ニュルンベルク裁判 さいばん の被告 ひこく 席 せき (前列 ぜんれつ 奥 おく からヘルマン・ゲーリング 、ルドルフ・ヘス 、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 、ヴィルヘルム・カイテル 、後列 こうれつ 奥 おく からカール・デーニッツ 、エーリヒ・レーダー 、バルドゥール・フォン・シーラッハ 、フリッツ・ザウケル )
ニュルンベルク裁判 さいばん の被告 ひこく 席 せき (後列 こうれつ 手前 てまえ から、デーニッツ、レーダー、シーラッハ、ザウケル、アルフレート・ヨードル 、フランツ・フォン・パーペン 、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト 、アルベルト・シュペーア 、コンスタンティン・フォン・ノイラート 、ハンス・フリッチェ 。 前列 ぜんれつ 手前 てまえ から、ゲーリング、ヘス、リッベントロップ、カイテル、エルンスト・カルテンブルンナー 、アルフレート・ローゼンベルク 、ハンス・フランク 、ヴィルヘルム・フリック 、ユリウス・シュトライヒャー 、ヴァルター・フンク 、ヒャルマル・シャハト )
ニュルンベルク国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん (ニュルンベルクこくさいぐんじさいばん)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん において連合 れんごう 国 こく によって行 おこな われたナチス・ドイツ の戦争 せんそう 犯罪 はんざい を裁 さば く国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん である(1945年 ねん 11月20日 にち - 1946年 ねん 10月1日 にち )。国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチ党 とう )の党 とう 大会 たいかい 開催 かいさい 地 ち であるニュルンベルク で開 ひら かれた。日本 にっぽん の極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん (東京 とうきょう 裁判 さいばん )と並 なら ぶ二 に 大 だい 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん の一 ひと つ。
最初 さいしょ の主 おも な裁判 さいばん (英語 えいご :Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT )と、それに続 つづ く、ニュルンベルクを占領 せんりょう 統治 とうち していたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく による12の裁判 さいばん (英語 えいご :Nuremberg Military Tribunals , NMT . 1949年 ねん 4月 がつ 14日 にち まで行 おこな われ、一般 いっぱん には「ニュルンベルク継続 けいぞく 裁判 さいばん 」として、最初 さいしょ の主 おも な裁判 さいばん とは区別 くべつ される)で構成 こうせい された。
戦前 せんぜん の認識 にんしき [ 編集 へんしゅう ]
いわゆる「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」という言葉 ことば の淵源 えんげん は1909年 ねん のハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく に見 み られるが、用語 ようご として成立 せいりつ したのは戦後 せんご になってからだった[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1919年 ねん 1月 がつ 、連合 れんごう 国 こく は、国家 こっか 元首 げんしゅ をも含 ふく む戦争 せんそう 開始 かいし 者 しゃ の責任 せきにん を裁 さば く国際 こくさい 法廷 ほうてい の設置 せっち について討議 とうぎ を行 おこな った。この方針 ほうしん は採択 さいたく されなかったものの、ヴェルサイユ条約 じょうやく に前 ぜん ドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい を国際 こくさい 条約 じょうやく の信義 しんぎ に背 そむ いたとして国際 こくさい 法廷 ほうてい で裁 さば くという条項 じょうこう に反映 はんえい された。しかしヴィルヘルム2世 せい の裁判 さいばん は実現 じつげん せず、またドイツの戦争 せんそう 犯罪 はんざい 容疑 ようぎ 者 しゃ を国際 こくさい 法廷 ほうてい で裁 さば くこともドイツ側 がわ の拒否 きょひ にあい、ライプツィヒ戦争 せんそう 犯罪 はんざい 裁判 さいばん (英語 えいご 版 ばん ) として行 おこな われたドイツ国内 こくない の戦犯 せんぱん 裁判 さいばん は、ほとんど形式 けいしき 的 てき なものに過 す ぎなかった。
また、オスマン帝国 ていこく のアルメニア人 じん 虐殺 ぎゃくさつ に対 たい しては、連合 れんごう 国 こく 側 がわ の15人 にん 委員 いいん 会 かい が「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」として取 と り上 あ げようとした際 さい 、アメリカおよび日本 にっぽん は「これを認 みと めれば、国家 こっか 元首 げんしゅ が敵国 てきこく の裁判 さいばん にかけられることになる」として反対 はんたい した。またアメリカは国際 こくさい 法廷 ほうてい の設置 せっち そのものに前例 ぜんれい がないとして反対 はんたい した[2] 。その後 ご も国際 こくさい 法廷 ほうてい に関 かん する協議 きょうぎ は行 おこな われていたが、明確 めいかく な条約 じょうやく は締結 ていけつ されなかった。
連合 れんごう 国 こく の戦犯 せんぱん 裁判 さいばん 方針 ほうしん の形成 けいせい [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 直後 ちょくご から、連合 れんごう 国 こく 間 あいだ ではドイツによる前例 ぜんれい のない残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を非難 ひなん する声 こえ が高 たか まっていた。1940年 ねん 11月にはポーランド亡命 ぼうめい 政府 せいふ とチェコスロバキア亡命 ぼうめい 政府 せいふ が、ドイツの占領 せんりょう 下 か にある両国 りょうこく の領域 りょういき における残虐 ざんぎゃく 行為 こうい は、史上 しじょう 例 れい がないと非難 ひなん した共同 きょうどう 宣言 せんげん を発表 はっぴょう した。1941年 ねん 10月 がつ 25日 にち にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のフランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう とイギリスのウィンストン・チャーチル 首相 しゅしょう がそれぞれドイツの残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を非難 ひなん する声明 せいめい を発表 はっぴょう し、特 とく にチャーチルは「これら犯罪 はんざい の懲罰 ちょうばつ は、今 いま や主要 しゅよう な戦争 せんそう 目的 もくてき の一 ひと つ」であるとした。11月5日 にち にはソビエト連邦 れんぽう のヴャチェスラフ・モロトフ 外相 がいしょう も同様 どうよう の発言 はつげん を行 おこな い、英 えい 米 べい と歩調 ほちょう を合 あ わせた。
1942年 ねん 1月 がつ 13日 にち にはセント・ジェームズ宮殿 きゅうでん に集 あつ まったベルギー 、ルクセンブルク 、チェコスロバキア 、ポーランド 、ギリシャ 、オランダ 、ノルウェー の各 かく 亡命 ぼうめい 政府 せいふ 代表 だいひょう と自由 じゆう フランス代表 だいひょう が「組織 そしき された裁判 さいばん の手続 てつづ きにより」、市民 しみん に対 たい する残虐 ざんぎゃく 犯罪 はんざい を犯 おか したもの達 たち を処罰 しょばつ することを、「主要 しゅよう な戦争 せんそう 目的 もくてき の中 なか に入 い れる」ことを決議 けつぎ した。オブザーバーとして参加 さんか していた中華民国 ちゅうかみんこく の代表 だいひょう もこの原則 げんそく に同意 どうい し、この方針 ほうしん を中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に存在 そんざい する日本 にっぽん 軍 ぐん にも適用 てきよう する意志 いし を示 しめ した。またソビエト連邦 れんぽう もこの方針 ほうしん に同意 どうい した。イギリスは戦犯 せんぱん 裁判 さいばん に当初 とうしょ 乗 の り気 き ではなかったが、これらの国々 くにぐに の突 とっ き上 あ げによって戦犯 せんぱん 裁判 さいばん について検討 けんとう せざるを得 え なくなった。また、日本 にっぽん の占領 せんりょう によってイギリスの軍民 ぐんみん が被害 ひがい を受 う けているという報告 ほうこく が多 おお く寄 よ せられ始 はじ めたことも背景 はいけい にあった。6月にはチャーチルが連合 れんごう 国 こく 戦争 せんそう 犯罪 はんざい 捜査 そうさ 委員 いいん 会 かい の設置 せっち をアメリカに示唆 しさ し、7月 がつ には閣議 かくぎ でこの方針 ほうしん を承認 しょうにん するとともに、戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん の扱 あつか いに関 かん する内閣 ないかく 委員 いいん 会 かい を設置 せっち することを決定 けってい した。 この討議 とうぎ では、外相 がいしょう アンソニー・イーデン と大 だい 法官 ほうかん ジョン・サイモン (英語 えいご 版 ばん ) が国際 こくさい 法廷 ほうてい による裁判 さいばん に反対 はんたい 意見 いけん を表明 ひょうめい している。
1942年 ねん 10月 がつ 7日 にち 、ルーズベルト大統領 だいとうりょう とサイモン大 だい 法官 ほうかん はそれぞれ、連合 れんごう 国 こく 戦争 せんそう 犯罪 はんざい 捜査 そうさ 委員 いいん 会 かい の設置 せっち と、戦犯 せんぱん 裁判 さいばん のためのあらゆる証拠 しょうこ を収集 しゅうしゅう することを表明 ひょうめい した。しかし第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のライプツィヒ裁判 さいばん の失敗 しっぱい から、具体 ぐたい 的 てき な戦犯 せんぱん 裁判 さいばん には米 べい 英 えい は消極 しょうきょく 的 てき であったこと、さらにソビエト連邦 れんぽう の裁判 さいばん 参加 さんか 問題 もんだい もあって、具体 ぐたい 的 てき な決定 けってい はなかなか行 おこな われなかった。ソビエト連邦 れんぽう は自国 じこく の構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく 、とくにバルト三 さん 国 こく に設置 せっち された社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん を代表 だいひょう として認 みと めるよう要求 ようきゅう し、イギリスはこの要求 ようきゅう を拒否 きょひ した。ソビエト連邦 れんぽう は即時 そくじ の戦犯 せんぱん 裁判 さいばん 開始 かいし を求 もと めていたが、イギリスは捕虜 ほりょ となっている将兵 しょうへい が報復 ほうふく されることを怖 こわ れ、大半 たいはん の戦犯 せんぱん 裁判 さいばん は戦争 せんそう 中 ちゅう には行 おこな われなかった。1943年 ねん 10月 がつ 20日 はつか からロンドンで開催 かいさい された17カ国 かこく 会議 かいぎ によって連合 れんごう 国 こく 戦争 せんそう 犯罪 はんざい 委員 いいん 会 かい (UNWCC)の設置 せっち が決 き まった。11月1日 にち にはモスクワ宣言 せんげん が発表 はっぴょう され、局地 きょくち 的 てき な戦争 せんそう 犯罪 はんざい 被告人 ひこくにん については被害 ひがい 国 こく で裁 さば くものの、国家 こっか ・軍 ぐん ・ナチ党 とう の指導 しどう 者 しゃ の裁判 さいばん については今後 こんご 決定 けってい されるとされた。
UNWCCは1944年 ねん 1月 がつ 11日 にち に第 だい 一 いち 回 かい 正式 せいしき 会合 かいごう を行 おこな い、まず何 なに が戦争 せんそう 犯罪 はんざい であるかの討議 とうぎ を開始 かいし した。この討議 とうぎ の中 なか で、「戦争 せんそう という犯罪 はんざい 」や、従来 じゅうらい の戦争 せんそう 犯罪 はんざい の枠 わく に収 おさ まらない残虐 ざんぎゃく 行為 こうい (ナチス・ドイツが行 おこな ったリディツェ ・レジャーキ 村 むら の殲滅 せんめつ 行為 こうい など)も裁判 さいばん の対象 たいしょう に加 くわ えるべきであるという主張 しゅちょう が行 おこな われた。10月3日 にち 、UNWCC総会 そうかい は「戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん 裁判 さいばん のための最高 さいこう 司令 しれい 官 かん による混合 こんごう 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい 設立 せつりつ を支持 しじ する勧告 かんこく 」を賛成 さんせい 8、反対 はんたい 4で採択 さいたく した。この勧告 かんこく では文民 ぶんみん による国際 こくさい 法廷 ほうてい の開催 かいさい と、明文化 めいぶんか された条約 じょうやく の他 ほか に、「文明 ぶんめい 諸 しょ 国民 こくみん の間 あいだ で確立 かくりつ した慣習 かんしゅう 、人道 じんどう の法 ほう 、ならびに公衆 こうしゅう の良心 りょうしん の命 めい ずるところから由来 ゆらい する諸 しょ 国家 こっか の法 ほう の諸 しょ 原理 げんり 」「法 ほう として認 みと められた一般 いっぱん 的 てき な実践 じっせん の証拠 しょうこ としての戦争 せんそう の国際 こくさい 的 てき な慣例 かんれい 」をも根拠 こんきょ とするべきであるとしており、「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」は含 ふく まれていたものの、「平和 へいわ に対 たい する罪 つみ 」は含 ふく まれていなかった。UNWCCは実際 じっさい の裁判 さいばん 運営 うんえい についてはイギリス外務省 がいむしょう に一任 いちにん するとしていたが、イギリス政府 せいふ はUNWCCの勧告 かんこく の多 おお くに拒否 きょひ 反応 はんのう を示 しめ した。イギリス政府 せいふ は戦争 せんそう 犯罪 はんざい については従来 じゅうらい の狭 せま い定義 ていぎ を用 もち いるべきであると考 かんが えており、ドイツ国内 こくない におけるユダヤ人 じん に対 たい する迫害 はくがい (ホロコースト )を対象 たいしょう に加 くわ えることにも反対 はんたい し、戦後 せんご 成立 せいりつ するドイツ政府 せいふ に裁判 さいばん を任 まか せるべきと回答 かいとう した。アメリカ国務省 こくむしょう も「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」を対象 たいしょう とすることには反対 はんたい しており、主要 しゅよう 戦犯 せんぱん 裁判 さいばん については消極 しょうきょく 的 てき であった。
