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だい1かい帝国ていこく議会ぎかい

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だい1かい帝国ていこく議会ぎかい議場ぎじょうであったかり議事堂ぎじどうだいいち。1891ねん1がつ20日はつか焼失しょうしつ後述こうじゅつ)。

だい1かい帝国ていこく議会ぎかい(だい1かい ていこくぎかい)は、1890ねん明治めいじ23ねん11月29にち開会かいかいされた大日本帝国だいにっぽんていこく帝国ていこく議会ぎかい通常つうじょうかい)。

経緯けいい概要がいよう

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だい1かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ党派とうはべつ議席ぎせきすう
だいいちかい帝国ていこく議会ぎかい楊洲周延しゅうえん

1890ねん明治めいじ23ねん11月25にちだい1やま縣内けんないかくもとで、だい1かい帝国ていこく議会ぎかい召集しょうしゅうされた[1]午前ごぜん10開会かいかいし、衆議院しゅうぎいんでは、だい1かいそう選挙せんきょ日本にっぽん全国ぜんこく257のしょう選挙せんきょからえらばれた300めい議員ぎいんのうち290めい登院とういんし、いちにちかけて議長ぎちょう中島なかじま信行のぶゆきが、ふく議長ぎちょう津田つだ真道まみち選出せんしゅつされた[2][3][注釈ちゅうしゃく 1]中江なかえ兆民ちょうみんは、自由じゆう民権みんけん運動うんどうながれをはん政府せいふがわ勢力せいりょくを「みんとう」、政府せいふりの政党せいとう勢力せいりょくを「吏党」とんだが、これは一躍いちやく時代じだい流行りゅうこうとなった[2]議会ぎかいでは、「みんとう」のがわが171めい絶対ぜったい多数たすうめていた[2][3]

これにたいし、貴族きぞくいんでは党派とうは排除はいじょ気風きふうつよかったが、やがて政策せいさく研究けんきゅう団体だんたい親睦しんぼく団体だんたい主旨しゅしとする研究けんきゅうかいなどの会派かいはまれた[3][注釈ちゅうしゃく 2]

12月6にち山縣やまがた有朋ありとも内閣ないかく総理そうり大臣だいじん施政しせい方針ほうしん演説えんぜつ主権しゅけんせん国境こっきょう)とともに利益りえきせん朝鮮ちょうせん)の防衛ぼうえいのための軍事ぐんじりょく増強ぞうきょう主張しゅちょうした(「主権しゅけんせん利益りえきせん演説えんぜつ」)[3][4]。これにたいし、とく質疑しつぎ反論はんろんなどはなかった[3]黒田くろだ清隆きよたか山縣やまがた持論じろんである「超然ちょうぜん主義しゅぎ」についての質問しつもんもなかった[3]

やま縣内けんないかく軍事ぐんじりょく増強ぞうきょうのための予算よさんあん議会ぎかい計上けいじょうしたが、これについてはみんとうがわが「せい節減せつげん民力みんりょく休養きゅうよう」を主張しゅちょうしたため、政府せいふ議会ぎかいするど対立たいりつした[4]みんとうグループは松方まつかた財政ざいせいによる多年たねん農村のうそん疲弊ひへいすくうことのほう軍事ぐんじ増強ぞうきょうよりも先決せんけつだとして、政府せいふ提案ていあん予算よさんあんについて、その1わり削減さくげんすべきと主張しゅちょうした[4]。「民力みんりょく休養きゅうようろん」は、各地かくち凶作きょうさく発生はっせいし、商工しょうこう業界ぎょうかい最初さいしょ経済けいざい恐慌きょうこう経験けいけんし、都市としには貧民ひんみん問題もんだいしょうじている状況じょうきょうからみて充分じゅうぶん根拠こんきょのある主張しゅちょうであった[4][注釈ちゅうしゃく 3]

政府せいふは、とく後藤ごとう象二しょうじろう陸奥むつ宗光むねみつの2閣僚かくりょう中心ちゅうしん立憲りっけん自由党じゆうとう一部いちぶ土佐とさ)をくず工作こうさくすすめ、修正しゅうせい予算よさんあんをつくらせたうえで、わずか2ひょうでこれをとおし、一部いちぶ予算よさん可決かけつさせた[4][注釈ちゅうしゃく 4]政府せいふとしては、アジア最初さいしょ議会ぎかいとして世界せかいてき注目ちゅうもくされているところから、最初さいしょ議会ぎかい解散かいさんはどうしてもけたかったのである[4]

