どくちゃ事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

どくちゃ事件じけん(どくちゃじけん)とは、1898ねん流罪るざいちゅうであった大韓たいかん帝国ていこく朝鮮ちょうせん)のもとロシア通訳つうやくかんきむひろしりく大韓たいかん帝国ていこく皇帝こうていこうはじめどくりのコーヒー暗殺あんさつしようとして発覚はっかくし、死罪しざいしょせられた事件じけん[1]こうはじめ皇太子こうたいし暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん(こうそう・こうたいしあんさつみすいじけん)あるいはちゃどく事件じけん(ちゃどくじけん)ともしょうする。

背景はいけい[編集へんしゅう]

1897ねん10月、朝鮮ちょうせん王国おうこく国王こくおうこうはじめ国号こくごうを「大韓たいかん」にあらためたが、それに先立さきだつ9がつロシア帝国ていこく駐韓ちゅうかん公使こうしカール・イバノビッチ・ヴェーバー(ウェーバー)からアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル(スペイヤー)へと交代こうたいさせた。新任しんにんのシュペイエル公使こうし朝鮮ちょうせん財政ざいせいけん掌握しょうあくするため、1897ねん11月、英国えいこくじん財政ざいせい顧問こもんジョン・マクレヴィ・ブラウン解雇かいこして自国じこくじんえることを強要きょうようするささえ顧問こもん事件じけんこす一方いっぽう、1898ねん2がつには、釜山ぷさん南方なんぽうぜっかげとう租借そしゃくけん韓国かんこく政府せいふ承認しょうにんさせた(ぜっかげとう問題もんだい[2][3]。こうした強引ごういん主権しゅけん侵害しんがい行為こういには日本にっぽん帝国ていこくイギリス反発はんぱつしたのみならず、韓国かんこく国内こくないでもはい勢力せいりょく台頭たいとうをまねいた[2][3]

じょらの独立どくりつ協会きょうかいは、1898ねん3がつひらかれたかん城府じょうふげんソウル特別とくべつ市民しみんによる万民ばんみん共同きょうどうかい街頭がいとう大衆たいしゅう集会しゅうかい公開こうかい討論とうろんかい)にささえられ、救国きゅうこくじょう疏のはん運動うんどう展開てんかいし、ロシアじん軍事ぐんじ教官きょうかん財政ざいせい顧問こもん解任かいにんと、かん銀行ぎんこう撤収てっしゅうなどを韓国かんこく政府せいふせまった[2]。この運動うんどうたかまりは政府せいふうごかし、韓国かんこく政府せいふはシュペイエル公使こうしにロシアじん教官きょうかん顧問こもん継続けいぞく雇用こようしないことを通告つうこくした[2]。その結果けっか、ロシアは軍事ぐんじ教官きょうかん財政ざいせい顧問こもん本国ほんごくげた[2][3]。4月、日本にっぽん帝国ていこく外相がいしょう西にしいさお二郎じろうとロシア外相がいしょうロマン・ローゼンは、相互そうご韓国かんこく独立どくりつみとめ、にち双方そうほう韓国かんこく干渉かんしょうしないことを約束やくそくしあう「西にし・ローゼン協定きょうてい」をむすんだ[3]

ロシアのうしたてうしなったこうむね身辺しんぺんにはさまざまな脅威きょういがふりかかった[1]。1898ねん7がつには、独立どくりつ協会きょうかい会長かいちょうやす駉寿朝鮮ちょうせんばん現役げんえき軍人ぐんじん退役たいえき軍人ぐんじん買収ばいしゅうして、皇帝こうてい譲位じょうい計画けいかくした事件じけんこうはじめ譲位じょうい計画けいかく事件じけん)がこっており、一方いっぽう、このころ独立どくりつ協会きょうかいのメンバーが中心ちゅうしんとなって上述じょうじゅつ万民ばんみん共同きょうどうかい組織そしきされ、かんじょう周辺しゅうへんかぎられてはいたものの、国家こっか自主じしゅ独立どくりつとともに人民じんみん自由じゆう民権みんけんがおおいに高唱こうしょうされていた[1][2][注釈ちゅうしゃく 1]どくちゃ事件じけんは、こうしたなか、1898ねん9がつこった事件じけんである。

事件じけん[編集へんしゅう]