しかしヘンリー・モーゲンソー 財務 ざいむ 長官 ちょうかん は1944年 ねん 7月 がつ にヨーロッパから帰還 きかん すると、アメリカ政府 せいふ の対応 たいおう がドイツに対 たい して寛大 かんだい すぎると非難 ひなん を行 おこな うようになった。モーゲンソーはナチス戦犯 せんぱん のリストを作 つく り、これら戦犯 せんぱん を即決 そっけつ で銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ するよう主張 しゅちょう するとともに、ドイツが犯 おか した文明 ぶんめい に対 たい する犯罪 はんざい を裁判 さいばん で裁 さば くよう主張 しゅちょう した。アメリカ政府 せいふ 内 ない でモーゲンソーの意見 いけん が影響 えいきょう 力 りょく を持 も つようになると、陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん ヘンリー・スティムソン は危機 きき 感 かん を抱 いだ くようになった。スティムソンはモーゲンソーの方針 ほうしん がかえって新 あら たな戦争 せんそう の原因 げんいん となると考 かんが え、全 すべ てのナチス指導 しどう 者 しゃ を裁判 さいばん で裁 さば くよう主張 しゅちょう した。9月25日 にち のケベック会談 かいだん でモーゲンソーは戦犯 せんぱん の即時 そくじ 射殺 しゃさつ をルーズベルトとチャーチルに提案 ていあん し、両 りょう 首脳 しゅのう は一時 いちじ これを了承 りょうしょう している。ところがモーゲンソーの戦後 せんご ドイツ統治 とうち 計画 けいかく 「モーゲンソー・プラン 」がマスコミからの非難 ひなん を受 う けると、ルーズベルトとモーゲンソーの関係 かんけい は冷却 れいきゃく 化 か し、モーゲンソーの影響 えいきょう 力 りょく は低下 ていか していった。こうしてアメリカ政府 せいふ 内 ない での戦犯 せんぱん 裁判 さいばん 問題 もんだい については陸軍 りくぐん 省 しょう が主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ることになった。
9月15日 にち 、マレイ・バーネイズ(Murray C. Bernays)陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ は、「ヨーロッパの戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん の裁判 さいばん 」についての覚書 おぼえがき を作成 さくせい した。この覚書 おぼえがき では、戦争 せんそう 以前 いぜん にドイツが自 じ 国民 こくみん に対 たい して犯 おか した犯罪 はんざい を裁 さば くことや、「戦争 せんそう 法規 ほうき に反 はん して殺人 さつじん 、テロリズム 、平和 へいわ 的 てき 民衆 みんしゅう の破壊 はかい を犯 おか した共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ (conspiracy)」を裁 さば くよう提案 ていあん している。「共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ 」論 ろん は、従来 じゅうらい の戦争 せんそう 犯罪 はんざい に収 おさ まらない組織 そしき 的 てき 系統 けいとう 的 てき な残虐 ざんぎゃく 行為 こうい 、いわゆる「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」や、従来 じゅうらい の戦争 せんそう 犯罪 はんざい を行 おこな った国家 こっか の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ や各 かく 級 きゅう の指導 しどう 者 しゃ を裁 さば くために導入 どうにゅう されたものであり、具体 ぐたい 的 てき にはナチ党 とう と親衛隊 しんえいたい 、突撃 とつげき 隊 たい 、ゲシュタポ を含 ふく む国家 こっか と党 とう の代理人 だいりにん を訴追 そつい するためのものであった。スティムソンは従来 じゅうらい 自国 じこく 民 みん に対 たい する犯罪 はんざい を加 くわ えることには反対 はんたい していたが、バーネイズの見解 けんかい に同意 どうい した。11月9日 にち の陸軍 りくぐん ・海軍 かいぐん ・国務省 こくむしょう 首脳 しゅのう 会議 かいぎ では共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ 論 ろん の採用 さいよう と、国際 こくさい 条約 じょうやく に基 もと づく国際 こくさい 法廷 ほうてい の開催 かいさい が決定 けってい されたが、侵略 しんりゃく 戦争 せんそう 開始 かいし についてはなおも検討 けんとう が加 くわ えられることになった。司法省 しほうしょう や国務省 こくむしょう 法律 ほうりつ 顧問 こもん は共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ 論 ろん 、そして侵略 しんりゃく 戦争 せんそう を犯罪 はんざい とすることについて批判 ひはん したが、マルメディ虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん が報道 ほうどう されたこともあって、次第 しだい にナチスに対 たい する懲罰 ちょうばつ 意見 いけん が強 つよ くなり始 はじ めた。年末 ねんまつ には陸軍 りくぐん 法務 ほうむ 部長 ぶちょう 室内 しつない に戦争 せんそう 犯罪 はんざい 局 きょく が設置 せっち され、研究 けんきゅう が開始 かいし された。1945年 ねん 1月 がつ 4日 にち 、ルーズベルト大統領 だいとうりょう は「不戦 ふせん 条約 じょうやく 違反 いはん の侵略 しんりゃく 戦争 せんそう 開始 かいし 」を告発 こくはつ に含 ふく めるべきであるという覚書 おぼえがき に署名 しょめい し、1月 がつ 22日 にち には共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ 論 ろん の採用 さいよう 、侵略 しんりゃく 戦争 せんそう 開始 かいし の訴追 そつい 等 とう が陸軍 りくぐん ・海軍 かいぐん ・国務省 こくむしょう 三 さん 長官 ちょうかん の間 あいだ で合意 ごうい された。4月にはハリー・S・トルーマン 大統領 だいとうりょう がこの三 さん 長官 ちょうかん 合意 ごうい を採用 さいよう し、アメリカ政府 せいふ の戦犯 せんぱん 訴追 そつい 方針 ほうしん が固 かた まった。その後 ご 大統領 だいとうりょう 側近 そっきん のサミュエル・ローゼンマン 、司法 しほう 長官 ちょうかん フランシス・ビドル 、ロバート・ジャクソン らが中心 ちゅうしん となり、戦犯 せんぱん 裁判 さいばん の基本 きほん 造 づく りが開始 かいし された。
イギリス政府 せいふ とアメリカ政府 せいふ の協議 きょうぎ が始 はじ まったが、イギリス政府 せいふ は戦犯 せんぱん 裁判 さいばん に難色 なんしょく を示 しめ していた。しかし、ナチス政府 せいふ が崩壊 ほうかい し、総統 そうとう アドルフ・ヒトラー が自殺 じさつ すると、イギリス政府 せいふ は反対 はんたい 方針 ほうしん を取 と り下 さ げ、裁判 さいばん を承諾 しょうだく した。これにはヒトラーが法廷 ほうてい で演説 えんぜつ するという事態 じたい が避 さ けられたことも一因 いちいん となっている。
戦犯 せんぱん 裁判 さいばん 開催 かいさい は定 さだ まったが、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦 れんぽう ・フランスの臨時 りんじ 政府 せいふ は、中小 ちゅうしょう 国 こく が参加 さんか するUNWCCを裁判 さいばん に関与 かんよ させず、自 みずか らが裁判 さいばん の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ る動 うご きを見 み せ始 はじ めた。UNWCCはこれに抵抗 ていこう しようとしたが、8月 がつ 8日 にち には4大国 たいこく 間 あいだ で国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判所 さいばんしょ 憲章 けんしょう (ロンドン憲章 けんしょう )が成立 せいりつ し、4大国 たいこく による戦犯 せんぱん 裁判 さいばん は既定 きてい 方針 ほうしん となった。ロンドン憲章 けんしょう においては「平和 へいわ に対 たい する罪 つみ 」「通例 つうれい の戦争 せんそう 犯罪 はんざい 」「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」、そしてそれらを犯 おか そうとする「共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ 」の4点 てん を裁判所 さいばんしょ の管轄 かんかつ とすることになり、この点 てん では同 どう 憲章 けんしょう によって設立 せつりつ された「極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん 」とも共通 きょうつう していた。「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」の導入 どうにゅう については、特 とく にロバート・ジャクソンの役割 やくわり が大 おお きかったと見 み られている。
判事 はんじ は連合 れんごう 国 こく の主要 しゅよう 国 こく のうち、ドイツと直接 ちょくせつ 戦 たたか ったイギリス ・アメリカ ・フランス ・ソ連 それん の4か国 こく からそれぞれ2名 めい ずつ選 えら ばれた。
被告 ひこく となったのは24名 めい の「主要 しゅよう 戦犯 せんぱん 」(英語 えいご : Major War Criminal )であり、うち2名 めい が審理 しんり 中 ちゅう に死亡 しぼう 、もしくは除外 じょがい された。高齢 こうれい を理由 りゆう に免訴 めんそ されたグスタフ・クルップ に代 か わって息子 むすこ のアルフリート・クルップ を被告 ひこく に加 くわ える動 うご きがあり、米 べい 仏 ふつ ソ三 さん 国 こく は賛成 さんせい したが、イギリスは反対 はんたい し、裁判所 さいばんしょ も被告 ひこく と認定 にんてい しなかった。
ドイツの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ だった総統 そうとう アドルフ・ヒトラー 、最高 さいこう 幹部 かんぶ の宣伝 せんでん 大臣 だいじん ヨーゼフ・ゲッベルス や親衛隊 しんえいたい 全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ハインリヒ・ヒムラー らは終戦 しゅうせん 時 じ に自殺 じさつ しており、起訴 きそ することが不可能 ふかのう であった。また、ナチ党 とう 最大 さいだい の実力 じつりょく 者 しゃ であった党 とう 官房 かんぼう 長 ちょう マルティン・ボルマン も行方 ゆくえ 不明 ふめい のまま(後年 こうねん になってベルリン陥落 かんらく 時 じ に自殺 じさつ していたことが判明 はんめい )であり、起訴 きそ はしたものの欠席 けっせき 裁判 さいばん で死刑 しけい 判決 はんけつ をい渡 いわた された。
検察 けんさつ 側 がわ が被告 ひこく に対 たい して、暴行 ぼうこう や違法 いほう な取 と り調 しら べを行 おこな ったり、弁護 べんご 団 だん に妨害 ぼうがい 行為 こうい を行 おこな った為 ため (#被告 ひこく に対 たい する暴行 ぼうこう や弁護 べんご 団 だん への不法 ふほう 行為 こうい )、戦争 せんそう の全容 ぜんよう 解明 かいめい が困難 こんなん になった。また、国民 こくみん 啓蒙 けいもう ・宣伝 せんでん 省 しょう の幹部 かんぶ だったハンス・フリッチェ の起訴 きそ は自殺 じさつ したゲッベルスの「身代 みが わり」としての意味合 いみあ いが強 つよ く、フリッチェは結局 けっきょく 、この裁判 さいばん では無罪 むざい 判決 はんけつ を受 う けている。
首席 しゅせき 検察官 けんさつかん となったロバート・ジャクソンは、検察官 けんさつかん の任務 にんむ を二 ふた つの段階 だんかい にわけた。
第 だい 一 いち 段階 だんかい は「ナチス(国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう )、ゲシュタポ 、その他 た の組織 そしき が一味 いちみ となった全般 ぜんぱん 的 てき 共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ を立証 りっしょう すること」であるとし、第 だい 二 に 段階 だんかい を共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ の一員 いちいん である被告 ひこく を特定 とくてい することであるとした。この認識 にんしき に基 もと づいたロンドン憲章 けんしょう により、以下 いか の6つの「犯罪 はんざい 組織 そしき (犯罪 はんざい 集団 しゅうだん )」が訴追 そつい 対象 たいしょう となった。すなわち、ナチ党 とう 指導 しどう 部 ぶ 、内閣 ないかく 、親衛隊 しんえいたい (SS)、突撃 とつげき 隊 たい (SA)、「ゲシュタポ およびSD(親衛隊 しんえいたい 保安 ほあん 部 ぶ ) 」、さらには「参謀 さんぼう 本部 ほんぶ および国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ (軍 ぐん 指導 しどう 部 ぶ )」であった。裁判 さいばん にはアーネスト・ヘミングウェイ 、エーリカ・マン と言 い った内外 ないがい の著名 ちょめい 人 じん がレポーターとして傍聴 ぼうちょう に訪 おとず れ、国際 こくさい 的 てき な関心 かんしん も極 きわ めて高 たか かった。
開廷 かいてい 初日 しょにち の1945年 ねん 11月21日 にち 、裁判 さいばん 長 ちょう による、検察 けんさつ 側 がわ の起訴 きそ 状 じょう の罪状 ざいじょう 認否 にんぴ の質問 しつもん に対 たい し、被告 ひこく 全員 ぜんいん が罪状 ざいじょう を否定 ひてい し、自分 じぶん たちは無罪 むざい であると答弁 とうべん した[32] 。
