(Translated by https://www.hiragana.jp/)
川路聖謨 - Wikipedia コンテンツにスキップ

川路かわじ聖謨としあきら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川路かわじ 聖謨としあきら
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ
生誕せいたん とおる元年がんねん4がつ25にち1801ねん6月6にち
死没しぼつ 慶応けいおう4ねん3月15にち1868ねん4がつ7にち)(66さいぼつ)
改名かいめい 弥吉やきち萬福ばんぷく聖謨としあきら
戒名かいみょう まことかくいん殿どの嘉訓かくんあきら弼大居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう台東たいとう大正寺だいしょうじ
官位かんい したがえ左衛門さえもん少尉しょういおくしたがえよん[1]
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ勘定かんじょう組頭くみがしらかく寺社じしゃ奉行ぶぎょう吟味ぎんみぶつ調ちょうやく
勘定かんじょう吟味ぎんみやく佐渡さど奉行ぶぎょう小普請こぶしん奉行ぶぎょう
普請ふしん奉行ぶぎょう奈良なら奉行ぶぎょうだい坂東ばんどうまち奉行ぶぎょう
勘定かんじょう奉行ぶぎょう西丸にしまる留守居るすい外国がいこく奉行ぶぎょう
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし家定いえさだ家茂いえもち
氏族しぞく 内藤ないとう川路かわじ
父母ちちはは ちち内藤ないとうとしゆかりはは高橋たかはしまことしゅむすめ
養父ようふ川路かわじひかりぼう
兄弟きょうだい 川路かわじ聖謨としあきら井上いのうえきよしただし内藤ないとうゆかりあきら
つま 正室せいしつ桑原くわばらまさしみつるむすめエツ
継室けいしつ市川いちかわ常春とこはるむすめやす
つぎしつ高橋たかはしへい左衛門さえもんむすめかね
つぎ々々しつ大越おおこしたかしひさむすめさと
あきらつね原田はらだたねりんしん吉郎よしろう原田はらだ又吉またきちろう
くに(高山たかやま貞通さだみちしつ)、のぶ(貴志きし忠孝ただたかしつ
テンプレートを表示ひょうじ

川路かわじ 聖謨としあきら(かわじ としあきら)は、日本にっぽん武士ぶし旗本はたもと)。ごうけいとき

豊後ぶんご日田ひた代官だいかんしょ役人やくにん息子むすこまれ、御家人ごけにん出身しゅっしんながら勘定かんじょう吟味ぎんみやく佐渡さど奉行ぶぎょう小普請こぶしん奉行ぶぎょう大坂おおさか町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうなどの要職ようしょく歴任れきにんした。和歌わかにも造詣ぞうけいふかく、『島根しまね乃言のう』などの歌集かしゅうのこしている。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

とおる元年がんねん(1801ねん)4がつ25にち豊後ぶんごこく日田ひたげん大分おおいたけん日田にった)に、日田ひた代官だいかん所属しょぞく吏・内藤ないとう吉兵衛きちべえさいゆかり長男ちょうなんとしてまれた。幼名ようみょう弥吉やきちははは、日田ひた代官だいかんしょ手付てつき高橋たかはしまことしゅむすめおとうと井上いのうえきよしただし母方ははかた従弟じゅうてい江戸えど幕府ばくふ最後さいご西国さいごく郡代ぐんだいである窪田くぼた鎮勝がいる。根津ねづぜいきち永峰ながみね弥吉やきちもいとこにあたる[2]

