ニュルンベルク裁判さいばん

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ニュルンベルク裁判さいばん被告ひこくせき前列ぜんれつおくからヘルマン・ゲーリングルドルフ・ヘスヨアヒム・フォン・リッベントロップヴィルヘルム・カイテル後列こうれつおくからカール・デーニッツエーリヒ・レーダーバルドゥール・フォン・シーラッハフリッツ・ザウケル
ニュルンベルク裁判さいばん被告ひこくせき後列こうれつ手前てまえから、デーニッツ、レーダー、シーラッハ、ザウケル、アルフレート・ヨードルフランツ・フォン・パーペンアルトゥール・ザイス=インクヴァルトアルベルト・シュペーアコンスタンティン・フォン・ノイラートハンス・フリッチェ前列ぜんれつ手前てまえから、ゲーリング、ヘス、リッベントロップ、カイテル、エルンスト・カルテンブルンナーアルフレート・ローゼンベルクハンス・フランクヴィルヘルム・フリックユリウス・シュトライヒャーヴァルター・フンクヒャルマル・シャハト

ニュルンベルク国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん(ニュルンベルクこくさいぐんじさいばん)は、だい世界せかい大戦たいせんにおいて連合れんごうこくによっておこなわれたナチス・ドイツ戦争せんそう犯罪はんざいさば国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんである(1945ねん11月20にち - 1946ねん10月1にち)。国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)のとう大会たいかい開催かいさいであるニュルンベルクひらかれた。日本にっぽん極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)とならだい国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんひとつ。

最初さいしょおも裁判さいばん英語えいごTrial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT)と、それにつづく、ニュルンベルクを占領せんりょう統治とうちしていたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる12の裁判さいばん英語えいごNuremberg Military Tribunals, NMT. 1949ねん4がつ14にちまでおこなわれ、一般いっぱんには「ニュルンベルク継続けいぞく裁判さいばん」として、最初さいしょおも裁判さいばんとは区別くべつされる)で構成こうせいされた。

前史ぜんし[編集へんしゅう]

戦前せんぜん認識にんしき[編集へんしゅう]

いわゆる「人道じんどうたいするつみ」という言葉ことば淵源えんげんは1909ねんハーグ陸戦りくせん条約じょうやくられるが、用語ようごとして成立せいりつしたのは戦後せんごになってからだった[1][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]だいいち世界せかい大戦たいせんの1919ねん1がつ連合れんごうこくは、国家こっか元首げんしゅをもふく戦争せんそう開始かいししゃ責任せきにんさば国際こくさい法廷ほうてい設置せっちについて討議とうぎおこなった。この方針ほうしん採択さいたくされなかったものの、ヴェルサイユ条約じょうやくぜんドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せい国際こくさい条約じょうやく信義しんぎそむいたとして国際こくさい法廷ほうていさばくという条項じょうこう反映はんえいされた。しかしヴィルヘルム2せい裁判さいばん実現じつげんせず、またドイツの戦争せんそう犯罪はんざい容疑ようぎしゃ国際こくさい法廷ほうていさばくこともドイツがわ拒否きょひにあい、ライプツィヒ戦争せんそう犯罪はんざい裁判さいばん英語えいごばんとしておこなわれたドイツ国内こくない戦犯せんぱん裁判さいばんは、ほとんど形式けいしきてきなものにぎなかった。

また、オスマン帝国ていこくアルメニアじん虐殺ぎゃくさつたいしては、連合れんごうこくがわの15にん委員いいんかいが「人道じんどうたいするつみ」としてげようとしたさい、アメリカおよび日本にっぽんは「これをみとめれば、国家こっか元首げんしゅ敵国てきこく裁判さいばんにかけられることになる」として反対はんたいした。またアメリカは国際こくさい法廷ほうてい設置せっちそのものに前例ぜんれいがないとして反対はんたいした[2]。その国際こくさい法廷ほうていかんする協議きょうぎおこなわれていたが、明確めいかく条約じょうやく締結ていけつされなかった[3]

連合れんごうこく戦犯せんぱん裁判さいばん方針ほうしん形成けいせい[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ直後ちょくごから、連合れんごうこくあいだではドイツによる前例ぜんれいのない残虐ざんぎゃく行為こうい非難ひなんするこえたかまっていた。1940ねん11月にはポーランド亡命ぼうめい政府せいふチェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふが、ドイツの占領せんりょうにある両国りょうこく領域りょういきにおける残虐ざんぎゃく行為こういは、史上しじょうれいがないと非難ひなんした共同きょうどう宣言せんげん発表はっぴょうした[4]。1941ねん10がつ25にちにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうとイギリスのウィンストン・チャーチル首相しゅしょうがそれぞれドイツの残虐ざんぎゃく行為こうい非難ひなんする声明せいめい発表はっぴょうし、とくにチャーチルは「これら犯罪はんざい懲罰ちょうばつは、いま主要しゅよう戦争せんそう目的もくてきひとつ」であるとした[4]。11月5にちにはソビエト連邦れんぽうヴャチェスラフ・モロトフ外相がいしょう同様どうよう発言はつげんおこない、えいべい歩調ほちょうわせた[4]

1942ねん1がつ13にちにはセント・ジェームズ宮殿きゅうでんあつまったベルギールクセンブルクチェコスロバキアポーランドギリシャオランダノルウェーかく亡命ぼうめい政府せいふ代表だいひょう自由じゆうフランス代表だいひょうが「組織そしきされた裁判さいばん手続てつづきにより」、市民しみんたいする残虐ざんぎゃく犯罪はんざいおかしたものたち処罰しょばつすることを、「主要しゅよう戦争せんそう目的もくてきなかれる」ことを決議けつぎした[5]。オブザーバーとして参加さんかしていた中華民国ちゅうかみんこく代表だいひょうもこの原則げんそく同意どういし、この方針ほうしん中国ちゅうごく大陸たいりく存在そんざいする日本にっぽんぐんにも適用てきようする意志いししめした[6]。またソビエト連邦れんぽうもこの方針ほうしん同意どういした[6]。イギリスは戦犯せんぱん裁判さいばん当初とうしょではなかったが、これらの国々くにぐにとっげによって戦犯せんぱん裁判さいばんについて検討けんとうせざるをなくなった。また、日本にっぽん占領せんりょうによってイギリスの軍民ぐんみん被害ひがいけているという報告ほうこくおおせられはじめたことも背景はいけいにあった[7]。6月にはチャーチルが連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい捜査そうさ委員いいんかい設置せっちをアメリカに示唆しさし、7がつには閣議かくぎでこの方針ほうしん承認しょうにんするとともに、戦争せんそう犯罪はんざいじんあつかいにかんする内閣ないかく委員いいんかい設置せっちすることを決定けっていした[6]。 この討議とうぎでは、外相がいしょうアンソニー・イーデンだい法官ほうかんジョン・サイモン英語えいごばん国際こくさい法廷ほうていによる裁判さいばん反対はんたい意見いけん表明ひょうめいしている[6]

1942ねん10がつ7にち、ルーズベルト大統領だいとうりょうとサイモンだい法官ほうかんはそれぞれ、連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい捜査そうさ委員いいんかい設置せっちと、戦犯せんぱん裁判さいばんのためのあらゆる証拠しょうこ収集しゅうしゅうすることを表明ひょうめいした[6]。しかしだいいち世界せかい大戦たいせんのライプツィヒ裁判さいばん失敗しっぱいから、具体ぐたいてき戦犯せんぱん裁判さいばんにはべいえい消極しょうきょくてきであったこと、さらにソビエト連邦れんぽう裁判さいばん参加さんか問題もんだいもあって、具体ぐたいてき決定けっていはなかなかおこなわれなかった[6]。ソビエト連邦れんぽう自国じこく構成こうせい共和きょうわこく、とくにバルトさんこく設置せっちされた社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん代表だいひょうとしてみとめるよう要求ようきゅうし、イギリスはこの要求ようきゅう拒否きょひした[8]。ソビエト連邦れんぽう即時そくじ戦犯せんぱん裁判さいばん開始かいしもとめていたが、イギリスは捕虜ほりょとなっている将兵しょうへい報復ほうふくされることをこわれ、大半たいはん戦犯せんぱん裁判さいばん戦争せんそうちゅうにはおこなわれなかった[9]。1943ねん10がつ20日はつかからロンドンで開催かいさいされた17カ国かこく会議かいぎによって連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい委員いいんかい(UNWCC)の設置せっちまった。11月1にちにはモスクワ宣言せんげん発表はっぴょうされ、局地きょくちてき戦争せんそう犯罪はんざい被告人ひこくにんについては被害ひがいこくさばくものの、国家こっかぐんナチとう指導しどうしゃ裁判さいばんについては今後こんご決定けっていされるとされた。

UNWCCは1944ねん1がつ11にちだいいちかい正式せいしき会合かいごうおこない、まずなに戦争せんそう犯罪はんざいであるかの討議とうぎ開始かいしした。この討議とうぎなかで、「戦争せんそうという犯罪はんざい」や、従来じゅうらい戦争せんそう犯罪はんざいわくおさまらない残虐ざんぎゃく行為こうい(ナチス・ドイツがおこなったリディツェレジャーキむら殲滅せんめつ行為こういなど)も裁判さいばん対象たいしょうくわえるべきであるという主張しゅちょうおこなわれた。10月3にち、UNWCC総会そうかいは「戦争せんそう犯罪はんざいじん裁判さいばんのための最高さいこう司令しれいかんによる混合こんごう軍事ぐんじ法廷ほうてい設立せつりつ支持しじする勧告かんこく」を賛成さんせい8、反対はんたい4で採択さいたくした[10]。この勧告かんこくでは文民ぶんみんによる国際こくさい法廷ほうてい開催かいさいと、明文化めいぶんかされた条約じょうやくほかに、「文明ぶんめいしょ国民こくみんあいだ確立かくりつした慣習かんしゅう人道じんどうほう、ならびに公衆こうしゅう良心りょうしんめいずるところから由来ゆらいするしょ国家こっかほうしょ原理げんり」「ほうとしてみとめられた一般いっぱんてき実践じっせん証拠しょうことしての戦争せんそう国際こくさいてき慣例かんれい」をも根拠こんきょとするべきであるとしており[11]、「人道じんどうたいするつみ」はふくまれていたものの、「平和へいわたいするつみ」はふくまれていなかった[12]。UNWCCは実際じっさい裁判さいばん運営うんえいについてはイギリス外務省がいむしょう一任いちにんするとしていたが、イギリス政府せいふはUNWCCの勧告かんこくおおくに拒否きょひ反応はんのうしめした。イギリス政府せいふ戦争せんそう犯罪はんざいについては従来じゅうらいせま定義ていぎもちいるべきであるとかんがえており、ドイツ国内こくないにおけるユダヤじんたいする迫害はくがいホロコースト)を対象たいしょうくわえることにも反対はんたいし、戦後せんご成立せいりつするドイツ政府せいふ裁判さいばんまかせるべきと回答かいとうした[13]。アメリカ国務省こくむしょうも「人道じんどうたいするつみ」を対象たいしょうとすることには反対はんたいしており[14]主要しゅよう戦犯せんぱん裁判さいばんについては消極しょうきょくてきであった[15]

しかしヘンリー・モーゲンソー財務ざいむ長官ちょうかんは1944ねん7がつにヨーロッパから帰還きかんすると、アメリカ政府せいふ対応たいおうがドイツにたいして寛大かんだいすぎると非難ひなんおこなうようになった[16][17]。モーゲンソーはナチス戦犯せんぱんのリストをつくり、これら戦犯せんぱん即決そっけつ銃殺じゅうさつけいしょするよう主張しゅちょうするとともに[17]、ドイツがおかした文明ぶんめいたいする犯罪はんざい裁判さいばんさばくよう主張しゅちょうした[18]。アメリカ政府せいふないでモーゲンソーの意見いけん影響えいきょうりょくつようになると、陸軍りくぐん長官ちょうかんヘンリー・スティムソン危機ききかんいだくようになった。スティムソンはモーゲンソーの方針ほうしんがかえってあらたな戦争せんそう原因げんいんとなるとかんがえ、すべてのナチス指導しどうしゃ裁判さいばんさばくよう主張しゅちょうした[19]。9月25にちケベック会談かいだんでモーゲンソーは戦犯せんぱん即時そくじ射殺しゃさつをルーズベルトとチャーチルに提案ていあんし、りょう首脳しゅのう一時いちじこれを了承りょうしょうしている[19][20]。ところがモーゲンソーの戦後せんごドイツ統治とうち計画けいかくモーゲンソー・プラン」がマスコミからの非難ひなんけると、ルーズベルトとモーゲンソーの関係かんけい冷却れいきゃくし、モーゲンソーの影響えいきょうりょく低下ていかしていった[19]。こうしてアメリカ政府せいふないでの戦犯せんぱん裁判さいばん問題もんだいについては陸軍りくぐんしょう主導しゅどうけんにぎることになった[19]

