木村きむら芥舟かいしゅう

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木村きむら芥舟かいしゅう
木村きむら兵庫ひょうごあたま慶応けいおう元年がんねん8がつ、36さい大坂おおさかにて撮影さつえい
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 1830ねん2がつ27にち
死没しぼつ (1901-12-09) 1901ねん12月9にち(71さいぼつ
改名かいめい 勘助かんすけ幼名ようみょう)→あつし芥舟かいしゅうごう
別名べつめい 図書としょてん)、楷堂(ごう
戒名かいみょう 芥舟かいしゅういんきよし如清ふうだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょうみなと南青山みなみあおやま青山あおやま霊園れいえん
官位かんい したがえ摂津せっつもり兵庫ひょうごあたませい
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふはま御殿ごてん奉行ぶぎょうこうたけしょやく
目付めつけ長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ取締とりしまり軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう
開成かいせいしょ頭取とうどり海軍かいぐんしょ頭取とうどり勘定かんじょう奉行ぶぎょう勝手かってかけ
主君しゅくん 徳川とくがわ家定いえさだ家茂いえもち慶喜よしのぶ
氏族しぞく 木村きむら
父母ちちはは ちち木村きむら喜彦よしひこははふね
兄弟きょうだい 久邇くに桂川かつらがわはじめしゅうしつ)、芥舟かいしゅう
つま 弥重やしげ長谷川はせがわこうろう次女じじょ
ひろしきち利子りしきよし駿しゅんきち
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木村きむら 芥舟かいしゅう(きむら かいしゅう、文政ぶんせい13ねん2がつ5にち1830ねん2がつ27にち) - 明治めいじ34ねん1901ねん12月9にち)は、江戸えど幕府ばくふ末期まっき幕末ばくまつ)の旗本はたもと幕臣ばくしん)。位階いかいせいいみなあつし(よしたけ)。

幕府ばくふ海軍かいぐん軍制ぐんせい取締とりしまりはま御殿ごてん奉行ぶぎょう本丸ほんまる目付めつけ長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ取締とりしまり軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうとう幕府ばくふ要職ようしょく歴任れきにん咸臨丸かんりんまる総督そうとくつとめ、明治維新めいじいしんこう完全かんぜん隠居いんきょし、福澤ふくさわ諭吉ゆきち交遊こうゆうかさねて詩文しぶん三昧ざんまい生活せいかつおくった文人ぶんじんである。

死没しぼつ日付ひづけせいじょされているが、幕末ばくまつまくかく明治めいじ以後いご位階いかい勲等くんとうけたもの木村きむらふくめて、川路かわじ聖謨としあきらおくしたがえよん)、岩瀬いわせ忠震ただなりおくせい)、池田いけだちょうはつおくせい)の4めいだけである[1]。「幕末ばくまつよんふね」の1人ひとりつらねることもある[2](ただし木村きむらは、死後しご日付ひづけでの「贈位ぞうい」ではなく、死去しきょ日付ひづけでの「叙位じょい」である[3][4])。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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7だいつづはま御殿ごてん奉行ぶぎょう身分みぶん旗本はたもと[5])の木村きむら喜彦よしひこ(よしひさ)のとしてまれる。幼名ようみょう勘助かんすけ水野みずの忠邦ただくにめいじられ、天保てんぽう13ねん1842ねん)、はま御殿ごてん奉行ぶぎょう見習みならいとしてはつ出仕しゅっしする。12だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよしちょうおんにより、老中ろうじゅう若年寄わかどしよりさん奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょう寺社じしゃ奉行ぶぎょう町奉行まちぶぎょう)にれつして将軍家しょうぐんけのうまいへの出席しゅっせきゆるされるなどわかくして才能さいのう嘱望しょくぼうされる。はやし檉宇師事しじしてまなび、ひろし元年がんねん1844ねん)にりょうばんかくとなる。

