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(2022年 ねん 8月 がつ ) 議論 ぎろん の
要約 ようやく :
韓国 かんこく 側 がわ が
先 さき に
併合 へいごう 依頼 いらい を
行 おこな ったという
記述 きじゅつ について
韓国 かんこく 併合 へいごう (かんこくへいごう、朝 あさ : 경술국치/한일병합/국권피탈、英 えい : Japanese annexation of Korea )とは、ポーツマス条約 じょうやく の調印 ちょういん 後 ご 、1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )8月 がつ 29日 にち に「韓国 かんこく 併合 へいごう ニ関 せき スル条約 じょうやく 」へ基 もと づき、大日本帝国 だいにっぽんていこく が大韓 たいかん 帝国 ていこく [注釈 ちゅうしゃく 1] を併合 へいごう して統治 とうち 下 か に置 お いた出来事 できごと を指 さ す。朝鮮 ちょうせん 併合 へいごう 、日 にち 韓 かん 併合 へいごう 、日 にち 韓 かん 合邦 がっぽう とも表記 ひょうき される[1] 。
日本 にっぽん による朝鮮半島 ちょうせんはんとう の統治 とうち は大日本帝国 だいにっぽんていこく がポツダム宣言 せんげん による無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 後 ご も行 おこな われ、実質 じっしつ 的 てき には1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )9月9日 にち に朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ が連合 れんごう 国軍 こくぐん への降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に調印 ちょういん するまでの約 やく 35年間 ねんかん 、韓国 かんこく 併合 へいごう は続 つづ いた。1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )、日本 にっぽん 国 こく と大韓民国 だいかんみんこく との間 あいだ の基本 きほん 関係 かんけい に関 かん する条約 じょうやく にて韓国 かんこく 併合 へいごう ニ関 せき スル条約 じょうやく が失効 しっこう した[2] 。
1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )8月 がつ 22日 にち に、韓国 かんこく 併合 へいごう 条約 じょうやく が漢 かん 城 じょう (現在 げんざい のソウル特別 とくべつ 市 し )で寺内 てらうち 正毅 まさき 統監 とうかん と李 り 完 かん 用 よう 首相 しゅしょう により調印 ちょういん され、同月 どうげつ 29日 にち に裁可 さいか 公布 こうふ により発効 はっこう された。大日本帝国 だいにっぽんていこく は大韓 たいかん 帝国 ていこく を併合 へいごう し、大韓 たいかん 帝国 ていこく 側 がわ の全 ぜん 借財 しゃくざい を肩代 かたが わりしつつ、その領土 りょうど であった朝鮮半島 ちょうせんはんとう を領有 りょうゆう した。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )8月 がつ 15日 にち 、日本 にっぽん は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (太平洋戦争 たいへいようせんそう /大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )における連合 れんごう 国 こく に対 たい する敗戦 はいせん に伴 ともな って実効 じっこう 支配 しはい を喪失 そうしつ し、同年 どうねん 9月2日 にち にポツダム宣言 せんげん の条項 じょうこう を誠実 せいじつ に履行 りこう することを約束 やくそく した降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん によって、日本 にっぽん による朝鮮半島 ちょうせんはんとう の領有 りょうゆう は終了 しゅうりょう したが、大日本帝国 だいにっぽんていこく がポツダム宣言 せんげん による無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 後 ご も続 つづ いており、正式 せいしき には9月9日 にち に朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ が連合 れんごう 国軍 こくぐん への降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に調印 ちょういん するまで続 つづ いていた。
条約 じょうやく 上 じょう の領有 りょうゆう 権 けん の放棄 ほうき は、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 28日 にち のサンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく 発効 はっこう によるが、1945年 ねん 9月9日 にち に朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ が連合 れんごう 国軍 こくぐん の一部 いちぶ として朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ の占領 せんりょう にあたったアメリカ軍 ぐん への降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい し、領土 りょうど の占有 せんゆう を解除 かいじょ した。代 か わりとして在 ざい 朝鮮 ちょうせん アメリカ陸軍 りくぐん 司令 しれい 部 ぶ 軍 ぐん 政庁 せいちょう (アメリカ軍 ぐん 政庁 せいちょう )が、朝鮮半島 ちょうせんはんとう の統治 とうち を開始 かいし した。
その後 ご 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう は北緯 ほくい 38度 ど 線 せん を境 さかい に南部 なんぶ はアメリカ軍 ぐん 、北部 ほくぶ はソビエト連邦 れんぽう 軍 ぐん という2つの連合 れんごう 国軍 こくぐん を中心 ちゅうしん にした分離 ぶんり 統治 とうち が続 つづ き、1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )8月 がつ 15日 にち には、李 り 承晩 しょうばん がアメリカ軍 ぐん 政庁 せいちょう からの独立 どくりつ を宣言 せんげん して南部 なんぶ に大韓民国 だいかんみんこく 第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく が建国 けんこく された。同年 どうねん 9月 がつ 9日 にち には、北部 ほくぶ にソビエト連邦 れんぽう の後押 あとお しを受 う けた金 きむ 日成 いるそん を指導 しどう 者 しゃ とする朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく が建国 けんこく された。
なお「韓国 かんこく 併合 へいごう 」や「日 にち 韓 かん 併合 へいごう 」という言葉 ことば は、条約 じょうやく 締結 ていけつ という出来事 できごと だけではなく、日本 にっぽん が朝鮮 ちょうせん 半島 はんとう を統治 とうち し続 つづ けた継続 けいぞく 的 てき 事実 じじつ そのものを指 さ すこともある。
冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい 下 か の秩序 ちつじょ と開国 かいこく [ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ の朝鮮半島 ちょうせんはんとう を治 おさ めていた李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん は、清 しん 朝 ちょう 中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん とした冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい を堅持 けんじ していており、1869年 ねん に日本 にっぽん の明治 めいじ 政府 せいふ が王政 おうせい 復古 ふっこ を朝鮮 ちょうせん に通告 つうこく したときも、中国 ちゅうごく の皇帝 こうてい が朝鮮 ちょうせん に下 くだ す「皇 すめらぎ 上 じょう 」や「奉勅 ほうちょく 」などの言葉 ことば が用 もち いられていることを理由 りゆう に受 う け取 と りを拒否 きょひ した。1876年 ねん の江華島 こうかとう 事件 じけん を経 へ て日 にち 朝 ちょう 修好 しゅうこう 条規 じょうき が日 にち 朝 ちょう 間 あいだ で締結 ていけつ されて国交 こっこう は結 むす ばれたが、日本 にっぽん は条約 じょうやく 締結 ていけつ の際 さい に朝鮮 ちょうせん を清朝 せいちょう の冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい から離脱 りだつ させるために「朝鮮 ちょうせん 国 こく は自主 じしゅ の邦 くに にして日本 にっぽん 国 こく と平等 びょうどう の権 けん を保有 ほゆう せり」と記載 きさい させ、朝鮮 ちょうせん を「属 ぞく 邦 くに 」とする清国 きよくに と対立 たいりつ する下地 したじ が生 う まれた[3] 。その後 ご 、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん は米国 べいこく との条約 じょうやく 提携 ていけい を清朝 せいちょう に依頼 いらい し、天津 てんしん で交渉 こうしょう にあたった李 り 鴻章 こうしう は「朝鮮 ちょうせん は中国 ちゅうごく の属 ぞく 邦 くに であるが、内政 ないせい 外交 がいこう は自主 じしゅ である」という条文 じょうぶん を盛 も り込 こ むことを試 こころ みたが、アメリカ側 がわ が属国 ぞっこく (属 ぞく 邦 くに )と条約 じょうやく は結 むす べないとして反対 はんたい したため断念 だんねん した。しかしながら、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の高 こう 宗 はじめ は「朝鮮 ちょうせん は中国 ちゅうごく の属 ぞく 邦 くに であるが、内政 ないせい 外交 がいこう は自主 じしゅ である」とする照会 しょうかい を米国 べいこく だけではなく、ドイツ・イギリスとの条約 じょうやく 締結 ていけつ の交渉 こうしょう の際 さい にも行 おこな った[4] 。1882年 ねん 10月4日 にち に朝鮮 ちょうせん は清国 きよくに と中 ちゅう 朝 ちょう 商 しょう 民 みん 水陸 すいりく 貿易 ぼうえき 章程 しょうてい を締結 ていけつ し、清国 きよくに の藩 はん 部 ぶ であることを明言 めいげん した。
開国 かいこく 後 ご から日 にち 清 しん 戦争 せんそう まで[ 編集 へんしゅう ]
開国 かいこく 後 ご の李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん では、衛 まもる 正 せい 斥邪 (欧米 おうべい 諸国 しょこく を夷狄 いてき 視 し して排斥 はいせき し、鎖国 さこく を維持 いじ する)を是 ぜ とする高 こう 宗 むね の実父 じっぷ 興 きょう 宣 せん 大院君 たいいんくん 、朝鮮 ちょうせん 修 おさむ 信 しん 使 し として日本 にっぽん を訪問 ほうもん し、明治維新 めいじいしん に感化 かんか された青年 せいねん 官僚 かんりょう (金玉 きんぎょく 均 ひとし 、洪 ひろし 英 えい 植 うえ 、朴 ほお 泳 およげ 孝 こう ら)たちの開化 かいか 派 は 、清国 きよくに への臣 しん 属 ぞく を主張 しゅちょう する高 こう 宗 むね の妃 ひ 閔妃 びんび を擁 よう する閔氏一族 いちぞく (閔泳翊 ら)の事大 じだい 党 とう による政争 せいそう が続 つづ いていた。
ジョルジュ・ビゴー の風刺 ふうし 画 が 「魚釣 さかなつ り遊 あそ び」(Une partie de pêche ) [注釈 ちゅうしゃく 2] 『トバエ』1号 ごう (1887.2.15) 魚 さかな (朝鮮 ちょうせん )を釣 つ り上 あ げようとする日本 にっぽん と中国 ちゅうごく (清 きよし )、横 よこ どりをたくらむロシア 。
1881年 ねん 、衛 まもる 正 せい 斥邪派 は は興 きょう 宣 せん 大院君 たいいんくん の庶長子 ちょうし 李 り 載 の 先 さき を擁 よう して高 こう 宗 むね を廃 はい して閔氏一族 いちぞく の追放 ついほう を企 たくら むが失敗 しっぱい し、李 り 載 の 先 さき を含 ふく む30名 めい が処刑 しょけい された。翌年 よくねん 、興 きょう 宣 せん 大院君 たいいんくん は政権 せいけん 奪取 だっしゅ を目論 もくろ みクーデターを起 お こすが、金 きむ 允 まこと 植 うえ 、魚 さかな 允 まこと 中 なか の要請 ようせい を受 う けて清国 きよくに から派遣 はけん された丁 ちょう 汝 なんじ 昌 あきら と馬 うま 建 たて 忠 ただし によって鎮圧 ちんあつ された。大院君 たいいんくん は中国 ちゅうごく の天津 てんしん に幽閉 ゆうへい され、大院君 たいいんくん 派 は の官吏 かんり ・儒学 じゅがく 者 しゃ は凌 しのげ 遅 おそ 刑 けい に処 しょ されて壊滅 かいめつ した(壬 みずのえ 午 うま 軍 ぐん 乱 らん )。10月、清国 きよくに は朝鮮 ちょうせん と中 ちゅう 朝 ちょう 商 しょう 民 みん 水陸 すいりく 貿易 ぼうえき 章程 しょうてい を結 むす び朝鮮 ちょうせん の属国 ぞっこく 化 か を進 すす めると、馬 うま 建 けん 常 つね とメレンドルフ を政治 せいじ 顧問 こもん として朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ に送 おく り込 こ んだ。1884年 ねん に開化 かいか 派 は によるクーデターが起 お こったが、清国 きよくに の軍事 ぐんじ 介入 かいにゅう により鎮圧 ちんあつ されて開化 かいか 派 は も失脚 しっきゃく した(甲 きのえ 申 さる 政変 せいへん )。これらの政変 せいへん により、清国 きよくに は朝鮮 ちょうせん への影響 えいきょう 力 りょく を強 つよ め、閔氏一族 いちぞく の後見 こうけん となって政権 せいけん を掌握 しょうあく させた。清国 きよくに は日本 にっぽん と天津 てんしん 条約 じょうやく を結 むす び、朝鮮 ちょうせん に出兵 しゅっぺい をする際 さい は双 そう 国 こく とも事前 じぜん 通告 つうこく することを約定 やくじょう して、朝鮮半島 ちょうせんはんとう から撤兵 てっぺい した。
1885年 ねん 、高 こう 宗 むね が秘密裏 ひみつり にロシア帝国 ていこく に支援 しえん を要請 ようせい していることが露見 ろけん する(露 ろ 朝 ちょう 密約 みつやく 事件 じけん )と、清国 きよくに は影響 えいきょう 力 りょく を維持 いじ するため大院君 たいいんくん を朝鮮 ちょうせん に帰国 きこく させる。帰国 きこく した大院君 たいいんくん は高 こう 宗 むね を廃 はい して嫡孫 ちゃくそん の永 えい 宣 せん 君 くん を王位 おうい に擁立 ようりつ して自 みずか らは摂政 せっしょう に収 おさ まることを画策 かくさく し、全 ぜん 琫準 を通 つう じて東 ひがし 学 がく 党 とう との関係 かんけい を深 ふか めていった。1894年 ねん 6月 がつ 、東 ひがし 学 がく 党 とう が蜂起 ほうき して全羅道 ぜんらどう を占領 せんりょう して閔妃 びんび 政権 せいけん の退陣 たいじん を求 もと める(甲 きのえ 午 うま 農民 のうみん 戦争 せんそう )と、閔氏政権 せいけん は自力 じりき での反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ を諦 あきら めて清国 きよくに に救援 きゅうえん を依頼 いらい する。李 り 鴻章 こうしう は2,000名 めい 規模 きぼ の陸軍 りくぐん を派兵 はへい したが、日本 にっぽん も天津 てんしん 条約 じょうやく の取 と り決 き めに従 したが って邦人 ほうじん 保護 ほご のために8,000名 めい 規模 きぼ の混成 こんせい 旅団 りょだん を派兵 はへい した。
