ウィンストン・チャーチル

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サー・ウィンストン・チャーチル
Sir Winston Churchill
生年月日せいねんがっぴ (1874-11-30) 1874ねん11月30にち
出生しゅっしょう イギリスの旗 イギリス オックスフォードシャー ブレナム英語えいごばん
ブレナム宮殿きゅうでん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1965-01-24) 1965ねん1がつ24にち(90さいぼつ
死没しぼつ イギリスの旗 イギリス ロンドン
出身しゅっしんこう ハーローこう
サンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう
ぜんしょく 軍人ぐんじん
従軍じゅうぐん記者きしゃ
所属しょぞく政党せいとう 保守党ほしゅとう1900ねん - 1904ねん
自由党じゆうとう1904ねん - 1924ねん
保守党ほしゅとう1924ねん - 1964ねん
称号しょうごう ガーター勲章くんしょう(KG)
メリット勲章くんしょう(OM)
枢密すうみつ顧問こもんかん(PC)
王立おうりつ協会きょうかいフェロー(FRS)
コンパニオン・オブ・オナー勲章くんしょう(CH)
しゅうふく知事ちじ(DL)
配偶はいぐうしゃ クレメンティーン・チャーチル
親族しんぞく だい7だいマールバラ公爵こうしゃくジョン祖父そふ
ランドルフきょうちち
ランドルフ英語えいごばん長男ちょうなん

イギリスの旗 イギリス
だい61・63だい首相しゅしょう
在任ざいにん期間きかん 1940ねん5がつ10日とおか - 1945ねん7がつ26にち[1]
1951ねん10月26にち - 1955ねん4がつ5にち[2]
国王こくおう ジョージ6せい
エリザベス2せい

内閣ないかく ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣ないかく自由党じゆうとう
ネヴィル・チェンバレン内閣ないかく保守党ほしゅとう
在任ざいにん期間きかん 1911ねん10月23にち - 1915ねん5月26にち[3]
1939ねん9月3にち - 1940ねん5がつ10日とおか[3]
首相しゅしょう ハーバート・ヘンリー・アスキス
ネヴィル・チェンバレン

内閣ないかく だい2ボールドウィン内閣ないかく保守党ほしゅとう
在任ざいにん期間きかん 1924ねん11月6にち - 1929ねん6月4にち[3]
首相しゅしょう スタンリー・ボールドウィン

内閣ないかく アスキス内閣ないかく自由党じゆうとう
在任ざいにん期間きかん 1910ねん2がつ19にち - 1911ねん10月24にち[1]
首相しゅしょう ハーバート・ヘンリー・アスキス

選挙せんきょ オールダム選挙せんきょ[4]
マンチェスター・ノース・ウェスト選挙せんきょ[4]
ダンディー選挙せんきょ[4]
エッピング選挙せんきょ[4]
在任ざいにん期間きかん 1900ねん10月1にち - 1908ねん4がつ24にち[4]
1908ねん5月9にち - 1922ねん11月15にち[4]
1924ねん10月29にち - 1964ねん10月15にち[4]
国王こくおう ヴィクトリア
エドワード7せい
ジョージ5せい
ジョージ6せい
エリザベス2せい

その職歴しょくれき
イギリスの旗 保守党ほしゅとう
だい10代党首とうしゅ

1940ねん10月9にち - 1955ねん4がつ5にち[5]
イギリスの旗 イギリス
はつだい5だい国防こくぼう担当たんとう閣外かくがい大臣だいじん

1940ねん5月11にち - 1945ねん7がつ27にち[6]
1951ねん10月28にち - 1952ねん3月1にち[7]
イギリスの旗 イギリス
植民しょくみん大臣だいじん

1921ねん2がつ14にち - 1922ねん10月19にち[6]
イギリスの旗 イギリス
陸軍りくぐん大臣だいじん

1919ねん1がつ10日とおか - 1921ねん2がつ13にち[3]
イギリスの旗 イギリス
航空こうくう大臣だいじん

1919ねん1がつ10日とおか - 1921ねん2がつ13にち[3]
イギリスの旗 イギリス
軍需ぐんじゅ大臣だいじん

1917ねん7がつ17にち - 1919ねん1がつ10日とおか[2]
イギリスの旗 イギリス
ランカスターおおやけりょう大臣だいじん

1915ねん5月28にち - 1915ねん11月11にち[8]
イギリスの旗 イギリス
通商つうしょう大臣だいじん

1908ねん4がつ12にち - 1910ねん2がつ14にち[6]
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ノーベルしょう受賞じゅしょうしゃノーベル賞
受賞じゅしょうねん1953ねん
受賞じゅしょう部門ぶもんノーベル文学ぶんがくしょう
受賞じゅしょう理由りゆう歴史れきし伝記でんき記述きじゅつ熟達じゅくたつくわえ、高揚こうようした人間にんげん価値かちについての雄弁ゆうべん庇護ひごしゃであること

サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA英語えいご: Sir Winston Leonard Spencer Churchill1874ねん11月30にち - 1965ねん1がつ24にち)は、イギリス政治せいじ陸軍りくぐん軍人ぐんじん作家さっか

概説がいせつ[編集へんしゅう]

サンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうけい騎兵きへい連隊れんたい所属しょぞくし、だいキューバ戦争せんそう観戦かんせんし、イギリスりょうインド帝国ていこくパシュトゥーンじん反乱はんらん鎮圧ちんあつせんスーダン侵攻しんこうだいボーア戦争せんそう従軍じゅうぐんした。1900ねんのイギリスそう選挙せんきょにオールダム選挙せんきょから保守党ほしゅとう候補こうほとしてはつ当選とうせん当時とうじ:25さい)。しかしジョゼフ・チェンバレン保護ほご貿易ぼうえきろん主張しゅちょうすると、自由じゆう貿易ぼうえき主義しゅぎしゃとして反発はんぱつ保守党ほしゅとうから自由党じゆうとう移籍いせきした。ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党じゆうとう政権せいけん発足ほっそくすると、植民しょくみんしょう政務次官せいむじかんとしてイギリスに併合へいごうされたボーアじん融和ゆうわ政策せいさく中国人ちゅうごくじん奴隷どれい問題もんだい処理しょりなどえいりょうみなみアフリカ問題もんだいんだ。アスキス内閣ないかくでは通商つうしょう大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんし、ロイド・ジョージとともに急進きゅうしんとして失業しつぎょう保険ほけん制度せいどなど社会しゃかい改良かいりょう政策せいさく尽力じんりょく、この体験たいけんつうじて暴動ぼうどうストライキ運動うんどう直面ちょくめん社会しゃかい主義しゅぎへの敵意てきいつよめた。

ドイツとのけんかん競争きょうそう激化げきかするなか海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにんだいいち世界せかい大戦たいせんときには海軍かいぐん大臣だいじん軍需ぐんじゅ大臣だいじんとして戦争せんそう指導しどうした。しかしアントワープ防衛ぼうえいガリポリ上陸じょうりく作戦さくせん惨敗ざんぱいきっし、辞任じにんした。しかしロイド・ジョージないかく軍需ぐんじゅ大臣だいじんとしてさい入閣にゅうかく戦後せんご戦争せんそう大臣だいじん航空こうくう大臣だいじん就任しゅうにんし、ロシア革命かくめい阻止そしすべくはん共産きょうさん主義しゅぎ戦争せんそう主導しゅどうし、赤軍せきぐんポーランド侵攻しんこう撃退げきたいした。だが、首相しゅしょう干渉かんしょう戦争せんそうこころよおもわず、植民しょくみん大臣だいじんへの転任てんにんめいじられ、イギリス委任いにん統治とうちりょうイラクパレスチナ政策せいさくユダヤじんパレスチナ移民いみんすすめた。はつ労働党ろうどうとう政権せいけんとなったマクドナルド内閣ないかくはん社会しゃかい主義しゅぎ立場たちばから自由党じゆうとう離党りとうし、野党やとう下落げらくした保守党ほしゅとうふくとうした。スタンリー・ボールドウィン内閣ないかくでは財務ざいむ大臣だいじんつとめ、新興しんこうこくアメリカ日本にっぽん勃興ぼっこうでイギリス貿易ぼうえき弱体じゃくたいするなか金本位きんほんいせい復帰ふっきおこなったが失敗しっぱいし、政権せいけん交代こうたいふたたマクドナルド労働党ろうどうとう政権せいけん復帰ふっきとなった。

1930年代ねんだいには停滞ていたいしたが、インド自治じち政策せいさくドイツナチとうヒトラー独裁どくさい政権せいけんへの宥和ゆうわ政策せいさく反対はんたいした。だい世界せかい大戦たいせんにチャーチルは海軍かいぐん大臣だいじんとして閣僚かくりょう復帰ふっきしたが、北欧ほくおうせん惨敗ざんぱい。しかしこの惨敗ざんぱい責任せきにんはチェンバレン首相しゅしょうかえせられ、1940ねん後任こうにんとして首相しゅしょうしょくき、1945ねん勝利しょうり達成たっせいまで戦争せんそう主導しゅどうした。西方せいほう電撃でんげきせんギリシャ・イタリア戦争せんそうきたアフリカ戦線せんせんドイツぐん敗北はいぼくするが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退げきたい成功せいこうした。どくせん開始かいしのためヨシフ・スターリンソ連それん協力きょうりょくし、またルーズベルト大統領だいとうりょうのアメリカとも同盟どうめい関係かんけいとなった。

しかし1941ねん12月以降いこう日本にっぽんぐん参戦さんせんに、東方とうほう植民しょくみんである香港ほんこんシンガポールをはじめとするマレまれ半島はんとう一帯いったいのイギリスぐん敗退はいたいによる相次あいつ陥落かんらくインド洋いんどようからの放逐ほうちくなどの失態しったいおかしたうえに、ドイツぐんによるトブルク陥落かんらくでイギリスの威信いしんきずき、なにとかイギリスの植民しょくみんとしてのこっていたインドやエジプトでのはんえい闘争とうそう激化げきかまねいた。

1944ねん6がつノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん攻勢こうせいてんじたものの、1945ねん5がつナチス・ドイツ降伏ごうぶくすると労働党ろうどうとう挙国一致きょこくいっちないかく解消かいしょうし、同年どうねん7がつそう選挙せんきょアトリー政権せいけん成立せいりつ保守党ほしゅとう惨敗ざんぱいした。だい世界せかい大戦たいせん戦勝せんしょうこく地位ちい獲得かくとくしたなか、チャーチルは野党やとう党首とうしゅちたものの冷戦れいせんしたで「てつのカーテン演説えんぜつおこなうなど独自どくじ反共はんきょう外交がいこうおこない、ヨーロッパ合衆国がっしゅうこく構想こうそうなどをすすめた。イギリスはアメリカソ連それんなら戦勝せんしょうこく地位ちいたが、大戦たいせん終結しゅうけつにアトリー労働党ろうどうとう政権せいけんインドひとし植民しょくみん手放てばなしていくことを、帝国ていこく主義しゅぎ立場たちばから批判ひはん植民しょくみん独立どくりつ阻止そしちからちゅういだが、だいえい帝国ていこく植民しょくみんのほぼすべてをうしな消滅しょうめつすることとなり、世界一せかいいち植民しょくみん大国たいこくうしなってべいソの後塵こうじんはいするくに転落てんらくした。

1951ねんふたた首相しゅしょうつとめ、べいソに原爆げんばく保有ほゆう実現じつげんし、東南とうなんアジア条約じょうやく機構きこう(SEATO)参加さんかなど反共はんきょう政策せいさくすすめた。1953ねんノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう1955ねんアンソニー・イーデン保守党ほしゅとう党首とうしゅおよ首相しゅしょうしょくがせ政界せいかいから退しりぞいた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出生しゅっしょう[編集へんしゅう]

ちち・ランドルフきょう
はは・ジャネット・ジェローム

1874ねん11月30にちイングランドオックスフォードシャーのブレナムにて誕生たんじょう[9]する。ちちランドルフ・チャーチルきょうは、だい7だいマールバラ公爵こうしゃくジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチル三男さんなん[10]、1874ねんはるにマールバラ公爵こうしゃく領地りょうちであるウッドストック選挙せんきょから出馬しゅつばして庶民しょみんいん議員ぎいんはつ当選とうせんした保守党ほしゅとう政治せいじであった[11][12]ははジャネット・ジェローム愛称あいしょうジェニー)はアメリカじん投機とうきレナード・ジェロームの次女じじょだった[13]。1873ねん8がつ12にちワイトとうカウズ英語えいごばん停泊ていはくしたイギリス商船しょうせんじょうのパーティーでジャネットとランドルフきょうい、3にち婚約こんやくした。ランドルフきょうちちははじめ身分みぶんちがうと反対はんたいしていたが、ジェローム金持かねもちであることから結局けっきょく了承りょうしょうし、二人ふたりは1874ねん4がつにパリのイギリス大使館たいしかん結婚けっこん[14][15]ロンドンらした[16]

チャーチルがまれた祖父そふ居城きょじょうブレナム宮殿きゅうでん[17]

1874ねん11月30にち午前ごぜん130ふんごろ父母ちちはは長男ちょうなんとしてオックスフォードシャーウッドストックにあるマールバラ公爵こうしゃくいえ自邸じていブレナム宮殿きゅうでん誕生たんじょうする[18][19][20]。このひじりアンドリューのであり、ブレナム宮殿きゅうでんでマールバラ公爵こうしゃく主催しゅさい舞踏ぶとうかい予定よていされていた[19]結婚けっこんして7カ月かげつはん長男ちょうなんもうけたのだった[16]。スペンサー=チャーチル伝統でんとうだいちち祖父そふレナード・ジェローム)の名前なまえをミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付なづけられた[21]以下いか、チャーチルと表記ひょうき)。

チャーチルは12月27にちにブレナム宮殿きゅうでん礼拝れいはいどう洗礼せんれいけた[22]新年しんねんむかえるとランドルフきょう一家いっかはロンドンの自邸じていかえり、乳母うばエリザベス・エヴェレストが養育よういくした[22][23]ヴィクトリアあさ上流じょうりゅう階級かいきゅうでは子供こども養育よういく乳母うばまかせ、おや子供こどもはほとんどかかわりをたず、時々ときどきかおるだけという関係かんけいであることがおおかった。チャーチルの両親りょうしん場合ばあい政界せいかい社交しゃこうかいでの活動かつどういそがしかったのでとくにその傾向けいこうつよかった[24][25]

アイルランドでの幼少ようしょう
7さいころのチャーチル(アイルランド・ダブリン)

1876ねんにランドルフきょうあにブランドフォード侯爵こうしゃくジョージおう太子たいしエドワード・アルバート英国えいこくおうエドワード7せい)の愛人あいじんあらそいにくびんで、おう太子たいし不興ふきょうい、おう太子たいしから決闘けっとうもうまれるまでの事態じたいとなり、イギリス社交しゃこうかいにおける立場たちばうしなった[26][27][28]仲裁ちゅうさいした首相しゅしょう保守党ほしゅとう党首とうしゅベンジャミン・ディズレーリからほとぼりがめるまでイングランドがいにいるようすすめられたランドルフきょうは、アイルランド総督そうとく任命にんめいされたちちマールバラこう秘書ひしょとしてつまや2さい息子むすこともなって1877ねん1がつ9にちアイルランド赴任ふにんした[26][29][30]

アイルランドにおいては公爵こうしゃく夫妻ふさいダブリンフェニックス・パーク総督そうとく官邸かんてい、ランドルフきょう一家いっかはそのちかくのリトル・ラトラでらした[31]。チャーチルにとってアイルランドは「記憶きおくしている最初さいしょ場所ばしょ」であったと回顧かいころくいている[26]

アイルランドでもつづ乳母うばエヴェレストが養育よういくにあたっていた[31][32]。チャーチルは乳母うばを「ウーマニ」とんでしたい、8さいになるまで彼女かのじょがわからはなれることはほとんどなかった[10][33][32]。チャーチルは後年こうねんまで彼女かのじょ写真しゃしん自室じしつかざ[34]、「思慮しりょのないところに感情かんじょうはない(他人たにん冷淡れいたんもの知能ちのうよわい)」という彼女かのじょ言葉ことば謹言きんげんにしたという[32]。またこのころから家庭かてい教師きょうしけられるようになったが、チャーチルは幼少ようしょうから勉強べんきょうきらいだったという[35]1879ねんだい飢饉ききん、アイルランドの政治せいじ情勢じょうせい不穏ふおんになり、アイルランド独立どくりつ目指めざ秘密ひみつ結社けっしゃフェニアン暴力ぼうりょく活動かつどうさかんになっていった。そのため乳母うばエヴェレストもチャーチルが総督そうとくまごとしてねらわれるのではとつねんだという[36][37]

1880ねん2がつ4にちおとうとジョン・ストレンジがダブリンでまれる。ランドルフきょう子供こどもはチャーチルとこのジョン・ストレンジのにんのみである[38][39]。チャーチルは基本きほんてきにこのおとうと仲良なかよそだった[40]。ただチャーチルがおさないころにあつめていた1500のおもちゃの兵隊へいたいおとうとあそとき白人はくじん兵士へいしはチャーチルが独占どくせんし、おとうとにはわずかな黒人こくじん兵士へいししかあたえなかったという。チャーチルは黒人こくじん兵士へいしのおもちゃに小石こいしをぶつけたり、おぼれさせたりし、おとうと黒人こくじん軍隊ぐんたいらされてわるというのがお約束やくそくだった[41]

この直後ちょくごに1880ねんイギリスそう選挙せんきょがあり、ランドルフきょうもウッドストック選挙せんきょから再選さいせんすべく、一家いっかそろってイングランドに帰国きこくし、再選さいせんたした[38]。しかし保守党ほしゅとう大敗たいはいし、ディズレーリないかくそう辞職じしょくし、マールバラこうもアイルランド総督そうとくしょくした[42][38]

学生がくせい生活せいかつ[編集へんしゅう]

ひじりジョージ・スクール
1884ねんのチャーチル

1882ねん、8さい目前もくぜんにしたチャーチルは、ちち決定けっていでバークシャーしゅうアスコットのひじりジョージ・スクールに入学にゅうがくした[43][44][45]

チャーチルはいわゆる「ちこぼれ生徒せいと」だった。成績せいせきぜん教科きょうか最下位さいかい体力たいりょくもなく、あそびも得意とくいなわけではなく、クラスメイトからもきらわれているという問題児もんだいじだった[46]校長こうちょうからもよく鞭打むちうしょされ[47][48]、チャーチル自身じしんもこの学校がっこうにはおもがなく、悲惨ひさん生活せいかつをさせられたと回顧かいこしている[49]。この学校がっこう卒業生そつぎょうせいである作家さっかモーリス・ベアリング英語えいごばんによると、チャーチルは食堂しょくどうから砂糖さとうぬすんだかど校長こうちょうから鞭打むちうけいしょされたさい反省はんせいするどころか、校長こうちょう大事だいじにしていたむぎわら帽子ぼうしつぶすという暴挙ぼうきょにでたという。ベアリングは「チャーチルはあの学校がっこうにいたあいだずっと権力けんりょく衝突しょうとつしてばかりだった」とかたっている[50][47]

1884ねんなつ乳母うばがチャーチルの身体しんたいむちたれたあとつけて、ははジャネットの判断はんだん退学たいがくした。アメリカじんであるはははイギリス上流じょうりゅう階級かいきゅうサディスティック教育きょういく方法ほうほうれておらず、鞭打むちうちのような教育きょういく方法ほうほう嫌悪けんおしていたという[48]

ブライトン寄宿きしゅく学校がっこう

つづいてブライトンにあるもなき寄宿きしゅく学校がっこう入学にゅうがくした[51][52]。この学校がっこうひじりジョージ・スクールとくらべれば居心地いごこちかったらしく、「そこにはわたしがこれまでの学校がっこう生活せいかつあじわったことのない、親切しんせつ共感きょうかんがあった。」と回顧かいこしている[51]。このころにはちちランドルフきょう保守党ほしゅとうなかでも著名ちょめい政治せいじ一人ひとりになっていたので、その七光ななひかりでチヤホヤされるようになったことも影響えいきょうしているとされる[53]。チャーチルはちまた自分じぶんちちが「グラッドストン首相しゅしょうのライバル」などとだい政治せいじされているのをいてうれしくなり、このころから政治せいじ関心かんしんつようになった。学校がっこうでも「ノンポリはバカなのだろう」などと公言こうげんしていた[54]

成績せいせきは、品行ひんこうはクラス最低さいていだが、国語こくご英語えいご)、古典こてん図画ずがフランス語ふらんすごはクラスで7番目ばんめから8番目ばんめぐらいだった[52]乗馬じょうば水泳すいえい熱中ねっちゅう[55][54]作文さくぶんにも関心かんしんをもった[53]

ちちランドルフきょう1886ねん成立せいりつソールズベリー侯爵こうしゃく内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじん庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ就任しゅうにんし、次期じき首相しゅしょう地位ちいかためた。ところが同年どうねんのうちにソールズベリー侯爵こうしゃく見限みかぎられるかたち辞職じしょく事実じじつじょう失脚しっきゃくすることとなった[56][57][58]

ハーローこう
おとうとジョン・ストレンジ(ひだり)、ははジャネット(中央ちゅうおう)、チャーチル(みぎ)、1889ねん

1888ねん3月、パブリック・スクールハーローこう入試にゅうしけた。試験しけん出来できはいまいちで、苦手にがてラテン語らてんごにいたっては氏名しめい記入きにゅうらん以外いがい白紙はくし答案とうあん提出ていしゅつしていたが、もと大蔵おおくら大臣だいじんランドルフきょう息子むすこであるため、校長こうちょう判断はんだん合格ごうかくした。ただしクラスはもっとちこぼれのクラスにれられた[59][60][61]。スペンサー=チャーチル伝統でんとうてきイートンこう入学にゅうがくすることがおおいが、チャーチルは病弱びょうじゃくだったため、テムズがわ影響えいきょう湿気しっけがひどいイートンこうけたとされる[60][53]

ハーローこうでの成績せいせきわるかった[59][62]。「くしぶつおおく、遅刻ちこくおおく、突然とつぜん勉強べんきょうはじめたかとおもうとまったくやらなくなる」という気分きぶんのムラがはげしかったという[59]。ハーローこうでも校長こうちょうからかい鞭打むちうちのけいしょされた[63]。また当時とうじのハーローこうでは下級生かきゅうせい上級生じょうきゅうせい雑用ざつようとしてつかえなければならなかったが、チャーチルは上級生じょうきゅうせい反抗はんこうてきだったため、上級生じょうきゅうせいからもしばしば鞭打むちうちのけいしょされたという[64]

しかしチャーチルはこの学校がっこう軍事ぐんじ教練きょうれん授業じゅぎょうきであり、射撃しゃげきフェンシング水泳すいえい得意とくいだった[65][66][62][67][68]。またちこぼれクラスにれられたおかげでむずかしい古典こてん免除めんじょされ、英語えいごだけやればいいことになったのでぎゃく英語えいごりょくとくしてばすことができた[69][60]。「ハーローヴィアン」という校内こうない雑誌ざっし投書とうしょしたり、くようにもなり、文章ぶんしょう才能さいのうみがいていった[64]

当時とうじのハーローこうにはサンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうへの進学しんがく目指めざす「軍人ぐんじんコース」があり、劣等れっとうせい大抵たいていここにすすんだ。ランドルフきょう成績せいせきわる息子むすこチャーチルは軍人ぐんじんコースにれるしかないとかんがえていた[70][66]。チャーチルが子供部屋こどもべやでおもちゃの兵隊へいたい配置はいちかせてあそんでいるときちち部屋へやはいってて「陸軍りくぐんはいはないか」とき、それにたいしてチャーチルがイエスとこたえたことで最終さいしゅうてき進路しんろまった[70][71]

しかしサンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入試にゅうし多少たしょう数学すうがく知識ちしき要求ようきゅうしたため、ハーローこう在学ざいがくちゅうにチャーチルがけた入試にゅうしはともに合格ごうかくだった[70][66]校長こうちょうすすめでチャーチルはサンドハースト陸軍りくぐん学校がっこう入試にゅうしよう予備校よびこう入学にゅうがくした。出題しゅつだい内容ないよう傾向けいこうをかなり正確せいかく分析ぶんせきしてくれる予備校よびこうであり、チャーチルによれば「まれつきのバカでないかぎり、ここにはいればだれでもサンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう合格ごうかくできる」予備校よびこうだった[70][72]

サンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう
1895ねん2がつだい4女王じょおう所有しょゆうけい騎兵きへい連隊れんたい入隊にゅうたいしたチャーチル

18さいとき1893ねん6がつ、サンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入試にゅうしさん度目どめ挑戦ちょうせんをして合格ごうかくした。しかし成績せいせきくなかったので[注釈ちゅうしゃく 1]ちち希望きぼうしていた歩兵ほへい士官しかん候補こうほせいにはなれず、騎兵きへい士官しかん候補こうほせいになった[73][74]騎兵きへい将校しょうこうポロよううまなどの費用ひようがかかり[75]、そのため騎兵きへい将校しょうこう人気にんきがなく成績せいせきわるもの騎兵きへい配属はいぞくされていた[70]

こうして幼時ようじから軍隊ぐんたいあこがれていたチャーチルはヴィクトリア女王じょおう軍隊ぐんたい軍人ぐんじんとなった[73]数学すうがく古典こてんなやまされることはなくなり、地形ちけいがく戦略せんりゃく戦術せんじゅつ地図ちず戦史せんし軍法ぐんぽう軍政ぐんせいなど興味きょうみある分野ぶんや学習がくしゅう集中しゅうちゅうすることができるようになった[74][76]。とりわけアメリカ独立どくりつ戦争せんそうひろしふつ戦争せんそうつよ興味きょうみった[76]

ただしこのころちち家計かけいはかなりくるしくなっており、チャーチルに十分じゅうぶん仕送しおくりはできなくなっていた[77]。そのためチャーチルもうまのことで随分ずいぶん苦労くろうし、将来しょうらい将校しょうこうとしての給料きゅうりょう担保たんぽ借金しゃっきんしてうま賃借ちんがりしている[78][76]

1894ねん12月に130にんちゅう20という好成績こうせいせき士官しかん学校がっこう卒業そつぎょうし、オールダーショット駐留ちゅうりゅうけい騎兵きへいだい4連隊れんたい配属はいぞくされた[79][80]

ちち

ちちランドルフきょう梅毒ばいどくかかり、健康けんこう状態じょうたいすうねんまえから悪化あっかつづけていた[81]。ランドルフきょうは1894ねん6がつ最後さいごおもづくりでジャネットとともにアメリカ日本にっぽんなどのしょ外国がいこく、またえいりょう香港ほんこんえいりょうシンガポールえいりょうラングーンなどアジアイギリス植民しょくみん歴訪れきほうする世界せかい旅行りょこうた。この両親りょうしん不在ふざいあいだにチャーチルは医者いしゃからちちくわしい病状びょうじょうをききだし、ちちたすかる見込みこみがないことをらされたという[78]ちち帰国きこく直後ちょくご1895ねん1がつ24にち、45さい死去しきょ[74]首相しゅしょう大物おおもの政治せいじ列席れっせきした[79][82][注釈ちゅうしゃく 2]。チャーチルは「ちち同志どうしになりたいというゆめ、つまり議会ぎかいりしてちちかたわらでちちたすけたいというゆめわった。わたしのこされたみちちちおも大切たいせつにし、ちち意志いしぐことだけだった」といている[79][84]ちちによって家長かちょうとなったチャーチルは、逼迫ひっぱくしたチャーチル家計かけいをしょってたねばならなくなった。ちち晩年ばんねんロスチャイルドから融資ゆうしけて購入こうにゅうしていたみなみアフリカ金鉱きんこうかぶみなみアフリカ景気けいきで20ばい高騰こうとうしたが、しかし相続そうぞくした借金しゃっきん返済へんさいてられた[75]

同年どうねん7がつには乳母うばエヴェレストも死去しきょし、チャーチルは「わたしの20ねん人生じんせいもっと親密しんみつ友人ゆうじんだった」とひょうしてかなしんだ[84][85]彼女かのじょ葬儀そうぎはチャーチルが一切いっさい手配てはいした[82]

軍人ぐんじんとして[編集へんしゅう]

ちち翌月よくげつからオールダーショット任官にんかん訓練くんれんけたが、自由じゆう主義しゅぎ民主みんしゅ主義しゅぎ発展はってん結果けっか戦争せんそうはなくなるのではないかとかんがえ、すでにこのとき軍人ぐんじんは「わたし生涯しょうがい仕事しごとではない」とかんがえるようになっていた[86]

キューバ反乱はんらん鎮圧ちんあつせん観戦かんせん[編集へんしゅう]

騎兵きへい将校しょうこうになったチャーチルは、戦争せんそうきる気配けはいがないことを残念ざんねんおもい、ナポレオン戦争せんそう時代じだいまれたかったとよく愚痴ぐちをこぼしていた[87]。そんななか1895ねん、スペインりょうキューバでスペイン支配しはいこうするマクシモ・ゴメスやホセ・マルティらの反乱はんらん勃発ぼっぱつした(だいキューバ独立どくりつ戦争せんそう)。関心かんしんったチャーチルはぐんから2ヶ月かげつはん長期ちょうき休暇きゅうかをもらい[注釈ちゅうしゃく 3]、さらにスペイン政府せいふにキューバの反乱はんらん鎮圧ちんあつ協力きょうりょくしたいともうて、キューバ渡航とこう許可きょか[87]

こうして1895ねん11がつはじめ、同僚どうりょうレジナルド・バーンズとともにキューバへけて出港しゅっこうした。途中とちゅうニューヨークり、母方ははかた祖父そふレナード・ジェローム友人ゆうじんであるアメリカ下院かいん議員ぎいんウィリアム・バーク・コクランから歓迎かんげいされた[89][88]。チャーチルは政界せいかい進出しんしゅつ野望やぼうっていたので、コクランから演説えんぜつ手法しゅほうについて色々いろいろほどきをけた[90]。またコクランの紹介しょうかいでニューヨーク市内しない各所かくしょ見学けんがくしたが、とりわけ裁判所さいばんしょおどろいた。法廷ほうてい普通ふつう部屋へやであり、裁判官さいばんかん検事けんじ弁護士べんごしもイギリスのようにカツラや法服ほうふく着用ちゃくようせず平服へいふく出廷しゅっていしてきたからである。チャーチルは「伝統でんとう威厳いげんなどまったくなかった。それでも絞首刑こうしゅけい判決はんけつくだせるというのは、たいしたことだ。」と感心かんしんしている[90]

キューバに到着とうちゃくしたのちはスペインぐん行動こうどうともにした。チャーチルはこの従軍じゅうぐんちゅうにキューバせい葉巻はまき昼寝ひるね習慣しゅうかんにつけたという[91][92][93]。またこの戦争せんそうちゅう、チャーチルは『デイリー・グラフィック』特派とくはいん契約けいやくをしており、報告ほうこくしょどう新聞しんぶんしゃおく[88][94]特派とくはいんとして戦地せんちおもむくことは、いい小遣こづかかせぎになることをった[95]

21さい誕生たんじょうである1895ねん11月30にちはじめて実戦じっせん経験けいけんた。みち朝食ちょうしょくをとっていたところ、ゲリラの銃弾じゅうだんかおのすぐちかくをかすめ、てきはすぐに姿すがたした[95][94][96]数日すうじつにも銃撃じゅうげきせん遭遇そうぐうし、てきは30ふんほど銃撃じゅうげきつづけて撤退てったいした。チャーチルは戦功せんこうてることはできなかったが、はじめて戦死せんししゃ[97]

チャーチルは圧政あっせいこうしようという反乱はんらん精神せいしんには一定いってい理解りかいっていたが、ゲリラの野蛮やばん戦法せんぽうきらっており、それに勇敢ゆうかんかうスペイン軍人ぐんじんたちを尊敬そんけいしていた[91][92]。またスペイン軍人ぐんじんはなしているうちにスペインじんけっしてキューバじんにくんでおらず、イングランドじんがアイルランドじんたいしてっているような感情かんじょうをキューバじんたいしてっているとかんがえるようになった[91]

えいりょうインド勤務きんむ[編集へんしゅう]

1897ねんインド勤務きんむ時代じだいのチャーチル。ポロよううまとインドじん召使めしつかいとともに

イギリスに帰国きこくしたチャーチルは、ますますくるしくなっていた家計かけいのためにさらなる従軍じゅうぐん経験けいけん特派とくはいんとしての原稿げんこうりょう渇望かつぼうし、オスマン=トルコ帝国ていこく支配しはいこうして蜂起ほうきしたクレタとうジェームソン侵入しんにゅう事件じけん英語えいごばん発生はっせいしたみなみアフリカなどに特派とくはいんとしておもむこと希望きぼうし、ははつうじてかく方面ほうめんをまわしたが、実現じつげんしなかった[98]

1896ねんふゆだい4女王じょおう所有しょゆうけい騎兵きへい連隊れんたいとともにチャーチルはイギリスりょうインド帝国ていこく転勤てんきんとなった[99][93]。インド駐留ちゅうりゅうのイギリスぐん将校しょうこうはまるで王侯おうこうのようにらし、日常にちじょう生活せいかつをすべてインドじん召使めしつかいまかせていたが、チャーチルもそのような生活せいかつおくった[99][100]。インドじん召使めしつかいはかなり薄給はっきゅうやとうことができるが[100]困窮こんきゅうしていたチャーチルはインドじん金融きんゆう業者ぎょうしゃから借金しゃっきんしている[99]

インドは平穏へいおんだったのでチャーチルは、アリストテレスの『政治せいじがく』、プラトンの『共和きょうわこく』、ギボンの『マ帝国まていこく衰亡すいぼう』、マルサスの『人口じんこうろん』、ダーウィンの『たね起源きげん』、マコーリーの『イングランド英語えいごばん』などおおくの読書どくしょをした[101][102][103]

インド勤務きんむ時代じだい唯一ゆいいつ参加さんかした実戦じっせんは、1897ねんなつにインド西北せいほく国境こっきょう付近ふきん発生はっせいしたパシュトゥーンじん反乱はんらん鎮圧ちんあつせんだった。この反乱はんらん発生はっせいするとチャーチルは鎮圧ちんあつ派遣はけんされたマラカンド野戦やせんぐん入隊にゅうたい希望きぼうし、はじめ新聞しんぶん特派とくはいん将校しょうこう欠員けついんしょうじたのちにはその後任こうにんとして戦闘せんとう参加さんかした[104]。しかしチャーチルは勲章くんしょうようとこげるあまり、しばしば独断どくだん無謀むぼう行動こうどうたため、やがてたいさせられた[105]

このとき体験たいけんだん処女しょじょさくマラカンド野戦やせんぐん物語ものがたり』としてまとめた。この作品さくひん評判ひょうばんかったため、チャーチルはつづいて『サヴロラ英語えいごばん』という地中海ちちゅうかい沿岸えんがん某国ぼうこく革命かくめい運動うんどう舞台ぶたいにした小説しょうせついた。これも好評こうひょうはくし、かなりの収入しゅうにゅうになった[106][107]

スーダン侵攻しんこう[編集へんしゅう]

1898ねんのチャーチル(エジプトカイロ

このころ、イギリスではスーダン問題もんだいさい浮上ふじょうしていた。スーダンはイギリスの傀儡かいらい国家こっかエジプト属領ぞくりょうだったが、1881ねん発生はっせいしたマフディーの反乱はんらんにより、とき英国えいこく首相しゅしょうグラッドストン放棄ほうき決定けっていして以来いらい、マフディーぐん支配しはいかれ、英国えいこく支配しはいからはなれた独立どくりつ国家こっかとなっていた。しかしロシアフランスエチオピアへの野心やしんたかまるなか首相しゅしょうソールズベリー侯爵こうしゃくはそれに先手せんてつべく、エチオピアに隣接りんせつするマフディー国家こっかへの侵攻しんこう決定けっていした[108]

チャーチルは従軍じゅうぐん希望きぼうし、『マラカンド野戦やせんぐん物語ものがたり』をたかひょうしていた首相しゅしょうソールズベリー侯爵こうしゃく会見かいけんできたのを好機こうきとしてエジプトの実質じっしつてき統治とうちしゃだったイギリスちゅうエジプト総領事そうりょうじクローマー伯爵はくしゃく紹介しょうかいしてもらい、従軍じゅうぐんゆるされた[109]。この戦争せんそうでもモーニング・ポスト特派とくはいん契約けいやくむすんだ[110]

1898ねん8がつホレイショ・キッチナー将軍しょうぐんひきいるイギリスぐんくわわって、ナイルかわさかのぼって進軍しんぐん[109]、9月1にちにはマフディーこく首都しゅとオムダーマン包囲ほうい[111]よく9がつ2にち、マフディーぐん4まんっててきて、オムダーマンのたたかはじまった。キッチナー将軍しょうぐんだい21やり騎兵きへい連隊れんたい突撃とつげきおこなわせたが、これは歴史れきしじょう最後さいご騎兵きへい突撃とつげきとされる[112]。チャーチルはインド勤務きんむ時代じだいかた脱臼だっきゅうしていた関係かんけいで、けんではなく拳銃けんじゅう使用しようして突撃とつげきしたため、比較的ひかくてき安全あんぜんたたかうことができた[113][114]たたかいはおおくの戦死せんし傷者しょうしゃしながらもイギリスぐん勝利しょうりわり、マフディー国家こっか滅亡めつぼうし、スーダンはイギリスとその傀儡かいらい国家こっかエジプトの主権しゅけんもどった。

インドのだい4女王じょおう所有しょゆうけい騎兵きへい連隊れんたいたいしたチャーチルは、今回こんかい戦争せんそうについてまとめた『河畔かはん戦争せんそう英語えいごばん』をあらわした。この著書ちょしょなかでチャーチルはキッチナー将軍しょうぐん批判ひはんてきいている。とくたたかかた犠牲ぎせいわなすぎることや、兵士へいしたちがマフディー国家こっか建国けんこくしゃムハンマド・アフマド[注釈ちゅうしゃく 4]はかあばいたのをめなかったことを批判ひはんしている[注釈ちゅうしゃく 5]。しかし、このほんんだホレイショ・キッチナー自分じぶん批判ひはんしたほん内容ないよう激怒げきどし、遺恨いこんしょうじた。このことは後々あとあとチャーチルにたたることになる。

ぐん除隊じょたい選挙せんきょはつ挑戦ちょうせん[編集へんしゅう]

1899ねんはる陸軍りくぐん除隊じょたいした[117]騎兵きへい将校しょうこう経費けいひがかかるし、文筆ぶんぴつ生計せいけいてていく自信じしんいたためであったといわれる[114]

1899ねん6がつにオールダム選挙せんきょ庶民しょみんいん議員ぎいん補欠ほけつ選挙せんきょ保守党ほしゅとう候補こうほとして出馬しゅつばした[118]オールダム繊維せんい産業さんぎょうまち労働ろうどうしゃ有権者ゆうけんしゃ中心ちゅうしんだったため、保守党ほしゅとうとしてはディズレーリの「トーリー・デモクラシー」の継承けいしょうしゃ自任じにんしていたランドルフきょう息子むすこ候補こうほにした[119]。 チャーチルも「トーリー・デモクラシー」を意識いしきした選挙せんきょせん展開てんかいし、「帝国ていこく維持いじするには自由じゆう人民じんみん教育きょういくある人民じんみんえない人民じんみん必要ひつようだ。だからこそ我々われわれ社会しゃかい政策せいさく支持しじする」と演説えんぜつした[120]。だが補欠ほけつ選挙せんきょ最大さいだい争点そうてん社会しゃかい政策せいさくではなく、国教こっきょうかい地方ちほうぜい投入とうにゅうするソールズベリー侯爵こうしゃく政策せいさくたいする賛否さんぴだった。自由党じゆうとうはこれを徹底的てっていてき批判ひはんして選挙せんきょせん有利ゆうり展開てんかいし、チャーチルも選挙せんきょせん後半こうはんでつい「わたし当選とうせんしたらこの法案ほうあんには反対はんたいする」という失言しつげんをしてしまい、変節へんせつしゃという批判ひはんけてますます不利ふり立場たちばいやられた[121]

イギリスの選挙せんきょは1884ねんだい3選挙せんきょほう改正かいせい以来いらい原則げんそくとしてしょう選挙せんきょになっていたが[122][123]、オールダム選挙せんきょ数少かずすくない2議席ぎせき選出せんしゅつだい選挙せんきょだった[124]。しかし選挙せんきょ結果けっかは、2議席ぎせきとも自由党じゆうとうがとり、チャーチルはいまいちのところで落選らくせんとなった[125]

だい2ボーア戦争せんそう従軍じゅうぐん[編集へんしゅう]

1899ねんだいボーア戦争せんそう従軍じゅうぐん記者きしゃチャーチル

みなみアフリカのボーアじん国家こっかトランスヴァール共和きょうわこくオレンジ自由じゆうこく併合へいごうせんと目論もくろむソールズベリー侯爵こうしゃくないかくジョゼフ・チェンバレン植民しょくみん大臣だいじんはボーアじん挑発ちょうはつつづけ、1899ねん10がつだい2ボーア戦争せんそう勃発ぼっぱつした[126][118]

チャーチルはふたたび『モーニング・ポスト』特派とくはいんとなり、今回こんかい民間みんかんジャーナリストとして戦地せんちおもむいた[127]戦闘せんとう発生はっせいしているナタール植民しょくみんかい、11月15にちには装甲そうこう列車れっしゃせてもらったが、この列車れっしゃ途中とちゅうボーアじん攻撃こうげきけて脱線だっせんし、チャーチルをふくめてっていたものらのほとんどが捕虜ほりょになった[125][127]。このときチャーチルをらえたボーアじん農民のうみんのちみなみアフリカ共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょうルイス・ボータとしてチャーチルと再会さいかいすることになる[128]。トランスヴァール首都しゅとプレトリア捕虜ほりょ収容しゅうようしょ収容しゅうようされた。チャーチルは民間みんかんじんだからすぐに釈放しゃくほうされるとおもっていたが、英字えいじ新聞しんぶんが「『チャーチル中尉ちゅうい』の勇気ゆうきある行動こうどう」をたたえる記事きじせたせいで、釈放しゃくほうされるどころか、下手へたをすれば民間みんかんじん偽装ぎそうしたとして戦争せんそう法規ほうき違反いはん銃殺じゅうさつされる可能かのうせいてきた[129]。チャーチルは12月12にち夜中よなか便所べんじょまどからして収容しゅうようしょ脱走だっそうした[127]もとイギリスじん帰化きかトランスヴァールじん炭鉱たんこう技師ぎしすう日間にちかんかくまってもらったのち貨車かしゃってポルトガルりょうモザンビークロレンソ・マルケスのイギリス領事館りょうじかんにたどりついた[130][131]

このあいだ新聞しんぶん報道ほうどうなどで「チャーチルが捕虜ほりょ収容しゅうようしょ脱走だっそうしたが、さい逮捕たいほされて銃殺じゅうさつされた」といううわさながれていたため、チャーチルの生存せいぞん判明はんめいしたことへの反響はんきょうおおきかった[130][132]。このころ戦況せんきょうはレッドヴァース・ブラー将軍しょうぐんひきいるイギリスぐん全滅ぜんめつしたり、各地かくちでイギリスぐん包囲ほういされたり、イギリスぐん劣勢れっせいであった[133]。そのためチャーチルのこの脱走だっそうげき戦意せんい高揚こうようのいい英雄えいゆうたんとなった[134]

こののち、チャーチルはブラー将軍しょうぐんのおかげでケープ植民しょくみんしん編成へんせいされたみなみアフリカけい騎兵きへい連隊れんたい中尉ちゅうい階級かいきゅうのままさい入隊にゅうたいできた[135][136]レディスミス包囲ほういされるイギリスぐん救援きゅうえん作戦さくせん参加さんかし、ついでフレデリック・ロバーツきょう指揮しきヨハネスブルクプレトリアへの侵攻しんこう作戦さくせん従軍じゅうぐんした[135][136]1900ねん6月5にち[137]のプレトリア占領せんりょうさいにはチャーチルはさき自分じぶん収容しゅうようされていた捕虜ほりょ収容しゅうようしょかい、そこにイギリス国旗こっきかかげて復讐ふくしゅうたした[135]国土こくど占領せんりょうされてもボーアじんくっすることはなく、ボーア戦争せんそうはゲリラ戦争せんそうしていくのだが、チャーチルはプレトリア占領せんりょうとともにイギリスへげた[135]

帰国きこくただちにボーア戦争せんそうかんする『ロンドンからレディスミスへ英語えいごばん』と『ハミルトン将軍しょうぐん行進こうしん英語えいごばん』の2さくあらわした[138]

保守党ほしゅとう時代じだい[編集へんしゅう]

庶民しょみんいん議員ぎいん当選とうせん[編集へんしゅう]

1900ねん9がつ27にちの『バニティ・フェアのチャーチルの戯画ぎが

トランスヴァール共和きょうわこく首都しゅとプレトリアを占領せんりょうしたことによる戦勝せんしょうムードのなか首相しゅしょうソールズベリー侯爵こうしゃく植民しょくみん地相ちそうチェンバレンは、いま解散かいさんそう選挙せんきょすれば有利ゆうり議会ぎかい状況じょうきょうつくれるとんで、1900ねん9がつ1にちそう司令しれいかんホレイショ・キッチナー将軍しょうぐんにトランスヴァール併合へいごう宣言せんげんさせるとともに、9月25にち議会ぎかい解散かいさんした[137]。こうして「カーキ(軍服ぐんぷくいろ選挙せんきょ」とばれた解散かいさんそう選挙せんきょおこなわれた[125][139]