だい1かい帝国ていこく議会ぎかい難題なんだいとされたのが一院いちいん主格しゅかくせつるか両院りょういん主格しゅかくせつるかということであった[6]議会ぎかいがどの段階だんかい憲法けんぽうだい67じょう関連かんれん費目ひもくはいげん要求ようきゅうおこなうかというてん検討けんとう課題かだいとされ、政府せいふのなかでも議会ぎかいのなかでも意見いけんかれた[6]1891ねん2がつには政府せいふ見解けんかいかくいん議了ぎりょうごとということに見解けんかいかたまった[6]貴族きぞくいんがいして政府せいふ好意こういてきであり、両院りょういん議了ぎりょう政府せいふ有利ゆうりであるかのようにみえるが、井上いのうえあつしによれば、両院りょういん査定さてい合意ごういしたのちにはいげん要求ようきゅうしてきたとき(両院りょういん主格しゅかくせつ場合ばあい)、政府せいふには全面ぜんめん同意どういか、もしくは全面ぜんめん同意どういかの二者択一にしゃたくいつしかがなくなり、前者ぜんしゃならば政府せいふ完全かんぜん敗北はいぼく後者こうしゃならば予算よさん不成立ふせいりつということになってしまう[6]山縣やまがた首相しゅしょうは、これではこまるので一院いちいん議了ぎりょうにその都度つどはいげん要求ようきゅうおこな一院いちいん主格しゅかくせつ採用さいようしてほしいとの見解けんかいしめした[6]

しょうべつ議了ぎりょうとするあんほん会議かいぎ段階だんかいとするあんなどもされたがいずれも否決ひけつされ、結局けっきょく衆議院しゅうぎいんにおいて一院いちいん主格しゅかくせつ可決かけつされた[6]政府せいふ全面ぜんめん降伏ごうぶく予算よさん不成立ふせいりつかという最悪さいあく事態じたいけることができたが、一方いっぽうでは天野あまの動議どうぎ(67じょう費目ひもくはいげんするさいにはほん会議かいぎでの逐項審議しんぎえた時点じてん政府せいふ同意どういるべしとの動議どうぎ)の成立せいりつによって衆議院しゅうぎいん単独たんどくでの発議はつぎ可能かのうとなった[6]天野あまの動議どうぎもまた土佐とさ工作こうさくによってされたものであり、最初さいしょ議会ぎかい解散かいさんなしでわらせたいという配慮はいりょからしょうじたものであった[6]

会期かいき終了しゅうりょうは1891ねん明治めいじ24ねん3月7にち

かり議事堂ぎじどう焼失しょうしつ

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小林こばやし清親きよちか帝国ていこく議事堂ぎじどうえん上之うえの』(1891ねん

帝国ていこく議会ぎかい議場ぎじょうかり議事堂ぎじどうだいいち)は、会期かいきちゅうの1891ねん1がつ20にち未明みめい失火しっかにより全焼ぜんしょうした。そのため、衆議院しゅうぎいん議場ぎじょう東京とうきょうおんながくかんきゅうこうだい学校がっこう)へうつし、貴族きぞくいん華族かぞく会館かいかんきゅう鹿しかかん)、のち初代しょだい帝国ていこくホテル議場ぎじょうとして使用しようし、会期かいき終了しゅうりょうした[7]。そのだいかり議事堂ぎじどうが1891ねん10がつ30にち竣工しゅんこうし、だい2かい帝国ていこく議会ぎかいよりだい50かい帝国ていこく議会ぎかいまでもちいられた(だい7かい帝国ていこく議会ぎかいのぞく)[7]

衆議院しゅうぎいん書記官しょきかんちょう曾禰あらすけ火災かさい翌日よくじつに『官報かんぽうじょう漏電ろうでん火災かさい原因げんいんであると公示こうじしたが[8][9]、これによって当時とうじ電化でんかすすめていた東京とうきょう電燈でんとう大阪おおさか電灯でんとうなどの電力でんりょく会社かいしゃ打撃だげきをこうむった[9]。『官報かんぽう』の公示こうじった人々ひとびと電気でんき点灯てんとう休止きゅうし次々つぎつぎもうれたほか、照明しょうめい事業じぎょう競合きょうごうしていた石油せきゆ販売はんばい会社かいしゃ電力でんりょく批判ひはん広告こうこく展開てんかいするなどしたため[9]東京とうきょう電燈でんとう漏電ろうでん火災かさい原因げんいんではないとして公示こうじ訂正ていせいもとめて曾禰を告訴こくそするが敗訴はいそし、社長しゃちょう矢島やじま作郎さくろう以下いかぜん役員やくいん引責いんせき辞任じにんした[9]。また、当時とうじ電力でんりょくかいでは送電そうでん方式ほうしきをめぐり、直流ちょくりゅう主張しゅちょうする東京とうきょう電燈でんとう交流こうりゅうかかげる大阪おおさか電灯でんとうとのあいだ論争ろんそうがあったが、この火災かさい契機けいき電力でんりょく業界ぎょうかい団体だんたい必要ひつようせいたかまり、日本にっぽん電燈でんとう協会きょうかい日本電気にほんでんき協会きょうかい前身ぜんしん)が1892ねん明治めいじ25ねん)に設立せつりつされるにいたった[9]

議席ぎせきすう

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貴族きぞくいん

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種別しゅべつ 員数いんずう[10]
皇族こうぞく 10
公爵こうしゃく 10
侯爵こうしゃく 21
伯爵はくしゃく 14
子爵ししゃく 70
男爵だんしゃく 20
みことのりせん 61
多額たがく納税のうぜいしゃ 45
総計そうけい 251

