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足軽あしがる

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
みのけ、雨中うちゅう火縄銃ひなわじゅう射撃しゃげき姿勢しせいをとる足軽あしがる
火縄銃ひなわじゅう一斉いっせい射撃しゃげきおこな足軽あしがる部隊ぶたい
射撃しゃげき姿勢しせいをとる足軽あしがる
足軽あしがる行列ぎょうれつのパフォーマンス

足軽あしがる(あしがる)は、平安へいあん時代じだいから江戸えど時代じだい日本にっぽん存在そんざいした歩兵ほへい一種いっしゅ

平安へいあん鎌倉かまくら室町むろまち時代ときよ

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発生はっせい平安へいあん時代じだいとされ[よう出典しゅってん][注釈ちゅうしゃく 1][1]検非違使けびいし雑用ざつようやく戦闘せんとう予備よびいんとして従軍じゅうぐんした「下部かぶ」が足軽あしがる原型げんけいとされる。鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきごろまで、騎馬きば武者むしゃによるいち原則げんそくとしたことから、足軽あしがる従者じゅうしゃ運搬うんぱんなどの兵站へいたん土木どぼく作業さぎょう従事じゅうじさせられることがおおかった[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]

南北なんぼくあさ時代じだい悪党あくとう活動かつどう活発かっぱつ下克上げこくじょう風潮ふうちょう流行りゅうこうすると、伝統でんとうてき戦闘せんとう形態けいたい個人こじんせんから集団しゅうだんせんへと変化へんかはじ[注釈ちゅうしゃく 4]足軽あしがる活躍かつやく一揆いっきくに一揆いっきにもひろまった[注釈ちゅうしゃく 5][5]応仁おうにんらんでは足軽あしがる集団しゅうだん奇襲きしゅう戦力せんりょくとして利用りようされたが、足軽あしがる忠誠ちゅうせいしんとぼしく無秩序むちつじょ[独自どくじ研究けんきゅう?][6]でしばしば暴徒ぼうとし、おおくの社寺しゃじ商店しょうてんとうのきつらねる京都きょうと跋扈ばっこ暴行ぼうこう略奪りゃくだつをほしいままにすることもあった[注釈ちゅうしゃく 6]

応仁おうにんらんひがしぐん足軽あしがるやましあし)300余人よにん宇治うじ神社じんじゃ参詣さんけいする姿すがた人々ひとびと目撃もくげきしたものとして、「にはちょうほこ強弓ごうきゅうち、あたまには金色きんいろかぶとたけかわかさ赤毛あかげなど派手はでかぶものをかぶり、ふゆだというのに平気へいきはだをあらわにしていた」という[7]一方いっぽうで、くもいずみ太極たいきょくの『あおやまろく』には、「ひがしじん精兵せいびょう300にんあり、足軽あしがるごうす。かぶと(かぶと)を擐せず、ほこをとらず、ただいちけんをもっててきぐん突入とつにゅうす」としるされ、へいそう統一とういつせいがなかったことがわかる。『真如堂しんにょどう縁起えんぎ』には、足軽あしがるたち真如堂しんにょどう略奪りゃくだつしている姿すがたえがかれているが、かぶとをつけず、どうにつけているものの下半身かはんしんふんどしいちまいもの半裸はんらものなど無頼ぶらい姿すがたである。

また、足軽あしがるやとったのは大名だいみょうといった武家ぶけかぎらず、東寺とうじなど寺社じしゃ勢力せいりょく自衛じえいのために足軽あしがるやとった[8]東国とうごくでは太田おおた道灌どうかんが「足軽あしがる軍法ぐんぽう」という活用かつようする[9]が、足軽あしがる直属ちょくぞくぐん編成へんせいした足軽あしがる戦法せんぽうとされる[10]

戦国せんごく時代じだい

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これまで足軽あしがる戦闘せんとう主役しゅやくではなかったが、戦国せんごく時代じだいむか集団しゅうだんせん本格ほんかくだい規模きぼしていくと、訓練くんれんされたちょうやりゆみ鉄砲てっぽう足軽あしがるたい組織そしきされ主要しゅよう部隊ぶたいとして活躍かつやくするようになり、足軽あしがる兵力へいりょくせんおおきくけるとわれるまでとなった[注釈ちゅうしゃく 7][12]戦国せんごく時代じだい後期こうきには地位ちい向上こうじょうして足軽あしがる大将たいしょういえろくは、200いしから500せき程度ていど中級ちゅうきゅう武士ぶしとしてみとめられる存在そんざいになった。兵卒へいそつ身分みぶん依然いぜんとして武士ぶし農民のうみんあいだ位置いちしてひくかった。