チャーチルはこのそう選挙せんきょふたたびオールダム選挙せんきょから保守党ほしゅとう公認こうにん候補こうほとして出馬しゅつばした。今度こんど選挙せんきょは、捕虜ほりょ収容しゅうようしょからの脱走だっそうげき名前なまえれていたチャーチルが有利ゆうりであった[125][139]与党よとう保守党ほしゅとう自由じゆう統一とういつとう)の選挙せんきょせん仕切しきっていた植民しょくみん大臣だいじんチェンバレンもチャーチル応援おうえんのため選挙せんきょりしてくれた[139]

選挙せんきょ結果けっか自由党じゆうとう候補こうほアルフレッド・エモット男爵だんしゃくもっと得票とくひょうしたものの、チャーチルもだい2得票とくひょうて、オールダム選挙せんきょ2議席ぎせき選出せんしゅつするため、チャーチルも次点じてん当選とうせんできた[140]。こうしてチャーチルは26さいにして庶民しょみんいん議員ぎいんとなった[141]

そう選挙せんきょ全体ぜんたい結果けっか与党よとう保守党ほしゅとう自由じゆう統一とういつとう野党やとう自由党じゆうとうアイルランド国民党こくみんとう英語えいごばんに134議席ぎせきをつけて勝利しょうりした[142]

チャーチルは1901ねん自由党じゆうとう議員ぎいん鉄道てつどう事業じぎょうジャスパー・ウィルソン・ジョーンズらが創設そうせつした植民しょくみん看護かんご協会きょうかい(1896ねん - )の幹部かんぶとなった[17]。なお、ジョーンズの義理ぎり息子むすこ弁護士べんごしフランシス・テイラー・ピゴットはそれ以前いぜん日本にっぽん伊藤いとう博文ひろぶみ政権せいけん法制ほうせい顧問こもん(1888ねん - 1891ねん)をつとめていた。

講演こうえんかい処女しょじょ演説えんぜつ
1900ねんまつ保守党ほしゅとう議員ぎいんチャーチル。訪米ほうべい写真しゃしん

保守党ほしゅとう庶民しょみんいん議員ぎいんとなったチャーチルはイギリス各地かくち講演こうえんかいおこない、1900ねんまつにはアメリカやえいりょうカナダでも講演こうえんかいひらいてかねかせいだ[141]講演こうえんかいはかなりの収入しゅうにゅうにはなったが、アメリカじん聴衆ちょうしゅうのうちアイルランドけいアメリカじんはんえいてきひとおおく、それ以外いがいのアメリカじんもボーアじんりのひとおおかった。

そのためチャーチルもボーア戦争せんそうかんするきびしい追及ついきゅうけた。結局けっきょくチャーチルも侵略しんりゃく戦争せんそうであることは否定ひていできず、「戦争せんそうになれば、それが戦争せんそうだろうが、わる戦争せんそうだろうが、祖国そこくしたがうしかない」と弁明べんめいした[138]

1901ねん1がつにヴィクトリア女王じょおう崩御ほうぎょし、エドワード7せい国王こくおう即位そくいした[143]。チャーチルは、しん国王こくおうのもとで1901ねん2がつから開会かいかいされた庶民しょみんいんはつ登院とういんした[144]

チャーチルの処女しょじょ演説えんぜつは、自由党じゆうとう急進きゅうしんでボーア戦争せんそう反対はんたいするデビッド・ロイド・ジョージ議員ぎいんはげしい反戦はんせんろん対抗たいこうして、政府せいふ擁護ようごするものだった[145]。ただその演説えんぜつなかでチャーチルは「わたしがボーアじんだったら、やはり戦場せんじょうたたかっているだろう」とボーアじん擁護ようごするかのような発言はつげんおこない、植民しょくみん大臣だいじんチェンバレンをいらだたせた[146]

1901ねん5がつ24にちにはフリーメイソン加入かにゅうしている[147][148][149]

造反ぞうはんから自由党じゆうとうへの移籍いせき[編集へんしゅう]

チャーチルが最初さいしょ目指めざしたのはちちランドルフきょう大蔵おおくら大臣だいじんとしてもうとした陸軍りくぐん予算よさん削減さくげんだった。戦争せんそう大臣だいじん陸軍りくぐん大臣だいじん)のシンジョン・ブロドリック常備じょうびぐん現行げんこう軍団ぐんだんからさん軍団ぐんだん増設ぞうせつ方針ほうしんしめしたのにたいして、チャーチルは1901ねん5がつ反対はんたい演説えんぜつち、「ヨーロッパの野蛮やばんじん相手あいてにするのはいち軍団ぐんだん十分じゅうぶんだし、ヨーロッパじん相手あいてにするにはさん軍団ぐんだんでも不十分ふじゅうぶんだ。イギリスには世界せかい最強さいきょう海軍かいぐんがあればよい」とべた[150]。この演説えんぜつは、野党やとう自由党じゆうとうからは喝采かっさいおくられたが、保守党ほしゅとう執行しっこう新米しんまい議員ぎいん造反ぞうはんおどろき、「親孝行おやこうこう公務こうむ混同こんどうしてはならない」と批判ひはんされた[150][151]。これをきっかけにチャーチルは保守党ほしゅとう執行しっこう造反ぞうはんすることがえていく。

ちちが「だいよんとう英語えいごばん」とばれるとう執行しっこう造反ぞうはんするしょうグループをつくっていたのにならい、首相しゅしょうソールズベリー侯爵こうしゃく末子まっしであるヒュー・セシルきょうらとともにはん執行しっこうてきしょうグループを形成けいせいしはじめた。やがてこのグループは「フーリガンズ」と「ヒュー・セシル」の名前なまえわせて、「ヒューリガンズ英語えいごばん」とばれるようになった[152]

チャーチルは保守党ほしゅとう左派さは自由党じゆうとう右派うは自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎしゃ)をひとつにまとめ、政界せいかい再編さいへんのきっかけとすることをかんがえていたという[153]

保護ほご貿易ぼうえきろんへの抵抗ていこう
保護ほご貿易ぼうえき主張しゅちょうしたジョゼフ・チェンバレン

1902ねん7がつ11にちながらく首相しゅしょうつとめてきたソールズベリー侯爵こうしゃくやまいにより退任たいにんし、わってアーサー・バルフォア大命たいめいけた。このころからボーア戦争せんそう客観きゃっかんてき評価ひょうかされるようになったことで世論せろん政権せいけん批判ひはんてきになっていき、政権せいけん与党よとうない結束けっそくりょくみだれていった。こうしたなか関税かんぜい問題もんだいをめぐって政権せいけん与党よとうない分裂ぶんれつはじまった[154]だいボーア戦争せんそうは1902ねん5がつ講和こうわ条約じょうやくむすばれて正式せいしき終結しゅうけつしていたが、予想よそうがい長期ちょうきせん予想よそうがい膨大ぼうだい戦費せんぴをもたらし、1900ねん以降いこうイギリス財政ざいせい赤字あかじとなった。それをおぎなうために各種かくしゅ増税ぞうぜいおこなわれ、その一環いっかん穀物こくもつ関税かんぜいさい導入どうにゅう暫定ざんていてきかつ少額しょうがくでという条件じょうけん実施じっしされた[155]。チェンバレンはだいえい帝国ていこくうち帝国ていこく特恵とっけい関税かんぜい制度せいど導入どうにゅうする関税かんぜい改革かいかくおこなうべきと主張しゅちょうするようになった。これは帝国ていこくがいたいする関税かんぜい永続えいぞくさせよという保護ほご貿易ぼうえきろんであった[156][157]

チェンバレンの保護ほご貿易ぼうえきろんをめぐってイギリス世論せろん二分にぶんされた。まずしい庶民しょみんはパンの値段ねだんがることに反対はんたいし、保護ほご貿易ぼうえきには反対はんたいだった[158]金融きんゆう資本しほん資本しほん流動りゅうどうせいわるくなるとして保護ほご貿易ぼうえきには反対はんたい[159]綿めん工業こうぎょう資本しほん自由じゆう貿易ぼうえきによって利益りえきをあげていたので保護ほご貿易ぼうえきには反対はんたいだった[158][160]一方いっぽう工業こうぎょう資本しほん廉価れんかなドイツ工業こうぎょう製品せいひんおそれていた)や地主じぬし伝統でんとうてき保護ほご貿易ぼうえき主義しゅぎ)は保護ほご貿易ぼうえき歓迎かんげいし、チェンバレンを支持しじした[161][162]。この論争ろんそう政界せいかいにもおおきな影響えいきょうおよぼし、だいボーア戦争せんそう評価ひょうかをめぐってしょう英国えいこく主義しゅぎ自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎ分裂ぶんれつしていた野党やとう自由党じゆうとう自由じゆう貿易ぼうえき支持しじはんチェンバレンのもとに団結だんけつした。一方いっぽう政権せいけん与党よとう自由じゆう貿易ぼうえき保護ほご貿易ぼうえき分裂ぶんれつした[159][163]

チャーチルやヒュー・セシルきょうら「ヒューリガンズ」は自由じゆう貿易ぼうえき支持しじし、チェンバレン批判ひはんおこなった[163]自由じゆう貿易ぼうえき支持しじすることはちちランドルフきょうたましい継承けいしょうすることでもあったし[164]、またチャーチルの選挙せんきょであるオールダム選挙せんきょ主要しゅよう産業さんぎょうである木綿こわた産業さんぎょう満足まんぞくさせる効果こうかもあった[160]。1903ねん5がつ、チェンバレンが関税かんぜい改革かいかくあん明確めいかく提示ていじしてきたのをけてチャーチルはバルフォア首相しゅしょうたいして「首相しゅしょうがチェンバレン植民しょくみん地相ちそう保護ほご貿易ぼうえきろん明確めいかく否定ひていする声明せいめいされないのであれば、わたしとしてはとうえる必要ひつようてきます」という内容ないよう手紙てがみおくった[160]。さらに同年どうねん11がつにはチェンバレンの本拠ほんきょであるバーミンガムんで、チェンバレンの保護ほご貿易ぼうえきろん批判ひはんするという挑発ちょうはつ行動こうどうをとった[165]

自由党じゆうとう政治せいじとして[編集へんしゅう]

1904ねん自由党じゆうとう議員ぎいんチャーチル

チャーチルは自由じゆう貿易ぼうえき支持しじ明確めいかくにしない保守党ほしゅとう見限みかぎり、自由党じゆうとうへの移籍いせき希望きぼうするようになった。世論せろん自由党じゆうとう自由じゆう貿易ぼうえき支持しじ圧倒的あっとうてきであり、自由党じゆうとうとしては保守党ほしゅとうない自由じゆう貿易ぼうえきむす必要ひつようがほとんどなかったため移籍いせき容易よういではなかったが、1904ねん5がつにマンチェスター・ノース・ウェスト選挙せんきょからなら自由党じゆうとう候補こうほとしての出馬しゅつばみとめると自由党じゆうとうから打診だしんけた[166]。この選挙せんきょ保守党ほしゅとうつよく、自由党じゆうとうは1900ねん解散かいさんそう選挙せんきょさいにも対立たいりつ候補こうほてなかった選挙せんきょだったが、もと保守党ほしゅとう議員ぎいんのチャーチルなら当選とうせん見込みこみもあると自由党じゆうとう執行しっこうかんがえた[166]。こうしてチャーチルは自由党じゆうとううつった[167]。この移籍いせきについてかれは「ちちひど仕打しうちをした保守党ほしゅとうからはなれる機会きかいめぐまれて本当ほんとうにうれしい」とべている[164]

以降いこうチャーチルはバルフォア政権せいけん保守党ほしゅとうはげしい攻撃こうげきくわえるようになった[168]並行へいこうしてちちランドルフきょう伝記でんき執筆しっぴつ開始かいしした。ちちかんする資料しりょう徹底的てっていてきあつめ、もと首相しゅしょう自由党じゆうとう自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎ領袖りょうしゅうローズベリー伯爵はくしゃく敵対てきたいするもと植民しょくみん大臣だいじんチェンバレンからも協力きょうりょくしてもらった[169]。1905ねんまつ完成かんせいしたこの伝記でんきは、ランドルフきょう美化びかし、またチャーチル自身じしん我田引水がでんいんすいはかろうという意図いとえるが、ことさらバルフォア首相しゅしょうやチェンバレンを批判ひはんてきあつかうような露骨ろこつなことはしなかったので、好評こうひょう[170][171]

植民しょくみんしょう政務次官せいむじかんえいりょうみなみアフリカ[編集へんしゅう]

1905ねん12月、関税かんぜい問題もんだいかくない不一致ふいっちとなったバルフォアないかくそう辞職じしょくし、自由党じゆうとう党首とうしゅヘンリー・キャンベル=バナマン大命たいめい降下こうかがあり、自由党じゆうとう政権せいけん発足ほっそくした[164][170][172]。この内閣ないかくにチャーチルはみずか希望きぼうして植民しょくみんしょう政務次官せいむじかん英語えいごばんとして参加さんかした[164][173]

1906ねん解散かいさんそう選挙せんきょ

キャンベル=バナマンは少数しょうすう与党よとう政権せいけん状態じょうたいからだっするべく、1906ねん初頭しょとうにも解散かいさんそう選挙せんきょってた。この選挙せんきょでマンチェスター・ノース・ウェスト選挙せんきょから出馬しゅつばしたチャーチルは保守党ほしゅとう候補こうほからの「裏切うらぎもの」との批判ひはんたいして「わたし保守党ほしゅとうにいたとき、バカなことをたくさんいました。そしてこれ以上いじょうバカなことをいたくなかったので自由党じゆうとううつったのです」と反論はんろんしてわらいをとったり自由じゆう貿易ぼうえき支持しじうったえて支持しじひろげて当選とうせんした[174][171]

このそう選挙せんきょ全国ぜんこくてき自由党じゆうとう圧勝あっしょうわった選挙せんきょであり、改選かいせんまえに401議席ぎせきをもっていた保守党ほしゅとう自由じゆう統一とういつとうは157議席ぎせき激減げきげんした。自由党じゆうとう一気いっきに377議席ぎせき獲得かくとくし、自由党じゆうとうともとうアイルランド国民党こくみんとうも83議席ぎせき獲得かくとくした[175]自由党じゆうとうとしては1886ねん以来いらい安定あんてい政権せいけんつくることが可能かのうとなった選挙せんきょであった[176]最大さいだい勝因しょういん自由党じゆうとう候補こうほたちの自由じゆう貿易ぼうえき支持しじ主張しゅちょうである。前述ぜんじゅつしたように、庶民しょみん食品しょくひん値段ねだんがる保護ほご貿易ぼうえきには断固だんこ反対はんたいだった。チャーチルも「この選挙せんきょははじめから自由党じゆうとう有利ゆうりだった」と分析ぶんせきしている[177]

植民しょくみんしょう政務次官せいむじかんとなったチャーチルは、まず全土ぜんどがイギリスりょうとなったみなみアフリカの問題もんだいにあたった。ぜん保守党ほしゅとう政権せいけんボーアじん強圧きょうあつてき支配しはいこうとしたが、チャーチルはボーアじんとイギリスじん協力きょうりょくして自治じち政府せいふ樹立じゅりつ目指めざ英語えいごオランダ併用へいよう、またボーアじん・イギリスじんわず100ポンド以上いじょう財産ざいさん成年せいねん男子だんし選挙せんきょけんみとめた一方いっぽう先住民せんじゅうみん黒人こくじん無視むしされ人種じんしゅ隔離かくり政策せいさく推進すいしんされた[178]

中国人ちゅうごくじん移民いみん労働ろうどうしゃ問題もんだい

また、みなみアフリカでは1904ねん2がつから1906ねん11がつまでのあいだに6まん3000にんもの中国人ちゅうごくじん移民いみん労働ろうどうしゃきよしからみなみアフリカに鉱山こうざん労働ろうどうしゃとして輸送ゆそうされてきていたが[179]、これはイギリスが禁止きんししている「奴隷どれい貿易ぼうえき」に該当がいとうするのではという問題もんだいがあった。1906ねんそう選挙せんきょでも争点そうてんになって、自由党じゆうとう候補こうほ一部いちぶ中国人ちゅうごくじん奴隷どれい虐待ぎゃくたいされている姿すがたえがいたポスターを使用しようしていた[180]。チャーチルは、はじめ「中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃたちは自発じはつてき雇用こよう契約けいやくみなみアフリカの鉱山こうざんはたらいている。極端きょくたん解釈かいしゃくしたとしても奴隷どれいには分類ぶんるいできない。」と答弁とうべんしていた[181][注釈ちゅうしゃく 6]。またケープ植民しょくみん総督そうとくアルフレッド・ミルナー中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃたいするむちちを許可きょかしたことが判明はんめい批判ひはん動議どうぎ提出ていしゅつされチャーチルは自由党じゆうとう議員ぎいん結束けっそくさせ否決ひけつ成功せいこうしたが、批判ひはんねつおさまらず、さらにつめまれた中国人ちゅうごくじんたちが同性愛どうせいあいをしている可能かのうせいについて疑惑ぎわくされ、紛糾ふんきゅうした[181]。チャーチルは「中国人ちゅうごくじんかおだけで稚児ちご(カタマイト)かどうか見分みわけるのはむずかしい」と答弁とうべんしたが、この「稚児ちご」という言葉ことば議会ぎかいでは議事ぎじろくべつ単語たんご記入きにゅうされたり、貴婦人きふじん退席たいせきするなど異常いじょう反応はんのうをとった[181]結局けっきょく植民しょくみんしょうは1906ねん11月に中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃ輸入ゆにゅう停止ていしさせた[183]。その、この問題もんだい処理しょりは1907ねんより設置せっちされたトランスヴァール植民しょくみん自治じち政府せいふゆだねられることになり、どう政府せいふ決定けってい中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃ新規しんき移民いみん禁止きんしされ、移民いみんみとめられなかったもの契約けいやく期間きかん満了まんりょう次第しだいきよし強制きょうせい送還そうかんされた[184]

えいりょうひがしアフリカ視察しさつ旅行りょこう
1907ねんえいりょうひがしアフリカ即席そくせき観測かんそくだいあたりを見回みまわすチャーチル

1907ねんにチャーチルは植民しょくみん大臣だいじんエルギン伯爵はくしゃく許可きょかイギリスりょうひがしアフリカ視察しさつ旅行りょこうて、マルタとうキプロスとうスエズ運河うんが通過つうかして10がつモンバサ到着とうちゃくし、ナイロビからウガンダはいり、ヴィクトリアアルバートつな鉄道てつどう建設けんせつ予定よていとおった[185][186]当時とうじひがしアフリカは完全かんぜんにイギリスの支配しはいにあり、現地げんちのイギリスじんたちは現地げんちみんたいして絶対ぜったいてき支配しはいしゃとしてふるまっていた。それをたチャーチルはそうした統治とうちでも平和へいわたもつことができるイギリスの支配しはい偉大いだいさをさい確認かくにんしたという[187]当時とうじ11さいブガンダおうダウディ・チュワ2せい引見いんけんけ、チャーチルはその気品きひん気後きおくれして「イエス」「ノー」しかこたえられなかったという。おうはチャーチルに「せんおどり」を披露ひろうしてくれた。先住民せんじゅうみんたちはチャーチルを紳士しんしてき歓迎かんげいし、チャーチルのほうもアフリカじんったようだった[188]

チャーチルはアフリカの風景ふうけいうつくしさに魅了みりょうされ、『ストランド・マガジン』に寄稿きこうした『アフリカ旅行りょこう』のなかでも風景ふうけいをよく描写びょうしゃしている[189]狩猟しゅりょうたのしみ、サイイボイノシシ仕留しとめた。ライオンねらったが、成功せいこうしなかったという[187]。また鉄道てつどう完成かんせいすればウガンダはランカシャー綿めん産業さんぎょう原料げんりょう供給きょうきゅうとなるが、開発かいはつすすむとともに白人はくじんやインドじん黒人こくじんとのあいだ摩擦まさつえるという懸念けねんいている[190]

アスキスないかく商務しょうむ大臣だいじん[編集へんしゅう]

1908ねん1がつにイギリスに帰国きこくした[191]。このとしの4がつにキャンベル=バナマン首相しゅしょう退任たいにんし、大蔵おおくら大臣だいじんハーバート・ヘンリー・アスキス大命たいめい降下こうかがあり、アスキスないかく成立せいりつした[192]

この内閣ないかくにおいてチャーチルは通商つうしょう大臣だいじんとして入閣にゅうかくした。これは通商つうしょう大臣だいじんロイド・ジョージがアスキスの首相しゅしょう就任しゅうにんいた大蔵おおくら大臣だいじん就任しゅうにんしたことによる玉突たまつ人事じんじだった[193][194]

補欠ほけつ選挙せんきょ社会しゃかい主義しゅぎへの敵意てきい[編集へんしゅう]

当時とうじのイギリスには入閣にゅうかくするさい議員ぎいん辞職じしょくしてさい選挙せんきょしなければならないという法律ほうりつがあったため[注釈ちゅうしゃく 7]、チャーチルも議員ぎいん辞職じしょくし、それにともなうマンチェスター・ノース・ウェスト選挙せんきょ補欠ほけつ選挙せんきょ出馬しゅつばした。前回ぜんかいそう選挙せんきょことなり、今回こんかい自由党じゆうとうふういておらず、しかも元来がんらい保守党ほしゅとうつよ選挙せんきょであるから、チャーチルはくるしい選挙せんきょせんいられた。保守党ほしゅとうも「裏切うらぎもの」チャーチルをとすために全力ぜんりょくをあげた結果けっか、チャーチルは僅差きんさ落選らくせんした[196][197]

しかしチャーチルは知名度ちめいどたかかったのでかれ出馬しゅつば要請ようせいする選挙せんきょほかにもあった。スコットランドダンディー選挙せんきょまえしょく議員ぎいん叙爵じょしゃく貴族きぞくいんり)にともな補欠ほけつ選挙せんきょおこなわれることになり、どう選挙せんきょ自由党じゆうとう組織そしきから出馬しゅつば要請ようせいされたチャーチルはこれを承諾しょうだくした。この補欠ほけつ選挙せんきょにはチャーチルのほか保守党ほしゅとう候補こうほ労働党ろうどうとう候補こうほ禁酒きんしゅ主義しゅぎしゃエドウィン・スクリムジャー英語えいごばんの3候補こうほ出馬しゅつばしていた[198]

ダンディー選挙せんきょは2議席ぎせき選出せんしゅつするだい選挙せんきょだった。前回ぜんかいそう選挙せんきょでは自由党じゆうとう労働党ろうどうとう議席ぎせきったため、この選挙せんきょ自由じゆう党員とういんには労働党ろうどうとうのせいで1議席ぎせきしかれなかったとうらものおおく、チャーチルも自由党じゆうとうひょうかためるため労働党ろうどうとう批判ひはん中心ちゅうしんてきった[198]。その結果けっか、チャーチルはこの選挙せんきょはじめて社会しゃかい主義しゅぎへの本格ほんかくてき敵意てきいあらわにし、「社会しゃかい主義しゅぎ裕福ゆうふくものきずりとす。自由じゆう主義しゅぎ貧困ひんこんしゃげる。」「社会しゃかい主義しゅぎ資本しほん攻撃こうげきする。自由じゆう主義しゅぎ独占どくせん攻撃こうげきする」「社会しゃかい主義しゅぎ支配しはいたかめる。自由じゆう主義しゅぎひとたかめる」といった対比たいひがた社会しゃかい主義しゅぎ攻撃こうげき展開てんかいした。この演説えんぜつこうそうし、チャーチルは大勝たいしょうした[199]

結婚けっこん[編集へんしゅう]
1908ねんのチャーチルとクレメンティーン

1908ねん9がつ、33さいときクレメンティーン・ホージアー結婚けっこんした[200][201]彼女かのじょ礼儀れいぎ作法さほうはしっかりしていたが、財産ざいさんとくになく、フランス語ふらんすご家庭かてい教師きょうしをして生計せいけいてている女性じょせいだった。父親ちちおやはサー・ヘンリー・ホージアー(Sir Henry Montague Hozier)という軍人ぐんじんであり、母親ははおやデイヴィッド・オギルヴィ (だい10代エアリー伯爵はくしゃく)むすめであった[202]

二人ふたりは1908ねん3がつ晩餐ばんさんかいい、チャーチルのほう最初さいしょ彼女かのじょかれたという。チャーチルは彼女かのじょ自分じぶん著作ちょさく『ランドルフ・チャーチルきょう』をんだかいてみたが、んでいないようだったのでほんおくると約束やくそくしたが、チャーチルはほんおくわすれた。しかし後日ごじつ再会さいかいしたときにクレメンティーンもチャーチルにかれるようになっていた[203][202]。8月に従兄弟いとこマールバラこうのブレナムみや彼女かのじょまねいたさいにチャーチルのほうからプロポーズし、れられた[201][202]結婚式けっこんしきウェストミンスターだい寺院じいんおこなわれた[202]

社会しゃかい政策せいさく外交がいこう[編集へんしゅう]
ドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せいとチャーチル(1909ねん、ドイツ陸軍りくぐん演習えんしゅう視察しさつ

チャーチルが商務しょうむ大臣だいじんとなったころのイギリスの経済けいざい状況じょうきょうわるかった。1907ねん後半こうはんからきょうせ、1907ねんに3.7%だった失業しつぎょうりつは、よく1908ねんには7.8%にがっていた[204]労働党ろうどうとうの「労働ろうどうけん確立かくりつ」をうったえる運動うんどうがり[205]他方たほう保守党ほしゅとう関税かんぜい改革かいかくも「関税かんぜい国民こくみん仕事しごとまもる」とさい攻勢こうせいをかけた[204]自由党じゆうとうとしては中産ちゅうさん階級かいきゅう支持しじうしなわずに労働ろうどうしゃ階級かいきゅう支持しじ拡大かくだいさせてなおしをはかりたいところであり、それが本来ほんらい自由じゆう放任ほうにん主義しゅぎ立場たちばである自由党じゆうとう社会しゃかい政策せいさく実施じっしする背景はいけいとなった[206]。チャーチル自身じしんも1906ねんそう選挙せんきょ遊説ゆうぜいさいスラムがいて、社会しゃかい政策せいさく必要ひつようせい痛感つうかんした[207]

アスキスないかくによって実施じっしされた社会しゃかい政策せいさくには「老齢ろうれい年金ねんきんほう」や「国民こくみん保険ほけんほう」(健康けんこう保険ほけん失業しつぎょう保険ほけん)、「すみ鉱夫こうふ8あいだ労働ろうどうせい」、「職業しょくぎょう紹介しょうかいしょ」などがある[208]。このうちチャーチルが商務しょうむ大臣だいじんとして主導しゅどうしたのが「職業しょくぎょう紹介しょうかいしょ」と「失業しつぎょう保険ほけん制度せいど」である[209][210]

デイリー・テレグラフはチャーチルを支持しじしていたが、1908ねん10がつ、ドイツ皇帝こうてい不用意ふようい発言はつげんほうじられるデイリー・テレグラフ事件じけん発生はっせいし、ヴィルヘルム2せいえいどく外交がいこうから排除はいじょされるかたちになった。

チャーチルは1909ねんあきドイツ訪問ほうもん陸軍りくぐん演習えんしゅう職業しょくぎょう紹介しょうかいしょ視察しさつした。当時とうじドイツも失業しつぎょうしゃかかえていたが、労働ろうどうしゃおおくが失業しつぎょう保険ほけんはいっていることに感心かんしんしたチャーチルはウィリアム・ベヴァリッジとともに職業しょくぎょう紹介しょうかいしょ設置せっちほう成立せいりつさせ、これまで地方ちほう公共こうきょう団体だんたい設置せっち運営うんえいしていた職業しょくぎょう紹介しょうかいしょ中央ちゅうおう政府せいふ直接ちょくせつ設置せっち運営うんえいすることで全国ぜんこく大幅おおはばやすことが可能かのうとなった[211][212][208]。この法律ほうりつ国民こくみんから歓迎かんげいされ、チャーチルはいたるところで「親愛しんあいなるチャーチル(Good Old Churcill)」の歓声かんせいけた[213]。しかし職業しょくぎょう紹介しょうかいしょ設置せっち労働ろうどう市場いちばすすめ、資本しほんが「最適さいてき労働ろうどうしゃ」をつけやすくなるため[213][214]労働ろうどう組合くみあいも「労働ろうどう組合くみあい規定きていさだめる賃金ちんぎん以下いか労働ろうどうしゃがかきあつめられる危険きけんせいがある」と反対はんたいし、労働党ろうどうとうも「失業しつぎょう保険ほけん制度せいどもない、失業しつぎょう対策たいさく事業じぎょうもしない、労働ろうどうしゃさい教育きょういくもしない、ただ職業しょくぎょう紹介しょうかいしょくだけというこの法律ほうりつでは、労働ろうどうけん確立かくりつしたなどとは到底とうていえない」と批判ひはんした[212]

チャーチルは1909ねん労働党ろうどうとう議員ぎいん要請ようせいれて、失業しつぎょう保険ほけん法案ほうあん(Unemployment insurance bill)を議会ぎかい提出ていしゅつするも、この法案ほうあん貴族きぞくいん廃案はいあんにされた[215]。その結果けっか労働党ろうどうとうの「労働ろうどうけん確立かくりつもとめる運動うんどうつよまっていった[216]

ドイツとのけんかん競争きょうそう[編集へんしゅう]
アスキスないかくだい急進きゅうしん閣僚かくりょうロイド・ジョージひだり)とチャーチル(みぎ

イギリスの国際こくさいてき地位ちい1870年代ねんだい以降いこう後発こうはつ資本しほん主義しゅぎこく発展はってんされて低下ていか一途いっとをたどっていた。後発こうはつ資本しほん主義しゅぎこくなかでもとりわけドイツがイギリスに急追きゅうついしていた。ドイツ資本しほん主義しゅぎ急速きゅうそく発展はってん背景はいけいにして、ドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せい1890年代ねんだい後半こうはんから「世界せかい政策せいさく(Weltpolitik)」をかかげて海軍かいぐんりょく増強ぞうきょうして帝国ていこく主義しゅぎ外交がいこうし、世界中せかいじゅうでイギリス資本しほん主義しゅぎおびやかすようになった[217]。これに対抗たいこうしたイギリスの海軍かいぐん増強ぞうきょう保守党ほしゅとう政権せいけん時代じだい開始かいしされたが、キャンベル=バナマンないかく保守党ほしゅとう海軍かいぐん増強ぞうきょう計画けいかく若干じゃっかん縮小しゅくしょうし、海軍かいぐんしょう増強ぞうきょう大型おおがた軍艦ぐんかん3かんけんかん)を目指めざした[218]1908ねん2がつドイツ帝国ていこく議会ぎかい海軍かいぐんほう修正しゅうせいほう可決かけつし、ドイツ海軍かいぐん毎年まいとしいしゆみきゅう戦艦せんかんを3かん巡洋艦じゅんようかんを1かんずつけんかんしていき、1917ねんまでにいしゆみきゅう戦艦せんかん大型おおがた巡洋艦じゅんようかんわせて58かん保有ほゆう目指めざした[219]。これをけてイギリスでも野党やとう保守党ほしゅとうやイギリス海軍かいぐん軍部ぐんぶ中心ちゅうしん海軍かいぐん増強ぞうきょうさけばれるようになった[220]

アスキスないかく発足ほっそく自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎ急進きゅうしん閣僚かくりょうあいだ海軍かいぐん増強ぞうきょう論争ろんそうこった[221]海軍かいぐん大臣だいじんレジナルド・マッケナや外務がいむ大臣だいじんエドワード・グレイ自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎ閣僚かくりょう最低さいていでもいしゆみきゅう戦艦せんかん4かん情勢じょうせい次第しだいでは最大さいだい6かんけんかん主張しゅちょうした。これにたいして大蔵おおくら大臣だいじんロイド・ジョージや通商つうしょう大臣だいじんチャーチルら急進きゅうしん閣僚かくりょう海軍かいぐん増強ぞうきょうより社会しゃかい保障ほしょう財源ざいげん確保かくほ優先ゆうせんさせるべきと主張しゅちょうした[220]。チャーチルは1908ねん8がつ15にちスウォンジでの演説えんぜつで「ドイツにはたたか理由りゆうも、たたかって利益りえきも、たたか場所ばしょもない」としてドイツ脅威きょういろん一蹴いっしゅうしている[222]。ウィンザーじょう管理かんり長官ちょうかん代理だいりであるだい2だいイーシャー子爵ししゃくレジナルド・ブレット英語えいごばんは「チャーチルは信念しんねん主義しゅぎ海軍かいぐん増強ぞうきょう反対はんたいしているわけではなく、自由党じゆうとう急進きゅうしん自分じぶん指導しどうしようという野心やしんから反対はんたいしている」と分析ぶんせきした[223]

しかしグレイ外相がいしょうが「海軍かいぐん増強ぞうきょうれられないなら辞職じしょくする」と脅迫きょうはくし、また1908ねん訪独ほうどくしたロイド・ジョージがドイツ脅威きょういろんをある程度ていどみとめるようになったことでロイド・ジョージとチャーチルは1909ねんと1910ねんの2年間ねんかんに4かんいしゆみきゅう戦艦せんかんけんかんみとめるにいたり、これによりかくない対立たいりつ一時いちじ収束しゅうそくした[222]

しかし1909ねん1がつから2がつ閣議かくぎでマッケナ海軍かいぐん大臣だいじん自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎ閣僚かくりょうが6かんけんかん要求ようきゅうし、4かんけんかんめようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進きゅうしん閣僚かくりょうふたた対立たいりつふかめ、海軍かいぐん増強ぞうきょう論争ろんそう再燃さいねんした[224]。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4せき以上いじょういしゆみきゅう戦艦せんかんけんかんするつもりなら、辞職じしょくする」とアスキス首相しゅしょう脅迫きょうはくした[225]結局けっきょくアスキス首相しゅしょうは1909ねん2がつ24にち閣議かくぎ折衷せっちゅうあんをとり、1909ねん財政ざいせい年度ねんどにまず4かん情勢じょうせい次第しだい1910ねんにはさらに4かんいしゆみきゅう戦艦せんかんけんかんするとした。これにより自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎ急進きゅうしん双方そうほう一定いってい満足まんぞくあたえ、このときかくない対立たいりつ収束しゅうそくさせることができた[226]

人民じんみん予算よさん」をめぐって[編集へんしゅう]

大蔵おおくら大臣だいじんロイド・ジョージは1909ねん4がつに「人民じんみん予算よさん英語えいごばん」を議会ぎかい提出ていしゅつした。この予算よさんはドイツとのけんかん競争きょうそう社会しゃかい保障ほしょうによって財政ざいせい支出ししゅつ膨大ぼうだいになったため、財政ざいせい均衡きんこうはかるために提出ていしゅつされたものだった[227]。「人民じんみん予算よさん」の増税ぞうぜいあん所得しょとくぜいりつげ、相続そうぞくぜいげと累進るいしん課税かぜいせい強化きょうか、そして土地とち課税かぜい制度せいど導入どうにゅうなど富裕ふゆうそうから税金ぜいきんてるものだった[228][229]。しかし野党やとう保守党ほしゅとうは「富裕ふゆうそうからるのではなく、関税かんぜい改革かいかくによって歳入さいにゅう増加ぞうかはかるべき」と主張しゅちょうして人民じんみん予算よさん反対はんたいした[230]

この論争ろんそうでイギリス社会しゃかい二分にぶんされた。チャーチルは「人民じんみん予算よさん」を支持しじするものたちを糾合きゅうごうして「予算よさん賛成さんせい同盟どうめい(Budget League)」を結成けっせいした。一方いっぽう保守党ほしゅとうのウォルター・ロングらはこれに対抗たいこうして「予算よさん反対はんたい同盟どうめい」を結成けっせいした。世論せろん支持しじはチャーチルの「予算よさん賛成さんせい同盟どうめい」にあった[228][231]。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟いとこのマールバラこうから圧力あつりょくけており、「人民じんみん予算よさん」にいまいち熱心ねっしんではなかったという[232]

人民じんみん予算よさん」は1909ねん11月4にち庶民しょみんいん通過つうかしたが、保守党ほしゅとう地主じぬし貴族きぞく牛耳ぎゅうじ貴族きぞくいんから「土地とち国有こくゆうねら社会しゃかい主義しゅぎ予算よさん」として徹底てってい批判ひはんけ、11月30にち圧倒的あっとうてき大差たいさ否決ひけつされた。これをけてアスキス首相しゅしょう議会ぎかい解散かいさんした[233][234]

1910ねん1がつおこなわれた解散かいさんそう選挙せんきょでチャーチルはふたたびスコットランドのダンディー選挙せんきょから出馬しゅつばしたが、スコットランドでは地主じぬし貴族きぞく保守党ほしゅとうたいする反発はんぱつつよかったので当選とうせん安泰あんたいだった。そのため選挙せんきょ戦中せんちゅう、チャーチルは自分じぶん選挙せんきょよりも選挙せんきょ自由党じゆうとう候補こうほ応援おうえん演説えんぜつまわった[235]全国ぜんこくてきには自由党じゆうとう苦戦くせんいられ、選挙せんきょ結果けっかは、自由党じゆうとう275議席ぎせき保守党ほしゅとう273議席ぎせき、アイルランド国民党こくみんとう82議席ぎせき労働党ろうどうとう40議席ぎせきとなった。前回ぜんかい自由党じゆうとうは104議席ぎせきうしなった[236]人民じんみん予算よさんについては自由党じゆうとう支持しじするが、海軍かいぐん増強ぞうきょう問題もんだいではだい増強ぞうきょううったえる保守党ほしゅとう支持しじするというものおおかったのが原因げんいんだった[237]。この選挙せんきょ自由党じゆうとう過半数かはんすううしない、以降いこうアイルランド国民党こくみんとう労働党ろうどうとう閣外かくがい協力きょうりょく政権せいけん維持いじすることとなった[235]。このりょうとう支持しじて「人民じんみん予算よさん」は可決かけつ成立せいりつした[238]

アスキスないかく内務ないむ大臣だいじん[編集へんしゅう]

内務ないむ大臣だいじんチャーチルの戯画ぎが(1911ねん3がつ8にちの『バニティ・フェア

この選挙せんきょ、チャーチルは重要じゅうよう閣僚かくりょうしょくである内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんした。35さいでの内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんであり、これは歴代れきだい内務ないむ大臣だいじんだい2わかさである(1サー・ロバート・ピールじゅん男爵だんしゃくの33さい[235]

議会ぎかいほう[編集へんしゅう]

キャスティング・ボートをにぎアイルランド国民党こくみんとうはアイルランド自治じち法案ほうあん成立せいりつさまたげになっている貴族きぞくいん拒否きょひけん縮小しゅくしょうする貴族きぞくいん改革かいかく主張しゅちょう[239]労働党ろうどうとう党首とうしゅケア・ハーディはさらに貴族きぞくいん廃止はいし主張しゅちょうした[240]自由党じゆうとう政権せいけん維持いじのため貴族きぞくいん改革かいかくさねばならなくなった。1910ねん4がつ14にちに「議会ぎかい法案ほうあん」を議会ぎかい提出ていしゅつした。これは財政ざいせい法案ほうあんかんする貴族きぞくいん拒否きょひけん廃止はいしし、また財政ざいせい法案ほうあん以外いがい法案ほうあんについても貴族きぞくいん反対はんたいしても庶民しょみんいんが3かい可決かけつさせた場合ばあい法律ほうりつとなるという内容ないようだった[241]。チャーチルは庶民しょみんいんにおけるこの法案ほうあん審議しんぎまかされた[242]審議しんぎ最中さいちゅうの5がつ6にち国王こくおうエドワード7せい崩御ほうぎょし、ジョージ5せいしん国王こくおう即位そくいした。政界せいかいに「しんおうをいきなり政治せいじてき危機ききさらしてはいけない」という空気くうきひろまり、自由党じゆうとう保守党ほしゅとう双方そうほうはないのもうけられた(「憲法けんぽう会議かいぎ(Constitutional conference)」)[243][244]

このとき融和ゆうわムードを利用りようしてロイド・ジョージは自由党じゆうとう保守党ほしゅとうなかの「極端きょくたん分子ぶんし」を排除はいじょしてだい連立れんりつ政権せいけんつくることさえ計画けいかくし、バルフォアら保守党ほしゅとう幹部かんぶ折衝せっしょうはかった[245]。チャーチルもこの計画けいかくであり[246]保守党ほしゅとうないいの議員ぎいん折衝せっしょうはかったが、保守党ほしゅとうのチャーチルへの嫌悪けんおかんつよく、ロイド・ジョージのだい連立れんりつ構想こうそうにとってチャーチルは邪魔じゃまな「極端きょくたん分子ぶんし」に該当がいとうしたようである[242]

結局けっきょくだい連立れんりつ構想こうそうも「憲法けんぽう会議かいぎ」も決裂けつれつし、首相しゅしょうアスキスは国王こくおうから「貴族きぞくいん改革かいかく解散かいさんそう選挙せんきょ勝利しょうりしたならば国王こくおう大権たいけん貴族きぞくいん改革かいかく賛成さんせいするしん貴族きぞくいん議員ぎいん任命にんめいする」との確約かくやくたのち、1910ねん11月16にち議会ぎかい解散かいさんした[243][247]。こうしてこのとし度目どめそう選挙せんきょおこなわれ、自由党じゆうとう貴族きぞくいん改革かいかく保守党ほしゅとう関税かんぜい改革かいかく争点そうてんにして選挙せんきょせんたたかった[248]。チャーチルは前回ぜんかい選挙せんきょ同様どうよう自分じぶん選挙せんきょより選挙せんきょ自由党じゆうとう候補こうほ応援おうえんまわり、貴族きぞく特権とっけんをはくだつすべきことや、生活せいかつ上昇じょうしょうをもたらす保守党ほしゅとう関税かんぜい改革かいかく批判ひはんする演説えんぜつおこなった[249]そう選挙せんきょ結果けっか前回ぜんかいとほとんどわらず、自由党じゆうとう272議席ぎせき保守党ほしゅとう自由じゆう統一とういつとう272議席ぎせき、アイルランド国民党こくみんとう84議席ぎせき労働党ろうどうとう42議席ぎせきをそれぞれ獲得かくとくした[250]。しかし自由党じゆうとうとアイルランド国民党こくみんとうをあわせれば過半数かはんすうたことから、アスキス首相しゅしょう議会ぎかい法案ほうあん再度さいど提出ていしゅつしん貴族きぞくいん議員ぎいん任命にんめいをちらつかせて貴族きぞくいんをけんせいし、1911ねん8がつ10日とおか議会ぎかいほう成立せいりつし、庶民しょみんいん優越ゆうえつ確立かくりつした[251][252]。チャーチルは国王こくおうへの報告ほうこくしょなかで「長期ちょうきおよんだ不安ふあん憲法けんぽう危機きき終結しゅうけつした」と報告ほうこくしている[253]

失業しつぎょう保険ほけん制度せいど構築こうちく

この議会ぎかいほう制定せいていにより蔵相ぞうしょうロイド・ジョージは国民こくみん保険ほけんほう制定せいていさせることができた[254]。この法律ほうりつだい1だい2かれており、だい1賃金ちんぎん労働ろうどうしゃのほとんどを加入かにゅう対象たいしょうとする健康けんこう保険ほけん制度せいどだい2建設けんせつ造船ぞうせん関係かんけい業種ぎょうしゅ労働ろうどうしゃ対象たいしょうとした失業しつぎょう保険ほけん制度せいどさだめたものであり、廃案はいあんになったさきのチャーチルの失業しつぎょう保険ほけんほうさい導入どうにゅうしたものだった[254][255]失業しつぎょう保険ほけん一部いちぶ職種しょくしゅ労働ろうどうしゃ限定げんていされているが、これは実験じっけんてき導入どうにゅうであるためであり、成功せいこうした場合ばあいには業種ぎょうしゅ労働ろうどうしゃにも拡大かくだいさせるとしていた[255]

チャーチルは商務しょうむ大臣だいじんだったころからつづいて失業しつぎょう保険ほけん問題もんだい担当たんとうし、どうほうだい2具体ぐたいてき制度せいど構築こうちくにあたった[240][210]。ロイド・ジョージが主導しゅどうする健康けんこう保険ほけんほう既存きそん民間みんかん保険ほけん団体だんたい医療いりょう関係かんけいしゃ既得きとくけんとぶつかりい、だいめになったが、チャーチルの主導しゅどうする失業しつぎょう保険ほけんほうはほとんど抵抗ていこうけなかったという。資本しほん自分じぶんたちが必要ひつようとしない労働ろうどうしゃ失業しつぎょう保険ほけん面倒めんどうてくれるということで基本きほんてき歓迎かんげいし、労働ろうどう組合くみあい失業しつぎょうした組合くみあいいんてあましていたため、反対はんたいこえちいさかったのである[256]

暴動ぼうどう鎮圧ちんあつ[編集へんしゅう]
シドニーがいたたか英語えいごばん直接ちょくせつ指揮しき内務ないむ大臣だいじんチャーチル(まるかおかこってある人物じんぶつ

1910ねん11月16にちロンドンイースト・エンドハウンズディッチの宝石ほうせきてん警官けいかんさんめい殺害さつがいともなった強盗ごうとう事件じけん発生はっせいした[257]。チャーチルは殉職じゅんしょくした警察官けいさつかんたちの国葬こくそうおこなった。捜査そうさすすめると、ロシアから亡命ぼうめいしてきたレットじんはん帝政ていせい革命かくめいグループの犯行はんこうである可能かのうせい濃厚のうこうとなった。1911ねん1がつ、グループのかくがシドニーがいにあることが判明はんめいし、警察けいさつもうとしたが、じゅう応戦おうせんされ、シドニーがいたたかいとばれる銃撃じゅうげきせん勃発ぼっぱつ[258]、チャーチルは現場げんば警官けいかんたい直接ちょくせつ指揮しきった[259][260][注釈ちゅうしゃく 8]。やがてそのいえからがると、チャーチルは消火しょうかしようとする消防しょうぼうたいしとどめて、そのいえきるまで待機たいきつづけた。いえちたのち警察けいさつがそのあと調しらべたが、犯人はんにん焼死体しょうしたいは2たいしかず、ものがどうなったかは不明ふめいだった[261]。この事件じけんによりチャーチルの脳裏のうりには社会しゃかい主義しゅぎへの恐怖きょうふきついたという[262]社会しゃかい政策せいさくみ、軍拡ぐんかく反対はんたいしたチャーチルの急進きゅうしんせいもこのころからよわまっていくことになる[263]

