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小林こばやし清親きよちか

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小林こばやし 清親きよちか
1873ねんごろ下岡しもおか蓮杖れんじょう撮影さつえいとされる[1]
誕生たんじょう (1847-09-10) 1847ねん9がつ10日とおか
出生しゅっしょう 江戸えど本所ほんじょ
死没しぼつねん (1915-11-28) 1915ねん11月28にち(68さいぼつ
死没しぼつ 東京とうきょう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
運動うんどう動向どうこう 光線こうせん
芸術げいじゅつ分野ぶんや 浮世絵うきよえ風刺ふうし漫画まんが
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小林こばやし 清親きよちか(こばやし きよちか、1847ねん9がつ10日とおかひろし4ねん8がつ1にち)- 1915ねん大正たいしょう4ねん11月28にち[2] )は、明治めいじ時代じだい浮世絵うきよえ明治めいじ10ねん1877ねんごろに、江戸えどからうつわる東京とうきょう様子ようす版画はんが表現ひょうげんした。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

新橋しんばしステンシヨン。1881ねん
両国りょうこく大火たいか浅草橋あさくさばし。1881ねん
武蔵むさしひゃくけいうち江戸えどきょうより日本橋にほんばしけい。1884ねん
平壌ぴょんやん攻撃こうげき電気でんき使用しよう。1894-95ねん
あめのおちゃみずかみほんちょしょく明治めいじ30年代ねんだい以降いこうロサンゼルスぐん美術館びじゅつかんぞう

浮世絵うきよえとなるまで[編集へんしゅう]

江戸えど本所ほんじょにて幕臣ばくしん本所ほんじょ御蔵おぐら小揚こあげ頭取とうどりつとめる小林こばやし茂兵衛もへいとしてまれる。はは浅草あさくさ御蔵おぐらかた小揚こあげあたまつとめた松井まつい安之助やすのすけ長女ちょうじょちか。9にん兄弟きょうだい末子まっしで、幼名ようみょう勝之助かつのすけ小林こばやし足軽あしがるきゅう軽輩けいはいであったが、蔵米くらまいあつか職務しょくむじょうばんかた同心どうしんより裕福ゆうふくであり、いえには剣客けんかく居候いそうろうがおり、また出入でいりの医師いしもいるほどであった[3]。 1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)、15さいときちちくなったため勝之助かつのすけ元服げんぷくし、清親きよちか名乗なのり、家督かとく[4]末子まっしである清親きよちか家督かとくぐこととなった理由りゆうは3にんあに茂兵衛もへい律義りちぎさをきら別居べっきょ独立どくりつしていたからである[5]

1865ねん元治もとはる2ねん慶応けいおう元年がんねん)の徳川とくがわ家茂いえもち上洛じょうらくだい長州ちょうしゅう征討せいとう)に勘定かんじょう下役したやくとして随行ずいこうし、[6]そのまま大坂おおさかまる。1868ねん慶応けいおう4ねん)1がつ鳥羽とば伏見ふしみたたかくわわった[7]鳥羽とば伏見ふしみたたかいののち汽船きせんにて大坂おおさかから江戸えど帰還きかん江戸えどではふたた御蔵おぐらやくしょくいた。 同年どうねん5がつ上野うえの戦争せんそうときにはぞう奉行ぶぎょう命令めいれいにより戦況せんきょう偵察ていさつ下谷しもたに広小路ひろこうじ伊勢屋いせや(かりなべ)付近ふきんにておこなったが、ながだま自身じしんがわ通過つうかするなど間一髪かんいっぱつなんのがれている[8]幕府ばくふ消滅しょうめつ浅草あさくさ御蔵おぐらしん政府せいふわたされ清親きよちかろくとなり、ははちかの「公方くぼうさま先途せんど見届みとどいのは不忠ふちゅうだ。慶喜よしのぶさまあとえ」とのげんしたがい、徳川とくがわ慶喜よしのぶらをって静岡しずおかくだ[8]。 1870ねん明治めいじ3ねん)12月からよく71ねん(どう4ねん)4がつごろまで、食客しょっきゃくとなった鷲津わしづ(わしづ)むらげん湖西こせい鷲津わしづ)にて、同居どうきょしゃ子孫しそんから、清親きよちかは「ひまときえがいていた」との証言しょうげんがある[9]

