかい の良 よ き仲介 ちゅうかい 者 しゃ であろうとした(ブルクハルトがドイツ系 けい スイス人 じん であったことも関係 かんけい )。このような状況 じょうきょう 下 か で強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく り込 こ まれた視察 しさつ 員 いん は、意図 いと して作 つく られた平和 へいわ 的 てき な光景 こうけい に惑 まど わされることになる[注 ちゅう 26] 。
ICRCが実効 じっこう 的 てき 手段 しゅだん を執 と るようになったのは、ドイツの敗色 はいしょく が濃厚 のうこう になり、いよいよ残 のこ りすべての被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ を処刑 しょけい しはじめようとした1945年 ねん から。主 おも だった強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ にICRC委員 いいん を"常駐 じょうちゅう "させ監視 かんし できるようになったことで、それまで送 おく り続 つづ けていた援助 えんじょ 物資 ぶっし が被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ に確実 かくじつ に届 とど きはじめ、併 あわ せて消 き えかけた命 いのち も救 すく われた。
1995年 ねん 、ICRC委員 いいん 長 ちょう コルネリオ・ソマルガ は、アウシュヴィッツ解放 かいほう 50年 ねん 周年 しゅうねん 式典 しきてん に出席 しゅっせき するにあたり、当時 とうじ の対応 たいおう の誤 あやま りを認 みと め遺憾 いかん の意 い を表明 ひょうめい した[注 ちゅう 27] 。
ナチス党 とう 政権 せいけん 下 か のドイツに組 く み込 こ まれた赤十字 せきじゅうじ (DRK) [ 編集 へんしゅう ]
赤十字 せきじゅうじ の旗 はた
党 とう 大会 たいかい で講演 こうえん するカール・エドゥアルトDRK総裁 そうさい (1936)
1933年 ねん にイギリスの王族 おうぞく 出身 しゅっしん でナチス党員 とういん のカール・エドゥアルト 元 もと 公爵 こうしゃく がドイツ赤十字 せきじゅうじ (DRK)の総裁 そうさい 職 しょく に(後 のち に国会 こっかい 議員 ぎいん も兼任 けんにん )、1937年 ねん にSS高級 こうきゅう 将校 しょうこう エルンスト・ロベルト・グラーヴィッツ が総裁 そうさい 代行 だいこう 職 しょく にそれぞれ就任 しゅうにん したことは、DRKがナチスまたはSSの一部 いちぶ 局 きょく であることを象徴 しょうちょう するものであり、後 ご の組織 そしき 改編 かいへん を経 へ て決定的 けっていてき となる。
赤十字 せきじゅうじ の基本 きほん 原則 げんそく である「平等 びょうどう 」が破棄 はき されるとともに、ナチスの標榜 ひょうぼう する人種 じんしゅ 的 てき な抑圧 よくあつ 政策 せいさく が持 も ち込 こ まれた。強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の人体 じんたい 実験 じっけん や選別 せんべつ は、間接 かんせつ 的 てき に関係 かんけい したというあいまいなものではなく、DRKの行為 こうい そのものであったと言 い える[注 ちゅう 28] 。
1945年 ねん 4月 がつ 、エルンスト・グラーヴィッツはベルリンが戦場 せんじょう になる中 なか 、家族 かぞく を巻 ま き添 ぞ えにして手榴弾 しゅりゅうだん で自殺 じさつ 。カール・エドゥアルトは非 ひ ナチ化 か 裁判 さいばん で有罪 ゆうざい となり、重 おも い罰金 ばっきん を課 か せられるとともに、財産 ざいさん のほとんどをソ連 それん に没収 ぼっしゅう された。赤十字 せきじゅうじ の崇高 すうこう な理念 りねん に反 はん するだけでなく、まさに利用 りよう していたことは、苦 くる しい時代 じだい を生 い きた人々 ひとびと の信頼 しんらい を著 いちじる しく失墜 しっつい させた。
1944年 ねん 暮 く れ、ソ連 それん 軍 ぐん 接近 せっきん に伴 ともな い強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ および強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ の扱 あつか いが問題 もんだい となる。11月には、SSの一部 いちぶ 局 きょく 「親衛隊 しんえいたい 人種 じんしゅ 及 およ び移住 いじゅう 本部 ほんぶ 」が「強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ を管理 かんり 組織 そしき が独自 どくじ 判断 はんだん で処刑 しょけい するように」との通達 つうたつ を出 だ している。これを受 う け産業 さんぎょう 界 かい は、自 みずか らの手 て を汚 けが すまいと強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ をSSに返還 へんかん することを決 き めており、SS、産業 さんぎょう 界 かい 双方 そうほう に「解放 かいほう 」という姿勢 しせい は見 み うけられない。