1910ねん、チャーチル内務ないむ大臣だいじん命令めいれいトニパンディの暴動ぼうどう英語えいごばん鎮圧ちんあつすべく出動しゅつどうした警察官けいさつかんたちがみち閉鎖へいさしている。

1910ねん11月8にちみなみウェールズロンダ渓谷けいこく炭鉱たんこう労働ろうどうしゃたちがトニパンディの暴動ぼうどう英語えいごばんこした。チャーチルは、戦争せんそう大臣だいじんリチャード・ホールデンをつうじてネヴィル・マックレディ将軍しょうぐんひきいる軍隊ぐんたい警察けいさつ部隊ぶたい派遣はけんし、すみ鉱夫こうふ労働ろうどう組合くみあい指導しどうしゃたいして「軍事ぐんじりょく行使こうしすることも躊躇ちゅうちょしない」と恫喝どうかつした[264][265][266]。この軍事ぐんじてき恫喝どうかつのおかげですみ鉱夫こうふ2にん殺害さつがいだけでスト鎮圧ちんあつ成功せいこうした[265]。チャーチルは個人こじんてきにはすみ鉱夫こうふたちに同情どうじょうしていたが、内務ないむ大臣だいじんとして法令ほうれい遵守じゅんしゅだいいちとし、また挑戦ちょうせんければ退却たいきゃくしない性格せいかくあいまって決断けつだんくだした[259][265]。それでも鎮圧ちんあつぐん派遣はけんするにあたっては軍隊ぐんたいたいし、「ぐん炭鉱たんこう経営けいえいしゃたちの個人こじんてき使用人しようにんではない」ことや「労働ろうどう争議そうぎ介入かいにゅうしたり、ストやぶ役割やくわりたしてはならない」ことを訓令くんれいした[266]。この事件じけん以降いこうチャーチルは労働ろうどうしゃはげしい憎悪ぞうお対象たいしょうとなり、「トニパンディをわすれるな」は労働ろうどう運動うんどう合言葉あいことばになった[264]労働党ろうどうとうもチャーチルやロイド=ジョージら「自由党じゆうとう急進きゅうしん」への不信ふしんたかめた[267]

国民こくみん保険ほけんほうはこうした労働ろうどうしゃ不満ふまんおさえるためのものであったが、それもむなしく、1911ねん6がつにはイギリスかくみなと海運かいうん労働ろうどうしゃだい規模きぼストライキが勃発ぼっぱつし、かくみなと海運かいうん機能きのう麻痺まひし、革命かくめい前夜ぜんや空気くうきさえただよった。一時いちじ下火したびになるも8がつには鉄道てつどう労働ろうどうしゃ海運かいうん労働ろうどうしゃ連携れんけいしたストライキをこした[268]どう時期じきの1911ねん7がつにフランスが植民しょくみんすすめているモロッコアガディールみなとにドイツ軍艦ぐんかん派遣はけんされるというだいモロッコ事件じけん勃発ぼっぱつし、どくふつ戦争せんそう危機きき発生はっせいした。アスキスないかくエドワード・グレイ外相がいしょうはドイツがこのみなと獲得かくとくしたら英国えいこく本国ほんごくえいりょうみなみアフリカや南米なんべいとの通商つうしょう海路かいろ危険きけんさらされるとしてドイツの行動こうどう断固だんこ反対はんたい立場たちばをとった。アスキス首相しゅしょうはこの事件じけんたいどく戦争せんそう準備じゅんびいそがせた[269]戦争せんそう準備じゅんび決定けっていされたなかでのだいストライキであり、政府せいふとしては緊急きんきゅう処理しょりしなければならなかった[270]

チャーチルは弾圧だんあつ路線ろせん変更へんこうするつもりはなく、あちこちに軍隊ぐんたい派遣はけんしてはストライキ弾圧だんあつおこなった。労働ろうどうしゃたちは軍隊ぐんたい派遣はけんつよ反発はんぱつし、むしろ軍隊ぐんたい派遣はけんされた場所ばしょ積極せっきょくてき暴動ぼうどうストライキが発生はっせいした。ロンドン、リヴァプール、ラネリーでは軍隊ぐんたい発砲はっぽう多数たすう労働ろうどうしゃ死傷ししょうする事態じたいとなった[271]。ここにいたってチャーチルも自分じぶん弾圧だんあつ路線ろせんあやまりであったことをみとめざるをえなくなった。ルーシー・マスターマンはこのころのチャーチルについて「ちのめされたようだった」とかたっている[272]結局けっきょくこのストライキはロイド・ジョージが経営けいえいしゃまわってドイツとの戦争せんそう不可避ふかひかつ間近まぢかであると説得せっとくし、労働ろうどうしゃたいして融和ゆうわてき態度たいどらせたことで収束しゅうそくかった[272]労働党ろうどうとう議員ぎいんラムゼイ・マクドナルドは「この危機ききさいして、チャーチル内務ないむ大臣だいじんが、民衆みんしゅう操作そうさつうじていたなら、市民しみんてき自由じゆう意味いみ理解りかいしていたなら、内相ないしょう権限けんげん機能きのうてき行使こうしできる能力のうりょくがあったなら、こんなだい混乱こんらんにはおちいらなかっただろう」とかたっている[272]

チャーチルは1911ねん8がつ15にち庶民しょみんいんで「軍隊ぐんたい国王こくおう陛下へいかものであるから、本来ほんらい労働ろうどう争議そうぎにも干渉かんしょうできる。しかし労働ろうどう争議そうぎ仲裁ちゅうさい商務省しょうむしょうまかせられているので、軍隊ぐんたい労働ろうどう争議そうぎ犯罪はんざいともなった場合ばあいのみ治安ちあん維持いじ目的もくてき出動しゅつどうするべきだ」とべ、自分じぶん軍隊ぐんたい出動しゅつどうさせたのはあくまで治安ちあん維持いじのためであったことを強弁きょうべんした[273]。だが労働ろうどう組合くみあいがわにこのようなべんしんじるものはなく、労働ろうどう組合くみあいのチャーチルへの嫌悪けんおかん決定的けっていてきとなった。このことは労働ろうどうしゃそう支持しじ拡大かくだいしたいアスキスないかくにとってアキレス腱あきれすけんとなった[273]

アスキスないかく海軍かいぐん大臣だいじん[編集へんしゅう]

内閣ないかく帝国ていこく防衛ぼうえい委員いいんかい席上せきじょう戦争せんそう大臣だいじんホールデン子爵ししゃく海軍かいぐんにも陸軍りくぐん帝国ていこく参謀さんぼう本部ほんぶ相当そうとうする組織そしき設置せっちすべきであると主張しゅちょうした。レジナルド・マッケナ海軍かいぐん大臣だいじん反対はんたいしたが、委員いいんのほとんどや首相しゅしょう賛同さんどうしたことで、マッケナは辞任じにんした[274]。1911ねん10がつ23にち後任こうにんとしてチャーチルが海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにんした。閣僚かくりょうとしての地位ちい内相ないしょうほううえだが、ドイツとの開戦かいせんせまっている情勢じょうせいだけにこの閣僚かくりょうしょくへの就任しゅうにん責任せきにん重大じゅうだいであった[275]。チャーチルは内務ないむ大臣だいじんとして海軍かいぐん火薬かやく警備けいび派遣はけんするなどドイツとの戦争せんそう準備じゅんび尽力じんりょくし、また帝国ていこく防衛ぼうえい委員いいんかい会合かいごうにも積極せっきょくてき参加さんか海軍かいぐん軍備ぐんび組織そしき問題もんだいつよ関心かんしんっており、その熱意ねついをアスキスにみとめられていた[275]。またアスキスはチャーチルを急進きゅうしんからはなすために就任しゅうにんめいじたともされる[276]

なお、海軍かいぐん大臣だいじん在任ざいにんちゅう自身じしん尊敬そんけいしていたオリバー・クロムウェル名前なまえ戦艦せんかんにつけようと、国王こくおうジョージ5せいなん提案ていあんしているが、「国王こくおう処刑しょけいした人物じんぶつ名前なまえ戦艦せんかんにつけることはできない」と退しりぞけられている[277]

チャーチルは優生ゆうせいがく支持しじしゃとして、1913ねん精神せいしん薄弱はくじゃくしゃほう英語えいごばん起草きそう参加さんかした。法律ほうりつ最終さいしゅうてき知的ちてき障害しょうがいしゃ強制きょうせい収容しゅうよう可能かのうにするものとして可決かけつしたが、チャーチルが事前じぜん主張しゅちょうした強制きょうせいにん手術しゅじゅつ否決ひけつされた[278]

ドイツとのけんかん競争きょうそう[編集へんしゅう]
野党やとうである保守党ほしゅとう(TORY)から支持しじけるチャーチルうみしょう海軍かいぐん予算よさん増額ぞうがくあん風刺ふうしした(1914ねん1がつ14にちパンチ

海軍かいぐん大臣だいじんとなったチャーチルは、バッテンベルクルイス公子こうしだいいち海軍かいぐんきょうにんじつつ、70さいぎですでに引退いんたいしていたジョン・アーバスノット・フィッシャーもと提督ていとく顧問こもんとして重用じゅうようした[279][280]、フィッシャーの提案ていあんれながら、海軍かいぐん軍備ぐんび増強ぞうきょうすすめた[281]

13はんインチほうにかわって15インチほう導入どうにゅうし、クイーン・エリザベスきゅう戦艦せんかん搭載とうさいした[282]。またフィッシャーは装甲そうこうよりスピード重視じゅうし軍艦ぐんかん製造せいぞう目指めざしたため、燃料ねんりょう石炭せきたんから重油じゅうゆ転換てんかんする必要ひつようせいせまられ、フィッシャーが委員いいんちょうつとめる王立おうりつ委員いいんかいのもとにアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニー英語えいごばん創設そうせつし、19世紀せいき以来いらいイギリスがにぎっている中東ちゅうとう石油せきゆ利権りけんをより強力きょうりょく掌握しょうあくした[282][283][280]。また海軍かいぐん航空こうくうたい創設そうせつ育成いくせいにもあたったためチャーチルを「イギリス空軍くうぐんちち」とする主張しゅちょうもある。チャーチル本人ほんにんによれば「フライト(flight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空こうくう用語ようごつくったのはかれなのだという[284]

一方いっぽう首相しゅしょうアスキスはけんかん競争きょうそう緩和かんわ目指めざし、1912ねん1がつ戦争せんそう大臣だいじんホールデン子爵ししゃく使者ししゃとしてドイツに派遣はけんし、「ドイツはイギリス海軍かいぐん優位ゆういみとめるべき。ドイツがこれ以上いじょう海軍かいぐん増強ぞうきょうおこなわないなら、わりにイギリスはドイツが植民しょくみん拡大かくだいするのを邪魔じゃましない」という交渉こうしょうをヴィルヘルム2せいにもちかけた(ホールデン使節しせつ英語えいごばん[285]。このホールデン子爵ししゃく訪独ほうどくちゅうの1912ねん2がつ9にち、チャーチルが「イギリスにとって海軍かいぐん必需ひつじゅひん、しかしドイツにとって海軍かいぐん贅沢ぜいたくひんである。」という演説えんぜつおこなった[286][285][287]。チャーチルとしてはホールデン子爵ししゃくをサポートするつもりでこの演説えんぜつおこなったのだが、かえってヴィルヘルム2せい心証しんしょうわるくし、ホールデン子爵ししゃく提案ていあんはドイツ海軍かいぐんりょく一方いっぽうてきふうめようというイギリスの陰謀いんぼうであるとして拒絶きょぜつされた[288]

チャーチルは、1912ねんはるにポーランドおきで150せき軍艦ぐんかん王室おうしつヨットを動員どういんした観艦式かんかんしき開催かいさいし、ドイツを威圧いあつした[289]。さらに王室おうしつせん「エンチャントレス」ごう(HMS Enchantress)で地中海ちちゅうかい視察しさつ旅行りょこうおこなった。チャーチルはだいいち世界せかい大戦たいせんまえうみしょう在任ざいにん期間きかんのうちじつに4ぶんの1をこのふねうえごしている[289]古代こだいギリシャ劇場げきじょうあと訪問ほうもんしたさいにチャーチルはシチリア遠征えんせいおもこし、ドイツぐんアテナイぐんおな運命うんめいをたどるだろうとおもむようになったという[289]

海軍かいぐん予算よさんめんでは1912ねん巨額きょがく要求ようきゅうしたが、1913ねんひかえめだった[290]。1913ねん3がつ26にちには、えいどく両国りょうこくけんかん競争きょうそうを1年間ねんかん休戦きゅうせんするという「海軍かいぐん休日きゅうじつあん」をドイツに提案ていあんしているが、相手あいてにされなかった[290][288]。そのため1914ねん1がつには海軍かいぐん予算よさん大幅おおはば増額ぞうがく要求ようきゅうし、軍事ぐんじ拡大かくだい慎重しんちょう急進きゅうしん閣僚かくりょうロイド・ジョージと対立たいりつふかめた[290][291][292]結局けっきょくこの論争ろんそうはアスキス首相しゅしょう決定けっていによりチャーチルのいいぶんみとめられた[290][292]。3月の庶民しょみんいんでチャーチルがこの海軍かいぐん予算よさんあん発表はっぴょうしたさいには、与党よとう自由党じゆうとうからではなく、海軍かいぐん増強ぞうきょう主張しゅちょうしていた野党やとう保守党ほしゅとうから喝采かっさいされるというちん現象げんしょう発生はっせいした[293]

アイルランド問題もんだい[編集へんしゅう]

1912ねんから1914ねんにかけてアイルランド自治じちほうをめぐって議会ぎかい紛糾ふんきゅうするなか、アイルランド北部ほくぶアルスタープロテスタント保守ほしゅ党員とういんたちは「アルスター義勇軍ぎゆうぐん」を結成けっせいし、アイルランド自治じちにアルスターがふくまれることに抵抗ていこうした。これに対抗たいこうしてカトリックだい多数たすうみなみアイルランドもアイルランド義勇軍ぎゆうぐん結成けっせいした。このりょうぐんにらみあう状態じょうたいとなり、アイルランドは内戦ないせん寸前すんぜん状態じょうたいおちいった。アイルランドにはカトリックがおおく、カトリックはアイルランド自治じちもとめるものおおいが、北部ほくぶアイルランドのアルスター複雑ふくざつだった。アルスターは9つのしゅうからなるが、プロテスタント多数たすうしゅうとカトリックが多数たすうしゅう両方りょうほう混在こんざいしているしゅうがあった[294]。またアルスターはイングランド本国ほんごく経済けいざいてきむすびつきがつよく、アイルランドのなかでは唯一ゆいいつ産業さんぎょう革命かくめい地域ちいきであったため、アイルランド自治じちにあたってここをうしなうことはカトリック・アイルランド自治じちにとってもプロテスタント・イギリスにとってもえがたいことだった[295]

チャーチルは1914ねん3がつ19にち独断どくだん艦隊かんたいアランとう出動しゅつどうさせてアルスター義勇軍ぎゆうぐん牽制けんせいした[292]。チャーチルのちちランドルフきょうはかつて「アルスターはたたかうだろう。そしてアルスターはただしいだろう」とべたことのあるおやアルスターであり、チャーチルもそれに影響えいきょうされており、そのためぎゃくにチャーチルこそがアルスターを牽制けんせいするやくにふさわしいとかんがえられたのである[296]

アイルランド自治じち法案ほうあんは1914ねん5がつ26にちに3度目どめ庶民しょみんいん可決かけつり、議会ぎかいほうもとづき、貴族きぞくいん賛否さんぴわずどう法案ほうあん可決かけつされることになった。しかし内乱ないらん誘発ゆうはつおそれたアスキス首相しゅしょうは、アルスターを6年間ねんかん自治じち対象たいしょうから除外じょがいする修正しゅうせいあん提出ていしゅつした。その修正しゅうせいあんについてかく方面ほうめんとの交渉こうしょうちゅうだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、保守党ほしゅとう党首とうしゅアンドルー・ボナー・ローとの交渉こうしょう結果けっか、アイルランド自治じち法案ほうあん棚上たなあげすることになった。内乱ないらん危機きき世界せかい大戦たいせんのおかげで回避かいひされたのだった[297][298][299]

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1914ねん6がつサラエボ事件じけんに7がつわりから8がつはじめにかけてドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国ていこくたいロシア、フランスだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。イギリスはロシアともフランスとも正式せいしき軍事ぐんじ同盟どうめいむすんでいなかったので参戦さんせん義務ぎむはなく、かくないでも参戦さんせんすべきか意見いけんかれ、とりわけロイド=ジョージが参戦さんせん反対はんたいした。しかしチャーチルは、熱烈ねつれつ参戦さんせん希望きぼうし、ドイツがロシアに宣戦せんせん布告ふこくした8がつ1にちには独断どくだん海軍かいぐん動員どういんれいした[300]自由党じゆうとう以外いがいでは保守党ほしゅとうとアイルランド国民党こくみんとう参戦さんせん支持しじしていた[301]。チャーチルはもし戦争せんそう賛成さんせい反対はんたい内閣ないかく自由党じゆうとう分裂ぶんれつするなら、反戦はんせん容赦ようしゃなく追放ついほうし、保守党ほしゅとう連立れんりつ政権せいけんつくるべきことを主張しゅちょうした[302]

8がつ2にちにドイツぐんベルギー中立ちゅうりつおかして同国どうこく侵攻しんこう計画けいかくしていることが判明はんめいし、これをにロイド=ジョージも参戦さんせんてんじたことで、アスキスないかくたいどく参戦さんせん決定けっていした。参戦さんせん反対はんたいのジョン・モーリー (初代しょだいブラックバーン子爵ししゃく)枢密院すうみついん議長ぎちょうによればロイド=ジョージの転向てんこうはチャーチルの影響えいきょうであったという[303]。8月4にちにイギリス政府せいふはドイツにベルギーからの撤退てったいもとめる最後さいご通牒つうちょうはっしたが、午後ごご11までの期限きげんになってもドイツからの返信へんしんはなく、どう時刻じこくから参戦さんせん決定けっていする閣議かくぎ首相しゅしょう官邸かんてい開催かいさいされたが、アスキス首相しゅしょう夫人ふじんマーゴットによると、このときチャーチルはしあわせそうなかおつきで大股おおまたあるいて閣議かくぎしつかっていたという[302][303]。このころつまへの手紙てがみなかでチャーチルは「すべてが破滅はめつ崩壊ほうかいかっているが、わたし興味きょうみ津津しんしんで、調子ちょうしがよく、しあわせです。おそろしいことかもしれないが、戦争せんそう準備じゅんびわたしには魅力みりょくてきです。それでもわたしは、平和へいわまもるために最善さいぜんくすつもりです」といている[301]

引退いんたいしたジョン・アーバスノット・フィッシャーもと提督ていとくだいいち海軍かいぐんきょうにんじるチャーチルうみしょう風刺ふうし(『パンチ』

えいどく最初さいしょ海戦かいせんは8がつ5にち王立おうりつ海軍かいぐんけい巡洋艦じゅんようかんアンフィオン」がドイツ帝国ていこく海軍かいぐん機雷きらい敷設ふせつかんケーニギン・ルイゼ」を撃沈げきちんするも機雷きらい接触せっしょくし、「アンフィオン」も沈没ちんぼつしたという小規模しょうきぼ戦闘せんとうだった。以降いこう、このような小規模しょうきぼ戦闘せんとうかえされることになり、両国りょうこくとも主力しゅりょく艦隊かんたい軍港ぐんこう温存おんぞんして決戦けっせんけた[304]

チャーチルは艦隊かんたい英仏海峡えいふつかいきょうから北海ほっかいうつし、陸軍りくぐん安全あんぜん大陸たいりく輸送ゆそうすることに貢献こうけんした[305]。また海兵かいへい部隊ぶたいダンケルクおくりこみ、ここに海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい基地きちき、ドイツぐんばくげき飛行船ひこうせんツェッペリンえい本土ほんど飛来ひらい阻止そししようとした。またこの飛行場ひこうじょう防衛ぼうえいするため、陸軍りくぐん兵器へいき開発かいはつにもたずさわり、陸上りくじょう戦艦せんかん委員いいんかい創設そうせつして装甲そうこう自動車じどうしゃ無限むげん軌道きどう自動車じどうしゃ開発かいはつおこない、のち戦車せんしゃした[306]

10がつはじめには予備よび水兵すいへいから師団しだんをドイツぐん包囲ほういされるベルギーのアントワープ防衛ぼうえいおくり、かつかれ自身じしんもアントワープにはいり、防衛ぼうえいせん直接ちょくせつ指揮しきった[307][308][309]。しかし結局けっきょくアントワープ防衛ぼうえいには失敗しっぱいし、イギリスぐんのうち大隊だいたいがドイツぐん捕虜ほりょとなった[310]。チャーチルはなん戦果せんかもあげられずに、アントワープ陥落かんらくの4にちまえの10がつ6にちにイギリス本国ほんごくもどってきた。これによりチャーチルはマスコミや保守党ほしゅとうから「無駄むだ犠牲ぎせいしたおろかな作戦さくせん」「ヒーロー気取きどり」とはげしい批判ひはんけた[307][311][312]。チャーチルは、開戦かいせん以来いらいマスコミの評判ひょうばんわるかっただいいち海軍かいぐんきょうルイス王子おうじ(ドイツじんをひいていた)にアントワープ事件じけん責任せきにんらせて辞職じしょくさせ、その後任こうにんとしてフィッシャーをだいいち海軍かいぐんきょうにんじた[313][314]

12月にはフォークランドおき海戦かいせん勃発ぼっぱつし、王立おうりつ海軍かいぐん勝利しょうりした。チャーチルは勝利しょうりかれ、さらなるだい規模きぼ海戦かいせん希望きぼうしたが、ドイツ海軍かいぐんはますます軍港ぐんこうじこもってしまい、以降いこうチャーチルのうみしょう在任ざいにんちゅうにはだい規模きぼ海戦かいせんこらなかった[315][316][注釈ちゅうしゃく 9]

ガリポリのたたか
1915ねんガリポリのたたかのイラスト。

1914ねん10がつにははんおやどくてきオスマン=トルコ帝国ていこくがドイツがわ参戦さんせんしており、1915ねん1がつにロシア帝国ていこくぐん最高さいこう司令しれいかんニコライ大公たいこうはイギリス政府せいふたいしてトルコを圧迫あっぱくしてほしいと要請ようせいした[314]かくないにはロシアぐんとの連携れんけい重視じゅうしする東方とうほうとフランスぐんとの連携れんけい重視じゅうしする西方せいほうあらそいがあったが、このロシアからの要請ようせい戦争せんそう大臣だいじんホレイショ・キッチナー東方とうほうてんじた。チャーチルも東方とうほうになり、王立おうりつ海軍かいぐんダーダネルス海峡かいきょうおくりこむことを閣議かくぎ主張しゅちょうするようになった。閣議かくぎ結果けっか膠着こうちゃく状態じょうたい西部せいぶ戦線せんせん打開だかいさくとしてこの作戦さくせん承認しょうにんされ、海軍かいぐんだけではなく陸軍りくぐん兵力へいりょくをガリポリ半島はんとうから上陸じょうりくする作戦さくせん決定けっていされた[318]。この作戦さくせんは1915ねん3がつ18にちえいふつ連合れんごうぐん実施じっし合計ごうけい18せきえいふつ艦隊かんたいでもってダーダネルス海峡かいきょうおきめよせ、トルコぐん要塞ようさい砲撃ほうげき壊滅かいめつさせた。ところが戦闘せんとうちゅうえいふつぐん戦艦せんかん3せき機雷きらい接触せっしょくし、2せき沈没ちんぼつ、もう1せきだい被害ひがいけたため、ジョン・ド・ロベック提督ていとくはエジプトからの増援ぞうえん到着とうちゃくするまで作戦さくせん延期えんきすべしとの判断はんだんくだした[319][320][321]

報告ほうこくけたチャーチルは激怒げきどし、ただちにさい攻撃こうげきおこない、ダーダネルス海峡かいきょう突破とっぱし、マルマラうみにいるトルコ艦隊かんたい撃破げきはすべしと主張しゅちょうしたが、ド・ロベックの判断はんだん支持しじするフィッシャーらが反対はんたいし、さい攻撃こうげき要求ようきゅうしつつも最終さいしゅう判断はんだん提督ていとくまかせるという返信へんしんおくることとなった[320][321]すで上陸じょうりく開始かいししていた陸上りくじょう部隊ぶたい海上かいじょうからの援護えんごなきままたたか羽目はめとなり、しかも一気いっき大軍たいぐん上陸じょうりくさせず、すこしずつ上陸じょうりくさせたために、えいふつ海軍かいぐん攻撃こうげきからなおったトルコぐんから攻撃こうげきけてだい損害そんがいこうむった[319][322]

チャーチルは後年こうねんまでこのとき迅速じんそく行動こうどうこさなかったことを後悔こうかいし、「もし英国えいこく艦隊かんたいがこのときコンスタンティノープル砲塔ほうとうけられていれば、トルコは戦争せんそうから脱落だつらくし、バルカン半島ばるかんはんとう諸国しょこくはすべて連合れんごうこくがわにつき、1915ねんまでには連合れんごうぐん勝利しょうりわり、ロシア革命かくめいこることもなかったであろう」と推測すいそくしている[323][324]

罷免ひめん[編集へんしゅう]

5がつなかば、もともとダーダネルス海峡かいきょうでの作戦さくせんではなかったフィッシャーが抗議こうぎ意味いみめて辞職じしょくした。チャーチルは慰留いりゅうしたが、拒否きょひされた。フィッシャーは保守党ほしゅとう党首とうしゅボナー・ローにてておくった手紙てがみなかで「うみしょう我々われわれ破滅はめつみちびいています。あのおとこはドイツじんより危険きけんです」といている[325]。もともとチャーチルをはげしくきらっていた保守党ほしゅとう開戦かいせん以来いらい、チャーチルを「もと人海じんかいしょう」「専門せんもん対抗たいこうする策士さくし」などとこきろして批判ひはんしてきたが、そこにこのガリポリのたたかいの失態しったいとフィッシャー辞職じしょくたので、チャーチル批判ひはん機運きうん最高潮さいこうちょうたっした[325]

また保守党ほしゅとう膠着こうちゃく状態じょうたい西部せいぶ戦線せんせん弾薬だんやく不足ふそく批判ひはんしており、その批判ひはん動議どうぎ議会ぎかい可決かけつされた。これによりアスキスないかくそう辞職じしょく余儀よぎなくされた[326]。しかし戦時せんじ政治せいじ危機きき危惧きぐしたアスキスやロイド・ジョージ、保守党ほしゅとうのボナー・ローらが交渉こうしょうした結果けっか保守党ほしゅとうないかたきにされているチャーチルを海軍かいぐん大臣だいじんからはずすことを条件じょうけんとして自由党じゆうとう保守党ほしゅとうだい連立れんりつ政権せいけん樹立じゅりつすることで合意ごういした[319][327][328]。チャーチルは5月17にちにこれをり、保守党ほしゅとう党首とうしゅ再考さいこうねが手紙てがみいたが、効果こうかはなかった[327]。「貴方あなたのように素晴すばらしい才能さいのうったひとが40さいやそこらでわるわけはないですよ」とはげましてくれたものもいたが、それにたいしてチャーチルは「いや、わたしのぞんでいたこと完全かんぜんうしなわれたのだ。それは戦争せんそう遂行すいこうし、ドイツをかすことだ」とかたった[329]

アスキス連立れんりつないかくランカスターおおやけりょう担当たんとう大臣だいじん[編集へんしゅう]

こうして挙国一致きょこくいっちないかくとしてのだい2アスキスないかく成立せいりつした。この政権せいけんには自由党じゆうとう保守党ほしゅとうのみならず、労働党ろうどうとうからも戦争せんそう賛成さんせい議員ぎいん一部いちぶ参加さんかした[330]労働党ろうどうとう開戦かいせん以来いらい反戦はんせんと「ドイツ軍国ぐんこく主義しゅぎたいするたたかい」として戦争せんそう支持しじする戦争せんそう賛成さんせい分離ぶんりしていた[330]保守党ほしゅとうぜん党首とうしゅバルフォアがチャーチルにわる海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにんし、チャーチルは閑職かんしょくのランカスターおおやけりょう担当たんとう大臣だいじん左遷させんされた。ただ閣僚かくりょうとして戦争せんそう会議かいぎにはのこることができ、チャーチルはこれが目的もくてき閑職かんしょくであっても閣僚かくりょうしょくけた[331]

戦争せんそう会議かいぎはダーダネルス委員いいんかい改称かいしょうされ、ダーダネルスでの作戦さくせん指導しどう専門せんもんとするようになった。チャーチルはダーダネルス作戦さくせん続行ぞっこう主張しゅちょうしてれられ、8がつあらためてガリポリ上陸じょうりく作戦さくせん決行けっこうされたが、さらなる犠牲ぎせいしゃしただけにわった。結局けっきょく10がつまつにはガリポリ半島はんとうから撤退てったいすることが委員いいんかい決定けっていされた。ダーダネルス作戦さくせんは25まんにんおよえいふつぐん将兵しょうへい死傷ししょうしゃしただけでなにものなくわった。ダーダネルス委員いいんかい解散かいさんすることとなった。アスキス首相しゅしょう少数しょうすう閣僚かくりょう構成こうせいする戦争せんそう委員いいんかい新設しんせつしたが、もはやチャーチルはそこにはれてもらえなかった[332][324][333]かくないまる意味いみがなくなったチャーチルは11月15にちをもってランカスターおおやけりょう担当たんとう大臣だいじんし、内閣ないかくからはなれた[334][333]

西部せいぶ戦線せんせん従軍じゅうぐん[編集へんしゅう]

1916ねん王立おうりつスコット・フュージリアーズ連隊れんたい英語えいごばん所属しょぞくのチャーチル少佐しょうさ中央ちゅうおう

とにかく行動こうどうをしていないとまないチャーチルは、閣僚かくりょうしょく辞職じしょくしてまもない1915ねん11月19にちには西部せいぶ戦線せんせん従軍じゅうぐんしようと、フランスへかった。イギリス海外かいがい派遣はけんぐんそう司令しれいかんジョン・フレンチ将軍しょうぐんは、チャーチルに陸軍りくぐん少佐しょうさ階級かいきゅうと、王立おうりつスコット・フュージリアーズ連隊れんたい所属しょぞくだい6大隊だいたいちょう地位ちいあたえた。

チャーチルはもと騎兵きへい中尉ちゅういであり、オックスフォードシャー民兵みんぺいでは中佐ちゅうさ階級かいきゅうっていた[335][336][337]。もっとも軍部ぐんぶないでは「政治せいじくずれの軍人ぐんじん」と批判ひはんつよく、また本国ほんごく議会ぎかいでも保守党ほしゅとうがチャーチルの行動こうどう批判ひはんし、チャーチルの旅団りょだんちょう就任しゅうにん妨害ぼうがいした[335][337]

チャーチルは着任ちゃくにん早々そうそう部隊ぶたいシラミ宣戦せんせん布告ふこくして、その駆除くじょキャンペーンを実施じっしした。さらにブリキの風呂ふろつくらせて塹壕ざんごうなかでの生活せいかつ改善かいぜんはかり、いちにちさんかい塹壕ざんごう状況じょうきょう確認かくにんまわった[335][337]。またなるべく早期そうき塹壕ざんごうせんわらせねばならないとかんがえ、塹壕ざんごう突破とっぱできる戦車せんしゃ開発かいはついそぐべきと覚書おぼえがきなかいている[335]。チャーチルの副官ふっかんによればチャーチルは「戦争せんそうとは笑顔えがおたのしみながらやるゲームである」とよくかたっていたという[335][338]

1916ねん4がつ、チャーチルの大隊だいたい戦死せんししゃおおぎたため、大隊だいたい合併がっぺいされ、チャーチルも大隊だいたい指揮しきかんから解任かいにんされた[339]結局けっきょくチャーチルは主要しゅよう会戦かいせん参加さんかすることなく[340]、5月にロンドンに帰国きこくすることとなった[317]

再起さいきねらって[編集へんしゅう]

失脚しっきゃくして文筆ぶんぴつ生計せいけいてるチャーチルの風刺ふうし(1916ねん『パンチ』

帰国きこくしたチャーチルは新聞しんぶん投書とうしょする文筆ぶんぴつぎょう生計せいけいてるようになった[339]。また政界せいかいでは再起さいきねらってだい連立れんりつ否定ひていてき野党やとうてき議員ぎいん連携れんけいして政界せいかい再編さいへんこそうと尽力じんりょくした[339]

1916ねん9がつから「ダーダネルス調査ちょうさ委員いいんかい」が開催かいさいされ、ダーダネルス作戦さくせんについての文書ぶんしょ公開こうかい調査ちょうさおこなわれ、チャーチルも聴聞ちょうもんかい召喚しょうかんされた。チャーチルは自分じぶんつね海軍かいぐん専門せんもんから同意どうい作戦さくせん実行じっこうしたことを強調きょうちょうした[339]

同年どうねん12がつにはより強力きょうりょくそう力戦りきせん体制たいせい構築こうちくできる政府せいふ樹立じゅりつもとめていたロイド・ジョージが、保守党ほしゅとう支持しじて、「戦争せんそう委員いいんかいさい編成へんせいおこない、少数しょうすう閣僚かくりょうのみで構成こうせいするようにし、その委員いいんちょう自分じぶんにすべき」と首相しゅしょうアスキスに要求ようきゅうした。アスキスは首相しゅしょうである自分じぶん委員いいんちょうにするよう要求ようきゅうしたが、ロイド・ジョージは拒否きょひし、名目めいもくじょう首相しゅしょうになるのをいやがったアスキスが辞職じしょくしたことで、ロイド・ジョージないかく成立せいりつ[341][342][343]した。

チャーチルはさい入閣にゅうかく希望きぼうし、ロイド・ジョージもチャーチルを協力きょうりょくしてくれたが、保守党ほしゅとう党首とうしゅボナー・ローがチャーチルの入閣にゅうかくつよ反対はんたいし、ロイド・ジョージも当面とうめんはそれをれざるをなかった[344][345]。チャーチルはあきらめずに延々えんえん入閣にゅうかく工作こうさくすすめた[340]

一方いっぽうロイド・ジョージ首相しゅしょうはダーダネルス調査ちょうさ委員いいんかい報告ほうこくでチャーチルの名誉めいよ回復かいふくされるまで入閣にゅうかく辛抱しんぼうするようチャーチルを説得せっとくしていた。この報告ほうこくは1917ねん3がつ発表はっぴょうされ、ダーダネルス作戦さくせん失敗しっぱい責任せきにんはチャーチル一人ひとりのせいにされるべきものではなく、アスキスもと首相しゅしょうにも重大じゅうだい責任せきにんがあるとしていた[346]

ロイド・ジョージないかく軍需ぐんじゅ大臣だいじん[編集へんしゅう]

1917ねん7がつにチャーチルは軍需ぐんじゅ大臣だいじんとしてロイド・ジョージないかく入閣にゅうかくした[345]。ただし戦争せんそうないかく英語えいごばん戦争せんそう委員いいんかい)のメンバーにはくわえられず、必要ひつようおうじて召集しょうしゅうされ、意見いけんべるだけとされた[347]保守党ほしゅとうやマスコミのチャーチルへの憂慮ゆうりょつよく、ロイド・ジョージの回顧かいころくによるとかれはチャーチルを閣僚かくりょう任命にんめいした直後ちょくごすう日間にちかん保守党ほしゅとう離反りはんされて政権せいけんつぶれることも覚悟かくごしなければならなかったという[348][345]

この閣僚かくりょう就任しゅうにんでチャーチルはふたた議員ぎいん辞職じしょくし、それにともなっておこなわれたダンディー選挙せんきょ補欠ほけつ選挙せんきょ出馬しゅつばした。だい連立れんりつ建前たてまえから保守党ほしゅとう対立たいりつ候補こうほてることを見送みおくったが、禁酒きんしゅのスクリムジャーが禁酒きんしゅくわえて反戦はんせんうったえて出馬しゅつばし、労働ろうどうしゃそうひょうはかなりかれながれた。チャーチルが再選さいせんしたものの、この選挙せんきょにおけるチャーチルの安泰あんたいにもかげりがえてきた[349]

戦車せんしゃ開発かいはつ

1917ねん4がつにはアメリカが連合れんごうこくがわ参戦さんせんしていた。アメリカはそれ以前いぜんから金融きんゆう物資ぶっしめんえいふつ支援しえんしていたが、アメリカ参戦さんせん以降いこうはその支援しえんさら増加ぞうかした[350]軍需ぐんじゅ大臣だいじんとなったチャーチルはこれを全力ぜんりょく活用かつようし、塹壕ざんごう突破とっぱするためのしん兵器へいき戦車せんしゃ」の開発かいはついそいだ。11月のカンブレーのたたかでは400だいちか戦車せんしゃ投入とうにゅうし、その有用ゆうようせい証明しょうめいできた。これ以降いこうロイド・ジョージ首相しゅしょう戦車せんしゃ開発かいはつ拡大かくだい支持しじした[351]戦争せんそう末期まっきには1まんだいもの戦車せんしゃ製造せいぞう計画けいかくてている[305]。このためチャーチルはしばしば「戦車せんしゃちち」とばれるようになり、かれ自身じしんもこのあだこのんでいた[305]。チャーチルはのちに「政府せいふが1915ねん段階だんかい戦車せんしゃ有用ゆうようせい理解りかいできていれば戦争せんそうは1917ねんわらせられた」とひょうしている[351][352]

フランス首相しゅしょう陸相りくしょうジョルジュ・クレマンソー

1917ねん3がつ厭戦えんせん気分きぶんたかまるロシアで帝政ていせい打倒だとうされ、混乱こんらんのすえにウラジーミル・レーニンのソビエト政権せいけん樹立じゅりつされた。11月に革命かくめいロシアはドイツとブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつして戦争せんそうから離脱りだつしてしまった[353]。フランスでも厭戦えんせん気分きぶんたかまり、反戦はんせんストライキなどが多発たはつするようになったが、1917ねん11月にフランス首相しゅしょう陸相りくしょう就任しゅうにんしたジョルジュ・クレマンソー反戦はんせんストライキを徹底的てっていてき弾圧だんあつすることで、戦争せんそう遂行すいこう体制たいせい維持いじした[354]。ロイド・ジョージはフランスの状況じょうきょう不安ふあんになり、チャーチルをフランスに派遣はけんした[355][354]。チャーチルはクレマンソーとともにえいふつりょうぐん前線ぜんせん視察しさつしてまわり、両国りょうこく結束けっそく将兵しょうへいたちにしめした[356][354]

戦争せんそう終結しゅうけつ

1918ねん3がつからドイツぐん最後さいご攻勢こうせい1918ねん春季しゅんき攻勢こうせい)があり、えいふつぐん・ドイツぐん双方そうほうおおくの犠牲ぎせいしゃたが、7がつごろからアメリカぐん本格ほんかく参戦さんせんでドイツぐん劣勢れっせいとなっていった[357][358]。9月わりにはドイツぐん実質じっしつてき指導しどうしゃエーリヒ・ルーデンドルフ大将たいしょう休戦きゅうせんかんがえるようになり、ドイツ政府せいふにアメリカ大統領だいとうりょうウッドロウ・ウィルソンとの交渉こうしょう開始かいしさせた[359]。11月はじめにはドイツ革命かくめい勃発ぼっぱつし、皇帝こうていヴィルヘルム2せいがオランダへ亡命ぼうめいした[360]。11月9にちから宰相さいしょうになっていたドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう党首とうしゅフリードリヒ・エーベルト休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけついそぎ、11月11にち連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいかんフェルディナン・フォッシュ元帥げんすいとのあいだ講和こうわ条約じょうやく締結ていけつし、だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつさせた[361][362]

ロンドンでは11月11にち午前ごぜん11終戦しゅうせんげるビッグ・ベンかねらされた。このおといたチャーチルはつまとともに首相しゅしょう官邸かんていかったが、そのさい勝利しょうりよろこびかえる群衆ぐんしゅうた。なかにはチャーチルのくるまうえってきたものもあったという。チャーチルはこのとき光景こうけいを「なんせんにんという群衆ぐんしゅうよろこびのあまりはしりまわっていた。ドアというドアがひらき、だれもが仕事しごとほうした。国旗こっきがあちこちにかかげられた。かねわらぬうちにロンドンはほこ落花らっか狼藉ろうぜきまちとなった。世界せかいしばくさりたれたのだ。」といている[363]。もっとも戦争せんそう勝利しょうりしても、海外かいがい投資とうし縮小しゅくしょう軍需ぐんじゅ産業さんぎょう以外いがい産業さんぎょう減退げんたい、アメリカと日本にっぽん台頭たいとう、ロシア革命かくめいやアイルランド民族みんぞく運動うんどう脅威きょういなどイギリスのけた打撃だげき地位ちい低下ていかかえしのつかないものがあった[364]

クーポン選挙せんきょ

ロイド・ジョージ首相しゅしょうはこの戦勝せんしょう気分きぶんめぬうちに戦時せんじちゅう延期えんきされつづけていたそう選挙せんきょおこなうことを決意けついした[365][366]戦争せんそう終結しゅうけつ翌月よくげつの12月に解散かいさんそう選挙せんきょ実施じっしされ、だい連立れんりつ政権せいけんは「カイザーしばくびにしよう」「ドイツじんから賠償金ばいしょうきんてよう」といったスローガンをかかげて国民こくみん愛国心あいこくしんあお選挙せんきょせん展開てんかいした。だい連立れんりつ政権せいけん支持しじ候補者こうほしゃにはロイド・ジョージと保守党ほしゅとう党首とうしゅボナー・ローから推薦すいせんしょ(クーポン)があたえられた(このためクーポン選挙せんきょばれる)[367]。チャーチルはつづきダンディー選挙せんきょから出馬しゅつばし、「反戦はんせん敗北はいぼく主義しゅぎしゃ臆病者おくびょうもの」をののしりつつ、今後こんご国際こくさい連盟れんめい創設そうせつによって平和へいわ維持いじしようとうったえた[368]選挙せんきょ結果けっかだい連立れんりつ政権せいけん大勝たいしょうをおさめ、チャーチルも大差たいさ再選さいせんたした[368]一方いっぽう敗北はいぼく主義しゅぎしゃ」とされたアスキスもと首相しゅしょう自由党じゆうとうアスキスラムゼイ・マクドナルド労働党ろうどうとう反戦はんせんなどクーポンをもらえなかった議員ぎいんたちは惨敗ざんぱいした[369][368][370]だい連立れんりつなかでもとりわけ保守党ほしゅとう大勝たいしょうし、今後こんご政局せいきょく主導しゅどうけんにぎった[371][372][373]保守党ほしゅとうはこの大勝たいしょうもしばらく自由党じゆうとうのロイド・ジョージを首相しゅしょうのままにしてだい連立れんりつ政権せいけん継続けいぞくするが、これは戦争せんそう直後ちょくご挙国一致きょこくいっちつづけるべきという空気くうきつよかったためとわれている[374]

ロイド・ジョージないかく戦争せんそう大臣だいじん[編集へんしゅう]

1919ねん7がつ19にち、ロンドンでおこなわれた戦勝せんしょうパレードでアメリカぐんジョン・パーシング大将たいしょう会見かいけんするチャーチル戦争せんそう大臣だいじん

チャーチルは1919ねん1がつから戦争せんそう大臣だいじんけん航空こうくう大臣だいじん空軍くうぐん大臣だいじん)ににんじられた[375][305]。チャーチルが「戦争せんそう終結しゅうけつ戦争せんそう大臣だいじんになってもな」と愚痴ぐちると、保守党ほしゅとう党首とうしゅボナー・ローから「戦時せんじちゅうにおまえ戦争せんそう大臣だいじん任命にんめいするわりものはいないよ」と皮肉ひにくられたという[375]

動員どういん解除かいじょ[編集へんしゅう]

チャーチルの戦争せんそう大臣だいじんとしての最初さいしょ仕事しごと動員どういん解除かいじょであった。兵士へいしたちはいちにちはや動員どういん解除かいじょされて帰国きこくすることを希望きぼうしていたが、後述こうじゅつする干渉かんしょう戦争せんそう影響えいきょうもあって動員どういん解除かいじょはゆっくりとおこなわれ、しかも雇用こようしゃから重要じゅうよう労働ろうどうしゃみとめられたものから順番じゅんばん動員どういん解除かいじょするという方針ほうしんをとったため、兵士へいしたちのあいだ不満ふまんたかまった[369]

1919ねん1がつ3にち港町みなとちょうフォークストンでフランスにかわされるのをいやがった兵士へいし3000にんから4000にん乗船じょうせん命令めいれい拒否きょひして、動員どういん解除かいじょもとめる集会しゅうかいひら事件じけん発生はっせいした。こうした動員どういん解除かいじょかんする運動うんどうはイギリス各地かくちかく部隊ぶたい急速きゅうそくひろがっていった[369]。それでなくても長引ながび戦争せんそうでイギリス国内こくない貧困ひんこんしており、ストライキと暴動ぼうどう扇動せんどう多発たはつし、赤旗あかはたがあちこちにかかげられている状況じょうきょうだった。動員どういん解除かいじょ適切てきせつおこなわねば大変たいへん事態じたい進展しんてんする可能かのうせいがあった[305]。チャーチルは重要じゅうよう労働ろうどうしゃから動員どういん解除かいじょという評判ひょうばんわるかった方針ほうしん変更へんこうし、入隊にゅうたいはやものからじゅん動員どういん解除かいじょという反発はんぱつすくない方式ほうしきえた。これによって動員どういん解除かいじょかんする蜂起ほうき沈静ちんせいしていった[376]