生計せいけいてるため、1874ねん明治めいじ7ねん)、ははとともに東京とうきょうもど[10][8]東京とうきょうでは6しゃくあまりの長身ちょうしん特技とくぎである剣術けんじゅつうでかして榊原さかきばら健吉けんきち撃剣げっけん興行こうぎょうだん参加さんかすることでそのかてていた[8][11]

浮世絵うきよえとしての活動かつどう[編集へんしゅう]

帰京ききょう、そのとしのうちにはは死去しきょははあと本格ほんかくてき絵師えしこころざし、[8]河鍋かわなべ暁斎きょうさい柴田しばたただししんらと席画せきがかい後援こうえんしゃまえにて、即興そっきょう書画しょが揮毫きごうすること。)をともにしたとわれる[12][4]チャールズ・ワーグマン西にし洋画ようがほうならった逸話いつわもある[13]が、2010年代ねんだいでは、否定ひていてきられており[14]明確めいかくなかったとかんがえるせつ複数ふくすうてきている[15][16]

1876ねん明治めいじ9ねん)1がつ版元はんもと大黒屋だいこくや松木まつき平吉へいきちから「東京とうきょう江戸えどきょうけい」「東京とうきょう五大橋之一両国真景」を版行はんこう同年どうねん8がつに『東京とうきょう名所めいしょ』シリーズを版行はんこうする。明暗めいあん強調きょうちょうし、先達せんだつの「開化かいか」とはことなる、洋紅ようこう多用たようしない、上品じょうひんいろ使づかいと、輪郭りんかくせんもちいない(使つかってもすみではなく、茶色ちゃいろ[17]空間くうかん表現ひょうげんで、東京とうきょう発展はってん人々ひとびと変化へんかえがき、「光線こうせん」とばれ[注釈ちゅうしゃく 1]人気にんき絵師えしとなる[19]

1881ねん明治めいじ14ねん)、『團團だんだん珍聞ちんぶん』に入社にゅうしゃ。「ポンチ絵ぽんちえ」とばれる社会しゃかい風刺ふうし漫画まんがを、木版もくはん錦絵にしきえだけでなく、石版せきばん[注釈ちゅうしゃく 2]どう版画はんが[注釈ちゅうしゃく 3]による新聞しんぶん挿絵さしえでも表現ひょうげんした[21][22]。それによって「光線こうせん」は90すうてんえることになる[23][注釈ちゅうしゃく 4]

1884-85ねん明治めいじ17-18ねん)には、「近接きんせつ拡大かくだいほう」とばれる、近景きんけい極端きょくたんおおきくえがいた、歌川うたがわ広重ひろしげ名所めいしょ江戸えどひゃくけい』の影響えいきょう顕著けんちょ[注釈ちゅうしゃく 5]武蔵むさしひゃくけいこれないぜん34版行はんこう[27]、「光線こうせん」の「革新かくしん」から、懐古かいこてき画風がふうわる[注釈ちゅうしゃく 6]

1894(明治めいじ27ねん)に團團だんだん珍聞ちんぶん退社たいしゃし、「清親きよちかじゅく」をひらく(1896ねんまで)。『あわ墨絵すみえ独習どくしゅうほう』『もうなまりどく稽古けいこ[注釈ちゅうしゃく 7]ひとし教本きょうほん出版しゅっぱんしている[29]

にちしん戦争せんそうとき戦闘せんとう場面ばめんえがいた錦絵にしきえを80てん以上いじょう版行はんこうした。なかには5まいつづきものもある[30]おおくの絵師えし戦争せんそうえがき、そのなかには清親きよちか門人もんじん田口たぐち米作べいさくもいた[31]戦争せんそう全体ぜんたい版行はんこうすうは300てん以上いじょうで、清親きよちかのそれがもっとおおかった[32]画風がふうかつての「光線こうせん」をおもわせる[33]にち戦争せんそうときにも「光線こうせんふう戦争せんそうえがいた[34]