アウシュヴィッツ収容 しゅうよう 者 しゃ は、なおも活動 かつどう するドイツ本国 ほんごく の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に移送 いそう か、処刑 しょけい のいずれかであった。実際 じっさい は約 やく 7,500名 めい が1945年 ねん 1月 がつ 27日 にち の解放 かいほう 時 じ にとどまっており、これはソ連 それん 軍 ぐん の急速 きゅうそく な接近 せっきん による混乱 こんらん 、一部 いちぶ 証言 しょうげん の「ドイツへ行 い くか残 のこ るか選 えら ぶことができた」といったような処置 しょち [注 ちゅう 29] 、さらには処刑 しょけい や移送 いそう が間 ま に合 あ わなかったなどの可能 かのう 性 せい が考 かんが えられる。移送 いそう された被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ は合計 ごうけい 60,000人 にん に上 のぼ るとされるが、移送 いそう 途中 とちゅう にも多 おお くが命 いのち を落 お としている。移送 いそう で生 い き残 のこ った者 もの は、別 べつ の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に入 い れられるだけのことで、実際 じっさい の解放 かいほう までに数ヵ月 すうかげつ 間 あいだ 待 ま たなければならなかった。[注 ちゅう 30] [注 ちゅう 31]
現在 げんざい のアウシュヴィッツ[ 編集 へんしゅう ]
アウシュヴィッツを訪問 ほうもん するローマ教皇 きょうこう ベネディクト16世 せい
多 おお くの要人 ようじん が公式 こうしき ・非公式 ひこうしき にかかわらずこの地 ち を訪 おとず れている。一 いち 例 れい として、1979年 ねん にはポーランド出身 しゅっしん のローマ教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい が、2006年 ねん 5月 がつ 28日 にち にはベネディクト16世 せい が訪問 ほうもん している。ベネディクト16世 せい は「この地 ち で未 み 曽 そ 有 ゆう の大量 たいりょう 殺戮 さつりく があったことは、キリスト教徒 きりすときょうと として、ドイツ人 じん 教皇 きょうこう として耐 た え難 がた いことだ」と述 の べた。
2016年 ねん にはフランシスコ が訪問 ほうもん し「惨劇 さんげき の場 ば では言葉 ことば は無用 むよう 」と「死 し の壁 かべ 」の前 ぜん や「聖 せい コルベの監獄 かんごく 」の中 なか で黙祷 もくとう した。年間 ねんかん を通 つう じイスラエル人 じん 学生 がくせい の修学旅行 しゅうがくりょこう のルートになっている。
日本 にっぽん からの訪問 ほうもん も増 ふ えており、多 おお くても200人 にん 程度 ていど だった年間 ねんかん 訪問 ほうもん 者 しゃ が近年 きんねん は5,000人 にん を超 こ えた。なお、日本 にっぽん 国内 こくない にはアウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん から展示 てんじ 物 ぶつ を譲 ゆず り受 う けた「アウシュヴィッツ平和 へいわ 博物館 はくぶつかん 」が福島 ふくしま 県 けん 白河 しらかわ 市 し にある。
アウシュヴィッツの死亡 しぼう 者 しゃ 数 すう について [ 編集 へんしゅう ]
おびただしい数 かず の眼鏡 めがね フレーム。収容 しゅうよう の際 さい に没収 ぼっしゅう されたもの(アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん 展示 てんじ )
靴 くつ の山 やま 。女性 じょせい もののサンダルも含 ふく まれている。(アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん 展示 てんじ )
慰霊 いれい の碑文 ひぶん (オランダ語 ご )。「この地 ち を永遠 えいえん に絶望 ぜつぼう の叫 さけ びとし、人類 じんるい への警告 けいこく とせよ。ナチスはここで、ヨーロッパ各国 かっこく のユダヤ人 じん を中心 ちゅうしん に、およそ150万 まん 人 にん の男女 だんじょ と子供 こども を殺害 さつがい した」(アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん )
ニュルンベルク裁判 さいばん では、起訴 きそ 状 じょう において「アウシュビッツでは約 やく 400万 まん 人 にん が絶滅 ぜつめつ され」と記述 きじゅつ されていた[18] が、判決 はんけつ 文 ぶん では「400万 まん 人 にん 」は触 ふ れられず、アウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ 司令 しれい 官 かん だったルドルフ・ヘス が「アウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ だけで250万 まん 人 にん が絶滅 ぜつめつ され、さらに50万 まん 人 にん が病気 びょうき と飢餓 きが で死亡 しぼう したと見積 みつ もっている」と証言 しょうげん していたとして記載 きさい されただけだった[19] 。
アウシュヴィッツ国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん の記念 きねん 石碑 せきひ には「400万 まん 人 にん 」と記載 きさい されていたが、1990年 ねん に撤去 てっきょ され、1995年 ねん に「150万 まん 人 にん 」に改 あらた められた。これは、アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん の歴史 れきし 部門 ぶもん の責任 せきにん 者 しゃ だったフランシスチェク・ピーパー博士 はかせ による犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう の研究 けんきゅう 結果 けっか を受 う け入 い れたものであり、「150万 まん 人 にん 」はその犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう 推計 すいけい 値 ち の誤差 ごさ を含 ふく めた最大 さいだい 値 ち である。ただし、ピーパーの研究 けんきゅう 成果 せいか として一般 いっぱん 的 てき に認 みと められているアウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ の犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう は110万 まん 人 にん である[20] 。