他方たほう労働ろうどう運動うんどうけいのストライキはたかまっていく一方いっぽうで2がつにはグラスゴーゼネストがあり、市役所しやくしょ労働ろうどうしゃられ、赤旗あかはたてられる事件じけん発生はっせいした。チャーチルは軍隊ぐんたい戦車せんしゃ派遣はけんしてこれを鎮圧ちんあつした[377]。7月に発生はっせいした炭鉱たんこうストライキは首相しゅしょうロイド・ジョージが「イギリスにもソビエト政権せいけん誕生たんじょうか」と恐怖きょうふしたほど拡大かくだいした[377]。このときもチャーチルはラインに駐留ちゅうりゅうしている4師団しだんもどし、ストライキ参加さんかしゃ徹底的てっていてき掃討そうとうすることを主張しゅちょうしたが、このときはロイド・ジョージ首相しゅしょうにより却下きゃっかされた(もし4師団しだんもどしていたとしてもその4師団しだんがストライキに参加さんかして余計よけいてられない状況じょうきょうになる可能かのうせいほうたかかった)[305]

はん干渉かんしょう戦争せんそう[編集へんしゅう]
あかもの」とのたたかいを支援しえんすることをロシアじんうったえるイギリスのポスター

ソビエト・ロシアたいしては大戦たいせんちゅうの1917ねんまつごろからイギリス、フランス、日本にっぽん、アメリカなどの連合れんごうこく干渉かんしょう戦争せんそう仕掛しかけて、共産きょうさん革命かくめい阻止そしはかろうとしていた[378]。イギリスはきたロシアに駐留ちゅうりゅうする部隊ぶたいつうじてアントーン・デニーキンアレクサンドル・コルチャーク帝政ていせいロシア軍人ぐんじんからしろぐん支援しえんしていた[379]。ロイド・ジョージ首相しゅしょうはん干渉かんしょう戦争せんそうから撤退てったいすることを希望きぼうし、アメリカのウィルソン大統領だいとうりょうとも協力きょうりょくして関係かんけい主要しゅようこくおよびロシアかく勢力せいりょくまねいた講和こうわ会議かいぎ提唱ていしょうしたが、しろぐん反対はんたいにより流産りゅうざんとなった。イギリス国内こくないでもチャーチルや保守党ほしゅとうボルシェヴィキとの妥協だきょう反対はんたいし、干渉かんしょう戦争せんそう続行ぞっこう主張しゅちょうした[379]

戦争せんそう大臣だいじんチャーチルはかく部隊ぶたい司令しれいかんたいして兵士へいしたちがロシア出兵しゅっぺい可能かのう状況じょうきょうかどうかを秘密ひみつ質問しつもんじょうおくったが、かく司令しれいかんとも否定ひていてき返答へんとうをした。そのためイギリスの干渉かんしょう戦争せんそうはロシア国内こくないはん勢力せいりょく支援しえん継続けいぞく以外いがいには不可能ふかのうであった[380]。ロイド・ジョージがパリ講和こうわ会議かいぎ出席しゅっせきのためにイギリス不在ふざいあいだ、チャーチルはこれにぜん精力せいりょくそそいだ[379][381]。チャーチルがしろぐんった支援しえんは1おくポンドにもおよ[382][383]。さらにアメリカ大統領だいとうりょうウィルソンから「各国かっこく出兵しゅっぺいするなら干渉かんしょう戦争せんそう反対はんたいしない」との言質げんちったチャーチルは、連合れんごうこくロシア委員いいんかい設置せっちし、連合れんごうこく各国かっこくはん行動こうどうもとめた[380]

こうしたチャーチルの反共はんきょう姿勢しせい労働ろうどうしゃ階級かいきゅう労働党ろうどうとう動員どういん解除かいじょもとめる軍人ぐんじんたちの反発はんぱつつよまった[384]労働党ろうどうとうはチャーチルがイギリスぐん撤退てったい期限きげん延期えんきあらたな兵士へいしおくむことを議会ぎかいはかこともなく独断どくだんしろぐん約束やくそくしたとしてかれ逮捕たいほ要求ようきゅうする決議けつぎさえそうとした[385]。こうしたこえされて、チャーチルも1919ねんあきまでには英軍えいぐん撤退てったいさせざるをえなくなり[384]1920ねんはるまでにはロシア内戦ないせんはソビエトの勝利しょうり事実じじつじょう終了しゅうりょうした[382]。また同年どうねん7がつごろにはポーランド・ソビエト戦争せんそう戦況せんきょうもソビエト有利ゆうりかたむいていった。ソビエトぐんによるポーランド侵攻しんこう開始かいしされるようになると、チャーチルはポーランドがわ参戦さんせんすることさえ計画けいかくしたが、労働ろうどうしゃがゼネストをこして抵抗ていこうしたため、物資ぶっし支援しえんまらざるをなかった。チャーチルは軍需ぐんじゅひんダンツィヒ経由けいゆ大量たいりょうにポーランドぐんおくり、ついにソビエトぐんワルシャワ攻略こうりゃく失敗しっぱいしてロシア本国ほんごく敗走はいそうしていった[386]。ロシアの赤化せっか阻止そしできなかったが、のヨーロッパ諸国しょこくへの赤化せっか拡大かくだいめることには成功せいこうし、チャーチルも干渉かんしょう戦争せんそう一定いってい成果せいかがあったと評価ひょうかしたようである[386]

しかしロイド・ジョージは干渉かんしょう戦争せんそう反共はんきょう闘争とうそう否定ひていてきであり、チャーチルを植民しょくみん大臣だいじん転任てんにんさせることでこの問題もんだいからはなし、同年どうねん3がつ16にちにはソビエトと通商つうしょう協定きょうてい締結ていけつすることで世界せかい先駆さきがけてソビエトの存在そんざい容認ようにんした[384]一方いっぽうチャーチルはロイド・ジョージがドイツに苛酷かこくすぎるヴェルサイユ条約じょうやくしたことでドイツを「反共はんきょう防波堤ぼうはてい」にすることに失敗しっぱいしたと批判ひはんてきていた[387]。チャーチルは「ボルシェヴィキがつよくならないうちにたおしておかなかったことを、いつかしょ列強れっきょう後悔こうかいするときるだろう」と予言よげんしている[385]

この干渉かんしょう戦争せんそう以降いこう、チャーチルは保守党ほしゅとうから好意こういてきられるようになっていった[388]

ロイド・ジョージないかく植民しょくみん大臣だいじん[編集へんしゅう]

ロイド・ジョージから色々いろいろ役職やくしょくあたえられるチャーチルの風刺ふうしいま植民しょくみん大臣だいじん帽子ぼうしをかぶっている(『パンチ』

1921ねん1がつにチャーチルは植民しょくみん大臣だいじん転任てんにんした[389][383][390]だいいち世界せかい大戦たいせん勝利しょうりしたイギリスは敗戦はいせんこくのドイツやトルコの植民しょくみん領土りょうど国際こくさい連盟れんめいからの委任いにん統治とうちりょうというかたち獲得かくとくしたため、だいえい帝国ていこく過去かこ最大さいだい領土りょうど領有りょうゆうするにいたった[389]。しかしそれにともな問題もんだいおおかかえることになった。

中東ちゅうとう委任いにん統治とうちりょうをめぐる問題もんだい[編集へんしゅう]

イギリスは大戦たいせん、アラブじんにトルコにたいする反乱はんらんアラブ反乱はんらん)をこさせるため、かれらに戦後せんご独立どくりつ約束やくそくしていた(フサイン=マクマホン協定きょうてい)。これによりハーシムファイサル王子おうじらアラブ勢力せいりょくは『アラビアのロレンス』としてられるイギリス軍人ぐんじんトーマス・エドワード・ロレンスらとともにトルコとたたかった。一方いっぽうでイギリスは大戦たいせんちゅうにユダヤじん協力きょうりょくすため、パレスチナにユダヤじん国家こっか建設けんせつみとめており(バルフォア宣言せんげん)、さらに他方たほうでフランスとのあいだに「肥沃ひよく三日月みかづき地帯ちたい」をえいふつ分割ぶんかつ統治とうちするというサイクス・ピコ協定きょうていむすんでいた(さんまいした外交がいこう[391][392]戦後せんごにはサイクス・ピコ協定きょうていさい優先ゆうせんされ、パレスチナ(イギリス委任いにん統治とうちりょうパレスチナ)とイラクイギリス委任いにん統治とうちりょうメソポタミア)はイギリス委任いにん統治とうちりょうシリアフランス委任いにん統治とうちりょうシリア)とレバノンフランス委任いにん統治とうちりょうレバノン)はフランス委任いにん統治とうちりょうになったから、ファイサル王子おうじてていただいアラブ帝国ていこく構想こうそう粉々こなごなになり、アラブじんあいだ不満ふまんこり、イラクやシリアで暴動ぼうどう発生はっせいするようになった[392][393]

1921ねん5がつ18にちのカイロ会議かいぎ中央ちゅうおうすわっている人物じんぶつがチャーチル植民しょくみん大臣だいじん

これを鎮静ちんせいすべくチャーチルはロレンスを補佐ほさやくとし、1921ねんカイロ会議かいぎ主宰しゅさいした[392]。この会議かいぎによりファイサルはファイサル1せいとしてイラクおう即位そくいすることとなり、またそのあにアブドゥッラー1せいもパレスチナからはなしたトランスヨルダンおう即位そくいすることがめられた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質じっしつてき支配しはいけん、またイランとの通商つうしょう、エジプトのスエズ運河うんがはイギリスががっちりとにぎりつつ、ハーシムかおてたかたちであった[394]。またイラクに駐留ちゅうりゅうするイギリス陸軍りくぐん撤退てったいさせ、わって空軍くうぐん秩序ちつじょ維持いじにあたった[392]

一方いっぽうユダヤじんもバルフォア宣言せんげんでパレスチナ移住いじゅうみとめられており、国際こくさい連盟れんめいがイギリスにパレスチナ統治とうち委任いにんした規約きやくだい6じょうでは「パレスチナの統治とうち機構きこうは、この地域ちいきほか住民じゅうみん権利けんり地位ちい侵害しんがいされないことを保証ほしょうしながら、適切てきせつ条件下じょうけんかでユダヤじん移住いじゅう促進そくしんする」とさだめられた[395]。この条項じょうこうには様々さまざま解釈かいしゃくがあったが、チャーチルは「この地域ちいき経済けいざいりょくえない範囲はんい、パレスチナじんしょくうばわれない範囲はんいないでのユダヤじん移住いじゅう促進そくしん」という意味いみだと解釈かいしゃくし、以降いこうこれがイギリス植民しょくみんしょう基本きほんスタンスとなった。これにより裕福ゆうふくなユダヤじん無制限むせいげん入国にゅうこく移民いみんできる一方いっぽうまずしいユダヤじん移住いじゅう様々さまざま制限せいげんがかけられることがおおいという不平等ふびょうどうしょうじた[395]以降いこうイスラエル独立どくりつまでに50まんにんのユダヤじんがイギリス植民しょくみんしょう監督かんとくのもとにパレスチナへ移民いみんし、パレスチナのそう人口じんこうの30%をめるようになった[396]

アイルランド自由じゆうこく[編集へんしゅう]

大戦たいせんちゅうの1916ねん4がつダブリンでアイルランド民族みんぞく主義しゅぎしゃ蜂起ほうきこすも鎮圧ちんあつされ、その指導しどうしゃ即決そっけつ軍事ぐんじ裁判さいばん処刑しょけいされるという事件じけんがあった(イースター蜂起ほうき[397]。この事件じけんにアイルランド民族みんぞく主義しゅぎがり、1918ねんそう選挙せんきょでもアイルランド国民党こくみんとうわって急進きゅうしんてきなアイルランド独立どくりつ政党せいとうシン・フェインとう躍進やくしんした[398][368]

シン・フェインとうはロンドンの議会ぎかいはいることを拒否きょひし、ダブリンに独自どくじ国民こくみん議会ぎかい形成けいせいした。アイルランド義勇軍ぎゆうぐん武装ぶそう抵抗ていこう激化げきかし、まもなくシン・フェインとう政治せいじてき抵抗ていこう合流ごうりゅうした[399][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう][400]。ロイド・ジョージ政権せいけんはこうした運動うんどう白色はくしょくテロきびしく弾圧だんあつ[401]、シン・フェインとう禁止きんし処分しょぶんとした[402]。だがシン・フェインとうくっさず、ゲリラせん続行ぞっこう[402]、イギリスじん官吏かんり攻撃こうげきくわえていった[403]

国王こくおうジョージ5せいきたアイルランド訪問ほうもん対立たいりつ関係かんけい一時いちじてき緩和かんわして休戦きゅうせんり、そのあいだの1921ねん10がつからロイド・ジョージやチャーチルらイギリス政府せいふアーサー・グリフィスマイケル・コリンズらシン・フェインとう代表だいひょうしゃ交渉こうしょうもうけられた[404]。この交渉こうしょうさい、コリンズはイギリス政府せいふ自分じぶんに5000ポンドの懸賞けんしょうきんをかけたことを批判ひはんしたが、それにたいしてチャーチルは「5000ポンドもの価値かちをつけられれば十分じゅうぶんではないかね。わたしは25ポンドだぞ。」とべ、ボーア戦争せんそう捕虜ほりょ収容しゅうようしょから脱走だっそうしたさいけられた自分じぶん懸賞けんしょうきんがくいにしたという[404]

この交渉こうしょう結果けっか、アルスターのうち統一とういつおおい6しゅうにはイギリスにのこるかアイルランドにくわわるかの選択せんたくけんのこしつつ、それ以外いがいのアイルランドはだいえい帝国ていこく自治領じちりょうアイルランド自由じゆうこくとして独立どくりつすることで妥協だきょうたっした(えいあい条約じょうやく[404][401][405]。そのこの条約じょうやく是非ぜひをめぐってアイルランドないアイルランド内戦ないせん勃発ぼっぱつするも条約じょうやく支持しじ勝利しょうりしている[404]

チャーチルは庶民しょみんいんでアイルランド自由じゆうこく法案ほうあん説明せつめいおこない、そのなかで「はん世紀せいきにわたるイギリス政治せいじくるしみであり、対外たいがいてきにはアメリカや自治領じちりょう諸国しょこくとの関係かんけい悪化あっか原因げんいんだったアイルランド問題もんだいがこれで消滅しょうめつする。」と宣言せんげんした[404]。だが保守党ほしゅとうのうち60めいほどの議員ぎいんはこの法案ほうあん反対はんたいした[404]未来みらい保守党ほしゅとう党首とうしゅであるスタンリー・ボールドウィンは、この法案ほうあん自由党じゆうとうロイド・ジョージ保守党ほしゅとうない法案ほうあん賛成さんせい統合とうごうしてあらたなとうつくろうというロイド・ジョージの布石ふせきではとうたがいをつようになった[405]

チャナク事件じけん[編集へんしゅう]
1922ねんムスタファ・ケマル・パシャ

敗戦はいせんこくトルコはセーヴル条約じょうやくによりギリシャに領土りょうど一部いちぶわたすことになったが、トルコ国民こくみんぐんひきいるムスタファ・ケマル・パシャはこれを無視むししてギリシャ占領せんりょうぐん攻撃こうげき仕掛しかけて駆逐くちくした(まれ戦争せんそう)。のみならずケマルぐんは1922ねん9がつにダーダネルス海峡かいきょうだいいち世界せかい大戦たいせん中立ちゅうりつされていた)付近ふきんまで侵攻しんこうしてきて、チャナク駐屯ちゅうとんするイギリスぐん攻撃こうげきするかまえをせた(チャナク危機きき[406][407][408]

ロイド・ジョージ首相しゅしょう熱烈ねつれつにギリシャを支持しじし、現地げんちイギリスぐん死守ししゅめいじた。チャーチルははじめトルコに同情どうじょうてきだったがケマルの恫喝どうかつてき態度たいどて、ロイド・ジョージの方針ほうしん支持しじした[406]。チャーチルの主導しゅどうだいえい帝国ていこく自治領じちりょうにもたいトルコ開戦かいせんのときには出兵しゅっぺいすることをもとめる政府せいふ決議けつぎされた[409][407]。さらにロイド・ジョージはトルコが侵略しんりゃくめない場合ばあいにはイギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい派遣はけんすることを決定けっていし、ギリシャにも支援しえん約束やくそくし、ケマルに最後さいご通牒つうちょうきつけた[409]。イギリスの強硬きょうこう態度たいどおそれたケマルはギリシャとの休戦きゅうせん同意どういし、まれ戦争せんそう終結しゅうけつさせた[410][407]

政権せいけん崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

しかし、戦争せんそうきた世論せろん政府せいふ好戦こうせんてき態度たいど批判ひはんし、1921ねん3がつやまい引退いんたいしていたもと保守党ほしゅとう党首とうしゅボナー・ローは「イギリスは世界せかい警察官けいさつかんではない」とべた[410]だい連立れんりつ相手あいて保守党ほしゅとう連立れんりつ政権せいけん離脱りだつ決議けつぎし、ロイド・ジョージは辞職じしょくし、議会ぎかい解散かいさんした[410]。ただし、ボナー・ロー退任たいにん保守党ほしゅとう党首とうしゅオースティン・チェンバレン(ジョゼフ・チェンバレンの長男ちょうなん)はだい連立れんりつ維持いじだった。チェンバレンは1922ねん9がつ閣議かくぎでのロイド・ジョージ首相しゅしょう早期そうき解散かいさん方針ほうしんにも賛同さんどうあたえ、保守党ほしゅとうないでひんしゅくをった[411]。10月19にち保守党ほしゅとう社交しゃこうかいカールトン・クラブで開催かいさいされた保守党ほしゅとう庶民しょみんいん議員ぎいん会合かいごういち議員ぎいんにすぎなかったスタンリー・ボールドウィンだい連立れんりつ解消かいしょう動議どうぎ提出ていしゅつしたところ、185たい88で可決かけつされるにいたった。ぜん党首とうしゅボナー・ローも連立れんりつ解消かいしょう賛成さんせいしていた[412][413][414]。これをけてチェンバレンは保守ほしゅ党首とうしゅしょくし、首相しゅしょうロイド・ジョージも辞職じしょくした[413][415]

ボナー・ローが組閣そかく大命たいめい受諾じゅだくした[410]。ボールドウィンら保守ほしゅ党内とうないはんだい連立れんりつはロイド・ジョージとチャーチルはキリストVSイスラムの戦争せんそうこして解散かいさんそう選挙せんきょすることで自分じぶんたちに有利ゆうり議会ぎかい状況じょうきょうつくろうとしているのでは、といううたがいをっていた[416]。チャナク事件じけんはきっかけにぎず、自由党じゆうとう保守党ほしゅとうだい連立れんりつはすでにガタがていた。保守党ほしゅとう議員ぎいんたちはロイド・ジョージのワンマン政治せいじにうんざりしていたし、アイルランド自由じゆうこく承服しょうふくしかねるおもいのものおおくいた。このままだい連立れんりつんでいたら保守党ほしゅとうつぎそう選挙せんきょ惨敗ざんぱいし、とう分裂ぶんれつするとかんがえているものもいた[417][418]

議員ぎいん失職しっしょく[編集へんしゅう]

首相しゅしょうとなったボナー・ローは1922ねん11月にも解散かいさんそう選挙せんきょって[419][420]

チャーチルはこのころ盲腸もうちょう手術しゅじゅつのために入院にゅういんちゅうだったが、これまでとおりダンディー選挙せんきょから出馬しゅつばした。しかし今回こんかい自由党じゆうとう候補こうほがもう一人ひとり出馬しゅつばしていた。また労働党ろうどうとう候補こうほとして出馬しゅつばしたエドモンド・モレルとは連携れんけいらず、かれ対立たいりつ候補こうほとして出馬しゅつばした。結党けっとうされたばかりのイギリス共産党きょうさんとう対立たいりつ候補こうほおくりこんできた。禁酒きんしゅ主義しゅぎしゃのスクリムジャーもふたた対立たいりつ候補こうほとして出馬しゅつばした[421]。チャーチルは病室びょうしつから「わたし自由じゆう党員とういん自由じゆう貿易ぼうえき主義しゅぎしゃとして出馬しゅつばするが、有権者ゆうけんしゃにおかれては進歩しんぽてき理性りせいてき保守ほしゅ党員とういんとは協力きょうりょくしていただきたい」という選挙せんきょ区民くみんけてのメッセージをした。このメッセージの効果こうかもあり保守党ほしゅとう対立たいりつ候補こうほてなかった[421]

チャーチルは投票とうひょう直前ちょくぜん椅子いすごとはこばれて選挙せんきょりし、自由じゆう貿易ぼうえき擁護ようご反共はんきょう演説えんぜつおこなったが、「好戦こうせん閣僚かくりょう」とのうわさき、選挙せんきょ区民くみんからの評判ひょうばんわるかった[422]。またわか共産きょうさん党員とういんたちが民謡みんよううたって演説えんぜつ妨害ぼうがいするとチャーチルは「この年端としはもいかぬ爬虫類はちゅうるいども」と怒鳴どなると、若者わかものたちは「赤旗あかはた」をうたったり、「アイルランド共和きょうわこくまんさい」とさけんだ[423]選挙せんきょ結果けっか、スクリムジャーとモレルが当選とうせんし、チャーチルは4落選らくせんした。これについてチャーチルは「わたし一瞬いっしゅんにして、官職かんしょく議席ぎせきとう、おまけに盲腸もうちょううしなったのである」と回顧かいこしている[423][424]

選挙せんきょ全体ぜんたい結果けっか保守党ほしゅとうが345議席ぎせき労働党ろうどうとうが142議席ぎせき自由党じゆうとうロイド・ジョージが62議席ぎせき自由党じゆうとうアスキスが54議席ぎせき獲得かくとくし、保守党ほしゅとう大勝たいしょうわった[423]

チャートウェルてい購入こうにゅう
チャーチルが購入こうにゅうしたチャートウェルやしき

落選らくせんみなみフランスのカンヌ移住いじゅうし、だいいち世界せかい大戦たいせんかんする著作ちょさく世界せかい危機きき(The World Crisis)』の口述こうじゅつ筆記ひっきえがくことにせいした[425][426]。この著作ちょさくは「世界せかいよそおったチャーチルの自伝じでん」「ダーダネルス作戦さくせん自己じこ弁明べんめいしょ」などの批判ひはんもあったものの[427][425]、チャーチルにかなりの印税いんぜいをもたらし、これによってケントしゅうチャートウェルやしき広大こうだい土地とち購入こうにゅうすることができた[428][429]以降いこうチャーチルは週末しゅうまつにはこのチャートウェルていごすようになった[429]子供こどもたちもこの屋敷やしきった[430]

さい落選らくせん自由党じゆうとう離党りとう[編集へんしゅう]

1923ねんえがかれたチャーチルのイラスト

1923ねん5月にボナー・ローが喉頭こうとうがん首相しゅしょう退任たいにんした。後任こうにん候補こうほとしてボールドウィンかカーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵こうしゃく二人ふたりかんがえられたが、国王こくおうジョージ5せいは、庶民しょみんいん優先ゆうせんしてボールドウィンに大命たいめいあたえた[431]。しかし同年どうねん11がつとうかためきれていなかったボールドウィンは、とうをまとめる効果こうかねらって、また世論せろん保護ほご貿易ぼうえきかたむいてきたと判断はんだんして、関税かんぜい改革かいかくかかげた解散かいさんそう選挙せんきょって[432][433]

チャーチルはこの選挙せんきょにレスター・ウェスト選挙せんきょ自由党じゆうとう候補こうほとして出馬しゅつばした。チャーチルは保守党ほしゅとう対立たいりつ候補こうほてるのをひかえてくれるのでは、という期待きたいいていたが、保守党ほしゅとう対立たいりつ候補こうほててきた。労働党ろうどうとうからの攻撃こうげきはげしく、とりわけダーダネルス作戦さくせんかんする『世界せかい危機ききだい2かん出版しゅっぱんされた直後ちょくごであったため、ダーダネルス作戦さくせん批判ひはんする野次やじさかんにんだという。結局けっきょく労働党ろうどうとう候補こうほ勝利しょうりし、チャーチルはふたた落選らくせんした[434]

このそう選挙せんきょでは自由党じゆうとうロイド・ジョージとアスキス自由じゆう貿易ぼうえき擁護ようご共闘きょうとうしていた[435]選挙せんきょせん保守党ほしゅとう食料しょくりょうには関税かんぜいをかけないと約束やくそくしていたが、自由党じゆうとう労働党ろうどうとうあおった結果けっか結局けっきょくたかいパンかやすいパンか」が争点そうてんになっていった[436]。その結果けっか保守党ほしゅとうは87議席ぎせきとして257議席ぎせきとなり、労働党ろうどうとうは191議席ぎせき自由党じゆうとうは151議席ぎせき獲得かくとくし、どこも単独たんどくでは政権せいけんつくれない状態じょうたいとなった[435][436]

自由党じゆうとう指導しどうしゃ復帰ふっきしていたアスキスは、労働党ろうどうとう政権せいけん誕生たんじょうさせる意向いこうであった。チャーチルは「社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんなど誕生たんじょうさせたら重大じゅうだい国家こっか危機ききしょうじる」としてこれにつよ反対はんたいし、保守党ほしゅとう自由党じゆうとう連携れんけいによるはん社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん樹立じゅりつもとめたが、れられなかった。ここにいたってチャーチルははん社会しゃかい主義しゅぎ信条しんじょううしなわぬため、自由党じゆうとう離党りとうする決意けついかためた[437]

保守党ほしゅとう政治せいじとして[編集へんしゅう]

ふくとう再選さいせんまで[編集へんしゅう]

1924ねん1がつ労働党ろうどうとう議員ぎいん提出ていしゅつ内閣ないかく不信任ふしんにんあん自由党じゆうとう賛成さんせい可決かけつされ、ボールドウィンは辞職じしょくし、かわって労働党ろうどうとうラムゼイ・マクドナルド大命たいめいけ、史上しじょうはつ労働党ろうどうとう政権せいけん誕生たんじょうした[436]一方いっぽうそう選挙せんきょやぶれたボールドウィンは同年どうねん2がつ関税かんぜい改革かいかく保守党ほしゅとう方針ほうしんからげた。これにより自由じゆう貿易ぼうえき主義しゅぎしゃのチャーチルも保守党ほしゅとうもどりやすくなった[437]

3月のウェストミンスター寺院じいん選挙せんきょおこなわれた補欠ほけつ選挙せんきょに「無所属むしょぞくはん社会しゃかい主義しゅぎ候補こうほ」として出馬しゅつばした。ここは保守党ほしゅとうのニコルソン地盤じばんであった。チャーチルは「わたし保守党ほしゅとうあらそうつもりはない。それどころかわたし保守党ほしゅとうこそがはん社会しゃかい主義しゅぎしゃ集合しゅうごう場所ばしょになるべきだとかんがえている」と演説えんぜつした[438]保守党ほしゅとうないでは正式せいしき保守党ほしゅとう候補こうほがいる選挙せんきょにチャーチルが出馬しゅつばしたことへのいかりのこえおおかったが、チャーチルのはん社会しゃかい主義しゅぎ姿勢しせい評価ひょうかするこえもあり、複数ふくすう保守党ほしゅとう議員ぎいんから選挙せんきょ協力きょうりょくけた[439]。オースティン・チェンバレンやバルフォアのような保守党ほしゅとう大物おおもの政治せいじもチャーチルに推薦すいせんしょいてくれた[440]。だが選挙せんきょ僅差きんさでニコルソンもの当選とうせんとなり、チャーチルはさん度目どめ落選らくせんきっした[439][440]

チャーチルは保守党ほしゅとう接近せっきんつづけ、食料しょくりょう以外いがい関税かんぜい導入どうにゅうにも前向まえむきになっていった。1924ねん9がつ、エッピング選挙せんきょ保守党ほしゅとう候補こうほ指名しめいされた[441]。ただしチャーチルが正式せいしき保守ほしゅ党員とういんになったのは1925ねんであり[442]選挙せんきょへの立候補りっこうほとどでは党派とうはとして「立憲りっけん」という保守党ほしゅとう組織そしきがよく使用しようする名称めいしょう使つかっている[443]

マクドナルド労働党ろうどうとう政権せいけんソ連それんとの国交こっこう正常せいじょう[注釈ちゅうしゃく 10]やキャンベル起訴きそ撤回てっかい問題もんだいなど労働党ろうどうとう左派さは配慮はいりょした政策せいさく保守党ほしゅとう自由党じゆうとう批判ひはんつよめ、10月8にち自由党じゆうとうのアスキスがしん政策せいさく批判ひはん動議どうぎ提出ていしゅつされ、保守党ほしゅとう賛成さんせい可決かけつされ、マクドナルド内閣ないかく解散かいさんそう選挙せんきょって[445][446]

この選挙せんきょでもチャーチルははげしい社会しゃかい主義しゅぎ攻撃こうげき展開てんかいし、「社会しゃかい主義しゅぎしゃブリタニアせようとしているドイツせい、ロシアせいのふざけたボロれをてろ。彼女かのじょたてきたならしい赤旗あかはたではなく、ユニオン・ジャックはたでなければならない」と演説えんぜつした。エッピング選挙せんきょ反共はんきょう主義しゅぎ機運きうんつよく、チャーチルの反共はんきょう演説えんぜつ選挙せんきょ区民くみん熱狂ねっきょうさせ、圧勝あっしょうした[447]投票とうひょう直前ちょくぜんジノヴィエフ書簡しょかん問題もんだい発生はっせいして有権者ゆうけんしゃ社会しゃかい主義しゅぎへの恐怖きょうふたかまっていたことで全国ぜんこくてきにも反共はんきょうかかげる保守党ほしゅとう圧勝あっしょうしている(保守党ほしゅとう412議席ぎせき労働党ろうどうとう151議席ぎせき自由党じゆうとう40議席ぎせき[448]

だい2ボールドウィンないかく大蔵おおくら大臣だいじん[編集へんしゅう]

1924ねん11月4にちにボールドウィンに大命たいめいがあり、だい2ボールドウィンないかく発足ほっそくした[449]

ボールドウィンはチャーチルがロイド・ジョージとんで保守党ほしゅとう自由党じゆうとう中道ちゅうどうによる「中央ちゅうおうとう」を結成けっせいする事態じたいをかねてからおそれていた。そのためチャーチルをかくないんでおこうとかんがえ、大蔵おおくら大臣だいじんという重要じゅうよう閣僚かくりょうしょくかれ提示ていじした。チャーチルはそれほどたか地位ちい閣僚かくりょうしょく任命にんめいされるとはおもっていなかったから、ボールドウィンから「チャンセラー(Chancellor)にならないか?」とかれたとき、はじめランカスターおおやけりょう担当たんとう大臣だいじん(Chancellor of the Duchy of Lancaster)のことかとおもったという。そのため、チャーチルは「ランカスターですか?」とききかえしたとう。だが大蔵おおくら大臣だいじん(Chancellor of the Exchequer)のことだとかされたとき感動かんどうのあまり、チャーチルのからなみだあふれたという[450][451]。この閣僚かくりょうしょくちちランドルフきょうつとめていた地位ちいであり、次期じき首相しゅしょうさい有力ゆうりょく候補こうほ閣僚かくりょうしょくであった[450]

金本位きんほんいせい復帰ふっき

大蔵おおくら大臣だいじんチャーチルの事績じせきとしてもっとられているのがだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ中断ちゅうだんされていた金本位きんほんいせいへの復帰ふっきである。大戦たいせん、イギリスの輸出ゆしゅつ産業さんぎょう新興しんこうこくアメリカや日本にっぽんされて弱体じゃくたいつづけていた。またイギリスの海外かいがい投資とうしおおくも戦争せんそう手放てばなすこととなり、イギリスの国際こくさい収支しゅうしささえてきた貿易ぼうえきがい収入しゅうにゅうおおきく減少げんしょうしていた[452]当時とうじイギリスの海外かいがい投資とうしおおくはアメリカによってられており、世界せかい金融きんゆう中心ちゅうしんはイギリスのシティからアメリカのウォうぉル街るがいうつろうとしていた。ドルはポンドにさきんじて大戦たいせん終結しゅうけつ直後ちょくご金本位きんほんいせい復帰ふっきし、世界せかい通貨つうか地位ちい確立かくりつしていった[453]国際こくさいてき地位ちい低下ていかあせっていたシティの金融きんゆう業界ぎょうかいはイギリスの国際こくさい投資とうし国際こくさい貿易ぼうえき再興さいこうねらって戦前せんぜんレート(1ポンド=4.86ドル)での金本位きんほんいせい復帰ふっき主張しゅちょうするようになった[454][452]。1918ねん膨大ぼうだい政府せいふ支出ししゅつのために戦後せんご直後ちょくごのイギリスはインフレてき国内こくない信用しんよう拡大かくだいこっていた[455]。しかし1920ねん以降いこうデフレになり、需要じゅよう低下ていかし、物価ぶっかがり、失業しつぎょうりつたかまった。ポンドだかすすみ、1922ねんまつには1ポンド=4.63ドル、1924ねんそう選挙せんきょには1ポンド=4.79ドルとなった。戦前せんぜんレートでの金本位きんほんいせい復活ふっかつおこなってもおおきな混乱こんらんなく実施じっしできそうな相場そうばであり、いい機会きかいえた[453][456]

チャーチルは国際こくさい投資とうしより国内こくない信用しんよう拡大かくだい志向しこうしてインフレ政策せいさく希望きぼうしていたが、大蔵おおくら官僚かんりょうイングランド銀行いんぐらんどぎんこう総裁そうさいモンタギュー・ノーマン (初代しょだいノーマン男爵だんしゃく)の説得せっとくけて、戦前せんぜんかがやかしい地位ちいにイギリスをもどしたいという願望がんぼうつよまり、ほとんどなん準備じゅんびもなく、1925ねん4がつ金本位きんほんいせい復活ふっかつ宣言せんげんした[457][458][459]。これにたい経済けいざい学者がくしゃジョン・メイナード・ケインズ経済けいざい混乱こんらんをもたらすだけだとして批判ひはんし、論争ろんそうしょうじた(金本位きんほんいせい復帰ふっき論争ろんそう)。

ゼネスト弾圧だんあつ
1926ねんゼネストさいハイド・パークでの集会しゅうかい

戦前せんぜんレートでの金本位きんほんいせい復帰ふっきはポンドの過大かだい評価ひょうかであったので、イギリスの輸出ゆしゅつ競争きょうそうりょく低下ていかし、輸出ゆしゅつ産業さんぎょう、とりわけ石炭せきたん産業さんぎょう打撃だげきけた。その結果けっか、イギリスの炭坑たんこう資本しほん経営けいえい合理ごうりはか必要ひつようせまられ、1925ねん6がつ30にちと7がつ1にち坑夫こうふ労働ろうどう組合くみあいである坑夫こうふ連盟れんめいたいして従来じゅうらい最低さいてい賃金ちんぎんと7あいだ労働ろうどうせい破棄はきするとともに、13%から48%までのはばのある賃金ちんぎんげをおこなうことを通告つうこくした。これに対抗たいこうして坑夫こうふ連盟れんめい労働ろうどう組合くみあい会議かいぎゼネスト表明ひょうめいした[460][461][462][463]

このゼネストにたいしてボールドウィン首相しゅしょうは、王立おうりつ委員いいんかいによる調査ちょうさわるまで賃金ちんぎんぶん補助ほじょきん政府せいふすことを約束やくそくして懐柔かいじゅうした。しかし王立おうりつ委員いいんかいは1926ねん3がつ多少たしょう労働ろうどう環境かんきょう緩和かんわみながらも、賃金ちんぎんげと補助ほじょきんりをもとめる報告ほうこくしょ提出ていしゅつしたため、ふたたびゼネスト突入とつにゅう危機ききたかまった[464][465][466]労働ろうどう組合くみあい会議かいぎ幹部かんぶあいだには交渉こうしょうもとめるこえおおかったが、政府せいふは『デイリー・メール』植字しょくじこう政府せいふのゼネスト批判ひはんぶん掲載けいさいしなかったことを理由りゆうとして交渉こうしょう拒否きょひ労働ろうどう組合くみあい会議かいぎそう評議ひょうぎかいは1926ねん5がつ3にちからゼネストに突入とつにゅうした[467][468][466][460]

王立おうりつ委員いいんかい設置せっちはストやぶりなどゼネストを骨抜ほねぬきにする体制たいせいととのえるための政府せいふ時間じかんかせぎで、態勢たいせいととのうや政府せいふ挑発ちょうはつしてゼネストをこさせたという批判ひはんがある[469]。そしてその立場たちばからは挑発ちょうはつおこなわせた閣僚かくりょうはチャーチルだという見方みかたおおかったが、さだかではない[470]。ボールドウィン首相しゅしょう非常ひじょう事態じたいほう制定せいていして労働ろうどう運動うんどう弾圧だんあつ開始かいしした[471]。そしてその弾圧だんあつもっと強力きょうりょく支持しじしたのは労働ろうどう運動うんどう背後はいごつね共産きょうさん主義しゅぎしゃ陰謀いんぼうているチャーチルであった[471][472]。チャーチルは政府せいふ機関きかん『ブリティッシュ・ガゼット』を創刊そうかんし、ゼネストが違法いほうであることをうったえた[473]。こうした政府せいふ攻撃こうげき奏功そうこうし、ゼネストは大衆たいしゅう支持しじなかった[474]

政府せいふ資本しほんによる労働ろうどう運動うんどうくず工作こうさく成功せいこうし、労働ろうどう組合くみあい会議かいぎ若干じゃっかん賃金ちんぎんげをみとめるにいたり、5月11にちにはゼネスト中止ちゅうし宣言せんげんした[475][466]鉱山こうざん労働ろうどう組合くみあいのみしたがおうとせず、単独たんどくでの労働ろうどう争議そうぎつづけたが、かれらも11月までに資本しほん要求ようきゅうをすべてれる無条件むじょうけん降伏ごうぶくまれてストは終結しゅうけつした[475][469][476][474]

1928ねんのイタリア首相しゅしょうムッソリーニ

イギリスのはん植民しょくみんエジプト訪問ほうもん帰路きろの1927ねん1がつイタリア訪問ほうもんし、1922ねん以来いらい政権せいけん掌握しょうあくしていたファシストとう党首とうしゅ首相しゅしょうベニート・ムッソリーニ会見かいけんした[477]。イタリアをはなれるさい、イタリアの新聞しんぶん記者きしゃたちにたいしてチャーチルは、「もしわたしがイタリアじんだったら、レーニン主義しゅぎ獣欲じゅうよく狂気きょうき対抗たいこうする貴方あなたたちたたかいを支持しじし、行動こうどうをともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘しとうえんじる必要ひつようがなく、我々われわれには我々われわれりゅう物事ものごとすすかたがある。しかし最終さいしゅうてきには我々われわれ共産きょうさん主義しゅぎたたかい、そのいきめることに成功せいこうすると確信かくしんしている。」とかたった[478][477][479]。さらに「ファシズムの国際こくさいてき価値かち」として「破壊はかいてき勢力せいりょく対抗たいこうして、文明ぶんめい社会しゃかい名誉めいよ安定あんていまもろうという大衆たいしゅう意思いしまさしくみちび方法ほうほう世界せかいしめした」ことを指摘してきし、「ロシア革命かくめいどくたいするもっと有効ゆうこう解毒げどくざい」であると評価ひょうかした[477][480]

チャーチルは1929ねんの4がつ予算よさん演説えんぜつにて政府せいふ借入金かりいれきんによる公共こうきょう事業じぎょうでは失業しつぎょうりつげることは出来できないと宣言せんげんした[481]

空白くうはくの10ねん[編集へんしゅう]

1929ねん5月のそう選挙せんきょでチャーチルはエッピング選挙せんきょ再選さいせんたすも、選挙せんきょ全体ぜんたい結果けっか失業しつぎょう対策たいさくうったえた労働党ろうどうとうが289議席ぎせき獲得かくとくしてだいいちとう躍進やくしんした。保守党ほしゅとうは260議席ぎせき自由党じゆうとうは59議席ぎせきしか獲得かくとくできず、保守党ほしゅとう政権せいけん崩壊ほうかい、チャーチルも大蔵おおくら大臣だいじん退任たいにんわって自由党じゆうとう協力きょうりょくける労働党ろうどうとう政権せいけんだい2マクドナルド内閣ないかく発足ほっそくした[482]

もっともこの選挙せんきょ保守党ほしゅとう勝利しょうりしていたとしてもチャーチルは大蔵おおくら大臣だいじんから罷免ひめんされていたといわれる。というのもボールドウィン首相しゅしょう選挙せんきょ戦中せんちゅうに「チャーチルはさい入閣にゅうかくさせない」と周囲しゅういらしているからである。チャーチルはこの段階だんかいでも自由党じゆうとう保守党ほしゅとう連合れんごう構想こうそうっており、自由じゆう貿易ぼうえきてきれないでいた。そのため党内とうない保護ほご貿易ぼうえき主義しゅぎしゃから不満ふまんっており、孤立こりつしつつあったのである。また個人こじんてきにもボールドウィン首相しゅしょう大蔵省おおくらしょう管轄かんかつがいのことにまでくちして閣議かくぎみだしがちなチャーチルをきらっていた[483][484]以降いこうチャーチルは10ねんにわたって閣僚かくりょうしょくくことができなかった。

1929ねん、チャーチルとチャップリン

1929ねんあきのアメリカ・ウォうぉル街るがいだい暴落ぼうらくはしはっする世界せかいだい恐慌きょうこうはイギリスもおそい、1929ねん5がつに115まんにんだったイギリスの失業しつぎょうしゃすうが1930ねん12月には250まんにん倍増ばいぞうした。失業しつぎょう手当てあて膨大ぼうだいとなるなか労働党ろうどうとう政権せいけん失業しつぎょう手当てあて削減さくげんあんをめぐってかくない分裂ぶんれつし、1931ねん8がつそう辞職じしょく[484][485]困難こんなん時局じきょく対応たいおうできる強力きょうりょく政府せいふもとめられた結果けっか、マクドナルドを首相しゅしょうのままとした保守党ほしゅとう自由党じゆうとう労働党ろうどうとうだい連立れんりつ労働党ろうどうとうだい連立れんりつ反対はんたい主流しゅりゅうであり、マクドナルドらは事実じじつじょう除名じょめいされたかたちであった)の3とうだい連立れんりつによる挙国一致きょこくいっちないかく成立せいりつした[484][486]。しかしチャーチルは入閣にゅうかくできなかった[487]

挙国一致きょこくいっちないかくはチャーチルがさい導入どうにゅうした金本位きんほんいせい停止ていしし、だいえい帝国ていこく排他はいたてきなブロック経済けいざいけんにする保護ほご貿易ぼうえきすすめた。これはイギリスが1世紀せいきちかまえ自由じゆう貿易ぼうえき移行いこうして以来いらい歴史れきしてき保護ほご貿易ぼうえきへの回帰かいきだった[488]

チャーチルは自由じゆう貿易ぼうえき主義しゅぎしゃだったが、あまりの失業しつぎょうしゃすう増大ぞうだいかれ信念しんねんらぎ、新聞しんぶんしゃ経営けいえいしゃ初代しょだいビーヴァーブルック男爵だんしゃくマックス・エイトケンらがとなえる「帝国ていこく自由じゆう貿易ぼうえき」という自由じゆう貿易ぼうえきりた帝国ていこく特恵とっけい関税かんぜい制度せいど支持しじするようになった[489]

1930ねんには『My Early Life』を出版しゅっぱんし、庶民しょみんいん議員ぎいんとなるまでの自分じぶん人生じんせいかえった。冒険ぼうけん活劇かつげき調ちょうであり、インドじんを「蛮族ばんぞくばわりし、「蛮族ばんぞく」が自分じぶん活躍かつやくでばたばたとたおされていったこと自慢じまんげにいている[490]。1931ねんからは先祖せんぞである初代しょだいマールバラ公爵こうしゃく伝記でんき『マールバラこう その生涯しょうがい時代じだい』の執筆しっぴつ開始かいしし、マールバラこうを「貪欲どんよく道徳どうとくとは無縁むえん人物じんぶつ」とするマコーレーの評価ひょうか反駁はんばくしたものだった[491]

インド自治じち反対はんたい[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうにロイド・ジョージないかくはインドじんから積極せっきょくてき戦争せんそう協力きょうりょくるために、戦後せんごのインド自治じち約束やくそくしていた。しかし戦争せんそうわっても自治じち見通みとおしはたず、ガンジー暴力ぼうりょく抵抗ていこう運動うんどうがりをせていた[492]。これを懐柔かいじゅうすべく、インド総督そうとくアーウィンきょうのハリファックスきょうは、1929ねんにインドのだいえい帝国ていこく自治領じちりょう最終さいしゅう目標もくひょうであり、そのためのロンドンの円卓えんたく会議かいぎにインドじん代表だいひょうだん参加さんかできるようにすることを宣言せんげんした[489]首相しゅしょうマクドナルドや保守党ほしゅとう党首とうしゅボールドウィンは、アーウィンきょう宣言せんげん支持しじしたが、熱心ねっしん帝国ていこく主義しゅぎしゃであるチャーチルは反対はんたいした。インドじんには自治じち尚早しょうそうであること、インドの支配しはいそうはインドのみん代表だいひょうしているとはとてもえないものたちであること、だいえい帝国ていこく繁栄はんえい根源こんげんであるインドに自治じちあたえることは自分じぶん自分じぶん手足てあしてているも同然どうぜんであること、いちでもインド・ナショナリズムに譲歩じょうほしたら、なしくずてき独立どくりつまですすんでしまうであろうことなどを指摘してきした[493][492]