文化ぶんか5ねん(1808ねん)、ちち吉兵衛きちべえ江戸えど御家人ごけにんかぶ入手にゅうしゅし、幕府ばくふ徒歩とほぐみ編入へんにゅうされた。文化ぶんか9ねん1812ねん)、弥吉やきちは12さい小普請こぶしんぐみ川路かわじさん衛門えもんこうぼう養子ようしとなる。翌年よくねん元服げんぷくして、弥吉やきちから萬福ばんぷく(かずとみ)と名乗なのり、小普請こぶしんぐみはいる。文化ぶんか14ねん(1817ねん)、勘定かんじょう奉行ぶぎょうしょ下級かきゅう吏員りいん資格しかく試験しけんである筆算ひっさん吟味ぎんみ及第きゅうだい文政ぶんせい元年がんねん(1818ねん)に勘定かんじょう奉行ぶぎょうところ支配しはい勘定かんじょうやくという下級かきゅう幕吏ばくり採用さいようされ、支配しはい勘定かんじょう勘定かんじょう昇進しょうしん旗本はたもととなる。その寺社じしゃ奉行ぶぎょう吟味ぎんみぶつ調ちょうやくとして寺社じしゃ奉行ぶぎょうしょ出向しゅっこう。このとき仙石せんごく騒動そうどう裁断さいだんしており、このいちけんによって勘定かんじょう吟味ぎんみやく昇格しょうかくした。その佐渡さど奉行ぶぎょうて、老中ろうじゅう水野みずの忠邦ただくに時代じだい小普請こぶしん奉行ぶぎょう普請ふしん奉行ぶぎょうとして改革かいかく参与さんよした(このころ、萬福ばんぷくから聖謨としあきらあらたむ)。

また、勘定かんじょう吟味ぎんみやく職務しょくむ関係かんけい西洋せいよう諸国しょこく動向どうこう関心かんしんつようになり、当時とうじ海外かいがい事情じじょう西洋せいよう技術ぎじゅつなどにもある程度ていどつうじていた。なお江川えがわ英龍ひでたつ渡辺わたなべ崋山かざんらととも尚歯しょうしかい参加さんかし、天保てんぽう10ねん(1839ねん)の蛮社のごくにあやうく連座れんざしかけたという通説つうせつがあるが、川路かわじ江川えがわ尚歯しょうしかい参加さんかしておらず、また蛮社のごく尚歯しょうしかい標的ひょうてきとしたものではないため、川路かわじが蛮社のごく連座れんざする可能かのうせいはなかったとするせつもある[3]

水野みずの忠邦ただくに天保てんぽう改革かいかく挫折ざせつして失脚しっきゃくしたのち奈良なら奉行ぶぎょう左遷させんされている[4]よしみなが2ねん(1849ねん)『神武じんむ御陵ごりょうこう』をあらわした。執筆しっぴつ動機どうきは、ミサンザイ、丸山まるやま塚山つかやまさんせつ鼎立ていりつするなか、ほんきょ宣長のりながが『古事記こじきでん』においてスイセンづか古墳こふん神武じんむりょうとしたことへの批判ひはんだとべている[5]。また、民政みんせいにもくした。乱伐らんばつによりはげやまになっていた多聞たもん山城やましろあとやく50まんほん植樹しょくじゅし、佐保川さほがわには今日きょう川路かわじさくら」とばれるさくらえた。博打ばくちきびしくまるとともに貧民ひんみん救済きゅうさいんだ。このため「ひゃくわらい博徒ばくと悪徳あくとく僧侶そうりょ役人やくにん商人しょうにん裁判さいばん短期たんきまりきゃくった公事こうじ宿やどいつつがき、百姓ひゃくしょうわらう)の奉行ぶぎょう」としたわれた。奈良なら奉行ぶぎょう時代じだい日記にっきやすしごと』が宮内庁くないちょう図書としょりょう文庫ぶんこのこ[6]