こうしゅう皇太子こうたいしじゅんむね

咸鏡どう出身しゅっしんきむひろしりく生年せいねんしょう)は、ウラジオストクなど沿海州えんかいしゅう朝鮮ちょうせんのあいだをしてロシアにつけ、朝鮮ちょうせん王朝おうちょうより通訳つうやくかんとして採用さいようされたしんロシア人物じんぶつである[4]1894ねんから翌年よくねんにかけて、ロシア駐在ちゅうざい朝鮮ちょうせんこく公使こうしはんすすむ(のちもとのう商工しょうこう大臣だいじん)と朝鮮ちょうせん駐在ちゅうざいロシア公使こうしのヴェーバーが条約じょうやくむすさい朝鮮ちょうせんがわでは唯一ゆいいつのロシア通訳つうやくとして活躍かつやくした。1895ねんにははんすすむさいふちやす駉寿などとともに春生はるおもん事件じけんくわわったことがあり、1896ねんかん播遷ときには秘書ひしょいんすすむでありながらこうしゅうとヴェーバーのあいだ通訳つうやくをおこなった[注釈ちゅうしゃく 2]こうむねからの信任しんにんあつ人物じんぶつであったが、ロシアの勢威せいいしんっており、権力けんりょく濫用らんようして民衆みんしゅうから糾弾きゅうだんされることもあった[4]しん政権せいけんでは、いんいさおぜん大臣だいじんより学部がくぶきょうべんへの昇進しょうしんけたが、1898ねんしん没落ぼつらくにともない、官職かんしょくうしなった。3月7にちにはきむひろしりく謀殺ぼうさつ未遂みすい事件じけんこっている[5]同年どうねん8がつ23にち、ロシアとの通商つうしょうさいして着服ちゃくふくしたうたがいで流刑りゅうけい詔勅しょうちょくされ、8がつ25にち全羅南道ぜんらなんどう黒山くろやまとうへの配流はいる決定けっていした[4]

きむひろしりくは、流罪るざいにされたことでこうむねうらみ、こうはじめ誕生たんじょう自身じしん腹心ふくしんであるあなきょううえこうしゅう皇太子こうたいし(のちのじゅんむね)の毒殺どくさつ指示しじした[4]

1898ねん9月11にちよる10ごろこうしゅう皇太子こうたいし宮殿きゅうでんでの晩餐ばんさんさいをもよおし、皇太子こうたいしほうたおれ、人事不省じんじふせいおちいった[1]こうむねは、ごろからコーヒー愛飲あいいんしていたが、このときはにおいの異変いへんづいてほとんどくちをつけなかったが、皇太子こうたいしあやまってはんわんほどんでしまった[4]。また、おなじコーヒーをんだ内侍ないし7めい女官にょかん3めいべついれさむらい1めいにも同様どうよう中毒ちゅうどく症状しょうじょうがみられた。死者ししゃはなかったが、皇太子こうたいしには障害しょうがいのこった[6]事態じたいおもくみた韓国かんこく宮内くない大臣だいじんは、警務けいむちょうめいじてかくかんちょうだい膳部ぜんぶ)の庖厨ほうちゅう14めい拘束こうそくし、取調とりしらべをおこなった。

取調とりしらべ結果けっか免職めんしょくになっていたきむ鍾和という人物じんぶつかびがった。きむ鍾和は、ぜんてんぜん主事しゅじあな昌徳まさのりより1,000げん報酬ほうしゅうける約束やくそくでコーヒーに毒物どくぶつ混入こんにゅうしたと自白じはくした。そしてあな昌徳まさのりは、きむひろしりくからきょうべんしょくける約束やくそくで、どくりの飲料いんりょうによりこうむね殺害さつがいするよう指示しじされ、きむ鍾和を買収ばいしゅうして犯行はんこうおよばせたと自供じきょうしたのである[4]

これにより、9月14にちあな昌徳まさのり、およびかね鍾和とそのつま逮捕たいほされ、その庖厨ほうちゅうはすべて監獄かんごくうつされた[7]。この時点じてんでは、流刑りゅうけい移動いどうちゅうであったきむひろしりく仁川にがわ逮捕たいほされるはずとなっており、実際じっさい逮捕たいほされたのは14にちぎてからであった[7]最終さいしゅうてきにはきむひろしりく自供じきょうし、コーヒーに混入こんにゅうされた毒物どくぶつは「砒石ひせき」(アヘンまたはヒ素ひそ化合かごうぶつ)であると判明はんめいした[7][8]

