ノーベル賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ
受賞 じゅしょう 年 ねん :1953年 ねん
受賞 じゅしょう 部門 ぶもん :ノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう
受賞 じゅしょう 理由 りゆう :歴史 れきし や伝記 でんき の記述 きじゅつ の熟達 じゅくたつ に加 くわ え、高揚 こうよう した人間 にんげん の価値 かち についての雄弁 ゆうべん な庇護 ひご 者 しゃ であること
サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル KG , OM , CH , TD , PC , DL , FRS , Hon. RA (英語 えいご : Sir Winston Leonard Spencer Churchill 、1874年 ねん 11月30日 にち - 1965年 ねん 1月 がつ 24日 にち )は、イギリス の政治 せいじ 家 か 、陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん 、作家 さっか 。
サンドハースト王立 おうりつ 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう で軽 けい 騎兵 きへい 連隊 れんたい に所属 しょぞく し、第 だい 二 に 次 じ キューバ戦争 せんそう を観戦 かんせん し、イギリス領 りょう インド帝国 ていこく でパシュトゥーン人 じん 反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ 戦 せん 、スーダン 侵攻 しんこう 、第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう に従軍 じゅうぐん した。1900年 ねん のイギリス総 そう 選挙 せんきょ にオールダム選挙 せんきょ 区 く から保守党 ほしゅとう 候補 こうほ として初 はつ 当選 とうせん (当時 とうじ :25歳 さい )。しかしジョゼフ・チェンバレン が保護 ほご 貿易 ぼうえき 論 ろん を主張 しゅちょう すると、自由 じゆう 貿易 ぼうえき 主義 しゅぎ 者 しゃ として反発 はんぱつ し保守党 ほしゅとう から自由党 じゆうとう へ移籍 いせき した。ヘンリー・キャンベル=バナマン 自由党 じゆうとう 政権 せいけん が発足 ほっそく すると、植民 しょくみん 地 ち 省 しょう 政務次官 せいむじかん としてイギリスに併合 へいごう されたボーア人 じん 融和 ゆうわ 政策 せいさく や中国人 ちゅうごくじん 奴隷 どれい 問題 もんだい の処理 しょり など英 えい 領 りょう 南 みなみ アフリカ問題 もんだい に取 と り組 く んだ。アスキス 内閣 ないかく では通商 つうしょう 大臣 だいじん ・内務 ないむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん し、ロイド・ジョージ とともに急進 きゅうしん 派 は として失業 しつぎょう 保険 ほけん 制度 せいど など社会 しゃかい 改良 かいりょう 政策 せいさく に尽力 じんりょく 、この体験 たいけん を通 つう じて暴動 ぼうどう やストライキ 運動 うんどう に直面 ちょくめん し社会 しゃかい 主義 しゅぎ への敵意 てきい を強 つよ めた。
ドイツ との建 けん 艦 かん 競争 きょうそう が激化 げきか する中 なか 、海軍 かいぐん 大臣 だいじん に就任 しゅうにん 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 とき には海軍 かいぐん 大臣 だいじん 、軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん として戦争 せんそう を指導 しどう した。しかしアントワープ 防衛 ぼうえい やガリポリ上陸 じょうりく 作戦 さくせん で惨敗 ざんぱい を喫 きっ し、辞任 じにん した。しかしロイド・ジョージ内 ない 閣 かく で軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん として再 さい 入閣 にゅうかく 。戦後 せんご は戦争 せんそう 大臣 だいじん と航空 こうくう 大臣 だいじん に就任 しゅうにん し、ロシア革命 かくめい を阻止 そし すべく反 はん 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 戦争 せんそう を主導 しゅどう し、赤軍 せきぐん のポーランド侵攻 しんこう は撃退 げきたい した。だが、首相 しゅしょう は干渉 かんしょう 戦争 せんそう を快 こころよ く思 おも わず、植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん への転任 てんにん を命 めい じられ、イギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう のイラク やパレスチナ 政策 せいさく 、ユダヤ人 じん のパレスチナ 移民 いみん を推 お し進 すす めた。初 はつ の労働党 ろうどうとう 政権 せいけん となったマクドナルド 内閣 ないかく に反 はん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の立場 たちば から自由党 じゆうとう を離党 りとう し、野党 やとう に下落 げらく した保守党 ほしゅとう へ復 ふく 党 とう した。スタンリー・ボールドウィン 内閣 ないかく では財務 ざいむ 大臣 だいじん を務 つと め、新興 しんこう 国 こく アメリカ や日本 にっぽん の勃興 ぼっこう でイギリス貿易 ぼうえき が弱体 じゃくたい 化 か する中 なか 、金本位 きんほんい 制 せい 復帰 ふっき を行 おこな ったが失敗 しっぱい し、政権 せいけん 交代 こうたい が起 お き再 ふたた びマクドナルド の労働党 ろうどうとう 政権 せいけん の復帰 ふっき となった。
1930年代 ねんだい には停滞 ていたい したが、インド自治 じち 政策 せいさく やドイツ ナチ党 とう のヒトラー 独裁 どくさい 政権 せいけん への宥和 ゆうわ 政策 せいさく に反対 はんたい した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を機 き にチャーチルは海軍 かいぐん 大臣 だいじん として閣僚 かくりょう に復帰 ふっき したが、北欧 ほくおう 戦 せん で惨敗 ざんぱい 。しかしこの惨敗 ざんぱい の責任 せきにん はチェンバレン首相 しゅしょう に帰 かえ せられ、1940年 ねん に後任 こうにん として首相 しゅしょう 職 しょく に就 つ き、1945年 ねん の勝利 しょうり 達成 たっせい まで戦争 せんそう を主導 しゅどう した。西方 せいほう 電撃 でんげき 戦 せん 、ギリシャ・イタリア戦争 せんそう 、北 きた アフリカ戦線 せんせん でドイツ軍 ぐん に敗北 はいぼく するが、バトル・オブ・ブリテン では撃退 げきたい に成功 せいこう した。独 どく ソ戦 せん 開始 かいし のためヨシフ・スターリン のソ連 それん と協力 きょうりょく し、またルーズベルト 大統領 だいとうりょう のアメリカとも同盟 どうめい 関係 かんけい となった。
しかし1941年 ねん 12月以降 いこう の日本 にっぽん 軍 ぐん 参戦 さんせん 後 ご に、東方 とうほう 植民 しょくみん 地 ち である香港 ほんこん やシンガポール をはじめとするマレ まれ ー半島 はんとう 一帯 いったい のイギリス軍 ぐん 敗退 はいたい による相次 あいつ ぐ陥落 かんらく やインド洋 いんどよう からの放逐 ほうちく などの失態 しったい を犯 おか した上 うえ に、ドイツ軍 ぐん によるトブルク 陥落 かんらく でイギリスの威信 いしん が傷 きず 付 つ き、何 なに とかイギリスの植民 しょくみん 地 ち として残 のこ っていたインドやエジプトでの反 はん 英 えい 闘争 とうそう 激化 げきか を招 まね いた。
1944年 ねん 6月 がつ にノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん で攻勢 こうせい に転 てん じたものの、1945年 ねん 5月 がつ にナチス・ドイツ が降伏 ごうぶく すると労働党 ろうどうとう が挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく を解消 かいしょう し、同年 どうねん 7月 がつ の総 そう 選挙 せんきょ でアトリー 政権 せいけん が成立 せいりつ し保守党 ほしゅとう は惨敗 ざんぱい した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で戦勝 せんしょう 国 こく の地位 ちい を獲得 かくとく した中 なか 、チャーチルは野党 やとう 党首 とうしゅ に落 お ちたものの冷戦 れいせん 下 した で「鉄 てつ のカーテン 」演説 えんぜつ を行 おこな うなど独自 どくじ の反共 はんきょう 外交 がいこう を行 おこな い、ヨーロッパ合衆国 がっしゅうこく 構想 こうそう などを推 お し進 すす めた。イギリスはアメリカ とソ連 それん に並 なら ぶ戦勝 せんしょう 国 こく の地位 ちい を得 え たが、大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 後 ご にアトリー労働党 ろうどうとう 政権 せいけん がインド 等 ひとし の植民 しょくみん 地 ち を手放 てばな していくことを、帝国 ていこく 主義 しゅぎ の立場 たちば から批判 ひはん し植民 しょくみん 地 ち 独立 どくりつ の阻止 そし に力 ちから を注 ちゅう いだが、大 だい 英 えい 帝国 ていこく は植民 しょくみん 地 ち のほぼ全 すべ てを失 うしな い消滅 しょうめつ することとなり、世界一 せかいいち の植民 しょくみん 地 ち 大国 たいこく の座 ざ を失 うしな って米 べい ソの後塵 こうじん を拝 はい する国 くに に転落 てんらく した。
1951年 ねん に再 ふたた び首相 しゅしょう を務 つと め、米 べい ソに次 つ ぐ原爆 げんばく 保有 ほゆう を実現 じつげん し、東南 とうなん アジア条約 じょうやく 機構 きこう (SEATO)参加 さんか など反共 はんきょう 政策 せいさく も進 すす めた。1953年 ねん 、ノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう 受賞 じゅしょう 。1955年 ねん にアンソニー・イーデン に保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ 及 およ び首相 しゅしょう 職 しょく を引 ひ き継 つ がせ政界 せいかい から退 しりぞ いた。
父 ちち ・ランドルフ卿 きょう
母 はは ・ジャネット・ジェローム
1874年 ねん 11月30日 にち にイングランド のオックスフォードシャー のブレナムにて誕生 たんじょう [9] する。父 ちち のランドルフ・チャーチル 卿 きょう は、第 だい 7代 だい マールバラ公爵 こうしゃく ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチル の三男 さんなん で、1874年 ねん 春 はる にマールバラ公爵 こうしゃく 家 か の領地 りょうち であるウッドストック選挙 せんきょ 区 く から出馬 しゅつば して庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん に初 はつ 当選 とうせん した保守党 ほしゅとう の政治 せいじ 家 か であった。母 はは ジャネット・ジェローム (愛称 あいしょう ジェニー)はアメリカ人 じん 投機 とうき 家 か レナード・ジェロームの次女 じじょ だった。1873年 ねん 8月 がつ 12日 にち にワイト島 とう のカウズ (英語 えいご 版 ばん ) に停泊 ていはく したイギリス商船 しょうせん 上 じょう のパーティーでジャネットとランドルフ卿 きょう は知 し り合 あ い、3日 にち 後 ご に婚約 こんやく した。ランドルフ卿 きょう の父 ちち ははじめ身分 みぶん が違 ちが うと反対 はんたい していたが、ジェローム家 か が金持 かねも ちであることから結局 けっきょく 了承 りょうしょう し、二人 ふたり は1874年 ねん 4月 がつ にパリのイギリス大使館 たいしかん で結婚 けっこん し、ロンドン で暮 く らした。
チャーチルが生 う まれた祖父 そふ の居城 きょじょう ブレナム宮殿 きゅうでん [17]
1874年 ねん 11月30日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 30分 ふん 頃 ごろ 、父母 ちちはは の長男 ちょうなん としてオックスフォードシャー ウッドストックにあるマールバラ公爵 こうしゃく 家 いえ 自邸 じてい のブレナム宮殿 きゅうでん で誕生 たんじょう する。この日 ひ は聖 ひじり アンドリューの日 ひ であり、ブレナム宮殿 きゅうでん でマールバラ公爵 こうしゃく 主催 しゅさい の舞踏 ぶとう 会 かい が予定 よてい されていた。結婚 けっこん して7カ月 かげつ 半 はん で長男 ちょうなん を儲 もう けたのだった。スペンサー=チャーチル家 か の伝統 でんとう で代 だい 父 ちち (祖父 そふ レナード・ジェローム)の名前 なまえ をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付 なづ けられた(以下 いか 、チャーチルと表記 ひょうき )。
チャーチルは12月27日 にち にブレナム宮殿 きゅうでん の礼拝 れいはい 堂 どう で洗礼 せんれい を受 う けた。新年 しんねん を迎 むか えるとランドルフ卿 きょう 一家 いっか はロンドンの自邸 じてい へ帰 かえ り、乳母 うば エリザベス・エヴェレストが養育 よういく した。ヴィクトリア朝 あさ の上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう では子供 こども の養育 よういく は乳母 うば に任 まか せ、親 おや と子供 こども はほとんど関 かか わりを持 も たず、時々 ときどき 顔 かお を見 み るだけという関係 かんけい であることが多 おお かった。チャーチルの両親 りょうしん の場合 ばあい 、政界 せいかい と社交 しゃこう 界 かい での活動 かつどう が忙 いそが しかったので特 とく にその傾向 けいこう が強 つよ かった。
アイルランドでの幼少 ようしょう 期 き
7歳 さい の頃 ころ のチャーチル(アイルランド・ダブリン)
1876年 ねん にランドルフ卿 きょう は兄 あに ブランドフォード侯爵 こうしゃく ジョージ と王 おう 太子 たいし エドワード・アルバート (後 ご の英国 えいこく 王 おう エドワード7世 せい )の愛人 あいじん 争 あらそ いに首 くび を突 つ っ込 こ んで、王 おう 太子 たいし の不興 ふきょう を買 か い、王 おう 太子 たいし から決闘 けっとう を申 もう し込 こ まれるまでの事態 じたい となり、イギリス社交 しゃこう 界 かい における立場 たちば を失 うしな った。仲裁 ちゅうさい した首相 しゅしょう ・保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ベンジャミン・ディズレーリ からほとぼりが冷 さ めるまでイングランド外 がい にいるよう勧 すす められたランドルフ卿 きょう は、アイルランド総督 そうとく に任命 にんめい された父 ちち マールバラ公 こう の秘書 ひしょ として妻 つま や2歳 さい の息子 むすこ を伴 ともな って1877年 ねん 1月 がつ 9日 にち にアイルランド に赴任 ふにん した。
アイルランドにおいては公爵 こうしゃく 夫妻 ふさい はダブリン のフェニックス・パーク の総督 そうとく 官邸 かんてい 、ランドルフ卿 きょう 一家 いっか はその近 ちか くのリトル・ラトラで暮 く らした。チャーチルにとってアイルランドは「記憶 きおく している最初 さいしょ の場所 ばしょ 」であったと回顧 かいこ 録 ろく で書 か いている。
アイルランドでも引 ひ き続 つづ き乳母 うば エヴェレストが養育 よういく にあたっていた。チャーチルは乳母 うば を「ウーマニ」と呼 よ んで慕 した い、8歳 さい になるまで彼女 かのじょ の側 がわ から離 はな れることはほとんどなかった。チャーチルは後年 こうねん まで彼女 かのじょ の写真 しゃしん を自室 じしつ に飾 かざ り、「思慮 しりょ のないところに感情 かんじょう はない(他人 たにん に冷淡 れいたん な者 もの は知能 ちのう が弱 よわ い)」という彼女 かのじょ の言葉 ことば を謹言 きんげん にしたという。またこの頃 ころ から家庭 かてい 教師 きょうし が付 つ けられるようになったが、チャーチルは幼少 ようしょう 期 き から勉強 べんきょう が嫌 きら いだったという。1879年 ねん の大 だい 飢饉 ききん 後 ご 、アイルランドの政治 せいじ 情勢 じょうせい は不穏 ふおん になり、アイルランド独立 どくりつ を目指 めざ す秘密 ひみつ 結社 けっしゃ フェニアン の暴力 ぼうりょく 活動 かつどう が盛 さか んになっていった。そのため乳母 うば エヴェレストもチャーチルが総督 そうとく の孫 まご として狙 ねら われるのではと常 つね に気 き を揉 も んだという。
1880年 ねん 2月 がつ 4日 にち 、弟 おとうと ジョン・ストレンジがダブリンで生 う まれる。ランドルフ卿 きょう の子供 こども はチャーチルとこのジョン・ストレンジの二 に 人 にん のみである。チャーチルは基本 きほん 的 てき にこの弟 おとうと と仲良 なかよ く育 そだ った。ただチャーチルが幼 おさな いころに集 あつ めていた1500個 こ のおもちゃの兵隊 へいたい で弟 おとうと と遊 あそ ぶ時 とき 、白人 はくじん 兵士 へいし はチャーチルが独占 どくせん し、弟 おとうと にはわずかな黒人 こくじん 兵士 へいし しか与 あた えなかったという。チャーチルは黒人 こくじん 兵士 へいし のおもちゃに小石 こいし をぶつけたり、溺 おぼ れさせたりし、弟 おとうと の黒人 こくじん 軍隊 ぐんたい が蹴 け 散 ち らされて終 お わるというのがお約束 やくそく だった。
この直後 ちょくご に1880年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ があり、ランドルフ卿 きょう もウッドストック選挙 せんきょ 区 く から再選 さいせん すべく、一家 いっか そろってイングランドに帰国 きこく し、再選 さいせん を果 は たした。しかし保守党 ほしゅとう は大敗 たいはい し、ディズレーリ内 ない 閣 かく は総 そう 辞職 じしょく し、マールバラ公 こう もアイルランド総督 そうとく 職 しょく を辞 じ した。
聖 ひじり ジョージ・スクール
1884年 ねん のチャーチル
1882年 ねん 、8歳 さい を目前 もくぜん にしたチャーチルは、父 ちち の決定 けってい でバークシャー州 しゅう アスコットの聖 ひじり ジョージ・スクールに入学 にゅうがく した。
チャーチルはいわゆる「落 お ちこぼれ生徒 せいと 」だった。成績 せいせき は全 ぜん 教科 きょうか で最下位 さいかい 、体力 たいりょく もなく、遊 あそ びも得意 とくい なわけではなく、クラスメイトからも嫌 きら われているという問題児 もんだいじ だった。校長 こうちょう からもよく鞭打 むちう ち に処 しょ され、チャーチル自身 じしん もこの学校 がっこう には良 よ い思 おも い出 で がなく、悲惨 ひさん な生活 せいかつ をさせられたと回顧 かいこ している。この学校 がっこう の卒業生 そつぎょうせい である作家 さっか モーリス・ベアリング (英語 えいご 版 ばん ) によると、チャーチルは食堂 しょくどう から砂糖 さとう を盗 ぬす んだ廉 かど で校長 こうちょう から鞭打 むちう ち刑 けい に処 しょ された際 さい 、反省 はんせい するどころか、校長 こうちょう が大事 だいじ にしていた麦 むぎ わら帽子 ぼうし を踏 ふ み潰 つぶ すという暴挙 ぼうきょ にでたという。ベアリングは「チャーチルはあの学校 がっこう にいた間 あいだ ずっと権力 けんりょく と衝突 しょうとつ してばかりだった」と語 かた っている。
1884年 ねん 夏 なつ 、乳母 うば がチャーチルの身体 しんたい に鞭 むち で打 う たれた跡 あと を見 み つけて、母 はは ジャネットの判断 はんだん で退学 たいがく した。アメリカ人 じん である母 はは はイギリス上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう のサディスティック な教育 きょういく 方法 ほうほう に慣 な れておらず、鞭打 むちう ちのような教育 きょういく 方法 ほうほう を嫌悪 けんお していたという。
ブライトン寄宿 きしゅく 学校 がっこう
つづいてブライトン にある名 な もなき寄宿 きしゅく 学校 がっこう に入学 にゅうがく した。この学校 がっこう は聖 ひじり ジョージ・スクールと比 くら べれば居心地 いごこち が良 よ かったらしく、「そこには私 わたし がこれまでの学校 がっこう 生活 せいかつ で味 あじ わったことのない、親切 しんせつ と共感 きょうかん があった。」と回顧 かいこ している。この頃 ころ には父 ちち ランドルフ卿 きょう が保守党 ほしゅとう の中 なか でも著名 ちょめい な政治 せいじ 家 か の一人 ひとり になっていたので、その七光 ななひか りでチヤホヤされるようになったことも影響 えいきょう しているとされる。チャーチルは巷 ちまた で自分 じぶん の父 ちち が「グラッドストン 首相 しゅしょう のライバル」などと大 だい 政治 せいじ 家 か 視 し されているのを聞 き いて嬉 うれ しくなり、この頃 ころ から政治 せいじ に関心 かんしん を持 も つようになった。学校 がっこう でも「ノンポリ はバカなのだろう」などと公言 こうげん していた。
成績 せいせき は、品行 ひんこう はクラス最低 さいてい だが、国語 こくご (英語 えいご )、古典 こてん 、図画 ずが 、フランス語 ふらんすご はクラスで7番目 ばんめ から8番目 ばんめ ぐらいだった。乗馬 じょうば や水泳 すいえい に熱中 ねっちゅう し、作文 さくぶん にも関心 かんしん をもった。
父 ちち ランドルフ卿 きょう は1886年 ねん 成立 せいりつ のソールズベリー侯爵 こうしゃく 内閣 ないかく で大蔵 おおくら 大臣 だいじん ・庶民 しょみん 院 いん 院内 いんない 総務 そうむ に就任 しゅうにん し、次期 じき 首相 しゅしょう の地位 ちい を固 かた めた。ところが同年 どうねん のうちにソールズベリー侯爵 こうしゃく に見限 みかぎ られる形 かたち で辞職 じしょく 、事実 じじつ 上 じょう 失脚 しっきゃく することとなった。
ハーロー校 こう
弟 おとうと ジョン・ストレンジ(左 ひだり )、母 はは ジャネット(中央 ちゅうおう )、チャーチル(右 みぎ )、1889年 ねん
1888年 ねん 3月、パブリック・スクール のハーロー校 こう の入試 にゅうし を受 う けた。試験 しけん の出来 でき はいまいちで、苦手 にがて なラテン語 らてんご にいたっては氏名 しめい 記入 きにゅう 欄 らん 以外 いがい 、白紙 はくし 答案 とうあん で提出 ていしゅつ していたが、元 もと 大蔵 おおくら 大臣 だいじん ランドルフ卿 きょう の息子 むすこ であるため、校長 こうちょう の判断 はんだん で合格 ごうかく した。ただしクラスは最 もっと も落 お ちこぼれのクラスに入 い れられた。スペンサー=チャーチル家 か は伝統 でんとう 的 てき にイートン校 こう に入学 にゅうがく することが多 おお いが、チャーチルは病弱 びょうじゃく だったため、テムズ川 がわ の影響 えいきょう で湿気 しっけ がひどいイートン校 こう は避 さ けたとされる。
ハーロー校 こう での成績 せいせき は悪 わる かった。「無 む くし物 ぶつ が多 おお く、遅刻 ちこく が多 おお く、突然 とつぜん 勉強 べんきょう し始 はじ めたかと思 おも うと全 まった くやらなくなる」という気分 きぶん のムラが激 はげ しかったという。ハーロー校 こう でも校長 こうちょう から二 に 回 かい 鞭打 むちう ちの刑 けい に処 しょ された。また当時 とうじ のハーロー校 こう では下級生 かきゅうせい は上級生 じょうきゅうせい に雑用 ざつよう として仕 つか えなければならなかったが、チャーチルは上級生 じょうきゅうせい に反抗 はんこう 的 てき だったため、上級生 じょうきゅうせい からもしばしば鞭打 むちう ちの刑 けい に処 しょ されたという。
しかしチャーチルはこの学校 がっこう の軍事 ぐんじ 教練 きょうれん の授業 じゅぎょう が好 す きであり、射撃 しゃげき やフェンシング や水泳 すいえい も得意 とくい だった。また落 お ちこぼれクラスに入 い れられたおかげで難 むずか しい古典 こてん は免除 めんじょ され、英語 えいご だけやればいいことになったので逆 ぎゃく に英語 えいご 力 りょく を特 とく 化 か して伸 の ばすことができた。「ハーローヴィアン」という校内 こうない 雑誌 ざっし に投書 とうしょ したり、詩 し も書 か くようにもなり、文章 ぶんしょう の才能 さいのう を磨 みが いていった。
当時 とうじ のハーロー校 こう にはサンドハースト王立 おうりつ 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう への進学 しんがく を目指 めざ す「軍人 ぐんじん コース」があり、劣等 れっとう 生 せい は大抵 たいてい ここに進 すす んだ。ランドルフ卿 きょう も成績 せいせき の悪 わる い息子 むすこ チャーチルは軍人 ぐんじん コースに入 い れるしかないと考 かんが えていた。チャーチルが子供部屋 こどもべや でおもちゃの兵隊 へいたい を配置 はいち に付 つ かせて遊 あそ んでいる時 とき に父 ちち が部屋 へや に入 はい って来 き て「陸軍 りくぐん に入 はい る気 き はないか」と聞 き き、それに対 たい してチャーチルがイエスと答 こた えたことで最終 さいしゅう 的 てき に進路 しんろ が決 き まった。
しかしサンドハースト王立 おうりつ 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう も入試 にゅうし で多少 たしょう の数学 すうがく の知識 ちしき を要求 ようきゅう したため、ハーロー校 こう 在学 ざいがく 中 ちゅう にチャーチルが二 に 度 ど 受 う けた入試 にゅうし はともに不 ふ 合格 ごうかく だった。校長 こうちょう の薦 すす めでチャーチルはサンドハースト陸軍 りくぐん 学校 がっこう 入試 にゅうし 用 よう の予備校 よびこう に入学 にゅうがく した。出題 しゅつだい 内容 ないよう や傾向 けいこう をかなり正確 せいかく に分析 ぶんせき してくれる予備校 よびこう であり、チャーチルによれば「生 う まれつきのバカでない限 かぎ り、ここに入 はい れば誰 だれ でもサンドハースト王立 おうりつ 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう に合格 ごうかく できる」予備校 よびこう だった。
サンドハースト王立 おうりつ 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう
1895年 ねん 2月 がつ 、第 だい 4女王 じょおう 所有 しょゆう 軽 けい 騎兵 きへい 連隊 れんたい に入隊 にゅうたい したチャーチル
18歳 さい の時 とき の1893年 ねん 6月 がつ 、サンドハースト王立 おうりつ 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう の入試 にゅうし に三 さん 度目 どめ の挑戦 ちょうせん をして合格 ごうかく した。しかし成績 せいせき は良 よ くなかったので[注釈 ちゅうしゃく 1] 、父 ちち が希望 きぼう していた歩兵 ほへい 科 か の士官 しかん 候補 こうほ 生 せい にはなれず、騎兵 きへい 科 か の士官 しかん 候補 こうほ 生 せい になった。騎兵 きへい 将校 しょうこう はポロ 用 よう の馬 うま などの費用 ひよう がかかり、そのため騎兵 きへい 将校 しょうこう は人気 にんき がなく成績 せいせき が悪 わる い者 もの が騎兵 きへい に配属 はいぞく されていた。
こうして幼時 ようじ から軍隊 ぐんたい に憧 あこが れていたチャーチルはヴィクトリア女王 じょおう の軍隊 ぐんたい の軍人 ぐんじん となった。数学 すうがく や古典 こてん に悩 なや まされることはなくなり、地形 ちけい 学 がく 、戦略 せんりゃく 、戦術 せんじゅつ 、地図 ちず 、戦史 せんし 、軍法 ぐんぽう 、軍政 ぐんせい など興味 きょうみ ある分野 ぶんや の学習 がくしゅう に集中 しゅうちゅう することができるようになった。とりわけアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう と普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう に強 つよ い興味 きょうみ を持 も った。
ただしこの頃 ころ 、父 ちち の家計 かけい はかなり苦 くる しくなっており、チャーチルに十分 じゅうぶん な仕送 しおく りはできなくなっていた。そのためチャーチルも馬 うま のことで随分 ずいぶん 苦労 くろう し、将来 しょうらい の将校 しょうこう としての給料 きゅうりょう を担保 たんぽ に借金 しゃっきん して馬 うま を賃借 ちんが りしている。
1894年 ねん 12月に130人 にん 中 ちゅう 20位 い という好成績 こうせいせき で士官 しかん 学校 がっこう を卒業 そつぎょう し、オールダーショット 駐留 ちゅうりゅう の軽 けい 騎兵 きへい 第 だい 4連隊 れんたい に配属 はいぞく された。
父 ちち の死 し
父 ちち ランドルフ卿 きょう は梅毒 ばいどく に罹 かか り、健康 けんこう 状態 じょうたい は数 すう 年 ねん 前 まえ から悪化 あっか し続 つづ けていた。ランドルフ卿 きょう は1894年 ねん 6月 がつ に最後 さいご の思 おも い出 で 作 づく りでジャネットとともにアメリカ や日本 にっぽん などの諸 しょ 外国 がいこく 、また英 えい 領 りょう 香港 ほんこん 、英 えい 領 りょう シンガポール 、英 えい 領 りょう ラングーン などアジア のイギリス植民 しょくみん 地 ち を歴訪 れきほう する世界 せかい 旅行 りょこう に出 で た。この両親 りょうしん 不在 ふざい の間 あいだ にチャーチルは医者 いしゃ から父 ちち の詳 くわ しい病状 びょうじょう をき出 きだ し、父 ちち が助 たす かる見込 みこ みがないことを知 し らされたという。父 ちち は帰国 きこく 直後 ちょくご の1895年 ねん 1月 がつ 24日 にち 、45歳 さい で死去 しきょ し、首相 しゅしょう ら大物 おおもの 政治 せいじ 家 か が列席 れっせき した[注釈 ちゅうしゃく 2] 。チャーチルは「父 ちち と同志 どうし になりたいという夢 ゆめ 、つまり議会 ぎかい 入 い りして父 ちち の傍 かたわ らで父 ちち を助 たす けたいという夢 ゆめ は終 お わった。私 わたし に残 のこ された道 みち は父 ちち の思 おも い出 で を大切 たいせつ にし、父 ちち の意志 いし を継 つ ぐことだけだった」と書 か いている。父 ちち の死 し によって家長 かちょう となったチャーチルは、逼迫 ひっぱく したチャーチル家 か の家計 かけい をしょって立 た たねばならなくなった。父 ちち が晩年 ばんねん にロスチャイルド家 か から融資 ゆうし を受 う けて購入 こうにゅう していた南 みなみ アフリカ金鉱 きんこう 株 かぶ は南 みなみ アフリカ景気 けいき で20倍 ばい に高騰 こうとう したが、しかし相続 そうぞく した借金 しゃっきん の返済 へんさい に充 あ てられた。
同年 どうねん 7月 がつ には乳母 うば エヴェレストも死去 しきょ し、チャーチルは「私 わたし の20年 ねん の人生 じんせい で最 もっと も親密 しんみつ な友人 ゆうじん だった」と評 ひょう して悲 かな しんだ。彼女 かのじょ の葬儀 そうぎ はチャーチルが一切 いっさい を手配 てはい した。
父 ちち の死 し の翌月 よくげつ からオールダーショット に任官 にんかん し訓練 くんれん を受 う けたが、自由 じゆう 主義 しゅぎ と民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の発展 はってん の結果 けっか 、戦争 せんそう はなくなるのではないかと考 かんが え、すでにこの時 とき に軍人 ぐんじん は「私 わたし の生涯 しょうがい の仕事 しごと ではない」と考 かんが えるようになっていた。
キューバ反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ 戦 せん の観戦 かんせん [ 編集 へんしゅう ]
騎兵 きへい 将校 しょうこう になったチャーチルは、戦争 せんそう が起 お きる気配 けはい がないことを残念 ざんねん に思 おも い、ナポレオン戦争 せんそう 時代 じだい に生 う まれたかったとよく愚痴 ぐち をこぼしていた。そんな中 なか の1895年 ねん 、スペイン領 りょう キューバでスペイン の支配 しはい に抗 こう するマクシモ・ゴメスやホセ・マルティ らの反乱 はんらん が勃発 ぼっぱつ した(第 だい 二 に 次 じ キューバ独立 どくりつ 戦争 せんそう )。関心 かんしん を持 も ったチャーチルは軍 ぐん から2ヶ月 かげつ 半 はん の長期 ちょうき 休暇 きゅうか をもらい[注釈 ちゅうしゃく 3] 、さらにスペイン政府 せいふ にキューバの反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ に協力 きょうりょく したいと申 もう し出 で て、キューバ渡航 とこう の許可 きょか を得 え た。
こうして1895年 ねん 11月 がつ 初 はじ め、同僚 どうりょう レジナルド・バーンズとともにキューバへ向 む けて出港 しゅっこう した。途中 とちゅう ニューヨーク に立 た ち寄 よ り、母方 ははかた の祖父 そふ レナード・ジェローム の友人 ゆうじん であるアメリカ下院 かいん 議員 ぎいん ウィリアム・バーク・コクランから歓迎 かんげい された。チャーチルは政界 せいかい 進出 しんしゅつ の野望 やぼう を持 も っていたので、コクランから演説 えんぜつ 手法 しゅほう について色々 いろいろ と手 て ほどきを受 う けた。またコクランの紹介 しょうかい でニューヨーク市内 しない の各所 かくしょ を見学 けんがく したが、とりわけ裁判所 さいばんしょ に驚 おどろ いた。法廷 ほうてい が普通 ふつう の部屋 へや であり、裁判官 さいばんかん も検事 けんじ も弁護士 べんごし もイギリスのようにカツラや法服 ほうふく を着用 ちゃくよう せず平服 へいふく で出廷 しゅってい してきたからである。チャーチルは「伝統 でんとう や威厳 いげん などまったくなかった。それでも絞首刑 こうしゅけい 判決 はんけつ を下 くだ せるというのは、大 たい したことだ。」と感心 かんしん している。
キューバに到着 とうちゃく した後 のち はスペイン軍 ぐん と行動 こうどう を共 とも にした。チャーチルはこの従軍 じゅうぐん 中 ちゅう にキューバ製 せい 葉巻 はまき と昼寝 ひるね の習慣 しゅうかん を身 み につけたという。またこの戦争 せんそう 中 ちゅう 、チャーチルは『デイリー・グラフィック』紙 し と特派 とくは 員 いん 契約 けいやく をしており、報告 ほうこく 書 しょ を同 どう 新聞 しんぶん 社 しゃ に送 おく り、特派 とくは 員 いん として戦地 せんち に赴 おもむ くことは、いい小遣 こづか い稼 かせ ぎになることを知 し った。
21歳 さい の誕生 たんじょう 日 び である1895年 ねん 11月30日 にち に初 はじ めて実戦 じっせん 経験 けいけん を得 え た。道 みち で朝食 ちょうしょく をとっていたところ、ゲリラの銃弾 じゅうだん が顔 かお のすぐ近 ちか くをかすめ、敵 てき はすぐに姿 すがた を消 け した。数日 すうじつ 後 ご にも銃撃 じゅうげき 戦 せん に遭遇 そうぐう し、敵 てき は30分 ふん ほど銃撃 じゅうげき を続 つづ けて撤退 てったい した。チャーチルは戦功 せんこう を立 た てることはできなかったが、初 はじ めて戦死 せんし 者 しゃ を見 み た。
チャーチルは圧政 あっせい に抗 こう しようという反乱 はんらん の精神 せいしん には一定 いってい の理解 りかい を持 も っていたが、ゲリラの野蛮 やばん な戦法 せんぽう は嫌 きら っており、それに勇敢 ゆうかん に立 た ち向 む かうスペイン軍人 ぐんじん たちを尊敬 そんけい していた。またスペイン軍人 ぐんじん と話 はな しているうちにスペイン人 じん は決 けっ してキューバ人 じん を憎 にく んでおらず、イングランド人 じん がアイルランド人 じん に対 たい して持 も っているような感情 かんじょう をキューバ人 じん に対 たい して持 も っていると考 かんが えるようになった。
英 えい 領 りょう インド勤務 きんむ [ 編集 へんしゅう ]
1897年 ねん インド勤務 きんむ 時代 じだい のチャーチル。ポロ 用 よう の馬 うま とインド人 じん 召使 めしつかい とともに
イギリスに帰国 きこく したチャーチルは、ますます苦 くる しくなっていた家計 かけい のために更 さら なる従軍 じゅうぐん 経験 けいけん と特派 とくは 員 いん としての原稿 げんこう 料 りょう を渇望 かつぼう し、オスマン=トルコ帝国 ていこく の支配 しはい に抗 こう して蜂起 ほうき したクレタ島 とう 、ジェームソン侵入 しんにゅう 事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) が発生 はっせい した南 みなみ アフリカなどに特派 とくは 員 いん として赴 おもむ く事 こと を希望 きぼう し、母 はは を通 つう じて各 かく 方面 ほうめん に手 て をまわしたが、実現 じつげん しなかった。
1896年 ねん 冬 ふゆ に第 だい 4女王 じょおう 所有 しょゆう 軽 けい 騎兵 きへい 連隊 れんたい とともにチャーチルはイギリス領 りょう インド帝国 ていこく に転勤 てんきん となった。インド駐留 ちゅうりゅう のイギリス軍 ぐん 将校 しょうこう はまるで王侯 おうこう のように暮 く らし、日常 にちじょう 生活 せいかつ をすべてインド人 じん 召使 めしつかい に任 まか せていたが、チャーチルもそのような生活 せいかつ を送 おく った。インド人 じん 召使 めしつかい はかなり薄給 はっきゅう で雇 やと うことができるが、困窮 こんきゅう していたチャーチルはインド人 じん 金融 きんゆう 業者 ぎょうしゃ から借金 しゃっきん している。
インドは平穏 へいおん だったのでチャーチルは、アリストテレス の『政治 せいじ 学 がく 』、プラトン の『共和 きょうわ 国 こく 』、ギボン の『ロ ろ ーマ帝国 まていこく 衰亡 すいぼう 史 し 』、マルサス の『人口 じんこう 論 ろん 』、ダーウィン の『種 たね の起源 きげん 』、マコーリー の『イングランド史 し (英語 えいご 版 ばん ) 』など多 おお くの読書 どくしょ をした。
インド勤務 きんむ 時代 じだい に唯一 ゆいいつ 参加 さんか した実戦 じっせん は、1897年 ねん 夏 なつ にインド西北 せいほく の国境 こっきょう 付近 ふきん で発生 はっせい したパシュトゥーン人 じん の反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ 戦 せん だった。この反乱 はんらん が発生 はっせい するとチャーチルは鎮圧 ちんあつ に派遣 はけん されたマラカンド野戦 やせん 軍 ぐん に入隊 にゅうたい を希望 きぼう し、はじめ新聞 しんぶん の特派 とくは 員 いん 、将校 しょうこう に欠員 けついん が生 しょう じた後 のち にはその後任 こうにん として戦闘 せんとう に参加 さんか した。しかしチャーチルは勲章 くんしょう を得 え ようと焦 こげ るあまり、しばしば独断 どくだん で無謀 むぼう な行動 こうどう に出 で たため、やがて帰 き 隊 たい させられた。
この時 とき の体験 たいけん 談 だん を処女 しょじょ 作 さく 『マラカンド野戦 やせん 軍 ぐん 物語 ものがたり 』としてまとめた。この作品 さくひん の評判 ひょうばん が良 よ かったため、チャーチルは続 つづ いて『サヴロラ (英語 えいご 版 ばん ) 』という地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん の某国 ぼうこく の革命 かくめい 運動 うんどう を舞台 ぶたい にした小説 しょうせつ を書 か いた。これも好評 こうひょう を博 はく し、かなりの収入 しゅうにゅう になった。
1898年 ねん のチャーチル(エジプト ・カイロ )
この頃 ころ 、イギリスではスーダン 問題 もんだい が再 さい 浮上 ふじょう していた。スーダンはイギリスの傀儡 かいらい 国家 こっか エジプト の属領 ぞくりょう だったが、1881年 ねん に発生 はっせい したマフディーの反乱 はんらん により、時 とき の英国 えいこく 首相 しゅしょう グラッドストン が放棄 ほうき を決定 けってい して以来 いらい 、マフディー軍 ぐん の支配 しはい 下 か に置 お かれ、英国 えいこく 支配 しはい から離 はな れた独立 どくりつ 国家 こっか となっていた。しかしロシア とフランス のエチオピア への野心 やしん が高 たか まる中 なか 、首相 しゅしょう ソールズベリー侯爵 こうしゃく はそれに先手 せんて を打 う つべく、エチオピアに隣接 りんせつ するマフディー国家 こっか への侵攻 しんこう を決定 けってい した。
チャーチルは従軍 じゅうぐん を希望 きぼう し、『マラカンド野戦 やせん 軍 ぐん 物語 ものがたり 』を高 たか く評 ひょう していた首相 しゅしょう ソールズベリー侯爵 こうしゃく と会見 かいけん できたのを好機 こうき としてエジプトの実質 じっしつ 的 てき 統治 とうち 者 しゃ だったイギリス駐 ちゅう エジプト総領事 そうりょうじ クローマー伯爵 はくしゃく を紹介 しょうかい してもらい、従軍 じゅうぐん が許 ゆる された。この戦争 せんそう でもモーニング・ポスト紙 し と特派 とくは 員 いん 契約 けいやく を結 むす んだ。
1898年 ねん 8月 がつ にホレイショ・キッチナー 将軍 しょうぐん 率 ひき いるイギリス軍 ぐん に加 くわ わって、ナイル河 かわ を遡 さかのぼ って進軍 しんぐん 、9月1日 にち にはマフディー国 こく 首都 しゅと オムダーマン を包囲 ほうい し、翌 よく 9月 がつ 2日 にち 、マフディー軍 ぐん 4万 まん が打 う って出 で てきて、オムダーマンの戦 たたか い が始 はじ まった。キッチナー将軍 しょうぐん は第 だい 21槍 やり 騎兵 きへい 連隊 れんたい に突撃 とつげき を行 おこな わせたが、これは歴史 れきし 上 じょう 最後 さいご の騎兵 きへい 突撃 とつげき とされる。チャーチルはインド勤務 きんむ 時代 じだい に肩 かた を脱臼 だっきゅう していた関係 かんけい で、剣 けん ではなく拳銃 けんじゅう を使用 しよう して突撃 とつげき したため、比較的 ひかくてき 安全 あんぜん に戦 たたか うことができた。戦 たたか いは多 おお くの戦死 せんし 傷者 しょうしゃ を出 だ しながらもイギリス軍 ぐん の勝利 しょうり に終 お わり、マフディー国家 こっか は滅亡 めつぼう し、スーダンはイギリスとその傀儡 かいらい 国家 こっか エジプトの主権 しゅけん 下 か に戻 もど った。
インドの第 だい 4女王 じょおう 所有 しょゆう 軽 けい 騎兵 きへい 連隊 れんたい に帰 き 隊 たい したチャーチルは、今回 こんかい の戦争 せんそう についてまとめた『河畔 かはん の戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) 』を著 あらわ した。この著書 ちょしょ の中 なか でチャーチルはキッチナー将軍 しょうぐん を批判 ひはん 的 てき に書 か いている。特 とく に戦 たたか い方 かた が犠牲 ぎせい を問 と わなすぎることや、兵士 へいし たちがマフディー国家 こっか の建国 けんこく 者 しゃ ムハンマド・アフマド[注釈 ちゅうしゃく 4] の墓 はか を暴 あば いたのを止 と めなかったことを批判 ひはん している[注釈 ちゅうしゃく 5] 。しかし、この本 ほん を読 よ んだホレイショ・キッチナー は自分 じぶん を批判 ひはん した本 ほん の内容 ないよう に激怒 げきど し、遺恨 いこん が生 しょう じた。このことは後々 あとあと チャーチルに祟 たた ることになる。
軍 ぐん を除隊 じょたい 、選挙 せんきょ に初 はつ 挑戦 ちょうせん [ 編集 へんしゅう ]
1899年 ねん 春 はる に陸軍 りくぐん を除隊 じょたい した。騎兵 きへい 将校 しょうこう は経費 けいひ がかかるし、文筆 ぶんぴつ で生計 せいけい を立 た てていく自信 じしん が付 つ いたためであったといわれる。
1899年 ねん 6月 がつ にオールダム選挙 せんきょ 区 く の庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん 補欠 ほけつ 選挙 せんきょ に保守党 ほしゅとう 候補 こうほ として出馬 しゅつば した。オールダム は繊維 せんい 産業 さんぎょう の町 まち で労働 ろうどう 者 しゃ が有権者 ゆうけんしゃ の中心 ちゅうしん だったため、保守党 ほしゅとう としてはディズレーリ の「トーリー・デモクラシー」の継承 けいしょう 者 しゃ を自任 じにん していたランドルフ卿 きょう の息子 むすこ を候補 こうほ にした。
チャーチルも「トーリー・デモクラシー」を意識 いしき した選挙 せんきょ 戦 せん を展開 てんかい し、「帝国 ていこく を維持 いじ するには自由 じゆう な人民 じんみん 、教育 きょういく ある人民 じんみん 、飢 う えない人民 じんみん が必要 ひつよう だ。だからこそ我々 われわれ は社会 しゃかい 政策 せいさく を支持 しじ する」と演説 えんぜつ した。だが補欠 ほけつ 選挙 せんきょ の最大 さいだい の争点 そうてん は社会 しゃかい 政策 せいさく ではなく、国教 こっきょう 会 かい に地方 ちほう 税 ぜい を投入 とうにゅう するソールズベリー侯爵 こうしゃく の政策 せいさく に対 たい する賛否 さんぴ だった。自由党 じゆうとう はこれを徹底的 てっていてき に批判 ひはん して選挙 せんきょ 戦 せん を有利 ゆうり に展開 てんかい し、チャーチルも選挙 せんきょ 戦 せん 後半 こうはん でつい「私 わたし が当選 とうせん したらこの法案 ほうあん には反対 はんたい する」という失言 しつげん をしてしまい、変節 へんせつ 者 しゃ という批判 ひはん を受 う けてますます不利 ふり な立場 たちば に追 お いやられた。
イギリスの選挙 せんきょ 区 く は1884年 ねん の第 だい 3次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 以来 いらい 、原則 げんそく として小 しょう 選挙 せんきょ 区 く になっていたが、オールダム選挙 せんきょ 区 く は数少 かずすく ない2議席 ぎせき 選出 せんしゅつ の大 だい 選挙 せんきょ 区 く だった。しかし選挙 せんきょ の結果 けっか は、2議席 ぎせき とも自由党 じゆうとう がとり、チャーチルは今 いま 一 いち 歩 ほ のところで落選 らくせん となった。
第 だい 2次 じ ボーア戦争 せんそう に従軍 じゅうぐん [ 編集 へんしゅう ]
1899年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう 時 じ の従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ チャーチル
南 みなみ アフリカのボーア人 じん 国家 こっか トランスヴァール共和 きょうわ 国 こく とオレンジ自由 じゆう 国 こく を併合 へいごう せんと目論 もくろ むソールズベリー侯爵 こうしゃく 内 ない 閣 かく のジョゼフ・チェンバレン 植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん はボーア人 じん に挑発 ちょうはつ を続 つづ け、1899年 ねん 10月 がつ に第 だい 2次 じ ボーア戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。
チャーチルは再 ふたた び『モーニング・ポスト』紙 し の特派 とくは 員 いん となり、今回 こんかい は民間 みんかん ジャーナリストとして戦地 せんち に赴 おもむ いた。戦闘 せんとう が発生 はっせい しているナタール植民 しょくみん 地 ち へ向 む かい、11月15日 にち には装甲 そうこう 列車 れっしゃ に乗 の せてもらったが、この列車 れっしゃ は途中 とちゅう ボーア人 じん の攻撃 こうげき を受 う けて脱線 だっせん し、チャーチルを含 ふく めて乗 の っていた者 もの らのほとんどが捕虜 ほりょ になった。この時 とき チャーチルを捕 と らえたボーア人 じん 農民 のうみん は後 のち に南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく 初代 しょだい 大統領 だいとうりょう 、ルイス・ボータ としてチャーチルと再会 さいかい することになる[128] 。トランスヴァール首都 しゅと プレトリア の捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ に収容 しゅうよう された。チャーチルは民間 みんかん 人 じん だからすぐに釈放 しゃくほう されると思 おも っていたが、英字 えいじ 新聞 しんぶん が「『チャーチル中尉 ちゅうい 』の勇気 ゆうき ある行動 こうどう 」を称 たた える記事 きじ を載 の せたせいで、釈放 しゃくほう されるどころか、下手 へた をすれば民間 みんかん 人 じん に偽装 ぎそう したとして戦争 せんそう 法規 ほうき 違反 いはん で銃殺 じゅうさつ される可能 かのう 性 せい も出 で てきた。チャーチルは12月12日 にち 夜中 よなか に便所 べんじょ の窓 まど から抜 ぬ け出 だ して収容 しゅうよう 所 しょ を脱走 だっそう した。元 もと イギリス人 じん の帰化 きか トランスヴァール人 じん の炭鉱 たんこう 技師 ぎし に数 すう 日間 にちかん 匿 かくま ってもらった後 のち 、貨車 かしゃ に乗 の ってポルトガル領 りょう モザンビーク のロレンソ・マルケス のイギリス領事館 りょうじかん にたどりついた。
この間 あいだ 、新聞 しんぶん 報道 ほうどう などで「チャーチルが捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ を脱走 だっそう したが、再 さい 逮捕 たいほ されて銃殺 じゅうさつ された」という噂 うわさ が流 なが れていたため、チャーチルの生存 せいぞん が判明 はんめい したことへの反響 はんきょう は大 おお きかった。この頃 ころ 、戦況 せんきょう はレッドヴァース・ブラー将軍 しょうぐん 率 ひき いるイギリス軍 ぐん が全滅 ぜんめつ したり、各地 かくち でイギリス軍 ぐん が包囲 ほうい されたり、イギリス軍 ぐん が劣勢 れっせい であった。そのためチャーチルのこの脱走 だっそう 劇 げき は戦意 せんい 高揚 こうよう のいい英雄 えいゆう 譚 たん となった。
この後 のち 、チャーチルはブラー将軍 しょうぐん のおかげでケープ植民 しょくみん 地 ち で新 しん 編成 へんせい された南 みなみ アフリカ軽 けい 騎兵 きへい 連隊 れんたい に中尉 ちゅうい 階級 かいきゅう のまま再 さい 入隊 にゅうたい できた。レディスミス で包囲 ほうい されるイギリス軍 ぐん の救援 きゅうえん 作戦 さくせん に参加 さんか し、ついでフレデリック・ロバーツ卿 きょう の指揮 しき 下 か でヨハネスブルク やプレトリア への侵攻 しんこう 作戦 さくせん に従軍 じゅうぐん した。1900年 ねん 6月5日 にち のプレトリア占領 せんりょう の際 さい にはチャーチルは真 ま っ先 さき に自分 じぶん が収容 しゅうよう されていた捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ に向 む かい、そこにイギリス国旗 こっき を掲 かか げて復讐 ふくしゅう を果 は たした。国土 こくど が占領 せんりょう されてもボーア人 じん は屈 くっ することはなく、ボーア戦争 せんそう はゲリラ戦争 せんそう と化 か していくのだが、チャーチルはプレトリア占領 せんりょう とともにイギリスへ引 ひ き上 あ げた。
帰国 きこく 後 ご ただちにボーア戦争 せんそう に関 かん する『ロンドンからレディスミスへ (英語 えいご 版 ばん ) 』と『ハミルトン将軍 しょうぐん の行進 こうしん (英語 えいご 版 ばん ) 』の2作 さく を著 あらわ した。
保守党 ほしゅとう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん に当選 とうせん [ 編集 へんしゅう ]
1900年 ねん 9月 がつ 27日 にち の『バニティ・フェア 』誌 し のチャーチルの戯画 ぎが
トランスヴァール共和 きょうわ 国 こく 首都 しゅと プレトリアを占領 せんりょう したことによる戦勝 せんしょう ムードの中 なか 、首相 しゅしょう ソールズベリー侯爵 こうしゃく と植民 しょくみん 地相 ちそう チェンバレン は、いま解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ すれば有利 ゆうり な議会 ぎかい 状況 じょうきょう を作 つく れると踏 ふ んで、1900年 ねん 9月 がつ 1日 にち に総 そう 司令 しれい 官 かん ホレイショ・キッチナー 将軍 しょうぐん にトランスヴァール併合 へいごう 宣言 せんげん を出 だ させるとともに、9月25日 にち に議会 ぎかい を解散 かいさん した。こうして「カーキ(軍服 ぐんぷく の色 いろ )選挙 せんきょ 」と呼 よ ばれた解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ が行 おこな われた。
チャーチルはこの総 そう 選挙 せんきょ に再 ふたた びオールダム選挙 せんきょ 区 く から保守党 ほしゅとう 公認 こうにん 候補 こうほ として出馬 しゅつば した。今度 こんど の選挙 せんきょ は、捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ からの脱走 だっそう 劇 げき で名前 なまえ が売 う れていたチャーチルが有利 ゆうり であった。与党 よとう (保守党 ほしゅとう と自由 じゆう 統一 とういつ 党 とう )の選挙 せんきょ 戦 せん を取 と り仕切 しき っていた植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん チェンバレンもチャーチル応援 おうえん のため選挙 せんきょ 区 く 入 い りしてくれた。
選挙 せんきょ 結果 けっか は自由党 じゆうとう 候補 こうほ アルフレッド・エモット男爵 だんしゃく が最 もっと も得票 とくひょう したものの、チャーチルも第 だい 2位 い の得票 とくひょう を得 え て、オールダム選挙 せんきょ 区 く 2議席 ぎせき を選出 せんしゅつ するため、チャーチルも次点 じてん 当選 とうせん できた。こうしてチャーチルは26歳 さい にして庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん となった。
総 そう 選挙 せんきょ 全体 ぜんたい の結果 けっか も与党 よとう 保守党 ほしゅとう と自由 じゆう 統一 とういつ 党 とう が野党 やとう 自由党 じゆうとう とアイルランド国民党 こくみんとう (英語 えいご 版 ばん ) に134議席 ぎせき 差 さ をつけて勝利 しょうり した。
チャーチルは1901年 ねん 、自由党 じゆうとう 議員 ぎいん で鉄道 てつどう 事業 じぎょう 家 か のジャスパー・ウィルソン・ジョーンズ らが創設 そうせつ した植民 しょくみん 地 ち 看護 かんご 協会 きょうかい (1896年 ねん - )の幹部 かんぶ となった[17] 。なお、ジョーンズの義理 ぎり の息子 むすこ の弁護士 べんごし フランシス・テイラー・ピゴット はそれ以前 いぜん に日本 にっぽん の伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 政権 せいけん の法制 ほうせい 顧問 こもん (1888年 ねん - 1891年 ねん )を務 つと めていた。
講演 こうえん 会 かい と処女 しょじょ 演説 えんぜつ
1900年 ねん 末 まつ の保守党 ほしゅとう 議員 ぎいん チャーチル。訪米 ほうべい 時 じ の写真 しゃしん
保守党 ほしゅとう の庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん となったチャーチルはイギリス各地 かくち で講演 こうえん 会 かい を行 おこな い、1900年 ねん 末 まつ にはアメリカや英 えい 領 りょう カナダでも講演 こうえん 会 かい を開 ひら いて金 かね を稼 かせ いだ。講演 こうえん 会 かい はかなりの収入 しゅうにゅう にはなったが、アメリカ人 じん の聴衆 ちょうしゅう のうちアイルランド系 けい アメリカ人 じん は反 はん 英 えい 的 てき な人 ひと が多 おお く、それ以外 いがい のアメリカ人 じん もボーア人 じん 寄 よ りの人 ひと が多 おお かった。
そのためチャーチルもボーア戦争 せんそう に関 かん する厳 きび しい追及 ついきゅう を受 う けた。結局 けっきょく チャーチルも侵略 しんりゃく 戦争 せんそう であることは否定 ひてい できず、「戦争 せんそう になれば、それが良 よ い戦争 せんそう だろうが、悪 わる い戦争 せんそう だろうが、祖国 そこく に従 したが うしかない」と弁明 べんめい した。
1901年 ねん 1月 がつ にヴィクトリア女王 じょおう が崩御 ほうぎょ し、エドワード7世 せい が国王 こくおう に即位 そくい した。チャーチルは、新 しん 国王 こくおう のもとで1901年 ねん 2月 がつ から開会 かいかい された庶民 しょみん 院 いん に初 はつ 登院 とういん した。
チャーチルの処女 しょじょ 演説 えんぜつ は、自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は でボーア戦争 せんそう に反対 はんたい するデビッド・ロイド・ジョージ 議員 ぎいん の激 はげ しい反戦 はんせん 論 ろん に対抗 たいこう して、政府 せいふ を擁護 ようご するものだった。ただその演説 えんぜつ の中 なか でチャーチルは「私 わたし がボーア人 じん だったら、やはり戦場 せんじょう で戦 たたか っているだろう」とボーア人 じん を擁護 ようご するかのような発言 はつげん も行 おこな い、植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん チェンバレンをいらだたせた。