アウシュヴィッツ博物館 はくぶつかん の公式 こうしき ページには、「少 すく なくとも130万 まん 人 にん が収容 しゅうよう 所 しょ に強制 きょうせい 送還 そうかん され、そのうち少 すく なくとも110万 まん 人 にん が死亡 しぼう した。死亡 しぼう 者 しゃ 数 すう は150万 まん 人 にん とも言 い われている」と記載 きさい されている[21] 。
終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の1945年 ねん 当時 とうじ にソ連 それん が主張 しゅちょう した400万 まん 人 にん という数 かず は、ニュルンベルク裁判 さいばん にソ連 それん から提出 ていしゅつ された、ソ連 それん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい が作成 さくせい したとされるアウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ [22] に記載 きさい されているものであるが、この400万 まん 人 にん という犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう は、複数 ふくすう の元 もと 囚人 しゅうじん が証言 しょうげん している数字 すうじ でもあり[23] [24] 、ソ連 それん の報告 ほうこく 書 しょ では火葬 かそう 能力 のうりょく からの推計 すいけい 値 ち となっているものの、その火葬 かそう 能力 のうりょく 自体 じたい の算定 さんてい 根拠 こんきょ の記載 きさい がないことや、アウシュヴィッツに強制 きょうせい 移送 いそう されたそれら追放 ついほう 者 しゃ の数 かず もまったく示 しめ していないことなどから、それら元 もと 囚人 しゅうじん の証言 しょうげん にある「400万 まん 人 にん 」を採用 さいよう したのではないかと推測 すいそく される。
なお、ニュルンベルク裁判 さいばん の法廷 ほうてい では、司令 しれい 官 かん ルドルフ・ヘス は「250万 まん 人 にん 」(と餓死 がし ・病死 びょうし による死者 ししゃ 数 すう 50万 まん 人 にん )と証言 しょうげん していたが、ニュルンベルク裁判 さいばん での勾留 こうりゅう 中 ちゅう に、囚人 しゅうじん の心理 しんり 観察 かんさつ を行 おこ なっていたグスタフ・ギルバートに対 たい してヘスは自分 じぶん 自身 じしん の推計 すいけい として「最大 さいだい でも150万 まん 人 にん 」と語 かた っており[25] 、ポーランドでの勾留 こうりゅう 中 ちゅう に書 か かれた自身 じしん の回想 かいそう 録 ろく では合計 ごうけい 「113万 まん 人 にん 」の犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう を述 の べている。また、ヘスはニュルンベルク裁判 さいばん や回想 かいそう 録 ろく で、「250万 まん 人 にん 」はアイヒマン (あるいはアイヒマンの代理 だいり であるギュンター)が語 かた ったものだと明確 めいかく に述 の べており、ベルリン包囲 ほうい 直前 ちょくぜん に、親衛隊 しんえいたい の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 総監 そうかん であったリヒャルト・グリュックス 親衛隊 しんえいたい 中将 ちゅうじょう にアイヒマンがそう語 かた っているのを見 み たからだ、と述 の べている
これら以外 いがい のアウシュヴィッツの死亡 しぼう 者 しゃ 数 すう の推定 すいてい について記載 きさい する。
125万 まん 人 にん 説 せつ
ラウル・ヒルバーグ (Raul Hilberg )による。
「100万 まん 人 にん 」のユダヤ人 じん と「25万 まん 人 にん 」の非 ひ ユダヤ人 じん の合計 ごうけい 「125万 まん 人 にん 」が殺 ころ された[27]
[28] 。
120万 まん 人 にん 説 せつ
ユネスコの世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された人数 にんずう 。(2007年 ねん ) [要 よう 出典 しゅってん ]
80万 まん から90万 まん 人 にん 説 せつ
ジェラルド・ライトリンガー(Gerald Reitlinger )による
[27] [28] 。
63万 まん 人 にん から71万 まん 人 にん 説 せつ
ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac )による。
(そのうちガス室 しつ の犠牲 ぎせい 者 しゃ は47万 まん 人 にん から55万 まん 人 にん であった)
[27] [28]
50万 まん 人 にん 説 せつ
フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer )による。
(そのうちガス室 しつ の犠牲 ぎせい 者 しゃ は35万 まん 人 にん であった)
[27] [28]
15万 まん 人 にん 以下 いか 説 せつ (その内 うち の約 やく 10万 まん 人 にん がユダヤ人 じん )
アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz )
「死亡 しぼう 者 しゃ は15万 まん 人 にん に達 たっ し、そのうち10万 まん がユダヤ人 じん であった。彼 かれ らは殺 ころ されたのではない。病気 びょうき により死亡 しぼう したのである。」[28]
カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno )13万 まん 5500人 にん 説 せつ (2023年 ねん )[27] 、など歴史 れきし 修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ による。
終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の1945年 ねん 当時 とうじ にソ連 それん が主張 しゅちょう した400万 まん 人 にん という数 かず は、当時 とうじ の非 ひ ナチ化 か の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けていると認識 にんしき されている。同様 どうよう に近年 きんねん においても、新 あら たに主張 しゅちょう される死亡 しぼう 者 しゃ 数 すう の多 おお い少 すく ないにかかわらず政治 せいじ または宗教 しゅうきょう 的 てき 背景 はいけい に影響 えいきょう されていることが多 おお い。たとえば、イスラム教徒 きょうと の反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 者 しゃ との接触 せっしょく が疑 うたが われる「歴史 れきし 見直 みなお し研究所 けんきゅうじょ 」は15万 まん 人 にん という数値 すうち を掲 かか げている。このような問題 もんだい の根本 こんぽん には「絶対 ぜったい 的 てき 数値 すうち が今後 こんご も得 え られる可能 かのう 性 せい が低 ひく く、主張 しゅちょう することによって自己 じこ または属 ぞく する集団 しゅうだん の利益 りえき に有利 ゆうり に働 はたら く」という事情 じじょう が挙 あ げられる。[要 よう 出典 しゅってん ]
否認 ひにん 主義 しゅぎ (または修正 しゅうせい 主義 しゅぎ )[ 編集 へんしゅう ]
アウシュヴィッツ=ビルケナウにおける虐殺 ぎゃくさつ 自体 じたい や、その人数 にんずう や規模 きぼ を疑 うたが う説 せつ がある。
1979年 ねん 、第 だい 一 いち ・第 だい 二 に 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の遺構 いこう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における悲劇 ひげき の証拠 しょうこ であり後世 こうせい に語 かた り継 つ ぐべきものとして、ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された。日本 にっぽん では、いわゆる「負 まけ の世界 せかい 遺産 いさん 」に挙 あ げられる。
この世界 せかい 遺産 いさん は世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん のうち、以下 いか の条件 じょうけん を満 み たし、登録 とうろく された(以下 いか の基準 きじゅん は世界 せかい 遺産 いさん センター公表 こうひょう の登録 とうろく 基準 きじゅん からの翻訳 ほんやく 、引用 いんよう である)。
(6) 顕著 けんちょ で普遍 ふへん 的 てき な意義 いぎ を有 ゆう する出来事 できごと 、現存 げんそん する伝統 でんとう 、思想 しそう 、信仰 しんこう または芸術 げいじゅつ 的 てき 、文学 ぶんがく 的 てき 作品 さくひん と直接 ちょくせつ にまたは明白 めいはく に関連 かんれん するもの(この基準 きじゅん は他 た の基準 きじゅん と組 く み合 あ わせて用 もち いるのが望 のぞ ましいと世界 せかい 遺産 いさん 委員 いいん 会 かい は考 かんが えている)。
かねてからポーランド政府 せいふ は「ポーランド人 じん が作 つく ったかのような印象 いんしょう を与 あた える」として登録 とうろく 名称 めいしょう の変更 へんこう を要請 ようせい しており、ユネスコ世界 せかい 遺産 いさん 委員 いいん 会 かい は2007年 ねん 6月 がつ 27日 にち に「アウシュヴィッツ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 」から「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制 きょうせい 絶滅 ぜつめつ 収容 しゅうよう 所 しょ (1940年 ねん -1945年 ねん ) 」へ変更 へんこう した。
主 おも な人物 じんぶつ (五十音 ごじゅうおん 順 じゅん )[ 編集 へんしゅう ]
獄死 ごくし した人物 じんぶつ
アルマ・ロゼ :音楽家 おんがくか 。アウシュヴィッツのオーケストラを指揮 しき 。1944年 ねん 4月 がつ 4日 にち 死亡 しぼう 。死因 しいん は中毒 ちゅうどく 死 し 。彼 かれ の日記 にっき によると、「痛 いた い!痛 いた いと叫 さけ んでいた。ホロコーストは、ユダヤ人 じん を家畜 かちく のように死 し ねと言 い うのと同 おな じ」とある。
アンネ・フランク :「アンネの日記 にっき 」原作 げんさく 者 しゃ 。両親 りょうしん や姉 あね を含 ふく む、隠 かく れ家 が 生活 せいかつ での同居 どうきょ 人 じん 達 たち とともに移送 いそう されて来 き て、アウシュヴィッツに2ヵ月 かげつ 間 あいだ 収容 しゅうよう される。再 さい 移送 いそう 先 さき のベルゲン・ベルゼン強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ でチフスを患 わずら い1945年 ねん 3月 がつ 頃 ごろ 死亡 しぼう 。父 ちち オットー はアウシュヴィッツに留 とど まったが、隠 かく れ家 が 生活 せいかつ での同居 どうきょ 人中 ひとなか 唯一 ゆいいつ の生還 せいかん 者 しゃ となる。同居 どうきょ 人 じん の中 なか では、ヘルマン・ファン・ペルス と母 はは エーディト が、同 どう 収容 しゅうよう 所 しょ で死亡 しぼう 。