1946年 ねん 9月 がつ 30日 にち の判決 はんけつ では、帝国 ていこく 内 ない 閣 かく と軍 ぐん 指導 しどう 部 ぶ 、そして突撃 とつげき 隊 たい は有罪 ゆうざい とされなかった。この認定 にんてい は1945年 ねん 12月 がつ 10日 とおか に連合 れんごう 国 こく 管理 かんり 理事 りじ 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) によって発令 はつれい されていた管理 かんり 理事 りじ 会 かい 法律 ほうりつ 第 だい 10号 ごう によって、「犯罪 はんざい 組織 そしき 」の構成 こうせい 員 いん を対象 たいしょう に、各 かく 占領 せんりょう 軍 ぐん 政府 せいふ が訴追 そつい を行 おこな える根拠 こんきょ となった。ただしこの判決 はんけつ では、その組織 そしき が犯罪 はんざい 的 てき 組織 そしき であると認識 にんしき していなかった者 もの 、国家 こっか による強制 きょうせい によって構成 こうせい 員 いん となった者 もの については戦犯 せんぱん から除外 じょがい する規定 きてい があった。
死刑 しけい は1946年 ねん 10月 がつ 16日 にち に絞首刑 こうしゅけい によって執行 しっこう され、禁固 きんこ 者 しゃ は1947年 ねん 、ベルリン 郊外 こうがい のシュパンダウ刑務所 けいむしょ へ移送 いそう された。
ニュルンベルク裁判 さいばん の後 のち 、この裁判 さいばん の被告 ひこく に次 つ ぐ立場 たちば にある戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん 、そして「犯罪 はんざい 組織 そしき 」の構成 こうせい 員 いん に対 たい する二 に 種類 しゅるい の国際 こくさい 裁判 さいばん が計画 けいかく されていた。フランスとソ連 それん はこの裁判 さいばん 開催 かいさい を望 のぞ んでいたが、アメリカは消極 しょうきょく 的 てき であり、裁判 さいばん の終結 しゅうけつ まで開催 かいさい 決定 けってい は先送 さきおく りされ、結局 けっきょく 開催 かいさい されなかった。ロバート・ジャクソンは4カ国 かこく 語 ご の通訳 つうやく は手間 てま がかかり、経費 けいひ がかさむと理由 りゆう を挙 あ げているが、実際 じっさい には連合 れんごう 国 こく 間 あいだ による摩擦 まさつ を嫌 きら ったアメリカが、単独 たんどく での裁判 さいばん を望 のぞ んだためと見 み られている。その後 ご 、ドイツ国内 こくない の各国 かっこく 占領 せんりょう 地域 ちいき でそれぞれ個別 こべつ の非 ひ ナチ化 か 裁判 さいばん が行 おこな われ、ニュルンベルク裁判 さいばん で無罪 むざい となった3人 にん もそれぞれ別 べつ の有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けた。またニュルンベルクを占領 せんりょう していたアメリカ軍 ぐん が、ニュルンベルクにおいて行 い った裁判 さいばん 群 ぐん は特 とく に「ニュルンベルク継続 けいぞく 裁判 さいばん 」と呼 よ ばれる。
裁判 さいばん に対 たい する評価 ひょうか の論点 ろんてん [ 編集 へんしゅう ]
事後 じご 遡及 そきゅう の観点 かんてん [ 編集 へんしゅう ]
「平和 へいわ に対 たい する罪 つみ (侵略 しんりゃく 戦争 せんそう )」、「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」は国際 こくさい 条約 じょうやく などで完全 かんぜん に成立 せいりつ したわけではなく、法 ほう の不 ふ 遡及 そきゅう 、罪刑法定 ざいけいほうてい 主義 しゅぎ の立場 たちば をとる欧州 おうしゅう 大陸 たいりく 法的 ほうてき な立場 たちば からは「法廷 ほうてい による法 ほう の創造 そうぞう 」が行 おこな われた「事後 じご 法 ほう 」による裁判 さいばん との批判 ひはん が当時 とうじ から現在 げんざい まで根強 ねづよ くある[注釈 ちゅうしゃく 1] 。裁判 さいばん の弁護人 べんごにん を務 つと めたヤールライスは、裁判 さいばん について、道徳 どうとく や人類 じんるい の進歩 しんぽ の名 な に於 お いて要求 ようきゅう されているべき法 ほう の問題 もんだい ではなく、現行 げんこう 法 ほう の問題 もんだい と扱 あつか うべきであるとして批判 ひはん し、さらに、ニュルンベルク裁判 さいばん 規約 きやく についても、原則 げんそく 的 てき に新 あたら しいものを設定 せってい することとなり、革命 かくめい 的 てき であるとの見解 けんかい を表明 ひょうめい した[38] 。
この批判 ひはん は戦時 せんじ 中 ちゅう から存在 そんざい したが、刑法 けいほう 学者 がくしゃ シェルドン・グリュック (英語 えいご 版 ばん ) は「侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の遂行 すいこう は不法 ふほう である」「国家 こっか の名 な において犯 おか された犯罪 はんざい 行為 こうい で政府 せいふ 構成 こうせい 員 いん の個人 こじん の罪 つみ を認 みと めることは何等 なんら 遡及 そきゅう 的 てき ではない」と反論 はんろん している。しかしグリュックも侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の罪 つみ に疑義 ぎぎ が呈 てい されることは認識 にんしき しており、より疑義 ぎぎ の少 すく ない「通常 つうじょう の戦争 せんそう 犯罪 はんざい 」だけでなく、侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の罪 つみ を加 くわ えて複雑 ふくざつ 化 か したのはなぜかという疑問 ぎもん を呈 てい している。裁判 さいばん 直後 ちょくご 、バイエルン州 しゅう 首相 しゅしょう でもあった法律 ほうりつ 家 か ハンス・エーハルト (英語 えいご 版 ばん ) は、1939年 ねん の段階 だんかい で侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の罪 つみ で裁 さば くことは不法 ふほう であるとしながらも、これらの観点 かんてん が導入 どうにゅう されたのは政治 せいじ 的 てき な配慮 はいりょ によるものであるとし、将来 しょうらい の戦争 せんそう 抑止 よくし という意味 いみ で一般 いっぱん 的 てき な正義 せいぎ の感覚 かんかく を代弁 だいべん しているとしたうえで、「これほどまでのおぞましい犯罪 はんざい 者 しゃ 集団 しゅうだん を罰 ばっ するのに、既存 きそん の法 ほう 概念 がいねん では明 あき らかに不充分 ふじゅうぶん と思 おも われたからだ」としている。首席 しゅせき 検察官 けんさつかん ロバート・ジャクソンはこのエーハルトの意見 いけん について同意 どうい できない点 てん があるとしながらも、「これまでに出 で たおなじみの批判 ひはん にくらべると、ずっと有益 ゆうえき な議論 ぎろん を示 しめ していると思 おも う」としている。
戦争 せんそう ・人道 じんどう 犯罪 はんざい 抑止 よくし の観点 かんてん [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク裁判 さいばん がホロコーストをはじめとする人道的 じんどうてき 事件 じけん に対 たい して、充分 じゅうぶん な措置 そち を行 おこな えなかったという批判 ひはん も存在 そんざい している。マイケル・マラス (英語 えいご 版 ばん ) やジェフリー・ロバートスン (英語 えいご 版 ばん ) はホロコーストやポライモス 等 ひとし を正当 せいとう 化 か したナチズム を断罪 だんざい した裁判 さいばん として高 たか く評価 ひょうか しているが、ローレンス・ダグラスやP.ノヴィックはホロコーストに注意 ちゅうい を喚起 かんき するために、裁判 さいばん は充分 じゅうぶん な役割 やくわり を果 は たさなかったと批判 ひはん している。
戦勝 せんしょう 者 しゃ による裁判 さいばん の中立 ちゅうりつ 性 せい [ 編集 へんしゅう ]
この軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい は「勝者 しょうしゃ の連合 れんごう 国 こく によって敗者 はいしゃ となったドイツの戦犯 せんぱん を裁 さば く」という異例 いれい な形式 けいしき の裁判 さいばん であった。ウィリアム・ボッシュ(William Bosch)はスティムソンらのアメリカ首脳 しゅのう の戦犯 せんぱん 裁判 さいばん 方針 ほうしん を、道徳 どうとく 主義 しゅぎ 的 てき ・法 ほう 遵守 じゅんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき 傾向 けいこう を見 み 、「同 おな じ事 ごと でも枢軸 すうじく 側 がわ がやれば悪 あく 、連合 れんごう 国 こく 側 がわ がやれば必要 ひつよう 悪 あく 」とする「ダブルスタンダード 」の傾向 けいこう があると指摘 してき している。リチャード・マイニア は、連合 れんごう 国 こく の正当 せいとう 化 か に裁判 さいばん が利用 りよう されたという面 めん を指摘 してき している。戦後 せんご を通 つう じて「勝者 しょうしゃ である連合 れんごう 国 こく による断罪 だんざい 」という政治 せいじ 的 てき 行為 こうい が、「侵略 しんりゃく 戦争 せんそう 」や人道 じんどう に対 たい する罪 つみ を非難 ひなん する動 うご きに、否定 ひてい 的 てき な影響 えいきょう を与 あた えたのではないかと指摘 してき する声 こえ が存在 そんざい している。
またニュルンベルク裁判 さいばん における全 すべ ての裁判官 さいばんかん がアメリカ、イギリス、ソ連 それん 、フランスという戦勝 せんしょう 国 こく だけから出 で ていたため、これが戦勝 せんしょう 国 こく による軍事 ぐんじ 裁判 さいばん であることを考慮 こうりょ したとしても、裁判 さいばん の中立 ちゅうりつ 性 せい を著 いちじる しく欠 か いていた。これに対 たい して、極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん では比較的 ひかくてき 中立 ちゅうりつ 的 てき な立場 たちば に立 た てたインドからも判事 はんじ が召請されており、ラダ・ビノード・パール 判事 はんじ が個別 こべつ 意見 いけん として全 ぜん 被告人 ひこくにん を無罪 むざい とする意見 いけん を出 だ している。
ニュルンベルク裁判 さいばん アメリカ検事 けんじ 団長 だんちょう のロバート・ジャクソン 連邦 れんぽう 最高裁 さいこうさい 判事 はんじ の上司 じょうし で、当時 とうじ アメリカ連邦 れんぽう 最高裁 さいこうさい 長官 ちょうかん だったハーラン・ストーン 判事 はんじ は、雑誌 ざっし 『フォーチュン 』の記者 きしゃ とのインタビューで次 つぎ のように答 こた えている。
ニュルンベルク
裁判 さいばん は、
戦勝 せんしょう 国 こく が
敗戦 はいせん 国 こく に
正当 せいとう 性 せい を
押 お し
付 つ けた
裁判 さいばん でした。つまり、
敗戦 はいせん 国 こく が
侵略 しんりゃく 戦争 せんそう を
行 おこな ったというわけです。しかし
私 わたし は
今 いま でも
残念 ざんねん に
思 おも いますが、ニュルンベルク
裁判 さいばん は
法的 ほうてき には
全 まった く
根拠 こんきょ を
欠 か いた
裁判 さいばん でした。それは
裁判 さいばん ではなく、
戦勝 せんしょう 国 こく の
政治 せいじ 行動 こうどう だったというのが、
最 もっと も
正 ただ しいい
方 いかた でしょう。
ニュルンベルク
裁判 さいばん は
コモン・ロー 〔
不文法 ふぶんほう 〕、あるいは
憲法 けんぽう の
装 よそお いの
下 した で
罪人 ざいにん を
裁 さば いたのであり、これが
私 わたし を
考 かんが え
込 こ ませています。
私 わたし たちはある
命題 めいだい を
支持 しじ してしまったようです。つまり、いかなる
戦争 せんそう においても、
敗戦 はいせん 国 こく の
指導 しどう 者 しゃ は
戦勝 せんしょう 国 こく によって
処刑 しょけい されねばならない、という
命題 めいだい です。
また、尋問 じんもん 官 かん その他 た のスタッフには欧州 おうしゅう からの亡命 ぼうめい 者 しゃ が多 おお く、そのために裁判 さいばん は「復讐 ふくしゅう 裁判 さいばん 」的 てき な色彩 しきさい を一層 いっそう 強 つよ くしたという指摘 してき がある。ニュルンベルク裁判 さいばん の判事 はんじ を務 つと めたが、裁判 さいばん の手続 てつづ きを批判 ひはん して辞任 じにん したアメリカのチャールズ・F・ウェナストラム (英語 えいご 版 ばん ) ・アイオワ州 しゅう 最高裁 さいこうさい 判事 はんじ は、こう述 の べている。
今日 きょう 知 し っているようなことを数 すう ヶ月 かげつ 前 まえ に知 し っていたとすれば、ここ(ニュルンベルク)にやってきたりはしなかったであろう。明 あき らかに、戦争 せんそう の勝者 しょうしゃ は、戦争 せんそう 犯罪 はんざい の最良 さいりょう の判事 はんじ ではなかった。法廷 ほうてい は、そのメンバーを任命 にんめい した国 くに よりもあらゆる種類 しゅるい の人類 じんるい を代表 だいひょう するように努 つと めるべきであった。ここでは、戦争 せんそう 犯罪 はんざい はアメリカ人 じん 、ロシア人 じん 、イギリス人 じん 、フランス人 じん によって起訴 きそ され、裁 さば かれた。彼 かれ らは、多 おお くの時間 じかん と努力 どりょく 、誇張 こちょう した表現 ひょうげん を使 つか って、連合 れんごう 国 こく を免責 めんせき し、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の唯一 ゆいいつ の責任 せきにん をドイツに負 お わせようとした。裁判 さいばん の民族 みんぞく 的 てき な偏 かたよ りについて私 わたし が述 の べたことは、検事 けんじ 側 がわ にも当 あ てはまる。これらの裁判 さいばん を設立 せつりつ する動機 どうき として宣言 せんげん された高 たか い理想 りそう は、実現 じつげん されなかった。検事 けんじ 側 がわ は、復讐 ふくしゅう 心 しん 、有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を求 もと める個人 こじん 的 てき な野心 やしん に影響 えいきょう されて、客観 きゃっかん 性 せい を維持 いじ することを怠 おこた った。将来 しょうらい の戦争 せんそう に歯止 はど めをかけるためになるような先例 せんれい を作 つく り出 だ す努力 どりょく も怠 おこた った。ドイツは有罪 ゆうざい ではなかった。ここでの全体 ぜんたい 的 てき な雰囲気 ふんいき は不健康 ふけんこう であった。法律 ほうりつ 家 か 、書記 しょき 、通訳 つうやく 、調査官 ちょうさかん はつい最近 さいきん にアメリカ人 じん となった人々 ひとびと (亡命 ぼうめい したユダヤ系 けい 住民 じゅうみん のこと)が雇 やと われていた。これらの人々 ひとびと の個人 こじん 的 てき な過去 かこ は、ヨーロッパへの偏見 へんけん と憎悪 ぞうお に満 み ちていた。裁判 さいばん は、ドイツ人 じん に自分 じぶん たちの指導 しどう 者 しゃ の有罪 ゆうざい を納得 なっとく させるはずであったが、実際 じっさい には、自分 じぶん たちの指導 しどう 者 しゃ は凶暴 きょうぼう な征服 せいふく 者 しゃ との戦争 せんそう に負 ま けただけだと確信 かくしん させたにすぎなかった。証拠 しょうこ の大半 たいはん は、何 なん トンもの捕獲 ほかく 資料 しりょう から選別 せんべつ された資料 しりょう であった。選別 せんべつ を行 おこ なったのは検事 けんじ 側 がわ であった。弁護 べんご 側 がわ がアクセスできたのは、検事 けんじ 側 がわ がふさわしいとみなした資料 しりょう だけであった。…また、アメリカ的 てき 正義 せいぎ 感 かん からすれば嫌悪 けんお すべきなのは、検事 けんじ 側 がわ が、2年 ねん 半 はん 以上 いじょう も拘禁 こうきん され、弁護士 べんごし の立会 たちあい いもなく繰 く り返 かえ し尋問 じんもん を受 う けた被告 ひこく による自白 じはく に頼 たよ っていることである。控訴 こうそ 権 けん もないことも正義 せいぎ が否定 ひてい されているとの感 かん を受 う ける。…ドイツ国民 こくみん は裁判 さいばん についての情報 じょうほう をもっと多 おお く受 う けとるべきであり、ドイツ人 じん 被告 ひこく には国連 こくれん に控訴 こうそ する権利 けんり を与 あた えるべきである。 — "Nazi Trial Judge Rips 'Injustice,'" Chicago Tribune, Feb. 23, 1948
