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伊藤いとう博文ひろぶみ

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伊藤いとういとう 博文ひろぶみひろぶみ
伊藤いとう󠄁 ひろし󠄁ぶん󠄁
フロックコート着用ちゃくようし、むね勲章くんしょう略綬りゃくじゅけた伊藤いとう
生年月日せいねんがっぴ 1841ねん10月16にち
天保てんぽう12ねん9月2にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 周防すおうこく熊毛くまげぐん束荷つかりむら現在げんざい山口やまぐちけんひかり
ぼつ年月日ねんがっぴ (1909-10-26) 1909ねん10月26にち(68さいぼつ
死没しぼつ きよし吉林きつりんしょうはまこうちょうげん:中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく黒竜江こくりゅうこうしょうハルビンみなみ崗区
出身しゅっしんこう 松下まつした村塾そんじゅく卒業そつぎょう
ぜんしょく 武士ぶし長州ちょうしゅう藩士はんし
所属しょぞく政党せいとう 立憲りっけん政友せいゆうかい
称号しょうごう したがえいち
だいくん菊花きっかあきら頸飾
だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
公爵こうしゃく
名誉めいよ博士はかせイェール大学だいがく
こうまろうど早稲田大学わせだだいがく
配偶はいぐうしゃ 伊藤いとうすみ先妻せんさい
伊藤いとう梅子うめこ継妻けいさい
子女しじょ 貞子さだこ長女ちょうじょ
生子いくこ次女じじょ
朝子あさこさんじょ
文吉ぶんきち長男ちょうなん庶子しょし
眞一しんいち次男じなん庶子しょし
親族しんぞく
サイン

日本の旗 はつだい5・7・10代 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
内閣ないかく だい1伊藤いとう内閣ないかく
だい2伊藤いとう内閣ないかく
だい3伊藤いとう内閣ないかく
だい4伊藤いとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1885ねん12月22にち - 1888ねん4がつ30にち
1892ねん8がつ8にち - 1896ねん8がつ31にち
1898ねん1がつ12にち - 1898ねん6月30にち
1900ねん10月19にち - 1901ねん5がつ10日とおか
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう

日本の旗 はつだい3・8・10代 枢密院すうみついん議長ぎちょう
在任ざいにん期間きかん 1888ねん4がつ30にち - 1889ねん10月30にち
1891ねん6月1にち - 1892ねん8がつ8にち
1903ねん7がつ13にち - 1905ねん12月21にち
1909ねん6月14にち - 1909ねん10月26にち
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう

在任ざいにん期間きかん 1905ねん12月21にち - 1909ねん6月14にち

日本の旗 だい6だい 外務がいむ大臣だいじん総理そうり兼任けんにん
内閣ないかく だい1伊藤いとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1887ねん9月17にち - 1888ねん2がつ1にち

在任ざいにん期間きかん 1885ねん12月22にち - 1887ねん9月16にち

その職歴しょくれき
日本の旗 初代しょだい こうきょう
1873ねん10月25にち - 1878ねん5月15にち
日本の旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
1890ねん7がつ10日とおか - 1891ねん7がつ21にち
1895ねん8がつ5にち - 1907ねん9がつ20日はつか
1907ねん9月21にち - 1909ねん10月26にち
兵庫県の旗 官選かんせん初代しょだい 兵庫ひょうご県知事けんちじ
1868ねん7がつ12にち - 1869ねん5月21にち
日本の旗 だい4だい内務ないむきょう
1874ねん8がつ2にち - 1874ねん11月28にち
日本の旗 だい6だい内務ないむきょう
1878ねん5月15にち - 1880ねん2がつ28にち
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伊藤いとう博文ひろぶみ(いとう ひろぶみ、きゅう字体じたい伊藤いとう󠄁 ひろし󠄁ぶん󠄁1841ねん10月16にち天保てんぽう12ねん9月2にち〉- 1909ねん明治めいじ42ねん10月26にち)は、明治めいじ時代じだい日本にっぽん政治せいじ[1]位階いかい勲等くんとう爵位しゃくいしたがえいちだいくん公爵こうしゃく

大久保おおくぼ利通としみちらの路線ろせんいで初代しょだい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんし、近代きんだい立憲りっけん主義しゅぎ社会しゃかい基礎きそきずいた。 4にわたって内閣ないかく総理そうり大臣だいじん初代しょだい5だい7だい10代)をつとめ、いち内閣ないかくには大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう起草きそう中心ちゅうしん人物じんぶつとなり、内閣ないかくではにちしん戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくである下関しものせき条約じょうやく起草きそうにあたった。よん内閣ないかく組閣そかくさいして立憲りっけん政友せいゆうかい結党けっとうして初代しょだい総裁そうさいとなり、政党せいとう政治せいじみちひらいた[1]。その初代しょだい枢密院すうみついん議長ぎちょう初代しょだい貴族きぞくいん議長ぎちょう初代しょだい韓国かんこく統監とうかん元老げんろうなどを歴任れきにんした[1][2]こん太閤たいこうともしょうされたように、百姓ひゃくしょう身分みぶんから初代しょだいないかく総理そうり大臣だいじんのぼめ、その元老げんろうとして明治めいじ日本にっぽん牽引けんいんした、日本にっぽんおよびアジアの近代きんだい代表だいひょうする人物じんぶつ一人ひとり

いみなは、博文ひろぶみ(ひろぶみ、「はくぶん」とむこともある)。幼名ようみょう利助としすけ(りすけ)、のち吉田よしだ松陰しょういんから俊英しゅんえいしゅんあたえられ、俊輔しゅんすけ(しゅんすけ)とし、さらに春輔はるすけ(しゅんすけ)と改名かいめいした。明治めいじ初期しょき政府せいふ公文書こうぶんしょ本姓ほんせいカバネ使つかうことが義務ぎむづけられていた時期じきには越智おち宿禰すくね(おちのすくね)博文ひろぶみ署名しょめいした[3][4]

周防すおうこく百姓ひゃくしょうとしてまれる。ちち長州ちょうしゅうはん足軽あしがる伊藤いとうはいったため、ちちとともに下級かきゅう武士ぶし身分みぶんる。

吉田よしだ松陰しょういん私塾しじゅくである松下まつした村塾そんじゅくまなんだ。尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう参加さんかしたが、1863ねんにははんいのちにより井上いのうえかおるらとともにイギリス密航みっこうして留学りゅうがくして開国かいこく論者ろんしゃとなる[5][2]1864ねんロンドン四国しこく連合れんごう艦隊かんたい長州ちょうしゅうはん攻撃こうげき計画けいかくり、急遽きゅうきょ帰国きこくし、藩主はんしゅ毛利もうりたかしおや開国かいこくへの転換てんかん必要ひつよういたが、れられなかった。同年どうねん幕府ばくふによるだいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつたいするはん首脳しゅのう対応たいおう憤慨ふんがいした高杉たかすぎ晋作しんさくこしたこう山寺やまでら挙兵きょへい参加さんか。このはん内戦ないせん勝利しょうりにより藩主はんしゅ流派りゅうはとして藩政はんせい改革かいかく参画さんかくするようになり、おもはん対外たいがい交渉こうしょうにんにあたった[2]

明治維新めいじいしん1868ねんから政府せいふ出仕しゅっしし、外国がいこく事務じむかけ参与さんよ外国がいこく事務じむきょく判事はんじ初代しょだい兵庫ひょうごけん知事ちじなどを歴任れきにん1869ねん明治めいじ2ねん)には陸奥むつ宗光むねみつらとともに当面とうめん政治せいじ改革かいかく建白けんぱくしょ提出ていしゅつして開明かいめい官僚かんりょうとして頭角とうかくあらわした。また大蔵おおくらしょうけんみんしょうとして貨幣かへい制度せいど改革かいかく担当たんとうし、1870ねん明治めいじ3ねん)には財政ざいせい幣制へいせい調査ちょうさのために渡米とべい翌年よくねん金本位きんほんいせい採用さいようしん貨条れい公布こうふ主導しゅどうした。1871ねん明治めいじ4ねん岩倉いわくら使節しせつだん副使ふくしとして外遊がいゆう。このあいだ大久保おおくぼ利通としみち信任しんにん[2]

1873ねん明治めいじ6ねん)の帰国きこくには大久保おおくぼらとともに内政ないせい優先ゆうせん立場たちばから西郷さいごう隆盛たかもりせいかんろん反対はんたいし、同年どうねん10がつ西郷さいごうらが下野げやすると大久保おおくぼ片腕かたうでとして参議さんぎけんこうきょう就任しゅうにんした[1]1878ねん明治めいじ11ねん)に大久保おおくぼ不平ふへい士族しぞく暗殺あんさつされると、そのいで内務ないむきょう就任しゅうにん政府せいふ中心ちゅうしん人物じんぶつとして琉球りゅうきゅう処分しょぶんさむらい制度せいど廃止はいし教育きょういくれい制定せいていなどを推進すいしんした。

1881ねん明治めいじ14ねん大隈おおくま重信しげのぶがイギリスがた議会ぎかい政治せいじ目指めざ憲法けんぽう意見いけん提出ていしゅつすると、その急進きゅうしんてき内容ないよう伊藤いとう反対はんたいし、大隈おおくま開明かいめい官僚かんりょう下野げやした(明治めいじじゅうよんねん政変せいへん[1][2]1882ねん明治めいじ15ねんドイツオーストリア憲法けんぽう調査ちょうさおこない、1884ねん明治めいじ17ねん)に宮中きゅうちゅう制度せいど取調とりしらべきょく創設そうせつしてその長官ちょうかん就任しゅうにん立憲りっけん体制たいせいへの移行いこうともなしょ制度せいど改革かいかく着手ちゃくしゅした[2]

1885ねん明治めいじ18ねん)12月に太政官だじょうかんにかえて内閣ないかく制度せいど創設そうせつし、初代しょだい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんした(だい1伊藤いとう内閣ないかく)。井上いのうえあつし伊東いとう巳代治みよじ金子かねこ堅太郎けんたろうらとともに憲法けんぽう皇室こうしつ典範てんぱん貴族きぞくいんれい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん選挙せんきょほう草案そうあん起草きそうにあたり、1888ねん明治めいじ21ねん)に枢密院すうみついん創設そうせつされるとその議長ぎちょう就任しゅうにんし、憲法けんぽう草案そうあん審議しんぎにあたった。1889ねん明治めいじ22ねん)に日本にっぽん最初さいしょ近代きんだい憲法けんぽう明治めいじ憲法けんぽう制定せいてい君主くんしゅ大権たいけんつよいドイツがた憲法けんぽうだったが、伊藤いとう立憲りっけん政治せいじ意義いぎきみけん制限せいげん民権みんけん保護ほごにあることを強調きょうちょうし、立憲りっけん主義しゅぎてき憲法けんぽう理解りかいしめした[2][1]

1890ねん明治めいじ24ねん)に帝国ていこく議会ぎかい創設そうせつされると初代しょだい貴族きぞくいん議長ぎちょう就任しゅうにん最初さいしょ議会ぎかいのみ)。1892ねん明治めいじ25ねん)にだい2伊藤いとう内閣ないかく組閣そかくし、衆議院しゅうぎいんだいいちとうだった自由党じゆうとう接近せっきんにちしん戦争せんそうでは首相しゅしょうとして大本営だいほんえい列席れっせきするとともににちしん講和こうわ条約じょうやく調印ちょういんした。戦後せんご自由党じゆうとう連携れんけいして連立れんりつ政権せいけん組織そしき[1]1898ねん明治めいじ31ねん)にだい3伊藤いとう内閣ないかく組閣そかくしたが、自由党じゆうとう進歩しんぽとうとの連携れんけい失敗しっぱいし、地租ちそ増徴ぞうちょう議会ぎかい反発はんぱつ挫折ざせつしたことでそう辞職じしょく元老げんろうたちの反対はんたいって大隈おおくま重信しげのぶ板垣いたがき退助たいすけ後継こうけいして日本にっぽん最初さいしょ政党せいとうないかく(だい1大隈おおくま内閣ないかく)を成立せいりつさせた。さらに1900ねん明治めいじ33ねん)には立憲りっけん政友せいゆうかい結党けっとうして、その初代しょだい総裁そうさいとなり、だい4伊藤いとう内閣ないかく組閣そかく明治めいじ立憲りっけんせいのもとでの政党せいとう政治せいじみちひらいた[1]。しかし1901ねん明治めいじ34ねん)に貴族きぞくいん反発はんぱつ財政ざいせい問題もんだいをめぐるかくない不一致ふいっちそう辞職じしょく[2]

同年どうねんこったにちえい同盟どうめいろんには慎重しんちょうロシアとの協商きょうしょう模索もさくして訪露ほうろしたが、具体ぐたいてき成果せいかられず、結果けっかてきにちえい同盟どうめい促進そくしんされた。帰国きこく野党やとう立場たちばつらぬこうとする政友せいゆうかい指導しどう苦慮くりょし、1903ねん明治めいじ36ねん)に総裁そうさいし、元老げんろう立場たちばもどった[2]

にち戦争せんそう開戦かいせんには慎重しんちょうだったが[6]にち戦争せんそう朝鮮ちょうせん満州まんしゅう処理しょり問題もんだい尽力じんりょくし、1905ねん明治めいじ38ねん)には初代しょだい韓国かんこく統監とうかん就任しゅうにん[2]韓国かんこく国内こくない改革かいかく保護ほごこく指揮しきにあたり、3にわたるにちかん協約きょうやく漸次ぜんじ韓国かんこく外交がいこうけん内政ないせいしょ権限けんげん剥奪はくだつした[7]伊藤いとう日本にっぽん政府せいふないではたいかん慎重しんちょうであり、保護ほごこくはやむなしとしたが、併合へいごうには慎重しんちょうだったといわれる[6]。しかし韓国かんこく民族みんぞく運動うんどうとの対立たいりつ矢面やおもてかたちとなり、1909ねん明治めいじ42ねん)に韓国かんこく統監とうかん辞職じしょくしたのちハルビンえきにおいて韓国かんこく独立どくりつ運動うんどうやす重根しこね狙撃そげきされて死亡しぼうした[1]

開明かいめいとして日本にっぽん近代きんだいとく憲法けんぽう制定せいていとその運用うんようつうじて立憲りっけん政治せいじ日本にっぽん定着ていちゃくさせた功績こうせき評価ひょうかされる[1]

生涯しょうがい

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父親ちちおや伊藤いとう十蔵じゅうぞう
母親ははおや伊藤いとう琴子ことこ

天保てんぽう12ねん(1841ねん)9がつ2にち周防すおうこく熊毛くまげぐん束荷つかりむら野尻のじりげん山口やまぐちけんひかり束荷つかり野尻のじり)の百姓ひゃくしょうはやし十蔵じゅうぞう(のちに重蔵しげぞう)の長男ちょうなんとしてまれる。はは秋山あきやまちょう左衛門さえもん長女ちょうじょ琴子ことこひろし5ねん1846ねん)に破産はさんしたちちはぎ単身たんしん赴任ふにんしたためははとともにはは実家じっかあづけられたが、よしみひさし2ねん1849ねん)にちちされはぎ移住いじゅうした。はぎでは久保くぼ五郎左衛門ごろうざえもんじゅくかよい(同門どうもん吉田よしだみのる麿まろ)、いえまずしかったため、12さいごろからちち長州ちょうしゅうはん蔵元くらもとづけちゅうあいだ水井みずいたけ兵衛ひょうえ養子ようしとなり、たけ兵衛ひょうえ安政あんせい元年がんねん1854ねん)に周防すおう佐波さばぐんあい畑村はたむら足軽あしがる伊藤いとうわたるみぎ衛門えもん養子ようしとなって伊藤いとう直右衛門すぐえもん改名かいめいしたため、十蔵じゅうぞう博文ひろぶみ父子ふし足軽あしがるとなった[8]

かれ一人ひとりであり兄弟きょうだい姉妹しまいはいない(歴代れきだいないかく総理そうり大臣だいじんとしては三木みき武夫たけお一人ひとりである)。

松下まつした村塾そんじゅく入門にゅうもん

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長州ちょうしゅう藩士はんし時代じだい伊藤いとう
長州ちょうしゅうすぐる上段じょうだんひだりから遠藤えんどう謹助野村のむら弥吉やきち井上いのうえまさる)、伊藤いとう下段げだんひだりからこころざしどう聞多井上いのうえかおる)、山尾やまお庸三ようぞう
ひだりから三谷みたに国松くにまつ高杉たかすぎ晋作しんさく伊藤いとう

安政あんせい4ねん1857ねん2がつ江戸えどわん警備けいびのため相模さがみ派遣はけんされていたとき、上司じょうしとして赴任ふにんしてきたらいはら良蔵りょうぞう昵懇じっこんとなり、その紹介しょうかい吉田よしだ松陰しょういん松下まつした村塾そんじゅく入門にゅうもんする。伊藤いとう友人ゆうじんみのり麿まろ世話せわになったが、身分みぶんひくいためじゅく敷居しきいをまたぐことはゆるされず、戸外こがいったままの聴講ちょうこうあまんじていた。

  • 渡邊わたなべたかしぞう伊藤いとうこうなども、もとよりじゅくにて読書どくしょまなびたれども、自家じか生活せいかつと、公私こうしつとむふくせざるべからざる事情じじょうのために、ながくはざいじゅくするをざりしなり」[9]