ヴィクトル・ウルマン : 作家 さっか 。彼 かれ の音楽 おんがく はナチスドイツに頽廃 たいはい 音楽 おんがく とレッテルを貼 は られ弾圧 だんあつ された。1944年 ねん 10月 がつ 18日 にち 殺害 さつがい されたとされている。また、息子 むすこ ペーデターと妻 つま ミールは、ガス室 しつ で殺 ころ された。
エーディト・シュタイン :聖職 せいしょく 者 しゃ 。1942年 ねん 8月 がつ 9日 にち 、実姉 じっし とともにガス室 しつ で処刑 しょけい 。1998年 ねん 、聖人 せいじん に列 れっ せられた。
エルゼ・ベルク :オランダ人 じん 画家 がか 。夫 おっと のモミー・シュワルツ (英語 えいご 版 ばん ) とともに1942年 ねん 11月19日 にち に殺害 さつがい された。
ギデオン・クライン :音楽家 おんがくか 。アウシュヴィッツに収容 しゅうよう されていた時期 じき もある。1945年 ねん 1月 がつ 頃 ごろ 、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ で死亡 しぼう 。
タデウシュ・タンスキ : 自動車 じどうしゃ 技術 ぎじゅつ 者 しゃ 。ポーランド の指導 しどう 層 そう 、知識 ちしき 階級 かいきゅう を対象 たいしょう としたAB行動 こうどう 時 とき に逮捕 たいほ され1941年 ねん 3月 がつ 23日 にち に死去 しきょ 。
ドーラ・ジェルソン :女性 じょせい 歌手 かしゅ 。1943年 ねん 2月 がつ アウシュヴィッツにて死亡 しぼう 。
パヴェル・ハース :音楽家 おんがくか 。テレジン強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ からアウシュヴィッツに移送 いそう 。同 どう 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ にて1944年 ねん 10月 がつ 17日 にち 死亡 しぼう 。
ハンス・クラーサ :音楽家 おんがくか 。作品 さくひん には児童 じどう オペラ「ブルンジバル 」がある。チェコのテレジン 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ からアウシュヴィッツに移送 いそう 直後 ちょくご の1944年 ねん 10月17日 にち 、ガス室 しつ で処刑 しょけい 。
ハンナ・ブレイディ :「ハンナのかばん」主人公 しゅじんこう 。チェコのテレジン強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ から実兄 じっけい がいるアウシュヴィッツに移送 いそう される。13歳 さい の幼 おさな い少女 しょうじょ は労働 ろうどう 力 りょく とは認 みと められず、1944年 ねん 頃 ごろ 処刑 しょけい 。
マキシミリアノ・コルベ :聖職 せいしょく 者 しゃ 。脱走 だっそう 者 しゃ が出 で たための連帯 れんたい 責任 せきにん で餓死 がし 刑 けい を宣告 せんこく された被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ の身代 みが わりとなる。1982年 ねん 、聖人 せいじん に列 れっ せられる。
マルツェル・テュベルク : 作曲 さっきょく 家 か 。テュベルクはカトリック であったが、母方 ははかた の高祖父 こうそふ がユダヤ人 じん であったために16分 ぶん の1ユダヤ人 じん として逮捕 たいほ され、ドイツに引 ひ き渡 わた された。1944年 ねん 12月31日 にち に死亡 しぼう したと記録 きろく されている。
モミー・シュワルツ : 画家 がか ・エルゼ・ベルクの夫 おっと 。妻 つま エルゼ・ベルクとともに逮捕 たいほ され、1942年 ねん 11月19日 にち に殺害 さつがい された。
戦後 せんご 解放 かいほう された人物 じんぶつ
シモーヌ・ヴェイユ
脱獄 だつごく
人物 じんぶつ
加害 かがい 者 しゃ 的 てき 立場 たちば でアウシュヴィッツに関与 かんよ した人物 じんぶつ [ 編集 へんしゅう ]
イルマ・グレーゼ
アウシュヴィッツに関 かん する作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
映画 えいが ・小説 しょうせつ ・ドラマ[ 編集 へんしゅう ]
^ 「アウシュビッツ」と表記 ひょうき している日本 にっぽん の歴史 れきし 教科書 きょうかしょ もある。たとえば、『中学 ちゅうがく 社会 しゃかい 歴史 れきし 』(教育 きょういく 出版 しゅっぱん 株式会社 かぶしきがいしゃ 。文部省 もんぶしょう 検定 けんてい 済 ずみ 教科書 きょうかしょ 。中学校 ちゅうがっこう 社会 しゃかい 科 か 用 よう 。平成 へいせい 8年 ねん 2月 がつ 29日 にち 文部省 もんぶしょう 検定 けんてい 済 ずみ 。平成 へいせい 10年 ねん 1月 がつ 10日 とおか 印刷 いんさつ 。平成 へいせい 10年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 発行 はっこう 。教科書 きょうかしょ 番号 ばんごう 17教 きょう 出 で ・歴史 れきし 762)p 255では「また, 各国 かっこく のユダヤ人 じん は, ユダヤ人 じん であるという理由 りゆう だけでアウシュビッツなどの強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に入 い れられて虐殺 ぎゃくさつ された。」と記載 きさい されている。