免責 めんせき された戦勝 せんしょう 国 こく の犯罪 はんざい [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク裁判 さいばん の大 おお きな問題 もんだい 点 てん はドイツ側 がわ の(戦勝 せんしょう 国 こく の憶測 おくそく によるものも含 ふく む)「犯罪 はんざい 」を一方 いっぽう 的 てき に断罪 だんざい したが、戦勝 せんしょう 国 こく 側 がわ の「犯罪 はんざい 」は完全 かんぜん に免責 めんせき するという基準 きじゅん を持 も っていたことである[43] 。そもそも大戦 たいせん の原因 げんいん となったポーランドによるダンツィヒ 領 りょう の占有 せんゆう 問題 もんだい 、1939年 ねん 9月 がつ 3日 にち のフランス、イギリスによるドイツへの一方 いっぽう 的 てき な宣戦 せんせん 布告 ふこく [注釈 ちゅうしゃく 2] は断罪 だんざい されなかった [要 よう 出典 しゅってん ] 。また、1939年 ねん 9月 がつ ドイツが西 にし からポーランドへ侵攻 しんこう した一方 いっぽう で、同 おな じ時期 じき にソ連 それん も東 ひがし からポーランドに侵攻 しんこう しており、さらに1939年 ねん 11月のフィンランドとソ連 それん の冬 ふゆ 戦争 せんそう では、ソ連 それん は侵略 しんりゃく の罪状 ざいじょう で国際 こくさい 連盟 れんめい から追放 ついほう されているにもかかわらず、ニュルンベルク裁判 さいばん では、ドイツが「平和 へいわ に対 たい する罪 つみ 」で告発 こくはつ された一方 いっぽう で、ソ連 それん の「平和 へいわ に対 たい する罪 つみ 」は不問 ふもん に付 ふ された[43] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。連合 れんごう 軍 ぐん によるドイツへの無 む 差別 さべつ 爆撃 ばくげき [注釈 ちゅうしゃく 4] (ドレスデン爆 ばく 撃 げき などをはじめとして、日本 にっぽん 本土 ほんど への爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 量 りょう の10倍 ばい にも当 あ たる150万 まん トンもの爆 ばく 弾 だん がドイツ本土 ほんど に投下 とうか され、少 すく なくとも30万 まん 人 にん の非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん が犠牲 ぎせい になった)[要 よう 出典 しゅってん ] や、ソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう によってドイツのソ連 それん 占領 せんりょう 地区 ちく で起 お きた、ソ連 それん 兵 へい による強姦 ごうかん ・暴行 ぼうこう ・殺人 さつじん 事件 じけん も裁判 さいばん では不問 ふもん とされた。
終戦 しゅうせん 前後 ぜんこう のアメリカ軍 ぐん によるドイツ人 じん 捕虜 ほりょ への虐待 ぎゃくたい による大量 たいりょう 死 し 問題 もんだい も闇 やみ に葬 ほうむ られた。ジェームズ・バクー (英語 えいご 版 ばん ) の『消 き えた百 ひゃく 万 まん 人 にん 』では以下 いか のような指摘 してき がある。
戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 直前 ちょくぜん の1945年 ねん 4月 がつ 以降 いこう 、野 の ざらし、不衛生 ふえいせい な環境 かんきょう 、病気 びょうき 、飢餓 きが がもとで、膨大 ぼうだい な数 かず のあらゆる年齢 ねんれい 層 そう の男 おとこ たちに加 くわ えて、女 おんな 子供 こども までが、ドイツのフランスの収容 しゅうよう 所 しょ で死 し んだ。その数 かず は、確実 かくじつ に80万 まん を超 こ えたし、90万 まん 以上 いじょう であったこともほぼ確実 かくじつ であり、100万 まん を越 こ えた可能 かのう 性 せい すら十分 じゅうぶん にある。捕虜 ほりょ の生命 せいめい を維持 いじ する手段 しゅだん を持 も ちながら、あえて座視 ざし した軍 ぐん によってこの惨事 さんじ は引 ひ き起 お こされた。救恤 きゅうじゅつ 団体 だんたい の救援 きゅうえん の手 て は米 べい 軍 ぐん によって阻 はば まれた。
他 た に連合 れんごう 軍 ぐん 、ソ連 それん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい には、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう に違反 いはん したレジスタンス (パルチザン )活動 かつどう の積極 せっきょく 的 てき な支援 しえん がある[48] 。
パルチザンは
戦 たたか ったのではなく、ドイツ
軍 ぐん 兵士 へいし を
騙 だま し
討 う ちにしたのだ。
この国際 こくさい 法 ほう に悖 もと る(違反 いはん した)戦闘 せんとう の精神 せいしん 的 てき 組織 そしき 者 しゃ たちのために、無関係 むかんけい な住民 じゅうみん がドイツ軍 ぐん の報復 ほうふく 処置 しょち により酷 ひど い目 め に遭 あ ったのである。
国民 こくみん 間 あいだ の憎悪 ぞうお は計画 けいかく 通 どお り煽 あお り立 た てられ、パルチザンの犯罪 はんざい 的 てき 投入 とうにゅう により長期 ちょうき に渡 わた って深 ふか められていった。
連合 れんごう 国 こく はその「パルチザン政策 せいさく 」の為 ため 、西 にし ヨーロッパの共産 きょうさん 主義 しゅぎ を大 おお いに促進 そくしん したのである。
「勇敢 ゆうかん なる」パルチザンの卑劣 ひれつ な投入 とうにゅう がなければ、占領 せんりょう 地 ち で「戦犯 せんぱん 裁判 さいばん 」が開 ひら かれる事 こと は無 な かったであろう。
クルト・マイヤー (
元 もと 武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい 少将 しょうしょう )『擲弾
兵 へい ―パンツァーマイヤー
戦記 せんき 』P278
ニュルンベルク裁判 さいばん が行 おこな われた1945年 ねん 以降 いこう 、特 とく に戦勝 せんしょう 国 こく による侵略 しんりゃく 行為 こうい や虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい が一 いち 度 ど も裁 さば かれた事 こと はなく、ニュルンベルク裁判 さいばん の規範 きはん が守 まも られた事 こと は二度 にど と無 な かった[49] [50] 。
ニュルンベルク憲章 けんしょう への批判 ひはん [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連 それん の戦勝 せんしょう 連合 れんごう 国 こく はニュルンベルク憲章 けんしょう (Nuremberg Charter )を定 さだ めて、裁判 さいばん の法的 ほうてき 枠組 わくぐ みを設定 せってい した。しかし、近代 きんだい 刑法 けいほう における原則 げんそく である法 ほう の不 ふ 遡及 そきゅう が守 まも られず、被告 ひこく の控訴 こうそ は否認 ひにん され、恣意 しい 的 てき な裁判 さいばん 審理 しんり 手続 てつづ きを定 さだ めた裁判 さいばん は、近代 きんだい 裁判 さいばん とはかけ離 はな れていた。
ニュルンベルク裁判 さいばん での証拠 しょうこ 採用 さいよう 基準 きじゅん は近代 きんだい の裁判 さいばん 基準 きじゅん から大 おお きく逸脱 いつだつ しており、(特 とく に19条 じょう [注釈 ちゅうしゃく 5] 、21条 じょう [注釈 ちゅうしゃく 6] による)通常 つうじょう の裁判 さいばん でならば、信頼 しんらい できないものとして却下 きゃっか されるような証言 しょうげん が、犯罪 はんざい を立証 りっしょう する証拠 しょうこ として採用 さいよう された(ニュルンベルク法廷 ほうてい における虚偽 きょぎ 証言 しょうげん )。弁護 べんご 団 だん には、検事 けんじ 側 がわ の証人 しょうにん に対 たい する反対 はんたい 尋問 じんもん の機会 きかい 、裁判 さいばん 資料 しりょう を閲覧 えつらん する機会 きかい がほとんど与 あた えられず、一方 いっぽう で弁護 べんご 活動 かつどう を妨害 ぼうがい された[51] 。弁護 べんご 側 がわ に有利 ゆうり で検察 けんさつ 側 がわ に不利 ふり な証拠 しょうこ が消失 しょうしつ する事 こと すらあった[52] 。最 もっと も問題 もんだい であるのは、被告 ひこく が逮捕 たいほ ・尋問 じんもん の過程 かてい で暴行 ぼうこう や虐待 ぎゃくたい を受 う けていることである[53] 。
また、当 とう 裁判 さいばん の法的 ほうてき 根拠 こんきょ であるロンドン協定 きょうてい には、アメリカ検事 けんじ ジャクソン、フランス予備 よび 裁判官 さいばんかん ファルコ、ソ連 それん 検事 けんじ ニキチェンコが署名 しょめい している。このことは、ニュルンベルク裁判 さいばん が、立法 りっぽう 者 しゃ 、検察官 けんさつかん 、裁判官 さいばんかん を兼 か ねることを禁 きん じた「司法 しほう 権力 けんりょく の分割 ぶんかつ 」という根本 こんぽん 的 てき な原則 げんそく からして大 おお きく逸脱 いつだつ していたことを意味 いみ している。
人道 じんどう に対 たい する罪 つみ や平和 へいわ に対 たい する罪 つみ は、法廷 ほうてい が設置 せっち される以前 いぜん には存在 そんざい しておらず、間 ま に合 あ わせに作 つく り出 だ され、法的 ほうてき な基準 きじゅん に反 はん して、遡及 そきゅう 的 てき に適用 てきよう された。
第 だい 13条 じょう は法廷 ほうてい は独自 どくじ の裁判 さいばん 審理 しんり 手続 てつづ きを定 さだ めると決定 けってい している。
第 だい 18条 じょう は国際 こくさい 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい の本質 ほんしつ を明確 めいかく に表 あらわ している。
第 だい 18条 じょう 「遅延 ちえん 行為 こうい を防止 ぼうし するため、起訴 きそ 内容 ないよう に関係 かんけい のない案件 あんけん や陳述 ちんじゅつ は除外 じょがい する」。弁護 べんご 側 がわ に許 ゆる されているのは、起訴 きそ 状 じょう にある罪状 ざいじょう についてのみ弁護 べんご 活動 かつどう ができるだけで、そもそもの戦争 せんそう の原因 げんいん となったドイツ経済 けいざい を崩壊 ほうかい し、ドイツ領土 りょうど を周辺 しゅうへん 国 こく に割譲 かつじょう させ、ヒトラーを台頭 たいとう させたヴェルサイユ条約 じょうやく に対 たい する批判 ひはん など、ドイツに有利 ゆうり であり、連合 れんごう 国 こく に不利 ふり な弁護 べんご 活動 かつどう は禁止 きんし された。
第 だい 19条 じょう により証拠 しょうこ の採用 さいよう 基準 きじゅん がまったく存在 そんざい しない。 第 だい 19条 じょう 「法廷 ほうてい は非 ひ 法 ほう 技術 ぎじゅつ 的 てき 手続 てつづ きを最大限 さいだいげん に適用 てきよう し、証明 しょうめい 力 りょく があると認 みと めるいかなる証拠 しょうこ も許容 きょよう する」[注釈 ちゅうしゃく 7] 。 第 だい 21条 じょう により連合 れんごう 国 こく 当局 とうきょく やソ連 それん 、共産 きょうさん 国家 こっか の人民 じんみん 委員 いいん 会 かい が文書 ぶんしょ 、報告 ほうこく 書 しょ 、記録 きろく で確定 かくてい した全 すべ てのことは、顕著 けんちょ な事実 じじつ と認 みと められる。 第 だい 21条 じょう 「法廷 ほうてい は「公知 こうち の事実 じじつ 」については、証明 しょうめい を求 もと めることなく、これを法廷 ほうてい に事実 じじつ と認 みと める。法廷 ほうてい は、戦争 せんそう 犯罪 はんざい 捜査 そうさ のため同盟 どうめい 諸国 しょこく において設立 せつりつ された委員 いいん 会 かい の決議 けつぎ および文書 ぶんしょ を含 ふく む、連合 れんごう 諸国 しょこく の公文書 こうぶんしょ および報告 ほうこく 書 しょ 並 なら びにいずれかの連合 れんごう 国 こく の軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい またはその他 た の法廷 ほうてい の記録 きろく や判決 はんけつ 書 しょ をも、同様 どうよう に法廷 ほうてい に顕著 けんちょ な事実 じじつ と認 みと める」。
第 だい 26条 じょう は控訴 こうそ を全 まった く認 みと めていない[注釈 ちゅうしゃく 8] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 最高裁 さいこうさい ・裁判 さいばん 長 ちょう ハーラン・ストーン 判事 はんじ は、ニュルンベルク裁判 さいばん は連合 れんごう 国 こく による集団 しゅうだん リンチであると述 の べている。
検事 けんじ ジャクソンは、ニュルンベルクで高度 こうど な集団 しゅうだん リンチ (high-grade lynching party in Nuremberg) を行 おこ なっている。彼 かれ がナチスに何 なに をしているのかについては気 き にかけていないが、彼 かれ が法廷 ほうてい と審理 しんり をコモン・ローにしたがって運営 うんえい しているという振 ふ りをしているのを見 み ることは耐 た え難 がた い。 — Alpheus T. Mason, Harlan Fiske Stone: Pillar of the Law, Viking, New York 1956, p.716.