戦国せんごくには歩兵ほへいだい集団しゅうだんによる集団しゅうだんせん確立かくりつされており、足軽あしがるへいそうもそれに沿ったものになっていた。一般いっぱんてきには皮革ひかく、あるいは和紙わしうるしでかためたじんがさのち鉄板てっぱんかさじょう形成けいせいしたものにかわった。)[13]てつどうよろいかごしゅ陣羽織じんばおり装着そうちゃくし、そのほか水筒すいとう鼻紙はながみぬのにくるんだべいなど(れい:ほしいにぎめしいもがらなわ)を携帯けいたいしていた。どうよろいかんしては、まれ和紙わし皮革ひかくたけでできたものもることができるが、現存げんそんしているのはほとんどが重量じゅうりょう4kg前後ぜんこう鉄製てつせいのものである。

足軽あしがる部隊ぶたいは、やりぐみ足軽あしがるゆみ足軽あしがる鉄砲てっぽう足軽あしがるなどに分類ぶんるいされ、おおくは集団しゅうだんたい編制へんせいして小頭こがしら指揮しきしたがった。『雑兵ぞうひょう物語ものがたり』でくわしく当時とうじ生活せいかつ操典そうてん心得こころえなどをることができる[注釈ちゅうしゃく 8]戦国せんごく足軽あしがる非常ひじょうじゅう装備そうびであり、大型おおがたたてをもたないことをのぞけばじゅうそう歩兵ほへいとも比較ひかくできる装備そうびととのえていた(ただし、後期こうきになると一部いちぶ足軽あしがる足軽あしがるどう着用ちゃくようせず、わりに羽織はおりもちいるようになる)。四国しこくでは、足軽あしがるのやや上位じょういいちりょう具足ぐそくなどが存在そんざいした。足軽あしがる歩兵ほへいだが、いちりょう具足ぐそくりかえをもたないものの、乗馬じょうばをしていたことが『土佐とさ物語ものがたり』において記述きじゅつされており[注釈ちゅうしゃく 9]いちりょう具足ぐそく歩兵ほへい上位じょういである騎兵きへいとしての役割やくわりがみられる。

概念がいねんによっては、雑兵ぞうひょうやとへい)と混同こんどうされることがおおいが、足軽あしがる正式せいしき登録とうろくされた下級かきゅう武士ぶしであり、雑兵ぞうひょうたたかいがあるたびに金銭きんせんやとわれる軍兵ぐんびょうのことである。

戦国せんごくにおける足軽あしがるによる分捕ぶんど行為こういについては、海外かいがい資料しりょうにものこり、ルイス・フロイスの『日本にっぽん覚書おぼえがき1585ねん6がつに「われらにおいては、土地とち都市とし村落そんらく、およびそのとみうばためたたかいがおこなわれる。日本にっぽんでのせんはほとんどいつも小麦こむぎべい大麦おおむぎうばためのものである」と記述きじゅつされ、西洋せいようとの行動こうどうちがいについて比較ひかくしている[14]

江戸えど時代じだい

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火縄銃ひなわじゅう種子島たねがしま

戦乱せんらん収束しゅうそくにより臨時りんじやといの足軽あしがる大半たいはんはなたれ武家ぶけ奉公人ほうこうにん浪人ろうにんとなり、のこった足軽あしがる武家ぶけ社会しゃかい末端まったんになうことになった[注釈ちゅうしゃく 10]

江戸えど幕府ばくふは、直属ちょくぞく足軽あしがる幕府ばくふ末端まったん行政ぎょうせい警備けいび警察けいさつ要員よういんとうとして「徒士かち(かち)」や「同心どうしん」に採用さいようした。しょはんにおいては、大名だいみょう直属ちょくぞく足軽あしがる足軽あしがるぐみ編入へんにゅうされ、平時へいじ各所かくしょ番人ばんにん各種かくしゅ雑用ざつようそれに「物書ものか足軽あしがる」とばれる下級かきゅう事務じむいんもちいられた。そのほか、大身たいしん武士ぶし家来けらいにも足軽あしがるはいた。足軽あしがる士分しぶんきびしく峻別しゅんべつされ、はかま足袋たび穿けないなど服装ふくそうかるように義務付ぎむづけられた。