1901年 ねん 5月 がつ 24日 にち にはフリーメイソン に加入 かにゅう している[147] [148] [149] 。
造反 ぞうはん から自由党 じゆうとう への移籍 いせき [ 編集 へんしゅう ]
チャーチルが最初 さいしょ に目指 めざ したのは父 ちち ランドルフ卿 きょう が大蔵 おおくら 大臣 だいじん として取 と り組 く もうとした陸軍 りくぐん 予算 よさん の削減 さくげん だった。戦争 せんそう 大臣 だいじん (陸軍 りくぐん 大臣 だいじん )のシンジョン・ブロドリック が常備 じょうび 軍 ぐん を現行 げんこう の二 に 個 こ 軍団 ぐんだん から三 さん 個 こ 軍団 ぐんだん に増設 ぞうせつ 方針 ほうしん を示 しめ したのに対 たい して、チャーチルは1901年 ねん 5月 がつ に反対 はんたい 演説 えんぜつ に立 た ち、「非 ひ ヨーロッパの野蛮 やばん 人 じん を相手 あいて にするのは一 いち 個 こ 軍団 ぐんだん で十分 じゅうぶん だし、ヨーロッパ人 じん を相手 あいて にするには三 さん 個 こ 軍団 ぐんだん でも不十分 ふじゅうぶん だ。イギリスには世界 せかい 最強 さいきょう の海軍 かいぐん があればよい」と述 の べた。この演説 えんぜつ は、野党 やとう 自由党 じゆうとう からは喝采 かっさい が送 おく られたが、保守党 ほしゅとう 執行 しっこう 部 ぶ は新米 しんまい 議員 ぎいん の造反 ぞうはん に驚 おどろ き、「親孝行 おやこうこう と公務 こうむ を混同 こんどう してはならない」と批判 ひはん された。これをきっかけにチャーチルは保守党 ほしゅとう 執行 しっこう 部 ぶ に造反 ぞうはん することが増 ふ えていく。
父 ちち が「第 だい 四 よん 党 とう (英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれる党 とう 執行 しっこう 部 ぶ に造反 ぞうはん する小 しょう グループを作 つく っていたのに倣 なら い、首相 しゅしょう ソールズベリー侯爵 こうしゃく の末子 まっし であるヒュー・セシル卿 きょう らとともに反 はん 執行 しっこう 部 ぶ 的 てき 小 しょう グループを形成 けいせい しはじめた。やがてこのグループは「フーリガンズ 」と「ヒュー・セシル」の名前 なまえ を組 く み合 あ わせて、「ヒューリガンズ (英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれるようになった。
チャーチルは保守党 ほしゅとう 左派 さは と自由党 じゆうとう 右派 うは (自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ )を一 ひと つにまとめ、政界 せいかい 再編 さいへん のきっかけとすることを考 かんが えていたという。
保護 ほご 貿易 ぼうえき 論 ろん への抵抗 ていこう
保護 ほご 貿易 ぼうえき を主張 しゅちょう したジョゼフ・チェンバレン
1902年 ねん 7月 がつ 11日 にち 、長 なが らく首相 しゅしょう を務 つと めてきたソールズベリー侯爵 こうしゃく が病 やまい により退任 たいにん し、代 か わってアーサー・バルフォア が大命 たいめい を受 う けた。この頃 ころ からボーア戦争 せんそう が客観 きゃっかん 的 てき に評価 ひょうか されるようになったことで世論 せろん は政権 せいけん に批判 ひはん 的 てき になっていき、政権 せいけん 与党 よとう 内 ない の結束 けっそく 力 りょく も乱 みだ れていった。こうした中 なか で関税 かんぜい 問題 もんだい をめぐって政権 せいけん 与党 よとう 内 ない の分裂 ぶんれつ が始 はじ まった。第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう は1902年 ねん 5月 がつ に講和 こうわ 条約 じょうやく が結 むす ばれて正式 せいしき に終結 しゅうけつ していたが、予想 よそう 外 がい の長期 ちょうき 戦 せん は予想 よそう 外 がい の膨大 ぼうだい な戦費 せんぴ をもたらし、1900年 ねん 以降 いこう イギリス財政 ざいせい が赤字 あかじ となった。それを補 おぎな うために各種 かくしゅ 増税 ぞうぜい が行 おこな われ、その一環 いっかん で穀物 こくもつ 関税 かんぜい 再 さい 導入 どうにゅう も暫定 ざんてい 的 てき かつ少額 しょうがく でという条件 じょうけん で実施 じっし された。チェンバレンは大 だい 英 えい 帝国 ていこく 内 うち に帝国 ていこく 特恵 とっけい 関税 かんぜい 制度 せいど を導入 どうにゅう する関税 かんぜい 改革 かいかく を行 おこな うべきと主張 しゅちょう するようになった。これは帝国 ていこく 外 がい に対 たい する関税 かんぜい を永続 えいぞく させよという保護 ほご 貿易 ぼうえき 論 ろん であった。
チェンバレンの保護 ほご 貿易 ぼうえき 論 ろん をめぐってイギリス世論 せろん は二分 にぶん された。貧 まず しい庶民 しょみん はパンの値段 ねだん が上 あ がることに反対 はんたい し、保護 ほご 貿易 ぼうえき には反対 はんたい だった。金融 きんゆう 資本 しほん 家 か も資本 しほん の流動 りゅうどう 性 せい が悪 わる くなるとして保護 ほご 貿易 ぼうえき には反対 はんたい し、綿 めん 工業 こうぎょう 資本 しほん 家 か も自由 じゆう 貿易 ぼうえき によって利益 りえき をあげていたので保護 ほご 貿易 ぼうえき には反対 はんたい だった。一方 いっぽう 、工業 こうぎょう 資本 しほん 家 か (廉価 れんか なドイツ工業 こうぎょう 製品 せいひん を恐 おそ れていた)や地主 じぬし (伝統 でんとう 的 てき に保護 ほご 貿易 ぼうえき 主義 しゅぎ )は保護 ほご 貿易 ぼうえき を歓迎 かんげい し、チェンバレンを支持 しじ した。この論争 ろんそう は政界 せいかい にも大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼし、第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう の評価 ひょうか をめぐって小 しょう 英国 えいこく 主義 しゅぎ 派 は と自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 派 は に分裂 ぶんれつ していた野党 やとう 自由党 じゆうとう が自由 じゆう 貿易 ぼうえき 支持 しじ ・反 はん チェンバレンのもとに団結 だんけつ した。一方 いっぽう 政権 せいけん 与党 よとう は自由 じゆう 貿易 ぼうえき 派 は と保護 ほご 貿易 ぼうえき 派 は に分裂 ぶんれつ した。
チャーチルやヒュー・セシル卿 きょう ら「ヒューリガンズ」は自由 じゆう 貿易 ぼうえき を支持 しじ し、チェンバレン批判 ひはん を行 おこな った。自由 じゆう 貿易 ぼうえき を支持 しじ することは父 ちち ランドルフ卿 きょう の魂 たましい を継承 けいしょう することでもあったし、またチャーチルの選挙 せんきょ 区 く であるオールダム選挙 せんきょ 区 く の主要 しゅよう 産業 さんぎょう である木綿 こわた 産業 さんぎょう を満足 まんぞく させる効果 こうか もあった。1903年 ねん 5月 がつ 、チェンバレンが関税 かんぜい 改革 かいかく 案 あん を明確 めいかく に提示 ていじ してきたのを受 う けてチャーチルはバルフォア首相 しゅしょう に対 たい して「首相 しゅしょう がチェンバレン植民 しょくみん 地相 ちそう の保護 ほご 貿易 ぼうえき 論 ろん を明確 めいかく に否定 ひてい する声明 せいめい を出 だ されないのであれば、私 わたし としては党 とう を変 か える必要 ひつよう が出 で てきます」という内容 ないよう の手紙 てがみ を送 おく った。さらに同年 どうねん 11月 がつ にはチェンバレンの本拠 ほんきょ であるバーミンガム に乗 の り込 こ んで、チェンバレンの保護 ほご 貿易 ぼうえき 論 ろん を批判 ひはん するという挑発 ちょうはつ 行動 こうどう をとった。
自由党 じゆうとう の政治 せいじ 家 か として[ 編集 へんしゅう ]
1904年 ねん の自由党 じゆうとう 議員 ぎいん チャーチル
チャーチルは自由 じゆう 貿易 ぼうえき 支持 しじ を明確 めいかく にしない保守党 ほしゅとう を見限 みかぎ り、自由党 じゆうとう への移籍 いせき を希望 きぼう するようになった。世論 せろん の自由党 じゆうとう と自由 じゆう 貿易 ぼうえき 支持 しじ は圧倒的 あっとうてき であり、自由党 じゆうとう としては保守党 ほしゅとう 内 ない 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 派 は と手 て を結 むす ぶ必要 ひつよう がほとんどなかったため移籍 いせき は容易 ようい ではなかったが、1904年 ねん 5月 がつ にマンチェスター・ノース・ウェスト選挙 せんきょ 区 く からなら自由党 じゆうとう 候補 こうほ としての出馬 しゅつば を認 みと めると自由党 じゆうとう から打診 だしん を受 う けた。この選挙 せんきょ 区 く は保守党 ほしゅとう が強 つよ く、自由党 じゆうとう は1900年 ねん の解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ の際 さい にも対立 たいりつ 候補 こうほ を立 た てなかった選挙 せんきょ 区 く だったが、元 もと 保守党 ほしゅとう 議員 ぎいん のチャーチルなら当選 とうせん の見込 みこ みもあると自由党 じゆうとう 執行 しっこう 部 ぶ は考 かんが えた。こうしてチャーチルは自由党 じゆうとう に移 うつ った。この移籍 いせき について彼 かれ は「我 わ が父 ちち に酷 ひど い仕打 しう ちをした保守党 ほしゅとう から離 はな れる機会 きかい に恵 めぐ まれて本当 ほんとう にうれしい」と述 の べている。
以降 いこう チャーチルはバルフォア政権 せいけん や保守党 ほしゅとう に激 はげ しい攻撃 こうげき を加 くわ えるようになった。並行 へいこう して父 ちち ランドルフ卿 きょう の伝記 でんき の執筆 しっぴつ を開始 かいし した。父 ちち に関 かん する資料 しりょう を徹底的 てっていてき に集 あつ め、元 もと 首相 しゅしょう で自由党 じゆうとう 自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 派 は の領袖 りょうしゅう ローズベリー伯爵 はくしゃく や敵対 てきたい する元 もと 植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん チェンバレンからも協力 きょうりょく してもらった。1905年 ねん 末 まつ に完成 かんせい したこの伝記 でんき は、ランドルフ卿 きょう を美化 びか し、またチャーチル自身 じしん に我田引水 がでんいんすい を図 はか ろうという意図 いと も見 み えるが、ことさらバルフォア首相 しゅしょう やチェンバレンを批判 ひはん 的 てき に扱 あつか うような露骨 ろこつ なことはしなかったので、好評 こうひょう を得 え た。
植民 しょくみん 地 ち 省 しょう 政務次官 せいむじかん と英 えい 領 りょう 南 みなみ アフリカ[ 編集 へんしゅう ]
1905年 ねん 12月、関税 かんぜい 問題 もんだい で閣 かく 内 ない 不一致 ふいっち となったバルフォア内 ない 閣 かく は総 そう 辞職 じしょく し、自由党 じゆうとう 党首 とうしゅ ヘンリー・キャンベル=バナマン に大命 たいめい 降下 こうか があり、自由党 じゆうとう 政権 せいけん が発足 ほっそく した。この内閣 ないかく にチャーチルは自 みずか ら希望 きぼう して植民 しょくみん 地 ち 省 しょう 政務次官 せいむじかん (英語 えいご 版 ばん ) として参加 さんか した。
1906年 ねん の解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ
キャンベル=バナマンは少数 しょうすう 与党 よとう 政権 せいけん の状態 じょうたい から脱 だっ するべく、1906年 ねん 初頭 しょとう にも解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ に打 う って出 で た。この選挙 せんきょ でマンチェスター・ノース・ウェスト選挙 せんきょ 区 く から出馬 しゅつば したチャーチルは保守党 ほしゅとう 候補 こうほ からの「裏切 うらぎ り者 もの 」との批判 ひはん に対 たい して「私 わたし は保守党 ほしゅとう にいた時 とき 、バカなことをたくさん言 い いました。そしてこれ以上 いじょう バカなことを言 い いたくなかったので自由党 じゆうとう へ移 うつ ったのです」と反論 はんろん して笑 わら いをとったり自由 じゆう 貿易 ぼうえき 支持 しじ を訴 うった えて支持 しじ を広 ひろ げて当選 とうせん した。
この総 そう 選挙 せんきょ は全国 ぜんこく 的 てき に自由党 じゆうとう の圧勝 あっしょう に終 お わった選挙 せんきょ であり、改選 かいせん 前 まえ に401議席 ぎせき をもっていた保守党 ほしゅとう と自由 じゆう 統一 とういつ 党 とう は157議席 ぎせき に激減 げきげん した。自由党 じゆうとう は一気 いっき に377議席 ぎせき を獲得 かくとく し、自由党 じゆうとう の友 とも 党 とう アイルランド国民党 こくみんとう も83議席 ぎせき を獲得 かくとく した。自由党 じゆうとう としては1886年 ねん 以来 いらい の安定 あんてい 政権 せいけん を作 つく ることが可能 かのう となった選挙 せんきょ であった。最大 さいだい の勝因 しょういん は自由党 じゆうとう 候補 こうほ たちの自由 じゆう 貿易 ぼうえき 支持 しじ の主張 しゅちょう である。前述 ぜんじゅつ したように、庶民 しょみん は食品 しょくひん の値段 ねだん が上 あ がる保護 ほご 貿易 ぼうえき には断固 だんこ 反対 はんたい だった。チャーチルも「この選挙 せんきょ ははじめから自由党 じゆうとう が有利 ゆうり だった」と分析 ぶんせき している。
植民 しょくみん 地 ち 省 しょう 政務次官 せいむじかん となったチャーチルは、まず全土 ぜんど がイギリス領 りょう となった南 みなみ アフリカの問題 もんだい にあたった。前 ぜん 保守党 ほしゅとう 政権 せいけん はボーア人 じん を強圧 きょうあつ 的 てき 支配 しはい 下 か に置 お こうとしたが、チャーチルはボーア人 じん とイギリス人 じん が協力 きょうりょく して成 な り立 た つ自治 じち 政府 せいふ の樹立 じゅりつ を目指 めざ し英語 えいご とオランダ語 ご の併用 へいよう 、またボーア人 じん ・イギリス人 じん 問 と わず100ポンド以上 いじょう の財産 ざいさん を持 も つ成年 せいねん 男子 だんし に選挙 せんきょ 権 けん を認 みと めた一方 いっぽう で先住民 せんじゅうみん の黒人 こくじん は無視 むし され人種 じんしゅ 隔離 かくり 政策 せいさく が推進 すいしん された。
中国人 ちゅうごくじん 移民 いみん 労働 ろうどう 者 しゃ 問題 もんだい
また、南 みなみ アフリカでは1904年 ねん 2月 がつ から1906年 ねん 11月 がつ までの間 あいだ に6万 まん 3000人 にん もの中国人 ちゅうごくじん 移民 いみん 労働 ろうどう 者 しゃ が清 きよし から南 みなみ アフリカに鉱山 こうざん 労働 ろうどう 者 しゃ として輸送 ゆそう されてきていたが、これはイギリスが禁止 きんし している「奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 」に該当 がいとう するのではという問題 もんだい があった。1906年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ でも争点 そうてん になって、自由党 じゆうとう 候補 こうほ の一部 いちぶ が中国人 ちゅうごくじん 奴隷 どれい が虐待 ぎゃくたい されている姿 すがた を描 えが いたポスターを使用 しよう していた。チャーチルは、はじめ「中国人 ちゅうごくじん 労働 ろうどう 者 しゃ たちは自発 じはつ 的 てき な雇用 こよう 契約 けいやく で南 みなみ アフリカの鉱山 こうざん で働 はたら いている。極端 きょくたん に解釈 かいしゃく したとしても奴隷 どれい には分類 ぶんるい できない。」と答弁 とうべん していた[注釈 ちゅうしゃく 6] 。またケープ植民 しょくみん 地 ち 総督 そうとく アルフレッド・ミルナー が中国人 ちゅうごくじん 労働 ろうどう 者 しゃ に対 たい する鞭 むち 打 う ちを許可 きょか したことが判明 はんめい し批判 ひはん 動議 どうぎ が提出 ていしゅつ されチャーチルは自由党 じゆうとう 議員 ぎいん を結束 けっそく させ否決 ひけつ に成功 せいこう したが、批判 ひはん 熱 ねつ は収 おさ まらず、さらにつめ込 こ まれた中国人 ちゅうごくじん たちが同性愛 どうせいあい をしている可能 かのう 性 せい について疑惑 ぎわく も出 だ され、紛糾 ふんきゅう した。チャーチルは「中国人 ちゅうごくじん を顔 かお だけで稚児 ちご (カタマイト)かどうか見分 みわ けるのは難 むずか しい」と答弁 とうべん したが、この「稚児 ちご 」という言葉 ことば に議会 ぎかい では議事 ぎじ 録 ろく で別 べつ の単語 たんご で記入 きにゅう されたり、貴婦人 きふじん が退席 たいせき するなど異常 いじょう な反応 はんのう をとった。結局 けっきょく 植民 しょくみん 地 ち 省 しょう は1906年 ねん 11月に中国人 ちゅうごくじん 労働 ろうどう 者 しゃ の輸入 ゆにゅう を停止 ていし させた。その後 ご 、この問題 もんだい の処理 しょり は1907年 ねん より設置 せっち されたトランスヴァール植民 しょくみん 地 ち 自治 じち 政府 せいふ に委 ゆだ ねられることになり、同 どう 政府 せいふ の決定 けってい で中国人 ちゅうごくじん 労働 ろうどう 者 しゃ の新規 しんき 移民 いみん は禁止 きんし され、移民 いみん が認 みと められなかった者 もの は契約 けいやく 期間 きかん 満了 まんりょう 次第 しだい 、清 きよし へ強制 きょうせい 送還 そうかん された。
英 えい 領 りょう 東 ひがし アフリカ視察 しさつ 旅行 りょこう
1907年 ねん 、英 えい 領 りょう 東 ひがし アフリカ 。即席 そくせき の観測 かんそく 台 だい で辺 あた りを見回 みまわ すチャーチル
1907年 ねん にチャーチルは植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん エルギン伯爵 はくしゃく の許可 きょか を得 え てイギリス領 りょう 東 ひがし アフリカ へ視察 しさつ 旅行 りょこう に出 で て、マルタ島 とう 、キプロス島 とう 、スエズ運河 うんが を通過 つうか して10月 がつ にモンバサ に到着 とうちゃく し、ナイロビ からウガンダ へ入 はい り、ヴィクトリア湖 こ とアルバート湖 こ を繋 つな ぐ鉄道 てつどう 建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち を通 とお った。当時 とうじ の東 ひがし アフリカは完全 かんぜん にイギリスの支配 しはい 下 か にあり、現地 げんち のイギリス人 じん たちは現地 げんち 民 みん に対 たい して絶対 ぜったい 的 てき 支配 しはい 者 しゃ としてふるまっていた。それを見 み たチャーチルはそうした統治 とうち でも平和 へいわ を保 たも つことができるイギリスの支配 しはい の偉大 いだい さを再 さい 確認 かくにん したという。当時 とうじ 11歳 さい のブガンダ 王 おう ダウディ・チュワ2世 せい の引見 いんけん も受 う け、チャーチルはその気品 きひん に気後 きおく れして「イエス」「ノー」しか答 こた えられなかったという。王 おう はチャーチルに「戦 せん の踊 おど り」を披露 ひろう してくれた。先住民 せんじゅうみん たちはチャーチルを紳士 しんし 的 てき に歓迎 かんげい し、チャーチルの方 ほう もアフリカ人 じん が気 き に入 い ったようだった。
チャーチルはアフリカの風景 ふうけい の美 うつく しさに魅了 みりょう され、『ストランド・マガジン 』に寄稿 きこう した『アフリカ旅行 りょこう 記 き 』の中 なか でも風景 ふうけい をよく描写 びょうしゃ している。狩猟 しゅりょう も楽 たの しみ、サイ やイボイノシシ を仕留 しと めた。ライオン も狙 ねら ったが、成功 せいこう しなかったという。また鉄道 てつどう が完成 かんせい すればウガンダはランカシャー の綿 めん 産業 さんぎょう の原料 げんりょう 供給 きょうきゅう 地 ち となるが、開発 かいはつ が進 すす むとともに白人 はくじん やインド人 じん 、黒人 こくじん との間 あいだ に摩擦 まさつ が増 ふ えるという懸念 けねん も書 か いている。
アスキス内 ない 閣 かく 商務 しょうむ 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
1908年 ねん 1月 がつ にイギリスに帰国 きこく した。この年 とし の4月 がつ にキャンベル=バナマン首相 しゅしょう が退任 たいにん し、大蔵 おおくら 大臣 だいじん ハーバート・ヘンリー・アスキス に大命 たいめい 降下 こうか があり、アスキス内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した。
この内閣 ないかく においてチャーチルは通商 つうしょう 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく した。これは通商 つうしょう 大臣 だいじん ロイド・ジョージがアスキスの首相 しゅしょう 就任 しゅうにん で空 あ いた大蔵 おおくら 大臣 だいじん に就任 しゅうにん したことによる玉突 たまつ き人事 じんじ だった。
補欠 ほけつ 選挙 せんきょ と社会 しゃかい 主義 しゅぎ への敵意 てきい [ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ のイギリスには入閣 にゅうかく する際 さい に議員 ぎいん 辞職 じしょく して再 さい 選挙 せんきょ しなければならないという法律 ほうりつ があったため[注釈 ちゅうしゃく 7] 、チャーチルも議員 ぎいん 辞職 じしょく し、それに伴 ともな うマンチェスター・ノース・ウェスト選挙 せんきょ 区 く の補欠 ほけつ 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば した。前回 ぜんかい の総 そう 選挙 せんきょ と異 こと なり、今回 こんかい は自由党 じゆうとう に風 ふう は吹 ふ いておらず、しかも元来 がんらい 保守党 ほしゅとう が強 つよ い選挙 せんきょ 区 く であるから、チャーチルは苦 くる しい選挙 せんきょ 戦 せん を強 し いられた。保守党 ほしゅとう も「裏切 うらぎ り者 もの 」チャーチルを落 お とすために全力 ぜんりょく をあげた結果 けっか 、チャーチルは僅差 きんさ で落選 らくせん した。
しかしチャーチルは知名度 ちめいど が高 たか かったので彼 かれ に出馬 しゅつば 要請 ようせい する選挙 せんきょ 区 く は他 ほか にもあった。スコットランド ダンディー選挙 せんきょ 区 く で前 まえ 職 しょく 議員 ぎいん の叙爵 じょしゃく (貴族 きぞく 院 いん 入 い り)に伴 ともな う補欠 ほけつ 選挙 せんきょ が行 おこな われることになり、同 どう 選挙 せんきょ 区 く の自由党 じゆうとう 組織 そしき から出馬 しゅつば を要請 ようせい されたチャーチルはこれを承諾 しょうだく した。この補欠 ほけつ 選挙 せんきょ にはチャーチルの他 ほか に保守党 ほしゅとう 候補 こうほ 、労働党 ろうどうとう 候補 こうほ 、禁酒 きんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ のエドウィン・スクリムジャー (英語 えいご 版 ばん ) の3候補 こうほ が出馬 しゅつば していた。
ダンディー選挙 せんきょ 区 く は2議席 ぎせき 選出 せんしゅつ する大 だい 選挙 せんきょ 区 く だった。前回 ぜんかい の総 そう 選挙 せんきょ では自由党 じゆうとう と労働党 ろうどうとう が議席 ぎせき を分 わ け合 あ ったため、この選挙 せんきょ 区 く の自由 じゆう 党員 とういん には労働党 ろうどうとう のせいで1議席 ぎせき しか取 と れなかったと恨 うら む者 もの が多 おお く、チャーチルも自由党 じゆうとう 票 ひょう を固 かた めるため労働党 ろうどうとう 批判 ひはん を中心 ちゅうしん 的 てき に行 い った。その結果 けっか 、チャーチルはこの選挙 せんきょ で初 はじ めて社会 しゃかい 主義 しゅぎ への本格 ほんかく 的 てき な敵意 てきい を露 あら わにし、「社会 しゃかい 主義 しゅぎ は裕福 ゆうふく な者 もの を引 ひ きずり落 お とす。自由 じゆう 主義 しゅぎ は貧困 ひんこん 者 しゃ を持 も ち上 あ げる。」「社会 しゃかい 主義 しゅぎ は資本 しほん を攻撃 こうげき する。自由 じゆう 主義 しゅぎ は独占 どくせん を攻撃 こうげき する」「社会 しゃかい 主義 しゅぎ は支配 しはい を高 たか める。自由 じゆう 主義 しゅぎ は人 ひと を高 たか める」といった対比 たいひ 型 がた の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 攻撃 こうげき を展開 てんかい した。この演説 えんぜつ が功 こう を奏 そう し、チャーチルは大勝 たいしょう した。
1908年 ねん のチャーチルとクレメンティーン
1908年 ねん 9月 がつ 、33歳 さい の時 とき にクレメンティーン・ホージアー と結婚 けっこん した。彼女 かのじょ は礼儀 れいぎ 作法 さほう はしっかりしていたが、財産 ざいさん は特 とく になく、フランス語 ふらんすご の家庭 かてい 教師 きょうし をして生計 せいけい を立 た てている女性 じょせい だった。父親 ちちおや はサー・ヘンリー・ホージアー(Sir Henry Montague Hozier)という軍人 ぐんじん であり、母親 ははおや はデイヴィッド・オギルヴィ (第 だい 10代エアリー伯爵 はくしゃく ) の娘 むすめ であった。
二人 ふたり は1908年 ねん 3月 がつ の晩餐 ばんさん 会 かい で知 し り合 あ い、チャーチルの方 ほう が最初 さいしょ に彼女 かのじょ に惹 ひ かれたという。チャーチルは彼女 かのじょ に自分 じぶん の著作 ちょさく 『ランドルフ・チャーチル卿 きょう 』を読 よ んだか聞 き いてみたが、読 よ んでいないようだったので本 ほん を送 おく ると約束 やくそく したが、チャーチルは本 ほん を送 おく り忘 わす れた。しかし後日 ごじつ 再会 さいかい した時 とき にクレメンティーンもチャーチルに惹 ひ かれるようになっていた。8月に従兄弟 いとこ マールバラ公 こう のブレナム宮 みや に彼女 かのじょ を招 まね いた際 さい にチャーチルの方 ほう からプロポーズし、受 う け入 い れられた。結婚式 けっこんしき はウェストミンスター大 だい 寺院 じいん で行 おこな われた。
社会 しゃかい 政策 せいさく ・外交 がいこう [ 編集 へんしゅう ]
ドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい とチャーチル(1909年 ねん 、ドイツ陸軍 りくぐん 演習 えんしゅう の視察 しさつ )
チャーチルが商務 しょうむ 大臣 だいじん となった頃 ころ のイギリスの経済 けいざい 状況 じょうきょう は悪 わる かった。1907年 ねん 後半 こうはん から不 ふ 況 きょう が押 お し寄 よ せ、1907年 ねん に3.7%だった失業 しつぎょう 率 りつ は、翌 よく 1908年 ねん には7.8%に跳 は ね上 あ がっていた。労働党 ろうどうとう の「労働 ろうどう 権 けん の確立 かくりつ 」を訴 うった える運動 うんどう が盛 も り上 あ がり、他方 たほう 保守党 ほしゅとう の関税 かんぜい 改革 かいかく 派 は も「関税 かんぜい が国民 こくみん の仕事 しごと を守 まも る」と再 さい 攻勢 こうせい をかけた。自由党 じゆうとう としては中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の支持 しじ を失 うしな わずに労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう に支持 しじ を拡大 かくだい させて立 た て直 なお しを図 はか りたいところであり、それが本来 ほんらい 自由 じゆう 放任 ほうにん 主義 しゅぎ の立場 たちば である自由党 じゆうとう が社会 しゃかい 政策 せいさく を実施 じっし する背景 はいけい となった。チャーチル自身 じしん も1906年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ の遊説 ゆうぜい の際 さい にスラム街 がい を見 み て、社会 しゃかい 政策 せいさく の必要 ひつよう 性 せい を痛感 つうかん した。
アスキス内 ない 閣 かく によって実施 じっし された社会 しゃかい 政策 せいさく には「老齢 ろうれい 年金 ねんきん 法 ほう 」や「国民 こくみん 保険 ほけん 法 ほう 」(健康 けんこう 保険 ほけん と失業 しつぎょう 保険 ほけん )、「炭 すみ 鉱夫 こうふ 8時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう 制 せい 」、「職業 しょくぎょう 紹介 しょうかい 所 しょ 」などがある。このうちチャーチルが商務 しょうむ 大臣 だいじん として主導 しゅどう したのが「職業 しょくぎょう 紹介 しょうかい 所 しょ 」と「失業 しつぎょう 保険 ほけん 制度 せいど 」である。
デイリー・テレグラフ はチャーチルを支持 しじ していたが、1908年 ねん 10月 がつ 、ドイツ皇帝 こうてい の不用意 ふようい な発言 はつげん が報 ほう じられるデイリー・テレグラフ事件 じけん が発生 はっせい し、ヴィルヘルム2世 せい が英 えい 独 どく 外交 がいこう から排除 はいじょ される形 かたち になった。
チャーチルは1909年 ねん 秋 あき にドイツ を訪問 ほうもん し陸軍 りくぐん 演習 えんしゅう と職業 しょくぎょう 紹介 しょうかい 所 しょ を視察 しさつ した。当時 とうじ ドイツも失業 しつぎょう 者 しゃ を抱 かか えていたが、労働 ろうどう 者 しゃ の多 おお くが失業 しつぎょう 保険 ほけん に入 はい っていることに感心 かんしん したチャーチルはウィリアム・ベヴァリッジ とともに職業 しょくぎょう 紹介 しょうかい 所 しょ 設置 せっち 法 ほう を成立 せいりつ させ、これまで地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい が設置 せっち 運営 うんえい していた職業 しょくぎょう 紹介 しょうかい 所 しょ を中央 ちゅうおう 政府 せいふ が直接 ちょくせつ 設置 せっち 運営 うんえい することで全国 ぜんこく に大幅 おおはば に増 ふ やすことが可能 かのう となった。この法律 ほうりつ は国民 こくみん から歓迎 かんげい され、チャーチルは至 いた るところで「親愛 しんあい なるチャーチル(Good Old Churcill)」の歓声 かんせい を受 う けた。しかし職業 しょくぎょう 紹介 しょうかい 所 しょ の設置 せっち は労働 ろうどう の市場 いちば 化 か を押 お し進 すす め、資本 しほん 家 か が「最適 さいてき の労働 ろうどう 者 しゃ 」を見 み つけやすくなるため、労働 ろうどう 組合 くみあい も「労働 ろうどう 組合 くみあい の規定 きてい で定 さだ める賃金 ちんぎん 以下 いか で労働 ろうどう 者 しゃ がかき集 あつ められる危険 きけん 性 せい がある」と反対 はんたい し、労働党 ろうどうとう も「失業 しつぎょう 保険 ほけん 制度 せいど もない、失業 しつぎょう 対策 たいさく 事業 じぎょう もしない、労働 ろうどう 者 しゃ の再 さい 教育 きょういく もしない、ただ職業 しょくぎょう 紹介 しょうかい 所 しょ を置 お くだけというこの法律 ほうりつ では、労働 ろうどう 権 けん が確立 かくりつ したなどとは到底 とうてい 言 い えない」と批判 ひはん した。
チャーチルは1909年 ねん に労働党 ろうどうとう 議員 ぎいん の要請 ようせい を受 う け入 い れて、失業 しつぎょう 保険 ほけん 法案 ほうあん (Unemployment insurance bill)を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ するも、この法案 ほうあん は貴族 きぞく 院 いん で廃案 はいあん にされた。その結果 けっか 、労働党 ろうどうとう の「労働 ろうどう 権 けん 」確立 かくりつ を求 もと める運動 うんどう は強 つよ まっていった。
ドイツとの建 けん 艦 かん 競争 きょうそう [ 編集 へんしゅう ]
アスキス内 ない 閣 かく の二 に 大 だい 急進 きゅうしん 派 は 閣僚 かくりょう ロイド・ジョージ (左 ひだり )とチャーチル(右 みぎ )
イギリスの国際 こくさい 的 てき 地位 ちい は1870年代 ねんだい 以降 いこう 、後発 こうはつ 資本 しほん 主義 しゅぎ 国 こく の発展 はってん に押 お されて低下 ていか の一途 いっと をたどっていた。後発 こうはつ 資本 しほん 主義 しゅぎ 国 こく の中 なか でもとりわけドイツがイギリスに急追 きゅうつい していた。ドイツ資本 しほん 主義 しゅぎ の急速 きゅうそく な発展 はってん を背景 はいけい にして、ドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい は1890年代 ねんだい 後半 こうはん から「世界 せかい 政策 せいさく (Weltpolitik)」を掲 かか げて海軍 かいぐん 力 りょく を増強 ぞうきょう して帝国 ていこく 主義 しゅぎ 外交 がいこう に乗 の り出 だ し、世界中 せかいじゅう でイギリス資本 しほん 主義 しゅぎ を脅 おびや かすようになった。これに対抗 たいこう したイギリスの海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう は保守党 ほしゅとう 政権 せいけん 時代 じだい に開始 かいし されたが、キャンベル=バナマン内 ない 閣 かく は保守党 ほしゅとう の海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう 計画 けいかく を若干 じゃっかん 縮小 しゅくしょう し、海軍 かいぐん の小 しょう 増強 ぞうきょう (大型 おおがた 軍艦 ぐんかん 3艦 かん 建 けん 艦 かん )を目指 めざ した。1908年 ねん 2月 がつ にドイツ帝国 ていこく 議会 ぎかい で海軍 かいぐん 法 ほう 修正 しゅうせい 法 ほう が可決 かけつ し、ドイツ海軍 かいぐん は毎年 まいとし 弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん を3艦 かん 、巡洋艦 じゅんようかん を1艦 かん ずつ建 けん 艦 かん していき、1917年 ねん までに弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん と大型 おおがた 巡洋艦 じゅんようかん 合 あ わせて58艦 かん の保有 ほゆう を目指 めざ した。これを受 う けてイギリスでも野党 やとう 保守党 ほしゅとう やイギリス海軍 かいぐん 軍部 ぐんぶ を中心 ちゅうしん に海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう が叫 さけ ばれるようになった。
アスキス内 ない 閣 かく 発足 ほっそく 後 ご 、自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 派 は と急進 きゅうしん 派 は の閣僚 かくりょう の間 あいだ で海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう 論争 ろんそう が起 お こった。海軍 かいぐん 大臣 だいじん レジナルド・マッケナや外務 がいむ 大臣 だいじん エドワード・グレイ ら自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 閣僚 かくりょう は最低 さいてい でも弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん 4艦 かん 、情勢 じょうせい 次第 しだい では最大 さいだい 6艦 かん の建 けん 艦 かん を主張 しゅちょう した。これに対 たい して大蔵 おおくら 大臣 だいじん ロイド・ジョージや通商 つうしょう 大臣 だいじん チャーチルら急進 きゅうしん 派 は 閣僚 かくりょう は海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう より社会 しゃかい 保障 ほしょう 費 ひ の財源 ざいげん 確保 かくほ を優先 ゆうせん させるべきと主張 しゅちょう した。チャーチルは1908年 ねん 8月 がつ 15日 にち のスウォンジ での演説 えんぜつ で「ドイツには戦 たたか う理由 りゆう も、戦 たたか って得 え る利益 りえき も、戦 たたか う場所 ばしょ もない」としてドイツ脅威 きょうい 論 ろん を一蹴 いっしゅう している。ウィンザー城 じょう 管理 かんり 長官 ちょうかん 代理 だいり である第 だい 2代 だい イーシャー子爵 ししゃく レジナルド・ブレット(英語 えいご 版 ばん ) は「チャーチルは信念 しんねん や主義 しゅぎ で海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう に反対 はんたい しているわけではなく、自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は を自分 じぶん が指導 しどう しようという野心 やしん から反対 はんたい している」と分析 ぶんせき した。
しかしグレイ外相 がいしょう が「海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう が受 う け入 い れられないなら辞職 じしょく する」と脅迫 きょうはく し、また1908年 ねん に訪独 ほうどく したロイド・ジョージがドイツ脅威 きょうい 論 ろん をある程度 ていど 認 みと めるようになったことでロイド・ジョージとチャーチルは1909年 ねん と1910年 ねん の2年間 ねんかん に4艦 かん の弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん の建 けん 艦 かん を認 みと めるに至 いた り、これにより閣 かく 内 ない 対立 たいりつ は一時 いちじ 収束 しゅうそく した。
しかし1909年 ねん 1月 がつ から2月 がつ の閣議 かくぎ でマッケナ海軍 かいぐん 大臣 だいじん ら自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 派 は 閣僚 かくりょう が6艦 かん の建 けん 艦 かん を要求 ようきゅう し、4艦 かん の建 けん 艦 かん に止 と めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進 きゅうしん 派 は 閣僚 かくりょう と再 ふたた び対立 たいりつ を深 ふか め、海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう 論争 ろんそう が再燃 さいねん した。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4隻 せき 以上 いじょう の弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん を建 けん 艦 かん するつもりなら、辞職 じしょく する」とアスキス首相 しゅしょう を脅迫 きょうはく した。結局 けっきょく アスキス首相 しゅしょう は1909年 ねん 2月 がつ 24日 にち の閣議 かくぎ で折衷 せっちゅう 案 あん をとり、1909年 ねん の財政 ざいせい 年度 ねんど にまず4艦 かん 、情勢 じょうせい 次第 しだい で1910年 ねん にはさらに4艦 かん の弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん を建 けん 艦 かん するとした。これにより自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 派 は と急進 きゅうしん 派 は の双方 そうほう に一定 いってい の満足 まんぞく を与 あた え、この時 とき も閣 かく 内 ない 対立 たいりつ を収束 しゅうそく させることができた。
「人民 じんみん 予算 よさん 」をめぐって [ 編集 へんしゅう ]
大蔵 おおくら 大臣 だいじん ロイド・ジョージは1909年 ねん 4月 がつ に「人民 じんみん 予算 よさん (英語 えいご 版 ばん ) 」を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ した。この予算 よさん はドイツとの建 けん 艦 かん 競争 きょうそう や社会 しゃかい 保障 ほしょう 費 ひ によって財政 ざいせい 支出 ししゅつ が膨大 ぼうだい になったため、財政 ざいせい の均衡 きんこう を図 はか るために提出 ていしゅつ されたものだった。「人民 じんみん 予算 よさん 」の増税 ぞうぜい 案 あん は所得 しょとく 税 ぜい 率 りつ の引 ひ き上 あ げ、相続 そうぞく 税 ぜい の引 ひ き上 あ げと累進 るいしん 課税 かぜい 性 せい の強化 きょうか 、そして土地 とち 課税 かぜい 制度 せいど 導入 どうにゅう など富裕 ふゆう 層 そう から税金 ぜいきん を取 と り立 た てるものだった。しかし野党 やとう 保守党 ほしゅとう は「富裕 ふゆう 層 そう から取 と るのではなく、関税 かんぜい 改革 かいかく によって歳入 さいにゅう 増加 ぞうか を図 はか るべき」と主張 しゅちょう して人民 じんみん 予算 よさん に反対 はんたい した。
この論争 ろんそう でイギリス社会 しゃかい は二分 にぶん された。チャーチルは「人民 じんみん 予算 よさん 」を支持 しじ する者 もの たちを糾合 きゅうごう して「予算 よさん 賛成 さんせい 同盟 どうめい (Budget League)」を結成 けっせい した。一方 いっぽう 保守党 ほしゅとう のウォルター・ロングらはこれに対抗 たいこう して「予算 よさん 反対 はんたい 同盟 どうめい 」を結成 けっせい した。世論 せろん の支持 しじ はチャーチルの「予算 よさん 賛成 さんせい 同盟 どうめい 」にあった。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟 いとこ のマールバラ公 こう から圧力 あつりょく を受 う けており、「人民 じんみん 予算 よさん 」にいまいち熱心 ねっしん ではなかったという。
「人民 じんみん 予算 よさん 」は1909年 ねん 11月4日 にち に庶民 しょみん 院 いん を通過 つうか したが、保守党 ほしゅとう ・地主 じぬし 貴族 きぞく が牛耳 ぎゅうじ る貴族 きぞく 院 いん から「土地 とち の国有 こくゆう 化 か を狙 ねら う社会 しゃかい 主義 しゅぎ 予算 よさん 」として徹底 てってい 批判 ひはん を受 う け、11月30日 にち に圧倒的 あっとうてき 大差 たいさ で否決 ひけつ された。これを受 う けてアスキス首相 しゅしょう は議会 ぎかい を解散 かいさん した。
1910年 ねん 1月 がつ に行 おこな われた解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ でチャーチルは再 ふたた びスコットランドのダンディー選挙 せんきょ 区 く から出馬 しゅつば したが、スコットランドでは地主 じぬし 貴族 きぞく や保守党 ほしゅとう に対 たい する反発 はんぱつ が強 つよ かったので当選 とうせん は安泰 あんたい だった。そのため選挙 せんきょ 戦中 せんちゅう 、チャーチルは自分 じぶん の選挙 せんきょ 区 く よりも他 た の選挙 せんきょ 区 く の自由党 じゆうとう 候補 こうほ の応援 おうえん 演説 えんぜつ に駆 か け回 まわ った。全国 ぜんこく 的 てき には自由党 じゆうとう は苦戦 くせん を強 し いられ、選挙 せんきょ の結果 けっか は、自由党 じゆうとう 275議席 ぎせき 、保守党 ほしゅとう 273議席 ぎせき 、アイルランド国民党 こくみんとう 82議席 ぎせき 、労働党 ろうどうとう 40議席 ぎせき となった。前回 ぜんかい 比 ひ で自由党 じゆうとう は104議席 ぎせき も失 うしな った。人民 じんみん 予算 よさん については自由党 じゆうとう を支持 しじ するが、海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう 問題 もんだい では大 だい 増強 ぞうきょう を訴 うった える保守党 ほしゅとう を支持 しじ するという者 もの が多 おお かったのが原因 げんいん だった。この選挙 せんきょ で自由党 じゆうとう は過半数 かはんすう を失 うしな い、以降 いこう アイルランド国民党 こくみんとう と労働党 ろうどうとう の閣外 かくがい 協力 きょうりょく を得 え て政権 せいけん を維持 いじ することとなった。この両 りょう 党 とう の支持 しじ を得 え て「人民 じんみん 予算 よさん 」は可決 かけつ 成立 せいりつ した。
アスキス内 ない 閣 かく 内務 ないむ 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
内務 ないむ 大臣 だいじん チャーチルの戯画 ぎが (1911年 ねん 3月 がつ 8日 にち の『バニティ・フェア 』誌 し )
この選挙 せんきょ 後 ご 、チャーチルは重要 じゅうよう 閣僚 かくりょう 職 しょく である内務 ないむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した。35歳 さい での内務 ないむ 大臣 だいじん 就任 しゅうにん であり、これは歴代 れきだい 内務 ないむ 大臣 だいじん で第 だい 2位 い の若 わか さである(1位 い はサー・ロバート・ピール准 じゅん 男爵 だんしゃく の33歳 さい )。
キャスティング・ボートを握 にぎ るアイルランド国民党 こくみんとう はアイルランド自治 じち 法案 ほうあん 成立 せいりつ の妨 さまた げになっている貴族 きぞく 院 いん の拒否 きょひ 権 けん を縮小 しゅくしょう する貴族 きぞく 院 いん 改革 かいかく を主張 しゅちょう し、労働党 ろうどうとう 党首 とうしゅ ケア・ハーディ はさらに貴族 きぞく 院 いん 廃止 はいし を主張 しゅちょう した。自由党 じゆうとう も政権 せいけん 維持 いじ のため貴族 きぞく 院 いん 改革 かいかく に乗 の り出 だ さねばならなくなった。1910年 ねん 4月 がつ 14日 にち に「議会 ぎかい 法案 ほうあん 」を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ した。これは財政 ざいせい 法案 ほうあん に関 かん する貴族 きぞく 院 いん の拒否 きょひ 権 けん を廃止 はいし し、また財政 ざいせい 法案 ほうあん 以外 いがい の法案 ほうあん についても貴族 きぞく 院 いん が反対 はんたい しても庶民 しょみん 院 いん が3回 かい 可決 かけつ させた場合 ばあい は法律 ほうりつ となるという内容 ないよう だった。チャーチルは庶民 しょみん 院 いん におけるこの法案 ほうあん の審議 しんぎ を任 まか された。審議 しんぎ 最中 さいちゅう の5月 がつ 6日 にち に国王 こくおう エドワード7世 せい が崩御 ほうぎょ し、ジョージ5世 せい が新 しん 国王 こくおう に即位 そくい した。政界 せいかい に「新 しん 王 おう をいきなり政治 せいじ 的 てき 危機 きき に晒 さら してはいけない」という空気 くうき が広 ひろ まり、自由党 じゆうとう 、保守党 ほしゅとう 双方 そうほう の話 はな し合 あ いの場 ば が設 もう けられた(「憲法 けんぽう 会議 かいぎ (Constitutional conference)」)。
この時 とき の融和 ゆうわ ムードを利用 りよう してロイド・ジョージは自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう の中 なか の「極端 きょくたん 分子 ぶんし 」を排除 はいじょ して大 だい 連立 れんりつ 政権 せいけん を作 つく ることさえ計画 けいかく し、バルフォアら保守党 ほしゅとう 幹部 かんぶ に折衝 せっしょう を図 はか った。チャーチルもこの計画 けいかく に乗 の り気 き であり、保守党 ほしゅとう 内 ない の知 し り合 あ いの議員 ぎいん に折衝 せっしょう を図 はか ったが、保守党 ほしゅとう のチャーチルへの嫌悪 けんお 感 かん は強 つよ く、ロイド・ジョージの大 だい 連立 れんりつ 構想 こうそう にとってチャーチルは邪魔 じゃま な「極端 きょくたん 分子 ぶんし 」に該当 がいとう したようである。
結局 けっきょく 大 だい 連立 れんりつ 構想 こうそう も「憲法 けんぽう 会議 かいぎ 」も決裂 けつれつ し、首相 しゅしょう アスキスは国王 こくおう から「貴族 きぞく 院 いん 改革 かいかく を問 と う解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ に勝利 しょうり したならば国王 こくおう 大権 たいけん で貴族 きぞく 院 いん 改革 かいかく に賛成 さんせい する新 しん 貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん を任命 にんめい する」との確約 かくやく を得 え たのち、1910年 ねん 11月16日 にち に議会 ぎかい を解散 かいさん した。こうしてこの年 とし 二 に 度目 どめ の総 そう 選挙 せんきょ が行 おこな われ、自由党 じゆうとう は貴族 きぞく 院 いん 改革 かいかく 、保守党 ほしゅとう は関税 かんぜい 改革 かいかく を争点 そうてん にして選挙 せんきょ 戦 せん を戦 たたか った。チャーチルは前回 ぜんかい 選挙 せんきょ と同様 どうよう 、自分 じぶん の選挙 せんきょ 区 く より他 た の選挙 せんきょ 区 く の自由党 じゆうとう 候補 こうほ の応援 おうえん に駆 か け回 まわ り、貴族 きぞく の特権 とっけん をはく奪 だつ すべきことや、生活 せいかつ 費 ひ の上昇 じょうしょう をもたらす保守党 ほしゅとう の関税 かんぜい 改革 かいかく を批判 ひはん する演説 えんぜつ を行 おこな った。総 そう 選挙 せんきょ の結果 けっか は前回 ぜんかい とほとんど変 か わらず、自由党 じゆうとう 272議席 ぎせき 、保守党 ほしゅとう ・自由 じゆう 統一 とういつ 党 とう 272議席 ぎせき 、アイルランド国民党 こくみんとう 84議席 ぎせき 、労働党 ろうどうとう 42議席 ぎせき をそれぞれ獲得 かくとく した。しかし自由党 じゆうとう とアイルランド国民党 こくみんとう をあわせれば過半数 かはんすう を得 え たことから、アスキス首相 しゅしょう は議会 ぎかい 法案 ほうあん を再度 さいど 提出 ていしゅつ 。新 しん 貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん 任命 にんめい をちらつかせて貴族 きぞく 院 いん をけん制 せい し、1911年 ねん 8月 がつ 10日 とおか に議会 ぎかい 法 ほう は成立 せいりつ し、庶民 しょみん 院 いん の優越 ゆうえつ が確立 かくりつ した。チャーチルは国王 こくおう への報告 ほうこく 書 しょ の中 なか で「長期 ちょうき に及 およ んだ不安 ふあん な憲法 けんぽう 危機 きき が終結 しゅうけつ した」と報告 ほうこく している。
失業 しつぎょう 保険 ほけん 制度 せいど の構築 こうちく
この議会 ぎかい 法 ほう 制定 せいてい により蔵相 ぞうしょう ロイド・ジョージは国民 こくみん 保険 ほけん 法 ほう を制定 せいてい させることができた。この法律 ほうりつ は第 だい 1部 ぶ と第 だい 2部 ぶ に分 わ かれており、第 だい 1部 ぶ は賃金 ちんぎん 労働 ろうどう 者 しゃ のほとんどを加入 かにゅう 対象 たいしょう とする健康 けんこう 保険 ほけん 制度 せいど 、第 だい 2部 ぶ は建設 けんせつ や造船 ぞうせん 関係 かんけい の業種 ぎょうしゅ の労働 ろうどう 者 しゃ を対象 たいしょう とした失業 しつぎょう 保険 ほけん 制度 せいど を定 さだ めたものであり、廃案 はいあん になった先 さき のチャーチルの失業 しつぎょう 保険 ほけん 法 ほう を再 さい 導入 どうにゅう したものだった。失業 しつぎょう 保険 ほけん は一部 いちぶ の職種 しょくしゅ の労働 ろうどう 者 しゃ に限定 げんてい されているが、これは実験 じっけん 的 てき 導入 どうにゅう であるためであり、成功 せいこう した場合 ばあい には他 た の業種 ぎょうしゅ の労働 ろうどう 者 しゃ にも拡大 かくだい させるとしていた。
チャーチルは商務 しょうむ 大臣 だいじん だった頃 ころ から引 ひ き続 つづ いて失業 しつぎょう 保険 ほけん 問題 もんだい を担当 たんとう し、同 どう 法 ほう 第 だい 2部 ぶ の具体 ぐたい 的 てき 制度 せいど の構築 こうちく にあたった。ロイド・ジョージが主導 しゅどう する健康 けんこう 保険 ほけん の方 ほう は既存 きそん の民間 みんかん 保険 ほけん 団体 だんたい や医療 いりょう 関係 かんけい 者 しゃ の既得 きとく 権 けん とぶつかり合 あ い、大 だい 揉 も めになったが、チャーチルの主導 しゅどう する失業 しつぎょう 保険 ほけん の方 ほう はほとんど抵抗 ていこう を受 う けなかったという。資本 しほん 家 か は自分 じぶん たちが必要 ひつよう としない労働 ろうどう 者 しゃ を失業 しつぎょう 保険 ほけん が面倒 めんどう を見 み てくれるということで基本 きほん 的 てき に歓迎 かんげい し、労働 ろうどう 組合 くみあい も失業 しつぎょう した組合 くみあい 員 いん を持 も てあましていたため、反対 はんたい の声 こえ は小 ちい さかったのである
シドニー街 がい の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) の直接 ちょくせつ 指揮 しき を執 と る内務 ないむ 大臣 だいじん チャーチル(丸 まる で顔 かお を囲 かこ ってある人物 じんぶつ )
1910年 ねん 11月16日 にち 、ロンドン のイースト・エンド ハウンズディッチの宝石 ほうせき 店 てん で警官 けいかん 三 さん 名 めい の殺害 さつがい を伴 ともな った強盗 ごうとう 事件 じけん が発生 はっせい した。チャーチルは殉職 じゅんしょく した警察官 けいさつかん たちの国葬 こくそう を執 と り行 おこな った。捜査 そうさ を進 すす めると、ロシア から亡命 ぼうめい してきたレット人 じん の反 はん 帝政 ていせい 革命 かくめい 家 か グループの犯行 はんこう である可能 かのう 性 せい が濃厚 のうこう となった。1911年 ねん 1月 がつ 、グループの隠 かく れ家 が がシドニー街 がい にあることが判明 はんめい し、警察 けいさつ が踏 ふ み込 こ もうとしたが、銃 じゅう で応戦 おうせん され、シドニー街 がい の戦 たたか いと呼 よ ばれる銃撃 じゅうげき 戦 せん が勃発 ぼっぱつ し、チャーチルは現場 げんば で警官 けいかん 隊 たい の直接 ちょくせつ 指揮 しき を執 と った[注釈 ちゅうしゃく 8] 。やがてその家 いえ から火 ひ の手 て が上 あ がると、チャーチルは消火 しょうか しようとする消防 しょうぼう 隊 たい を押 お しとどめて、その家 いえ が燃 も え尽 つ きるまで待機 たいき を続 つづ けた。家 いえ が焼 や け落 お ちた後 のち 、警察 けいさつ がその跡 あと を調 しら べたが、犯人 はんにん の焼死体 しょうしたい は2体 たい しか出 で ず、他 た の者 もの がどうなったかは不明 ふめい だった。この事件 じけん によりチャーチルの脳裏 のうり には社会 しゃかい 主義 しゅぎ への恐怖 きょうふ が焼 や きついたという。社会 しゃかい 政策 せいさく に取 と り組 く み、軍拡 ぐんかく に反対 はんたい したチャーチルの急進 きゅうしん 性 せい もこの頃 ころ から弱 よわ まっていくことになる
1910年 ねん 、チャーチル内務 ないむ 大臣 だいじん の命令 めいれい でトニパンディの暴動 ぼうどう (英語 えいご 版 ばん ) を鎮圧 ちんあつ すべく出動 しゅつどう した警察官 けいさつかん たちが道 みち を閉鎖 へいさ している。
1910年 ねん 11月8日 にち に南 みなみ ウェールズ ロンダ渓谷 けいこく の炭鉱 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ たちがトニパンディの暴動 ぼうどう (英語 えいご 版 ばん ) を起 お こした。チャーチルは、戦争 せんそう 大臣 だいじん リチャード・ホールデンを通 つう じてネヴィル・マックレディ将軍 しょうぐん 率 ひき いる軍隊 ぐんたい や警察 けいさつ 部隊 ぶたい を派遣 はけん し、炭 すみ 鉱夫 こうふ 労働 ろうどう 組合 くみあい 指導 しどう 者 しゃ に対 たい して「軍事 ぐんじ 力 りょく を行使 こうし することも躊躇 ちゅうちょ しない」と恫喝 どうかつ した。この軍事 ぐんじ 的 てき 恫喝 どうかつ のおかげで炭 すみ 鉱夫 こうふ 2人 にん の殺害 さつがい だけでスト鎮圧 ちんあつ に成功 せいこう した。チャーチルは個人 こじん 的 てき には炭 すみ 鉱夫 こうふ たちに同情 どうじょう していたが、内務 ないむ 大臣 だいじん として法令 ほうれい の遵守 じゅんしゅ を第 だい 一 いち とし、また挑戦 ちょうせん を受 う ければ退却 たいきゃく しない性格 せいかく と相 あい まって決断 けつだん を下 くだ した。それでも鎮圧 ちんあつ 軍 ぐん を派遣 はけん するにあたっては軍隊 ぐんたい に対 たい し、「軍 ぐん は炭鉱 たんこう 経営 けいえい 者 しゃ たちの個人 こじん 的 てき 使用人 しようにん ではない」ことや「労働 ろうどう 争議 そうぎ に介入 かいにゅう したり、スト破 やぶ り の役割 やくわり を果 は たしてはならない」ことを訓令 くんれい した。この事件 じけん 以降 いこう チャーチルは労働 ろうどう 者 しゃ の激 はげ しい憎悪 ぞうお の対象 たいしょう となり、「トニパンディを忘 わす れるな」は労働 ろうどう 運動 うんどう の合言葉 あいことば になった。労働党 ろうどうとう もチャーチルやロイド=ジョージら「自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は 」への不信 ふしん を高 たか めた。