衆議院しゅうぎいん

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会派かいは政党せいとう 議席ぎせきすう概数がいすう[注釈ちゅうしゃく 5] 議席ぎせきすう会期かいき終了しゅうりょう[10]
吏党 85 113
大成たいせいかい 85 75
国民こくみん自由党じゆうとう - 5
自由じゆう倶楽部くらぶ自由党じゆうとう土佐とさ - 33
みんとう 174 128
弥生やよい倶楽部くらぶ立憲りっけん自由党じゆうとう 131 86
議員ぎいん集会しゅうかいしょ立憲りっけんあらためしんとう 43 42
無所属むしょぞく 41 55
欠員けついん - 4
総計そうけい 300 300

法律ほうりつあん

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区分くぶん 提出ていしゅつ件数けんすう[11] 成立せいりつ件数けんすう[11]
政府せいふ提出ていしゅつ 10 4
貴族きぞくいん議員ぎいん発議はつぎ 2 0
衆議院しゅうぎいん議員ぎいん発議はつぎ 41 2
総計そうけい 53 6

成立せいりつしたおも法律ほうりつあん

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不成立ふせいりつとなったおも法律ほうりつあん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 議院ぎいんほうではせいふく議長ぎちょう衆議院しゅうぎいんえらんだ3めい候補こうほのなかから天皇てんのう任命にんめいすることとなっているが、天皇てんのうかなら最多さいた得票とくひょうしゃ任命にんめいするので実質じっしつてき公選こうせんせいといってよかった[3]
  2. ^ 貴族きぞくいんでは成年せいねん男子だんし皇族こうぞく議席ぎせきゆうしていたが、皇族こうぞく政治せいじ関与かんよける観点かんてんから出席しゅっせきしないことが慣例かんれいした[3]
  3. ^ ただし、みんとうねらいは減税げんぜい実現じつげんというそのことよりは、実行じっこう困難こんなん要求ようきゅうきつけて藩閥はんばつ政府せいふめることにあったとの指摘してきがある[5]実際じっさい問題もんだいとして、軍事ぐんじ公共こうきょう事業じぎょう国債こくさい償還しょうかん聖域せいいきとしてけず、そのうえでの予算よさん削減さくげんによる「民力みんりょく休養きゅうよう」は数字すうじうえでは破綻はたんしていた[5]予算よさん委員いいんかい査定さていあんでは官吏かんりすう削減さくげんふく官制かんせい改変かいへん必要ひつようなものがふくまれており、予算よさん本来ほんらい法令ほうれい実施じっしする結果けっかであるはずなのに、予算よさん削減さくげんすることで官制かんせい改変かいへんするのは本末転倒ほんまつてんとうであるとの見方みかた政府せいふしめし、これには自由党じゆうとう土佐とさきゅう愛国あいこく公党こうとうけい)からも政府せいふ同様どうよう批判ひはんがあった[5]
  4. ^ 土佐とさ」28めいのなかには植木うえき枝盛えもりのすがたもあった[4]左派さは中江なかえ兆民ちょうみんは、これを「裏切うらぎり」ととらえ「衆議院しゅうぎいんかれはこしかして、尻餅しりもちをつきたり…無血むけつちゅう陳列ちんれつじょうやめ(や)みなん、やめみなん」と非難ひなんし、議員ぎいん辞職じしょくしてしまった[4]
  5. ^ 衆議院しゅうぎいん会派かいはべつ所属しょぞく議員ぎいんすうについては、だい36かい帝国ていこく議会ぎかいまで開院かいいんしき当日とうじつ数字すうじがないため、概数がいすうとなる[10]
  6. ^ 政府せいふ提出ていしゅつ明治めいじ24ねん法律ほうりつだい3ごう
  7. ^ 衆議院しゅうぎいん発議はつぎ明治めいじ23ねん法律ほうりつだい108ごう
  8. ^ 政府せいふ提出ていしゅつ明治めいじ23ねん法律ほうりつだい109ごう
  9. ^ 衆議院しゅうぎいん発議はつぎ明治めいじ24ねん法律ほうりつだい2ごう
  10. ^ 衆議院しゅうぎいん発議はつぎ
  11. ^ 衆議院しゅうぎいん発議はつぎ
  12. ^ 政府せいふ提出ていしゅつ
  13. ^ 衆議院しゅうぎいん発議はつぎ
  14. ^ 衆議院しゅうぎいん発議はつぎ

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 色川いろかわ大吉だいきち日本にっぽん歴史れきし21 近代きんだい国家こっか出発しゅっぱつ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1974ねん8がつ 
  • 佐々木ささきたかし日本にっぽん歴史れきし21 明治めいじじん力量りきりょう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2010ねん3がつISBN 978-4-06-291921-0 
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん へん議会ぎかい制度せいどひゃくねん 帝国ていこく議会ぎかい上巻じょうかん衆議院しゅうぎいん、1990ねんNDLJP:9675692 

関連かんれん項目こうもく

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