被告 ひこく に対 たい する暴行 ぼうこう や弁護 べんご 団 だん への不法 ふほう 行為 こうい [ 編集 へんしゅう ]
ドイツ近代 きんだい 史 し の専門 せんもん 家 か であり、ミュンヘン大学 だいがく 教授 きょうじゅ でもあったヴェルナー・マーザー 博士 はかせ (Werner Maser ) はこの問題 もんだい 点 てん について、こう述 の べている[54] 。
弁護 べんご 団 だん への妨害 ぼうがい 行為 こうい [ 編集 へんしゅう ]
弁護 べんご 団 だん が見 み る事 こと の出来 でき るのは、有罪 ゆうざい の証拠 しょうこ となるようなデータのみであった。
これに反 はん し、検察 けんさつ 側 がわ はこれらのを記録 きろく を証拠 しょうこ として有罪 ゆうざい を証明 しょうめい できるのであった。
弁護 べんご 団 だん には被告 ひこく 側 がわ に有利 ゆうり な資料 しりょう を探 さが し出 だ す可能 かのう 性 せい は、ゼロだった。
弁護 べんご 団 だん から要求 ようきゅう される記録 きろく は、まず検察 けんさつ 側 がわ に提示 ていじ されなければならないし、検察 けんさつ 側 がわ はそれを採用 さいよう すべきかを決定 けってい した[51] 。
弁護 べんご 団 だん が、検察 けんさつ 側 がわ の引用 いんよう する記録 きろく を見 み せてほしいと要求 ようきゅう しても、引用 いんよう した記録 きろく が行方 ゆくえ 不明 ふめい になっていることがあった。
ニュルンベルクの記録 きろく は連合 れんごう 国 こく の将校 しょうこう たちに警備 けいび されていた為 ため 、その記録 きろく は将校 しょうこう たちの手 て で金庫 きんこ から持 も ち出 だ された可能 かのう 性 せい がある[52] 。
弁護 べんご 側 がわ の証人 しょうにん や支援 しえん 者 しゃ は、脅迫 きょうはく を受 う けたり、出廷 しゅってい させてもらえなかったり、逆 ぎゃく に検察 けんさつ 側 がわ の証人 しょうにん にされたりした。
オズワルド・ポール (Oswald Pohl ) は、アメリカおよびイギリス役人 やくにん から拷問 ごうもん を受 う け、
ワルター・フンク (Walther Funk ) の有罪 ゆうざい を証明 しょうめい する、と約束 やくそく するまで虐待 ぎゃくたい された[53] 。
許可 きょか されなかった反対 はんたい 尋問 じんもん [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 11月28日 にち 、弁護人 べんごにん エゴン・クブショク博士 はかせ は、メッサースミスという名 な の証人 しょうにん による、
数 すう 人 にん の被告 ひこく に重大 じゅうだい な不利益 ふりえき をもたらすものである供述 きょうじゅつ 書 しょ の内容 ないよう に対 たい し、異議 いぎ を申 もう し立 た て、反対 はんたい 尋問 じんもん を要請 ようせい した。
それに対 たい し、検事 けんじ アルダーマンは、証人 しょうにん に反対 はんたい 尋問 じんもん を受 う けさせる事 こと を拒否 きょひ し、「証拠 しょうこ 価値 かち ありとみえる一切 いっさい の証拠 しょうこ 資料 しりょう を承認 しょうにん するものである」とする協定 きょうてい 第 だい 18条 じょう を持 も ち出 だ した[55] 。
被告 ひこく への暴行 ぼうこう や拷問 ごうもん 行為 こうい [ 編集 へんしゅう ]
ユリウス・シュトライヒャー は連合 れんごう 国 こく のユダヤ人 じん 将校 しょうこう から、4日間 にちかん に渡 わた り、拷問 ごうもん や暴行 ぼうこう を受 う けたと証言 しょうげん した[56] 。
他 た にハンス・フランク も、アメリカ兵 へい に暴行 ぼうこう されたと証言 しょうげん している[57] 。
国際 こくさい 犯罪 はんざい 観 かん への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
この裁判 さいばん によって採用 さいよう された原則 げんそく は、1947年 ねん の国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい で「ニュルンベルク諸 しょ 原則 げんそく 」として採択 さいたく された(決議 けつぎ 95-1)。この原則 げんそく で平和 へいわ に対 たい する罪 つみ 、人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 、戦争 せんそう 犯罪 はんざい が国際 こくさい 的 てき な罪 つみ であると初 はじ めて明文化 めいぶんか されたほか、国際 こくさい 犯罪 はんざい においては国内 こくない 法 ほう の範囲 はんい は無関係 むかんけい であるとし、単 たん に命令 めいれい を実行 じっこう した者 もの であったとしても、責任 せきにん は免 まぬか れ得 え ないことなどが定 さだ められた[58] 。また検察官 けんさつかん は最終 さいしゅう 論告 ろんこく においてユダヤ人 じん の虐殺 ぎゃくさつ を「ジェノサイド 」と形容 けいよう し、「ジェノサイド罪 ざい 」を国際 こくさい 法 ほう 上 じょう の犯罪 はんざい として位置 いち づけようとする動 うご きの中 なか で、この言葉 ことば は法的 ほうてき 実効 じっこう 性 せい を持 も つものと考 かんが えられるようになった[59] 。
戦後 せんご ドイツにおけるニュルンベルク裁判 さいばん 観 かん [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク裁判 さいばん は戦犯 せんぱん 個人 こじん 、および組織 そしき の罪 つみ を裁 さば いたものであったが、ドイツという国家 こっか 自体 じたい については裁 さば かれなかった。カール・ヤスパース はナチス・ドイツ をナチ党 とう による不法 ふほう な簒奪 さんだつ によって生成 せいせい された「不法 ふほう 国家 こっか 」であるとみなし、ニュルンベルク裁判 さいばん の被告 ひこく となったナチス指導 しどう 者 しゃ 達 たち は政治 せいじ 犯 はん ではなく、刑事 けいじ 犯罪 はんざい 者 しゃ であると規定 きてい した。この考 かんが え方 かた はドイツにおけるニュルンベルク裁判 さいばん 観 かん の主流 しゅりゅう となり、裁判 さいばん によって個人 こじん やナチス組織 そしき の罪 つみ が追及 ついきゅう されたものの、ドイツ国民 こくみん やドイツ国 こく の「集団 しゅうだん 的 てき 罪 ざい 」についてはこれを否定 ひてい する傾向 けいこう がある。
裁判 さいばん 中 ちゅう にドイツ国民 こくみん に対 たい して行 おこな われた調査 ちょうさ によると、裁判 さいばん で裁 さば かれる各種 かくしゅ 犯罪 はんざい について裁判 さいばん で初 はじ めて知 し ったものの割合 わりあい は当初 とうしょ 三 さん 分 ぶん の二 に であったが、終盤 しゅうばん には80%を超 こ えた。裁判 さいばん 開始 かいし の時点 じてん では70%の回答 かいとう 者 しゃ が被告 ひこく 全員 ぜんいん が有罪 ゆうざい であると考 かんが えていたが、判決 はんけつ 後 ご には56%に減少 げんしょう している。また50%が判決 はんけつ は正当 せいとう であると回答 かいとう している。また西側 にしがわ 占領 せんりょう 地域 ちいき で判決 はんけつ 後 ご に行 おこな われた国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん の形式 けいしき についての調査 ちょうさ では、70%が正 ただ しいと回答 かいとう していたが、4年 ねん 後 ご には70%が正 ただ しくないと回答 かいとう している。これは少数 しょうすう のナチ党 とう 指導 しどう 者 しゃ を裁 さば いたニュルンベルク裁判 さいばん に対 たい し、軍 ぐん や企業 きぎょう と言 い った身近 みぢか な組織 そしき が裁 さば かれる印象 いんしょう をあたえたニュルンベルク継続 けいぞく 裁判 さいばん への反発 はんぱつ があるとみられている。
またドイツ の政界 せいかい では戦犯 せんぱん 裁判 さいばん は「戦勝 せんしょう 国 こく による不当 ふとう な裁 さば き」との認識 にんしき で語 かた られており[60] [61] [62] [要 よう ページ番号 ばんごう ] 、このため戦後 せんご のナチス犯罪 はんざい の追及 ついきゅう において「戦争 せんそう 犯罪 はんざい 」と「ナチス犯罪 はんざい 」を同一 どういつ 視 し することが障害 しょうがい となり[63] [要 よう ページ番号 ばんごう ] 、1960年代 ねんだい には両者 りょうしゃ は明確 めいかく に区別 くべつ されるようになった。
ドイツ政府 せいふ によるニュルンベルク裁判 さいばん への対応 たいおう [ 編集 へんしゅう ]
ドイツ政府 せいふ は現在 げんざい に至 いた るまで、ニュルンベルク裁判 さいばん は戦勝 せんしょう 国 こく に一方 いっぽう 的 てき に不法 ふほう で裁 さば かれた裁判 さいばん (Siegerjustiz )として認 みと めておらず、いかなる条約 じょうやく も受諾 じゅだく していない[64] 。
ドイツ政府 せいふ がニュルンベルク裁判 さいばん を承認 しょうにん していない顕著 けんちょ な例 れい は、ホロコースト否定 ひてい を取 と り締 し まる法 ほう である。例 たと えば、ニュルンベルク裁判 さいばん で裁 さば く側 がわ であったフランスではゲソ法 ほう による取 と り締 し まりが行 おこな われる。ゲソ法 ほう はニュルンベルク裁判 さいばん と関連付 かんれんづ けられており、「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」に異議 いぎ のある者 もの を取 と り締 し まる[64] 。しかし、ドイツでは政府 せいふ 自体 じたい がニュルンベルク裁判 さいばん を承認 しょうにん してないため、民衆 みんしゅう 扇動 せんどう 罪 ざい (ドイツ刑 けい 法典 ほうてん 130条 じょう 。特 とく に第 だい 3項 こう )により、取 と り締 し まりが行 おこな われる[64] 。
Mit Freiheitsstrafe bis zu fünf Jahren oder mit Geldstrafe wird bestraft, wer eine unter der Herrschaft des Nationalsozialismus begangene Handlung der in § 220a Abs. 1 bezeichneten Art in einer Weise, die geeignet ist, den öffentlichen Frieden zu stören, öffentlich oder in einer Versammlung billigt, leugnet oder verharmlost.
公共 こうきょう の
平穏 へいおん を
乱 みだ すのに
適 てき した
態様 たいよう で、ナチスが
行 おこな った
民族 みんぞく 謀殺 ぼうさつ を
是認 ぜにん ・
矮小 わいしょう 化 か し、またはその
存在 そんざい を
否定 ひてい した
者 もの は、5
年 ねん 以下 いか の
懲役 ちょうえき 又 また は
罰金 ばっきん 刑 けい を
科 か す。
— ドイツ刑 けい 法典 ほうてん 130条 じょう 第 だい 3項 こう
民衆 みんしゅう 扇動 せんどう 罪 ざい は、公共 こうきょう の場 ば で「ホロコーストは捏造 ねつぞう である」「ガス室 しつ は無 な かった」等 とう の発言 はつげん で大衆 たいしゅう を扇動 せんどう するなど、社会 しゃかい の平穏 へいおん を乱 みだ すような場合 ばあい にのみ適用 てきよう される[65] 。したがって、ホロコースト否定 ひてい 派 は が、閉 と じられた空間 くうかん の中 なか でそうした発言 はつげん をしても適用 てきよう されない[65] 。
また、ホロコーストの規模 きぼ や人数 にんずう を「疑問 ぎもん 視 し するだけ」では、民衆 みんしゅう 扇動 せんどう 罪 ざい の要件 ようけん を満 み たさないので適用 てきよう されない[65] 。
連邦 れんぽう 憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ は、刑法 けいほう 130条 じょう の解釈 かいしゃく ・適応 てきおう および具体 ぐたい 的 てき な意味 いみ 理解 りかい について、表現 ひょうげん の自由 じゆう への配慮 はいりょ を要請 ようせい しており、刑事 けいじ 裁判所 さいばんしょ が下 くだ したいくつかの有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を覆 くつがえ している。例 たと えば、ある男性 だんせい がドイツの戦争 せんそう 責任 せきにん やホロコースト否定 ひてい を記 しる した文章 ぶんしょう を飲食 いんしょく 店 てん 店主 てんしゅ に手渡 てわた した事 こと を理由 りゆう に民衆 みんしゅう 扇動 せんどう 罪 ざい で有罪 ゆうざい となったが、連邦 れんぽう 憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ は二 に 人 にん の間 あいだ で文章 ぶんしょう がやり取 と りされただけで頒布 はんぷ には当 あ たらず、平穏 へいおん を乱 みだ す効果 こうか はなかったと判断 はんだん し有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を破棄 はき している。
ニュルンベルク裁判 さいばん の問題 もんだい 点 てん [ 編集 へんしゅう ]
武井 たけい 彩佳 あやか は歴史 れきし 修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ によるニュルンベルク裁判 さいばん の批判 ひはん を、次 つぎ の4点 てん にまとめている[68] 。
ニュルンベルク裁判 さいばん は、正当 せいとう 性 せい に欠 か いている問題 もんだい 。戦勝 せんしょう 国 こく が、検察官 けんさつかん と裁判官 さいばんかん を同時 どうじ に務 つと めることは出来 でき ない。
法的 ほうてき な問題 もんだい 。ドイツを裁 さば く根拠 こんきょ となった「平和 へいわ に対 たい する罪 つみ 」や、「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」の概念 がいねん は、犯罪 はんざい が行 おこな われた当時 とうじ は確立 かくりつ しておらず、事後 じご 法 ほう で遡及 そきゅう 的 てき に裁 さば いてはならないとする法 ほう の大 だい 原則 げんそく に反 はん する。
道義 どうぎ 的 てき な問題 もんだい 。米 べい 英軍 えいぐん によるドイツの都市 とし への無 む 差別 さべつ 爆撃 ばくげき 、ソ連 それん 軍 ぐん による略奪 りゃくだつ や強姦 ごうかん 、虐殺 ぎゃくさつ 、東欧 とうおう からのドイツ人 じん の追放 ついほう など、連合 れんごう 国 こく 側 がわ の戦争 せんそう 犯罪 はんざい が不問 ふもん にされた。
ニュルンベルク裁判 さいばん が、ドイツ人 じん の「集団 しゅうだん 罪責 ざいせき 論 ろん 」に立 た っているという問題 もんだい 。集団 しゅうだん 罪責 ざいせき 論 ろん とは、戦争 せんそう 責任 せきにん は政治 せいじ 指導 しどう 者 しゃ だけでなく、一般 いっぱん 市民 しみん にもあるとする。ドイツ人 じん 全体 ぜんたい を犯罪 はんざい 者 しゃ とする思想 しそう は、ユダヤ人 じん 全体 ぜんたい を犯罪 はんざい 者 しゃ としたナチスと同 おな じである。
武井 たけい は南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ 、従軍 じゅうぐん 慰安 いあん 婦 ふ 、ホロコースト の否定 ひてい などの歴史 れきし 修正 しゅうせい 主義 しゅぎ の動 うご きに批判 ひはん 的 てき な歴史 れきし 学者 がくしゃ である[69] が、歴史 れきし 修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ の主張 しゅちょう には、以下 いか の点 てん において正当 せいとう 性 せい が含 ふく まれていると指摘 してき する[70] 。
ポーランド進攻 しんこう は、ソ連 それん はドイツと開戦 かいせん 前 まえ にポーランド分割 ぶんかつ を合意 ごうい して進攻 しんこう していたのに、裁判 さいばん ではドイツを断罪 だんざい する側 がわ の裁判官 さいばんかん の席 せき についていた。これは相手 あいて も同 おな じ事 ごと をしているのに、どうして自分 じぶん たちだけが責 せ められるのか。という理論 りろん として使 つか われるようになる。
連合 れんごう 国 こく の戦争 せんそう 犯罪 はんざい についても、修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ の主張 しゅちょう 通 どお りである。
集団 しゅうだん 罪責 ざいせき 論 ろん は、ドイツ人 じん にも独裁 どくさい 政治 せいじ に抵抗 ていこう した人 ひと や迫害 はくがい された人 ひと がいたが、それらの違 ちが いを一般 いっぱん 化 か し、塗 ぬ り込 こ めてしまう単純 たんじゅん 化 か であり、ドイツ人 じん が強 つよ く反発 はんぱつ したのも理解 りかい できる。
また、武井 たけい は戦後 せんご 秩序 ちつじょ の形成 けいせい に画期的 かっきてき だったはずのニュルンベルク裁判 さいばん は、皮肉 ひにく にも歴史 れきし 修正 しゅうせい 主義 しゅぎ の「生 う みの親 おや 」になったとしている[71] 。
アンネッテ・ヴァインケ (Annette Weinke )は、ニュルンベルク裁判 さいばん の最大 さいだい の欠点 けってん として、ドイツ降伏 ごうぶく 直後 ちょくご の1945年 ねん 5月 がつ にフランス軍 ぐん がアルジェリアのセティフで4万 まん 人 にん の民衆 みんしゅう を虐殺 ぎゃくさつ した(Sétif and Guelma massacre )が、フランスに対 たい する反乱 はんらん 行為 こうい として正当 せいとう 化 か を行 おこな い、フランス軍人 ぐんじん は処罰 しょばつ されず、1946年 ねん 以降 いこう 、特 とく に戦勝 せんしょう 国 こく による侵略 しんりゃく 行為 こうい 、民間 みんかん 施設 しせつ への爆 ばく 撃 げき 、虐殺 ぎゃくさつ などに対 たい して、ニュルンベルク裁判 さいばん で創造 そうぞう された規範 きはん が一 いち 度 ど も適用 てきよう されず、拘束 こうそく 力 りょく を持 も たなかった事 こと である。と指摘 してき している[49] 。
ヴェルナー・マーザー は、ニュルンベルク裁判 さいばん の問題 もんだい 点 てん として、おおよそ次 つぎ の点 てん を指摘 してき する。
法廷 ほうてい の中立 ちゅうりつ 性 せい が守 まも られていない。