国民 こくみん 保険 ほけん 法 ほう はこうした労働 ろうどう 者 しゃ の不満 ふまん を抑 おさ えるためのものであったが、それもむなしく、1911年 ねん 6月 がつ にはイギリス各 かく 港 みなと で海運 かいうん 労働 ろうどう 者 しゃ の大 だい 規模 きぼ ストライキが勃発 ぼっぱつ し、各 かく 港 みなと は海運 かいうん 機能 きのう が麻痺 まひ し、革命 かくめい 前夜 ぜんや の空気 くうき さえ漂 ただよ った。一時 いちじ 下火 したび になるも8月 がつ には鉄道 てつどう 労働 ろうどう 者 しゃ が海運 かいうん 労働 ろうどう 者 しゃ と連携 れんけい したストライキを起 お こした。同 どう 時期 じき の1911年 ねん 7月 がつ にフランスが植民 しょくみん 地 ち 化 か を推 お し進 すす めているモロッコ ・アガディール 港 みなと にドイツ軍艦 ぐんかん が派遣 はけん されるという第 だい 二 に 次 じ モロッコ事件 じけん が勃発 ぼっぱつ し、独 どく 仏 ふつ 戦争 せんそう の危機 きき が発生 はっせい した。アスキス内 ない 閣 かく のエドワード・グレイ 外相 がいしょう はドイツがこの港 みなと を獲得 かくとく したら英国 えいこく 本国 ほんごく と英 えい 領 りょう 南 みなみ アフリカや南米 なんべい との通商 つうしょう 海路 かいろ が危険 きけん に晒 さら されるとしてドイツの行動 こうどう に断固 だんこ 反対 はんたい の立場 たちば をとった。アスキス首相 しゅしょう はこの事件 じけん を機 き に対 たい 独 どく 戦争 せんそう 準備 じゅんび を急 いそ がせた。戦争 せんそう 準備 じゅんび が決定 けってい された中 なか での大 だい ストライキであり、政府 せいふ としては緊急 きんきゅう に処理 しょり しなければならなかった。
チャーチルは弾圧 だんあつ 路線 ろせん を変更 へんこう するつもりはなく、あちこちに軍隊 ぐんたい を派遣 はけん してはストライキ弾圧 だんあつ を行 おこな った。労働 ろうどう 者 しゃ たちは軍隊 ぐんたい 派遣 はけん に強 つよ く反発 はんぱつ し、むしろ軍隊 ぐんたい が派遣 はけん された場所 ばしょ で積極 せっきょく 的 てき な暴動 ぼうどう ストライキが発生 はっせい した。ロンドン、リヴァプール、ラネリーでは軍隊 ぐんたい の発砲 はっぽう で多数 たすう の労働 ろうどう 者 しゃ が死傷 ししょう する事態 じたい となった。ここに至 いた ってチャーチルも自分 じぶん の弾圧 だんあつ 路線 ろせん が誤 あやま りであったことを認 みと めざるをえなくなった。ルーシー・マスターマンはこの頃 ころ のチャーチルについて「打 う ちのめされたようだった」と語 かた っている。結局 けっきょく このストライキはロイド・ジョージが経営 けいえい 者 しゃ を回 まわ ってドイツとの戦争 せんそう が不可避 ふかひ かつ間近 まぢか であると説得 せっとく し、労働 ろうどう 者 しゃ に対 たい して融和 ゆうわ 的 てき 態度 たいど を取 と らせたことで収束 しゅうそく に向 む かった。労働党 ろうどうとう 議員 ぎいん ラムゼイ・マクドナルド は「この危機 きき に際 さい して、チャーチル内務 ないむ 大臣 だいじん が、民衆 みんしゅう 操作 そうさ に通 つう じていたなら、市民 しみん 的 てき 自由 じゆう の意味 いみ を理解 りかい していたなら、内相 ないしょう の権限 けんげん を機能 きのう 的 てき に行使 こうし できる能力 のうりょく があったなら、こんな大 だい 混乱 こんらん には陥 おちい らなかっただろう」と語 かた っている。
チャーチルは1911年 ねん 8月 がつ 15日 にち の庶民 しょみん 院 いん で「軍隊 ぐんたい は国王 こくおう 陛下 へいか の物 もの であるから、本来 ほんらい は労働 ろうどう 争議 そうぎ にも干渉 かんしょう できる。しかし労働 ろうどう 争議 そうぎ の仲裁 ちゅうさい は商務省 しょうむしょう に任 まか せられているので、軍隊 ぐんたい は労働 ろうどう 争議 そうぎ が犯罪 はんざい を伴 ともな った場合 ばあい のみ治安 ちあん 維持 いじ 目的 もくてき で出動 しゅつどう するべきだ」と述 の べ、自分 じぶん が軍隊 ぐんたい を出動 しゅつどう させたのはあくまで治安 ちあん 維持 いじ のためであったことを強弁 きょうべん した。だが労働 ろうどう 組合 くみあい 側 がわ にこのような弁 べん を信 しん じる者 もの はなく、労働 ろうどう 組合 くみあい のチャーチルへの嫌悪 けんお 感 かん は決定的 けっていてき となった。このことは労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう に支持 しじ を拡大 かくだい したいアスキス内 ない 閣 かく にとってアキレス腱 あきれすけん となった。
アスキス内 ない 閣 かく 海軍 かいぐん 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
内閣 ないかく の帝国 ていこく 防衛 ぼうえい 委員 いいん 会 かい の席上 せきじょう 、戦争 せんそう 大臣 だいじん ホールデン子爵 ししゃく が海軍 かいぐん にも陸軍 りくぐん の帝国 ていこく 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ に相当 そうとう する組織 そしき を設置 せっち すべきであると主張 しゅちょう した。レジナルド・マッケナ海軍 かいぐん 大臣 だいじん は反対 はんたい したが、委員 いいん のほとんどや首相 しゅしょう も賛同 さんどう したことで、マッケナは辞任 じにん した。1911年 ねん 10月 がつ 23日 にち 、後任 こうにん としてチャーチルが海軍 かいぐん 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した。閣僚 かくりょう としての地位 ちい は内相 ないしょう の方 ほう が上 うえ だが、ドイツとの開戦 かいせん が迫 せま っている情勢 じょうせい だけにこの閣僚 かくりょう 職 しょく への就任 しゅうにん は責任 せきにん 重大 じゅうだい であった。チャーチルは内務 ないむ 大臣 だいじん として海軍 かいぐん 火薬 かやく 庫 こ に警備 けいび を派遣 はけん するなどドイツとの戦争 せんそう 準備 じゅんび に尽力 じんりょく し、また帝国 ていこく 防衛 ぼうえい 委員 いいん 会 かい の会合 かいごう にも積極 せっきょく 的 てき に参加 さんか し海軍 かいぐん の軍備 ぐんび や組織 そしき の問題 もんだい に強 つよ い関心 かんしん を持 も っており、その熱意 ねつい をアスキスに認 みと められていた。またアスキスはチャーチルを急進 きゅうしん 派 は から切 き り離 はな すために就任 しゅうにん を命 めい じたともされる。
なお、海軍 かいぐん 大臣 だいじん 在任 ざいにん 中 ちゅう 、自身 じしん が尊敬 そんけい していたオリバー・クロムウェル の名前 なまえ を戦艦 せんかん につけようと、国王 こくおう ジョージ5世 せい に何 なん 度 ど か提案 ていあん しているが、「国王 こくおう を処刑 しょけい した人物 じんぶつ の名前 なまえ を戦艦 せんかん につけることはできない」と退 しりぞ けられている[277] 。
チャーチルは優生 ゆうせい 学 がく の支持 しじ 者 しゃ として、1913年 ねん の精神 せいしん 薄弱 はくじゃく 者 しゃ 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) の起草 きそう に参加 さんか した。法律 ほうりつ は最終 さいしゅう 的 てき に知的 ちてき 障害 しょうがい 者 しゃ の強制 きょうせい 収容 しゅうよう を可能 かのう にするものとして可決 かけつ したが、チャーチルが事前 じぜん に主張 しゅちょう した強制 きょうせい 不 ふ 妊 にん 手術 しゅじゅつ は否決 ひけつ された[278] 。
ドイツとの建 けん 艦 かん 競争 きょうそう [ 編集 へんしゅう ]
野党 やとう である保守党 ほしゅとう (TORY)から支持 しじ を受 う けるチャーチル海 うみ 相 しょう の海軍 かいぐん 予算 よさん 増額 ぞうがく 案 あん を風刺 ふうし した絵 え (1914年 ねん 1月 がつ 14日 にち 『パンチ 』誌 し )
海軍 かいぐん 大臣 だいじん となったチャーチルは、バッテンベルク家 か のルイス公子 こうし を第 だい 一 いち 海軍 かいぐん 卿 きょう に任 にん じつつ、70歳 さい 過 す ぎですでに引退 いんたい していたジョン・アーバスノット・フィッシャー 元 もと 提督 ていとく を顧問 こもん として重用 じゅうよう した、フィッシャーの提案 ていあん を受 う け入 い れながら、海軍 かいぐん 軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう を進 すす めた。
13半 はん インチ砲 ほう にかわって15インチ砲 ほう を導入 どうにゅう し、クイーン・エリザベス級 きゅう 戦艦 せんかん に搭載 とうさい した。またフィッシャーは装甲 そうこう よりスピード重視 じゅうし の軍艦 ぐんかん 製造 せいぞう を目指 めざ したため、燃料 ねんりょう を石炭 せきたん から重油 じゅうゆ に転換 てんかん する必要 ひつよう 性 せい に迫 せま られ、フィッシャーが委員 いいん 長 ちょう を務 つと める王立 おうりつ 委員 いいん 会 かい のもとにアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニー (英語 えいご 版 ばん ) を創設 そうせつ し、19世紀 せいき 以来 いらい イギリスが握 にぎ っている中東 ちゅうとう の石油 せきゆ 利権 りけん をより強力 きょうりょく に掌握 しょうあく した。また海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい の創設 そうせつ と育成 いくせい にもあたったためチャーチルを「イギリス空軍 くうぐん の父 ちち 」とする主張 しゅちょう もある。チャーチル本人 ほんにん によれば「フライト(flight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空 こうくう 用語 ようご を作 つく ったのは彼 かれ なのだという。
一方 いっぽう 首相 しゅしょう アスキスは建 けん 艦 かん 競争 きょうそう の緩和 かんわ を目指 めざ し、1912年 ねん 1月 がつ に戦争 せんそう 大臣 だいじん ホールデン子爵 ししゃく を使者 ししゃ としてドイツに派遣 はけん し、「ドイツはイギリス海軍 かいぐん の優位 ゆうい を認 みと めるべき。ドイツがこれ以上 いじょう 海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう を行 おこな わないなら、代 か わりにイギリスはドイツが植民 しょくみん 地 ち 拡大 かくだい するのを邪魔 じゃま しない」という交渉 こうしょう をヴィルヘルム2世 せい にもちかけた(ホールデン使節 しせつ (英語 えいご 版 ばん ) )。このホールデン子爵 ししゃく 訪独 ほうどく 中 ちゅう の1912年 ねん 2月 がつ 9日 にち 、チャーチルが「イギリスにとって海軍 かいぐん は必需 ひつじゅ 品 ひん 、しかしドイツにとって海軍 かいぐん は贅沢 ぜいたく 品 ひん である。」という演説 えんぜつ を行 おこな った。チャーチルとしてはホールデン子爵 ししゃく をサポートするつもりでこの演説 えんぜつ を行 おこな ったのだが、かえってヴィルヘルム2世 せい の心証 しんしょう を悪 わる くし、ホールデン子爵 ししゃく の提案 ていあん はドイツ海軍 かいぐん 力 りょく を一方 いっぽう 的 てき に封 ふう じ込 こ めようというイギリスの陰謀 いんぼう であるとして拒絶 きょぜつ された。
チャーチルは、1912年 ねん 春 はる にポーランド沖 おき で150隻 せき の軍艦 ぐんかん と王室 おうしつ ヨットを動員 どういん した観艦式 かんかんしき を開催 かいさい し、ドイツを威圧 いあつ した。さらに王室 おうしつ 船 せん 「エンチャントレス」号 ごう (HMS Enchantress)で地中海 ちちゅうかい の視察 しさつ 旅行 りょこう を行 おこな った。チャーチルは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ の海 うみ 相 しょう 在任 ざいにん 期間 きかん のうち実 じつ に4分 ぶん の1をこの船 ふね の上 うえ で過 す ごしている。古代 こだい ギリシャ劇場 げきじょう 跡 あと を訪問 ほうもん した際 さい にチャーチルはシチリア遠征 えんせい を思 おも い起 お こし、ドイツ軍 ぐん はアテナイ 軍 ぐん と同 おな じ運命 うんめい をたどるだろうと思 おも い込 こ むようになったという。
海軍 かいぐん 予算 よさん の面 めん では1912年 ねん は巨額 きょがく を要求 ようきゅう したが、1913年 ねん は控 ひか えめだった。1913年 ねん 3月 がつ 26日 にち には、英 えい 独 どく 両国 りょうこく の建 けん 艦 かん 競争 きょうそう を1年間 ねんかん 休戦 きゅうせん するという「海軍 かいぐん 休日 きゅうじつ 案 あん 」をドイツに提案 ていあん しているが、相手 あいて にされなかった。そのため1914年 ねん 1月 がつ には海軍 かいぐん 予算 よさん の大幅 おおはば 増額 ぞうがく を要求 ようきゅう し、軍事 ぐんじ 費 ひ 拡大 かくだい に慎重 しんちょう な急進 きゅうしん 派 は 閣僚 かくりょう ロイド・ジョージと対立 たいりつ を深 ふか めた。結局 けっきょく この論争 ろんそう はアスキス首相 しゅしょう の決定 けってい によりチャーチルのい分 いぶん が認 みと められた。3月の庶民 しょみん 院 いん でチャーチルがこの海軍 かいぐん 予算 よさん 案 あん を発表 はっぴょう した際 さい には、与党 よとう 自由党 じゆうとう からではなく、海軍 かいぐん 増強 ぞうきょう を主張 しゅちょう していた野党 やとう 保守党 ほしゅとう から喝采 かっさい されるという珍 ちん 現象 げんしょう が発生 はっせい した。
1912年 ねん から1914年 ねん にかけてアイルランド自治 じち 法 ほう をめぐって議会 ぎかい が紛糾 ふんきゅう する中 なか 、アイルランド北部 ほくぶ アルスター のプロテスタント や保守 ほしゅ 党員 とういん たちは「アルスター義勇軍 ぎゆうぐん 」を結成 けっせい し、アイルランド自治 じち にアルスターが含 ふく まれることに抵抗 ていこう した。これに対抗 たいこう してカトリック が大 だい 多数 たすう の南 みなみ アイルランドもアイルランド義勇軍 ぎゆうぐん を結成 けっせい した。この両 りょう 軍 ぐん が睨 にら みあう状態 じょうたい となり、アイルランドは内戦 ないせん 寸前 すんぜん の状態 じょうたい に陥 おちい った。アイルランドにはカトリックが多 おお く、カトリックはアイルランド自治 じち を求 もと める者 もの が多 おお いが、北部 ほくぶ アイルランドのアルスター は複雑 ふくざつ だった。アルスターは9つの州 しゅう からなるが、プロテスタント が多数 たすう な州 しゅう とカトリックが多数 たすう 派 は な州 しゅう 、両方 りょうほう が混在 こんざい している州 しゅう があった。またアルスターはイングランド本国 ほんごく と経済 けいざい 的 てき に結 むす びつきが強 つよ く、アイルランドの中 なか では唯一 ゆいいつ 産業 さんぎょう 革命 かくめい を経 へ た地域 ちいき であったため、アイルランド自治 じち にあたってここを失 うしな うことはカトリック・アイルランド自治 じち 派 は にとってもプロテスタント・イギリス派 は にとっても耐 た えがたいことだった。
チャーチルは1914年 ねん 3月 がつ 19日 にち に独断 どくだん で艦隊 かんたい をアラン島 とう に出動 しゅつどう させてアルスター義勇軍 ぎゆうぐん を牽制 けんせい した。チャーチルの父 ちち ランドルフ卿 きょう はかつて「アルスターは戦 たたか うだろう。そしてアルスターは正 ただ しいだろう」と述 の べたことのある親 おや アルスター派 は であり、チャーチルもそれに影響 えいきょう されており、そのため逆 ぎゃく にチャーチルこそがアルスターを牽制 けんせい する役 やく にふさわしいと考 かんが えられたのである。
アイルランド自治 じち 法案 ほうあん は1914年 ねん 5月 がつ 26日 にち に3度目 どめ の庶民 しょみん 院 いん 可決 かけつ が成 な り、議会 ぎかい 法 ほう に基 もと づき、貴族 きぞく 院 いん の賛否 さんぴ を問 と わず同 どう 法案 ほうあん は可決 かけつ されることになった。しかし内乱 ないらん 誘発 ゆうはつ を恐 おそ れたアスキス首相 しゅしょう は、アルスターを6年間 ねんかん 自治 じち の対象 たいしょう から除外 じょがい する修正 しゅうせい 案 あん も提出 ていしゅつ した。その修正 しゅうせい 案 あん について各 かく 方面 ほうめん との交渉 こうしょう 中 ちゅう に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ アンドルー・ボナー・ロー との交渉 こうしょう の結果 けっか 、アイルランド自治 じち 法案 ほうあん は棚上 たなあ げすることになった。内乱 ないらん の危機 きき は世界 せかい 大戦 たいせん のおかげで回避 かいひ されたのだった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん 6月 がつ のサラエボ事件 じけん を機 き に7月 がつ 終 お わりから8月 がつ 初 はじ めにかけてドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 対 たい ロシア、フランス の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した。イギリスはロシアともフランスとも正式 せいしき な軍事 ぐんじ 同盟 どうめい は結 むす んでいなかったので参戦 さんせん 義務 ぎむ はなく、閣 かく 内 ない でも参戦 さんせん すべきか否 ひ か意見 いけん が分 わ かれ、とりわけロイド=ジョージが参戦 さんせん に反対 はんたい した。しかしチャーチルは、熱烈 ねつれつ に参戦 さんせん を希望 きぼう し、ドイツがロシアに宣戦 せんせん 布告 ふこく した8月 がつ 1日 にち には独断 どくだん で海軍 かいぐん 動員 どういん 令 れい を出 だ した。自由党 じゆうとう 以外 いがい では保守党 ほしゅとう とアイルランド国民党 こくみんとう が参戦 さんせん を支持 しじ していた。チャーチルはもし戦争 せんそう 賛成 さんせい ・反対 はんたい で内閣 ないかく や自由党 じゆうとう が分裂 ぶんれつ するなら、反戦 はんせん 派 は は容赦 ようしゃ なく追放 ついほう し、保守党 ほしゅとう と連立 れんりつ 政権 せいけん を作 つく るべきことを主張 しゅちょう した。
8月 がつ 2日 にち にドイツ軍 ぐん がベルギー の中立 ちゅうりつ を犯 おか して同国 どうこく に侵攻 しんこう を計画 けいかく していることが判明 はんめい し、これを機 き にロイド=ジョージも参戦 さんせん 派 は に転 てん じたことで、アスキス内 ない 閣 かく は対 たい 独 どく 参戦 さんせん を決定 けってい した。参戦 さんせん 反対 はんたい 派 は のジョン・モーリー (初代 しょだい ブラックバーン子爵 ししゃく )枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう によればロイド=ジョージの転向 てんこう はチャーチルの影響 えいきょう であったという。8月4日 にち にイギリス政府 せいふ はドイツにベルギーからの撤退 てったい を求 もと める最後 さいご 通牒 つうちょう を発 はっ したが、午後 ごご 11時 じ までの期限 きげん になってもドイツからの返信 へんしん はなく、同 どう 時刻 じこく から参戦 さんせん を決定 けってい する閣議 かくぎ が首相 しゅしょう 官邸 かんてい で開催 かいさい されたが、アスキス首相 しゅしょう 夫人 ふじん マーゴットによると、この時 とき チャーチルは幸 しあわ せそうな顔 かお つきで大股 おおまた で歩 ある いて閣議 かくぎ 室 しつ へ向 む かっていたという。この頃 ころ の妻 つま への手紙 てがみ の中 なか でチャーチルは「全 すべ てが破滅 はめつ と崩壊 ほうかい に向 む かっているが、私 わたし は興味 きょうみ 津津 しんしん で、調子 ちょうし がよく、幸 しあわ せです。恐 おそ ろしいことかもしれないが、戦争 せんそう の準備 じゅんび は私 わたし には魅力 みりょく 的 てき です。それでも私 わたし は、平和 へいわ を守 まも るために最善 さいぜん を尽 つ くすつもりです」と書 か いている。
引退 いんたい したジョン・アーバスノット・フィッシャー 元 もと 提督 ていとく を第 だい 一 いち 海軍 かいぐん 卿 きょう に任 にん じるチャーチル海 うみ 相 しょう の風刺 ふうし 画 が (『パンチ』誌 し )
英 えい 独 どく の最初 さいしょ の海戦 かいせん は8月 がつ 5日 にち に王立 おうりつ 海軍 かいぐん の軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 「アンフィオン 」がドイツ帝国 ていこく 海軍 かいぐん 機雷 きらい 敷設 ふせつ 艦 かん 「ケーニギン・ルイゼ 」を撃沈 げきちん するも機雷 きらい に接触 せっしょく し、「アンフィオン」も沈没 ちんぼつ したという小規模 しょうきぼ 戦闘 せんとう だった。以降 いこう 、このような小規模 しょうきぼ 戦闘 せんとう が繰 く り返 かえ されることになり、両国 りょうこく とも主力 しゅりょく 艦隊 かんたい は軍港 ぐんこう に温存 おんぞん して決戦 けっせん を避 さ けた。
チャーチルは艦隊 かんたい を英仏海峡 えいふつかいきょう から北海 ほっかい へ移 うつ し、陸軍 りくぐん を安全 あんぜん に大陸 たいりく へ輸送 ゆそう することに貢献 こうけん した。また海兵 かいへい 部隊 ぶたい をダンケルク に送 おく りこみ、ここに海軍 かいぐん 航空 こうくう 部隊 ぶたい の基地 きち を置 お き、ドイツ軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき 飛行船 ひこうせん ツェッペリン の英 えい 本土 ほんど 飛来 ひらい を阻止 そし しようとした。またこの飛行場 ひこうじょう を防衛 ぼうえい するため、陸軍 りくぐん 兵器 へいき の開発 かいはつ にも携 たずさ わり、陸上 りくじょう 戦艦 せんかん 委員 いいん 会 かい を創設 そうせつ して装甲 そうこう 自動車 じどうしゃ や無限 むげん 軌道 きどう 自動車 じどうしゃ の開発 かいはつ を行 おこな い、後 のち に戦車 せんしゃ を生 う み出 だ した。
10月 がつ 初 はじ めには予備 よび 水兵 すいへい から成 な る師団 しだん をドイツ軍 ぐん に包囲 ほうい されるベルギーのアントワープ 防衛 ぼうえい に送 おく り、かつ彼 かれ 自身 じしん もアントワープに入 はい り、防衛 ぼうえい 戦 せん の直接 ちょくせつ 指揮 しき を執 と った。しかし結局 けっきょく アントワープ防衛 ぼうえい には失敗 しっぱい し、イギリス軍 ぐん のうち二 に 個 こ 大隊 だいたい がドイツ軍 ぐん の捕虜 ほりょ となった。チャーチルは何 なん の戦果 せんか もあげられずに、アントワープ陥落 かんらく の4日 にち 前 まえ の10月 がつ 6日 にち にイギリス本国 ほんごく へ逃 に げ戻 もど ってきた。これによりチャーチルはマスコミや保守党 ほしゅとう から「無駄 むだ な犠牲 ぎせい を出 だ した愚 おろ かな作戦 さくせん 」「ヒーロー気取 きど り」と激 はげ しい批判 ひはん を受 う けた。チャーチルは、開戦 かいせん 以来 いらい マスコミの評判 ひょうばん が悪 わる かった第 だい 一 いち 海軍 かいぐん 卿 きょう ルイス王子 おうじ (ドイツ人 じん の血 ち をひいていた)にアントワープ事件 じけん の責任 せきにん を取 と らせて辞職 じしょく させ、その後任 こうにん としてフィッシャーを第 だい 一 いち 海軍 かいぐん 卿 きょう に任 にん じた。
12月にはフォークランド沖 おき 海戦 かいせん が勃発 ぼっぱつ し、王立 おうりつ 海軍 かいぐん が勝利 しょうり した。チャーチルは勝利 しょうり に浮 う かれ、更 さら なる大 だい 規模 きぼ 海戦 かいせん を希望 きぼう したが、ドイツ海軍 かいぐん はますます軍港 ぐんこう に閉 と じこもってしまい、以降 いこう チャーチルの海 うみ 相 しょう 在任 ざいにん 中 ちゅう には大 だい 規模 きぼ な海戦 かいせん は起 お こらなかった[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
ガリポリの戦 たたか い
1915年 ねん 、ガリポリの戦 たたか い のイラスト。
1914年 ねん 10月 がつ には反 はん 露 ろ 親 おや 独 どく 的 てき なオスマン=トルコ帝国 ていこく がドイツ側 がわ で参戦 さんせん しており、1915年 ねん 1月 がつ にロシア帝国 ていこく 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん ニコライ大公 たいこう はイギリス政府 せいふ に対 たい してトルコを圧迫 あっぱく してほしいと要請 ようせい した。閣 かく 内 ない にはロシア軍 ぐん との連携 れんけい を重視 じゅうし する東方 とうほう 派 は とフランス軍 ぐん との連携 れんけい を重視 じゅうし する西方 せいほう 派 は の争 あらそ いがあったが、このロシアからの要請 ようせい を期 き に戦争 せんそう 大臣 だいじん ホレイショ・キッチナー は東方 とうほう 派 は に転 てん じた。チャーチルも東方 とうほう 派 は になり、王立 おうりつ 海軍 かいぐん をダーダネルス海峡 かいきょう に送 おく りこむことを閣議 かくぎ で主張 しゅちょう するようになった。閣議 かくぎ の結果 けっか 、膠着 こうちゃく 状態 じょうたい の西部 せいぶ 戦線 せんせん 打開 だかい 策 さく としてこの作戦 さくせん が承認 しょうにん され、海軍 かいぐん だけではなく陸軍 りくぐん 兵力 へいりょく をガリポリ半島 はんとう から上陸 じょうりく する作戦 さくせん も決定 けってい された。この作戦 さくせん は1915年 ねん 3月 がつ 18日 にち に英 えい 仏 ふつ 連合 れんごう 軍 ぐん で実施 じっし 、合計 ごうけい 18隻 せき の英 えい 仏 ふつ 艦隊 かんたい でもってダーダネルス海峡 かいきょう 沖 おき に攻 せ めよせ、トルコ軍 ぐん 要塞 ようさい を砲撃 ほうげき で壊滅 かいめつ させた。ところが戦闘 せんとう 中 ちゅう に英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん の戦艦 せんかん 3隻 せき が機雷 きらい に接触 せっしょく し、2隻 せき は沈没 ちんぼつ 、もう1隻 せき も大 だい 被害 ひがい を受 う けたため、ジョン・ド・ロベック提督 ていとく はエジプトからの増援 ぞうえん の到着 とうちゃく するまで作戦 さくせん を延期 えんき すべしとの判断 はんだん を下 くだ した。
報告 ほうこく を受 う けたチャーチルは激怒 げきど し、ただちに再 さい 攻撃 こうげき を行 おこな い、ダーダネルス海峡 かいきょう を突破 とっぱ し、マルマラ海 うみ にいるトルコ艦隊 かんたい を撃破 げきは すべしと主張 しゅちょう したが、ド・ロベックの判断 はんだん を支持 しじ するフィッシャーらが反対 はんたい し、再 さい 攻撃 こうげき を要求 ようきゅう しつつも最終 さいしゅう 判断 はんだん は提督 ていとく に任 まか せるという返信 へんしん を送 おく ることとなった。既 すで に上陸 じょうりく を開始 かいし していた陸上 りくじょう 部隊 ぶたい は海上 かいじょう からの援護 えんご なきまま戦 たたか う羽目 はめ となり、しかも一気 いっき に大軍 たいぐん を上陸 じょうりく させず、少 すこ しずつ上陸 じょうりく させたために、英 えい 仏 ふつ 海軍 かいぐん の攻撃 こうげき から立 た ち直 なお ったトルコ軍 ぐん から攻撃 こうげき を受 う けて大 だい 損害 そんがい を被 こうむ った。
チャーチルは後年 こうねん までこの時 とき に迅速 じんそく な行動 こうどう を起 お こさなかったことを後悔 こうかい し、「もし英国 えいこく 艦隊 かんたい がこの時 とき にコンスタンティノープル に砲塔 ほうとう を向 む けられていれば、トルコは戦争 せんそう から脱落 だつらく し、バルカン半島 ばるかんはんとう 諸国 しょこく はすべて連合 れんごう 国 こく 側 がわ につき、1915年 ねん までには連合 れんごう 軍 ぐん の勝利 しょうり で終 お わり、ロシア革命 かくめい が起 お こる事 こと もなかったであろう」と推測 すいそく している。
5月 がつ 半 なか ば、もともとダーダネルス海峡 かいきょう での作戦 さくせん に乗 の り気 き ではなかったフィッシャーが抗議 こうぎ の意味 いみ を込 こ めて辞職 じしょく した。チャーチルは慰留 いりゅう したが、拒否 きょひ された。フィッシャーは保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボナー・ローに宛 あ てて送 おく った手紙 てがみ の中 なか で「海 うみ 相 しょう が我々 われわれ を破滅 はめつ に導 みちび いています。あの男 おとこ はドイツ人 じん より危険 きけん です」と書 か いている。もともとチャーチルを激 はげ しく嫌 きら っていた保守党 ほしゅとう は開戦 かいせん 以来 いらい 、チャーチルを「素 もと 人海 じんかい 相 しょう 」「専門 せんもん 家 か に対抗 たいこう する策士 さくし 」などとこき下 お ろして批判 ひはん してきたが、そこにこのガリポリの戦 たたか いの失態 しったい とフィッシャー辞職 じしょく が来 き たので、チャーチル批判 ひはん の機運 きうん は最高潮 さいこうちょう に達 たっ した。
また保守党 ほしゅとう は膠着 こうちゃく 状態 じょうたい の西部 せいぶ 戦線 せんせん の弾薬 だんやく 不足 ふそく も批判 ひはん しており、その批判 ひはん 動議 どうぎ が議会 ぎかい で可決 かけつ された。これによりアスキス内 ない 閣 かく は総 そう 辞職 じしょく を余儀 よぎ なくされた。しかし戦時 せんじ の政治 せいじ 危機 きき を危惧 きぐ したアスキスやロイド・ジョージ、保守党 ほしゅとう のボナー・ローらが交渉 こうしょう した結果 けっか 、保守党 ほしゅとう 内 ない で目 め の敵 かたき にされているチャーチルを海軍 かいぐん 大臣 だいじん から外 はず すことを条件 じょうけん として自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう が大 だい 連立 れんりつ 政権 せいけん を樹立 じゅりつ することで合意 ごうい した。チャーチルは5月17日 にち にこれを知 し り、保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ に再考 さいこう を願 ねが う手紙 てがみ も書 か いたが、効果 こうか はなかった。「貴方 あなた のように素晴 すば らしい才能 さいのう を持 も った人 ひと が40歳 さい やそこらで終 お わるわけはないですよ」と励 はげ ましてくれた者 もの もいたが、それに対 たい してチャーチルは「いや、私 わたし が望 のぞ んでいた事 こと は完全 かんぜん に失 うしな われたのだ。それは戦争 せんそう を遂行 すいこう し、ドイツを負 ま かすことだ」と語 かた った。
アスキス連立 れんりつ 内 ない 閣 かく ランカスター公 おおやけ 領 りょう 担当 たんとう 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
こうして挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく としての第 だい 2次 じ アスキス内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した。この政権 せいけん には自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう のみならず、労働党 ろうどうとう からも戦争 せんそう 賛成 さんせい 派 は 議員 ぎいん の一部 いちぶ が参加 さんか した。労働党 ろうどうとう は開戦 かいせん 以来 いらい 、反戦 はんせん 派 は と「ドイツ軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ に対 たい する戦 たたか い」として戦争 せんそう を支持 しじ する戦争 せんそう 賛成 さんせい 派 は に分離 ぶんり していた。保守党 ほしゅとう 前 ぜん 党首 とうしゅ バルフォアがチャーチルに代 か わる海軍 かいぐん 大臣 だいじん に就任 しゅうにん し、チャーチルは閑職 かんしょく のランカスター公 おおやけ 領 りょう 担当 たんとう 大臣 だいじん に左遷 させん された。ただ閣僚 かくりょう として戦争 せんそう 会議 かいぎ には残 のこ ることができ、チャーチルはこれが目的 もくてき で閑職 かんしょく であっても閣僚 かくりょう 職 しょく を引 ひ き受 う けた。
戦争 せんそう 会議 かいぎ はダーダネルス委員 いいん 会 かい と改称 かいしょう され、ダーダネルスでの作戦 さくせん 指導 しどう を専門 せんもん とするようになった。チャーチルはダーダネルス作戦 さくせん の続行 ぞっこう を主張 しゅちょう して受 う け入 い れられ、8月 がつ に改 あらた めてガリポリ上陸 じょうりく 作戦 さくせん が決行 けっこう されたが、更 さら なる犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ しただけに終 お わった。結局 けっきょく 10月 がつ 末 まつ にはガリポリ半島 はんとう から撤退 てったい することが委員 いいん 会 かい で決定 けってい された。ダーダネルス作戦 さくせん は25万 まん 人 にん に及 およ ぶ英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん 将兵 しょうへい の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ しただけで何 なに も得 え る物 もの なく終 お わった。ダーダネルス委員 いいん 会 かい も解散 かいさん することとなった。アスキス首相 しゅしょう は少数 しょうすう の閣僚 かくりょう で構成 こうせい する戦争 せんそう 委員 いいん 会 かい を新設 しんせつ したが、もはやチャーチルはそこには入 い れてもらえなかった。閣 かく 内 ない に留 と まる意味 いみ がなくなったチャーチルは11月15日 にち をもってランカスター公 おおやけ 領 りょう 担当 たんとう 大臣 だいじん を辞 じ し、内閣 ないかく から離 はな れた。
西部 せいぶ 戦線 せんせん に従軍 じゅうぐん [ 編集 へんしゅう ]
1916年 ねん 、王立 おうりつ スコット・フュージリアーズ連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) 所属 しょぞく のチャーチル少佐 しょうさ (中央 ちゅうおう )
とにかく行動 こうどう をしていないと済 す まないチャーチルは、閣僚 かくりょう 職 しょく を辞職 じしょく してまもない1915年 ねん 11月19日 にち には西部 せいぶ 戦線 せんせん に従軍 じゅうぐん しようと、フランスへ向 む かった。イギリス海外 かいがい 派遣 はけん 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん ジョン・フレンチ 将軍 しょうぐん は、チャーチルに陸軍 りくぐん 少佐 しょうさ の階級 かいきゅう と、王立 おうりつ スコット・フュージリアーズ連隊 れんたい 所属 しょぞく の第 だい 6大隊 だいたい 長 ちょう の地位 ちい を与 あた えた。
チャーチルは元 もと 騎兵 きへい 中尉 ちゅうい であり、オックスフォードシャー民兵 みんぺい では中佐 ちゅうさ の階級 かいきゅう を持 も っていた。もっとも軍部 ぐんぶ 内 ない では「政治 せいじ 家 か 崩 くず れの軍人 ぐんじん 」と批判 ひはん が強 つよ く、また本国 ほんごく 議会 ぎかい でも保守党 ほしゅとう がチャーチルの行動 こうどう を批判 ひはん し、チャーチルの旅団 りょだん 長 ちょう 就任 しゅうにん を妨害 ぼうがい した。
チャーチルは着任 ちゃくにん 早々 そうそう 、部隊 ぶたい のシラミ に宣戦 せんせん 布告 ふこく して、その駆除 くじょ キャンペーンを実施 じっし した。さらにブリキの風呂 ふろ を作 つく らせて塹壕 ざんごう の中 なか での生活 せいかつ の改善 かいぜん を図 はか り、一 いち 日 にち に三 さん 回 かい は塹壕 ざんごう の状況 じょうきょう の確認 かくにん に回 まわ った。またなるべく早期 そうき に塹壕 ざんごう 戦 せん を終 お わらせねばならないと考 かんが え、塹壕 ざんごう を突破 とっぱ できる戦車 せんしゃ の開発 かいはつ を急 いそ ぐべきと覚書 おぼえがき の中 なか で書 か いている。チャーチルの副官 ふっかん によればチャーチルは「戦争 せんそう とは笑顔 えがお で楽 たの しみながらやるゲームである」とよく語 かた っていたという。
1916年 ねん 4月 がつ 、チャーチルの大隊 だいたい は戦死 せんし 者 しゃ を多 おお く出 だ し過 す ぎたため、他 た の大隊 だいたい と合併 がっぺい され、チャーチルも大隊 だいたい 指揮 しき 官 かん から解任 かいにん された。結局 けっきょく チャーチルは主要 しゅよう な会戦 かいせん に参加 さんか することなく、5月にロンドンに帰国 きこく することとなった。
失脚 しっきゃく して文筆 ぶんぴつ で生計 せいけい を立 た てるチャーチルの風刺 ふうし 画 が (1916年 ねん 『パンチ』誌 し )
帰国 きこく したチャーチルは新聞 しんぶん に投書 とうしょ する文筆 ぶんぴつ 業 ぎょう で生計 せいけい を立 た てるようになった。また政界 せいかい では再起 さいき を狙 ねら って大 だい 連立 れんりつ に否定 ひてい 的 てき な野党 やとう 的 てき 議員 ぎいん と連携 れんけい して政界 せいかい 再編 さいへん を起 お こそうと尽力 じんりょく した。
1916年 ねん 9月 がつ から「ダーダネルス調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい 」が開催 かいさい され、ダーダネルス作戦 さくせん についての文書 ぶんしょ 公開 こうかい と調査 ちょうさ が行 おこな われ、チャーチルも聴聞 ちょうもん 会 かい に召喚 しょうかん された。チャーチルは自分 じぶん が常 つね に海軍 かいぐん の専門 せんもん 家 か から同意 どうい を得 え て作戦 さくせん を実行 じっこう したことを強調 きょうちょう した。
同年 どうねん 12月 がつ にはより強力 きょうりょく に総 そう 力戦 りきせん 体制 たいせい を構築 こうちく できる政府 せいふ の樹立 じゅりつ を求 もと めていたロイド・ジョージが、保守党 ほしゅとう の支持 しじ も得 え て、「戦争 せんそう 委員 いいん 会 かい の再 さい 編成 へんせい を行 おこな い、少数 しょうすう の閣僚 かくりょう のみで構成 こうせい するようにし、その委員 いいん 長 ちょう は自分 じぶん にすべき」と首相 しゅしょう アスキスに要求 ようきゅう した。アスキスは首相 しゅしょう である自分 じぶん を委員 いいん 長 ちょう にするよう要求 ようきゅう したが、ロイド・ジョージは拒否 きょひ し、名目 めいもく 上 じょう の首相 しゅしょう になるのを嫌 いや がったアスキスが辞職 じしょく したことで、ロイド・ジョージ内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した。
チャーチルは再 さい 入閣 にゅうかく を希望 きぼう し、ロイド・ジョージもチャーチルを協力 きょうりょく してくれたが、保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボナー・ローがチャーチルの入閣 にゅうかく に強 つよ く反対 はんたい し、ロイド・ジョージも当面 とうめん はそれを受 う け入 い れざるを得 え なかった。チャーチルは諦 あきら めずに延々 えんえん と入閣 にゅうかく 工作 こうさく を進 すす めた。
一方 いっぽう ロイド・ジョージ首相 しゅしょう はダーダネルス調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい の報告 ほうこく でチャーチルの名誉 めいよ が回復 かいふく されるまで入閣 にゅうかく を辛抱 しんぼう するようチャーチルを説得 せっとく していた。この報告 ほうこく は1917年 ねん 3月 がつ に発表 はっぴょう され、ダーダネルス作戦 さくせん の失敗 しっぱい の責任 せきにん はチャーチル一人 ひとり のせいにされるべきものではなく、アスキス元 もと 首相 しゅしょう にも重大 じゅうだい な責任 せきにん があるとしていた。
ロイド・ジョージ内 ない 閣 かく 軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
1917年 ねん 7月 がつ にチャーチルは軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん としてロイド・ジョージ内 ない 閣 かく に入閣 にゅうかく した。ただし戦争 せんそう 内 ない 閣 かく (英語 えいご 版 ばん ) (戦争 せんそう 委員 いいん 会 かい )のメンバーには加 くわ えられず、必要 ひつよう に応 おう じて召集 しょうしゅう され、意見 いけん を述 の べるだけとされた。保守党 ほしゅとう やマスコミのチャーチルへの憂慮 ゆうりょ は強 つよ く、ロイド・ジョージの回顧 かいこ 録 ろく によると彼 かれ はチャーチルを閣僚 かくりょう に任命 にんめい した直後 ちょくご の数 すう 日間 にちかん は保守党 ほしゅとう に離反 りはん されて政権 せいけん が潰 つぶ れることも覚悟 かくご しなければならなかったという。
この閣僚 かくりょう 就任 しゅうにん でチャーチルは再 ふたた び議員 ぎいん 辞職 じしょく し、それに伴 ともな って行 おこな われたダンディー選挙 せんきょ 区 く 補欠 ほけつ 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば した。大 だい 連立 れんりつ の建前 たてまえ から保守党 ほしゅとう は対立 たいりつ 候補 こうほ を立 た てることを見送 みおく ったが、禁酒 きんしゅ 派 は のスクリムジャーが禁酒 きんしゅ に加 くわ えて反戦 はんせん も訴 うった えて出馬 しゅつば し、労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう の票 ひょう はかなり彼 かれ に流 なが れた。チャーチルが再選 さいせん したものの、この選挙 せんきょ 区 く におけるチャーチルの安泰 あんたい にも陰 かげ りが見 み えてきた。
戦車 せんしゃ の開発 かいはつ
1917年 ねん 4月 がつ にはアメリカが連合 れんごう 国 こく 側 がわ で参戦 さんせん していた。アメリカはそれ以前 いぜん から金融 きんゆう や物資 ぶっし の面 めん で英 えい 仏 ふつ を支援 しえん していたが、アメリカ参戦 さんせん 以降 いこう はその支援 しえん が更 さら に増加 ぞうか した。軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん となったチャーチルはこれを全力 ぜんりょく で活用 かつよう し、塹壕 ざんごう を突破 とっぱ するための新 しん 兵器 へいき 「戦車 せんしゃ 」の開発 かいはつ を急 いそ いだ。11月のカンブレーの戦 たたか い では400台 だい 近 ちか い戦車 せんしゃ を投入 とうにゅう し、その有用 ゆうよう 性 せい を証明 しょうめい できた。これ以降 いこう ロイド・ジョージ首相 しゅしょう も戦車 せんしゃ 開発 かいはつ の拡大 かくだい を支持 しじ した。戦争 せんそう 末期 まっき には1万 まん 台 だい もの戦車 せんしゃ 製造 せいぞう 計画 けいかく を立 た てている。このためチャーチルはしばしば「戦車 せんしゃ の父 ちち 」と呼 よ ばれるようになり、彼 かれ 自身 じしん もこのあだ名 な を好 この んでいた。チャーチルは後 のち に「政府 せいふ が1915年 ねん の段階 だんかい で戦車 せんしゃ の有用 ゆうよう 性 せい を理解 りかい できていれば戦争 せんそう は1917年 ねん に終 お わらせられた」と評 ひょう している。
フランス首相 しゅしょう ・陸相 りくしょう ジョルジュ・クレマンソー
1917年 ねん 3月 がつ 、厭戦 えんせん 気分 きぶん が高 たか まるロシアで帝政 ていせい が打倒 だとう され、混乱 こんらん のすえにウラジーミル・レーニン のソビエト政権 せいけん が樹立 じゅりつ された。11月に革命 かくめい ロシアはドイツとブレスト=リトフスク条約 じょうやく を締結 ていけつ して戦争 せんそう から離脱 りだつ してしまった。フランスでも厭戦 えんせん 気分 きぶん が高 たか まり、反戦 はんせん ストライキなどが多発 たはつ するようになったが、1917年 ねん 11月にフランス首相 しゅしょう ・陸相 りくしょう に就任 しゅうにん したジョルジュ・クレマンソー は反戦 はんせん ストライキを徹底的 てっていてき に弾圧 だんあつ することで、戦争 せんそう 遂行 すいこう 体制 たいせい を維持 いじ した。ロイド・ジョージはフランスの状況 じょうきょう が不安 ふあん になり、チャーチルをフランスに派遣 はけん した。チャーチルはクレマンソーとともに英 えい 仏 ふつ 両 りょう 軍 ぐん の前線 ぜんせん を視察 しさつ して回 まわ り、両国 りょうこく の結束 けっそく を将兵 しょうへい たちに示 しめ した。
戦争 せんそう 終結 しゅうけつ
1918年 ねん 3月 がつ からドイツ軍 ぐん の最後 さいご の攻勢 こうせい (1918年 ねん 春季 しゅんき 攻勢 こうせい )があり、英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん ・ドイツ軍 ぐん 双方 そうほう に多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で たが、7月 がつ 頃 ごろ からアメリカ軍 ぐん の本格 ほんかく 参戦 さんせん でドイツ軍 ぐん が劣勢 れっせい となっていった。9月終 お わりにはドイツ軍 ぐん の実質 じっしつ 的 てき 指導 しどう 者 しゃ エーリヒ・ルーデンドルフ 大将 たいしょう も休戦 きゅうせん を考 かんが えるようになり、ドイツ政府 せいふ にアメリカ大統領 だいとうりょう ウッドロウ・ウィルソン との交渉 こうしょう を開始 かいし させた。11月初 はじ めにはドイツ革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ し、皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい がオランダへ亡命 ぼうめい した。11月9日 にち から宰相 さいしょう になっていたドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 党首 とうしゅ フリードリヒ・エーベルト は休戦 きゅうせん 協定 きょうてい の締結 ていけつ を急 いそ ぎ、11月11日 にち に連合 れんごう 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん フェルディナン・フォッシュ 元帥 げんすい との間 あいだ に講和 こうわ 条約 じょうやく を締結 ていけつ し、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を終結 しゅうけつ させた。
ロンドンでは11月11日 にち 午前 ごぜん 11時 じ に終戦 しゅうせん を告 つ げるビッグ・ベン の鐘 かね が鳴 な らされた。この音 おと を聞 き いたチャーチルは妻 つま とともに首相 しゅしょう 官邸 かんてい へ向 む かったが、その際 さい に勝利 しょうり に喜 よろこ びかえる群衆 ぐんしゅう を見 み た。中 なか にはチャーチルの車 くるま の上 うえ に乗 の ってきた者 もの もあったという。チャーチルはこの時 とき の光景 こうけい を「何 なん 千 せん 人 にん という群衆 ぐんしゅう が喜 よろこ びのあまり走 はし りまわっていた。ドアというドアが開 ひら き、誰 だれ もが仕事 しごと を放 ほう り出 だ した。国旗 こっき があちこちに掲 かか げられた。鐘 かね が鳴 な り終 お わらぬうちにロンドンは勝 か ち誇 ほこ る落花 らっか 狼藉 ろうぜき の街 まち となった。世界 せかい を縛 しば る鎖 くさり は断 た たれたのだ。」と書 か いている。もっとも戦争 せんそう に勝利 しょうり しても、海外 かいがい 投資 とうし の縮小 しゅくしょう 、軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう 以外 いがい の産業 さんぎょう の減退 げんたい 、アメリカと日本 にっぽん の台頭 たいとう 、ロシア革命 かくめい やアイルランド民族 みんぞく 運動 うんどう の脅威 きょうい などイギリスの受 う けた打撃 だげき ・地位 ちい の低下 ていか は取 と り返 かえ しのつかないものがあった。
クーポン選挙 せんきょ
ロイド・ジョージ首相 しゅしょう はこの戦勝 せんしょう 気分 きぶん が冷 さ めぬうちに戦時 せんじ 中 ちゅう 延期 えんき され続 つづ けていた総 そう 選挙 せんきょ を行 おこな うことを決意 けつい した。戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 翌月 よくげつ の12月に解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ が実施 じっし され、大 だい 連立 れんりつ 政権 せいけん は「カイザー を縛 しば り首 くび にしよう」「ドイツ人 じん から賠償金 ばいしょうきん を取 と り立 た てよう」といったスローガンを掲 かか げて国民 こくみん の愛国心 あいこくしん を煽 あお る選挙 せんきょ 戦 せん を展開 てんかい した。大 だい 連立 れんりつ 政権 せいけん 支持 しじ の候補者 こうほしゃ にはロイド・ジョージと保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボナー・ローから推薦 すいせん 書 しょ (クーポン)が与 あた えられた(このためクーポン選挙 せんきょ と呼 よ ばれる)。チャーチルは引 ひ き続 つづ きダンディー選挙 せんきょ 区 く から出馬 しゅつば し、「反戦 はんせん 派 は 、敗北 はいぼく 主義 しゅぎ 者 しゃ 、臆病者 おくびょうもの 」を罵 ののし りつつ、今後 こんご は国際 こくさい 連盟 れんめい 創設 そうせつ によって平和 へいわ を維持 いじ しようと訴 うった えた。選挙 せんきょ の結果 けっか は大 だい 連立 れんりつ 政権 せいけん が大勝 たいしょう をおさめ、チャーチルも大差 たいさ で再選 さいせん を果 は たした。一方 いっぽう 「敗北 はいぼく 主義 しゅぎ 者 しゃ 」とされたアスキス元 もと 首相 しゅしょう ら自由党 じゆうとう アスキス派 は 、ラムゼイ・マクドナルド ら労働党 ろうどうとう 反戦 はんせん 派 は などクーポンをもらえなかった議員 ぎいん たちは惨敗 ざんぱい した。大 だい 連立 れんりつ の中 なか でもとりわけ保守党 ほしゅとう が大勝 たいしょう し、今後 こんご の政局 せいきょく の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ った。保守党 ほしゅとう はこの大勝 たいしょう 後 ご もしばらく自由党 じゆうとう のロイド・ジョージを首相 しゅしょう のままにして大 だい 連立 れんりつ 政権 せいけん を継続 けいぞく するが、これは戦争 せんそう 直後 ちょくご は挙国一致 きょこくいっち を続 つづ けるべきという空気 くうき が強 つよ かったためと言 い われている。
ロイド・ジョージ内 ない 閣 かく 戦争 せんそう 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
1919年 ねん 7月 がつ 19日 にち 、ロンドンで行 おこな われた戦勝 せんしょう パレードでアメリカ軍 ぐん のジョン・パーシング 大将 たいしょう と会見 かいけん するチャーチル戦争 せんそう 大臣 だいじん
チャーチルは1919年 ねん 1月 がつ から戦争 せんそう 大臣 だいじん 兼 けん 航空 こうくう 大臣 だいじん (空軍 くうぐん 大臣 だいじん )に任 にん じられた。チャーチルが「戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご に戦争 せんそう 大臣 だいじん になってもな」と愚痴 ぐち ると、保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボナー・ローから「戦時 せんじ 中 ちゅう にお前 まえ を戦争 せんそう 大臣 だいじん に任命 にんめい する変 か わり者 もの はいないよ」と皮肉 ひにく られたという。
チャーチルの戦争 せんそう 大臣 だいじん としての最初 さいしょ の仕事 しごと は動員 どういん の解除 かいじょ であった。兵士 へいし たちは一 いち 日 にち も早 はや く動員 どういん 解除 かいじょ されて帰国 きこく することを希望 きぼう していたが、後述 こうじゅつ する干渉 かんしょう 戦争 せんそう の影響 えいきょう もあって動員 どういん 解除 かいじょ はゆっくりと行 おこな われ、しかも雇用 こよう 者 しゃ から重要 じゅうよう 労働 ろうどう 者 しゃ と認 みと められた者 もの から順番 じゅんばん に動員 どういん 解除 かいじょ するという方針 ほうしん をとったため、兵士 へいし たちの間 あいだ に不満 ふまん が高 たか まった。
1919年 ねん 1月 がつ 3日 にち 、港町 みなとちょう フォークストンでフランスに向 む かわされるのを嫌 いや がった兵士 へいし 3000人 にん から4000人 にん が乗船 じょうせん 命令 めいれい を拒否 きょひ して、動員 どういん 解除 かいじょ を求 もと める集会 しゅうかい を開 ひら く事件 じけん が発生 はっせい した。こうした動員 どういん 解除 かいじょ に関 かん する運動 うんどう はイギリス各地 かくち 、各 かく 部隊 ぶたい に急速 きゅうそく に広 ひろ がっていった。それでなくても長引 ながび く戦争 せんそう でイギリス国内 こくない は貧困 ひんこん 化 か しており、ストライキと暴動 ぼうどう と扇動 せんどう が多発 たはつ し、赤旗 あかはた があちこちに掲 かか げられている状況 じょうきょう だった。動員 どういん 解除 かいじょ を適切 てきせつ に行 おこな わねば大変 たいへん な事態 じたい に進展 しんてん する可能 かのう 性 せい があった。チャーチルは重要 じゅうよう 労働 ろうどう 者 しゃ から動員 どういん 解除 かいじょ という評判 ひょうばん の悪 わる かった方針 ほうしん を変更 へんこう し、入隊 にゅうたい が早 はや い者 もの から順 じゅん に動員 どういん 解除 かいじょ という反発 はんぱつ が少 すく ない方式 ほうしき に切 き り変 か えた。これによって動員 どういん 解除 かいじょ に関 かん する蜂起 ほうき は沈静 ちんせい 化 か していった。
他方 たほう 、労働 ろうどう 運動 うんどう 系 けい のストライキは高 たか まっていく一方 いっぽう で2月 がつ にはグラスゴー でゼネスト があり、市役所 しやくしょ が労働 ろうどう 者 しゃ に乗 の っ取 と られ、赤旗 あかはた が立 た てられる事件 じけん が発生 はっせい した。チャーチルは軍隊 ぐんたい と戦車 せんしゃ を派遣 はけん してこれを鎮圧 ちんあつ した。7月に発生 はっせい した炭鉱 たんこう ストライキは首相 しゅしょう ロイド・ジョージが「イギリスにもソビエト政権 せいけん 誕生 たんじょう か」と恐怖 きょうふ したほど拡大 かくだい した。この時 とき もチャーチルはラインに駐留 ちゅうりゅう している4個 こ 師団 しだん を呼 よ び戻 もど し、ストライキ参加 さんか 者 しゃ を徹底的 てっていてき に掃討 そうとう することを主張 しゅちょう したが、この時 とき はロイド・ジョージ首相 しゅしょう により却下 きゃっか された(もし4個 こ 師団 しだん を呼 よ び戻 もど していたとしてもその4個 こ 師団 しだん がストライキに参加 さんか して余計 よけい に目 め も当 あ てられない状況 じょうきょう になる可能 かのう 性 せい の方 ほう が高 たか かった)。
反 はん ソ干渉 かんしょう 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
「赤 あか の化 ば け物 もの 」との戦 たたか いを支援 しえん することをロシア人 じん に訴 うった えるイギリスのポスター