9月15にち、マレイ・バーネイズ(Murray C. Bernays)陸軍りくぐん中佐ちゅうさは、「ヨーロッパの戦争せんそう犯罪はんざいじん裁判さいばん」についての覚書おぼえがき作成さくせいした。この覚書おぼえがきでは、戦争せんそう以前いぜんにドイツが国民こくみんたいしておかした犯罪はんざいさばくことや、「戦争せんそう法規ほうきはんして殺人さつじんテロリズム平和へいわてき民衆みんしゅう破壊はかいおかした共同きょうどう謀議ぼうぎ(conspiracy)」をさばくよう提案ていあんしている[19][21]。「共同きょうどう謀議ぼうぎろんは、従来じゅうらい戦争せんそう犯罪はんざいおさまらない組織そしきてき系統けいとうてき残虐ざんぎゃく行為こうい、いわゆる「人道じんどうたいするつみ」や、従来じゅうらい戦争せんそう犯罪はんざいおこなった国家こっか最高さいこう指導しどうしゃかくきゅう指導しどうしゃさばくために導入どうにゅうされたものであり[22]具体ぐたいてきにはナチとう親衛隊しんえいたい突撃とつげきたいゲシュタポふく国家こっかとう代理人だいりにん訴追そついするためのものであった[21]。スティムソンは従来じゅうらい自国じこくみんたいする犯罪はんざいくわえることには反対はんたいしていたが、バーネイズの見解けんかい同意どういした。11月9にち陸軍りくぐん海軍かいぐん国務省こくむしょう首脳しゅのう会議かいぎでは共同きょうどう謀議ぼうぎろん採用さいようと、国際こくさい条約じょうやくもとづく国際こくさい法廷ほうてい開催かいさい決定けっていされたが、侵略しんりゃく戦争せんそう開始かいしについてはなおも検討けんとうくわえられることになった[23]司法省しほうしょう国務省こくむしょう法律ほうりつ顧問こもん共同きょうどう謀議ぼうぎろん、そして侵略しんりゃく戦争せんそう犯罪はんざいとすることについて批判ひはんしたが、マルメディ虐殺ぎゃくさつ事件じけん報道ほうどうされたこともあって、次第しだいにナチスにたいする懲罰ちょうばつ意見いけんつよくなりはじめた。年末ねんまつには陸軍りくぐん法務ほうむ部長ぶちょう室内しつない戦争せんそう犯罪はんざいきょく設置せっちされ、研究けんきゅう開始かいしされた[24]。1945ねん1がつ4にち、ルーズベルト大統領だいとうりょうは「不戦ふせん条約じょうやく違反いはん侵略しんりゃく戦争せんそう開始かいし」を告発こくはつふくめるべきであるという覚書おぼえがき署名しょめいし、1がつ22にちには共同きょうどう謀議ぼうぎろん採用さいよう侵略しんりゃく戦争せんそう開始かいし訴追そついとう陸軍りくぐん海軍かいぐん国務省こくむしょうさん長官ちょうかんあいだ合意ごういされた[25]。4月にはハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょうがこのさん長官ちょうかん合意ごうい採用さいようし、アメリカ政府せいふ戦犯せんぱん訴追そつい方針ほうしんかたまった[25]。その大統領だいとうりょう側近そっきんサミュエル・ローゼンマン司法しほう長官ちょうかんフランシス・ビドルロバート・ジャクソンらが中心ちゅうしんとなり、戦犯せんぱん裁判さいばん基本きほんづくりが開始かいしされた[15]

イギリス政府せいふとアメリカ政府せいふ協議きょうぎはじまったが、イギリス政府せいふ戦犯せんぱん裁判さいばん難色なんしょくしめしていた。しかし、ナチス政府せいふ崩壊ほうかいし、総統そうとうアドルフ・ヒトラー自殺じさつすると、イギリス政府せいふ反対はんたい方針ほうしんげ、裁判さいばん承諾しょうだくした。これにはヒトラーが法廷ほうてい演説えんぜつするという事態じたいけられたことも一因いちいんとなっている[25]

戦犯せんぱん裁判さいばん開催かいさいさだまったが、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦れんぽうフランスの臨時りんじ政府せいふは、中小ちゅうしょうこく参加さんかするUNWCCを裁判さいばん関与かんよさせず、みずからが裁判さいばん主導しゅどうけんにぎうごきをはじめた[26]。UNWCCはこれに抵抗ていこうしようとしたが、8がつ8にちには4大国たいこくあいだ国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょう(ロンドン憲章けんしょう)が成立せいりつし、4大国たいこくによる戦犯せんぱん裁判さいばん既定きてい方針ほうしんとなった[27]。ロンドン憲章けんしょうにおいては「平和へいわたいするつみ」「通例つうれい戦争せんそう犯罪はんざい」「人道じんどうたいするつみ」、そしてそれらをおかそうとする「共同きょうどう謀議ぼうぎ」の4てん裁判所さいばんしょ管轄かんかつとすることになり、このてんではどう憲章けんしょうによって設立せつりつされた「極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん」とも共通きょうつうしていた。「人道じんどうたいするつみ」の導入どうにゅうについては、とくにロバート・ジャクソンの役割やくわりおおきかったとられている[1]

裁判官さいばんかん[編集へんしゅう]

判事はんじ連合れんごうこく主要しゅようこくのうち、ドイツと直接ちょくせつたたかったイギリスアメリカフランスソ連それんの4かこくからそれぞれ2めいずつえらばれた。

被告人ひこくにん[編集へんしゅう]

被告ひこくとなったのは24めいの「主要しゅよう戦犯せんぱん」(英語えいご: Major War Criminal)であり、うち2めい審理しんりちゅう死亡しぼう、もしくは除外じょがいされた[28]高齢こうれい理由りゆう免訴めんそされたグスタフ・クルップわって息子むすこアルフリート・クルップ被告ひこくくわえるうごきがあり、べいふつさんこく賛成さんせいしたが、イギリスは反対はんたいし、裁判所さいばんしょ被告ひこく認定にんていしなかった[29]

ドイツの最高さいこう指導しどうしゃだった総統そうとうアドルフ・ヒトラー最高さいこう幹部かんぶ宣伝せんでん大臣だいじんヨーゼフ・ゲッベルス親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃハインリヒ・ヒムラーらは終戦しゅうせん自殺じさつしており、起訴きそすることが不可能ふかのうであった。また、ナチとう最大さいだい実力じつりょくしゃであったとう官房かんぼうちょうマルティン・ボルマン行方ゆくえ不明ふめいのまま(後年こうねんになってベルリン陥落かんらく自殺じさつしていたことが判明はんめい)であり、起訴きそはしたものの欠席けっせき裁判さいばん死刑しけい判決はんけつをいいわたされた。

検察けんさつがわ被告ひこくたいして、暴行ぼうこう違法いほう調しらべをおこなったり、弁護べんごだん妨害ぼうがい行為こういおこなったため#被告ひこくたいする暴行ぼうこう弁護べんごだんへの不法ふほう行為こうい)、戦争せんそう全容ぜんよう解明かいめい困難こんなんになった。また、国民こくみん啓蒙けいもう宣伝せんでんしょう幹部かんぶだったハンス・フリッチェ起訴きそ自殺じさつしたゲッベルスの「身代みがわり」としての意味合いみあいがつよく、フリッチェは結局けっきょく、この裁判さいばんでは無罪むざい判決はんけつけている。

氏名しめい 共同きょうどう謀議ぼうぎへの参加さんか 平和へいわたいするつみ 通例つうれい戦争せんそう犯罪はんざい 人道じんどうたいするつみ 量刑りょうけい 地位ちい 付記ふき
               もと順序じゅんじょもど
マルティン・ボルマン 起訴きそ 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい ナチとう官房かんぼうちょう 01/ナチとうにおける事実じじつじょう最大さいだい実力じつりょくしゃ裁判さいばん当時とうじ行方ゆくえ不明ふめいのため、欠席けっせき裁判さいばんおこなわれた(ベルリンのたたかなか自殺じさつしたことが1972ねん確認かくにんされた)。
カール・デーニッツ 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 起訴きそ 禁固きんこ10ねん 1943ねんから海軍かいぐんそう司令しれいかん海軍かいぐん元帥げんすいアドルフ・ヒトラー後継こうけい大統領だいとうりょう 02/Uボートによる通商つうしょう破壊はかいせん企画きかく実行じっこうしゃ
ハンス・フランク 起訴きそ 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい ドイツ法律ほうりつアカデミー総裁そうさい無任所むにんしょしょうポーランド総督そうとく 03/
ヴィルヘルム・フリック 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい 内務ないむ大臣だいじんベーメン・メーレン総督そうとく 04/
ハンス・フリッチェ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 無罪むざい 宣伝せんでんしょう幹部かんぶ新聞しんぶん局長きょくちょう→ラジオ放送ほうそう局長きょくちょう 05/人気にんきのあったラジオニュースキャスター。
ヴァルター・フンク 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 終身しゅうしんけい 経済けいざい大臣だいじんライヒスバンク総裁そうさい 06/1957ねん5月16にち病気びょうきにより釈放しゃくほう
ヘルマン・ゲーリング 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい 空軍くうぐんそう司令しれいかん国家こっか元帥げんすい航空こうくう大臣だいじんよんカ年かねん計画けいかく責任せきにんしゃ 07/ナチとうのNo2、ヒトラーの自殺じさつ直前ちょくぜんまで後継こうけい指名しめいしゃ死刑しけい執行しっこう前日ぜんじつ服毒ふくどく自殺じさつ
ルドルフ・ヘス 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 起訴きそ 起訴きそ 終身しゅうしんけい ナチとう総統そうとう代理だいり無任所むにんしょ大臣だいじん 08/1941ねん、イギリスへ和平わへい交渉こうしょうのために単独たんどく飛行ひこうし、イギリスで捕虜ほりょになっていた。
アルフレート・ヨードル 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい 国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい作戦さくせん部長ぶちょう上級じょうきゅう大将たいしょう 09/1953ねん夫人ふじん控訴こうそおうじた西にしドイツの裁判所さいばんしょはヨードルの無罪むざい宣告せんこくしたが、アメリカはこの判決はんけつれを拒否きょひした。
エルンスト・カルテンブルンナー 起訴きそ 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい 国家こっか保安ほあん本部ほんぶ長官ちょうかん 10/秘密ひみつ警察けいさつ最高さいこう責任せきにんしゃハインリヒ・ヒムラー親衛隊しんえいたい最高さいこう幹部かんぶ
ヴィルヘルム・カイテル 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい 国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょう陸軍りくぐん元帥げんすい 11/
グスタフ・クルップ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 重工業じゅうこうぎょう企業きぎょうクルップ当主とうしゅ 12/体力たいりょくてき裁判さいばんえられず訴追そついされなかった。
ロベルト・ライ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ ドイツ労働ろうどう戦線せんせん指導しどうしゃ無任所むにんしょ大臣だいじん 13/1945ねん10月25にち公判こうはんまえ自殺じさつ
コンスタンティン・フォン・ノイラート 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 禁固きんこ15ねん だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんまえ1938ねんまでの外務がいむ大臣だいじんベーメン・メーレン総督そうとく 14/1954ねん11月6にち病気びょうきにより釈放しゃくほう
フランツ・フォン・パーペン 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 無罪むざい ヴァイマル共和きょうわこく時代じだい末期まっきのドイツ首相しゅしょう→ヒトラー内閣ないかくふく首相しゅしょうちゅうオーストリア大使たいしちゅうトルコ大使たいし 15/
エーリヒ・レーダー 起訴きそ 有罪ゆうざい 起訴きそ 起訴きそ 終身しゅうしんけい 1943ねんまで海軍かいぐんそう司令しれいかん海軍かいぐん元帥げんすい 16/ヒトラー政権せいけん海軍かいぐんとして協力きょうりょく1955ねん9月26にち病気びょうきにより釈放しゃくほう
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい 1938ねんから外務がいむ大臣だいじん 17/にちどく防共ぼうきょう協定きょうていならびににちどくさんこく同盟どうめいどく不可侵ふかしん条約じょうやく立役者たてやくしゃ
アルフレート・ローゼンベルク 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい ナチとう外交がいこう政策せいさく全国ぜんこく指導しどうしゃ東部とうぶ占領せんりょう地域ちいき大臣だいじん 18/支配しはい人種じんしゅ英語えいごばんせつ標榜ひょうぼうする、『じゅう世紀せいき神話しんわ』の著者ちょしゃ
フリッツ・ザウケル 起訴きそ 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい 労働ろうどうりょく配置はいち総監そうかん・テューリンゲンだい管区かんく指導しどうしゃ 19/捕虜ほりょ住民じゅうみんなどの強制きょうせい連行れんこう強制きょうせい労働ろうどう責任せきにんしゃ
ヒャルマル・シャハト 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 無罪むざい ライヒスバンク総裁そうさい経済けいざい大臣だいじん 20/いわゆるナチス前期ぜんき経済けいざい回復かいふく立役者たてやくしゃ。1944ねんからはヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく連座れんざし、収監しゅうかん
バルドゥール・フォン・シーラッハ 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 有罪ゆうざい 禁固きんこ20ねん 1940ねんまでヒトラー・ユーゲント指導しどうしゃ(ナチとう青少年せいしょうねん全国ぜんこく指導しどうしゃ)→ウィーンだい管区かんく指導しどうしゃ 21/
アルトゥル・ザイス=インクヴァルト 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 死刑しけい オーストリア・ナチス指導しどうしゃアンシュルス立役者たてやくしゃ)。オーストリア内相ないしょうどう首相しゅしょうどくおう合邦がっぽうのオーストリア(オストマルクしゅう国家こっか代理だいりかん総督そうとく)→ポーランド総督そうとくふく総督そうとく→オランダ総督そうとく 22/
アルベルト・シュペーア 起訴きそ 起訴きそ 有罪ゆうざい 有罪ゆうざい 禁固きんこ20ねん 建築けんちく1942ねんから軍需ぐんじゅ大臣だいじん 23/ヒトラーと個人こじんてきにもしたしく、総統そうとう官邸かんてい国家こっかとう大会たいかい広場ひろば設計せっけいしゃ
ユリウス・シュトライヒャー 起訴きそ 起訴きそ 起訴きそ 有罪ゆうざい 死刑しけい はんユダヤ主義しゅぎ新聞しんぶんシュテュルマー』の発行はっこうしゃ。1940ねんまでフランケンだい管区かんく指導しどうしゃ 24/