戦勝 せんしょう 国 こく のみで裁判官 さいばんかん が構成 こうせい されており、法廷 ほうてい の中立 ちゅうりつ 性 せい を侵 おか している[72] 。
事後 じご 法 ほう を用 もち いて、法 ほう の遡及 そきゅう で裁 さば いている。
事後 じご 法 ほう であり、法 ほう は遡及 そきゅう してはいけないという法 ほう の大 だい 原則 げんそく を侵 おか している[73] 。(国際 こくさい 連合 れんごう は、1950年 ねん に法 ほう の遡及 そきゅう は人権 じんけん 侵害 しんがい であると声明 せいめい を出 だ している[74] 。)
侵略 しんりゃく 戦争 せんそう という定義 ていぎ の薄弱 はくじゃく 性 せい
侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の定義 ていぎ に関 かん する議論 ぎろん の席 せき でソ連 それん の代表 だいひょう の一人 ひとり が「人 ひと は侵略 しんりゃく 、侵略 しんりゃく と口 くち にするが、その時 とき は何 なに だが知 し っている。だが、概念 がいねん を定義 ていぎ するとなると困難 こんなん に突 つ き当 あ たる」と困難 こんなん さを述 の べている[50] 。侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の定義 ていぎ は現在 げんざい に至 いた っても存在 そんざい していない[50] 。また、侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の定義 ていぎ が定 さだ まれば、困 こま るのは戦勝 せんしょう 国 こく 側 がわ であり、ニュルンベルク裁判 さいばん 以前 いぜん も以降 いこう も戦勝 せんしょう 国 こく は国際 こくさい 法 ほう 違反 いはん の侵略 しんりゃく 行為 こうい を繰 く り返 かえ しているからである。これらの侵略 しんりゃく 行為 こうい は、戦後 せんご 定 さだ められたニュルンベルク諸 しょ 原則 げんそく が採用 さいよう されていれば、死刑 しけい になる者 もの が出 で るはずであったが、誰 だれ も裁 さば かれることはなかった[75] 。
戦勝 せんしょう 国軍 こくぐん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい の処理 しょり の甘 あま さ
例 たと えばアメリカ軍 ぐん はベトナム戦争 せんそう でソンミ村 むら の大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ を引 ひ き起 お こしたが、その戦争 せんそう 犯罪 はんざい 者 しゃ たちは、ウィリアム・カリー (軍人 ぐんじん ) を除 のぞ いて全員 ぜんいん 無罪 むざい となり、カリーも僅 わず か三 さん 年 ねん で釈放 しゃくほう されてしまい、カリーは犯罪 はんざい 者 しゃ ではなく英雄 えいゆう になった。と身内 みうち に対 たい する甘 あま い処理 しょり を指摘 してき している[76] 。
被告 ひこく や弁護 べんご 団 だん への不当 ふとう 行為 こうい
被告 ひこく へ拷問 ごうもん や暴行 ぼうこう があった[57] [56] 。弁護 べんご 団 だん へ提供 ていきょう された資料 しりょう は、翻訳 ほんやく されておらず、事前 じぜん の入手 にゅうしゅ は許 ゆる されず、被告 ひこく への弁護 べんご に使用 しよう するのは不可能 ふかのう だった。一方 いっぽう 検察 けんさつ は翻訳 ほんやく されており、事前 じぜん に入手 にゅうしゅ していた[51] 。弁護 べんご 団 だん や被告 ひこく に有利 ゆうり な資料 しりょう は行方 ゆくえ 不明 ふめい になった[52] 。検察 けんさつ 側 がわ が提示 ていじ した資料 しりょう は偽造 ぎぞう された可能 かのう 性 せい がある[77] 。法廷 ほうてい に提出 ていしゅつ された証言 しょうげん の供述 きょうじゅつ 文書 ぶんしょ に対 たい し、不審 ふしん を感 かん じた弁護 べんご 側 がわ が証人 しょうにん に反対 はんたい 尋問 じんもん を要請 ようせい したが拒否 きょひ され、反対 はんたい 尋問 じんもん が許可 きょか されることはなかった[55] 。
連合 れんごう 国 こく 側 がわ が重大 じゅうだい な国際 こくさい 法 ほう 違反 いはん を行 おこな っている問題 もんだい
例 たと えば、日本 にっぽん に対 たい する原爆 げんばく 投下 とうか [78] や、ドイツ人 じん 追放 ついほう である。ドイツ人 じん 追放 ついほう はドイツ降伏 ごうぶく 後 ご 、無防備 むぼうび となったドイツ人 じん やドイツ系 けい 住民 じゅうみん に対 たい し行 おこな われたもので、ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど からドイツ人 じん が追放 ついほう された。また東 ひがし ヨーロッパに何 なに 世代 せだい にも渡 わた って住居 じゅうきょ していたドイツ系 けい 住民 じゅうみん もドイツ系 けい というだけで、ロシア、ポーランド、チェコスロバキアの国籍 こくせき を有 ゆう していたのにもかかわらず、土地 とち や金銭 きんせん を奪 うば われて迫害 はくがい を受 う けて追放 ついほう された。この過程 かてい により、最大 さいだい で200万 まん 人 にん もの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で たとされている。未 いま だに、土地 とち 、財産 ざいさん が返還 へんかん されていないドイツ人 じん 、ドイツ系 けい 住民 じゅうみん に行 おこな われた迫害 はくがい 、虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい は、あらゆる国際 こくさい 法 ほう に違反 いはん しており、ハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく (特 とく に55条 じょう )、ケロッグ=ブリアン条約 じょうやく 、大西洋 たいせいよう 憲章 けんしょう 、ジュネーヴ条約 じょうやく 、ウィーン条約 じょうやく 、多 おお くの国際 こくさい 連合 れんごう 宣言 せんげん 、驚 おどろ くべき事 こと に戦勝 せんしょう 国 こく がニュルンベルク裁判 さいばん で定 さだ めたはずのニュルンベルク諸 しょ 原則 げんそく にすら違反 いはん していた[79] 。
マーザーはニュルンベルク裁判 さいばん は国際 こくさい 法廷 ほうてい などというものでは決 けっ してなく、勝者 しょうしゃ の法廷 ほうてい であって、戦争 せんそう を起 お こした罰 ばち を与 あた えるというアメリカの伝統 でんとう に則 のっと ったものであると評 ひょう している[80] 。
不 ふ 起訴 きそ になったカティンの森 もり 事件 じけん [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク裁判 さいばん でソ連 それん 代表 だいひょう 検事 けんじ のイオナ・ニキチェンコ は、カティンの森 もり の虐殺 ぎゃくさつ の責任 せきにん をドイツ側 がわ に押 お し付 つ けようとした。
1946年 ねん 7月 がつ にカティンの森 もり 事件 じけん について、ドイツによる犯罪 はんざい かどうか討議 とうぎ が行 おこな われたが証拠 しょうこ 不十分 ふじゅうぶん とされた。
ソ連 それん 側 がわ は1990年 ねん に崩壊 ほうかい するまでドイツの仕業 しわざ と主張 しゅちょう していた。
1992年 ねん 10月 がつ にロシア政府 せいふ は、虐殺 ぎゃくさつ をスターリンが指令 しれい した文書 ぶんしょ を公表 こうひょう し、ソ連 それん 側 がわ が犯人 はんにん であることが確定 かくてい した[81] [83] [84] 。
発見 はっけん されなかったヒトラーのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ 命令 めいれい や計画 けいかく 書 しょ [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク裁判 さいばん の判決 はんけつ によれば、ナチスやヒトラーはユダヤ人 じん を絶滅 ぜつめつ させる思想 しそう や計画 けいかく を持 も っていたとされている[85] 。だが、現在 げんざい (2023年 ねん 3月 がつ )においても、そのようなヒトラーの命令 めいれい 書 しょ や計画 けいかく 書 しょ は発見 はっけん されていない。
また、ユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ の設計 せっけい 図 ず (青写真 あおじゃしん )も存在 そんざい せず、絶滅 ぜつめつ の為 ため の国家 こっか 予算 よさん も付 つ かず、一元 いちげん 的 てき な管理 かんり を行 おこな う組織 そしき も無 な かった。
日本 にっぽん の主 おも な専門 せんもん 書 しょ も、ヒトラーのユダヤ人 じん 絶滅 ぜつめつ 命令 めいれい を示 しめ す文書 ぶんしょ は見 み つかっておらず、ヒトラーの命令 めいれい 書 しょ があったかは不明 ふめい であり、おそらく存在 そんざい しなかったのだろう(特 とく に栗原 くりはら 説 せつ [86] が顕著 けんちょ )、としている[87] [88] [86] [89]
[90] [91]
ヒトラーの側近 そっきん に居 い たユダヤ系 けい 軍人 ぐんじん [ 編集 へんしゅう ]
ヒトラーの側近 そっきん であったドイツ空軍 くうぐん 元帥 げんすい エアハルト・ミルヒ (英 えい : Erhard Milch )(独 どく : Erhard Milch )はユダヤ系 けい の軍人 ぐんじん であった。
第 だい 三 さん 帝国 ていこく の敗戦 はいせん まで戦 たたか ったミルヒは戦犯 せんぱん として裁 さば かれ有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けた。(エアハルト・ミルヒ裁判 さいばん )
ミルヒの上司 じょうし であったヘルマン・ゲーリング 空軍 くうぐん 元帥 げんすい が、ユダヤ系 けい のミルヒを庇 かば っていたとされる[92] 。
ベルンハルト・ロッゲ (英 えい : Bernhard Rogge )は、ユダヤ系 けい ドイツ軍人 ぐんじん であり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう は、ドイツ海軍 かいぐん の提督 ていとく として活躍 かつやく し、戦果 せんか を上 あ げた。この功績 こうせき からヒトラーから柏葉 はくよう 付 づけ 騎士 きし 十 じゅう 字 じ 章 あきら を授与 じゅよ された。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は海軍 かいぐん 中将 ちゅうじょう であった。
ドイツ海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん カール・デーニッツ 提督 ていとく は、ニュルンベルク裁判 さいばん で、自分 じぶん が率 ひき いたドイツ海軍 かいぐん は反 はん ユダヤ主義 しゅぎ ではないと証言 しょうげん した[93] 。
ロッゲ提督 ていとく も、ドイツ被告 ひこく の為 ため に弁護 べんご を行 おこな った[94]
大幅 おおはば に誇張 こちょう されていた強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の死亡 しぼう 者 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
最初 さいしょ にダッハウ収容 しゅうよう 所 しょ である。かつては、10万 まん 人 にん や45万 まん 人 にん もの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で たとされていた[95] が、現在 げんざい では41,500人 にん 前後 ぜんこう だと判明 はんめい しており、その内 うち の3分 ぶん の1以上 いじょう が終戦 しゅうせん までの6か月 げつ 間 あいだ に腸 ちょう チフスなどで病死 びょうし したものであった。[96] 。
次 つぎ にザクセンハウゼン収容 しゅうよう 所 しょ である。1946年 ねん 2月 がつ 19日 にち の法廷 ほうてい において、ソ連 それん はザクセンハウゼン収容 しゅうよう 所 しょ において、84万 まん 人 にん のソ連 それん 兵 へい が皆殺 みなごろ しにされたと主張 しゅちょう した[注釈 ちゅうしゃく 9] 。現在 げんざい 、ザクセンハウゼン収容 しゅうよう 所 しょ の公式 こうしき の資料 しりょう 館 かん は、犠牲 ぎせい 者 しゃ を数 すう 万 まん 人 にん (Zehntausende)としており、そのうち、ソ連 それん 兵 へい 捕虜 ほりょ の犠牲 ぎせい 者 しゃ は1万 まん 3千 せん 人 にん 以上 いじょう となっており、当時 とうじ のソ連 それん 側 がわ の主張 しゅちょう のうち少 すく なくとも75万 まん 人 にん は誇張 こちょう であると見 み られている[注釈 ちゅうしゃく 10] 。
次 つぎ はマイダネク収容 しゅうよう 所 しょ である。ニュルンベルク裁判 さいばん 当時 とうじ は、ソ連 それん は150万 まん 人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で たと主張 しゅちょう された[注釈 ちゅうしゃく 11] 一方 いっぽう で、現在 げんざい (2023年 ねん 1月 がつ 時点 じてん )のマイダネク収容 しゅうよう 所 しょ の公式 こうしき の犠牲 ぎせい 者 しゃ の数 かず は公式 こうしき サイトなどにより、8万 まん 人 にん (そのうち6万 まん 人 にん がユダヤ人 じん )[注釈 ちゅうしゃく 12] としており、裁判 さいばん 当時 とうじ のソ連 それん 側 がわ の主張 しゅちょう とは実 じつ に142万 まん 人 にん もの開 ひら きがある。なお、この150万 まん という人数 にんずう は、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご 大幅 おおはば に下方 かほう 修正 しゅうせい されている。[要 よう 出典 しゅってん ]
ラウル・ヒルバーグ によると、マイダネクのユダヤ人死 ひとじに 者 しゃ は5万 まん 人 にん である[97] 。カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno )によるとマイダネクの死亡 しぼう 者 しゃ の総数 そうすう は約 やく 4万 まん 人 にん と推定 すいてい している(そのうちのユダヤ人 じん の割合 わりあい は不明 ふめい )[98] 。ティル・バスティアン (Till Bastian )によると、マイダネクの死亡 しぼう 者 しゃ の総数 そうすう は約 やく 2万 まん 人 にん である[99] 。
さらに、最 もっと も知 し られた収容 しゅうよう 所 しょ であるアウシュヴィッツ 収容 しゅうよう 所 しょ についても、現在 げんざい (2023年 ねん 1月 がつ 時点 じてん )の公式 こうしき 見解 けんかい や公式 こうしき サイトで判明 はんめい している数字 すうじ と裁判 さいばん 当時 とうじ の主張 しゅちょう の間 あいだ に約 やく 300万 まん 人 にん 近 ちか くの開 ひら きがある。アウシュヴィッツ収容 しゅうよう 所 しょ の死亡 しぼう 者 しゃ 数 すう は、裁判 さいばん 当時 とうじ の人数 にんずう は400万 まん 人 にん とされたが、現在 げんざい では下方 かほう 修正 しゅうせい されて110万 まん 人 にん としている[注釈 ちゅうしゃく 13] 。だが、公式 こうしき の110万 まん も、確実 かくじつ ではなく、それ以下 いか だとする説 せつ もある。
ダッハウ 収容 しゅうよう 所 しょ でガス室 しつ による虐殺 ぎゃくさつ があったとの証言 しょうげん がニュルンベルク裁判 さいばん で行 おこな われた(後述 こうじゅつ )。公式 こうしき サイトにも書 か いてある通 とお り[注釈 ちゅうしゃく 14] 、ガス室 しつ による虐殺 ぎゃくさつ は実際 じっさい には無 な かった。
ニュルンベルク法廷 ほうてい における虚偽 きょぎ 証言 しょうげん [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク法廷 ほうてい において、ガス室 しつ の虐殺 ぎゃくさつ が証言 しょうげん されたにもかかわらず、戦後 せんご の調査 ちょうさ でガス室 しつ が稼働 かどう してなかった事 こと が確認 かくにん され、その証言 しょうげん が虚偽 きょぎ だと判明 はんめい している収容 しゅうよう 所 しょ がある。ダッハウ収容 しゅうよう 所 しょ (独 どく : KZ Dachau )におけるガス室 しつ である。
1946年 ねん 1月 がつ 11日 にち 、ニュルンベルク法廷 ほうてい において、ダッハウに強制 きょうせい 収容 しゅうよう されていたフランツ ブラハ (Franz Blaha )は嘘 うそ の証言 しょうげん をしない宣誓 せんせい を行 おこな ってから、ダッハウにおけるガス室 しつ による虐殺 ぎゃくさつ の証言 しょうげん を行 おこな った
[注釈 ちゅうしゃく 15] 。しかし、実際 じっさい には、ガス室 しつ による虐殺 ぎゃくさつ 証言 しょうげん は虚偽 きょぎ であり、戦後 せんご の調査 ちょうさ では、ガス室 しつ による虐殺 ぎゃくさつ は行 おこな われていなかった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
現在 げんざい のドイツのダッハウの公式 こうしき 資料 しりょう 館 かん では
「毒 どく ガスによる大量 たいりょう 殺人 さつじん はダッハウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ では起 お こらなかった。親衛隊 しんえいたい がなぜ上記 じょうき の高機能 こうきのう なガス室 しつ 〔訳者 やくしゃ 補足 ほそく :「バラックX」〕を使用 しよう しなかったのかは明 あき らかになっていない。当時 とうじ の目撃 もくげき 者 しゃ の報告 ほうこく によると、1944年 ねん には若干 じゃっかん 名 めい の囚人 しゅうじん が毒 どく ガスで殺害 さつがい された。」
(Zur massenhaften Tötung von Menschen durch Giftgas kam es im KZ Dachau nicht. Es ist ungeklärt, weshalb die SS die funktionsfähige Gaskammer nicht auf diese Weise einsetzte. Im Jahr 1944 wurden laut einem Zeitzeugenbericht einige Häftlinge durch Giftgas getötet.)