反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ 後 ご 、朝鮮 ちょうせん は両国 りょうこく に対 たい して撤兵 てっぺい を要求 ようきゅう するが双方 そうほう から拒否 きょひ された。日本 にっぽん は朝鮮 ちょうせん に独立 どくりつ 国 こっ かの再 さい 確認 かくにん を行 おこな い、朝鮮 ちょうせん 側 がわ から「自主 じしゅ 国 こく である」との回答 かいとう が受 う けたことから、自主 じしゅ 国 こく である朝鮮 ちょうせん に清国 きよくに 軍 ぐん が駐留 ちゅうりゅう することは清国 きよくに が朝鮮 ちょうせん を属国 ぞっこく として扱 あつか おうとする不当 ふとう な動 うご きとして批判 ひはん し、日 にち 清 しん 間 あいだ の緊張 きんちょう は高 たか まった。また、日本 にっぽん は朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ に内政 ないせい 改革 かいかく 案 あん を提示 ていじ したが、閔妃 びんび 一族 いちぞく は改革 かいかく 案 あん よりも撤兵 てっぺい を求 もと め、朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう による自主 じしゅ 的 てき な改革 かいかく を実施 じっし すると返答 へんとう しため、閔氏一族 いちぞく との対立 たいりつ も深 ふか まり[5] 、日本 にっぽん 政府 せいふ は興 きょう 宣 せん 大院君 たいいんくん を擁 よう した新 しん 政府 せいふ の樹立 じゅりつ を目論 もくろ むようになる[6] 。
1894年 ねん 7月 がつ 23日 にち 、大鳥 おおとり 圭介 けいすけ 駐 ちゅう 朝鮮 ちょうせん 公使 こうし は大島 おおしま 義昌 よしまさ 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう に師団 しだん を率 ひき いて漢 かん 城 じょう に入 はい ることを指示 しじ [7] 。大鳥 おおとり も護衛 ごえい 兵 へい を率 ひき いて朝鮮 ちょうせん 王宮 おうきゅう の景 けい 福 ぶく 宮 みや へ向 む かった。景 けい 福 ぶく 宮 みや に到着 とうちゃく すると朝鮮 ちょうせん 軍 ぐん からの発砲 はっぽう を受 う けたが、日本 にっぽん 軍 ぐん の反撃 はんげき を受 う けると朝鮮 ちょうせん 兵 へい は相次 あいつ いで逃走 とうそう し、朝鮮 ちょうせん 軍 ぐん は1時 じ 間 あいだ ほどで霧散 むさん した[8] 。
大鳥 おおとり 公使 こうし が本国 ほんごく に送 おく った報告 ほうこく は次 つぎ の通 とお りである。
電信 でんしん 訳文 やくぶん 廿 にじゅう 七 なな 年 ねん 七月廿三日午前八時十分発午後三時七分着
東京 とうきょう 陸奥 みちのく 大臣 だいじん 京 きょう 城 じょう 大鳥 おおとり 公使 こうし
朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ は本 ほん 使 つかい の電信 でんしん に述 の べたる第 だい 二 に の要求 ようきゅう に対 たい し甚 はなは だ不満足 ふまんぞく なる回答 かいとう を為 な せしを以 もっ て不 ふ 得 とく 已 やめ (やむをえず)王宮 おうきゅう を囲 かこ むの断然 だんぜん たる處置 しょち を執 と るに至 いた り本 ほん 使 つかい は七 なな 月 がつ 廿 にじゅう 三 さん 日 にち 早朝 そうちょう に此手段 しゅだん を施 ほどこ し朝鮮 ちょうせん 兵 へい は日本 にっぽん 兵 へい に向 むかい て発砲 はっぽう し双方 そうほう 互 かたみ に砲撃 ほうげき せり[9]
また、歩兵 ほへい 第 だい 32連隊 れんたい 第 だい 1大 だい 隊長 たいちょう 名 めい で1903年 ねん 作成 さくせい された「韓国 かんこく 京 きょう 城 じょう 駐 ちゅう 剳隊歴史 れきし 」には、この戦闘 せんとう の様子 ようす が詳 くわ しく書 か かれている。
我 わが 兵 へい は王城 おうじょう 内 ない に入 はい らんとす。分 わか ちて二 に 隊 たい と為 な し橋本 はしもと 少佐 しょうさ 一 いち 隊 たい を率 りつ ひて正門 せいもん なる光 ひかり 化 か 門 もん に当 あた り森 もり 少佐 しょうさ は後 こう 門 もん なる彰 あきら 化 か 門 もん に向 こう ひたり。而 しか して正門 せいもん の一 いち 隊 たい は先 さき づ門前 もんぜん に構へたる親 おや 軍 ぐん 壮 たけし 衛 まもる 営に駐屯 ちゅうとん せし韓 かん 兵 へい を吶喊 とっかん の声 こえ の下 した に逐ひ散 ち らし勢 ぜい に乗 じょう じて門 もん 壁 かべ を摩 ま し銃床 じゅうしょう を乱 みだれ 敲しつゝ連 れん りに吶喊 とっかん すれば後 こう 門 もん の一 いち 隊 たい も之 これ に応 おう じて鯨波 げいは を作 つく り或 あるい は空砲 くうほう を発 はっ して犇 ひしめ き渡 わた れり。[10]
戦闘 せんとう 終了 しゅうりょう 後 ご 、朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう の臣下 しんか は多 おお くが逃走 とうそう し、国王 こくおう の高 こう 宗 むね は身 み を潜 ひそ めていたところを日本 にっぽん 軍 ぐん に保護 ほご された[11] [12] 。高 こう 宗 むね は大島 おおしま に「(国王 こくおう である自分 じぶん は)日本 にっぽん の改革 かいかく 案 あん に賛同 さんどう していたが、袁世凱 の意向 いこう を受 う けた閔氏一 いち 族 ぞく によって阻 はば まれていた」と釈明 しゃくめい し、改革 かいかく を実現 じつげん するために興 きょう 宣 せん 大院君 たいいんくん に国政 こくせい と改革 かいかく の全権 ぜんけん を委任 いにん すること提案 ていあん に同意 どうい した[13] 。同日 どうじつ のうちに大院君 たいいんくん は景 けい 福 ぶく 宮 みや に入 はい って復権 ふっけん を果 は たしたが、老齢 ろうれい の興 きょう 宣 せん 大院君 たいいんくん は時勢 じせい に疎 うと く政務 せいむ の渋滞 じゅうたい が見 み られたため、杉村 すぎむら 濬京 きょう 城 しろ 公使館 こうしかん 書記官 しょきかん が新 しん 政権 せいけん の首相 しゅしょう たる領 りょう 議 ぎ 政 せい の役職 やくしょく に金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう を推挙 すいきょ すると、大院君 たいいんくん はこれに従 したが った[14] 。朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ は日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい して牙 きば 山 やま に駐屯 ちゅうとん する清 しん 軍 ぐん を撤退 てったい させることを要請 ようせい を行 おこな った[6] が、朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう は清国 きよくに の報復 ほうふく に怯 おび えて清国 きよくに との絶縁 ぜつえん などの日本 にっぽん の要請 ようせい を拒 こば み続 つづ けており、大鳥 おおとり 圭介 けいすけ の強硬 きょうこう な態度 たいど に屈 くっ して日本 にっぽん の要請 ようせい に応 おう じたが、その内容 ないよう は大鳥 おおとり を落胆 らくたん させるものであった[15] 。しかしながら、清 しん 軍 ぐん を朝鮮 ちょうせん から退去 たいきょ させるために日本 にっぽん 軍 ぐん が攻撃 こうげき する名分 めいぶん を得 え ることができたため、日本 にっぽん は戦争 せんそう の開戦 かいせん 準備 じゅんび を始 はじ める。
1894年 ねん 7月 がつ 25日 にち 、朝鮮 ちょうせん の豊島 としま 沖 おき で日 にち 清 しん 間 あいだ の武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ (豊島 としま 沖 おき 海戦 かいせん )を契機 けいき に日 にち 清 しん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ し、勝利 しょうり した日本 にっぽん は清国 きよくに と下関 しものせき 条約 じょうやく を締結 ていけつ し、朝鮮 ちょうせん が自主 じしゅ 独立 どくりつ 国 こく であることを認 みと めさせ、朝鮮半島 ちょうせんはんとう における清国 きよくに の影響 えいきょう を排 はい することに成功 せいこう した。
高 こう 宗 むね の親 しん 露 ろ 政策 せいさく と大韓 たいかん 帝国 ていこく の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
日 にち 清 しん 戦争 せんそう 直後 ちょくご の朝鮮半島 ちょうせんはんとう は、清国 きよくに と結 むす んでいた閔氏一族 いちぞく が失脚 しっきゃく し、復権 ふっけん した開化 かいか 派 は は金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう を総理 そうり 大臣 だいじん として朝鮮 ちょうせん 史上 しじょう 最初 さいしょ の憲法 けんぽう である「洪 ひろし 範 はん 14条 じょう 」を制定 せいてい して甲 きのえ 午 うま 改革 かいかく が推進 すいしん したが、フランス、ドイツ帝国 ていこく 、ロシア帝国 ていこく による下関 しものせき 条約 じょうやく に関 かん する干渉 かんしょう に日本 にっぽん が屈 くっ すると、ロシア帝国 ていこく と結 むす んだ高 こう 宗 はじめ の妃 ひ 閔妃 びんび の影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ まり、金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう 内閣 ないかく の兪吉濬 や金 きむ 嘉 よしみ 鎭 などが相次 あいつ いで追放 ついほう された。失脚 しっきゃく していた大院君 たいいんくん は開化 かいか 派 は の禹範善 ぜん を介 かい して日本 にっぽん と結 むす んでクーデター(乙 おつ 未 み 事変 じへん )を起 お こして閔妃 びんび を殺害 さつがい して復権 ふっけん を果 は たすが、残 のこ された事大 じだい 党 とう (李 り 範 はん 晋 すすむ ら)は妻 つま を殺害 さつがい された高 こう 宗 むね を味方 みかた につけて、1895年 ねん にクーデター に失敗 しっぱい (春生 はるお 門 もん 事件 じけん )するも、1896年 ねん にロシア軍 ぐん の支援 しえん を受 う けて高 こう 宗 むね をロシア公使館 こうしかん に移 うつ して実権 じっけん を握 にぎ り、高 こう 宗 はじめ により金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう らの開化 かいか 派 は の閣僚 かくりょう は処刑 しょけい され、親 しん 露 ろ 派 は 内閣 ないかく による執政 しっせい が行 おこな われた(露 ろ 館 かん 播遷 )[16] 。ロシアの威光 いこう を背景 はいけい に皇帝 こうてい の専制 せんせい を推進 すいしん する高 こう 宗 むね に対抗 たいこう して、開化 かいか 派 は は独立 どくりつ 協会 きょうかい を設立 せつりつ して、朝鮮 ちょうせん が清 きよし の冊 さつ 封 ふう 国 こく として設 もう けた慕華館 かん 、迎 むかい 恩 おん 門 もん を独立 どくりつ 館 かん 、独立 どくりつ 門 もん と改 あらた め、開化 かいか 思想 しそう と自主 じしゅ 独立 どくりつ の啓蒙 けいもう に努 つと めた。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう を巡 めぐ って悪化 あっか した日 にち 露 ろ 関係 かんけい を改善 かいぜん するため、小村 こむら 寿太郎 じゅたろう 駐 ちゅう 朝鮮 ちょうせん 国 こく 公使 こうし とウェーバー駐 ちゅう 朝鮮 ちょうせん 国 こく ロシア公使 こうし との間 あいだ に協定 きょうてい が結 むす ばれ、高 こう 宗 はじめ は1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )2月 がつ にロシア公使館 こうしかん から慶 けい 雲宮 くもみや に帰還 きかん した[17] 。1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )10月 がつ 12日 にち 、高 こう 宗 はじめ は自 みずか ら皇帝 こうてい に即位 そくい して国号 こくごう を「大韓 たいかん 」と改 あらた めた。高 こう 宗 むね はロシアの力 ちから を借 か りて専制 せんせい 君主 くんしゅ 国家 こっか の成立 せいりつ に取 と り組 く み、ロシア公使 こうし アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル (en:Alexey Shpeyer )の要請 ようせい を受 う け、度 ど 支部 しぶ (財務省 ざいむしょう )の顧問 こもん を英国 えいこく 人 じん ジョン・マクレヴィ・ブラウン からロシア人 じん キリル・アレキセーフ (Kiril A. Alexeev)へと交代 こうたい させ (度 ど 支 ささえ 顧問 こもん 事件 じけん )、1898年 ねん 2月 がつ には露 ろ 韓 かん 銀行 ぎんこう を設立 せつりつ させた[18] 。また、1898年 ねん 1月 がつ には対馬 つしま と近 ちか い釜山 ぷさん の絶 ぜっ 影 かげ 島 とう にロシアが太平洋艦隊 たいへいようかんたい の石炭 せきたん 庫 こ 基地 きち を租借 そしゃく を要求 ようきゅう する事件 じけん が起 お きた (絶 ぜっ 影 かげ 島 とう 貯炭 ちょたん 庫 こ 設置 せっち 問題 もんだい )[19] [20] 。開化 かいか 派 は は、中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ の徐 じょ 載 の 弼 が中枢 ちゅうすう 院 いん 顧問 こもん から解任 かいにん ・国外 こくがい 追放 ついほう され、1898年 ねん 2月 がつ に、ロシア、日本 にっぽん などからの自立 じりつ を求 もと めた上 うえ 疏 が黙殺 もくさつ されるなど冷遇 れいぐう を受 う けた[21] 。また、大院君 たいいんくん も高 こう 宗 むね に諫言を行 おこな ったが、「倭 やまと 奴 やつ (日本 にっぽん )の何 なに か事 こと 場 じょう を醸 かも すの処 しょ あっての事 こと なるや」「露 ろ 国 こく は朕 ちん に親切 しんせつ にして、且 か つ後楯 うしろだて を為 な せり。」と一蹴 いっしゅう された[22] 。独立 どくりつ 協会 きょうかい を引 ひ き継 つ いだ尹 いん 致昊 は市民 しみん の街頭 がいとう 集会 しゅうかい (万民 ばんみん 共同 きょうどう 会 かい )を通 つう じて議会 ぎかい 設立 せつりつ を求 もと める運動 うんどう を推進 すいしん したが、高 こう 宗 はじめ も褓負商 しょう (行商 ぎょうしょう 人 じん ) を動員 どういん して皇国 こうこく 協会 きょうかい を設立 せつりつ して対抗 たいこう した。1899年 ねん 1月 がつ 、高 こう 宗 むね が独立 どくりつ 協会 きょうかい に解散 かいさん 命令 めいれい を下 くだ すと会長 かいちょう の尹 いん 致昊は米国 べいこく 公使館 こうしかん に逃 に げ込 こ み、開化 かいか 派 は は壊滅 かいめつ した。1898年 ねん 4月 がつ に日 にち 露 ろ 間 あいだ で西 にし ・ローゼン協定 きょうてい が結 むす ばれ、両国 りょうこく は韓国 かんこく の国内 こくない 政治 せいじ への干渉 かんしょう を差 さ し控 ひか えることが定 さだ められた。高 こう 宗 むね は皇帝 こうてい の専制 せんせい 政治 せいじ を目論 もくろ んで光武 みつたけ 改革 かいかく と称 しょう する政治 せいじ 運動 うんどう を進 すす めようとするも、しかし、1898年 ねん 7月 がつ には皇帝 こうてい 譲位 じょうい 計画 けいかく が、9月には金 きむ 鴻 ひろし 陸 りく による高 こう 宗 はじめ ・皇太子 こうたいし 暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん (毒 どく 茶 ちゃ 事件 じけん )が起 お こるなど臣下 しんか の離反 りはん が相次 あいつ ぎ、王室 おうしつ の財源 ざいげん を確保 かくほ するための経済 けいざい 政策 せいさく も国民 こくみん の支持 しじ を得 え ることができないまま、早々 そうそう に破綻 はたん してしまった。