そのだい坂東ばんどうまち奉行ぶぎょうて、よしみひさし5ねん1852ねん)、公事こうじかた勘定かんじょう奉行ぶぎょう就任しゅうにんいえろくが200ひょう(200せき相当そうとう)から500いし知行ちぎょう加増かぞうされた(当時とうじ幕府ばくふ内規ないきにより遠国おんごく奉行ぶぎょう就任しゅうにんで200ひょう江戸えどまち奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょう就任しゅうにんで500せき加増かぞう)。よくよしみなが6ねん1853ねん)、阿部あべ正弘まさひろ海岸かいがん防禦ぼうぎょ御用ごようかけにんじられ、黒船くろふね来航らいこうさい開国かいこくとなえる。また同年どうねん長崎ながさき来航らいこうしたロシア使節しせつエフィム・プチャーチンとの交渉こうしょう大目おおめづけかくやり奉行ぶぎょう筒井つつい政憲まさのり勘定かんじょう吟味ぎんみやくむらかきはんただし下田しもだ奉行ぶぎょう伊沢いさわ政義まさよし儒者じゅしゃ古賀こが謹一きんいちろうとも担当たんとうし、安政あんせい元年がんねん1854ねん)に下田しもだにち和親わしん条約じょうやく調印ちょういん。そのさいロシアがわ川路かわじ人柄ひとがら大変たいへんせられたという(下記かき人物じんぶつ逸話いつわ参照さんしょう)。

安政あんせい5ねん1858ねん)には堀田ほった正睦まさとし同行どうこうして上洛じょうらく朝廷ちょうてい日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく承認しょうにんようとするが失敗しっぱい江戸えどもどった(条約じょうやくおとうと井上いのうえきよしただし岩瀬いわせ忠震ただなり朝廷ちょうてい承認しょうにんいままタウンゼント・ハリス調印ちょういん)。井伊いい直弼なおすけ大老たいろう就任しゅうにんするといちきょう排除はいじょともな西丸にしまる留守居るすいやく左遷させんされ、さら翌年よくねん8がつ27にちにはそのやく罷免ひめんされて隠居いんきょひかえめいじられる。文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)に勘定かんじょう奉行ぶぎょうかく外国がいこく奉行ぶぎょう復帰ふっきするも、外国がいこく奉行ぶぎょうとはばかりで一橋ひとつばし慶喜よしのぶ関係かんけい御用聞ごようききのような役回やくまわりに不満ふまんがあったようで、病気びょうき理由りゆうとしてわずか4ヶ月かげつやくする。

引退いんたいは、中風ちゅうぶによる半身不随はんしんふずいおとうと井上いのうえきよしじきなど不幸ふこうつづいた。慶応けいおう4ねん(1868ねん)、割腹かっぷくじょうピストルのどいて自殺じさつした。享年きょうねん68。戊辰戦争ぼしんせんそうはじまっており、忌日きじつの3がつ15にちしん政府せいふぐんによる江戸城えどじょうそう攻撃こうげき予定よていであった。かつ海舟かいしゅうしん政府せいふがわ西郷さいごう隆盛たかもり会談かいだんで、無血むけつ江戸えど開城かいじょう決定けっていしたことをらず、病躯びょうくせん足手あしてまといになることをおそれて自決じけつしたとも、江戸えど開城かいじょうほうき、ほろびゆく江戸えど幕府ばくふじゅんじたともわれている。ピストルをもちいたのは、半身不随はんしんふずいのためにかたなではうまくねないと判断はんだんしたからではないかとわれる。

天津てんしんしんそむくもよかり わらびつみ えにしじんむかしおもへは」という辞世じせいのこし、よこに「徳川とくがわ譜代ふだい陪臣ばいしん頑民とき川路かわじ聖謨としあきら」と自書じしょしている。

作家さっか山田やまだかぜ太郎たろうは、代表だいひょうさく人間にんげん臨終りんじゅうまき』でそのひょうし「かれちゅう川路かわじ)は要職ようしょく歴任れきにんしたとはいうものの、べつ閣老かくろうれつしたわけでもなく、かつ生涯しょうがい柔軟じゅうなん諧謔かいぎゃく性格せいかくうしなわなかったのに、みごとに幕府ばくふ武士ぶしどうじゅんじたのである。徳川とくがわ武士たけし最後さいごはなともいうべき凄絶せいぜつかたであった。」