ソビエト・ロシア に対 たい しては大戦 たいせん 中 ちゅう の1917年 ねん 末 まつ 頃 ごろ からイギリス、フランス、日本 にっぽん 、アメリカなどの連合 れんごう 国 こく が干渉 かんしょう 戦争 せんそう を仕掛 しか けて、共産 きょうさん 革命 かくめい の阻止 そし を図 はか ろうとしていた。イギリスは北 きた ロシアに駐留 ちゅうりゅう する部隊 ぶたい を通 つう じてアントーン・デニーキン 、アレクサンドル・コルチャーク ら帝政 ていせい 派 は ロシア軍人 ぐんじん から成 な る白 しろ 軍 ぐん を支援 しえん していた。ロイド・ジョージ首相 しゅしょう は反 はん ソ干渉 かんしょう 戦争 せんそう から撤退 てったい することを希望 きぼう し、アメリカのウィルソン大統領 だいとうりょう とも協力 きょうりょく して関係 かんけい 主要 しゅよう 国 こく 及 およ びロシア各 かく 勢力 せいりょく を招 まね いた講和 こうわ 会議 かいぎ を提唱 ていしょう したが、白 しろ 軍 ぐん の反対 はんたい により流産 りゅうざん となった。イギリス国内 こくない でもチャーチルや保守党 ほしゅとう がボルシェヴィキ との妥協 だきょう に反対 はんたい し、干渉 かんしょう 戦争 せんそう の続行 ぞっこう を主張 しゅちょう した。
戦争 せんそう 大臣 だいじん チャーチルは各 かく 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん に対 たい して兵士 へいし たちがロシア出兵 しゅっぺい 可能 かのう な状況 じょうきょう かどうかを問 と う秘密 ひみつ 質問 しつもん 状 じょう を送 おく ったが、各 かく 司令 しれい 官 かん とも否定 ひてい 的 てき な返答 へんとう をした。そのためイギリスの干渉 かんしょう 戦争 せんそう はロシア国内 こくない の反 はん ソ勢力 せいりょく の支援 しえん 継続 けいぞく 以外 いがい には不可能 ふかのう であった。ロイド・ジョージがパリ講和 こうわ 会議 かいぎ 出席 しゅっせき のためにイギリス不在 ふざい の間 あいだ 、チャーチルはこれに全 ぜん 精力 せいりょく を注 そそ いだ。チャーチルが白 しろ 軍 ぐん に行 い った支援 しえん は1億 おく ポンドにも及 およ ぶ。さらにアメリカ大統領 だいとうりょう ウィルソンから「各国 かっこく が出兵 しゅっぺい するなら干渉 かんしょう 戦争 せんそう に反対 はんたい しない」との言質 げんち を取 と ったチャーチルは、連合 れんごう 国 こく ロシア委員 いいん 会 かい を設置 せっち し、連合 れんごう 国 こく 各国 かっこく に反 はん ソ行動 こうどう を求 もと めた。
こうしたチャーチルの反共 はんきょう 姿勢 しせい に労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう や労働党 ろうどうとう 、動員 どういん 解除 かいじょ を求 もと める軍人 ぐんじん たちの反発 はんぱつ は強 つよ まった。労働党 ろうどうとう はチャーチルがイギリス軍 ぐん 撤退 てったい の無 む 期限 きげん 延期 えんき と新 あら たな兵士 へいし を送 おく り込 こ むことを議会 ぎかい に諮 はか る事 こと もなく独断 どくだん で白 しろ 軍 ぐん に約束 やくそく したとして彼 かれ の逮捕 たいほ を要求 ようきゅう する決議 けつぎ さえ出 だ そうとした。こうした声 こえ に押 お されて、チャーチルも1919年 ねん 秋 あき までには英軍 えいぐん を撤退 てったい させざるをえなくなり、1920年 ねん 春 はる までにはロシア内戦 ないせん はソビエトの勝利 しょうり で事実 じじつ 上 じょう 終了 しゅうりょう した。また同年 どうねん 7月 がつ 頃 ごろ にはポーランド・ソビエト戦争 せんそう の戦況 せんきょう もソビエト有利 ゆうり に傾 かたむ いていった。ソビエト軍 ぐん によるポーランド侵攻 しんこう が開始 かいし されるようになると、チャーチルはポーランド側 がわ で参戦 さんせん することさえ計画 けいかく したが、労働 ろうどう 者 しゃ がゼネストを起 お こして抵抗 ていこう したため、物資 ぶっし 支援 しえん に留 と まらざるを得 え なかった。チャーチルは軍需 ぐんじゅ 品 ひん をダンツィヒ 経由 けいゆ で大量 たいりょう にポーランド軍 ぐん に送 おく り、ついにソビエト軍 ぐん はワルシャワ 攻略 こうりゃく に失敗 しっぱい してロシア本国 ほんごく に敗走 はいそう していった。ロシアの赤化 せっか は阻止 そし できなかったが、他 た のヨーロッパ諸国 しょこく への赤化 せっか の拡大 かくだい を食 く い止 と めることには成功 せいこう し、チャーチルも干渉 かんしょう 戦争 せんそう に一定 いってい の成果 せいか があったと評価 ひょうか したようである。
しかしロイド・ジョージは干渉 かんしょう 戦争 せんそう や反共 はんきょう 闘争 とうそう に否定 ひてい 的 てき であり、チャーチルを植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん に転任 てんにん させることでこの問題 もんだい から引 ひ き離 はな し、同年 どうねん 3月 がつ 16日 にち にはソビエトと通商 つうしょう 協定 きょうてい を締結 ていけつ することで世界 せかい に先駆 さきが けてソビエトの存在 そんざい を容認 ようにん した。一方 いっぽう チャーチルはロイド・ジョージがドイツに苛酷 かこく すぎるヴェルサイユ条約 じょうやく を課 か したことでドイツを「反共 はんきょう の防波堤 ぼうはてい 」にすることに失敗 しっぱい したと批判 ひはん 的 てき に見 み ていた。チャーチルは「ボルシェヴィキが強 つよ くならないうちに倒 たお しておかなかったことを、いつか諸 しょ 列強 れっきょう は後悔 こうかい する時 とき が来 く るだろう」と予言 よげん している。
この干渉 かんしょう 戦争 せんそう 以降 いこう 、チャーチルは保守党 ほしゅとう から好意 こうい 的 てき な目 め で見 み られるようになっていった
ロイド・ジョージ内 ない 閣 かく 植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
ロイド・ジョージから色々 いろいろ な役職 やくしょく を与 あた えられるチャーチルの風刺 ふうし 画 が 。今 いま は植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん の帽子 ぼうし をかぶっている(『パンチ』誌 し )
1921年 ねん 1月 がつ にチャーチルは植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん に転任 てんにん した。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に勝利 しょうり したイギリスは敗戦 はいせん 国 こく のドイツやトルコの植民 しょくみん 地 ち や領土 りょうど を国際 こくさい 連盟 れんめい からの委任 いにん 統治 とうち 領 りょう という形 かたち で獲得 かくとく したため、大 だい 英 えい 帝国 ていこく は過去 かこ 最大 さいだい の領土 りょうど を領有 りょうゆう するに至 いた った。しかしそれに伴 ともな い問題 もんだい も多 おお く抱 かか えることになった。
中東 ちゅうとう の委任 いにん 統治 とうち 領 りょう をめぐる問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
イギリスは大戦 たいせん 時 じ 、アラブ人 じん にトルコに対 たい する反乱 はんらん (アラブ反乱 はんらん )を起 お こさせるため、彼 かれ らに戦後 せんご の独立 どくりつ を約束 やくそく していた(フサイン=マクマホン協定 きょうてい )。これによりハーシム家 か のファイサル王子 おうじ らアラブ勢力 せいりょく は『アラビアのロレンス 』として知 し られるイギリス軍人 ぐんじん トーマス・エドワード・ロレンス らとともにトルコと戦 たたか った。一方 いっぽう でイギリスは大戦 たいせん 中 ちゅう にユダヤ人 じん の協力 きょうりょく を引 ひ き出 だ すため、パレスチナ にユダヤ人 じん 国家 こっか 建設 けんせつ も認 みと めており(バルフォア宣言 せんげん )、さらに他方 たほう でフランスとの間 あいだ に「肥沃 ひよく な三日月 みかづき 地帯 ちたい 」を英 えい 仏 ふつ で分割 ぶんかつ 統治 とうち するというサイクス・ピコ協定 きょうてい も結 むす んでいた(三 さん 枚 まい 舌 した 外交 がいこう )。戦後 せんご にはサイクス・ピコ協定 きょうてい が最 さい 優先 ゆうせん され、パレスチナ(イギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう パレスチナ )とイラク (イギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう メソポタミア )はイギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう 、シリア (フランス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう シリア )とレバノン (フランス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう レバノン )はフランス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう になったから、ファイサル王子 おうじ の立 た てていた大 だい アラブ帝国 ていこく 構想 こうそう は粉々 こなごな になり、アラブ人 じん の間 あいだ に不満 ふまん が起 お こり、イラクやシリアで暴動 ぼうどう が発生 はっせい するようになった。
1921年 ねん 5月 がつ 18日 にち のカイロ会議 かいぎ 。中央 ちゅうおう に座 すわ っている人物 じんぶつ がチャーチル植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん
これを鎮静 ちんせい 化 か すべくチャーチルはロレンスを補佐 ほさ 役 やく とし、1921年 ねん にカイロ会議 かいぎ を主宰 しゅさい した。この会議 かいぎ によりファイサルはファイサル1世 せい としてイラク王 おう に即位 そくい することとなり、またその兄 あに アブドゥッラー1世 せい もパレスチナから切 き り離 はな したトランスヨルダン 王 おう に即位 そくい することが取 と り決 き められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質 じっしつ 的 てき 支配 しはい 権 けん 、またイラン との通商 つうしょう 、エジプトのスエズ運河 うんが はイギリスががっちりと握 にぎ りつつ、ハーシム家 か の顔 かお も立 た てた形 かたち であった。またイラクに駐留 ちゅうりゅう するイギリス陸軍 りくぐん を撤退 てったい させ、変 か わって空軍 くうぐん が秩序 ちつじょ 維持 いじ にあたった。
一方 いっぽう ユダヤ人 じん もバルフォア宣言 せんげん でパレスチナ移住 いじゅう が認 みと められており、国際 こくさい 連盟 れんめい がイギリスにパレスチナ統治 とうち を委任 いにん した規約 きやく の第 だい 6条 じょう では「パレスチナの統治 とうち 機構 きこう は、この地域 ちいき の他 ほか の住民 じゅうみん の権利 けんり と地位 ちい が侵害 しんがい されないことを保証 ほしょう しながら、適切 てきせつ な条件下 じょうけんか でユダヤ人 じん の移住 いじゅう を促進 そくしん する」と定 さだ められた。この条項 じょうこう には様々 さまざま な解釈 かいしゃく があったが、チャーチルは「この地域 ちいき の経済 けいざい 力 りょく を超 こ えない範囲 はんい 、パレスチナ人 じん の職 しょく が奪 うば われない範囲 はんい 内 ない でのユダヤ人 じん の移住 いじゅう 促進 そくしん 」という意味 いみ だと解釈 かいしゃく し、以降 いこう これがイギリス植民 しょくみん 地 ち 省 しょう の基本 きほん スタンスとなった。これにより裕福 ゆうふく なユダヤ人 じん が無制限 むせいげん に入国 にゅうこく ・移民 いみん できる一方 いっぽう 、貧 まず しいユダヤ人 じん は移住 いじゅう に様々 さまざま な制限 せいげん がかけられることが多 おお いという不平等 ふびょうどう が生 しょう じた。以降 いこう イスラエル独立 どくりつ までに50万 まん 人 にん のユダヤ人 じん がイギリス植民 しょくみん 地 ち 省 しょう の監督 かんとく のもとにパレスチナへ移民 いみん し、パレスチナの総 そう 人口 じんこう の30%を占 し めるようになった。
アイルランド自由 じゆう 国 こく [ 編集 へんしゅう ]
大戦 たいせん 中 ちゅう の1916年 ねん 4月 がつ にダブリン でアイルランド民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ が蜂起 ほうき を起 お こすも鎮圧 ちんあつ され、その指導 しどう 者 しゃ が即決 そっけつ の軍事 ぐんじ 裁判 さいばん で処刑 しょけい されるという事件 じけん があった(イースター蜂起 ほうき )。この事件 じけん を機 き にアイルランド民族 みんぞく 主義 しゅぎ が燃 も え上 あ がり、1918年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ でもアイルランド国民党 こくみんとう に代 か わって急進 きゅうしん 的 てき なアイルランド独立 どくりつ 政党 せいとう シン・フェイン党 とう が躍進 やくしん した。
シン・フェイン党 とう はロンドンの議会 ぎかい に入 はい ることを拒否 きょひ し、ダブリンに独自 どくじ の国民 こくみん 議会 ぎかい を形成 けいせい した。アイルランド義勇軍 ぎゆうぐん の武装 ぶそう 抵抗 ていこう も激化 げきか し、まもなくシン・フェイン党 とう の政治 せいじ 的 てき 抵抗 ていこう と合流 ごうりゅう した[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。ロイド・ジョージ政権 せいけん はこうした運動 うんどう を白色 はくしょく テロ で厳 きび しく弾圧 だんあつ し、シン・フェイン党 とう も禁止 きんし 処分 しょぶん とした。だがシン・フェイン党 とう は屈 くっ さず、ゲリラ戦 せん を続行 ぞっこう し、イギリス人 じん 官吏 かんり に攻撃 こうげき を加 くわ えていった。
国王 こくおう ジョージ5世 せい の北 きた アイルランド訪問 ほうもん で対立 たいりつ 関係 かんけい が一時 いちじ 的 てき に緩和 かんわ して休戦 きゅうせん が成 な り、その間 あいだ の1921年 ねん 10月 がつ からロイド・ジョージやチャーチルらイギリス政府 せいふ とアーサー・グリフィス やマイケル・コリンズ らシン・フェイン党 とう 代表 だいひょう 者 しゃ の交渉 こうしょう の場 ば が設 もう けられた。この交渉 こうしょう の際 さい 、コリンズはイギリス政府 せいふ が自分 じぶん に5000ポンドの懸賞 けんしょう 金 きん をかけたことを批判 ひはん したが、それに対 たい してチャーチルは「5000ポンドもの価値 かち をつけられれば十分 じゅうぶん ではないかね。私 わたし は25ポンドだぞ。」と述 の べ、ボーア戦争 せんそう で捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ から脱走 だっそう した際 さい に付 つ けられた自分 じぶん の懸賞 けんしょう 金 きん の額 がく を引 ひ き合 あ いに出 だ したという。
この交渉 こうしょう の結果 けっか 、アルスターのうち統一 とういつ 派 は が多 おお い6州 しゅう にはイギリスに残 のこ るかアイルランドに加 くわ わるかの選択 せんたく 権 けん を残 のこ しつつ、それ以外 いがい のアイルランドは大 だい 英 えい 帝国 ていこく 自治領 じちりょう アイルランド自由 じゆう 国 こく として独立 どくりつ することで妥協 だきょう に達 たっ した(英 えい 愛 あい 条約 じょうやく )。その後 ご この条約 じょうやく の是非 ぜひ をめぐってアイルランド内 ない でアイルランド内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ するも条約 じょうやく 支持 しじ 派 は が勝利 しょうり している。
チャーチルは庶民 しょみん 院 いん でアイルランド自由 じゆう 国 こく 法案 ほうあん の説明 せつめい を行 おこな い、その中 なか で「半 はん 世紀 せいき にわたるイギリス政治 せいじ の苦 くる しみであり、対外 たいがい 的 てき にはアメリカや自治領 じちりょう 諸国 しょこく との関係 かんけい 悪化 あっか の原因 げんいん だったアイルランド問題 もんだい がこれで消滅 しょうめつ する。」と宣言 せんげん した。だが保守党 ほしゅとう のうち60名 めい ほどの議員 ぎいん はこの法案 ほうあん に反対 はんたい した。未来 みらい の保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ であるスタンリー・ボールドウィン は、この法案 ほうあん は自由党 じゆうとう ロイド・ジョージ派 は と保守党 ほしゅとう 内 ない 法案 ほうあん 賛成 さんせい 派 は を統合 とうごう して新 あら たな党 とう を作 つく ろうというロイド・ジョージの布石 ふせき ではと疑 うたが いを持 も つようになった。
1922年 ねん のムスタファ・ケマル・パシャ
敗戦 はいせん 国 こく トルコはセーヴル条約 じょうやく によりギリシャに領土 りょうど の一部 いちぶ を引 ひ き渡 わた すことになったが、トルコ国民 こくみん 軍 ぐん を率 ひき いるムスタファ・ケマル・パシャ はこれを無視 むし してギリシャ占領 せんりょう 軍 ぐん に攻撃 こうげき を仕掛 しか けて駆逐 くちく した(希 まれ 土 ど 戦争 せんそう )。のみならずケマル軍 ぐん は1922年 ねん 9月 がつ にダーダネルス海峡 かいきょう (第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、中立 ちゅうりつ 化 か されていた)付近 ふきん まで侵攻 しんこう してきて、チャナク に駐屯 ちゅうとん するイギリス軍 ぐん を攻撃 こうげき する構 かま えを見 み せた(チャナク危機 きき )。
ロイド・ジョージ首相 しゅしょう は熱烈 ねつれつ にギリシャを支持 しじ し、現地 げんち イギリス軍 ぐん に持 も ち場 ば の死守 ししゅ を命 めい じた。チャーチルははじめトルコに同情 どうじょう 的 てき だったがケマルの恫喝 どうかつ 的 てき な態度 たいど を見 み て、ロイド・ジョージの方針 ほうしん を支持 しじ した。チャーチルの主導 しゅどう で大 だい 英 えい 帝国 ていこく 自治領 じちりょう にも対 たい トルコ開戦 かいせん のときには出兵 しゅっぺい することを求 もと める政府 せいふ 決議 けつぎ が出 だ された。さらにロイド・ジョージはトルコが侵略 しんりゃく を辞 や めない場合 ばあい にはイギリス地中海 ちちゅうかい 艦隊 かんたい を派遣 はけん することを決定 けってい し、ギリシャにも支援 しえん を約束 やくそく し、ケマルに最後 さいご 通牒 つうちょう を突 つ きつけた。イギリスの強硬 きょうこう な態度 たいど を恐 おそ れたケマルはギリシャとの休戦 きゅうせん に同意 どうい し、希 まれ 土 ど 戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させた。
しかし、戦争 せんそう に飽 あ きた世論 せろん は政府 せいふ の好戦 こうせん 的 てき な態度 たいど を批判 ひはん し、1921年 ねん 3月 がつ に病 やまい で引退 いんたい していた元 もと 保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボナー・ローは「イギリスは世界 せかい の警察官 けいさつかん ではない」と述 の べた。大 だい 連立 れんりつ 相手 あいて の保守党 ほしゅとう も連立 れんりつ 政権 せいけん 離脱 りだつ を決議 けつぎ し、ロイド・ジョージは辞職 じしょく し、議会 ぎかい を解散 かいさん した。ただし、ボナー・ロー退任 たいにん 後 ご の保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ オースティン・チェンバレン (ジョゼフ・チェンバレンの長男 ちょうなん )は大 だい 連立 れんりつ 維持 いじ 派 は だった。チェンバレンは1922年 ねん 9月 がつ の閣議 かくぎ でのロイド・ジョージ首相 しゅしょう の早期 そうき 解散 かいさん 方針 ほうしん にも賛同 さんどう を与 あた え、保守党 ほしゅとう 内 ない でひんしゅくを買 か った。10月19日 にち 、保守党 ほしゅとう 社交 しゃこう 界 かい カールトン・クラブで開催 かいさい された保守党 ほしゅとう 庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん 会合 かいごう で一 いち 議員 ぎいん にすぎなかったスタンリー・ボールドウィン が大 だい 連立 れんりつ 解消 かいしょう の動議 どうぎ を提出 ていしゅつ したところ、185対 たい 88で可決 かけつ されるに至 いた った。前 ぜん 党首 とうしゅ ボナー・ローも連立 れんりつ 解消 かいしょう に賛成 さんせい していた。これを受 う けてチェンバレンは保守 ほしゅ 党首 とうしゅ 職 しょく を辞 じ し、首相 しゅしょう ロイド・ジョージも辞職 じしょく した。
ボナー・ローが組閣 そかく の大命 たいめい を受諾 じゅだく した。ボールドウィンら保守 ほしゅ 党内 とうない の反 はん 大 だい 連立 れんりつ 派 は はロイド・ジョージとチャーチルはキリストVSイスラムの戦争 せんそう を起 お こして解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ することで自分 じぶん たちに有利 ゆうり な議会 ぎかい 状況 じょうきょう を作 つく ろうとしているのでは、という疑 うたが いを持 も っていた。チャナク事件 じけん はきっかけに過 す ぎず、自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう の大 だい 連立 れんりつ はすでにガタが来 き ていた。保守党 ほしゅとう 議員 ぎいん たちはロイド・ジョージのワンマン政治 せいじ にうんざりしていたし、アイルランド自由 じゆう 国 こく に承服 しょうふく しかねる思 おも いの者 もの も多 おお くいた。このまま大 だい 連立 れんりつ を組 く んでいたら保守党 ほしゅとう は次 つぎ の総 そう 選挙 せんきょ で惨敗 ざんぱい し、党 とう が分裂 ぶんれつ すると考 かんが えている者 もの もいた。
首相 しゅしょう となったボナー・ローは1922年 ねん 11月にも解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ に打 う って出 で た。
チャーチルはこの頃 ころ 、盲腸 もうちょう の手術 しゅじゅつ のために入院 にゅういん 中 ちゅう だったが、これまで通 とお りダンディー選挙 せんきょ 区 く から出馬 しゅつば した。しかし今回 こんかい は自由党 じゆうとう 候補 こうほ がもう一人 ひとり 出馬 しゅつば していた。また労働党 ろうどうとう 候補 こうほ として出馬 しゅつば したエドモンド・モレル とは連携 れんけい が成 な らず、彼 かれ は対立 たいりつ 候補 こうほ として出馬 しゅつば した。結党 けっとう されたばかりのイギリス共産党 きょうさんとう も対立 たいりつ 候補 こうほ を送 おく りこんできた。禁酒 きんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ のスクリムジャーも再 ふたた び対立 たいりつ 候補 こうほ として出馬 しゅつば した。チャーチルは病室 びょうしつ から「私 わたし は自由 じゆう 党員 とういん 、自由 じゆう 貿易 ぼうえき 主義 しゅぎ 者 しゃ として出馬 しゅつば するが、有権者 ゆうけんしゃ におかれては進歩 しんぽ 的 てき で理性 りせい 的 てき な保守 ほしゅ 党員 とういん とは協力 きょうりょく していただきたい」という選挙 せんきょ 区民 くみん に向 む けてのメッセージを出 だ した。このメッセージの効果 こうか もあり保守党 ほしゅとう は対立 たいりつ 候補 こうほ を立 た てなかった。
チャーチルは投票 とうひょう 日 び 直前 ちょくぜん に椅子 いす ごと運 はこ ばれて選挙 せんきょ 区 く 入 い りし、自由 じゆう 貿易 ぼうえき 擁護 ようご や反共 はんきょう の演説 えんぜつ を行 おこな ったが、「好戦 こうせん 派 は 閣僚 かくりょう 」との噂 うわさ が尾 お を引 ひ き、選挙 せんきょ 区民 くみん からの評判 ひょうばん は悪 わる かった。また若 わか い共産 きょうさん 党員 とういん たちが民謡 みんよう を詠 うた って演説 えんぜつ を妨害 ぼうがい するとチャーチルは「この年端 としは もいかぬ爬虫類 はちゅうるい ども」と怒鳴 どな ると、若者 わかもの たちは「赤旗 あかはた 」を歌 うた ったり、「アイルランド共和 きょうわ 国 こく 万 まん 歳 さい 」と叫 さけ んだ。選挙 せんきょ の結果 けっか 、スクリムジャーとモレルが当選 とうせん し、チャーチルは4位 い で落選 らくせん した。これについてチャーチルは「私 わたし は一瞬 いっしゅん にして、官職 かんしょく 、議席 ぎせき 、党 とう 、おまけに盲腸 もうちょう を失 うしな ったのである」と回顧 かいこ している。
選挙 せんきょ 全体 ぜんたい の結果 けっか は保守党 ほしゅとう が345議席 ぎせき 、労働党 ろうどうとう が142議席 ぎせき 、自由党 じゆうとう ロイド・ジョージ派 は が62議席 ぎせき 、自由党 じゆうとう アスキス派 は が54議席 ぎせき を獲得 かくとく し、保守党 ほしゅとう の大勝 たいしょう に終 お わった。
チャートウェル邸 てい 購入 こうにゅう
チャーチルが購入 こうにゅう したチャートウェル 邸 やしき
落選 らくせん 後 ご 、南 みなみ フランスのカンヌ へ移住 いじゅう し、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に関 かん する著作 ちょさく 『世界 せかい の危機 きき (The World Crisis)』の口述 こうじゅつ 筆記 ひっき と絵 え を描 えが くことに精 せい を出 だ した。この著作 ちょさく は「世界 せかい 史 し を装 よそお ったチャーチルの自伝 じでん 」「ダーダネルス作戦 さくせん 自己 じこ 弁明 べんめい の書 しょ 」などの批判 ひはん もあったものの、チャーチルにかなりの印税 いんぜい をもたらし、これによってケント州 しゅう のチャートウェル 邸 やしき と広大 こうだい な土地 とち を購入 こうにゅう することができた。以降 いこう チャーチルは週末 しゅうまつ にはこのチャートウェル邸 てい で過 す ごすようになった。子供 こども たちもこの屋敷 やしき が気 き に入 い った。
再 さい 落選 らくせん 、自由党 じゆうとう 離党 りとう [ 編集 へんしゅう ]
1923年 ねん に描 えが かれたチャーチルのイラスト
1923年 ねん 5月にボナー・ローが喉頭 こうとう 癌 がん で首相 しゅしょう を退任 たいにん した。後任 こうにん の候補 こうほ としてボールドウィンかカーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵 こうしゃく の二人 ふたり が考 かんが えられたが、国王 こくおう ジョージ5世 せい は、庶民 しょみん 院 いん を優先 ゆうせん してボールドウィンに大命 たいめい を与 あた えた。しかし同年 どうねん 11月 がつ 、党 とう を固 かた めきれていなかったボールドウィンは、党 とう をまとめる効果 こうか を狙 ねら って、また世論 せろん も保護 ほご 貿易 ぼうえき に傾 かたむ いてきたと判断 はんだん して、関税 かんぜい 改革 かいかく を掲 かか げた解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ に打 う って出 で た。
チャーチルはこの選挙 せんきょ にレスター・ウェスト選挙 せんきょ 区 く の自由党 じゆうとう 候補 こうほ として出馬 しゅつば した。チャーチルは保守党 ほしゅとう が対立 たいりつ 候補 こうほ を立 た てるのを控 ひか えてくれるのでは、という期待 きたい を抱 だ いていたが、保守党 ほしゅとう は対立 たいりつ 候補 こうほ を立 た ててきた。労働党 ろうどうとう からの攻撃 こうげき も激 はげ しく、とりわけダーダネルス作戦 さくせん に関 かん する『世界 せかい の危機 きき 』第 だい 2巻 かん が出版 しゅっぱん された直後 ちょくご であったため、ダーダネルス作戦 さくせん を批判 ひはん する野次 やじ が盛 さか んに飛 と んだという。結局 けっきょく 、労働党 ろうどうとう 候補 こうほ が勝利 しょうり し、チャーチルは再 ふたた び落選 らくせん した。
この総 そう 選挙 せんきょ では自由党 じゆうとう ロイド・ジョージ派 は とアスキス派 は が自由 じゆう 貿易 ぼうえき 擁護 ようご で共闘 きょうとう していた。選挙 せんきょ 戦 せん で保守党 ほしゅとう は食料 しょくりょう には関税 かんぜい をかけないと約束 やくそく していたが、自由党 じゆうとう と労働党 ろうどうとう が煽 あお った結果 けっか 、結局 けっきょく 「高 たか いパンか安 やす いパンか」が争点 そうてん になっていった。その結果 けっか 、保守党 ほしゅとう は87議席 ぎせき も落 お として257議席 ぎせき となり、労働党 ろうどうとう は191議席 ぎせき 、自由党 じゆうとう は151議席 ぎせき を獲得 かくとく し、どこも単独 たんどく では政権 せいけん を作 つく れない状態 じょうたい となった。
自由党 じゆうとう の指導 しどう 者 しゃ に復帰 ふっき していたアスキスは、労働党 ろうどうとう 政権 せいけん を誕生 たんじょう させる意向 いこう であった。チャーチルは「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん など誕生 たんじょう させたら重大 じゅうだい な国家 こっか 危機 きき が生 しょう じる」としてこれに強 つよ く反対 はんたい し、保守党 ほしゅとう ・自由党 じゆうとう 連携 れんけい による反 はん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん の樹立 じゅりつ を求 もと めたが、受 う け入 い れられなかった。ここに至 いた ってチャーチルは反 はん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の信条 しんじょう を失 うしな わぬため、自由党 じゆうとう を離党 りとう する決意 けつい を固 かた めた。
保守党 ほしゅとう の政治 せいじ 家 か として[ 編集 へんしゅう ]
復 ふく 党 とう と再選 さいせん まで[ 編集 へんしゅう ]
1924年 ねん 1月 がつ に労働党 ろうどうとう 議員 ぎいん 提出 ていしゅつ の内閣 ないかく 不信任 ふしんにん 案 あん が自由党 じゆうとう の賛成 さんせい を得 え て可決 かけつ され、ボールドウィンは辞職 じしょく し、かわって労働党 ろうどうとう のラムゼイ・マクドナルド が大命 たいめい を受 う け、史上 しじょう 初 はつ の労働党 ろうどうとう 政権 せいけん が誕生 たんじょう した。一方 いっぽう 総 そう 選挙 せんきょ に敗 やぶ れたボールドウィンは同年 どうねん 2月 がつ に関税 かんぜい 改革 かいかく を保守党 ほしゅとう の方針 ほうしん から取 と り下 さ げた。これにより自由 じゆう 貿易 ぼうえき 主義 しゅぎ 者 しゃ のチャーチルも保守党 ほしゅとう へ戻 もど りやすくなった。
3月のウェストミンスター寺院 じいん 選挙 せんきょ 区 く で行 おこな われた補欠 ほけつ 選挙 せんきょ に「無所属 むしょぞく の反 はん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 候補 こうほ 」として出馬 しゅつば した。ここは保守党 ほしゅとう のニコルソン家 か の地盤 じばん であった。チャーチルは「私 わたし は保守党 ほしゅとう と争 あらそ うつもりはない。それどころか私 わたし は保守党 ほしゅとう こそが反 はん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ の集合 しゅうごう 場所 ばしょ になるべきだと考 かんが えている」と演説 えんぜつ した。保守党 ほしゅとう 内 ない では正式 せいしき な保守党 ほしゅとう 候補 こうほ がいる選挙 せんきょ 区 く にチャーチルが出馬 しゅつば したことへの怒 いか りの声 こえ も多 おお かったが、チャーチルの反 はん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 姿勢 しせい を評価 ひょうか する声 こえ もあり、複数 ふくすう の保守党 ほしゅとう 議員 ぎいん から選挙 せんきょ 協力 きょうりょく を受 う けた。オースティン・チェンバレンやバルフォアのような保守党 ほしゅとう 大物 おおもの 政治 せいじ 家 か もチャーチルに推薦 すいせん 書 しょ を書 か いてくれた。だが選挙 せんきょ は僅差 きんさ でニコルソン家 か の者 もの の当選 とうせん となり、チャーチルは三 さん 度目 どめ の落選 らくせん を喫 きっ した。
チャーチルは保守党 ほしゅとう に接近 せっきん を続 つづ け、食料 しょくりょう 以外 いがい の関税 かんぜい 導入 どうにゅう にも前向 まえむ きになっていった。1924年 ねん 9月 がつ 、エッピング選挙 せんきょ 区 く の保守党 ほしゅとう 候補 こうほ に指名 しめい された。ただしチャーチルが正式 せいしき に保守 ほしゅ 党員 とういん になったのは1925年 ねん であり、選挙 せんきょ 区 く への立候補 りっこうほ 届 とど け出 で では党派 とうは として「立憲 りっけん 派 は 」という保守党 ほしゅとう 組織 そしき がよく使用 しよう する名称 めいしょう を使 つか っている。
マクドナルド労働党 ろうどうとう 政権 せいけん のソ連 それん との国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か [注釈 ちゅうしゃく 10] やキャンベル起訴 きそ 撤回 てっかい 問題 もんだい など労働党 ろうどうとう 左派 さは に配慮 はいりょ した政策 せいさく に保守党 ほしゅとう や自由党 じゆうとう は批判 ひはん を強 つよ め、10月8日 にち に自由党 じゆうとう のアスキスが親 しん ソ政策 せいさく 批判 ひはん 動議 どうぎ が提出 ていしゅつ され、保守党 ほしゅとう が賛成 さんせい し可決 かけつ され、マクドナルド内閣 ないかく は解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ に打 う って出 で た。
この選挙 せんきょ でもチャーチルは激 はげ しい社会 しゃかい 主義 しゅぎ 攻撃 こうげき を展開 てんかい し、「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ がブリタニア に着 き せようとしているドイツ製 せい 、ロシア製 せい のふざけたボロ切 き れを脱 ぬ ぎ捨 す てろ。彼女 かのじょ の盾 たて は汚 きたな らしい赤旗 あかはた ではなく、ユニオン・ジャック の旗 はた でなければならない」と演説 えんぜつ した。エッピング選挙 せんきょ 区 く は反共 はんきょう 主義 しゅぎ の機運 きうん が強 つよ く、チャーチルの反共 はんきょう 演説 えんぜつ も選挙 せんきょ 区民 くみん を熱狂 ねっきょう させ、圧勝 あっしょう した。投票 とうひょう 日 び 直前 ちょくぜん にジノヴィエフ書簡 しょかん 問題 もんだい が発生 はっせい して有権者 ゆうけんしゃ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ への恐怖 きょうふ が高 たか まっていたことで全国 ぜんこく 的 てき にも反共 はんきょう を掲 かか げる保守党 ほしゅとう が圧勝 あっしょう している(保守党 ほしゅとう 412議席 ぎせき 、労働党 ろうどうとう 151議席 ぎせき 、自由党 じゆうとう 40議席 ぎせき )。
第 だい 2次 じ ボールドウィン内 ない 閣 かく 大蔵 おおくら 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
1924年 ねん 11月4日 にち にボールドウィンに大命 たいめい があり、第 だい 2次 じ ボールドウィン内 ない 閣 かく が発足 ほっそく した。
ボールドウィンはチャーチルがロイド・ジョージと組 く んで保守党 ほしゅとう と自由党 じゆうとう の中道 ちゅうどう 派 は による「中央 ちゅうおう 党 とう 」を結成 けっせい する事態 じたい をかねてから恐 おそ れていた。そのためチャーチルを閣 かく 内 ない に取 と り込 こ んでおこうと考 かんが え、大蔵 おおくら 大臣 だいじん という重要 じゅうよう 閣僚 かくりょう 職 しょく を彼 かれ に提示 ていじ した。チャーチルはそれほど高 たか い地位 ちい の閣僚 かくりょう 職 しょく に任命 にんめい されるとは思 おも っていなかったから、ボールドウィンから「チャンセラー(Chancellor)にならないか?」と聞 き かれた時 とき 、はじめランカスター公 おおやけ 領 りょう 担当 たんとう 大臣 だいじん (Chancellor of the Duchy of Lancaster)のことかと思 おも ったという。そのため、チャーチルは「ランカスターですか?」とき返 きかえ したと言 い う。だが大蔵 おおくら 大臣 だいじん (Chancellor of the Exchequer)のことだと聞 き かされた時 とき 、感動 かんどう のあまり、チャーチルの目 め から涙 なみだ が溢 あふ れたという。この閣僚 かくりょう 職 しょく は父 ちち ランドルフ卿 きょう が務 つと めていた地位 ちい であり、次期 じき 首相 しゅしょう 最 さい 有力 ゆうりょく 候補 こうほ の閣僚 かくりょう 職 しょく であった。
金本位 きんほんい 制 せい 復帰 ふっき
大蔵 おおくら 大臣 だいじん チャーチルの事績 じせき として最 もっと も知 し られているのが第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ で中断 ちゅうだん されていた金本位 きんほんい 制 せい への復帰 ふっき である。大戦 たいせん 後 ご 、イギリスの輸出 ゆしゅつ 産業 さんぎょう は新興 しんこう 国 こく アメリカや日本 にっぽん に押 お されて弱体 じゃくたい 化 か を続 つづ けていた。またイギリスの海外 かいがい 投資 とうし の多 おお くも戦争 せんそう で手放 てばな すこととなり、イギリスの国際 こくさい 収支 しゅうし を支 ささ えてきた貿易 ぼうえき 外 がい 収入 しゅうにゅう は大 おお きく減少 げんしょう していた。当時 とうじ イギリスの海外 かいがい 投資 とうし の多 おお くはアメリカによって買 か い取 と られており、世界 せかい 金融 きんゆう の中心 ちゅうしん はイギリスのシティ からアメリカのウォ うぉ ール街 るがい に移 うつ ろうとしていた。ドルはポンドに先 さき んじて大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 直後 ちょくご に金本位 きんほんい 制 せい に復帰 ふっき し、世界 せかい 通貨 つうか の地位 ちい を確立 かくりつ していった。国際 こくさい 的 てき 地位 ちい の低下 ていか に焦 あせ っていたシティの金融 きんゆう 業界 ぎょうかい はイギリスの国際 こくさい 投資 とうし と国際 こくさい 貿易 ぼうえき の再興 さいこう を狙 ねら って戦前 せんぜん レート(1ポンド=4.86ドル)での金本位 きんほんい 制 せい 復帰 ふっき を主張 しゅちょう するようになった。1918年 ねん の膨大 ぼうだい な政府 せいふ 支出 ししゅつ のために戦後 せんご 直後 ちょくご のイギリスはインフレ 的 てき な国内 こくない 信用 しんよう 拡大 かくだい が起 お こっていた。しかし1920年 ねん 以降 いこう はデフレ になり、需要 じゅよう は低下 ていか し、物価 ぶっか は下 さ がり、失業 しつぎょう 率 りつ は高 たか まった。ポンド高 だか も進 すす み、1922年 ねん 末 まつ には1ポンド=4.63ドル、1924年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ 後 ご には1ポンド=4.79ドルとなった。戦前 せんぜん レートでの金本位 きんほんい 制 せい 復活 ふっかつ を行 おこな っても大 おお きな混乱 こんらん なく実施 じっし できそうな相場 そうば であり、いい機会 きかい に見 み えた。
チャーチルは国際 こくさい 投資 とうし より国内 こくない 信用 しんよう の拡大 かくだい を志向 しこう してインフレ政策 せいさく を希望 きぼう していたが、大蔵 おおくら 官僚 かんりょう やイングランド銀行 いんぐらんどぎんこう 総裁 そうさい モンタギュー・ノーマン (初代 しょだい ノーマン男爵 だんしゃく )の説得 せっとく を受 う けて、戦前 せんぜん の輝 かがや かしい地位 ちい にイギリスを戻 もど したいという願望 がんぼう が強 つよ まり、ほとんど何 なん の準備 じゅんび もなく、1925年 ねん 4月 がつ に金本位 きんほんい 制 せい 復活 ふっかつ を宣言 せんげん した。これに対 たい し経済 けいざい 学者 がくしゃ のジョン・メイナード・ケインズ は経済 けいざい の混乱 こんらん をもたらすだけだとして批判 ひはん し、論争 ろんそう が生 しょう じた(金本位 きんほんい 制 せい 復帰 ふっき 論争 ろんそう )。
ゼネスト弾圧 だんあつ
1926年 ねん のゼネスト の際 さい のハイド・パーク での集会 しゅうかい
戦前 せんぜん レートでの金本位 きんほんい 制 せい 復帰 ふっき はポンドの過大 かだい 評価 ひょうか であったので、イギリスの輸出 ゆしゅつ 競争 きょうそう 力 りょく は低下 ていか し、輸出 ゆしゅつ 産業 さんぎょう 、とりわけ石炭 せきたん 産業 さんぎょう が打撃 だげき を受 う けた。その結果 けっか 、イギリスの炭坑 たんこう 資本 しほん 家 か は経営 けいえい の合理 ごうり 化 か を図 はか る必要 ひつよう に迫 せま られ、1925年 ねん 6月 がつ 30日 にち と7月 がつ 1日 にち に坑夫 こうふ の労働 ろうどう 組合 くみあい である坑夫 こうふ 連盟 れんめい に対 たい して従来 じゅうらい の最低 さいてい 賃金 ちんぎん と7時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう 制 せい を破棄 はき するとともに、13%から48%までの幅 はば のある賃金 ちんぎん 切 き り下 さ げを行 おこな うことを通告 つうこく した。これに対抗 たいこう して坑夫 こうふ 連盟 れんめい や労働 ろうどう 組合 くみあい 会議 かいぎ はゼネスト を表明 ひょうめい した。
このゼネストに対 たい してボールドウィン首相 しゅしょう は、王立 おうりつ 委員 いいん 会 かい による調査 ちょうさ が終 お わるまで賃金 ちんぎん 切 き り下 さ げ分 ぶん の補助 ほじょ 金 きん を政府 せいふ が出 だ すことを約束 やくそく して懐柔 かいじゅう した。しかし王立 おうりつ 委員 いいん 会 かい は1926年 ねん 3月 がつ に多少 たしょう の労働 ろうどう 環境 かんきょう の緩和 かんわ を盛 も り込 こ みながらも、賃金 ちんぎん 切 き り下 さ げと補助 ほじょ 金 きん 打 う ち切 き りを求 もと める報告 ほうこく 書 しょ を提出 ていしゅつ したため、再 ふたた びゼネスト突入 とつにゅう の危機 きき が高 たか まった。労働 ろうどう 組合 くみあい 会議 かいぎ 幹部 かんぶ の間 あいだ には交渉 こうしょう を求 もと める声 こえ が多 おお かったが、政府 せいふ は『デイリー・メール』紙 し の植字 しょくじ 工 こう が政府 せいふ のゼネスト批判 ひはん の文 ぶん を掲載 けいさい しなかったことを理由 りゆう として交渉 こうしょう を拒否 きょひ 、労働 ろうどう 組合 くみあい 会議 かいぎ の総 そう 評議 ひょうぎ 会 かい は1926年 ねん 5月 がつ 3日 にち からゼネストに突入 とつにゅう した。
王立 おうりつ 委員 いいん 会 かい の設置 せっち はスト破 やぶ りなどゼネストを骨抜 ほねぬ きにする体制 たいせい を整 ととの えるための政府 せいふ の時間 じかん 稼 かせ ぎで、態勢 たいせい が整 ととの うや政府 せいふ は挑発 ちょうはつ してゼネストを起 お こさせたという批判 ひはん がある。そしてその立場 たちば からは挑発 ちょうはつ を行 おこな わせた閣僚 かくりょう はチャーチルだという見方 みかた が多 おお かったが、定 さだ かではない。ボールドウィン首相 しゅしょう は非常 ひじょう 事態 じたい 法 ほう を制定 せいてい して労働 ろうどう 運動 うんどう 弾圧 だんあつ を開始 かいし した。そしてその弾圧 だんあつ を最 もっと も強力 きょうりょく に支持 しじ したのは労働 ろうどう 運動 うんどう の背後 はいご に常 つね に共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の陰謀 いんぼう を見 み ているチャーチルであった。チャーチルは政府 せいふ 機関 きかん 紙 し 『ブリティッシュ・ガゼット』を創刊 そうかん し、ゼネストが違法 いほう であることを訴 うった えた。こうした政府 せいふ の攻撃 こうげき は奏功 そうこう し、ゼネストは大衆 たいしゅう の支持 しじ を得 え なかった。
政府 せいふ と資本 しほん 家 か による労働 ろうどう 運動 うんどう 切 き り崩 くず し工作 こうさく も成功 せいこう し、労働 ろうどう 組合 くみあい 会議 かいぎ は若干 じゃっかん の賃金 ちんぎん 切 き り下 さ げを認 みと めるに至 いた り、5月11日 にち にはゼネスト中止 ちゅうし を宣言 せんげん した。鉱山 こうざん 労働 ろうどう 組合 くみあい のみ従 したが おうとせず、単独 たんどく での労働 ろうどう 争議 そうぎ を続 つづ けたが、彼 かれ らも11月までに資本 しほん 家 か の要求 ようきゅう をすべて受 う け入 い れる無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく に追 お い込 こ まれてストは終結 しゅうけつ した。
1928年 ねん のイタリア首相 しゅしょう ムッソリーニ
イギリスの半 はん 植民 しょくみん 地 ち エジプト訪問 ほうもん の帰路 きろ の1927年 ねん 1月 がつ にイタリア を訪問 ほうもん し、1922年 ねん 以来 いらい 政権 せいけん を掌握 しょうあく していたファシスト党 とう 党首 とうしゅ で首相 しゅしょう のベニート・ムッソリーニ と会見 かいけん した。イタリアを離 はな れる際 さい 、イタリアの新聞 しんぶん 記者 きしゃ たちに対 たい してチャーチルは、「もし私 わたし がイタリア人 じん だったら、レーニン主義 しゅぎ の獣欲 じゅうよく と狂気 きょうき に対抗 たいこう する貴方 あなた 達 たち の戦 たたか いを支持 しじ し、行動 こうどう をともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘 しとう を演 えん じる必要 ひつよう がなく、我々 われわれ には我々 われわれ 流 りゅう の物事 ものごと の進 すす め方 かた がある。しかし最終 さいしゅう 的 てき には我々 われわれ が共産 きょうさん 主義 しゅぎ と戦 たたか い、その息 いき の根 ね を止 と めることに成功 せいこう すると確信 かくしん している。」と語 かた った。さらに「ファシズムの国際 こくさい 的 てき 価値 かち 」として「破壊 はかい 的 てき な勢力 せいりょく に対抗 たいこう して、文明 ぶんめい 社会 しゃかい の名誉 めいよ と安定 あんてい を守 まも ろうという大衆 たいしゅう の意思 いし を正 まさ しく導 みちび く方法 ほうほう を世界 せかい に示 しめ した」ことを指摘 してき し、「ロシア革命 かくめい の毒 どく に対 たい する最 もっと も有効 ゆうこう な解毒 げどく 剤 ざい 」であると評価 ひょうか した。
チャーチルは1929年 ねん の4月 がつ の予算 よさん 演説 えんぜつ にて政府 せいふ の借入金 かりいれきん による公共 こうきょう 事業 じぎょう では失業 しつぎょう 率 りつ を下 さ げることは出来 でき ないと宣言 せんげん した。
1929年 ねん 5月の総 そう 選挙 せんきょ でチャーチルはエッピング選挙 せんきょ で再選 さいせん を果 は たすも、選挙 せんきょ 全体 ぜんたい の結果 けっか は失業 しつぎょう 対策 たいさく を訴 うった えた労働党 ろうどうとう が289議席 ぎせき を獲得 かくとく して第 だい 一 いち 党 とう に躍進 やくしん した。保守党 ほしゅとう は260議席 ぎせき 、自由党 じゆうとう は59議席 ぎせき しか獲得 かくとく できず、保守党 ほしゅとう 政権 せいけん は崩壊 ほうかい 、チャーチルも大蔵 おおくら 大臣 だいじん を退任 たいにん 。代 か わって自由党 じゆうとう の協力 きょうりょく を受 う ける労働党 ろうどうとう 政権 せいけん 、第 だい 2次 じ マクドナルド内閣 ないかく が発足 ほっそく した。
もっともこの選挙 せんきょ に保守党 ほしゅとう が勝利 しょうり していたとしてもチャーチルは大蔵 おおくら 大臣 だいじん から罷免 ひめん されていたといわれる。というのもボールドウィン首相 しゅしょう が選挙 せんきょ 戦中 せんちゅう に「チャーチルは再 さい 入閣 にゅうかく させない」と周囲 しゅうい に漏 も らしているからである。チャーチルはこの段階 だんかい でも自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう の連合 れんごう 構想 こうそう を持 も っており、自由 じゆう 貿易 ぼうえき を捨 す てきれないでいた。そのため党内 とうない 保護 ほご 貿易 ぼうえき 主義 しゅぎ 者 しゃ から不満 ふまん を買 か っており、孤立 こりつ しつつあったのである。また個人 こじん 的 てき にもボールドウィン首相 しゅしょう は大蔵省 おおくらしょう の管轄 かんかつ 外 がい のことにまで口 くち を出 だ して閣議 かくぎ の和 わ を乱 みだ しがちなチャーチルを嫌 きら っていた。以降 いこう チャーチルは10年 ねん にわたって閣僚 かくりょう 職 しょく に就 つ くことができなかった。
1929年 ねん 、チャーチルとチャップリン
1929年 ねん 秋 あき のアメリカ・ウォ うぉ ール街 るがい の大 だい 暴落 ぼうらく に端 はし を発 はっ する世界 せかい 大 だい 恐慌 きょうこう はイギリスも襲 おそ い、1929年 ねん 5月 がつ に115万 まん 人 にん だったイギリスの失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう が1930年 ねん 12月には250万 まん 人 にん に倍増 ばいぞう した。失業 しつぎょう 手当 てあて が膨大 ぼうだい となる中 なか 、労働党 ろうどうとう 政権 せいけん は失業 しつぎょう 手当 てあて 削減 さくげん 案 あん をめぐって閣 かく 内 ない が分裂 ぶんれつ し、1931年 ねん 8月 がつ に総 そう 辞職 じしょく 。困難 こんなん な時局 じきょく に対応 たいおう できる強力 きょうりょく な政府 せいふ が求 もと められた結果 けっか 、マクドナルドを首相 しゅしょう のままとした保守党 ほしゅとう 、自由党 じゆうとう 、労働党 ろうどうとう 大 だい 連立 れんりつ 派 は (労働党 ろうどうとう は大 だい 連立 れんりつ 反対 はんたい 派 は が主流 しゅりゅう であり、マクドナルドらは事実 じじつ 上 じょう 除名 じょめい された形 かたち であった)の3党 とう の大 だい 連立 れんりつ による挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した。しかしチャーチルは入閣 にゅうかく できなかった。
挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく はチャーチルが再 さい 導入 どうにゅう した金本位 きんほんい 制 せい を停止 ていし し、大 だい 英 えい 帝国 ていこく を排他 はいた 的 てき なブロック経済 けいざい 圏 けん にする保護 ほご 貿易 ぼうえき を推 お し進 すす めた。これはイギリスが1世紀 せいき 近 ちか く前 まえ に自由 じゆう 貿易 ぼうえき に移行 いこう して以来 いらい の歴史 れきし 的 てき な保護 ほご 貿易 ぼうえき への回帰 かいき だった。
チャーチルは自由 じゆう 貿易 ぼうえき 主義 しゅぎ 者 しゃ だったが、あまりの失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう の増大 ぞうだい に彼 かれ の信念 しんねん も揺 ゆ らぎ、新聞 しんぶん 社 しゃ 経営 けいえい 者 しゃ 初代 しょだい ビーヴァーブルック男爵 だんしゃく マックス・エイトケン らが唱 とな える「帝国 ていこく 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 」という自由 じゆう 貿易 ぼうえき の名 な を借 か りた帝国 ていこく 特恵 とっけい 関税 かんぜい 制度 せいど を支持 しじ するようになった。
1930年 ねん には『My Early Life』を出版 しゅっぱん し、庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん となるまでの自分 じぶん の人生 じんせい を振 ふ り返 かえ った。冒険 ぼうけん 活劇 かつげき 調 ちょう であり、インド人 じん を「蛮族 ばんぞく 」呼 よ ばわりし、「蛮族 ばんぞく 」が自分 じぶん の活躍 かつやく でばたばたと倒 たお されていった事 こと を自慢 じまん げに書 か いている。1931年 ねん からは先祖 せんぞ である初代 しょだい マールバラ公爵 こうしゃく の伝記 でんき 『マールバラ公 こう その生涯 しょうがい と時代 じだい 』の執筆 しっぴつ を開始 かいし し、マールバラ公 こう を「貪欲 どんよく で道徳 どうとく とは無縁 むえん の人物 じんぶつ 」とするマコーレーの評価 ひょうか に反駁 はんばく したものだった。
インド自治 じち に反対 はんたい [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう にロイド・ジョージ内 ない 閣 かく はインド人 じん から積極 せっきょく 的 てき な戦争 せんそう 協力 きょうりょく を得 え るために、戦後 せんご のインド自治 じち を約束 やくそく していた。しかし戦争 せんそう が終 お わっても自治 じち の見通 みとお しは立 た たず、ガンジー の非 ひ 暴力 ぼうりょく 抵抗 ていこう 運動 うんどう が盛 も り上 あ がりを見 み せていた。これを懐柔 かいじゅう すべく、インド総督 そうとく アーウィン卿 きょう (後 ご のハリファックス卿 きょう ) は、1929年 ねん にインドの大 だい 英 えい 帝国 ていこく 自治領 じちりょう 化 か が最終 さいしゅう 目標 もくひょう であり、そのためのロンドンの円卓 えんたく 会議 かいぎ にインド人 じん 代表 だいひょう 団 だん が参加 さんか できるようにすることを宣言 せんげん した。首相 しゅしょう マクドナルドや保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボールドウィンは、アーウィン卿 きょう の宣言 せんげん を支持 しじ したが、熱心 ねっしん な帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ であるチャーチルは反対 はんたい した。インド人 じん には自治 じち は尚早 しょうそう であること、インドの支配 しはい 層 そう はインドの民 みん を代表 だいひょう しているとはとても言 い えない者 もの たちであること、大 だい 英 えい 帝国 ていこく の繁栄 はんえい の根源 こんげん であるインドに自治 じち を与 あた えることは自分 じぶん で自分 じぶん の手足 てあし を切 き り捨 す てているも同然 どうぜん であること、一 いち 度 ど でもインド・ナショナリズムに譲歩 じょうほ したら、なし崩 くず し的 てき に独立 どくりつ まで突 つ き進 すす んでしまうであろうことなどを指摘 してき した。
ガンジーは、はじめアーウィン卿 きょう の宣言 せんげん に対 たい して歩 あゆ み寄 よ ろうとしなかったので1930年 ねん 5月 がつ に投獄 とうごく されたが、1931年 ねん 1月 がつ には釈放 しゃくほう されて交渉 こうしょう に応 おう じた。しかしガンジーを嫌悪 けんお するチャーチルは、交渉 こうしょう に応 おう じるアーウィン卿 きょう を批判 ひはん した。またインド自治 じち の危険 きけん 性 せい を感 かん じ取 と ろうとしない大衆 たいしゅう にも怒 いか りを感 かん じており、「彼 かれ らは失業 しつぎょう と増税 ぞうぜい の心配 しんぱい ばかりしている。あるいはスポーツと犯罪 はんざい 報道 ほうどう に夢中 むちゅう だ。今 いま 、自分 じぶん たちが乗 の っている大型 おおがた 客船 きゃくせん が静 しず かに沈 しず みつつあるというのが分 わ からないのか。」と憂慮 ゆうりょ した。しかしチャーチルの強硬 きょうこう な反対 はんたい 論 ろん は党首 とうしゅ ボールドウィンに嫌 きら われた。1931年 ねん 1月 がつ にボールドウィンが「インド政治 せいじ 指導 しどう 層 そう の支持 しじ を得 え たインド政策 せいさく ならば支持 しじ する」と宣言 せんげん したことがきっかけでチャーチルはボールドウィンと完全 かんぜん に袂 たもと を分 わ かち、「影 かげ の内閣 ないかく 」からも離脱 りだつ した。