^ 東部 とうぶ 併合 へいごう 地域 ちいき から全 すべ てのユダヤ人 じん と300-400万 まん 人 にん に及 およ ぶポーランド系 けい ユダヤ人 じん を移送 いそう し、入 い れ替 か わりに20 万 まん のドイツ人 じん を入植 にゅうしょく させる計画 けいかく 。
^ 「アンネの日記 にっき 」「ハンナのかばん 」などが著名 ちょめい 。
^ 前記 ぜんき の収容 しゅうよう 理由 りゆう 以外 いがい に、労働 ろうどう 者 しゃ の一般 いっぱん 募集 ぼしゅう も行 おこな い、工場 こうじょう などへ派遣 はけん していた。労働 ろうどう 力 りょく 不足 ふそく が顕著 けんちょ になってからは、募集 ぼしゅう のほかに、強制 きょうせい 的 てき に占領 せんりょう 地 ち の住民 じゅうみん を連行 れんこう するようになる。
^ 戦況 せんきょう が悪化 あっか して労働 ろうどう 力 りょく の確保 かくほ が難 むずか しくなると、人道的 じんどうてき な観点 かんてん からではなく、生産 せいさん を落 お とさないために労働 ろうどう 者 しゃ の再 さい 生産 せいさん について考慮 こうりょ されるようになるが、同時 どうじ に食料 しょくりょう 自給 じきゅう も悪化 あっか しており、結局 けっきょく は、より厳 きび しい状況 じょうきょう に労働 ろうどう 者 しゃ はおかれるだけであった。
^ 終戦 しゅうせん 直後 ちょくご のソ連 それん は「400万 まん 人 にん が虐殺 ぎゃくさつ された」と発表 はっぴょう したが、現在 げんざい では誇張 こちょう の可能 かのう 性 せい が高 たか いと見 み るむきが強 つよ い。ビルケナウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 跡 あと にある慰霊 いれい 碑 ひ に刻 きざ まれた死亡 しぼう 者 しゃ 数 すう は、東西 とうざい 冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 後 ご の1995年 ねん に「400万 まん 人 にん 」から「150万 まん 人 にん 」に改 あらた められ、世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく したユネスコの2007年 ねん 6月 がつ 28日 にち のリリースには「120万 まん 人 にん 」と記載 きさい されている。近年 きんねん 、客観 きゃっかん 的 てき な研究 けんきゅう 結果 けっか を踏 ふ まえて死亡 しぼう 者 しゃ 総数 そうすう は減少 げんしょう したが、被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ 総数 そうすう 同様 どうよう 、確定 かくてい 的 てき な数値 すうち の把握 はあく にはいたっていない
^ 持 も ち株 かぶ 会社 かいしゃ のドイツ経済 けいざい 企業 きぎょう 有限 ゆうげん 会社 かいしゃ (DWB)、ドイツ装備 そうび 品 ひん 産業 さんぎょう 有限 ゆうげん 会社 かいしゃ (DAW)、ドイツ食糧 しょくりょう 試験 しけん 所 しょ がSSの運営 うんえい する企業 きぎょう 。ドイツ食糧 しょくりょう 試験 しけん 所 しょ はダッハウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に調味 ちょうみ 料 りょう 確保 かくほ のためのハーブ栽培 さいばい 施設 しせつ を作 つく ったことでも知 し られる。
^ 1940年 ねん 1月 がつ 現在 げんざい の工場 こうじょう 数 すう 。
^ アウシュヴィッツ全体 ぜんたい を管理 かんり する組織 そしき が置 お かれていたため、基幹 きかん 収容 しゅうよう 所 しょ と呼 よ ばれる。
^ 1943年 ねん 12月 がつ まで所長 しょちょう として強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ を指揮 しき 。後任 こうにん はアルトゥール・リーベヘンシェル 。さらにその後任 こうにん で最後 さいご の所長 しょちょう はリヒャルト・ベーア (戦後 せんご 、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判 さいばん で被告 ひこく となるが収監 しゅうかん 中 ちゅう に死亡 しぼう )。
^ 当初 とうしょ 「ブナ収容 しゅうよう 所 しょ 」と呼 よ ばれていたが、1944年 ねん 以降 いこう は「モノヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ 」に改称 かいしょう 。
^ 3年 ねん 後 ご に脱出 だっしゅつ し、アウシュヴィッツの証言 しょうげん 者 しゃ となったカジミェシ・アルビン も含 ふく まれていた。
^ 戦後 せんご 、ユダヤ人 じん がイーゲー・ファルベン社 しゃ に対 たい して起 お こした損害 そんがい 賠償 ばいしょう と慰謝 いしゃ 料 りょう を求 もと める民事 みんじ 訴訟 そしょう は1957年 ねん に和解 わかい が成立 せいりつ 。和解 わかい 金 きん として3,000万 まん マルク が(このうち2,700万 まん マルクがユダヤ人 じん 団体 だんたい に、300万 まん マルクが非 ひ ユダヤ人 じん 強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ に)支払 しはら われている。
^ BASF 社 しゃ 、バイエル 社 しゃ 、ヘキスト 社 しゃ の3社 しゃ に分割 ぶんかつ された。
^ 「正面 しょうめん 」「正面 しょうめん を向 む き視線 しせん を(撮影 さつえい 者 しゃ から見 み て)左上 ひだりうえ に上 あ げたもの」「横向 よこむ き」の写真 しゃしん を撮影 さつえい された。