よく安政あんせい5ねん1858ねん)7がつから10がつまで松陰まつかげ推薦すいせん長州ちょうしゅうはん京都きょうと派遣はけん随行ずいこうはんはらしたが長崎ながさきき、安政あんせい6ねん1859ねん)6がつまで長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ勉学べんがくつとめ、10月からははら紹介しょうかいはら義兄ぎけいかつら小五郎こごろう(のちの木戸きど孝允たかよし)の従者じゅうしゃとなり、長州ちょうしゅうはん江戸えど屋敷やしきうつんだ。ここでこころざしどう聞多(のちの井上いのうえかおる)と出会であい、親交しんこうむすぶ。

松陰しょういん同年どうねん10がつ安政あんせい大獄たいごく斬首ざんしゅされたさいかつらとして江戸詰えどづめしていた伊藤いとうは、遺骸いがいることなる。このとき、伊藤いとう自分じぶんがしていたおび遺体いたいいた。このあと、かつらはじ久坂くさかげんみず高杉たかすぎ晋作しんさく井上いのうえかおるらと尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどうくわわる一方いっぽう海外かいがい渡航とこうかんがえるようになり、万延まんえん元年がんねん12月7にち1861ねん1がつ17にち)にばらてた手紙てがみでイギリス留学りゅうがく志願しがんしている。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)には公武こうぶ合体がったいろん主張しゅちょうする長井ながい雅楽ががく暗殺あんさつ画策かくさくし、8がつ自害じがいしたらいはら葬式そうしき参加さんか、12月に品川しながわ御殿山ごてんやま英国えいこく公使館こうしかん参加さんかし、山尾やまお庸三ようぞうともはなわただしたから[注釈ちゅうしゃく 1]加藤かとうきのえ次郎じろう暗殺あんさつする[11]など、尊王そんのう攘夷じょうい志士ししとして活動かつどうした[12]筋肉質きんにくしつ体躯たいくであったとされる。

イギリス留学りゅうがく

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文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)には井上いのうえかおるすすめで海外かいがい渡航とこう決意けついし、5月12にち井上いのうえかおる遠藤えんどう謹助山尾やまお庸三ようぞう野村のむら弥吉やきち(のちの井上いのうえまさる)らとともに長州ちょうしゅうすぐる一人ひとりとしてイギリス渡航とこうする。伊藤いとう荷物にもつ文久ぶんきゅう2ねん発行はっこうされた間違まちがいだらけの『英和えいわ対訳たいやく袖珍しゅうちん辞書じしょ』1さつ寝巻ねまきだけであったという。しかも途中とちゅう寄港きこうしたきよし上海しゃんはいべつふねせられたさい水兵すいへい同然どうぜん粗末そまつあつかいをされ苦難くなん海上かいじょう生活せいかついられた。

9月23にちロンドン到着とうちゃくヒュー・マセソン (企業きぎょう)世話せわ化学かがくしゃアレキサンダー・ウィリアムソンやしき滞在たいざいし、英語えいご礼儀れいぎ作法さほう指導しどうける。ロンドンでは英語えいごまなぶとともに博物館はくぶつかん美術館びじゅつかんかよい、海軍かいぐん施設しせつ工場こうじょうなどを見学けんがくして見聞けんぶんひろめた。留学りゅうがくちゅうにイギリスと日本にっぽんとの、あまりにも圧倒的あっとうてき国力こくりょくたりにして開国かいこくろんてんじる。

元治もとはる元年がんねん1864ねん)3がつべいえいふつらん4こく連合れんごう艦隊かんたいによる長州ちょうしゅうはん攻撃こうげきちかいことをると、井上いのうえかおるとともにいそ帰国きこくした。

6がつ10日とおか横浜よこはま上陸じょうりく長州ちょうしゅうはんもどり、戦争せんそう回避かいひ奔走ほんそうする。英国えいこく公使こうしオールコック通訳つうやくかんアーネスト・サトウ会見かいけんしたが、りょう奔走ほんそうむなしく、8がつ5にちに4こく連合れんごう艦隊かんたい砲撃ほうげきにより下関しものせき戦争せんそううませき戦争せんそう)が勃発ぼっぱつ長州ちょうしゅう砲台ほうだい徹底的てっていてき破壊はかいされる。

伊藤いとう戦後せんご宍戸ししどけいこと高杉たかすぎ晋作しんさく通訳つうやくとして、ユーリアラスごう艦長かんちょうクーパーとの和平わへい交渉こうしょうにあたる。はん世子せいし毛利もうりもととく経過けいか報告ほうこくしたときには、攘夷じょうい暗殺あんさつ計画けいかくり、高杉たかすぎとともに行方ゆくえをくらましている。そして、この和平わへい交渉こうしょうにおいて、天皇てんのう将軍しょうぐん長州ちょうしゅうはんあてはっした「攘夷じょうい実施じっし命令めいれいしょ」のうつしをサトウに手渡てわたしたことにより、各国かっこく賠償金ばいしょうきん江戸えど幕府ばくふ要求ようきゅうするようになる[13]

オールコックらとの交渉こうしょう伊藤いとう井上いのうえかおるとともに長州ちょうしゅうはん外国がいこく応接おうせつがかりまかされるが、下関しものせき戦争せんそう禁門きんもんへんだい損害そんがいこうむったはん幕府ばくふへの恭順きょうじゅんかかげる俗論ぞくろん台頭たいとう攘夷じょうい正義せいぎ革新かくしん)との政争せいそうはじまった。伊藤いとう攘夷じょうい幕府ばくふにも反対はんたいでありどちらの派閥はばつにもくわわらなかったが、9月に井上いのうえ俗論ぞくろん襲撃しゅうげき重傷じゅうしょううと行方ゆくえをくらました。

11月、長州ちょうしゅうはんだいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつ幕府ばくふ恭順きょうじゅん姿勢しせいせると、12月に高杉たかすぎらにしたが力士りきしたいひきいて挙兵きょへいこう山寺やまでら挙兵きょへい)。このとき、高杉たかすぎのもとに一番いちばんけつけたのは伊藤いとうだった。その兵隊へいたいくわわるなど各所かくしょ勢力せいりょくやして俗論ぞくろんたおし、正義せいぎ藩政はんせいにぎった。のちに伊藤いとうは、このときのことを述懐じゅっかいして「わたし人生じんせいにおいて、唯一ゆいいつほこれることがあるとすれば、このとき、一番いちばん高杉たかすぎさんのもとにけつけたことだろう」とかたっている。

よく慶応けいおう元年がんねん1865ねん)にはん実権じっけんにぎったかつら要請ようせいおこなった薩摩さつまはん外国がいこく商人しょうにんとの武器ぶき購入こうにゅうおよび交渉こうしょうがおもな仕事しごととなり、だい長州ちょうしゅう征伐せいばつにも戊辰戦争ぼしんせんそうにも加勢かせいできずにひまあまかたちになった。

慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん1868ねん)に外国がいこく事務じむ総裁そうさいひがし久世くせどおり見出みいだされ、神戸こうべ事件じけんさかい事件じけん解決かいけつ奔走ほんそう。これが出世しゅっせあしがかりとなった[14]

明治維新めいじいしん

[ソースを編集へんしゅう]
神戸こうべ外務がいむ事務じむきょく時代じだい伊藤いとう博文ひろぶみ左端ひだりはし)。そのみぎ大隈おおくま重信しげのぶ横浜よこはま外務がいむ事務じむきょく)、井上いのうえかおる造幣局ぞうへいきょく)。後列こうれつひだりより久世くぜおさむさく中井なかいひろし(ともに造幣局ぞうへいきょく)。
木戸きど孝允たかよし前列ぜんれつ中央ちゅうおう)と伊藤いとう後列こうれつみぎはし)ら(明治めいじ3ねん
岩倉いわくら使節しせつだんみぎから大久保おおくぼ利通としみち伊藤いとう岩倉いわくら具視ともみ山口やまぐちしょうかおる木戸きど孝允たかよし

明治維新めいじいしんこう伊藤いとう博文ひろぶみ改名かいめいし、長州ちょうしゅうばつ有力ゆうりょくしゃとして、英語えいご堪能かんのうなことをわれて参与さんよ外国がいこく事務じむきょく判事はんじ大蔵おおくらしょうけんみんしょう輔、初代しょだい兵庫ひょうごけん知事ちじ官選かんせん)、初代しょだいこうきょう宮内卿くないきょうなど明治めいじ政府せいふのさまざまな要職ようしょく歴任れきにんする。これには木戸きど孝允たかよしうしたてがあり、井上いのうえかおる大隈おおくま重信しげのぶとともに改革かいかくすすめることを見込みこまれていたからであった。

兵庫ひょうご県知事けんちじ時代じだい明治めいじ2ねん1869ねん1がつ、『国是こくぜ綱目こうもく』いわゆる「兵庫ひょうごろん」を捧呈ほうていし、

  1. 君主政体くんしゅせいたい
  2. 兵馬へいば大権たいけん朝廷ちょうてい返上へんじょう
  3. 世界せかい万国ばんこくとの通交つうこう
  4. 国民こくみん上下じょうげべつをなくし「自在じざい自由じゆうけん」を付与ふよ
  5. 世界せかい万国ばんこく学術がくじゅつ」の普及ふきゅう
  6. 国際こくさい協調きょうちょう攘夷じょういいまし

主張しゅちょうした。

明治めいじ3ねん1870ねん)に発足ほっそくしたこうしょうちょうであるこうきょうとして、殖産しょくさん興業こうぎょう推進すいしんする。のちにこれは、内務ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちのもとで内務省ないむしょうへとがれる。また同年どうねん11月から翌年よくねん5月まで、財政ざいせい幣制へいせい調査ちょうさのため芳川よしかわ顕正けんせい福地ふくち源一郎げんいちろうらと渡米とべい中央ちゅうおう銀行ぎんこうについてまなび、帰国きこく伊藤いとう建議けんぎにより、日本にっぽん最初さいしょ貨幣かへいほうであるしん貨条れい制定せいていされる。

明治めいじ4ねん1871ねん11月には岩倉いわくら使節しせつだん副使ふくしとして渡米とべいサンフランシスコで「まる演説えんぜつ」をおこな[15][注釈ちゅうしゃく 2]明治めいじ6ねん1873ねん)3がつにはベルリンわたり、ドイツ皇帝こうていヴィルヘルム1せい謁見えっけん宰相さいしょうビスマルクとも会見かいけんし、ビスマルクからつよ影響えいきょうけた。

The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world.
国旗こっき中央ちゅうおうなるわれとうまるこそ最早もはやざされし帝国ていこく封蝋ふうろうごとゆらざれ、しょうにその原意げんいたる、旭日きょくじつたっと徽章きしょう世界せかい文明ぶんめい諸国しょこくただちゅうすすのぼらん。) — Hirobumi Ito, 23rd of January 1872.

大蔵おおくらけんみんしょう輔をつとめたさいには、大隈おおくま重信しげのぶとともに殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさく一環いっかんとして鉄道てつどう建設けんせつ強力きょうりょくすすめ、京浜けいひんあいだ鉄道てつどうは、明治めいじ5ねん5月7にち1872ねん6月12にち)に品川しながわ - 横浜よこはまあいだかり営業えいぎょうはじめ、同年どうねん9月12にち(1872ねん10月14にち)、新橋しんばしまでの全線ぜんせん開通かいつうした[16]

当初とうしょ伊藤いとうしん政府せいふ提出ていしゅつした『国是こくぜ綱目こうもく』が当時とうじしん政府せいふないでは極秘ごくひうら方針ほうしんとされていた版籍はんせき奉還ほうかんれていたために大久保おおくぼ利通としみち岩倉いわくら具視ともみ不興ふきょうい、大蔵省おおくらしょう権限けんげんをめぐる論争ろんそうでも大久保おおくぼとは対立たいりつ関係かんけいにあった。また、岩倉いわくら使節しせつだんがアメリカで不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょうはじめたさい全権ぜんけん委任いにんじょうるため一旦いったん大久保おおくぼとともに帰国きこくしたが、取得しゅとくに5かげつもかかったことで木戸きどとの関係かんけい悪化あっかした(改正かいせい交渉こうしょう中止ちゅうし)。

だが、大久保おおくぼ岩倉いわくらとは西欧せいおう旅行りょこうとおして親密しんみつになり、木戸きどとものちに和解わかいしたため、明治めいじ6ねん1873ねん)に帰国きこくしてかかわったせいかんろんでは「うち優先ゆうせん路線ろせんかかげた大久保おおくぼ岩倉いわくら木戸きどらを支持しじして大久保おおくぼ信任しんにんるようになった(明治めいじろくねん政変せいへん)。このあと木戸きどとは疎遠そえんになるわりに、政権せいけん重鎮じゅうちんとなった大久保おおくぼ岩倉いわくら連携れんけいするみちえら一方いっぽう盟友めいゆう井上いのうえかおるとともに木戸きど大久保おおくぼあいだむすび、板垣いたがき退助たいすけともつなぎを明治めいじ8ねん1875ねん)1がつ大阪おおさか会議かいぎ斡旋あっせんする。明治めいじ10ねん1877ねん)に木戸きど死去しきょ同年どうねん西南せいなん戦争せんそう西郷さいごう隆盛たかもりはいよく11ねん1878ねん)に大久保おおくぼ暗殺あんさつされたあとは内務ないむきょう継承けいしょうし、維新いしんさんすぐるなきのち明治めいじ政府せいふ指導しどうしゃ1人ひとりとして辣腕らつわんるう[17]

明治めいじ12ねん1879ねん)9がつに「教育きょういく」を上奏じょうそうし、教育きょういくれい発布はっぷとなる[18]

明治めいじ14ねん1881ねん)1がつ日本にっぽん立憲りっけん体制たいせいをどうつくるか井上いのうえかおる大隈おおくま重信しげのぶ熱海あたみ会談かいだん。しかし大隈おおくま急進きゅうしんてき構想こうそう内密ないみつ提出ていしゅつ独走どくそうするようになると、政界せいかい追放ついほう工作こうさくりかかり、10月14にち大隈おおくま下野げや目的もくてきたし、明治めいじ23ねん1890ねん)に国会こっかい開設かいせつすることを約束やくそくする(明治めいじじゅうよんねん政変せいへん)。伊藤いとう漸進ぜんしんてき提案ていあんとおり、黒田くろだ清隆きよたか西郷さいごう従道つぐみち薩摩さつまとも提携ていけいしたことで事実じじつじょう伊藤いとう中心ちゅうしんとなる体制たいせいができあがった。一方いっぽう井上いのうえあつし岩倉いわくら指示しじけ、大隈おおくまあんへの対抗たいこうからプロイセン憲法けんぽうもとにした憲法けんぽう採用さいよう提案ていあんしたときは退しりぞけたが、これは井上いのうえ憲法けんぽう制定せいていあせり、外国がいこく憲法けんぽうをどう日本にっぽん定着ていちゃくさせるかについて具体ぐたいてきろんじていないことと、上役うわやく伊藤いとう憲法けんぽう制定せいていうながすなどぶんえたうごきをしていたからであった。

明治めいじ15ねん1882ねん)3がつ3にち明治天皇めいじてんのう憲法けんぽう調査ちょうさのためのわたりおうめいじられ、3月14にち河島かわしまあつし平田東ひらたひがしすけ吉田よしだただしはる山崎やまざきただしたね三好みよし退蔵たいぞう岩倉いわくら具定ぐじょう広橋ひろはしけんこう西園寺さいおんじ公望きんもち伊東いとう巳代治みよじ随員ずいいんともないヨーロッパにけて出発しゅっぱつした。はじめベルリン大学だいがく公法こうほう学者がくしゃルドルフ・フォン・グナイスト教示きょうしい、アルバート・モッセからプロイセン憲法けんぽう逐条ちくじょうてき講義こうぎけた。のちにウィーン大学だいがく国家こっかがく教授きょうじゅ憲法けんぽう学者がくしゃであるローレンツ・フォン・シュタイン師事しじし、歴史れきし法学ほうがく行政ぎょうせいについてまなぶ。これが帰国きこく近代きんだいてき内閣ないかく制度せいど創設そうせつし、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう起草きそう制定せいてい中心ちゅうしんてき役割やくわりたすことにつながる。

明治めいじ18ねん1885ねん)2がつ朝鮮ちょうせんきたきのえさる政変せいへん事後じご処理しょりのためきよし派遣はけんされ、4がつ18にちには鴻章こうしうとのあいだ天津てんしん条約じょうやく調印ちょういんしている[19]

初代しょだいないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにん

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明治めいじ18ねん(1885ねん)12月の内閣ないかく制度せいど移行いこうさいし、だれ初代しょだい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんになるかが注目ちゅうもくされた。衆目しゅうもく一致いっちするところは、太政大臣だじょうだいじんとして名目めいもくじょうながらも政府せいふのトップにっていた三条さんじょう実美みみと、大久保おおくぼ死後しご事実じじつじょう宰相さいしょうとして明治めいじ政府せいふまわ内閣ないかく制度せいどつくげた伊藤いとうだった。しかしさんじょうは、藤原ふじわらきた閑院りゅう嫡流ちゃくりゅう清華せいかひと三条さんじょうまれという高貴こうき身分みぶん公爵こうしゃくである。一方いっぽう伊藤いとうといえば、貧農ひんのうだし武士ぶしになったのも維新いしん直前ちょくぜんというひく身分みぶん出身しゅっしん、お手盛てもりで伯爵はくしゃくになってはいるものの、その歴然れきぜんとしていた。

太政大臣だじょうだいじんわる初代しょだいないかく総理そうり大臣だいじんめる宮中きゅうちゅうでの会議かいぎでは、だれもがくちをつぐんでいるなか、伊藤いとう盟友めいゆうであった井上いのうえかおるは「これからの総理そうりあか電報でんぽう外国がいこく電報でんぽう)がめなくては駄目だめだ」と口火くちびり、これに山縣やまがた有朋ありともが「そうすると伊藤いとうくんよりにはいないではないか」と賛成さんせい。これにはさんじょう支持しじする保守ほしゅ参議さんぎかえ言葉ことばがなくなった。つまり英語えいごりょくとなって伊藤いとう初代しょだいないかく総理そうり大臣だいじんとなったのである。以後いご伊藤いとうは4にわたって内閣ないかく総理そうり大臣だいじんつとめることになる。