1933年 ねん 3月 がつ 17日 にち にマクドナルド挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく は、後 ご のインド統治 とうち 法 ほう の叩 たた き台 だい となる白書 はくしょ を発表 はっぴょう した。そこにはインド各州 かくしゅう に自治 じち 権 けん を付与 ふよ すること、インド人 じん が参加 さんか する連邦 れんぽう 政府 せいふ を創設 そうせつ し、インド総督 そうとく の権限 けんげん の一部 いちぶ を連邦 れんぽう 政府 せいふ に移 うつ すこと、またインド総督 そうとく が責任 せきにん を負 お う立法 りっぽう 議会 ぎかい を設置 せっち することなどが盛 も り込 こ まれていた。チャーチルはこの白書 はくしょ に反対 はんたい し、1933年 ねん 4月 がつ には自 みずか らを副 ふく 総裁 そうさい としたインド防衛 ぼうえい 連盟 れんめい を結成 けっせい した。その創設 そうせつ 大会 たいかい でチャーチルは「ガンジー主義 しゅぎ の粉砕 ふんさい 」を訴 うった える演説 えんぜつ を行 おこな ってイギリスでもインドでも注目 ちゅうもく された。インド防衛 ぼうえい 連盟 れんめい は加入 かにゅう 者 しゃ 数 すう こそ少 すく なかったが、父 ちち が創設 そうせつ したプリムローズ・リーグ と同様 どうよう 、保守党 ほしゅとう 議会 ぎかい 外 がい 大衆 たいしゅう 組織 そしき に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼしていた。1933年 ねん 6月 がつ の保守党 ほしゅとう 協会 きょうかい 全国 ぜんこく 同盟 どうめい 会合 かいごう では参加 さんか 者 しゃ の3分 ぶん の1からインド自治 じち 反対 はんたい の票 ひょう を獲得 かくとく し、1934年 ねん 秋 あき の保守党 ほしゅとう 大会 たいかい ではインド自治 じち 賛成 さんせい 543票 ひょう に対 たい して、インド自治 じち 反対 はんたい 派 は 520票 ひょう と僅差 きんさ に持 も ち込 こ んだ。
しかし1935年 ねん 1月 がつ にマクドナルド挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく がインド統治 とうち 法 ほう を提出 ていしゅつ するとチャーチル派 は の情勢 じょうせい は悪 わる くなった。チャーチルが1935年 ねん 1月 がつ 30日 にち にBBC のラジオ放送 ほうそう で行 おこな ったインド自治 じち 反対 はんたい の演説 えんぜつ は評判 ひょうばん が悪 わる く、また同年 どうねん 2月 がつ には長男 ちょうなん ランドルフがインド統治 とうち 法 ほう 反対 はんたい を公約 こうやく に掲 かか げて保守党 ほしゅとう 公認 こうにん 候補 こうほ に対抗 たいこう してウェイヴァトリー選挙 せんきょ 区 く の補欠 ほけつ 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば するも落選 らくせん した。インド統治 とうち 法案 ほうあん の庶民 しょみん 院 いん での審議 しんぎ においても第 だい 三 さん 読会 どっかい までのどの投票 とうひょう でもチャーチル派 は は90票 ひょう 以上 いじょう の票 ひょう を集 あつ められなかった。最終 さいしゅう 的 てき には1935年 ねん 6月 がつ 5日 にち の庶民 しょみん 院 いん の採決 さいけつ で264票 ひょう 差 さ の大差 たいさ をつけられて、チャーチルは敗北 はいぼく し、インド統治 とうち 法 ほう が可決 かけつ されることとなった。
しかし結局 けっきょく インド統治 とうち 法 ほう に定 さだ められた「インド連邦 れんぽう 」は藩 はん 王国 おうこく が反発 はんぱつ して加盟 かめい を拒否 きょひ したため、施行 しこう されなかった。またヨーロッパ情勢 じょうせい が緊迫 きんぱく 化 か している中 なか 、チャーチルもこれ以上 いじょう この件 けん で保守党 ほしゅとう 執行 しっこう 部 ぶ と対立 たいりつ を深 ふか めるのは好 この ましくないと判断 はんだん し、自分 じぶん の選挙 せんきょ 区 く に宛 あ てて闘争 とうそう 終了 しゅうりょう 宣言 せんげん を出 だ した。その中 なか で元 もと 首相 しゅしょう ソールズベリー侯爵 こうしゃく が1867年 ねん に選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい をめぐって敗 やぶ れた際 さい の「政治 せいじ 的 てき 敗北 はいぼく を受 う け入 い れることは、あらゆるイギリス人 じん や政党 せいとう の義務 ぎむ だ」という言葉 ことば を引用 いんよう した。
選挙 せんきょ 中 ちゅう のアドルフ・ヒトラー
チャーチルは1932年 ねん 夏 なつ に初代 しょだい マールバラ公 こう の古戦場 こせんじょう めぐりの旅 たび に出 で た際 さい 、ドイツ・バイエルン州 しゅう ・ミュンヘン に立 た ち寄 よ ったことがあった。その時期 じき ドイツでは国会 こっかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ が行 おこな われ、国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう が第 だい 一 いち 党 とう となり、その党首 とうしゅ アドルフ・ヒトラー が近 ちか いうちにパウル・フォン・ヒンデンブルク 大統領 だいとうりょう より首相 しゅしょう に任命 にんめい される可能 かのう 性 せい が高 たか まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党 とう 幹部 かんぶ エルンスト・ハンフシュテングル と知 し り合 あ い、ヒトラーとの会談 かいだん を勧 すす められ承諾 しょうだく した。しかし、チャーチルはシオニズム を支持 しじ している政治 せいじ 家 か だったためハンフシュテングルに「なぜヒトラーはユダヤ人 じん を、しかもユダヤ人 じん であるという理由 りゆう だけで迫害 はくがい するのか」という質問 しつもん をぶつけ、この質問 しつもん がヒトラーの耳 みみ に入 はい って機嫌 きげん を損 そこ ねたらしく、会見 かいけん はヒトラーから拒否 きょひ された。
後世 こうせい にチャーチルは「こうしてヒトラーは私 わたし と会見 かいけん するただ一 いち 度 ど のチャンスを逃 のが したのだった。ヒトラーが政権 せいけん を握 にぎ ってから、何 なん 度 ど か会談 かいだん オファーがあったが、私 わたし は口実 こうじつ を作 つく って断 ことわ った。」と回顧 かいこ している。半年 はんとし 後 ご の1933年 ねん 1月 がつ に首相 しゅしょう に任 にん じられたヒトラーは独裁 どくさい 体制 たいせい を整 ととの え、1935年 ねん 3月 がつ には念願 ねんがん のヴェルサイユ条約 じょうやく ドイツ軍備 ぐんび 制限 せいげん 条項 じょうこう の破棄 はき を宣言 せんげん して再 さい 軍備 ぐんび を開始 かいし した。
イギリスでは一般 いっぱん に保守党 ほしゅとう の政治 せいじ 家 か はナチ党 とう に同情 どうじょう 的 てき だった。彼 かれ らは、ヴェルサイユ条約 じょうやく のようなものを押 お し付 つ けられては、その撤廃 てっぱい を主張 しゅちょう するのは無理 むり からぬことだとし、ナチ党 とう を無理 むり に政権 せいけん の座 ざ から引 ひ き下 お ろせばドイツが共産 きょうさん 化 か すると主張 しゅちょう した。そのためヒトラーの再 さい 軍備 ぐんび 計画 けいかく を徹底的 てっていてき に抑 おさ えつけるより、ある程度 ていど の国力 こくりょく 回復 かいふく を許 ゆる し、対 たい ソ防波堤 ぼうはてい にするのがよいと考 かんが える対 たい 独 どく 宥和 ゆうわ 派 は が多 おお かった。保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボールドウィンやその後任 こうにん の党首 とうしゅ となるネヴィル・チェンバレン も同様 どうよう であった。
ところがチャーチルはこうした立場 たちば に立 た たず、対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 論 ろん 者 しゃ となった。ドイツに再 さい 軍備 ぐんび を許 ゆる せばドイツは帝政 ていせい 時代 じだい 並 な みの国力 こくりょく を備 そな えようとするだろうし、反 はん ソ防波堤 ぼうはてい のメリットより、大 だい 英 えい 帝国 ていこく の世界 せかい 支配 しはい 体制 たいせい をドイツが再 ふたた び脅 おびや かすというリスクの方 ほう が大 おお きそうに思 おも えた。また1930年代 ねんだい のチャーチルは干 ほ されていたことから、あえて保守党 ほしゅとう 主流 しゅりゅう と一線 いっせん を画 かく す対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 論 ろん に立 た つことで、ドイツ脅威 きょうい 論 ろん が盛 も り上 あ がってきたところを保守党 ほしゅとう 中枢 ちゅうすう に返 かえ り咲 ざ こうという政治 せいじ 的 てき 狙 ねら いだった可能 かのう 性 せい もある。チャーチルはドイツの再 さい 軍備 ぐんび 要求 ようきゅう は断固 だんこ 拒否 きょひ し、イギリスは軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう を行 おこな うべきであると主張 しゅちょう した。また次 つぎ の戦争 せんそう では海軍 かいぐん ではなく空軍 くうぐん が決定的 けっていてき 役割 やくわり を果 は たすと見 み ていたチャーチルは、とりわけドイツ空軍 くうぐん の増強 ぞうきょう に警鐘 けいしょう を鳴 な らした。
1936年 ねん 3月 がつ にヒトラーはヴェルサイユ条約 じょうやく で非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい と定 さだ められていたラインラント にドイツ軍 ぐん を進駐 しんちゅう させた。フランス政府 せいふ は対 たい 独 どく 開戦 かいせん すべきかどうか判断 はんだん に迷 まよ い、イギリス政府 せいふ に伺 うかが いを立 た てたが、ボールドウィン首相 しゅしょう (マクドナルドは1935年 ねん 6月 がつ に退任 たいにん し、保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ボールドウィンが再 ふたた び首相 しゅしょう となった)は宥和 ゆうわ 政策 せいさく に基 もと づき、放置 ほうち すべしとした。イギリス国内 こくない の世論 せろん も「ドイツの領土 りょうど にドイツ軍 ぐん が入 はい っていっただけ」という宥和 ゆうわ 的 てき 空気 くうき が強 つよ かった。だがチャーチルは一人 ひとり 激怒 げきど し、「クレマンソーだったらボールドウィンごときに諮 はか ることなく、ただちに戦争 せんそう を開始 かいし しただろう」と述 の べ、フランスの人材 じんざい 不足 ふそく を嘆 なげ いた。
一方 いっぽう でチャーチルはヒトラー以外 いがい のファシズム指導 しどう 者 しゃ に好意 こうい 的 てき であり、1935年 ねん にムッソリーニのエチオピア侵攻 しんこう について帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ の立場 たちば から「エチオピア人 じん はインド人 じん と同類 どうるい であり、支配 しはい されるべき原始 げんし 的 てき 人種 じんしゅ 」として熱烈 ねつれつ に支持 しじ した。1936年 ねん のスペインのフランコ将軍 しょうぐん による左派 さは 勢力 せいりょく との戦 たたか い(スペイン内戦 ないせん )も反共 はんきょう 主義 しゅぎ 者 しゃ としての立場 たちば から共感 きょうかん を持 も ち、労働党 ろうどうとう が反 はん ファシズムの立場 たちば から左派 さは 政府 せいふ を支持 しじ したのに対 たい して、チャーチルはボールドウィン内 ない 閣 かく の不干渉 ふかんしょう 方針 ほうしん を支持 しじ した。なおチャーチルはヒトラー率 ひき いるナチスを攻撃 こうげき していたとは言 い え「ナチス政体 せいたい を嫌 きら う人 ひと でも、ヒトラーの愛国 あいこく 的 てき 偉業 いぎょう には嘆賞 たんしょう を惜 お しまないであろう」「我 わ が国 くに にもそうした強 つよ い指導 しどう 者 しゃ が現 あらわ れて、我々 われわれ を列強 れっきょう の地位 ちい に連 つ れ戻 もど してほしいものだ」と述 の べたことがある。この言動 げんどう から考 かんが えて、ナチスドイツの存在 そんざい がイギリスに脅威 きょうい を及 およ ぼしているのでチャーチルは反 はん 独 どく 的 てき 態度 たいど を取 と っているのであり、ナチスドイツがイギリスにとって脅威 きょうい でないのなら、チャーチルは反 はん ナチズムの立場 たちば を取 と っていなかったのではとする見方 みかた もある。
他 た 党 とう の動向 どうこう について、野党 やとう 労働党 ろうどうとう は反 はん ファシズムを掲 かか げていた。しかし労働党 ろうどうとう は、ファシズムに対抗 たいこう するための自国 じこく の軍備 ぐんび 拡張 かくちょう にも反対 はんたい していた。1931年 ねん に労働党 ろうどうとう 党首 とうしゅ に就任 しゅうにん したジョージ・ランズベリー は平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ で、常備 じょうび 軍 ぐん の存在 そんざい が戦争 せんそう を誘発 ゆうはつ すると考 かんが え、イギリス軍 ぐん を解体 かいたい したいと発言 はつげん したこともあったほか、無抵抗 むていこう の非戦論 ひせんろん も主張 しゅちょう していた。これに対 たい し労働党 ろうどうとう 右派 うは のアーネスト・ベヴィン は「無抵抗 むていこう 主義 しゅぎ がかえって侵略 しんりゃく を招 まね く」として、党首 とうしゅ ランズベリーを激 はげ しく攻撃 こうげき し、彼 かれ を党首 とうしゅ 辞任 じにん に追 お い込 こ んだ。新 しん 党首 とうしゅ のクレメント・アトリー は反 はん ファシズムのための軍拡 ぐんかく 容認 ようにん に舵 かじ を切 き った。
エドワード8世 せい の退位 たいい [ 編集 へんしゅう ]
退位 たいい 後 ご にヒトラーと会談 かいだん するエドワード8世 せい とウォリス・シンプソン (1937年 ねん )
1936年 ねん 1月 がつ に国王 こくおう ジョージ5世 せい が崩御 ほうぎょ し、皇太子 こうたいし エドワードがエドワード8世 せい として即位 そくい した。エドワード8世 せい は即位 そくい 時 じ すでに40過 す ぎだったが、妃 ひ がいなかった。皇太子 こうたいし 時代 じだい からアーネスト・シンプソンの夫人 ふじん のアメリカ人 じん 女性 じょせい ウォリス・シンプソン と付 つ き合 あ っていた。1936年 ねん 10月 がつ 27日 にち にシンプソン夫妻 ふさい の離婚 りこん が法的 ほうてき に決 き まると、エドワード8世 せい は結婚 けっこん の意思 いし をボールドウィン首相 しゅしょう に伝 つた えた。だが伝統 でんとう を重 おも んじるボールドウィン以下 いか 保守党 ほしゅとう の政治 せいじ 家 か たちには、二 に 度 ど も離婚 りこん 歴 れき があり、さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップ 駐 ちゅう 英 えい ドイツ大使 たいし との交際 こうさい 歴 れき もあるアメリカ人 じん 女性 じょせい との結婚 けっこん には反対 はんたい の声 こえ が根強 ねづよ かった。
またエドワード8世 せい は外交 がいこう への介入 かいにゅう が目立 めだ つ王 おう であり、ラインラント問題 もんだい の際 さい にも、親 しん 独 どく 派 は としてドイツの邪魔 じゃま をしないようイギリス政府 せいふ をけん制 せい してきた。ボールドウィン首相 しゅしょう としては自己 じこ 主張 しゅちょう の強 つよ い王 おう より、気 き の弱 よわ い王 おう 弟 おとうと ヨーク公 こう アルバート の方 ほう がイギリスの王位 おうい に向 む いていると考 かんが えるようになり、エドワード8世 せい に結婚 けっこん するなら退位 たいい するよう迫 せま った。チャーチルは、王室 おうしつ への忠誠 ちゅうせい 心 しん 、またボールドウィンへの敵意 てきい もあってエドワード8世 せい の擁護 ようご に回 まわ った。
エドワード8世 せい も11月16日 にち にボールドウィン首相 しゅしょう を引見 いんけん した際 さい には退位 たいい の意思 いし を伝 つた えていたが、11月25日 にち になって保守党 ほしゅとう 議員 ぎいん の一部 いちぶ が主張 しゅちょう していた貴賎 きせん 相 しょう 婚 こん (シンプソン夫人 ふじん を正式 せいしき な王妃 おうひ としてではなく、コーンウォール公 こう 夫人 ふじん としてエドワード8世 せい に嫁 とつ がせる)を可能 かのう とする法 ほう 整備 せいび を要求 ようきゅう するようになった。これを聞 き いたボールドウィンは自分 じぶん を辞職 じしょく させてチャーチルを首相 しゅしょう にする陰謀 いんぼう と確信 かくしん し、「退位 たいい されないつもりなら辞職 じしょく させていただきます。その場合 ばあい 『国王 こくおう 対 たい 政府 せいふ 』の戦 たたか いがはじまり、イギリスは未 み 曽 そ 有 ゆう の危機 きき に陥 おちい るでしょう」と奏上 そうじょう した。
これに対 たい してチャーチルは「王 おう が臣下 しんか の助言 じょげん を拒否 きょひ したら、退陣 たいじん すべきは臣下 しんか であって王 おう ではない。臣下 しんか が王 おう に圧力 あつりょく をかける権利 けんり などない」と君主 くんしゅ 主義 しゅぎ の立場 たちば からボールドウィン批判 ひはん を展開 てんかい した。チャーチルは自分 じぶん を支持 しじ する議員 ぎいん たちをかき集 あつ めたが、40人 にん 程度 ていど しか糾合 きゅうごう できなかった。
12月2日 にち にボールドウィン首相 しゅしょう はエドワード8世 せい に最後 さいご 通牒 つうちょう を付 つ きつけた。世論 せろん も自治領 じちりょう 政府 せいふ もボールドウィンを支持 しじ しているとのことだった。それでもエドワード8世 せい はチャーチルと相談 そうだん してから決断 けつだん したいと即断 そくだん は避 さ けた。12月4日 にち にエドワード8世 せい の引見 いんけん を受 う けたチャーチルは、退位 たいい を思 おも いとどまるよう説得 せっとく にあたったが、もうエドワード8世 せい にはチャーチルとともに王 おう 党派 とうは を率 ひき いて政府 せいふ と戦 たたか う意思 いし はなくなっていた。結局 けっきょく エドワード8世 せい はこの二 に 日 にち 後 ご の12月6日 にち に弟 おとうと ヨーク公 こう に譲位 じょうい することを国民 こくみん に発表 はっぴょう し、12月9日 にち には正式 せいしき に退位 たいい 文書 ぶんしょ に署名 しょめい した。
チャーチルの立場 たちば はなくなり、12月7日 にち のチャーチルの庶民 しょみん 院 いん での演説 えんぜつ は批判 ひはん の野次 やじ で轟々 ごうごう となった。激怒 げきど したチャーチルは、ボールドウィン首相 しゅしょう に向 む かって「貴方 あなた は陛下 へいか を叩 はた きのめさなければ気 き が済 す まないのですか」と叫 さけ んだ。
対 たい 独 どく 宥和 ゆうわ 政策 せいさく への反対 はんたい [ 編集 へんしゅう ]
1938年 ねん 9月 がつ のミュンヘン会談 かいだん 。左 ひだり から英 えい 首相 しゅしょう チェンバレン、仏 ふつ 首相 しゅしょう ダラディエ 、独 どく 総統 そうとう ヒトラー、伊 い 首相 しゅしょう ムッソリーニ、伊 い 外相 がいしょう チアーノ 。
1937年 ねん 5月 がつ にボールドウィン首相 しゅしょう は政界 せいかい 引退 いんたい し、代 か わってネヴィル・チェンバレン が保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ・首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した。チェンバレンもボールドウィンと同様 どうよう 「閣議 かくぎ の和 わ を乱 みだ す危険 きけん 分子 ぶんし 」チャーチルを入閣 にゅうかく させる意思 いし はなかった。
1937年 ねん 中 ちゅう 、チャーチルは駐 ちゅう 英 えい ドイツ大使 たいし ヨアヒム・フォン・リッベントロップ と会見 かいけん し、東 ひがし ヨーロッパに対 たい する領有 りょうゆう 権 けん 主張 しゅちょう を聞 き いて、ドイツの領土 りょうど 的 てき 野心 やしん が強 つよ まっているとの確信 かくしん を強 つよ めた。実際 じっさい この頃 ころ からヒトラーはかつてドイツ帝国 ていこく 、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく が領有 りょうゆう していた領土 りょうど のうちドイツ系 けい 住民 じゅうみん が多数 たすう 派 は の地域 ちいき の割譲 かつじょう を要求 ようきゅう するようになっていた。1938年 ねん 3月 がつ にはドイツ民族 みんぞく 国家 こっか のオーストリア がドイツに併合 へいごう された。チェンバレンは許容 きょよう 範囲 はんい 内 ない と判断 はんだん し無視 むし したが、チャーチルはヒトラーのオーストリア併合 へいごう 計画 けいかく を批判 ひはん する演説 えんぜつ を行 おこな った。
つづいてヒトラーは旧 きゅう オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 領 りょう ズデーテン地方 ちほう (当時 とうじ はチェコスロバキア 領 りょう )のドイツへの割譲 かつじょう を要求 ようきゅう した。チャーチルは、反 はん ファシズムを掲 かか げていた野党 やとう 労働党 ろうどうとう の党首 とうしゅ クレメント・アトリー と電話 でんわ で会談 かいだん し、アトリーは「あなた(チャーチル)が政府 せいふ に造反 ぞうはん するのであれば、あなたを支持 しじ する」と述 の べた。首相 しゅしょう チェンバレンは1938年 ねん 9月 がつ 15日 にち にドイツ・バイエルン州 しゅう ・ベルヒテスガーデン のヒトラーの別荘 べっそう を訪問 ほうもん し、ヒトラーを直 じか に説得 せっとく しようとしたが、ヒトラーはズデーテンのドイツ人 じん がいかにチェコスロバキア政府 せいふ によって酷 ひど い弾圧 だんあつ を受 う けているかをとうとうと語 かた り、逆 ぎゃく にチェンバレンを口説 くど き落 お とした。結局 けっきょく チェンバレンはフランスを説 と き伏 ふ せて、9月29日 にち に英 えい 仏 ふつ 独 どく 伊 い の四国 しこく 首脳 しゅのう によるミュンヘン会談 かいだん を行 おこな い、正式 せいしき にズデーテンのドイツ領有 りょうゆう を認 みと めた。イギリス世論 せろん は平和 へいわ が守 まも られたとして歓喜 かんき に包 つつ まれており、チャーチルやアトリーら宥和 ゆうわ 政策 せいさく 批判 ひはん 論 ろん 者 しゃ が、チェンバレン内 ない 閣 かく の倒閣 とうかく を企図 きと できるような雰囲気 ふんいき ではなかった。チャーチルは「我々 われわれ は敗北 はいぼく した」、「これが大 だい 英 えい 帝国 ていこく の終焉 しゅうえん に繋 つな がらなければよいが」と語 かた ったという。チャーチルとチャーチル派 は の議員 ぎいん 30名 めい ほどはミュンヘン協定 きょうてい に抗議 こうぎ すべくその批准 ひじゅん 決議 けつぎ に欠席 けっせき した。アトリーは、ズデーテン割譲 かつじょう 要求 ようきゅう の容認 ようにん について「これはイギリスとフランス が被 こうむ った最悪 さいあく の外交 がいこう 的 てき 敗北 はいぼく である」「民主 みんしゅ 的 てき なチェコスロバキア国民 こくみん は裏切 うらぎ られ、無慈悲 むじひ な専制 せんせい 支配 しはい 者 しゃ に手渡 てわた された」と庶民 しょみん 院 いん で述 の べた。
しかしミュンヘン協定 きょうてい もむなしく、1939年 ねん 3月 がつ にはチェコスロバキアの内紛 ないふん でチェコとスロバキアが分離 ぶんり したのを利用 りよう してドイツはチェコを保護 ほご 領 りょう とした(チェコ併合 へいごう )。これにより政界 せいかい も世論 せろん も宥和 ゆうわ 政策 せいさく は失敗 しっぱい だったとの認識 にんしき が強 つよ まった。ここに至 いた って労働党 ろうどうとう は英 えい 仏 ふつ ソ同盟 どうめい を主張 しゅちょう 、反共 はんきょう 主義 しゅぎ 者 しゃ のチャーチルも勢力 せいりょく 均衡 きんこう 論 ろん から賛成 さんせい した。
だがチェンバレン首相 しゅしょう はソ連 それん との同盟 どうめい には否定 ひてい 的 てき だった。彼 かれ はソ連 それん をイデオロギー的 てき に嫌 きら っていたし、ソ連 それん は英 えい 仏 ふつ とドイツを潰 つぶ し合 あ わせようとしているという疑念 ぎねん を強 つよ く持 も っていた。それにソ連 それん 共産党 きょうさんとう の軍隊 ぐんたい である赤軍 せきぐん はスターリン の大 だい 粛清 しゅくせい によってトゥハチェフスキー 元帥 げんすい をはじめとする高級 こうきゅう 将校 しょうこう のほとんどが抹殺 まっさつ されていたため、同盟 どうめい を結 むす んだところでまともな戦力 せんりょく として勘定 かんじょう できないと考 かんが えられた。
一方 いっぽう スターリンも独 どく ソを反目 はんもく させようという英 えい 仏 ふつ の陰謀 いんぼう を警戒 けいかい しており、ドイツと協定 きょうてい を結 むす んでおく必要 ひつよう 性 せい を感 かん じていた。ヒトラーもビスマルク 以来 いらい のドイツの二 に 正面 しょうめん 作戦 さくせん 回避 かいひ 戦略 せんりゃく であるロシアとの接近 せっきん を考 かんが えていた。こうして利害 りがい が一致 いっち したスターリンとヒトラーは、1939年 ねん 8月 がつ 23日 にち に独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ した。この条約 じょうやく の秘密 ひみつ 協定 きょうてい において東 ひがし ヨーロッパを独 どく ソ両国 りょうこく で分割 ぶんかつ 支配 しはい することが取 と り決 き められた。イデオロギー上 じょう 相 あい いれないはずの両国 りょうこく の握手 あくしゅ に世界 せかい は驚 おどろ いたが、チャーチルはスターリン支配 しはい 下 か のソ連 それん はレーニン時代 じだい に比 くら べて、共産 きょうさん 主義 しゅぎ がお題目 だいもく 化 か しており、他 た の列強 れっきょう と大差 たいさ がなくなってきていると考 かんが えていたため、さほど驚 おどろ かなかったという。それよりみすみすソ連 それん をドイツにくれてやったチェンバレンの外交 がいこう センスの無 な さに批判 ひはん 的 てき だった。
チェンバレン内 ない 閣 かく 海軍 かいぐん 大臣 だいじん [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 開戦 かいせん と海 うみ 相 しょう 就任 しゅうにん [ 編集 へんしゅう ]
英 えい 仏 ふつ とソ連 それん の挟撃 きょうげき の危機 きき を回避 かいひ したドイツ軍 ぐん は1939年 ねん 9月 がつ 1日 にち にポーランド へ侵攻 しんこう を開始 かいし した。閣僚 かくりょう からも対 たい 独 どく 開戦 かいせん を要求 ようきゅう されたチェンバレンは、9月2日 にち にドイツに宣戦 せんせん 布告 ふこく した。イギリスに引 ひ きずられてフランスも対 たい 独 どく 参戦 さんせん し、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が開戦 かいせん した。
開戦 かいせん した以上 いじょう 、チェンバレンとしても対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 派 は の代表 だいひょう 格 かく チャーチルを登用 とうよう しないわけにはいかず、チャーチルを海軍 かいぐん 大臣 だいじん に任 にん じた。チャーチルは24年 ねん ぶりに海軍 かいぐん 省 しょう 大臣 だいじん 執務 しつむ 室 しつ に復帰 ふっき した。全 ぜん 艦隊 かんたい に「ウィンストン帰 かえ る」と書 か いた電報 でんぽう を送 おく っている。チャーチルは長 なが らく政権 せいけん から離 はな れていたとはいえ、コネを使 つか って政府 せいふ の軍事 ぐんじ 情報 じょうほう を収集 しゅうしゅう するのを怠 おこた らなかったし、1935年 ねん からは帝国 ていこく 防衛 ぼうえい 委員 いいん 会 かい 付属 ふぞく の防空 ぼうくう 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい に所属 しょぞく していたので航空機 こうくうき の最新 さいしん 知識 ちしき もそれなりに持 も っており、役職 やくしょく をこなすうえで難 なん はなかった。
チェンバレン首相 しゅしょう は開戦 かいせん 後 ご も早期 そうき の平和 へいわ 実現 じつげん を願 ねが っており、今度 こんど の戦争 せんそう は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のような徹底 てってい 抗戦 こうせん ではなく、経済 けいざい 圧力 あつりょく を主眼 しゅがん にしようと考 かんが えていた。ドイツをやせ細 ほそ らせて、領土 りょうど 拡大 かくだい が「割 わり に合 あ わない」ことをヒトラーに思 おも い知 し らせ次第 しだい 、早期 そうき 講和 こうわ に持 も ち込 こ む考 かんが えである。だがチャーチルは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の時 とき と同様 どうよう イギリスかドイツ、どちらかが倒 たお れるまで徹底的 てっていてき に戦 たたか うつもりだった。これについて閣僚 かくりょう の一人 ひとり サミュエル・ホア (英語 えいご 版 ばん ) は「奴 やつ は100年 ねん でも戦 たたか うつもりでいる」とチャーチルを批判 ひはん している。
海戦 かいせん の状況 じょうきょう は一進一退 いっしんいったい だった。開戦 かいせん 間 あいだ もない1939年 ねん 10月 がつ 13日 にち から14日 にち にかけてドイツ海軍 かいぐん の潜水 せんすい 艦 かん Uボート によって戦艦 せんかん ロイヤル・オーク が沈 しず められた。しかし12月には逆 ぎゃく にイギリス戦艦 せんかん がドイツ海軍 かいぐん の装甲 そうこう 艦 かん アドミラル・グラーフ・シュペー を自沈 じちん に追 お い込 こ んだ。
北欧 ほくおう での戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
北欧 ほくおう 戦 せん でドイツ軍 ぐん の捕虜 ほりょ になったイギリス将兵 しょうへい
一方 いっぽう 陸戦 りくせん の方 ほう では、ポーランドが開戦 かいせん からわずか4週間 しゅうかん にしてドイツ軍 ぐん とソ連 それん 赤軍 せきぐん によって蹂躙 じゅうりん され、独 どく ソ分割 ぶんかつ 占領 せんりょう をうけていた。しかし英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん とドイツ軍 ぐん の間 あいだ に本格 ほんかく 的 てき な戦闘 せんとう は発生 はっせい していなかった(まやかし戦争 せんそう )。沈黙 ちんもく を破 やぶ ったのはソ連 それん だった。1939年 ねん 11月から赤軍 せきぐん がフィンランド侵攻 しんこう を開始 かいし した。西欧 せいおう を主戦 しゅせん 場 じょう にするのを嫌 いや がっていた英 えい 仏 ふつ 首脳 しゅのう は、フィンランドに遠征 えんせい 軍 ぐん を送 おく り、ここを独 どく ソとの主戦 しゅせん 場 じょう にすることを考 かんが えた。チャーチルもそれに賛成 さんせい しつつ、フィンランド遠征 えんせい の途中 とちゅう にノルウェー 北端 ほくたん のナルヴィク 港 みなと を占領 せんりょう し、またドイツの鉄 てつ 供給 きょうきゅう 地 ち であるスウェーデンの鉄 てつ 鉱山 こうざん を破壊 はかい するという計画 けいかく を立案 りつあん した。しかし結局 けっきょく フィンランドがソ連 それん と講和 こうわ して一時 いちじ 休戦 きゅうせん したため、この作戦 さくせん は流産 りゅうざん した。チャーチルは冬 ふゆ 戦争 せんそう が起 お こる前 まえ からノルウェーの港 みなと の占領 せんりょう を目論 もくろ んでおり、この計画 けいかく はヒトラーにも察知 さっち されていた。ドイツ軍 ぐん はイギリスの先手 せんて を打 う つ形 かたち で1940年 ねん 4月 がつ 9日 にち から北欧 ほくおう 侵攻 しんこう を開始 かいし した。デンマーク を一 いち 日 にち で陥落 かんらく させたドイツ軍 ぐん は、ノルウェーの港 みなと に次々 つぎつぎ と上陸 じょうりく してきた。チャーチルも対抗 たいこう して英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん をノルウェーに上陸 じょうりく させたものの、チャーチルの作戦 さくせん は全 すべ て裏目 うらめ に出 で て、精強 せいきょう なドイツ軍 ぐん によって散々 さんざん に粉砕 ふんさい されてしまった。チャーチルは「我々 われわれ の最 もっと も優 すぐ れた部隊 ぶたい でさえ、活力 かつりょく と冒険 ぼうけん 心 しん に溢 あふ れ、優秀 ゆうしゅう な訓練 くんれん を受 う けたヒトラーの若 わか い兵士 へいし たちにとっては物 も の数 のかず ではなかった」と回顧 かいこ している。
チェンバレンの首相 しゅしょう 退任 たいにん をめぐって [ 編集 へんしゅう ]
ガリポリの戦 たたか い以来 いらい の惨敗 ざんぱい にチャーチルも海 うみ 相 しょう 失脚 しっきゃく を覚悟 かくご したが、5月7日 にち から8日 にち にかけて庶民 しょみん 院 いん で行 おこな われたノルウェー作戦 さくせん についての討議 とうぎ では、その批判 ひはん はチャーチルではなく、首相 しゅしょう チェンバレンに向 む かった。チャーチルは「ノルウェー戦 せん の敗北 はいぼく は自分 じぶん の責任 せきにん だ」と主張 しゅちょう してチェンバレンを擁護 ようご しようとしたが、自由党 じゆうとう 党首 とうしゅ ロイド・ジョージは「防空壕 ぼうくうごう になるのはやめろ」とチャーチルを止 と めた。与党 よとう 議員 ぎいん からも続々 ぞくぞく と造反 ぞうはん 者 しゃ が出 で る中 なか 、チェンバレンは、労働党 ろうどうとう との大 だい 連立 れんりつ による挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく で政権 せいけん 延命 えんめい を模索 もさく するようになった。だが労働党 ろうどうとう の議員 ぎいん たちはチェンバレンよりチャーチルを首相 しゅしょう とする大 だい 連立 れんりつ を希望 きぼう する者 もの が多 おお かった。彼 かれ らはかつてチャーチルが行 おこな った労働 ろうどう 運動 うんどう 弾圧 だんあつ の恨 うら みを忘 わす れていなかったが、反 はん ファシズムの観点 かんてん からヒトラーとの戦 たたか いを徹底的 てっていてき に遂行 すいこう する者 もの を希望 きぼう していたのである。チェンバレンは、野党 やとう 労働党 ろうどうとう 党首 とうしゅ のアトリー に協力 きょうりょく を要請 ようせい したが、反 はん ファシズムを掲 かか げていたアトリー はこれを拒絶 きょぜつ し、チェンバレンは退陣 たいじん に追 お い込 こ まれた。
次 つぎ の首相 しゅしょう について、世論 せろん はチャーチルの首相 しゅしょう 就任 しゅうにん を支持 しじ する者 もの が多 おお かった。チャーチルはクリミア戦争 せんそう 時 どき のパーマストン子爵 ししゃく 、あるいは一 いち 次 じ 大戦 たいせん 時 じ のロイド・ジョージのような立 た ち位置 いち にあり、首相 しゅしょう にふさわしい人物 じんぶつ であった。だが、もう一人 ひとり 、首相 しゅしょう 候補 こうほ として各 かく 方面 ほうめん からの反発 はんぱつ が比較的 ひかくてき 少 すく ない外相 がいしょう ハリファックス子爵 ししゃく (インド総督 そうとく だったアーウィン卿 きょう )もいた。5月9日 にち にチェンバレンはチャーチルとハリファックス子爵 ししゃく の両方 りょうほう を召集 しょうしゅう した。チェンバレンはハリファックス子爵 ししゃく を首相 しゅしょう にしたがっており、チャーチルに「ハリファックス卿 きょう の内閣 ないかく で働 はたら く意思 いし はあるか」と聞 き いたが、チャーチルは沈黙 ちんもく していた。そこへハリファックス子爵 ししゃく が「貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん の私 わたし が首相 しゅしょう になるのは望 のぞ ましくないでしょう」と述 の べたことでチャーチルの首相 しゅしょう 就任 しゅうにん が決 き まった。
首相 しゅしょう ・保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ として[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 1次 じ チャーチル内閣 ないかく [ 編集 へんしゅう ]
1940年 ねん 、チャーチルと第 だい 一 いち 次 じ チャーチル内閣 ないかく の閣僚 かくりょう たち
1940年 ねん 5月 がつ 10日 にち 午後 ごご 6時 じ にバッキンガム宮殿 きゅうでん で国王 こくおう ジョージ6世 せい より組閣 そかく の大命 たいめい を受 う けたチャーチルは、第 だい 1次 じ チャーチル内閣 ないかく を発足 ほっそく させた。労働党 ろうどうとう も参加 さんか を了承 りょうしょう した挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく であった戦時 せんじ 内閣 ないかく は5人 にん で構成 こうせい したが、2人 ふたり は労働党 ろうどうとう の議員 ぎいん であり、そのうちの1人 ひとり が後 こう の首相 しゅしょう アトリー だった。
5月13日 にち に首相 しゅしょう として庶民 しょみん 院 いん へ入 はい り、「我々 われわれ の目的 もくてき が何 なに かと言 い えば、一言 ひとこと で答 こた えられる。勝利 しょうり だ。どれだけ犠牲 ぎせい を出 だ そうとも、どんな苦労 くろう があろうと、そこに至 いた る道 みち がいかに長 なが く困難 こんなん であろうとも勝利 しょうり のみである」と演説 えんぜつ し、保守党 ほしゅとう はチャーチルを歓迎 かんげい しない者 もの が多 おお かったが、労働党 ろうどうとう はチャーチルに拍手 はくしゅ を送 おく った。首相 しゅしょう 就任 しゅうにん 時 じ 、チャーチルは65歳 さい 、対 たい するヒトラーは51歳 さい だった。
言論 げんろん 弾圧 だんあつ の強化 きょうか [ 編集 へんしゅう ]
チャーチルは就任 しゅうにん 早々 そうそう 「内務 ないむ 大臣 だいじん は、外国 がいこく に従属 じゅうぞく している、または指導 しどう 者 しゃ が敵国 てきこく 政府 せいふ 指導 しどう 者 しゃ と関係 かんけい を持 も っている、あるいは敵国 てきこく 政府 せいふ のシステムに共感 きょうかん をもっていると認 みと められる組織 そしき のメンバーを誰 だれ であろうとも裁判 さいばん なしで無 む 期限 きげん に投獄 とうごく できるものとする」という防衛 ぼうえい 規則 きそく 18B(英語 えいご 版 ばん ) の修正 しゅうせい 規則 きそく 18(1a)を制定 せいてい してイギリスを言論 げんろん 弾圧 だんあつ 国家 こっか に変貌 へんぼう させ、ファシスト、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 、敵性 てきせい 外国 がいこく 人 じん を次々 つぎつぎ と逮捕 たいほ した。イギリスファシスト連合 れんごう 指導 しどう 者 しゃ サー・オズワルド・モズレー准 じゅん 男爵 だんしゃく が「マグナカルタ 以来 いらい 保障 ほしょう された人権 じんけん を侵 おか している」と同 どう 規則 きそく を批判 ひはん したが、チャーチルは取 と り合 あ わず、これを逮捕 たいほ させた。他 ほか にもアーチボルト・ラムゼイ(反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 者 もの の保守党 ほしゅとう 庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん )やタイラー・ケント(モンロー主義 しゅぎ 者 もの の駐 ちゅう 英 えい アメリカ大使館 たいしかん 員 いん )らを逮捕 たいほ した。親族 しんぞく といえども容赦 ようしゃ せず、ミットフォード姉妹 しまい の三 さん 女 じょ でモズレーの妻 つま であるダイアナ も逮捕 たいほ させ、夫 おっと と同 おな じ牢獄 ろうごく に送 おく った。
1940年 ねん 6月 がつ 、パリで戦勝 せんしょう パレードを行 おこな うドイツ軍 ぐん 騎兵 きへい
チャーチルが首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した5月 がつ 10日 とおか はちょうど「まやかし戦争 せんそう 」が終 お わった日 ひ だった。同日 どうじつ 早朝 そうちょう 、フランスを陥落 かんらく させるべくドイツ軍 ぐん がベルギー とオランダ へ侵攻 しんこう を開始 かいし し、「西方 せいほう 電撃 でんげき 戦 せん 」がはじまった。英 えい 陸軍 りくぐん は1939年 ねん 9月 がつ 以来 いらい 、海外 かいがい 派遣 はけん 軍 ぐん 22万 まん 5000人 にん をフランスに上陸 じょうりく させ、フランス・ベルギー北部 ほくぶ に展開 てんかい させていたが、ヒトラーはこの軍 ぐん の包囲 ほうい を狙 ねら ってエーリヒ・フォン・マンシュタイン 中将 ちゅうじょう 立案 りつあん の作戦 さくせん に基 もと づく攻勢 こうせい をかけさせた。ハインツ・グデーリアン 装甲 そうこう 大将 たいしょう が率 ひき いるドイツ軍 ぐん 装甲 そうこう 部隊 ぶたい はフランス軍 ぐん の盲点 もうてん になっていたアルデンヌ を通過 つうか して、ディナン とセダン からマース川 がわ 渡河 とか に成功 せいこう し英仏海峡 えいふつかいきょう めがけて進軍 しんぐん した。王立 おうりつ 空軍 くうぐん は出撃 しゅつげき するも、半数 はんすう 近 ちか くが撃墜 げきつい された。
慧眼 けいがん なヒトラーは、今 いま は歩兵 ほへい 攻撃 こうげき の時代 じだい ではなく、戦車 せんしゃ や車両 しゃりょう が最前線 さいぜんせん を突 つ き進 すす んでいく電撃 でんげき 戦 せん の時代 じだい であることを見抜 みぬ いていたが、チャーチルは第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん の観念 かんねん を捨 す てきれていなかった。戦後 せんご チャーチルは「猛 もう スピードで進軍 しんぐん する重 じゅう 装甲 そうこう 部隊 ぶたい の侵略 しんりゃく が、どれほど先 さき の大戦 たいせん の大 だい 革新 かくしん であったか私 わたし は全 まった く理解 りかい できていなかった」と回顧 かいこ 録 ろく の中 なか で述 の べている。
5月15日 にち 朝 あさ 7時 じ 頃 ごろ にチャーチルはフランス首相 しゅしょう ポール・レノー からの電話 でんわ で「我 わ が国 くに は敗北 はいぼく しました。」と聞 き いた。寝 ね ぼけていたチャーチルには意味 いみ がよく分 わ からず、黙 だま っていたが、レノーは「我々 われわれ は敗北 はいぼく しました」を繰 く り返 かえ した。チャーチルはレノーを落 お ち着 つ かせようとしたが、彼 かれ はパニック状態 じょうたい だった。チャーチルはとにかく明日 あした にもパリを訪問 ほうもん することを約束 やくそく した。5月16日 にち 午後 ごご にパリに到着 とうちゃく したチャーチルは、レノーの言 い ってることが大 おお げさでも何 なん でもなかったことに気付 きづ かされた。連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん モーリス・ガムラン 仏 ふつ 参謀 さんぼう 総長 そうちょう は真 ま っ蒼 あお な顔 かお で小刻 こきざ みに震 ふる えていたという。チャーチルは「フランス軍 ぐん の本隊 ほんたい と予備 よび 隊 たい はどこにいるんです」と聞 き いたが、ガムランは「そんなものはもうありません。」と答 こた え、ただちに王立 おうりつ 空軍 くうぐん 10個 こ 飛行 ひこう 中隊 ちゅうたい を増援 ぞうえん に送 おく ることを要求 ようきゅう した。チャーチルはフランス脱落 だつらく を恐 おそ れてやむなく了承 りょうしょう したが、恐 おそ らくドイツ軍 ぐん の電撃 でんげき 戦 せん を空 そら から阻止 そし することはできないだろうと見抜 みぬ いていたという。また、この増援 ぞうえん によりイギリス本土 ほんど に残 のこ る飛行 ひこう 中隊 ちゅうたい は25個 こ だけになった。これはギリギリの線 せん だった。これ以上 いじょう 出 だ せばイギリス本土 ほんど の制空権 せいくうけん がドイツ空軍 くうぐん に脅 おびや かされる可能 かのう 性 せい が高 たか かった。
一方 いっぽう 、海外 かいがい 派遣 はけん 軍 ぐん は英仏海峡 えいふつかいきょう に到達 とうたつ したドイツ軍 ぐん によって南 みなみ フランスのフランス軍 ぐん 主力 しゅりょく と切 き り離 はな されて、ダンケルク に追 お い込 こ まれた。チャーチルは彼 かれ らの全滅 ぜんめつ も覚悟 かくご したが、なぜかヒトラーはグデーリアンらドイツ軍 ぐん 装甲 そうこう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん たちに追撃 ついげき を許 ゆる さなかったため、海外 かいがい 派遣 はけん 軍 ぐん とフランス軍 ぐん 部隊 ぶたい の一部 いちぶ を加 くわ えた33万 まん 8000人 にん は5月29日 にち から5日間 にちかん にわたって行 おこな われたイギリス本土 ほんど への撤退 てったい 作戦 さくせん に成功 せいこう した(ダンケルクの撤退 てったい )。この謎 なぞ の奇跡 きせき にイギリス国内 こくない はまるで勝利 しょうり したかのように喜 よろこ びに湧 わ きあがった
ダンケルクの撤退 てったい 成功 せいこう で決定的 けっていてき 破滅 はめつ を免 まぬか れたとはいえ、撤退 てったい は勝利 しょうり ではなく、イギリスが追 お い込 こ まれている状況 じょうきょう に変 か わりはなかった。さすがのチャーチルにも弱気 よわき が覗 のぞ いてきた。5月28日 にち には親 おや ナチ派 は のロイド・ジョージに入閣 にゅうかく を要請 ようせい しているが、これはドイツに和平 わへい 交渉 こうしょう を提案 ていあん しなければならなくなった場合 ばあい に備 そな えてのことともいわれる(この入閣 にゅうかく 要請 ようせい はロイド・ジョージの方 ほう から拒否 きょひ された)。ダンケルクの撤退 てったい 成功 せいこう 後 ご の6月 がつ 4日 にち の庶民 しょみん 院 いん での演説 えんぜつ では「万 まん が一 いち イギリス本土 ほんど が占領 せんりょう されたとしても我々 われわれ は戦 たたか いをやめないであろう。海 うみ の彼方 かなた にも広 ひろ がる我 わ が帝国 ていこく は、新 しん 世界 せかい から海軍 かいぐん を使 つか って旧 きゅう 世界 せかい の救援 きゅうえん と解放 かいほう を目指 めざ す。」と語 かた り、アメリカの支援 しえん の期待 きたい と大 だい 英 えい 帝国 ていこく 植民 しょくみん 地 ち にイギリス政府 せいふ を移 うつ す可能 かのう 性 せい を示唆 しさ している。
ドイツ軍 ぐん の南 みなみ フランスへの進軍 しんぐん が開始 かいし される中 なか 、フランス政界 せいかい では和平 わへい 派 は の声 こえ がますます強 つよ まっていった。チャーチルはフランスが降伏 ごうぶく してフランス海軍 かいぐん 力 りょく がドイツに接収 せっしゅう されるのを恐 おそ れるあまり、「フランス艦隊 かんたい を全 すべ てイギリスの港 みなと に送 おく れ」だの、英 えい 仏 ふつ を「英 えい 仏 ふつ 連邦 れんぽう 」という名 な の一 ひと つの国家 こっか にしよう(=フランスの全 ぜん 船舶 せんぱく をイギリスが共同 きょうどう 所有 しょゆう )だの身勝手 みがって な要求 ようきゅう を行 おこな い、フランス人 じん から顰蹙 ひんしゅく を買 か った。イギリスの敗戦 はいせん も時間 じかん の問題 もんだい と考 かんが えられていたので「死体 したい (イギリス)と結合 けつごう するくらいならナチスの占領 せんりょう 下 か に入 はい った方 ほう がマシ」というのがフランスの政治 せいじ 家 か ・軍人 ぐんじん の主流 しゅりゅう 意見 いけん となった。
6月16日 にち にフランス首相 しゅしょう となったフィリップ・ペタン 元帥 げんすい はヒトラーに和平 わへい 交渉 こうしょう の意思 いし を伝 つた え、6月22日 にち にも独 どく 仏 ふつ 休戦 きゅうせん 協定 きょうてい の締結 ていけつ に応 おう じた。こうして、シャルル・ド・ゴール など一部 いちぶ の亡命 ぼうめい 軍人 ぐんじん を除 のぞ き、フランスはドイツとの戦 たたか いから離脱 りだつ した。
政府 せいふ の戦意 せんい 高揚 こうよう プロパガンダ・ポスター。追 お い詰 つ められながらも大 だい 英 えい 帝国 ていこく の壁 かべ を守 まも るチャーチルの図 ず
1940年 ねん 、空襲 くうしゅう 警報 けいほう でヘルメットをかぶるチャーチル
1940年 ねん 夏 なつ のイギリスは破滅 はめつ の一 いち 歩 ほ 手前 てまえ だった。西欧 せいおう 諸国 しょこく や北欧 ほくおう 諸国 しょこく はほとんどがドイツに占領 せんりょう されるか、その衛星 えいせい 国家 こっか になっていた。東欧 とうおう も独 どく ソに分割 ぶんかつ 占領 せんりょう され、またドイツは日本 にっぽん やイタリアと同盟 どうめい 関係 かんけい を結 むす んでいた。アメリカ参戦 さんせん だけがイギリスの唯一 ゆいいつ の希望 きぼう という状態 じょうたい だったが、アメリカの国民 こくみん 世論 せろん はモンロー主義 しゅぎ が根強 ねづよ く、大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト も大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ を前 まえ にしてチャーチルの誘 さそ いには簡単 かんたん には乗 の ってこなかった。イギリスは独力 どくりょく でブリテン島 とう の守 まも りを固 かた め、ドイツ軍 ぐん の攻撃 こうげき を待 ま つしかなかった。チャーチルはこの時 とき の状況 じょうきょう を後 のち に「イギリスの最後 さいご の審判 しんぱん の時 とき が刻 きざ まれたと全 ぜん 世界 せかい が思 おも いこんでも何 なん の不思議 ふしぎ があろうか。」と評 ひょう した。
フランスに勝利 しょうり したのち、ヒトラーはイギリスに和平 わへい を提唱 ていしょう したものの、チャーチルは強硬 きょうこう 路線 ろせん を曲 ま げず、拒絶 きょぜつ した。ドイツ軍 ぐん はイギリス上陸 じょうりく 作戦 さくせん 「アシカ作戦 さくせん 」の立案 りつあん を開始 かいし したが、これを成功 せいこう させるためにはイギリス本土 ほんど の制空権 せいくうけん を握 にぎ る必要 ひつよう があった。チャーチルもまず襲来 しゅうらい してくるのはドイツ空軍 くうぐん と予期 よき しており、イギリス本土 ほんど を攻撃 こうげき させておいて、敵 てき の空軍 くうぐん 力 りょく を粉砕 ふんさい するという方針 ほうしん を取 と った。ドイツ空軍 くうぐん の空襲 くうしゅう は8月 がつ 10日 とおか から開始 かいし された。ドイツ空軍 くうぐん ははじめ港 みなと や基地 きち 、飛行場 ひこうじょう など軍事 ぐんじ 施設 しせつ を中心 ちゅうしん に空襲 くうしゅう をかけてきた。イギリス軍機 ぐんき がこれを迎 むか え撃 う つべく出撃 しゅつげき し、バトル・オブ・ブリテン と呼 よ ばれるイギリス本土 ほんど 上空 じょうくう での激闘 げきとう が始 はじ まった。最初 さいしょ の二 に 週間 しゅうかん はドイツ軍機 ぐんき が次々 つぎつぎ と撃墜 げきつい されてイギリス優勢 ゆうせい であったが、8月 がつ 24日 にち を境 さかい にイギリス軍機 ぐんき の撃墜 げきつい も目立 めだ つようになり、消耗 しょうもう 戦 せん の様相 ようそう を呈 てい してきた。それでも王立 おうりつ 空軍 くうぐん は最後 さいご までドイツ空軍 くうぐん に制空権 せいくうけん を渡 わた すことはなかった。
またこの間 あいだ にチャーチルは1000機 き の爆 ばく 撃 げき 機 き をもって最初 さいしょ のベルリン空襲 くうしゅう を敢行 かんこう したが、戦果 せんか は乏 とぼ しかった。ヒトラーはこの復讐 ふくしゅう で、まだ制空権 せいくうけん を握 にぎ れていないにもかかわらず、9月7日 にち からドイツ空軍 くうぐん 爆撃 ばくげき 機 き にロンドン空襲 くうしゅう を開始 かいし させた。だが、これはドイツ側 がわ の重大 じゅうだい な判断 はんだん ミスとなった。これによってイギリス軍機 ぐんき に撃 う ち落 お とされるドイツ軍機 ぐんき の数 かず が急増 きゅうぞう したのである。チャーチルも「戦闘 せんとう 機 き 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん はドイツ空軍 くうぐん の攻撃 こうげき 目標 もくひょう がロンドンになったことに安堵 あんど していた」と書 か いている。チャーチルは爆 ばく 撃 げき を受 う けた町 まち を視察 しさつ して回 まわ り、そこで葉巻 はまき をくわえながら勝利 しょうり のVictoryを意味 いみ したVサイン をして見 み せた。これはやがて彼 かれ のトレードマークとなった。この一連 いちれん の視察 しさつ でチャーチルの国民 こくみん 的 てき 人気 にんき は大 おお いに高 たか まり、独裁 どくさい 的 てき 地位 ちい を確立 かくりつ するに至 いた った。チャーチルはなおも議会 ぎかい を重 おも んじるかのような発言 はつげん はしていたが、反対 はんたい 派 は の声 こえ はこのチャーチル人気 にんき の前 まえ に圧殺 あっさつ されるようになった。
バトル・オブ・ブリテンで失 うしな われたパイロットと航空機 こうくうき の損失 そんしつ にヒトラーも動揺 どうよう し、9月17日 にち にはアシカ作戦 さくせん の中止 ちゅうし を決定 けってい した。
1940年 ねん 11月に行 おこな われたアメリカ大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ でルーズベルトが三 さん 選 せん し、アメリカ政府 せいふ が平和 へいわ を求 もと める国民 こくみん 世論 せろん を無視 むし してモンロー主義 しゅぎ を放棄 ほうき するようになり始 はじ めており、チャーチルにとって事態 じたい の好転 こうてん の兆候 ちょうこう があった。ルーズベルトは1940年 ねん 12月 がつ 末 まつ のラジオ放送 ほうそう で「イギリスが敗 やぶ れれば、全 ぜん ヨーロッパ、全 ぜん 世界 せかい がドイツに征服 せいふく され、人類 じんるい の自由 じゆう と幸福 こうふく は失 うしな われるだろう」などと演説 えんぜつ し、公然 こうぜん とドイツを批判 ひはん 、イギリス支持 しじ の主張 しゅちょう を行 おこな った。そして1941年 ねん 3月 がつ にはモンロー主義 しゅぎ 者 しゃ の反対 はんたい を押 お し切 き って武器 ぶき 貸与 たいよ 法 ほう を制定 せいてい し、イギリスに武器 ぶき や兵器 へいき を戦後 せんご 払 ばら いで提供 ていきょう し始 はじ めた。
北 きた アフリカ戦線 せんせん [ 編集 へんしゅう ]
北 きた アフリカのドイツ軍 ぐん を指揮 しき したエルヴィン・ロンメル 。チャーチルは敵 てき であっても彼 かれ には敬意 けいい を表 あらわ していた。
1942年 ねん 8月 がつ 5日 にち 、エジプト駐留 ちゅうりゅう イギリス軍 ぐん を視察 しさつ するチャーチル
イタリアのムッソリーニは大戦 たいせん 初期 しょき には中立 ちゅうりつ を保 たも っていたが、フランス戦 せん のドイツの勝利 しょうり が確実 かくじつ となった1940年 ねん 6月 がつ になってドイツ側 がわ で参戦 さんせん した。しかしイタリア軍 ぐん は貧弱 ひんじゃく でフランスのアルプス山脈 あるぷすさんみゃく 防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい に返 かえ り討 う ちにされてしまった。続 つづ くバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍 くうぐん も一部 いちぶ 参加 さんか していたが、やはりその働 はたら きは杜撰 ずさん を極 きわ めた。だがムッソリーニは、地中海 ちちゅうかい の覇権 はけん を目指 めざ し、ヒトラーの援助 えんじょ の申 もう し出 で も拒否 きょひ して独断 どくだん でエジプト王国 おうこく (名目 めいもく 上 じょう 独立 どくりつ 国家 こっか だったが、実質 じっしつ 的 てき にはイギリスの軍事 ぐんじ 支配 しはい 下 か にあった)とギリシャに侵攻 しんこう を開始 かいし した。チャーチルは乏 とぼ しいイギリスの物資 ぶっし と戦力 せんりょく をこの地中海 ちちゅうかい の戦 たたか いに注 そそ ぎこんだ。アメリカの参戦 さんせん を促 うなが すためにイギリスの勝利 しょうり が必要 ひつよう であったが、簡単 かんたん に戦勝 せんしょう を上 あ げられそうなのは目下 もっか この戦域 せんいき だけだったからである。この目論見 もくろみ は奏功 そうこう し、1940年 ねん 12月にエジプト駐留 ちゅうりゅう イギリス軍 ぐん はイタリア軍 ぐん を返 かえ り討 う ちにし、逆 ぎゃく にイタリア植民 しょくみん 地 ち リビアへ侵攻 しんこう し、イタリア軍 ぐん をトリポリ まで追 お い詰 つ めた。イタリア軍 ぐん を北 きた アフリカから駆逐 くちく できればイギリスは地中海 ちちゅうかい を自由 じゆう に動 うご けるようになり、物資 ぶっし 確保 かくほ の面 めん で有利 ゆうり であった。またギリシャ戦線 せんせん でもイタリア軍 ぐん は敗北 はいぼく し、イギリスはここに空軍 くうぐん 基地 きち を設置 せっち してドイツの重要 じゅうよう な資源 しげん 地 ち であるルーマニア の油田 ゆでん への空襲 くうしゅう も狙 ねら えるようになった。