と説明 せつめい している[注釈 ちゅうしゃく 14] 。
アインザッツグルッペンの犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう を巡 めぐ る諸説 しょせつ [ 編集 へんしゅう ]
1947年 ねん 9月 がつ 29日 にち から1948年 ねん 4月 がつ 10日 とおか にかけて、アメリカ軍 ぐん はニュルンベルク継続 けいぞく 裁判 さいばん のアインザッツグルッペン裁判 さいばん を開廷 かいてい した。
アインザッツグルッペンの設立 せつりつ 当初 とうしょ は、無 む 差別 さべつ の射殺 しゃさつ は行 おこな われておらず、女性 じょせい や子供 こども を標的 ひょうてき にすることもなかった。また、大量 たいりょう 射殺 しゃさつ を行 おこな う命令 めいれい や、大量 たいりょう 射殺 しゃさつ の計画 けいかく も与 あた えられていなかった。大量 たいりょう 無 む 差別 さべつ 射殺 しゃさつ は1941年 ねん 8月 がつ から始 はじ まったという[100] [101] [102] [103] [104] 。
アインザッツグルッペン裁判 さいばん では、検察 けんさつ 側 がわ は約 やく 100万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい になったと主張 しゅちょう し[105] [106] [107] 、日本 にっぽん の主 おも な書籍 しょせき もその説 せつ を踏襲 とうしゅう している[106] [108] [109] 。だが、実際 じっさい には100万 まん 人 にん 以上 いじょう もの射殺 しゃさつ を行 おこな った証拠 しょうこ が見 み つかっている訳 わけ では無 な い。
アンネッテ(Annette Weinke )は、裁判 さいばん の100万 まん は誇張 こちょう されたもので、実際 じっさい は56万 まん 人 にん である[102] 。と指摘 してき している。
ユルゲン・グラーフ(英 えい : Jürgen Graf )(独 どく : Jürgen Graf )は、主 おも に以下 いか の理由 りゆう を挙 あ げて、アインザッツグルッペンの犠牲 ぎせい 者 しゃ の推定 すいてい 数 すう は多 おお 過 す ぎると主張 しゅちょう している[110] 。
ドイツ軍 ぐん がソ連 それん に侵攻 しんこう した時 とき 、ソ連 それん 領内 りょうない の特 とく にユダヤ系 けい 住民 じゅうみん は、ソ連 それん 奥地 おくち へ避難 ひなん したので、ドイツ軍 ぐん が占領 せんりょう した地域 ちいき のユダヤ住民 じゅうみん の数 かず はずっと少 すく なかった[111] 。
裁判 さいばん で使用 しよう されたアインザッツグルッペンの報告 ほうこく 書 しょ とされる文書 ぶんしょ は、ソ連 それん が提出 ていしゅつ してきたもので、偽造 ぎぞう された可能 かのう 性 せい が高 たか く、信用 しんよう 出来 でき ない[112] 。
アインザッツグルッペンがバビ・ヤール で引 ひ き起 お こしたとされる最大 さいだい の虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん (キエフ市 し で1941年 ねん 9月 がつ 29日 にち から30日 にち にかけて約 やく 3万 まん 人 にん が射殺 しゃさつ されたとされる)は、実際 じっさい にそんな事件 じけん は起 お こっておらず、ソ連 それん により捏造 ねつぞう されたものである[113] 。
アインザッツグルッペンは部隊 ぶたい 隊員 たいいん の人数 にんずう が少 すく ない為 ため 、大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな える部隊 ぶたい ではない[110] 。具体 ぐたい 的 てき には、AからDの4つの部隊 ぶたい のうち最大 さいだい 規模 きぼ の行動 こうどう 部隊 ぶたい であったA行動 こうどう 部隊 ぶたい の構成 こうせい 員 いん は総数 そうすう 990名 めい であった。この部隊 ぶたい 内 ない の172名 めい の運転 うんてん 手 しゅ 、3名 めい の女性 じょせい 、51名 めい の通訳 つうやく 、3名 めい のテレタイプ通信 つうしん 士 し 、8名 めい の無線 むせん 通信 つうしん 士 し を除 のぞ くと、射殺 しゃさつ を行 おこな える戦闘 せんとう 員 いん は約 やく 750名 めい に過 す ぎない。最小 さいしょう 規模 きぼ のD行動 こうどう 部隊 ぶたい の総数 そうすう は、A行動 こうどう 部隊 ぶたい の総数 そうすう の約 やく 半分 はんぶん の600名 めい 程度 ていど である。)
しかしながら、ゲリラやパルチザンとの戦闘 せんとう で、ドイツ軍 ぐん や武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい が攻撃 こうげき を受 う け、その報復 ほうふく などで民間 みんかん 人 じん にも犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で たのは事実 じじつ である[114] 。
ニュルンベルク裁判 さいばん の判決 はんけつ や証言 しょうげん と、現在 げんざい の公的 こうてき 見解 けんかい との相違 そうい [ 編集 へんしゅう ]
※ 公式 こうしき や学者 がくしゃ による見解 けんかい は、2023年 ねん 6月 がつ 現在 げんざい のものである。
公式 こうしき 見解 けんかい では、死亡 しぼう 者 しゃ は110万 まん 人 にん である[注釈 ちゅうしゃく 13] 。
ニュルンベルク裁判 さいばん (1945年 ねん ~1946年 ねん )の前 まえ の行 おこな われたマイダネク裁判 さいばん (1944年 ねん )で、ソ連 それん は170万 まん 人 にん がマイダネク収容 しゅうよう 所 しょ の犠牲 ぎせい になったと主張 しゅちょう した。写真 しゃしん は裁 さば かれるドイツ側 がわ 被告 ひこく
1944年 ねん 11月27日 にち から1944年 ねん 12月2日 にち まで、ルブリンでソ連 それん によって開廷 かいてい されたマイダネク裁判 さいばん (独 どく : Majdanek-Prozesse )において、犠牲 ぎせい 者 しゃ の数 かず は最高潮 さいこうちょう に達 たっ し、ソ連 それん の検事 けんじ は、170万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい になったと主張 しゅちょう した[115] 。
裁 さば かれた被告 ひこく の6人 にん 全員 ぜんいん が死刑 しけい 判決 はんけつ にされた。(その内 うち の1人 ひとり は自殺 じさつ )
ニュルンベルク裁判 さいばん (1945年 ねん ~1946年 ねん )では、20万 まん 程 ほど 減 へ らし、150万 まん 人 にん となった。
公式 こうしき 見解 けんかい では、マイダネクの死亡 しぼう 者 しゃ は8万 まん 人 にん である[注釈 ちゅうしゃく 12] 。
公式 こうしき 見解 けんかい では、死亡 しぼう 者 しゃ の総数 そうすう は数 すう 万 まん 人 にん 程度 ていど である。(そのうちソ連 それん 兵 へい の死亡 しぼう 者 しゃ は1万 まん 3千 せん 人 にん である。)[注釈 ちゅうしゃく 10]
トレブリンカ では、ユダヤ人 じん を部屋 へや に閉 と じ込 こ めて、水蒸気 すいじょうき を噴射 ふんしゃ して蒸 む し殺 ころ した
[116]
現在 げんざい 、水蒸気 すいじょうき で虐殺 ぎゃくさつ した記事 きじ は全 すべ て削除 さくじょ されており、ガス室 しつ や、エンジンの排気 はいき ガスで虐殺 ぎゃくさつ した記事 きじ になっている[117] [118] [119] 。エンジンの排 はい ガスがディーゼルか?ガソリンか?は、はっきりしておらず、ホロコースト大 だい 辞典 じてん (721ページ)、ヨーロッパ・ユダヤ人 じん の絶滅 ぜつめつ [122] [123] (上巻 じょうかん 645ページ下巻 げかん 558ページ)などの大著 たいちょ でも、ディーゼルかガソリンかはっきり書 か かず、言及 げんきゅう を避 さ けている。現在 げんざい 、ガソリンエンジンの排 はい ガスが有力 ゆうりょく であるとされている[124] 。
現在 げんざい の見解 けんかい では、ダッハウでガス室 しつ による殺害 さつがい は行 おこな われていない[注釈 ちゅうしゃく 17] 。
[125]
現在 げんざい 、ベルゲン・ベルゼン収容 しゅうよう 所 しょ には、電気 でんき ショック装置 そうち はもちろん、ガス室 しつ も存在 そんざい しなかった事 こと が判明 はんめい している[126] [127] [128] [129] 。
[131]
戦後 せんご の調査 ちょうさ ・研究 けんきゅう により、人間 にんげん の死体 したい から石鹸 せっけん は作 つく られていなかった事 こと が判明 はんめい している[132] [133] [134] [135] [136] [137] 。歴史 れきし 修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ を厳 きび しく批判 ひはん しているティル・バスティアン(独 どく : Till Bastian )や、ホロコースト肯定 こうてい 派 は の重鎮 じゅうちん 、デボラ・リップシュタット(英 えい : Deborah Lipstadt )も、人間 にんげん の死体 したい から石鹸 せっけん を作 つく ったという証言 しょうげん を否定 ひてい している[138] 。、[139] 。ラウル・ヒルバーグ も人間 にんげん 石鹸 せっけん は噂 うわさ 話 ばなし だとしている[140] 。嫌疑 けんぎ をかけられたダンツィヒ解剖 かいぼう 学 がく 研究所 けんきゅうじょ 所長 しょちょう のルドルフ・スパナー(Rudolf Spanner)は逮捕 たいほ され、1947年 ねん から1948年 ねん に渡 わた って、取 と り調 しら べを受 う けた。スパナー教授 きょうじゅ は、人間 にんげん の死体 したい から石鹸 せっけん を作 つく ってないと証言 しょうげん し、ダンツィヒの研究所 けんきゅうじょ にも家宅 かたく 捜索 そうさく が行 おこな われた。その結果 けっか 、ダンツィヒ研究所 けんきゅうじょ には石鹸 せっけん の製造 せいぞう を行 おこな う設備 せつび が無 な い事 こと が確認 かくにん された[141] 。
ドイツが原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の実験 じっけん を行 おこな い、2万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい になった
[142]
現在 げんざい 、全 すべ ての学者 がくしゃ や資料 しりょう は、この証言 しょうげん を事実 じじつ だと認 みと めていない。
ヒトラーが原爆 げんばく の開発 かいはつ に興味 きょうみ を示 しめ さなかった為 ため 、開発 かいはつ は中止 ちゅうし され、第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう にドイツが原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を完成 かんせい することは無 な かった。
第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう に、原爆 げんばく を実用 じつよう 化 か 出来 でき たのは、唯一 ゆいいつ アメリカだけであった[143] 。
裁判 さいばん の法廷 ほうてい でソ連 それん の検事 けんじ は、カチンの森 もり 事件 じけん はドイツによる虐殺 ぎゃくさつ である。と主張 しゅちょう した
[144]
実際 じっさい は、ソ連 それん による虐殺 ぎゃくさつ であり、その責任 せきにん をドイツ側 がわ に押 お し付 つ けようとしたものであった
[83] [84] [145] 。
日本 にっぽん 国内 こくない のニュルンベルク裁判 さいばん の書籍 しょせき [ 編集 へんしゅう ]
ヴェルナー・マーザーのニュルンベルク裁判 さいばん (1979年 ねん )[54] [ 編集 へんしゅう ]
ヴェルナー・マーザー のニュルンベルク裁判 さいばん は、裁判 さいばん を批判 ひはん 的 てき に取 と り扱 あつか っており、被告人 ひこくにん が暴行 ぼうこう に晒 さら されたり[53] 、弁護 べんご 団 だん が活動 かつどう の妨害 ぼうがい を受 う けたり[51] 、弁護 べんご 側 がわ に有利 ゆうり な証拠 しょうこ が紛失 ふんしつ したりする[52] 記事 きじ を載 の せている。翻訳 ほんやく 者 しゃ の西 にし 義之 よしゆき は、あとがきで「東京 とうきょう 裁判 さいばん を、人種 じんしゅ 的 てき 偏見 へんけん に満 み ちた復讐 ふくしゅう 裁判 さいばん だとする意見 いけん があるが、ナチス第 だい 三 さん 帝国 ていこく 崩壊 ほうかい 後 ご のドイツ指導 しどう 層 そう の受 う けた侮辱 ぶじょく と冷遇 れいぐう とつき合 あ わせてみると、なんとマッカーサーの軍隊 ぐんたい は紳士 しんし 的 てき であった事 こと かと今更 いまさら のように驚 おどろ いてしまう」と書 か いている[146] 。
芝 しば 健介 けんすけ のニュルンベルク裁判 さいばん (2015年 ねん )[147] [ 編集 へんしゅう ]
芝 しば 健介 けんすけ のニュルンベルク裁判 さいばん (2015年 ねん )は、現在 げんざい では誇張 こちょう された人数 にんずう と判明 はんめい しているアウシュヴィッツ 400万 まん 人 にん (現在 げんざい の公式 こうしき の人数 にんずう は約 やく 110万 まん [注釈 ちゅうしゃく 13] )、マイダネク150万 まん 人 にん (現在 げんざい の公式 こうしき の人数 にんずう は約 やく 8万 まん 人 にん [注釈 ちゅうしゃく 12] )と、現在 げんざい の下方 かほう 修正 しゅうせい された公式 こうしき の死亡 しぼう 者 しゃ は載 の せずに、裁判 さいばん 当時 とうじ の原文 げんぶん のママの死亡 しぼう 者 しゃ 数 すう 「アウシュヴィッツ400万 まん 人 にん 、マイダネク150万 まん 人 にん 」として本 ほん に載 の せている[148] 。
芝 しば は、アウシュヴィッツの公式 こうしき の110万 まん 人 にん [注釈 ちゅうしゃく 13] という死亡 しぼう 人数 にんずう を、以前 いぜん に執筆 しっぴつ した他 ほか の書籍 しょせき (2008年 ねん の「ホロコースト」[149] )では正 ただ しい死亡 しぼう 数 すう として書 か いている[150] のに、このニュルンベルク裁判 さいばん の書籍 しょせき (2015年 ねん )[147] においては400万 まん 人 にん であるかのように書 か いている[148] 。
また、マイダネク収容 しゅうよう 所 しょ にしても、ニュルンベルク裁判 さいばん (2015年 ねん )[147] では150万 まん 人 にん のように書 か いているが、以前 いぜん に執筆 しっぴつ した書籍 しょせき 「ホロコースト(2008年 ねん )[149] 」の時点 じてん で、公式 こうしき の人数 にんずう としてマイダネクの死亡 しぼう 者 しゃ は約 やく 20万 まん 人 にん [151] として挙 あ げている。ただし、この公式 こうしき の人数 にんずう は2008年 ねん の時点 じてん では間違 まちが いである。すでにマイダネクの公式 こうしき の人数 にんずう は、2005年 ねん に、マイダネク記念 きねん 館 かん の責任 せきにん 者 しゃ のトマシュ・クランツ(Tomasz Kranz )により、下方 かほう 修正 しゅうせい されて7万 まん 8千 せん 人 にん [注釈 ちゅうしゃく 18] 」になっており、芝 しば が、2008年 ねん 4月 がつ 25日 にち 初版 しょはん の「ホロコースト[149] 」を書 か いた時 とき には、マイダネクの公式 こうしき の死亡 しぼう 者 しゃ は7万 まん 8千 せん 人 にん であり、芝 しば が「ホロコースト(2008年 ねん )」の中 なか で、公式 こうしき の人数 にんずう として挙 あ げた「20万 まん 人 にん [151] は間違 まちが っていた。なお、ラウル・ヒルバーグ によると、マイダネクのユダヤ人死 ひとじに 者 しゃ は5万 まん 人 にん である[97] 。
アウシュヴィッツの死亡 しぼう 者 しゃ については、現在 げんざい 、ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac )の63万 まん 人 にん 説 せつ 、フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer )の51万 まん 人 にん 説 せつ や、アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz )などによる15万 まん 人 にん 説 せつ などもある。プレサックの63万 まん 人 にん 説 せつ は、日本 にっぽん の専門 せんもん 書 しょ でも紹介 しょうかい されている[152] 。
