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羽織はおり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒平くろべら絹地きぬじ富士ふじ羽織はおり20世紀せいき初頭しょとう
1920ねん正装せいそう家族かぞく写真しゃしん男性だんせい紋付もんつき羽織はおり

羽織はおり(はおり)は、たけみじか着物きもの一種いっしゅ[1]小袖こそでうえからおもてころもである[2]羽織はおりという織物おりもの名称めいしょう語源ごげんとし、その動詞どうしとして「はおる」の連用形れんようけいがある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

羽織はおり起源きげんさだかではないがかさ様式ようしき由来ゆらいがあるとされ、初期しょきにはほこりよけとしてもちいられていた羽織はおりが、様式ようしきして正式せいしきよそおいである羽織はおりはかまになったとされている[2]

その起源きげんには諸説しょせつあるが、つる氅裘(かくしょうきゅう、かくしょうい)というづる白鳥はくちょうなどの水鳥みずとり羽根はねをふんだんに使用しようしてばち水性すいせいをもたせたみののようなものをつくり、裏地うらじかたぬの使用しようした古代こだい上衣うわぎ起源きげんとするという伝承でんしょうがある[3]。もちろん水鳥みずとり羽毛うもうあつめてつくらせるため非常ひじょう高価こうかなものとなり、古代こだい貴人きじん大内裏だいだいり参内さんだいするときにあめゆきふせぐための道行みちゆきであったが、その故事こじならって水鳥みずとりやわらまじえてつく雨具あまぐ羽織はおりんだことが起源きげんとされる。そもそもは民話みんわの「づる恩返おんがえ」や「絵本えほんさんこく妖婦ようふでん[4]」で描写びょうしゃされるようなづるをはじめとした水鳥みずとり羽根はねりした白鳥はくちょうなどのような名称めいしょうであり、衣服いふく種類しゅるいあらわ名前なまえではなかった。

和装わそうコートのような上着うわぎではなく、洋装ようそうでいえばカーディガンのようなポジションであるため、男性だんせい女性じょせいどもに、室内しつない必要ひつようはない。

ぜん身頃みごろ完全かんぜんにうちわせることは構造こうぞうてき不可能ふかのうであり、まえひもむすてん特徴とくちょう。このひもは、羽織はおり生地きじ共布ともぎれつくられたものがけてある場合ばあいもあるが、通常つうじょうは「ちち(ち)」とばれるちいさな環状かんじょう布地ぬのじもしくは金具かなぐに、専用せんようひも羽織はおりひも)を装着そうちゃくして使用しようする。ふるくは直接ちょくせつむすけて装着そうちゃくしていたが、現在げんざいでは羽織はおりひもはしつくられたループをちちとおしてむすびつける。また、「無双むそう」とばれる、ジュエリーストーンやとんぼだまなどを使つかってあらかじむすんだかたちつくってある装飾そうしょくせいたかいものを使つか場合ばあいは、Sじょう金具かなぐかいしてちちっかける。このひもをTPOや流行りゅうこうおうじて交換こうかんするのがおしゃれとされる。

男性だんせい羽織はおり[編集へんしゅう]

キジの羽根を用いた陣羽織
キジの羽根はねもちいた陣羽織じんばおり桃山ももやまから江戸えど初期しょきサムライコレクションくら
つて豊臣とよとみ秀吉ひでよし所用しょようの「富士ふじ神火しんかぶんくろ羅紗らしゃ陣羽織じんばおり」を参考さんこう江戸えど時代じだいつくられた陣羽織じんばおり
羽織はおり男性だんせいひだり江戸えど中期ちゅうき鈴木すずき春信はるのぶ

羽織はおり武士ぶし戦場せんじょうでの防寒ぼうかんとして甲冑かっちゅううえから羽織はおった「陣羽織じんばおり」から発達はったつしたとされ、礼服れいふく防寒ぼうかんねて着用ちゃくようされるようになった[5]

歴史れきし[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいには戦場せんじょうでの防寒ぼうかんとして流行りゅうこうし、有力ゆうりょく武将ぶしょう様々さまざま陣羽織じんばおり着用ちゃくようしていた。これは鎌倉かまくら時代ときよ重厚じゅうこうよろいから鉄砲てっぽうせん対応たいおうした機能きのう本位ほんい身軽みがる当世とうせい具足ぐそくへの変化へんか背景はいけいとしており[6]羅紗らしゃなどの豪華ごうか布地ぬのじもち権威けんい象徴しょうちょうとして自軍じぐん大将たいしょうてきかた使者ししゃ対面たいめんするさいにも礼服れいふくとして着用ちゃくようした[7]。これらの陣羽織じんばおりおおくはそでく、乗馬じょうばのためにれ、すそびらきの仕立したてがおおかったが、南蛮なんばんじん服装ふくそうれたとおもわれるマントがたのものやそできのものなど多様たようであった[8]