裁判さいばん経過けいか[編集へんしゅう]

首席しゅせき検察官けんさつかんとなったロバート・ジャクソンは、検察官けんさつかん任務にんむふたつの段階だんかいにわけた。

だいいち段階だんかいは「ナチス(国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう)、ゲシュタポ、その組織そしき一味いちみとなった全般ぜんぱんてき共同きょうどう謀議ぼうぎ立証りっしょうすること」であるとし、だい段階だんかい共同きょうどう謀議ぼうぎ一員いちいんである被告ひこく特定とくていすることであるとした[30]。この認識にんしきもとづいたロンドン憲章けんしょうにより、以下いかの6つの「犯罪はんざい組織そしき犯罪はんざい集団しゅうだん)」が訴追そつい対象たいしょうとなった。すなわち、ナチとう指導しどう内閣ないかく親衛隊しんえいたい(SS)、突撃とつげきたい(SA)、「ゲシュタポおよびSD(親衛隊しんえいたい保安ほあん」、さらには「参謀さんぼう本部ほんぶおよび国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいぐん指導しどう)」であった。裁判さいばんにはアーネスト・ヘミングウェイエーリカ・マンった内外ないがい著名ちょめいじんがレポーターとして傍聴ぼうちょうおとずれ、国際こくさいてき関心かんしんきわめてたかかった[31]

開廷かいてい初日しょにちの1945ねん11月21にち裁判さいばんちょうによる、検察けんさつがわ起訴きそじょう罪状ざいじょう認否にんぴ質問しつもんたいし、被告ひこく全員ぜんいん罪状ざいじょう否定ひていし、自分じぶんたちは無罪むざいであると答弁とうべんした[32]。 1946ねん9がつ30にち判決はんけつでは、帝国ていこくないかくぐん指導しどう[33]、そして突撃とつげきたい有罪ゆうざいとされなかった[28]。この認定にんていは1945ねん12がつ10日とおか連合れんごうこく管理かんり理事りじかい英語えいごばんによって発令はつれいされていた管理かんり理事りじかい法律ほうりつだい10ごうによって、「犯罪はんざい組織そしき」の構成こうせいいん対象たいしょうに、かく占領せんりょうぐん政府せいふ訴追そついおこなえる根拠こんきょとなった[34]。ただしこの判決はんけつでは、その組織そしき犯罪はんざいてき組織そしきであると認識にんしきしていなかったもの国家こっかによる強制きょうせいによって構成こうせいいんとなったものについては戦犯せんぱんから除外じょがいする規定きていがあった[35]

死刑しけいは1946ねん10がつ16にち絞首刑こうしゅけいによって執行しっこうされ、禁固きんこしゃは1947ねんベルリン郊外こうがいシュパンダウ刑務所けいむしょ移送いそうされた。

ニュルンベルク裁判さいばんのち、この裁判さいばん被告ひこく立場たちばにある戦争せんそう犯罪はんざいじん、そして「犯罪はんざい組織そしき」の構成こうせいいんたいする種類しゅるい国際こくさい裁判さいばん計画けいかくされていた[36]。フランスとソ連それんはこの裁判さいばん開催かいさいのぞんでいたが、アメリカは消極しょうきょくてきであり、裁判さいばん終結しゅうけつまで開催かいさい決定けってい先送さきおくりされ、結局けっきょく開催かいさいされなかった[37]。ロバート・ジャクソンは4カ国かこく通訳つうやく手間てまがかかり、経費けいひがかさむと理由りゆうげているが、実際じっさいには連合れんごうこくあいだによる摩擦まさつきらったアメリカが、単独たんどくでの裁判さいばんのぞんだためとられている[37]。その、ドイツ国内こくない各国かっこく占領せんりょう地域ちいきでそれぞれ個別こべつナチ裁判さいばんおこなわれ、ニュルンベルク裁判さいばん無罪むざいとなった3にんもそれぞれべつ有罪ゆうざい判決はんけつけた。またニュルンベルクを占領せんりょうしていたアメリカぐんが、ニュルンベルクにおいてった裁判さいばんぐんとくに「ニュルンベルク継続けいぞく裁判さいばん」とばれる。

裁判さいばんたいする評価ひょうか論点ろんてん[編集へんしゅう]

事後じご遡及そきゅう観点かんてん[編集へんしゅう]

平和へいわたいするつみ侵略しんりゃく戦争せんそう)」、「人道じんどうたいするつみ」は国際こくさい条約じょうやくなどで完全かんぜん成立せいりつしたわけではなく、ほう遡及そきゅう罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎ立場たちばをとる欧州おうしゅう大陸たいりく法的ほうてき立場たちばからは「法廷ほうていによるほう創造そうぞう」がおこなわれた「事後じごほう」による裁判さいばんとの批判ひはん当時とうじから現在げんざいまで根強ねづよくある[注釈ちゅうしゃく 1]裁判さいばん弁護人べんごにんつとめたヤールライスは、裁判さいばんについて、道徳どうとく人類じんるい進歩しんぽいて要求ようきゅうされているべきほう問題もんだいではなく、現行げんこうほう問題もんだいあつかうべきであるとして批判ひはんし、さらに、ニュルンベルク裁判さいばん規約きやくについても、原則げんそくてきあたらしいものを設定せっていすることとなり、革命かくめいてきであるとの見解けんかい表明ひょうめいした[38]

この批判ひはん戦時せんじちゅうから存在そんざいしたが、刑法けいほう学者がくしゃシェルドン・グリュック英語えいごばんは「侵略しんりゃく戦争せんそう遂行すいこう不法ふほうである」「国家こっかにおいておかされた犯罪はんざい行為こうい政府せいふ構成こうせいいん個人こじんつみみとめることは何等なんら遡及そきゅうてきではない」と反論はんろんしている[39]。しかしグリュックも侵略しんりゃく戦争せんそうつみ疑義ぎぎていされることは認識にんしきしており、より疑義ぎぎすくない「通常つうじょう戦争せんそう犯罪はんざい」だけでなく、侵略しんりゃく戦争せんそうつみくわえて複雑ふくざつしたのはなぜかという疑問ぎもんていしている[40]裁判さいばん直後ちょくごバイエルンしゅう首相しゅしょうでもあった法律ほうりつハンス・エーハルト英語えいごばんは、1939ねん段階だんかい侵略しんりゃく戦争せんそうつみさばくことは不法ふほうであるとしながらも、これらの観点かんてん導入どうにゅうされたのは政治せいじてき配慮はいりょによるものであるとし、将来しょうらい戦争せんそう抑止よくしという意味いみ一般いっぱんてき正義せいぎ感覚かんかく代弁だいべんしているとしたうえで、「これほどまでのおぞましい犯罪はんざいしゃ集団しゅうだんばっするのに、既存きそんほう概念がいねんではあきらかに不充分ふじゅうぶんおもわれたからだ」としている[24]首席しゅせき検察官けんさつかんロバート・ジャクソンはこのエーハルトの意見いけんについて同意どういできないてんがあるとしながらも、「これまでにたおなじみの批判ひはんにくらべると、ずっと有益ゆうえき議論ぎろんしめしているとおもう」としている[24]

戦争せんそう人道じんどう犯罪はんざい抑止よくし観点かんてん[編集へんしゅう]

ニュルンベルク裁判さいばんがホロコーストをはじめとする人道的じんどうてき事件じけんたいして、充分じゅうぶん措置そちおこなえなかったという批判ひはん存在そんざいしている。マイケル・マラス英語えいごばんジェフリー・ロバートスン英語えいごばんはホロコーストやポライモスひとし正当せいとうしたナチズム断罪だんざいした裁判さいばんとしてたか評価ひょうかしているが、ローレンス・ダグラスやP.ノヴィックはホロコーストに注意ちゅうい喚起かんきするために、裁判さいばん充分じゅうぶん役割やくわりたさなかったと批判ひはんしている[1]

戦勝せんしょうしゃによる裁判さいばん中立ちゅうりつせい[編集へんしゅう]

この軍事ぐんじ法廷ほうていは「勝者しょうしゃ連合れんごうこくによって敗者はいしゃとなったドイツの戦犯せんぱんさばく」という異例いれい形式けいしき裁判さいばんであった。ウィリアム・ボッシュ(William Bosch)はスティムソンらのアメリカ首脳しゅのう戦犯せんぱん裁判さいばん方針ほうしんを、道徳どうとく主義しゅぎてきほう遵守じゅんしゅ主義しゅぎてき傾向けいこう、「おなごとでも枢軸すうじくがわがやればあく連合れんごうこくがわがやれば必要ひつようあく」とする「ダブルスタンダード」の傾向けいこうがあると指摘してきしている[24]リチャード・マイニアは、連合れんごうこく正当せいとう裁判さいばん利用りようされたというめん指摘してきしている[41]戦後せんごつうじて「勝者しょうしゃである連合れんごうこくによる断罪だんざい」という政治せいじてき行為こういが、「侵略しんりゃく戦争せんそう」や人道じんどうたいするつみ非難ひなんするうごきに、否定ひていてき影響えいきょうあたえたのではないかと指摘してきするこえ存在そんざいしている[42]

またニュルンベルク裁判さいばんにおけるすべての裁判官さいばんかんがアメリカ、イギリス、ソ連それん、フランスという戦勝せんしょうこくだけからていたため、これが戦勝せんしょうこくによる軍事ぐんじ裁判さいばんであることを考慮こうりょしたとしても、裁判さいばん中立ちゅうりつせいいちじるしくいていた。これにたいして、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんでは比較的ひかくてき中立ちゅうりつてき立場たちばてたインドからも判事はんじが召請されており、ラダ・ビノード・パール判事はんじ個別こべつ意見いけんとしてぜん被告人ひこくにん無罪むざいとする意見いけんしている。

ニュルンベルク裁判さいばんアメリカ検事けんじ団長だんちょうロバート・ジャクソン連邦れんぽう最高裁さいこうさい判事はんじ上司じょうしで、当時とうじアメリカ連邦れんぽう最高裁さいこうさい長官ちょうかんだったハーラン・ストーン判事はんじは、雑誌ざっしフォーチュン』の記者きしゃとのインタビューでつぎのようにこたえている。

ニュルンベルク裁判さいばんは、戦勝せんしょうこく敗戦はいせんこく正当せいとうせいけた裁判さいばんでした。つまり、敗戦はいせんこく侵略しんりゃく戦争せんそうおこなったというわけです。しかしわたしいまでも残念ざんねんおもいますが、ニュルンベルク裁判さいばん法的ほうてきにはまった根拠こんきょいた裁判さいばんでした。それは裁判さいばんではなく、戦勝せんしょうこく政治せいじ行動こうどうだったというのが、もっとただしいいいかたでしょう。
ニュルンベルク裁判さいばんコモン・ロー不文法ふぶんほう〕、あるいは憲法けんぽうよそおいのした罪人ざいにんさばいたのであり、これがわたしかんがませています。わたしたちはある命題めいだい支持しじしてしまったようです。つまり、いかなる戦争せんそうにおいても、敗戦はいせんこく指導しどうしゃ戦勝せんしょうこくによって処刑しょけいされねばならない、という命題めいだいです。

また、尋問じんもんかんそののスタッフには欧州おうしゅうからの亡命ぼうめいしゃおおく、そのために裁判さいばんは「復讐ふくしゅう裁判さいばんてき色彩しきさい一層いっそうつよくしたという指摘してきがある。ニュルンベルク裁判さいばん判事はんじつとめたが、裁判さいばん手続てつづきを批判ひはんして辞任じにんしたアメリカのチャールズ・F・ウェナストラム英語えいごばん・アイオワしゅう最高裁さいこうさい判事はんじは、こうべている。