李 り 朝 ちょう 時代 じだい の西 にし 大門 おおもん (1903年 ねん )
1899年 ねん (明治 めいじ 32)8 月 がつ 、高 こう 宗 はじめ は「大 だい 韓国 かんこく 国 こく 制 せい 」を発布 はっぷ し、皇帝 こうてい は統帥 とうすい 権 けん 、法律 ほうりつ の制定 せいてい 権 けん 、恩赦 おんしゃ 権 けん 、外交 がいこう 権 けん など強大 きょうだい な権力 けんりょく を有 ゆう することが定 さだ められ、皇帝 こうてい 専制 せんせい による近代 きんだい 化 か 政策 せいさく (光武 みつたけ 改革 かいかく )が進 すす められたが、韓国 かんこく 独自 どくじ の貨幣 かへい 発行 はっこう は失敗 しっぱい して財政 ざいせい は悪化 あっか した(後述 こうじゅつ の「財政 ざいせい 問題 もんだい 及 およ び偽 にせ 白 しろ 銅貨 どうか の流通 りゅうつう 」を参照 さんしょう )。韓国 かんこく 政府 せいふ により京 きょう 城 しろ ~木浦 きうら 間 あいだ に鉄道 てつどう を敷設 ふせつ する計画 けいかく も発表 はっぴょう されたが、資金 しきん 不足 ふそく により実現 じつげん に取 と り掛 か かることはできなかった。また、光武 みつたけ 量 りょう 田 た 事業 じぎょう と呼 よ ばれる土地 とち 調査 ちょうさ を実施 じっし し、封建 ほうけん 制度 せいど の基礎 きそ となる土地 とち 私有 しゆう 制 せい を国家 こっか 所有 しょゆう 制 せい に切 き り替 か え、近代 きんだい 的 てき 地 ち 税 ぜい 賦課 ふか による税収 ぜいしゅう の増加 ぞうか を目論 もくろ んだが、土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ たちへの説明 せつめい が不明瞭 ふめいりょう なまま強引 ごういん に推 お し進 すす められたことや経費 けいひ の不足 ふそく から徹底 てってい することができないまま、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ により事業 じぎょう は終了 しゅうりょう した[23] 。
イギリスの旅行 りょこう 作家 さっか イザベラ・バード は、光武 みつたけ 改革 かいかく について著書 ちょしょ 『朝鮮 ちょうせん 紀行 きこう 』で以下 いか のように述 の べている。
朝鮮 ちょうせん 人 じん 官僚 かんりょう 界 かい の態度 たいど は、日本 にっぽん の成功 せいこう に関心 かんしん を持 も つ少数 しょうすう の人々 ひとびと をのぞき、新 あたら しい体制 たいせい にとってまったく不都合 ふつごう なもので、改革 かいかく のひとつひとつが憤 いきどお りの対象 たいしょう となった。官吏 かんり 階級 かいきゅう は改革 かいかく で「搾取 さくしゅ 」や不正 ふせい 利得 りとく がもはやできなくなると見 み ており、ごまんといる役所 やくしょ の居候 いそうろう や取 と り巻 ま きとともに、全員 ぜんいん が私利 しり 私欲 しよく という最強 さいきょう の動機 どうき で結 むす ばれ、改革 かいかく には積極 せっきょく 的 てき にせよ消極 しょうきょく 的 てき にせよ反対 はんたい していた。政治 せいじ 腐敗 ふはい はソウルが本拠地 ほんきょち であるものの、どの地方 ちほう でもスケールこそそれより小 ちい さいとはいえ、首都 しゅと と同質 どうしつ の不正 ふせい がはぴこっており、勤勉 きんべん 実直 じっちょく な階層 かいそう をしいたげて私腹 しふく を肥 こ やす悪徳 あくとく 官吏 かんり が跋扈 ばっこ していた。このように堕落 だらく しきった朝鮮 ちょうせん の官僚 かんりょう 制度 せいど の浄化 じょうか に日本 にっぽん は着手 ちゃくしゅ したのであるが、これは困難 こんなん きわまりなかった。名誉 めいよ と高潔 こうけつ の伝統 でんとう は、あったとしてももう何 なに 世紀 せいき も前 まえ に忘 わす れられている。公正 こうせい な官吏 かんり の規範 きはん は存在 そんざい しない。日本 にっぽん が改革 かいかく に着手 ちゃくしゅ したとき、朝鮮 ちょうせん には階層 かいそう が二 ふた つしかなかった。盗 ぬす む側 がわ と盗 ぬす まれる側 がわ である。そして盗 ぬす む側 がわ には官界 かんかい をなす膨大 ぼうだい な数 かず の人間 にんげん が含 ふく まれる。「搾取 さくしゅ 」 と着服 ちゃくふく は上層 じょうそう 部 ぶ から下級 かきゅう 官吏 かんり にいたるまで全体 ぜんたい を通 つう じての習 なら わしであり、どの職位 しょくい も売買 ばいばい の対象 たいしょう となっていた。
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イザベラ・バード 、『朝鮮 ちょうせん 紀行 きこう 』講談社 こうだんしゃ 〈講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 〉、1998年 ねん 、pp.343 f
財政 ざいせい 問題 もんだい 及 およ び偽 にせ 白 しろ 銅貨 どうか の流通 りゅうつう [ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ の白 しろ 銅貨 どうか には、典 てん 圜局製造 せいぞう の「官 かん 鋳 い 」、正式 せいしき な特別 とくべつ 許可 きょか による外 そと 製 せい の「特 とく 鋳 い 」、韓国 かんこく 皇室 こうしつ の内々 うちうち の勅許 ちょっきょ (啓 けい 字 じ 公 こう 蹟 あと ) による外 そと 製 せい の「黙 だま 鋳 い 」、密造 みつぞう による「私 わたし 鋳 い 」があると見 み られていた[24] 。韓国 かんこく の帝室 ていしつ が納付 のうふ 金 きん を徴 しる して白 しろ 銅貨 どうか の私 わたし 鋳 い を黙許 もっきょ したため、大韓 たいかん 帝国 ていこく において通用 つうよう する白 しろ 銅貨 どうか の偽物 にせもの が日 ひ に増 ま して流通 りゅうつう し、その悪貨 あっか によって商 しょう 取引 とりひき に問題 もんだい が発生 はっせい していた[25] 。また、大韓 たいかん 帝国 ていこく においては偽造 ぎぞう 勅許 ちょっきょ 証 あかし (偽造 ぎぞう 啓 けい 字 じ 公 こう 蹟 あと ) が多 おお く出回 でまわ っており、それによる偽 にせ 啓 けい 默 だま 鋳 い も行 おこな われていた。しかし、内密 ないみつ の勅許 ちょっきょ を暴露 ばくろ することは重罪 じゅうざい であったため、民間 みんかん 人 じん が白 しろ 銅貨 どうか 鑄造 ちゅうぞう の勅命 ちょくめい 許可 きょか 証 しょう の真偽 しんぎ を判断 はんだん することは難 むずか しかった[26] 。しかし、日本 にっぽん 公使館 こうしかん は内密 ないみつ な手段 しゅだん によってこの真偽 しんぎ を確 たし かめることができた[26] 。
兪吉濬 によれば、仁川 にがわ 監理 かんり の河相 かあい 驥 が白 しろ 銅貨 どうか 偽造 ぎぞう に手 て を染 そ めていたとされる[27] 。金亨燮 きんきょうしょう によれば、革命 かくめい 一 いち 心 しん 会 かい に所属 しょぞく する兪吉濬が徐 じょ 相 しょう 潗 や河相 かあい 驥に白 しろ 銅貨 どうか 偽造 ぎぞう を行 おこな わせたとされる[28] [29] 。その他 た にも啓 けい 字 じ 偽造 ぎぞう により尹 いん 孝 たかし 寬 ひろし 、丁 ちょう 徳 いさお 天 てん 、李 り 聖 きよし 烈 れつ 、洪 ひろし 淳 じゅん 学 がく や、洪 ひろし 秉晋 などが逮捕 たいほ されている[30] [31] 。
また、当時 とうじ は白 しろ 銅貨 どうか や韓 かん 銭 ぜに だけでなく、清 きよし の商人 しょうにん の発行 はっこう する銭 ぜに 票 ひょう や日本 にっぽん の商人 しょうにん の発行 はっこう する韓 かん 銭 ぜに 預 あず かり手形 てがた も韓国 かんこく の市場 いちば に流通 りゅうつう していた[32] [33] 。白 しろ 銅貨 どうか 低落 ていらく の影響 えいきょう を受 う けた日本 にっぽん の在 ざい 韓 かん 商人 しょうにん には、韓国 かんこく の安定 あんてい した貨幣 かへい 制度 せいど の確立 かくりつ を望 のぞ む者 もの と、むしろ韓国 かんこく 通貨 つうか の低落 ていらく を助長 じょちょう して日本 にっぽん 貨幣 かへい の流通 りゅうつう を拡張 かくちょう すべきだと主張 しゅちょう する者 もの が存在 そんざい した[34] 。1902年 ねん 5月 がつ 、日本 にっぽん の第 だい 一 いち 銀行 ぎんこう は韓国 かんこく において日本円 にほんえん との兌換 だかん が保証 ほしょう された第 だい 一 いち 銀行 ぎんこう 券 けん を発行 はっこう し[32] 、韓国 かんこく の親 しん 露 ろ 派 は からの妨害 ぼうがい があったにも関 かか わらず、その信用 しんよう は増 ま していった[32] [35] 。
1904年 ねん 10月 がつ 、目 め 賀田 よした 種太郎 たねたろう が財政 ざいせい 顧問 こもん となり、同年 どうねん 11月 がつ 、貨幣 かへい の原盤 げんばん の流出 りゅうしゅつ 元 もと とみられる典 てん 圜局 は廃止 はいし され、1905年 ねん 7月 がつ 、韓国 かんこく は日本 にっぽん と同一 どういつ の貨幣 かへい 制度 せいど を採用 さいよう し[36] 、硬貨 こうか は大阪 おおさか 造幣局 ぞうへいきょく で鋳造 ちゅうぞう されることとなった。
ロシアの南下 なんか と日 にち 露 ろ 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の風刺 ふうし 画 が
ロシア帝国 ていこく は南下 なんか 政策 せいさく の一環 いっかん として、東 ひがし アジア の領土 りょうど 拡張 かくちょう を推進 すいしん していた。日本 にっぽん が日 にち 清 しん 戦争 せんそう で勝利 しょうり し、下関 しものせき 条約 じょうやく で遼東 りゃおとん 半島 はんとう を割譲 かつじょう されると、ロシアはフランス、ドイツと共同 きょうどう で干渉 かんしょう を行 おこな って、遼東 りゃおとん 半島 はんとう を返還 へんかん させた(三 さん 国 こく 干渉 かんしょう )。同時 どうじ にロシアは清 きよし と露 ろ 清 しん 密約 みつやく を結 むす び、東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう の敷設 ふせつ など満州 まんしゅう への権益 けんえき を確保 かくほ 、1898年 ねん には遼東 りゃおとん 半島 はんとう の旅順 りょじゅん 港 こう と大連 たいれん 湾 わん 、威海衛 いかいえい を租借 そしゃく して植民 しょくみん 地 ち 化 か を進 すす めていった。また、露 ろ 館 かん 播遷以降 いこう は朝鮮半島 ちょうせんはんとう にも進出 しんしゅつ を始 はじ めていた。1900年 ねん には義和 よしかず 団 だん の乱 らん に乗 じょう じてロシアが満州 まんしゅう を軍事 ぐんじ 占領 せんりょう し(満 まん 洲 しゅう 還付 かんぷ 条約 じょうやく )、ロシアの南下 なんか 政策 せいさく に対 たい して、日本 にっぽん は満州 まんしゅう でのロシア帝国 ていこく の優越 ゆうえつ 権 けん 朝鮮半島 ちょうせんはんとう での日本 にっぽん の優越 ゆうえつ 権 けん を相互 そうご に認 みと めあう満 まん 韓 かん 交換 こうかん 論 ろん を主張 しゅちょう する元老 げんろう の伊藤 いとう 博文 ひろぶみ と、ロシアを信用 しんよう せずに欧米 おうべい 列強 れっきょう と協力 きょうりょく して対抗 たいこう するべきと主張 しゅちょう する元老 げんろう の山縣 やまがた 有朋 ありとも が対立 たいりつ していた。1901年 ねん 、第 だい 4次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく を退 しりぞ けて、山縣 やまがた の側近 そっきん である桂 かつら 太郎 たろう が第 だい 1次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく を組閣 そかく すると、桂 かつら は内閣 ないかく の目標 もくひょう の中 なか に「日 にち 英 えい 同盟 どうめい の締結 ていけつ 」と「韓国 かんこく の保護 ほご 国 こく 化 か 」を掲 かか げ[37] 、1902年 ねん に日 にち 英 えい 同盟 どうめい が成立 せいりつ すると朝鮮半島 ちょうせんはんとう を巡 めぐ るロシアとの軍事 ぐんじ 的 てき な緊張 きんちょう が高 たか まった。
1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )1月 がつ 21日 にち 、韓国 かんこく 政府 せいふ は局外 きょくがい 中立 ちゅうりつ を宣言 せんげん して、日 にち 露 ろ 間 あいだ の軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ に関 かか わることを避 さ けようとしたが、日本 にっぽん は大韓 たいかん 帝国 ていこく の独立 どくりつ と領土 りょうど 保全 ほぜん および皇室 こうしつ の安全 あんぜん を保障 ほしょう するかわりに、韓国 かんこく 領土 りょうど 内 ない における日本 にっぽん 軍 ぐん の行動 こうどう の自由 じゆう と、軍略 ぐんりゃく 上 じょう 必要 ひつよう な土地 とち の収用 しゅうよう を韓国 かんこく に承認 しょうにん させた(日 にち 韓 かん 議定 ぎてい 書 しょ )[注釈 ちゅうしゃく 3] 。8月22日 にち には第 だい 一 いち 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく を締結 ていけつ して、財政 ざいせい 顧問 こもん に目 め 賀田 よした 種太郎 たねたろう 、外交 がいこう 顧問 こもん に日本 にっぽん の外務省 がいむしょう に勤務 きんむ していたアメリカ人 じん のダーハム・W・スティーブンス を推薦 すいせん して、韓国 かんこく 政府 せいふ 内 ない への影響 えいきょう 力 りょく を強 つよ めた。1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )2月 がつ 6日 にち 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう が開戦 かいせん すると、高 こう 宗 はじめ はロシア皇帝 こうてい に密使 みっし を送 おく ってロシアへの協力 きょうりょく を約束 やくそく したが、韓国 かんこく 国民 こくみん はロシアの排除 はいじょ と日本 にっぽん の勝利 しょうり を支持 しじ しており、政府 せいふ と国民 こくみん に大 おお きな乖離 かいり が生 う まれた[38] 。
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご の朝鮮半島 ちょうせんはんとう を巡 めぐ る国際 こくさい 情勢 じょうせい [ 編集 へんしゅう ]
英国 えいこく のランズダウン 外相 がいしょう はロシアの南下 なんか を阻止 そし するため、韓国 かんこく が自主 じしゅ 独立 どくりつ の国家 こっか として存在 そんざい することを望 のぞ んでおり、ジョーダン(John N. Jordan)駐韓 ちゅうかん 公使 こうし に対 たい して韓国 かんこく の支援 しえん を行 おこな うように指示 しじ を行 おこな った。ジョーダンは韓国 かんこく の立場 たちば になって日 にち 露 ろ の干渉 かんしょう を排除 はいじょ するために尽力 じんりょく していたが、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の終結 しゅうけつ 時 じ になると、ジョーダンはマクドナルド(Claude M. MacDonald)駐 ちゅう 日 にち 公使 こうし に対 たい して「日 にち 清 しん 戦争 せんそう 後 ご に独立 どくりつ した韓国 かんこく の状況 じょうきょう を見 み ていると、韓国 かんこく の政治 せいじ 家 か に統治 とうち 能力 のうりょく がないため、此処 ここ 10年 ねん の韓国 かんこく は名目 めいもく 上 じょう の独立 どくりつ 国 こく に過 す ぎず、このまま独立 どくりつ 国 こく として維持 いじ されるのは困難 こんなん である」と見解 けんかい を示 しめ すようになる。マクドナルドもジョーダンに同意 どうい し、韓国 かんこく は日本 にっぽん に支配 しはい されることが韓国 かんこく 人 じん 自身 じしん のためにもなるという結論 けつろん をイギリス本国 ほんごく に報告 ほうこく した。ランズダウン、バルフォア 首相 しゅしょう は2人 ふたり の見解 けんかい を了承 りょうしょう し、第 だい 二 に 次 じ 日 にち 英 えい 同盟 どうめい では日本 にっぽん が韓国 かんこく を保護 ほご 国 こく にすることが承認 しょうにん された[39] [40] 。