いちだいかぎりの身分みぶんではあるが、実際じっさいには引退いんたいさい子弟してい縁者えんじゃ後継こうけいしゃとすることで世襲せしゅう可能かのうであり[注釈ちゅうしゃく 11]、また薄給はっきゅうながら生活せいかつ維持いじできるため[注釈ちゅうしゃく 12]のちにその権利けんりが「かぶ」として売買ばいばいされ、富裕ふゆう農民のうみん商人しょうにんつぎ三男さんなん就職しゅうしょくこうともなった。くわえて、有能ゆうのう人材じんざい民間みんかんから登用とうようするさい一時いちじてき足軽あしがるとしてはん在籍ざいせきさせ、その昇進しょうしんさせるとうの、ステップとしてのいちめんもあり、中世ちゅうせい無頼ぶらいやからは、近世きんせいでは下級かきゅう公務員こうむいんてき性格せいかくへと変化へんかしていった。

また、足軽あしがる帰農きのうさせけいかくの「郷士ごうし」として苗字みょうじ帯刀たいとうゆるし、国境こっきょう辺境へんきょう警備けいびたらせることもあった(在郷ざいきょう足軽あしがる)。こうしたれい熊本くまもとはんの「とうぐんとう(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲てっぽうたいがあり、これは無給むきゅうひとしい名誉めいよしょくであった。実際じっさい鉄砲てっぽうたいとはばかりで、地役ちえきじん臨時りんじ江戸詰えどづはんそつとして動員どういんされたりした。ぎゃくに、好奇心こうきしん旺盛おうせい郷士ごうし子弟していは、それらの制度せいど利用りようして、見聞けんぶんひろめるために江戸詰えどづ足軽あしがる志願しがんすることもあった。

江戸えど時代じだいにおいては、「押足軽あしがる」としょうする、中間ちゅうかん小者こもの指揮しきする役目やくめ足軽あしがるもおり、「江戸えどがく」とわれた三田村鳶魚みたむらえんぎょは、「足軽あしがる兵卒へいそつだが、まず今日きょう下士かし上等じょうとうへいぐらいな位置いちにいる[17]役目やくめとしても、軍曹ぐんそうあたりの勤務きんむをも担当たんとうしていた」とべているように[18]じゅん武士ぶしとしての位置いちづけがなされたれいもあるが[19]基本きほんてき足軽あしがるは、武家ぶけ奉公人ほうこうにんとして中間ちゅうかん小者こもの同列どうれつられるれいおおかった。[よう出典しゅってん]しょはん分限ぶげんちょうには、足軽あしがる中間ちゅうかん人名じんめいろくだか記入きにゅうはなくて、ただ人数にんずうだけが記入きにゅうされているものがおおい。あるいはそれさえないものがある。足軽あしがる中間ちゅうかん区別くべつされないで、苗字みょうじ名乗なのることもゆるされず、百姓ひゃくしょう町人ちょうにんおなあつかいをされたはんもあった。長州ちょうしゅうはんにおいては死罪しざい相当そうとうつみおかしたさい切腹せっぷくゆるされず、はりつけにされるとさだめられており、犯罪はんざい行為こうい処罰しょばつについても武士ぶしとは区別くべつされていた。

幕末ばくまつ明治めいじ時代じだい

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幕末ばくまつになって江戸えど幕府ばくふおよしょはんは、火縄銃ひなわじゅう装備そうびの「鉄砲てっぽうぐみ」を廃止はいしし、洋式ようしきじゅう装備そうびの「歩兵ほへいたい」や「じゅうたい」をつく必要ひつようせまられたが、従来じゅうらい足軽あしがるたいすで整理せいりされ事実じじつじょう消滅しょうめつし、のこりも最低さいてい定員ていいん末端まったん役人やくにん治安ちあん警備けいび担当たんとうけられていたため、あらたに人員じんいん募集ぼしゅう戦国せんごく時代じだい足軽あしがるたい歩兵ほへい部隊ぶたい創設そうせつした。しかしこれらの身分みぶん足軽あしがるよりした中間ちゅうかん(ちゅうげん)小者こもの待遇たいぐうとされた。