ガンジーは、はじめアーウィンきょう宣言せんげんたいしてあゆろうとしなかったので1930ねん5がつ投獄とうごくされたが、1931ねん1がつには釈放しゃくほうされて交渉こうしょうおうじた[494][495]。しかしガンジーを嫌悪けんおするチャーチルは、交渉こうしょうおうじるアーウィンきょう批判ひはんした[496]。またインド自治じち危険きけんせいかんろうとしない大衆たいしゅうにもいかりをかんじており、「かれらは失業しつぎょう増税ぞうぜい心配しんぱいばかりしている。あるいはスポーツと犯罪はんざい報道ほうどう夢中むちゅうだ。いま自分じぶんたちがっている大型おおがた客船きゃくせんしずかにしずみつつあるというのがからないのか。」と憂慮ゆうりょした[494]。しかしチャーチルの強硬きょうこう反対はんたいろん党首とうしゅボールドウィンにきらわれた。1931ねん1がつにボールドウィンが「インド政治せいじ指導しどうそう支持しじたインド政策せいさくならば支持しじする」と宣言せんげんしたことがきっかけでチャーチルはボールドウィンと完全かんぜんたもとかち、「かげ内閣ないかく」からも離脱りだつした[494][497][498][499]

1933ねん3がつ17にちにマクドナルド挙国一致きょこくいっちないかくは、のインド統治とうちほうたただいとなる白書はくしょ発表はっぴょうした。そこにはインド各州かくしゅう自治じちけん付与ふよすること、インドじん参加さんかする連邦れんぽう政府せいふ創設そうせつし、インド総督そうとく権限けんげん一部いちぶ連邦れんぽう政府せいふうつすこと、またインド総督そうとく責任せきにん立法りっぽう議会ぎかい設置せっちすることなどがまれていた[500]。チャーチルはこの白書はくしょ反対はんたいし、1933ねん4がつにはみずからをふく総裁そうさいとしたインド防衛ぼうえい連盟れんめい結成けっせいした[501]。その創設そうせつ大会たいかいでチャーチルは「ガンジー主義しゅぎ粉砕ふんさい」をうったえる演説えんぜつおこなってイギリスでもインドでも注目ちゅうもくされた[502]。インド防衛ぼうえい連盟れんめい加入かにゅうしゃすうこそすくなかったが、ちち創設そうせつしたプリムローズ・リーグ同様どうよう保守党ほしゅとう議会ぎかいがい大衆たいしゅう組織そしきおおきな影響えいきょうおよぼしていた[502]。1933ねん6がつ保守党ほしゅとう協会きょうかい全国ぜんこく同盟どうめい会合かいごうでは参加さんかしゃの3ぶんの1からインド自治じち反対はんたいひょう獲得かくとくし、1934ねんあき保守党ほしゅとう大会たいかいではインド自治じち賛成さんせい543ひょうたいして、インド自治じち反対はんたい520ひょう僅差きんさんだ[502]

しかし1935ねん1がつにマクドナルド挙国一致きょこくいっちないかくがインド統治とうちほう提出ていしゅつするとチャーチル情勢じょうせいわるくなった。チャーチルが1935ねん1がつ30にちBBCのラジオ放送ほうそうおこなったインド自治じち反対はんたい演説えんぜつ評判ひょうばんわるく、また同年どうねん2がつには長男ちょうなんランドルフがインド統治とうちほう反対はんたい公約こうやくかかげて保守党ほしゅとう公認こうにん候補こうほ対抗たいこうしてウェイヴァトリー選挙せんきょ補欠ほけつ選挙せんきょ出馬しゅつばするも落選らくせんした[503]。インド統治とうち法案ほうあん庶民しょみんいんでの審議しんぎにおいてもだいさん読会どっかいまでのどの投票とうひょうでもチャーチルは90ひょう以上いじょうひょうあつめられなかった。最終さいしゅうてきには1935ねん6がつ5にち庶民しょみんいん採決さいけつで264ひょう大差たいさをつけられて、チャーチルは敗北はいぼくし、インド統治とうちほう可決かけつされることとなった[504]

しかし結局けっきょくインド統治とうちほうさだめられた「インド連邦れんぽう」ははん王国おうこく反発はんぱつして加盟かめい拒否きょひしたため、施行しこうされなかった[505]。またヨーロッパ情勢じょうせい緊迫きんぱくしているなか、チャーチルもこれ以上いじょうこのけん保守党ほしゅとう執行しっこう対立たいりつふかめるのはこのましくないと判断はんだんし、自分じぶん選挙せんきょてて闘争とうそう終了しゅうりょう宣言せんげんした。そのなかもと首相しゅしょうソールズベリー侯爵こうしゃくが1867ねん選挙せんきょほう改正かいせいをめぐってやぶれたさいの「政治せいじてき敗北はいぼくれることは、あらゆるイギリスじん政党せいとう義務ぎむだ」という言葉ことば引用いんようした[505]

たいヒトラー[編集へんしゅう]

選挙せんきょちゅうアドルフ・ヒトラー

チャーチルは1932ねんなつ初代しょだいマールバラこう古戦場こせんじょうめぐりのたびさい、ドイツ・バイエルンしゅうミュンヘンったことがあった。その時期じきドイツでは国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょおこなわれ、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとうだいいちとうとなり、その党首とうしゅアドルフ・ヒトラーちかいうちにパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領だいとうりょうより首相しゅしょう任命にんめいされる可能かのうせいたかまっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチとう幹部かんぶエルンスト・ハンフシュテングルい、ヒトラーとの会談かいだんすすめられ承諾しょうだくした[506]。しかし、チャーチルはシオニズム支持しじしている政治せいじだった[507]ためハンフシュテングルに「なぜヒトラーはユダヤじんを、しかもユダヤじんであるという理由りゆうだけで迫害はくがいするのか」という質問しつもんをぶつけ、この質問しつもんがヒトラーのみみはいって機嫌きげんそこねたらしく、会見かいけんはヒトラーから拒否きょひされた[508]

後世こうせいにチャーチルは「こうしてヒトラーはわたし会見かいけんするただいちのチャンスをのがしたのだった。ヒトラーが政権せいけんにぎってから、なん会談かいだんオファーがあったが、わたし口実こうじつつくってことわった。」と回顧かいこしている[509][510]半年はんとし1933ねん1がつ首相しゅしょうにんじられたヒトラーは独裁どくさい体制たいせいととのえ、1935ねん3がつには念願ねんがんのヴェルサイユ条約じょうやくドイツ軍備ぐんび制限せいげん条項じょうこう破棄はき宣言せんげんしてさい軍備ぐんび開始かいしした[510]

イギリスでは一般いっぱん保守党ほしゅとう政治せいじはナチとう同情どうじょうてきだった。かれらは、ヴェルサイユ条約じょうやくのようなものをけられては、その撤廃てっぱい主張しゅちょうするのは無理むりからぬことだとし、ナチとう無理むり政権せいけんからろせばドイツが共産きょうさんすると主張しゅちょうした。そのためヒトラーのさい軍備ぐんび計画けいかく徹底的てっていてきおさえつけるより、ある程度ていど国力こくりょく回復かいふくゆるし、たい防波堤ぼうはていにするのがよいとかんがえるたいどく宥和ゆうわおおかった[511]保守党ほしゅとう党首とうしゅボールドウィンやその後任こうにん党首とうしゅとなるネヴィル・チェンバレン同様どうようであった。

ところがチャーチルはこうした立場たちばたず、たいどく強硬きょうこうろんしゃとなった。ドイツにさい軍備ぐんびゆるせばドイツは帝政ていせい時代じだいみの国力こくりょくそなえようとするだろうし、はん防波堤ぼうはていのメリットより、だいえい帝国ていこく世界せかい支配しはい体制たいせいをドイツがふたたおびやかすというリスクのほうおおきそうにおもえた[512]。また1930年代ねんだいのチャーチルはされていたことから、あえて保守党ほしゅとう主流しゅりゅう一線いっせんかくたいどく強硬きょうこうろんつことで、ドイツ脅威きょういろんがってきたところを保守党ほしゅとう中枢ちゅうすうかえこうという政治せいじてきねらいだった可能かのうせいもある[513]。チャーチルはドイツのさい軍備ぐんび要求ようきゅう断固だんこ拒否きょひし、イギリスは軍備ぐんび増強ぞうきょうおこなうべきであると主張しゅちょうした[514]。またつぎ戦争せんそうでは海軍かいぐんではなく空軍くうぐん決定的けっていてき役割やくわりたすとていたチャーチルは、とりわけドイツ空軍くうぐん増強ぞうきょう警鐘けいしょうらした[515][516]

1936ねん3がつにヒトラーはヴェルサイユ条約じょうやく武装ぶそう地帯ちたいさだめられていたラインラントにドイツぐん進駐しんちゅうさせた。フランス政府せいふたいどく開戦かいせんすべきかどうか判断はんだんまよい、イギリス政府せいふうかがいをてたが、ボールドウィン首相しゅしょう(マクドナルドは1935ねん6がつ退任たいにんし、保守党ほしゅとう党首とうしゅボールドウィンがふたた首相しゅしょうとなった)は宥和ゆうわ政策せいさくもとづき、放置ほうちすべしとした。イギリス国内こくない世論せろんも「ドイツの領土りょうどにドイツぐんはいっていっただけ」という宥和ゆうわてき空気くうきつよかった。だがチャーチルは一人ひとり激怒げきどし、「クレマンソーだったらボールドウィンごときにはかることなく、ただちに戦争せんそう開始かいししただろう」とべ、フランスの人材じんざい不足ふそくなげいた[517]

一方いっぽうでチャーチルはヒトラー以外いがいのファシズム指導しどうしゃ好意こういてきであり、1935ねんにムッソリーニのエチオピア侵攻しんこうについて帝国ていこく主義しゅぎしゃ立場たちばから「エチオピアじんはインドじん同類どうるいであり、支配しはいされるべき原始げんしてき人種じんしゅ」として熱烈ねつれつ支持しじした[518]。1936ねんのスペインのフランコ将軍しょうぐんによる左派さは勢力せいりょくとのたたかい(スペイン内戦ないせん)も反共はんきょう主義しゅぎしゃとしての立場たちばから共感きょうかんち、労働党ろうどうとうはんファシズムの立場たちばから左派さは政府せいふ支持しじしたのにたいして、チャーチルはボールドウィンないかく不干渉ふかんしょう方針ほうしん支持しじした[519][520]。なおチャーチルはヒトラーひきいるナチスを攻撃こうげきしていたとはえ「ナチス政体せいたいきらひとでも、ヒトラーの愛国あいこくてき偉業いぎょうには嘆賞たんしょうしまないであろう」「くににもそうしたつよ指導しどうしゃあらわれて、我々われわれ列強れっきょう地位ちいもどしてほしいものだ」とべたことがある[521]。この言動げんどうからかんがえて、ナチスドイツの存在そんざいがイギリスに脅威きょういおよぼしているのでチャーチルははんどくてき態度たいどっているのであり、ナチスドイツがイギリスにとって脅威きょういでないのなら、チャーチルははんナチズムの立場たちばっていなかったのではとする見方みかたもある[513]

とう動向どうこうについて、野党やとう労働党ろうどうとうはんファシズムをかかげていた。しかし労働党ろうどうとうは、ファシズムに対抗たいこうするための自国じこく軍備ぐんび拡張かくちょうにも反対はんたいしていた[522]。1931ねん労働党ろうどうとう党首とうしゅ就任しゅうにんしたジョージ・ランズベリー平和へいわ主義しゅぎしゃで、常備じょうびぐん存在そんざい戦争せんそう誘発ゆうはつするとかんがえ、イギリスぐん解体かいたいしたいと発言はつげんしたこともあったほか[523]無抵抗むていこう非戦論ひせんろん主張しゅちょうしていた[524]。これにたい労働党ろうどうとう右派うはアーネスト・ベヴィンは「無抵抗むていこう主義しゅぎがかえって侵略しんりゃくまねく」として、党首とうしゅランズベリーをはげしく攻撃こうげき[525][526]かれ党首とうしゅ辞任じにんんだ[527]しん党首とうしゅクレメント・アトリーはんファシズムのための軍拡ぐんかく容認ようにんかじった[528]

エドワード8せい退位たいい[編集へんしゅう]

退位たいいにヒトラーと会談かいだんするエドワード8せいウォリス・シンプソン(1937ねん

1936ねん1がつ国王こくおうジョージ5せい崩御ほうぎょし、皇太子こうたいしエドワードがエドワード8せいとして即位そくいした。エドワード8せい即位そくいすでに40ぎだったが、がいなかった。皇太子こうたいし時代じだいからアーネスト・シンプソンの夫人ふじんのアメリカじん女性じょせいウォリス・シンプソンっていた[529]。1936ねん10がつ27にちにシンプソン夫妻ふさい離婚りこん法的ほうてきまると、エドワード8せい結婚けっこん意思いしをボールドウィン首相しゅしょうつたえた。だが伝統でんとうおもんじるボールドウィン以下いか保守党ほしゅとう政治せいじたちには、離婚りこんれきがあり、さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップちゅうえいドイツ大使たいしとの交際こうさいれきもあるアメリカじん女性じょせいとの結婚けっこんには反対はんたいこえ根強ねづよかった[530]

またエドワード8せい外交がいこうへの介入かいにゅう目立めだおうであり、ラインラント問題もんだいさいにも、しんどくとしてドイツの邪魔じゃまをしないようイギリス政府せいふをけんせいしてきた[531]。ボールドウィン首相しゅしょうとしては自己じこ主張しゅちょうつよおうより、よわおうおとうとヨークこうアルバートほうがイギリスの王位おういいているとかんがえるようになり、エドワード8せい結婚けっこんするなら退位たいいするようせまった[532][530]。チャーチルは、王室おうしつへの忠誠ちゅうせいしん、またボールドウィンへの敵意てきいもあってエドワード8せい擁護ようごまわった[530][533]

エドワード8せいも11月16にちにボールドウィン首相しゅしょう引見いんけんしたさいには退位たいい意思いしつたえていたが、11月25にちになって保守党ほしゅとう議員ぎいん一部いちぶ主張しゅちょうしていた貴賎きせんしょうこん(シンプソン夫人ふじん正式せいしき王妃おうひとしてではなく、コーンウォールこう夫人ふじんとしてエドワード8せいとつがせる)を可能かのうとするほう整備せいび要求ようきゅうするようになった[534]。これをいたボールドウィンは自分じぶん辞職じしょくさせてチャーチルを首相しゅしょうにする陰謀いんぼう確信かくしんし、「退位たいいされないつもりなら辞職じしょくさせていただきます。その場合ばあい国王こくおうたい政府せいふ』のたたかいがはじまり、イギリスはゆう危機ききおちいるでしょう」と奏上そうじょうした[535]

これにたいしてチャーチルは「おう臣下しんか助言じょげん拒否きょひしたら、退陣たいじんすべきは臣下しんかであっておうではない。臣下しんかおう圧力あつりょくをかける権利けんりなどない」と君主くんしゅ主義しゅぎ立場たちばからボールドウィン批判ひはん展開てんかいした[533]。チャーチルは自分じぶん支持しじする議員ぎいんたちをかきあつめたが、40にん程度ていどしか糾合きゅうごうできなかった[536]

12月2にちにボールドウィン首相しゅしょうはエドワード8せい最後さいご通牒つうちょうきつけた。世論せろん自治領じちりょう政府せいふもボールドウィンを支持しじしているとのことだった[537]。それでもエドワード8せいはチャーチルと相談そうだんしてから決断けつだんしたいと即断そくだんけた[532]。12月4にちにエドワード8せい引見いんけんけたチャーチルは、退位たいいおもいとどまるよう説得せっとくにあたったが、もうエドワード8せいにはチャーチルとともにおう党派とうはひきいて政府せいふたたか意思いしはなくなっていた[533]結局けっきょくエドワード8せいはこのにちの12月6にちおとうとヨークこう譲位じょういすることを国民こくみん発表はっぴょう[538]、12月9にちには正式せいしき退位たいい文書ぶんしょ署名しょめいした[539]

チャーチルの立場たちばはなくなり、12月7にちのチャーチルの庶民しょみんいんでの演説えんぜつ批判ひはん野次やじ轟々ごうごうとなった。激怒げきどしたチャーチルは、ボールドウィン首相しゅしょうかって「貴方あなた陛下へいかはたきのめさなければまないのですか」とさけんだ[533]

たいどく宥和ゆうわ政策せいさくへの反対はんたい[編集へんしゅう]

1938ねん9がつミュンヘン会談かいだんひだりからえい首相しゅしょうチェンバレン、ふつ首相しゅしょうダラディエどく総統そうとうヒトラー、首相しゅしょうムッソリーニ、外相がいしょうチアーノ

1937ねん5がつにボールドウィン首相しゅしょう政界せいかい引退いんたいし、わってネヴィル・チェンバレン保守党ほしゅとう党首とうしゅ首相しゅしょう就任しゅうにんした[540][539]。チェンバレンもボールドウィンと同様どうよう閣議かくぎみだ危険きけん分子ぶんし」チャーチルを入閣にゅうかくさせる意思いしはなかった[541]

1937ねんちゅう、チャーチルはちゅうえいドイツ大使たいしヨアヒム・フォン・リッベントロップ会見かいけんし、ひがしヨーロッパにたいする領有りょうゆうけん主張しゅちょういて、ドイツの領土りょうどてき野心やしんつよまっているとの確信かくしんつよめた[542]実際じっさいこのころからヒトラーはかつてドイツ帝国ていこくオーストリア=ハンガリー帝国ていこく領有りょうゆうしていた領土りょうどのうちドイツけい住民じゅうみん多数たすう地域ちいき割譲かつじょう要求ようきゅうするようになっていた。1938ねん3がつにはドイツ民族みんぞく国家こっかオーストリアがドイツに併合へいごうされた。チェンバレンは許容きょよう範囲はんいない判断はんだん無視むししたが[543]、チャーチルはヒトラーのオーストリア併合へいごう計画けいかく批判ひはんする演説えんぜつおこなった。

つづいてヒトラーはきゅうオーストリア=ハンガリー帝国ていこくりょうズデーテン地方ちほう当時とうじチェコスロバキアりょう)のドイツへの割譲かつじょう要求ようきゅうした[544]。チャーチルは、はんファシズムをかかげていた野党やとう労働党ろうどうとう党首とうしゅクレメント・アトリー電話でんわ会談かいだんし、アトリーは「あなた(チャーチル)が政府せいふ造反ぞうはんするのであれば、あなたを支持しじする」とべた[545]首相しゅしょうチェンバレンは1938ねん9がつ15にちにドイツ・バイエルンしゅうベルヒテスガーデンのヒトラーの別荘べっそう訪問ほうもんし、ヒトラーをじか説得せっとくしようとしたが、ヒトラーはズデーテンのドイツじんがいかにチェコスロバキア政府せいふによってひど弾圧だんあつけているかをとうとうとかたり、ぎゃくにチェンバレンを口説くどとした[546]結局けっきょくチェンバレンはフランスをせて、9月29にちえいふつどく四国しこく首脳しゅのうによるミュンヘン会談かいだんおこない、正式せいしきにズデーテンのドイツ領有りょうゆうみとめた[547][548]。イギリス世論せろん平和へいわまもられたとして歓喜かんきつつまれており、チャーチルやアトリーら宥和ゆうわ政策せいさく批判ひはんろんしゃが、チェンバレンないかく倒閣とうかく企図きとできるような雰囲気ふんいきではなかった[549]。チャーチルは「我々われわれ敗北はいぼくした」[550]、「これがだいえい帝国ていこく終焉しゅうえんつながらなければよいが」とかたったという[551]。チャーチルとチャーチル議員ぎいん30めいほどはミュンヘン協定きょうてい抗議こうぎすべくその批准ひじゅん決議けつぎ欠席けっせきした[552]。アトリーは、ズデーテン割譲かつじょう要求ようきゅう容認ようにんについて「これはイギリスとフランス がこうむった最悪さいあく外交がいこうてき敗北はいぼくである」「民主みんしゅてきなチェコスロバキア国民こくみん裏切うらぎられ、無慈悲むじひ専制せんせい支配しはいしゃ手渡てわたされた」と庶民しょみんいんべた[549][553]

しかしミュンヘン協定きょうていもむなしく、1939ねん3がつにはチェコスロバキアの内紛ないふんでチェコとスロバキアが分離ぶんりしたのを利用りようしてドイツはチェコを保護ほごりょうとした(チェコ併合へいごう[554]。これにより政界せいかい世論せろん宥和ゆうわ政策せいさく失敗しっぱいだったとの認識にんしきつよまった[555]。ここにいたって労働党ろうどうとうえいふつ同盟どうめい主張しゅちょう[556]反共はんきょう主義しゅぎしゃのチャーチルも勢力せいりょく均衡きんこうろんから賛成さんせいした[557]

だがチェンバレン首相しゅしょうソ連それんとの同盟どうめいには否定ひていてきだった。かれソ連それんをイデオロギーてききらっていたし、ソ連それんえいふつとドイツをつぶわせようとしているという疑念ぎねんつよっていた。それにソ連それん共産党きょうさんとう軍隊ぐんたいである赤軍せきぐんスターリンだい粛清しゅくせいによってトゥハチェフスキー元帥げんすいをはじめとする高級こうきゅう将校しょうこうのほとんどが抹殺まっさつされていたため、同盟どうめいむすんだところでまともな戦力せんりょくとして勘定かんじょうできないとかんがえられた[558]

一方いっぽうスターリンもどくソを反目はんもくさせようというえいふつ陰謀いんぼう警戒けいかいしており、ドイツと協定きょうていむすんでおく必要ひつようせいかんじていた[559]。ヒトラーもビスマルク以来いらいのドイツの正面しょうめん作戦さくせん回避かいひ戦略せんりゃくであるロシアとの接近せっきんかんがえていた[560]。こうして利害りがい一致いっちしたスターリンとヒトラーは、1939ねん8がつ23にちどく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつした。この条約じょうやく秘密ひみつ協定きょうていにおいてひがしヨーロッパをどく両国りょうこく分割ぶんかつ支配しはいすることがめられた[561]。イデオロギーじょうあいいれないはずの両国りょうこく握手あくしゅ世界せかいおどろいたが、チャーチルはスターリン支配しはいソ連それんはレーニン時代じだいくらべて、共産きょうさん主義しゅぎがお題目だいもくしており、列強れっきょう大差たいさがなくなってきているとかんがえていたため、さほどおどろかなかったという。それよりみすみすソ連それんをドイツにくれてやったチェンバレンの外交がいこうセンスのさに批判ひはんてきだった[562]

チェンバレンないかく海軍かいぐん大臣だいじん[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんうみしょう就任しゅうにん[編集へんしゅう]

えいふつソ連それん挟撃きょうげき危機きき回避かいひしたドイツぐんは1939ねん9がつ1にちポーランド侵攻しんこう開始かいしした。閣僚かくりょうからもたいどく開戦かいせん要求ようきゅうされたチェンバレンは、9月2にちにドイツに宣戦せんせん布告ふこくした[563]。イギリスにきずられてフランスもたいどく参戦さんせん[564]だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんした。

開戦かいせんした以上いじょう、チェンバレンとしてもたいどく強硬きょうこう代表だいひょうかくチャーチルを登用とうようしないわけにはいかず、チャーチルを海軍かいぐん大臣だいじんにんじた。チャーチルは24ねんぶりに海軍かいぐんしょう大臣だいじん執務しつむしつ復帰ふっきした[565]ぜん艦隊かんたいに「ウィンストンかえる」といた電報でんぽうおくっている[563]。チャーチルはながらく政権せいけんからはなれていたとはいえ、コネを使つかって政府せいふ軍事ぐんじ情報じょうほう収集しゅうしゅうするのをおこたらなかったし、1935ねんからは帝国ていこく防衛ぼうえい委員いいんかい付属ふぞく防空ぼうくう研究けんきゅう委員いいんかい所属しょぞくしていたので航空機こうくうき最新さいしん知識ちしきもそれなりにっており、役職やくしょくをこなすうえでなんはなかった[566]

チェンバレン首相しゅしょう開戦かいせん早期そうき平和へいわ実現じつげんねがっており、今度こんど戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせんのような徹底てってい抗戦こうせんではなく、経済けいざい圧力あつりょく主眼しゅがんにしようとかんがえていた。ドイツをやせほそらせて、領土りょうど拡大かくだいが「わりわない」ことをヒトラーにおもらせ次第しだい早期そうき講和こうわかんがえである[567]。だがチャーチルはだいいち世界せかい大戦たいせんとき同様どうようイギリスかドイツ、どちらかがたおれるまで徹底的てっていてきたたかうつもりだった。これについて閣僚かくりょう一人ひとりサミュエル・ホア英語えいごばんは「やつは100ねんでもたたかうつもりでいる」とチャーチルを批判ひはんしている[568]

海戦かいせん状況じょうきょう一進一退いっしんいったいだった。開戦かいせんあいだもない1939ねん10がつ13にちから14にちにかけてドイツ海軍かいぐん潜水せんすいかんUボートによって戦艦せんかんロイヤル・オークしずめられた[569][570]。しかし12月にはぎゃくにイギリス戦艦せんかんがドイツ海軍かいぐん装甲そうこうかんアドミラル・グラーフ・シュペー自沈じちんんだ[569][570]

北欧ほくおうでのたたか[編集へんしゅう]
北欧ほくおうせんでドイツぐん捕虜ほりょになったイギリス将兵しょうへい

一方いっぽう陸戦りくせんほうでは、ポーランドが開戦かいせんからわずか4週間しゅうかんにしてドイツぐんソ連それん赤軍せきぐんによって蹂躙じゅうりんされ、どく分割ぶんかつ占領せんりょうをうけていた。しかしえいふつぐんとドイツぐんあいだ本格ほんかくてき戦闘せんとう発生はっせいしていなかった(まやかし戦争せんそう)。沈黙ちんもくやぶったのはソ連それんだった。1939ねん11月から赤軍せきぐんフィンランド侵攻しんこう開始かいしした。西欧せいおう主戦しゅせんじょうにするのをいやがっていたえいふつ首脳しゅのうは、フィンランドに遠征えんせいぐんおくり、ここをどくソとの主戦しゅせんじょうにすることをかんがえた。チャーチルもそれに賛成さんせいしつつ、フィンランド遠征えんせい途中とちゅうノルウェー北端ほくたんナルヴィクみなと占領せんりょうし、またドイツのてつ供給きょうきゅうであるスウェーデンのてつ鉱山こうざん破壊はかいするという計画けいかく立案りつあんした。しかし結局けっきょくフィンランドがソ連それん講和こうわして一時いちじ休戦きゅうせんしたため、この作戦さくせん流産りゅうざんした[571][572]。チャーチルはふゆ戦争せんそうこるまえからノルウェーのみなと占領せんりょう目論もくろんでおり、この計画けいかくはヒトラーにも察知さっちされていた。ドイツぐんはイギリスの先手せんてかたちで1940ねん4がつ9にちから北欧ほくおう侵攻しんこう開始かいしした[573]デンマークいちにち陥落かんらくさせたドイツぐんは、ノルウェーのみなと次々つぎつぎ上陸じょうりくしてきた。チャーチルも対抗たいこうしてえいふつぐんをノルウェーに上陸じょうりくさせたものの、チャーチルの作戦さくせんすべ裏目うらめて、精強せいきょうなドイツぐんによって散々さんざん粉砕ふんさいされてしまった[574]。チャーチルは「我々われわれもっとすぐれた部隊ぶたいでさえ、活力かつりょく冒険ぼうけんしんあふれ、優秀ゆうしゅう訓練くんれんけたヒトラーのわか兵士へいしたちにとってはのかずではなかった」と回顧かいこしている[575]

チェンバレンの首相しゅしょう退任たいにんをめぐって[編集へんしゅう]

ガリポリのたたか以来いらい惨敗ざんぱいにチャーチルもうみしょう失脚しっきゃく覚悟かくごしたが、5月7にちから8にちにかけて庶民しょみんいんおこなわれたノルウェー作戦さくせんについての討議とうぎでは、その批判ひはんはチャーチルではなく、首相しゅしょうチェンバレンにかった。チャーチルは「ノルウェーせん敗北はいぼく自分じぶん責任せきにんだ」と主張しゅちょうしてチェンバレンを擁護ようごしようとしたが、自由党じゆうとう党首とうしゅロイド・ジョージは「防空壕ぼうくうごうになるのはやめろ」とチャーチルをめた[576][577]与党よとう議員ぎいんからも続々ぞくぞく造反ぞうはんしゃなか、チェンバレンは、労働党ろうどうとうとのだい連立れんりつによる挙国一致きょこくいっちないかく政権せいけん延命えんめい模索もさくするようになった。だが労働党ろうどうとう議員ぎいんたちはチェンバレンよりチャーチルを首相しゅしょうとするだい連立れんりつ希望きぼうするものおおかった。かれらはかつてチャーチルがおこなった労働ろうどう運動うんどう弾圧だんあつうらみをわすれていなかったが、はんファシズムの観点かんてんからヒトラーとのたたかいを徹底的てっていてき遂行すいこうするもの希望きぼうしていたのである[578]。チェンバレンは、野党やとう労働党ろうどうとう党首とうしゅアトリー協力きょうりょく要請ようせいしたが、はんファシズムをかかげていたアトリーはこれを拒絶きょぜつし、チェンバレンは退陣たいじんまれた[579]

つぎ首相しゅしょうについて、世論せろんはチャーチルの首相しゅしょう就任しゅうにん支持しじするものおおかった。チャーチルはクリミア戦争せんそうどきパーマストン子爵ししゃく、あるいはいち大戦たいせんのロイド・ジョージのような位置いちにあり、首相しゅしょうにふさわしい人物じんぶつであった[580]。だが、もう一人ひとり首相しゅしょう候補こうほとしてかく方面ほうめんからの反発はんぱつ比較的ひかくてきすくない外相がいしょうハリファックス子爵ししゃく(インド総督そうとくだったアーウィンきょう)もいた[581]。5月9にちにチェンバレンはチャーチルとハリファックス子爵ししゃく両方りょうほう召集しょうしゅうした。チェンバレンはハリファックス子爵ししゃく首相しゅしょうにしたがっており、チャーチルに「ハリファックスきょう内閣ないかくはたら意思いしはあるか」といたが、チャーチルは沈黙ちんもくしていた。そこへハリファックス子爵ししゃくが「貴族きぞくいん議員ぎいんわたし首相しゅしょうになるのはのぞましくないでしょう」とべたことでチャーチルの首相しゅしょう就任しゅうにんまった[582][583][584]

首相しゅしょう保守党ほしゅとう党首とうしゅとして[編集へんしゅう]

だい1チャーチル内閣ないかく[編集へんしゅう]

1940ねん、チャーチルとだいいちチャーチル内閣ないかく閣僚かくりょうたち

1940ねん5がつ10にち午後ごご6バッキンガム宮殿きゅうでん国王こくおうジョージ6せいより組閣そかく大命たいめいけたチャーチルは、だい1チャーチル内閣ないかく発足ほっそくさせた。労働党ろうどうとう参加さんか了承りょうしょうした挙国一致きょこくいっちないかくであった戦時せんじ内閣ないかくは5にん構成こうせいしたが、2人ふたり労働党ろうどうとう議員ぎいんであり、そのうちの1人ひとりこう首相しゅしょうアトリーだった[585]

5月13にち首相しゅしょうとして庶民しょみんいんはいり、「我々われわれ目的もくてきなにかとえば、一言ひとことこたえられる。勝利しょうりだ。どれだけ犠牲ぎせいそうとも、どんな苦労くろうがあろうと、そこにいたみちがいかになが困難こんなんであろうとも勝利しょうりのみである」と演説えんぜつ[586]保守党ほしゅとうはチャーチルを歓迎かんげいしないものおおかったが、労働党ろうどうとうはチャーチルに拍手はくしゅおくった[587]首相しゅしょう就任しゅうにん、チャーチルは65さいたいするヒトラーは51さいだった[582]

言論げんろん弾圧だんあつ強化きょうか[編集へんしゅう]

チャーチルは就任しゅうにん早々そうそう内務ないむ大臣だいじんは、外国がいこく従属じゅうぞくしている、または指導しどうしゃ敵国てきこく政府せいふ指導しどうしゃ関係かんけいっている、あるいは敵国てきこく政府せいふのシステムに共感きょうかんをもっているとみとめられる組織そしきのメンバーをだれであろうとも裁判さいばんなしで期限きげん投獄とうごくできるものとする」という防衛ぼうえい規則きそく18B英語えいごばん修正しゅうせい規則きそく18(1a)を制定せいていしてイギリスを言論げんろん弾圧だんあつ国家こっか変貌へんぼうさせ、ファシスト、共産きょうさん主義しゅぎしゃ敵性てきせい外国がいこくじん次々つぎつぎ逮捕たいほした[588][589]イギリスファシスト連合れんごう指導しどうしゃサー・オズワルド・モズレーじゅん男爵だんしゃくが「マグナカルタ以来いらい保障ほしょうされた人権じんけんおかしている」とどう規則きそく批判ひはんしたが、チャーチルはわず、これを逮捕たいほさせた。ほかにもアーチボルト・ラムゼイ(はんユダヤ主義しゅぎもの保守党ほしゅとう庶民しょみんいん議員ぎいん)やタイラー・ケント(モンロー主義しゅぎものちゅうえいアメリカ大使館たいしかんいん)らを逮捕たいほした。親族しんぞくといえども容赦ようしゃせず、ミットフォード姉妹しまいさんじょでモズレーのつまであるダイアナ逮捕たいほさせ、おっとおな牢獄ろうごくおくった[590][589]

フランス敗北はいぼく[編集へんしゅう]
1940ねん6がつ、パリで戦勝せんしょうパレードをおこなうドイツぐん騎兵きへい

チャーチルが首相しゅしょう就任しゅうにんした5がつ10日とおかはちょうど「まやかし戦争せんそう」がわっただった。同日どうじつ早朝そうちょう、フランスを陥落かんらくさせるべくドイツぐんベルギーオランダ侵攻しんこう開始かいしし、「西方せいほう電撃でんげきせん」がはじまった。えい陸軍りくぐんは1939ねん9がつ以来いらい海外かいがい派遣はけんぐん22まん5000にんをフランスに上陸じょうりくさせ、フランス・ベルギー北部ほくぶ展開てんかいさせていたが、ヒトラーはこのぐん包囲ほういねらってエーリヒ・フォン・マンシュタイン中将ちゅうじょう立案りつあん作戦さくせんもとづく攻勢こうせいをかけさせた。ハインツ・グデーリアン装甲そうこう大将たいしょうひきいるドイツぐん装甲そうこう部隊ぶたいはフランスぐん盲点もうてんになっていたアルデンヌ通過つうかして、ディナンセダンからマースがわ渡河とか成功せいこう英仏海峡えいふつかいきょうめがけて進軍しんぐんした[591]王立おうりつ空軍くうぐん出撃しゅつげきするも、半数はんすうちかくが撃墜げきついされた[592]

慧眼けいがんなヒトラーは、いま歩兵ほへい攻撃こうげき時代じだいではなく、戦車せんしゃ車両しゃりょう最前線さいぜんせんすすんでいく電撃でんげきせん時代じだいであることを見抜みぬいていたが、チャーチルはだいいち大戦たいせん観念かんねんてきれていなかった。戦後せんごチャーチルは「もうスピードで進軍しんぐんするじゅう装甲そうこう部隊ぶたい侵略しんりゃくが、どれほどさき大戦たいせんだい革新かくしんであったかわたしまった理解りかいできていなかった」と回顧かいころくなかべている[593]

5月15にちあさ7ごろにチャーチルはフランス首相しゅしょうポール・レノーからの電話でんわで「くに敗北はいぼくしました。」といた。ぼけていたチャーチルには意味いみがよくからず、だまっていたが、レノーは「我々われわれ敗北はいぼくしました」をかえした。チャーチルはレノーをかせようとしたが、かれはパニック状態じょうたいだった。チャーチルはとにかく明日あしたにもパリを訪問ほうもんすることを約束やくそくした[594][595]。5月16にち午後ごごにパリに到着とうちゃくしたチャーチルは、レノーのってることがおおげさでもなんでもなかったことに気付きづかされた。連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんモーリス・ガムランふつ参謀さんぼう総長そうちょうあおかお小刻こきざみにふるえていたという。チャーチルは「フランスぐん本隊ほんたい予備よびたいはどこにいるんです」といたが、ガムランは「そんなものはもうありません。」とこたえ、ただちに王立おうりつ空軍くうぐん10飛行ひこう中隊ちゅうたい増援ぞうえんおくることを要求ようきゅうした。チャーチルはフランス脱落だつらくおそれてやむなく了承りょうしょうしたが、おそらくドイツぐん電撃でんげきせんそらから阻止そしすることはできないだろうと見抜みぬいていたという。また、この増援ぞうえんによりイギリス本土ほんどのこ飛行ひこう中隊ちゅうたいは25だけになった。これはギリギリのせんだった。これ以上いじょうせばイギリス本土ほんど制空権せいくうけんがドイツ空軍くうぐんおびやかされる可能かのうせいたかかった[596][597]

ダンケルクの撤退てったい[編集へんしゅう]

一方いっぽう海外かいがい派遣はけんぐん英仏海峡えいふつかいきょう到達とうたつしたドイツぐんによってみなみフランスのフランスぐん主力しゅりょくはなされて、ダンケルクまれた。チャーチルはかれらの全滅ぜんめつ覚悟かくごしたが、なぜかヒトラーはグデーリアンらドイツぐん装甲そうこう部隊ぶたい指揮しきかんたちに追撃ついげきゆるさなかったため、海外かいがい派遣はけんぐんとフランスぐん部隊ぶたい一部いちぶくわえた33まん8000にんは5月29にちから5日間にちかんにわたっておこなわれたイギリス本土ほんどへの撤退てったい作戦さくせん成功せいこうした(ダンケルクの撤退てったい)。このなぞ奇跡きせきにイギリス国内こくないはまるで勝利しょうりしたかのようによろこびにきあがった[598][599][600]

ダンケルクの撤退てったい成功せいこう決定的けっていてき破滅はめつまぬかれたとはいえ、撤退てったい勝利しょうりではなく、イギリスがまれている状況じょうきょうわりはなかった。さすがのチャーチルにも弱気よわきのぞいてきた。5月28にちにはおやナチのロイド・ジョージに入閣にゅうかく要請ようせいしているが、これはドイツに和平わへい交渉こうしょう提案ていあんしなければならなくなった場合ばあいそなえてのことともいわれる(この入閣にゅうかく要請ようせいはロイド・ジョージのほうから拒否きょひされた)[601]。ダンケルクの撤退てったい成功せいこうの6がつ4にち庶民しょみんいんでの演説えんぜつでは「まんいちイギリス本土ほんど占領せんりょうされたとしても我々われわれたたかいをやめないであろう。うみ彼方かなたにもひろがる帝国ていこくは、しん世界せかいから海軍かいぐん使つかってきゅう世界せかい救援きゅうえん解放かいほう目指めざす。」とかたり、アメリカの支援しえん期待きたいだいえい帝国ていこく植民しょくみんにイギリス政府せいふうつ可能かのうせい示唆しさしている[602][603][604]

ドイツぐんみなみフランスへの進軍しんぐん開始かいしされるなか、フランス政界せいかいでは和平わへいこえがますますつよまっていった。チャーチルはフランスが降伏ごうぶくしてフランス海軍かいぐんりょくがドイツに接収せっしゅうされるのをおそれるあまり、「フランス艦隊かんたいすべてイギリスのみなとおくれ」だの、えいふつを「えいふつ連邦れんぽう」というひとつの国家こっかにしよう(=フランスのぜん船舶せんぱくをイギリスが共同きょうどう所有しょゆう)だの身勝手みがって要求ようきゅうおこない、フランスじんから顰蹙ひんしゅくった。イギリスの敗戦はいせん時間じかん問題もんだいかんがえられていたので「死体したい(イギリス)と結合けつごうするくらいならナチスの占領せんりょうはいったほうがマシ」というのがフランスの政治せいじ軍人ぐんじん主流しゅりゅう意見いけんとなった[605][606][607]

6月16にちにフランス首相しゅしょうとなったフィリップ・ペタン元帥げんすいはヒトラーに和平わへい交渉こうしょう意思いしつたえ、6月22にちにもどくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつおうじた[608]。こうして、シャルル・ド・ゴールなど一部いちぶ亡命ぼうめい軍人ぐんじんのぞき、フランスはドイツとのたたかいから離脱りだつした。

バトル・オブ・ブリテン[編集へんしゅう]
政府せいふ戦意せんい高揚こうようプロパガンダ・ポスター。められながらもだいえい帝国ていこくかべまもるチャーチルの
1940ねん空襲くうしゅう警報けいほうでヘルメットをかぶるチャーチル

1940ねんなつのイギリスは破滅はめついち手前てまえだった。西欧せいおう諸国しょこく北欧ほくおう諸国しょこくはほとんどがドイツに占領せんりょうされるか、その衛星えいせい国家こっかになっていた。東欧とうおうどくソに分割ぶんかつ占領せんりょうされ、またドイツは日本にっぽんやイタリアと同盟どうめい関係かんけいむすんでいた。アメリカ参戦さんせんだけがイギリスの唯一ゆいいつ希望きぼうという状態じょうたいだったが、アメリカの国民こくみん世論せろんはモンロー主義しゅぎ根強ねづよく、大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう選挙せんきょまえにしてチャーチルのさそいには簡単かんたんにはってこなかった。イギリスは独力どくりょくブリテンとうまもりをかため、ドイツぐん攻撃こうげきつしかなかった。チャーチルはこのとき状況じょうきょうのちに「イギリスの最後さいご審判しんぱんとききざまれたとぜん世界せかいおもいこんでもなん不思議ふしぎがあろうか。」とひょうした[609]

フランスに勝利しょうりしたのち、ヒトラーはイギリスに和平わへい提唱ていしょうしたものの、チャーチルは強硬きょうこう路線ろせんげず、拒絶きょぜつした[610]。ドイツぐんはイギリス上陸じょうりく作戦さくせんアシカ作戦さくせん」の立案りつあん開始かいししたが、これを成功せいこうさせるためにはイギリス本土ほんど制空権せいくうけんにぎ必要ひつようがあった。チャーチルもまず襲来しゅうらいしてくるのはドイツ空軍くうぐん予期よきしており、イギリス本土ほんど攻撃こうげきさせておいて、てき空軍くうぐんりょく粉砕ふんさいするという方針ほうしんった[611]。ドイツ空軍くうぐん空襲くうしゅうは8がつ10日とおかから開始かいしされた[612]。ドイツ空軍くうぐんははじめみなと基地きち飛行場ひこうじょうなど軍事ぐんじ施設しせつ中心ちゅうしん空襲くうしゅうをかけてきた[610]。イギリス軍機ぐんきがこれをむかつべく出撃しゅつげきし、バトル・オブ・ブリテンばれるイギリス本土ほんど上空じょうくうでの激闘げきとうはじまった。最初さいしょ週間しゅうかんはドイツ軍機ぐんき次々つぎつぎ撃墜げきついされてイギリス優勢ゆうせいであったが、8がつ24にちさかいにイギリス軍機ぐんき撃墜げきつい目立めだつようになり、消耗しょうもうせん様相ようそうていしてきた。それでも王立おうりつ空軍くうぐん最後さいごまでドイツ空軍くうぐん制空権せいくうけんわたすことはなかった[612]

またこのあいだにチャーチルは1000ばくげきをもって最初さいしょベルリン空襲くうしゅう敢行かんこうしたが、戦果せんかとぼしかった[613]。ヒトラーはこの復讐ふくしゅうで、まだ制空権せいくうけんにぎれていないにもかかわらず、9月7にちからドイツ空軍くうぐん爆撃ばくげきロンドン空襲くうしゅう開始かいしさせた[614][615]。だが、これはドイツがわ重大じゅうだい判断はんだんミスとなった。これによってイギリス軍機ぐんきとされるドイツ軍機ぐんきかず急増きゅうぞうしたのである。チャーチルも「戦闘せんとう部隊ぶたい司令しれいかんはドイツ空軍くうぐん攻撃こうげき目標もくひょうがロンドンになったことに安堵あんどしていた」といている[614]。チャーチルはばくげきけたまち視察しさつしてまわり、そこで葉巻はまきをくわえながら勝利しょうりのVictoryを意味いみしたVサインをしてせた[616]。これはやがてかれのトレードマークとなった。この一連いちれん視察しさつでチャーチルの国民こくみんてき人気にんきおおいにたかまり、独裁どくさいてき地位ちい確立かくりつするにいたった。チャーチルはなおも議会ぎかいおもんじるかのような発言はつげんはしていたが、反対はんたいこえはこのチャーチル人気にんきまえ圧殺あっさつされるようになった。

バトル・オブ・ブリテンでうしなわれたパイロットと航空機こうくうき損失そんしつにヒトラーも動揺どうようし、9月17にちにはアシカ作戦さくせん中止ちゅうし決定けっていした[617][618][615]

1940ねん11月におこなわれたアメリカ大統領だいとうりょう選挙せんきょでルーズベルトがさんせんし、アメリカ政府せいふ平和へいわもとめる国民こくみん世論せろん無視むししてモンロー主義しゅぎ放棄ほうきするようになりはじめており、チャーチルにとって事態じたい好転こうてん兆候ちょうこうがあった。ルーズベルトは1940ねん12がつまつのラジオ放送ほうそうで「イギリスがやぶれれば、ぜんヨーロッパ、ぜん世界せかいがドイツに征服せいふくされ、人類じんるい自由じゆう幸福こうふくうしなわれるだろう」などと演説えんぜつし、公然こうぜんとドイツを批判ひはん、イギリス支持しじ主張しゅちょうおこなった。そして1941ねん3がつにはモンロー主義しゅぎしゃ反対はんたいって武器ぶき貸与たいよほう制定せいていし、イギリスに武器ぶき兵器へいき戦後せんごばらいで提供ていきょうはじめた[619]