米国 べいこく は高 こう 宗 むね の厚遇 こうぐう を得 え ていた駐韓 ちゅうかん 公使 こうし ホレイス・ニュートン・アレン が日本 にっぽん の干渉 かんしょう に抵抗 ていこう を続 つづ けていたが、セオドア・ルーズベルト による日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の仲介 ちゅうかい が始 はじ まると、1905年 ねん 6月 がつ に駐韓 ちゅうかん 公使 こうし を更迭 こうてつ された。1905年 ねん 7月 がつ 29日 にち 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のウィリアム・タフト 陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん が来日 らいにち し、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 兼 けん 臨時 りんじ 外務 がいむ 大臣 だいじん であった桂 かつら 太郎 たろう と、アメリカは韓国 かんこく における日本 にっぽん の支配 しはい 権 けん を承認 しょうにん し、日本 にっぽん はアメリカのフィリピン 支配 しはい 権 けん を承認 しょうにん する内容 ないよう の桂 かつら ・タフト協定 きょうてい を交 か わす[41] 。桂 かつら ・タフト協定 きょうてい は、1902年 ねん の日 にち 英 えい 同盟 どうめい をふまえたもので、以下 いか の三 さん 点 てん が確認 かくにん された。
大日本帝国 だいにっぽんていこく は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の植民 しょくみん 地 ち となっていたフィリピン に対 たい して野心 やしん のないことを表明 ひょうめい する。
極東 きょくとう の平和 へいわ は、大日本帝国 だいにっぽんていこく 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、イギリス連合 れんごう 王国 おうこく の3国 こく による事実 じじつ 上 じょう の同盟 どうめい によって守 まも られるべきである。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は、大日本帝国 だいにっぽんていこく の韓国 かんこく における指導 しどう 的 てき 地位 ちい を認 みと める。
会談 かいだん の中 なか で、桂 かつら は、韓国 かんこく 政府 せいふ が日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の直接 ちょくせつ の原因 げんいん であると指摘 してき し、朝鮮半島 ちょうせんはんとう における問題 もんだい の広範囲 こうはんい な解決 かいけつ が日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の論理 ろんり 的 てき な結果 けっか であり、もし韓国 かんこく 政府 せいふ が単独 たんどく で放置 ほうち されるような事態 じたい になれば、再 ふたた び同 おな じように他国 たこく と条約 じょうやく を結 むす んで日本 にっぽん を戦争 せんそう に巻 ま き込 こ むだろう、従 したが って日本 にっぽん は韓国 かんこく 政府 せいふ が再度 さいど 別 べつ の外国 がいこく との戦争 せんそう を日本 にっぽん に強制 きょうせい する条約 じょうやく を締結 ていけつ することを防 ふせ がなければならない、と主張 しゅちょう した。桂 かつら の主張 しゅちょう を聞 き いたタフト特使 とくし は、韓国 かんこく 政府 せいふ が日本 にっぽん の保護 ほご 国 こく となることが東 ひがし アジアの安定 あんてい 性 せい に直接 ちょくせつ 貢献 こうけん することに同意 どうい し、また彼 かれ の意見 いけん として、ルーズベルト大統領 だいとうりょう もこの点 てん に同意 どうい するだろうと述 の べた。この協定 きょうてい は7月 がつ 31日 にち に電文 でんぶん で確認 かくにん したセオドア・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう によって承認 しょうにん され、8月 がつ 7日 にち にタフトはマニラ から大統領 だいとうりょう 承認 しょうにん との電文 でんぶん を桂 かつら に送付 そうふ した。桂 かつら は翌 よく 8月 がつ 8日 にち に日 にち 露 ろ 講和 こうわ 会議 かいぎ の日本 にっぽん 側 がわ 全権 ぜんけん として米国 べいこく ポーツマス にいた外相 がいしょう 小村 こむら 寿太郎 じゅたろう に知 し らせている。
ロシアは日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の講和 こうわ 条約 じょうやく (ポーツマス条約 じょうやく )で韓国 かんこく に対 たい する日本 にっぽん の優越 ゆうえつ 権 けん を認 みと め、1906年 ねん に駐 ちゅう 日 にち 公使 こうし (1899年 ねん -1903年 ねん )を務 つと めたアレクサンドル・イズヴォリスキー がロシア帝国 ていこく の外務 がいむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん すると日 にち 露 ろ 関係 かんけい の緊張 きんちょう は解 と けていき、朝鮮半島 ちょうせんはんとう への干渉 かんしょう から撤退 てったい していく、その後 ご も、フランスが1907年 ねん の日 にち 仏 ふつ 協約 きょうやく で日本 にっぽん の韓国 かんこく における優越 ゆうえつ 的 てき 地位 ちい を認 みと める[42] など、日本 にっぽん の朝鮮半島 ちょうせんはんとう に関 かん する支配 しはい 権 けん は欧米 おうべい 列強 れっきょう の協調 きょうちょう 外交 がいこう に組 く み込 こ まれていった。
第 だい 二 に 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく とハーグ密使 みっし 事件 じけん [ 編集 へんしゅう ]
統監 とうかん 府 ふ に向 む かう伊藤 いとう 博文 ひろぶみ
1905年 ねん 4月 がつ 8日 にち 、第 だい 一 いち 次 じ 桂 かつら 太郎 たろう 内閣 ないかく は「韓国 かんこく 保護 ほご 権 けん 確立 かくりつ の件 けん 」を閣議 かくぎ 決定 けってい した[43] 。その内容 ないよう は「韓国 かんこく の対外 たいがい 関係 かんけい は全然 ぜんぜん 帝国 ていこく に於 おい て之 これ を担任 たんにん し」「韓国 かんこく は直接 ちょくせつ に外国 がいこく と条約 じょうやく を締結 ていけつ するを得 え ざること」などであり、つまり韓国 かんこく の外交 がいこう 権 けん を奪 うば うという内容 ないよう であった。また、ロシアの後 うし ろ盾 たて をなくした高 こう 宗 はじめ も韓国 かんこく 皇室 こうしつ の利益 りえき を保全 ほぜん するため日 にち 韓 かん 協約 きょうやく の締結 ていけつ を推進 すいしん しており[注釈 ちゅうしゃく 4] 、1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )11月、第 だい 二 に 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく (大韓 たいかん 帝国 ていこく では乙 おつ 巳 み 保護 ほご 条約 じょうやく )が締結 ていけつ される。この協約 きょうやく によって、韓国 かんこく の皇室 こうしつ は保持 ほじ されたが、韓国 かんこく の外交 がいこう 権 けん は日本 にっぽん に接収 せっしゅう されることとなり、事実 じじつ 上 じょう 、韓国 かんこく は日本 にっぽん の保護 ほご 国 こく となった。12月には、韓国 かんこく 軍 ぐん の指揮 しき 権 けん を有 ゆう する行政府 ぎょうせいふ である統監 とうかん 府 ふ が設置 せっち され、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ が初代 しょだい 統監 とうかん に就任 しゅうにん した。
実権 じっけん を失 うしな った高 こう 宗 はじめ は、三 さん 国 こく 干渉 かんしょう で日本 にっぽん が遼東 りゃおとん 半島 はんとう の主権 しゅけん を断念 だんねん したように、欧米 おうべい 列強 れっきょう の干渉 かんしょう で第 だい 二 に 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく を撤回 てっかい させて、日本 にっぽん から外交 がいこう 権 けん の回復 かいふく することを画策 かくさく し、1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )6月 がつ 15日 にち からオランダのハーグで開催 かいさい された第 だい 2回 かい 万国 ばんこく 平和 へいわ 会議 かいぎ に、日本 にっぽん による韓国 かんこく 支配 しはい を糾弾 きゅうだん するため密使 みっし を派遣 はけん した。しかし、この会議 かいぎ は1889年 ねん に定 さだ められた国際 こくさい 紛争 ふんそう 平和 へいわ 的 てき 処理 しょり 条約 じょうやく の批准 ひじゅん 国 こく による国際 こくさい 協調 きょうちょう を調整 ちょうせい する会議 かいぎ であり、締約 ていやく 国 こく ではない大韓 たいかん 帝国 ていこく は参加 さんか することはできず、また、第 だい 二 に 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく によりに韓国 かんこく の外交 がいこう 権 けん が失 うしな われていることを理由 りゆう にいずれの国 くに からも接触 せっしょく を拒否 きょひ され、実質 じっしつ 的 てき な成果 せいか を挙 あ げることなく失敗 しっぱい に終 お わった。(ハーグ密使 みっし 事件 じけん )
条約 じょうやく 無効 むこう を訴 うった える高 こう 宗 はじめ の親書 しんしょ 密使 みっし たちは日本 にっぽん の大阪毎日新聞 おおさかまいにちしんぶん を含 ふく む各国 かっこく の新聞 しんぶん で韓国 かんこく の主張 しゅちょう を訴 うった える戦略 せんりゃく に切 き り替 か えたため、高 こう 宗 はじめ の秘密 ひみつ 外交 がいこう は国際 こくさい 的 てき に露見 ろけん することになり、日本 にっぽん でも知 し れ渡 わた るようになった。日本 にっぽん の世論 せろん は高 こう 宗 むね を優遇 ゆうぐう してきた韓国 かんこく 統監 とうかん の伊藤 いとう を厳 きび しく批判 ひはん し[注釈 ちゅうしゃく 5] [40] 、伊藤 いとう も高 こう 宗 むね を「かくの如 ごと き陰険 いんけん な手段 しゅだん を以 もっ て日本 にっぽん 保護 ほご 権 けん を拒否 きょひ せんとするよりは、むしろ日本 にっぽん に対 たい し堂々 どうどう と宣戦 せんせん を布告 ふこく せらるるには捷径 しょうけい なるにしかず」と叱責 しっせき し、李 り 完 かん 用 よう らの閣僚 かくりょう も高 こう 宗 むね の独断 どくだん 専行 せんこう が大韓 たいかん 帝国 ていこく の維持 いじ に有害 ゆうがい であると退位 たいい を企 くわだ てるようになる。孤立 こりつ した高 こう 宗 はじめ は日本 にっぽん に抗 あらが う術 じゅつ はなく、7月 がつ 19日 にち に高 こう 宗 むね は退位 たいい して、純 じゅん 宗 むね が即位 そくい した。7月24日 にち 、韓国 かんこく は第 だい 三 さん 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく を結 むす んで内 うち 政権 せいけん を日本 にっぽん に譲 ゆず り、8月 がつ 1日 にち には大韓 たいかん 帝国 ていこく の軍隊 ぐんたい を解散 かいさん させた。
第 だい 二 に 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく のころまでは韓国 かんこく に同情 どうじょう 的 てき な意見 いけん もあった日本 にっぽん の世論 せろん も、政治 せいじ 能力 のうりょく のない大韓 たいかん 帝国 ていこく の存在 そんざい は韓国 かんこく 民衆 みんしゅう にとって不幸 ふこう であり、世界 せかい の平和 へいわ と安寧 あんねい のためにも朝鮮 ちょうせん を日本 にっぽん に併合 へいごう することが「世界 せかい に対 たい する帝国 ていこく の任務 にんむ 」であると併合 へいごう の推進 すいしん を進 すす める論調 ろんちょう が主流 しゅりゅう となり[注釈 ちゅうしゃく 5] 、1909年 ねん 3月 がつ 30日 にち 、小村 こむら 寿太郎 じゅたろう 外務 がいむ 大臣 だいじん は韓国 かんこく 併合 へいごう の「断行 だんこう 」を明記 めいき した意見 いけん 書 しょ を倉知 くらち 鉄 てつ 吉 よし 外務省 がいむしょう 政務 せいむ 局長 きょくちょう に起草 きそう させ、桂 かつら 太郎 たろう 首相 しゅしょう に提出 ていしゅつ した[47] 。桂 かつら は小村 こむら 意見 いけん 書 しょ に賛意 さんい を示 しめ し、小村 こむら ・桂 かつら の二人 ふたり は次 つぎ に当時 とうじ 韓国 かんこく 統監 とうかん の地位 ちい にあった伊藤 いとう 博文 ひろぶみ を訪 たず ねて併合 へいごう に関 かん する意見 いけん を求 もと めたところ、伊藤 いとう も小村 こむら ・桂 かつら に同意 どうい した[48] 。
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )7月 がつ 6日 にち 、桂 かつら 内閣 ないかく は「適当 てきとう の時期 じき に韓国 かんこく 併合 へいごう を断行 だんこう する方針 ほうしん および対 たい 韓 かん 施設 しせつ 大綱 たいこう 」を閣議 かくぎ 決定 けってい し、日 にち 韓 かん 併合 へいごう の体制 たいせい が整 ととの った。
伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の暗殺 あんさつ [ 編集 へんしゅう ]
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )10月26日 にち 、日本 にっぽん の枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう 伊藤 いとう 博文 ひろぶみ はロシア蔵相 ぞうしょう ウラジーミル・ココツェフ と日 にち 露 ろ 関係 かんけい の調整 ちょうせい をするために渡航 とこう し、ロシア帝国 ていこく が清 きよ から租借 そしゃく 地 ち としていたハルビン駅 えき で朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ の安 やす 重根 しこね に暗殺 あんさつ された。この事件 じけん の影響 えいきょう により、欧米 おうべい 列強 れっきょう の中 なか で韓国 かんこく への支援 しえん を継続 けいぞく していた最後 さいご の国 くに であるロシアは、ロシア領内 りょうない で発生 はっせい した暗殺 あんさつ 事件 じけん に関与 かんよ したとの疑念 ぎねん を払拭 ふっしょく するため、韓国 かんこく の関係 かんけい を断絶 だんぜつ して日本 にっぽん との協調 きょうちょう 路線 ろせん に転 てん じた[16] [49] 。日本 にっぽん 国内 こくない においても、伊藤 いとう は征 せい 韓 かん 論 ろん 政変 せいへん 以来 いらい の国際 こくさい 協調 きょうちょう 派 は の元老 げんろう として、山県 やまがた 有朋 ありとも らの軍閥 ぐんばつ による軍事 ぐんじ 拡張 かくちょう を抑 おさ えていた重鎮 じゅうちん であり[50] 、伊藤 いとう の死亡 しぼう により軍閥 ぐんばつ の発言 はつげん 力 りょく は増 ま した。特 とく に朝鮮半島 ちょうせんはんとう の統治 とうち では韓国 かんこく 統監 とうかん を伊藤 いとう 博文 ひろぶみ ・曾禰荒 あら 助 すけ と文官 ぶんかん が務 つと めてたのが、寺内 てらうち 正毅 まさき 以降 いこう は朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく も含 ふく めていずれも武官 ぶかん が就任 しゅうにん しするように改 あらた められ、武断 ぶだん 政治 せいじ が行 おこな われるようになった。