今日きょうっているようなことをすうヶ月かげつまえっていたとすれば、ここ(ニュルンベルク)にやってきたりはしなかったであろう。あきらかに、戦争せんそう勝者しょうしゃは、戦争せんそう犯罪はんざい最良さいりょう判事はんじではなかった。法廷ほうていは、そのメンバーを任命にんめいしたくによりもあらゆる種類しゅるい人類じんるい代表だいひょうするようにつとめるべきであった。ここでは、戦争せんそう犯罪はんざいはアメリカじん、ロシアじん、イギリスじん、フランスじんによって起訴きそされ、さばかれた。かれらは、おおくの時間じかん努力どりょく誇張こちょうした表現ひょうげん使つかって、連合れんごうこく免責めんせきし、だい大戦たいせん唯一ゆいいつ責任せきにんをドイツにわせようとした。裁判さいばん民族みんぞくてきかたよりについてわたしべたことは、検事けんじがわにもてはまる。これらの裁判さいばん設立せつりつする動機どうきとして宣言せんげんされたたか理想りそうは、実現じつげんされなかった。検事けんじがわは、復讐ふくしゅうしん有罪ゆうざい判決はんけつもとめる個人こじんてき野心やしん影響えいきょうされて、客観きゃっかんせい維持いじすることをおこたった。将来しょうらい戦争せんそう歯止はどめをかけるためになるような先例せんれいつく努力どりょくおこたった。ドイツは有罪ゆうざいではなかった。ここでの全体ぜんたいてき雰囲気ふんいき不健康ふけんこうであった。法律ほうりつ書記しょき通訳つうやく調査官ちょうさかんはつい最近さいきんにアメリカじんとなった人々ひとびと亡命ぼうめいしたユダヤけい住民じゅうみんのこと)がやとわれていた。これらの人々ひとびと個人こじんてき過去かこは、ヨーロッパへの偏見へんけん憎悪ぞうおちていた。裁判さいばんは、ドイツじん自分じぶんたちの指導しどうしゃ有罪ゆうざい納得なっとくさせるはずであったが、実際じっさいには、自分じぶんたちの指導しどうしゃ凶暴きょうぼう征服せいふくしゃとの戦争せんそうけただけだと確信かくしんさせたにすぎなかった。証拠しょうこ大半たいはんは、なんトンもの捕獲ほかく資料しりょうから選別せんべつされた資料しりょうであった。選別せんべつおこなったのは検事けんじがわであった。弁護べんごがわがアクセスできたのは、検事けんじがわがふさわしいとみなした資料しりょうだけであった。…また、アメリカてき正義せいぎかんからすれば嫌悪けんおすべきなのは、検事けんじがわが、2ねんはん以上いじょう拘禁こうきんされ、弁護士べんごし立会たちあいいもなくかえ尋問じんもんけた被告ひこくによる自白じはくたよっていることである。控訴こうそけんもないことも正義せいぎ否定ひていされているとのかんける。…ドイツ国民こくみん裁判さいばんについての情報じょうほうをもっとおおけとるべきであり、ドイツじん被告ひこくには国連こくれん控訴こうそする権利けんりあたえるべきである。 — "Nazi Trial Judge Rips 'Injustice,'" Chicago Tribune, Feb. 23, 1948

免責めんせきされた戦勝せんしょうこく犯罪はんざい[編集へんしゅう]

ニュルンベルク裁判さいばんおおきな問題もんだいてんはドイツがわの(戦勝せんしょうこく憶測おくそくによるものもふくむ)「犯罪はんざい」を一方いっぽうてき断罪だんざいしたが、戦勝せんしょうこくがわの「犯罪はんざい」は完全かんぜん免責めんせきするという基準きじゅんっていたことである[43]。そもそも大戦たいせん原因げんいんとなったポーランドによるダンツィヒりょう占有せんゆう問題もんだい1939ねん9がつ3にちのフランス、イギリスによるドイツへの一方いっぽうてき宣戦せんせん布告ふこく[注釈ちゅうしゃく 2]断罪だんざいされなかった[よう出典しゅってん]。また、1939ねん9がつドイツが西にしからポーランドへ侵攻しんこうした一方いっぽうで、おな時期じきソ連それんひがしからポーランドに侵攻しんこうしており、さらに1939ねん11月のフィンランドとソ連それんふゆ戦争せんそうでは、ソ連それん侵略しんりゃく罪状ざいじょう国際こくさい連盟れんめいから追放ついほうされているにもかかわらず、ニュルンベルク裁判さいばんでは、ドイツが「平和へいわたいするつみ」で告発こくはつされた一方いっぽうで、ソ連それんの「平和へいわたいするつみ」は不問ふもんされた[43][注釈ちゅうしゃく 3]連合れんごうぐんによるドイツへの差別さべつ爆撃ばくげき[注釈ちゅうしゃく 4]ドレスデンばくげきなどをはじめとして、日本にっぽん本土ほんどへのばくだん投下とうかりょうの10ばいにもたる150まんトンものばくだんがドイツ本土ほんど投下とうかされ、すくなくとも30まんにん戦闘せんとういん犠牲ぎせいになった)[よう出典しゅってん]や、ソ連それんぐん侵攻しんこうによってドイツのソ連それん占領せんりょう地区ちくきた、ソ連それんへいによる強姦ごうかん暴行ぼうこう殺人さつじん事件じけん裁判さいばんでは不問ふもんとされた。

終戦しゅうせん前後ぜんこうのアメリカぐんによるドイツじん捕虜ほりょへの虐待ぎゃくたいによる大量たいりょう問題もんだいやみほうむられた。ジェームズ・バクー英語えいごばんの『えたひゃくまんにん』では以下いかのような指摘してきがある。

戦争せんそう終結しゅうけつ直前ちょくぜんの1945ねん4がつ以降いこうざらし、不衛生ふえいせい環境かんきょう病気びょうき飢餓きががもとで、膨大ぼうだいかずのあらゆる年齢ねんれいそうおとこたちにくわえて、おんな子供こどもまでが、ドイツのフランスの収容しゅうようしょんだ。そのかずは、確実かくじつに80まんえたし、90まん以上いじょうであったこともほぼ確実かくじつであり、100まんえた可能かのうせいすら十分じゅうぶんにある。捕虜ほりょ生命せいめい維持いじする手段しゅだんちながら、あえて座視ざししたぐんによってこの惨事さんじこされた。救恤きゅうじゅつ団体だんたい救援きゅうえんべいぐんによってはばまれた。

連合れんごうぐんソ連それん戦争せんそう犯罪はんざいには、戦時せんじ国際こくさいほう違反いはんしたレジスタンスパルチザン活動かつどう積極せっきょくてき支援しえんがある[48]

パルチザンはたたかったのではなく、ドイツぐん兵士へいしだまちにしたのだ。

この国際こくさいほうもとる(違反いはんした)戦闘せんとう精神せいしんてき組織そしきしゃたちのために、無関係むかんけい住民じゅうみんがドイツぐん報復ほうふく処置しょちによりひどったのである。 国民こくみんあいだ憎悪ぞうお計画けいかくどおあおてられ、パルチザンの犯罪はんざいてき投入とうにゅうにより長期ちょうきわたってふかめられていった。 連合れんごうこくはその「パルチザン政策せいさく」のため西にしヨーロッパの共産きょうさん主義しゅぎおおいに促進そくしんしたのである。 「勇敢ゆうかんなる」パルチザンの卑劣ひれつ投入とうにゅうがなければ、占領せんりょうで「戦犯せんぱん裁判さいばん」がひらかれることかったであろう。

クルト・マイヤーもと武装ぶそう親衛隊しんえいたい少将しょうしょう)『擲弾へい―パンツァーマイヤー戦記せんき』P278

ニュルンベルク裁判さいばんおこなわれた1945ねん以降いこうとく戦勝せんしょうこくによる侵略しんりゃく行為こうい虐殺ぎゃくさつ行為こういいちさばかれたことはなく、ニュルンベルク裁判さいばん規範きはんまもられたこと二度にどかった[49][50]

ニュルンベルク憲章けんしょうへの批判ひはん[編集へんしゅう]

1945ねん8がつ8にち、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連それん戦勝せんしょう連合れんごうこくニュルンベルク憲章けんしょうNuremberg Charter)をさだめて、裁判さいばん法的ほうてき枠組わくぐみを設定せっていした。しかし、近代きんだい刑法けいほうにおける原則げんそくであるほう遡及そきゅうまもられず、被告ひこく控訴こうそ否認ひにんされ、恣意しいてき裁判さいばん審理しんり手続てつづきをさだめた裁判さいばんは、近代きんだい裁判さいばんとはかけはなれていた。

ニュルンベルク裁判さいばんでの証拠しょうこ採用さいよう基準きじゅん近代きんだい裁判さいばん基準きじゅんからおおきく逸脱いつだつしており、(とくに19じょう[注釈ちゅうしゃく 5]、21じょう[注釈ちゅうしゃく 6]による)通常つうじょう裁判さいばんでならば、信頼しんらいできないものとして却下きゃっかされるような証言しょうげんが、犯罪はんざい立証りっしょうする証拠しょうことして採用さいようされた(ニュルンベルク法廷ほうていにおける虚偽きょぎ証言しょうげん)。弁護べんごだんには、検事けんじがわ証人しょうにんたいする反対はんたい尋問じんもん機会きかい裁判さいばん資料しりょう閲覧えつらんする機会きかいがほとんどあたえられず、一方いっぽう弁護べんご活動かつどう妨害ぼうがいされた[51]弁護べんごがわ有利ゆうり検察けんさつがわ不利ふり証拠しょうこ消失しょうしつすることすらあった[52]もっと問題もんだいであるのは、被告ひこく逮捕たいほ尋問じんもん過程かてい暴行ぼうこう虐待ぎゃくたいけていることである[53]

また、とう裁判さいばん法的ほうてき根拠こんきょであるロンドン協定きょうていには、アメリカ検事けんじジャクソン、フランス予備よび裁判官さいばんかんファルコ、ソ連それん検事けんじニキチェンコが署名しょめいしている。このことは、ニュルンベルク裁判さいばんが、立法りっぽうしゃ検察官けんさつかん裁判官さいばんかんねることをきんじた「司法しほう権力けんりょく分割ぶんかつ」という根本こんぽんてき原則げんそくからしておおきく逸脱いつだつしていたことを意味いみしている。

人道じんどうたいするつみ平和へいわたいするつみは、法廷ほうてい設置せっちされる以前いぜんには存在そんざいしておらず、わせにつくされ、法的ほうてき基準きじゅんはんして、遡及そきゅうてき適用てきようされた。

  • だい13じょう法廷ほうてい独自どくじ裁判さいばん審理しんり手続てつづきをさだめると決定けっていしている。
  • だい18じょう国際こくさい軍事ぐんじ法廷ほうてい本質ほんしつ明確めいかくあらわしている。
だい18じょう遅延ちえん行為こうい防止ぼうしするため、起訴きそ内容ないよう関係かんけいのない案件あんけん陳述ちんじゅつ除外じょがいする」。弁護べんごがわゆるされているのは、起訴きそじょうにある罪状ざいじょうについてのみ弁護べんご活動かつどうができるだけで、そもそもの戦争せんそう原因げんいんとなったドイツ経済けいざい崩壊ほうかいし、ドイツ領土りょうど周辺しゅうへんこく割譲かつじょうさせ、ヒトラーを台頭たいとうさせたヴェルサイユ条約じょうやくたいする批判ひはんなど、ドイツに有利ゆうりであり、連合れんごうこく不利ふり弁護べんご活動かつどう禁止きんしされた。
だい19じょうにより証拠しょうこ採用さいよう基準きじゅんがまったく存在そんざいしない。 だい19じょう法廷ほうていほう技術ぎじゅつてき手続てつづきを最大限さいだいげん適用てきようし、証明しょうめいりょくがあるとみとめるいかなる証拠しょうこ許容きょようする」[注釈ちゅうしゃく 7]だい21じょうにより連合れんごうこく当局とうきょくソ連それん共産きょうさん国家こっか人民じんみん委員いいんかい文書ぶんしょ報告ほうこくしょ記録きろく確定かくていしたすべてのことは、顕著けんちょ事実じじつみとめられる。 だい21じょう法廷ほうていは「公知こうち事実じじつ」については、証明しょうめいもとめることなく、これを法廷ほうてい事実じじつみとめる。法廷ほうていは、戦争せんそう犯罪はんざい捜査そうさのため同盟どうめい諸国しょこくにおいて設立せつりつされた委員いいんかい決議けつぎおよび文書ぶんしょふくむ、連合れんごう諸国しょこく公文書こうぶんしょおよび報告ほうこくしょならびにいずれかの連合れんごうこく軍事ぐんじ法廷ほうていまたはその法廷ほうてい記録きろく判決はんけつしょをも、同様どうよう法廷ほうてい顕著けんちょ事実じじつみとめる」。
だい26じょう控訴こうそまったみとめていない[注釈ちゅうしゃく 8]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最高裁さいこうさい裁判さいばんちょうハーラン・ストーン判事はんじは、ニュルンベルク裁判さいばん連合れんごうこくによる集団しゅうだんリンチであるとべている。

検事けんじジャクソンは、ニュルンベルクで高度こうど集団しゅうだんリンチ (high-grade lynching party in Nuremberg) をおこなっている。かれがナチスになにをしているのかについてはにかけていないが、かれ法廷ほうてい審理しんりをコモン・ローにしたがって運営うんえいしているというりをしているのをることはがたい。 — Alpheus T. Mason, Harlan Fiske Stone: Pillar of the Law, Viking, New York 1956, p.716.