安政あんせい2ねん1855ねん)にこうたけしょ出仕しゅっし安政あんせい3ねん1856ねん)、老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろによって西にしまる目付めつけ登用とうようされた。このさい木村きむらつよ推薦すいせんしたのが林家はやしや就学しゅうがく時代じだい先輩せんぱい岩瀬いわせ忠震ただなりだった。阿部あべ正弘まさひろしたでは岩瀬いわせ大久保おおくぼ忠寛ただひろいちおきな)とならんで重用じゅうようされ、目付めつけのまま長崎ながさきひょう御用ごよう取締とりしまりめいぜられ、長崎ながさき奉行ぶぎょう職務しょくむ監察かんさつたる。

長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ[編集へんしゅう]

安政あんせい4ねん1857ねん)、長崎ながさき赴任ふにんした木村きむら長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ取締とりしまり就任しゅうにんする。赴任ふにん当初とうしょ伝習でんしゅうしょおおくの生徒せいと丸山まるやま遊郭ゆうかくなどの悪所あくしょびたるなど風紀ふうきみだれており、奉行ぶぎょうしょかれらを別格べっかくあつかいしてとく取締とりしまりはおこなっていなかった。

木村きむら長崎ながさき奉行ぶぎょう岡部おかべ長常ながつね協力きょうりょくして風紀ふうきめをおこない、宿舎しゅくしゃせま部屋へやだい人数にんずうめておくことによるストレスが悪所あくしょがよいの一因いちいんて、伝習でんしゅうしょ近辺きんぺん屋敷やしきげるなどして生徒せいと住環境じゅうかんきょう改善かいぜんあわせてった。また、それまで長崎ながさき周辺しゅうへんせま海域かいいきかぎられておこなわれていた訓練くんれん航海こうかいを、はん領海りょうかいふくめたひろ海域かいいきおこなえるようにし、生徒せいと操艦そうかん技術ぎじゅつ向上こうじょう寄与きよした。

また、伝習でんしゅうしょにおいてペルス・ライケンカッテンディーケらオランダじん教官きょうかんらと交流こうりゅうできたことは、後年こうねん渡米とべいさい役立やくだつことになった。長崎ながさきさい木村きむら厚誼こうぎれいとして家伝かでん太刀たちをカッテンディーケにおくっている。伝習でんしゅうしょでは薩摩さつまはんあるじ島津しまつ斉彬なりあきら佐賀さがはんあるじ鍋島なべしま直正なおまさの2めい個別こべつ会合かいごうしてしょはん海軍かいぐん事情じじょうさぐり、とく斉彬なりあきら器量きりょうおおきさに感心かんしんしたという。

安政あんせい6ねん1859ねん)5がつ木村きむら海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ閉鎖へいさともなって江戸えどかえり、目付めつけ復帰ふっきする。いちきょう南紀なんきあらそいがはげしくなるなか木村きむらはいずれにもぞくさずに目付めつけきょくにいながら、外国がいこく御用ごよう立合たちあえ神奈川かながわ開港かいこう取調とりしらべされ、大老たいろう井伊いい直弼なおすけした軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうなみおおせつけられた。井伊いいは、安政あんせい大獄たいごくにあたって同僚どうりょう岩瀬いわせ忠震ただなり1人ひとりねらいうちにしたため岩瀬いわせ蟄居ちっきょとなり、そのうえいえろくげられた。

渡米とべい[編集へんしゅう]

1860ねん肖像しょうぞう写真しゃしん慶應義塾けいおうぎじゅく福澤ふくさわ研究けんきゅうセンター所蔵しょぞう

万延まんえん元年がんねん1860ねん)、前年ぜんねん6がつ締結ていけつされた日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく批准ひじゅんのためアメリカ使節しせつ派遣はけんすることになった。このとき軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう水野みずの忠徳ただのり建議けんぎで、べいかんポーハタンごう使用しようする正使せいし新見にいみただしきょういちぎょうとはべつ咸臨丸かんりんまる派遣はけんすることになった。9月10にち軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうなみにんじられていた木村きむら咸臨丸かんりんまる司令しれいかんとして、軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうにんじられる。咸臨丸かんりんまる司令しれいかん就任しゅうにんするにあたっての航海こうかい手当てあて小栗おぐり忠順ただまさ同格どうかく以上いじょうであった。