ヒトラーも看過 かんか できなくなり、地中海 ちちゅうかい にドイツ軍 ぐん 派遣 はけん を決定 けってい した。1940年 ねん 12月にはギリシャのイタリア軍 ぐん 救出 きゅうしゅつ のためのマリータ作戦 さくせん を発動 はつどう し、ついで1941年 ねん 1月 がつ にはゾネンブルーメ作戦 さくせん を発動 はつどう してドイツアフリカ軍団 ぐんだん がトリポリへ送 おく られるようになり、2月 がつ にはその指揮 しき 官 かん としてエルヴィン・ロンメル 中将 ちゅうじょう が派遣 はけん された。
一方 いっぽう チャーチルは中東 ちゅうとう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん アーチボルド・ウェーヴェル の訴 うった えを無視 むし して北 きた アフリカの兵力 へいりょく を強引 ごういん にギリシャに割 さ いたが、ドイツ軍 ぐん に蹴 け 散 ち らされた。
ロンメル指揮 しき 下 か の北 きた アフリカ・ドイツ軍 ぐん もこれに乗 じょう じて1941年 ねん 3月 がつ 末 まつ からイギリス軍 ぐん に対 たい する攻勢 こうせい を開始 かいし し、リビアのほとんどの地域 ちいき からイギリス軍 ぐん は駆逐 くちく された。トブルク だけはオーストラリア軍 ぐん の勇戦 ゆうせん でなんとか持 も ちこたえたが、そこも包囲 ほうい された。チャーチルは6月 がつ にもトブルク包囲 ほうい を解 と こうとイギリス中東 ちゅうとう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ウェーヴェル大将 たいしょう に命 めい じてバトルアクス作戦 さくせん を開始 かいし させたが、ドイツ軍 ぐん に蹴 け 散 ち らされた。チャーチルはウェーヴェルを解任 かいにん し、クロード・オーキンレック 大将 たいしょう を後任 こうにん とすると、11月にもクルセーダー作戦 さくせん を開始 かいし させ、ドイツ軍 ぐん を後退 こうたい させた。しかし1942年 ねん 5月 がつ からドイツ軍 ぐん の反攻 はんこう があり、6月 がつ までにリビアからイギリス軍 ぐん は駆逐 くちく された(ガザラの戦 たたか い )。チャーチルはトブルク陥落 かんらく を恐 おそ れ、守備 しゅび 軍 ぐん に死守 ししゅ 命令 めいれい を下 くだ したが、司令 しれい 官 かん が独断 どくだん で降伏 ごうぶく してしまった。
トブルク陥落 かんらく は、この数 すう か月 げつ 前 まえ のシンガポール陥落 かんらく と相 あい まって、イギリス国内 こくない に強 つよ い衝撃 しょうげき を与 あた え、戦時 せんじ 中 ちゅう のチャーチル批判 ひはん は1942年 ねん 7月 がつ に最 もっと も強 つよ まった。議会 ぎかい では内閣 ないかく 不信任 ふしんにん 案 あん が提出 ていしゅつ された。挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく のオール与党 よとう だったため、不信任 ふしんにん 案 あん 自体 じたい は大差 たいさ で否決 ひけつ されたものの、戦時 せんじ の挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく で内閣 ないかく 不信任 ふしんにん 案 あん が提出 ていしゅつ されること自体 じたい が異例 いれい であった。このようなことは一 いち 次 じ 大戦 たいせん 時 じ にも起 お きたことはなく、チャーチルはこれを「深刻 しんこく な挑戦 ちょうせん 状 じょう 」と捉 とら えたという。19世紀 せいき 以来 いらい 続 つづ いているイギリスのエジプト占領 せんりょう 体制 たいせい も揺 ゆ らぎ始 はじ めた。エジプト駐留 ちゅうりゅう イギリス軍 ぐん は書類 しょるい を焼 や き始 はじ め、パレスチナへの撤退 てったい 準備 じゅんび を開始 かいし していた。これを見 み たエジプト民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ たちの間 あいだ にはロンメルがイギリスの圧政 あっせい から解放 かいほう してくれるという期待 きたい 感 かん が広 ひろ がっていた。エジプト王 おう ファールーク1世 せい も独立 どくりつ のチャンスが来 き たと見 み て反 はん 英 えい 内 ない 閣 かく の組閣 そかく を計画 けいかく したが、エジプトの実質 じっしつ 的 てき 支配 しはい 者 しゃ であるイギリス大使 たいし ミレス・ランプソン (初代 しょだい キラーン男爵 だんしゃく )がエジプト王 おう の宮殿 きゅうでん を包囲 ほうい し、「イギリスに逆 さか らうつもりなら拉致 らち する」と無法 むほう な脅迫 きょうはく をしたことでこの計画 けいかく は水泡 すいほう に帰 かえ した。もしエジプトをドイツ軍 ぐん に突破 とっぱ された場合 ばあい 、失 うしな われるのはエジプト支配 しはい 権 けん だけではなかった。北 きた アフリカのドイツ軍 ぐん がコーカサス に進軍 しんぐん している東部 とうぶ 戦線 せんせん のドイツ軍 ぐん と合流 ごうりゅう することになり、イギリスの「インドの道 みち 」は閉 と ざされ、大 だい 英 えい 帝国 ていこく アジア支配 しはい 体制 たいせい のすべてが崩壊 ほうかい する恐 おそ れがあった。
だが、ロンメルの快 かい 進撃 しんげき はここまでだった。ドイツ軍 ぐん が勢 いきお いに乗 の って開始 かいし したエジプトへの進軍 しんぐん は7月 がつ 中 ちゅう に停滞 ていたい した。チャーチルは8月 がつ 3日 にち にもエジプト首都 しゅと カイロに入 はい り、チュニジアに上陸 じょうりく 予定 よてい の英 えい 米 べい 軍 ぐん 支援 しえん のための攻勢 こうせい に出 で ることを拒否 きょひ したオーキンレックを解任 かいにん し、第 だい 8軍 ぐん 司令 しれい 官 かん にバーナード・モントゴメリー を任 にん じて新 しん 体制 たいせい を整 ととの えた。10月から11月 がつ にかけてのエル・アラメインの戦 たたか い でモントゴメリー率 ひき いるイギリス軍 ぐん はロンメルのドイツ軍 ぐん を撃破 げきは し、さらに11月にモロッコとアルジェリアに英 えい 米 べい 軍 ぐん の上陸 じょうりく が成功 せいこう した。1943年 ねん 3月 がつ にはロンメルは戦線 せんせん を離脱 りだつ し、北 きた アフリカのドイツ軍 ぐん は5月 がつ までに降伏 ごうぶく した。
独 どく ソ戦 せん 勃発 ぼっぱつ [ 編集 へんしゅう ]
セルビア救国 きゅうこく 政府 せいふ の陰謀 いんぼう 論 ろん 系 けい のプロパガンダ・ポスター。フリーメイソン のユダヤ人 じん に操 あやつ られるスターリンとチャーチルの図 ず
北 きた アフリカ戦中 せんちゅう の1941年 ねん 6月 がつ 22日 にち にヒトラーはバルバロッサ作戦 さくせん を発動 はつどう し、東 ひがし ヨーロッパのソ連 それん 占領 せんりょう 地域 ちいき にドイツ軍 ぐん が侵攻 しんこう を開始 かいし した。これを見 み てチャーチルはその日 ひ のうちにスターリンに無条件 むじょうけん の協力 きょうりょく を約束 やくそく する電報 でんぽう を送 おく った。この時 とき チャーチルは秘書 ひしょ に「ヒトラーが地獄 じごく へ攻 せ めいれば、私 わたし は地獄 じごく の大王 だいおう を支援 しえん するのだ」と語 かた ったという。
1941年 ねん 8月 がつ にもイギリスとソ連 それん は共同 きょうどう でイラン へ侵攻 しんこう し、同国 どうこく の石油 せきゆ 資源 しげん を確保 かくほ しつつ、ソ連 それん 支援 しえん ルートを作 つく った。当面 とうめん イギリスがソ連 それん に対 たい して行 おこな える支援 しえん はこのルートを使 つか っての物資 ぶっし 支援 しえん に限 かぎ られていた。スターリンはチャーチルにフランスへ上陸 じょうりく して「第 だい 二 に 戦線 せんせん 」(西部 せいぶ 戦線 せんせん )を開 ひら くよう再三 さいさん 要求 ようきゅう し、イギリス国内 こくない でも左翼 さよく が「即刻 そっこく 、第 だい 二 に 戦線 せんせん を」と街 まち の壁 かべ のあちこちに落書 らくが きして歩 ある くようになった。だがチャーチルはこれを拒否 きょひ し続 つづ けた。一度 いちど 、駐 ちゅう 英 えい ソ連 それん 大使 たいし が「第 だい 二 に 戦線 せんせん を開 あ け」とあまりにしつこかった時 とき には、つい最近 さいきん までの独 どく ソの近 ちか しい関係 かんけい を引 ひ き合 あ いに出 だ し、「貴方 あなた がたに何 なに か要求 ようきゅう される筋合 すじあ いはない」と突 つ っぱねた。アメリカ参戦 さんせん 後 ご にはアメリカのルーズベルトが第 だい 二 に 戦線 せんせん 論 ろん に乗 の り気 き だったが、チャーチルはルーズベルトに直談判 じかだんぱん して中止 ちゅうし させ、北 きた アフリカのアルジェリア・モロッコへの上陸 じょうりく 作戦 さくせん に変更 へんこう させた。結局 けっきょく 、1944年 ねん 6月 がつ のノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん まで本格 ほんかく 的 てき な「第 だい 二 に 戦線 せんせん 」が開 ひら かれることはなかった。労働党 ろうどうとう 党首 とうしゅ のアトリーは、「第 だい 二 に 戦線 せんせん 」を直 す ぐに開 ひら くべきでないとするチャーチルの方針 ほうしん を擁護 ようご した。
大西洋 たいせいよう 憲章 けんしょう [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん 8月 がつ 、戦艦 せんかん プリンス・オブ・ウェールズ上 じょう のチャーチルとアメリカ大統領 だいとうりょう ルーズベルト
1941年 ねん 8月 がつ にはイギリス自治領 じちりょう カナダ・ニューファンドランド島 とう 沖 おき に停泊 ていはく 中 ちゅう の戦艦 せんかん プリンス・オブ・ウェールズ上 うえ でアメリカ大統領 だいとうりょう ルーズベルトと会談 かいだん した。ここで両 りょう 首脳 しゅのう は「大西洋 たいせいよう 憲章 けんしょう 」を締結 ていけつ した。これは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ にウィルソンが発表 はっぴょう した14カ条 かじょう を真似 まね たもので領土 りょうど 不拡大 ふかくだい や民族 みんぞく 自決 じけつ を盛 も り込 こ んでいた。後 のち に国際 こくさい 連合 れんごう 憲章 けんしょう の原型 げんけい になった米 べい 英 えい の共同 きょうどう 文書 ぶんしょ として知 し られている。
だがチャーチルはこの憲章 けんしょう の適用 てきよう 範囲 はんい はドイツ支配 しはい 下 か のヨーロッパ諸国 しょこく のみであり、大 だい 英 えい 帝国 ていこく が広 ひろ がるアジアやアフリカは除外 じょがい されるべきと主張 しゅちょう した。そのことを憲章 けんしょう の民族 みんぞく 自決 じけつ に関 かん する条項 じょうこう にも盛 も り込 こ ませようとしたが、アメリカはかねてから大 だい 英 えい 帝国 ていこく の破壊 はかい を目論 もくろ んでいたため、拒否 きょひ された。ルーズベルトが「永久 えいきゅう 平和 へいわ の手段 しゅだん 」として世界 せかい 自由 じゆう 貿易 ぼうえき を提案 ていあん したのに対 たい して、チャーチルは「帝国 ていこく 内 ない 関税 かんぜい 特恵 とっけい 制度 せいど を変更 へんこう するつもりはない」と拒絶 きょぜつ した。だがルーズベルトはなおも食 く い下 さ がり、「ファシスト奴隷 どれい 制 せい と闘 たたか いながら、同時 どうじ に自分 じぶん たちの18世紀 せいき 的 てき 植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 体制 たいせい から全 ぜん 世界 せかい を解放 かいほう する気 き はないというのはいかがなものか」などとイギリス批判 ひはん をはじめた。これを聞 き いたチャーチルは激昂 げっこう のあまり卒倒 そっとう しかけた。しかしアメリカがなんと言 い おうとチャーチルはアジアとアフリカは憲章 けんしょう の適用 てきよう 外 がい という解釈 かいしゃく を取 と り続 つづ け、憲章 けんしょう 締結 ていけつ 後 ご も植民 しょくみん 地 ち の民族 みんぞく 運動 うんどう 家 か に対 たい する弾圧 だんあつ をやめなかった。また憲章 けんしょう のうち領土 りょうど 不拡大 ふかくだい という理念 りねん もやがて英 えい 米 べい ソの三 さん 国 こく が領土 りょうど 分割 ぶんかつ を約束 やくそく し合 あ うようになったことで、完全 かんぜん に無視 むし されるに至 いた った。
またこの会談 かいだん の際 さい 、ドイツの同盟 どうめい 国 こく であり、南西 なんせい 太平洋 たいへいよう 地域 ちいき のフランス植民 しょくみん 地 ち に進駐 しんちゅう した日本 にっぽん に対 たい して戦争 せんそう も辞 じ さない強硬 きょうこう な姿勢 しせい をとるべきことがチャーチルの発案 はつあん により米 べい 英 えい 両国 りょうこく で確認 かくにん された。これに基 もと づいてか、アメリカは11月に日本 にっぽん に対 たい して「中国 ちゅうごく から撤兵 てっぺい せよ。満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 以前 いぜん の状態 じょうたい に戻 もど せ」というこれまでにない強硬 きょうこう 要求 ようきゅう を突 つ き付 つ けた。日本 にっぽん を戦争 せんそう に追 お い込 こ むための挑発 ちょうはつ だったという説 せつ もある。
日本 にっぽん との開戦 かいせん とアメリカの参戦 さんせん [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん 12月7日 にち 未明 みめい の大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん によるマレー作戦 さくせん で日 にち 英 えい 間 あいだ が開戦 かいせん した。日 にち 英 えい が交戦 こうせん 状態 じょうたい となったことを知 し らせる駐 ちゅう 英 えい 日本 にっぽん 大使 たいし への通知 つうち はやけに丁重 ていちょう で、「閣 かく 下 か の忠実 ちゅうじつ なる僕 ぼく 、ウィンストン・S・チャーチル」という署名 しょめい で結 むす んでいた。チャーチルによれば「これから殺 ころ す相手 あいて にはできるだけ丁重 ていちょう にした方 ほう がいい」のだという。チャーチルはその翌日 よくじつ に日本 にっぽん に宣戦 せんせん 布告 ふこく した。
マレー作戦 さくせん の直後 ちょくご に行 おこな われた真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき で日米 にちべい も開戦 かいせん した。日米 にちべい 開戦 かいせん の報告 ほうこく を聞 き いたチャーチルは大 だい 喜 よろこ びし、早速 さっそく ルーズベルトに電話 でんわ した。ルーズベルトは「その通 とお りだ。日本 にっぽん は真珠湾 しんじゅわん を攻撃 こうげき した。これで我々 われわれ は同 おな じ船 せん に乗 の ったわけだ」とチャーチルに語 かた ったという。チャーチルの回顧 かいこ 録 ろく は「その日 ひ の夜 よる 、興奮 こうふん と感動 かんどう で疲 つか れ果 は てていたが、私 わたし は救 すく われた人間 にんげん 、感謝 かんしゃ の気持 きも ちに溢 あふ れた人間 にんげん として眠 ねむ りに付 つ くことができた」と書 か いている。
さらに日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく のドイツとイタリア も11日 にち にアメリカに宣戦 せんせん 布告 ふこく した。これもチャーチルにとっては願 ねが ってもないことだった。回顧 かいこ 録 ろく の中 なか でチャーチルはこの時 とき に勝利 しょうり を確信 かくしん したと主張 しゅちょう している。「ついにアメリカがその死 し に至 いた るまで戦争 せんそう に突入 とつにゅう したのだ。これで我々 われわれ は戦争 せんそう に勝 か った。イギリスと大 だい 英 えい 帝国 ていこく は滅亡 めつぼう を免 まぬか れたのだ。ヒトラーの運命 うんめい は決 き まった。ムッソリーニの運命 うんめい も決 き まった。日本人 にっぽんじん にいたっては粉微塵 こなみじん に粉砕 ふんさい されるだろう」と書 か いている。1941年 ねん 末 まつ に訪米 ほうべい したチャーチルは、アメリカ議会 ぎかい で「一体 いったい 日本人 にっぽんじん は我々 われわれ をどういう国民 こくみん だと思 おも っているのか!我々 われわれ がそんなに簡単 かんたん に屈 くっ する国民 こくみん だと思 おも っているのか!」と演説 えんぜつ をした。
なお数 すう 年 ねん 前 まえ から日本 にっぽん と交戦 こうせん 状態 じょうたい にある中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう 蔣介石 せき の政府 せいふ とも連携 れんけい 関係 かんけい に入 はい ったが、チャーチルは蔣介石 せき に「ドイツとの戦線 せんせん が最 さい 優先 ゆうせん であり、日本 にっぽん との戦線 せんせん は二義的 にぎてき 意味 いみ しかない」と通達 つうたつ している。蔣介石 せき 政府 せいふ はすでにアメリカから大量 たいりょう の支援 しえん を受 う けていたにもかかわらず、その多 おお くを自 みずか らの私財 しざい として貯 た め込 こ むような腐敗 ふはい 政権 せいけん であり、このような政府 せいふ を支援 しえん してもまともな戦 たたか いは期待 きたい できなかった。同盟 どうめい 国 こく というよりも「お荷物 にもつ に近 ちか い存在 そんざい 」だったことを知 し っていたためともいわれる。
マレー沖 おき 海戦 かいせん におけるプリンス・オブ・ウェールズとレパルス
マレー作戦 さくせん
北部 ほくぶ マレ まれ ー半島 はんとう で日本 にっぽん 軍 ぐん は数 すう 的 てき にはわずかに優勢 ゆうせい であるにすぎなかったが、制空権 せいくうけん 、戦車 せんしゃ 戦 せん 、歩兵 ほへい 戦術 せんじゅつ 、戦闘 せんとう 経験 けいけん において優越 ゆうえつ していた。日本 にっぽん 軍 ぐん は瞬 またた く間 ま にマレ まれ ー半島 はんとう のイギリス軍 ぐん を屈服 くっぷく させ南下 なんか を続 つづ けた。さらにイギリス領 りょう シンガポール 沖 おき ではイギリスの戦艦 せんかん プリンス・オブ・ウェールズと巡 めぐ 洋 よう 戦艦 せんかん レパルス が日本 にっぽん 軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき 機 き によって沈 しず められた。チャーチルは「あの艦 かん が」と絶句 ぜっく し、「戦争 せんそう 全体 ぜんたい で(その報告 ほうこく 以外 いがい )私 わたし に直接的 ちょくせつてき な衝撃 しょうげき を与 あた えたことはなかった」「私 わたし は、ベッドの中 なか で、身 み もだえした。もう、アジアは、日本 にっぽん のものになった」と後 のち に回顧 かいこ 録 ろく の中 なか に記 しる している。
香港 ほんこん 陥落 かんらく
イギリスが阿片 あへん 戦争 せんそう で獲得 かくとく した永久 えいきゅう 領土 りょうど である香港 ほんこん 島 とう を含 ふく む香港 ほんこん は、1941年 ねん 12月8日 にち の日本 にっぽん 軍 ぐん の侵攻 しんこう 開始 かいし よりわずか18日間 にちかん の戦 たたか い で日本 にっぽん 軍 ぐん の手 て に落 お ちた。
1942年 ねん 2月 がつ 15日 にち 、シンガポール。山下 やました 奉文 ともゆき 中将 ちゅうじょう と降伏 ごうぶく 交渉 こうしょう を行 おこな うパーシバル 中将 ちゅうじょう
シンガポール陥落 かんらく
1942年 ねん 1月 がつ 終 お わりからシンガポールは日本 にっぽん 軍 ぐん に包囲 ほうい されたが、チャーチルは同市 どうし のイギリス軍 ぐん に死守 ししゅ 命令 めいれい を下 くだ し、降伏 ごうぶく を許 ゆる さなかった。また「アジア人 じん に対 たい するイギリスの威信 いしん が弱 よわ まる恐 おそ れがある」として「包囲 ほうい 」という言葉 ことば の使用 しよう を禁 きん じた。だが日本 にっぽん 軍 ぐん による猛攻 もうこう を受 う けて、現地 げんち 司令 しれい 官 かん アーサー・パーシバル 中将 ちゅうじょう は独断 どくだん で包囲 ほうい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 山下 やました 奉文 ともゆき 中将 ちゅうじょう に降伏 ごうぶく を申 もう し出 で 、シンガポールは陥落 かんらく 、イギリス軍 ぐん 、オーストラリア軍 ぐん などからなる連合 れんごう 国軍 こくぐん 12万 まん 人 にん から13万 まん 人 にん が捕虜 ほりょ となった。
シンガポールはイギリスがほぼゼロから作 つく り上 あ げ、世界 せかい 第 だい 4位 い の港 みなと にまで育 そだ て上 あ げた大 だい 英 えい 帝国 ていこく 繁栄 はんえい の象徴 しょうちょう であっただけに、それが陥落 かんらく した衝撃 しょうげき は大 おお きかった。 「シンガポールは難攻不落 なんこうふらく 」と豪語 ごうご していたチャーチルは、先 さき の2隻 せき の戦艦 せんかん の撃沈 げきちん に続 つづ き、マレ まれ ー半島 はんとう 全域 ぜんいき の喪失 そうしつ とシンガポール陥落 かんらく とそれに伴 ともな う多 おお くの戦死 せんし 者 しゃ 、捕虜 ほりょ を出 だ したことで国会 こっかい において野党 やとう の労働党 ろうどうとう からの厳 きび しい追及 ついきゅう を受 う け、ショックのあまり寝込 ねこ んでしまったという。
またチャーチルは自書 じしょ で「英国 えいこく 軍 ぐん の歴史 れきし 上 じょう 最悪 さいあく の惨事 さんじ であり、最大 さいだい の降伏 ごうぶく 」と評 ひょう している[662] 。一時 いちじ は心労 しんろう のあまり首相 しゅしょう 辞任 じにん を考 かんが えるほどであった。
ビルマ、インド
日本 にっぽん 軍 ぐん は更 さら にイギリス領 りょう インド帝国 ていこく に隣接 りんせつ する植民 しょくみん 地 ち であるビルマ にも進軍 しんぐん を開始 かいし した。こうした中 なか でインドの全 ぜん インド会議 かいぎ 派 は 委員 いいん 会 かい は独立 どくりつ のチャンスが来 き たと見 み て1942年 ねん 8月 がつ より反 はん 英 えい 闘争 とうそう 「インド退去 たいきょ 運動 うんどう (Quit India Movement)」を開始 かいし し、イギリス当局 とうきょく は徹底的 てっていてき に弾圧 だんあつ した。ガンジーやネルー 、全 ぜん インド会議 かいぎ 派 は 委員 いいん 会 かい 幹部 かんぶ が次々 つぎつぎ と逮捕 たいほ ・投獄 とうごく されていった。
この直後 ちょくご 、またしてもアメリカから「インドに大西洋 たいせいよう 憲章 けんしょう を適用 てきよう せよ」との横 よこ やりが入 はい ったが、チャーチルは拒絶 きょぜつ した。この後 のち もアメリカはしつこくイギリスのインド支配 しはい 破壊 はかい を画策 かくさく し続 つづ け、我慢 がまん の限界 げんかい に達 たっ したインド総督 そうとく リンリスゴー侯爵 こうしゃく は、1943年 ねん に本国 ほんごく インド担当 たんとう 省 しょう に対 たい して「善意 ぜんい の干渉 かんしょう 家 か がアメリカから流出 りゅうしゅつ してくるのを防 ふせ いでほしい」と要請 ようせい している。
インド洋 いんどよう 、セイロン
日本 にっぽん 海軍 かいぐん は、1942年 ねん 4月 がつ に行 おこな われたセイロン沖 おき 海戦 かいせん などでイギリス海軍 かいぐん を駆逐 くちく し、これまでは「イギリスの海 うみ 」であったインド洋 いんどよう の制海権 せいかいけん を手 て にした。この為 ため にイギリスやインドとオーストラリア間 あいだ の海上 かいじょう 貿易 ぼうえき や軍 ぐん 用品 ようひん の供給 きょうきゅう は止 と まることを余儀 よぎ なくされた。さらにシンガポールやペナン の日本 にっぽん 海軍 かいぐん 基地 きち にドイツ海軍 かいぐん やイタリア海軍 かいぐん の潜水 せんすい 艦 かん が常駐 じょうちゅう し、インド洋 いんどよう で通商 つうしょう 破壊 はかい 戦 せん を行 おこな う有様 ありさま であった。さらに日本 にっぽん 海軍 かいぐん はアフリカ大陸 たいりく 沿岸 えんがん のマダガスカル に上陸 じょうりく し、同地 どうち でイギリス軍 ぐん との間 あいだ に陸戦 りくせん を展開 てんかい した。
オーストラリア
南下 なんか した日本 にっぽん 軍 ぐん はオーストラリア への攻撃 こうげき を開始 かいし し、1942年 ねん 初頭 しょとう から1943年 ねん 暮 く れにかけてオーストラリア本土 ほんど への空襲 くうしゅう を実施 じっし した。
これらのアジア太平洋 たいへいよう の戦局 せんきょく の方 ほう は、1943年 ねん 中盤 ちゅうばん 以降 いこう はアメリカのダグラス・マッカーサー 大将 たいしょう が率 ひき いる「飛 と び石 いし 作戦 さくせん 」の導入 どうにゅう により、オーストラリア軍 ぐん やニュージーランド軍 ぐん の協力 きょうりょく を受 う けて日本 にっぽん への反撃 はんげき の主戦 しゅせん 地 ち を太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう に移 うつ しており、イギリスの出 で る幕 まく はなくなっていった。この状況 じょうきょう についてイギリスの外交 がいこう 文書 ぶんしょ も「マッカーサー将軍 しょうぐん の一人 ひとり 遊 あそ び」、「マッカーサー将軍 しょうぐん の独裁 どくさい 」という表現 ひょうげん をよく使用 しよう するようになる。
イタリア半島 はんとう 上陸 じょうりく [ 編集 へんしゅう ]
北 きた アフリカ戦線 せんせん に勝利 しょうり した米 べい 英軍 えいぐん は、イタリア侵攻 しんこう が可能 かのう となった。1943年 ねん 7月 がつ にシチリア へ上陸 じょうりく 作戦 さくせん を決行 けっこう して成功 せいこう 。連合 れんごう 国 こく の激 はげ しい空襲 くうしゅう でイタリア人 じん の戦意 せんい は衰 おとろ え、ストライキや暴動 ぼうどう が多発 たはつ し、ムッソリーニは失脚 しっきゃく 。後任 こうにん の首相 しゅしょう ピエトロ・バドリオ は9月にも連合 れんごう 国 こく と講和 こうわ し、イタリアは戦争 せんそう から脱落 だつらく した。この後 のち イタリアはドイツ軍 ぐん によって占領 せんりょう されたため、結局 けっきょく 戦場 せんじょう になった。米 べい 英軍 えいぐん は1943年 ねん 9月9日 にち にナポリ の南方 なんぽう サレルノ への上陸 じょうりく に成功 せいこう したが、アルベルト・ケッセルリンク 元帥 げんすい 率 ひき いるドイツ軍 ぐん の勇戦 ゆうせん で米 べい 英軍 えいぐん は散々 さんざん に蹴 け 散 ち らされてほとんど侵攻 しんこう できなかった。最終 さいしゅう 的 てき にはノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん に呼応 こおう した1944年 ねん 5月 がつ の攻勢 こうせい でようやくドイツ軍 ぐん を押 お し込 こ むことに成功 せいこう し、1944年 ねん 6月 がつ 4日 にち にローマ を陥落 かんらく させた。
カイロ会談 かいだん とテヘラン会談 かいだん [ 編集 へんしゅう ]
カイロ会談 かいだん の際 さい の蔣介石 せき 、ルーズベルト、チャーチル
1943年 ねん 11月、エジプト・カイロでルーズベルト、蔣介石 せき と会談 かいだん を行 おこな い、対 たい 日 にち 問題 もんだい を協議 きょうぎ した(カイロ会談 かいだん )。ルーズベルトは蔣介石 せき と仲 なか が良 よ く、以前 いぜん から香港 ほんこん を日本 にっぽん から奪還 だっかん したらイギリスではなく蔣介石 せき に渡 わた そうと目論 もくろ んでいた(香港 ほんこん 奪還 だっかん 後 ご イギリス軍 ぐん がただちに香港 ほんこん 総督 そうとく 府 ふ にイギリス国旗 こっき を立 た てて植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち を再開 さいかい したのでこの企 たくら みは阻止 そし できた)。さらに戦後 せんご には中華民国 ちゅうかみんこく を第 だい 四 よん の大国 たいこく にしようなどという構想 こうそう さえ思 おも い描 えが いていた。チャーチルは中華民国 ちゅうかみんこく など全 まった く興味 きょうみ がなかったし、蔣介石 せき とも話 はなし はしたが、何 なん の感銘 かんめい も受 う けなかった。こんな国 こく を第 だい 四 よん の大国 たいこく にしようなどというアメリカの考 かんが えには到底 とうてい 賛成 さんせい できなかった。
続 つづ けて、11月から12月 がつ にかけて英 えい ソ占領 せんりょう 下 か のイラン・テヘラン でルーズベルトとスターリン、チャーチルの初 はじ めての会談 かいだん を行 おこな った(テヘラン会談 かいだん )。ちょうどこの会議 かいぎ 中 ちゅう にチャーチルは69歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を迎 むか えたため、3人 にん はバースデーケーキ の前 まえ で会談 かいだん した。この会議 かいぎ で翌年 よくねん 5月 がつ にも米 べい 英軍 えいぐん が北 きた フランスと南 みなみ フランスに上陸 じょうりく 作戦 さくせん を決行 けっこう することと、それに呼応 こおう してソ連 それん 軍 ぐん が攻勢 こうせい に出 で ることが約束 やくそく された。またチャーチルは地中海 ちちゅうかい のイギリスの覇権 はけん を確保 かくほ しようとエ え ーゲ海 げかい 方面 ほうめん での作戦 さくせん を提案 ていあん したが、ルーズベルトに阻止 そし された。会議 かいぎ ではスターリンの高 こう 圧 あつ 的 てき な態度 たいど が目 め に付 つ いた。だがルーズベルトは「スターリンはチャーチルと違 ちが い帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ ではない」と思 おも っており、スターリンに好感 こうかん を持 も っていた。何 なに 百 ひゃく 万 まん 人 にん も殺戮 さつりく してきたスターリンに好感 こうかん を抱 いだ くルーズベルトとは感覚 かんかく が違 ちが い過 す ぎることを痛感 つうかん させられる場面 ばめん もあった。戦後 せんご のドイツ軍 ぐん 将校 しょうこう たちの処分 しょぶん について三 さん 巨頭 きょとう の間 あいだ でこのような会話 かいわ があったという。
スターリン「5万 まん 人 にん は銃殺 じゅうさつ すべきだな。特 とく に参謀 さんぼう 将校 しょうこう は全員 ぜんいん 銃殺 じゅうさつ だ。」
チャーチル「そんな大量 たいりょう 処刑 しょけい は英国 えいこく 議会 ぎかい も国民 こくみん も黙 だま ってはいない。そんな非道 ひどう を許 ゆる して私 わたし と我 わ が国 くに の名誉 めいよ を汚 けが すぐらいなら、私 わたし は今 いま この場 ば で庭 にわ に引 ひ きずり出 だ されて銃殺 じゅうさつ された方 ほう がマシだ。」
ルーズベルト「では、こう言 い う中 なか 間 あいだ 策 さく でいこうではないか。4万 まん 9000人 にん を銃殺 じゅうさつ だ」
ノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん と共産 きょうさん 化 か 阻止 そし [ 編集 へんしゅう ]
ドイツへ侵攻 しんこう するイギリス軍 ぐん 部隊 ぶたい を視察 しさつ するチャーチルとモントゴメリー
1944年 ねん 6月 がつ 6日 にち にはドワイト・アイゼンハワー 元帥 げんすい 率 ひき いる連合 れんごう 国軍 こくぐん がノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん に成功 せいこう し、ドイツにとっての西部 せいぶ 戦線 せんせん が形成 けいせい された。これに呼応 こおう してイタリア半島 はんとう 戦線 せんせん の英 えい 米 べい 軍 ぐん や東部 とうぶ 戦線 せんせん の赤軍 せきぐん も攻勢 こうせい (バグラチオン作戦 さくせん )を開始 かいし した。ドイツは1943年 ねん から本格 ほんかく 化 か した連合 れんごう 国軍 こくぐん の空襲 くうしゅう に苦 くる しめられ燃料 ねんりょう やベテラン兵員 へいいん の不足 ふそく によりこのような大 だい 規模 きぼ な一斉 いっせい 攻勢 こうせい を抑 おさ える力 ちから はもはやなかった。8月24日 にち にはパリが陥落 かんらく 、1944年 ねん 末 まつ までにはフランス全土 ぜんど からドイツ軍 ぐん は駆逐 くちく された。11月11日 にち にチャーチルはパリを訪問 ほうもん し、臨時 りんじ 政府 せいふ 大統領 だいとうりょう となったシャルル・ド・ゴール とともに無名 むめい 戦士 せんし の墓 はか に花 はな をささげた。
一方 いっぽう 、チャーチルの懸念 けねん はもはやドイツではなく、戦後 せんご のソ連 それん の脅威 きょうい であった。ゲリラが多 おお いバルカン半島 ばるかんはんとう は戦後 せんご 共産 きょうさん 化 か してソ連 それん に呑 の み込 こ まれる可能 かのう 性 せい が高 たか かった。チャーチルは、これを阻止 そし すべく1944年 ねん 8月 がつ にもユーゴスラビアのチトー と会見 かいけん し、ユーゴを共産 きょうさん 化 か しないとの言質 げんち を得 え ている。10月にはモスクワを訪問 ほうもん し、スターリンとの間 あいだ にバルカン半島 ばるかんはんとう 諸国 しょこく の英 えい 米 べい ソの勢力 せいりょく 割合 わりあい を話 はな し合 あ った。
同 おな じ月 がつ にイギリス軍 ぐん はギリシャへ上陸 じょうりく して同国 どうこく を占領 せんりょう したが、12月には共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく ギリシャ人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん が反乱 はんらん を起 お こす。チャーチルはこれを徹底的 てっていてき に鎮圧 ちんあつ させた。これには「イギリス人 じん はドイツと戦 たたか ってきたギリシャの愛国 あいこく 者 しゃ たちをアメリカの武器 ぶき で殺 ころ している」としてアメリカやイギリス国内 こくない から批判 ひはん が起 お こったが、この時 とき のチャーチルの処置 しょち のおかげでバルカン半島 ばるかんはんとう の中 なか でギリシャだけは共産 きょうさん 化 か を免 まぬか れた。チャーチルは回顧 かいこ 録 ろく の中 なか で「ナチズムとファシズム亡 な き今 いま 、文明 ぶんめい が直面 ちょくめん しなければならない危険 きけん は共産 きょうさん 主義 しゅぎ であることを私 わたし は見抜 みぬ いていた」と書 か いている。
ヤルタ会談 かいだん の三 さん 巨頭 きょとう 。左 ひだり からチャーチル、ルーズベルト、スターリン
1945年 ねん 2月 がつ 、ソ連 それん 領 りょう クリミア半島 くりみあはんとう のヤルタ でスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三 さん 巨頭 きょとう によるヤルタ会談 かいだん が行 おこな われた。ドイツを無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく させ、その後 ご 、英 えい 米 べい ソ仏 ふつ で分割 ぶんかつ 占領 せんりょう することがこの会談 かいだん で取 と り決 き められた。当初 とうしょ 、ルーズベルトとスターリンは英 えい 米 べい ソの三 さん 国 こく だけで分割 ぶんかつ 占領 せんりょう するつもりだったが、チャーチルの説得 せっとく でフランスも入 い れられることになった。この会談 かいだん で日本 にっぽん と中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を結 むす ぶソ連 それん が対 たい 日 にち 参戦 さんせん する密約 みつやく も結 むす ばれた。
この会談 かいだん で一番 いちばん 揉 も めたのはポーランド問題 もんだい だったが、これは結局 けっきょく ソ連 それん 優位 ゆうい で妥協 だきょう する形 かたち となり、ソ連 それん が送 おく る「民主 みんしゅ 的 てき 指導 しどう 者 しゃ 」がポーランドを統治 とうち することが取 と り決 き められた。チャーチルは回顧 かいこ 録 ろく の中 なか で「これが米 べい 英 えい ソの同盟 どうめい 関係 かんけい を破綻 はたん に導 みちび く最初 さいしょ の大 おお きな原因 げんいん となった」と書 か いている。
また国際 こくさい 連合 れんごう に関 かん する構想 こうそう もヤルタ会談 かいだん で本格 ほんかく 的 てき に具体 ぐたい 化 か された。大国 たいこく の拒否 きょひ 権 けん 制度 せいど もこの時 とき に決 き まった。チャーチルも「我 わ が国 くに の帝国 ていこく 主義 しゅぎ 的 てき 利益 りえき を守 まも るためには必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ 」として拒否 きょひ 権 けん 制度 せいど に賛成 さんせい した。ちなみに国際 こくさい 連合 れんごう はヤルタ会談 かいだん で開催 かいさい が決 き められた1945年 ねん 5月 がつ のアメリカ・サンフランシスコでの連合 れんごう 国 こく 会議 かいぎ において正式 せいしき に創設 そうせつ されている。
ジョージ6世 せい らとともにバッキンガム宮殿 きゅうでん のバルコニーに立 た つチャーチル(1945年 ねん 5月 がつ 8日 にち )
保健 ほけん 省 しょう のバルコニーから群衆 ぐんしゅう に演説 えんぜつ するチャーチル(1945年 ねん 5月 がつ 8日 にち )
1945年 ねん 春 はる に英 えい 米 べい 軍 ぐん と赤軍 せきぐん は東西 とうざい からドイツ領 りょう へ侵攻 しんこう を開始 かいし し、1945年 ねん 4月 がつ 30日 にち にヒトラーは赤軍 せきぐん が迫 せま り来 く るベルリン内 ない の総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう 内 ない で自殺 じさつ に追 お い込 こ まれた。ヒトラーの遺書 いしょ の指名 しめい でドイツ大統領 だいとうりょう となったカール・デーニッツ 提督 ていとく は5月8日 にち に無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく し、ヨーロッパ戦争 せんそう は終結 しゅうけつ した。
「V-Eデー 」と呼 よ ばれたこの日 ひ は、1918年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 時 じ のようにビッグ・ベンが鳴 な り、人々 ひとびと は街 まち に繰 く り出 だ してお祭 まつ り騒 さわ ぎとなった。庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん たちはみんなでウェストミンスター寺院 じいん に参拝 さんぱい し、神 かみ に感謝 かんしゃ を捧 ささ げた。チャーチルはジョージ6世 せい ら王室 おうしつ メンバーとともにバッキンガム宮殿 きゅうでん のバルコニーから観衆 かんしゅう に手 て を振 ふ った後 のち 、保健 ほけん 省 しょう のバルコニーから群衆 ぐんしゅう に「これは諸君 しょくん の勝利 しょうり である」と宣言 せんげん し、皆 みな で愛国 あいこく 歌 か 「ブリタニアよ、支配 しはい せよ 」を熱唱 ねっしょう した。
アジアにおける勝利 しょうり と大 だい 英 えい 帝国 ていこく の没落 ぼつらく [ 編集 へんしゅう ]
「V-Eデー」によりアジアを除 のぞ く戦前 せんぜん の大 だい 英 えい 帝国 ていこく は全 すべ て戻 もど り、新 あら たに北 きた アフリカ全域 ぜんいき 、レヴァント 地方 ちほう 、イランがイギリス軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か に置 お かれていた。地中海 ちちゅうかい の支配 しはい 権 けん も戦前 せんぜん 以上 いじょう に強力 きょうりょく にイギリスが握 にぎ っていた。さらにイギリス軍 ぐん はドイツとイタリアとオーストリアを分割 ぶんかつ 占領 せんりょう していた。チャーチルはそれをもって大 だい 英 えい 帝国 ていこく 衰退 すいたい 論 ろん を否定 ひてい し、「大 だい 英 えい 帝国 ていこく はそのロマンティックな歴史 れきし 上 じょう 、いつの時代 じだい よりも強力 きょうりょく になっている」と宣言 せんげん した。
しかしそれは幻想 げんそう だった。ビルマにおける日本 にっぽん 軍 ぐん との戦 たたか いは終 お わりに近 ちか づいていたものの、未 いま だにマレ まれ ー半島 はんとう やシンガポール、香港 ほんこん などの旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち は日本 にっぽん 軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か にあった上 うえ に、これらのアジアの植民 しょくみん 地 ち におけるイギリスの権威 けんい は完全 かんぜん に失墜 しっつい していた。さらにもはやイギリスには大 だい 英 えい 帝国 ていこく を維持 いじ する力 ちから もなくなっており、実際 じっさい にこの後 のち 10年 ねん 程度 ていど の間 あいだ に、インドやセイロン、マレ まれ ー半島 はんとう やパレスチナ、スーダンなど帝国 ていこく の多 おお くの地域 ちいき が独立 どくりつ した。
さらにイギリスの海外 かいがい 投資 とうし は戦前 せんぜん の4分 ぶん の1に激減 げきげん し(ケインズの試算 しさん によると、日本 にっぽん 軍 ぐん による攻撃 こうげき 以外 いがい に本土 ほんど に対 たい する攻撃 こうげき を受 う けなかったアメリカの損失 そんしつ の35倍 ばい とされる)、イギリスの産業 さんぎょう ・貿易 ぼうえき は衰退 すいたい 、国民 こくみん 生活 せいかつ は困窮 こんきゅう した。武器 ぶき 貸与 たいよ 法 ほう は失効 しっこう し、米 べい 英 えい 借款 しゃっかん 協定 きょうてい (Anglo-American_loan )によって物資 ぶっし をローンで購入 こうにゅう したせいで80億 おく ポンドの負債 ふさい を抱 かか えることになったうえ、イギリスの工業 こうぎょう 産業 さんぎょう は事実 じじつ 上 じょう 兵器 へいき 産業 さんぎょう だけになってしまい、もはや世界 せかい の覇権 はけん 国 こく の地位 ちい をアメリカに奪 うば われるのを防 ふせ ぐ手段 しゅだん はなかった。
勇 いさ ましい言葉 ことば で自国 じこく の力 ちから を誇示 こじ しながら、チャーチル自身 じしん も大戦 たいせん 中 ちゅう から自国 じこく の没落 ぼつらく を肌 はだ で感 かん じ取 と っていた。テヘラン会談 かいだん の際 さい に「我々 われわれ が小国 しょうこく に堕 お ちたことを思 おも い知 し らされた。会談 かいだん にはロシアの大熊 おおくま 、アメリカの大牛 おおうし 、そしてその間 あいだ にイギリスの哀 あわ れなロバが座 すわ っていた」と秘書 ひしょ に漏 も らしている。
自国 じこく の没落 ぼつらく に加 くわ えてチャーチルが不安 ふあん だったのは、スターリンの台頭 たいとう であった。1945年 ねん 4月 がつ に、スターリンと仲 なか よしのルーズベルトの死 し でアメリカ政府 せいふ もようやく共産 きょうさん 主義 しゅぎ を危険 きけん 視 し するようになったものの、すでに手遅 ておく れな感 かん があり、東 ひがし ヨーロッパの大半 たいはん はスターリンの支配 しはい 下 か に堕 お ちていた。チャーチルは回顧 かいこ 録 ろく の中 なか で「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の長 なが い苦悩 くのう と努力 どりょく の末 すえ に実現 じつげん されたことは、一人 ひとり の独裁 どくさい 者 しゃ (ヒトラー)が、他 た の独裁 どくさい 者 しゃ (スターリン)に代 か わっただけであった」と書 か いている。
ポツダム会談 かいだん の際 さい のチャーチル、アメリカ大統領 だいとうりょう トルーマン 、スターリン。チャーチルは選挙 せんきょ 戦中 せんちゅう 、この会議 かいぎ に出席 しゅっせき したが、開票 かいひょう が近付 ちかづ くと帰国 きこく し、選挙 せんきょ に惨敗 ざんぱい して再 ふたた び出席 しゅっせき することはなかった
1945年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ に向 む けて演説 えんぜつ をするチャーチル
1935年 ねん 以来 いらい 、イギリスでは選挙 せんきょ が行 おこな われていなかった。チャーチルは1944年 ねん 10月 がつ にドイツとの戦争 せんそう が終結 しゅうけつ 次第 しだい 、解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ を行 おこな うと宣言 せんげん していた。労働党 ろうどうとう も1944年 ねん の党 とう 大会 たいかい で戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご の総 そう 選挙 せんきょ では、挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく を解消 かいしょう して野党 やとう として戦 たたか うことを決定 けってい していた。
ドイツ降伏 ごうぶく で労働党 ろうどうとう から解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ すべきとの声 こえ が強 つよ まった。チャーチルは「日本 にっぽん の降伏 ごうぶく までは挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく を続 つづ けるべきである」と主張 しゅちょう したが、労働党 ろうどうとう はそれを拒否 きょひ した。保守党 ほしゅとう 内 ない でもチャーチルが英雄 えいゆう 視 し されている今 いま のうちに総 そう 選挙 せんきょ に打 う って出 で た方 ほう が保守党 ほしゅとう に有利 ゆうり とする意見 いけん が多 おお かった。
チャーチルは1945年 ねん 6月 がつ 15日 にち に庶民 しょみん 院 いん を解散 かいさん し、7月 がつ 5日 にち に総 そう 選挙 せんきょ が行 おこな われた。結果 けっか は労働党 ろうどうとう 394議席 ぎせき 、保守党 ほしゅとう 213議席 ぎせき 、自由党 じゆうとう 12議席 ぎせき となり労働党 ろうどうとう が圧勝 あっしょう した。労働党 ろうどうとう は「未来 みらい に目 め を向 む けよう」をスローガンに社会 しゃかい 保障 ほしょう 政策 せいさく やイングランド銀行 いんぐらんどぎんこう 、燃料 ねんりょう ・動力 どうりょく 産業 さんぎょう 、鉄鋼 てっこう 業 ぎょう の国有 こくゆう 化 か など社会 しゃかい 改良 かいりょう 主義 しゅぎ 政策 せいさく を主張 しゅちょう した。対 たい するチャーチル率 ひき いる保守党 ほしゅとう も社会 しゃかい 保障 ほしょう 政策 せいさく を公約 こうやく に掲 かか げていたが、その訴 うった えはチャーチルの戦功 せんこう を誇示 こじ し、また労働党 ろうどうとう と社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政策 せいさく を批判 ひはん することを中心 ちゅうしん としていた。チャーチルはラジオ演説 えんぜつ で労働党 ろうどうとう やアトリーが主張 しゅちょう する政策 せいさく は「社会 しゃかい 主義 しゅぎ である」として批判 ひはん し、「社会 しゃかい 主義 しゅぎ は全体 ぜんたい 主義 しゅぎ や卑屈 ひくつ な国家 こっか 崇拝 すうはい と不可分 ふかぶん の存在 そんざい 」「教条 きょうじょう 主義 しゅぎ 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ は自由 じゆう な議会 ぎかい を敵視 てきし する」「社会 しゃかい 主義 しゅぎ のたどり着 つ く先 さき はゲシュタポ の弾圧 だんあつ 政治 せいじ 」と国民 こくみん に訴 うった えたが、つい先日 せんじつ まで彼 かれ の内閣 ないかく の閣僚 かくりょう だったアトリーをゲシュタポ扱 あつか いする罵倒 ばとう は評判 ひょうばん が悪 わる かった。またチャーチルは、保守党 ほしゅとう 、労働党 ろうどうとう のどちらが政権 せいけん を握 にぎ ってもイギリスの外交 がいこう 上 じょう の一貫 いっかん 性 せい が保 たも たれるよう、ソ連 それん 占領 せんりょう 下 か ドイツ・ポツダム で開催 かいさい 予定 よてい の米 べい 英 えい ソ三 さん 国 こく 首脳 しゅのう によるポツダム会談 かいだん にアトリーも連 つ れていこうと考 かんが えていたが、これに対 たい して労働党 ろうどうとう 全国 ぜんこく 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい のハロルド・ラスキ 委員 いいん 長 ちょう は強 つよ く反対 はんたい し、アトリーに行 い かないよう指示 しじ を出 だ した。アトリーは議会 ぎかい 内 ない 労働党 ろうどうとう の党首 とうしゅ だが、労働党 ろうどうとう の党 とう 規約 きやく では全国 ぜんこく 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい が党内 とうない での地位 ちい が最 もっと も高 たか く、議会 ぎかい 内 ない 労働党 ろうどうとう もその指示 しじ に従 したが わねばならなかった。チャーチル率 ひき いる保守党 ほしゅとう はこれを労働党 ろうどうとう の「党 とう 指導 しどう 部 ぶ 絶対 ぜったい 」「議会 ぎかい 政治 せいじ 軽視 けいし 」の体質 たいしつ と批判 ひはん した。保守党 ほしゅとう は「ナチス総統 そうとう ラスキ」などという表現 ひょうげん を使 つか って批判 ひはん 運動 うんどう を行 おこな ったため、逆 ぎゃく に保守党 ほしゅとう の方 ほう が批判 ひはん を招 まね く結果 けっか となった。
この選挙 せんきょ 結果 けっか については様々 さまざま な説 せつ があるが、前述 ぜんじゅつ の個人 こじん 攻撃 こうげき についての不評 ふひょう よりも、慢性 まんせい 的 てき な保守党 ほしゅとう の人気 にんき の凋落 ちょうらく が原因 げんいん と考 かんが えられる。ギャラップ の世論 せろん 調査 ちょうさ によれば、チャーチルの人気 にんき は高 たか かったものの、労働党 ろうどうとう は1942年 ねん 以降 いこう 順調 じゅんちょう に支持 しじ 率 りつ を上 あ げており、それに勝 か てなかっただけということのようである。また労働党 ろうどうとう の大勝 たいしょう は小 しょう 選挙 せんきょ 区 く 制度 せいど の賜物 たまもの でもあり、得票 とくひょう 数 すう で見 み れば実 じつ は労働党 ろうどうとう は過半数 かはんすう も獲得 かくとく していない。
ともかくこの議席 ぎせき 差 さ ではチャーチルは退任 たいにん せざるを得 え ず、7月 がつ 26日 にち に国王 こくおう ジョージ6世 せい に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ した。国王 こくおう からの慣例 かんれい の次期 じき 首相 しゅしょう の下問 かもん に対 たい してアトリーを推挙 すいきょ した。またこの際 さい に国王 こくおう からガーター勲章 くんしょう を授与 じゅよ するとの叡慮 えいりょ があったが、「選挙 せんきょ に敗 やぶ れた首相 しゅしょう が、どうして陛下 へいか からガーター勲章 くんしょう を頂 いただ けますでしょうか」と述 の べ、拝辞 はいじ した。国王 こくおう はアトリーを首相 しゅしょう に任 にん じ、労働党 ろうどうとう 単独 たんどく のアトリー内 ない 閣 かく が発足 ほっそく した。
野党 やとう 党首 とうしゅ として[ 編集 へんしゅう ]
シンガポールでイギリス軍 ぐん に降伏 ごうぶく する日本 にっぽん 軍 ぐん
下野 げや したチャーチルは70歳 さい になっていたが、引退 いんたい する気 き はなく、引 ひ き続 つづ き保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ に留 とど まった。1945年 ねん 8月 がつ に日本 にっぽん が連合 れんごう 国 こく に対 たい して降伏 ごうぶく し、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ したことを受 う けて、この後 のち に『第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (英語 えいご 版 ばん ) 』を全 ぜん 6巻 かん で著 あらわ し、1948年 ねん から1年 ねん ごとに1巻 かん ずつ出版 しゅっぱん されていった。
チャーチルの口述 こうじゅつ 方式 ほうしき で著 あらわ され、チャーチルの自画 じが 自賛 じさん や、反 はん ファシズムを主導 しゅどう していたアトリーら労働党 ろうどうとう 政治 せいじ 家 か の過小 かしょう 評価 ひょうか が目立 めだ つが、陸海 りくかい 軍 ぐん 将官 しょうかん や歴史 れきし 学者 がくしゃ などを総動員 そうどういん した大著 たいちょ となった。この本 ほん はベストセラーとなり、チャーチルに莫大 ばくだい な富 とみ をもたらし、首相 しゅしょう 在任 ざいにん 中 ちゅう の1953年 ねん にはノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう の受賞 じゅしょう にも至 いた っている。しかしチャーチルはノーベル平和 へいわ 賞 しょう を欲 ほ しがっていたので、文学 ぶんがく 賞 しょう の受賞 じゅしょう には失望 しつぼう したという。
反共 はんきょう 闘争 とうそう [ 編集 へんしゅう ]
1946年 ねん 3月 がつ 、アメリカ・ミズーリ州 しゅう へ向 む かう列車 れっしゃ の中 なか でVサインをするチャーチル。トルーマン大統領 だいとうりょう とともに
首相 しゅしょう アトリーと外相 がいしょう ベヴィン。
アトリー内 ない 閣 かく は公約 こうやく 通 どお り、イングランド銀行 いんぐらんどぎんこう や重要 じゅうよう 産業 さんぎょう の国有 こくゆう 化 か を行 おこな い、また国民 こくみん 保健 ほけん サービス(NHS)創設 そうせつ 、国民 こくみん 保険 ほけん 法 ほう や国家 こっか 扶助 ふじょ 法 ほう の制定 せいてい 、累進 るいしん 課税 かぜい 強化 きょうか などの社会 しゃかい 改良 かいりょう 主義 しゅぎ 政策 せいさく を推 お し進 すす めていった。また雇用 こよう の統制 とうせい も図 はか り、アトリー政権 せいけん 下 か においては事実 じじつ 上 じょう 完全 かんぜん 雇用 こよう が達成 たっせい され(失業 しつぎょう 率 りつ 2%以下 いか )、失業 しつぎょう 問題 もんだい を根絶 こんぜつ することに成功 せいこう した。これに対 たい してチャーチルは「困窮 こんきゅう を均等 きんとう 化 か し、欠乏 けつぼう を組織 そしき 化 か するこの政策 せいさく が長 なが く続 つづ けば、ブリテンの島々 しまじま は死 し せる石 いし と化 か す」「労働党 ろうどうとう 政権 せいけん は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん にも匹敵 ひってき するイギリスの災厄 さいやく 」「イギリスは社会 しゃかい 主義 しゅぎ の悪夢 あくむ に取 と りつかれている」「社会 しゃかい 主義 しゅぎ は必 かなら ず経済 けいざい 破綻 はたん と全体 ぜんたい 主義 しゅぎ をもたらす」と強 つよ く批判 ひはん した。
老 お いて反共 はんきょう 闘争 とうそう 意欲 いよく がますます盛 さか んとなったチャーチルは1946年 ねん 3月 がつ にアメリカ・ミズーリ州 しゅう フルトン で「鉄 てつ のカーテン 」演説 えんぜつ を行 おこな った。
バルト海 ばるとかい の
シュテッティン から
アドリア海 あどりあかい の
トリエステ まで、
ヨーロッパ大陸 たいりく を
横切 よこぎ る
鉄 てつ のカーテンが
降 お ろされた。
中 ちゅう 欧 おう 及 およ び
東欧 とうおう の
歴史 れきし ある
首都 しゅと は、
全 すべ てその
向 む こうにある。(
略 りゃく )これらの
東欧 とうおう 諸国 しょこく では
弱小 じゃくしょう 勢力 せいりょく であった
共産党 きょうさんとう が、いまや
優越 ゆうえつ して、その
数 かず にふさわしからぬ
権力 けんりょく につき、いたるところで
全体 ぜんたい 主義 しゅぎ 体制 たいせい を
敷 し いている。
警察 けいさつ 政府 せいふ が
君臨 くんりん し、チェコスロバキアを
除 のぞ いては
民主 みんしゅ 主義 しゅぎ などどこにも
存在 そんざい しない。
さらにこれに対抗 たいこう する「英語 えいご 諸 しょ 国民 こくみん の兄弟 きょうだい としての団結 だんけつ 」を訴 うった えた。これ以降 いこう 、スターリンはいよいよチャーチルを「戦争 せんそう 屋 や 」「反 はん ソ戦争 せんそう 挑発 ちょうはつ 者 しゃ 」「ヒトラーのドイツ民族 みんぞく 優越 ゆうえつ 論 ろん に匹敵 ひってき する英語 えいご 圏 けん 国民 こくみん 優越 ゆうえつ 論 ろん 者 しゃ 」と批判 ひはん した。