^ 「Herbert, Geschichte der Ausländerpolitik, S.154.」では更 さら に細 こま かく分類 ぶんるい している。「第 だい 一 いち にドイツ人 じん 、続 つづ いて西欧 せいおう 労働 ろうどう 者 しゃ (フランス人 じん 市民 しみん 労働 ろうどう 者 しゃ に続 つづ いてベルギー、オランダ人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ )、そして続 つづ いてドイツと同盟 どうめい あるいは従属 じゅうぞく 関係 かんけい にある南東 なんとう ヨーロッパ出身 しゅっしん 労働 ろうどう 者 しゃ (ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、次 つぎ にチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身 しゅっしん 労働 ろうどう 者 しゃ 、そしてポーランド人 じん 、最後 さいご にソ連 それん 人 じん 、(1943年 ねん イタリア降伏 ごうぶく 後 ご は)イタリア人 じん 、最下 さいか 層 そう にはユダヤ人 じん が位置 いち していた」。
^ 例外 れいがい 的 てき なケースとしてフィリップ・ミューラー の件 けん が挙 あ げられる。彼 かれ 自身 じしん の証言 しょうげん によれば1942年 ねん 春 はる から年末 ねんまつ までゾンダーコマンドであったが、後 のち に別 べつ の労働 ろうどう に移 うつ ることになり生 い き残 のこ ることができたとしている。彼 かれ はニュルンベルク裁判 さいばん で証言 しょうげん 台 だい に立 た った。
^ 争 あらそ いを避 さ けるため被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ 間 あいだ でパン屑 くず の量 りょう まで計 はか って配分 はいぶん したという証言 しょうげん もある[4]
^ 各 かく 労働 ろうどう 者 しゃ の労働 ろうどう 力 りょく を3つのランク(ランク1. 一般 いっぱん 的 てき ドイツ人 じん の業績 ぎょうせき の100%以上 いじょう 、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下 いか )いずれかに評価 ひょうか し、ランクによる配給 はいきゅう 制度 せいど 。産業 さんぎょう 界 かい は生産 せいさん 性 せい の向上 こうじょう を目的 もくてき に労働 ろうどう 者 しゃ の再 さい 生産 せいさん 環境 かんきょう 向上 こうじょう を1943年 ねん 頃 ごろ より求 もと めている。背景 はいけい には、食料 しょくりょう 自給 じきゅう 状 じょう 況 きょう の悪化 あっか のほかに、東部 とうぶ 戦線 せんせん の停滞 ていたい さらには、ソ連 それん 軍 ぐん の反攻 はんこう による労働 ろうどう 力 りょく 確保 かくほ の行 い き詰 づ まりが挙 あ げられる。
^ たとえば、スラブ人 じん に対 たい しては、最低 さいてい レベルに属 ぞく するドイツ人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ のさらに半分 はんぶん などと規定 きてい されていた。
^ 後 のち に聖人 せいじん に列 れっ せられたマキシミリアノ・コルベ 神父 しんぷ は、他人 たにん の身代 みが わりとしてこの餓死 がし 牢 ろう に入 はい っている。
^ 絞首刑 こうしゅけい には移動 いどう 式 しき の絞首刑 こうしゅけい 台 だい なども用 もち いられた。見 み せしめによる精神 せいしん 的 てき 抑圧 よくあつ を第 だい 一 いち の目的 もくてき としていると言 い える。
^ バイエルン赤十字 せきじゅうじ (BRK)もこれに含 ふく まれる。
^ 「日本 にっぽん 赤十字 せきじゅうじ 東京 とうきょう 支部 しぶ 」に概要 がいよう
^ 1949年 ねん に改定 かいてい (第 だい 4項 こう )。
^ 元 もと 視察 しさつ 員 いん のモーリス・ロッセル はBBCのインタビューに対 たい し、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の状況 じょうきょう を自 みずか らの安全 あんぜん を考慮 こうりょ した上 うえ で直接 ちょくせつ 現地 げんち から"正直 しょうじき "に報告 ほうこく することの難 むずか しさを述 の べている。
^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対 たい し、スイスの国政 こくせい にかかわる人間 にんげん がICRC委員 いいん であったことに問題 もんだい があったとも述 の べている。
^ 1939年 ねん から1941年 ねん に実施 じっし されたT4作戦 さくせん にも関与 かんよ した。
^ ただし、ナチスはドイツ国内 こくない で他 た 民族 みんぞく (スラブ人 じん など)が労働 ろうどう することを許可 きょか しない傾向 けいこう にあり、もしこのような処置 しょち があったとしてもすべての被 ひ 収容 しゅうよう 者 しゃ に対 たい してとは考 かんが えにくい。また、当時 とうじ からソ連 それん の体制 たいせい に対 たい する恐怖 きょうふ が一般 いっぱん 大衆 たいしゅう に少 すく なからずあったことも事実 じじつ であり、自主 じしゅ 的 てき な選択 せんたく はもちろん、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ という特殊 とくしゅ な環境 かんきょう 下 か においてこの恐怖 きょうふ を利用 りよう してドイツ移送 いそう を誘導 ゆうどう 的 てき に承諾 しょうだく させたとも考 かんが えられる(ストックホルム症候群 しょうこうぐん )。