その新聞しんぶん写真しゃしん石版せきばんひとししん媒体ばいたい市場いちばうばわれ、錦絵にしきえ注文ちゅうもんくなる。各地かくちたびし、肉筆にくひつ揮毫きごうするようになった[35][36]

1900ねん明治めいじ33ねん)、『ろく新報しんぽう』に入社にゅうしゃするが、そこでの連載れんさい記事きじ掲載けいさいめてもらうため賄賂わいろったとして、つまヨシ共々ともども逮捕たいほされ、1903ねん裁判さいばんける[37][38][39]。その肺炎はいえんため伴侶はんりょとも寝込ねこむことになり、『ろく新報しんぽう』を退社たいしゃする[40][41][注釈ちゅうしゃく 8]

1915ねん大正たいしょう4ねん)、68さいぼっす。法名ほうみょう真生まさおいんたいだけ清親きよちか居士こじはか台東たいとう元浅草もとあさくさりゅうぶくいんにあり[42]渡辺わたなべ庄三郎しょうざぶろう建立こんりゅうによる「清親きよちか画伯がはくいしぶみ」もある[43][44]

弟子でし[編集へんしゅう]

光線こうせん継承けいしょうした井上いのうえ安治やすじポンチ絵ぽんちえ戦争せんそうえがいた田口たぐち米作べいさく詩人しじん金子かねこ光晴みつはる、30年間ねんかんわたって師事しじした土屋つちやひかりいっ珍品ちんぴん収集しゅうしゅう三田みた平凡へいぼんてら[45]らがいる。このほか武田たけだ保太郎やすたろう岡本おかもと源太郎げんたろう鈴木すずき兵太郎へいたろう近藤こんどう鶴次郎つるじろう西川にしかわぐりえだ大須賀おおすがのぼるえだ篠原しのはら清興せいきょう上沼かみぬま勝太郎かつたろう山内やまうちわたる次郎じろう吉田よしだ美芳みよし高橋たかはし芝山しばやま牧野まきの昌広まさひろ相木あいのきしんぶねひとしつたわっている。[46]また、清親きよちか私淑ししゅく直接ちょくせつ師弟してい関係かんけいいが、個人こじんてきあおぐこと。)したものとして、小倉こくら柳村やなぎむら野村のむらかおるこくげられる[47]

家族かぞく[編集へんしゅう]

1870ねん明治めいじ3ねん)に最初さいしょつまきぬと結婚けっこん、2じょむ。1883ねんどう16ねん)にきぬと離婚りこんし、よく84ねんどう17ねん)に田島たじま芳子よしこ結婚けっこんする。3じょをもうける。じょ哥津かつは、ふつ英和えいわ高等こうとう女学校じょがっこうげん白百合学園しらゆりがくえん中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう在学ざいがくちゅうに、平塚ひらつか雷鳥らいちょうらの『青鞜せいとう』の編集へんしゅうたずさわった[48]

論評ろんぴょう研究けんきゅう[編集へんしゅう]

清親きよちか作品さくひんを「古典こてん」として論評ろんぴょうした、最初さいしょ著述ちょじゅつしゃとして、木下きのした杢太郎もくたろうげられる。

錦絵にしきえ5・60まい入手にゅうしゅし、1913ねん大正たいしょう2ねん)に清親きよちかろんしるした[49]のがきっかけで、清親きよちか面会めんかいし、昔話むかしばなしき、写生しゃせいじょう5さつしてもらった[50]杢太郎もくたろうは『東京とうきょう名所めいしょ』シリーズを、「東京とうきょう[51]えがいたとし、「当時とうじ市街しがい情調じょうちょうえがくもの、くにてるあり、さんだい広重ひろしげあり、芳年ほうねんあり、よしとらあり、国政こくせいあり、孰れも清親きよちかおよばず。ただがいぞう模写もしゃするをりてごう時人じじん心情しんじょうぞうせざりしをもってなり。おもふに清親きよちかよろこ所以ゆえん平民へいみん詩境しきょうよろこぶなり(りゃく清親きよちかあかり時期じきせるいち太平たいへい時代じだい明治めいじじゅういくねん前後ぜんこう社会しゃかい情緒じょうちょげんはす(以下いかりゃく正字せいじ新字しんじあらためた。以下いかおなじ。)」とべる[52]