なお、44さい2かげつでの総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんは、2022ねん現在げんざい日本にっぽん歴代れきだい総理そうり大臣だいじんなかでもっともわか記録きろくである(2番目ばんめ近衛このえ文麿ふみまろの45さい現行げんこう憲法けんぽうしたでは安倍晋三あべしんぞうの52さい)。維新いしん以来いらい徐々じょじょ政府せいふ実務じつむからはずされてきた公卿くぎょう出身しゅっしんしゃ退勢たいせいはこれで決定的けっていてきとなり、以降いこうながきにわたって総理そうり大臣だいじんはおろか、閣僚かくりょうすらなかなかせない状態じょうたいとなった。

だい1伊藤いとう内閣ないかくでは憲法けんぽう発布はっぷまえしも準備じゅんび機関きかん創設そうせつ奔走ほんそう明治めいじ19ねん1886ねん)2がつには各省かくしょう官制かんせい制定せいていし、3月には将来しょうらい官僚かんりょう育成いくせいのため帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく)を創設そうせつし、翌年よくねん3がつには国家こっか学会がっかい創設そうせつ、これを支援しえんした。一方いっぽう井上いのうえかおる外務がいむ大臣だいじんとして条約じょうやく改正かいせいまかせたが、井上いのうえかおる提案ていあんした改正かいせいあん外国がいこくじん判事はんじ登用とうようなどをんだことで外国がいこくじん司法官しほうかん任用にんよう問題もんだいこってかくない分裂ぶんれつ危機ききまねいたため、明治めいじ20ねん1887ねん)7がつ外国がいこくけた改正かいせい会議かいぎ中止ちゅうし、9月に井上いのうえかおる辞任じにんしたため失敗しっぱいわった。同年どうねん6がつから夏島なつしま伊東いとう巳代治みよじ井上いのうえあつし金子かねこ堅太郎けんたろうらとともに憲法けんぽう草案そうあん検討けんとう開始かいしする。

またイギリス自由党じゆうとう議員ぎいん鉄道てつどう事業じぎょうジャスパー・ウィルソン・ジョーンズ義理ぎり息子むすこである法曹ほうそうフランシス・ピゴット憲法けんぽうふく法制ほうせい顧問こもんむかえるなどし、のちに刊行かんこうした『秘書ひしょ類纂るいさん』にも数々かずかずのピゴットの論文ろんぶん和訳わやく)をおさめた[20]。なおジョーンズのむすめでピゴットのつまマーベルは1896ねん植民しょくみん看護かんご協会きょうかい設立せつりつしており、ウィンストン・チャーチル新人しんじん議員ぎいんのときにどう協会きょうかい支援しえんした。

明治めいじ21ねん1888ねん)4がつ28にち枢密院すうみついん開設かいせつさい初代しょだい枢密院すうみついん議長ぎちょうとなるために首相しゅしょう辞任じにん[21]

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷ

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明治めいじ22ねん1889ねん)2がつ11にち黒田くろだ内閣ないかくした大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷされる。これにさいし、伊藤いとう華族かぞくどうかたかい憲法けんぽうかんして演説えんぜつし、立憲りっけん政治せいじ重要じゅうようせい、とりわけ一般いっぱん国民こくみん政治せいじ参加さんかさせることの大切たいせつさを主張しゅちょうする。また6がつには『憲法けんぽうかい』を刊行かんこうする。明治めいじ25ねん1892ねん)には、吏党の大成たいせいかい基盤きばんにした政党せいとう結成けっせい主張しゅちょうするが、明治天皇めいじてんのう反対はんたいにより頓挫とんざする[22]。このとき伊藤いとう枢密院すうみついん議長ぎちょう

だい内閣ないかく

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にちしん戦争せんそう

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伊藤いとう明治めいじ25ねんから2度目どめ首相しゅしょうつとめていたとき、朝鮮ちょうせんきのえうま農民のうみん戦争せんそうひがしがくとうらん)をきっかけに、7がつしんぐん衝突しょうとつ朝鮮ちょうせん主権しゅけんをめぐって意見いけん対立たいりつし、8がつにちしん戦争せんそうこる。翌年よくねん明治めいじ28ねん1895ねん)4がつに、陸奥むつ宗光むねみつとともに全権ぜんけん大使たいしとして、鴻章こうしうとのあいだ下関しものせきはるろう講和こうわ条約じょうやく下関しものせき条約じょうやくうませき条約じょうやく)に調印ちょういんする。また、戦争せんそうまえ陸奥みちのくがイギリスと治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱい明記めいきした条約じょうやくむすび、条約じょうやく改正かいせいおおきく前進ぜんしんした。

朝鮮ちょうせん独立どくりつだいいちじょう)と遼東りゃおとん半島はんとう割譲かつじょうなどを明記めいきした下関しものせき条約じょうやくドイツフランスロシアさんこく干渉かんしょうこし、だい2伊藤いとう内閣ないかく遼東りゃおとん半島はんとう放棄ほうきめ、よく明治めいじ29ねん1896ねん)8がつ31にち伊藤いとう首相しゅしょう辞任じにんする[23]

だいさん内閣ないかく

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明治めいじ31ねん1898ねん)1がつだい3伊藤いとう内閣ないかく発足ほっそく。6月に衆議院しゅうぎいん解散かいさん閣議かくぎ政党せいとう結成けっせい意思いし表明ひょうめいするなど、新党しんとう結成けっせいとなえるが、山縣やまがた有朋ありとも反対はんたい首相しゅしょう辞任じにん同年どうねん8がつ長崎ながさき出発しゅっぱつし、朝鮮ちょうせんかんじょうこうはじめ会見かいけん。9月にはきよし北京ぺきんけい親王しんのう康有為こうゆういらと面談めんだんつちのえいぬへんほうんでいたひかりいとぐちみかど謁見えっけんし、10月にはちょうほらりゅうひつじさるいち会談かいだんしている。北京ぺきん滞在たいざいちゅう9月21にち保守ほしゅ決行けっこうしたつちのえいぬ政変せいへん遭遇そうぐう、そのときの状況じょうきょう戸惑とまどいを日本にっぽん梅子うめこ夫人ふじんおくっている。よく32ねん1899ねん)4がつから10がつまで半年はんとしかけて全国ぜんこく遊説ゆうぜいおこない、政党せいとう創立そうりつ準備じゅんび民衆みんしゅうへの立憲りっけん体制たいせいれをびかけている。また、1899ねんみや内省ないせい設置せっちされた帝室ていしつ制度せいど調査ちょうさきょく総裁そうさい就任しゅうにんし、皇室こうしつ典範てんぱん増補ぞうほ公式こうしきれい制定せいていんだ。

だいよん内閣ないかく

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明治めいじ33ねん1900ねん)9がつには立憲りっけん政友せいゆうかい創立そうりつし、初代しょだい総裁そうさいつとめる。10月に政友せいゆうかいのメンバーを大勢おおぜいれただい4伊藤いとう内閣ないかく発足ほっそくするが、政党せいとうとしての内実ないじつととのわない状態じょうたいでの組閣そかくだったため、内部ないぶ分裂ぶんれつこしよく34ねん1901ねん)5がつ辞任じにん政友せいゆうかいはその西園寺さいおんじ公望きんもちはらたかしらが中心ちゅうしんとなり伊藤いとうはなれるが、立憲りっけん民政みんせいとうとならぶ2だい政党せいとうの1つとなり、大正たいしょうデモクラシーなどでおおきな役割やくわりたすまでに成長せいちょうした。また貴族きぞくいん議員ぎいんとして貴族きぞくいん議長ぎちょう就任しゅうにんする[24]

にち戦争せんそう

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にちしん戦争せんそう伊藤いとうたい宥和ゆうわ政策せいさくをとり、陸奥むつ宗光むねみつ井上いのうえかおるらとともににち協商きょうしょうろんまんかん交換こうかんろんとなえ、ロシアとの不戦ふせん主張しゅちょうした。同時どうじかつら太郎たろう山縣やまがた有朋ありとも小村こむら寿太郎じゅたろうらのにちえい同盟どうめいあん反対はんたいした。さらに、みずか単身たんしんロシアにわたってまんかん交換こうかんろん提案ていあんするが、ロシアがわから拒否きょひされる[注釈ちゅうしゃく 3]

明治めいじ37ねん1904ねん)からはじまったにち戦争せんそうめぐっては、金子かねこ堅太郎けんたろうをアメリカに派遣はけんし、大統領だいとうりょうセオドア・ルーズベルト講和こうわ斡旋あっせん依頼いらいしている[注釈ちゅうしゃく 4]。これがよく38ねん1905ねん)のポーツマス条約じょうやくむすびつくことになる。なおこのにち講和こうわさいして、首相しゅしょうかつら日本にっぽん全権ぜんけん代表だいひょうとして最初さいしょ打診だしんしたのは、外相がいしょう小村こむらではなく伊藤いとうであった。かつら内閣ないかくは、講和こうわ条件じょうけん日本にっぽん国民こくみんれがたいものになることを当初とうしょから予見よけんし、それまで4首相しゅしょうつとめた伊藤いとうであれば国民こくみん不満ふまんやわらげることができるのではないかと期待きたいしたのである。伊藤いとうははじめはけてもよいという姿勢しせいしめしたのにたいし、かれ側近そっきんは、戦勝せんしょう栄誉えいよかつらにない、講和こうわによってしょうじる国民こくみん反感はんかん伊藤いとういちけるのは馬鹿ばかげているとしてもう反対はんたいし、最終さいしゅうてきには伊藤いとう全権ぜんけん大使たいしへの就任しゅうにん辞退じたいした[27]。また交渉こうしょう容易よういでないことをよくっていた伊藤いとうは、全権ぜんけん代表だいひょうえらばれた小村こむらたいしては「きみ帰朝きちょうときには、他人たにんはどうあろうとも、吾輩わがはいだけはかなら出迎でむかえにゆく」とかたり、はげましている[28]講和こうわは、勝利しょうりにした日本にっぽん敗戦はいせんこくロシアとのあいだ戦後せんご処理しょり奔走ほんそうした[29]

初代しょだい韓国かんこく統監とうかん

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大韓たいかん帝国ていこく皇太子こうたいしみぎ)と伊藤いとう
長谷川はせがわ好道よしみち陸軍りくぐん大将たいしょうとも統監とうかんかう伊藤いとう手前てまえ

明治めいじ38ねん1905ねん)11月、だいにちかん協約きょうやく[注釈ちゅうしゃく 5]により韓国かんこく統監とうかん設置せっちされると伊藤いとう初代しょだい統監とうかん就任しゅうにんした。以降いこう日本にっぽん実質じっしつてき朝鮮ちょうせん統治とうちけん掌握しょうあくした[注釈ちゅうしゃく 6]

伊藤いとう国際こくさい協調きょうちょう重視じゅうしで、大陸たいりくへの膨張ぼうちょう企図きとして韓国かんこく直轄ちょっかついそ山縣やまがた有朋ありともかつら太郎たろう寺内てらうち正毅まさき陸軍りくぐん軍閥ぐんばつとしばしば対立たいりつした[30]。また、韓国かんこく併合へいごうについて、保護ほごこくによる実質じっしつてき統治とうち充分じゅうぶんであるとのかんがえから当初とうしょ併合へいごう反対はんたい立場たちばっていた。近年きんねん発見はっけんされた伊藤いとう明治めいじ38ねん(1905ねん)11月の日付ひづけのメモには「韓国かんこく富強ふきょうみとめむるにいたまで」という記述きじゅつがあり、これについて京都大学きょうとだいがく教授きょうじゅ伊藤いとうゆうは「伊藤いとう博文ひろぶみは、韓国かんこく保護ほごこくとするのは韓国かんこく国力こくりょくがつくまでであり、にちかん併合へいごうには否定ひていてきかんがえをっていたこと裏付うらづけるものだ」としている[31][32]実際じっさいに、この文言もんごんは「だいにちかん協約きょうやく」にまれ、調印ちょういんされた。

伊藤いとう韓国かんこくみん素養そようみと韓国かんこく国力こくりょく自治じちりょくたかまることを期待きたいし、韓国かんこくでの教育きょういくにもちからそそいだ。1907ねん4がつ14にち韓国かんこく赴任ふにんする日本人にっぽんじん教師きょうしたちのまえで「徹頭徹尾てっとうてつび誠実せいじつ親切しんせつとをもって児童じどう教育きょういく裏表うらおもてがあってはならないこと」「宗教しゅうきょう韓国かんこくみん自由じゆうでありあれこれ評論ひょうろんしないこと」「日本人にっぽんじん教師きょうし余暇よかもちいて朝鮮ちょうせんまなぶこと」をくんさとした[33]。また明治めいじ40ねん1907ねん)7がつきょうじょう(ソウル)にて新聞しんぶん記者きしゃたちのまえでも「日本にっぽん韓国かんこく合併がっぺいするの必要ひつようなし。韓国かんこく自治じちようす」と演説えんぜつしていた[34]

原田はらだ豊次郎とよじろうちょ伊藤いとうこう韓国かんこく』(にちかん書房しょぼう、1909ねん11月)に、韓国かんこく駐在ちゅうざい日本人にっぽんじん記者きしゃ相手あいてにした伊藤いとう演説えんぜつ要旨ようし掲載けいさいされている[35]。「今回こんかい事件じけん」とは、ハーグ密使みっし事件じけんのことであるが、日本人にっぽんじん記者きしゃ相手あいてにした演説えんぜつであり、伊藤いとう本音ほんね確証かくしょうはないが、小島こじまあつしは「わたし本音ほんねととっていいのではないかとおもいます。研究けんきゅうしゃもそのようにとっています」「にちかん併合へいごうについては懐疑かいぎてきひと」としている[35]

吞噬は日本にっぽんにあらず。韓国かんこくじんややもすれば日本にっぽん誤解ごかいす、日本にっぽんけっして此のごと意思いしゆうするものにあらず、もとよりこれを敢てするものにあらざる也。また今回こんかい事件じけんおこりせいせるをとし、韓国かんこく併合へいごうすべしとろんずる日本人にっぽんじんありとうんふ。合併がっぺい必要ひつようなしとかんがえふ。合併がっぺいは却て厄介やっかいすにぎず、よろしく韓国かんこくをして自治じち能力のうりょく養成ようせいせしむべき也。縦令たとい国富くにとみへいつよくなるも、韓国かんこくほこたおせにしてちかかりるがごとゆうはなかるべし。韓国かんこく富国強兵ふこくきょうへい日本にっぽん希望きぼうするところなれども、唯一ゆいいつ制限せいげん韓国かんこくなが日本にっぽんしたしみ、日本にっぽん提携ていけいすべきことすなわ是也これや。かの独逸どいつ連邦れんぽうウルテンブルグごと韓国かんこく指導しどう勢力せいりょく養成ようせいし、財政ざいせい経済けいざい教育きょういく普及ふきゅうして、ついには連邦れんぽう政治せいじくにいたるやうこれみちびくをおそらくは日本にっぽん利益りえきなりと、しんずるもの也。

しかし、朝鮮ちょうせんない独立どくりつ運動うんどうである義兵ぎへい闘争とうそうさかんになるにつれてかんがかたえ、明治めいじ42ねん(1909ねん)4がつとき首相しゅしょうかつら太郎たろう外相がいしょう小村こむら壽太郎じゅたろう伊藤いとうおそおそる「韓国かんこく現状げんじょうらして将来しょうらい考量こうりょうするに、韓国かんこく併合へいごうするよりそとさくなかるべき事由じゆう陳述ちんじゅつ」すると「おおやけりょうそうせつくや、意外いがいにもこれに異存いぞんなきむね言明げんめい」し、なおかつかつら小村こむら提示ていじした「併合へいごう方針ほうしん」についても「その大綱たいこう是認ぜにん」した。その2週間しゅうかん東京とうきょうでの演説えんぜつでも伊藤いとうは「いまかた協同きょうどうてきすすまんとする境遇きょうぐうとなり、すすんで一家いっかたらんとせり」と併合へいごう示唆しさ聴衆ちょうしゅうおどろかせたという。そして同年どうねん5がつ統監とうかんしょく辞職じしょくする。伊藤いとう翻意ほんい確認かくにんしたかつら小村こむらは「たいかんだい方針ほうしん」と「たいかん施設しせつ大綱たいこう」を作成さくせいし「韓国かんこく」を併合へいごうする方針ほうしんあきらかにした。韓国かんこく保護ほごこく政策せいさくにまったく未練みれんがなくなった伊藤いとう統監とうかん辞職じしょく、4度目どめ枢密院すうみついん議長ぎちょう就任しゅうにんし、事後じご処理しょりため訪韓ほうかん陣頭じんとう指揮しきち「韓国かんこく政府せいふに「韓国かんこく司法しほう監獄かんごく事務じむ委託いたくかんする覚書おぼえがき」を調印ちょういんさせ、また「韓国かんこく軍部ぐんぶ廃止はいしみことのりれい公布こうふ」をおこなわせた[36]併合へいごう方針ほうしん閣議かくぎ決定けってい反対はんたいした形跡けいせきはない(適当てきとう時期じきニ於テ韓国かんこく併合へいごう断行だんこうスルごと 明治めいじ42ねん1909ねん7がつ6にち)。また、伊藤いとう統監とうかんとして日本にっぽん政策せいさくたいする韓国かんこく国民こくみんうらみをうこととなり、それは朝鮮ちょうせん民族みんぞく主義しゅぎしゃやす重根しこねによる暗殺あんさつ事件じけんにつながった。事件じけん動揺どうようした親日しんにち韓国かんこく併合へいごう加速かそくさせたが、前述ぜんじゅつとおり、併合へいごう方針ほうしん事件じけんまえ内閣ないかく閣議かくぎまっていた。