一方 いっぽう ルーズベルト時代 じだい の親 しん ソ方針 ほうしん を全面 ぜんめん 破棄 はき する事 こと を決意 けつい していたアメリカのトルーマン大統領 だいとうりょう もチャーチルのフルトン演説 えんぜつ にこたえて、1947年 ねん 3月 がつ にトルーマン・ドクトリン を発表 はっぴょう し、ソ連 それん 封 ふう じ込 こ め の反共 はんきょう 政策 せいさく をアメリカの公式 こうしき 政策 せいさく に決定 けってい した。アトリー内 ない 閣 かく は初 はじ め、イギリスをアメリカとソ連 それん の中間 ちゅうかん に立 た つ「第 だい 三 さん 勢力 せいりょく 」にしようと考 かんが えていた。この頃 ころ の世論 せろん は、ソ連 それん とも友好 ゆうこう 関係 かんけい を維持 いじ すべきであり、むやみやたらにソ連 それん との緊張 きんちょう 関係 かんけい を作 つく るべきでないとするのが一般 いっぱん 的 てき で、庶民 しょみん 院 いん でチャーチルの「鉄 てつ のカーテン」演説 えんぜつ を非難 ひなん する動議 どうぎ が提出 ていしゅつ されると、100名 めい ほどの議員 ぎいん がそれに賛同 さんどう した。チャーチルは、ソ連 それん 脅威 きょうい 論 ろん についての「鉄 てつ のカーテン演説 えんぜつ 」を行 おこな う旨 むね を事前 じぜん に首相 しゅしょう のアトリー に通告 つうこく していたが、アトリーはそれに対 たい し、肯定 こうてい するわけでも否定 ひてい するわけでもなく、特 とく にアクションを取 と らなかった。しかしアトリー内 ない 閣 かく は、次第 しだい にアメリカ寄 よ りの外交 がいこう へと変化 へんか した。これは1947年 ねん 1月 がつ の寒波 かんぱ でイギリス経済 けいざい は大 おお きな打撃 だげき を受 う け、戦後 せんご 復興 ふっこう のためにアメリカが示 しめ した「マーシャル・プラン 」を受 う け入 い れざるを得 え なくなるなど、国際 こくさい 社会 しゃかい における主導 しゅどう 権 けん はアメリカに奪 うば われつつあったためである。冷戦 れいせん が激化 げきか し、西側 にしがわ 陣営 じんえい と東側 ひがしがわ 陣営 じんえい の対立 たいりつ が深刻 しんこく 化 か すると、反共 はんきょう 主義 しゅぎ 者 しゃ の外相 がいしょう アーネスト・ベヴィン の強 つよ い意向 いこう で、アトリー内 ない 閣 かく は反共 はんきょう 外交 がいこう に転 てん じた。ソ連 それん がベルリン封鎖 ふうさ を決行 けっこう すると、イギリス軍 ぐん はアメリカ軍 ぐん と共 とも に、封鎖 ふうさ された西 にし ベルリン へ空輸 くうゆ を行 おこな った。外相 がいしょう ベヴィンは集団 しゅうだん 安全 あんぜん 保障 ほしょう の観点 かんてん からブリュッセル条約 じょうやく を締結 ていけつ していたが、ソ連 それん の脅威 きょうい から、アメリカを始 はじ めとする西側 にしがわ 諸国 しょこく の共同 きょうどう 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく の成立 せいりつ に奔走 ほんそう し、1949年 ねん 4月 がつ に北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく が調印 ちょういん され、北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく 機構 きこう (NATO)が発足 ほっそく した。アトリーは、ソ連 それん 型 がた 共産 きょうさん 主義 しゅぎ について「欧州 おうしゅう 大陸 たいりく の権威 けんい 主義 しゅぎ から生 う まれ、ロシアの帝政 ていせい 主義 しゅぎ の土壌 どじょう で実 み を結 むす んだもの」と批判 ひはん した。
チャーチルは共産 きょうさん 主義 しゅぎ に対抗 たいこう するため、西側 にしがわ ヨーロッパ諸国 しょこく を一 ひと つにまとめる必要 ひつよう 性 せい を痛感 つうかん し、1945年 ねん 11月からヨーロッパ合衆国 がっしゅうこく 構想 こうそう を盛 さか んに主張 しゅちょう するようになった。1946年 ねん 夏 なつ 、いまだヘルマン・ゲーリング らドイツ人 じん 戦犯 せんぱん に対 たい するニュルンベルク裁判 さいばん が行 おこな われていたこの時期 じき にドイツもこのヨーロッパ合衆国 がっしゅうこく の中 なか に加 くわ えるべきと提案 ていあん して人々 ひとびと を驚 おどろ かせた。この構想 こうそう は1948年 ねん 3月 がつ の西欧 せいおう 同盟 どうめい 、1949年 ねん 5月 がつ の欧州 おうしゅう 評議 ひょうぎ 会 かい などで結実 けつじつ を見 み た。西欧 せいおう 同盟 どうめい の後継 こうけい 組織 そしき である欧州 おうしゅう 連合 れんごう では、欧州 おうしゅう 連合 れんごう の父 ちち の一人 ひとり として挙 あ げられている[731] 。
一方 いっぽう 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい も攻勢 こうせい を強 つよ めていた。1948年 ねん 2月 がつ には東欧 とうおう で唯一 ゆいいつ 西側 にしがわ に開 ひら かれていたチェコスロバキアでクーデタが発生 はっせい し、同国 どうこく が共産 きょうさん 化 か された(チェコスロバキア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく )。同年 どうねん 8月 がつ にはソ連 それん がベルリン封鎖 ふうさ を強行 きょうこう した。1949年 ねん 9月 がつ にはソ連 それん の原爆 げんばく 保有 ほゆう が判明 はんめい し、西側 にしがわ 諸国 しょこく に衝撃 しょうげき を与 あた えた。同年 どうねん 10月 がつ には中国 ちゅうごく の国共 こっきょう 内戦 ないせん が毛沢東 もうたくとう 率 ひき いる中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 軍 ぐん の勝利 しょうり に終 お わり、蔣介石 せき らは台湾 たいわん へ追 お われ、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 率 ひき いる一 いち 党 とう 独裁 どくさい 国家 こっか の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が成立 せいりつ してしまう。
さらに1950年 ねん 6月 がつ には朝鮮半島 ちょうせんはんとう で朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。アトリー内 ない 閣 かく は「韓国 かんこく が侵攻 しんこう を退 しりぞ けるのに必要 ひつよう な支援 しえん を行 おこな う」とした国連 こくれん 決議 けつぎ に基 もと づき、日本 にっぽん の占領 せんりょう 業務 ぎょうむ を行 おこな っていたイギリス連邦 れんぽう 占領 せんりょう 軍 ぐん を改変 かいへん し、朝鮮 ちょうせん イギリス連邦 れんぽう 軍 ぐん を組織 そしき し派遣 はけん した。もちろん保守党 ほしゅとう もこの出兵 しゅっぺい を支持 しじ した。
大 だい 英 えい 帝国 ていこく の崩壊 ほうかい [ 編集 へんしゅう ]
この頃 ころ のイギリスにとって、共産 きょうさん 主義 しゅぎ と並 なら ぶもう一 ひと つの脅威 きょうい は植民 しょくみん 地 ち 民族 みんぞく 運動 うんどう の激化 げきか であった。労働党 ろうどうとう 政権 せいけん の時代 じだい にインド、パキスタン 、スリランカ 、ヨルダン 、イスラエル などが続々 ぞくぞく と独立 どくりつ し、長 なが きにわたる大 だい 英 えい 帝国 ていこく のアジア中近東 ちゅうきんとう 支配 しはい に終止符 しゅうしふ が打 う たれた。同 どう 時期 じき フランスも植民 しょくみん 地 ち 民族 みんぞく 運動 うんどう に悩 なや まされて植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく 崩壊 ほうかい の瀬戸際 せとぎわ に立 た たされていた。しかしフランスが強引 ごういん に植民 しょくみん 地 ち を維持 いじ しようとしてインドシナ やアルジェリア で泥沼 どろぬま の内戦 ないせん に陥 おちい っていったのに比 くら べると、アトリー内 ない 閣 かく は「引 ひ き際 ぎわ を心得 こころえ ていた」と評価 ひょうか されている[注釈 ちゅうしゃく 11] 。
だが帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ チャーチルにはもちろんそんなことは認 みと められなかった。「大 だい 英 えい 帝国 ていこく はアメリカの借款 しゃっかん と同様 どうよう に急速 きゅうそく に減少 げんしょう している。その急速 きゅうそく さには慄然 りつぜん とさせられる。『逃亡 とうぼう 』、これが唯一 ゆいいつ ふさわしい言葉 ことば だ」「労働党 ろうどうとう は我 われ らの先人 せんじん たちが200年 ねん の時 とき を費 つい やして行 い ってきたことの全 すべ てを、インド帝国 ていこく とともに投 な げ捨 す てた。」と批判 ひはん した。
1950年 ねん 2月 がつ の解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ があった。争点 そうてん はほとんど国内 こくない 問題 もんだい に集中 しゅうちゅう した。というのもアトリー内 ない 閣 かく の外相 がいしょう ベヴィンの積極 せっきょく 的 てき な反共 はんきょう 外交 がいこう は、保守党 ほしゅとう としても文句 もんく のつけようがなかったからである。植民 しょくみん 地 ち 放棄 ほうき には不満 ふまん もあったが、今 いま さら植民 しょくみん 地 ち 回復 かいふく は不可能 ふかのう であり、保守党 ほしゅとう も代替 だいたい 案 あん は出 だ せなかった。選挙 せんきょ 戦 せん で労働党 ろうどうとう は5年間 ねんかん に行 い った社会 しゃかい 改良 かいりょう 政策 せいさく の実績 じっせき を誇 ほこ り、対 たい する保守党 ほしゅとう は労働党 ろうどうとう 政権 せいけん は国民 こくみん 全員 ぜんいん に耐乏 たいぼう 生活 せいかつ を押 お し付 つ けただけと批判 ひはん した。
選挙 せんきょ 結果 けっか は労働党 ろうどうとう 315議席 ぎせき 、保守党 ほしゅとう 298議席 ぎせき 、自由党 じゆうとう 9議席 ぎせき をそれぞれ獲得 かくとく し、労働党 ろうどうとう と保守党 ほしゅとう の議席 ぎせき 差 さ は17議席 ぎせき 差 さ にまで縮 ちぢ まった。保守党 ほしゅとう は大幅 おおはば に失地 しっち 回復 かいふく したものの、政権 せいけん を獲得 かくとく できず、失望 しつぼう 感 かん が広 ひろ がった。だが、過半数 かはんすう をわずか8議席 ぎせき 上回 うわまわ ったに過 す ぎない労働党 ろうどうとう の政権 せいけん 維持 いじ は困難 こんなん になった。朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう による戦費 せんぴ 拡大 かくだい で、無料 むりょう 化 か された医療 いりょう 費 ひ の一部 いちぶ 有料 ゆうりょう 化 か 案 あん を巡 めぐ って、労働党 ろうどうとう 内 ない の党内 とうない 紛争 ふんそう も発生 はっせい した。政権 せいけん 運営 うんえい に行 い き詰 づま ったアトリーは1951年 ねん 10月 がつ にも庶民 しょみん 院 いん を解散 かいさん して解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ に打 う って出 で た。
この頃 ころ 、チャーチルが40年 ねん 前 まえ に創設 そうせつ したアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニーがイラン政府 せいふ によって国有 こくゆう 化 か された。激怒 げきど したチャーチルはイラン政府 せいふ を激 はげ しく批判 ひはん したので、チャーチルは「戦争 せんそう 挑発 ちょうはつ 屋 や 」か否 ひ かというのがこの選挙 せんきょ の争点 そうてん の一 ひと つとなった。首相 しゅしょう のアトリーは、侵略 しんりゃく 阻止 そし の旗印 はたじるし を掲 かか げて朝鮮 ちょうせん で軍事 ぐんじ 活動 かつどう をしている以上 いじょう 、イランに攻勢 こうせい を仕掛 しか けるのはダブルスタンダード であるとして、イランと交戦 こうせん すべきではないとした[743] 。選挙 せんきょ 戦 せん でチャーチルは、アトリー内 ない 閣 かく が北 きた アフリカや中近東 ちゅうきんとう での反 はん 英 えい 闘争 とうそう を抑 おさ え込 こ まなかったことなどを批判 ひはん し、「スーダン 、アーバーダーン 、アナイリン・ベヴァン 」は三 さん 大 だい 惨事 さんじ であると主張 しゅちょう した。(「アナイリン・ベヴァン 」は、彼 かれ が保守党 ほしゅとう の政策 せいさく とは相容 あいい れない、急進 きゅうしん 左派 さは 的 てき 政策 せいさく を主導 しゅどう していたことを指 さ す。)
選挙 せんきょ の結果 けっか 、保守党 ほしゅとう が321議席 ぎせき 、労働党 ろうどうとう が295議席 ぎせき を獲得 かくとく し、保守党 ほしゅとう が政権 せいけん を奪還 だっかん した。得票 とくひょう 数 すう の上 うえ では労働党 ろうどうとう の方 ほう が上回 うわまわ っていたが、小 しょう 選挙 せんきょ 区 く 制度 せいど の賜物 たまもの で保守党 ほしゅとう が勝利 しょうり した。
第 だい 2次 じ チャーチル内閣 ないかく [ 編集 へんしゅう ]
1955年 ねん 、チャーチルと第 だい 二 に 次 じ チャーチル内閣 ないかく の閣僚 かくりょう たち
こうして6年 ねん ぶりに保守党 ほしゅとう が政権 せいけん 復帰 ふっき し首相 しゅしょう に返 かえ り咲 ざ くことになったチャーチルだったが、彼 かれ はすでに77歳 さい になっており、しばしば心臓 しんぞう 発作 ほっさ を起 お こすなど健康 けんこう な状態 じょうたい とは言 い い難 がた かった。任期 にんき 中 ちゅう の1952年 ねん 2月 がつ 6日 にち にジョージ6世 せい が崩御 ほうぎょ し、エリザベス王女 おうじょ がエリザベス2世 せい として女王 じょおう に即位 そくい した。1953年 ねん には女王 じょおう よりガーター勲章 くんしょう を授与 じゅよ され、以降 いこう 「サー・ウィンストン・チャーチル」となる。
政権 せいけん 奪還 だっかん 後 ご ただちに労働党 ろうどうとう 政権 せいけん 下 か で国有 こくゆう 化 か された鉄鋼 てっこう 業 ぎょう を民営 みんえい 化 か したが、一方 いっぽう でそれ以外 いがい のアトリー内 ない 閣 かく の社会 しゃかい 改良 かいりょう 政策 せいさく は継承 けいしょう した。住宅 じゅうたく 地方 ちほう 大臣 だいじん ハロルド・マクミラン は住宅 じゅうたく 建設 けんせつ に力 ちから を入 い れ、1年間 ねんかん に30万 まん 戸 こ の建設 けんせつ という先 さき の総 そう 選挙 せんきょ の公約 こうやく を達成 たっせい した。蔵相 ぞうしょう ラブ・バトラー が提示 ていじ した予算 よさん 案 あん も、労働党 ろうどうとう 時代 じだい のものとさほど変化 へんか はなかった。修正 しゅうせい 資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 立場 たちば のバトラー予算 よさん 案 あん についてチャーチルは、「これこそ私 わたし の父 ちち ランドルフ が主張 しゅちょう していたトーリー・デモクラシーだ」と述 の べた。
1953年 ねん 3月 がつ のソ連 それん でのスターリンの死 し を契機 けいき として、外交 がいこう 面 めん でもチャーチルの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国 こく に対 たい する融和 ゆうわ 的 てき 態度 たいど が見 み られるようになった。彼 かれ が軟化 なんか したのは原爆 げんばく の時代 じだい に世界 せかい 大戦 たいせん を起 お こしたらイギリスの生存 せいぞん が危 あや ういと考 かんが えたためだった。東西 とうざい は「雪解 ゆきど け 」と呼 よ ばれる緊張 きんちょう 緩和 かんわ の時代 じだい へ向 む かっていき、同年 どうねん 7月 がつ には朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が終結 しゅうけつ している。さらに1954年 ねん 7月 がつ にはインドシナ戦争 せんそう をめぐるジュネーヴ協定 きょうてい が締結 ていけつ されたが、イギリスはアメリカの軍事 ぐんじ 介入 かいにゅう を抑 おさ えてこの協定 きょうてい 締結 ていけつ を成功 せいこう させる役割 やくわり を果 は たした。
しかしその一方 いっぽう でチャーチルは反共 はんきょう 政策 せいさく も粛々 しゅくしゅく と進 すす めた。西 にし ドイツ を反共 はんきょう の防波堤 ぼうはてい にするために同国 どうこく の再 さい 軍備 ぐんび を促 うなが し、それに関連 かんれん して1954年 ねん 11月24日 にち に「大戦 たいせん が終 お わる直前 ちょくぜん 、私 わたし はモントゴメリー卿 きょう に投降 とうこう したドイツ兵 へい の武器 ぶき を慎重 しんちょう に蓄 たくわ えるよう命令 めいれい を出 だ したが、これはソビエトが前進 ぜんしん してきた場合 ばあい 、ドイツ兵 へい を再 さい 武装 ぶそう させて我々 われわれ と共闘 きょうとう させるためであった」という裏話 うらばなし を暴露 ばくろ し、国際 こくさい 的 てき な反響 はんきょう を呼 よ んだ。また安全 あんぜん 保障 ほしょう の観点 かんてん から原爆 げんばく 開発 かいはつ を推進 すいしん した。原爆 げんばく 開発 かいはつ は前 ぜん アトリー内 ない 閣 かく が、安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 じょう 自国 じこく 製 せい の原爆 げんばく を保有 ほゆう する必要 ひつよう があるとして、それを行 おこな うことを決定 けってい していたが、当時 とうじ 核 かく 廃絶 はいぜつ の機運 きうん が高 たか まっていたことから、この決定 けってい は自 じ 国民 こくみん に秘匿 ひとく していた。チャーチル政権 せいけん 下 か で自国 じこく 製 せい の原爆 げんばく が完成 かんせい し、1952年 ねん 10月 がつ にオーストラリア沖 おき で核 かく 実験 じっけん を行 おこな った(ハリケーン作戦 さくせん )。これにより米 べい ソに次 つ ぐ第 だい 3の核保有 かくほゆう 国 こく としての存在 そんざい 感 かん を世界 せかい に知 し らしめた。1954年 ねん にはアジア反共 はんきょう 体制 たいせい の東南 とうなん アジア条約 じょうやく 機構 きこう (SEATO)に参加 さんか した。
一方 いっぽう 植民 しょくみん 地 ち については、帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ チャーチルといえども時代 じだい の趨勢 すうせい には抗 あらが えず、アトリー前 ぜん 政権 せいけん に引 ひ き続 つづ いて、失 うしな われていく一方 いっぽう だった。1951年 ねん にはエジプトとの関係 かんけい が緊迫 きんぱく する中 なか 、エジプトを反 はん ソ陣営 じんえい に引 ひ きとめるためにイギリス軍 ぐん をエジプトから撤兵 てっぺい させることになった。イランとは引 ひ き続 つづ き、石油 せきゆ 国有 こくゆう 化 か をめぐって争 あらそ い続 つづ けたが、1954年 ねん にはイギリス・イラン協定 きょうてい という妥協 だきょう 案 あん を呑 の む羽目 はめ となった。1952年 ねん にケニア でマウマウ団 だん の乱 らん が勃発 ぼっぱつ すると、チャーチルは空軍 くうぐん をも出動 しゅつどう させて反 はん 英 えい ゲリラの鎮圧 ちんあつ にあたった。だが懐柔 かいじゅう のために様々 さまざま な植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の緩和 かんわ を行 おこな うことも余儀 よぎ なくされ、最終 さいしゅう 的 てき にはチャーチル退任 たいにん 後 ご の1963年 ねん 12月にケニアは独立 どくりつ した。
1953年 ねん に『第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 回顧 かいこ 録 ろく 』などでノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう を受賞 じゅしょう 。現職 げんしょく の国家 こっか 指導 しどう 者 しゃ が同 どう 賞 しょう を受 う けたのは、現在 げんざい までチャーチルのみである(後 のち にシャルル・ド・ゴール がフランス大統領 だいとうりょう 在任 ざいにん 中 ちゅう の1963年 ねん に候補 こうほ となっていたことが明 あき らかになった)。1954年 ねん 11月30日 にち に80歳 さい を迎 むか え、グラッドストン に次 つ ぐ高齢 こうれい 首相 しゅしょう となった。しかしこの頃 ころ にはチャーチルの耳 みみ はすっかり遠 とお くなり、閣議 かくぎ で昔話 むかしばなし をとりとめもなく語 かた りだすばかりになっていた。多 おお くの閣僚 かくりょう がチャーチルを引退 いんたい させる必要 ひつよう を痛感 つうかん していた中 なか 、ついにマクミランがチャーチルに引退 いんたい を勧 すす めた。チャーチルは素直 すなお にこれを了承 りょうしょう し、1955年 ねん 4月 がつ に首相 しゅしょう 職 しょく を辞 じ した。後任 こうにん の首相 しゅしょう ・保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ になったのは外相 がいしょう サー・アンソニー・イーデン だった。退任 たいにん にあたってエリザベス2世 せい 女王 じょおう は「伯爵 はくしゃく 位 い を与 あた える」との叡慮 えいりょ を示 しめ したが、チャーチルは「庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん として政治 せいじ 家 か を続 つづ けること」を希望 きぼう し、これを拝辞 はいじ した。
首相 しゅしょう 退任 たいにん 後 ご も1955年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ 、1959年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ で当選 とうせん を果 は たして庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん を務 つと め続 つづ けたが、政界 せいかい の表 ひょう に立 た つことはなかった。1956年 ねん にイーデン首相 しゅしょう が第 だい 二 に 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう の失敗 しっぱい で退任 たいにん した際 さい に一部 いちぶ にチャーチル待望 たいぼう 論 ろん も出 で たが、実現 じつげん はしなかった。
1963年 ねん にアメリカ連邦 れんぽう 議会 ぎかい から「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 名誉 めいよ 市民 しみん 」の称号 しょうごう が授与 じゅよ された。ホワイトハウス での授与 じゅよ 式 しき には長男 ちょうなん ランドルフが代 か わって出席 しゅっせき し、チャーチルはメッセージだけ送 おく った。そこには「私 わたし はイギリスが『おとなしい役割 やくわり に追放 ついほう された』という見解 けんかい を拒否 きょひ する」と書 か かれていた。これに対 たい してアメリカの元 もと 国務 こくむ 長官 ちょうかん ディーン・アチソン から「イギリスは帝国 ていこく を失 うしな い、新 あたら しい役割 やくわり は見 み つけられていない」と嫌味 いやみ を返 かえ された。
チャーチルの葬列 そうれつ
チャーチルの墓 はか
1960年代 ねんだい に入 はい った晩年 ばんねん のチャーチルはひどく老衰 ろうすい し、言葉 ことば の意味 いみ もよく分 わ からなくなっていた。また頻繁 ひんぱん に涙 なみだ を流 なが すようになったという。老 お いてもチャーチル人気 にんき は健在 けんざい で、毎年 まいとし チャーチルの誕生 たんじょう 日 び の前夜 ぜんや にはチャーチルのハイド・パーク・ゲートの屋敷 やしき の周 まわ りに人々 ひとびと が集 あつ まってきた。チャーチルも屋敷 やしき の窓 まど に立 た ち、集 あつ まってくれた人々 ひとびと に向 む けてVサイン を送 おく っていた。
1964年 ねん 11月29日 にち にもチャーチルは元気 げんき な姿 すがた を群衆 ぐんしゅう に披露 ひろう したが、これが公衆 こうしゅう に見 み せたチャーチルの最期 さいご の姿 すがた となった。
1965年 ねん 1月 がつ 8日 にち に脳卒中 のうそっちゅう で左 ひだり 半身 はんしん が麻痺 まひ し、1月 がつ 24日 にち 午前 ごぜん 8時 じ 頃 ごろ 、家族 かぞく に見守 みまも られながら永眠 えいみん した。90歳 さい 没 ぼつ 。最後 さいご の言葉 ことば はなかったという。奇遇 きぐう にもこの1月24日 にち は父 ちち ランドルフの命日 めいにち であった。
エリザベス2世 せい 女王 じょおう の叡慮 えいりょ により、チャーチルの遺体 いたい を納 おさ めた棺 かん は3日間 にちかん ウェストミンスター・ホール に安置 あんち された。国民 こくみん の弔問 ちょうもん が許可 きょか され、30万 まん 人 にん もの人々 ひとびと が訪 おとず れた。その後 ご 、チャーチルの棺 かん は国葬 こくそう でセント・ポール大 だい 聖堂 せいどう まで送 おく られた。死去 しきょ 6日 にち 後 ご の1月 がつ 30日 にち に行 おこな われたセント・ポール大 だい 聖堂 せいどう での葬儀 そうぎ にはエリザベス2世 せい 女王 じょおう も参列 さんれつ した。イギリスには「君主 くんしゅ は、臣民 しんみん の葬儀 そうぎ に出席 しゅっせき しない」という慣例 かんれい があり、これはその慣例 かんれい が初 はじ めて破 やぶ られた事例 じれい であった。
遺体 いたい は、ブレナム宮殿 きゅうでん の近 ちか くブラドン (英語 えいご 版 ばん ) のセント・マーティン教会 きょうかい 墓地 ぼち に葬 ほうむ られた。ここはチャーチルの両親 りょうしん が葬 ほうむ られた墓地 ぼち であり、チャーチルも両親 りょうしん の墓 はか の近 ちか くで眠 ねむ っている。
イギリスでは現在 げんざい でもチャーチル人気 にんき は高 たか く、2002年 ねん にBBC が行 おこな った「100名 めい の最 もっと も偉大 いだい な英国 えいこく 人 じん 」の世論 せろん 調査 ちょうさ では1位 い になった[771] 。
また2016年 ねん から発行 はっこう しているの5ポンド紙幣 しへい の裏面 りめん にチャーチルの肖像 しょうぞう が使用 しよう されている[772] (表面 ひょうめん はこれまで通 とお りエリザベス2世 せい 女王 じょおう )、イングランド銀行 いんぐらんどぎんこう 総裁 そうさい サー・マーヴィン・キング は「偉大 いだい な英国 えいこく の指導 しどう 者 しゃ 」と述 の べた[773] 。
2015年 ねん 、手記 しゅき や著書 ちょしょ ・スピーチの原稿 げんこう がユネスコ記憶 きおく 遺産 いさん に登録 とうろく された[774] 。
チャーチルはロイド・ジョージ と並 なら ぶ「急進 きゅうしん 派 は のリーダー」として知 し られていたが、1909年 ねん 頃 ごろ からロイド・ジョージともども自由 じゆう 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 もの となった。チャーチルの帝国 ていこく 主義 しゅぎ はある程度 ていど の柔軟 じゅうなん 性 せい があったものの、基本 きほん 的 てき には絶頂 ぜっちょう 期 き のヴィクトリア朝 あさ 大 だい 英 えい 帝国 ていこく が未 いま だ続 つづ いているかのような幻想 げんそう の帝国 ていこく 像 ぞう を思 おも い描 えが いていた。若 わか い時 とき のキューバでの反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ 経験 けいけん から、「イギリス人 じん の支配 しはい 民族 みんぞく としての責任 せきにん 感 かん を強 つよ くすれば、搾取 さくしゅ ではなく、被 ひ 支配 しはい 民族 みんぞく に慈悲 じひ を与 あた えるものとなっていく」という考 かんが えを抱 だ いていた。
チャーチルは第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 中 ちゅう の1942年 ねん 11月に「私 わたし は大 だい 英 えい 帝国 ていこく を清算 せいさん するために首相 しゅしょう になったのではない」と宣言 せんげん した。これはかねてから大 だい 英 えい 帝国 ていこく の破壊 はかい を目論 もくろ んでいたアメリカのルーズベルト 大統領 だいとうりょう をけん制 せい した演説 えんぜつ だった。ルーズベルトはしばしばチャーチルの帝国 ていこく 主義 しゅぎ 精神 せいしん を批判 ひはん し、面 めん と向 む かって「貴方 あなた の血 ち には400年 ねん の植民 しょくみん 地 ち 獲得 かくとく の本能 ほんのう が流 なが れている」などと発言 はつげん してきたこともある。一方 いっぽう チャーチルの方 ほう もルーズベルトに「貴方 あなた は大 だい 英 えい 帝国 ていこく を無 な くそうとしているとしか思 おも えない」とい返 いかえ したことがある。
チャーチルが独 どく 伊 い で独裁 どくさい 政治 せいじ を敷 し くアドルフ・ヒトラー やムッソリーニ に対 たい して抱 だ いていた共感 きょうかん の一 ひと つに「優等 ゆうとう 文明 ぶんめい は劣等 れっとう 文明 ぶんめい を支配 しはい ・指導 しどう する」という理論 りろん があった。
チャーチルは常々 つねづね インド人 じん やインド文明 ぶんめい を「劣等 れっとう 視 し 」し、「イギリスによって支配 しはい されることが必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ 」と確信 かくしん していた。「インド人 じん に選挙 せんきょ 制度 せいど を与 あた えるべきか否 ひ か」聞 き かれた際 さい にチャーチルは「彼 かれ らはあまりにも無知 むち なので誰 だれ に投票 とうひょう したらいいか分 わ かるはずもない。彼 かれ らは人口 じんこう 45万 まん 人 にん の村 むら で4、5人 にん が集 あつ まって村 むら の共通 きょうつう の問題 もんだい を討論 とうろん するような簡単 かんたん な組織 そしき さえ作 つく ることができない身分 みぶん の卑 いや しい原始 げんし 的 てき 人種 じんしゅ なのだ」と答 こた えている。
世界中 せかいじゅう の人 ひと たちが、「日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で(イギリスの同盟 どうめい 国 こく ではあったものの)有色 ゆうしょく 人種 じんしゅ 国家 こっか の日本人 にっぽんじん が白 しろ 人種 じんしゅ 国家 こっか のロシア を打 う ち破 やぶ ったこと」を目 ま のあたりにし、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まる頃 ころ には、カナダ 、オーストラリア 、ニュージーランド など白人 はくじん が大 だい 多数 たすう で白人 はくじん の自治 じち 政府 せいふ はイギリス帝国 ていこく に相変 あいか わらず忠実 ちゅうじつ だったものの、インドやマレ まれ ー半島 はんとう 、ビルマ などの有色 ゆうしょく 人種 じんしゅ が大 だい 多数 たすう の植民 しょくみん 地 ち の住人 じゅうにん たちは最早 もはや イギリス帝国 ていこく に忠実 ちゅうじつ ではなくなっていた。なぜなら、この頃 ころ には有色 ゆうしょく 人 じん たちも情報 じょうほう を多 おお く入手 にゅうしゅ するようになっており、「戦争 せんそう の意味 いみ 」や「帝国 ていこく に支配 しはい され続 つづ ける意味 いみ 」に疑問 ぎもん を感 かん じ始 はじ めていたからである。そして彼 かれ らの多 おお くが枢軸 すうじく 国 こく と連携 れんけい することで、イギリスの植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい に反抗 はんこう して独立 どくりつ するために立 た ち向 む かった。たとえばイギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう パレスチナのイスラム教 いすらむきょう 最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ (大 だい ムフティー )であるアミーン・フサイニー はドイツへ逃 のが れ、「ムスリム解放 かいほう 軍 ぐん 」を組織 そしき してイギリスに反旗 はんき を翻 ひるがえ した。英 えい 領 りょう ビルマの民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ アウンサン も日本 にっぽん へ逃 のが れて「ビルマ防衛 ぼうえい 軍 ぐん 」を組織 そしき した。イギリス領 りょう インド帝国 ていこく のチャンドラ・ボース もドイツで「自由 じゆう インド部隊 ぶたい (ドイツ語 ご 版 ばん ) 」、日本 にっぽん や日本 にっぽん 統治 とうち 下 か のシンガポール で「インド国民 こくみん 軍 ぐん 」を組織 そしき し、イギリスと戦 たたか った。
1942年 ねん の日本 にっぽん 軍 ぐん のマレー作戦 さくせん によるシンガポール陥落 かんらく は、アジアにおけるイギリスの威信 いしん を決定的 けっていてき に崩壊 ほうかい させた。勇気 ゆうき を得 え たインド人 じん たちは、同年 どうねん から反 はん 英 えい 闘争 とうそう 「インドから出 で て行 い け」運動 うんどう を開始 かいし した。これに対 たい してチャーチルは徹底的 てっていてき 弾圧 だんあつ をもって臨 のぞ み、ガンジーやネルー、ヒンズ ひんず ー教 きょう 指導 しどう 者 しゃ など1万 まん 人 にん 以上 いじょう の者 もの を投獄 とうごく した。だが、それもむなしく大戦 たいせん が終 お わるまでにイギリスの植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 体制 たいせい は根底 こんてい から揺 ゆ さぶられた。枢軸 すうじく 国 こく と協力 きょうりょく したチャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボース 、A.M.ナイル そして彼 かれ らの指揮 しき 下 か にあったインド国民 こくみん 軍 ぐん の兵士 へいし たちが殉教者 じゅんきょうしゃ としてインド国民 こくみん の間 あいだ で英雄 えいゆう 視 し されていくことにイギリス人 じん たちは落胆 らくたん した。
チャーチルが恐 おそ れていた通 とお り、戦後 せんご の労働党 ろうどうとう 政権 せいけん がインドの民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ たちに譲歩 じょうほ の姿勢 しせい を見 み せた時 とき 、後 のち は全 すべ てが時間 じかん の問題 もんだい となり、一気 いっき にインド独立 どくりつ まで突 つ き進 すす んでいった。イギリスがインドを放棄 ほうき した後 のち 、マレーやビルマなど他 た のアジア植民 しょくみん 地 ち もなし崩 くず し的 てき に独立 どくりつ していった。波及 はきゅう はアジアに留 と まらなかった。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 、イギリス軍 ぐん はアフリカ植民 しょくみん 地 ち の住民 じゅうみん たちを駆 か りだしてドイツ軍 ぐん や日本 にっぽん 軍 ぐん と戦 たたか わせていた。この戦 たたか いを通 つう じてアフリカ人 じん 兵士 へいし たちは「絶対 ぜったい 的 てき 支配 しはい 者 しゃ 」だと思 おも っていたイギリス人 じん が無敵 むてき の存在 そんざい でもなんでもないことを知 し った。彼 かれ らは復員 ふくいん した後 のち 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん での見聞 けんぶん を生 い かしてイギリス植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい との戦 たたか いの主力 しゅりょく となり、ついにアフリカ各国 かっこく の独立 どくりつ を実現 じつげん した。
戦後 せんご のアジアとアフリカの独立 どくりつ の嵐 あらし が過 す ぎ去 さ ったあと、イギリスに残 のこ されたものはイギリス連邦 れんぽう という加盟 かめい 国 こく を縛 しば る規則 きそく が何 なに もなく、「女王 じょおう を戴 いただ くか否 ひ か(=君主 くんしゅ 制 せい を維持 いじ するか共和 きょうわ 制 せい へ移行 いこう するか)」までもが自由 じゆう という奇妙 きみょう な連邦 れんぽう だけだった。
ヒトラーも自殺 じさつ の少 すこ し前 まえ に「大 だい 英 えい 帝国 ていこく はすでに滅 ほろ びる運命 うんめい にある」と予言 よげん し、チャーチルを「帝国 ていこく の墓 はか 掘 ほ り人 じん 」と呼 よ んで批判 ひはん していた。ヒトラーによれば「チャーチルがフランス戦 せん 後 ご すぐにドイツとの講和 こうわ に応 おう じていれば、大 だい 英 えい 帝国 ていこく は引 ひ き続 つづ き繁栄 はんえい を謳歌 おうか していただろう」という。そして「こんな大 だい 酒 さけ のみのユダヤ化 か した半 はん アメリカ人 じん (チャーチル)ではなく、小 しょう ピット のような人物 じんぶつ がイギリスを差配 さはい するべきだった」と結論 けつろん している。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ の自由党 じゆうとう 政権 せいけん 時代 じだい 、チャーチルはロイド・ジョージとともに急進 きゅうしん 派 は 閣僚 かくりょう として多 おお くの社会 しゃかい 改良 かいりょう 政策 せいさく に取 と り組 く んだが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に2人 ふたり の道 みち は隔 へだ てられた。ロイド・ジョージは生涯 しょうがい 社会 しゃかい 改良 かいりょう 政策 せいさく に情熱 じょうねつ を捧 ささ げたが、チャーチルの方 ほう は「アカの恐怖 きょうふ 」に捕 と らわれていったからである。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の列強 れっきょう 諸国 しょこく による反 はん ソ干渉 かんしょう 戦争 せんそう の最大 さいだい の推進 すいしん 力 りょく はチャーチルであった。チャーチルは「歴史 れきし 上 じょう のあらゆる専制 せんせい の中 なか でもボルシェヴィキの専制 せんせい は最悪 さいあく であり、最 もっと も破壊 はかい 的 てき にして、最 もっと も劣等 れっとう である。『ドイツ軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ よりはマシ』などというのもデマだ。ボルシェヴィキ支配 しはい 下 か のロシア人 じん は帝政 ていせい 時代 じだい よりずっと悲惨 ひさん な状態 じょうたい に置 お かれている。レーニン やトロツキー の残虐 ざんぎゃく 行為 こうい はカイザーのそれを軽 かる く超 こ える」、「ボルシェヴィズムは政策 せいさく ではなく、疫病 えきびょう である。思想 しそう ではなく、ペスト菌 きん である」「私 わたし がボルシェヴィキを嫌悪 けんお しているのはその愚 おろ かな経済 けいざい 政策 せいさく や不合理 ふごうり な主義 しゅぎ の故 ゆえ ではない。奴 やつ らが侵入 しんにゅう した土地 とち にはその犯罪 はんざい 的 てき 体制 たいせい を支 ささ えるために赤色 あかいろ テロ が行 おこな われるからだ」などと共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国 こく であるソビエト連邦 れんぽう への敵意 てきい を煽 あお る演説 えんぜつ を盛 さか んに行 い った。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう に行 おこな われた「テヘラン会談 かいだん 」や「ヤルタ会談 かいだん 」などの連合 れんごう 国軍 こくぐん 同士 どうし の会議 かいぎ においても、チャーチルはソビエト連邦 れんぽう のスターリン とは幾度 いくど も衝突 しょうとつ し、終 おわり いには同盟 どうめい 国 こく であるアメリカのルーズヴェルト大統領 だいとうりょう とスターリンが親 した しくなる始末 しまつ であった。
チャーチルの反共 はんきょう はその後 ご 、死 し ぬまでずっと続 つづ いた。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご も反共 はんきょう 演説 えんぜつ を続 つづ け、「ボルシェヴィズムはその誕生 たんじょう の時 とき にくびり殺 ころ しておけば、人類 じんるい にとって計 はか り知 し れない幸福 こうふく があったであろう」「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ と議論 ぎろん をしても無駄 むだ だ。共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ を改宗 かいしゅう させたり、説得 せっとく しようとするのも無駄 むだ だ。もっと容赦 ようしゃ なく実力 じつりょく を行使 こうし し、何 なに が起 お ころうとも道徳 どうとく 的 てき 配慮 はいりょ などしないということをソ連 それん 政府 せいふ に理解 りかい させることが唯一 ゆいいつ の平和 へいわ への道 みち だ。」「アメリカの原爆 げんばく のみがソ連 それん の軍事 ぐんじ 侵攻 しんこう を抑 おさ えているのだ。」。
一方 いっぽう でチャーチルは共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ であってもレーニン だけは(忌 い み嫌 きら いつつ)ある種 しゅ の畏敬 いけい の念 ねん を抱 いだ くことがあった[要 よう 出典 しゅってん ] 。レーニンについて「彼 かれ の慈愛 じあい は北極 ほっきょく 海 かい のように冷 つめ たく広 ひろ い。彼 かれ の憎悪 ぞうお は絞首刑 こうしゅけい 執行 しっこう 人 じん の首 くび なわより固 かた い。」「彼 かれ の目的 もくてき は世界 せかい を救 すく うことだった。そしてその方法 ほうほう は世界 せかい を爆破 ばくは することだった。」「ロシア人 じん の最大 さいだい の不幸 ふこう はレーニンが生 う まれてきたことだが、その次 つぎ の不幸 ふこう は彼 かれ が死 し んだことだ」と評 ひょう している。
ロイド・ジョージは後年 こうねん 、チャーチルについて「彼 かれ は共産 きょうさん 主義 しゅぎ を心 しん から憎悪 ぞうお していた。彼 かれ の公爵 こうしゃく 家 か の血 ち が、ロシア大公 たいこう 皆殺 みなごろ しに強 つよ い怒 いか りを感 かん じさせたのだ。ロシア革命 かくめい を病的 びょうてき に嫌悪 けんお する余 あま り、帝政 ていせい が凋落 ちょうらく した原因 げんいん を冷静 れいせい に分析 ぶんせき することができなかった」と評 ひょう している。
ずっと議会 ぎかい 政治 せいじ の中 なか で生 い きてきたチャーチルは基本 きほん 的 てき に議会 ぎかい 主義 しゅぎ 者 もの である。だが、1930年 ねん 前後 ぜんこう に世界 せかい 各国 かっこく で議会 ぎかい 政治 せいじ が終焉 しゅうえん ないし後退 こうたい していく中 なか 、チャーチルも議会 ぎかい 主義 しゅぎ はもう終 お わった思想 しそう であり、独裁 どくさい 政治 せいじ にこそ未来 みらい があると考 かんが えた時期 じき があった。1930年 ねん に出版 しゅっぱん されたオットー・フォルスト・デ・バタグリア (ドイツ語 ご 版 ばん ) 著 ちょ 『試 ため される独裁 どくさい 政治 せいじ 』の英語 えいご 翻訳 ほんやく 本 ほん でチャーチルは「イタリアのムッソリーニ、トルコのケマル、ポーランドのピウスツキ など権威 けんい ある国家 こっか 指導 しどう 者 しゃ たちが、弱体 じゃくたい にして非 ひ 効率 こうりつ 的 てき 、しかも民意 みんい を反映 はんえい していない議会 ぎかい 政治 せいじ に取 と って代 か わる日 ひ は近 ちか い」という前書 まえが きを寄 よ せている。
しかし1935年 ねん 頃 ごろ からヒトラーとの対決 たいけつ 姿勢 しせい を強 つよ めていくにつれて再 ふたた び議会 ぎかい 主義 しゅぎ を旗印 はたじるし とするようになった。ヤルタ会談 かいだん の際 さい 、チャーチルはスターリンとルーズベルトに対 たい して「ここにいる3人 にん の中 なか でいつでも選挙 せんきょ で国民 こくみん から放 ほう り出 だ される危険 きけん があるのは私 わたし だけだ。だがその危険 きけん があることを私 わたし は誇 ほこ りに思 おも っている」と述 の べたという。ただし戦時 せんじ 中 ちゅう にはチャーチルもほぼ独裁 どくさい 者 しゃ であった。
1945年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ において、議会 ぎかい 外 がい 組織 そしき が議員 ぎいん を含 ふく めた党 とう 全体 ぜんたい を指導 しどう するという労働党 ろうどうとう を「議会 ぎかい 政治 せいじ 軽視 けいし 」としてナチ党 とう になぞらえて批判 ひはん したことは前述 ぜんじゅつ したとおりである。
チャーチルはアーサー・バルフォア と並 なら び、ハイム・ヴァイツマン に感銘 かんめい を受 う けて英国 えいこく 政界 せいかい で真 ま っ先 さき にシオニズム 支持 しじ 者 しゃ になった政治 せいじ 家 か の一人 ひとり である。首相 しゅしょう 在任 ざいにん 中 ちゅう にもチャーチルはしばしばユダヤ人 じん のパレスチナ移民 いみん を増加 ぞうか させたがっていたが、外務 がいむ 大臣 だいじん アンソニー・イーデン が現地 げんち アラブ人 じん の反発 はんぱつ を買 か って中東 ちゅうとう 駐留 ちゅうりゅう 英軍 えいぐん が危険 きけん に晒 さら されかねないと反対 はんたい して押 お しとどめていた。
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 前 まえ ・戦中 せんちゅう 、アメリカ世論 せろん は概 がい して反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 的 てき であり、ユダヤ人 じん の問題 もんだい についてはナチス・ドイツの主張 しゅちょう に共感 きょうかん を寄 よ せる者 もの さえ少 すく なくなかった。アメリカ政府 せいふ もユダヤ人 じん を救 すく うための行動 こうどう をほとんど起 お こそうとしなかった。一方 いっぽう チャーチルはユダヤ人 じん に同情 どうじょう し、ホロコースト について「この殺戮 さつりく は恐 おそ らく世界 せかい 史上 しじょう 最大 さいだい かつ最悪 さいあく の犯罪 はんざい 行為 こうい である」と怒 いか りを表明 ひょうめい し、アウシュヴィッツ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ のガス室 しつ を空爆 くうばく してユダヤ人 じん を救出 きゅうしゅつ すべしと訴 うった え続 つづ けた。しかし米 べい 英 えい 政府 せいふ 内 ない でそんなことを主張 しゅちょう しているのはチャーチルだけであり、「軍事 ぐんじ 施設 しせつ 以外 いがい の空爆 くうばく など費用 ひよう と時間 じかん の無駄 むだ 」とアメリカ軍 ぐん に反対 はんたい されて退 しりぞ けられてしまった。
個人 こじん 的 てき にもチャーチルはユダヤ人 じん との交友 こうゆう が多 おお く、しばしば金銭 きんせん 援助 えんじょ も受 う けた。1938年 ねん に借金 しゃっきん がかさみすぎてチャートウェル邸 てい の売却 ばいきゃく を検討 けんとう せねばならない家計 かけい 難 なん に陥 おちい ったことがあったが、ユダヤ金融 きんゆう 業者 ぎょうしゃ サー・ヘンリー・ストラコッシュがその借金 しゃっきん を肩代 かたが わりしてくれた。首相 しゅしょう 時代 じだい にはロスチャイルド家 か の第 だい 3代 だい 当主 とうしゅ ヴィクター・ロスチャイルド 男爵 だんしゃく を自 みずか らの護衛 ごえい 隊員 たいいん として側近 そっきん に置 お いていた。
チャーチルは「輝 かがや かしい栄光 えいこう を残 のこ して滅 ほろ びよ」という持論 じろん を持 も っており、ヒトラーと同 おな じく死守 ししゅ 命令 めいれい を好 この んだ。また「空襲 くうしゅう で確実 かくじつ に敵国 てきこく 心臓 しんぞう 部 ぶ に打撃 だげき を与 あた えていく」という確実 かくじつ な戦法 せんぽう より、強襲 きょうしゅう 、ゲリラ戦 せん 、おとり作戦 さくせん 、罠 わな など派手 はで な作戦 さくせん を決行 けっこう することを好 この んだ。
チャーチルは自 みずか らが指揮 しき に携 たずさ わった第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を「不 ふ 必要 ひつよう な戦争 せんそう 」と呼 よ んでいた。
チャーチルは最 さい 晩年 ばんねん には「私 わたし は非常 ひじょう に多 おお くのことをやってきたが、結局 けっきょく 何 なに も達成 たっせい することはできなかった」と語 かた るようになった。チャーチルの二 に 度 ど の世界 せかい 大戦 たいせん の『勝利 しょうり 』は大 だい 英 えい 帝国 ていこく の崩壊 ほうかい と米 べい ソの世界 せかい 支配 しはい をもたらしただけだった。「大 だい ブリテンは神 かみ から選 えら ばれ、世界 せかい を導 みちび く義務 ぎむ を負 お っている」というチャーチルの信念 しんねん は崩 くず れ去 さ った。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 、射撃 しゃげき 練習 れんしゅう をするチャーチル首相 しゅしょう
チャーチルは「涙 なみだ もろく、小鳥 ことり が死 し んだだけでも泣 な く人 ひと 」だったが、一方 いっぽう で「真 しん の同情 どうじょう は持 も っていないことが多 おお かった」という意見 いけん もある。
クレマンソー
1917年 ねん にフランス首相 しゅしょう ・陸相 りくしょう に就任 しゅうにん したジョルジュ・クレマンソー は70代 だい の高齢 こうれい でありながら血気 けっき 盛 さか んな人 ひと で、しばしば砲火 ほうか に身 み をさらすことも厭 いと わなかった。チャーチルは他 た の政治 せいじ 家 か を尊敬 そんけい するということがほとんどない人 ひと だったが、その唯一 ゆいいつ の例外 れいがい はこのクレマンソーであった。特 とく にクレマンソーが「私 わたし は何 なん の政治 せいじ 的 てき 原則 げんそく もない男 おとこ だ。私 わたし は現実 げんじつ に起 お こる事象 じしょう を経験 けいけん に照 て らし合 あ わせて処理 しょり するだけだ。」と語 かた ったことにチャーチルは共感 きょうかん を持 も った。チャーチルはクレマンソーの「私 わたし はパリの前面 ぜんめん で戦 たたか い、パリ市 し 中 ちゅう から戦 たたか い、パリの後方 こうほう でも戦 たたか い続 つづ ける」という言葉 ことば を拝借 はいしゃく した。
ムッソリーニ
チャーチルはムッソリーニに非常 ひじょう な興味 きょうみ を持 も ち、彼 かれ の著作 ちょさく を読 よ み、その生涯 しょうがい を調 しら べることに熱心 ねっしん だった。とりわけ彼 かれ のロ ろ ーマ帝国 まていこく を復活 ふっかつ させて「劣等 れっとう の文明 ぶんめい 」を支配 しはい して導 みちび こうという「帝国 ていこく の使命 しめい 」の思想 しそう には同 おな じ帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ として強 つよ い共感 きょうかん を持 も っていた。後 ご の第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう とイタリア領 りょう 東 ひがし アフリカ帝国 ていこく 建設 けんせつ も高 たか く評価 ひょうか していた。1940年 ねん にフランス戦役 せんえき が勃発 ぼっぱつ して英 えい 伊 い が交戦 こうせん 関係 かんけい となった後 のち にさえも「(ムッソリーニが)偉大 いだい な男 おとこ であることは否定 ひてい しない」と述 の べていた。また「この独裁 どくさい 者 しゃ には共産 きょうさん 主義 しゅぎ からイタリアを守 まも った功績 こうせき がある。だが彼 かれ の失敗 しっぱい は1940年 ねん 6月 がつ にヒトラーの勝利 しょうり に惑 まど わされてイギリスに宣戦 せんせん 布告 ふこく してきたことだ。この時 とき に彼 かれ は誤 あやま った道 みち に進 すす んでしまった。もしあの時 とき に中立 ちゅうりつ を保 たも っていれば、この戦争 せんそう を利用 りよう して更 さら なる繁栄 はんえい に至 いた ったであろうに。」と惜 お しんでいる。
ガンジー
ガンジーを嫌 きら い、「アジアによくいる托鉢 たくはつ に成 な り済 す ました英国 えいこく 法 ほう 学院 がくいん 卒業 そつぎょう の扇動 せんどう 家 か ガンジー弁護士 べんごし が、半裸 はんら 姿 すがた で陛下 へいか の名代 なだい たるインド総督 そうとく と対等 たいとう 交渉 こうしょう している。このような光景 こうけい を許 ゆる していればインドの不安定 ふあんてい と白人 はくじん の危機 きき を招 まね く」と警鐘 けいしょう を鳴 な らし、さらにガンジーを「狂信 きょうしん 的 てき 托鉢 たくはつ 」と断 だん じた。
ヒトラー
チャーチルはヒトラーを歴史 れきし 的 てき 文脈 ぶんみゃく で捉 とら えており、スペイン王 おう フェリペ2世 せい 、フランス王 おう ルイ14世 せい 、フランス皇帝 こうてい ナポレオン 、ドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい といったイギリスが常 つね に戦 たたか ってきた「ヨーロッパの勢力 せいりょく 均衡 きんこう を崩 くず す者 もの 」に連 つら なる存在 そんざい だと考 かんが えていたのである。
ヒトラーの方 ほう もイギリス国内 こくない で対 たい 独 どく 強硬 きょうこう 論 ろん をまき散 ち らしているチャーチルを「戦争 せんそう 挑発 ちょうはつ 屋 や 」と批判 ひはん している。
日本 にっぽん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
チャーチルにとって大 おお きなウェイトを占 し めるアメリカ とドイツ には及 およ ばないが、日本 にっぽん も重視 じゅうし した国 くに であり、日 にち 英 えい 同盟 どうめい の締結 ていけつ には賛成 さんせい し、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん への日本 にっぽん 参戦 さんせん に対 たい しては融和 ゆうわ 工作 こうさく を行 おこな っている。チャーチルは基本 きほん 的 てき に東洋 とうよう には殆 ほとん ど興味 きょうみ がなく、日本 にっぽん についても知識 ちしき が多 おお かったわけではないが、中国 ちゅうごく について全 まった く関心 かんしん を持 も たなかったのに対 たい し、当時 とうじ のアジア では数少 かずすく ない独立 どくりつ 国 こく かつ近代 きんだい 国家 こっか で5大国 たいこく の一角 いっかく を占 し め、王室 おうしつ を抱 かか える自国 じこく と共通 きょうつう して天皇 てんのう ・皇室 こうしつ を擁 よう く君主 くんしゅ 制 せい を維持 いじ し、その後 ご 同盟 どうめい 関係 かんけい を築 きず いた日本人 にっぽんじん に対 たい しては一定 いってい の親近 しんきん 感 かん を持 も っていた。
チャーチルが日本 にっぽん を最初 さいしょ に意識 いしき したのは父 ちち ランドルフ卿 きょう と母 はは ジャネットが日本 にっぽん 旅行 りょこう をした明治 めいじ 27年 ねん (1894年 ねん )である。日本 にっぽん から送 おく られてきた母 はは の手紙 てがみ の中 なか に日本 にっぽん の写真 しゃしん が同封 どうふう されており、チャーチルは母 はは への返信 へんしん で「お母 かあ さんからの手紙 てがみ はとてもうれしいです。写真 しゃしん は美 うつく しく、日本 にっぽん の思 おも い出 で の品 しな として一生 いっしょう 大事 だいじ にしようと思 おも っています」と書 か いている(この時 とき に日本 にっぽん で撮 と られた写真 しゃしん が父 ちち ランドルフ卿 きょう が映 うつ っている最後 さいご の写真 しゃしん でもある)。
チャーチルは日 にち 露 ろ 戦争 せんそう において、同盟 どうめい 国 こく である日本 にっぽん が勝利 しょうり して「朝鮮半島 ちょうせんはんとう の併合 へいごう と中国 ちゅうごく 、並 なら びに太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう に一定 いってい の権益 けんえき を持 も つ」状況 じょうきょう になり、このおかげでイギリスの艦隊 かんたい が中国 ちゅうごく から安全 あんぜん に帰国 きこく できるようになったことを歓迎 かんげい した。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でも日本 にっぽん はイギリスとともに連合 れんごう 国 こく として参戦 さんせん したが、日本 にっぽん が中国 ちゅうごく への21カ条 かじょう 要求 ようきゅう で権益 けんえき 拡張 かくちょう を主張 しゅちょう するようになると、中国 ちゅうごく における自国 じこく の利権 りけん が侵 おか されることを恐 おそ れたアメリカが反発 はんぱつ し、アメリカがイギリスに対 たい して日 にち 英 えい 同盟 どうめい の破棄 はき を促 うなが し、その結果 けっか 日 にち 英 えい 同盟 どうめい は1921年 ねん のワシントン会議 かいぎ で破棄 はき された。