杢太郎もくたろうろんけ、永井ながい荷風かふうは、「当時とうじ都下とか平民へいみんしんすめらぎじょう門外もんがいてられたこの西洋せいようづくりあおて、いかなる新奇しんきねんとまた崇拝すうはいじょうれたか。それとう感情かんじょうあたらしい画工がこううんはゞ稚気ちきびたしん画風がふうふるめかしい木版もくはんすり技術ぎじゅつあい俟つて遺憾いかんなく紙面しめん躍如やくじょとしてゐる(りゃく小林こばやしおう東京とうきょう風景ふうけいは(りゃく明治めいじ初年しょねん東京とうきょうを窺ひるべき無上むじょう資料しりょうである(りゃくしか小林こばやしおうはんぶつえがかれたあたらしい当時とうじ東京とうきょうも、わずさんじゅうねんとはたぬなかさらさらあたらしいだい東京とうきょうなるものゝ発達はったつするにしたがえつて、漸次ぜんじあとかたもなく消滅しょうめつしてきつゝある。」とかた[53]

また高橋たかはし誠一郎せいいちろうは、明治めいじ20年代ねんだい尋常じんじょう小学校しょうがっこう時代じだいから錦絵にしきえ蒐集しゅうしゅうをしていた経験けいけん[54]から、清親きよちかを「日本にっぽん版画はんがにこれまでなかった」「木版もくはん技術ぎじゅつ表現ひょうげんされた西洋せいよう」とひょうし、「一番いちばんおもふかいのは、小林こばやし清親きよちか月岡つきおか芳年よしとしにんである。」とかた[55]

そして複数ふくすう論者ろんしゃが、歌川うたがわ広重ひろしげ清親きよちか比較ひかくするようになる。

たとえば森口もりぐち多里たりは、「広重ひろしげ旅愁りょしゅうたいして、明治めいじ名所めいしょ絵画かいが小林こばやし清親きよちかくまで都会とかい情調じょうちょうきてゐる。清親きよちか人工じんこう自然しぜんとの美妙びみょう結合けつごうおおくの興味きょうみせてゐる。両国りょうこく川開かわびらきのおいては、花火はなび強烈きょうれつ光輝こうきよるやみ作用さようするときの美観びかんえがいてゐる(りゃく広重ひろしげまた両国りょうこく花火はなびえがいてゐるけれども、清親きよちかのとは反対はんたいだい自然しぜんなか人間にんげん所業しょぎょうといふかんじにさそうてく(りゃくかれ版画はんがには、人工じんこうひかり効果こうかげんはしたものがおおい。かれは、人工じんこうひかり美観びかんからいんを捉へたる最初さいしょ日本にっぽん画家がかである。」とべる[56]