木村きむら乗組のりくみ士官しかん選考せんこうし、まず佐々ささくらきり太郎たろうすずふじ勇次郎ゆうじろう浜口はまぐちきょうみぎ衛門えもん運用うんようかたとして任命にんめいし、測量そくりょうかたとして小野おの友五郎ともごろうばん鉄太郎てつたろう松岡まつおかいわおきち任命にんめいし、蒸気じょうきかた肥田ひだはま五郎ごろう山本やまもと金次郎きんじろう軍艦ぐんかんみさおねりしょ海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ関係かんけいしゃ選定せんていした。従者じゅうしゃとしては福澤ふくさわ諭吉ゆきちれてくことになった。その通訳つうやくにはアメリカの事情じじょうつうじた中浜なかはま万次郎まんじろうを、その才覚さいかくあらわはじめていたかつ海舟かいしゅう同乗どうじょうさせるなど、勘定かんじょうしょから巨費きょひけて出帆しゅっぱん準備じゅんびすすめた。また、航海こうかい道案内みちあんない米国べいこくがわとの連絡れんらくのため、海軍かいぐん大尉たいいジョン・ブルックはじめとする米国べいこく軍人ぐんじん乗艦じょうかん幕府ばくふ要請ようせいし、反対はんたいする日本人にっぽんじん乗組のりくみいん説得せっとくしてみとめさせた[注釈ちゅうしゃく 1]

万延まんえん元年がんねん1がつ19にち浦賀うらがった咸臨丸かんりんまるは2がつ26にちサンフランシスコ到着とうちゃくし、木村きむらいちぎょうおくれて到着とうちゃくした正使せいしいちぎょうとも市民しみん熱烈ねつれつ歓迎かんげいけた。また、公式こうしき歓迎かんげい行事ぎょうじほか咸臨丸かんりんまる修理しゅうりけるあいだ現地げんち人々ひとびととの交流こうりゅうおこなっている。ワシントンむか正使せいしいちぎょうわかれ、うるう3がつ19にちにサンフランシスコをった咸臨丸かんりんまるハワイ王国おうこくホノルルて、5月5にち浦賀うらがへと帰還きかんした。

帰国きこく[編集へんしゅう]

帰国きこく木村きむら井上いのうえきよしただしとも軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう職務しょくむ復帰ふっき幕府ばくふ海軍かいぐん創設そうせつ目指めざして様々さまざま活動かつどうおこなっている。

文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)5がつ21にち軍制ぐんせいかけとなり、事実じじつじょう幕府ばくふ海軍かいぐん長官ちょうかんとなる。文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)6がつ2にち軍艦ぐんかんぐみ創設そうせつよく文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)には御船手おふなてぐみ統合とうごう小普請こぶしんぐみからも人数にんずう補充ほじゅうすることで海軍かいぐん組織そしきとしての体裁ていさいととのえた。

文久ぶんきゅう2ねん5がつ2にちはつ国産こくさん蒸気じょうきしき軍艦ぐんかん千代田ちよだがた」の建造けんぞう開始かいし完成かんせいは5ねん慶応けいおう3ねん1867ねん)までかかった)。あわせてアメリカとオランダ軍艦ぐんかんけい3せき富士山ふじさんまるひがしかん開陽かいようまる)を発注はっちゅうする。同年どうねん6がつ18にち、9めい留学生りゅうがくせいをオランダに派遣はけん[注釈ちゅうしゃく 2]。このとき派遣はけんされたメンバーには榎本えのもと武揚ぶよう赤松あかまつそくりょうをはじめ、西にしあまねはやしおさむなど、海軍かいぐんだけでなくのち明治めいじ政治せいじ教育きょういく医学いがく分野ぶんや発展はってん貢献こうけんする人物じんぶつふくまれていた。