明治めいじいた廃藩置県はいはんちけんひとし体制たいせい変革へんかくにより、同心どうしん足軽あしがるとう一部いちぶ邏卒らそつ兵卒へいそつ下士官かしかん末端まったん役人やくにんとしてつづ出仕しゅっしした。そのきゅう武士ぶし士分しぶんであったものは「士族しぞく」に、足軽あしがる身分みぶんであったものは「そつぞく」に分類ぶんるいされた。そのそつぞく廃止はいしされたのちそつぞくのうちうえかくものは「士族しぞく[注釈ちゅうしゃく 13]そのもの農工のうこうしょうおなじく「平民へいみん」と戸籍こせき記載きさいされその表記ひょうき制度せいど1948ねん昭和しょうわ23ねん)までのこされた。

足軽あしがる動員どういん

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中世ちゅうせい以降いこう近世きんせいわりまで一般いっぱん大衆たいしゅう動員どういん工兵こうへい兵站へいたんといった後方こうほう任務にんむかぎられており、かれらの戦闘せんとういんとしての動員どういん非常時ひじょうじにしかられない。戦闘せんとう部隊ぶたいとしての戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだいにおける足軽あしがる動員どういん多様たよう階層かいそうからの徴募ちょうぼせいられており、その召抱めしかかえる条件じょうけん戦時せんじにおける一時いちじてきなものや平時へいじにおいても雇用こようされつづけるものなど様々さまざま待遇たいぐう存在そんざいした。

このよう動員どういん形態けいたいから足軽あしがる傭兵ようへいというべきいちめん存在そんざいする。しかし上述じょうじゅつよう足軽あしがるなかには常時じょうじ雇用こようされるものもおり、そうしたものたち実質じっしつてきにはなんだいおな主君しゅくんつかえ、同時どうじ武士ぶし一員いちいんとしてぐうされていたことから傭兵ようへい封建ほうけんへい中間ちゅうかん位置いちする存在そんざいえる。

備考びこう

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  • 近世きんせい足軽あしがる大小だいしょうかたなたいし、羽織はおりられたが、中間ちゅうかんこん看板かんばん梵天ぼんてんたいかたな一本いっぽんというこしらえであった[20]中間ちゅうかんりょうふんあたえられ、部屋へや合宿がっしゅくしていたのにたいし、足軽あしがるは(さんりょうふんからりょうふん脚注きゃくちゅう参照さんしょう長屋ながや住居じゅうきょした[21]。また、足軽あしがる苗字みょうじゆるされていたが、中間ちゅうかん名字みょうじ帯刀たいとうゆるされていない[22]
  • 武家ぶけ奉公人ほうこうにんなか最下さいかきゅう小者こものであり、中間ちゅうかん小者こものとも軍役ぐんえき員外いんがいである[23]。それにたいし、足軽あしがる軍役ぐんえき人数にんずうかぞえられた正式せいしき戦闘せんとういんである(中間ちゅうかん戦場せんじょう役目やくめとして、馬印うまじるしたてちなどなど)[21]
  • かくはんには、「長柄ながえもの」(さんあいだ長柄ながえやりたせ、太平たいへいでは勤務きんむ内容ないよう足軽あしがるおなじ)としょうするそつぞくがあり、じゅん足軽あしがるてき存在そんざいであった[21]中間ちゅうかん小者こもの一季いっき半季はんき雇人やといにんだが、長柄ながえもの終身しゅうしん、あるいは子孫しそん譜代ふだいにも使つかわれた[21]
  • 足軽あしがるは「大名だいみょう行列ぎょうれつ」に参列さんれつしたが、「代官だいかん行列ぎょうれつ」にも参列さんれつしている[24]最低さいていでも70にん以上いじょう規模きぼ場合ばあい足軽あしがる中間なかま1人ひとり)。
  • 戦国せんごく鉄砲てっぽう足軽あしがる実力じつりょくしめ逸話いつわとして、『土佐とさ物語ものがたりまきだいじゅうななには、長宗我部ちょうそかべ元親もとちか家臣かしん足軽あしがるたわら兵衛ひょうえいのちけ、さかなをくわえておきカモメ射殺しゃさつした。その距離きょり、58あいだやく105m。この功績こうせきからたわら兵衛ひょうえは、那須与一なすのよいち逸話いつわともかちれつあるべからずとひょうされ、羽織はおりたまわり、士分しぶんあたえられ、太刀たちいちこしたまわった。