竹内たけうちげんふうは「いちたてとき広広ひろびろ(ママ)じゅう江戸えど末期まっき代表だいひょうてき風景ふうけい画家がかうんるならば、小林こばやし清親きよちか明治めいじ初期しょき代表だいひょうてき風景ふうけい画家がかうんつてよろしからう。彼等かれら両人りょうにんこころみた風景ふうけい版画はんがは、芸術げいじゅつてき価値かちゆたかなもので、版画はんが史上しじょう特筆大書とくひつたいしょひするものであるが、さら懐古かいこ乃至ないし風俗ふうぞくてき意味いみうえからうんつても、また好個こうこのドキユーメントとして尊重そんちょうせざるをない。/かりに、わたしども東海道とうかいどうたびするとする、どこに広重ひろしげじゅうさんるやうなおもかげがあるか。また東京とうきょう市内しないあるいてるとする。広重ひろしげ江戸えど名所めいしょはおろか、どこに清親きよちか東京とうきょう名所めいしょるやうな情趣じょうしゅざんつてるか。それはいともありがたい『文明開化ぶんめいかいか』のおかげで、殆んど出鱈目でたらめ破壊はかいされてしまつたのである(りゃく明治めいじしん時代じだいはいり、小林こばやし清親きよちかこころみた風景ふうけい版画はんがのそれをるに、かれ流浪るろうたびよりもどつて東京とうきょうきょさだめ、多年たねん造詣ぞうけい情熱じょうねつとを傾倒けいとうして製作せいさく従事じゅうじし、佳作かさく頻発ひんぱつしたのはきゅうねんごろよりじゅうよんねんごろへかけてのことで、馬車ばしゃ人力車じんりきしゃねりかわらづくり瓦斯燈がすとう鉄橋てっきょうおかふけふけ汽船きせん、バツテーラ[注釈ちゅうしゃく 9]山高やまたかシヤツポトンビフロツクコートステツキ蝙蝠傘こうもりがさ[注釈ちゅうしゃく 10]写真しゃしんまんじゅう時計とけい[注釈ちゅうしゃく 11]夜会やかいまき、フアンシーボール[注釈ちゅうしゃく 12]等々とうとう。斯うしたボキヤブラリーの蕪雑ぶざつ羅列られつそのまゝ。文明ぶんめい史家しか所謂いわゆる猿芝居さるしばい時代じだい』なる過渡かとしん様相ようそう社会しゃかい生活せいかつを綯ひぜてつたへたのが、かれしん風景ふうけい版画はんがそのものにほかならない。/清親きよちかまた広重ひろしげおとらぬ美的びてきじょうと、尖鋭せんえい繊細せんさい感覚かんかくきた詩人しじんはだひとであつた。」(「/」は段落だんらくえ。)と、広重ひろしげ清親きよちか等価とうかにとらえている[62]

この二人ふたりとう比較ひかくもとに、清親きよちかは「明治めいじ広重ひろしげ」とばれるようになる[47]

1970年代ねんだい以降いこうは、静岡しずおか時代じだい動向どうこう[63][64]暁斎きょうさいとのつながり[65]作品さくひんにみる開化かいか交通こうつう機関きかん[66]風刺ふうし研究けんきゅう[67]、アメリカ版画はんがからの影響えいきょう[68]戦争せんそう[69]肖像しょうぞう[70]版木はんぎ[71]など、多様たよう研究けんきゅうがなされている。

清親きよちかは「最後さいご浮世絵うきよえ」とわれることがある[72][73]。ただし、同様どうようばれる浮世絵うきよえ複数ふくすういる[注釈ちゅうしゃく 13]。それにたいして内藤ないとう正人まさとは、明治めいじ浮世絵うきよえ一括いっかつして「最後さいご浮世絵うきよえ、あるいは、あらたな表現ひょうげん可能かのうせい模索もさくした絵師えし」としている[83]

鈴木すずきしげるさんは、清親きよちかを「洋画ようが専攻せんこうした画家がか」として、輪郭りんかくせんたよらない「光線こうせん」を評価ひょうかし、かれを「浮世絵うきよえ」となしていない[84]

作品さくひん[編集へんしゅう]

錦絵にしきえ[編集へんしゅう]

イルミネーション 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん提供ていきょう
ガス灯がすとう実演じつえんガスミュージアム)

どう版画はんが[編集へんしゅう]

  • 甲州こうしゅうさるきょう」 1879-81ねん このほかに9てんどう版画はんがられている[よう出典しゅってん]

石版せきばん[編集へんしゅう]

  • 富士ふじじゅうけい」 よこちゅうばん 12まいぞろい 1890ねん[よう出典しゅってん] 

肉筆にくひつ[編集へんしゅう]