「韓国 かんこく 併合 へいごう ニ関 せき スル条約 じょうやく 」に関 かん する李 り 完 かん 用 よう への全権 ぜんけん 委任 いにん 状 じょう 。純 じゅん 宗 むね の署名 しょめい が入 はい っている。 併合 へいごう 当日 とうじつ に発行 はっこう された『朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ 官報 かんぽう 』第 だい 1号 ごう の第 だい 1面 めん 。明治天皇 めいじてんのう が併合 へいごう に際 さい して発 はっ した詔書 しょうしょ が掲載 けいさい された。曰 いわ く「朕 ちん ハ韓国 かんこく 皇帝 こうてい 陛下 へいか ト与 あずか (とも)ニ〔中略 ちゅうりゃく 〕茲(ここ)ニ永久 えいきゅう ニ韓国 かんこく ヲ帝国 ていこく ニ併合 へいごう スルコトトナセリ」。
1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )6月 がつ 3日 にち には「併合 へいごう 後 ご の韓国 かんこく に対 たい する施政 しせい 方針 ほうしん 」が閣議 かくぎ 決定 けってい され、7月 がつ 8日 にち には第 だい 3代 だい 統監 とうかん 寺内 てらうち 正毅 まさき が設置 せっち した併合 へいごう 準備 じゅんび 委員 いいん 会 かい の処理 しょり 方案 ほうあん が閣議 かくぎ 決定 けってい された。8月6日 にち に至 いた り韓国 かんこく 首相 しゅしょう である李 り 完 かん 用 よう に併合 へいごう 受諾 じゅだく が求 もと められ、8月 がつ 22日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で李 り 完 かん 用 よう 首相 しゅしょう が条約 じょうやく 締結 ていけつ の全権 ぜんけん 委員 いいん に任命 にんめい された。統監 とうかん 府 ふ による新聞 しんぶん 報道 ほうどう 規制 きせい 、集会 しゅうかい ・演説 えんぜつ 禁止 きんし 、注意 ちゅうい 人物 じんぶつ の事前 じぜん 検束 けんそく が行 おこな われた上 うえ に、一 いち 個 こ 連隊 れんたい 相当 そうとう の兵力 へいりょく が警備 けいび するという厳戒 げんかい 態勢 たいせい の中 なか 、1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )8月 がつ 22日 にち に韓国 かんこく 併合 へいごう 条約 じょうやく は漢 かん 城 じょう (現 げん :ソウル特別 とくべつ 市 し )で寺内 てらうち 正毅 まさき 統監 とうかん と李 り 完 かん 用 よう 首相 しゅしょう により調印 ちょういん され、29日 にち に裁可 さいか 公布 こうふ により発効 はっこう し、日本 にっぽん は大韓 たいかん 帝国 ていこく を併合 へいごう した。
これにより大韓 たいかん 帝国 ていこく は消滅 しょうめつ し、朝鮮半島 ちょうせんはんとう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 、太平洋戦争 たいへいようせんそう )終結 しゅうけつ まで日本 にっぽん の統治 とうち 下 か に置 お かれた。大韓 たいかん 帝国 ていこく 政府 せいふ と韓国 かんこく 統監 とうかん 府 ふ は廃止 はいし され、新 あら たに朝鮮 ちょうせん 全土 ぜんど を統治 とうち する朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ が設置 せっち された。明治天皇 めいじてんのう は「前 ぜん 韓国 かんこく 皇帝 こうてい ヲ冊 さつ シテ王 おう ト為 ため スノ詔書 しょうしょ 」を発 はっ して、韓国 かんこく の皇族 こうぞく は日本 にっぽん の皇族 こうぞく に準 じゅん じる王公 おうこう 族 ぞく に封 ふう じ、大韓 たいかん 帝国 ていこく 最後 さいご の皇太子 こうたいし 李 り 垠 には梨本 なしもと 宮 みや 方子 のりこ が降嫁 こうか された。また、韓国 かんこく 併合 へいごう に貢献 こうけん した朝鮮 ちょうせん 人 じん は朝鮮 ちょうせん 貴族 きぞく とされた。
大韓 たいかん 帝国 ていこく の統治 とうち 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ による政策 せいさく [ 編集 へんしゅう ]
統監 とうかん 府 ふ は1909年 ねん 、新 あら たに戸籍 こせき 制度 せいど を朝鮮 ちょうせん に導入 どうにゅう し、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい を通 つう じて人間 にんげん とは見 み なされず、姓 せい を持 も つことを許 ゆる されていなかった奴婢 ぬひ 、白丁 はくちょう などの賤民 せんみん にも姓 せい を名乗 なの らせて戸籍 こせき には身分 みぶん を記載 きさい することなく登録 とうろく させた[51] 。李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい は戸籍 こせき に身分 みぶん を記載 きさい していたが、統監 とうかん 府 ふ がこれを削除 さくじょ したことにより、身分 みぶん 開放 かいほう された賤民 せんみん の子弟 してい も学校 がっこう に通 かよ えるようになった[51] 。身分 みぶん 解放 かいほう に反発 はんぱつ する両 りょう 班 はん は激 はげ しい抗議 こうぎ デモを繰 く り広 ひろ げたが、身分 みぶん にかかわらず教育 きょういく 機会 きかい を与 あた えるべきと考 かんが える日本 にっぽん 政府 せいふ によって即座 そくざ に鎮圧 ちんあつ された[52] 。
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朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ は1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )から1919年 ねん (大正 たいしょう 8年 ねん )の間 あいだ に土地 とち 調査 ちょうさ 事業 じぎょう に基 もと づき測量 そくりょう を行 おこ ない、土地 とち の所有 しょゆう 権 けん を確定 かくてい した。この際 さい に申告 しんこく された土地 とち は、境界 きょうかい 問題 もんだい が発生 はっせい しないかぎり地主 じぬし の申告 しんこく 通 どお りに所有 しょゆう 権 けん が認 みと められた。申告 しんこく がなされなかった土地 とち や、国有 こくゆう 地 ち と認定 にんてい された土地 とち (所有 しょゆう 権 けん が判明 はんめい しない山林 さんりん は国有 こくゆう 化 か され入会 にゅうかい 権 けん を認 みと める方法 ほうほう が採 と られた[注釈 ちゅうしゃく 6] 。その他 た に隠 かくれ 田 た などの所有 しょゆう 者 しゃ 不明 ふめい の土地 とち 、旧 きゅう 朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう の土地 とち なども)は最終 さいしゅう 的 てき に朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ に接収 せっしゅう され、朝鮮 ちょうせん の農民 のうみん に安値 やすね で払 はら い下 さ げられ、一部 いちぶ は東洋 とうよう 拓殖 たくしょく や日本人 にっぽんじん 農業 のうぎょう 者 しゃ にも払 はら い下 さ げられた。ソウル大学 だいがく 教授 きょうじゅ 李 り 栄 さかえ 薫 かおる によると朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ に接収 せっしゅう された土地 とち は全体 ぜんたい の10%ほどとしている[53] 。山本 やまもと 有 ゆう 造 づくり によれば総督 そうとく 府 ふ が最終 さいしゅう 的 てき に接収 せっしゅう した農地 のうち は全 ぜん 耕作 こうさく 地 ち の3.26%であるとする[54] 。この大 だい 規模 きぼ な土地 とち 調査 ちょうさ 事業 じぎょう は戦後 せんご おこなわれた精密 せいみつ 測量 そくりょう による地籍 ちせき 調査 ちょうさ のようなものではなく、あくまで権利 けんり 関係 かんけい を確定 かくてい させるためのものであったが多 おお くの境界 きょうかい 問題 もんだい や入会 にゅうかい 権 けん 問題 もんだい を生 う み、現代 げんだい に続 つづ く「日 にち 帝 みかど による土地 とち 収奪 しゅうだつ 」論 ろん を招 まね いている。
総督 そうとく 府 ふ による測量 そくりょう および登記 とうき 制度 せいど の導入 どうにゅう を機 き に、朝鮮 ちょうせん では不動産 ふどうさん の売買 ばいばい が法的 ほうてき に安定 あんてい し[注釈 ちゅうしゃく 7] 、前 ぜん 近代 きんだい 的 てき でゆるやかな土地 とち 所有 しょゆう を否定 ひてい された旧来 きゅうらい の零細 れいさい 自作 じさく 農民 のうみん が小作農 こさくのう に零落 れいらく し、小作 こさく 料 りょう 高騰 こうとう から大量 たいりょう に離村 りそん した者 もの もいた。一方 いっぽう で、李 り 王朝 おうちょう 時代 じだい の朝鮮 ちょうせん は農地 のうち が荒廃 こうはい しており、民衆 みんしゅう は官吏 かんり や両 りょう 班 はん 、高利貸 こうりかし によって収奪 しゅうだつ されていたため、日本 にっぽん が朝鮮 ちょうせん の農地 のうち で水防 すいぼう 工事 こうじ や水利 すいり 工事 こうじ 、金融 きんゆう 組合 くみあい や水利 すいり 組合 くみあい もつくったことで、朝鮮 ちょうせん 農民 のうみん は安 やす い金利 きんり で融資 ゆうし を受 う けることができるようになり、多大 ただい な利益 りえき を得 え るようになった朝鮮 ちょうせん 人 じん も現 あらわ れ[55] 、これらの新興 しんこう 資本 しほん 家 か の多 おお くは総督 そうとく 府 ふ と良好 りょうこう な関係 かんけい を保 たも ち発展 はってん した。これらのインフラ整備 せいび により、朝鮮 ちょうせん 人 じん の平均 へいきん 寿命 じゅみょう は2倍 ばい 以上 いじょう に増加 ぞうか した。
教育 きょういく 文化 ぶんか 政策 せいさく [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 統治 とうち 下 か においては、日本 にっぽん 内地 ないち に準 じゅん じた学校 がっこう 教育 きょういく 制度 せいど が整備 せいび された。初代 しょだい 統監 とうかん に就任 しゅうにん した伊藤 いとう 博文 ひろぶみ は、学校 がっこう 建設 けんせつ を改革 かいかく の最 さい 優先 ゆうせん 課題 かだい とした。小学校 しょうがっこう も統合 とうごう 直前 ちょくぜん には100校 こう 程度 ていど だったのが、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )には4271校 こう にまで増加 ぞうか した[56] 。
1911年 ねん 、朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ は第 だい 一 いち 次 じ 教育 きょういく 令 れい を公布 こうふ し、朝鮮 ちょうせん 語 ご を必修 ひっしゅう 科目 かもく としてハングル を学 まな ぶことになり、朝鮮 ちょうせん 人 じん の識字 しきじ 率 りつ は1910年 ねん の6%から1943年 ねん には22%に上昇 じょうしょう した[57] 。
評価 ひょうか と争点 そうてん [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 側 がわ では、韓国 かんこく 併合 へいごう を否定 ひてい 的 てき に評価 ひょうか する見方 みかた と、併合 へいごう が朝鮮半島 ちょうせんはんとう の近代 きんだい 化 か に寄与 きよ したと肯定 こうてい 的 てき に評価 ひょうか する見方 みかた とがあり、対立 たいりつ している。一方 いっぽう で韓国 かんこく 側 がわ では、併合 へいごう を否定 ひてい 的 てき に評価 ひょうか する見方 みかた が多数 たすう であり、肯定 こうてい 的 てき な意見 いけん は容認 ようにん されないケースが多 おお い。
韓国 かんこく における併合 へいごう への肯定 こうてい 的 てき な見方 みかた 、及 およ び争点 そうてん と評価 ひょうか (歴史 れきし 認識 にんしき )の相違 そうい については下記 かき 節 ぶし を参照 さんしょう 。
大韓民国 だいかんみんこく などにおける日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
独立 どくりつ 後 ご の韓国 かんこく の歴史 れきし 学者 がくしゃ は、日本 にっぽん による統治 とうち を正当 せいとう 化 か する日本 にっぽん 側 がわ の歴史 れきし 研究 けんきゅう を「植民 しょくみん 地 ち 史観 しかん 」と呼 よ び、これを強 つよ く批判 ひはん することから出発 しゅっぱつ した。「植民 しょくみん 地 ち 史観 しかん 」に対抗 たいこう して登場 とうじょう したのは民族 みんぞく 史観 しかん であり、その後 ご の歴史 れきし 研究 けんきゅう の柱 はしら となった(下記 かき 節 ぶし 「歴史 れきし 認識 にんしき の比較 ひかく 表 ひょう 」を参照 さんしょう )。また、韓国 かんこく 国内 こくない で韓国 かんこく 併合 へいごう を肯定 こうてい 的 てき に評価 ひょうか するなど「民族 みんぞく 史観 しかん 」と矛盾 むじゅん する内容 ないよう を発言 はつげん すると、親日 しんにち 派 は として糾弾 きゅうだん され、社会 しゃかい 的 てき 制裁 せいさい を受 う ける事例 じれい もある[注釈 ちゅうしゃく 8] 。そうした韓国 かんこく の言論 げんろん の状況 じょうきょう について、国際 こくさい 新聞 しんぶん 編集 へんしゅう 者 しゃ 協会 きょうかい は韓国 かんこく を「言論 げんろん 弾圧 だんあつ 国 こく 」[58] として批判 ひはん しており、2002年 ねん にはロシア 、ベネズエラ 、スリランカ 、ジンバブエ とともに「言論 げんろん 監視 かんし 対象 たいしょう 国 こく 」に指定 してい した[59] 。ただし、その発表 はっぴょう は国境 こっきょう なき記者 きしゃ 団 だん が発表 はっぴょう した世界 せかい 報道 ほうどう 自由 じゆう 度 ど ランキング (Press Freedom Index)とは完全 かんぜん に相反 あいはん し、公 おおやけ 信 しん 力 りょく にかなりの疑問 ぎもん を買 か っている。この発表 はっぴょう では、2002年 ねん の韓国 かんこく の言論 げんろん 自由 じゆう 指数 しすう は世界 せかい 39位 い (10.50点 てん )であり、世界 せかい 40位 い (11.0点 てん )を占 し めたイタリアと似 に ている。また、2002年 ねん Freedom House が発表 はっぴょう した言論 げんろん 自由 じゆう 指数 しすう で、韓国 かんこく は30点 てん でギリシャ、イスラエルのような「自由 じゆう (Free)」国家 こっか に分類 ぶんるい された。
一方 いっぽう で1990年代 ねんだい から2000年代 ねんだい にかけて、「民族 みんぞく 史観 しかん 」を誇張 こちょう が多 おお いとして批判 ひはん するなど、「民族 みんぞく 史観 しかん 」とは異 こと なる見解 けんかい が韓国 かんこく 内 ない からも提示 ていじ されるようになっている。本節 ほんぶし では、下記 かき 節 ぶし 「歴史 れきし 認識 にんしき の比較 ひかく 表 ひょう 」に入 はい らない、韓国 かんこく における肯定 こうてい 的 てき 見解 けんかい (ないしは「植民 しょくみん 地 ち 史観 しかん 」「民族 みんぞく 史観 しかん 」への批判 ひはん 的 てき 見解 けんかい )を記述 きじゅつ する。