木村きむらは、日本にっぽん周辺しゅうへん海域かいいきを6つに分割ぶんかつし、それぞれの海域かいいき防備ぼうび担当たんとうする艦隊かんたい江戸えど函館はこだてなど6箇所かしょ配置はいちする構想こうそうをもっていたが、幕府ばくふ首脳しゅのうには必要ひつよう艦船かんせん調達ちょうたつ人員じんいん育成いくせい時間じかんがかかるとの理由りゆう却下きゃっかされる[注釈ちゅうしゃく 3]。また海軍かいぐん優秀ゆうしゅう人材じんざいあつめるため、身分みぶんによらない人材じんざい登用とうよう西洋せいよう軍隊ぐんたいした階級かいきゅう俸給ほうきゅう制度せいど導入どうにゅう建議けんぎしたが、これも身分みぶん制度せいど崩壊ほうかい懸念けねんする幕府ばくふ首脳しゅのうにはれられなかった。こうして文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)9がつ26にち失意しついうち軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうしょくることになる。

元治もとはる元年がんねん1864ねん)、木村きむら開成かいせいしょ頭取とうどり就任しゅうにんいで目付めつけ再任さいにんされ幕政ばくせい復帰ふっきする。外国がいこく御用ごよう立合たてあいおよ海陸かいりく備向かけとなるが、よく慶応けいおう元年がんねん1865ねん)、長州ちょうしゅう征討せいとうのため上洛じょうらくして、兵庫ひょうご開港かいこう問題もんだいめぐって老中ろうじゅう小笠原おがさわら長行おさゆき対立たいりつし、罷免ひめんされた。慶応けいおう2ねん1866ねん)、ふたた軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうなみとなり小栗おぐり忠順ただまさ勝海かつみふねらととも海軍かいぐん組織そしき整備せいびすすめ、よく慶応けいおう3ねんには幕府ばくふ海軍かいぐん西洋せいようしき階級かいきゅう俸給ほうきゅう制度せいど導入どうにゅうされ、近代きんだい海軍かいぐん基礎きそつくられた。慶応けいおう4ねん1868ねん)には勘定かんじょう奉行ぶぎょうすすみ、戊辰戦争ぼしんせんそうでは江戸城えどじょう開城かいじょう事務じむ処理しょりつとめた。徳川とくがわ慶喜よしのぶ水戸みと退去たいきょするにあたってまくかく辞任じにんし、明治維新めいじいしんともしんぜに住居じゅうきょたたんで身辺しんぺん整理せいりおこない、江戸えどてしばらく山奥やまおく神官しんかんしたせた。

晩年ばんねん福澤ふくさわ諭吉ゆきちとの交遊こうゆう[編集へんしゅう]

明治めいじしん政府せいふからもその実力じつりょく評価ひょうかされて、仕官しかんさそいがあったが、木村きむらはそれらをすべ謝絶しゃぜつして完全かんぜん隠居いんきょし、親友しんゆう福澤ふくさわ諭吉ゆきち交遊こうゆうしながら、詩文しぶん生活せいかつおくったといわれている。慶應義塾けいおうぎじゅく面倒めんどうており、親睦しんぼくかいでたびたびじゅくおとずれたり、しばしんぜに有馬ありま中津なかつ屋敷やしき土地とち用意よういしたりしている。

福澤ふくさわとの関係かんけいろんじる場合ばあいは、かつ海舟かいしゅうってはなすことの出来できない人物じんぶつである。規則きそくにはつねきびしく「公明正大こうめいせいだい」を信条しんじょうとしていた木村きむらたいし、柔軟じゅうなんかつ奔放ほんぽうであったがちとは海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ時代じだいよりあまりおりわなかったようである。咸臨丸かんりんまるでの渡米とべいさいは、かち艦長かんちょうでありながらも出港しゅっこうまえよりだいちょうカタルわずらっていたためにろくろく指揮しき出来できなかったが、上陸じょうりくするとアメリカじん対等たいとう会話かいわをしていたので、それも木村きむら福澤ふくさわにはうつらなかったようである(福澤ふくさわきは不便ふべんなく出来できたが、会話かいわ不得手ふえてだった[注釈ちゅうしゃく 4])。こういった事情じじょうもあり、福澤ふくさわ咸臨丸かんりんまる搭乗とうじょうけんでも木村きむらおんがあり、それをきにしてもふか尊敬そんけいしていたこともあり、かち心底しんそこきらっていた。かち明治維新めいじいしん伯爵はくしゃく枢密すうみつ顧問こもんかん地位ちいのぼったため、これを忠義ちゅうぎはんするとみた福澤ふくさわかちへの嫌悪けんおかん決定的けっていてきなものにした。