  • 開化かいか東京とうきょう 両国りょうこく橋之はしの絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 114.3×36.2cm 太田おおた記念きねん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう 1877ねん‐1882ねんころ
  • 獅子しし屏風びょうぶ絹本けんぽん着色ちゃくしょく きょく一双いっそう 千葉ちば美術館びじゅつかん所蔵しょぞう 1884ねん
  • 富士川ふじかわ上流じょうりゅうあきけい絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく清親きよちか」 「真生まさおしゅぶんかたしるし
  • いさ絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 106.0cm×40.2cm 太田おおた記念きねん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう清親きよちか
  • 鍾馗しょうき絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 113.5cm×35.2cm 太田おおた記念きねん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう 明治めいじ40ねん代作だいさく清親きよちか」「真生まさおしゅぶんえんしるし
  • 源氏げんじ浮舟うきふねまき絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 太田おおた記念きねん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう清親きよちかしるしあり
  • 雪月花せつげっか絹本けんぽん着色ちゃくしょく 3ぶくたい 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう清親きよちか」「しん白文はくぶんかたしるし
  • 大川おおかわきし一之かずゆききょう遠景えんけい絹本けんぽん着色ちゃくしょく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん小林こばやしきよし親筆しんぴつ横書よこがき)」
  • ぼくつつみさくらもち舗図」 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん清親きよちか」「真生まさおしゅぶんかたしるし 
  • 馬上もうえ武人たけひときょう絹本けんぽん着色ちゃくしょく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん清親きよちか」 「真生まさおしゅぶんかたしるし
  • さくらさん美人びじん絹本けんぽん着色ちゃくしょく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん清親きよちか」 「真生まさおしゅぶんかたしるし
  • 月下げっかさん美人びじん舞踊ぶよう絹本けんぽん着色ちゃくしょく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん清親きよちか」 「しん白文はくぶんかたしるし
  • 熊谷くまがい直実なおみ敦盛あつもり絹本けんぽん着色ちゃくしょく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん清親きよちか」 「清親きよちかしるししゅぶんかたしるし
  • 観音かんのん仁王におうほん着色ちゃくしょく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん清親きよちか」「真生まさおしゅぶんえんしるし
  • ひがしくだしょうふすまほん着色ちゃくしょく 4めん 23.4x34.2(かく和泉いずみ久保くぼそう記念きねん美術館びじゅつかんきよし親筆しんぴつ」 「きよししゅぶんかたしるし
  • 橋本はしもと左内さないぞう」 ボードに油彩ゆさいかずぼく・テンペラ 1めん 39.4x29.4 星野ほしの画廊がろう 明治めいじ前期ぜんきごろ土居どいよしきゅうぞう清親きよちか油彩ゆさい作品さくひんめずらしい
  • 化粧けしょう美人びじんぬめほん淡彩たんさい 1ぶく 52.5x33.5 熊本くまもと県立けんりつ美術館びじゅつかん今西いまにしコレクション)「清親きよちか」「清親きよちかしゅぶんかたしるし
  • 川中島かわなかじま合戦かっせんうら:龍虎りゅうこすみちく)」 ひょう:絹本けんぽん金地きんじ着色ちゃくしょくうら:ほん墨画ぼくが淡彩たんさいろくきょく一双いっそう 166.0×358.8(かく静岡しずおか県立けんりつ美術館びじゅつかん 1910ねん明治めいじ43ねん
  • よりゆきごう阿闍梨あじゃり絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく ウェストン・コレクション(シカゴ)