金 きむ 完 かん 燮 は、当時 とうじ の朝鮮 ちょうせん は腐敗 ふはい した李 り 朝 ちょう により混乱 こんらん の極 きわ みにあった非常 ひじょう に貧 まず しい国 くに であり、日本 にっぽん が野望 やぼう を持 も って進出 しんしゅつ するような富 とみ も文化 ぶんか もなかった、とする。彼 かれ によれば近代 きんだい 日本 にっぽん の歩 あゆ みは列強 れっきょう 、特 とく に当時 とうじ 極東 きょくとう へ進出 しんしゅつ しつつあったロシアとの長 なが きにわたる戦 たたか いであり、日 にち 清 しん 戦争 せんそう から日 にち 露 ろ 戦争 せんそう そして韓国 かんこく 併合 へいごう に至 いた る一連 いちれん の出来事 できごと は全 すべ て日本 にっぽん の独立 どくりつ を守 まも るための行為 こうい であった。当初 とうしょ 日本 にっぽん は、福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち の門下生 もんかせい の金玉 きんぎょく 均 ひとし を始 はじ めとする日本 にっぽん で文明 ぶんめい に触 ふ れた朝鮮 ちょうせん 人 じん を通 とお して、朝鮮 ちょうせん が清 きよ から独立 どくりつ し近代 きんだい 国家 こっか となって日本 にっぽん にとっての同盟 どうめい 国 こく となることを望 のぞ んだ。しかしながら朝鮮 ちょうせん 人 じん 自身 じしん の手 て で朝鮮 ちょうせん を改革 かいかく しようとする試 こころ みは頓挫 とんざ し、福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち が脱 だつ 亜 あ 論 ろん を著 あらわ したように方針 ほうしん を転換 てんかん 。日本 にっぽん 自 みずか らの元 もと で清 きよし 、そしてロシアから朝鮮半島 ちょうせんはんとう を守 まも り、朝鮮 ちょうせん を近代 きんだい 化 か する道 みち を選 えら んだ。その後 ご 日本 にっぽん は朝鮮 ちょうせん を「日本 にっぽん 化 か 」することによって教養 きょうよう ある日本人 にっぽんじん を増大 ぞうだい させることによる国力 こくりょく の増加 ぞうか を目指 めざ し、積極 せっきょく 的 てき にインフラへ投資 とうし した。朝鮮 ちょうせん が自分 じぶん たちで独立 どくりつ を保 たも ち、近代 きんだい 化 か を成 な し遂 と げることが出来 でき れば併合 へいごう されることもなかったであろうし、日本 にっぽん によるこれらの植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく がなければ近代 きんだい 化 か することもなかったであろう、として韓国 かんこく における歴史 れきし 教育 きょういく を批判 ひはん している[60] 。これらの言動 げんどう ・著作 ちょさく から彼 かれ は親日 しんにち 派 は として弾圧 だんあつ を受 う けている[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
ソウル大学 だいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ の安 やす 秉直 や成 なり 均 ひとし 館 かん 大学 だいがく 教授 きょうじゅ の李 り 大根 だいこん は、日本 にっぽん 植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち 下 か の朝鮮 ちょうせん において、日本 にっぽん 資本 しほん の主導 しゅどう 下 か で資本 しほん 主義 しゅぎ 化 か が展開 てんかい し、朝鮮 ちょうせん 人 じん も比較的 ひかくてき 積極 せっきょく 的 てき に適応 てきおう していき、一定 いってい の成長 せいちょう が見 み られたとしている。
ソウル大学 だいがく 教授 きょうじゅ の李 り 栄 さかえ 薫 かおる は、日本 にっぽん の統治 とうち が近代 きんだい 化 か を促進 そくしん したと主張 しゅちょう する植民 しょくみん 地 ち 近代 きんだい 化 か 論 ろん を提示 ていじ する[61] が、韓国 かんこく 国内 こくない では少数 しょうすう 派 は である。彼 かれ もまた親日 しんにち 派 は として糾弾 きゅうだん されている。
崔 ちぇ 基 はじめ 鎬 も、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の末期 まっき には、親 しん 露 ろ 派 は と親 おや 清 きよし 派 は が内部 ないぶ 抗 こう 争 そう を続 つづ ける膠着 こうちゃく 状態 じょうたい にあり、清 きよし とロシアに勝利 しょうり した日本 にっぽん の支配 しはい は歴史 れきし の必然 ひつぜん であり、さらに日 にち 韓 かん 併合 へいごう による半島 はんとう の近代 きんだい 化 か は韓 かん 民族 みんぞく にとって大 おお いなる善 ぜん であったとしている[62] 。
元 もと 韓国 かんこく 空軍 くうぐん 大佐 たいさ の崔 ちぇ 三 さん 然 しか も、「アフリカなどは植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい が終 お わっても貧困 ひんこん からなかなか抜 ぬ け出 だ せない状態 じょうたい です。では植民 しょくみん 地 ち から近代 きんだい 的 てき な経済 けいざい 発展 はってん を遂 と げたのはどこですか。韓国 かんこく と台湾 たいわん ですよ。ともに日本 にっぽん の植民 しょくみん 地 ち だった所 ところ です。他 た に香港 ほんこん とシンガポールがありますが、ここは英国 えいこく のいわば天領 てんりょう でした」「戦前 せんぜん 、鉄道 てつどう 、水道 すいどう 、電気 でんき などの設備 せつび は日本 にっぽん 国内 こくない と大差 たいさ なかった。これは諸 しょ 外国 がいこく の植民 しょくみん 地 ち 経営 けいえい と非常 ひじょう に違 ちが うところです。諸 しょ 外国 がいこく は植民 しょくみん 地 ち からは一方 いっぽう 的 てき に搾取 さくしゅ するだけでした。日本 にっぽん は国内 こくない の税金 ぜいきん を植民 しょくみん 地 ち のインフラ整備 せいび に投入 とうにゅう したのです。だから住民 じゅうみん の生活 せいかつ 水準 すいじゅん にも本土 ほんど とそれほどの差 さ がありませんでした」と証言 しょうげん し、肯定 こうてい 的 てき に併合 へいごう 時代 じだい を評価 ひょうか した上 うえ で日本 にっぽん 政府 せいふ の行動 こうどう を批判 ひはん している[63] 。
当時 とうじ の併合 へいごう 時代 じだい に育 そだ ち、のちカナダに移住 いじゅう した朴 ほお 贊 さん 雄 ゆう (パク・チャンウン)は2010年 ねん に発表 はっぴょう した著書 ちょしょ で「前途 ぜんと に希望 きぼう が持 も てる時代 じだい だった」「韓国 かんこく 史 し のなかで、これほど落 お ち着 つ いた時代 じだい がかつてあっただろうか」として、統治 とうち 時代 じだい の肯定 こうてい 的 てき 側面 そくめん を公正 こうせい に見 み ることが真 しん の日 にち 韓 かん 親善 しんぜん に繋 つな がると主張 しゅちょう している[64] 。
2004年 ねん に、東亜日報 とうあにっぽう 社長 しゃちょう の権 けん 五 ご 琦 (クォン・オギ)は新 あたら しい歴史 れきし 教科書 きょうかしょ をつくる会 かい による教科書 きょうかしょ について特 とく に反発 はんぱつ を感 かん じないとしながら、「韓国 かんこく でも併合 へいごう に一部 いちぶ のものが賛成 さんせい していた」という同 どう 教科書 きょうかしょ の記述 きじゅつ については「『韓国 かんこく 人 じん はみんな日本 にっぽん に抵抗 ていこう した』と自慢 じまん したいのが韓国 かんこく 人 じん の心情 しんじょう かもしれないが、本当 ほんとう はそうでないんだから、韓国 かんこく 人 じん こそがこの教科書 きょうかしょ から学 まな ぶべきだ」「どの程度 ていど の『一部 いちぶ 』だったか知 し ることは、何 なに もなかったと信 しん じているより韓国 かんこく 人 じん のためになる」と発言 はつげん している[65] 。
漢 かん 陽 ひ 大学 だいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ で日 にち 露 ろ 戦争 せんそう や韓国 かんこく 併合 へいごう についての著書 ちょしょ もある歴史 れきし 学者 がくしゃ 崔 ちぇ 文 ぶん 衡 (チェ・ムンヒョン)は、左派 さは 寄 よ り教科書 きょうかしょ とされる金星 かなぼし 出版 しゅっぱん 社 しゃ 『高等 こうとう 学校 がっこう 韓国 かんこく 近 きん 現代 げんだい 史 し 教科書 きょうかしょ 』における「日 にち 帝 みかど が韓国 かんこく を完全 かんぜん に併合 へいごう するまで5年 ねん もかかったのは義兵 ぎへい 抗争 こうそう のため」といった記述 きじゅつ に関 かん して、事実 じじつ とは異 こと なるとしたうえで、ロシアが米国 べいこく と協力 きょうりょく し満州 まんしゅう から日本 にっぽん の勢力 せいりょく を追 お い出 だ そうとする露 ろ 米 べい による対 たい 日 にち 牽制 けんせい などの折衝 せっしょう を日本 にっぽん が克服 こくふく するために併合 へいごう に時間 じかん がかかったのだとした[66] [67] 。また、「代案 だいあん 教科書 きょうかしょ [注釈 ちゅうしゃく 10] 」における安 やす 重根 しこね による伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 狙撃 そげき が併合 へいごう 論 ろん を早 はや めたとする記述 きじゅつ についても、併合 へいごう は1909年 ねん 7月 がつ 6日 にち の閣議 かくぎ で確定 かくてい しており、安 やす の狙撃 そげき で併合 へいごう 論 ろん が左右 さゆう されたのではないと指摘 してき したうえで、双方 そうほう の教科書 きょうかしょ に代表 だいひょう されるような、当時 とうじ の世界 せかい 情勢 じょうせい や国際 こくさい 関係 かんけい を看過 かんか する史観 しかん について「自分 じぶん たちの歴史 れきし の主体 しゅたい 的 てき 力量 りきりょう を強調 きょうちょう する余 あま り、国際 こくさい 情勢 じょうせい を無視 むし し、歴史 れきし 的 てき 事実 じじつ のつじつまを合 あ わせようとしている」と批判 ひはん し[66] 、世界 せかい 史 し において韓国 かんこく 史 し を理解 りかい しようとしない教育 きょういく は「鎖国 さこく 化 か 教育 きょういく 」であるとした[注釈 ちゅうしゃく 11] 。
高麗 こうらい 大学 だいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ (当時 とうじ )の政治 せいじ 学者 がくしゃ 韓 かん 昇 のぼる 助 すけ は2005年 ねん に日本 にっぽん の雑誌 ざっし 『正論 せいろん 』に、日本 にっぽん による韓国 かんこく 併合 へいごう はロシアによる支配 しはい に比 くら べて「不幸 ふこう 中 ちゅう の幸 さいわ い」であったとし、また日本 にっぽん による諸 しょ 政策 せいさく で朝鮮半島 ちょうせんはんとう の近代 きんだい 化 か が進展 しんてん したと肯定 こうてい 的 てき に評価 ひょうか する論文 ろんぶん を発表 はっぴょう した[68] 。この論文 ろんぶん は韓国 かんこく 国内 こくない で問題 もんだい 視 し され、その結果 けっか 、韓 かん 昇 のぼる 助 すけ は謝罪 しゃざい したうえで名誉 めいよ 教授 きょうじゅ 職 しょく を辞任 じにん した[69] 。
元 もと 韓国 かんこく 国土 こくど 開発 かいはつ 研究 けんきゅう 院長 いんちょう 金 きむ 儀 ただし 遠 とお は、戦前 せんぜん 日本 にっぽん の国土 こくど 計画 けいかく では朝鮮 ちょうせん 人 じん を満 まん 洲 しゅう に追放 ついほう して京 きょう 城 しろ を日本 にっぽん の首都 しゅと としようとしたと主張 しゅちょう する一方 いっぽう で、日本 にっぽん が朝鮮 ちょうせん で鉄道 てつどう ・道路 どうろ ・港湾 こうわん ・学校 がっこう を建設 けんせつ したことについて「 日本人 にっぽんじん が私 わたし たちから搾取 さくしゅ して建設 けんせつ したという主張 しゅちょう があるが、事実 じじつ と違 ちが う。朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ の予算 よさん を分析 ぶんせき すると、朝鮮 ちょうせん で集 あつ めた税金 ぜいきん は農地 のうち 税 ぜい 程度 ていど であり、これでは当時 とうじ の公務員 こうむいん の月給 げっきゅう の10分 ぶん の1にもならなかった。総督 そうとく 府 ふ の役人 やくにん が本国 ほんごく に行 い ってロビー活動 かつどう をし、予算 よさん を確保 かくほ した。もちろん鉄道 てつどう などは大陸 たいりく 進出 しんしゅつ のため」であった と語 かた っている[70] 。
第 だい 4代 だい 台湾 たいわん 総統 そうとう の李 り 登輝 とうき は2012年 ねん 3月 がつ 、日本 にっぽん の保守 ほしゅ 系 けい 団体 だんたい のインタビューに答 こた えた。これはBS11 『INsideOUT 』で4月 がつ に放送 ほうそう された。日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい は韓国 かんこく 人 じん より台湾 たいわん 人 じん のほうが差別 さべつ されていたのに不満 ふまん はないのか、という問 と いに対 たい し、韓国 かんこく は併合 へいごう と言 い われていたのに、そしてほとんど原野 げんや だった台湾 たいわん と違 ちが って元々 もともと ちゃんとした国 くに だったのに、植民 しょくみん 地 ち の様 よう にあつかわわれ、国名 こくめい も「日本 にっぽん 」のままだったのだから、インフラをあの程度 ていど 、整 ととの えたぐらいでは彼 かれ らは不満 ふまん だ、と答 こた えた[71] 。
黄 き 文雄 ふみお は、「佐藤 さとう 栄作 えいさく 元 もと 首相 しゅしょう が述 の べていたように、日 にち 韓 かん 併合 へいごう 条約 じょうやく は『対等 たいとう の立場 たちば で、また自由 じゆう 意思 いし で締結 ていけつ された』とみるのが、当時 とうじ の国際 こくさい 条約 じょうやく の歴史 れきし からして妥当 だとう だろう。戦後 せんご の韓国 かんこく 人 じん は、日 にち 韓 かん 合邦 がっぽう によって国 くに と主権 しゅけん が奪 うば われ、受難 じゅなん の時代 じだい が始 はじ まったと思 おも い込 こ んでいる。だが十 じゅう 九 きゅう 世紀 せいき から二 に 十 じゅう 世紀 せいき 初頭 しょとう までの李 り 朝 ちょう 朝鮮 ちょうせん が『主権 しゅけん 国家 こっか 』だったと考 かんが えるのは大 おお きな間違 まちが いだ。その実体 じったい は中国 ちゅうごく の『千 せん 年 ねん 属国 ぞっこく 』である。唐 とう に従 したが った従属 じゅうぞく した統一 とういつ 新 しん 羅 ら 以来 いらい 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう はずっと中華 ちゅうか 帝国 ていこく の一 いち 属 ぞく 藩 はん 、あるいは『藩屏 はんぺい 』として中華 ちゅうか 帝国 ていこく に所属 しょぞく してきたのである。今 いま は近代 きんだい 国民 こくみん 国家 こっか が一般 いっぱん 的 てき な『国 くに のかたち』(国家 こっか 形態 けいたい )として拡散 かくさん しているが、そうなる前 まえ は、朝鮮 ちょうせん は国際 こくさい 的 てき に『主権 しゅけん 国家 こっか 』とみなされていなかった。それまでの東亜 とうあ 世界 せかい における世界 せかい 秩序 ちつじょ を主宰 しゅさい してきたのは中華 ちゅうか である。中華 ちゅうか の天朝 てんちょう 朝貢 ちょうこう ・冊 さつ 封 ふう 秩序 ちつじょ が、東亜 とうあ 世界 せかい の核 かく であり、主権 しゅけん 国家 こっか の概念 がいねん は十 じゅう 九 きゅう 世紀 せいき の国際 こくさい 政治 せいじ では普及 ふきゅう していなかった。そのため、李 り 朝 ちょう 朝鮮 ちょうせん の主権 しゅけん はいかなる国 くに からも認知 にんち されていなかったというのが、歴史 れきし の常識 じょうしき である」と述 の べている[72] 。