被告ひこくたいする暴行ぼうこう弁護べんごだんへの不法ふほう行為こうい[編集へんしゅう]

ドイツ近代きんだい専門せんもんであり、ミュンヘン大学だいがく教授きょうじゅでもあったヴェルナー・マーザー博士はかせ (Werner Maser) はこの問題もんだいてんについて、こうべている[54]

弁護べんごだんへの妨害ぼうがい行為こうい[編集へんしゅう]

弁護べんごだんこと出来できるのは、有罪ゆうざい証拠しょうことなるようなデータのみであった。  これにはんし、検察けんさつがわはこれらのを記録きろく証拠しょうことして有罪ゆうざい証明しょうめいできるのであった。 弁護べんごだんには被告ひこくがわ有利ゆうり資料しりょうさが可能かのうせいは、ゼロだった。 弁護べんごだんから要求ようきゅうされる記録きろくは、まず検察けんさつがわ提示ていじされなければならないし、検察けんさつがわはそれを採用さいようすべきかを決定けっていした[51]

弁護べんごだんが、検察けんさつがわ引用いんようする記録きろくせてほしいと要求ようきゅうしても、引用いんようした記録きろく行方ゆくえ不明ふめいになっていることがあった。 ニュルンベルクの記録きろく連合れんごうこく将校しょうこうたちに警備けいびされていたため、その記録きろく将校しょうこうたちの金庫きんこからされた可能かのうせいがある[52]

弁護べんごがわ証人しょうにん支援しえんしゃは、脅迫きょうはくけたり、出廷しゅっていさせてもらえなかったり、ぎゃく検察けんさつがわ証人しょうにんにされたりした。 オズワルド・ポール (Oswald Pohl) は、アメリカおよびイギリス役人やくにんから拷問ごうもんけ、 ワルター・フンク (Walther Funk) の有罪ゆうざい証明しょうめいする、と約束やくそくするまで虐待ぎゃくたいされた[53]

許可きょかされなかった反対はんたい尋問じんもん[編集へんしゅう]

1945ねん11月28にち弁護人べんごにんエゴン・クブショク博士はかせは、メッサースミスという証人しょうにんによる、 すうにん被告ひこく重大じゅうだい不利益ふりえきをもたらすものである供述きょうじゅつしょ内容ないようたいし、異議いぎもうて、反対はんたい尋問じんもん要請ようせいした。

それにたいし、検事けんじアルダーマンは、証人しょうにん反対はんたい尋問じんもんけさせること拒否きょひし、「証拠しょうこ価値かちありとみえる一切いっさい証拠しょうこ資料しりょう承認しょうにんするものである」とする協定きょうていだい18じょうした[55]

被告ひこくへの暴行ぼうこう拷問ごうもん行為こうい[編集へんしゅう]

ユリウス・シュトライヒャー連合れんごうこくのユダヤじん将校しょうこうから、4日間にちかんわたり、拷問ごうもん暴行ぼうこうけたと証言しょうげんした[56]ハンス・フランクも、アメリカへい暴行ぼうこうされたと証言しょうげんしている[57]

国際こくさい犯罪はんざいかんへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

この裁判さいばんによって採用さいようされた原則げんそくは、1947ねん国際こくさい連合れんごう総会そうかいで「ニュルンベルクしょ原則げんそく」として採択さいたくされた(決議けつぎ95-1)。この原則げんそく平和へいわたいするつみ人道じんどうたいするつみ戦争せんそう犯罪はんざい国際こくさいてきつみであるとはじめて明文化めいぶんかされたほか、国際こくさい犯罪はんざいにおいては国内こくないほう範囲はんい無関係むかんけいであるとし、たん命令めいれい実行じっこうしたものであったとしても、責任せきにんまぬかないことなどがさだめられた[58]。また検察官けんさつかん最終さいしゅう論告ろんこくにおいてユダヤじん虐殺ぎゃくさつを「ジェノサイド」と形容けいようし、「ジェノサイドざい」を国際こくさいほうじょう犯罪はんざいとして位置いちづけようとするうごきのなかで、この言葉ことば法的ほうてき実効じっこうせいつものとかんがえられるようになった[59]

戦後せんごドイツにおけるニュルンベルク裁判さいばんかん[編集へんしゅう]

ニュルンベルク裁判さいばん戦犯せんぱん個人こじん、および組織そしきつみさばいたものであったが、ドイツという国家こっか自体じたいについてはさばかれなかった。カール・ヤスパースナチス・ドイツをナチとうによる不法ふほう簒奪さんだつによって生成せいせいされた「不法ふほう国家こっか」であるとみなし、ニュルンベルク裁判さいばん被告ひこくとなったナチス指導しどうしゃたち政治せいじはんではなく、刑事けいじ犯罪はんざいしゃであると規定きていした。このかんがかたはドイツにおけるニュルンベルク裁判さいばんかん主流しゅりゅうとなり、裁判さいばんによって個人こじんやナチス組織そしきつみ追及ついきゅうされたものの、ドイツ国民こくみんやドイツこくの「集団しゅうだんてきざい」についてはこれを否定ひていする傾向けいこうがある[24]

裁判さいばんちゅうにドイツ国民こくみんたいしておこなわれた調査ちょうさによると、裁判さいばんさばかれる各種かくしゅ犯罪はんざいについて裁判さいばんはじめてったものの割合わりあい当初とうしょさんぶんであったが、終盤しゅうばんには80%をえた[31]裁判さいばん開始かいし時点じてんでは70%の回答かいとうしゃ被告ひこく全員ぜんいん有罪ゆうざいであるとかんがえていたが、判決はんけつには56%に減少げんしょうしている[31]。また50%が判決はんけつ正当せいとうであると回答かいとうしている[31]。また西側にしがわ占領せんりょう地域ちいき判決はんけつおこなわれた国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん形式けいしきについての調査ちょうさでは、70%がただしいと回答かいとうしていたが、4ねんには70%がただしくないと回答かいとうしている[31]。これは少数しょうすうのナチとう指導しどうしゃさばいたニュルンベルク裁判さいばんたいし、ぐん企業きぎょうった身近みぢか組織そしきさばかれる印象いんしょうをあたえたニュルンベルク継続けいぞく裁判さいばんへの反発はんぱつがあるとみられている[31]

またドイツ政界せいかいでは戦犯せんぱん裁判さいばんは「戦勝せんしょうこくによる不当ふとうさばき」との認識にんしきかたられており[60][61][62][ようページ番号ばんごう]、このため戦後せんごのナチス犯罪はんざい追及ついきゅうにおいて「戦争せんそう犯罪はんざい」と「ナチス犯罪はんざい」を同一どういつすることが障害しょうがいとなり[63][ようページ番号ばんごう]、1960年代ねんだいには両者りょうしゃ明確めいかく区別くべつされるようになった。

ドイツ政府せいふによるニュルンベルク裁判さいばんへの対応たいおう[編集へんしゅう]

ドイツ政府せいふ現在げんざいいたるまで、ニュルンベルク裁判さいばん戦勝せんしょうこく一方いっぽうてき不法ふほうさばかれた裁判さいばんSiegerjustiz)としてみとめておらず、いかなる条約じょうやく受諾じゅだくしていない[64]

ドイツ政府せいふがニュルンベルク裁判さいばん承認しょうにんしていない顕著けんちょれいは、ホロコースト否定ひていまるほうである。たとえば、ニュルンベルク裁判さいばんさばがわであったフランスではゲソほうによるまりがおこなわれる。ゲソほうはニュルンベルク裁判さいばん関連付かんれんづけられており、「人道じんどうたいするつみ」に異議いぎのあるものまる[64]。しかし、ドイツでは政府せいふ自体じたいがニュルンベルク裁判さいばん承認しょうにんしてないため、民衆みんしゅう扇動せんどうざい(ドイツけい法典ほうてん130じょうとくだい3こう)により、まりがおこなわれる[64]

Mit Freiheitsstrafe bis zu fünf Jahren oder mit Geldstrafe wird bestraft, wer eine unter der Herrschaft des Nationalsozialismus begangene Handlung der in § 220a Abs. 1 bezeichneten Art in einer Weise, die geeignet ist, den öffentlichen Frieden zu stören, öffentlich oder in einer Versammlung billigt, leugnet oder verharmlost.


公共こうきょう平穏へいおんみだすのにてきした態様たいようで、ナチスがおこなった民族みんぞく謀殺ぼうさつ是認ぜにん矮小わいしょうし、またはその存在そんざい否定ひていしたものは、5ねん以下いか懲役ちょうえきまた罰金ばっきんけいす。 — ドイツけい法典ほうてん130じょう だい3こう

民衆みんしゅう扇動せんどうざいは、公共こうきょうで「ホロコーストは捏造ねつぞうである」「ガスしつかった」とう発言はつげん大衆たいしゅう扇動せんどうするなど、社会しゃかい平穏へいおんみだすような場合ばあいにのみ適用てきようされる[65]。したがって、ホロコースト否定ひていが、じられた空間くうかんなかでそうした発言はつげんをしても適用てきようされない[65]

また、ホロコーストの規模きぼ人数にんずうを「疑問ぎもんするだけ」では、民衆みんしゅう扇動せんどうざい要件ようけんたさないので適用てきようされない[65]

連邦れんぽう憲法けんぽう裁判所さいばんしょは、刑法けいほう130じょう解釈かいしゃく適応てきおうおよび具体ぐたいてき意味いみ理解りかいについて、表現ひょうげん自由じゆうへの配慮はいりょ要請ようせいしており、刑事けいじ裁判所さいばんしょくだしたいくつかの有罪ゆうざい判決はんけつくつがえしている[66]たとえば、ある男性だんせいがドイツの戦争せんそう責任せきにんやホロコースト否定ひていしるした文章ぶんしょう飲食いんしょくてん店主てんしゅ手渡てわたしたこと理由りゆう民衆みんしゅう扇動せんどうざい有罪ゆうざいとなったが、連邦れんぽう憲法けんぽう裁判所さいばんしょにんあいだ文章ぶんしょうがやりりされただけで頒布はんぷにはたらず、平穏へいおんみだ効果こうかはなかったと判断はんだん有罪ゆうざい判決はんけつ破棄はきしている[67]

ニュルンベルク裁判さいばん問題もんだいてん[編集へんしゅう]

武井たけい彩佳あやか歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎしゃによるニュルンベルク裁判さいばん批判ひはんを、つぎの4てんにまとめている[68]

  1. ニュルンベルク裁判さいばんは、正当せいとうせいいている問題もんだい戦勝せんしょうこくが、検察官けんさつかん裁判官さいばんかん同時どうじつとめることは出来できない。
  2. 法的ほうてき問題もんだい。ドイツをさば根拠こんきょとなった「平和へいわたいするつみ」や、「人道じんどうたいするつみ」の概念がいねんは、犯罪はんざいおこなわれた当時とうじ確立かくりつしておらず、事後じごほう遡及そきゅうてきさばいてはならないとするほうだい原則げんそくはんする。
  3. 道義どうぎてき問題もんだいべい英軍えいぐんによるドイツの都市としへの差別さべつ爆撃ばくげきソ連それんぐんによる略奪りゃくだつ強姦ごうかん虐殺ぎゃくさつ東欧とうおうからのドイツじん追放ついほうなど、連合れんごうこくがわ戦争せんそう犯罪はんざい不問ふもんにされた。
  4. ニュルンベルク裁判さいばんが、ドイツじんの「集団しゅうだん罪責ざいせきろん」にっているという問題もんだい集団しゅうだん罪責ざいせきろんとは、戦争せんそう責任せきにん政治せいじ指導しどうしゃだけでなく、一般いっぱん市民しみんにもあるとする。ドイツじん全体ぜんたい犯罪はんざいしゃとする思想しそうは、ユダヤじん全体ぜんたい犯罪はんざいしゃとしたナチスとおなじである。

武井たけい南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ従軍じゅうぐん慰安いあんホロコースト否定ひていなどの歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎうごきに批判ひはんてき歴史れきし学者がくしゃである[69]が、歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎしゃ主張しゅちょうには、以下いかてんにおいて正当せいとうせいふくまれていると指摘してきする[70]

  • ポーランド進攻しんこうは、ソ連それんはドイツと開戦かいせんまえにポーランド分割ぶんかつ合意ごういして進攻しんこうしていたのに、裁判さいばんではドイツを断罪だんざいするがわ裁判官さいばんかんせきについていた。これは相手あいておなごとをしているのに、どうして自分じぶんたちだけがめられるのか。という理論りろんとして使つかわれるようになる。
  • 連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざいについても、修正しゅうせい主義しゅぎしゃ主張しゅちょうどおりである。
  • 集団しゅうだん罪責ざいせきろんは、ドイツじんにも独裁どくさい政治せいじ抵抗ていこうしたひと迫害はくがいされたひとがいたが、それらのちがいを一般いっぱんし、めてしまう単純たんじゅんであり、ドイツじんつよ反発はんぱつしたのも理解りかいできる。