年表ねんぴょう

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  • 1905ねん11月、特派とくは大使たいしとして韓国かんこくわたり、ポーツマス条約じょうやくもとづいてだいにちかん協約きょうやく韓国かんこく保護ほご条約じょうやく)を締結ていけつする。
  • 1905ねん11月22にち投石とうせきにより韓国かんこくない負傷ふしょうする[37]
  • 1905ねん12月、韓国かんこく統監とうかん設置せっちされ、初代しょだい統監とうかん就任しゅうにんする。
  • 1906ねん2がつ日本にっぽん公使館こうしかん韓国かんこく統監とうかんあらため、国内こくない12かしょ理事りじちょう、11かしょ支庁しちょうく。
  • 1907ねん6がつ、ハーグ密使みっし事件じけん
  • 1907ねん7がつきょうじょう(ソウル)にて新聞しんぶん記者きしゃたちまえで「日本にっぽん韓国かんこく合併がっぺいするの必要ひつようなし」と演説えんぜつする[34]
  • 1908ねん韓国かんこく銀行ぎんこう(のちの朝鮮ちょうせん銀行ぎんこう)を設立せつりつする[38]
  • 1908ねん9がつきょうじょう(ソウル)に朝鮮ちょうせん皇室こうしつ博物館はくぶつかんげん韓国かんこく国立こくりつ中央ちゅうおう博物館はくぶつかん)を造営ぞうえいする[38]
  • 1909ねん6がつ韓国かんこく統監とうかん辞任じにんする。
  • 1909ねん10がつ26にちハルビンえきやす重根しこね暗殺あんさつされる。これが日本にっぽん国内こくないほうじられると、よく10がつ27にち国葬こくそうおこなむねみことのりれい314ごう公布こうふされた。
  • 1910ねん8がつ29にち韓国かんこく併合へいごうにより朝鮮ちょうせん総督そうとく設置せっちされたが、統監とうかんおよ所属しょぞく官署かんしょは、当分とうぶんあいだ存続そんぞくし、朝鮮ちょうせん総督そうとく職務しょくむ統監とうかん行使こうしするとされた。

暗殺あんさつの1かげつまえ伊藤いとう高杉たかすぎ晋作しんさく顕彰けんしょうに「うごけば雷電らいでんごとく、はっすれば風雨ふううごとし、衆目しゅうもく駭然としてえて正視せいしするものなし。これ、ひがしぎょう高杉たかすぎくんずや」ではじまる碑文ひぶんせている。また、満州まんしゅうでの道中どうちゅう旅順りょじゅんでの歓迎かんげいかいで「戦争せんそう屡々しばしばおこるは国家こっか不利益ふりえきなるのみならず、人道じんどうのためにもこのましからず」、しかし「将来しょうらい国威こくい失墜しっついせざらんとほっせば、多大ただい軍費ぐんぴ国民こくみんわざるをざる義務ぎむなり」などとする演説えんぜつをした[39]

ハルビンえきった、暗殺あんさつ直前ちょくぜん伊藤いとう

明治めいじ42ねん(1909ねん)10がつ26にち、ロシア蔵相ぞうしょうウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州まんしゅう朝鮮ちょうせん問題もんだいについて非公式ひこうしきはなうためおとずれたハルビンえきで、大韓たいかん帝国ていこく民族みんぞく運動うんどうやす重根しこねによって射殺しゃさつされた。

このとき、伊藤いとうは「3はつあたった。相手あいてだれだ」とさけんだという。やすはロシア官憲かんけんにその捕縛ほばくされた。伊藤いとう絶命ぜつめいまでのやく30分間ふんかんに、側近そっきんらといくつか会話かいわわしたが、間際まぎわ自分じぶんったのが朝鮮ちょうせんじんだったことをらされ「おれったりして、馬鹿ばかやつだ」とつぶやいたといわれる[40]。また、伊藤いとうまごにあたる伊藤いとうみつるしまつよしはなしによれば「おれ駄目だめだ。だれにやられたか?」とき、もり槐南かいなんきずついたとって「もりもやられたか……」とったのが、伊藤いとう最後さいご言葉ことばだったという。享年きょうねん69。11月4にち日比谷公園ひびやこうえん国葬こくそういとなまれた[41]

やす重根しこねはただちに捕縛ほばくされ、共犯きょうはんしゃ禹徳あつし曹道さきりゅうひがしなつの3めいもまたロシア官憲かんけん拘禁こうきんされた。日本にっぽん政府せいふかれらを関東かんとうとく地方ちほうほういんうつし、明治めいじ43ねん1910ねん)2がつ14にちやす死刑しけい、禹に懲役ちょうえき2ねん、曹とりゅう懲役ちょうえき1ねん6かげつ判決はんけつくだした。

暗殺あんさつかんしては、やす重根しこね単独たんどくせつのほかにも、異説いせつ存在そんざいする[42]具体ぐたいてきには、暗殺あんさつ伊藤いとう着用ちゃくようしていたコートにのこ弾痕だんこんから発砲はっぽう位置いち算出さんしゅつした結果けっか併合へいごう強硬きょうこうによる謀殺ぼうさつせつもある[43]当時とうじ伊藤いとう随行ずいこうした室田むろた義文よしふみ首席しゅせき随行ずいこういんがおよそ30ねんはなした舞台ぶたい真相しんそうによると、かれにくまっていた弾丸だんがんやす重根しこねブローニング7連発れんぱつ拳銃けんじゅうようのものではなく、フランス騎馬きばたいビン銃びんじゅうようであり、また弾丸だんがんがあけたあなきが下向したむきであることがおかしく、やす重根しこねからならば上向うわむきになるはずであり、かれへの命中めいちゅうだんえきうえ食堂しょくどうあたりからではなかろうか、ということである[44]。しかし室田むろた事件じけん当時とうじ混乱こんらんしていたためか、やす重根しこね裁判さいばんでは「すうはつばくちくごとおときたるも狙撃そげきしゃありしことを気付きづかず、少時しょうじして洋服ようふくたる一人ひとりおとこが、こく軍隊ぐんたいあいだよりして、拳銃けんじゅうもっ自分じぶんほうこう発射はっしゃするをみとめ、はじめて狙撃そげきしゃあることをり(中略ちゅうりゃく狙撃そげき当時とうじ模様もようこれ以外いがいらず」と証言しょうげんした[45]

またべつれいでは、暗殺あんさつ現場げんば間近まぢか目撃もくげきしたココツェフ蔵相ぞうしょう当日とうじつただちにちゅうにち大使たいしてて電報でんぽうつぎのようにっている。「……陰謀いんぼうあきらかに組織そしきてきなものだった。昨晩さくばん、蔡家みぞえき警察けいさつはブローニングじゅうった3にんうたがわしい朝鮮ちょうせんじんたちをすでに逮捕たいほしていたという……」( В.Н. Коковцов - Н.А.Малевский-Малевичу 13 октября 1909 г. // АВПРИ, Ф. 150, Оп. 493, Д. 171, Л. 175[45]

暗殺あんさつ報道ほうどう暗号あんごう電報でんぽうけた五十嵐いがらし秀助ひですけ電信でんしん技師ぎしが、全文ぜんぶんけるまえ金子かねこ堅太郎けんたろう電話でんわした。かれはただちに大磯おおいそ別荘べっそういそ梅子うめこ夫人ふじん見舞みまいの言葉ことばべたが、夫人ふじんなみだひととさなかった。「伊藤いとうかねてから自分じぶんたたみうえでは満足まんぞくにかたはできぬ、敷居しきいをまたいだときから、永久えいきゅうわかれになるとおもってくれ」といっていたという[46]

C号券(表)
Cごうけん(ひょう)
C号券(裏)
Cごうけん(うら)

埋葬まいそう東京とうきょう品川しながわ西大井にしおおいろく丁目ちょうめ伊藤いとう墓所はかしょ霊廟れいびょうとして、山口やまぐちけん熊毛くまげぐん大和やまとまち束荷つかりげんひかり束荷つかり)の伊藤いとうこう記念きねん公園こうえんない伊藤いとう神社じんじゃがあったが、昭和しょうわ34ねん1959ねん)に近隣きんりん束荷つかり神社じんじゃ境内けいだい遷座せんざした。記念きねん公園こうえんには生家せいか復元ふくげん)や銅像どうぞう伊藤いとうこう記念きねんかん伊藤いとうこう資料しりょうかんなどがある。平成へいせい18ねん2006ねん)5がつ山口やまぐちけんはこの公園こうえん隣接りんせつした山林さんりんに、森林しんりんづくり県民けんみんぜいで「伊藤いとうこうもり」を整備せいびしてひかりわたした。のちに日本銀行にっぽんぎんこうけんCせんえんけん1963ねん11月1にち - 1984ねん11月1にち発行はっこう)の肖像しょうぞうとして採用さいようされた。

人物じんぶつ業績ぎょうせき

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明治天皇めいじてんのうとの関係かんけい
4内閣ないかく総理そうり大臣だいじんつとめた国家こっか重鎮じゅうちん伊藤いとう明治天皇めいじてんのう関係かんけいは、つね良好りょうこうであったわけではない。明治めいじ10年代ねんだい1877ねん - 1886ねん)、天皇てんのう元田もとだえいまこと佐々木ささき高行たかゆき保守ほしゅてき宮中きゅうちゅう側近そっきんらを信任しんにんしたため、近代きんだいすすめる伊藤いとう太政官だじょうかん首脳しゅのうとの関係かんけい円滑えんかつでないこともあった(後年こうねん伊藤いとう初代しょだい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん宮内みやうち大臣だいじんねた背景はいけいには宮中きゅうちゅう保守ほしゅおさえるとともに、天皇てんのう立憲りっけん君主くんしゅせいたいする理解りかいふかめてもらうめんがあり、つとむろくじょう天皇てんのう提示ていじしてみとめられている)。また、伊藤いとう立憲りっけん政友せいゆうかい結成けっせいするさいには政党せいとうぎらいの天皇てんのう不興ふきょうい、その説得せっとく苦慮くりょしたという。
しかし、明治天皇めいじてんのう伊藤いとう信頼しんらいしていた。明治天皇めいじてんのうこのみの性格せいかくは、お世辞せじわない無骨ぶこつ正直しょうじきしゃで、金銭きんせんにきれいなことだった。伊藤いとうはこれにてはまり、伊藤いとう私財しざいのないこと[注釈ちゅうしゃく 7]った明治天皇めいじてんのうは、明治めいじ31ねん1898ねん)に10まんえんのお手許てもときん伊藤いとうあたえている。ただし、後述こうじゅつにもある伊藤いとう芸者げいしゃきにたいしてはほどほどにするようにと苦言くげんていしたこともあった。にち戦争せんそう開戦かいせん直前ちょくぜん御前ごぜん会議かいぎ当日とうじつ早朝そうちょう伊藤いとう即刻そっこく参内さんだいせよという勅旨ちょくしくだり、伊藤いとう参内さんだいすると明治天皇めいじてんのう夜着よぎのまま伊藤いとう引見いんけんし「まえもって伊藤いとうかんがえをいておきたい」とべた[48]。これにたい伊藤いとうは「まんいちわがくにあらずば、おそれながら陛下へいかにおかせられても重大じゅうだいなお覚悟かくご必要ひつようかとぞんじます」と奏上そうじょうした[48]。また、伊藤いとう天皇てんのうから、東京とうきょうはなれてはならぬとまでめいじられていた[48]
女子じょし教育きょういく
明治めいじ19ねん(1886ねん)、当時とうじあまりかえりみられていなかった女子じょし教育きょういく必要ひつようせい痛感つうかんした伊藤いとうは、みずからが創立そうりつ委員いいんちょうとなり「女子じょし教育きょういく奨励しょうれいかい創立そうりつ委員いいんかい翌年よくねん女子じょし教育きょういく奨励しょうれいかい」)」を創設そうせつした。委員いいんには、伊藤いとうほか実業じつぎょう渋沢しぶさわ栄一えいいち岩崎いわさき弥之助やのすけや、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅジェムス・ディクソンらがくわわり、東京とうきょうおんながくかん創設そうせつするなど女子じょし教育きょういく普及ふきゅう積極せっきょくてきんだ。また、伊藤いとう日本女子大学にほんじょしだいがく創設そうせつしゃ成瀬なるせ仁蔵にぞうから女子じょし大学だいがく設立せつりつ計画けいかくへの協力きょうりょくもとめられ、これに協力きょうりょくした。
女子じょし教育きょういくしゃであった津田つだ梅子うめことは岩倉いわくら使節しせつだん渡米とべいのときおなせんってからの交流こうりゅうがあった。日本にっぽんかえってから津田つだ伊藤いとうへの英語えいご指導しどう通訳つうやくのためやとわれて伊藤いとう滞在たいざいし、伊藤いとうむすめ家庭かてい教師きょうしとなり、また「もも夭女じゅく」へ英語えいご教師きょうしとしてかよっている。津田つだ明治めいじ18ねん1885ねん)に伊藤いとう推薦すいせんされ、学習がくしゅういんおんな学部がくぶから独立どくりつして設立せつりつされた華族かぞく女学校じょがっこう英語えいご教師きょうしとしておしえることとなった。また、津田つだとはったのか、帰宅きたくしてから家庭かてい教師きょうし津田つだくに将来しょうらいについてかたっていた。伊藤いとうからみれば津田つだおな日本人にっぽんじん婦人ふじんというよりは、顧問こもんのつもりであったという[49]
らしぶり
衣食住いしょくじゅうには頓着とんじゃくしない性格せいかくで、大磯おおいそ伊藤いとうとなわせでんでいた西園寺さいおんじ公望きんもち食事しょくじまねかれても粗末そまつなものばかりで難渋なんじゅうしたといい、晩年ばんねんには私邸していの滄浪かくはらって大井おおい恩賜おんしかんにでも隠棲いんせいしようかと梅子うめこ夫人ふじんあきれさせてもいる。首相しゅしょう在任ざいにんにも自室じしつ装飾そうしょくなどには関心かんしんで、ひとから高価こうか珍品ちんぴんをもらってもしげもなく他人たにんおくってしまったりしている。にわ掃除そうじなどを官邸かんてい使用人しようにん手抜てぬきしてもにもかけず、そのためつぎ総理そうり伊藤いとうるや、使用人しようにん一同いちどうまんさいしたとわれている[50]
女好おんなず
女好おんなずきは当時とうじから有名ゆうめいであり、おんなあそびの相手あいていててるほどいたことから「ほうき」(ほうき)という綽名(あだな)がついた。ときには先述せんじゅつ明治天皇めいじてんのうにすら「すこおんなあそびをひかえてはどうか」とたしなめられたこともあるという。地方ちほうったさいには一流いちりゅう芸者げいしゃではなく、二流にりゅうさんりゅう芸者げいしゃをよく指名しめいしていたという。これは、伊藤いとう論理ろんりによると「その土地とち々々の一流いちりゅう芸者げいしゃは、地元じもと有力ゆうりょくしゃうしたてにいる。そういう人間にんげんごとこさないようにするには、一流いちりゅうではない芸者げいしゃ指名しめいする必要ひつようがある」とのことであった。40高熱こうねつかされているときでも両側りょうがわ芸者げいしゃ2にんをはべらせたという。柳橋やなぎはしの16さい芸者げいしゃりょうを大正天皇たいしょうてんのう伯父おじ柳原やなぎはら前光さきみつこう落をあらそい、結果けっかぜんひかりかこってまれたのが柳原やなぎはら白蓮びゃくれんである。このようなようを、宮武みやたけ外骨がいこつ自身じしん発行はっこうする一連いちれん新聞しんぶんで、好色こうしょくかん代表だいひょうかくとしてパロディの手法しゅほう使つかいたびたびげた。しかし実際じっさいは、伊藤いとうにはそれほどおおくのどもはできなかった。衆議院しゅうぎいん議員ぎいん松本まつもとつよしあきらはその子孫しそん一人ひとりである。
ちなみに日本にっぽん最初さいしょカーセックスをした人物じんぶつわれる。
民族みんぞく衣装いしょう
韓国かんこく民族みんぞく衣装いしょう記念きねん撮影さつえいにおさまる伊藤いとう韓国かんこく統監とうかん時代じだい前列ぜんれつひだりから2番目ばんめ梅子うめこ夫人ふじん
伊藤いとうつま梅子うめこ韓国かんこく民族みんぞく衣装いしょうている写真しゃしんがある[51]韓国かんこく統監とうかんとして朝鮮ちょうせんじん民族みんぞく衣装いしょうまつわった。伊藤いとうはまた韓国かんこく皇太子こうたいし日本にっぽんまねき、日本語にほんご教育きょういくおこなっている。
あやつ人形にんぎょう発言はつげん
やと外国がいこくじんであったドイツじん医師いしエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記にっき』のなかで、伊藤いとう会議かいぎ席上せきじょうなか有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのうほうき「皇太子こうたいしまれるのは、まった不運ふうんなことだ。まれるがはやいか、いたるところで礼式れいしきくさりにしばられ、おおきくなれば、側近そっきんしゃふえおどらされねばならない」といながら、あやつ人形にんぎょういとおどらせるような身振みぶりをしてせたことを紹介しょうかいしている。
通称つうしょう変遷へんせん
当初とうしょ自身じしん祖父そふ利八郎りはちろう」と「助左衛門すけざえもん」から「」と「すけ」をとり「利助としすけ(りすけ)」とづけられたが「としすけ」ともみ「としすけ」のおとから「俊輔しゅんすけ」ともかれるようになり、そうなると今度こんどは「しゅんすけ」とまれることになり、そのおとから「春輔はるすけ」とも表記ひょうきされ、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読おんどくされたので、最終さいしゅうてきに「はるうね」をごうにしたものである。
フグ料理りょうりとのかかわり
古来こらいから毒魚どくぎょとされ、明治維新めいじいしん食用しょくよう禁止きんしされていたふぐ料理りょうり明治めいじ21ねん(1888ねん)、周囲しゅうい反対はんたいって下関しものせきにてしょくしたさい大変たいへんり、当時とうじ山口やまぐち県知事けんちじ解禁かいきんするようかたって食用しょくよう商用しょうようのきっかけをつくったとつたえられている。
ちちじゅうぞうきびしい教育きょういく少年しょうねん時代じだいきびしい境遇きょうぐう
はぎにおける利助としすけは、「しょう若党わかとう」として藩士はんし諸家しょかのもとで雑用ざつようつとめていた。ある利助としすけ仕事しごとぶりをじゅうぞうひそかにうかがったことがある。じゅうさい利助としすけ福原ふくはら玄関げんかんちかくのいちあいだで、夜中よなか一人ひとり留守番るすばんをしていたが、ちち姿すがた気付きづいて、きながらこれにすがりつかんとした。ちちきびしくしかりつけ、そのままったという[52]
児玉こだま奉公ほうこうしていた時期じき他家たけ訪問ほうもんしていた主人しゅじんは、ゆきってきたので、履物はきものりて帰宅きたくした。主人しゅじん利助としすけめいじ、その履物はきもの先方せんぽう返却へんきゃくしてくるようにとった。利助としすけ大雪おおゆきおかしてかけ、そのかえみちあまりのさむさに実家じっからんとする。しかしちちは、白湯さゆいちはいさえあたえず利助としすけかえしたという[52]
伊藤いとう公爵こうしゃく系譜けいふ
伊藤いとう博文ひろぶみでん』の冒頭ぼうとうには、「伊藤いとう公爵こうしゃく系譜けいふ」というものがある。ぜんきゅうページにわたっていて、その始祖しそこうれい天皇てんのうということになっている[53]
そののエピソード
当時とうじ大磯おおいそには伊藤いとうをはじめ、政治せいじ別邸べっていならんでいたが、土地とちには伊藤いとう人柄ひとがらについてつぎのような逸話いつわのこっている。「山縣やまがた護衛ごえいひとき、陸奥みちのく仕込しこづえをもつて散歩さんぽするが、伊藤いとう博文ひろぶみは、平服へいふく一人ひとりテクテクあるき、ときには着物きもののしりをはしょつた姿すがた出歩であるき、農家のうかはなしかけ、べい値段ねだん野菜やさい価格かかくなどもき、らしのことなどもはたけあぜ腰掛こしか老人ろうじん相手あいてはなすことがあった。むら農民のうみん漁民ぎょみんなどは伊藤いとうを「テイショウ(大将たいしょう)」と気軽きがるんで、はなしかけた」
憲法けんぽう制定せいていさいして担当たんとうかんたいし「しん憲法けんぽう制定せいていするに、伊藤いとういち法律ほうりつ学者がくしゃであり、なんじらもまたいち法律ほうりつ学者がくしゃである。それかんがえが也とおもわば、どこまでも也として意見いけんせよ。意見いけんあらそわせることがすなわちしん憲法けんぽう完全かんぜんならしめるものである」と訓示くんじしている[54]いまよりも特権とっけん意識いしきつよ時代じだい政治せいじとしては異例いれい見識けんしきであるとされている。
  • せき直彦なおひこ伊藤いとうはくもまた葉巻はまきこのまる。かつ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん社長しゃちょうたりしとき、しばし伺候しこうしては度々たびたび厄介やっかいになりしのみか、憲法けんぽう発布はっぷその自著じちょ憲法けんぽうやくいちさつ自著じちょしておくられたれば、その御礼おれいなにがなとおもいつつ葉巻はまき嗜好しこう気付きづきたれば、横浜よこはま出向でむき、洋館ようかん煙草たばこにて一本いっぽんいちえんばかりの葉巻はまき専売せんばいまえゆえ、今日きょうえんのものよりはるかに上等じょうとうのもの)をはこじゅうほん)を贈呈ぞうていせり。そのじゅうにちばかりをて、ふたた伺候しこうせしに、おおやけ御機嫌ごきげんにて、『せき貴公きこうもシガーがきらしいが、葉巻はまき一本いっぽんけてやろう、喫んでよ』とて一本いっぽん割愛かつあいせらる。れば先日せんじつあまりより贈呈ぞうていしたるものなるが、おおやけこれわすれられて、自慢じまんせられてかたれしものなりき。あたまにはただ国家こっかあるのみ、だれからなにおくられしか、そんな小事しょうじにもめず、とんと忘却ぼうきゃくせらるるもまこと無理むりならぬことなり。あまりとしては進呈しんていせしものが、おおやけかないしをり、おおいに満足まんぞくでありし」[55]
  • 松井まつい広吉ひろきち
    • おおやけ午餐ごさん大抵たいていかる洋食ようしょくられるが、ばん日本にっぽんしょくおもで、ときとして洋食ようしょくだとのこと。さけ葡萄酒ぶどうしゅ日本酒にほんしゅであった。葉巻はまき煙草たばこ当時とうじかね一本いっぽんじゅうぜになのをかし、ひげこげるまでわれる」[56]
    • はやくから茶道さどう嗜好しこうふかく、茶会ちゃかい料理りょうりにも抜群ばつぐん手腕しゅわんがあった。げんきゃくなどをまねかれる場合ばあいには、おおやけ自身じしん台所だいどころ出張しゅっちょうして、一々いちいち盬梅をこころみて、がましく板前いたまえ指揮しきされたという。おおやけ薨去こうきょ同家どうけ料理人りょうりにん麻布まふ桜田さくらだまち興津おきつあんという料亭りょうていしたが、流石さすがおおやけから仕込しこまれた包丁ほうちょう腕前うでまえで、食通しょくつうよろこばせている。来客らいきゃくにもおおやけ縁故えんこのあった人々ひとびとおおく、山縣やまがたこうすぎ孫七まごしち郎子いらつこ、その連中れんちゅうみな来客らいきゃくちょう自署じしょしおられ、いま手狭てぜまながら帝都ていと名物めいぶつひとつともなっている」[56]
  • 吉田よしだ武子たけこ公爵こうしゃく琵琶びわなによりもおきのこととて、毎日まいにち自分じぶん琵琶びわだんぜしめ、これをくをたのしみとなしられたり」[57]
晩年ばんねん博文ひろぶみ