  • まつり芸者げいしゃ絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく ウェストン・コレクション(シカゴ)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 東京とうきょう名所めいしょ版行はんこうに、光線こうせんばれていたかは、しょうである。吉田よしだ洋子ようこ調しらべでは、1895ねん明治めいじ28ねん)の『教科きょうか適用てきよう もうなまりどく稽古けいこ 教授きょうじゅほう』が、清親きよちかによる「光線こうせん」の初出しょしゅつとしている。そこでは、球体きゅうたいとう鉛筆えんぴつえが場合ばあいの、濃淡のうたん立体りったいかん表現ひょうげんすることを「光線こうせん」とんでいる。西洋せいよう絵画かいが技法ぎほうでの「キアロスクーロ」であり、『東京とうきょう名所めいしょ』でのそれとは意味いみあいがことなる。[18]
  2. ^ ジョルジュ・ビゴー指導しどうがあったとおもわれる[20]
  3. ^ こくもしたが、成功せいこうしたとはいいがたく、3てんわった[20]
  4. ^ 光線こうせん」をめた理由りゆうとして、かつては同年どうねん1・2がつ大火たいかで、自宅じたくとこれまでの作品さくひん道具どうぐえたから、とのせつがあったが、その火事かじ自体じたい版行はんこうしているのだから、そのせつはあたらない[24]。また吉田よしだ漱は、光線こうせん版木はんぎ枚数まいすうおおく、コストがかかるため、版元はんもと意向いこういたのではと推察すいさつする[25]
  5. ^ それゆえもあり、大正たいしょう末期まっきから太平洋戦争たいへいようせんそうごろまで、清親きよちかを「明治めいじ広重ひろしげ」と形容けいようすることがあった[26]後述こうじゅつする。
  6. ^ 山梨やまなしは、1881ねん明治めいじ14ねん)に「光線こうせん」をめ、広重ひろしげふう名所めいしょ回帰かいきした理由りゆうとして、きゅう幕臣ばくしんだった清親きよちかが、政府せいふないでの薩摩さつまばつへの権力けんりょく集中しゅうちゅう、それにともな大隈おおくま重信しげのぶ失脚しっきゃく納得なっとく出来できず、「四民しみん平等びょうどう理念りねん乖離かいりかんじたからではと、指摘してきする。東京とうきょう発展はってんえがく「光線こうせん」は、しん政府せいふ礼賛らいさんつながりかねず、政府せいふ批判ひはんする「ポンチ絵ぽんちえ制作せいさく移行いこうした理由りゆうも、それで説明せつめいがつく[28]。また注釈ちゅうしゃく5にて吉田よしだすす指摘してきしたように、コストの問題もんだい関係かんけいする。
  7. ^ 注釈ちゅうしゃく2参照さんしょう
  8. ^ 判決はんけつは『日本にっぽん』・『ろく新報しんぽう掲載けいさいで、判例はんれいデータベースでもヒットせず。TKCローライブラリー”. 2020ねん7がつ9にち閲覧えつらん
  9. ^ 上陸じょうりくよう小船こぶね端艇たんてい[57]幕末ばくまつあかりはつ国産こくさん。ポルトガルのbateiraに由来ゆらい[58]
  10. ^ 「(ひろげたとき、蝙蝠かわほりつばさをひろげた姿すがたているところからいう。)西洋せいようからつたわったあまよけ、またはよけのかさりゃく)こうもり。洋傘ようがさ。」[59]
  11. ^ 「まんじゅう」こういち)の8より「懐中時計かいちゅうどけいをいう。盗人ぬすっと仲間なかま隠語いんご。」[60]
  12. ^ 仮装かそう舞踏ぶとうかい仮装かそうかい。」[61]
  13. ^ たとえば、河鍋かわなべ暁斎きょうさい[74]月岡つきおか芳年よしとし[75]豊原とよはら国周くにちか[76]歌川うたがわ国松くにまつ[77]。また清親きよちかよりのち世代せだい鏑木かぶらき清方きよかた[78]伊東いとう深水しんすい[78]鳥居とりいきよしちゅう (5代目だいめ) [79] [80]神保じんぼとも[81][82]などもいる。
  14. ^ 清親きよちかは、吟香ぎんこう販売はんばいする目薬めぐすりせい鈳水」とう薬品やくひん宣伝せんでんする引札ひきふだ制作せいさくしている[85]。また、清親きよちか光線こうせん」シリーズのなかでも代表だいひょうさくえる、「海運かいうんきょう だいいち銀行ぎんこう」(1876・明治めいじ9ねん)での女性じょせいかさには、「岸田きしだ」「銀座ぎんざ」の文字もじれている。銀座ぎんざ吟香ぎんこう居住きょじゅうかつ店舗てんぽであり、二人ふたり親密しんみつさがかる[86][87]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉田よしだ 1964, p. 3.
  2. ^ 山梨やまなし絵美子えみこ (1994-11), 小林こばやし清親きよちか, ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん, 朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん, https://archive.is/YhyGV#29% 
  3. ^ ささあいだ 1991, pp. 248–250.
  4. ^ a b 練馬ねりま区立くりつ美術館びじゅつかん静岡しずおか美術館びじゅつかん 2015, p. 203.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]