きたアフリカ戦線せんせん[編集へんしゅう]
きたアフリカのドイツぐん指揮しきしたエルヴィン・ロンメル。チャーチルはてきであってもかれには敬意けいいあらわしていた[620]
1942ねん8がつ5にち、エジプト駐留ちゅうりゅうイギリスぐん視察しさつするチャーチル

イタリアのムッソリーニは大戦たいせん初期しょきには中立ちゅうりつたもっていたが、フランスせんのドイツの勝利しょうり確実かくじつとなった1940ねん6がつになってドイツがわ参戦さんせんした。しかしイタリアぐん貧弱ひんじゃくでフランスのアルプス山脈あるぷすさんみゃく防衛ぼうえい部隊ぶたいかえちにされてしまった。つづくバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍くうぐん一部いちぶ参加さんかしていたが、やはりそのはたらきは杜撰ずさんきわめた[621]。だがムッソリーニは、地中海ちちゅうかい覇権はけん目指めざし、ヒトラーの援助えんじょもう拒否きょひして独断どくだんエジプト王国おうこく名目めいもくじょう独立どくりつ国家こっかだったが、実質じっしつてきにはイギリスの軍事ぐんじ支配しはいにあった)とギリシャに侵攻しんこう開始かいしした[621]。チャーチルはとぼしいイギリスの物資ぶっし戦力せんりょくをこの地中海ちちゅうかいたたかいにそそぎこんだ。アメリカの参戦さんせんうながすためにイギリスの勝利しょうり必要ひつようであったが、簡単かんたん戦勝せんしょうげられそうなのは目下もっかこの戦域せんいきだけだったからである[622]。この目論見もくろみ奏功そうこうし、1940ねん12月にエジプト駐留ちゅうりゅうイギリスぐんはイタリアぐんかえちにし、ぎゃくにイタリア植民しょくみんリビアへ侵攻しんこうし、イタリアぐんトリポリまでめた[623]。イタリアぐんきたアフリカから駆逐くちくできればイギリスは地中海ちちゅうかい自由じゆううごけるようになり、物資ぶっし確保かくほめん有利ゆうりであった[624]。またギリシャ戦線せんせんでもイタリアぐん敗北はいぼくし、イギリスはここに空軍くうぐん基地きち設置せっちしてドイツの重要じゅうよう資源しげんであるルーマニア油田ゆでんへの空襲くうしゅうねらえるようになった[624]

ヒトラーも看過かんかできなくなり、地中海ちちゅうかいにドイツぐん派遣はけん決定けっていした。1940ねん12月にはギリシャのイタリアぐん救出きゅうしゅつのためのマリータ作戦さくせん発動はつどうし、ついで1941ねん1がつにはゾネンブルーメ作戦さくせん発動はつどうしてドイツアフリカ軍団ぐんだんがトリポリへおくられるようになり、2がつにはその指揮しきかんとしてエルヴィン・ロンメル中将ちゅうじょう派遣はけんされた[625]

一方いっぽうチャーチルは中東ちゅうとうぐん司令しれいかんアーチボルド・ウェーヴェルうったえを無視むししてきたアフリカの兵力へいりょく強引ごういんにギリシャにいたが、ドイツぐんらされた[626]

ロンメル指揮しききたアフリカ・ドイツぐんもこれにじょうじて1941ねん3がつまつからイギリスぐんたいする攻勢こうせい開始かいしし、リビアのほとんどの地域ちいきからイギリスぐん駆逐くちくされた。トブルクだけはオーストラリアぐん勇戦ゆうせんでなんとかちこたえたが、そこも包囲ほういされた[627]。チャーチルは6がつにもトブルク包囲ほういこうとイギリス中東ちゅうとうぐん司令しれいかんウェーヴェル大将たいしょうめいじてバトルアクス作戦さくせん開始かいしさせたが、ドイツぐんらされた[628]。チャーチルはウェーヴェルを解任かいにんし、クロード・オーキンレック大将たいしょう後任こうにんとすると、11月にもクルセーダー作戦さくせん開始かいしさせ、ドイツぐん後退こうたいさせた[629]。しかし1942ねん5がつからドイツぐん反攻はんこうがあり、6がつまでにリビアからイギリスぐん駆逐くちくされた(ガザラのたたか)。チャーチルはトブルク陥落かんらくおそれ、守備しゅびぐん死守ししゅ命令めいれいくだしたが、司令しれいかん独断どくだん降伏ごうぶくしてしまった[630]

トブルク陥落かんらくは、このすうげつまえシンガポール陥落かんらくあいまって、イギリス国内こくないつよ衝撃しょうげきあたえ、戦時せんじちゅうのチャーチル批判ひはんは1942ねん7がつもっとつよまった。議会ぎかいでは内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつされた。挙国一致きょこくいっちないかくオール与党よとうだったため、不信任ふしんにんあん自体じたい大差たいさ否決ひけつされたものの、戦時せんじ挙国一致きょこくいっちないかく内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつされること自体じたい異例いれいであった。このようなことはいち大戦たいせんにもきたことはなく[631]、チャーチルはこれを「深刻しんこく挑戦ちょうせんじょう」ととらえたという[632]。19世紀せいき以来いらいつづいているイギリスのエジプト占領せんりょう体制たいせいらぎはじめた。エジプト駐留ちゅうりゅうイギリスぐん書類しょるいはじめ、パレスチナへの撤退てったい準備じゅんび開始かいししていた。これをたエジプト民族みんぞく主義しゅぎしゃたちのあいだにはロンメルがイギリスの圧政あっせいから解放かいほうしてくれるという期待きたいかんひろがっていた[632]。エジプトおうファールーク1せい独立どくりつのチャンスがたとはんえいないかく組閣そかく計画けいかくしたが、エジプトの実質じっしつてき支配しはいしゃであるイギリス大使たいしミレス・ランプソン (初代しょだいキラーン男爵だんしゃく)がエジプトおう宮殿きゅうでん包囲ほういし、「イギリスにさからうつもりなら拉致らちする」と無法むほう脅迫きょうはくをしたことでこの計画けいかく水泡すいほうかえした[633]。もしエジプトをドイツぐん突破とっぱされた場合ばあいうしなわれるのはエジプト支配しはいけんだけではなかった。きたアフリカのドイツぐんコーカサス進軍しんぐんしている東部とうぶ戦線せんせんのドイツぐん合流ごうりゅうすることになり、イギリスの「インドのみち」はざされ、だいえい帝国ていこくアジア支配しはい体制たいせいのすべてが崩壊ほうかいするおそれがあった[634]

だが、ロンメルのかい進撃しんげきはここまでだった。ドイツぐんいきおいにって開始かいししたエジプトへの進軍しんぐんは7がつちゅう停滞ていたいした。チャーチルは8がつ3にちにもエジプト首都しゅとカイロにはいり、チュニジアに上陸じょうりく予定よていえいべいぐん支援しえんのための攻勢こうせいることを拒否きょひしたオーキンレックを解任かいにんし、だい8ぐん司令しれいかんバーナード・モントゴメリーにんじてしん体制たいせいととのえた[634]。10月から11がつにかけてのエル・アラメインのたたかでモントゴメリーひきいるイギリスぐんはロンメルのドイツぐん撃破げきはし、さらに11月にモロッコとアルジェリアにえいべいぐん上陸じょうりく成功せいこうした[635]。1943ねん3がつにはロンメルは戦線せんせん離脱りだつし、きたアフリカのドイツぐんは5がつまでに降伏ごうぶくした。

どくせん勃発ぼっぱつ[編集へんしゅう]
セルビア救国きゅうこく政府せいふ陰謀いんぼうろんけいのプロパガンダ・ポスター。フリーメイソンのユダヤじんあやつられるスターリンとチャーチルの

きたアフリカ戦中せんちゅうの1941ねん6がつ22にちにヒトラーはバルバロッサ作戦さくせん発動はつどうし、ひがしヨーロッパのソ連それん占領せんりょう地域ちいきにドイツぐん侵攻しんこう開始かいしした。これをてチャーチルはそののうちにスターリンに無条件むじょうけん協力きょうりょく約束やくそくする電報でんぽうおくった。このときチャーチルは秘書ひしょに「ヒトラーが地獄じごくめいれば、わたし地獄じごく大王だいおう支援しえんするのだ」とかたったという[636]

1941ねん8がつにもイギリスとソ連それん共同きょうどうイラン侵攻しんこうし、同国どうこく石油せきゆ資源しげん確保かくほしつつ、ソ連それん支援しえんルートをつくった[637]当面とうめんイギリスがソ連それんたいしておこなえる支援しえんはこのルートを使つかっての物資ぶっし支援しえんかぎられていた。スターリンはチャーチルにフランスへ上陸じょうりくして「だい戦線せんせん」(西部せいぶ戦線せんせん)をひらくよう再三さいさん要求ようきゅう[636]、イギリス国内こくないでも左翼さよくが「即刻そっこくだい戦線せんせんを」とまちかべのあちこちに落書らくがきしてあるくようになった[638]。だがチャーチルはこれを拒否きょひつづけた。一度いちどちゅうえいソ連それん大使たいしが「だい戦線せんせんけ」とあまりにしつこかったときには、つい最近さいきんまでのどくソのちかしい関係かんけいいにし、「貴方あなたがたになに要求ようきゅうされる筋合すじあいはない」とっぱねた[636]。アメリカ参戦さんせんにはアメリカのルーズベルトがだい戦線せんせんろんだったが、チャーチルはルーズベルトに直談判じかだんぱんして中止ちゅうしさせ、きたアフリカのアルジェリア・モロッコへの上陸じょうりく作戦さくせん変更へんこうさせた[639]結局けっきょく、1944ねん6がつのノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせんまで本格ほんかくてきな「だい戦線せんせん」がひらかれることはなかった。労働党ろうどうとう党首とうしゅのアトリーは、「だい戦線せんせん」をぐにひらくべきでないとするチャーチルの方針ほうしん擁護ようごした[640]

大西洋たいせいよう憲章けんしょう[編集へんしゅう]
1941ねん8がつ戦艦せんかんプリンス・オブ・ウェールズじょうのチャーチルとアメリカ大統領だいとうりょうルーズベルト

1941ねん8がつにはイギリス自治領じちりょうカナダ・ニューファンドランドとうおき停泊ていはくちゅう戦艦せんかんプリンス・オブ・ウェールズうえでアメリカ大統領だいとうりょうルーズベルトと会談かいだんした。ここでりょう首脳しゅのうは「大西洋たいせいよう憲章けんしょう」を締結ていけつした。これはだいいち世界せかい大戦たいせんにウィルソンが発表はっぴょうした14カ条かじょう真似まねたもので領土りょうど不拡大ふかくだい民族みんぞく自決じけつんでいた。のち国際こくさい連合れんごう憲章けんしょう原型げんけいになったべいえい共同きょうどう文書ぶんしょとしてられている[641]

だがチャーチルはこの憲章けんしょう適用てきよう範囲はんいはドイツ支配しはいのヨーロッパ諸国しょこくのみであり、だいえい帝国ていこくひろがるアジアやアフリカは除外じょがいされるべきと主張しゅちょうした[642][643]。そのことを憲章けんしょう民族みんぞく自決じけつかんする条項じょうこうにもませようとしたが、アメリカはかねてからだいえい帝国ていこく破壊はかい目論もくろんでいたため、拒否きょひされた[644]。ルーズベルトが「永久えいきゅう平和へいわ手段しゅだん」として世界せかい自由じゆう貿易ぼうえき提案ていあんしたのにたいして、チャーチルは「帝国ていこくない関税かんぜい特恵とっけい制度せいど変更へんこうするつもりはない」と拒絶きょぜつした。だがルーズベルトはなおもがり、「ファシスト奴隷どれいせいたたかいながら、同時どうじ自分じぶんたちの18世紀せいきてき植民しょくみん支配しはい体制たいせいからぜん世界せかい解放かいほうするはないというのはいかがなものか」などとイギリス批判ひはんをはじめた。これをいたチャーチルは激昂げっこうのあまり卒倒そっとうしかけた[645]。しかしアメリカがなんとおうとチャーチルはアジアとアフリカは憲章けんしょう適用てきようがいという解釈かいしゃくつづけ、憲章けんしょう締結ていけつ植民しょくみん民族みんぞく運動うんどうたいする弾圧だんあつをやめなかった[641]。また憲章けんしょうのうち領土りょうど不拡大ふかくだいという理念りねんもやがてえいべいソのさんこく領土りょうど分割ぶんかつ約束やくそくうようになったことで、完全かんぜん無視むしされるにいたった[641]

またこの会談かいだんさい、ドイツの同盟どうめいこくであり、南西なんせい太平洋たいへいよう地域ちいきのフランス植民しょくみん進駐しんちゅうした日本にっぽんたいして戦争せんそうさない強硬きょうこう姿勢しせいをとるべきことがチャーチルの発案はつあんによりべいえい両国りょうこく確認かくにんされた[646]。これにもとづいてか、アメリカは11月に日本にっぽんたいして「中国ちゅうごくから撤兵てっぺいせよ。まんしゅう事変じへん以前いぜん状態じょうたいもどせ」というこれまでにない強硬きょうこう要求ようきゅうけた。日本にっぽん戦争せんそうむための挑発ちょうはつだったというせつもある[647]

日本にっぽんとの開戦かいせんとアメリカの参戦さんせん[編集へんしゅう]

1941ねん12月7にち未明みめい大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんによるマレー作戦さくせんにちえいあいだ開戦かいせんした。にちえい交戦こうせん状態じょうたいとなったことをらせるちゅうえい日本にっぽん大使たいしへの通知つうちはやけに丁重ていちょうで、「かく忠実ちゅうじつなるぼく、ウィンストン・S・チャーチル」という署名しょめいむすんでいた。チャーチルによれば「これからころ相手あいてにはできるだけ丁重ていちょうにしたほうがいい」のだという[648]。チャーチルはその翌日よくじつ日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくした。

マレー作戦さくせん直後ちょくごおこなわれた真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき日米にちべい開戦かいせんした。日米にちべい開戦かいせん報告ほうこくいたチャーチルはだいよろこびし、早速さっそくルーズベルトに電話でんわした。ルーズベルトは「そのとおりだ。日本にっぽん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきした。これで我々われわれおなせんったわけだ」とチャーチルにかたったという[649]。チャーチルの回顧かいころくは「そのよる興奮こうふん感動かんどうつかてていたが、わたしすくわれた人間にんげん感謝かんしゃ気持きもちにあふれた人間にんげんとしてねむりにくことができた」といている[650][651]

さらに日本にっぽん同盟どうめいこくのドイツとイタリアも11にちにアメリカに宣戦せんせん布告ふこくした。これもチャーチルにとってはねがってもないことだった[652][653]回顧かいころくなかでチャーチルはこのとき勝利しょうり確信かくしんしたと主張しゅちょうしている。「ついにアメリカがそのいたるまで戦争せんそう突入とつにゅうしたのだ。これで我々われわれ戦争せんそうった。イギリスとだいえい帝国ていこく滅亡めつぼうまぬかれたのだ。ヒトラーの運命うんめいまった。ムッソリーニの運命うんめいまった。日本人にっぽんじんにいたっては粉微塵こなみじん粉砕ふんさいされるだろう」といている[652]。1941ねんまつ訪米ほうべいしたチャーチルは、アメリカ議会ぎかいで「一体いったい日本人にっぽんじん我々われわれをどういう国民こくみんだとおもっているのか!我々われわれがそんなに簡単かんたんくっする国民こくみんだとおもっているのか!」と演説えんぜつをした[654]

なおすうねんまえから日本にっぽん交戦こうせん状態じょうたいにある中華民国ちゅうかみんこく総統そうとう蔣介せき政府せいふとも連携れんけい関係かんけいはいったが、チャーチルは蔣介せきに「ドイツとの戦線せんせんさい優先ゆうせんであり、日本にっぽんとの戦線せんせん二義的にぎてき意味いみしかない」と通達つうたつしている[655]。蔣介せき政府せいふはすでにアメリカから大量たいりょう支援しえんけていたにもかかわらず、そのおおくをみずからの私財しざいとしてむような腐敗ふはい政権せいけんであり、このような政府せいふ支援しえんしてもまともなたたかいは期待きたいできなかった。同盟どうめいこくというよりも「お荷物にもつちか存在そんざい」だったことをっていたためともいわれる[655]

たいにちせん[編集へんしゅう]
マレーおき海戦かいせんにおけるプリンス・オブ・ウェールズとレパルス
マレー作戦さくせん

北部ほくぶマレまれ半島はんとう日本にっぽんぐんすうてきにはわずかに優勢ゆうせいであるにすぎなかったが、制空権せいくうけん戦車せんしゃせん歩兵ほへい戦術せんじゅつ戦闘せんとう経験けいけんにおいて優越ゆうえつしていた。日本にっぽんぐんまたたマレまれ半島はんとうのイギリスぐん屈服くっぷくさせ南下なんかつづけた。さらにイギリスりょうシンガポールおきではイギリスの戦艦せんかんプリンス・オブ・ウェールズとめぐよう戦艦せんかんレパルス日本にっぽんぐんばくげきによってしずめられた。チャーチルは「あのかんが」と絶句ぜっくし、「戦争せんそう全体ぜんたいで(その報告ほうこく以外いがいわたし直接的ちょくせつてき衝撃しょうげきあたえたことはなかった」「わたしは、ベッドのなかで、もだえした。もう、アジアは、日本にっぽんのものになった」とのち回顧かいころくなかしるしている。

香港ほんこん陥落かんらく

イギリスが阿片あへん戦争せんそう獲得かくとくした永久えいきゅう領土りょうどである香港ほんこんとうふく香港ほんこんは、1941ねん12月8にち日本にっぽんぐん侵攻しんこう開始かいしよりわずか18日間にちかんたたか日本にっぽんぐんちた[656]

1942ねん2がつ15にち、シンガポール。山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょう降伏ごうぶく交渉こうしょうおこなパーシバル中将ちゅうじょう
シンガポール陥落かんらく

1942ねん1がつわりからシンガポールは日本にっぽんぐん包囲ほういされたが、チャーチルは同市どうしのイギリスぐん死守ししゅ命令めいれいくだし、降伏ごうぶくゆるさなかった[657][658]。また「アジアじんたいするイギリスの威信いしんよわまるおそれがある」として「包囲ほうい」という言葉ことば使用しようきんじた[657]。だが日本にっぽんぐんによる猛攻もうこうけて、現地げんち司令しれいかんアーサー・パーシバル中将ちゅうじょう独断どくだん包囲ほういぐん司令しれいかん山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょう降伏ごうぶくもう、シンガポールは陥落かんらく、イギリスぐん、オーストラリアぐんなどからなる連合れんごう国軍こくぐん12まんにんから13まんにん捕虜ほりょとなった[659][658]

シンガポールはイギリスがほぼゼロからつくげ、世界せかいだい4みなとにまでそだげただいえい帝国ていこく繁栄はんえい象徴しょうちょうであっただけに、それが陥落かんらくした衝撃しょうげきおおきかった[660]。 「シンガポールは難攻不落なんこうふらく」と豪語ごうごしていたチャーチルは、さきの2せき戦艦せんかん撃沈げきちんつづき、マレまれ半島はんとう全域ぜんいき喪失そうしつとシンガポール陥落かんらくとそれにともなおおくの戦死せんししゃ捕虜ほりょしたことで国会こっかいにおいて野党やとう労働党ろうどうとうからのきびしい追及ついきゅうけ、ショックのあまり寝込ねこんでしまったという[661]

またチャーチルは自書じしょで「英国えいこくぐん歴史れきしじょう最悪さいあく惨事さんじであり、最大さいだい降伏ごうぶく」とひょうしている[662]一時いちじ心労しんろうのあまり首相しゅしょう辞任じにんかんがえるほどであった。

ビルマ、インド

日本にっぽんぐんさらイギリスりょうインド帝国ていこく隣接りんせつする植民しょくみんであるビルマにも進軍しんぐん開始かいしした。こうしたなかでインドのぜんインド会議かいぎ委員いいんかい独立どくりつのチャンスがたとて1942ねん8がつよりはんえい闘争とうそう「インド退去たいきょ運動うんどう(Quit India Movement)」を開始かいしし、イギリス当局とうきょく徹底的てっていてき弾圧だんあつした[660][663][664]。ガンジーやネルーぜんインド会議かいぎ委員いいんかい幹部かんぶ次々つぎつぎ逮捕たいほ投獄とうごくされていった[663][665]

この直後ちょくご、またしてもアメリカから「インドに大西洋たいせいよう憲章けんしょう適用てきようせよ」とのよこやりがはいったが、チャーチルは拒絶きょぜつした[666]。こののちもアメリカはしつこくイギリスのインド支配しはい破壊はかい画策かくさくつづけ、我慢がまん限界げんかいたっしたインド総督そうとくリンリスゴー侯爵こうしゃくは、1943ねん本国ほんごくインド担当たんとうしょうたいして「善意ぜんい干渉かんしょうがアメリカから流出りゅうしゅつしてくるのをふせいでほしい」と要請ようせいしている[667]

インド洋いんどよう、セイロン

日本にっぽん海軍かいぐんは、1942ねん4がつおこなわれたセイロンおき海戦かいせんなどでイギリス海軍かいぐん駆逐くちくし、これまでは「イギリスのうみ」であったインド洋いんどよう制海権せいかいけんにした。このためにイギリスやインドとオーストラリアあいだ海上かいじょう貿易ぼうえきぐん用品ようひん供給きょうきゅうまることを余儀よぎなくされた。さらにシンガポールやペナン日本にっぽん海軍かいぐん基地きちドイツ海軍かいぐんイタリア海軍かいぐん潜水せんすいかん常駐じょうちゅうし、インド洋いんどよう通商つうしょう破壊はかいせんおこな有様ありさまであった。さらに日本にっぽん海軍かいぐんはアフリカ大陸たいりく沿岸えんがんマダガスカル上陸じょうりくし、同地どうちでイギリスぐんとのあいだ陸戦りくせん展開てんかいした。

オーストラリア

南下なんかした日本にっぽんぐんオーストラリアへの攻撃こうげき開始かいしし、1942ねん初頭しょとうから1943ねんれにかけてオーストラリア本土ほんどへの空襲くうしゅう実施じっしした。

これらのアジア太平洋たいへいよう戦局せんきょくほうは、1943ねん中盤ちゅうばん以降いこうはアメリカのダグラス・マッカーサー大将たいしょうひきいる「いし作戦さくせん」の導入どうにゅうにより、オーストラリアぐんニュージーランドぐん協力きょうりょくけて日本にっぽんへの反撃はんげき主戦しゅせん太平洋たいへいよう諸島しょとううつしており、イギリスのまくはなくなっていった[668]。この状況じょうきょうについてイギリスの外交がいこう文書ぶんしょも「マッカーサー将軍しょうぐん一人ひとりあそび」、「マッカーサー将軍しょうぐん独裁どくさい」という表現ひょうげんをよく使用しようするようになる[669]

イタリア半島はんとう上陸じょうりく[編集へんしゅう]

きたアフリカ戦線せんせん勝利しょうりしたべい英軍えいぐんは、イタリア侵攻しんこう可能かのうとなった。1943ねん7がつシチリア上陸じょうりく作戦さくせん決行けっこうして成功せいこう[670]連合れんごうこくはげしい空襲くうしゅうでイタリアじん戦意せんいおとろえ、ストライキや暴動ぼうどう多発たはつし、ムッソリーニは失脚しっきゃく後任こうにん首相しゅしょうピエトロ・バドリオは9月にも連合れんごうこく講和こうわし、イタリアは戦争せんそうから脱落だつらくした[670]。こののちイタリアはドイツぐんによって占領せんりょうされたため、結局けっきょく戦場せんじょうになった。べい英軍えいぐんは1943ねん9月9にちナポリ南方なんぽうサレルノへの上陸じょうりく成功せいこうしたが、アルベルト・ケッセルリンク元帥げんすいひきいるドイツぐん勇戦ゆうせんべい英軍えいぐん散々さんざんらされてほとんど侵攻しんこうできなかった[671]最終さいしゅうてきにはノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん呼応こおうした1944ねん5がつ攻勢こうせいでようやくドイツぐんむことに成功せいこうし、1944ねん6がつ4にちローマ陥落かんらくさせた[672]

カイロ会談かいだんとテヘラン会談かいだん[編集へんしゅう]
カイロ会談かいだんさいの蔣介せき、ルーズベルト、チャーチル

1943ねん11月、エジプト・カイロでルーズベルト、蔣介せき会談かいだんおこない、たいにち問題もんだい協議きょうぎした(カイロ会談かいだん[673][674]。ルーズベルトは蔣介せきなかく、以前いぜんから香港ほんこん日本にっぽんから奪還だっかんしたらイギリスではなく蔣介せきわたそうと目論もくろんでいた(香港ほんこん奪還だっかんイギリスぐんがただちに香港ほんこん総督そうとくにイギリス国旗こっきてて植民しょくみん統治とうち再開さいかいしたのでこのたくらみは阻止そしできた)[675]。さらに戦後せんごには中華民国ちゅうかみんこくだいよん大国たいこくにしようなどという構想こうそうさえおもえがいていた[676]。チャーチルは中華民国ちゅうかみんこくなどまった興味きょうみがなかったし、蔣介せきともはなしはしたが、なん感銘かんめいけなかった。こんなこくだいよん大国たいこくにしようなどというアメリカのかんがえには到底とうてい賛成さんせいできなかった[676]

つづけて、11月から12がつにかけてえい占領せんりょうのイラン・テヘランでルーズベルトとスターリン、チャーチルのはじめての会談かいだんおこなった(テヘラン会談かいだん)。ちょうどこの会議かいぎちゅうにチャーチルは69さい誕生たんじょうむかえたため、3にんバースデーケーキまえ会談かいだんした[677]。この会議かいぎ翌年よくねん5がつにもべい英軍えいぐんきたフランスとみなみフランスに上陸じょうりく作戦さくせん決行けっこうすることと、それに呼応こおうしてソ連それんぐん攻勢こうせいることが約束やくそくされた[672][678]。またチャーチルは地中海ちちゅうかいのイギリスの覇権はけん確保かくほしようとゲ海げかい方面ほうめんでの作戦さくせん提案ていあんしたが、ルーズベルトに阻止そしされた[678]会議かいぎではスターリンのこうあつてき態度たいどいた[679]。だがルーズベルトは「スターリンはチャーチルとちが帝国ていこく主義しゅぎしゃではない」とおもっており、スターリンに好感こうかんっていた[674]なにひゃくまんにん殺戮さつりくしてきたスターリンに好感こうかんいだくルーズベルトとは感覚かんかくちがぎることを痛感つうかんさせられる場面ばめんもあった。戦後せんごのドイツぐん将校しょうこうたちの処分しょぶんについてさん巨頭きょとうあいだでこのような会話かいわがあったという[680]

  • スターリン「5まんにん銃殺じゅうさつすべきだな。とく参謀さんぼう将校しょうこう全員ぜんいん銃殺じゅうさつだ。」
  • チャーチル「そんな大量たいりょう処刑しょけい英国えいこく議会ぎかい国民こくみんだまってはいない。そんな非道ひどうゆるしてわたしくに名誉めいよけがすぐらいなら、わたしいまこのにわきずりされて銃殺じゅうさつされたほうがマシだ。」
  • ルーズベルト「では、こうなかあいださくでいこうではないか。4まん9000にん銃殺じゅうさつだ」
ノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん共産きょうさん阻止そし[編集へんしゅう]
ドイツへ侵攻しんこうするイギリスぐん部隊ぶたい視察しさつするチャーチルとモントゴメリー

1944ねん6がつ6にちにはドワイト・アイゼンハワー元帥げんすいひきいる連合れんごう国軍こくぐんノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうし、ドイツにとっての西部せいぶ戦線せんせん形成けいせいされた。これに呼応こおうしてイタリア半島はんとう戦線せんせんえいべいぐん東部とうぶ戦線せんせん赤軍せきぐん攻勢こうせい(バグラチオン作戦さくせん)を開始かいしした。ドイツは1943ねんから本格ほんかくした連合れんごう国軍こくぐん空襲くうしゅうくるしめられ燃料ねんりょうやベテラン兵員へいいん不足ふそくによりこのようなだい規模きぼ一斉いっせい攻勢こうせいおさえるちからはもはやなかった。8月24にちにはパリが陥落かんらく、1944ねんまつまでにはフランス全土ぜんどからドイツぐん駆逐くちくされた。11月11にちにチャーチルはパリを訪問ほうもんし、臨時りんじ政府せいふ大統領だいとうりょうとなったシャルル・ド・ゴールとともに無名むめい戦士せんしはかはなをささげた[681]

一方いっぽう、チャーチルの懸念けねんはもはやドイツではなく、戦後せんごソ連それん脅威きょういであった。ゲリラがおおバルカン半島ばるかんはんとう戦後せんご共産きょうさんしてソ連それんまれる可能かのうせいたかかった。チャーチルは、これを阻止そしすべく1944ねん8がつにもユーゴスラビアのチトー会見かいけんし、ユーゴを共産きょうさんしないとの言質げんちている[682]。10月にはモスクワを訪問ほうもんし、スターリンとのあいだバルカン半島ばるかんはんとう諸国しょこくえいべいソの勢力せいりょく割合わりあいはなった[683][684]

おながつにイギリスぐんはギリシャへ上陸じょうりくして同国どうこく占領せんりょうしたが、12月には共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょくギリシャ人民じんみん解放かいほうぐん反乱はんらんこす。チャーチルはこれを徹底的てっていてき鎮圧ちんあつさせた。これには「イギリスじんはドイツとたたかってきたギリシャの愛国あいこくしゃたちをアメリカの武器ぶきころしている」としてアメリカやイギリス国内こくないから批判ひはんこったが、このときのチャーチルの処置しょちのおかげでバルカン半島ばるかんはんとうなかでギリシャだけは共産きょうさんまぬかれた[685]。チャーチルは回顧かいころくなかで「ナチズムとファシズムいま文明ぶんめい直面ちょくめんしなければならない危険きけん共産きょうさん主義しゅぎであることをわたし見抜みぬいていた」といている[685]

ヤルタ会談かいだん[編集へんしゅう]
ヤルタ会談かいだんさん巨頭きょとうひだりからチャーチル、ルーズベルト、スターリン

1945ねん2がつソ連それんりょうクリミア半島くりみあはんとうヤルタでスターリン、ルーズベルト、チャーチルのさん巨頭きょとうによるヤルタ会談かいだんおこなわれた。ドイツを無条件むじょうけん降伏ごうぶくさせ、そのえいべいふつ分割ぶんかつ占領せんりょうすることがこの会談かいだんめられた。当初とうしょ、ルーズベルトとスターリンはえいべいソのさんこくだけで分割ぶんかつ占領せんりょうするつもりだったが、チャーチルの説得せっとくでフランスもれられることになった[686]。この会談かいだん日本にっぽん中立ちゅうりつ条約じょうやくむすソ連それんたいにち参戦さんせんする密約みつやくむすばれた[687]

この会談かいだん一番いちばんめたのはポーランド問題もんだいだったが、これは結局けっきょくソ連それん優位ゆうい妥協だきょうするかたちとなり、ソ連それんおくる「民主みんしゅてき指導しどうしゃ」がポーランドを統治とうちすることがめられた[688]。チャーチルは回顧かいころくなかで「これがべいえいソの同盟どうめい関係かんけい破綻はたんみちび最初さいしょおおきな原因げんいんとなった」といている[689]

また国際こくさい連合れんごうかんする構想こうそうもヤルタ会談かいだん本格ほんかくてき具体ぐたいされた。大国たいこく拒否きょひけん制度せいどもこのときまった。チャーチルも「くに帝国ていこく主義しゅぎてき利益りえきまもるためには必要ひつよう不可欠ふかけつ」として拒否きょひけん制度せいど賛成さんせいした[689]。ちなみに国際こくさい連合れんごうはヤルタ会談かいだん開催かいさいめられた1945ねん5がつのアメリカ・サンフランシスコでの連合れんごうこく会議かいぎにおいて正式せいしき創設そうせつされている[689]

V-Eデー[編集へんしゅう]
ジョージ6せいらとともにバッキンガム宮殿きゅうでんのバルコニーにつチャーチル(1945ねん5がつ8にち
保健ほけんしょうのバルコニーから群衆ぐんしゅう演説えんぜつするチャーチル(1945ねん5がつ8にち

1945ねんはるえいべいぐん赤軍せきぐん東西とうざいからドイツりょう侵攻しんこう開始かいしし、1945ねん4がつ30にちにヒトラーは赤軍せきぐんせまるベルリンない総統そうとう地下ちかごうない自殺じさつまれた。ヒトラーの遺書いしょ指名しめいでドイツ大統領だいとうりょうとなったカール・デーニッツ提督ていとくは5月8にち無条件むじょうけん降伏ごうぶくし、ヨーロッパ戦争せんそう終結しゅうけつした[690]

V-Eデー」とばれたこのは、1918ねんだいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつのようにビッグ・ベンがり、人々ひとびとまちしておまつさわぎとなった。庶民しょみんいん議員ぎいんたちはみんなでウェストミンスター寺院じいん参拝さんぱいし、かみ感謝かんしゃささげた[691]。チャーチルはジョージ6せい王室おうしつメンバーとともにバッキンガム宮殿きゅうでんのバルコニーから観衆かんしゅうったのち保健ほけんしょうのバルコニーから群衆ぐんしゅうに「これは諸君しょくん勝利しょうりである」と宣言せんげんし、みな愛国あいこくブリタニアよ、支配しはいせよ」を熱唱ねっしょうした[690]

アジアにおける勝利しょうりだいえい帝国ていこく没落ぼつらく[編集へんしゅう]

「V-Eデー」によりアジアをのぞ戦前せんぜんだいえい帝国ていこくすべもどり、あらたにきたアフリカ全域ぜんいきレヴァント地方ちほう、イランがイギリスぐん占領せんりょうかれていた。地中海ちちゅうかい支配しはいけん戦前せんぜん以上いじょう強力きょうりょくにイギリスがにぎっていた。さらにイギリスぐんはドイツとイタリアとオーストリアを分割ぶんかつ占領せんりょうしていた。チャーチルはそれをもってだいえい帝国ていこく衰退すいたいろん否定ひていし、「だいえい帝国ていこくはそのロマンティックな歴史れきしじょう、いつの時代じだいよりも強力きょうりょくになっている」と宣言せんげんした[692]

しかしそれは幻想げんそうだった。ビルマにおける日本にっぽんぐんとのたたかいはわりにちかづいていたものの、いまだにマレまれ半島はんとうやシンガポール、香港ほんこんなどのきゅう植民しょくみん日本にっぽんぐん占領せんりょうにあったうえに、これらのアジアの植民しょくみんにおけるイギリスの権威けんい完全かんぜん失墜しっついしていた。さらにもはやイギリスにはだいえい帝国ていこく維持いじするちからもなくなっており、実際じっさいにこののち10ねん程度ていどあいだに、インドやセイロン、マレまれ半島はんとうやパレスチナ、スーダンなど帝国ていこくおおくの地域ちいき独立どくりつした。

さらにイギリスの海外かいがい投資とうし戦前せんぜんの4ぶんの1に激減げきげんし(ケインズの試算しさんによると、日本にっぽんぐんによる攻撃こうげき以外いがい本土ほんどたいする攻撃こうげきけなかったアメリカの損失そんしつの35ばいとされる)、イギリスの産業さんぎょう貿易ぼうえき衰退すいたい国民こくみん生活せいかつ困窮こんきゅうした。武器ぶき貸与たいよほう失効しっこうし、べいえい借款しゃっかん協定きょうてい(Anglo-American_loan)によって物資ぶっしをローンで購入こうにゅうしたせいで80おくポンドの負債ふさいかかえることになったうえ、イギリスの工業こうぎょう産業さんぎょう事実じじつじょう兵器へいき産業さんぎょうだけになってしまい、もはや世界せかい覇権はけんこく地位ちいをアメリカにうばわれるのをふせ手段しゅだんはなかった[693][694]

いさましい言葉ことば自国じこくちから誇示こじしながら、チャーチル自身じしん大戦たいせんちゅうから自国じこく没落ぼつらくはだかんっていた。テヘラン会談かいだんさいに「我々われわれ小国しょうこくちたことをおもらされた。会談かいだんにはロシアの大熊おおくま、アメリカの大牛おおうし、そしてそのあいだにイギリスのあわれなロバがすわっていた」と秘書ひしょらしている[695]

自国じこく没落ぼつらくくわえてチャーチルが不安ふあんだったのは、スターリンの台頭たいとうであった。1945ねん4がつに、スターリンとなかよしのルーズベルトのでアメリカ政府せいふもようやく共産きょうさん主義しゅぎ危険きけんするようになったものの、すでに手遅ておくれなかんがあり、ひがしヨーロッパの大半たいはんはスターリンの支配しはいちていた。チャーチルは回顧かいころくなかで「だい世界せかい大戦たいせんなが苦悩くのう努力どりょくすえ実現じつげんされたことは、一人ひとり独裁どくさいしゃ(ヒトラー)が、独裁どくさいしゃ(スターリン)にわっただけであった」といている[696]

退陣たいじん[編集へんしゅう]
ポツダム会談かいだんさいのチャーチル、アメリカ大統領だいとうりょうトルーマン、スターリン。チャーチルは選挙せんきょ戦中せんちゅう、この会議かいぎ出席しゅっせきしたが、開票かいひょう近付ちかづくと帰国きこくし、選挙せんきょ惨敗ざんぱいしてふたた出席しゅっせきすることはなかった
1945ねんイギリスそう選挙せんきょけて演説えんぜつをするチャーチル

1935ねん以来いらい、イギリスでは選挙せんきょおこなわれていなかった。チャーチルは1944ねん10がつにドイツとの戦争せんそう終結しゅうけつ次第しだい解散かいさんそう選挙せんきょおこなうと宣言せんげんしていた[697]労働党ろうどうとうも1944ねんとう大会たいかい戦争せんそう終結しゅうけつそう選挙せんきょでは、挙国一致きょこくいっちないかく解消かいしょうして野党やとうとしてたたかうことを決定けっていしていた[698]

ドイツ降伏ごうぶく労働党ろうどうとうから解散かいさんそう選挙せんきょすべきとのこえつよまった。チャーチルは「日本にっぽん降伏ごうぶくまでは挙国一致きょこくいっちないかくつづけるべきである」と主張しゅちょうしたが、労働党ろうどうとうはそれを拒否きょひした[699][700]保守党ほしゅとうないでもチャーチルが英雄えいゆうされているいまのうちにそう選挙せんきょってほう保守党ほしゅとう有利ゆうりとする意見いけんおおかった[699]

チャーチルは1945ねん6がつ15にち庶民しょみんいん解散かいさんし、7がつ5にちそう選挙せんきょおこなわれた[697]結果けっか労働党ろうどうとう394議席ぎせき保守党ほしゅとう213議席ぎせき自由党じゆうとう12議席ぎせきとなり労働党ろうどうとう圧勝あっしょうした[701]労働党ろうどうとうは「未来みらいけよう」をスローガンに社会しゃかい保障ほしょう政策せいさくイングランド銀行いんぐらんどぎんこう燃料ねんりょう動力どうりょく産業さんぎょう鉄鋼てっこうぎょう国有こくゆうなど社会しゃかい改良かいりょう主義しゅぎ政策せいさく主張しゅちょうした。たいするチャーチルひきいる保守党ほしゅとう社会しゃかい保障ほしょう政策せいさく公約こうやくかかげていたが、そのうったえはチャーチルの戦功せんこう誇示こじし、また労働党ろうどうとう社会しゃかい主義しゅぎ政策せいさく批判ひはんすることを中心ちゅうしんとしていた[702]。チャーチルはラジオ演説えんぜつ労働党ろうどうとうやアトリーが主張しゅちょうする政策せいさくは「社会しゃかい主義しゅぎである」として批判ひはんし、「社会しゃかい主義しゅぎ全体ぜんたい主義しゅぎ卑屈ひくつ国家こっか崇拝すうはい不可分ふかぶん存在そんざい」「教条きょうじょう主義しゅぎてき社会しゃかい主義しゅぎしゃ自由じゆう議会ぎかい敵視てきしする」「社会しゃかい主義しゅぎのたどりさきゲシュタポ弾圧だんあつ政治せいじ」と国民こくみんうったえたが、つい先日せんじつまでかれ内閣ないかく閣僚かくりょうだったアトリーをゲシュタポあつかいする罵倒ばとう評判ひょうばんわるかった[703][704][705]。またチャーチルは、保守党ほしゅとう労働党ろうどうとうのどちらが政権せいけんにぎってもイギリスの外交がいこうじょう一貫いっかんせいたもたれるよう、ソ連それん占領せんりょうドイツ・ポツダム開催かいさい予定よていべいえいさんこく首脳しゅのうによるポツダム会談かいだんにアトリーもれていこうとかんがえていたが、これにたいして労働党ろうどうとう全国ぜんこく執行しっこう委員いいんかいハロルド・ラスキ委員いいんちょうつよ反対はんたいし、アトリーにかないよう指示しじした[706][707]。アトリーは議会ぎかいない労働党ろうどうとう党首とうしゅだが、労働党ろうどうとうとう規約きやくでは全国ぜんこく執行しっこう委員いいんかい党内とうないでの地位ちいもっとたかく、議会ぎかいない労働党ろうどうとうもその指示しじしたがわねばならなかった[706]。チャーチルひきいる保守党ほしゅとうはこれを労働党ろうどうとうの「とう指導しどう絶対ぜったい」「議会ぎかい政治せいじ軽視けいし」の体質たいしつ批判ひはんした[706]保守党ほしゅとうは「ナチス総統そうとうラスキ」などという表現ひょうげん使つかって批判ひはん運動うんどうおこなったため、ぎゃく保守党ほしゅとうほう批判ひはんまね結果けっかとなった[708]

この選挙せんきょ結果けっかについては様々さまざませつがあるが、前述ぜんじゅつ個人こじん攻撃こうげきについての不評ふひょうよりも、慢性まんせいてき保守党ほしゅとう人気にんき凋落ちょうらく原因げんいんかんがえられる[708]ギャラップ世論せろん調査ちょうさによれば、チャーチルの人気にんきたかかったものの、労働党ろうどうとうは1942ねん以降いこう順調じゅんちょう支持しじりつげており、それにてなかっただけということのようである[709]。また労働党ろうどうとう大勝たいしょうしょう選挙せんきょ制度せいど賜物たまものでもあり、得票とくひょうすうればじつ労働党ろうどうとう過半数かはんすう獲得かくとくしていない[707]

ともかくこの議席ぎせきではチャーチルは退任たいにんせざるをず、7がつ26にち国王こくおうジョージ6せい辞表じひょう提出ていしゅつした。国王こくおうからの慣例かんれい次期じき首相しゅしょう下問かもんたいしてアトリーを推挙すいきょした[710]。またこのさい国王こくおうからガーター勲章くんしょう授与じゅよするとの叡慮えいりょがあったが、「選挙せんきょやぶれた首相しゅしょうが、どうして陛下へいかからガーター勲章くんしょういただけますでしょうか」とべ、拝辞はいじした[711]国王こくおうはアトリーを首相しゅしょうにんじ、労働党ろうどうとう単独たんどくのアトリーないかく発足ほっそくした。

野党やとう党首とうしゅとして[編集へんしゅう]

シンガポールでイギリスぐん降伏ごうぶくする日本にっぽんぐん

下野げやしたチャーチルは70さいになっていたが、引退いんたいするはなく、つづ保守党ほしゅとう党首とうしゅとどまった[712]。1945ねん8がつ日本にっぽん連合れんごうこくたいして降伏ごうぶくし、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつしたことをけて、こののちに『だい世界せかい大戦たいせん英語えいごばん』をぜん6かんあらわし、1948ねんから1ねんごとに1かんずつ出版しゅっぱんされていった[712]

チャーチルの口述こうじゅつ方式ほうしきあらわされ、チャーチルの自画じが自賛じさんや、はんファシズムを主導しゅどうしていたアトリーら労働党ろうどうとう政治せいじ過小かしょう評価ひょうか目立めだつが[713]陸海りくかいぐん将官しょうかん歴史れきし学者がくしゃなどを総動員そうどういんした大著たいちょとなった。このほんはベストセラーとなり、チャーチルに莫大ばくだいとみをもたらし、首相しゅしょう在任ざいにんちゅうの1953ねんにはノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうにもいたっている[714]。しかしチャーチルはノーベル平和へいわしょうしがっていたので、文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうには失望しつぼうしたという[714]

反共はんきょう闘争とうそう[編集へんしゅう]
1946ねん3がつ、アメリカ・ミズーリしゅうかう列車れっしゃなかでVサインをするチャーチル。トルーマン大統領だいとうりょうとともに
首相しゅしょうアトリーと外相がいしょうベヴィン。

アトリーないかく公約こうやくどおり、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう重要じゅうよう産業さんぎょう国有こくゆうおこない、また国民こくみん保健ほけんサービス(NHS)創設そうせつ国民こくみん保険ほけんほう国家こっか扶助ふじょほう制定せいてい累進るいしん課税かぜい強化きょうかなどの社会しゃかい改良かいりょう主義しゅぎ政策せいさくすすめていった[693]。また雇用こよう統制とうせいはか[715]、アトリー政権せいけんにおいては事実じじつじょう完全かんぜん雇用こよう達成たっせいされ(失業しつぎょうりつ2%以下いか)、失業しつぎょう問題もんだい根絶こんぜつすることに成功せいこうした[716][717]。これにたいしてチャーチルは「困窮こんきゅう均等きんとうし、欠乏けつぼう組織そしきするこの政策せいさくながつづけば、ブリテンの島々しまじませるいしす」「労働党ろうどうとう政権せいけんだい世界せかい大戦たいせんにも匹敵ひってきするイギリスの災厄さいやく」「イギリスは社会しゃかい主義しゅぎ悪夢あくむりつかれている」「社会しゃかい主義しゅぎかなら経済けいざい破綻はたん全体ぜんたい主義しゅぎをもたらす」とつよ批判ひはんした[718][719]