伊藤いとう博文ひろぶみ豊富ほうふ国際こくさい感覚かんかくっていた穏健おんけん開明かいめいで、日本にっぽん近代きんだいとく憲法けんぽう制定せいていとその運用うんようつうじて立憲りっけん政治せいじ日本にっぽん定着ていちゃくさせた功績こうせきおおきい[1]

明治めいじ初年しょねんより開明かいめいされていた人物じんぶつで、しょ制度せいど近代きんだい立憲りっけんせいへの転換てんかん主導しゅどうした。議会ぎかい開設かいせつにあたって当初とうしょ伊藤いとうは「超然ちょうぜん主義しゅぎ」を宣言せんげんして政党せいとう無視むしする立場たちばをとろうとしたが、初期しょき議会ぎかい経験けいけんから政党せいとうないかく必要ひつようせい痛感つうかんすると、みずか率先そっせんして政党せいとう組織そしきすなど、状況じょうきょう変化へんか柔軟じゅうなん対応たいおうする人物じんぶつだった[2]

アジア最初さいしょ立憲りっけん体制たいせい[注釈ちゅうしゃく 8]みのおやであり、その立憲りっけん体制たいせいうえ政治せいじとして活躍かつやくした最初さいしょ議会ぎかい政治せいじとして、西洋せいよう諸国しょこくからもたか評価ひょうかている[58]

伊藤いとうは1882ねん明治めいじ15ねん)から翌年よくねんにかけてドイツオーストリアイギリスなどヨーロッパ諸国しょこく歴訪れきほうして憲法けんぽう調査ちょうさおこなった。そのさい伊藤いとう議会ぎかい権力けんりょくよわいドイツ・オーストリアがたばかりに固執こしつしていたわけではなく、議会ぎかい権力けんりょく強力きょうりょくなイギリスがた将来しょうらい視野しやれていた。そして1889ねん明治めいじ22ねん)に明治めいじ憲法けんぽう制定せいていして以降いこう明治天皇めいじてんのう理解りかいすう憲法けんぽう危機きき憲法けんぽう停止ていしさせずにえて立憲りっけん体制たいせい維持いじした。1900ねん明治めいじ33ねん)に立憲りっけん政友せいゆうかい創設そうせつしたのち政党せいとう政治せいじ推進すいしんした。西洋せいようのドイツでさえ憲法けんぽう一度いちど停止ていしする事態じたいまれていたため、憲法けんぽういち停止ていしすることなく立憲りっけん体制たいせい存続そんぞくさせた伊藤いとうは、イギリスはじめ西欧せいおう諸国しょこくから立憲りっけん主義しゅぎ議会ぎかい政治せいじちちとしてたか評価ひょうかつづけた[59]

外交がいこうめんでは冷徹れいてつ政治せいじてきリアニズムにもとづき、国際こくさい協調きょうちょう路線ろせん重視じゅうしし、にち戦争せんそう開戦かいせんにも朝鮮ちょうせん併合へいごうにも慎重しんちょうだった[6]他方たほう朝鮮ちょうせん中国ちゅうごくたいする政策せいさくめんでは強硬きょうこう姿勢しせいをとることもあり、にちしん戦争せんそう講和こうわ交渉こうしょうにち戦争せんそうたいかん政策せいさくなどにおいて日本にっぽん利益りえき実現じつげんのため強圧きょうあつてき交渉こうしょうおこなっている[2]

伊藤いとう穏健おんけん政治せいじ路線ろせんは、山県やまがた有朋ありともらの保守ほしゅ官僚かんりょうそう対立たいりつすることがおおく、かれらは伊藤いとう外交がいこう軟弱なんじゃく外交がいこう批判ひはんし、また伊藤いとう政党せいとう結成けっせいすることにたいしても否定ひていてき反応はんのうしめしていたが、明治天皇めいじてんのうからの信任しんにんつよく、明治めいじつうじて伊藤いとうもと老中ろうじゅうだいいち実力じつりょくしゃとして内外ないがい政策せいさくおおきな影響えいきょうりょくった[2]陽気ようき開放かいほうてき性格せいかく国民こくみんからの人気にんきたかかったが、強固きょうこ派閥はばつつくらなかったため、晩年ばんねん国内こくない政治せいじへの影響えいきょうりょくは、ひろ派閥はばつもう形成けいせいした山県やまがた有朋ありともおとったという[1]

