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かみしも

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
はんかみしも肩衣かたぎぬはかまおな生地きじつくられている。肩衣かたぎぬりょうむね背中せなかもんはいっているのがわかる。

かみしも(かみしも)とは、和服わふくにおける男子だんし正装せいそう一種いっしゅ

概要がいよう[編集へんしゅう]

かみしもは「肩衣かたぎぬ」(かたぎぬ)という上半身じょうはんしんそで上衣うわぎと、「はかま」の組合くみあわせでち、それらを小袖こそでうえからる。そのおおくは肩衣かたぎぬはかま同色どうしょく同質どうしつ生地きじ仕立したてて、肩衣かたぎぬりょうむねはかま腰板こしいたよんしょもんれている。うえ肩衣かたぎぬ)としたはかま)をいちぞろいのものとしてつく衣服いふくであることが命名めいめい起源きげんである。ただしつぎかみしも(つぎかみしも)といって肩衣かたぎぬはかまいろ生地きじがそれぞれことなるものもある。室町むろまち時代ときよころおこり、江戸えど時代じだいには武士ぶし平服へいふくまたは礼服れいふくとされた。百姓ひゃくしょう町人ちょうにんもこれになら式日しきじつ着用ちゃくようすることがおおかったので、現在げんざいでも伝統でんとう芸能げいのう祭礼さいれいなどにおいてもちいられる。また公家くげにおいても江戸えど時代じだいにはつぎかみしも日常にちじょう着用ちゃくようしていた。当初とうしょは「上下じょうげ」と表記ひょうきされたが、江戸えど時代じだいうちに「𧘕𧘔」とかれるようになり、さらに「かみしも」とごうされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

うえべたように肩衣かたぎぬにはそでいが、袖無そでなしの衣服いふく近世きんせい以前いぜんよりもちいられていた。ただしそれらはそでをなくすことうごきやすくする庶民しょみん普段着ふだんぎまたは作業さぎょうであった。また本来ほんらい狩衣かりぎぬ水干すいかん直垂ひたたれ素襖すおうなど、これらの上衣うわぎ同色どうしょく同質どうしつ生地きじはかま仕立したてることを「上下じょうげ」(かみしも)としょうした。

織田おだ信長のぶながぞう」 狩野かの元秀もとひでふで天正てんしょう11ねん(1583ねん)。肩衣かたぎぬかたちはかまあい引(はかまりょうわき部分ぶぶん)にももんがあるなど、かみしもとしては江戸えど時代じだい以前いぜんふる様式ようしきをあらわしている。

肩衣かたぎぬはかま組合くみあわせによるかみしも起源きげんあきらかではないが、江戸えど時代じだい故実こじつしょあおしるべ』には、室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつころ内野ないや合戦かっせん素襖すおうそですそくくってもちいたことにはじまるという伝承でんしょうしるしている。松永まつなが久秀ひさひでまたは近衛このえぜんひさもちいたのをはじまりとするはなしもあるがたしかではない。文献ぶんけんでの使用しようれい辿たどると、天文てんもんころには肩衣かたぎぬはかま姿すがたがすでに一般いっぱんしていたとられる。その江戸えど時代じだいいたり、肩衣かたぎぬはかまの「上下じょうげ」が平時へいじりゃく礼服れいふくとしてもちいられるようになった。

中村なかむら内蔵助くらのすけぞう」 尾形おがた光琳こうりんふで元禄げんろく17ねん(1704ねん)。えがかれているかみしもは、現在げんざいられるものにかなりかたちちかくなっているのがうかがえる。

もとは素襖すおうからそで胸紐むなひもはずしただけの構造こうぞうであったらしいが、やがて肩衣かたぎぬのまえごろにひだほそくして、打合うちあわせでるのではなく、はかますそむかたちに変化へんかした。そのさらに肩幅かたはばひろることが流行りゅうこうし、元禄げんろく年間ねんかんには生地きじはばいちしゃくいたりこの寸法すんぽう固定こていした。江戸えど時代じだい中期ちゅうきにはくじらひげれてかたらせる仕立したてがあらわれる。後期こうきにはぎゃくかたせんまるくすることがはやったといわれ、現在げんざいでも「一文字ひともじ」と「はまぐり」(かもめ)として両方りょうほう仕立したてかたがのこっている。

もん位置いちは、素襖すおうおなじく肩衣かたぎぬりょうむねはかま腰板こしいたあい引(あいびき)のろく箇所かしょ本来ほんらいであったが、江戸えど時代じだいになるとあい引のもんりゃくされるようになってゆく。またはかまも、江戸えどには大名だいみょう目見まみ以上いじょう旗本はたもと礼服れいふくとして長袴ながばかまもちいる習慣しゅうかんうまれ、これを「ちょうかみしも」としょうす。した小袖こそでは、江戸えどには正式せいしきには熨斗目のしめもしくは帷子かたびら夏季かき)とさだめられ、色目いろめにも身分みぶんもうけられた。