ギャラリー

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 平家ひらか物語ものがたり』(13世紀せいき成立せいりつまきよんに、「足軽あしがるども4、500にん先立さきだてて」とあり、平安へいあん末期まっきである源平げんぺい合戦かっせんにもられる。
  2. ^ 当時とうじ戦闘せんとうは、武士ぶし領主りょうしゅそうおよびその一族いちぞく家人かじんらの各個かっこ戦闘せんとうおもで、足軽あしがるはたらきは副次的ふくじてきなものだった[2]
  3. ^ 鎌倉かまくら軍記ぐんきぶつである『もと物語ものがたり』『平治へいじ物語ものがたり』『源平げんぺい盛衰せいすい』に当時とうじ足軽あしがる様子ようす記述きじゅつされている。
  4. ^ 武器ぶきとしてのやり発明はつめいされたのは南北なんぼくあさ初期しょきとされ、これにより弓矢ゆみや中心ちゅうしん騎兵きへいせんから、やり薙刀なぎなた中心ちゅうしん徒歩とほ斬撃ざんげきせん普及ふきゅうしたことで、兵士へいし個人こじん武芸ぶげいよりへいすうがものをいうようになり、へいしゅうりょく重要じゅうようとなって、「野伏のぶせりかか」という足軽あしがる徴発ちょうはつおこなわれ、傭兵ようへい軍団ぐんだん主流しゅりゅうとなる[3]
  5. ^ 南北なんぼくあさ農民のうみん団結だんけつするようになって、武力ぶりょくによる自衛じえいおこなわれた[4]
  6. ^ きこりだんよう』において一条いちじょう兼良かねらは「このたびはじめてだしたれる足軽あしがる超過ちょうかしたる悪党あくとうなり。そのゆえは洛中らくちゅう洛外らくがいしょしゃしょてら五山ごさんじゅう刹公門跡もんぜき滅亡めつぼうかれらが所行しょぎょうなり」として、きょう荒廃こうはい原因げんいん足軽あしがるであると批判ひはんしている。
  7. ^ 戦国せんごくでは大名だいみょうへいのう分離ぶんりおこなって、足軽あしがる常備じょうびぐんとした[11]
  8. ^ れいとして、騎兵きへいたおすにはうまをつけ(もりはじめ前出ぜんしゅつふさがきゅうしゅ』「しょうとうとするならうまよ」にあるように中国ちゅうごく兵法ひょうほうから)や、ゆみ足軽あしがる2人ふたり鉄砲てっぽう足軽あしがるあいだで、たまめのあいだ援護えんごをするようき、集団しゅうだんでは、やりくのではなく、うえからたたきつけろなどと記述きじゅつされている。
  9. ^ 土佐とさ物語ものがたりまきだいじゅう山内やまうち一豊かずとよ土佐とさこく拝領はいりょう 浦戸うらと一揆いっきこと」において、「うまいちひきにてりかえうまなく」としるされている。武士ぶし律令りつりょうほう規定きていから、ろくは3ひきりかえゆうし、は4ひきれた。したがって、いちりょう具足ぐそくは、「りかえゆうした武士ぶし」と「歩兵ほへいである足軽あしがる」の中間ちゅうかん立場たちばにあったといえる。
  10. ^ 江戸えど足軽あしがるあたまひきいられ、雑役ざつえき使つかわれた[11]
  11. ^ 足軽あしがる代々だいだい奉公ほうこう可能かのうだった[15]
  12. ^ たいら足軽あしがるでもとしに、さんりょう二分にぶんいちにん扶持ふちであり、小頭こがしらになってもりょうふんにん扶持ふちしかあたえれなかった[16]
  13. ^ 明治めいじは「そつぞく)」とばれ、士族しぞく編入へんにゅうされた[11]