^ アウシュヴィッツなどの強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ から解放 かいほう され帰還 きかん したソ連 それん 兵 へい 捕虜 ほりょ 、一般 いっぱん ソ連 それん 人 じん (ソ連邦 それんぽう に属 ぞく する人々 ひとびと )の多 おお くは、敵 てき に協力 きょうりょく した反逆 はんぎゃく 者 しゃ としてソ連 それん によって教化 きょうか 施設 しせつ (強制 きょうせい 労働 ろうどう 施設 しせつ )に送 おく られることになる。
^ 強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に残 のこ り、ソ連 それん 軍 ぐん に解放 かいほう された人々 ひとびと についても必 かなら ずしも安全 あんぜん が保障 ほしょう されたわけではなかったとする証言 しょうげん もある。ソ連 それん は解放 かいほう から約 やく ひと月 がつ の間 あいだ 、他 た の連合 れんごう 諸国 しょこく がアウシュヴィッツに立 た ち入 い ることを許可 きょか しなかった。このことが後 のち にさまざまな疑念 ぎねん を生 う むひとつの原因 げんいん にもなる。
^ 世界 せかい 遺産 いさん アカデミー監修 かんしゅう (2012) 『すべてがわかる世界 せかい 遺産 いさん 大 だい 事典 じてん ・上 うえ 』マイナビ 、p.23
^ a b 早乙女 さおとめ (1980)p.15
^ 早乙女 さおとめ (1980)p.32
^ 『アウシュビッツの沈黙 ちんもく 』 花 はな 元 もと 潔 きよし 東海大学 とうかいだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 2008年 ねん
^ 『アウシュビッツ博物館 はくぶつかん 案内 あんない 』 中谷 なかたに 剛 つよし 凱風社 がいふうしゃ 2005年 ねん
^ アウシュヴィッツ徹底 てってい ガイド 6号棟 ごうとう その2「日々 ひび の生活 せいかつ 」 Archived 2007年 ねん 12月17日 にち , at the Wayback Machine .
^ フォルクハルト クニッゲ; 柴 しば 嵜 雅子 まさこ (2008). “「最終 さいしゅう 的 てき 解決 かいけつ 」の技術 ぎじゅつ 者 しゃ たち” . 国際 こくさい 研究 けんきゅう 論叢 ろんそう : 大阪国際大学 おおさかこくさいだいがく 紀要 きよう 21 (3). http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/ .
^ https://avalon.law.yale.edu/imt/count3.asp About 1,500,000 persons were exterminated in Maidanek and about 4,000,000 persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, France, and other countries.
^ https://avalon.law.yale.edu/imt/judwarcr.asp With regard to Auschwitz, the Tribunal heard the evidence of Hoess, the Commandant of the camp from 1st May, 1940, to 1st December, 1943. He estimated that in the camp of Auschwitz alone in that time 2,500,000 persons were exterminated, and that a further 500,000 died from disease and starvation.
^ Estimating the number of deportees to and victims of the Auschwitz-Birkenau camp, Franciszek Piper
^ https://www.auschwitz.org/en/history/kl-auschwitz-birkenau/the-topography-of-the-camp/ At least 1,300,000 people were deported to the camp, of whom at least 1,100,000 perished. Some estimates of the number killed are as high as 1,500,000.
^ Translation of USSR-8 Soviet War Crimes Report on Auschwitz Nuremberg Trial - 6 May 1945
^ ヘンリク・タウバーの証言 しょうげん "I estimate that the total number of people who were gassed in Auschwitz amounts to about four million."(私 わたし は、アウシュビッツでガス処刑 しょけい された人々 ひとびと の総数 そうすう は約 やく 400万 まん 人 にん に達 たっ すると推定 すいてい している)
^ シュロモ・ドラゴンの証言 しょうげん "I believe that the number of people gassed in both bunkers and the four crematoria was over four million."(私 わたし は、ブンカーと4つの火葬 かそう 場 じょう の両方 りょうほう でガス処刑 しょけい された人 ひと の数 かず は400万 まん 人 にん を超 こ えると考 かんが えている)
^ The Van Pelt Report by Robert Jan van Pelt
^ a b c d e Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P127
^ a b c d e How many deaths at Auschwitz?