ただし維新いしんはもとより、維新いしん以前いぜん木村きむらかちなかは、福澤ふくさわがちたいするようなものではなく、たがいにうまわない程度ていどのものであった。木村きむらにとっての生涯しょうがい知己ちき岩瀬いわせ忠震ただなり福澤ふくさわであり、福澤ふくさわ死後しご明治めいじ34ねん(1901ねん)3がつ3にち時事新報じじしんぽう』に木村きむらは『福澤ふくさわ先生せんせいを憶う』という切々せつせつたる長文ちょうぶんせている。このほか福澤ふくさわとく木村きむら息子むすこひろしきちをかけていたばかりでなく、維新いしん収入しゅうにゅうくなった木村きむら援助えんじょつづけた。

明治めいじ14ねん1881ねん)には漢文かんぶん随筆ずいひつきくまど偶筆』『粱一ゆめ』や『さんじゅうねん』(序文じょぶん福澤ふくさわ諭吉ゆきち)を、福澤ふくさわ協力きょうりょくによって交詢社こうじゅんしゃから私費しひ出版しゅっぱんした。日誌にっし備忘びぼうしょうろく』の記録きろくのこっている。

明治めいじ34ねん(1901ねん)12月9にちに72さい死去しきょした。戒名かいみょう芥舟かいしゅういんきよし如清ふうだい居士こじ千駄ヶ谷せんだがやみずえんてら埋葬まいそうされたが、昭和しょうわ8ねん1933ねん)に青山あおやま墓地ぼちにへ改葬かいそうされた。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

日付ひづけ明治めいじ4ねんまでは旧暦きゅうれき改元かいげんのあったとし改元かいげん元号げんごう優先ゆうせん

  • 文政ぶんせい13ねん1830ねん)2がつ5にちはま御殿ごてん役宅やくたくにて誕生たんじょう
  • 天保てんぽう13ねん1842ねん)3がつ13にちはま御殿ごてん奉行ぶぎょう見習みならい
  • ひろし元年がんねん1844ねん)、りょうばんかくはま御殿ごてん奉行ぶぎょう
  • 安政あんせい2ねん1855ねん
    • 2がつ5にちこうたけ所出しょしゅつやく
    • 9月15にち西にしまる目付めつけ就任しゅうにん
  • 安政あんせい3ねん1856ねん
    • 2がつ10日とおか本丸ほんまる目付めつけ
    • 12月16にち長崎ながさきひょう取締とりしまり
  • 安政あんせい4ねん1857ねん)5がつ長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ取締とりしまりおよび医学いがくかん学問がくもん取締とりしまり
  • 安政あんせい6ねん1859ねん
    • 9がつ10日とおか軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうなみ
    • 11月27にちべい副使ふくし拝命はいめい
    • 11月28にち軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうしたがえ摂津せっつもり叙位じょい任官にんかん
  • 万延まんえん元年がんねん1860ねん
    • 1がつ19にち咸臨丸かんりんまる浦賀うらが出帆しゅっぱん
    • 5月5にち浦賀うらが帰還きかん
  • 文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん
    • 5月11にち海陸かいりく備向、軍制ぐんせい取調とりしらべ拝命はいめい
  • 文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)9がつ26にち軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう辞職じしょく
  • 元治もとはる元年がんねん1864ねん
    • 4がつ9にち開成かいせいしょ頭取とうどり就任しゅうにん
    • 12月11にち家督かとく相続そうぞく
    • 12月15にち目付めつけ再任さいにん
  • 慶応けいおう元年がんねん1865ねん)11月、罷免ひめん
  • 慶応けいおう2ねん1866ねん)7がつ26にち軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうなみ再任さいにん
  • 慶応けいおう3ねん1867ねん)6がつ25にち軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう再任さいにん
  • 慶応けいおう4ねん1868ねん
    • 2がつ18にち海軍かいぐんしょ頭取とうどり就任しゅうにん
    • 3月22にち勘定かんじょう奉行ぶぎょう勝手かってかけ兼任けんにん
    • 7がつ26にち隠居いんきょ
  • 明治めいじ34ねん1901ねん)12月9にちせいじょせられる。同日どうじつ22麹町こうじまち土手どて三番さんばんまち自宅じたく死去しきょ