出典しゅってん

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  1. ^ 執筆しっぴつ 棟方むなかたたけしじょう 監修かんしゅう ささあいだ良彦よしひこ 『すぐわかる 日本にっぽん甲冑かっちゅう武具ぶぐ[改訂かいていばん]』 東京とうきょう美術びじゅつ 2012ねん p.61.平安へいあん末期まっきには存在そんざいし、当時とうじ直接ちょくせつ合戦かっせんには参加さんかせず、市中しちゅうへの放火ほうか敵陣てきじん撹乱かくらんおこない、南北なんぼくあさ室町むろまちいたってもその役割やくわりおなじだった。
  2. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん 1 ア-アン』 平凡社へいぼんしゃ 初版しょはん1972ねん(73年版ねんばん) p.172.
  3. ^ 今谷いまたにあきら日本にっぽん歴史れきし[5] 戦国せんごく岩波ジュニア新書いわなみじゅにあしんしょ 2000ねん ISBN 4-00-500335-4 p.54.
  4. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん 1 ア-アン』 平凡社へいぼんしゃ p.172.
  5. ^ 南北なんぼくあさ戦闘せんとう悪党あくとうによるものとすれば、応仁おうにん文明ぶんめい大乱たいらん足軽あしがる戦争せんそうであったと要約ようやくできる」と今谷いまたにあきら著書ちょしょ日本にっぽん歴史れきし[5] 戦国せんごく』 2000ねん p.52においてべている。
  6. ^ 出身しゅっしん没落ぼつらく農民のうみん浮浪ふろうしゃであり、規律きりつ道徳どうとくけているものおおかった」と鈴木すずきあさひ著書ちょしょ面白おもしろいほどよくわかる 戦国せんごく日本文芸社にほんぶんげいしゃ 2004ねん ISBN 4-537-25195-6 p.78において指摘してきしている。
  7. ^ 桜井さくらい英治えいじ日本にっぽん歴史れきし12 しつ町人ちょうにん精神せいしん講談社こうだんしゃ 2001ねん ISBN 4-06-268912-X p.310.
  8. ^ 桜井さくらい英治えいじ日本にっぽん歴史れきし12 しつ町人ちょうにん精神せいしん』2001ねんちょ p.310.
  9. ^ 鈴木すずきあさひ面白おもしろいほどよくわかる 戦国せんごく日本文芸社にほんぶんげいしゃ 2004ねん p.71.
  10. ^ 鈴木すずきあさひ面白おもしろいほどよくわかる 戦国せんごく』 p.89.
  11. ^ a b c 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん 1 ア-アン』 平凡社へいぼんしゃ p.173.
  12. ^ 戦術せんじゅつ時代じだい背景はいけいがよくわかる カラーばん 戦国せんごく武器ぶき甲冑かっちゅう辞典じてん監修かんしゅうしゃ中西なかにしつよし大山おおやまかく発行はっこうしょ株式会社かぶしきがいしゃまことぶんどう新光しんこうしゃ、p.176.
  13. ^ 『すぐわかる 日本にっぽん甲冑かっちゅう武具ぶぐ[改訂かいていばん]』 東京とうきょう美術びじゅつ 2012ねん p.106.足軽あしがる陣笠じんがさは、てつねりかわなどの素材そざい使用しようされた。
  14. ^ 家康いえやす気候きこう日本にっぽん歴史れきし 異常いじょう気象きしょうとの攻防こうぼう1400ねん日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱんしゃ 2013ねん ISBN 978-4-532-16880-3 p.151.pp.185 - 190.
  15. ^ 稲垣いながき史生ふみお三田村鳶魚みたむらえんぎょ 江戸えど武家ぶけ辞典じてん青蛙あおがえるぼう 新装しんそうばん2007ねん初版しょはん1958ねん) p.164.
  16. ^ 稲垣いながき史生ふみお三田村鳶魚みたむらえんぎょ 江戸えど武家ぶけ辞典じてん青蛙あおがえるぼう 新装しんそうばん2007ねん p.163.
  17. ^ 稲垣いながき史生ふみお三田村鳶魚みたむらえんぎょ 江戸えど武家ぶけ辞典じてん青蛙あおがえるぼう 新装しんそうばん2007ねん pp.118 - 119.
  18. ^ どう三田村鳶魚みたむらえんぎょ 江戸えど武家ぶけ辞典じてん』 p.119.
  19. ^ 広辞苑こうじえん だいろくはん岩波書店いわなみしょてんには、「江戸えど時代じだい武士ぶし最下位さいかいした」とある(『広辞苑こうじえん』を一部いちぶ参考さんこう)。
  20. ^ 三田村鳶魚みたむらえんぎょ 江戸えど武家ぶけ辞典じてん青蛙あおがえるぼう 新装しんそうばん2007ねん p.164.
  21. ^ a b c d 同書どうしょ p.164.
  22. ^ 同書どうしょ p.118.
  23. ^ どう三田村鳶魚みたむらえんぎょ 江戸えど武家ぶけ辞典じてん』 p164.
  24. ^ 西沢にしざわ淳男あつお代官だいかん日常にちじょう生活せいかつ 江戸えどなかあいだ管理かんりしょく角川かどかわソフィア文庫ぶんこ 2015ねん ISBN 978-4-04-409220-7 pp.143 - 144.

関連かんれん人物じんぶつ項目こうもく

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関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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