どう時代じだいじん評価ひょうか

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  • 吉田よしだ松陰しょういん
    • ざいおとり、がくおさなし。しかし、性質せいしつ素直すなお華美かびになびかず、ぼくすこぶるこれあいす」
    • 俊輔しゅんすけ周旋しゅうせん政治せいじ)のざいあり」
  • 高杉たかすぎ晋作しんさく 「(井上いのうえ)聞多は面白おもしろやつなり。後来こうらいあるいはやくつともあれば、世話せわたのもうこう。(伊藤いとう俊介しゅんすけ才子さいしなり。これまた同様どうよう見捨みすてなく教導きょうどうねがこう」(山縣やまがた有朋ありともてた手紙てがみ
  • 大久保おおくぼ利通としみち伊藤いとう長州ちょうしゅうひとではあるがじつ天下てんかえいぶつである。なりほど才子さいし相違そういないけれどもけっしてきみよう才子さいしぢゃァない。国家こっか経綸けいりんじょういて、自分じぶんはモウことごと伊藤いとう相談そうだんをする。いちからじゅうまではなす。くさりみなと攘夷じょういときちがうのであるからドウかよくひゃくねんのち達観たっかんするほど見識けんしきあるひととよくもちいなければならぬ。それにあたもの伊藤いとうである。しっかり見識けんしきってそうしてこれれを応用おうようするちからひとである。わたし政策せいさくことごとかれひと相談そうだんする。かれひとともだんってやるのである。すっかりしんじてだんはなす」[60]
  • 井上いのうえかおる自身じしん刺客しかくおそわれたさいけつけた伊藤いとう様子ようすについて「(伊藤いとうは)自分じぶん枕辺まくらべなみだをホロホロとした。自分じぶんは(しゃべることも出来できないので)ただまねで、おまえあぶないから一刻いっこくはやかえってくれとたのむようにせきたてたけれど、なかなか枕許まくらもとはなれようとしなかった」とかたっている。
  • 伊藤いとう真一しんいちわたし記憶きおくのこっているちちは、非常ひじょう記憶きおくりょくのいいひとでした。ふるはなし何月なんがつなんにちまで正確せいかくおぼえておりました。また浴衣ゆかた胡坐こざをかいているときでも、はなし明治天皇めいじてんのうのことになると、自分じぶんはもちろんわたしたちもきちんと正座せいざさせられ『天子てんしさまがね……』というようにはなしをされたものです。『キサマ維新いしんめ』ちちわたしくこうもうしました」[61]
  • 大隈おおくま重信しげのぶ
    • 伊藤いとう長所ちょうしょ理想りそうてて組織そしきてき仕組しくむ、とく制度せいど法規ほうきてる才覚さいかくすぐれていた。準備じゅんびには非常ひじょう手数てかずようするし、道具立どうぐだては面倒めんどうであった。激烈げきれつあらそいをしなかった。まずいきおいにうながされてするとうほうだったからてきたいしても味方みかたたいしても態度たいど鮮明せんめいならぬこともあった。伊藤いとうのやりくち陽気ようき派手はでで、それに政治せいじじょう功名こうみょうしんがどこまでもつよひとであるから、人心じんしん収攬しゅうらんなどもなかかんがえていた」
    • 専門せんもん分野ぶんや知識ちしきかたよるのではなく多方面たほうめん知識ちしき豊富ほうふ政治せいじであった」
    • つね国家こっかのために政治せいじくだりふて、野心やしんのためにくだりはなかった」[62]
  • 黒田くろだ清隆きよたか日本にっぽん今日きょうあるは、じつおおやけ慧眼けいがん達識たっしきところおおきはうをまたず、こと憲法けんぽう制定せいていごとおおやけなかりせばだれれが今日きょうはてべかりしかとおもわるるなり」[63]
  • 松方まつかた正義まさよし 「(慶応けいおうさんねん)その時分じぶんから伊藤いとうこう才気さいき横溢おういつしてしょ藩士はんしあいだすこぶおもんぜられてた。(しん政府せいふにおいても)工業こうぎょうに、法制ほうせいに、行政ぎょうせい何事なにごとでもてきしょとしてならざるはなかったのは、じつ伊藤いとうこう大智たいち円満えんまんひとで、比類ひるいすくないところであろうとおもう」[64]
  • 後藤ごとう象二しょうじろうおおやけいてそのもっと偉大いだいなりしてんえば、その生涯しょうがいつね発展はってんしつつ、すすんでかついちにちいちしょ停滞ていたいすることをなさず、無限むげん精力せいりょくもっ一意いちいこうほう恬淡てんたん無欲むよくつい何事なにごとにも拘泥こうでいすることをしなかったというてんにある。もしおおやけ一生いっしょうつうじ、いずれの時代じだいがそのもっと精力せいりょくけだし、そのもっとのう修養しゅうよう鍛錬たんれん時代じだいかといえば、木戸きど大久保おおくぼりょうおおやけあいだ周旋しゅうせんして、その融和ゆうわはかり、りょうおおやけ開発かいはつ指導しどうして、そのさとしねがいひらかしめ、つい維新いしん回天かいてん事業じぎょうさしめたそのときであろう。維新いしんごうってその位置いちつくってからは、周囲しゅうい人々ひとびとかえっておおやけ開発かいはつ指導しどうした。おおやけはこの開発かいはつ指導しどうけて、のうこれ消化しょうかし、これれて、すなわ今日きょう円熟えんじゅくしたひとである。おおやけごと偉大いだいにして、しかも順潮じゅんちょうもっと立派りっぱなる一生いっしょう終始しゅうししたひとは、けだいずれの時代じだい偉人いじん比較ひかくするも到底とうていあいすべきもの一人ひとりもなかろう」[65]
  • 板垣いたがき退助たいすけ既往きおういてはおおやけてきにもし、また味方みかたにもしたりき。さればこのてんいてはたんおおやけ交際こうさいあつひとかた月旦げったんよりは、じゅつぶるところいくふんかの興味きょうみおおきをしんじず。がいごとすれば、伊藤いとうこう明治めいじ国家こっかたいしてのだい功労こうろうしゃたるにうたがいをれざるなり。木戸きど時代じだい知恵袋ちえぶくろ伊藤いとうこうなりき。大久保おおくぼを援けたるもまた伊藤いとうこうなりき。おおやけたしかに明治めいじ政治せいじ大立者おおだてものとして、また文明ぶんめい指導しどうしゃとして、終生しゅうせい忘るからざるの恩人おんじんなり。おおやけかつかたっていわく『あさって憲法けんぽう尽力じんりょくせり。くんって憲政けんせいみん指導しどう促進そくしんせり。およそひとはじめあってわりかるからず。憲政けんせい有終ゆうしゅうをなすは、たがいの義務ぎむとなさざるからず』と。以ってその憲政けんせい指導しどうしゃとしての抱負ほうふるにし」[66]
  • 西園寺さいおんじ公望きんもち伊藤いとうはなしいてると、その経綸けいりん順序じゅんじょってって、そのかたには上手じょうず下手へたはあるかもらんが、その順序じゅんじょ結構けっこうだとおもった。またこれだけのはなし出来できひとおおくあるまいと感心かんしんしたのです。(大久保おおくぼは)政治せいじことは殆んど伊藤いとうまかせてったのであって、伊藤いとうはその信任しんにんてこれを背景はいけいとしてつかえてったからけたのである。そのかわすべてのこと軍配ぐんばい薩摩さつまほうぶんさん長州ちょうしゅうほうぶんると地位ちいたもってた。いたって聡明そうめいひとであったからことわたししんでないからけたのです。その時分じぶんからのうげんったことであるが、伊藤いとうどんちゅうだとおこなってた。そのあいだには反対はんたいがわからは色々いろいろ悪口わるぐちわれたり、俗吏ぞくりとうからはあやしくられたりしたこともあったろう。伊藤いとうごく淡泊たんぱくかねしてやることきらいであった。また自分じぶん交渉こうしょうがなければ相手あいてにせぬとうようなふうであった。山縣やまがただいくまなどとちがって、薩摩さつまじんともちがって、執着しゅうちゃくすくない。ようするになにうもひと使つかことらぬのです。山縣やまがたひょう伊藤いとうひとだが自分じぶん補佐ほさひとなかったといまでもうがうさぎかく自分じぶん聡明そうめいぎてったためめにひと使つかってはもどかしいのであったろうとおもわれる。それで子分こぶんものがなかったようです。このてんいては上程じょうていじん世話せわするとこと出来できなかったようです。また伊藤いとう人才じんさいもちいうると場合ばあいには何処どこでもかまいはない。それは長州ちょうしゅうじんであろうと、薩摩さつまじんであろうとそんなことはかまわなかった。しかし薩摩さつまじんには余程よほど鉾先ほこさきけてったようです。それも時代じだいりますが、さかんなとき晩年ばんねんとは余程よほどがありますが、自分じぶんのものをひとわたしてむこうのものをひとろうと主義しゅぎであった。かつら太郎たろう)などはるだけは自分じぶんろうとうのであったが、伊藤いとうこれちがう。大久保おおくぼひょうでも伊藤いとう聡明そうめいひとであるとことをたしかにってる。岩倉いわくらもそうってる。伊藤いとう一生いっしょうに就てささえ鴻章こうしう伊藤いとうひょうして治国ちこくざいってる。げんえてえば王佐おうさざいうも同様どうよう治国ちこくざい容易たやすゆるすべきものではないのですが、れがチャンとささえ歴史れきしってるのです。政党せいとうないかく理想りそうとしたのも伊藤いとうです。そのてんいては山縣やまがたなどとちがって憲法けんぽう政治せいじをやるようにしたのは伊藤いとうちからであるのにしるしてもわかるのです。一体いったい伊藤いとう理屈りくつきで演説えんぜつなどはまるで下手へただけれども座談ざだんなか上手じょうずいちはいしゅでもんで調子ちょうしってるとその鉾先ほこさきあたるべからざるものであった。伊藤いとう勉強べんきょうではなかったようです。もっと必要ひつようときにはえら勉強べんきょうもしたのですが、普段ふだんけっしてしない。マアえら勉強べんきょうとはおもいません。手紙てがみくことはなか上手じょうずでした。しかもその文章ぶんしょう一番いちばん上手じょうずれもはじめのほうはそうでもなかったようですが、晩年ばんねんいたってはいくらか注意ちゅういしていたようでした。うさぎかく非常ひじょう聡明そうめい智慧ちえがあったから前途ぜんとこれれはしたほうよろしいとたらぐなげして仕舞しまう。まえにもとおすべてがかれりえは碁盤ごばんってからとうそれだけです。それに基礎きそいてかるのだから究極きゅうきょくおちいってこしよわすとうようなことはなかった。また涙脆なみだもろいとか義侠ぎきょうしんなにうとことあまかんじませんが廉潔れんけつであったことは非常ひじょうなものです。うさぎかく皇室こうしつ中心ちゅうしんこともとづいて実際じっさいみずかけてやってる。だれでも忠義ちゅうぎ々々とぐちにはってるけれども、実行じっこううにいたってはなかろっかしいことである。それが維新いしん沢山たくさん法規ほうき出来できいまにその遺志いしをつないでやってるようなわけれは伊藤いとう経綸けいりん成功せいこうってよろしかろうとおもいます。伊藤いとうこと明治めいじ叔孫どおりひょうしたものがありますが、れは半分はんぶん悪口わるぐちのようですが……。ざい不才ふさいあいだこといますが、明暗めいあんそうそう伊藤いとうはそのひょうです。一方いっぽうからるとはなはのような、からはなけるようなざいではないようでした。どんなようなひと所謂いわゆるあかりばかりでなくくらほう沢山たくさんありはすまいかとおもうようなことがありました。国家こっか政治せいじざいからえば、まえもうしたようでありますが、個人こじんとしてつきあってますとあかり沢山たくさんあるがくらほう沢山たくさんあったようです。正直しょうじきいちすんると鈍根どんこんですナア」[67]
  • 渋沢しぶさわ栄一えいいち
    • わたしはじめておおやけにおにかかったのは明治めいじねんで、当時とうじ大蔵省おおくらしょう改正かいせいがかりというものがあって、制度せいど文物ぶんぶつ百般ひゃっぱん調査ちょうさをして段々だんだん改善かいぜんをしてくという今日きょう調査ちょうさきょくたやうなものであった。すなわがかちょう伊藤いとうこう総裁そうさいというようなやくであった。其頃からおおやけ事務じむ熱心ねっしんなにかれ自分じぶんる。けっしてことおろかにするようなことはなかった。勿論もちろん当時とうじきわめて百事ひゃくじ錯綜さくそうしておおいに改善かいぜんしてかなければならぬというときであるから、安閑あんかんとして椅子いすもたれてわけにもかなかった。併しおおやけとく熱心ねっしんであった。ひと地位ちいすす身分みぶんたかまると、兎角とかくおのずから事務じむることをしない。みな下級かきゅうめいじて自分じぶんなにもしないでただすわってるというふうであるが、おおやけけっしてことがない。れは当時とうじばかりでなく終生しゅうせいわらなかったようである。さんじゅうきゅうねんごろあまり朝鮮ちょうせんっておおやけめんしたさいにもおおやけたくによってりに事務じむってた。電信でんしんのようなものでも、また一寸いっすんした意見いけんしょなどのようなものでもすべ自分じぶんかれた。じつ敬服けいふくすべきである」[68]
    • 「どうもはげしい議論ぎろんで、どこまでもろんじて、相手あいて説破せっぱせねばまぬというふうひとでありました」[69]
    • 「なかなかすぐれたざいっておられたほうゆえ、こころざし政治せいじにあっても、いろいろさまざまのげいがあらせられた御仁ごじんで、つくればしょ達者たっしゃ音曲おんぎょくのことも心得こころえておられるというふうであったのだ。しかしやはり一生いっしょう政治せいじとらわれくらされたほうで、ぬまで政治せいじとらわれよりまっただっしてしまわれるわけにはまいらなかったらしくおもえる。つまり哈爾まろうどくなられるまで、政治せいじへきかられなかったほうであるとみるのが至当しとうだろう。しかしまたおおやけ政治せいじとらわれて、政治せいじ終始しゅうしせられた結果けっか今日きょう日本にっぽんをして、立憲りっけんこくとしての繁栄はんえい享有きょうゆうするをとくせしむるにいたらせられたのは、まったもっどうおおやけ先見せんけんあかりがあらせられたからのことで、その功績こうせきいたっては、けっして忘却ぼうきゃくすべからざるものである。このいちてんのみでも、伊藤いとうこうじつすぐれたえらひとであったとわねばならぬのだ」[70]
    • 伊藤いとうこう何事なにごとにおいても、つね自分じぶん一番いちばんえらいものであるということになっていたかったひとである。そうじて長州ちょうしゅうじん薩摩さつまじんくらべれば人当ひとあたりが穏当おんとうなものであり、伊藤いとうこうとてもけっして人当ひとあたりがわるかったほうではない。至極しごく穏当おんとうなところのあった御仁ごじんではあるが、それでも横合よこあいから他人たにんてきて、おおやけらずにいることをおしえてあげようとでもすれば、『そんなことはやましうのむかしからってるぞ』といったような態度たいどられたもので、何事なにごとにつけ、自分じぶん一番いちばんえらく、自分じぶん一番いちばん物知ものしりになっていなければまなかった御仁ごじんである。伊藤いとうこうなどもたれたが、けっして上手じょうずではなかった。むしろ下手へたほうでザルれのおお下手へたくそな)のほうだったのだが、それでもなおにおいて『自分じぶん一番いちばんだ』ということになっていたがったほうだった。いかにばんかこんで勝負しょうぶまり、ご自分じぶんけになっても、けっして『自分じぶん下手へたである』などとまいってしまわず、なんのカンのと理屈りくつをこねあげて、『やはり自分じぶんが、一番いちばん上手じょうず』ということにしてしまわれたものである。また他人たにん起草きそうした文章ぶんしょうなんかをられても、けっしてそれをすぐめて、『なかなかうまい』などとはいわなかったものである。『そこの文字もじもちかたがどうである』『それではすこかたながぎる』『そんなことはかなくともいい』『もうすこなにとかきようがありそうなものだ』とか、いろいろこのんで難癖なんくせをつけた。文章ぶんしょうにおいても『やはり自分じぶん一番いちばんえらいのだ』ということになっていないと、まなかったほうである。しかし、『そんならどう訂正ていせいしたらよろしかろうか』と、いちんでいかけてみると、おおやけはもともと文章ぶんしょうのうまくけなかった御仁ごじんであるから、ちゃんとした返答へんとうができず、とても曖昧あいまい調子ちょうしで、『そこはその……なにとかかんがえて……うまく』などとこたえられ、たしかな文案ぶんあんがあるのでもなんでもなかったものである」[71]
    • 伊藤いとうこうごときは何事なにごとにも自分じぶん一番いちばんえらいとおも慢心まんしんがあつて。下問かもんぢぬといふとくはなかつたやうにおもえはる」
    • 明治維新めいじいしん前後ぜんこうには随分ずいぶん人物じんぶつおおあらわれたが。伊藤いとうこうでも、大隈おおくまこうでもまた井上いのうえこうでも。みなぜんりたがるほうであつて「おれはほどえらいぞ」とげんはぬはかりに吹聴ふいちょうせられ。ぜんらぬひとはなはすくななかつた」[72]
  • いぬやしなえあつしおおやけ職務しょくむおこなうに、賄賂わいろ使つかったことはなく、おおやけ自身じしんもまた賄賂わいろ要求ようきゅうすることはなかった。おおやけ批判ひはんするものはいれども、おおやけ金銭きんせんかんする清廉せいれんさを非難ひなんするものはいない」
  • たに干城かんじょうおおやけ憲法けんぽう制定せいていだい功臣こうしんである。はじ自由党じゆうとうのごときは乱暴らんぼうにも主権しゅけん在民ざいみんてき憲法けんぽうろんまわしていそいで憲政けんせいくことを企図きとしたものであるが、おおやけはこの怒涛どとう澎湃ほうはいなかけて万事ばんじ遺漏いろうなき準備じゅんびのち明治めいじ22ねんいたっておおやけ起草きそうした憲法けんぽう発布はっぷし、欧州おうしゅう憲法けんぽうられるような凄惨せいさん流血りゅうけつ歴史れきしかえすことなく、平和へいわ円満えんまんのうちに国民こくみん憲政けんせい恩恵おんけいよくせしめた。当時とうじもし自由党じゆうとうとおりにって、明治めいじ8ねん、9ねんないし明治めいじ14ねん、15ねん段階だんかい憲法けんぽう発布はっぷしたらどうだろう。国民こくみんはいまだ憲法けんぽうなにであるか理解りかいできる状況じょうきょうにないゆえにその議会ぎかい政治せいじもっぱらケンケンガクガクとした政客せいかく論争ろんそうわり、しん憲政けんせい運用うんよう到底とうてい実現じつげんすることはなかったであろう。このてんにおいても伊藤いとうこうとくえらいとわねばならない」[73]
  • 尾崎おざき行雄ゆきお
    • おおやけ人物じんぶついてもっとけいふくせるはだいいちおおやけ人格じんかく高潔こうけつにして政治せいじ道徳どうとく比較的ひかくてきひいでたることだい性質せいしつ円満えんまんにして調和ちょうわてき資質ししつまれたることだいさん事物じぶつ執拗しつよう凝滞ぎょうたいせずきわめて利欲りよくねんあわかりしことだいよん天真てんしん流露りゅうろ愛憎あいぞうもっ公器こうきわたしせざりしとう諸点しょてんなり」[74]
    • 山縣やまがた面倒めんどうく、一度いちど世話せわしたものはぬまで面倒めんどうる。結果けっか山縣やまがたには私党しとうができる。一方いっぽう伊藤いとうはそのようなことはしない。信奉しんぽうしゃえるだけででも伊藤いとうためはたらこうとするものはいなかった。しかし伊藤いとうはそれをもっ自己じこほこりとしていた」[75]
    • 伊藤いとうはく才子さいしなり。才子さいし功労こうろうたるものなり稟質ひんしつ多血たけつせいなるがため、多情たじょうあいにして、その嗜好しこうするところひろおおし。詩文しぶんつくり、書画しょがこのみ、英語えいごくし、弁論べんろんたくみに、がくすなわ和漢洋わかんようさんはしを窺へり。もし才芸さいげい多少たしょう比較ひかくすれば、世間せけんおそらくはこれみぎるものすくなかるべし。(中略ちゅうりゃく伊藤いとうはく手腕しゅわんは、山縣やまがたはくすればすこぶ敏活びんかつなるべし。しかれども勇断ゆうだんはてこころよ資質ししつとぼしきが鋭利えいりはたらきをなすあたわず。つね調和ちょうわ瀰縫のいそがしくして、その束縛そくばくするところとなる」[76]
    • 伊藤いとうこう人物じんぶつについてもっと特色とくしょくるべきことは執着心しゅうちゃくしんのないことである。ひとたいしてもものたいしても。だから役人やくにんでもあいだおもって使つかうが、やくにたなくなると平気へいきててしまう。あるとき身辺しんぺんものおおやけむかって『いぬやしなえでもほしでも彼等かれらには終身しゅうしんはなれぬいぬいぶん大分だいぶある』とはなしたところ、おおやけは『おれはその反対はんたいで、いぬいぶんつくらぬということがおれ長所ちょうしょである』といった」[77]
    • 経済けいざいのことはわかころから井上いのうえこう一任いちにんしてすこしも研究けんきゅうしなかったためか、公私こうしともにおおやけ経済けいざい知識ちしきはすこぶる幼稚ようちであった」[77]
    • 伊藤いとうこう大変たいへんいかりっぽいひとだった」[77]
    • おおやけ主義しゅぎ思想しそう何事なにごとたいしてもけっして極端きょくたんはしらず、つね中正ちゅうせいたもち、調和ちょうわむねとせられたり。世間せけん往々おうおうおおやけひょうするに、姑息こそく八方美人はっぽうびじんもってしたるはこれためめなり。じつおおやけ短所たんしょたると同時どうじにまた得難えがた長所ちょうしょなりき。おおやけはまたごうもの凝滞ぎょうたいせざるひとなりき。たとえば政治せいじじょうおいてもてき窮地きゅうち追及ついきゅうして完膚かんぷなからしむるがごときは、おおやけけっしてさざりししょなり。そのいち一物いちもつづけてもごうこれ執着しゅうちゃくするのねんなく、したがって利欲りよくきわめて冷淡れいたんなりしこと、またおおやけいち美質びしつとす」[74]
    • 伊藤いとうのしたことに過失かしつはあっても悪意あくいはなく、あれくらい公平こうへい国家こっかのためをおもえば、まず立派りっぱ政治せいじといってよかろう」[78]
  • 三浦みうら梧楼ごろう
    • 伊藤いとうとは、おれ小僧こぞうときからのいだから、まあよくってるほうぢゃろう。あれはなかなかえらやつだよ。井上いのうえがいうように、伊藤いとう頭脳ずのうはあくまで組織そしきてきだ。それによくがない。かねてんいては大隈おおくま伊藤いとうまった綺麗きれいなものぢゃ。しかしな、よくといってもかねばかりがよくぢゃないからのう。よくといえば、それは名誉めいよさ。まった名誉めいよてんいたっちゃ、伊藤いとうみっよっつの子供こどもだよ。(中略ちゅうりゃく)どうもその名誉めいよよく非常ひじょうのものだった」[79]
    • 伊藤いとう存外ぞんがい稚気ちきがあって、比較的ひかくてき率直そっちょくだった。山縣やまがたは『おれただ一介いっかい武弁ぶべんだ』とった調子ちょうしで、ひょうをつまらぬもののようにせかけておった。これがにんあいだそうことなるてんである。あるとき郷里きょうりのものが東京とうきょうて、二人ふたりところたずねた。それがのちにて、『山縣やまがたさんへくと、お取扱とりあつかいがまこと親切しんせつであったが、伊藤いとうさんはだいちがいで、ろくにはなしいてくださらない』とうから、我輩わがはいが『なるほどそれはちょっと左様さようえるが、伊藤いとうりは、本当ほんとうなみだすが、どうも目白めじろ山縣やまがた)のなみだは、てにならんぜ』とったことだが、これはにんたいする適評てきひょうだとおもう」[80]
  • 牧野まきのしんあきら
    • 伊藤いとうさんは相手あいて大臣だいじんだろうが、書記官しょきかんだろうが、また老人ろうじんだろうが、青年せいねんだろうが、そのようなことには一切いっさい頓着とんじゃくなく、そういう意味いみ非常ひじょうしたしみやすくて、だれであろうと相手あいてうことを熱心ねっしんき、またときにはってることが間違まちがってることを遠慮えんりょなく指摘してきするというふうだった。まったひろしふところひとで、満州まんしゅう遭難そうなんされたとき一時いちじなか真暗まっくらになったがした」[82]
    • 伊藤いとうさんは始終しじゅう洋書ようしょとうんでおられ、ものわかりはよく、記憶きおくもよく、山縣やまがた井上いのうえなどみなえらひとだったがそれぞれのかたがあったのにはんして伊藤いとうさんにはそれがなく、なんでもござれというふうで、好悪こうお感情かんじょうによってではなく問題もんだい如何いかうごひとだった」[83]
伊藤いとう漢詩かんししょ東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう
  • 松井まつい広吉ひろきち
    • 英語えいごはもとより達者たっしゃであり、漢詩かんし漢文かんぶんからふでさつたくみなので、その秘書官ひしょかんたるしゃほねれるようで、じつ一方いっぽうならぬ気苦労きぐろうで、容易よういひとにはつとまらぬ。伊東いとう巳代治みよじはくごと人物じんぶつなればこそ秘書官ひしょかん書記官しょきかんつとまると、一時いちじおおやけ秘書官ひしょかんとなったあたま元元もともとさだがシミジミかたられたこともある」[56]
    • おおやけ身体しんたい先天的せんてんてきつようえ少壮しょうそうからきたえにきたえられたためか、おどろくべき頑健がんけんりで、喉頭こうとうびょうかかられた場合ばあいなど、医師いしあたえた茶褐色ちゃかっしょく薬液やくえきをば、おおやけ自身じしん毛筆もうひつひたして、無造作むぞうさ口中くちじゅうみ、グルグルかきまわし、あとをうがいして、またまた煙草たばこい、さけつづけられるという状態じょうたいで、はその無茶むちゃ健康けんこうとにしたかざるをなんだ」[56]
    • おおやけ開明かいめいてきで、公明こうめいで、政権せいけんになど執着しゅうちゃくされぬ美点びてんべつつたわるものがあるから、もうすをたぬが、おおやけ辞職じしょくをして悠々ゆうゆう野鶴やかくまなぶと、やがて体重たいじゅう一貫匁位怱に増加ぞうかするよといわれたことが一再いっさいでなかった。もっ国家こっか奉公ほうこう苦心くしん尋常じんじょうならぬことがられるとともに、などは自然しぜんあたまがるをきんなんだ」[56]
  • 中江なかえ兆民ちょうみん今日きょうはく男爵だんしゃく政治せいじちゅうだい一流いちりゅう政治せいじなり。機敏きびんみき周到しゅうとう勤勉きんべんとうすう形容詞けいようしは、はく固有名詞こゆうめいしうえかんしてはじめて妥当だとうなるをさとう」[84]
  • 長澤ながさわやなぎ政太郎まさたろう明治めいじじゅうななはちねん当時とうじいては、殆んど学問がくもんするものはむし愚物ぐぶつせられしをもっ教育きょういくかい沈鬱ちんうつせしもまたむべなりしなり。伊藤いとうこうしゅとしてこのじょうへいやぶられ、人材じんざい登用とうようため文官ぶんかん任用にんようれい制定せいていし、おおいに教育きょういくある人士じんし登用とうようするのひらかれたるは、たん行政ぎょうせいじょう功業こうぎょうたるのみならず、これため教育きょういくかい興隆こうりゅうすすめ、つい今日きょう盛況せいきょうたるなり。これじつ伊藤いとうこう施政しせい結果けっかとして、国民こくみんおおやけおんしゃせざるべからず」[85]
  • 三輪田みわた真佐子まさこほろびおっと綱一郎つないちろう伊藤いとうさんとは維新いしん時代じだいからの知己ちき御座ございまして、その時分じぶんからのうかかってりましたが、むかしから金銭きんせんことには一向いっこうおかまいがいようで御座ございました。明治めいじ初年しょねんからろくねんごろまでのことでした、全国ぜんこく有志ゆうしかいもうすものがてられまして、伊藤いとうさんも綱一郎つないちろうもそのかいくわわりましたが、そのころ伊藤いとうさんは自分じぶん月給げっきゅう全部ぜんぶ寄付きふなされて平気へいきられたそうで御座ございます。また伊藤いとうさんはくらい人臣じんしんきわめる御身おんみぶんでいらせられながら、その手軽てがるなことは昔日せきじつすこしもわりが御座ございませんで、かい抔へだしりましても、何時いつだしりましたかわからぬほど御座ございまして『アア伊藤いとうさんがなされたから挨拶あいさつ申上もうしあげてよう』ともうすような次第しだい御座ございます。見受みうもうしたところ、服装ふくそうきわめて質素しっそほうで、別段べつだんこれぞとめるような派手はでなところも御座ございません。併しお年齢ねんれい似合にあわず大変たいへんわかえます。そして暖炉だんろまえでおこしでながら昔話むかしばなしなどをされまして演説えんぜつとても学者がくしゃらしくろくじきごとおっしゃらずに淡泊たんぱくとしたもので御座ございます。ことわれ婦人ふじん感謝かんしゃしなければりませんのは、われ々のため尽力じんりょくくださって婦人ふじん地位ちいあたえてくださったのもまった伊藤いとうさんで御座ございます。以上いじょうもうげた次第しだいかいめて申上もうしあげれば、きわめて平和へいわ円満えんまんなおかた御座ございました。ただ欠点けってんもうしますれば、新聞しんぶんなどにも度々たびたびましたですが、婦人ふじんがわ近付ちかづけるとうようなこと御座ございまして、それさえ御座ございませねばまことかみともとうとぶべきほうだろうとぞんじます」[86]
  • 三宅みやけ雄二郎ゆうじろう伊藤いとうこうかげにはかならおんながあった。併し伊藤いとうこうおんなたいするかならずしも多淫たいん多情たじょう結果けっかではない。一寸ちょっと煙草たばこっててんずるその煙草たばこかわりにおんなったのである。ふじこう眼中がんちゅうただ国家こっかあるのみ。風俗ふうぞく人情にんじょうとうかえりみるにいとわなかったのであろう。婦人ふじん貞操ていそうたいしてもどのくらいまで尊重そんちょうしてったか……。かかることにはあまめなかったらしい。ゆえ文部もんぶ大臣だいじん折角せっかく真面目まじめ訓令くんれいはっしても、うえひと反対はんたい行動こうどうため滑稽こっけいかんじらるることもないでもなかった。併しひるがえってかんがえれば、ふじこうおんなたいして自由じゆう主義しゅぎ開放かいほう主義しゅぎであったためひと自然しぜんちかづきやすく、その花々はなばなしい生涯しょうがいいちこれあるがためめである。もしふじこう道徳どうとく堅固けんご君子人くんしじんであったならば、今日きょうごと派手はで名声めいせいられなかったかもれぬ」[87]
  • 宮武みやたけ外骨がいこつ我輩わがはいはく伊藤いとう博文ひろぶみりゃく)を平凡へいぼん常人じょうじんなりとはうんはない、されどかれ世界せかいだい損失そんしつドコロか、日本にっぽんしょう損失そんしつにもあらずとするのである。(中略ちゅうりゃく明治めいじじゅうさんよんごろ國會こっかい願望がんぼうしゃなるもの全國ぜんこく蜂起ほうきして東京とうきょう押寄おしよせ、これかずんば極端きょくたん暴動ぼうどうこるべき輿論よろん大勢おおぜいせまられ、なくじゅうねんして輿望よぼうたっせしむるごとにしたのであって、在朝ざいちょうはくやからは、ただ其時だい要求ようきゅう屈服くっぷくしたにぎないのである。斯かるやからして立憲りっけんだい元首げんしゅ賞揚しょうようするがごときは、往事おうじ迫害はくがいおそれずして自由じゆう民権みんけんろん主張しゅちょうせし民間みんかん志士しし無視むしするのはなはだしきものである。(中略ちゅうりゃく非命ひめい同情どうじょうせて、死者ししゃ哀惜あいせきするのは人情にんじょうつねであるから、我輩わがはいとてもまた其事を非難ひなんしないが、其程度ていどごせしぼつきょうてき哀惜あいせきにはむしだい反対はんたいである」[88]
    • 一方いっぽうでは「伊藤いとうこう日本にっぽんだい損失そんしつ」「明治維新めいじいしんだい功臣こうしん憲法けんぽう政治せいじだい元首げんしゅ古今ここん無類むるいだい偉人いじんうしなひたりとなげき」とたか評価ひょうかしたとも[89]
  • エルヴィン・フォン・ベルツ韓国かんこくじんおおやけ暗殺あんさつしたことは、とくかなしむべきことである。何故なぜかといえば、おおやけ韓国かんこくじんもっとともであった。にち戦争せんそう日本にっぽん強硬きょうこう態度たいどを以って韓国かんこくのぞむや、意外いがい反抗はんこうった。陰謀いんぼう日本にっぽん居留民きょりゅうみん殺傷さっしょう相次あいついでこった。そのとき武断ぶだんおよ東京とうきょう言論げんろん機関きかんは、こうあつ手段しゅだんに訴うべしと絶叫ぜっきょうしたがおおやけひとり穏和おんわ方針ほうしん固持こじしてうごかなかった。当時とうじ韓国かんこく政治せいじは、徹頭徹尾てっとうてつび 腐敗ふはいしていた。おおやけ時宜じぎてきし、かつただしい改革かいかくによって、韓国かんこくじんをして日本にっぽん統治とうちることがかえって幸福こうふくであることをさとらせようとし、ろくじゅうさいえた 高齢こうれい統監とうかんという多難たなんしょくけたのである。欧州おうしゅうにおいては韓国かんこく保護ほごについてしん統治とうち峻厳しゅんげん批判ひはんするものおおい。これらの批評ひひょうしゃ日本にっぽん当局とうきょく学校がっこう創設そうせつし、農業のうぎょう改善かいぜんし、鉄道てつどう敷設ふせつし、道路どうろ開設かいせつし、船舶せんぱく港湾こうわん建造けんぞうし、かつ日本人にっぽんじん移民いみんによって勤勉きんべん農夫のうふ熟練工じゅくれんこうたる模範もはん韓国かんこくみんしめそうという苦心くしん経営けいえい事実じじつをことごとく無視むしするものである。わたしさん現地げんちおもむき、実際じっさい状況じょうきょう目撃もくげきして感服かんぷくした。(りゃく) 東京とうきょうおおやけよりはなしいたときも、おおやけ韓国かんこくとその人民じんみん幸福こうふく推進すいしんするためにいかに尊敬そんけいすべき企画きかくち、いかに多大ただい功績こうせきをあげたかを明白めいはく推知すいちしえた」[90]
  • フランシス・ブリンクリーおおやけ西洋せいよう政治せいじ比較ひかくするに、おおやけビスマルク武断ぶだんてきでなく、 平和へいわてきであったことはむしろグラッドストンるいするところである。財政ざいせい知識ちしき豊富ほうふなところはピールするところであり、策略さくりゃく機敏きびんかつ大胆だいたんなところはビーコンズフィールドている。おおやけすべてのだい政治せいじ特徴とくちょう一身いっしんあつめているごとかんがある」[91]
  • アルジャーノン・ミットフォード精悍せいかん野性やせいてきはやぶさのようであり、冒険ぼうけんき、無類むるい陽気ようき青年せいねんであった。しかし、いざ仕事しごととなると正確せいかく機敏きびん天稟てんぴん高鳴たかなりする人物じんぶつだった」
  • おおいにくっするひとおそれよ、いかにつよしにみゆるとも、言動げんどう余裕よゆうあじのないひと大事だいじをなすにたらぬ」
  • 今日きょう学問がくもんすべみな実学じつがくである。むかし学問がくもん十中八九じっちゅうはっくまではきょがくである」
  • 「いやしくも天下てんか一事いちじ一物いちもつげようとすれば、命懸いのちがけのことは始終しじゅうある。依頼心いらいしんこしてはならぬ。自力じりきでやれ」
  • 「おまえなんでもおれこころざしげよと無理むりげんはぬ。ってまれた天分てんぶんならば、たとえおまえ乞食こじきになつたとて、おれけっしてかなしまぬ。金持かねもちになったとて、よろこびもせぬ」
  • 「たとえここで学問がくもんをしてぎょうっても、自分じぶん生国しょうごくほろびてはなにためになるか」
  • 本当ほんとう愛国心あいこくしんとか勇気ゆうきとかいうものは、かたをそびやかしたり、いからしたりするようなものではない」
  • くに安危あんき存亡そんぼう関係かんけいする外交がいこう軽々かるがるしくろんつて、なんでもごと出来できるがごとくにおもふのは、おおくは実験じっけんのないひと空論くうろんである」
  • 「われわれに歴史れきしい。我々われわれ歴史れきしは、いまここからはじまる」(『ベルツの日記にっき』)