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

人物じんぶつ逸話いつわ

[編集へんしゅう]
奈良なら佐保川さほがわのこ川路かわじさくら
  • まれは極度きょくど貧困ひんこんなか両親りょうしんきわめて厳格げんかく教育きょういくけてそだった。後年こうねんおとうと井上いのうえきよしただしとともに、両親りょうしん愛情あいじょう苦労くろうしのんで2人ふたりしていたという。
  • 子供こどもとき疱瘡ほうそうわずらい、あばた沢山たくさんのこす。きむつぼで、んでいる。後年こうねん半身不随はんしんふずいになってしまう。
  • 日課にっかちょう人的じんてきである。午前ごぜん2きて執筆しっぴつ読書どくしょをし、よるしらんでくるとにわて、かたな素振そぶりとやりのすごきを平均へいきん2せんかいおこなう。その来客らいきゃく相手あいてをし、午前ごぜん10江戸城えどじょう登城とじょう午後ごご5まで勤務きんむする(この時代じだい役人やくにん勤務きんむ普通ふつう10から2まで)。いえもどるとすできゃくかまえているので、一緒いっしょばんめしべながらはなしく。さけんだが1ごうまでで、それ以上いじょう絶対ぜったいまない。きゃく応接おうせつむのが午後ごご10ごろで、それからまた執筆しっぴつ読書どくしょをして12る。睡眠すいみん時間じかんはわずか2あいだっていたため平気へいきだったとわれている。
  • 佐渡さど奉行ぶぎょう佐渡さど金山かなやま採掘さいくつ従事じゅうじする鉱夫こうふ人足ひとあし悲惨ひさん情況じょうきょうについて記録きろくしている。
  • 5年間ねんかん奈良なら奉行ぶぎょうつとめたが、そのあいだ川路かわじびかけにより、さくらかえで苗木なえぎすうせんほんかぶ東大寺とうだいじから興福寺こうふくじ中心ちゅうしん植樹しょくじゅしたという。それを記念きねんする石碑せきひ奈良なら興福寺こうふくじちかくに「植桜うえざくらかえでいしぶみ」としてのこっており、碑文ひぶん川路かわじ自筆じひつだとわれている。また貧民ひんみん救済きゅうさい尽力じんりょくしている。
  • 奈良なら奉行ぶぎょう時代じだい川路かわじ聖謨としあきら日記にっきやすしごと』のよしみなが元年がんねん(1848ねん)1がつ25にちに「宝蔵ほうぞういん昨日きのう稽古けいこはじめなるに古格こかくにてたぬきじるしょくするよし也 いにしへはしんたぬきにて稽古けいこじょう精進しょうじんはなかりしがいまはこんにゃくじるたぬきじるとてくはするよし也」としるされている。
  • にち交渉こうしょう応接おうせつでロシアがわ川路かわじ人柄ひとがらせられて、その肖像しょうぞうこう(写真しゃしんをとろう)とするが、それをいて川路かわじはロシアじんに「わたしのような醜男ぶおとこ日本人にっぽんじんかお代表だいひょうおもわれてはこまる」と発言はつげんし、かれらをわらわせた。このとき、プチャーチンに随行ずいこうしていたイワン・ゴンチャロフつぎのようにいている。
    川路かわじわたしたちはみなっていた。(中略ちゅうりゃく川路かわじ非常ひじょう聡明そうめいであった。かれわたしたちを反駁はんばくする巧妙こうみょう弁論べんろんをもって知性ちせいひらめかせたものの、それでもこのひと尊敬そんけいしないわけにはゆかなかった。かれ一言ひとこといち一瞥いちべつ、それに物腰ものごしまでが、すべて良識りょうしきと、機知きちと、炯眼けいがん(けいがん)と、練達れんたつあらわしていた。明知めいちはどこへってもおなじである。」[8]
  • プチャーチンは帰国きこくに「日本にっぽん川路かわじという官僚かんりょうは、ヨーロッパでもめずらしいほどのウィットと知性ちせいそなえた人物じんぶつであった」といている。
  • こののち、1887ねん明治めいじ20ねん)、プチャーチンの孫娘まごむすめのオリガ・プチャーチナ伯爵はくしゃく所縁しょえん戸田とだむらたずね、そこに100ルーブル寄付きふをしている。その歴史れきし激動げきどうなかにも両家りょうけ交流こうりゅうつづき、2008ねん平成へいせい20ねん)にもにち修好しゅうこう150ねんいわっている[9]
  • さん代目だいめ桂米朝かつらべいちょう口演こうえんによる落語らくご鹿しか政談せいだん』では根岸ねぎし肥前ひぜんもりわりに奈良なら奉行ぶぎょう時代じだい川路かわじ主人公しゅじんこうとなっている。
  • 徳川とくがわ慶喜よしのぶいちきょう相続そうぞくおよび改名かいめいまえ松平まつだいらあきら致)がいちきょうはいったさいに、平岡ひらおかまどか四郎しろう小姓こしょうとして推薦すいせんした。