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • はつ出仕しゅっしさい父親ちちおや年齢ねんれいかんねん)を17さいいつわって幕府ばくふとどていた(実際じっさいは12さい)。
  • 渡米とべいさい木村きむら咸臨丸かんりんまる乗組のりくみいんたちが西洋せいよう軍人ぐんじんたいして見劣みおとりがしないように、士分しぶんものには加増かぞう、それ以外いがいものたちにも相応そうおう俸給ほうきゅう幕府ばくふ要望ようぼうしたがれられなかったため、家財かざい処分しょぶんして3せんりょう資金しきん捻出ひねりだしてこれにてた。幕府ばくふからも渡航とこう費用ひようとして5ひゃくりょう下賜かしされたが、これにはほとんどけず、帰国きこく返還へんかんしている。
  • サンフランシスコ入港にゅうこう木村きむら乗組のりくみいんらに「無断むだん外泊がいはく禁止きんし」「単独たんどく行動こうどう禁止きんし」「私的してき飲食いんしょく飲酒いんしゅ)の禁止きんし」などを通達つうたつしたので、咸臨丸かんりんまるいちぎょう現地げんち人々ひとびととのあいだにトラブルをほとんどこさず、その礼儀れいぎただしさをしょうさんされた。
  • サンフランシスコで新聞しんぶんしゃ訪問ほうもんしたときに、印刷いんさつした名刺めいしをプレゼントされた。これによって、日本人にっぽんじんとして最初さいしょ印刷いんさつした名刺めいし使用しようした人物じんぶつとされる。名刺めいしにはつぎ文字もじ印刷いんさつされていた。
Admiral KIM-MOO-RAH SET-TO-NO-KAMI, Japanese Steam Corvette CANDINMARRUH.
日本国にっぽんこく蒸気じょうきコルベット咸臨丸かんりんまる 提督ていとく木村きむら摂津せっつもり — 木村きむら摂津せっつもり新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 2007、49ぺーじ
  • 木村きむらのことを終生しゅうせい尊敬そんけいしていた福澤ふくさわ諭吉ゆきちは、維新いしん木村きむら経済けいざいてき援助えんじょつづけていた。にちしん戦争せんそう出征しゅっせいした木村きむら息子むすこひろしきちてた黄海こうかい海戦かいせん勝利しょうりいわ手紙てがみに「まんいちきみ討死うちじにしても、ご両親りょうしん面倒めんどうわたしいのちつづかぎるから安心あんしんしなさい」とつづっている[6]戦後せんごひろしきち福澤ふくさわたずねて「自分じぶん昇進しょうしんして生活せいかつ安定あんていしたので」と援助えんじょ辞退じたいもうると、「貴方あなた援助えんじょしているわけではない、お父上ちちうえ心尽こころづくしをしているだけだ」とおこられたという。

家系かけい[編集へんしゅう]

木村きむら初代しょだいあきらだか甲府こうふはんあるじ徳川とくがわ綱重つなしげつかえ、2だいせいしげる綱重つなしげで6だい将軍しょうぐんとなった徳川とくがわ家宣いえのぶ江戸えどりにしたがって旗本はたもとれつした。3だい茂次しげじから6代目だいめ喜彦よしひこまで代々だいだいはま御殿ごてん奉行ぶぎょうどう奉行ぶぎょうつとめる。家紋かもんまつがわひし