韓国 かんこく 開発 かいはつ 研究 けんきゅう 院 いん とハーバード大学 だいがく 国際 こくさい 開発 かいはつ 研究所 けんきゅうじょ (英語 えいご 版 ばん ) の共同 きょうどう 研究 けんきゅう 『韓国 かんこく 経済 けいざい 社会 しゃかい の近代 きんだい 化 か 』(1980年 ねん )は、日本 にっぽん の統治 とうち は近代 きんだい 的 てき 経済 けいざい 発展 はってん の礎石 そせき を置 お いたもので、戦後 せんご の南北 なんぼく 分断 ぶんだん のような災厄 さいやく と同列 どうれつ にはおけず、バランスのとれた工業 こうぎょう 化 か が進行 しんこう し、道路 どうろ 、鉄道 てつどう 、電信 でんしん 、港湾 こうわん のインフラ が整備 せいび され、植民 しょくみん 地 ち 型 がた 経済 けいざい とは異質 いしつ の経済 けいざい が形成 けいせい され、農業 のうぎょう 分野 ぶんや では、戦後 せんご 多 おお くの発展 はってん 途上 とじょう 国 こく が取 と り組 く んだ「緑 みどり の革命 かくめい 」はすでにこの時代 じだい に達成 たっせい されていたと指摘 してき しており、プリンストン大学 ぷりんすとんだいがく 教授 きょうじゅ のコーリは、かつて欧米 おうべい の植民 しょくみん 地 ち だった国 くに で、当時 とうじ の朝鮮 ちょうせん なみの水準 すいじゅん に達 たっ した国 くに は今 いま なお存在 そんざい しないのではないかと述 の べている[73] 。
日本 にっぽん 国内 こくない における研究 けんきゅう ・日本人 にっぽんじん 研究 けんきゅう 者 しゃ の評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
資本 しほん 主義 しゅぎ 萌芽 ほうが 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい に様々 さまざま な近代 きんだい 化 か が行 おこな われたことを認 みと めつつも、資本 しほん 主義 しゅぎ の萌芽 ほうが は李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の時代 じだい に既 すで に存在 そんざい しており、日本 にっぽん による統治 とうち はそれらの萌芽 ほうが を破壊 はかい することで、結果 けっか 的 てき には近代 きんだい 化 か を阻害 そがい したとする資本 しほん 主義 しゅぎ 萌芽 ほうが 論 ろん が、1950年代 ねんだい に北朝鮮 きたちょうせん で唱 とな えられた。これはのち1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい に日本 にっぽん に紹介 しょうかい され、1980年代 ねんだい には韓国 かんこく へ日本 にっぽん を経由 けいゆ して伝 つた わった。しかし、その後 ご の実証 じっしょう 的 てき 研究 けんきゅう の進展 しんてん により、韓国 かんこく においても、資本 しほん 主義 しゅぎ 萌芽 ほうが 論 ろん について否定 ひてい 的 てき な見解 けんかい が優勢 ゆうせい になっている[81] 。
近年 きんねん 、李 り 栄 さかえ 薫 かおる らは李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい の資料 しりょう を調査 ちょうさ し、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい の末期 まっき に朝鮮 ちょうせん 経済 けいざい が急速 きゅうそく に崩壊 ほうかい したことを主張 しゅちょう し、資本 しほん 主義 しゅぎ 萌芽 ほうが 論 ろん を強 つよ く否定 ひてい しており、「幻想 げんそう 」と評 ひょう している[82] 。また、ハーバード大学 だいがく のカーター・J・エッカート は、資本 しほん 主義 しゅぎ 萌芽 ほうが 論 ろん を「論理 ろんり ではなく日本 にっぽん 国 こく を弾劾 だんがい することが目的 もくてき 」「韓国 かんこく 人 じん が彼 かれ らの歴史 れきし の中 なか で、産業 さんぎょう 革命 かくめい の種子 しゅし (資本 しほん 主義 しゅぎ 萌芽 ほうが )を捜 さが そうと努力 どりょく することは、オレンジ の木 き からリンゴ を求 もと めるようなものだ[82] 」とし、韓国 かんこく の資本 しほん 主義 しゅぎ は日本 にっぽん の植民 しょくみん 地 ち 化 か の中 なか で生 う まれ、戦後 せんご の韓国 かんこく の資本 しほん 主義 しゅぎ や工業 こうぎょう 化 か も、日本 にっぽん の近代 きんだい 化 か 政策 せいさく を模 も したものであるとした[83] 。またエッカートは、日本 にっぽん による統治 とうち そのものについて朴 ぼく 正煕 せいき 政権 せいけん との類似 るいじ 性 せい などを挙 あ げ、軍事 ぐんじ 政権 せいけん の一 いち 形態 けいたい であり、韓国 かんこく の資本 しほん 家 か に独裁 どくさい 政権 せいけん への依存 いぞん 体質 たいしつ をもたらす原因 げんいん になったとも述 の べている[83] 。
これに対 たい しカリフォルニア大学 だいがく のステファン・ハガード は、エッカートの議論 ぎろん は具体 ぐたい 例 れい に欠 かけ しいと批判 ひはん した[84] 。しかしハガードの研究 けんきゅう においても、戦後 せんご の韓国 かんこく の経済 けいざい 成長 せいちょう は日本 にっぽん 統治 とうち 期 き から引 ひ き継 つ いだ金融 きんゆう システムと権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき 国家 こっか 構造 こうぞう による効率 こうりつ 的 てき な外資 がいし 利用 りよう によるものだとしており、韓国 かんこく の内在 ないざい 的 てき 発展 はってん 性 せい の重要 じゅうよう 性 せい を弱 よわ めていると主張 しゅちょう する韓国 かんこく 人 じん もいる[85] 。
日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく による諸 しょ 問題 もんだい の清算 せいさん [ 編集 へんしゅう ]
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )、日 にち 韓 かん 両国 りょうこく にて交 か わされた日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく において、1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )8月 がつ 22日 にち 以前 いぜん に両国 りょうこく において交 か わされたすべての条約 じょうやく 、協定 きょうてい は「もはや無効 むこう であることが確認 かくにん 」され、日 にち 韓 かん 併合 へいごう は無効 むこう 化 か された。また、同 どう 条約 じょうやく において日本 にっぽん は巨額 きょがく の資金 しきん 協力 きょうりょく (無償 むしょう 3億 おく ドル、有償 ゆうしょう 2億 おく ドル、民間 みんかん 借款 しゃっかん 3億 おく ドル、いずれも1965年 ねん 当時 とうじ 額 がく )を韓国 かんこく に対 たい して行 おこな い、それと引 ひ き換 か えに下記 かき の点 てん が確約 かくやく された。
両 りょう 締約 ていやく 国 こく は、両 りょう 締約 ていやく 国 こく 及 およ びその国民 こくみん (法人 ほうじん 含 ふく む)の財産 ざいさん 、権利 けんり 及 およ び利益 りえき 並 なら びに両 りょう 締約 ていやく 国 こく 及 およ びその国民 こくみん の間 あいだ の請求 せいきゅう 権 けん に関 かん する問題 もんだい が、完全 かんぜん かつ最終 さいしゅう 的 てき に解決 かいけつ されたとなることを確認 かくにん する(個別 こべつ 請求 せいきゅう 権 けん の問題 もんだい 解決 かいけつ )。
一方 いっぽう の締約 ていやく 国 こく 及 およ びその国民 こくみん の財産 ざいさん 、権利 けんり 及 およ び利益 りえき において、一方 いっぽう の締約 ていやく 国 こく 及 およ びその国民 こくみん の他方 たほう の締約 ていやく 国 こく 及 およ びその国民 こくみん に対 たい するすべての請求 せいきゅう 権 けん であって1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち 以前 いぜん に生 しょう じた事由 じゆう に基 もと づくものに関 かん しては、いかなる主張 しゅちょう もできないものとする(相手 あいて 国家 こっか に対 たい する個別 こべつ 請求 せいきゅう 権 けん の放棄 ほうき )。
しかし、事後 じご も韓国 かんこく からの「賠償 ばいしょう 要求 ようきゅう 」は発生 はっせい しつづけている(以下 いか の#近況 きんきょう を参照 さんしょう )。
2009年 ねん (平成 へいせい 21年 ねん )、韓国 かんこく 政府 せいふ (外交 がいこう 通商 つうしょう 部 ぶ )は、強制 きょうせい 動員 どういん 労務者 ろうむしゃ と軍人 ぐんじん ・軍属 ぐんぞく の不払 ふばら い賃金 ちんぎん 訴訟 そしょう にさいし、「(不払 ふばら い賃金 ちんぎん )は、請求 せいきゅう 権 けん 協定 きょうてい を通 つう じて日本 にっぽん から受 う けとった無償 むしょう の3億 おく ドルに含 ふく まれているとしているため、日本 にっぽん 政府 せいふ に請求 せいきゅう 権 けん を行使 こうし しにくい」という立場 たちば を公式 こうしき に提示 ていじ した[86] [87] 。なお韓国 かんこく 政府 せいふ は太平洋戦争 たいへいようせんそう 強制 きょうせい 動員 どういん 犠牲 ぎせい 者 しゃ 支援 しえん 法 ほう 制定 せいてい 後 ご 、2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )から「人道的 じんどうてき 次元 じげん で苦痛 くつう を慰 なぐさ める」として不払 ふばら い賃金 ちんぎん 被害 ひがい 者 しゃ たちに1円 えん あたり2000ウォンで換算 かんさん し、慰労 いろう 金 きん を給付 きゅうふ している。
2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )、菅 かん 直人 なおと 首相 しゅしょう は日 にち 韓 かん 併合 へいごう 100周年 しゅうねん を記念 きねん して韓国 かんこく に詫 わ びる談話 だんわ を発表 はっぴょう したが、「謝罪 しゃざい 」ではなく「お詫 わ び」という表現 ひょうげん を用 もち いたため韓国 かんこく 側 がわ からの反発 はんぱつ を買 か った[88] 。また、菅 かん はこの談話 だんわ について、安倍晋三 あべしんぞう 以外 いがい の日本国 にっぽんこく 首相 しゅしょう 経験 けいけん 者 しゃ から同意 どうい を得 え た[89] 。
2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )8月 がつ 13日 にち 、日本 にっぽん キリスト教 きりすときょう 協議 きょうぎ 会 かい は、韓国 かんこく キリスト教 きりすときょう 教会 きょうかい 協議 きょうぎ 会 かい と共同 きょうどう で「韓 かん 日 にち 強制 きょうせい 併合 へいごう 100年 ねん 韓国 かんこく ・日本 にっぽん 教会 きょうかい 共同 きょうどう 声明 せいめい 」を発表 はっぴょう し、日 にち 韓 かん 併合 へいごう 条約 じょうやく は「武力 ぶりょく の脅迫 きょうはく によって調印 ちょういん された条約 じょうやく 」であり不法 ふほう であること、また独立 どくりつ 運動 うんどう (抗日 こうにち パルチザン)への処罰 しょばつ が「人道 じんどう 主義 しゅぎ に反 はん する植民 しょくみん 地 ち 犯罪 はんざい 」であったこと、また日本 にっぽん の統治 とうち は朝鮮半島 ちょうせんはんとう に窮乏 きゅうぼう 化 か をもたらし、そのため多数 たすう の朝鮮 ちょうせん 人 じん を中国 ちゅうごく 、ロシア、日本 にっぽん などに移住 いじゅう させたこと、また日本 にっぽん による統治 とうち のため、朝鮮半島 ちょうせんはんとう が分断 ぶんだん し、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が起 お こったことなどを主張 しゅちょう した上 うえ 、日 にち 韓 かん 併合 へいごう 条約 じょうやく の無効 むこう 化 か と日本 にっぽん 政府 せいふ による賠償 ばいしょう 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう の平和 へいわ 統一 とういつ に向 む けた努力 どりょく 等 とう を訴 うった えた[90] 。この主張 しゅちょう は、2015年 ねん に和田 わだ 春樹 はるき 、林 はやし 博史 ひろふみ 、内海 うつみ 愛子 あいこ らが発起人 ほっきにん となり、姜 きょう 尚中 しょうちゅう 、李 り 成 しげる 市 し らの賛意 さんい を得 え た「2015年 ねん 日 にち 韓 かん 歴史 れきし 問題 もんだい に関 かん して日本 にっぽん の知識 ちしき 人 じん は声明 せいめい する」の声明 せいめい で繰 く り返 かえ し訴 うった えている[91] 。
^ 今日 きょう の大韓民国 だいかんみんこく と朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく に相当 そうとう する地域 ちいき 。旧 きゅう 韓国 かんこく 、朝鮮 ちょうせん 国 こく (李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん )領域 りょういき 。間島 まじま については一部 いちぶ に領有 りょうゆう 権 けん について主張 しゅちょう がある。
^ 全体 ぜんたい の構図 こうず から「漁夫 ぎょふ の利 り 」などと称 しょう されて紹介 しょうかい されることも多 おお い。
^ 日 にち 韓 かん 議定 ぎてい 書 しょ 第 だい 四 よん 条 じょう 「第三国 だいさんごく ノ侵害 しんがい ニ依 よ リ若 わか クハ内乱 ないらん ノ為 ため メ大韓 たいかん 帝国 ていこく ノ皇室 こうしつ ノ安寧 あんねい 或 ある ハ領土 りょうど ノ保全 ほぜん ニ危険 きけん アル場合 ばあい ハ大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ ハ速 そく ニ臨機 りんき 必要 ひつよう ノ措置 そち ヲ取 と ルヘシ。而シテ大韓 たいかん 帝 みかど 国 こく 政府 せいふ ハ右 みぎ 大日本帝国 だいにっぽんていこく ノ行動 こうどう ヲ容易 ようい ナラシムル為 ため メ十 じゅう 分 ふん 便宜 べんぎ ヲ与 あずか フル事 ごと 」
^ 「日 にち 省 しょう 録 ろく 」や「承 うけたまわ 政 せい 院 いん 日記 にっき 」などの分析 ぶんせき から高 こう 宗 はじめ は日 にち 韓 かん 保護 ほご 条約 じょうやく に賛成 さんせい しており、批判 ひはん 的 てき だった大臣 だいじん たちの意見 いけん を却下 きゃっか していたとする研究 けんきゅう 結果 けっか も、2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )にハーバード大学 だいがく アジアセンター主催 しゅさい で開 ひら かれた国際 こくさい 学術 がくじゅつ 会議 かいぎ で出 だ されている[44] [45] [46] 。
^ a b 「ハーグ密使 みっし 事件 じけん は皇帝 こうてい の責任 せきにん に属 ぞく す ことはもちろんだが、統監 とうかん 府 ふ が未然 みぜん に防止 ぼうし できなかったことは統監 とうかん の迂闊 うかつ を世界 せかい に公表 こうひょう したものである。しかも、これは統監 とうかん 一 いち 人 にん の身 み にとどまらず、日本 にっぽん の名誉 めいよ 毀損 きそん ・威厳 いげん の侮辱 ぶじょく ・信用 しんよう の抹殺 まっさつ である」(大阪毎日新聞 おおさかまいにちしんぶん 1907年 ねん 7月 がつ 16日 にち の社説 しゃせつ )[39]
^ 火 ひ 田 た 民 みん も参照 さんしょう 。
^ 李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい も土地 とち 売買 ばいばい は可能 かのう であり経国 けいこく 大典 たいてん (1460年 ねん )や続 ぞく 大典 たいてん (1744年 ねん )で届出 とどけで 制 せい を規定 きてい していたが、これら官許 かんきょ 方式 ほうしき は衰退 すいたい し民間 みんかん 同士 どうし での私的 してき 売買 ばいばい が横行 おうこう しており公証 こうしょう 機能 きのう が衰退 すいたい していた。『最新 さいしん 韓国 かんこく 実業 じつぎょう 指針 ししん 』岩永 いわなが 重 しげる 華 はな (宝 たから 文 ぶん 館 かん 、明治 めいじ 37年 ねん )や雑誌 ざっし 『韓 かん 半島 はんとう 』第 だい 2年 ねん 2号 ごう (明治 めいじ 35年 ねん )などは朝鮮 ちょうせん 末期 まっき の不動産 ふどうさん 売買 ばいばい や制度 せいど の混乱 こんらん について記録 きろく している。