住居じゅうきょ

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記念きねんかん

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1901ねん伊藤いとう博文ひろぶみ還暦かんれき祝賀しゅくがかい招待しょうたいしゃたちが銅像どうぞう建設けんせつめたが、出来できわるかったためつくなおすなどしてだいぶおくれ、1904ねん10がつ22にち神戸こうべ湊川みなとがわ神社じんじゃ伊藤いとう博文ひろぶみ銅像どうぞうてられ除幕じょまくしきおこなわれたが、伊藤いとうがまだ存命ぞんめいであったのにぞうてられたことや、本来ほんらいこの神社じんじゃまつられている楠木くすのき正成まさしげより目立めだっている[注釈ちゅうしゃく 9]ことが4にち読売新聞よみうりしんぶんで「嗚呼ああみにくしん軟猿乃図」という挿絵さしえりの風刺ふうし記事きじとしてせられる。

このときは揶揄やゆ範囲はんいであったが、にち戦争せんそうの1905ねん9がつ7にち講和こうわ条約じょうやく内容ないよう不満ふまんったひとたちが大黒だいこく演説えんぜつかいひらいていたところ、湊川みなとがわ神社じんじゃまであふれていたのたったひとたちが、工具こうぐぞうあたまたたいたりくさりぞう周囲しゅういにあったものが切断せつだんされていた)をきつけてるなどぞうたおそうとしている3にんおとこ感化かんかされ、いつのにかあつまったすうじゅうにんぞうたおした。それをた100めいほどの群衆ぐんしゅうたちは面白おもしろがってぞうきずりまわし、とおみち派出所はしゅつじょ破壊はかいしてまわった[注釈ちゅうしゃく 10]最終さいしゅうてき警官けいかんたいによって群衆ぐんしゅうはらわれぞう回収かいしゅうされたときには、銅像どうぞうは「はながすりむけ、かおに3かしょあな頭部とうぶはくぼんで全身ぜんしん打撲傷だぼくしょう多数たすううえあたま小便しょうべんをかけられていた」という[92]ぞう本体ほんたい以外いがい周囲しゅういもの前述ぜんじゅつくさり切断せつだんしがらみくいになっていた石柱せきちゅうかれてこわされ、発起ほっきしゃめいばんつぶされているという破損はそんであった[93]

その銅像どうぞう警官けいかんたい騒動そうどう翌朝よくあさ検疫けんえきしょ使つかっていたみさおこうはこばれ、以後いごすう年間ねんかんひょうないまま本人ほんにん暗殺あんさつされてしまい、これを伊藤いとう評価ひょうか同情どうじょうてきなものにわったことで、修繕しゅうぜんしたじょう[注釈ちゅうしゃく 11]神戸こうべ諏訪山すわやま公園こうえん再建さいけんすべく、1910ねん2がつ4にちから寄付きふきんあつめたが、実際じっさいは1911ねん10がつ26にち諏訪山すわやまではなく大倉山おおくらやま[注釈ちゅうしゃく 12]補修ほしゅうではなく新造しんぞ再建さいけんされた[注釈ちゅうしゃく 13][94]