また、武井たけい戦後せんご秩序ちつじょ形成けいせい画期的かっきてきだったはずのニュルンベルク裁判さいばんは、皮肉ひにくにも歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎの「みのおや」になったとしている[71]

アンネッテ・ヴァインケAnnette Weinke)は、ニュルンベルク裁判さいばん最大さいだい欠点けってんとして、ドイツ降伏ごうぶく直後ちょくごの1945ねん5がつにフランスぐんがアルジェリアのセティフで4まんにん民衆みんしゅう虐殺ぎゃくさつした(Sétif and Guelma massacre)が、フランスにたいする反乱はんらん行為こういとして正当せいとうおこない、フランス軍人ぐんじん処罰しょばつされず、1946ねん以降いこうとく戦勝せんしょうこくによる侵略しんりゃく行為こうい民間みんかん施設しせつへのばくげき虐殺ぎゃくさつなどにたいして、ニュルンベルク裁判さいばん創造そうぞうされた規範きはんいち適用てきようされず、拘束こうそくりょくたなかったことである。と指摘してきしている[49]

ヴェルナー・マーザーは、ニュルンベルク裁判さいばん問題もんだいてんとして、おおよそつぎてん指摘してきする。

  • 法廷ほうてい中立ちゅうりつせいまもられていない。

戦勝せんしょうこくのみで裁判官さいばんかん構成こうせいされており、法廷ほうてい中立ちゅうりつせいおかしている[72]

  • 事後じごほうもちいて、ほう遡及そきゅうさばいている。

事後じごほうであり、ほう遡及そきゅうしてはいけないというほうだい原則げんそくおかしている[73]。(国際こくさい連合れんごうは、1950ねんほう遡及そきゅう人権じんけん侵害しんがいであると声明せいめいしている[74]。)

  • 侵略しんりゃく戦争せんそうという定義ていぎ薄弱はくじゃくせい

侵略しんりゃく戦争せんそう定義ていぎかんする議論ぎろんせきソ連それん代表だいひょう一人ひとりが「ひと侵略しんりゃく侵略しんりゃくくちにするが、そのときなにだがっている。だが、概念がいねん定義ていぎするとなると困難こんなんたる」と困難こんなんさをべている[50]侵略しんりゃく戦争せんそう定義ていぎ現在げんざいいたっても存在そんざいしていない[50]。また、侵略しんりゃく戦争せんそう定義ていぎさだまれば、こまるのは戦勝せんしょうこくがわであり、ニュルンベルク裁判さいばん以前いぜん以降いこう戦勝せんしょうこく国際こくさいほう違反いはん侵略しんりゃく行為こういかえしているからである。これらの侵略しんりゃく行為こういは、戦後せんごさだめられたニュルンベルクしょ原則げんそく採用さいようされていれば、死刑しけいになるものるはずであったが、だれさばかれることはなかった[75]

  • 戦勝せんしょう国軍こくぐん戦争せんそう犯罪はんざい処理しょりあま

たとえばアメリカぐんベトナム戦争せんそうソンミむら大量たいりょう虐殺ぎゃくさつこしたが、その戦争せんそう犯罪はんざいしゃたちは、ウィリアム・カリー (軍人ぐんじん)のぞいて全員ぜんいん無罪むざいとなり、カリーもわずさんねん釈放しゃくほうされてしまい、カリーは犯罪はんざいしゃではなく英雄えいゆうになった。と身内みうちたいするあま処理しょり指摘してきしている[76]

  • 被告ひこく弁護べんごだんへの不当ふとう行為こうい

被告ひこく拷問ごうもん暴行ぼうこうがあった[57][56]弁護べんごだん提供ていきょうされた資料しりょうは、翻訳ほんやくされておらず、事前じぜん入手にゅうしゅゆるされず、被告ひこくへの弁護べんご使用しようするのは不可能ふかのうだった。一方いっぽう検察けんさつ翻訳ほんやくされており、事前じぜん入手にゅうしゅしていた[51]弁護べんごだん被告ひこく有利ゆうり資料しりょう行方ゆくえ不明ふめいになった[52]検察けんさつがわ提示ていじした資料しりょう偽造ぎぞうされた可能かのうせいがある[77]法廷ほうてい提出ていしゅつされた証言しょうげん供述きょうじゅつ文書ぶんしょたいし、不審ふしんかんじた弁護べんごがわ証人しょうにん反対はんたい尋問じんもん要請ようせいしたが拒否きょひされ、反対はんたい尋問じんもん許可きょかされることはなかった[55]

  • 連合れんごうこくがわ重大じゅうだい国際こくさいほう違反いはんおこなっている問題もんだい

たとえば、日本にっぽんたいする原爆げんばく投下とうか[78]や、ドイツじん追放ついほうである。ドイツじん追放ついほうはドイツ降伏ごうぶく無防備むぼうびとなったドイツじんやドイツけい住民じゅうみんたいおこなわれたもので、ドイツ東部とうぶ領土りょうどからドイツじん追放ついほうされた。またひがしヨーロッパになに世代せだいにもわたって住居じゅうきょしていたドイツけい住民じゅうみんもドイツけいというだけで、ロシア、ポーランド、チェコスロバキアの国籍こくせきゆうしていたのにもかかわらず、土地とち金銭きんせんうばわれて迫害はくがいけて追放ついほうされた。この過程かていにより、最大さいだいで200まんにんもの犠牲ぎせいしゃたとされている。いまだに、土地とち財産ざいさん返還へんかんされていないドイツじん、ドイツけい住民じゅうみんおこなわれた迫害はくがい虐殺ぎゃくさつ行為こういは、あらゆる国際こくさいほう違反いはんしており、ハーグ陸戦りくせん条約じょうやくとくに55じょう)、ケロッグ=ブリアン条約じょうやく大西洋たいせいよう憲章けんしょうジュネーヴ条約じょうやくウィーン条約じょうやくおおくの国際こくさい連合れんごう宣言せんげんおどろくべきこと戦勝せんしょうこくがニュルンベルク裁判さいばんさだめたはずのニュルンベルクしょ原則げんそくにすら違反いはんしていた[79]

マーザーはニュルンベルク裁判さいばん国際こくさい法廷ほうていなどというものではけっしてなく、勝者しょうしゃ法廷ほうていであって、戦争せんそうこしたばちあたえるというアメリカの伝統でんとうのっとったものであるとひょうしている[80]

起訴きそになったカティンのもり事件じけん[編集へんしゅう]

ニュルンベルク裁判さいばんソ連それん代表だいひょう検事けんじイオナ・ニキチェンコは、カティンのもり虐殺ぎゃくさつ責任せきにんをドイツがわけようとした。

1946ねん7がつカティンのもり事件じけんについて、ドイツによる犯罪はんざいかどうか討議とうぎおこなわれたが証拠しょうこ不十分ふじゅうぶんとされた。

ソ連それんがわは1990ねん崩壊ほうかいするまでドイツの仕業しわざ主張しゅちょうしていた。

1992ねん10がつにロシア政府せいふは、虐殺ぎゃくさつをスターリンが指令しれいした文書ぶんしょ公表こうひょうし、ソ連それんがわ犯人はんにんであることが確定かくていした[81][82][83][84]

発見はっけんされなかったヒトラーのユダヤじん絶滅ぜつめつ命令めいれい計画けいかくしょ[編集へんしゅう]

ニュルンベルク裁判さいばん判決はんけつによれば、ナチスやヒトラーはユダヤじん絶滅ぜつめつさせる思想しそう計画けいかくっていたとされている[85]。だが、現在げんざい(2023ねん3がつ)においても、そのようなヒトラーの命令めいれいしょ計画けいかくしょ発見はっけんされていない。

また、ユダヤじん絶滅ぜつめつ設計せっけい青写真あおじゃしん)も存在そんざいせず、絶滅ぜつめつため国家こっか予算よさんかず、一元いちげんてき管理かんりおこな組織そしきかった。

日本にっぽんおも専門せんもんしょも、ヒトラーのユダヤじん絶滅ぜつめつ命令めいれいしめ文書ぶんしょつかっておらず、ヒトラーの命令めいれいしょがあったかは不明ふめいであり、おそらく存在そんざいしなかったのだろう(とく栗原くりはらせつ[86]顕著けんちょ)、としている[87][88][86][89] [90][91]

ヒトラーの側近そっきんたユダヤけい軍人ぐんじん[編集へんしゅう]

ヒトラーの側近そっきんであったドイツ空軍くうぐん元帥げんすいエアハルト・ミルヒえい: Erhard Milch)(どく: Erhard Milch)はユダヤけい軍人ぐんじんであった。

だいさん帝国ていこく敗戦はいせんまでたたかったミルヒは戦犯せんぱんとしてさばかれ有罪ゆうざい判決はんけつけた。(エアハルト・ミルヒ裁判さいばん

ミルヒの上司じょうしであったヘルマン・ゲーリング空軍くうぐん元帥げんすいが、ユダヤけいのミルヒをかばっていたとされる[92]

ベルンハルト・ロッゲえい: Bernhard Rogge)は、ユダヤけいドイツ軍人ぐんじんであり、だい世界せかい大戦たいせんちゅうは、ドイツ海軍かいぐん提督ていとくとして活躍かつやくし、戦果せんかげた。この功績こうせきからヒトラーから柏葉はくようづけ騎士きしじゅうあきら授与じゅよされた。最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん中将ちゅうじょうであった。

ドイツ海軍かいぐんそう司令しれいかんカール・デーニッツ提督ていとくは、ニュルンベルク裁判さいばんで、自分じぶんひきいたドイツ海軍かいぐんはんユダヤ主義しゅぎではないと証言しょうげんした[93]

ロッゲ提督ていとくも、ドイツ被告ひこくため弁護べんごおこなった[94]

大幅おおはば誇張こちょうされていた強制きょうせい収容しゅうようしょ死亡しぼうしゃ[編集へんしゅう]

最初さいしょダッハウ収容しゅうようしょである。かつては、10まんにんや45まんにんもの犠牲ぎせいしゃたとされていた[95]が、現在げんざいでは41,500にん前後ぜんこうだと判明はんめいしており、そのうちの3ぶんの1以上いじょう終戦しゅうせんまでの6かげつあいだちょうチフスなどで病死びょうししたものであった。[96]

つぎザクセンハウゼン収容しゅうようしょである。1946ねん2がつ19にち法廷ほうていにおいて、ソ連それんはザクセンハウゼン収容しゅうようしょにおいて、84まんにんソ連それんへい皆殺みなごろしにされたと主張しゅちょうした[注釈ちゅうしゃく 9]現在げんざい、ザクセンハウゼン収容しゅうようしょ公式こうしき資料しりょうかんは、犠牲ぎせいしゃすうまんにん(Zehntausende)としており、そのうち、ソ連それんへい捕虜ほりょ犠牲ぎせいしゃは1まん3せんにん以上いじょうとなっており、当時とうじソ連それんがわ主張しゅちょうのうちすくなくとも75まんにん誇張こちょうであるとられている[注釈ちゅうしゃく 10]

つぎマイダネク収容しゅうようしょである。ニュルンベルク裁判さいばん当時とうじは、ソ連それん150まんにん犠牲ぎせいしゃたと主張しゅちょうされた[注釈ちゅうしゃく 11]一方いっぽうで、現在げんざい(2023ねん1がつ時点じてん)のマイダネク収容しゅうようしょ公式こうしき犠牲ぎせいしゃかず公式こうしきサイトなどにより、8まんにん(そのうち6まんにんがユダヤじん[注釈ちゅうしゃく 12]としており、裁判さいばん当時とうじソ連それんがわ主張しゅちょうとはじつに142まんにんものひらきがある。なお、この150まんという人数にんずうは、ソ連それん崩壊ほうかい大幅おおはば下方かほう修正しゅうせいされている。[よう出典しゅってん]

ラウル・ヒルバーグによると、マイダネクのユダヤ人死ひとじにしゃは5まんにんである[97]。カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno)によるとマイダネクの死亡しぼうしゃ総数そうすうやく4まんにん推定すいていしている(そのうちのユダヤじん割合わりあい不明ふめい[98]ティル・バスティアン(Till Bastian)によると、マイダネクの死亡しぼうしゃ総数そうすうやく2まんにんである[99]

さらに、もっとられた収容しゅうようしょであるアウシュヴィッツ収容しゅうようしょについても、現在げんざい(2023ねん1がつ時点じてん)の公式こうしき見解けんかい公式こうしきサイトで判明はんめいしている数字すうじ裁判さいばん当時とうじ主張しゅちょうあいだやく300まんにんちかくのひらきがある。アウシュヴィッツ収容しゅうようしょ死亡しぼうしゃすうは、裁判さいばん当時とうじ人数にんずう400まんにんとされたが、現在げんざいでは下方かほう修正しゅうせいされて110まんにんとしている[注釈ちゅうしゃく 13]。だが、公式こうしきの110まんも、確実かくじつではなく、それ以下いかだとするせつもある。