いて反共はんきょう闘争とうそう意欲いよくがますますさかんとなったチャーチルは1946ねん3がつにアメリカ・ミズーリしゅうフルトンで「てつのカーテン演説えんぜつおこなった[720][721]

バルト海ばるとかいシュテッティンからアドリア海あどりあかいトリエステまで、ヨーロッパ大陸たいりく横切よこぎてつのカーテンがろされた。ちゅうおうおよ東欧とうおう歴史れきしある首都しゅとは、すべてそのこうにある。(りゃく)これらの東欧とうおう諸国しょこくでは弱小じゃくしょう勢力せいりょくであった共産党きょうさんとうが、いまや優越ゆうえつして、そのかずにふさわしからぬ権力けんりょくにつき、いたるところで全体ぜんたい主義しゅぎ体制たいせいいている。警察けいさつ政府せいふ君臨くんりんし、チェコスロバキアをのぞいては民主みんしゅ主義しゅぎなどどこにも存在そんざいしない。

さらにこれに対抗たいこうする「英語えいごしょ国民こくみん兄弟きょうだいとしての団結だんけつ」をうったえた。これ以降いこう、スターリンはいよいよチャーチルを「戦争せんそう」「はん戦争せんそう挑発ちょうはつしゃ」「ヒトラーのドイツ民族みんぞく優越ゆうえつろん匹敵ひってきする英語えいごけん国民こくみん優越ゆうえつろんしゃ」と批判ひはんした[720]

一方いっぽうルーズベルト時代じだいしん方針ほうしん全面ぜんめん破棄はきすること決意けついしていたアメリカのトルーマン大統領だいとうりょうもチャーチルのフルトン演説えんぜつにこたえて、1947ねん3がつトルーマン・ドクトリン発表はっぴょうし、ソ連それんふう反共はんきょう政策せいさくをアメリカの公式こうしき政策せいさく決定けっていした[722][723]。アトリーないかくはじめ、イギリスをアメリカとソ連それん中間ちゅうかんつ「だいさん勢力せいりょく」にしようとかんがえていた[724]。このころ世論せろんは、ソ連それんとも友好ゆうこう関係かんけい維持いじすべきであり、むやみやたらにソ連それんとの緊張きんちょう関係かんけいつくるべきでないとするのが一般いっぱんてきで、庶民しょみんいんでチャーチルの「てつのカーテン」演説えんぜつ非難ひなんする動議どうぎ提出ていしゅつされると、100めいほどの議員ぎいんがそれに賛同さんどうした[719]。チャーチルは、ソ連それん脅威きょういろんについての「てつのカーテン演説えんぜつ」をおこなむね事前じぜん首相しゅしょうアトリー通告つうこくしていたが、アトリーはそれにたいし、肯定こうていするわけでも否定ひていするわけでもなく、とくにアクションをらなかった[725]。しかしアトリーないかくは、次第しだいにアメリカりの外交がいこうへと変化へんかした。これは1947ねん1がつ寒波かんぱでイギリス経済けいざいおおきな打撃だげきけ、戦後せんご復興ふっこうのためにアメリカがしめした「マーシャル・プラン」をれざるをなくなるなど、国際こくさい社会しゃかいにおける主導しゅどうけんはアメリカにうばわれつつあったためである。冷戦れいせん激化げきかし、西側にしがわ陣営じんえい東側ひがしがわ陣営じんえい対立たいりつ深刻しんこくすると、反共はんきょう主義しゅぎしゃ外相がいしょうアーネスト・ベヴィンつよ意向いこうで、アトリーないかく反共はんきょう外交がいこうてんじた。ソ連それんベルリン封鎖ふうさ決行けっこうすると、イギリスぐんはアメリカぐんともに、封鎖ふうさされた西にしベルリン空輸くうゆおこなった[726][727]外相がいしょうベヴィンは集団しゅうだん安全あんぜん保障ほしょう観点かんてんからブリュッセル条約じょうやく締結ていけつしていたが、ソ連それん脅威きょういから、アメリカをはじめとする西側にしがわ諸国しょこく共同きょうどう防衛ぼうえい条約じょうやく成立せいりつ奔走ほんそうし、1949ねん4がつ北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく調印ちょういんされ、北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)が発足ほっそくした[728]。アトリーは、ソ連それんがた共産きょうさん主義しゅぎについて「欧州おうしゅう大陸たいりく権威けんい主義しゅぎからまれ、ロシアの帝政ていせい主義しゅぎ土壌どじょうむすんだもの」と批判ひはんした[729]

チャーチルは共産きょうさん主義しゅぎ対抗たいこうするため、西側にしがわヨーロッパ諸国しょこくひとつにまとめる必要ひつようせい痛感つうかんし、1945ねん11月からヨーロッパ合衆国がっしゅうこく構想こうそうさかんに主張しゅちょうするようになった。1946ねんなつ、いまだヘルマン・ゲーリングらドイツじん戦犯せんぱんたいするニュルンベルク裁判さいばんおこなわれていたこの時期じきにドイツもこのヨーロッパ合衆国がっしゅうこくなかくわえるべきと提案ていあんして人々ひとびとおどろかせた[730]。この構想こうそうは1948ねん3がつ西欧せいおう同盟どうめい、1949ねん5がつ欧州おうしゅう評議ひょうぎかいなどで結実けつじつ[722]西欧せいおう同盟どうめい後継こうけい組織そしきである欧州おうしゅう連合れんごうでは、欧州おうしゅう連合れんごうちち一人ひとりとしてげられている[731]

一方いっぽう共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい攻勢こうせいつよめていた。1948ねん2がつには東欧とうおう唯一ゆいいつ西側にしがわひらかれていたチェコスロバキアでクーデタが発生はっせいし、同国どうこく共産きょうさんされた(チェコスロバキア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく[724]同年どうねん8がつにはソ連それんベルリン封鎖ふうさ強行きょうこうした[732]。1949ねん9がつにはソ連それん原爆げんばく保有ほゆう判明はんめいし、西側にしがわ諸国しょこく衝撃しょうげきあたえた。同年どうねん10がつには中国ちゅうごく国共こっきょう内戦ないせん毛沢東もうたくとうひきいる中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん勝利しょうりわり、蔣介せきらは台湾たいわんわれ、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうひきいるいちとう独裁どくさい国家こっか中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつしてしまう[724]

さらに1950ねん6がつには朝鮮半島ちょうせんはんとう朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつした。アトリーないかくは「韓国かんこく侵攻しんこう退しりぞけるのに必要ひつよう支援しえんおこなう」とした国連こくれん決議けつぎもとづき、日本にっぽん占領せんりょう業務ぎょうむおこなっていたイギリス連邦れんぽう占領せんりょうぐん改変かいへんし、朝鮮ちょうせんイギリス連邦れんぽうぐん組織そしき派遣はけんした[733]。もちろん保守党ほしゅとうもこの出兵しゅっぺい支持しじした[734]

だいえい帝国ていこく崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

このころのイギリスにとって、共産きょうさん主義しゅぎならぶもうひとつの脅威きょうい植民しょくみん民族みんぞく運動うんどう激化げきかであった。労働党ろうどうとう政権せいけん時代じだいにインド、パキスタンスリランカヨルダンイスラエルなどが続々ぞくぞく独立どくりつし、ながきにわたるだいえい帝国ていこくのアジア中近東ちゅうきんとう支配しはい終止符しゅうしふたれた。どう時期じきフランスも植民しょくみん民族みんぞく運動うんどうなやまされて植民しょくみん帝国ていこく崩壊ほうかい瀬戸際せとぎわたされていた。しかしフランスが強引ごういん植民しょくみん維持いじしようとしてインドシナアルジェリア泥沼どろぬま内戦ないせんおちいっていったのにくらべると、アトリーないかくは「ぎわ心得こころえていた」と評価ひょうかされている[735][注釈ちゅうしゃく 11]

だが帝国ていこく主義しゅぎしゃチャーチルにはもちろんそんなことはみとめられなかった。「だいえい帝国ていこくはアメリカの借款しゃっかん同様どうよう急速きゅうそく減少げんしょうしている。その急速きゅうそくさには慄然りつぜんとさせられる。『逃亡とうぼう』、これが唯一ゆいいつふさわしい言葉ことばだ」「労働党ろうどうとうわれらの先人せんじんたちが200ねんときついやしてってきたことのすべてを、インド帝国ていこくとともにてた。」と批判ひはんした[735]

政権せいけん奪還だっかん[編集へんしゅう]

1950ねん2がつ解散かいさんそう選挙せんきょがあった。争点そうてんはほとんど国内こくない問題もんだい集中しゅうちゅうした。というのもアトリーないかく外相がいしょうベヴィンの積極せっきょくてき反共はんきょう外交がいこうは、保守党ほしゅとうとしても文句もんくのつけようがなかったからである。植民しょくみん放棄ほうきには不満ふまんもあったが、いまさら植民しょくみん回復かいふく不可能ふかのうであり、保守党ほしゅとう代替だいたいあんせなかった[736]選挙せんきょせん労働党ろうどうとうは5年間ねんかんった社会しゃかい改良かいりょう政策せいさく実績じっせきほこり、たいする保守党ほしゅとう労働党ろうどうとう政権せいけん国民こくみん全員ぜんいん耐乏たいぼう生活せいかつけただけと批判ひはんした[737]

選挙せんきょ結果けっか労働党ろうどうとう315議席ぎせき保守党ほしゅとう298議席ぎせき自由党じゆうとう9議席ぎせきをそれぞれ獲得かくとくし、労働党ろうどうとう保守党ほしゅとう議席ぎせきは17議席ぎせきにまでちぢまった[738][736][739]保守党ほしゅとう大幅おおはば失地しっち回復かいふくしたものの、政権せいけん獲得かくとくできず、失望しつぼうかんひろがった[736]。だが、過半数かはんすうをわずか8議席ぎせき上回うわまわったにぎない労働党ろうどうとう政権せいけん維持いじ困難こんなんになった。朝鮮ちょうせん戦争せんそうによる戦費せんぴ拡大かくだいで、無料むりょうされた医療いりょう一部いちぶ有料ゆうりょうあんめぐって、労働党ろうどうとうない党内とうない紛争ふんそう発生はっせいした[740]政権せいけん運営うんえいづまったアトリーは1951ねん10がつにも庶民しょみんいん解散かいさんして解散かいさんそう選挙せんきょって[741]

このころ、チャーチルが40ねんまえ創設そうせつしたアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニーがイラン政府せいふによって国有こくゆうされた。激怒げきどしたチャーチルはイラン政府せいふはげしく批判ひはんしたので、チャーチルは「戦争せんそう挑発ちょうはつ」かかというのがこの選挙せんきょ争点そうてんひとつとなった[742]首相しゅしょうのアトリーは、侵略しんりゃく阻止そし旗印はたじるしかかげて朝鮮ちょうせん軍事ぐんじ活動かつどうをしている以上いじょう、イランに攻勢こうせい仕掛しかけるのはダブルスタンダードであるとして、イランと交戦こうせんすべきではないとした[743]選挙せんきょせんでチャーチルは、アトリーないかくきたアフリカや中近東ちゅうきんとうでのはんえい闘争とうそうおさまなかったことなどを批判ひはんし、「スーダンアーバーダーンアナイリン・ベヴァン」はさんだい惨事さんじであると主張しゅちょうした[744]。(「アナイリン・ベヴァン」は、かれ保守党ほしゅとう政策せいさくとは相容あいいれない、急進きゅうしん左派さはてき政策せいさく主導しゅどうしていたことをす。)

選挙せんきょ結果けっか保守党ほしゅとうが321議席ぎせき労働党ろうどうとうが295議席ぎせき獲得かくとくし、保守党ほしゅとう政権せいけん奪還だっかんした[745]得票とくひょうすううえでは労働党ろうどうとうほう上回うわまわっていたが、しょう選挙せんきょ制度せいど賜物たまもの保守党ほしゅとう勝利しょうりした[746][747]

だい2チャーチル内閣ないかく[編集へんしゅう]

1955ねん、チャーチルとだいチャーチル内閣ないかく閣僚かくりょうたち

こうして6ねんぶりに保守党ほしゅとう政権せいけん復帰ふっき首相しゅしょうかえくことになったチャーチルだったが、かれはすでに77さいになっており、しばしば心臓しんぞう発作ほっさこすなど健康けんこう状態じょうたいとはがたかった[748]任期にんきちゅうの1952ねん2がつ6にちにジョージ6せい崩御ほうぎょし、エリザベス王女おうじょエリザベス2せいとして女王じょおう即位そくいした[711][749]。1953ねんには女王じょおうよりガーター勲章くんしょう授与じゅよされ、以降いこう「サー・ウィンストン・チャーチル」となる[711]

政権せいけん奪還だっかんただちに労働党ろうどうとう政権せいけん国有こくゆうされた鉄鋼てっこうぎょう民営みんえいしたが、一方いっぽうでそれ以外いがいのアトリーないかく社会しゃかい改良かいりょう政策せいさく継承けいしょうした[750]住宅じゅうたく地方ちほう大臣だいじんハロルド・マクミラン住宅じゅうたく建設けんせつちかられ、1年間ねんかんに30まん建設けんせつというさきそう選挙せんきょ公約こうやく達成たっせいした[750][742]蔵相ぞうしょうラブ・バトラー提示ていじした予算よさんあんも、労働党ろうどうとう時代じだいのものとさほど変化へんかはなかった[751]修正しゅうせい資本しほん主義しゅぎてき立場たちばのバトラー予算よさんあんについてチャーチルは、「これこそわたしちちランドルフ主張しゅちょうしていたトーリー・デモクラシーだ」とべた[752]

1953ねん3がつソ連それんでのスターリンの契機けいきとして、外交がいこうめんでもチャーチルの共産きょうさん主義しゅぎこくたいする融和ゆうわてき態度たいどられるようになった[753]かれ軟化なんかしたのは原爆げんばく時代じだい世界せかい大戦たいせんこしたらイギリスの生存せいぞんあやういとかんがえたためだった[754]東西とうざいは「雪解ゆきど」とばれる緊張きんちょう緩和かんわ時代じだいかっていき、同年どうねん7がつには朝鮮ちょうせん戦争せんそう終結しゅうけつしている。さらに1954ねん7がつにはインドシナ戦争せんそうをめぐるジュネーヴ協定きょうてい締結ていけつされたが、イギリスはアメリカの軍事ぐんじ介入かいにゅうおさえてこの協定きょうてい締結ていけつ成功せいこうさせる役割やくわりたした[754]

しかしその一方いっぽうでチャーチルは反共はんきょう政策せいさく粛々しゅくしゅくすすめた。西にしドイツ反共はんきょう防波堤ぼうはていにするために同国どうこくさい軍備ぐんびうながし、それに関連かんれんして1954ねん11月24にちに「大戦たいせんわる直前ちょくぜんわたしはモントゴメリーきょう投降とうこうしたドイツへい武器ぶき慎重しんちょうたくわえるよう命令めいれいしたが、これはソビエトが前進ぜんしんしてきた場合ばあい、ドイツへいさい武装ぶそうさせて我々われわれ共闘きょうとうさせるためであった」という裏話うらばなし暴露ばくろし、国際こくさいてき反響はんきょうんだ[755]。また安全あんぜん保障ほしょう観点かんてんから原爆げんばく開発かいはつ推進すいしんした。原爆げんばく開発かいはつぜんアトリーないかくが、安全あんぜん保障ほしょうじょう自国じこくせい原爆げんばく保有ほゆうする必要ひつようがあるとして、それをおこなうことを決定けっていしていたが、当時とうじかく廃絶はいぜつ機運きうんたかまっていたことから、この決定けってい国民こくみん秘匿ひとくしていた[756]。チャーチル政権せいけん自国じこくせい原爆げんばく完成かんせいし、1952ねん10がつにオーストラリアおきかく実験じっけんおこなった(ハリケーン作戦さくせん)。これによりべいソにだい3の核保有かくほゆうこくとしての存在そんざいかん世界せかいらしめた[757]。1954ねんにはアジア反共はんきょう体制たいせい東南とうなんアジア条約じょうやく機構きこう(SEATO)に参加さんかした[757]

一方いっぽう植民しょくみんについては、帝国ていこく主義しゅぎしゃチャーチルといえども時代じだい趨勢すうせいにはあらがえず、アトリーぜん政権せいけんつづいて、うしなわれていく一方いっぽうだった。1951ねんにはエジプトとの関係かんけい緊迫きんぱくするなか、エジプトをはん陣営じんえいきとめるためにイギリスぐんをエジプトから撤兵てっぺいさせることになった[757]。イランとはつづき、石油せきゆ国有こくゆうをめぐってあらそつづけたが、1954ねんにはイギリス・イラン協定きょうていという妥協だきょうあん羽目はめとなった[757]。1952ねんケニアマウマウだんらん勃発ぼっぱつすると、チャーチルは空軍くうぐんをも出動しゅつどうさせてはんえいゲリラの鎮圧ちんあつにあたった。だが懐柔かいじゅうのために様々さまざま植民しょくみん支配しはい緩和かんわおこなうことも余儀よぎなくされ、最終さいしゅうてきにはチャーチル退任たいにんの1963ねん12月にケニアは独立どくりつした[758]

1953ねんに『だい大戦たいせん回顧かいころく』などでノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう現職げんしょく国家こっか指導しどうしゃどうしょうけたのは、現在げんざいまでチャーチルのみである(のちシャルル・ド・ゴールフランス大統領だいとうりょう在任ざいにんちゅう1963ねん候補こうほとなっていたことがあきらかになった)。1954ねん11月30にちに80さいむかえ、グラッドストン高齢こうれい首相しゅしょうとなった[753]。しかしこのころにはチャーチルのみみはすっかりとおくなり、閣議かくぎ昔話むかしばなしをとりとめもなくかたりだすばかりになっていた[759]おおくの閣僚かくりょうがチャーチルを引退いんたいさせる必要ひつよう痛感つうかんしていたなか、ついにマクミランがチャーチルに引退いんたいすすめた。チャーチルは素直すなおにこれを了承りょうしょうし、1955ねん4がつ首相しゅしょうしょくした[760]後任こうにん首相しゅしょう保守党ほしゅとう党首とうしゅになったのは外相がいしょうサー・アンソニー・イーデンだった[761][753]退任たいにんにあたってエリザベス2せい女王じょおうは「伯爵はくしゃくあたえる」との叡慮えいりょしめしたが、チャーチルは「庶民しょみんいん議員ぎいんとして政治せいじつづけること」を希望きぼうし、これを拝辞はいじした[750]

退任たいにん[編集へんしゅう]

首相しゅしょう退任たいにんも1955ねんそう選挙せんきょ、1959ねんそう選挙せんきょ当選とうせんたして庶民しょみんいん議員ぎいんつとつづけたが、政界せいかいひょうつことはなかった。1956ねんにイーデン首相しゅしょうだい中東ちゅうとう戦争せんそう失敗しっぱい退任たいにんしたさい一部いちぶにチャーチル待望たいぼうろんたが、実現じつげんはしなかった[762]

1963ねんアメリカ連邦れんぽう議会ぎかいから「アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく名誉めいよ市民しみん」の称号しょうごう授与じゅよされた。ホワイトハウスでの授与じゅよしきには長男ちょうなんランドルフがわって出席しゅっせきし、チャーチルはメッセージだけおくった。そこには「わたしはイギリスが『おとなしい役割やくわり追放ついほうされた』という見解けんかい拒否きょひする」とかれていた。これにたいしてアメリカのもと国務こくむ長官ちょうかんディーン・アチソンから「イギリスは帝国ていこくうしない、あたらしい役割やくわりつけられていない」と嫌味いやみかえされた[761]

死去しきょ[編集へんしゅう]

チャーチルの葬列そうれつ
チャーチルのはか

1960年代ねんだいはいった晩年ばんねんのチャーチルはひどく老衰ろうすいし、言葉ことば意味いみもよくからなくなっていた[763]。また頻繁ひんぱんなみだながすようになったという[764]いてもチャーチル人気にんき健在けんざいで、毎年まいとしチャーチルの誕生たんじょう前夜ぜんやにはチャーチルのハイド・パーク・ゲートの屋敷やしきまわりに人々ひとびとあつまってきた。チャーチルも屋敷やしきまどち、あつまってくれた人々ひとびとけてVサインおくっていた。

1964ねん11月29にちにもチャーチルは元気げんき姿すがた群衆ぐんしゅう披露ひろうしたが、これが公衆こうしゅうせたチャーチルの最期さいご姿すがたとなった[765]

1965ねん1がつ8にち脳卒中のうそっちゅうひだり半身はんしん麻痺まひし、1がつ24にち午前ごぜん8ごろ家族かぞく見守みまもられながら永眠えいみんした。90さいぼつ最後さいご言葉ことばはなかったという[765]奇遇きぐうにもこの1月24にちちちランドルフの命日めいにちであった[766]

映像えいぞう外部がいぶリンク
ウィンストン・チャーチルの葬儀そうぎニュース(9ふん46びょう
British Pathéによるアップロード動画どうが

エリザベス2せい女王じょおう叡慮えいりょにより、チャーチルの遺体いたいおさめたかんは3日間にちかんウェストミンスター・ホール安置あんちされた。国民こくみん弔問ちょうもん許可きょかされ、30まんにんもの人々ひとびとおとずれた[767]。その、チャーチルのかん国葬こくそうセント・ポールだい聖堂せいどうまでおくられた[768][767]死去しきょ6にち1がつ30にちおこなわれたセント・ポールだい聖堂せいどうでの葬儀そうぎにはエリザベス2せい女王じょおう参列さんれつした。イギリスには「君主くんしゅは、臣民しんみん葬儀そうぎ出席しゅっせきしない」という慣例かんれいがあり、これはその慣例かんれいはじめてやぶられた事例じれいであった[769][770]

遺体いたいは、ブレナム宮殿きゅうでんちかブラドン英語えいごばんのセント・マーティン教会きょうかい墓地ぼちほうむられた[768]。ここはチャーチルの両親りょうしんほうむられた墓地ぼちであり、チャーチルも両親りょうしんはかちかくでねむっている[770]

没後ぼつご[編集へんしゅう]

イギリスでは現在げんざいでもチャーチル人気にんきたかく、2002ねんBBCおこなった「100めいもっと偉大いだい英国えいこくじん」の世論せろん調査ちょうさでは1になった[771]

また2016ねんから発行はっこうしているの5ポンド紙幣しへい裏面りめんにチャーチルの肖像しょうぞう使用しようされている[772]表面ひょうめんはこれまでとおりエリザベス2せい女王じょおう)、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう総裁そうさいサー・マーヴィン・キングは「偉大いだい英国えいこく指導しどうしゃ」とべた[773]

2015ねん手記しゅき著書ちょしょ・スピーチの原稿げんこうユネスコ記憶きおく遺産いさん登録とうろくされた[774]

政治せいじ思想しそう[編集へんしゅう]

帝国ていこく主義しゅぎ[編集へんしゅう]

チャーチルはロイド・ジョージならぶ「急進きゅうしんのリーダー」としてられていたが、1909ねんごろからロイド・ジョージともども自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎものとなった[775]。チャーチルの帝国ていこく主義しゅぎはある程度ていど柔軟じゅうなんせいがあったものの、基本きほんてきには絶頂ぜっちょうヴィクトリアあさだいえい帝国ていこくいまつづいているかのような幻想げんそう帝国ていこくぞうおもえがいていた[776]わかときのキューバでの反乱はんらん鎮圧ちんあつ経験けいけんから、「イギリスじん支配しはい民族みんぞくとしての責任せきにんかんつよくすれば、搾取さくしゅではなく、支配しはい民族みんぞく慈悲じひあたえるものとなっていく」というかんがえをいていた[91]

チャーチルはだい大戦たいせんちゅうの1942ねん11月に「わたしだいえい帝国ていこく清算せいさんするために首相しゅしょうになったのではない」と宣言せんげんした[777][778]。これはかねてからだいえい帝国ていこく破壊はかい目論もくろんでいたアメリカのルーズベルト大統領だいとうりょうをけんせいした演説えんぜつだった[778]。ルーズベルトはしばしばチャーチルの帝国ていこく主義しゅぎ精神せいしん批判ひはんし、めんかって「貴方あなたには400ねん植民しょくみん獲得かくとく本能ほんのうながれている」などと発言はつげんしてきたこともある[778]一方いっぽうチャーチルのほうもルーズベルトに「貴方あなただいえい帝国ていこくくそうとしているとしかおもえない」といいかえしたことがある[778]

チャーチルがどく独裁どくさい政治せいじアドルフ・ヒトラームッソリーニたいしていていた共感きょうかんひとつに「優等ゆうとう文明ぶんめい劣等れっとう文明ぶんめい支配しはい指導しどうする」という理論りろんがあった。

チャーチルは常々つねづねインドじんインド文明ぶんめいを「劣等れっとう」し、「イギリスによって支配しはいされることが必要ひつよう不可欠ふかけつ」と確信かくしんしていた。「インドじん選挙せんきょ制度せいどあたえるべきかか」かれたさいにチャーチルは「かれらはあまりにも無知むちなのでだれ投票とうひょうしたらいいかかるはずもない。かれらは人口じんこう45まんにんむらで4、5にんあつまってむら共通きょうつう問題もんだい討論とうろんするような簡単かんたん組織そしきさえつくることができない身分みぶんいやしい原始げんしてき人種じんしゅなのだ」とこたえている[779]

世界中せかいじゅうひとたちが、「にち戦争せんそうで(イギリスの同盟どうめいこくではあったものの)有色ゆうしょく人種じんしゅ国家こっか日本人にっぽんじんしろ人種じんしゅ国家こっかロシアやぶったこと」をのあたりにし、だい世界せかい大戦たいせんはじまるころには、カナダオーストラリアニュージーランドなど白人はくじんだい多数たすう白人はくじん自治じち政府せいふはイギリス帝国ていこく相変あいかわらず忠実ちゅうじつだったものの、インドやマレまれ半島はんとうビルマなどの有色ゆうしょく人種じんしゅだい多数たすう植民しょくみん住人じゅうにんたちは最早もはやイギリス帝国ていこく忠実ちゅうじつではなくなっていた。なぜなら、このころには有色ゆうしょくじんたちも情報じょうほうおお入手にゅうしゅするようになっており、「戦争せんそう意味いみ」や「帝国ていこく支配しはいされつづける意味いみ」に疑問ぎもんかんはじめていたからである。そしてかれらのおおくが枢軸すうじくこく連携れんけいすることで、イギリスの植民しょくみん支配しはい反抗はんこうして独立どくりつするためにかった。たとえばイギリス委任いにん統治とうちりょうパレスチナのイスラム教いすらむきょう最高さいこう指導しどうしゃだいムフティー)であるアミーン・フサイニーはドイツへのがれ、「ムスリム解放かいほうぐん」を組織そしきしてイギリスに反旗はんきひるがえした。えいりょうビルマの民族みんぞく主義しゅぎしゃアウンサン日本にっぽんのがれて「ビルマ防衛ぼうえいぐん」を組織そしきした。イギリスりょうインド帝国ていこくチャンドラ・ボースもドイツで「自由じゆうインド部隊ぶたいドイツばん」、日本にっぽん日本にっぽん統治とうちシンガポールで「インド国民こくみんぐん」を組織そしきし、イギリスとたたかった[780]

1942ねん日本にっぽんぐんマレー作戦さくせんによるシンガポール陥落かんらくは、アジアにおけるイギリスの威信いしん決定的けっていてき崩壊ほうかいさせた。勇気ゆうきたインドじんたちは、同年どうねんからはんえい闘争とうそう「インドからけ」運動うんどう開始かいしした。これにたいしてチャーチルは徹底的てっていてき弾圧だんあつをもってのぞみ、ガンジーやネルー、ヒンズひんずきょう指導しどうしゃなど1まんにん以上いじょうもの投獄とうごくした。だが、それもむなしく大戦たいせんわるまでにイギリスの植民しょくみん支配しはい体制たいせい根底こんていからさぶられた。枢軸すうじくこく協力きょうりょくしたチャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボースA.M.ナイルそしてかれらの指揮しきにあったインド国民こくみんぐん兵士へいしたちが殉教者じゅんきょうしゃとしてインド国民こくみんあいだ英雄えいゆうされていくことにイギリスじんたちは落胆らくたんした[781]

チャーチルがおそれていたとおり、戦後せんご労働党ろうどうとう政権せいけんがインドの民族みんぞく主義しゅぎしゃたちに譲歩じょうほ姿勢しせいせたときのちすべてが時間じかん問題もんだいとなり、一気いっきにインド独立どくりつまですすんでいった。イギリスがインドを放棄ほうきしたのち、マレーやビルマなどのアジア植民しょくみんもなしくずてき独立どくりつしていった[782]波及はきゅうはアジアにまらなかった。だい世界せかい大戦たいせんちゅう、イギリスぐんはアフリカ植民しょくみん住民じゅうみんたちをりだしてドイツぐん日本にっぽんぐんたたかわせていた。このたたかいをつうじてアフリカじん兵士へいしたちは「絶対ぜったいてき支配しはいしゃ」だとおもっていたイギリスじん無敵むてき存在そんざいでもなんでもないことをった。かれらは復員ふくいんしたのちだい世界せかい大戦たいせんでの見聞けんぶんかしてイギリス植民しょくみん支配しはいとのたたかいの主力しゅりょくとなり、ついにアフリカ各国かっこく独立どくりつ実現じつげんした[783]

戦後せんごのアジアとアフリカの独立どくりつあらしったあと、イギリスにのこされたものはイギリス連邦れんぽうという加盟かめいこくしば規則きそくなにもなく、「女王じょおういただくかか(=君主くんしゅせい維持いじするか共和きょうわせい移行いこうするか)」までもが自由じゆうという奇妙きみょう連邦れんぽうだけだった[784]

ヒトラーも自殺じさつすこまえに「だいえい帝国ていこくはすでにほろびる運命うんめいにある」と予言よげんし、チャーチルを「帝国ていこくはかじん」とんで批判ひはんしていた[785]。ヒトラーによれば「チャーチルがフランスせんすぐにドイツとの講和こうわおうじていれば、だいえい帝国ていこくつづ繁栄はんえい謳歌おうかしていただろう」という。そして「こんなだいさけのみのユダヤしたはんアメリカじん(チャーチル)ではなく、しょうピットのような人物じんぶつがイギリスを差配さはいするべきだった」と結論けつろんしている[691]

反共はんきょう主義しゅぎ[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんまえ自由党じゆうとう政権せいけん時代じだい、チャーチルはロイド・ジョージとともに急進きゅうしん閣僚かくりょうとしておおくの社会しゃかい改良かいりょう政策せいさくんだが、だいいち世界せかい大戦たいせん2人ふたりみちへだてられた。ロイド・ジョージは生涯しょうがい社会しゃかい改良かいりょう政策せいさく情熱じょうねつささげたが、チャーチルのほうは「アカの恐怖きょうふ」にらわれていったからである[786]だいいち世界せかい大戦たいせん列強れっきょう諸国しょこくによるはん干渉かんしょう戦争せんそう最大さいだい推進すいしんりょくはチャーチルであった。チャーチルは「歴史れきしじょうのあらゆる専制せんせいなかでもボルシェヴィキの専制せんせい最悪さいあくであり、もっと破壊はかいてきにして、もっと劣等れっとうである。『ドイツ軍国ぐんこく主義しゅぎよりはマシ』などというのもデマだ。ボルシェヴィキ支配しはいロシアじん帝政ていせい時代じだいよりずっと悲惨ひさん状態じょうたいかれている。レーニントロツキー残虐ざんぎゃく行為こういはカイザーのそれをかるえる」、「ボルシェヴィズムは政策せいさくではなく、疫病えきびょうである。思想しそうではなく、ペストきんである」「わたしがボルシェヴィキを嫌悪けんおしているのはそのおろかな経済けいざい政策せいさく不合理ふごうり主義しゅぎゆえではない。やつらが侵入しんにゅうした土地とちにはその犯罪はんざいてき体制たいせいささえるために赤色あかいろテロおこなわれるからだ」などと共産きょうさん主義しゅぎこくであるソビエト連邦れんぽうへの敵意てきいあお演説えんぜつさかんにった[787][788]

だい世界せかい大戦たいせんちゅうおこなわれた「テヘラン会談かいだん」や「ヤルタ会談かいだん」などの連合れんごう国軍こくぐん同士どうし会議かいぎにおいても、チャーチルはソビエト連邦れんぽうスターリンとは幾度いくど衝突しょうとつし、おわりいには同盟どうめいこくであるアメリカのルーズヴェルト大統領だいとうりょうとスターリンがしたしくなる始末しまつであった。

チャーチルの反共はんきょうはそのぬまでずっとつづいた。だい世界せかい大戦たいせん反共はんきょう演説えんぜつつづけ、「ボルシェヴィズムはその誕生たんじょうときにくびりころしておけば、人類じんるいにとってはかれない幸福こうふくがあったであろう」「共産きょうさん主義しゅぎしゃ議論ぎろんをしても無駄むだだ。共産きょうさん主義しゅぎしゃ改宗かいしゅうさせたり、説得せっとくしようとするのも無駄むだだ。もっと容赦ようしゃなく実力じつりょく行使こうしし、なにころうとも道徳どうとくてき配慮はいりょなどしないということをソ連それん政府せいふ理解りかいさせることが唯一ゆいいつ平和へいわへのみちだ。」「アメリカの原爆げんばくのみがソ連それん軍事ぐんじ侵攻しんこうおさえているのだ。」[754]

一方いっぽうでチャーチルは共産きょうさん主義しゅぎしゃであってもレーニンだけは(きらいつつ)あるしゅ畏敬いけいねんいだくことがあった[よう出典しゅってん]。レーニンについて「かれ慈愛じあい北極ほっきょくかいのようにつめたくひろい。かれ憎悪ぞうお絞首刑こうしゅけい執行しっこうじんくびなわよりかたい。」「かれ目的もくてき世界せかいすくうことだった。そしてその方法ほうほう世界せかい爆破ばくはすることだった。」「ロシアじん最大さいだい不幸ふこうはレーニンがまれてきたことだが、そのつぎ不幸ふこうかれんだことだ」とひょうしている[789]

ロイド・ジョージは後年こうねん、チャーチルについて「かれ共産きょうさん主義しゅぎしんから憎悪ぞうおしていた。かれ公爵こうしゃくが、ロシア大公たいこう皆殺みなごろしにつよいかりをかんじさせたのだ。ロシア革命かくめい病的びょうてき嫌悪けんおするあまり、帝政ていせい凋落ちょうらくした原因げんいん冷静れいせい分析ぶんせきすることができなかった」とひょうしている[788][385]

議会ぎかい主義しゅぎ[編集へんしゅう]

ずっと議会ぎかい政治せいじなかきてきたチャーチルは基本きほんてき議会ぎかい主義しゅぎものである。だが、1930ねん前後ぜんこう世界せかい各国かっこく議会ぎかい政治せいじ終焉しゅうえんないし後退こうたいしていくなか、チャーチルも議会ぎかい主義しゅぎはもうわった思想しそうであり、独裁どくさい政治せいじにこそ未来みらいがあるとかんがえた時期じきがあった。1930ねん出版しゅっぱんされたオットー・フォルスト・デ・バタグリアドイツばんちょためされる独裁どくさい政治せいじ』の英語えいご翻訳ほんやくほんでチャーチルは「イタリアのムッソリーニ、トルコのケマル、ポーランドのピウスツキなど権威けんいある国家こっか指導しどうしゃたちが、弱体じゃくたいにして効率こうりつてき、しかも民意みんい反映はんえいしていない議会ぎかい政治せいじってわるちかい」という前書まえがきをせている[790][791]

しかし1935ねんごろからヒトラーとの対決たいけつ姿勢しせいつよめていくにつれてふたた議会ぎかい主義しゅぎ旗印はたじるしとするようになった。ヤルタ会談かいだんさい、チャーチルはスターリンとルーズベルトにたいして「ここにいる3にんなかでいつでも選挙せんきょ国民こくみんからほうされる危険きけんがあるのはわたしだけだ。だがその危険きけんがあることをわたしほこりにおもっている」とべたという[792]。ただし戦時せんじちゅうにはチャーチルもほぼ独裁どくさいしゃであった[793][668]

1945ねんそう選挙せんきょにおいて、議会ぎかいがい組織そしき議員ぎいんふくめたとう全体ぜんたい指導しどうするという労働党ろうどうとうを「議会ぎかい政治せいじ軽視けいし」としてナチとうになぞらえて批判ひはんしたことは前述ぜんじゅつしたとおりである。

おやユダヤ主義しゅぎ[編集へんしゅう]

チャーチルはアーサー・バルフォアならび、ハイム・ヴァイツマン感銘かんめいけて英国えいこく政界せいかいさきシオニズム支持しじしゃになった政治せいじ一人ひとりである[794]首相しゅしょう在任ざいにんちゅうにもチャーチルはしばしばユダヤじんのパレスチナ移民いみん増加ぞうかさせたがっていたが、外務がいむ大臣だいじんアンソニー・イーデン現地げんちアラブじん反発はんぱつって中東ちゅうとう駐留ちゅうりゅう英軍えいぐん危険きけんさらされかねないと反対はんたいしてしとどめていた[795]

だい大戦たいせんまえ戦中せんちゅう、アメリカ世論せろんがいしてはんユダヤ主義しゅぎてきであり、ユダヤじん問題もんだいについてはナチス・ドイツの主張しゅちょう共感きょうかんせるものさえすくなくなかった。アメリカ政府せいふもユダヤじんすくうための行動こうどうをほとんどこそうとしなかった。一方いっぽうチャーチルはユダヤじん同情どうじょうし、ホロコーストについて「この殺戮さつりくおそらく世界せかい史上しじょう最大さいだいかつ最悪さいあく犯罪はんざい行為こういである」といかりを表明ひょうめいし、アウシュヴィッツ強制きょうせい収容しゅうようしょガスしつ空爆くうばくしてユダヤじん救出きゅうしゅつすべしとうったつづけた。しかしべいえい政府せいふないでそんなことを主張しゅちょうしているのはチャーチルだけであり、「軍事ぐんじ施設しせつ以外いがい空爆くうばくなど費用ひよう時間じかん無駄むだ」とアメリカぐん反対はんたいされて退しりぞけられてしまった[796]

個人こじんてきにもチャーチルはユダヤじんとの交友こうゆうおおく、しばしば金銭きんせん援助えんじょけた。1938ねん借金しゃっきんがかさみすぎてチャートウェルてい売却ばいきゃく検討けんとうせねばならない家計かけいなんおちいったことがあったが、ユダヤ金融きんゆう業者ぎょうしゃサー・ヘンリー・ストラコッシュがその借金しゃっきん肩代かたがわりしてくれた[797]首相しゅしょう時代じだいにはロスチャイルドだい3だい当主とうしゅヴィクター・ロスチャイルド男爵だんしゃくみずからの護衛ごえい隊員たいいんとして側近そっきんいていた[798]

戦争せんそうかん[編集へんしゅう]

チャーチルは「かがやかしい栄光えいこうのこしてほろびよ」という持論じろんっており、ヒトラーとおなじく死守ししゅ命令めいれいこのんだ[799]。また「空襲くうしゅう確実かくじつ敵国てきこく心臓しんぞう打撃だげきあたえていく」という確実かくじつ戦法せんぽうより、強襲きょうしゅう、ゲリラせん、おとり作戦さくせんわななど派手はで作戦さくせん決行けっこうすることをこのんだ[800]

チャーチルはみずからが指揮しきたずさわっただい世界せかい大戦たいせんを「必要ひつよう戦争せんそう」とんでいた[565]

チャーチルはさい晩年ばんねんには「わたし非常ひじょうおおくのことをやってきたが、結局けっきょくなに達成たっせいすることはできなかった」とかたるようになった。チャーチルの世界せかい大戦たいせんの『勝利しょうり』はだいえい帝国ていこく崩壊ほうかいべいソの世界せかい支配しはいをもたらしただけだった。「だいブリテンはかみからえらばれ、世界せかいみちび義務ぎむっている」というチャーチルの信念しんねんくずった[801]

死生しせいかん[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんちゅう射撃しゃげき練習れんしゅうをするチャーチル首相しゅしょう

チャーチルは「なみだもろく、小鳥ことりんだだけでもひと」だったが、一方いっぽうで「しん同情どうじょうっていないことがおおかった」という意見いけんもある[613]

人物じんぶつひょう[編集へんしゅう]

クレマンソー

1917ねんにフランス首相しゅしょう陸相りくしょう就任しゅうにんしたジョルジュ・クレマンソーは70だい高齢こうれいでありながら血気けっきさかんなひとで、しばしば砲火ほうかをさらすこともいとわなかった[356]。チャーチルは政治せいじ尊敬そんけいするということがほとんどないひとだったが、その唯一ゆいいつ例外れいがいはこのクレマンソーであった。とくにクレマンソーが「わたしなん政治せいじてき原則げんそくもないおとこだ。わたし現実げんじつこる事象じしょう経験けいけんらしわせて処理しょりするだけだ。」とかたったことにチャーチルは共感きょうかんった[802]。チャーチルはクレマンソーの「わたしはパリの前面ぜんめんたたかい、パリちゅうからたたかい、パリの後方こうほうでもたたかつづける」という言葉ことば拝借はいしゃくした[802]

ムッソリーニ

チャーチルはムッソリーニに非常ひじょう興味きょうみち、かれ著作ちょさくみ、その生涯しょうがい調しらべることに熱心ねっしんだった。とりわけかれマ帝国まていこく復活ふっかつさせて「劣等れっとう文明ぶんめい」を支配しはいしてみちびこうという「帝国ていこく使命しめい」の思想しそうにはおな帝国ていこく主義しゅぎしゃとしてつよ共感きょうかんっていた。だいエチオピア戦争せんそうイタリアりょうひがしアフリカ帝国ていこく建設けんせつたか評価ひょうかしていた。1940ねんにフランス戦役せんえき勃発ぼっぱつしてえい交戦こうせん関係かんけいとなったのちにさえも「(ムッソリーニが)偉大いだいおとこであることは否定ひていしない」とべていた[803][779][518]。また「この独裁どくさいしゃには共産きょうさん主義しゅぎからイタリアをまもった功績こうせきがある。だがかれ失敗しっぱいは1940ねん6がつにヒトラーの勝利しょうりまどわされてイギリスに宣戦せんせん布告ふこくしてきたことだ。このときかれあやまったみちすすんでしまった。もしあのとき中立ちゅうりつたもっていれば、この戦争せんそう利用りようしてさらなる繁栄はんえいいたったであろうに。」としんでいる[673]

ガンジー

ガンジーをきらい、「アジアによくいる托鉢たくはつました英国えいこくほう学院がくいん卒業そつぎょう扇動せんどうガンジー弁護士べんごしが、半裸はんら姿すがた陛下へいか名代なだいたるインド総督そうとく対等たいとう交渉こうしょうしている。このような光景こうけいゆるしていればインドの不安定ふあんてい白人はくじん危機ききまねく」と警鐘けいしょうらし、さらにガンジーを「狂信きょうしんてき托鉢たくはつ」とだんじた[494][804][805]

ヒトラー

チャーチルはヒトラーを歴史れきしてき文脈ぶんみゃくとらえており、スペインおうフェリペ2せい、フランスおうルイ14せい、フランス皇帝こうていナポレオン、ドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せいといったイギリスがつねたたかってきた「ヨーロッパの勢力せいりょく均衡きんこうくずもの」につらなる存在そんざいだとかんがえていたのである[806][521]

ヒトラーのほうもイギリス国内こくないたいどく強硬きょうこうろんをまきらしているチャーチルを「戦争せんそう挑発ちょうはつ」と批判ひはんしている[552][807]

日本にっぽんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

チャーチルにとっておおきなウェイトをめるアメリカドイツにはおよばないが、日本にっぽん重視じゅうししたくにであり[808]にちえい同盟どうめい締結ていけつには賛成さんせいし、だい世界せかい大戦たいせんへの日本にっぽん参戦さんせんたいしては融和ゆうわ工作こうさくおこなっている[809][810]。チャーチルは基本きほんてき東洋とうようにはほとん興味きょうみがなく、日本にっぽんについても知識ちしきおおかったわけではないが[799]中国ちゅうごくについてまった関心かんしんたなかったのにたいし、当時とうじアジアでは数少かずすくない独立どくりつこくかつ近代きんだい国家こっか5大国たいこく一角いっかくめ、王室おうしつかかえる自国じこく共通きょうつうして天皇てんのう皇室こうしつよう君主くんしゅせい維持いじし、その同盟どうめい関係かんけいきずいた日本人にっぽんじんたいしては一定いってい親近しんきんかんっていた[811]

チャーチルが日本にっぽん最初さいしょ意識いしきしたのはちちランドルフきょうははジャネットが日本にっぽん旅行りょこうをした明治めいじ27ねん(1894ねん)である。日本にっぽんからおくられてきたはは手紙てがみなか日本にっぽん写真しゃしん同封どうふうされており、チャーチルはははへの返信へんしんで「おかあさんからの手紙てがみはとてもうれしいです。写真しゃしんうつくしく、日本にっぽんおもしなとして一生いっしょう大事だいじにしようとおもっています」といている(このとき日本にっぽんられた写真しゃしんちちランドルフきょううつっている最後さいご写真しゃしんでもある)[812]

同盟どうめいこくとして[編集へんしゅう]

チャーチルはにち戦争せんそうにおいて、同盟どうめいこくである日本にっぽん勝利しょうりして「朝鮮半島ちょうせんはんとう併合へいごう中国ちゅうごくならびに太平洋たいへいよう諸島しょとう一定いってい権益けんえきつ」状況じょうきょうになり、このおかげでイギリスの艦隊かんたい中国ちゅうごくから安全あんぜん帰国きこくできるようになったことを歓迎かんげいした[813]