江戸えど時代じだいになってまずはかまわせた「羽織はおりはかま」が様式ようしきし、武士ぶしには日常にちじょう町人ちょうにんには礼服れいふくとなった[2]武士ぶしおおやけふくとしてはかみしもがあったが、町人ちょうにんでは江戸前えどまえにはあさかみしもとともに羽織はおり公式こうしき服装ふくそうとされた[2]。この礼服れいふくとしてもちいられる羽織はおりはかま地味じみ色調しきちょうのものとなり、江戸えど中期ちゅうきになるとくろ紋付もんつき羽織はおりはかま紋付もんつき羽織はおりはかま)がもっと正式せいしき格式かくしきとなった[2]。また、着用ちゃくようしているひと素姓すじょうしめすため羽織はおり着物きものもんれる風習ふうしゅう江戸えど時代じだいあらわれた[5]くろ紋付もんつき羽織はおりはかまもっと正式せいしき格式かくしきになると同時どうじに、無地むじ小紋こもんしまじゅん略式りゃくしき様式ようしき序列じょれつした[2]

ただ、羽織はおり姿すがた百姓ひゃくしょうでは村役むらやくなど、商人しょうにんでは番頭ばんがしらかく以上いじょうなど着用ちゃくようみとめられるものかぎられていた[5]。そのため男性だんせいよう着物きものは、村役むらやく以外いがい百姓ひゃくしょうではそでのない甚兵衛じんべえ羽織はおり甚兵衛じんべえ)、町家まちやではまえひものない窮屈きゅうくつ羽織はおり袢纏はんてん)などがもちいられた[5]

幕末ばくまつには羽織はおりはかま姿すがた武士ぶしおおやけふくとなり、明治維新めいじいしん以降いこうかみしも廃止はいしされたこともあり、男子だんし礼装れいそうとして普及ふきゅうしていった[2]

神職しんしょく羽織はおり[編集へんしゅう]

神職しんしょく白衣はくいうえくろ紋付もんつき羽織はおり着用ちゃくようする。とく神職しんしょくそとさいなどで移動いどうする場合ばあい羽織はおりかせない。もんかみもんまたは家紋かもんなどをもちい、無紋むもんいちもんさんもんもんのものがある。羽織はおりひもしろ使つかうことがおおい。はかま神事しんじようむらさきしろなどのはかま使用しようする場合ばあいがほとんどである[9]

十徳じっとく羽織はおり[編集へんしゅう]

和服わふくちょうちゃくうえからはおるそところも一種いっしゅ羽織はおりちか形状けいじょうをしているが、生地きじもちい、ひもけ、こし部分ぶぶんひだをとってあるなど、独特どくとく仕立したてになっている。広袖ひろそでともぶ。

江戸えど時代じだいはいって医師いし絵師えし俳人はいじん僧侶そうりょなどの正装せいそうさだめられた[2]現代げんだいでも町人ちょうにん系統けいとう茶道さどうにおいてさかんにもちいられる。

女性じょせい羽織はおり[編集へんしゅう]

ちょう羽織はおり女性じょせい1956ねん

羽織はおり陣羽織じんばおりから発達はったつしたともいわれるように元来がんらい男装だんそうであった[2]江戸えど中期ちゅうきごろには、いわゆる深川ふかがわ芸者げいしゃ辰巳たつみ芸者げいしゃ)が羽織はおり名物めいぶつになったという。

大正たいしょうから昭和しょうわせん前期ぜんきにかけて、女性じょせい歌舞伎かぶき茶会ちゃかい同窓会どうそうかい同好どうこうかいなどの社交しゃこうるようになり、男物おとこもの礼装れいそうだった羽織はおり女性じょせいの「おでかけ」としても利用りようされるものとなった[10]

ただ、起源きげんのためか、「防寒ぼうかん」というたような用途ようと由来ゆらいする打掛うちかけ結婚式けっこんしきでも使つかわれる女性じょせい正装せいそうであるが、羽織はおりいまだに女性じょせい正装せいそうとしてみとめられていない(後述こうじゅつするくろ紋付もんつき羽織はおりのぞく)。

女性じょせい羽織はおりたけには流行りゅうこうがあり、明治めいじから大正たいしょう時代じだいにかけては膝下ひざもとまでのちょう羽織はおり昭和しょうわ30年代ねんだいにはおびかくれる程度ていどみじか羽織はおり流行はやった。その着物きもの自体じたい日常にちじょうられなくなったことから羽織はおりつくられなくなっていたが、近年きんねんアンティーク着物きものブームにより、ふたた羽織はおり脚光きゃっこうびるようになった。2000年代ねんだい流行りゅうこうちょう羽織はおりである。

くろ紋付もんつき羽織はおり[編集へんしゅう]