ダッハウ収容しゅうようしょでガスしつによる虐殺ぎゃくさつがあったとの証言しょうげんがニュルンベルク裁判さいばんおこなわれた(後述こうじゅつ)。公式こうしきサイトにもいてあるとお[注釈ちゅうしゃく 14]、ガスしつによる虐殺ぎゃくさつ実際じっさいにはかった。


ニュルンベルク法廷ほうていにおける虚偽きょぎ証言しょうげん[編集へんしゅう]

ニュルンベルク法廷ほうていにおいて、ガスしつ虐殺ぎゃくさつ証言しょうげんされたにもかかわらず、戦後せんご調査ちょうさでガスしつ稼働かどうしてなかったこと確認かくにんされ、その証言しょうげん虚偽きょぎだと判明はんめいしている収容しゅうようしょがある。ダッハウ収容しゅうようしょどく: KZ Dachau)におけるガスしつである。

1946ねん1がつ11にち、ニュルンベルク法廷ほうていにおいて、ダッハウに強制きょうせい収容しゅうようされていたフランツ ブラハFranz Blaha)はうそ証言しょうげんをしない宣誓せんせいおこなってから、ダッハウにおけるガスしつによる虐殺ぎゃくさつ証言しょうげんおこなった [注釈ちゅうしゃく 15]。しかし、実際じっさいには、ガスしつによる虐殺ぎゃくさつ証言しょうげん虚偽きょぎであり、戦後せんご調査ちょうさでは、ガスしつによる虐殺ぎゃくさつおこなわれていなかった[よう出典しゅってん]

現在げんざいのドイツのダッハウの公式こうしき資料しりょうかんでは

どくガスによる大量たいりょう殺人さつじんはダッハウ強制きょうせい収容しゅうようしょではこらなかった。親衛隊しんえいたいがなぜ上記じょうき高機能こうきのうなガスしつ訳者やくしゃ補足ほそく:「バラックX」〕を使用しようしなかったのかはあきらかになっていない。当時とうじ目撃もくげきしゃ報告ほうこくによると、1944ねんには若干じゃっかんめい囚人しゅうじんどくガスで殺害さつがいされた。」 (Zur massenhaften Tötung von Menschen durch Giftgas kam es im KZ Dachau nicht. Es ist ungeklärt, weshalb die SS die funktionsfähige Gaskammer nicht auf diese Weise einsetzte. Im Jahr 1944 wurden laut einem Zeitzeugenbericht einige Häftlinge durch Giftgas getötet.)

説明せつめいしている[注釈ちゅうしゃく 14]

アインザッツグルッペンの犠牲ぎせいしゃすうめぐ諸説しょせつ[編集へんしゅう]

1947ねん9がつ29にちから1948ねん4がつ10日とおかにかけて、アメリカぐんニュルンベルク継続けいぞく裁判さいばんアインザッツグルッペン裁判さいばん開廷かいていした。

アインザッツグルッペンの設立せつりつ当初とうしょは、差別さべつ射殺しゃさつおこなわれておらず、女性じょせい子供こども標的ひょうてきにすることもなかった。また、大量たいりょう射殺しゃさつおこな命令めいれいや、大量たいりょう射殺しゃさつ計画けいかくあたえられていなかった。大量たいりょう差別さべつ射殺しゃさつは1941ねん8がつからはじまったという[100][101][102][103][104]

アインザッツグルッペン裁判さいばんでは、検察けんさつがわやく100まんにん犠牲ぎせいになったと主張しゅちょう[105][106][107]日本にっぽんおも書籍しょせきもそのせつ踏襲とうしゅうしている[106][108][109]。だが、実際じっさいには100まんにん以上いじょうもの射殺しゃさつおこなった証拠しょうこつかっているわけではい。

アンネッテ(Annette Weinke)は、裁判さいばんの100まん誇張こちょうされたもので、実際じっさいは56まんにんである[102]。と指摘してきしている。

ユルゲン・グラーフ(えい: Jürgen Graf)(どく: Jürgen Graf)は、おも以下いか理由りゆうげて、アインザッツグルッペンの犠牲ぎせいしゃ推定すいていすうおおぎると主張しゅちょうしている[110]

  • ドイツぐんソ連それん侵攻しんこうしたときソ連それん領内りょうないとくにユダヤけい住民じゅうみんは、ソ連それん奥地おくち避難ひなんしたので、ドイツぐん占領せんりょうした地域ちいきのユダヤ住民じゅうみんかずはずっとすくなかった[111]
  • 裁判さいばん使用しようされたアインザッツグルッペンの報告ほうこくしょとされる文書ぶんしょは、ソ連それん提出ていしゅつしてきたもので、偽造ぎぞうされた可能かのうせいたかく、信用しんよう出来できない[112]
  • アインザッツグルッペンがバビ・ヤールこしたとされる最大さいだい虐殺ぎゃくさつ事件じけん(キエフで1941ねん9がつ29にちから30にちにかけてやく3まんにん射殺しゃさつされたとされる)は、実際じっさいにそんな事件じけんこっておらず、ソ連それんにより捏造ねつぞうされたものである[113]
  • アインザッツグルッペンは部隊ぶたい隊員たいいん人数にんずうすくないため大量たいりょう虐殺ぎゃくさつおこなえる部隊ぶたいではない[110]具体ぐたいてきには、AからDの4つの部隊ぶたいのうち最大さいだい規模きぼ行動こうどう部隊ぶたいであったA行動こうどう部隊ぶたい構成こうせいいん総数そうすう990めいであった。この部隊ぶたいないの172めい運転うんてんしゅ、3めい女性じょせい、51めい通訳つうやく、3めいのテレタイプ通信つうしん、8めい無線むせん通信つうしんのぞくと、射殺しゃさつおこなえる戦闘せんとういんやく750めいぎない。最小さいしょう規模きぼのD行動こうどう部隊ぶたい総数そうすうは、A行動こうどう部隊ぶたい総数そうすうやく半分はんぶんの600めい程度ていどである。)
  • しかしながら、ゲリラやパルチザンとの戦闘せんとうで、ドイツぐん武装ぶそう親衛隊しんえいたい攻撃こうげきけ、その報復ほうふくなどで民間みんかんじんにも犠牲ぎせいしゃたのは事実じじつである[114]

ニュルンベルク裁判さいばん判決はんけつ証言しょうげんと、現在げんざい公的こうてき見解けんかいとの相違そうい[編集へんしゅう]

公式こうしき学者がくしゃによる見解けんかいは、2023ねん6がつ現在げんざいのものである。

公式こうしき見解けんかいでは、死亡しぼうしゃは110まんにんである[注釈ちゅうしゃく 13]

ニュルンベルク裁判さいばん(1945ねん~1946ねん)のまえおこなわれたマイダネク裁判さいばん(1944ねん)で、ソ連それんは170まんにんがマイダネク収容しゅうようしょ犠牲ぎせいになったと主張しゅちょうした。写真しゃしんさばかれるドイツがわ被告ひこく

1944ねん11月27にちから1944ねん12月2にちまで、ルブリンでソ連それんによって開廷かいていされたマイダネク裁判さいばんどく: Majdanek-Prozesse)において、犠牲ぎせいしゃかず最高潮さいこうちょうたっし、ソ連それん検事けんじは、170まんにん犠牲ぎせいになったと主張しゅちょうした[115]さばかれた被告ひこくの6にん全員ぜんいん死刑しけい判決はんけつにされた。(そのうち1人ひとり自殺じさつ

ニュルンベルク裁判さいばん(1945ねん~1946ねん)では、20まんほどらし、150まんにんとなった。

公式こうしき見解けんかいでは、マイダネクの死亡しぼうしゃは8まんにんである[注釈ちゅうしゃく 12]


公式こうしき見解けんかいでは、死亡しぼうしゃ総数そうすうすうまんにん程度ていどである。(そのうちソ連それんへい死亡しぼうしゃは1まん3せんにんである。)[注釈ちゅうしゃく 10]


  • トレブリンカでは、ユダヤじん部屋へやめて、水蒸気すいじょうき噴射ふんしゃしてころした

[116]

現在げんざい水蒸気すいじょうき虐殺ぎゃくさつした記事きじすべ削除さくじょされており、ガスしつや、エンジンの排気はいきガスで虐殺ぎゃくさつした記事きじになっている[117][118][119][120]。エンジンのはいガスがディーゼルか?ガソリンか?は、はっきりしておらず、ホロコーストだい辞典じてん[121](721ページ)、ヨーロッパ・ユダヤじん絶滅ぜつめつ[122][123]上巻じょうかん645ページ下巻げかん558ページ)などの大著たいちょでも、ディーゼルかガソリンかはっきりかず、言及げんきゅうけている。現在げんざい、ガソリンエンジンのはいガスが有力ゆうりょくであるとされている[124]


現在げんざい見解けんかいでは、ダッハウでガスしつによる殺害さつがいおこなわれていない[注釈ちゅうしゃく 17]


[125]

現在げんざい、ベルゲン・ベルゼン収容しゅうようしょには、電気でんきショック装置そうちはもちろん、ガスしつ存在そんざいしなかったこと判明はんめいしている[126][127][128][129][130]


[131] 戦後せんご調査ちょうさ研究けんきゅうにより、人間にんげん死体したいから石鹸せっけんつくられていなかったこと判明はんめいしている[132][133][134][135][136][137]歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎしゃきびしく批判ひはんしているティル・バスティアン(どく: Till Bastian)や、ホロコースト肯定こうてい重鎮じゅうちん、デボラ・リップシュタット(えい: Deborah Lipstadt)も、人間にんげん死体したいから石鹸せっけんつくったという証言しょうげん否定ひていしている[138]。、[139]ラウル・ヒルバーグ人間にんげん石鹸せっけんうわさばなしだとしている[140]嫌疑けんぎをかけられたダンツィヒ解剖かいぼうがく研究所けんきゅうじょ所長しょちょうのルドルフ・スパナー(Rudolf Spanner)は逮捕たいほされ、1947ねんから1948ねんわたって、調しらべをけた。スパナー教授きょうじゅは、人間にんげん死体したいから石鹸せっけんつくってないと証言しょうげんし、ダンツィヒの研究所けんきゅうじょにも家宅かたく捜索そうさくおこなわれた。その結果けっか、ダンツィヒ研究所けんきゅうじょには石鹸せっけん製造せいぞうおこな設備せつびこと確認かくにんされた[141]


  • ドイツが原子げんしばくだん実験じっけんおこない、2まんにん犠牲ぎせいになった

[142]

現在げんざいすべての学者がくしゃ資料しりょうは、この証言しょうげん事実じじつだとみとめていない。

ヒトラーが原爆げんばく開発かいはつ興味きょうみしめさなかったため開発かいはつ中止ちゅうしされ、だい2世界せかい大戦たいせんちゅうにドイツが原子げんしばくだん完成かんせいすることはかった。 だい2世界せかい大戦たいせんちゅうに、原爆げんばく実用じつよう出来できたのは、唯一ゆいいつアメリカだけであった[143]

  • 裁判さいばん法廷ほうていソ連それん検事けんじは、カチンのもり事件じけんはドイツによる虐殺ぎゃくさつである。と主張しゅちょうした

[144]

実際じっさいは、ソ連それんによる虐殺ぎゃくさつであり、その責任せきにんをドイツがわけようとしたものであった [82][83][84][145]

日本にっぽん国内こくないのニュルンベルク裁判さいばん書籍しょせき[編集へんしゅう]

ヴェルナー・マーザーのニュルンベルク裁判さいばん(1979ねん[54][編集へんしゅう]

ヴェルナー・マーザーのニュルンベルク裁判さいばんは、裁判さいばん批判ひはんてきあつかっており、被告人ひこくにん暴行ぼうこうさらされたり[53]弁護べんごだん活動かつどう妨害ぼうがいけたり[51]弁護べんごがわ有利ゆうり証拠しょうこ紛失ふんしつしたりする[52]記事きじせている。翻訳ほんやくしゃ西にし義之よしゆきは、あとがきで「東京とうきょう裁判さいばんを、人種じんしゅてき偏見へんけんちた復讐ふくしゅう裁判さいばんだとする意見いけんがあるが、ナチスだいさん帝国ていこく崩壊ほうかいのドイツ指導しどうそうけた侮辱ぶじょく冷遇れいぐうとつきわせてみると、なんとマッカーサーの軍隊ぐんたい紳士しんしてきであったことかと今更いまさらのようにおどろいてしまう」といている[146]

しば健介けんすけのニュルンベルク裁判さいばん(2015ねん[147][編集へんしゅう]