あね久邇くには、桂川かつらがわ7代目だいめ当主とうしゅ桂川かつらがわこくきょうとついでおり、久邇くにはじめしゅうむすめ今泉いまいずみみねである。

子女しじょ[編集へんしゅう]

長男ちょうなん早世そうせい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ブルックらが帰国きこくのために咸臨丸かんりんまる便乗びんじょうしたというのはあやまりである。
  2. ^ 当初とうしょ留学りゅうがくさきにはアメリカを予定よていしていたが南北戦争なんぼくせんそう勃発ぼっぱつによりたせなかった。
  3. ^ この構想こうそう明治めいじはいってから連合れんごう艦隊かんたいとして結実けつじつする。
  4. ^ このことについては商法しょうほう講習こうしゅうしょ一橋大学ひとつばしだいがく前身ぜんしん講師こうしであったウィリアム・コグスウェル・ホイットニーむすめかち親交しんこうのあったクララの日記にっきからもうかがえる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 藤井ふじいあきらはく咸臨丸かんりんまる航海こうかいちょう 小野おの友五郎ともごろう生涯しょうがい 幕末ばくまつ明治めいじのテクノクラート』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1985ねん10がつISBN 4-12-100782-4 
  2. ^ 山岡やまおか鉄舟てっしゅう口述こうじゅつ しる勝部かつべしんちょう へん山岡やまおか鉄舟てっしゅう武士ぶしどう角川書店かどかわしょてん角川かどかわ文庫ぶんこ 角川かどかわソフィア文庫ぶんこ〉、1999ねん9がつ、268ぺーじISBN 4-04-348501-8 
  3. ^ 明治めいじ34ねん12月 「木村きむら芥舟かいしゅう特旨とくしヲ以テ位記いきたまものフノけん
  4. ^ 官報かんぽう だい5536ごう 明治めいじ34ねん12月14にち叙任じょにん及辞れい
  5. ^ 石井いしいこう日本にっぽん人事じんじ政策せいさく起源きげん : 江戸えど幕府ばくふ後期こうき御家人ごけにん人材じんざい登用とうよう昇進しょうしん」『北海学園大学ほっかいがくえんだいがく学園がくえん論集ろんしゅうだい156かん北海学園大学ほっかいがくえんだいがく学術がくじゅつ研究けんきゅうかい、2013ねん6がつ、1-27ぺーじCRID 1050845762453380352ISSN 0385-7271 
  6. ^ 明治めいじ27ねん(1894ねん)10がつ5にちけの木村きむらひろしよしあて書簡しょかん以下いかのとおりである。該当がいとうする箇所かしょ下線かせんしてしめす。
     軍役ぐんえき御苦勞ごくろうせんまんそんこう過日かじつ海洋かいようとう激戰げきせんべっしての御事おんこと御座ぎょざこう新聞紙しんぶんしにて承知しょうちとめぬしたくへも書状しょじょうにより隱居いんきょさまより拜承はいしょうつかまつこうなお此上ともいさみして奮戰ふんせんいのるのみ。わがくに榮辱えいじょくわかるゝしょ拔群ばつぐんはたらけ々もたてまつまちこうはたまたとめぬしたくおよばずながらしんつかまつつもり、萬々一まんまんいち討死うちじに相成あいなこうはゞ、兩親りょうしんさましょ老生ろうせい生涯しょうがいちゅう屹度引受ひきうけさるじょう不自由ふじゆうなきさま致兼て覺悟かくごづけ、其邊しんやす思召おぼしめししたこう小包こづつみ郵便ゆうびんにてつくだにとあまめいおさめ少々しょうしょうじょうこうわらいとめしたこうはゞ本懷ほんかいいたりにたてまつそんこうみぎ尋問じんもんまでさるじょうこうは凱戰まんさいときこう匆々そうそう頓首とんしゅ — 福澤ふくさわ諭吉ゆきち、『福澤ふくさわ諭吉ゆきち全集ぜんしゅうだい18かん617ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]