位階いかい
勲章くんしょうなど
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ
はやし伊藤いとう
はやし本姓ほんせい越智おち河野こうの支流しりゅうといわれる。家紋かもんはもと「折敷おしきさん文字もじ」だが、伊藤いとうせい改姓かいせい以後いごがりふじ」をもちいた。
博文ひろぶみ自身じしんかたるところ[注釈ちゅうしゃく 14]によれば「先祖せんぞ河野こうの通有つうゆうの裔で、淡路あわじとうげ城主じょうしゅはやし淡路あわじまもるどおりおこりである」という。また「実家じっか周防すおうこく熊毛くまげぐん束荷つかりむら農家のうかで、博文ひろぶみ祖父そふはやし助左衛門すけざえもんは、林家はやしや本家ほんけはやし利八郎りはちろう養子ようしとなり本家ほんけいだ。はやし助左衛門すけざえもん十蔵じゅうぞうはぎはん蔵元くらもとづけ中間ちゅうかん水井みずいたけ兵衛ひょうえ養子ようしとなり「水井みずい十蔵じゅうぞう」と名乗なのるが、安政あんせい元年がんねん1854ねん)に水井みずいたけ兵衛ひょうえ周防すおうこく佐波さばぐんあいはたけ足軽あしがる藤原ふじわらせいしょうする伊藤いとうわたるみぎ衛門えもん養子ようしとなり、伊藤いとう直右衛門すぐえもんあらためたため、十蔵じゅうぞう伊藤いとうしょうした[注釈ちゅうしゃく 15]」という。十蔵じゅうぞう長男ちょうなん博文ひろぶみである。博文ひろぶみあと養子ようしひろしくに盟友めいゆう井上いのうえかおるおい)がいだ[114]束荷つかりむらかつてあったはやし菩提寺ぼだいじはやしあきらてらは、もと真言宗しんごんしゅう寺院じいん吉祥院きっしょういんであったが、江戸えど時代じだいはじめにはやし淡路あわじまもるどおりおこり菩提寺ぼだいじとなり、浄土真宗じょうどしんしゅう改宗かいしゅうしてはやしあきらてらあらためた。明治維新めいじいしん廃寺はいじとなる[115][116]
伊藤いとう
本姓ほんせい藤原ふじわらしょうする。早川はやかわたかし著書ちょしょ日本にっぽん上流じょうりゅう社会しゃかいねやばつ』によれば「もともと伊藤いとういえ百姓ずのみびゃくしょう父親ちちおやじゅうぞう馬車ばしゃひきなどをしていたがめて長州ちょうしゅうはん伊藤いとうという中間ちゅうかんいえ下僕げぼくとしてんでいるうちに子供こどものない同家どうけ養子ようしになり伊藤いとう名乗なのった。博文ひろぶみ幼名ようみょう利助としすけといいだったというせつもある。それが武士ぶしのはしくれから明治めいじ指導しどうしゃ出世しゅっせすると家系かけいになりだしたのかこうれい天皇てんのう息子むすこ伊予いよ皇子おうじ三男さんなんしょうせん王子おうじ祖先そせんとか、河野こうの通有つうゆう子孫しそんとかいいだした。系図けいずに、りっぱな系図けいずつくらせるのはいまむかしもよくあるはなしで、とがめてするほどのこともあるまいが、えらくなってからのかれ故郷こきょうへはほとんどかえらなかった。むかし素性すじょうるものにはあたまがらないからである。だが、身分みぶんひくかろうが実力じつりょくさえあればえらくなれるという混乱こんらん日本にっぽん象徴しょうちょうするように首相しゅしょう政党せいとう総裁そうさい枢密院すうみついん議長ぎちょう公爵こうしゃくくらい人臣じんしん(くらいじんしん)をきわめた伊藤いとう生涯しょうがいは、いわば明治めいじばん太閤たいこうである」としている[117]伊藤いとう菩提寺ぼだいじはぎ津守つもりまち浄土宗じょうどしゅうこころとくいん報恩寺ほうおんじ[118][119]

家族かぞく親族しんぞく

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毎日まいにち新報しんぽう掲載けいさいされた写真しゃしん左端ひだりはし腰掛こしかけているのがあん俊生としおみぎはし腰掛こしかけているのが文吉ぶんきちである。

関連かんれん作品さくひん

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書籍しょせき
  • 浅野あさの豊美とよみ帝国ていこく日本にっぽん植民しょくみん法制ほうせい 法域ほういき統合とうごう帝国ていこく秩序ちつじょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2008ねん2がつISBN 978-4-8158-0585-2 
  • 高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう高松宮たかまつのみや日記にっき だいかん 昭和しょうわはちねんいちがついちにち昭和しょうわじゅうねんきゅうがつじゅうろくにち細川ほそかわ護貞もりさだ大井おおいあつし阿川あがわ弘之ひろゆき豊田とよだくまゆう編集へんしゅう委員いいん発行はっこうしゃ嶋中しまなかほう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1995ねん6がつISBN 4-12-403392-3 
  • 早川はやかわたかし日本にっぽん上流じょうりゅう社会しゃかいねやばつ角川書店かどかわしょてん、1983ねん9がつ、211-215ぺーじISBN 978-4-04-820001-1 
  • 伊藤いとう博文ひろぶみ文書ぶんしょぜん36かん檜山ひやま幸夫ゆきおそう編集へんしゅう伊藤いとう博文ひろぶみ文書ぶんしょ研究けんきゅうかい監修かんしゅう、ゆまに書房しょぼう、2007-2010ねんISBN 978-4-8433-2294-9,ISBN 978-4-8433-2295-6,ISBN 978-4-8433-2296-3,ISBN 978-4-8433-2297-0,ISBN 978-4-8433-2520-9 
  • 日本にっぽん名家めいか名門めいもん 人物じんぶつ系譜けいふ総覧そうらん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん57、だい28かん26ごう〉、2003ねん9がつ、226-227ぺーじISBN 4-404-03057-6 
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい14はん 下巻げかん人事じんじ興信所こうしんじょ、1943ねん
  • かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかいへん平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい 上巻じょうかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねん
  • はるうねこうつい頌会『伊藤いとう博文ひろぶみ国際こくさい政治せいじ うえへんしたへん書肆しょししんすい、2022ねん8がつ
伝記でんき
  • 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ へん伊藤いとう博文ひろぶみ直話じきわ 暗殺あんさつ直前ちょくぜんまでかたろした幕末ばくまつ明治めいじ回顧かいころく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ新人しんじんぶつ文庫ぶんこ〉、2010ねん4がつISBN 978-4-404-03839-5  - 唯一ゆいいつ回顧かいこ復刻ふっこく
  • 佐々木ささきたかし伊藤いとう博文ひろぶみ情報じょうほう戦略せんりゃく 藩閥はんばつ政治せいじたちの攻防こうぼう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1999ねん7がつISBN 4-12-101483-9 
  • 伊藤いとうゆう伊藤いとう博文ひろぶみ近代きんだい日本にっぽんつくったおとこ講談社こうだんしゃ、2009ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2015ねん3がつ
  • 伊藤いとう博文ひろぶみかたる 人柄ひとがら政治せいじ・エピソード』書肆しょししんすい、2022ねん9がつ平塚ひらつかあつしへん
映画えいが
テレビドラマ
テレビ番組ばんぐみ
  • 『NHKどう日本にっぽん にち戦争せんそう下関しものせき会議かいぎ』、役者やくしゃ内藤ないとう武敏たけとし
漫画まんが

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ はなわただしたからはなわただし明治維新めいじいしん政府せいふからしだされ大学だいがくしょうじょきょうにんぜられ、文部もんぶしょうじょきょう租税そぜいりょうじゅうとう出仕しゅっし修史しゅうしきょく御用ごようかけへといちきゅう幕臣ばくしんでありながらと異例いれい出世しゅっせ経験けいけんした。これについて小説しょうせつ司馬しばりょう太郎たろうは、伊藤いとう後年こうねん自責じせきねんからちゅうたから礼遇れいぐうしたのではないかと推測すいそくしている[10]
  2. ^ 引用いんようない西洋せいようれき新暦しんれき)。
  3. ^ 伊藤いとうはロシアとたたかうことにたいしては終始しゅうし慎重しんちょう態度たいどをとりつづけ、「おそれびょう」と揶揄やゆされることさえあった。伊藤いとうみずからロシアりしてにち提携ていけいみちさぐったことが、ぎゃくにロシアとのあいだでグレート・ゲームひろげていたイギリスを刺激しげきする結果けっかとなり、にちえい同盟どうめい締結ていけつへとつながったことはよくられている。[25]
  4. ^ 金子かねこが「そのような重大じゅうだい使命しめいたせない」と固辞こじすると、伊藤いとうは「ロシアが九州きゅうしゅう海岸かいがん来襲らいしゅうすれば自分じぶん武器ぶきをとってたたか覚悟かくごだ」とき、金子かねこはその気迫きはく感銘かんめいけて渡米とべい決意けついしたといわれる。[26]
  5. ^ 韓国かんこくがわではおつ保護ほご条約じょうやくぶ。
  6. ^ 広義こうぎ日本にっぽん統治とうち時代じだいとして韓国かんこく併合へいごう時代じだいの35ねん保護ほごこく時代じだいの5ねんをひとつながりでとらえることもある。
  7. ^ 私的してき蓄財ちくざいはほとんどないとされていた伊藤いとうだが、じつ公債こうさいだけで14まんえん(2009ねん換算かんさんやく28おくえん)もんでいたことがあきらかになっている[47]
  8. ^ 1876ねん発布はっぷオスマン帝国ていこく憲法けんぽう(ミドハト憲法けんぽう)は大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうより13ねんはやいが、2ねんの1878ねんから1908ねんまで停止ていしされており、また現在げんざいトルコ共和きょうわこく政府せいふはトルコをヨーロッパのいちこくとみなしている。
  9. ^ 後述こうじゅつの「嗚呼ああみにくしん軟猿乃図」では皇族こうぞくである有栖川ありすがわみや大将たいしょうぞうでさえ、楠木くすのき正成まさしげぞうがある宮城みやぎまえにはてなかったという主張しゅちょうがある。
  10. ^ なお、この事件じけんこる2にちまえ東京とうきょうでもにち戦争せんそう講和こうわ条約じょうやく内容ないよう不満ふまんったひとたちによる日比谷ひびや事件じけんきている。神戸こうべ場合ばあいおも被害ひがいったのは前述ぜんじゅつ銅像どうぞう関係かんけい有馬ありますじ西門にしもんすじ福原ふくはらこうの3かしょ派出所はしゅつじょ
  11. ^ 前述ぜんじゅつ破損はそんじょうきょうは『神戸こうべ新聞しんぶん』1905ねん9がつ9にちけの説明せつめいなのだが、1909ねん12月6にちづけ同紙どうしでは前回ぜんかいことなり「かおには別段べつだん異常いじょうはなく、後頭部こうとうぶ摩擦まさつこんはあるが台座だいざたかめにすれば目立めだたない、ふくのボタンやポケット付近ふきん目立めだ損傷そんしょうがあるがすぐになおせる範囲はんい。」としている。
  12. ^ 所有しょゆう寄付きふもうがあったため
  13. ^ なお、きずりまわしにされたほう銅像どうぞう知人ちじん服部はっとり一三かずみがしばらくにわき、かれ死後しごの1930ねん山口やまぐちけんはぎ伊藤いとう旧宅きゅうたくとなり寄付きふされるが戦争せんそうちゅう金属きんぞく供出きょうしゅつされ現存げんそんしない。
  14. ^ 明治めいじ42ねん(1909ねん松山まつやまでの講演こうえんかいでの発言はつげん
  15. ^ 海南かいなん新聞しんぶん1909ねん明治めいじ42ねん)3がつ18にちごう記事きじによると、同年どうねん3がつ16にち松山まつやまどうおとずれた伊藤いとう博文ひろぶみは、歓迎かんげいかい演説えんぜつなかみずからの出自しゅつじいて 「祖先そせんとうくにヨリデタルしゃニテ、伊予いよニハどうシク河野こうの末流ばつりゅうシトそんスルガ、祖先そせんハ300ねん以前いぜんニ於テ敗戰はいせん結果けっか河野こうの一族いちぞく滅亡めつぼうども中國ちゅうごくうつりリタルしゃテ「つうおこり(みちおき)」トしょう慶長けいちょう16ねん1609ねん)5がつ26にち死歿しぼつシタルガニ、明年みょうねんニテ恰モ300ねん相当そうとうス。かれハ「はやし淡路あわじまもるどおりおこり」トしょうシ、ハ其レヨリだい11代目だいめとうレリ。「つうおこり」ハ敗戰はいせんのち毛利もうりよりゆきリタルモ、毛利もうりとう敗軍はいぐんぞくシ、頗ル艱難かんなんごくメタルナルカニ、とげ村落そんらくうめ歿シ落魄らくはくシテ、僻遠へきえんナルカ寒村かんそん居住きょじゅうシ、其裔まご此処ここ存続そんぞくシテ、こん一族いちぞく60けんさんスルニいたりレリ。そくチ其いちにんニシテ、明年みょうねんヲ以テよわい70ニたちスルガニ、恰モ周防すおううつりリタルどおりおこり歿後ぼつご230ねん出生しゅっしょうシタルモノナリ。父母ちちははようセラレテはぎ城下しろしたデタルハ僅ニ8さいときニシテ、爾来じらい幾多いくた変遷へんせんけいテ、今日きょうニ及ベリ。近來きんらい家系かけいことニツイテとうこく諸君しょくんガ頗ル調査ちょうさ盡力じんりょくセラレタル結果けっか周防すおう移住いじゅう以前いぜん事蹟じせきだい明確めいかくなりリタレハ、明年みょうねん周防すおうニオイテ親族しんぞく参集さんしゅうシ、つうおこりためニ300回忌かいき法要ほうようヲ營ム心算しんさんナリ。今次こんじ當地とうちニ於テハ、諸君しょくんガ頗ル厚意こういヲ以テ來遊らいゆう歓迎かんげいセラレタルハ、みぎ縁故えんこもとクモノトシテ、殊更ことさら諸君しょくんたいシテ感謝かんしゃおもてスル次第しだいナリ。顧フニ古來こらい成敗せいばいあとニ就テこうフレハ、祖先そせんとうくにヨリデタルモノナレバ、とうくにそく祖先そせん故郷こきょうナリ。こん祖先そせん故郷こきょうらいリテクノ如ク熱誠ねっせいナル諸君しょくん歓迎かんげいヲ受ク。胸中きょうちゅうまんかんヲ惹カザルヲとくズ。本日ほんじつ諸君しょくんわが過失かしつろんゼズシテ、ただほろこうろくセラレタルニいたりテハ、ふか諸君しょくん厚意こういしんめいシテ忘却ぼうきゃくセズ」と発言はつげんしている。

出典しゅってん

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  3. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』1922ねん1がつ9にち朝刊ちょうかん政治せいじめん3ぺーじ「[くまこういろいろ]=2 菅原すがわら朝臣あそん重信しげのぶ縦横じゅうおう佐竹さたけたけし)(連載れんさい)」
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
山県やまがた有朋ありとも
西園寺さいおんじ公望きんもち
大木おおき喬任たかとう
新設しんせつ
日本の旗 枢密院すうみついん議長ぎちょう
だい10代:1909ねん
だい8だい:1903ねん - 1905ねん
だい3だい:1891ねん - 1892ねん
初代しょだい:1888ねん - 1889ねん
次代じだい
山県やまがた有朋ありとも
山県やまがた有朋ありとも
大木おおき喬任たかとう
大木おおき喬任たかとう
先代せんだい
土方ひじかた久元ひさもと
総裁そうさい心得こころえ
日本の旗 帝室ていしつ制度せいど調査ちょうさきょく総裁そうさい
1903ねん - 1907ねん
次代じだい
廃止はいし
先代せんだい
山県やまがた有朋ありとも
松方まつかた正義まさよし
新設しんせつ
日本の旗 法典ほうてん調査ちょうさかい総裁そうさい
1900ねん - 1901ねん
1898ねん
1893ねん - 1896ねん
次代じだい
かつら太郎たろう
大隈おおくま重信しげのぶ
松方まつかた正義まさよし
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 帝室ていしつ制度せいど調査ちょうさきょく総裁そうさい
1899ねん - 1900ねん
次代じだい
土方ひじかた久元ひさもと
総裁そうさい心得こころえ
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 参事院さんじいん議長ぎちょう
1881ねん - 1882ねん
次代じだい
山県やまがた有朋ありとも
先代せんだい
塚本つかもとあきらあつし
正院しょういん法制ほうせい課長かちょう
日本の旗 法制ほうせいきょく長官ちょうかん
1875ねん - 1879ねん
次代じだい
井上いのうえかおる
先代せんだい
新設しんせつ欠員けついん
日本の旗 こうきょう
1873ねん - 1878ねん
次代じだい
欠員けついん→)井上いのうえかおる
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 しょうくんきょく長官ちょうかん
1876ねん - 1878ねん
しょうくん事務じむきょく長官ちょうかん
1876ねん
次代じだい
三条さんじょう実美みみ
総裁そうさい
先代せんだい
後藤ごとうもと
日本の旗 こう大輔だいすけ
1871ねん - 1873ねん
(1872ねんから山尾やまお庸三ようぞう共同きょうどう
次代じだい
山尾やまお庸三ようぞう
先代せんだい
渋沢しぶさわ栄一えいいち(→欠員けついん
租税そぜいただし
日本の旗 租税そぜいあたま
1871ねん
次代じだい
欠員けついん→)陸奥むつ宗光むねみつ
先代せんだい
馬渡まわたりしゅん
日本の旗 造幣ぞうへいあたま
1871ねん
次代じだい
欠員けついん廃止はいし
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 大蔵おおくらしょう
1869ねん - 1871ねん
(1870ねんちゅう吉井よしい友実ともみと、1870ねんから1871ねん途中とちゅうまで井上いのうえかおる共同きょうどう
次代じだい
津田つだいずる
先代せんだい
新設しんせつ欠員けついん
日本の旗 みんしょう
1869ねん - 1870ねん
(1870ねん途中とちゅうから吉井よしい友実ともみ共同きょうどう
次代じだい
吉井よしい友実ともみ
とうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい
初代しょだい:1900ねん - 1903ねん
次代じだい
西園寺さいおんじ公望きんもち
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
公爵こうしゃく
伊藤いとう博文ひろぶみ初代しょだい
1907ねん - 1909ねん
次代じだい
伊藤いとうひろしくに
先代せんだい
陞爵
侯爵こうしゃく
伊藤いとう博文ひろぶみ初代しょだい
1895ねん - 1907ねん
次代じだい
陞爵
先代せんだい
叙爵じょしゃく
伯爵はくしゃく
伊藤いとう博文ひろぶみ初代しょだい
1884ねん - 1895ねん
次代じだい
陞爵