芝 しば の、ドイツの戦争 せんそう 犯罪 はんざい についての記事 きじ には、キーウ 市内 しない で19万 まん 5000人 にん が殺 ころ され[153] 、ハリコフ で19万 まん 5000人 にん が殺 ころ され[153] 、クリミア半島 くりみあはんとう では船 ふね に住民 じゅうみん を満載 まんさい して沈 しず めて14万 まん 4000人 にん を虐殺 ぎゃくさつ して[153] 、スターリングラードの戦 たたか い では、ソ連 それん 軍 ぐん は住民 じゅうみん の虐殺 ぎゃくさつ 死体 したい を多 おお く発見 はっけん し、ユダヤ人 じん の死体 したい にはダビデの星 ほし の焼 や きごてが押 お してあった[153] と記載 きさい している。
芝 しば は、カティンの森 もり 事件 じけん について、「1941年 ねん 9月 がつ 、捕虜 ほりょ になった多数 たすう のポーランド軍 ぐん 将校 しょうこう がスモレンスク郊外 こうがい のカティンの森 もり で大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ された」とし、「1943年 ねん 春 はる にドイツは「ソ連 それん によって、カティンの森 もり でポーランド将校 しょうこう が大量 たいりょう 射殺 しゃさつ された」と発表 はっぴょう し、それに対 たい し、ソ連 それん は裁判 さいばん でドイツの犯行 はんこう と主張 しゅちょう した。この事件 じけん は法廷 ほうてい で争 あらそ われる事 こと になった[154] 」という書 か き方 かた をして、事件 じけん がソ連 それん の犯行 はんこう によるものだったのに関 かか わらず、最終 さいしゅう 的 てき にそれをはっきりと書 か いていない。
芝 しば の、ニュルンベルク裁判 さいばん に対 たい する批判 ひはん として、「法 ほう の不 ふ 遡及 そきゅう 」と、「戦勝 せんしょう 国 こく が裁判官 さいばんかん を務 つと め、敗戦 はいせん 国 こく が被告 ひこく となり、公正 こうせい な裁 さば きなど出来 でき ない」、という2つの大 おお きな問題 もんだい に触 ふ れている[155] が、「裁判 さいばん に対 たい するこうした異見 いけん は、裁判 さいばん を阻害 そがい する影響 えいきょう 力 りょく を持 も たなかった」と結論 けつろん を述 の べている[155] 。
アンネッテ・ヴァインケのニュルンベルク裁判 さいばん (2015年 ねん )[156] [ 編集 へんしゅう ]
アンネッテ・ヴァインケ(Annette Weinke )のニュルンベルク裁判 さいばん (2015年 ねん )の主 おも な記事 きじ の箇所 かしょ を列挙 れっきょ すると以下 いか のようになる。
ニュルンベルクに到着 とうちゃく したドイツ戦犯 せんぱん たちは、ジュネーヴ条約 じょうやく で保証 ほしょう された捕虜 ほりょ としての法的 ほうてき 権利 けんり を喪失 そうしつ した。彼 かれ らは、互 たが いに会 あ うことや、弁護士 べんごし を代理 だいり に立 た てる事 こと を禁止 きんし された[158] 。
検察 けんさつ 側 がわ の資料 しりょう 研究 けんきゅう チームの、約 やく 半分 はんぶん がユダヤ人 じん であった[160] 。
ニュルンベルク裁判 さいばん の最大 さいだい の欠点 けってん は、1946年 ねん 以降 いこう の戦勝 せんしょう 国 こく による侵略 しんりゃく 行為 こうい 、民間 みんかん 施設 しせつ への爆 ばく 撃 げき などに対 たい して、ニュルンベルク裁判 さいばん の規範 きはん が一 いち 度 ど も適用 てきよう されず、拘束 こうそく 力 りょく を持 も たなかった事 こと である[161] 。
ソ連 それん の証人 しょうにん による証言 しょうげん は信憑 しんぴょう 性 せい が低 ひく い。ソ連 それん と共 とも に裁 さば く側 がわ であったイギリスの判事 はんじ ですら、「ソ連 それん の証人 しょうにん の証言 しょうげん は誇張 こちょう されており信用 しんよう できない」と記録 きろく している[162] 。(大 おお きく誇張 こちょう されているアウシュヴィッツやマイダネクの証人 しょうにん はソ連 それん が出 だ していた。)
ヒトラーがソ連 それん 領内 りょうない のユダヤ人 じん の殺害 さつがい 命令 めいれい を出 だ さなかった。と判明 はんめい したのは1990年代 ねんだい に入 はい ってからであった。1941年 ねん の夏 なつ にハインリヒ・ヒムラー が東部 とうぶ 戦線 せんせん の射殺 しゃさつ 対象 たいしょう を女性 じょせい 、子供 こども まで拡大 かくだい させた[102] 。
他 た のニュルンベルク裁判 さいばん の書籍 しょせき として、ニュルンベルク裁判 さいばん の通訳 つうやく (2013年 ねん )[163] がある。
^ ww1にて戦争 せんそう 開始 かいし 者 しゃ 責任 せきにん および、戦争 せんそう 法規 ほうき と慣例 かんれい 違反 いはん で訴追 そつい した前例 ぜんれい があり、1943年 ねん のモスクワ宣言 せんげん でも、明示 めいじ されている。
^ フランス・ポーランド相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) と、イギリス・ポーランド相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) に基 もと づく
^ ソ連 それん はポーランド侵攻 しんこう と、フィンランド との『冬 ふゆ 戦争 せんそう 』に対 たい して道義 どうぎ 的 てき 制裁 せいさい を科 か され[44] 、国際 こくさい 連盟 れんめい も除名 じょめい されているので、不問 ふもん にされていない。
^ 軍 ぐん が守 まも る防 ぼう 守 もり 地域 ちいき ・軍 ぐん に利 り する建物 たてもの や、交通 こうつう 網 もう への爆 ばく 撃 げき は認 みと められている[45] 。民間 みんかん 人 じん への規定 きてい がされたのは、1977年 ねん のジュネーブ条約 じょうやく 第 だい 一 いち 追加 ついか 議定 ぎてい 書 しょ 51条 じょう [46] 。これにはアメリカをはじめ24ヵ国 かこく は締約 ていやく しておらず[47] 、枢軸 すうじく 国 こく の無 む 差別 さべつ 爆 ばく 撃 げき も空戦 くうせん 法規 ほうき 違反 いはん で起訴 きそ されていない。
^ Article 19 stipulated「The Tribunal shall not be bound by technical rules of evidence and shall admit any evidence which it deems to have probative value.」
19条 じょう 「法廷 ほうてい は、証拠 しょうこ に関 かん する法 ほう 技術 ぎじゅつ 的 てき 規則 きそく に拘束 こうそく されず、証明 しょうめい 能力 のうりょく があると見 み 做す如何 いか なる証拠 しょうこ も許容 きょよう するものである。」
^ Article 21 stipulated「The Tribunal shall not require proof of facts of common knowledge but shall take judicial notice thereof. It shall also take judicial notice of official governmental documents and reports of the United [Allied] Nations, including acts and documents of the committees set up in the various allied countries for the investigation of war crimes, and the records and findings of military and other Tribunals of any of the United [Allied] Nations.」
21条 じょう 「法廷 ほうてい は、公知 こうち の事実 じじつ については、証明 しょうめい を求 もと めることなく、これを事実 じじつ と認 みと める。法廷 ほうてい は、戦争 せんそう 犯罪 はんざい 捜査 そうさ のため同盟 どうめい 諸国 しょこく において設立 せつりつ された委員 いいん 会 かい の決議 けつぎ および文書 ぶんしょ を含 ふく む、連合 れんごう 諸国 しょこく の公文書 こうぶんしょ および報告 ほうこく 書 しょ 並 なら びにいずれかの連合 れんごう 国 こく の軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい またはその他 た の法廷 ほうてい の記録 きろく や判決 はんけつ 書 しょ をも、同様 どうよう に法廷 ほうてい に顕著 けんちょ な事実 じじつ と認 みと める。」
^ 第 だい 19条 じょう 「法廷 ほうてい は証拠 しょうこ に関 かん する、法 ほう 技術 ぎじゅつ 的 てき 規則 きそく に拘束 こうそく されない」。
^ 第 だい 26条 じょう 「被告人 ひこくにん の有罪 ゆうざい 及 およ び無罪 むざい に関 かん する裁判所 さいばんしょ の判決 はんけつ には、その理由 りゆう を付 ふ する。判決 はんけつ は最終 さいしゅう であって、再 さい 審査 しんさ を許 ゆる さない」。
^ a b An SS member, Paul Waldmann, testifies to their existence.
He was one of the participants in the crime perpetrated by the German fascists when 840,000 Russian prisoners of war in Sachsenhausen were annihilated at one time.
Nuremberg Trial Proceedings Vol. 7 586
^ a b Zehntausende Häftlinge kamen im KZ Sachsenhausen durch Hunger, Krankheiten, Zwangsarbeit, medizinische Versuche und Misshandlungen um oder wurden Opfer von systematischen Vernichtungsaktionen der SS.
Im Herbst 1941 ermordete die SS mindestens 13.000 sowjetische Kriegsgefangene
konzentrationslager-sachsenhausen
^ The Polish-Soviet Extraordinary Commission has ascertained that during the 4 years' existence of the extermination camp at Maidanek the Hitlerite hangmen, following the direct order of their criminal government, exterminated by mass shooting and mass killing in gas chambers approximately 1.5 million persons.
Nuremberg Trial Proceedings Vol. 7 590
^ a b c Among an estimated 130,000 prisoners who entered Majdanek, 80,000 people were killed according to the most recent research. Among them, the greatest number of those who died or were murdered were Jews (about 60,000), followed by Poles, Belarusians, Ukrainians and Russians. In order to remove the traces of the crimes, the corpses of those who died and the murdered were burnt on pyres or in the crematorium.
GENERAL INFORMATION
^ a b c d As a result of the inclusion of Auschwitz in the process of the mass extermination of the Jews, the number of deportees began to soar. About 197 thousand Jews were deported there in 1942, about 270 thousand the following year, and over 600 thousand in 1944, for a total of almost 1.1 million. Among them, about 200 thousand people were selected as capable of labor and registered as prisoners in the camp
the-number-of-victims
^ a b krematoriumsbereich <
^ a b Many executions by gas or shooting or injections took place right in the camp.
The gas chamber was completed in 1944, and I was called by Dr. Rascher to examine the first victims.
Of the eight or nine persons in the chamber there were three still alive, and the remainder appeared to be dead.
Their eyes were red, and their faces were swollen. Many prisoners were later killed in this way.
Nuremberg Trial Proceedings Vol. 5 173
^ a b About 1 1/2 million persons were exterminated in Maidanek and about 4 million persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, :France, and other countries.Nuremberg Trial Proceedings Volume 2 61
^ 現在 げんざい のドイツのダッハウの公式 こうしき 資料 しりょう 館 かん では
「Zur massenhaften Tötung von Menschen durch Giftgas kam es im KZ Dachau nicht.」
「ダッハウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ でガス室 しつ による殺害 さつがい は起 お こらなかった。」と説明 せつめい している。krematoriumsbereich
^ At the end of 2005, Tomasz Kranz, chief of the research department at the Majdanek Memorial, published an article in no. 23 of Zeszyty Majdanka (Majdanek Journal) on "The Recording of Deaths and Mortality Rates among the Inmates of Concentration Camp Lublin," in which he assessed the number of those who perished in the Lublin/Majdanek camp at approximately 78,000.
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上 うえ ISBN 4-562-03652-4 、下 した ISBN 4-562-03653-2
レオン・ゴールデンソーン 著 ちょ \ロバート・ジェラトリー 編 へん \小林 こばやし 等 ひとし 、高橋 たかはし 早苗 さなえ 、浅岡 あさおか 政子 まさこ 訳 やく 『ニュルンベルク・インタビュー』上 じょう 、下 した (河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2005年 ねん )
上 うえ ISBN 4-309-22440-7 、下 した ISBN 4-309-22441-5
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