^ 後述 こうじゅつ 。高麗 こうらい 大学 だいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ ・政治 せいじ 学者 がくしゃ 韓 かん 昇 のぼる 助 すけ の事例 じれい など。
^ 名誉 めいよ 毀損 きそん 及 およ び外患 がいかん 煽動 せんどう の容疑 ようぎ で逮捕 たいほ されたり、国会 こっかい 傍聴 ぼうちょう 中 ちゅう や裁判 さいばん において暴行 ぼうこう される(暴行 ぼうこう 犯 はん の朴 ほお 琦緖 は英雄 えいゆう とされ逮捕 たいほ もされていない)などの被害 ひがい に遭 あ っており、身 み の安全 あんぜん のため住所 じゅうしょ すら公表 こうひょう していない。
^ 金星 かなぼし 出版 しゅっぱん 社 しゃ の教科書 きょうかしょ を批判 ひはん して2008年 ねん に出版 しゅっぱん された教科書 きょうかしょ フォーラム編集 へんしゅう の教科書 きょうかしょ 。
^ 崔 ちぇ 文 ぶん 衡は2010年 ねん 夏 なつ に刊行 かんこう した『韓国 かんこく 近代 きんだい の世界 せかい 史 し 的 てき 理解 りかい 』(知識 ちしき 産業 さんぎょう 社 しゃ )でも、「世界 せかい 史 し のなかの韓国 かんこく 史 し 」を提唱 ていしょう している。
^ 『日 にち 韓 かん 合邦 がっぽう 秘史 ひし 』 黒 くろ 竜 りゅう 会 かい 出版 しゅっぱん 部 ぶ
^ 改訂 かいてい 新版 しんぱん ,世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 内 ない 言及 げんきゅう , 精選 せいせん 版 ばん 日本 にっぽん 国語 こくご 大 だい 辞典 じてん ,デジタル大辞泉 だいじせん ,日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ),ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん ,知恵 ちえ 蔵 ぞう ,旺文社 おうぶんしゃ 日本 にっぽん 史 し 事典 じてん 三 さん 訂 てい 版 ばん ,旺文社 おうぶんしゃ 世界 せかい 史 し 事典 じてん 三 さん 訂 てい 版 ばん ,山川 やまかわ 日本 にっぽん 史 し 小 しょう 辞典 じてん 改訂 かいてい 新版 しんぱん ,山川 やまかわ 世界 せかい 史 し 小 しょう 辞典 じてん . “日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく (にっかんきほんじょうやく)とは? 意味 いみ や使 つか い方 かた ”. コトバンク . 2024年 ねん 1月 がつ 7日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ “描 えが かれた日 にち 清 しん 戦争 せんそう ~錦絵 にしきえ ・年 ねん 画 が と公文書 こうぶんしょ ~ ”. アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター. 2021年 ねん 8月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。 “7月 がつ 23日 にち 未明 みめい 、大鳥 おおとり 公使 こうし の指令 しれい を受 う け、漢 かん 城 じょう 郊外 こうがい の龍山 たつやま にあった大島 おおしま 義昌 よしまさ 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう 率 ひき いる混成 こんせい 旅団 りょだん が漢 かん 城 じょう に入 はい りました……王宮 おうきゅう は日本 にっぽん 軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か に置 お かれました。”
^ 塩 しお 島 しま 仁吉 にきち 『日 にち 清 しん 戦史 せんし . 第 だい 1-4巻 かん 』経済 けいざい 雑誌 ざっし 社 しゃ 、1895年 ねん 、31-32頁 ぺーじ 。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993957 。
^ “7月 がつ 23日 にち 大鳥 おおとり 公使 こうし 発 はつ 陸奥 みちのく 大臣 だいじん 宛 あて 朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ 本 ほん 使 し が通信 つうしん に述 の べたる 第 だい 2の要求 ようきゅう に不満足 ふまんぞく 云々 うんぬん ”. 明治 めいじ 27年 ねん 7月 がつ ~8月 がつ 「着電 ちゃくでん 綴 つづり (三 さん )」 . 国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター. 2021年 ねん 10月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ “2. 開戦 かいせん :日 にち 清 しん の朝鮮 ちょうせん への出兵 しゅっぺい と戦闘 せんとう の始 はじ まり~宣戦 せんせん 布告 ふこく ”. アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター. 2021年 ねん 10月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。 “王宮 おうきゅう は日本 にっぽん 軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か に置 お かれました。国王 こくおう 高 だか 宗 むね はこの戦闘 せんとう 中 ちゅう に身 み を隠 かく していたところを日本 にっぽん 兵 へい に発見 はっけん されてその身 み を確保 かくほ され、また一方 いっぽう の興 きょう 宣 せん 大院君 たいいんくん は戦闘 せんとう が終了 しゅうりょう した後 のち に日本 にっぽん 軍 ぐん の護衛 ごえい の下 した で王宮 おうきゅう に入 はい りました。”
^ 田保橋 たぼはし 潔 きよし 『近代 きんだい 日 び 鮮関係 がかり の研究 けんきゅう (下巻 げかん ) 』朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府中 ふちゅう 枢 くるる 院 いん 、1940年 ねん 、443頁 ぺーじ 。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276051/253 。"七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 三 さん 日 にち 午前 ごぜん 政変 せいへん 後 ご 戚臣以下 いか 多 おお く逃亡 とうぼう して、景 けい 福 ぶく 宮 みや は国王 こくおう 及 およ び少数 しょうすう の宗 むね 臣 しん ・近臣 きんしん を残留 ざんりゅう して、殆 ほとん ど空虚 くうきょ に帰 かえ したが……既 すで に日本国 にっぽんこく 公使 こうし が兵力 へいりょく によって戚族を廟堂 びょうどう より駆逐 くちく し、大院君 たいいんくん を首脳 しゅのう とした新 しん 政権 せいけん を樹立 じゅりつ した以上 いじょう 、国王 こくおう ・王妃 おうひ の好 この む好 この まぬに関 かん せず、廟堂 びょうどう を改造 かいぞう し、内政 ないせい 改革 かいかく に着手 ちゃくしゅ せざるを得 え ない。"。
^ 塩 しお 島 しま 仁吉 にきち 『日 にち 清 しん 戦史 せんし . 第 だい 1-4巻 かん 』経済 けいざい 雑誌 ざっし 社 しゃ 、1895年 ねん 、33-34頁 ぺーじ 。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993957 。
^ 田保橋 たぼはし 潔 きよし 『近代 きんだい 日 び 鮮関係 がかり の研究 けんきゅう (下巻 げかん ) 』朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府中 ふちゅう 枢 くるる 院 いん 、1940年 ねん 、445頁 ぺーじ 。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276051/254 。"杉村 すぎむら 書記官 しょきかん は大院君 たいいんくん が既 すで に古稀 こき の齢 よわい に達 たっ し、時勢 じせい に通 つう ぜず、徒 いたず らに私見 しけん を主張 しゅちょう して、政務 せいむ を渋滞 じゅうたい せしめるのを見 み て、早 はや くも金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう を以 もっ て之 これ に代 だい へようとし、其領議 ぎ 政 せい 任命 にんめい を要 よう した。大院君 たいいんくん も之 これ に従 したがえ ひ、七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 五日領議政金炳始の辞職 じしょく を待 ま ち、金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう を後任 こうにん とした。"。
^ 田保橋 たぼはし 潔 きよし 『近代 きんだい 日 び 鮮関係 がかり の研究 けんきゅう (下巻 げかん )』朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府中 ふちゅう 枢 くるる 院 いん 、1940年 ねん 、447-449頁 ぺーじ 。"大鳥 おおとり 公使 こうし は七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 三 さん 日 にち 政変 せいへん が一段落 いちだんらく 告 つ げると共 とも に、清 しん 韓 かん 宗 むね 属 ぞく 関係 かんけい の廃棄 はいき に注意 ちゅうい し、七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 景 けい 福 ぶく 宮 みや に於 おい て、大院君 たいいんくん 及 およ び督 とく 弁 べん 趙 ちょう 督 ただし 弁 べん 趙 ちょう 秉稷に会見 かいけん し、明治 めいじ 二 に 十 じゅう 七 なな 年 ねん 七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 日 にち 最後 さいご 通牒 つうちょう の趣旨 しゅし に従 したがえ ひ、中 ちゅう 朝 ちょう 商 しょう 民 みん 水陸 すいりく 貿易 ぼうえき 章程 しょうてい の廃棄 はいき を宣言 せんげん し、並 なみ に朝鮮 ちょうせん 国 こく 駐留 ちゅうりゅう 清国 きよくに 軍 ぐん の駆逐 くちく を請求 せいきゅう する件 けん について協議 きょうぎ した。然 しか るに大院君 たいいんくん 、趙 ちょう 秉稷共 ども に将来 しょうらい 清 きよし より報復 ほうふく 懲戒 ちょうかい を加 か へられることを恐怖 きょうふ して、躊躇 ちゅうちょ 決 けっ することが出来 でき ない。最後 さいご に大鳥 おおとり 公使 こうし の強硬 きょうこう な要求 ようきゅう に屈 くっ して承諾 しょうだく し、同日 どうじつ 清 きよし 代理 だいり 交渉 こうしょう 通 どおり 商事 しょうじ 宜 よろし 唐 から 紹儀に清 しん 韓 かん 通商 つうしょう 三 さん 章程 しょうてい 破棄 はき を通告 つうこく したが、清 しん 兵 へい 駆逐 くちく に関 かん する大鳥 おおとり 公使 こうし 宛 あて 照会 しょうかい は頗 すこぶ る不満足 ふまんぞく のものであった……朝鮮 ちょうせん 国内 こくない 駐留 ちゅうりゅう 清国 きよくに 軍 ぐん の駆逐 くちく については、統 みつる 理 り 衙門照会 しょうかい の内容 ないよう が頗 すこぶ る不満足 ふまんぞく なため、大鳥 おおとり 公使 こうし より修正 しゅうせい を要求 ようきゅう したが、督 とく 弁 べん は容易 ようい に同意 どうい を与 あずか へない。けれども形式 けいしき 的 てき には朝鮮 ちょうせん 国 こく 政府 せいふ が日本国 にっぽんこく 公使 こうし に清 しん 兵 へい 駆逐 くちく を依頼 いらい したと見 み るも支障 ししょう がないので、大鳥 おおとり 公使 こうし は七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 六日混成旅団長大島陸軍少将に左 ひだり の如 ごと く通告 つうこく した。
在 ざい 牙 きば 山 やま 清 きよし 兵 へい ヲ撤回 てっかい セシムル儀 ぎ に付 づけ キ、昨 さく 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ ヨリ、外務 がいむ 督 とく 弁 べん ノ記名 きめい 調印 ちょういん ヲ以テ、右 みぎ 取 と 計 けい 方 かた 代弁 だいべん ノ依頼 いらい 有 ゆう 之 の 候 こう 間 あいだ 、御 ご 承知 しょうち ノ上 うえ 、可 か 然 しか 御 お 取 と 計 けい 相成 あいな 度 たび 此段申 さる 進 しん 候 こう 也。明治 めいじ 二 に 十 じゅう 七 なな 年 ねん 七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 六 ろく 日 にち 特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし 大鳥 おおとり 圭介 けいすけ
大島 おおしま 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう は既 すで に前日 ぜんじつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 混成 こんせい 旅団 りょだん の主力 しゅりょく を率 りつ ゐて南下 なんか の途 と に就 つ き、又 また 仁川 にがわ 水道 すいどう 豊島 としま 沖 おき に於 おい ては、日 にち 清 しん 両国 りょうこく 艦隊 かんたい 既 すで に戦闘 せんとう を開始 かいし したので、此照会 かい の修正 しゅうせい は問題 もんだい 外 がい となったのである。"。
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……曾禰の統監 とうかん 陞任 しょうにん の内議 ないぎ ありし頃 ころ 、小村 こむら はもはや予 あらかじ め韓国 かんこく 問題 もんだい に関 かん する今後 こんご の大 だい 方針 ほうしん を確立 かくりつ し置 お くの要 よう ありと認 みと め、私 わたし に倉知 くらち 政務 せいむ 局長 きょくちょう に要旨 ようし を授 さづ けて意見 いけん 書 しょ を起草 きそう せしめ、その成案 せいあん に更 さら に自 みずか ら加筆 かひつ の上 うえ 、対 たい 韓 かん 大 だい 方針 ほうしん 及 およ び施政 しせい 大綱 たいこう の二 に 編 へん として同 どう 四 よん 十 じゅう 二 に 年 ねん 三 さん 月 がつ 三 さん 十 じゅう 日 にち を以 もっ て之 これ を首相 しゅしょう 桂 かつら に提出 ていしゅつ した。其 そ の要旨 ようし は、先 さき づ対 たい 韓 かん 方針 ほうしん に於 おい て……第 だい 一 いち 適当 てきとう の時期 じき に於 おい て韓国 かんこく の併合 へいごう を断行 だんこう すること”
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日本 にっぽん による韓国 かんこく 保護 ほご 国 こく 化 か /韓国 かんこく 併合 へいごう
総説 そうせつ 韓国 かんこく 併合 へいごう までの朝鮮 ちょうせん 関連 かんれん 問題 もんだい
開港 かいこう まで文明開化 ぶんめいかいか の失敗 しっぱい 龍 りゅう 岩 いわ 浦 うら 事件 じけん から日 にち 韓 かん 併合 へいごう まで残務 ざんむ 処理 しょり
団体 だんたい ・機関 きかん ・派閥 はばつ などの勢力 せいりょく ロシア帝国 ていこく の南下 なんか 政策 せいさく と日 にち 露 ろ 対立 たいりつ 米国 べいこく の太平洋 たいへいよう ・アジア進出 しんしゅつ と日米 にちべい 対立 たいりつ 重要 じゅうよう 人物 じんぶつ その他 た 新聞 しんぶん ・雑誌 ざっし 関連 かんれん 書籍 しょせき
王朝 おうちょう /政府 せいふ 統監 とうかん 府 ふ /駐韓 ちゅうかん 日本 にっぽん 公使 こうし 天佑 てんゆう 侠/玄 げん 洋 よう 社 しゃ /黒 くろ 竜 りゅう 会 かい ロシア帝国 ていこく その他 た