日 にち 英 えい 同盟 どうめい が破棄 はき された理由 りゆう について、1936年 ねん にアメリカの雑誌 ざっし 「コリアーズ (英語 えいご 版 ばん ) 」への寄稿 きこう 文 ぶん 「日本 にっぽん とモンロー主義 しゅぎ 」の中 なか でチャーチルは、「イギリスはアメリカとイギリス連邦 れんぽう との関係 かんけい を分断 ぶんだん するような目標 もくひょう は追求 ついきゅう しないというのが方針 ほうしん であり、日米 にちべい 関係 かんけい の悪化 あっか によってアメリカの圧 あつ 力 りょく によって破棄 はき せざるをえなかった」と述 の べたうえで、「しかし、日 にち 英 えい 同盟 どうめい の破棄 はき は歴史 れきし の悲劇 ひげき 的 てき な一章 いっしょう となるかもしれない」と書 か き、また「日本 にっぽん は同盟 どうめい 破棄 はき を日本 にっぽん の人種 じんしゅ 差別 さべつ 撤廃 てっぱい 要求 ようきゅう に対 たい する侮辱 ぶじょく 的 てき な回答 かいとう として受 う け取 と ったが、英 えい 米 べい はこの点 てん について理解 りかい 不足 ふそく であった」と認 みと めている。
日 にち 英 えい 離間 りかん ・対立 たいりつ の中 なか で[ 編集 へんしゅう ]
1931年 ねん 9月 がつ の満 まん 洲 しゅう 事変 じへん の際 さい には侵略 しんりゃく と批判 ひはん する声 こえ もあった中 なか 、チャーチルは「日本人 にっぽんじん が中国 ちゅうごく で行 おこな っている事 こと は我々 われわれ がインド で行 おこな っていることと同 おな じ」、「これで中国 ちゅうごく も少 すこ しは収 おさ まるだろう」として支持 しじ を表明 ひょうめい した。ただし満 まん 洲 しゅう 事変 じへん は、チャーチルのみならず、当時 とうじ イギリス世論 せろん や政界 せいかい は一般 いっぱん 的 てき に支持 しじ する者 もの が多 おお かった。腐敗 ふはい し国民 こくみん からの支持 しじ も低 ひく かった中華民国 ちゅうかみんこく の政府 せいふ は統治 とうち 能力 のうりょく がなく、また蔣介石 せき 政権 せいけん が日本 にっぽん の合法 ごうほう 的 てき な通商 つうしょう 権益 けんえき を無法 むほう に犯 おか していると考 かんが えられていたからである。
一方 いっぽう 、昭和 しょうわ 期 き に起 お きた軍人 ぐんじん によるクーデター 未遂 みすい 事件 じけん や政治 せいじ テロ 事件 じけん である、1932年 ねん の「五 ご ・一 いち 五 ご 事件 じけん 」や1936年 ねん の「二・二六事件 ににろくじけん 」に対 たい しては憂慮 ゆうりょ し、「偉大 いだい で名誉 めいよ ある日本 にっぽん の政治 せいじ 家 か たちが次々 つぎつぎ と暗殺 あんさつ 者 しゃ の手 て にかかってしまった。尊厳 そんげん と神聖 しんせい 性 せい を持 も つミカド (Japanese Emperor)とその政府 せいふ (His Majesty's Government)は懸命 けんめい に犯罪 はんざい 者 しゃ を処断 しょだん したが、日本 にっぽん がこの不可欠 ふかけつ の処置 しょち を取 と るのに悲痛 ひつう な努力 どりょく を必要 ひつよう としたこと自体 じたい に英 えい 米 べい は注目 ちゅうもく している」と述 の べている。
チャーチルは、イギリスにとって日本 にっぽん は軍事 ぐんじ 的 てき 脅威 きょうい ではないと一貫 いっかん して論 ろん じていたが、1936年 ねん に締結 ていけつ された日 にち 独 どく 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい は、事実 じじつ 上 じょう の「日 にち 独 どく 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい 」であるとみて警戒 けいかい し、さらに1937年 ねん の日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )によって日 にち 英 えい の利益 りえき はますます衝突 しょうとつ するようになった。しかしこの頃 ころ チャーチルは「日 にち 英 えい 同盟 どうめい を破棄 はき したのは間違 まちが いだった」と考 かんが えるようになった。1936年 ねん には「日本 にっぽん は昔 むかし 、国外 こくがい に目 め を転 てん じたローマ のようである。(略 りゃく )日本 にっぽん の中国 ちゅうごく への浸透 しんとう は日 にち 中 ちゅう あるいは日 にち ソ間 あいだ の戦争 せんそう をもたらすであろう。日 にち 中 ちゅう 間 あいだ の戦争 せんそう は中国 ちゅうごく に勝 か ち目 め はないであろうが、ソ連 それん との戦争 せんそう は日本 にっぽん にとって危険 きけん である」と述 の べている。
対 たい 日 にち 融和 ゆうわ 工作 こうさく [ 編集 へんしゅう ]
1939年 ねん 9月 がつ にはドイツがポーランドに侵攻 しんこう し、イギリス も宣戦 せんせん 布告 ふこく し第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん となった。しかし、チャーチルはその後 ご も日本 にっぽん とドイツを引 ひ き離 はな す努力 どりょく を続 つづ け、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 開戦 かいせん 後 ご の1940年 ねん 5月 がつ 17日 にち に、チャーチルは駐 ちゅう 英 えい 日本 にっぽん 大使館 たいしかん において、日本 にっぽん が参戦 さんせん しないよう(ドイツと同様 どうよう にイギリスの敵国 てきこく とならないよう)欧州 おうしゅう 戦線 せんせん について淡々 たんたん と言及 げんきゅう した。
当時 とうじ の重光 しげみつ 葵 まもる 駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし はそれまでチャーチルを「平時 へいじ の器 うつわ でなく、変事 へんじ の才 ざい 」とみて反日 はんにち 的 てき な政治 せいじ 家 か とみなしていたが、国家 こっか 存亡 そんぼう の危機 きき という難局 なんきょく に直面 ちょくめん して動 どう じないチャーチルに感嘆 かんたん し、これを機 き にチャーチルとの日 にち 英 えい 関係 かんけい 調整 ちょうせい に鋭意 えいい 取 と り組 く んだ。しかし、重光 しげみつ の報告 ほうこく は日本 にっぽん 政府 せいふ 各省 かくしょう のなかで回覧 かいらん されることはなかった。
1940年 ねん の夏 なつ から1941年 ねん の夏 なつ 頃 ごろ にかけては、チャーチルは日本 にっぽん との開戦 かいせん を避 さ けるべく努力 どりょく していた。1941年 ねん 11月 がつ 10日 とおか のロンドン市長 しちょう 午餐 ごさん 会 かい では日 にち 英 えい 関係 かんけい の悪化 あっか を悲 かな しむ発言 はつげん をしているが、結局 けっきょく 、日 にち 英 えい 開戦 かいせん を回避 かいひ することはできなかった。1942年 ねん 2月 がつ 15日 にち 、日本 にっぽん 軍 ぐん がシンガポールを攻撃 こうげき してイギリス軍 ぐん に勝利 しょうり をおさめた際 さい にはチャーチルは大 おお きなショックを受 う け、議会 ぎかい で日本 にっぽん の行動 こうどう を「犯罪 はんざい 的 てき 狂気 きょうき 」にたとえている[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。大戦 たいせん 末期 まっき のポツダム会談 かいだん では、チャーチルは日本 にっぽん に対 たい して比較的 ひかくてき 融和 ゆうわ 的 てき な態度 たいど をとるべきだと主張 しゅちょう したが、アメリカ大統領 だいとうりょう トルーマン は同意 どうい しなかった。日本 にっぽん の降伏 ごうぶく を決定 けってい づけさせた日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか については、もし原爆 げんばく を使 つか わずに日本 にっぽん 本土 ほんど 上陸 じょうりく 作戦 さくせん を決行 けっこう した場合 ばあい 、「100万 まん 人 にん のアメリカ人 じん とその半数 はんすう のイギリス人 じん が死 し ぬ」という見積 みつも りを立 た てていた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
皇太子 こうたいし 明仁 あきひと 親王 しんのう の訪英 ほうえい
1952年 ねん の昭和 しょうわ 天皇 てんのう 、香 こう 淳 じゅん 皇后 こうごう 夫妻 ふさい 、長男 ちょうなん の皇太子 こうたいし 明仁 あきひと 親王 しんのう (当時 とうじ )
1953年 ねん にエリザベス2世 せい 女王 じょおう の戴冠 たいかん 式 しき に出席 しゅっせき するため、イギリス同様 どうよう の君主 くんしゅ 国 こく である日本 にっぽん から皇室 こうしつ の代表 だいひょう として皇太子 こうたいし 明仁 あきひと 親王 しんのう (後 ご の明仁 あきひと 上皇 じょうこう )が昭和 しょうわ 天皇 てんのう の名代 なだい として訪英 ほうえい した。だが当時 とうじ イギリスは反日 はんにち 感情 かんじょう が強 つよ く、アジア・太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん において日本 にっぽん 軍 ぐん に虐待 ぎゃくたい されたイギリス軍 ぐん 捕虜 ほりょ の体験 たいけん を描 えが いた出版 しゅっぱん 物 ぶつ はベストセラー となったほか、反日 はんにち 映画 えいが は高 たか い興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう を挙 あ げ、メディアは反日 はんにち 姿勢 しせい の報道 ほうどう を繰 く り返 かえ し、在留 ざいりゅう 邦人 ほうじん は現地 げんち イギリス人 じん から嫌 いや がらせを受 う けるなど、日本人 にっぽんじん にとって非常 ひじょう に居心地 いごこち の悪 わる い状況 じょうきょう だった。そのため、チャーチルは明仁 あきひと 親王 しんのう の身 み の安全 あんぜん などに関 かん して非常 ひじょう に気 き を遣 や った。明仁 あきひと 親王 しんのう のための午餐 ごさん 会 かい には、当時 とうじ 日本 にっぽん 批判 ひはん の先頭 せんとう に立 た っていた新聞 しんぶん 業界 ぎょうかい 人 じん を招待 しょうたい し、首相 しゅしょう 自 みずか らが日本 にっぽん の皇太子 こうたいし を大切 たいせつ な賓客 ひんきゃく として鄭重 ていちょう にもてなすことを眼前 がんぜん に披露 ひろう し理解 りかい を促 うなが すことで、これらの新聞 しんぶん による反日 はんにち 論調 ろんちょう を押 お さえようとした。席上 せきじょう でチャーチルは日 にち 英 えい 両国 りょうこく は立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい という共通 きょうつう の紐帯 ちゅうたい を持 も っているとして立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい の重要 じゅうよう 性 せい を論 ろん じた。
吉田 よしだ 茂 しげる や岸 きし 信介 しんすけ の訪英 ほうえい
皇太子 こうたいし 訪英 ほうえい に続 つづ いて、1954年 ねん 10月 がつ には吉田 よしだ 茂 しげる 首相 しゅしょう が訪英 ほうえい した。元 もと 駐 ちゅう イギリス特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし であった吉田 よしだ はずっと訪英 ほうえい を希望 きぼう していたが、反日 はんにち 機運 きうん の強 つよ いイギリス世論 せろん に配慮 はいりょ したイギリス政府 せいふ から拒否 きょひ され続 つづ けていた。だが前年 ぜんねん の皇太子 こうたいし 訪英 ほうえい 中 ちゅう にチャーチルが吉田 よしだ の訪英 ほうえい を許可 きょか し、実現 じつげん に至 いた った。皇太子 こうたいし 訪英 ほうえい のおかげで日 にち 英 えい 関係 かんけい は改善 かいぜん に向 む かい始 はじ めたとはいえ、まだまだ反日 はんにち 世論 せろん は根強 ねづよ く、歓迎 かんげい ムードはなかった。反共 はんきょう 主義 しゅぎ 者 もの 同士 どうし であるチャーチルと吉田 よしだ は、共 とも にアメリカの同盟 どうめい 国 こく たる西側 にしがわ 陣営 じんえい の一員 いちいん として共産 きょうさん 主義 しゅぎ 問題 もんだい を話 はな し合 あ った。また「吉田 よしだ から送 おく られた安田 やすだ 靫 うつぼ 彦 の富士山 ふじさん の絵 え を、チャーチルは非常 ひじょう に気 き にいった様子 ようす だった」という。
1957年 ねん には、岸 きし 信介 しんすけ 首相 しゅしょう が訪英 ほうえい し、チャーチルの私邸 してい を訪問 ほうもん した。この時 とき チャーチルは富士山 ふじさん の絵 え を指 さ して、「いつか訪日 ほうにち して自分 じぶん で富士山 ふじさん の絵 え を描 えが いてみたかったが、叶 かな いそうもない」と語 かた ったという。
ウィンストン・チャーチル(1940年代 ねんだい )
チャーチルが命 めい じる数々 かずかず の無謀 むぼう な作戦 さくせん には帝国 ていこく 参謀 さんぼう 総長 そうちょう アラン・ブルック 大将 たいしょう やアメリカ陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ジョージ・マーシャル 大将 たいしょう も頭 あたま を抱 かか えた。チャーチルの無謀 むぼう な作戦 さくせん のために多 おお くの人間 にんげん が死 し に追 お いやられていったが、彼 かれ は誰 だれ が死 し のうとほとんど関心 かんしん を持 も たなかった。
チャーチルは戦争 せんそう を騎士 きし 道 どう 的 てき な決闘 けっとう ゲームのように考 かんが えていたため、栄光 えいこう を残 のこ すためだけにこういう不合理 ふごうり な作戦 さくせん を平気 へいき でやった。対 たい して合理 ごうり 主義 しゅぎ の権化 ごんげ であるアメリカ人 じん たちは戦争 せんそう など物量 ぶつりょう と物量 ぶつりょう のぶつかり合 あ いでしかないのだから、相手 あいて の物量 ぶつりょう を叩 たた き潰 つぶ す空襲 くうしゅう だけが重要 じゅうよう と考 かんが えて、チャーチルの無駄 むだ な行動 こうどう には不満 ふまん を抱 いだ く者 もの が多 おお かった。
チャーチルは自分 じぶん が「選 えら ばれた者 もの 」であり、全 すべ ての運命 うんめい を決定 けってい する存在 そんざい なのだと思 おも い込 こ んでいた。自分 じぶん の「偉大 いだい さ」を追 お い求 もと め、とりわけ先祖 せんぞ の初代 しょだい マールバラ公 こう に自分 じぶん を重 かさ ねていた。たとえ自分 じぶん や自国 じこく が実態 じったい の上 うえ でどれだけ没落 ぼつらく していようとも顧 かえり みることもなく、自分 じぶん を超 ちょう 大国 たいこく の指導 しどう 者 しゃ と信 しん じ、アメリカのルーズベルト大統領 だいとうりょう やソ連 それん のスターリン大元帥 だいげんすい と対等 たいとう の存在 そんざい だと思 おも い込 こ んでいた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう のチャーチルについてはイギリスに独裁 どくさい 者 しゃ が現 あらわ れるのは護国 ごこく 卿 きょう クロムウェル 以来 いらい とも評 ひょう された。
経済 けいざい 学者 がくしゃ ジョン・メイナード・ケインズ は1925年 ねん のゼネストに共鳴 きょうめい し、『チャーチル氏 し の経済 けいざい 的 てき 帰結 きけつ 』でシティの声 こえ ばかり聞 き いて炭鉱 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ を犠牲 ぎせい にしていると批判 ひはん した。
チャーチルの演説 えんぜつ は誇張 こちょう が目立 めだ ち、中身 なかみ がないとも言 い われるが、演説 えんぜつ に盛 も り込 こ まれる報告 ほうこく は割 わり と詳細 しょうさい だった。青年 せいねん 時代 じだい に出会 であ ったアメリカの政治 せいじ 家 か バーク・コクラン の影響 えいきょう を受 う けていて、コクランが過去 かこ に使用 しよう した言葉 ことば が演説 えんぜつ の中 なか に含 ふく まれている。
ナイトとしてのチャーチルの紋章 もんしょう 。モットーは『Fiel pero desdichado』
チャーチルは大 だい 貴族 きぞく の一族 いちぞく に生 う まれながら、生涯 しょうがい を平民 へいみん で通 とお した。
1945年 ねん 、ジョージ6世 せい はチャーチルにドーヴァー公爵 こうしゃく の叙爵 じょしゃく を打診 だしん したが、辞退 じたい している[9] [845] [846] 。 1900年 ねん 以降 いこう 、王室 おうしつ メンバー以外 いがい で新規 しんき に公爵 こうしゃく を叙爵 じょしゃく された人物 じんぶつ はおらず、破格 はかく の顕彰 けんしょう であった[847] 。1955年 ねん に首相 しゅしょう を退任 たいにん した際 さい も公爵 こうしゃく 叙爵 じょしゃく が検討 けんとう され、「ロンドン公爵 こうしゃく 」が有力 ゆうりょく な候補 こうほ となった。今回 こんかい はチャーチルも受 う けることを検討 けんとう していたが、最終 さいしゅう 的 てき には断 ことわ っている。この時点 じてん でチャーチルが貴族 きぞく となった場合 ばあい には息子 むすこ のランドルフ (英語 えいご 版 ばん ) は下院 かいん 議員 ぎいん 就任 しゅうにん の資格 しかく を失 うしな い、更 さら に孫 まご であるウィンストン (英語 えいご 版 ばん ) の政治 せいじ 的 てき キャリアに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えるものであった[848] 。
外国 がいこく の栄典 えいてん [ 編集 へんしゅう ]
生活 せいかつ 習慣 しゅうかん [ 編集 へんしゅう ]
葉巻 はまき を噛 か むチャーチル
葉巻 はまき をよく噛 か んでいたが、噛 か んでいるだけの時 とき も多 おお く、実際 じっさい に吸 す った量 りょう はそれほど多 おお くはなかったという。酒豪 しゅごう であるが、晩餐 ばんさん 会 かい などの席上 せきじょう では酒 さけ も飲 の んでいるふりをしているだけの時 とき が多 おお く、酔 よ い潰 つぶ れないよう注意 ちゅうい を払 はら っていた。
ヒトラーと同様 どうよう 、深夜 しんや 型 がた の生活 せいかつ を送 おく っていた。通常 つうじょう は朝 あさ 10時 じ から活動 かつどう を開始 かいし し、深夜 しんや 2時 じ に就寝 しゅうしん していた。朝 あさ の眩 まぶ しさから逃 のが れるため、寝 ね る時 とき はいつも黒 くろ い目隠 めかく しをして寝 ね ていた。また昼食 ちゅうしょく 後 ご には2時 じ 間 あいだ 昼寝 ひるね する習慣 しゅうかん があった
猫背 ねこぜ なうえに太 ふと っていた。猫背 ねこぜ は小 ちい さい頃 ころ から、肥満 ひまん は30代 だい 半 なか ば頃 ごろ からである。ダイエットのつもりで早足 はやあし で歩 ある く癖 くせ があった。
チャーチルは第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 中 ちゅう にランカスター公 おおやけ 領 りょう 担当 たんとう 大臣 だいじん に左遷 させん された際 さい に暇 ひま な時間 じかん がたくさんでき、それ以降 いこう 、絵画 かいが を描 えが くことを趣味 しゅみ とするようになった。戦争 せんそう 中 ちゅう でも、どこに行 い くにしても絵 え の道具 どうぐ 一式 いっしき を持参 じさん するほどだった。マーガレット王女 おうじょ から「なぜ風景 ふうけい 画 が しか書 か かないのです」と聞 き かれた際 さい にチャーチルは「風景 ふうけい ならモデルに似 に せる必要 ひつよう がないからです」と答 こた えたという。絵 え の腕前 うでまえ はなかなか高 たか かったらしく、政治 せいじ 思想 しそう からチャーチルにあまり好感 こうかん を持 も っていないパブロ・ピカソ が「チャーチルは画家 がか を職業 しょくぎょう にしても、十分 じゅうぶん 食 く っていかれただろう」と評価 ひょうか している。
チャートウェル 邸 やしき の屋敷 やしき は古 ふる ぼけていたので手直 てなお しが必要 ひつよう であり、チャーチルも職人 しょくにん たちとともに煉瓦 れんが 積 づ みに参加 さんか し、やがてそれが趣味 しゅみ の一 ひと つとなっていった。
読書 どくしょ 家 か でもあり、大 おお きな蔵書 ぞうしょ を残 のこ した。チャーチルは「本 ほん を全部 ぜんぶ 読 よ むことができぬなら、どこでもいいから目 め にとまったところだけでも読 よ め。また本 ほん は本棚 ほんだな に戻 もど し、どこに入 い れたか覚 おぼ えておけ。本 ほん の内容 ないよう を知 し らずとも、その場所 ばしょ だけは覚 おぼ えておくよう心掛 こころが けろ」という言葉 ことば を残 のこ している。
映画 えいが ではネルソン 提督 ていとく の悲恋 ひれん を主題 しゅだい とした『美女 びじょ ありき 』を好 この んだ。
鼻歌 はなうた を歌 うた うのが好 す きだったが、口笛 くちぶえ は嫌 きら い、人 ひと がやっているのを聞 き くとすぐに止 と めにかかったという。
動物 どうぶつ 好 す きであり、犬 いぬ 、ネコ 、キツネ 、白鳥 しらとり 、金魚 きんぎょ などを飼 か っていた。(チャーチルはヒトラーとは対照 たいしょう 的 てき に猫 ねこ が好 す きだった)ペットのことで困 こま るとすぐにロンドン動物 どうぶつ 園 えん に電話 でんわ して尋 たず ねた。74歳 さい の時 とき に初 はじ めて馬主 ばしゅ となり[862] 、その後 ご 牧場 ぼくじょう を開設 かいせつ して競走 きょうそう 馬 ば も多数 たすう 所有 しょゆう していた[863] 。チャーチルはこれらの馬 うま を大切 たいせつ にし、馬 うま に向 む かって数 すう 分 ふん にわたって語 かた りかける癖 くせ があったという。また馬 うま が驚 おどろ くという理由 りゆう で自動車 じどうしゃ を嫌 きら っていた。バトル・オブ・ブリテンの緒戦 しょせん の頃 ころ 、ロンドン動物 どうぶつ 園 えん からロンドン空襲 くうしゅう があった場合 ばあい 、動物 どうぶつ は銃殺 じゅうさつ せねばならないとの意見 いけん が出 で たが、チャーチルはこの話 はなし にショックを受 う け、「ロンドン中 ちゅう に空襲 くうしゅう があれば、火 ひ の海 うみ になり、死骸 しがい の山 やま が累々 るいるい だ。ライオン やトラ はその死体 したい を求 もと めて吠 ほ え回 まわ る。それを君 きみ たちは銃 じゅう を持 も って撃 う って回 まわ るのだよ。可哀 かわい そうじゃないか」と語 かた ったという。
チャーチルは熱烈 ねつれつ な愛 あい 猫 ねこ 家 か で、私邸 してい 公邸 こうてい を問 と わず必 かなら ず1、2匹 ひき の猫 ねこ を置 お いていた。チャートウェルの屋敷 やしき ではミッキーという名 な のタビ― とともに壮年 そうねん 期 き を過 す ごした。ある日 ひ 彼 かれ が大 だい 法官 ほうかん と電話 でんわ をしていると、ミッキーがコードにじゃれつき始 はじ めたため、「何 なに をやっているんだ!」と思 おも わず怒鳴 どな ってしまい、チャーチルは誤解 ごかい を解 と くために大 だい 法官 ほうかん に弁解 べんかい する羽目 はめ になったという。またタンゴというオレンジ色 しょく の縞 しま 猫 ねこ は、夕食 ゆうしょく 時 じ には必 かなら ずチャーチルの隣 となり の椅子 いす に座 すわ り、寵愛 ちょうあい と食事 しょくじ のおこぼれをほしいままにしていたほか、勇敢 ゆうかん でケンカ強 つよ いネルソンと名付 なづ けられたグレーの猫 ねこ は1940年 ねん の首相 しゅしょう 就任 しゅうにん に際 さい しては、官邸 かんてい に同行 どうこう している[865] 。
なかでも最後 さいご の飼猫ジョックは、1962年 ねん の88歳 さい の誕生 たんじょう 日 び に贈 おく られた猫 ねこ で、体 からだ はジンジャー、首 くび 元 もと と足 あし 先 さき が白 しろ かった。すぐに無二 むに の親友 しんゆう となった2人 ふたり はどこに行 い くにも一緒 いっしょ で、1964年 ねん の最後 さいご の庶民 しょみん 院 いん 登院 とういん にも同行 どうこう したほか、直後 ちょくご の任期 にんき を終 お えて官邸 かんてい を去 さ るときに撮影 さつえい された写真 しゃしん にも2人 ふたり が写 うつ っており、ジョックはチャーチルの最期 さいご を看取 みと った[865] 。
チャーチルはインド人 じん に対 たい して人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき な感情 かんじょう を持 も っており、インド人 じん を蔑視 べっし する言葉 ことば を頻繁 ひんぱん に口 くち にしていた[866] 。彼 かれ の暴言 ぼうげん があまりに酷 ひど いものだったため、内閣 ないかく のインド担当 たんとう 相 しょう であったレオ・アメリー (英語 えいご 版 ばん ) は、チャーチルに面 めん と向 む かって「首相 しゅしょう とヒトラーの思想 しそう にそれほど違 ちが いがあるとは思 おも えない」と語 かた った[866] 。インド人 じん への憎悪 ぞうお はチャーチルの意志 いし 決定 けってい に影響 えいきょう を与 あた えた。チャーチルは当時 とうじ のインドの食糧 しょくりょう 事情 じじょう を深刻 しんこく に受 う け止 と めずに何 なん 度 ど も食料 しょくりょう 支援 しえん を要請 ようせい されたにもかかわらずこれを拒絶 きょぜつ し[866] 、1943年 ねん におけるベンガル飢饉 ききん を引 ひ き起 お こした。この飢饉 ききん では数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん の死者 ししゃ が出 で たとされる[866] 。
労働党 ろうどうとう 党首 とうしゅ のアトリー とは論戦 ろんせん を交 か わす政敵 せいてき の間柄 あいだがら であったが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でのナチスドイツの脅威 きょうい に対 たい しては、両者 りょうしゃ は連立 れんりつ 政権 せいけん を創設 そうせつ し、これに対抗 たいこう した。チャーチルが政界 せいかい から引退 いんたい すると、チャーチルの邸宅 ていたく には彼 かれ を訪 たず ねて、様々 さまざま な者 もの が訪問 ほうもん してくるようになった。しかしチャーチルは、アトリー個人 こじん に対 たい する暴言 ぼうげん を述 の べた者 もの については、自邸 じてい への出入 でいり 禁止 きんし とした。
「この救出 きゅうしゅつ に勝利 しょうり が含 ふく まれている」(ダンケルクから英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん 34万 まん 人 にん が脱出 だっしゅつ した報 ほう を受 う けての演説 えんぜつ )[869]
「まだ支配 しはい するつもりなのかな?」(1960年 ねん 頃 ごろ 、「西暦 せいれき 2000年 ねん には女性 じょせい が全 ぜん 世界 せかい を支配 しはい しているという予想 よそう について、どう思 おも われますか?」という記者 きしゃ の質問 しつもん に対 たい しての回答 かいとう )[870]
「私 わたし は言葉 ことば を食 た べて消化 しょうか 不良 ふりょう を起 お こしたことがない」[871]
「悲観 ひかん 主義 しゅぎ 者 しゃ は全 すべ ての好機 こうき の中 なか に困難 こんなん を見 み つけるが、楽観 らっかん 主義 しゅぎ 者 しゃ は全 すべ ての困難 こんなん の中 なか に好機 こうき を見 み いだす」
「成功 せいこう とは意欲 いよく を失 うしな わずに失敗 しっぱい に次 つ ぐ失敗 しっぱい を繰 く り返 かえ すことである」
「決 けっ して屈 くっ するな、決 けっ して、決 けっ して、決 けっ して!」
「人 ひと は建物 たてもの を形作 かたちづく る。すると今度 こんど は建物 たてもの が人 ひと を形作 かたちづく る」
「アメリカ人 じん は他 た のすべてのあらゆる可能 かのう 性 せい を試 ため した後 のち に、常 つね に正 ただ しいことをすると期待 きたい できる」
ジャスパー・チャーチル
妻 つま : エリザベス・チャプレット
チャーチル家 か の沿革 えんかく
マールバラ公爵 こうしゃく の紋章 もんしょう
チャーチル家 か が栄進 えいしん するきっかけを作 つく ったのは、17世紀 せいき のウィンストン・チャーチル だった。このウィンストンは弁護士 べんごし の息子 むすこ で、自身 じしん も弁護士 べんごし になったが、清教徒 せいきょうと 革命 かくめい の際 さい に王 おう 党派 とうは の騎兵 きへい 将校 しょうこう として戦 たたか ったこと、海軍 かいぐん 提督 ていとく フランシス・ドレイク の縁戚 えんせき で且 か つ初代 しょだい バッキンガム公爵 こうしゃく ジョージ・ヴィリアーズ の親族 しんぞく を妻 つま としたことで1660年 ねん の王政 おうせい 復古 ふっこ 後 のち に成功 せいこう を掴 つか んだ。イングランド庶民 しょみん 院 いん (英語 えいご 版 ばん ) の議員 ぎいん に当選 とうせん し、また宮内庁 くないちょう の会計 かいけい 官 かん となり、ナイト爵 を与 あた えられた。
初代 しょだい マールバラ公爵 こうしゃく
その息子 むすこ ジョン・チャーチル は公爵 こうしゃく となった。ジェームズ2世 せい 、ウィリアム3世 せい 、アン女王 じょおう の三 さん 代 だい に軍人 ぐんじん として仕 つか えた彼 かれ は、モンマスの反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ し、名誉 めいよ 革命 かくめい ではジェームズ2世 せい を裏切 うらぎ って革命 かくめい の成功 せいこう に貢献 こうけん し、大 だい 同盟 どうめい 戦争 せんそう やスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう では対 たい 仏 ふつ 同盟 どうめい 軍 ぐん の総 そう 司令 しれい 官 かん として数々 かずかず の戦功 せんこう をあげた。アン女王 じょおう の寵愛 ちょうあい を受 う けた女官 にょかん サラ・ジェニングス と結婚 けっこん し、アン女王 じょおう から引 ひ き立 た てられ、スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう の戦功 せんこう により初代 しょだい マールバラ公爵 こうしゃく に叙 じょ され、またウッドストック (オックスフォードシャー)に広大 こうだい な所領 しょりょう と、同地 どうち にブレンハイムの戦 たたか い の戦勝 せんしょう を記念 きねん するブレナム宮殿 きゅうでん (ブレンハイムの英語 えいご 読 よ み)を建設 けんせつ するための資金 しきん 30万 まん ポンドを下賜 かし された。これは戦功 せんこう に対 たい する恩賞 おんしょう としては前代未聞 ぜんだいみもん の大盤振 おおばんぶ る舞 ま いだった。
初代 しょだい マールバラ公爵 こうしゃく には無事 ぶじ 成人 せいじん した男子 だんし がなかった。議会 ぎかい はマールバラ公爵 こうしゃく 位 い を存続 そんぞく させるため特例 とくれい として女系 じょけい での継承 けいしょう を許可 きょか した。これにより初代 しょだい マールバラ公爵 こうしゃく の死後 しご 、長女 ちょうじょ ヘンリエッタ が第 だい 2代 だい マールバラ女 おんな 公爵 こうしゃく となったが、彼女 かのじょ の息子 むすこ も早世 そうせい したため、彼女 かのじょ の死後 しご 、マールバラ公爵 こうしゃく 位 い は、彼女 かのじょ の妹 いもうと であるアン (英語 えいご 版 ばん ) と第 だい 3代 だい サンダーランド伯爵 はくしゃく チャールズ・スペンサー の間 あい の子 こ 第 だい 5代 だい サンダーランド伯爵 はくしゃく チャールズ・スペンサー に継承 けいしょう された(第 だい 5代 だい チャールズの弟 おとうと の家系 かけい は後 のち にスペンサー伯爵 はくしゃく に叙 じょ され、その子孫 しそん がダイアナ妃 ひ である)。
スペンサー=チャーチル
以降 いこう このチャールズ・スペンサーの直系 ちょっけい 男子 だんし がマールバラ公爵 こうしゃく 位 い を継承 けいしょう していくことになるが、チャールズはスペンサーの家名 かめい を使 つか い続 つづ けたのでチャーチルの家名 かめい はこの時 とき に一 いち 度 ど 消 き えた。しかしチャールズの孫 まご であり、1817年 ねん に当主 とうしゅ となった第 だい 5代 だい マールバラ公爵 こうしゃく ジョージ は、ワーテルローの戦 たたか い の戦勝 せんしょう ムードの中 なか で武勲 ぶくん ある家名 かめい チャーチルを復活 ふっかつ させることを許可 きょか され、以降 いこう 「スペンサー=チャーチル」の二 に 重 じゅう 姓 せい を使用 しよう するようになった。
このジョージの孫 まご にあたるのがチャーチルの祖父 そふ である第 だい 7代 だい マールバラ公爵 こうしゃく ジョン・スペンサー=チャーチル である。彼 かれ の代 だい には歴代 れきだい 当主 とうしゅ の浪費 ろうひ と、産業 さんぎょう 化 か に伴 ともな う地主 じぬし の没落 ぼつらく という世相 せそう を反映 はんえい してマールバラ公爵 こうしゃく 家 か の家計 かけい は相当 そうとう 苦 くる しく、所領 しょりょう や家財 かざい を売 う り飛 と ばして生計 せいけい を保 たも つという有様 ありさま だった。
第 だい 7代 だい マールバラ公爵 こうしゃく には5人 にん の息子 むすこ があったが、うち3人 にん は早世 そうせい し、2人 ふたり が無事 ぶじ 成長 せいちょう した。長男 ちょうなん ジョージ と三男 さんなん ランドルフ卿 きょう である。この三男 さんなん ランドルフ卿 きょう がチャーチルの父親 ちちおや である。
なお、父 ちち ランドルフは「Lord(卿 きょう )」の称号 しょうごう を持 も っているが、これは公爵 こうしゃく の庶子 しょし だからである。イギリスでは法律 ほうりつ 上 じょう 貴族 きぞく であるのは爵位 しゃくい を持 も つ家 いえ の当主 とうしゅ のみであり、それ以外 いがい はその息子 むすこ であっても当主 とうしゅ の地位 ちい を継 つ ぐまでは平民 へいみん である。伯爵 はくしゃく 以上 いじょう の貴族 きぞく の場合 ばあい は従属 じゅうぞく 爵位 しゃくい をもっており、その貴族 きぞく の嫡男 ちゃくなん は、当主 とうしゅ になるまで従属 じゅうぞく 爵位 しゃくい を儀礼 ぎれい 称号 しょうごう として使用 しよう する。また公爵 こうしゃく 家 か ・侯爵 こうしゃく 家 か の場合 ばあい は、嫡男 ちゃくなん の弟 おとうと たちも「Lord(卿 きょう )」の儀礼 ぎれい 称号 しょうごう を使用 しよう する。ただしどちらも儀礼 ぎれい 称号 しょうごう に過 す ぎず、法的 ほうてき 身分 みぶん は平民 へいみん である。チャーチルは公爵 こうしゃく の庶子 しょし の子供 こども に過 す ぎないから称号 しょうごう を持 も っていなかった。
アメリカ人 じん の母 はは ジャネットは、1709年 ねん 頃 ころ にイングランド・ワイト島 とう から英 えい 領 りょう アメリカ に移民 いみん した開拓 かいたく 者 しゃ ティモシー・ジェロームの子孫 しそん である。ティモシーはコネチカット州 しゅう ウォリングフォード で一 いち 財産 ざいさん を築 きず いた。ティモシーの末子 まっし であるサミュエルはマサチューセッツ州 しゅう ストックブリッジの地主 じぬし として成功 せいこう を収 おさ め、その息子 むすこ アーロンはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 初代 しょだい 大統領 だいとうりょう ジョージ・ワシントン の親戚 しんせき の娘 むすめ と結婚 けっこん した。アーロンの息子 むすこ にアイザックがおり、そのアイザックの息子 むすこ がチャーチルの祖父 そふ にあたるレナード・ジェロームだった。
レナードは南北戦争 なんぼくせんそう 後 ご の復興 ふっこう 事業 じぎょう で大 おお きな成功 せいこう を収 おさ め、銀行 ぎんこう 経営 けいえい 者 しゃ 、ウォ うぉ ール街 るがい の投機 とうき 家 か 、『ニューヨーク・タイムズ 』の株主 かぶぬし 、サンフランシスコ と横浜 よこはま を繋 つな ぐパシフィック・メール汽船 きせん 会社 かいしゃ (英語 えいご 版 ばん ) の所有 しょゆう 者 しゃ 、競馬 けいば 場 じょう 経営 けいえい 者 しゃ 、馬主 ばしゅ にもなった。彼 かれ はニューヨーク州 しゅう 議会 ぎかい 議員 ぎいん を1年 ねん だけ務 つと めたアンブローズ・ホールの娘 むすめ クラリッサ・ホールと結婚 けっこん した。ホール家 か の伝承 でんしょう によるとホール家 か にはインディアン のイロコイ族 ぞく の血 ち が流 なが れているというが、正確 せいかく なところは不明 ふめい である。
レナードとクラリッサ夫妻 ふさい は4人 にん の娘 むすめ を儲 もう けた。そのうちの次女 じじょ がチャーチルの母 はは ジャネットであった。ジェローム一家 いっか はヨーロッパの上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう より排他 はいた 性 せい の強 つよ いニューヨークの保守 ほしゅ 的 てき な上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の間 あいだ では、南北戦争 なんぼくせんそう によって莫大 ばくだい な資産 しさん を築 きず いただけの田舎 いなか 者 しゃ の新興 しんこう 成金 なりきん として軽 かる く扱 あつか われただけでなく、他 た のニューヨークの新興 しんこう 成金 なりきん 同様 どうよう に仲間入 なかまい りすら拒絶 きょぜつ され、ニューヨークの名家 めいか の御曹司 おんぞうし との結婚 けっこん は事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう であった為 ため 、資金 しきん 力 りょく さえあれば出自 しゅつじ に関 かか わらず誰 だれ でも歓迎 かんげい していたパリ に移住 いじゅう し、フランス皇帝 こうてい ナポレオン3世 せい から厚遇 こうぐう された。しかし金儲 かねもう けと競馬 けいば とオペラ以外 いがい に興味 きょうみ がなく、更 さら に上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう というものに是非 ぜひ とも入 はい りたいと思 おも わなかったレナードはまもなくパリを離 はな れたが、夫 おっと の財力 ざいりょく を用 もち いて超 ちょう 名門 めいもん の貴族 きぞく と自分 じぶん の娘 むすめ たちの縁組 えんぐみ を夢見 ゆめみ ていた、野心 やしん 家 か で見栄 みえ っ張 ぱ りのクラリッサと娘 むすめ たちは、金 かね さえ有 あ れば外国 がいこく 人 じん でも排除 はいじょ されず、上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の人間 にんげん としてちやほやされるパリで暮 く らし続 つづ け、ジャネットもパリで育 そだ った。母子 ぼし は普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう で一時 いちじ フランスを離 はな れたものの、戦後 せんご パリに戻 もど った。
チャーチルと妻 つま クレメンティーン(1915年 ねん )
ガーター騎士 きし 団 だん の正装 せいそう をまとうチャーチル。子 こ のランドルフ、孫 まご のウィンストン (英語 えいご 版 ばん ) とともに(1950年代 ねんだい )。
1908年 ねん 9月 がつ に軍人 ぐんじん の娘 むすめ クレメンティーン と結婚 けっこん した。チャーチルは収入 しゅうにゅう は多 おお いものの、金銭 きんせん に無頓着 むとんじゃく で最 さい 高級 こうきゅう の贅沢 ぜいたく 品 ひん ばかりを集 あつ める浪費 ろうひ 癖 へき があったのでクレメンティーンが代 か わって家計 かけい を支 ささ えた。チャーチルは公的 こうてき にも妻 つま を頼 たよ りにし、彼女 かのじょ の前 まえ で演説 えんぜつ の予行 よこう 演習 えんしゅう をするのを習慣 しゅうかん としたという。
夫妻 ふさい は5子 し に恵 めぐ まれた。1909年 ねん 生 う まれの長女 ちょうじょ ダイアナ (英語 えいご 版 ばん ) 、1911年 ねん 生 う まれの長男 ちょうなん ランドルフ (英語 えいご 版 ばん ) 、1914年 ねん 生 う まれの次女 じじょ サラ (英語 えいご 版 ばん ) 、1918年 ねん 生 う まれの三 さん 女 じょ マリーゴールド、1922年 ねん 生 う まれの四 よん 女 じょ メアリー (英語 えいご 版 ばん ) (のちソームズ男爵 だんしゃく 夫人 ふじん )である。
長女 ちょうじょ ダイアナは南 みなみ アフリカの富豪 ふごう サー・ジョン・ベイリー準 じゅん 男爵 だんしゃく (Sir John Bailey, 2nd Baronet)と結婚 けっこん したが、後 のち に離婚 りこん して保守党 ほしゅとう の政治 せいじ 家 か ダンカン・サンデイス (英語 えいご 版 ばん ) と再婚 さいこん した。しかし1960年 ねん に離婚 りこん した後 のち 、1963年 ねん に自殺 じさつ した。ダイアナの自殺 じさつ の時 とき にはチャーチルも老衰 ろうすい しきって死 し を待 ま つばかりだったので、娘 むすめ の自殺 じさつ を聞 き いてもさほど悲 かな しんでいる様子 ようす はなかったという。
長男 ちょうなん ランドルフは一時期 いちじき 庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん も務 つと めたが、基本 きほん 的 てき にはジャーナリストとして働 はたら いた。父 ちち の影 かげ に隠 かく れて目立 めだ たない人物 じんぶつ だったという。チャーチルの死後 しご まもない1968年 ねん 、後 ご を追 お うように死去 しきょ した。彼 かれ の最初 さいしょ の妻 つま パメラ・ディグビー (英語 えいご 版 ばん ) は男爵 だんしゃく 令嬢 れいじょう であり、社交 しゃこう 界 かい の華 はな でもあった。ランドルフとの離婚 りこん 後 ご 、名 な だたる著名 ちょめい 人 じん らと浮名 うきな を流 なが し、元 もと ニューヨーク州 しゅう 知事 ちじ W・アヴェレル・ハリマン と結婚 けっこん し、米国 べいこく 籍 せき を取得 しゅとく 。高額 こうがく 献金 けんきん 者 しゃ として、政界 せいかい に多大 ただい な影響 えいきょう 力 りょく を持 も ち、1993年 ねん に駐 ちゅう 仏 ふつ 米国 べいこく 大使 たいし に任 にん ぜられた。なお、ランドルフとの離婚 りこん 、ハリマンとの再婚 さいこん 後 ご もチャーチル姓 せい を名乗 なの っていた[894] 。パメラとの間 あいだ の長男 ちょうなん ウィンストン・チャーチル (1940-2010) (英語 えいご 版 ばん ) は1970年 ねん から1997年 ねん まで保守党 ほしゅとう 選出 せんしゅつ の庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん を務 つと めた[895] 。2人 ふたり 目 め の妻 つま ジューン・オズボーンとの間 あいだ の長女 ちょうじょ アラベラ・チャーチル (1949-2009) (英語 えいご 版 ばん ) は1954年 ねん に米 こめ 『ライフ』誌 し の表紙 ひょうし を飾 かざ り、幼少 ようしょう 期 き から注目 ちゅうもく を集 あつ め、チャールズ皇太子 こうたいし (のちのチャールズ3世 せい )やスウェーデン のカール・グスタフ王子 おうじ (のちのカール16世 せい グスタフ )の妃 ひ 候補 こうほ などと取 と りざたされたが[896] 、1960年代 ねんだい 末 まつ には反戦 はんせん 運動 うんどう 家 か 、ヒッピー になり、注目 ちゅうもく された。グラストンベリー・フェスティバル の創始 そうし 者 しゃ の一人 ひとり としても知 し られている[897] 。
次女 じじょ サラは女優 じょゆう になり、芸人 げいにん ヴィク・オリバーと結婚 けっこん したが離婚 りこん し、写真 しゃしん 家 か アンソニー・ビューチャンプと再婚 さいこん するも死別 しべつ 。さらに第 だい 23代 だい オードリー男爵 だんしゃく トーマス・トウケット=ジェソンと三 さん 度目 どめ の結婚 けっこん をした。
三 さん 女 じょ マリーゴールドは3歳 さい の若 わか さで死 し んだ。
四 よん 女 じょ メアリーは保守党 ほしゅとう の政治 せいじ 家 か クリストファー・ソームズ (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん している。その夫妻 ふさい の長男 ちょうなん のニコラス・ソームズ (英語 えいご 版 ばん ) も保守党 ほしゅとう 議員 ぎいん となったが、イギリスの欧州 おうしゅう 連合 れんごう 離脱 りだつ に関 かん する造反 ぞうはん で党 とう から除名 じょめい された[898] 。
チャーチルは家族 かぞく に動物 どうぶつ のあだ名 な をつけていた。サラは「のろま」という意味 いみ で「ラバ 」、メアリーは子供 こども の頃 ころ 不器量 ぶきりょう だったので「チンパンジー 」、妻 つま クレメンティーンは「ネコ」だったという。
チャーチルの弟 おとうと ジョン・ストレンジの娘 むすめ クラリッサ (英語 えいご 版 ばん ) はチャーチルの後任 こうにん の首相 しゅしょう イーデンに後妻 ごさい として嫁 とつ いでいる。
妻 つま の親族 しんぞく
妻 つま の親族 しんぞく は波乱万丈 はらんばんじょう な生涯 しょうがい を送 おく った人 ひと が多 おお い。妻 つま の甥 おい にあたるエズモンド・ロミリーと、妻 つま の従兄 じゅうけい 第 だい 2代 だい リーズデイル男爵 だんしゃく デビッド・フリーマン=ミットフォード の娘 むすめ たちミットフォード姉妹 しまい がいる。エズモンドは学生 がくせい 時代 じだい から共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ として鳴 な らし、「チャーチルのアカの甥 おい 」と呼 よ ばれていた。
ミットフォード姉妹 しまい の五 ご 女 じょ ジェシカ も共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ で、エズモンドと駆 か け落 お ちし、スペイン内戦 ないせん に左翼 さよく 陣営 じんえい で参加 さんか 。その後 ご 、アメリカへ移住 いじゅう し、大戦 たいせん がはじまるとカナダ空軍 くうぐん に入隊 にゅうたい してドイツ空軍 くうぐん と戦 たたか ったが、1941年 ねん 11月 がつ 末 まつ に北 きた 海上 かいじょう で戦死 せんし した。チャーチルからジェシカ にエズモンドの戦死 せんし を伝 つた えたという。
ミットフォード姉妹 しまい の三 さん 女 じょ ダイアナはファシズム運動 うんどう 家 か となった。ダイアナは結婚 けっこん していた貴族 きぞく と離婚 りこん してイギリスファシスト連合 れんごう 指導 しどう 者 しゃ のオズワルド・モズレー と再婚 さいこん したが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう にモズレーとともに投獄 とうごく を受 う けた。
四 よん 女 じょ ユニティ はドイツへ飛 と び、ヒトラーとの関係 かんけい が噂 うわさ されるほどヒトラーの親密 しんみつ な側近 そっきん となり、ドイツがオーストリア 併合 へいごう した時 とき にはオーストリア人 じん はみんな併合 へいごう を望 のぞ んでいるという手紙 てがみ をチャーチル宛 あ てに送 おく ってきた。チャーチルは翻意 ほんい することなく、「公正 こうせい な国民 こくみん 投票 とうひょう が行 おこな われていたらオーストリア人 じん はナチスの支配 しはい 下 か にはいることを拒否 きょひ したはずだ」と返信 へんしん した。彼女 かのじょ は英 えい 独 どく 開戦 かいせん を阻止 そし しようと努力 どりょく していたが、開戦 かいせん に至 いた ってしまうと絶望 ぜつぼう して自殺 じさつ 未遂 みすい を起 お こした。その後 ご イギリスへ戻 もど されたものの、この時 とき の傷 きず がもとで後 のち に死亡 しぼう した。
The Story of the Malakand Field Force (マラカンド野戦 やせん 軍 ぐん 物語 ものがたり ) , 1898年 ねん 。インドパシュトゥーン人 じん 反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ 戦 せん 体験 たいけん 。
The River War: An Historical Account of the Reconquest of the Sudan (河畔 かはん の戦争 せんそう :スーダン侵攻 しんこう 従軍 じゅうぐん 記 き ) ,1899年 ねん 。
Savrola , 1900年 ねん 。小説 しょうせつ 。
『ロンドンからレディスミスへ (英語 えいご 版 ばん ) 』『ハミルトン将軍 しょうぐん の行進 こうしん (英語 えいご 版 ばん ) 』1900年 ねん :ボーア戦争 せんそう 従軍 じゅうぐん 記 き 。
『ランドルフ・チャーチル卿 きょう 』1906年 ねん 。
My African Journey , 1908年 ねん 。
『世界 せかい の危機 きき 』The World Crisis , 1923年 ねん - 1929年 ねん 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 史 し 全 ぜん 5巻 かん 。
My Early Life , 1930年 ねん 。
Marlborough. His Life and Times , 1933年 ねん - 1938年 ねん 。
Great Contemporaries , 1937年 ねん 。
The Second World War , 6巻 かん , 1948年 ねん - 1954年 ねん
旧訳 きゅうやく 『第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 回顧 かいこ 録 ろく 』全 ぜん 24巻 かん 毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 翻訳 ほんやく 委員 いいん 会 かい , 1949-55年 ねん
新訳 しんやく 『完訳 かんやく 版 ばん 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 』(全 ぜん 6巻 かん 予定 よてい )ジョン・キーガン序説 じょせつ 、伏見 ふしみ 威 たけし 蕃 しげる 訳 わけ 、みすず書房 しょぼう (2023年 ねん 夏 なつ より毎年 まいとし 1冊 さつ 予定 よてい )
『英語 えいご 圏 けん の人々 ひとびと の歴史 れきし 』A History of the English-Speaking Peoples, 1956-58年 ねん
4巻 かん での刊行 かんこう 。第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 前 まえ から執筆 しっぴつ し、英 えい 米 べい の連携 れんけい 強化 きょうか を意識 いしき して「英語 えいご 圏 けん の国民 こくみん の歴史 れきし 上 じょう の地位 ちい と性格 せいかく を探 さぐ る」とした著作 ちょさく であり、カエサル のブリタニア侵攻 しんこう からチャーチルが第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう に立 た つまでを描 えが いた。
日本語 にほんご 訳 やく (近年 きんねん )
チャーチルに関 かん する回想 かいそう ・評伝 ひょうでん (参考 さんこう 文献 ぶんけん 以外 いがい ) [ 編集 へんしゅう ]
『チャーチル―第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の指導 しどう 者 しゃ 』 山上 やまかみ 正太郎 しょうたろう 、清水 しみず 書院 しょいん 「センチュリーブックス 人 じん と歴史 れきし シリーズ〈西洋 せいよう 〉」、1972年 ねん 。
『チャーチルと第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 』 山上 やまかみ 正太郎 しょうたろう 、清水 しみず 書院 しょいん 〈人 ひと と思想 しそう 〉、1984年 ねん 、新装 しんそう 版 ばん 2018年 ねん 。上記 じょうき の改訂 かいてい 版 ばん 。
Churchill's Wit: The Definitive Collection , by Richard M. Langworth (英語 えいご 版 ばん ) (Editor), Ebury Press, 2009年 ねん 。
The Definitive Wit of Winston Churchill , by Richard M. Langworth (Editor) , PublicAffairs, 2009年 ねん 。
『ダウニング街 がい 日記 にっき 首相 しゅしょう チャーチルのかたわらで』(上下 じょうげ )、ジョン・コルヴィル、都築 つづき 忠七 ちゅうしち ほか訳 やく 、平凡社 へいぼんしゃ 〈20世紀 せいき メモリアル〉、1990年 ねん 。
『祖父 そふ チャーチルと私 わたし 若 わか き冒険 ぼうけん の日々 ひび 』 ウィンストン・S・チャーチル、佐藤 さとう 佐智子 さちこ 訳 やく 、法政大学 ほうせいだいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 〈りぶらりあ選書 せんしょ 〉、1994年 ねん 。
『危機 きき の指導 しどう 者 しゃ ―チャーチル』 冨田 とみた 浩司 こうじ 、新潮 しんちょう 選書 せんしょ 、2011年 ねん 。
『チャーチルの亡霊 ぼうれい ―危機 きき のEU』 前田 まえだ 洋平 ようへい 、文春 ぶんしゅん 新書 しんしょ 、2012年 ねん 。
『チャーチル ガリマール新 しん 評伝 ひょうでん シリーズ』 ソフィー・ドゥデ、神田 かんだ 順子 じゅんこ 訳 やく 、祥伝社 しょうでんしゃ 新書 しんしょ 、2015年 ねん 。
『チャーチル 不屈 ふくつ の指導 しどう 者 しゃ の肖像 しょうぞう 』 ジョン・キーガン、冨山 とやま 太 ふとし 佳夫 よしお 訳 わけ 、岩波書店 いわなみしょてん 、2015年 ねん 。
『チャーチル・ファクター たった一人 ひとり で歴史 れきし と世界 せかい を変 か える力 ちから 』 ボリス・ジョンソン 、石塚 いしづか 雅彦 まさひこ ・小林 こばやし 恭子 きょうこ 訳 やく 、プレジデント社 しゃ 、2016年 ねん 。
ウィンストン・チャーチルを扱 あつか った作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
映画 えいが
^ この時 とき のチャーチルの成績 せいせき は製図 せいず 72点 てん 、自由 じゆう 製図 せいず 68点 てん 、国史 こくし 64点 てん 、数学 すうがく 62点 てん 、英 えい 作文 さくぶん 62点 てん 、フランス語 ふらんすご 61点 てん 、化学 かがく 41点 てん 、ラテン語 らてんご 18点 てん で総 そう 受験 じゅけん 者 しゃ 数 すう 389人 にん 中 ちゅう 95位 い となっている。
^ なおチャーチルはこの70年 ねん 後 ご 、父 ちち と全 まった く同 おな じ日 び に死去 しきょ することになる。
^ 騎兵 きへい 将校 しょうこう はかなり暇 ひま な仕事 しごと であり、毎年 まいとし 5ヶ月 かげつ 休暇 きゅうか がもらえる。
^ ムハンマド・アフマドはマフディーの反乱 はんらん を起 お こした人物 じんぶつ 。マフディー国家 こっか を建国 けんこく した後 のち 、1885年 ねん に病死 びょうし し、カリファ・アブドゥラヒが新 あたら しいマフディーとなっていた。
^ チャーチルはすでに政界 せいかい に転 てん じる決意 けつい を固 かた めていたため、キッチナーに遠慮 えんりょ する必要 ひつよう がなかったのだと思 おも われる
^ 中国人 ちゅうごくじん が自発 じはつ 的 てき 契約 けいやく で南 みなみ アフリカに来 き ていることを裏付 うらづ ける材料 ざいりょう として、中国人 ちゅうごくじん にとって中国 ちゅうごく 本国 ほんごく で働 はたら くより南 みなみ アフリカで働 はたら いた方 ほう が15倍 ばい も給料 きゅうりょう が高 たか いという事実 じじつ がある。
^ この法律 ほうりつ は国王 こくおう の閣僚 かくりょう 任免 にんめん 権 けん に対 たい して立法 りっぽう 権 けん の独立 どくりつ を守 まも る意図 いと で1705年 ねん に制定 せいてい された法律 ほうりつ である。国王 こくおう の閣僚 かくりょう 任免 にんめん 権 けん が形骸 けいがい 化 か し、議会 ぎかい の情勢 じょうせい に基 もと づいて首相 しゅしょう に任命 にんめい されることが慣例 かんれい 化 か していたこの時代 じだい にあってはほとんど意味 いみ のない制度 せいど と化 か しており、1929年 ねん になって廃止 はいし されている。
^ 庶民 しょみん 院 いん では保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ バルフォアが「内務 ないむ 大臣 だいじん が自 みずか ら事件 じけん 現場 げんば に赴 おもむ くのは軽率 けいそつ 」という批判 ひはん を展開 てんかい したが、チャーチルは「そう怒 おこ るなよ。面白 おもしろ かったんだから」と答弁 とうべん したという。
^ この戦 たたか い以外 いがい ではチャーチルの海 うみ 相 しょう 退任 たいにん 後 ご の1916年 ねん 5月 がつ 31日 にち に起 お こったユトランド沖 おき 海戦 かいせん が唯 ただ 一大 いちだい 海戦 かいせん と呼 よ べるものであった。
^ 後 のち にボールドウィン内 ない 閣 かく に政権 せいけん 交代 こうたい 後 ご 、イギリス政府 せいふ はソ連 それん との国交 こっこう を断絶 だんぜつ した。
^ ただし英 えい 仏 ふつ から独立 どくりつ しても、東西 とうざい 冷戦 れいせん によりアメリカとソ連 それん が影響 えいきょう 下 か に置 お こうと進出 しんしゅつ してくるのが一般 いっぱん 的 てき だった。