しば健介けんすけのニュルンベルク裁判さいばん(2015ねん)は、現在げんざいでは誇張こちょうされた人数にんずう判明はんめいしているアウシュヴィッツ400まんにん現在げんざい公式こうしき人数にんずうやく110まん[注釈ちゅうしゃく 13])、マイダネク150まんにん現在げんざい公式こうしき人数にんずうやく8まんにん[注釈ちゅうしゃく 12])と、現在げんざい下方かほう修正しゅうせいされた公式こうしき死亡しぼうしゃせずに、裁判さいばん当時とうじ原文げんぶんのママの死亡しぼうしゃすう「アウシュヴィッツ400まんにん、マイダネク150まんにん」としてほんせている[148]

しばは、アウシュヴィッツの公式こうしきの110まんにん[注釈ちゅうしゃく 13]という死亡しぼう人数にんずうを、以前いぜん執筆しっぴつしたほか書籍しょせき(2008ねんの「ホロコースト」[149])ではただしい死亡しぼうすうとしていている[150]のに、このニュルンベルク裁判さいばん書籍しょせき(2015ねん[147]においては400まんにんであるかのようにいている[148]

また、マイダネク収容しゅうようしょにしても、ニュルンベルク裁判さいばん(2015ねん[147]では150まんにんのようにいているが、以前いぜん執筆しっぴつした書籍しょせき「ホロコースト(2008ねん[149]」の時点じてんで、公式こうしき人数にんずうとしてマイダネクの死亡しぼうしゃやく20まんにん[151]としてげている。ただし、この公式こうしき人数にんずうは2008ねん時点じてんでは間違まちがいである。すでにマイダネクの公式こうしき人数にんずうは、2005ねんに、マイダネク記念きねんかん責任せきにんしゃのトマシュ・クランツ(Tomasz Kranz)により、下方かほう修正しゅうせいされて7まん8せんにん[注釈ちゅうしゃく 18]」になっており、しばが、2008ねん4がつ25にち初版しょはんの「ホロコースト[149]」をいたときには、マイダネクの公式こうしき死亡しぼうしゃは7まん8せんにんであり、しばが「ホロコースト(2008ねん)」のなかで、公式こうしき人数にんずうとしてげた「20まんにん[151]間違まちがっていた。なお、ラウル・ヒルバーグによると、マイダネクのユダヤ人死ひとじにしゃは5まんにんである[97]

アウシュヴィッツの死亡しぼうしゃについては、現在げんざい、ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)の63まんにんせつ、フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)の51まんにんせつや、アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz)などによる15まんにんせつなどもある。プレサックの63まんにんせつは、日本にっぽん専門せんもんしょでも紹介しょうかいされている[152]

しばの、ドイツの戦争せんそう犯罪はんざいについての記事きじには、キーウ市内しないで19まん5000にんころされ[153]ハリコフで19まん5000にんころされ[153]クリミア半島くりみあはんとうではふね住民じゅうみん満載まんさいしてしずめて14まん4000にん虐殺ぎゃくさつして[153]スターリングラードのたたかでは、ソ連それんぐん住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつ死体したいおお発見はっけんし、ユダヤじん死体したいにはダビデのほしきごてがしてあった[153]記載きさいしている。

しばは、カティンのもり事件じけんについて、「1941ねん9がつ捕虜ほりょになった多数たすうのポーランドぐん将校しょうこうがスモレンスク郊外こうがいのカティンのもり大量たいりょう虐殺ぎゃくさつされた」とし、「1943ねんはるにドイツは「ソ連それんによって、カティンのもりでポーランド将校しょうこう大量たいりょう射殺しゃさつされた」と発表はっぴょうし、それにたいし、ソ連それん裁判さいばんでドイツの犯行はんこう主張しゅちょうした。この事件じけん法廷ほうていあらそわれることになった[154]」というかたをして、事件じけんソ連それん犯行はんこうによるものだったのにかかわらず、最終さいしゅうてきにそれをはっきりといていない。

しばの、ニュルンベルク裁判さいばんたいする批判ひはんとして、「ほう遡及そきゅう」と、「戦勝せんしょうこく裁判官さいばんかんつとめ、敗戦はいせんこく被告ひこくとなり、公正こうせいさばきなど出来できない」、という2つのおおきな問題もんだいれている[155]が、「裁判さいばんたいするこうした異見いけんは、裁判さいばん阻害そがいする影響えいきょうりょくたなかった」と結論けつろんべている[155]

アンネッテ・ヴァインケのニュルンベルク裁判さいばん(2015ねん[156][編集へんしゅう]

アンネッテ・ヴァインケ(Annette Weinke)のニュルンベルク裁判さいばん(2015ねん)のおも記事きじ箇所かしょ列挙れっきょすると以下いかのようになる。

  • ニュルンベルクに到着とうちゃくしたドイツ戦犯せんぱんたちは、ジュネーヴ条約じょうやく保証ほしょうされた捕虜ほりょとしての法的ほうてき権利けんり喪失そうしつした。かれらは、たがいにうことや、弁護士べんごし代理だいりてること禁止きんしされた[158]
  • アメリカの首席しゅせき検事けんじであるロバート・ジャクソンぐNo.2としてふく首席しゅせき検察官けんさつかんという地位ちいいたロバート・M・W・ケンプナーどく: Robert Max Wasilii Kempner)は、ドイツからアメリカへ亡命ぼうめいしたユダヤじんである[159]。(ドイツに復讐ふくしゅうしんっているので公正こうせいさばきが出来できない。)
  • 検察けんさつがわ資料しりょう研究けんきゅうチームの、やく半分はんぶんがユダヤじんであった[160]
  • ニュルンベルク裁判さいばん最大さいだい欠点けってんは、1946ねん以降いこう戦勝せんしょうこくによる侵略しんりゃく行為こうい民間みんかん施設しせつへのばくげきなどにたいして、ニュルンベルク裁判さいばん規範きはんいち適用てきようされず、拘束こうそくりょくたなかったことである[161]
  • ソ連それん証人しょうにんによる証言しょうげん信憑しんぴょうせいひくい。ソ連それんともさばがわであったイギリスの判事はんじですら、「ソ連それん証人しょうにん証言しょうげん誇張こちょうされており信用しんようできない」と記録きろくしている[162]。(おおきく誇張こちょうされているアウシュヴィッツやマイダネクの証人しょうにんソ連それんしていた。)
  • ヒトラーがソ連それん領内りょうないのユダヤじん殺害さつがい命令めいれいさなかった。と判明はんめいしたのは1990年代ねんだいはいってからであった。1941ねんなつハインリヒ・ヒムラー東部とうぶ戦線せんせん射殺しゃさつ対象たいしょう女性じょせい子供こどもまで拡大かくだいさせた[102]

のニュルンベルク裁判さいばん書籍しょせきとして、ニュルンベルク裁判さいばん通訳つうやく(2013ねん[163]がある。

映像えいぞう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ww1にて戦争せんそう開始かいししゃ責任せきにんおよび、戦争せんそう法規ほうき慣例かんれい違反いはん訴追そついした前例ぜんれいがあり、1943ねんモスクワ宣言せんげんでも、明示めいじされている。
  2. ^ フランス・ポーランド相互そうご援助えんじょ条約じょうやく英語えいごばんと、イギリス・ポーランド相互そうご援助えんじょ条約じょうやく英語えいごばんもとづく
  3. ^ ソ連それんポーランド侵攻しんこうと、フィンランドとの『ふゆ戦争せんそう』にたいして道義どうぎてき制裁せいさいされ[44]国際こくさい連盟れんめい除名じょめいされているので、不問ふもんにされていない。
  4. ^ ぐんまもぼうもり地域ちいきぐんする建物たてものや、交通こうつうもうへのばくげきみとめられている[45]民間みんかんじんへの規定きていがされたのは、1977ねんのジュネーブ条約じょうやく だいいち追加ついか議定ぎていしょ51じょう[46]。これにはアメリカをはじめ24ヵ国かこく締約ていやくしておらず[47]枢軸すうじくこく差別さべつばくげき空戦くうせん法規ほうき違反いはん起訴きそされていない。
  5. ^  Article 19 stipulated「The Tribunal shall not be bound by technical rules of evidence and shall admit any evidence which it deems to have probative value.」 19じょう 「法廷ほうていは、証拠しょうこかんするほう技術ぎじゅつてき規則きそく拘束こうそくされず、証明しょうめい能力のうりょくがあると做す如何いかなる証拠しょうこ許容きょようするものである。」 
  6. ^  Article 21 stipulated「The Tribunal shall not require proof of facts of common knowledge but shall take judicial notice thereof. It shall also take judicial notice of official governmental documents and reports of the United [Allied] Nations, including acts and documents of the committees set up in the various allied countries for the investigation of war crimes, and the records and findings of military and other Tribunals of any of the United [Allied] Nations.」 21じょう 「法廷ほうていは、公知こうち事実じじつについては、証明しょうめいもとめることなく、これを事実じじつみとめる。法廷ほうていは、戦争せんそう犯罪はんざい捜査そうさのため同盟どうめい諸国しょこくにおいて設立せつりつされた委員いいんかい決議けつぎおよび文書ぶんしょふくむ、連合れんごう諸国しょこく公文書こうぶんしょおよび報告ほうこくしょならびにいずれかの連合れんごうこく軍事ぐんじ法廷ほうていまたはその法廷ほうてい記録きろく判決はんけつしょをも、同様どうよう法廷ほうてい顕著けんちょ事実じじつみとめる。」 
  7. ^ だい19じょう法廷ほうてい証拠しょうこかんする、ほう技術ぎじゅつてき規則きそく拘束こうそくされない」。
  8. ^ だい26じょう被告人ひこくにん有罪ゆうざいおよ無罪むざいかんする裁判所さいばんしょ判決はんけつには、その理由りゆうする。判決はんけつ最終さいしゅうであって、さい審査しんさゆるさない」。
  9. ^ a b An SS member, Paul Waldmann, testifies to their existence. He was one of the participants in the crime perpetrated by the German fascists when 840,000 Russian prisoners of war in Sachsenhausen were annihilated at one time. Nuremberg Trial Proceedings Vol. 7 586
  10. ^ a b Zehntausende Häftlinge kamen im KZ Sachsenhausen durch Hunger, Krankheiten, Zwangsarbeit, medizinische Versuche und Misshandlungen um oder wurden Opfer von systematischen Vernichtungsaktionen der SS. Im Herbst 1941 ermordete die SS mindestens 13.000 sowjetische Kriegsgefangene konzentrationslager-sachsenhausen
  11. ^ The Polish-Soviet Extraordinary Commission has ascertained that during the 4 years' existence of the extermination camp at Maidanek the Hitlerite hangmen, following the direct order of their criminal government, exterminated by mass shooting and mass killing in gas chambers approximately 1.5 million persons. Nuremberg Trial Proceedings Vol. 7 590
  12. ^ a b c Among an estimated 130,000 prisoners who entered Majdanek, 80,000 people were killed according to the most recent research. Among them, the greatest number of those who died or were murdered were Jews (about 60,000), followed by Poles, Belarusians, Ukrainians and Russians. In order to remove the traces of the crimes, the corpses of those who died and the murdered were burnt on pyres or in the crematorium. GENERAL INFORMATION
  13. ^ a b c d As a result of the inclusion of Auschwitz in the process of the mass extermination of the Jews, the number of deportees began to soar. About 197 thousand Jews were deported there in 1942, about 270 thousand the following year, and over 600 thousand in 1944, for a total of almost 1.1 million. Among them, about 200 thousand people were selected as capable of labor and registered as prisoners in the camp the-number-of-victims
  14. ^ a b krematoriumsbereich<
  15. ^ a b Many executions by gas or shooting or injections took place right in the camp. The gas chamber was completed in 1944, and I was called by Dr. Rascher to examine the first victims. Of the eight or nine persons in the chamber there were three still alive, and the remainder appeared to be dead. Their eyes were red, and their faces were swollen. Many prisoners were later killed in this way. Nuremberg Trial Proceedings Vol. 5 173
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  17. ^ 現在げんざいのドイツのダッハウの公式こうしき資料しりょうかんでは 「Zur massenhaften Tötung von Menschen durch Giftgas kam es im KZ Dachau nicht.」 「ダッハウ強制きょうせい収容しゅうようしょでガスしつによる殺害さつがいこらなかった。」と説明せつめいしている。krematoriumsbereich
  18. ^ At the end of 2005, Tomasz Kranz, chief of the research department at the Majdanek Memorial, published an article in no. 23 of Zeszyty Majdanka (Majdanek Journal) on "The Recording of Deaths and Mortality Rates among the Inmates of Concentration Camp Lublin," in which he assessed the number of those who perished in the Lublin/Majdanek camp at approximately 78,000. [1]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • ジョゼフ・E・パーシコ 『ニュルンベルク軍事ぐんじ裁判さいばん』(うえした) 白幡しらはた憲之のりゆき やくはら書房しょぼう、1996ねん、2003ねん新装しんそうばん
うえ ISBN 4-562-03652-4した ISBN 4-562-03653-2
  • レオン・ゴールデンソーン ちょ\ロバート・ジェラトリー へん小林こばやしひとし高橋たかはし早苗さなえ浅岡あさおか政子まさこ やく『ニュルンベルク・インタビュー』じょうした河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2005ねん
うえ ISBN 4-309-22440-7した ISBN 4-309-22441-5

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]