ふるくは木綿こわた仕立したてた肩衣かたぎぬもあり[1]繻子しゅす緞子どんす仕立したてたかみしも普通ふつうもちいられたが[2]、のちに生地きじあさをもっぱらとし(三重みえけんあさせい綟子とよぶ肩衣かたぎぬ明治めいじまで生産せいさんされていた)、そのほかはりゅうもん絹織物きぬおりもの一種いっしゅ)にかぎるのが一般いっぱんてきになった。またたかられき年間ねんかんには小紋こもんかみしも流行りゅうこうし、江戸城えどじょううち登城とじょうした大名だいみょうたちが自国じこく小紋こもん精巧せいこうさをきそ風潮ふうちょうまれた。

幕末ばくまつになるとかみしもえて羽織はおりはかま平常へいじょうふくとすることになり、慶応けいおう3ねん(1867ねん)の大政奉還たいせいほうかん以後いご公人こうじんかみしも着用ちゃくようすることははいされたが、伝統でんとう芸能げいのう祭礼さいれいなどの民間みんかんしょ行事ぎょうじにおいては現在げんざいでももちいられている。

種類しゅるい[編集へんしゅう]

  • はんかみしも(はんかみしも) - 通常つうじょうかみしもちょうかみしもたいして、はかま通常つうじょうたけであることからこのがある。起源きげんてきにはちょうかみしもよりふるくから存在そんざいするが、ちょうかみしもよりもりゃく礼装れいそうとされる。士分しぶん正装せいそうであり庶民しょみん礼装れいそうであった。庶民しょみん冠婚葬祭かんこんそうさいのみで着用ちゃくようしたが、はんによっては着用ちゃくよう可否かひによって村役人むらやくにんかくとして使つかわれることもあった。
  • ちょうかみしも(ながかみしも) - かみしもはかまを、通常つうじょうのもの(はんかみしも)の1.5ばい程度ていどたけばし、あしさずに穿いてすそくようにしたもの。はんかみしもよりさらに鄭重ていちょう礼装れいそうとされた。なお歌舞伎かぶき舞台ぶたい衣装いしょうなどにもちいられるさいは、はかまたけ見栄みばえのてんから2ばいほどもあるものが使つかわれる。
  • つぎかみしも(つぎかみしも) - 肩衣かたぎぬはかまおなしょく生地きじではないかみしもはかまはんかみしも同様どうよう通常つうじょうたけである。はんかみしもよりさらに略式りゃくしき礼装れいそうとされるが、現在げんざいではほとんどもちいられない。江戸えど時代じだいにはきょう公家くげ日常にちじょうでこのつぎかみしも着用ちゃくようしていた[3]
  • 肩衣かたぎぬ前垂まえだ - 浄瑠璃じょうるり長唄ながうたなど江戸えど時代じだい町人ちょうにんのあいだで発達はったつした邦楽ほうがくでは、舞台ぶたいじょうかみしももちいるときはかまかず、肩衣かたぎぬに「前垂まえだ」をつけることによって代用だいようする。

ギャラリー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 「よろづそんむねどもこう…もめんかたぎぬめされこう、なかなかわるくこう、やめられるべくこう」(『結城ゆうきしん法度はっと』、弘治こうじ2ねん〈1556ねん〉)。『中世ちゅうせい法制ほうせい史料しりょうしゅうだいさんかん 武家ぶけ家法かほうⅠ』(岩波書店いわなみしょてん、1965ねん)294ぺーじ
  2. ^ むかし仕官しかんひとなども繻子しゅす純子じゅんこ緞子どんすなどの上下じょうげかみしもたるなり。いま越後えちご農家のうかなどにて婚姻こんいんなどはれのときは、純子じゅんこにしき上下じょうげもちいふときけり。戯場ぎじょう(しばゐ)にてはつねのことなり。これらもみな古風こふうのなごりといふべし」(山崎やまざき美成びせいちょ世事せじひゃくだんまきいち、「純子じゅんこ上下じょうげ」)
  3. ^ 伝奇でんきさくしょ』(西沢にしざわいちおおとりちょ)には初代しょだいあらしひなすけ(1741ねん - 1796ねん)が石川いしかわ五右衛門ごえもんえんじたとき五右衛門ごえもん公家くげけて餅屋もちやあらわれる場面ばめんつぎかみしもたことがつぎのようにしるされている。「…餅屋もちやじょう中納言ちゅうなごんとなりかんむり装束しょうぞくにてのだしも、ひなすけ京都きょうと芝居しばいにてせしおりは、つぎ上下じょうげかみしもにてしてあたりをりしとぞ。ただじゅうさんさとみちなれど、すめらぎ公家くげしゅ通行つうこう毎度まいどきたり、なみはなもの公卿くぎょうといへばいつもかんむり装束しょうぞくなりとおもものおおし。ゆへにだいさかにてはたとえそむけたりとも(とも)公家くげといへばかんむり装束しょうぞくにてし、京都きょうとにてはつぎ上下じょうげにす」(『伝奇でんきさくしょ続編ぞくへんまき、「名人めいじん役者やくしゃみょうあるはなし」)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]