くろ紋付もんつき羽織はおりよんおうたかしのべこう夫人ふじん1920ねん

明治めいじ時代じだいから昭和しょうわ50年代ねんだいまで既婚きこん女性じょせいひろ使つかわれた羽織はおり男性だんせい礼装れいそうとしての紋付もんつき羽織はおりは、くろ紋付もんつきいろ紋付もんつきだけであるが、女性じょせい紋付もんつき羽織はおりには、くろ紋付もんつきいろ紋付もんつき反物たんもの段階だんかい羽織はおりはばいっぱいにひろがるようなはいった羽織はおりの3種類しゅるいがある[ちゅう 1]背中せなかがわもん1個いっこだけめたひともんや、くわえてりょううしそでにもつけたみっもんのものなどがある。どんな着物きものでもこれを羽織はおれば礼装れいそうとなるというあつかいだったため、主婦しゅふには重宝ちょうほうされた。くろ紋付もんつき羽織はおりくろ絵羽羽織えばはおりは、昭和しょうわ50年代ねんだいまでは子供こども入学にゅうがくしき卒業そつぎょうしき母親ははおやよそおいの定番ていばんであったが、その一気いっき衰退すいたいし、現在げんざい滅多めったることがない。

振袖ふりそで羽織はおり[編集へんしゅう]

大正たいしょう時代じだいから昭和しょうわ初期しょきにかけて、振袖ふりそで未婚みこん女性じょせいのおしゃれとして着用ちゃくようされることが流行りゅうこうした時期じきがあった。このころには振袖ふりそで羽織はおり振袖ふりそでうえ着用ちゃくようすることもおこなわれた[ちゅう 2]振袖ふりそで打掛うちかけがヒントになったとおもわれる。現代げんだいでは振袖ふりそで羽織はおり着用ちゃくようすることはなく、上着うわぎ場合ばあいはコートである。

羽織はおりゴロ、羽織はおりヤクザ[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだい羽織はおり立派りっぱ着物きもの代名詞だいめいしであった。このため、なりをしていながらゴロツキのような行為こういをするものたいして「羽織はおりゴロ」という言葉ことば使つかわれた(内田魯庵うちだろあん社会しゃかい百面相ひゃくめんそう」など)。また、草創そうそう零細れいさい新聞しんぶんしゃは、社会しゃかいてき影響えいきょうりょくをもって脅迫きょうはくまがいの行為こういはたらくこともあったことから、新聞しんぶん記者きしゃたいして「羽織はおりヤクザ」という言葉ことば使つかわれた[よう出典しゅってん]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 羽織はおりにはもんけない場合ばあいもある。
  2. ^ 池田いけだ重子しげこ日本にっぽんのおしゃれてん図録ずろく参照さんしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 意匠いしょう分類ぶんるい定義ていぎカード(B1) 特許庁とっきょちょう
  2. ^ a b c d e f g h i 横川よこかわ公子きみこ連載れんさい<時代じだいなかの「きもの」-日本にっぽん服装ふくそうから-(6)> 羽織はおり表情ひょうじょう」『繊維せんい学会がっかいだい64かんだい11ごう繊維せんい学会がっかい、2008ねん11月、386-388ぺーじdoi:10.2115/fiber.64.P_386ISSN 00379875NAID 10024451026 
  3. ^ 日本にっぽん随筆ずいひつ大成たいせい だい 7かんより「它山せきはつへん 松井まついしゅう. 吉川弘文館よしかわこうぶんかん. (1974) 
  4. ^ 絵本えほんさんこく妖婦ようふでん あくきつね天竺てんじくいたなみづる氅裘の由来ゆらい / (0025.jp2)”. 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. 2020ねん1がつ23にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d 養老ようろうまち通史つうしへん下巻げかん だい6せつ 民俗みんぞく”. 養老ようろうまち教育きょういく委員いいんかい. 2021ねん12月6にち閲覧えつらん
  6. ^ 樋口ひぐち, 1995 & p17-18.
  7. ^ 三木みき 1968, p. 42.
  8. ^ 樋口ひぐち, 1995 & p23-24.
  9. ^ 神祭しんさい便覧びんらん39かん民俗みんぞく工芸こうげい平成へいせい27ねん8がつ発行はっこうぜん438ぺーじちゅう77ぺーじ
  10. ^ ハレ 武庫川女子大学むこがわじょしだいがく附属ふぞく総合そうごうミュージアム 2019年度ねんど「きものにるモダン生活せいかつ軌跡きせき”. 武庫川女子大学むこがわじょしだいがく. 2021ねん12月6にち閲覧えつらん
  • 三木みき三郎さぶろう陣羽織じんばおりについて」『風俗ふうぞく : 日本にっぽん風俗ふうぞく学会がっかい会誌かいしだい7かんだい4ごう日本にっぽん風俗ふうぞく学会がっかい、1968ねん8がつ、41-55ぺーじNDLJP:12215334/25 
  • 樋口ひぐちまこと太郎たろうせんころもとしての陣羽織じんばおりについて」『風俗ふうぞく : 日本にっぽん風俗ふうぞく学会がっかい会誌かいしだい33かんだい3ごう日本にっぽん風俗ふうぞく学会がっかい、1995ねん6がつ、17-30ぺーじNDLJP:2215430/10 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]