家族かぞく子孫しそん

[編集へんしゅう]
まご
  • 川路かわじ太郎たろう - あきらつね長男ちょうなん祖父そふ隠居いんきょ家督かとく継承けいしょうのちひろしどうごうした。
曾孫そうそん
玄孫げんそん

著作ちょさく復刻ふっこく

[編集へんしゅう]
  • 川路かわじ聖謨としあきら文書ぶんしょ』(ぜん8かん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1985ねん完結かんけつ昭和しょうわ9ねん(1934ねんかんふくかん
  • 長崎ながさき日記にっき 下田しもだ日記にっき藤井ふじい貞文さだふみ川田かわた貞夫さだおこうちゅう平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ初版しょはん1968ねん
  • 島根しまねのすさみ 佐渡さど奉行ぶぎょう在勤ざいきん日記にっき川田かわた貞夫さだおこうちゅう同上どうじょう初版しょはん1973ねん
  • 東洋とうようきむひろし 英国えいこく留学生りゅうがくせいへの通信つうしん川田かわた貞夫さだおこうちゅう同上どうじょう初版しょはん1978ねん留学りゅうがくちゅうまごへの書簡しょかん

関係かんけい文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

登場とうじょう作品さくひん

[編集へんしゅう]
テレビドラマ
小説しょうせつ
マンガ
落語らくご

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ したがえ四位上松平斉典外十四名贈位ノけん(ref.A12090128400)、国立こくりつ公文書こうぶんしょかんアジア歴史れきし資料しりょうセンター。
  2. ^ 原田はらだ國男くにお裁判さいばん非情ひじょう人情にんじょう』〈岩波いわなみ新書しんしょ しんあかばん1646〉岩波書店いわなみしょてん、2017ねん、181ぺーじ
  3. ^ 田中たなか弘之ひろゆき『「蛮社のごく」のすべて』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん
  4. ^ 竹内たけうち義治よしはる (2013ねん4がつ2にち). “木々きぎえためい奉行ぶぎょうおもいで ふるきをあるけば・はなものがたり 川路かわじさくら(奈良なら)”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. 2020ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  5. ^ ならのにて和学わがくをなしふち契沖けいちゅうらのこときものいちにんあらはだいなるえきあるへきにひゃく年来ねんらい学者がくしゃあることをきかすゆえせんちょう神武じんむのみささき(りょう)をだいにあやまりしにいたれり神武じんむ御陵ごりょうこうをわれこのころしょたり
  6. ^ 川路かわじ聖謨としあきら 奈良ならみちみんのためにきた官僚かんりょう実像じつぞう」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん9がつ2にち(NIKKEI The STYLE)。
  7. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.31
  8. ^ 随行ずいこう日本にっぽん渡航とこう訳書やくしょは、高野たかのあきら島田しまだよう わけ雄松おまつどう書店しょてんしん異国いこく叢書そうしょ、1969ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2008ねん
  9. ^ にち修好しゅうこう150周年しゅうねん記念きねん式典しきてん。「プチャーチン提督ていとくのゆかりのほう江戸えど幕府ばくふ川路かわじ聖謨としあきら(としあきら)勘定かんじょう奉行ぶぎょう子孫しそん」も参加さんか”. 首相しゅしょう官邸かんていホームページ. 2013ねん1がつ25にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]