1898ねん10がつ10日とおかあさきむひろしりくあな昌徳まさのりきむ鍾和とともに絞首刑こうしゅけいしょせられ、死体したいかんじょう鍾路にさらされた[8]。この事件じけんはまた、国家こっか自主じしゅ独立どくりつ国民こくみん自由じゆう民権みんけんとなえる独立どくりつ協会きょうかいるところとなり、独立どくりつ協会きょうかい皇国こうこく中央ちゅうおうそう商会しょうかい万民ばんみん共同きょうどうかいなどによってよってつよ指弾しだんされることとなった[4][9]。これらの団体だんたい中心ちゅうしんとなって民主みんしゅ政治せいじ実現じつげんつよもとめられ、こうしゅう政府せいふたい猛烈もうれつ批判ひはんがなされた[4]そとぜい依存いぞんしすぎるこうはじめ政治せいじ姿勢しせいがこうした毒殺どくさつ未遂みすい事件じけん発生はっせいさせたのであり、こうした状況じょうきょう打破だはするためにはみかどけん制限せいげん民主みんしゅ実現じつげん急務きゅうむであると主張しゅちょうしたのである[4]

皇太子こうたいし後遺症こういしょう[編集へんしゅう]

じゅんむね前列ぜんれつみぎから3にん)と訪韓ほうかん日本にっぽん皇太子こうたいしよしみじん親王しんのういちぎょう(1907ねん
みぎから、異母弟いぼてい韓国かんこく皇太子こうたいし)・大正天皇たいしょうてんのう当時とうじ皇太子こうたいし)・じゅんむね大韓たいかん皇帝こうてい)・有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのう

人事不省じんじふせい重態じゅうたいとなった皇太子こうたいし坧(はは閔妃びんび)は当時とうじ24さいであったが、この事件じけんにより知能ちのう障害しょうがいこし、判断はんだん能力のうりょくうしなった[6]1907ねんちちこうはじめ万国ばんこく平和へいわ会議かいぎ密使みっしおくったハーグ密使みっし事件じけんこうはじめ伊藤いとう博文ひろぶみによって強制きょうせいてき退位たいいさせられ、わりにじゅんむねとして即位そくいした[6]最後さいご大韓たいかん皇帝こうていとなったじゅんむねちちとは対照たいしょうてきに、日本にっぽんたいして従順じゅうじゅんであり、即位そくいしきにおいてもかみち、日本にっぽんふう大元帥だいげんすいふく着用ちゃくようした[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ こうはじめは、独立どくりつ協会きょうかい運動うんどう行商ぎょうしょうじんのネットワークと軍隊ぐんたいちからによってしずめようとした[1]
  2. ^ 春生はるおもん事件じけんは、1895ねん11月に朝鮮ちょうせん国内こくない反日はんにちがロシアや米国べいこく水兵すいへい連携れんけいして開化かいかきむひろししゅう総理そうり大臣だいじん暗殺あんさつしようとした事件じけんかん播遷は、1896ねん2がつこうむねがロシア公使館こうしかんうつり、そこで朝鮮ちょうせん政務せいむ執行しっこうしたできごとで、春生はるおもん事件じけん残党ざんとうこうはじめ、ヴェーバー公使こうし協力きょうりょくして実現じつげんした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく』(1983)p.349
  2. ^ a b c d e f 糟谷かすや(2000)pp.251-253
  3. ^ a b c d 古屋こや(1966)pp.29-30
  4. ^ a b c d e f g h i 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく』(1983)p.363
  5. ^ (31) 加藤かとう 公使こうし 在任ざいにんちゅう 事務じむ經過けいか大要たいよう 具申ぐしん けん 韓国かんこくデータベース
  6. ^ a b c d はら(2000)pp.6-8
  7. ^ a b c アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード: B03050003100 「各国かっこく内政ないせい関係かんけい雑纂ざっさん韓国かんこく だいかん/4 明治めいじ31ねん9がつ23にちから明治めいじ31ねん10がつ30にち
  8. ^ a b アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード: C11081024900 「31ねん10がつ11にち きむひろしりくみずか毒殺どくさつくわだてたりとの任意にんい供述きょうじゅつすのけん
  9. ^ コトバンク「独立どくりつ協会きょうかい

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 糟谷かすや憲一けんいち ちょだい5しょう 朝鮮ちょうせん近代きんだい社会しゃかい形成けいせい展開てんかい」、武田たけだ幸男ゆきお へん朝鮮ちょうせん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん世界せかい各国かっこく2〉、2000ねん8がつISBN 4-634-41320-5 
  • 古屋こや哲夫てつおにち戦争せんそう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1966ねん8がつISBN 4-12-100110-9 
  • ぼくえいけい しるいんよしひめ神田かんださとし やくだい26だいだかむね実録じつろく」『朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく新潮社しんちょうしゃ、1997ねん9がつISBN 4-12-100110-9 
  • 原武はらたけひさし日本にっぽん韓国かんこく事実じじつじょう植民しょくみんに」『朝日あさひクロニクル 週刊しゅうかん20世紀せいき-1906-1907(明治めいじ39-40ねん)』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2000ねん1がつ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]