だいいち世界せかい大戦たいせんでも日本にっぽんはイギリスとともに連合れんごうこくとして参戦さんせんしたが、日本にっぽん中国ちゅうごくへの21カ条かじょう要求ようきゅう権益けんえき拡張かくちょう主張しゅちょうするようになると、中国ちゅうごくにおける自国じこく利権りけんおかされることをおそれたアメリカが反発はんぱつし、アメリカがイギリスにたいしてにちえい同盟どうめい破棄はきうながし、その結果けっかにちえい同盟どうめい1921ねんワシントン会議かいぎ破棄はきされた[814]

にちえい同盟どうめい破棄はきされた理由りゆうについて、1936ねんにアメリカの雑誌ざっしコリアーズ英語えいごばん」への寄稿きこうぶん日本にっぽんモンロー主義しゅぎ」のなかでチャーチルは、「イギリスはアメリカとイギリス連邦れんぽうとの関係かんけい分断ぶんだんするような目標もくひょう追求ついきゅうしないというのが方針ほうしんであり、日米にちべい関係かんけい悪化あっかによってアメリカのあつりょくによって破棄はきせざるをえなかった」とべたうえで、「しかし、にちえい同盟どうめい破棄はき歴史れきし悲劇ひげきてき一章いっしょうとなるかもしれない」とき、また「日本にっぽん同盟どうめい破棄はき日本にっぽん人種じんしゅ差別さべつ撤廃てっぱい要求ようきゅうたいする侮辱ぶじょくてき回答かいとうとしてったが、えいべいはこのてんについて理解りかい不足ふそくであった」とみとめている[815]

にちえい離間りかん対立たいりつなか[編集へんしゅう]

1931ねん9がつまんしゅう事変じへんさいには侵略しんりゃく批判ひはんするこえもあったなか、チャーチルは「日本人にっぽんじん中国ちゅうごくおこなっていること我々われわれインドおこなっていることとおなじ」、「これで中国ちゅうごくすこしはおさまるだろう」として支持しじ表明ひょうめいした[816][811]。ただしまんしゅう事変じへんは、チャーチルのみならず、当時とうじイギリス世論せろん政界せいかい一般いっぱんてき支持しじするものおおかった。腐敗ふはい国民こくみんからの支持しじひくかった中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ統治とうち能力のうりょくがなく、また蔣介せき政権せいけん日本にっぽん合法ごうほうてき通商つうしょう権益けんえき無法むほうおかしているとかんがえられていたからである[817]

一方いっぽう昭和しょうわきた軍人ぐんじんによるクーデター未遂みすい事件じけん政治せいじテロ事件じけんである、1932ねんの「いち事件じけん」や1936ねんの「二・二六事件ににろくじけん」にたいしては憂慮ゆうりょし、「偉大いだい名誉めいよある日本にっぽん政治せいじたちが次々つぎつぎ暗殺あんさつしゃにかかってしまった。尊厳そんげん神聖しんせいせいミカド(Japanese Emperor)とその政府せいふ(His Majesty's Government)は懸命けんめい犯罪はんざいしゃ処断しょだんしたが、日本にっぽんがこの不可欠ふかけつ処置しょちるのに悲痛ひつう努力どりょく必要ひつようとしたこと自体じたいえいべい注目ちゅうもくしている」とべている[818]

チャーチルは、イギリスにとって日本にっぽん軍事ぐんじてき脅威きょういではないと一貫いっかんしてろんじていたが、1936ねん締結ていけつされたにちどく防共ぼうきょう協定きょうていは、事実じじつじょうの「にちどく軍事ぐんじ同盟どうめい」であるとみて警戒けいかいし、さらに1937ねんにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)によってにちえい利益りえきはますます衝突しょうとつするようになった[819]。しかしこのころチャーチルは「にちえい同盟どうめい破棄はきしたのは間違まちがいだった」とかんがえるようになった[820]。1936ねんには「日本にっぽんむかし国外こくがいてんじたローマのようである。(りゃく日本にっぽん中国ちゅうごくへの浸透しんとうにちちゅうあるいはにちあいだ戦争せんそうをもたらすであろう。にちちゅうあいだ戦争せんそう中国ちゅうごくはないであろうが、ソ連それんとの戦争せんそう日本にっぽんにとって危険きけんである」とべている[821]

たいにち融和ゆうわ工作こうさく[編集へんしゅう]

1939ねん9がつにはドイツがポーランドに侵攻しんこうし、イギリス宣戦せんせん布告ふこくだい世界せかい大戦たいせんとなった。しかし、チャーチルはその日本にっぽんとドイツをはな努力どりょくつづけ、だい大戦たいせん開戦かいせんの1940ねん5がつ17にちに、チャーチルはちゅうえい日本にっぽん大使館たいしかんにおいて、日本にっぽん参戦さんせんしないよう(ドイツと同様どうようにイギリスの敵国てきこくとならないよう)欧州おうしゅう戦線せんせんについて淡々たんたん言及げんきゅうした[819][822]

当時とうじ重光しげみつまもるちゅうえい大使たいしはそれまでチャーチルを「平時へいじうつわでなく、変事へんじざい」とみて反日はんにちてき政治せいじとみなしていたが、国家こっか存亡そんぼう危機ききという難局なんきょく直面ちょくめんしてどうじないチャーチルに感嘆かんたんし、これをにチャーチルとのにちえい関係かんけい調整ちょうせい鋭意えいいんだ[823]。しかし、重光しげみつ報告ほうこく日本にっぽん政府せいふ各省かくしょうのなかで回覧かいらんされることはなかった[822]

1940ねんなつから1941ねんなつごろにかけては、チャーチルは日本にっぽんとの開戦かいせんけるべく努力どりょくしていた[824]。1941ねん11がつ10日とおかのロンドン市長しちょう午餐ごさんかいではにちえい関係かんけい悪化あっかかなしむ発言はつげんをしているが、結局けっきょくにちえい開戦かいせん回避かいひすることはできなかった[825]。1942ねん2がつ15にち日本にっぽんぐんシンガポールを攻撃こうげきしてイギリスぐん勝利しょうりをおさめたさいにはチャーチルはおおきなショックをけ、議会ぎかい日本にっぽん行動こうどうを「犯罪はんざいてき狂気きょうき」にたとえている[826][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]大戦たいせん末期まっきポツダム会談かいだんでは、チャーチルは日本にっぽんたいして比較的ひかくてき融和ゆうわてき態度たいどをとるべきだと主張しゅちょうしたが、アメリカ大統領だいとうりょうトルーマン同意どういしなかった[827]日本にっぽん降伏ごうぶく決定けっていづけさせた日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうかについては、もし原爆げんばく使つかわずに日本にっぽん本土ほんど上陸じょうりく作戦さくせん決行けっこうした場合ばあい、「100まんにんのアメリカじんとその半数はんすうのイギリスじんぬ」という見積みつもりをてていた[828]

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう訪英ほうえい
1952ねん昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごう夫妻ふさい長男ちょうなん皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう当時とうじ

1953ねんエリザベス2せい女王じょおう戴冠たいかんしき出席しゅっせきするため、イギリス同様どうよう君主くんしゅこくである日本にっぽんから皇室こうしつ代表だいひょうとして皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう明仁あきひと上皇じょうこう)が昭和しょうわ天皇てんのう名代なだいとして訪英ほうえいした。だが当時とうじイギリスは反日はんにち感情かんじょうつよく、アジア・太平洋たいへいよう戦線せんせんにおいて日本にっぽんぐん虐待ぎゃくたいされたイギリスぐん捕虜ほりょ体験たいけんえがいた出版しゅっぱんぶつベストセラーとなったほか、反日はんにち映画えいがたか興行こうぎょう収入しゅうにゅうげ、メディアは反日はんにち姿勢しせい報道ほうどうかえし、在留ざいりゅう邦人ほうじん現地げんちイギリスじんからいやがらせをけるなど、日本人にっぽんじんにとって非常ひじょう居心地いごこちわる状況じょうきょうだった[829]。そのため、チャーチルは明仁あきひと親王しんのう安全あんぜんなどにかんして非常ひじょうった[830]明仁あきひと親王しんのうのための午餐ごさんかいには、当時とうじ日本にっぽん批判ひはん先頭せんとうっていた新聞しんぶん業界ぎょうかいじん招待しょうたいし、首相しゅしょうみずからが日本にっぽん皇太子こうたいし大切たいせつ賓客ひんきゃくとして鄭重ていちょうにもてなすことを眼前がんぜん披露ひろう理解りかいうながすことで、これらの新聞しんぶんによる反日はんにち論調ろんちょうさえようとした[831]席上せきじょうでチャーチルはにちえい両国りょうこく立憲りっけん君主くんしゅせいという共通きょうつう紐帯ちゅうたいっているとして立憲りっけん君主くんしゅせい重要じゅうようせいろんじた[832]

吉田よしだしげるきし信介しんすけ訪英ほうえい

皇太子こうたいし訪英ほうえいつづいて、1954ねん10がつには吉田よしだしげる首相しゅしょう訪英ほうえいした。もとちゅうイギリス特命とくめい全権ぜんけん大使たいしであった吉田よしだはずっと訪英ほうえい希望きぼうしていたが、反日はんにち機運きうんつよいイギリス世論せろん配慮はいりょしたイギリス政府せいふから拒否きょひされつづけていた。だが前年ぜんねん皇太子こうたいし訪英ほうえいちゅうにチャーチルが吉田よしだ訪英ほうえい許可きょかし、実現じつげんいたった。皇太子こうたいし訪英ほうえいのおかげでにちえい関係かんけい改善かいぜんかいはじめたとはいえ、まだまだ反日はんにち世論せろん根強ねづよく、歓迎かんげいムードはなかった[833]反共はんきょう主義しゅぎもの同士どうしであるチャーチルと吉田よしだは、ともにアメリカの同盟どうめいこくたる西側にしがわ陣営じんえい一員いちいんとして共産きょうさん主義しゅぎ問題もんだいはなった[834]。また「吉田よしだからおくられた安田やすだうつぼ富士山ふじさんを、チャーチルは非常ひじょうにいった様子ようすだった」という[835]

1957ねんには、きし信介しんすけ首相しゅしょう訪英ほうえいし、チャーチルの私邸してい訪問ほうもんした。このときチャーチルは富士山ふじさんして、「いつか訪日ほうにちして自分じぶん富士山ふじさんえがいてみたかったが、かないそうもない」とかたったという[836]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

ウィンストン・チャーチル(1940年代ねんだい)

戦時せんじ作戦さくせん[編集へんしゅう]

チャーチルがめいじる数々かずかず無謀むぼう作戦さくせんには帝国ていこく参謀さんぼう総長そうちょうアラン・ブルック大将たいしょうアメリカ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうジョージ・マーシャル大将たいしょうあたまかかえた[837]。チャーチルの無謀むぼう作戦さくせんのためにおおくの人間にんげんいやられていったが、かれだれのうとほとんど関心かんしんたなかった[613][838]

チャーチルは戦争せんそう騎士きしどうてき決闘けっとうゲームのようにかんがえていたため、栄光えいこうのこすためだけにこういう不合理ふごうり作戦さくせん平気へいきでやった。たいして合理ごうり主義しゅぎ権化ごんげであるアメリカじんたちは戦争せんそうなど物量ぶつりょう物量ぶつりょうのぶつかりいでしかないのだから、相手あいて物量ぶつりょうたたつぶ空襲くうしゅうだけが重要じゅうようかんがえて、チャーチルの無駄むだ行動こうどうには不満ふまんいだものおおかった[800]

指導しどうしゃとして[編集へんしゅう]

チャーチルは自分じぶんが「えらばれたもの」であり、すべての運命うんめい決定けっていする存在そんざいなのだとおもんでいた[839]自分じぶんの「偉大いだいさ」をもとめ、とりわけ先祖せんぞ初代しょだいマールバラこう自分じぶんかさねていた[840]。たとえ自分じぶん自国じこく実態じったいうえでどれだけ没落ぼつらくしていようともかえりみることもなく、自分じぶんちょう大国たいこく指導しどうしゃしんじ、アメリカのルーズベルト大統領だいとうりょうソ連それんのスターリン大元帥だいげんすい対等たいとう存在そんざいだとおもんでいた[841]

だい世界せかい大戦たいせんちゅうのチャーチルについてはイギリスに独裁どくさいしゃあらわれるのは護国ごこくきょうクロムウェル以来いらいともひょうされた[793]

経済けいざい政策せいさく[編集へんしゅう]

経済けいざい学者がくしゃジョン・メイナード・ケインズは1925ねんのゼネストに共鳴きょうめいし、『チャーチル経済けいざいてき帰結きけつ』でシティのこえばかりいて炭鉱たんこう労働ろうどうしゃ犠牲ぎせいにしていると批判ひはんした[454][842][843]

演説えんぜつ[編集へんしゅう]

チャーチルの演説えんぜつ誇張こちょう目立めだち、中身なかみがないともわれるが、演説えんぜつまれる報告ほうこくわり詳細しょうさいだった[844]青年せいねん時代じだい出会であったアメリカの政治せいじバーク・コクラン影響えいきょうけていて、コクランが過去かこ使用しようした言葉ことば演説えんぜつなかふくまれている。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

ナイトとしてのチャーチルの紋章もんしょう。モットーは『Fiel pero desdichado』

爵位しゃくい[編集へんしゅう]

チャーチルはだい貴族きぞく一族いちぞくまれながら、生涯しょうがい平民へいみんとおした。

1945ねん、ジョージ6せいはチャーチルにドーヴァー公爵こうしゃく叙爵じょしゃく打診だしんしたが、辞退じたいしている[9][845][846]。 1900ねん以降いこう王室おうしつメンバー以外いがい新規しんき公爵こうしゃく叙爵じょしゃくされた人物じんぶつはおらず、破格はかく顕彰けんしょうであった[847]。1955ねん首相しゅしょう退任たいにんしたさい公爵こうしゃく叙爵じょしゃく検討けんとうされ、「ロンドン公爵こうしゃく」が有力ゆうりょく候補こうほとなった。今回こんかいはチャーチルもけることを検討けんとうしていたが、最終さいしゅうてきにはことわっている。この時点じてんでチャーチルが貴族きぞくとなった場合ばあいには息子むすこランドルフ英語えいごばん下院かいん議員ぎいん就任しゅうにん資格しかくうしない、さらまごであるウィンストン英語えいごばん政治せいじてきキャリアにおおきな影響えいきょうあたえるものであった[848]

イギリスの勲章くんしょう[編集へんしゅう]

外国がいこく栄典えいてん[編集へんしゅう]

勲章くんしょう[編集へんしゅう]

その栄典えいてん[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

生活せいかつ習慣しゅうかん[編集へんしゅう]

葉巻はまきむチャーチル

葉巻はまきをよくんでいたが、んでいるだけのときおおく、実際じっさいったりょうはそれほどおおくはなかったという[851]酒豪しゅごうであるが、晩餐ばんさんかいなどの席上せきじょうではさけんでいるふりをしているだけのときおおく、つぶれないよう注意ちゅういはらっていた[852]

ヒトラーと同様どうよう深夜しんやがた生活せいかつおくっていた。通常つうじょうあさ10から活動かつどう開始かいしし、深夜しんや2就寝しゅうしんしていた。あさまぶしさからのがれるため、ときはいつもくろ目隠めかくしをしてていた。また昼食ちゅうしょくには2あいだ昼寝ひるねする習慣しゅうかんがあった[853]

猫背ねこぜなうえにふとっていた。猫背ねこぜちいさいころから、肥満ひまんは30だいなかごろからである。ダイエットのつもりで早足はやあしあるくせがあった[854]

趣味しゅみ[編集へんしゅう]

チャーチルはだいいち大戦たいせんちゅうにランカスターおおやけりょう担当たんとう大臣だいじん左遷させんされたさいひま時間じかんがたくさんでき、それ以降いこう絵画かいがえがくことを趣味しゅみとするようになった[855][856][857]戦争せんそうちゅうでも、どこにくにしても道具どうぐ一式いっしき持参じさんするほどだった[858]マーガレット王女おうじょから「なぜ風景ふうけいしかかないのです」とかれたさいにチャーチルは「風景ふうけいならモデルにせる必要ひつようがないからです」とこたえたという[858]腕前うでまえはなかなかたかかったらしく、政治せいじ思想しそうからチャーチルにあまり好感こうかんっていないパブロ・ピカソが「チャーチルは画家がか職業しょくぎょうにしても、十分じゅうぶんっていかれただろう」と評価ひょうかしている[851]

チャートウェルやしき屋敷やしきふるぼけていたので手直てなおしが必要ひつようであり、チャーチルも職人しょくにんたちとともに煉瓦れんがみに参加さんかし、やがてそれが趣味しゅみひとつとなっていった[428][859]

読書どくしょでもあり、おおきな蔵書ぞうしょのこした。チャーチルは「ほん全部ぜんぶむことができぬなら、どこでもいいからにとまったところだけでもめ。またほん本棚ほんだなもどし、どこにれたかおぼえておけ。ほん内容ないようらずとも、その場所ばしょだけはおぼえておくよう心掛こころがけろ」という言葉ことばのこしている[860]

映画えいがではネルソン提督ていとく悲恋ひれん主題しゅだいとした『美女びじょありき』をこのんだ[861]

鼻歌はなうたうたうのがきだったが、口笛くちぶえきらい、ひとがやっているのをくとすぐにめにかかったという[861]

動物どうぶつきであり、いぬネコキツネ白鳥しらとり金魚きんぎょなどをっていた。(チャーチルはヒトラーとは対照たいしょうてきねこきだった)ペットのことでこまるとすぐにロンドン動物どうぶつえん電話でんわしてたずねた[860]。74さいときはじめて馬主ばしゅとなり[862]、その牧場ぼくじょう開設かいせつして競走きょうそう多数たすう所有しょゆうしていた[863]。チャーチルはこれらのうま大切たいせつにし、うまかってすうふんにわたってかたりかけるくせがあったという。またうまおどろくという理由りゆう自動車じどうしゃきらっていた[864]。バトル・オブ・ブリテンの緒戦しょせんころ、ロンドン動物どうぶつえんからロンドン空襲くうしゅうがあった場合ばあい動物どうぶつ銃殺じゅうさつせねばならないとの意見いけんたが、チャーチルはこのはなしにショックをけ、「ロンドンちゅう空襲くうしゅうがあれば、うみになり、死骸しがいやま累々るいるいだ。ライオントラはその死体したいもとめてまわる。それをきみたちはじゅうってってまわるのだよ。可哀かわいそうじゃないか」とかたったという[613]

あいねこ[編集へんしゅう]

チャーチルは熱烈ねつれつあいねこで、私邸してい公邸こうていわずかならず1、2ひきねこいていた。チャートウェルの屋敷やしきではミッキーというタビ―とともに壮年そうねんごした。あるかれだい法官ほうかん電話でんわをしていると、ミッキーがコードにじゃれつきはじめたため、「なにをやっているんだ!」とおもわず怒鳴どなってしまい、チャーチルは誤解ごかいくためにだい法官ほうかん弁解べんかいする羽目はめになったという。またタンゴというオレンジしょくしまねこは、夕食ゆうしょくにはかならずチャーチルのとなり椅子いすすわり、寵愛ちょうあい食事しょくじのおこぼれをほしいままにしていたほか、勇敢ゆうかんでケンカつよいネルソンと名付なづけられたグレーのねこ1940ねん首相しゅしょう就任しゅうにんさいしては、官邸かんてい同行どうこうしている[865]

なかでも最後さいごの飼猫ジョックは、1962ねんの88さい誕生たんじょうおくられたねこで、からだはジンジャー、くびもとあしさきしろかった。すぐに無二むに親友しんゆうとなった2人ふたりはどこにくにも一緒いっしょで、1964ねん最後さいご庶民しょみんいん登院とういんにも同行どうこうしたほか、直後ちょくご任期にんきえて官邸かんているときに撮影さつえいされた写真しゃしんにも2人ふたりうつっており、ジョックはチャーチルの最期さいご看取みとった[865]

人種じんしゅ差別さべつ[編集へんしゅう]

チャーチルはインドじんたいして人種じんしゅ差別さべつてき感情かんじょうっており、インドじん蔑視べっしする言葉ことば頻繁ひんぱんくちにしていた[866]かれ暴言ぼうげんがあまりにひどいものだったため、内閣ないかくのインド担当たんとうしょうであったレオ・アメリー英語えいごばんは、チャーチルにめんかって「首相しゅしょうとヒトラーの思想しそうにそれほどちがいがあるとはおもえない」とかたった[866]。インドじんへの憎悪ぞうおはチャーチルの意志いし決定けってい影響えいきょうあたえた[867]。チャーチルは当時とうじのインドの食糧しょくりょう事情じじょう深刻しんこくめずになん食料しょくりょう支援しえん要請ようせいされたにもかかわらずこれを拒絶きょぜつ[866]1943ねんにおけるベンガル飢饉ききんこした。この飢饉ききんではすうひゃくまんにん死者ししゃたとされる[866][867]

その[編集へんしゅう]

労働党ろうどうとう党首とうしゅアトリーとは論戦ろんせんわす政敵せいてき間柄あいだがらであったが、だい世界せかい大戦たいせんでのナチスドイツの脅威きょういたいしては、両者りょうしゃ連立れんりつ政権せいけん創設そうせつし、これに対抗たいこうした。チャーチルが政界せいかいから引退いんたいすると、チャーチルの邸宅ていたくにはかれたずねて、様々さまざまもの訪問ほうもんしてくるようになった。しかしチャーチルは、アトリー個人こじんたいする暴言ぼうげんべたものについては、自邸じていへの出入でいり禁止きんしとした[868]

語録ごろく[編集へんしゅう]

  • 「この救出きゅうしゅつ勝利しょうりふくまれている」(ダンケルクからえいふつぐん34まんにん脱出だっしゅつしたほうけての演説えんぜつ[869]
  • 「まだ支配しはいするつもりなのかな?」(1960ねんごろ、「西暦せいれき2000ねんには女性じょせいぜん世界せかい支配しはいしているという予想よそうについて、どうおもわれますか?」という記者きしゃ質問しつもんたいしての回答かいとう[870]
  • わたし言葉ことばべて消化しょうか不良ふりょうこしたことがない」[871]
  • 悲観ひかん主義しゅぎしゃすべての好機こうきなか困難こんなんつけるが、楽観らっかん主義しゅぎしゃすべての困難こんなんなか好機こうきいだす」
  • 成功せいこうとは意欲いよくうしなわずに失敗しっぱい失敗しっぱいかえすことである」
  • けっしてくっするな、けっして、けっして、けっして!」
  • ひと建物たてもの形作かたちづくる。すると今度こんど建物たてものひと形作かたちづくる」
  • 「アメリカじんのすべてのあらゆる可能かのうせいためしたのちに、つねただしいことをすると期待きたいできる」

一族いちぞく[編集へんしゅう]

チャーチル系譜けいふ[編集へんしゅう]

チャーチル沿革えんかく
マールバラ公爵こうしゃく紋章もんしょう

チャーチル栄進えいしんするきっかけをつくったのは、17世紀せいきウィンストン・チャーチルだった。このウィンストンは弁護士べんごし息子むすこで、自身じしん弁護士べんごしになったが、清教徒せいきょうと革命かくめいさいおう党派とうは騎兵きへい将校しょうこうとしてたたかったこと、海軍かいぐん提督ていとくフランシス・ドレイク縁戚えんせき初代しょだいバッキンガム公爵こうしゃくジョージ・ヴィリアーズ親族しんぞくつまとしたことで1660ねん王政おうせい復古ふっこのち成功せいこうつかんだ。イングランド庶民しょみんいん英語えいごばん議員ぎいん当選とうせんし、また宮内庁くないちょう会計かいけいかんとなり、ナイト爵あたえられた[872][873]

初代しょだいマールバラ公爵こうしゃく

その息子むすこジョン・チャーチル公爵こうしゃくとなった。ジェームズ2せいウィリアム3せいアン女王じょおうさんだい軍人ぐんじんとしてつかえたかれは、モンマスの反乱はんらん鎮圧ちんあつし、名誉めいよ革命かくめいではジェームズ2せい裏切うらぎって革命かくめい成功せいこう貢献こうけんし、だい同盟どうめい戦争せんそうスペイン継承けいしょう戦争せんそうではたいふつ同盟どうめいぐんそう司令しれいかんとして数々かずかず戦功せんこうをあげた[874][875]。アン女王じょおう寵愛ちょうあいけた女官にょかんサラ・ジェニングス結婚けっこんし、アン女王じょおうからてられ、スペイン継承けいしょう戦争せんそう戦功せんこうにより初代しょだいマールバラ公爵こうしゃくじょされ、またウッドストック (オックスフォードシャー)に広大こうだい所領しょりょうと、同地どうちブレンハイムのたたか戦勝せんしょう記念きねんするブレナム宮殿きゅうでん(ブレンハイムの英語えいごみ)を建設けんせつするための資金しきん30まんポンドを下賜かしされた[876][877][878][20]。これは戦功せんこうたいする恩賞おんしょうとしては前代未聞ぜんだいみもん大盤振おおばんぶいだった[879]

初代しょだいマールバラ公爵こうしゃくには無事ぶじ成人せいじんした男子だんしがなかった。議会ぎかいはマールバラ公爵こうしゃく存続そんぞくさせるため特例とくれいとして女系じょけいでの継承けいしょう許可きょかした[880][877]。これにより初代しょだいマールバラ公爵こうしゃく死後しご長女ちょうじょヘンリエッタだい2だいマールバラおんな公爵こうしゃくとなったが、彼女かのじょ息子むすこ早世そうせいしたため、彼女かのじょ死後しご、マールバラ公爵こうしゃくは、彼女かのじょいもうとであるアン英語えいごばんだい3だいサンダーランド伯爵はくしゃくチャールズ・スペンサーあいだい5だいサンダーランド伯爵はくしゃくチャールズ・スペンサー継承けいしょうされた[880][877]だい5だいチャールズのおとうと家系かけいのちスペンサー伯爵はくしゃくじょされ、その子孫しそんダイアナである)。

スペンサー=チャーチル

以降いこうこのチャールズ・スペンサーの直系ちょっけい男子だんしがマールバラ公爵こうしゃく継承けいしょうしていくことになるが、チャールズはスペンサーの家名かめい使つかつづけたのでチャーチルの家名かめいはこのときいちえた[880]。しかしチャールズのまごであり、1817ねん当主とうしゅとなっただい5だいマールバラ公爵こうしゃくジョージは、ワーテルローのたたか戦勝せんしょうムードのなか武勲ぶくんある家名かめいチャーチルを復活ふっかつさせることを許可きょかされ、以降いこう「スペンサー=チャーチル」のじゅうせい使用しようするようになった[881][882]

このジョージのまごにあたるのがチャーチルの祖父そふであるだい7だいマールバラ公爵こうしゃくジョン・スペンサー=チャーチルである。かれだいには歴代れきだい当主とうしゅ浪費ろうひと、産業さんぎょうともな地主じぬし没落ぼつらくという世相せそう反映はんえいしてマールバラ公爵こうしゃく家計かけい相当そうとうくるしく、所領しょりょう家財かざいばして生計せいけいたもつという有様ありさまだった[881][883][10]

だい7だいマールバラ公爵こうしゃくには5にん息子むすこがあったが、うち3にん早世そうせいし、2人ふたり無事ぶじ成長せいちょうした。長男ちょうなんジョージ三男さんなんランドルフきょうである[10]。この三男さんなんランドルフきょうがチャーチルの父親ちちおやである。

なお、ちちランドルフは「Lord(きょう)」の称号しょうごうっているが、これは公爵こうしゃく庶子しょしだからである[31]。イギリスでは法律ほうりつじょう貴族きぞくであるのは爵位しゃくいいえ当主とうしゅのみであり、それ以外いがいはその息子むすこであっても当主とうしゅ地位ちいぐまでは平民へいみんである。伯爵はくしゃく以上いじょう貴族きぞく場合ばあい従属じゅうぞく爵位しゃくいをもっており、その貴族きぞく嫡男ちゃくなんは、当主とうしゅになるまで従属じゅうぞく爵位しゃくい儀礼ぎれい称号しょうごうとして使用しようする。また公爵こうしゃく侯爵こうしゃく場合ばあいは、嫡男ちゃくなんおとうとたちも「Lord(きょう)」の儀礼ぎれい称号しょうごう使用しようする。ただしどちらも儀礼ぎれい称号しょうごうぎず、法的ほうてき身分みぶん平民へいみんである[884]。チャーチルは公爵こうしゃく庶子しょし子供こどもぎないから称号しょうごうっていなかった[31]

はは家系かけい[編集へんしゅう]

アメリカじんははジャネットは、1709ねんころにイングランド・ワイトとうからえいりょうアメリカ移民いみんした開拓かいたくしゃティモシー・ジェロームの子孫しそんである[877][885]。ティモシーはコネチカットしゅうウォリングフォードいち財産ざいさんきずいた[33]。ティモシーの末子まっしであるサミュエルはマサチューセッツしゅうストックブリッジの地主じぬしとして成功せいこうおさめ、その息子むすこアーロンはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく初代しょだい大統領だいとうりょうジョージ・ワシントン親戚しんせきむすめ結婚けっこんした[33]。アーロンの息子むすこにアイザックがおり、そのアイザックの息子むすこがチャーチルの祖父そふにあたるレナード・ジェロームだった[33]

レナードは南北戦争なんぼくせんそう復興ふっこう事業じぎょうおおきな成功せいこうおさめ、銀行ぎんこう経営けいえいしゃウォうぉル街るがい投機とうき、『ニューヨーク・タイムズ』の株主かぶぬしサンフランシスコ横浜よこはまつなパシフィック・メール汽船きせん会社かいしゃ英語えいごばん所有しょゆうしゃ競馬けいばじょう経営けいえいしゃ馬主ばしゅにもなった[886][33]かれはニューヨークしゅう議会ぎかい議員ぎいんを1ねんだけつとめたアンブローズ・ホールのむすめクラリッサ・ホールと結婚けっこんした。ホール伝承でんしょうによるとホールにはインディアンイロコイぞくながれているというが、正確せいかくなところは不明ふめいである[887]

レナードとクラリッサ夫妻ふさいは4にんむすめもうけた。そのうちの次女じじょがチャーチルのははジャネットであった。ジェローム一家いっかはヨーロッパの上流じょうりゅう階級かいきゅうより排他はいたせいつよいニューヨークの保守ほしゅてき上流じょうりゅう階級かいきゅうあいだでは、南北戦争なんぼくせんそうによって莫大ばくだい資産しさんきずいただけの田舎いなかしゃ新興しんこう成金なりきんとしてかるあつかわれただけでなく、のニューヨークの新興しんこう成金なりきん同様どうよう仲間入なかまいりすら拒絶きょぜつされ、ニューヨークの名家めいか御曹司おんぞうしとの結婚けっこん事実じじつじょう不可能ふかのうであったため資金しきんりょくさえあれば出自しゅつじかかわらずだれでも歓迎かんげいしていたパリ移住いじゅうし、フランス皇帝こうていナポレオン3せいから厚遇こうぐうされた[13]。しかし金儲かねもうけと競馬けいばとオペラ以外いがい興味きょうみがなく、さら上流じょうりゅう階級かいきゅうというものに是非ぜひともはいりたいとおもわなかったレナードはまもなくパリをはなれたが、おっと財力ざいりょくもちいてちょう名門めいもん貴族きぞく自分じぶんむすめたちの縁組えんぐみ夢見ゆめみていた、野心やしん見栄みえりのクラリッサとむすめたちは、かねさえれば外国がいこくじんでも排除はいじょされず、上流じょうりゅう階級かいきゅう人間にんげんとしてちやほやされるパリでらしつづけ、ジャネットもパリでそだった[888]母子ぼしひろしふつ戦争せんそう一時いちじフランスをはなれたものの、戦後せんごパリにもどった[889]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

チャーチルとつまクレメンティーン(1915ねん
ガーター騎士きしだん正装せいそうをまとうチャーチル。のランドルフ、まごウィンストン英語えいごばんとともに(1950年代ねんだい)。

1908ねん9がつ軍人ぐんじんむすめクレメンティーン結婚けっこんした。チャーチルは収入しゅうにゅうおおいものの、金銭きんせん無頓着むとんじゃくさい高級こうきゅう贅沢ぜいたくひんばかりをあつめる浪費ろうひへきがあったのでクレメンティーンがわって家計かけいささえた[890]。チャーチルは公的こうてきにもつまたよりにし、彼女かのじょまえ演説えんぜつ予行よこう演習えんしゅうをするのを習慣しゅうかんとしたという[890]

夫妻ふさいは5めぐまれた。1909ねんまれの長女ちょうじょダイアナ英語えいごばん、1911ねんまれの長男ちょうなんランドルフ英語えいごばん、1914ねんまれの次女じじょサラ英語えいごばん、1918ねんまれのさんじょマリーゴールド、1922ねんまれのよんじょメアリー英語えいごばん (のちソームズ男爵だんしゃく夫人ふじん)である[891]

長女ちょうじょダイアナはみなみアフリカの富豪ふごうサー・ジョン・ベイリーじゅん男爵だんしゃく(Sir John Bailey, 2nd Baronet)と結婚けっこんしたが、のち離婚りこんして保守党ほしゅとう政治せいじダンカン・サンデイス英語えいごばん再婚さいこんした。しかし1960ねん離婚りこんしたのち、1963ねん自殺じさつした。ダイアナの自殺じさつときにはチャーチルも老衰ろうすいしきってつばかりだったので、むすめ自殺じさついてもさほどかなしんでいる様子ようすはなかったという[892]

長男ちょうなんランドルフは一時期いちじき庶民しょみんいん議員ぎいんつとめたが、基本きほんてきにはジャーナリストとしてはたらいた[893]ちちかげかくれて目立めだたない人物じんぶつだったという[892]。チャーチルの死後しごまもない1968ねんうように死去しきょした[766]かれ最初さいしょつまパメラ・ディグビー英語えいごばん男爵だんしゃく令嬢れいじょうであり、社交しゃこうかいはなでもあった。ランドルフとの離婚りこんだたる著名ちょめいじんらと浮名うきなながし、もとニューヨークしゅう知事ちじW・アヴェレル・ハリマン結婚けっこんし、米国べいこくせき取得しゅとく高額こうがく献金けんきんしゃとして、政界せいかい多大ただい影響えいきょうりょくち、1993ねんちゅうふつ米国べいこく大使たいしにんぜられた。なお、ランドルフとの離婚りこん、ハリマンとの再婚さいこんもチャーチルせい名乗なのっていた[894]。パメラとのあいだ長男ちょうなんウィンストン・チャーチル (1940-2010)英語えいごばんは1970ねんから1997ねんまで保守党ほしゅとう選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいんつとめた[895]2人ふたりつまジューン・オズボーンとのあいだ長女ちょうじょアラベラ・チャーチル (1949-2009)英語えいごばんは1954ねんこめ『ライフ』表紙ひょうしかざり、幼少ようしょうから注目ちゅうもくあつめ、チャールズ皇太子こうたいし(のちのチャールズ3せい)やスウェーデンのカール・グスタフ王子おうじ(のちのカール16せいグスタフ)の候補こうほなどとりざたされたが[896]、1960年代ねんだいまつには反戦はんせん運動うんどうヒッピーになり、注目ちゅうもくされた。グラストンベリー・フェスティバル創始そうししゃ一人ひとりとしてもられている[897]

次女じじょサラは女優じょゆうになり[890]芸人げいにんヴィク・オリバーと結婚けっこんしたが離婚りこんし、写真しゃしんアンソニー・ビューチャンプと再婚さいこんするも死別しべつ。さらにだい23だいオードリー男爵だんしゃくトーマス・トウケット=ジェソンとさん度目どめ結婚けっこんをした[892]

さんじょマリーゴールドは3さいわかさでんだ[890]

よんじょメアリーは保守党ほしゅとう政治せいじクリストファー・ソームズ英語えいごばん結婚けっこんしている[892]。その夫妻ふさい長男ちょうなんニコラス・ソームズ英語えいごばん保守党ほしゅとう議員ぎいんとなったが、イギリスの欧州おうしゅう連合れんごう離脱りだつかんする造反ぞうはんとうから除名じょめいされた[898]

チャーチルは家族かぞく動物どうぶつのあだをつけていた。サラは「のろま」という意味いみで「ラバ」、メアリーは子供こどもころ不器量ぶきりょうだったので「チンパンジー」、つまクレメンティーンは「ネコ」だったという[430]

チャーチルのおとうとジョン・ストレンジのむすめクラリッサ英語えいごばんはチャーチルの後任こうにん首相しゅしょうイーデンに後妻ごさいとしてとついでいる[893]

つま親族しんぞく

つま親族しんぞく波乱万丈はらんばんじょう生涯しょうがいおくったひとおおい。つまおいにあたるエズモンド・ロミリーと、つま従兄じゅうけいだい2だいリーズデイル男爵だんしゃくデビッド・フリーマン=ミットフォードむすめたちミットフォード姉妹しまいがいる。エズモンドは学生がくせい時代じだいから共産きょうさん主義しゅぎしゃとしてらし、「チャーチルのアカのおい」とばれていた[899]

ミットフォード姉妹しまいじょジェシカ共産きょうさん主義しゅぎしゃで、エズモンドとちし、スペイン内戦ないせん左翼さよく陣営じんえい参加さんか[900]。その、アメリカへ移住いじゅうし、大戦たいせんがはじまるとカナダ空軍くうぐん入隊にゅうたいしてドイツ空軍くうぐんたたかったが、1941ねん11がつまつきた海上かいじょう戦死せんしした。チャーチルからジェシカにエズモンドの戦死せんしつたえたという[901][902]

ミットフォード姉妹しまいさんじょダイアナはファシズム運動うんどうとなった。ダイアナは結婚けっこんしていた貴族きぞく離婚りこんしてイギリスファシスト連合れんごう指導しどうしゃオズワルド・モズレー再婚さいこんしたが、だい世界せかい大戦たいせんちゅうにモズレーとともに投獄とうごくけた。

よんじょユニティはドイツへび、ヒトラーとの関係かんけいうわさされるほどヒトラーの親密しんみつ側近そっきんとなり、ドイツがオーストリア併合へいごうしたときにはオーストリアじんはみんな併合へいごうのぞんでいるという手紙てがみをチャーチルてにおくってきた。チャーチルは翻意ほんいすることなく、「公正こうせい国民こくみん投票とうひょうおこなわれていたらオーストリアじんはナチスの支配しはいにはいることを拒否きょひしたはずだ」と返信へんしんした[903]彼女かのじょえいどく開戦かいせん阻止そししようと努力どりょくしていたが、開戦かいせんいたってしまうと絶望ぜつぼうして自殺じさつ未遂みすいこした。そのイギリスへもどされたものの、このとききずがもとでのち死亡しぼうした[904][905]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • The Story of the Malakand Field Force (マラカンド野戦やせんぐん物語ものがたり) , 1898ねん。インドパシュトゥーンじん反乱はんらん鎮圧ちんあつせん体験たいけん
  • The River War: An Historical Account of the Reconquest of the Sudan (河畔かはん戦争せんそう:スーダン侵攻しんこう従軍じゅうぐん) ,1899ねん
  • Savrola, 1900ねん小説しょうせつ
  • ロンドンからレディスミスへ英語えいごばん』『ハミルトン将軍しょうぐん行進こうしん英語えいごばん』1900ねん:ボーア戦争せんそう従軍じゅうぐん
  • 『ランドルフ・チャーチルきょう』1906ねん
  • My African Journey, 1908ねん
  • 世界せかい危機ききThe World Crisis, 1923ねん - 1929ねんだいいち世界せかい大戦たいせん ぜん5かん
  • My Early Life, 1930ねん
  • Marlborough. His Life and Times, 1933ねん - 1938ねん
  • Great Contemporaries, 1937ねん
  • The Second World War, 6かん, 1948ねん - 1954ねん
    • 旧訳きゅうやくだい大戦たいせん回顧かいころくぜん24かん 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ翻訳ほんやく委員いいんかい, 1949-55ねん
    • 新訳しんやく完訳かんやくばん だい世界せかい大戦たいせん』(ぜん6かん予定よてい)ジョン・キーガン序説じょせつ伏見ふしみたけししげるわけみすず書房しょぼう(2023ねんなつより毎年まいとし1さつ予定よてい
  • 英語えいごけん人々ひとびと歴史れきし』A History of the English-Speaking Peoples, 1956-58ねん
4かんでの刊行かんこうだい大戦たいせんまえから執筆しっぴつし、えいべい連携れんけい強化きょうか意識いしきして「英語えいごけん国民こくみん歴史れきしじょう地位ちい性格せいかくさぐる」とした著作ちょさくであり[858]カエサルブリタニア侵攻しんこうからチャーチルがだいボーア戦争せんそうつまでをえがいた[768]
日本語にほんごやく近年きんねん

チャーチルにかんする回想かいそう評伝ひょうでん参考さんこう文献ぶんけん以外いがい[編集へんしゅう]

  • 『チャーチル―だい世界せかい大戦たいせん指導しどうしゃ山上やまかみ正太郎しょうたろう清水しみず書院しょいん「センチュリーブックス じん歴史れきしシリーズ〈西洋せいよう〉」、1972ねん
    • 『チャーチルとだい世界せかい大戦たいせん山上やまかみ正太郎しょうたろう清水しみず書院しょいんひと思想しそう〉、1984ねん新装しんそうばん2018ねん上記じょうき改訂かいていばん
  • Churchill's Wit: The Definitive Collection, by Richard M. Langworth英語えいごばん(Editor), Ebury Press, 2009ねん
  • The Definitive Wit of Winston Churchill, by Richard M. Langworth (Editor) , PublicAffairs, 2009ねん
  • 『ダウニングがい日記にっき 首相しゅしょうチャーチルのかたわらで』(上下じょうげ)、ジョン・コルヴィル、都築つづき忠七ちゅうしちほかやく平凡社へいぼんしゃ〈20世紀せいきメモリアル〉、1990ねん
  • 祖父そふチャーチルとわたし わか冒険ぼうけん日々ひび』 ウィンストン・S・チャーチル、佐藤さとう佐智子さちこやく法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく〈りぶらりあ選書せんしょ〉、1994ねん
  • 危機きき指導しどうしゃ―チャーチル』 冨田とみた浩司こうじ新潮しんちょう選書せんしょ、2011ねん
  • 『チャーチルの亡霊ぼうれい危機ききのEU』 前田まえだ洋平ようへい文春ぶんしゅん新書しんしょ、2012ねん
  • 『チャーチル ガリマールしん評伝ひょうでんシリーズ』 ソフィー・ドゥデ、神田かんだ順子じゅんこやく祥伝社しょうでんしゃ新書しんしょ、2015ねん
  • 『チャーチル 不屈ふくつ指導しどうしゃ肖像しょうぞう』 ジョン・キーガン、冨山とやまふとし佳夫よしおわけ岩波書店いわなみしょてん、2015ねん
  • 『チャーチル・ファクター たった一人ひとり歴史れきし世界せかいえるちからボリス・ジョンソン石塚いしづか雅彦まさひこ小林こばやし恭子きょうこやく、プレジデントしゃ、2016ねん

ウィンストン・チャーチルをあつかった作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ このときのチャーチルの成績せいせき製図せいず72てん自由じゆう製図せいず68てん国史こくし64てん数学すうがく62てんえい作文さくぶん62てんフランス語ふらんすご61てん化学かがく41てんラテン語らてんご18てんそう受験じゅけんしゃすう389にんちゅう95となっている[73]
  2. ^ なおチャーチルはこの70ねんちちまったおな死去しきょすることになる[83]
  3. ^ 騎兵きへい将校しょうこうはかなりひま仕事しごとであり、毎年まいとし5ヶ月かげつ休暇きゅうかがもらえる[88]
  4. ^ ムハンマド・アフマドはマフディーの反乱はんらんこした人物じんぶつ。マフディー国家こっか建国けんこくしたのち、1885ねん病死びょうしし、カリファ・アブドゥラヒがあたらしいマフディーとなっていた[115]
  5. ^ チャーチルはすでに政界せいかいてんじる決意けついかためていたため、キッチナーに遠慮えんりょする必要ひつようがなかったのだとおもわれる[116]
  6. ^ 中国人ちゅうごくじん自発じはつてき契約けいやくみなみアフリカにていることを裏付うらづける材料ざいりょうとして、中国人ちゅうごくじんにとって中国ちゅうごく本国ほんごくはたらくよりみなみアフリカではたらいたほうが15ばい給料きゅうりょうたかいという事実じじつがある[182]
  7. ^ この法律ほうりつ国王こくおう閣僚かくりょう任免にんめんけんたいして立法りっぽうけん独立どくりつまも意図いとで1705ねん制定せいていされた法律ほうりつである。国王こくおう閣僚かくりょう任免にんめんけん形骸けいがいし、議会ぎかい情勢じょうせいもとづいて首相しゅしょう任命にんめいされることが慣例かんれいしていたこの時代じだいにあってはほとんど意味いみのない制度せいどしており、1929ねんになって廃止はいしされている[195]
  8. ^ 庶民しょみんいんでは保守党ほしゅとう党首とうしゅバルフォアが「内務ないむ大臣だいじんみずか事件じけん現場げんばおもむくのは軽率けいそつ」という批判ひはん展開てんかいしたが、チャーチルは「そうおこるなよ。面白おもしろかったんだから」と答弁とうべんしたという[259]
  9. ^ このたたか以外いがいではチャーチルのうみしょう退任たいにんの1916ねん5がつ31にちこったユトランドおき海戦かいせんただ一大いちだい海戦かいせんべるものであった[317]
  10. ^ のちにボールドウィンないかく政権せいけん交代こうたい、イギリス政府せいふソ連それんとの国交こっこう断絶だんぜつした[444]
  11. ^ ただしえいふつから独立どくりつしても、東西とうざい冷戦れいせんによりアメリカとソ連それん影響えいきょうこうと進出しんしゅつしてくるのが一般いっぱんてきだった[735]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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