川路 聖謨
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
→ → → | |
| |
| |
| |
| |
| |
くに( |
生涯
[また、
その
「
経歴
[※
享 和 元年 (1801年 )、誕生 。文化 6年 (1809年 )、小普請 組 川路 三 左衛門 光 房 の養子 となる。文政 10年 (1827年 )、勘定 組頭 格 寺社 奉行 吟味 物 調 役 に就任 。天保 6年 (1835年 )、仙石 騒動 発生 。寺社 奉行 脇坂 安 董 を助 け事件 を裁判 し、功績 により11月28日 勘定 吟味 役 に昇格 。天保 11年 (1840年 )6月 8日 、佐渡 奉行 に異動 。翌年 5月 8日 、久須美 祐 明 と交代 して帰 府 。天保 12年 (1841年 )6月 12日 、小普請 奉行 に異動 。天保 14年 (1843年 )10月 10日 、普請 奉行 に異動 。弘 化 3年 (1846年 )1月 11日 、奈良 奉行 に左遷 。嘉 永 2年 (1849年 )、『神武 御陵 考 』執筆 。嘉 永 4年 (1851年 )6月 24日 、大 坂東 町 奉行 に異動 。嘉 永 5年 (1852年 )9月 10日 、勘定 奉行 ・公事 方 (訴訟 担当 )に異動 。嘉 永 6年 (1853年 )嘉 永 7年 (1854年 )安政 2年 (1855年 )- 1
月 18日 、下田 へ出張 。 - 8
月 9日 、禁裏 御 造営 御用 掛 を兼帯 。
- 1
安政 4年 (1857年 )12月19日 、朝鮮 使節 来 聘御用 を兼帯 。安政 5年 (1858年 )安政 6年 (1859年 )8月 27日 、西丸 留守居 を免職 され隠居 。文久 3年 (1863年 )- 5月11
日 、外国 奉行 に就任 。 - 10月4
日 、老 疾 を理由 に辞 す。
- 5月11
慶応 4年 (1868年 )3月 15日 、自殺 (日本 でのピストル自殺 第 1号 といわれている)大正 元年 (1912年 )11月19日 、従 四 位 を贈 られた[7]。
人物 ・逸話
[生 まれは極度 の貧困 の中 、両親 の極 めて厳格 な教育 を受 けて育 った。後年 、弟 の井上 清 直 とともに、両親 の愛情 と苦労 を偲 んで2人 して泣 いたという。子供 の時 に疱瘡 を患 い、あばたを沢山 残 す。眼 は金 壺 眼 で、引 っ込 んでいる。後年 、半身不随 になってしまう。日課 は超 人的 である。午前 2時 に起 きて執筆 、読書 をし、夜 が白 んでくると庭 に出 て、刀 の素振 りと槍 のすごきを平均 2千 回 行 う。その後 来客 の相手 をし、午前 10時 に江戸城 に登城 、午後 5時 まで勤務 する(この時代 の役人 の勤務 は普通 10時 から2時 まで)。家 に戻 ると既 に客 が待 ち構 えているので、一緒 に晩 飯 を食 べながら話 を聞 く。酒 は飲 んだが1合 までで、それ以上 は絶対 に飲 まない。客 の応接 が済 むのが午後 10時 ごろで、それからまた執筆 、読書 をして12時 に寝 る。睡眠 時間 はわずか2時 間 、気 が張 っていたため平気 だったと言 われている。佐渡 奉行 時 、佐渡 金山 採掘 に従事 する鉱夫 、人足 の悲惨 な情況 について記録 している。- 5
年間 奈良 奉行 を勤 めたが、その間 に川路 の呼 びかけにより、桜 と楓 の苗木 数 千 本 株 を東大寺 から興福寺 を中心 に植樹 したという。それを記念 する石碑 が奈良 市 興福寺 近 くに「植桜 楓 之 碑 」として残 っており、碑文 は川路 の自筆 だと言 われている。また貧民 救済 に尽力 している。 奈良 奉行 時代 の川路 聖謨 の日記 『寧 府 紀 事 』の嘉 永 元年 (1848年 )1月 25日 に「宝蔵 院 は昨日 稽古 はじめなるに古格 にて狸 汁 を食 するよし也 いにしへは真 の狸 にて稽古 場 に精進 はなかりしが今 はこんにゃく汁 を狸 汁 とてくはするよし也」と記 されている。日 露 交渉 の応接 でロシア側 は川路 の人柄 に魅 せられて、その肖像 画 を書 こう(写真 をとろう)とするが、それを聞 いて川路 はロシア人 に「私 のような醜男 を日本人 の顔 の代表 と思 われては困 る」と発言 し、彼 らを笑 わせた。この時 、プチャーチンに随行 していたイワン・ゴンチャロフは次 のように書 いている。- 「
川路 を私 達 はみな気 に入 っていた。(中略 )川路 は非常 に聡明 であった。彼 は私 たちを反駁 する巧妙 な弁論 をもって知性 を閃 かせたものの、それでもこの人 を尊敬 しないわけにはゆかなかった。彼 の一言 一 句 、一瞥 、それに物腰 までが、すべて良識 と、機知 と、炯眼 (けいがん)と、練達 を顕 していた。明知 はどこへ行 っても同 じである。」[8]
- 「
- プチャーチンは
帰国 後 に「日本 の川路 という官僚 は、ヨーロッパでも珍 しいほどのウィットと知性 を備 えた人物 であった」と書 いている。 - この
後 、1887年 (明治 20年 )、プチャーチンの孫娘 のオリガ・プチャーチナ伯爵 は所縁 の地 戸田 村 を訪 ね、そこに100ルーブルの寄付 をしている。その後 の歴史 の激動 の中 にも両家 の交流 は続 き、2008年 (平成 20年 )にも日 露 修好 150年 を祝 っている[9]。 三 代目 桂米朝 の口演 による落語 『鹿 政談 』では根岸 肥前 守 の代 わりに奈良 奉行 時代 の川路 が主人公 となっている。徳川 慶喜 (一 橋 家 相続 および改名 前 は松平 昭 致)が一 橋 家 に入 った際 に、平岡 円 四郎 を小姓 として推薦 した。
家族 ・子孫
[孫 -
川路 太郎 -彰 常 の長男 。祖父 の隠居 後 家督 を継承 、後 に寛 堂 と号 した。
著作 (復刻 )
[- 『
川路 聖謨 文書 』(全 8巻 )東京大学 出版 会 、1985年 完結 -昭和 9年 (1934年 )刊 の複 刊 - 『
長崎 日記 下田 日記 』藤井 貞文 ・川田 貞夫 校 注 、平凡社 東洋文庫 、初版 1968年 - 『
島根 のすさみ佐渡 奉行 在勤 日記 』川田 貞夫 校 注 、同上 、初版 1973年 - 『
東洋 金 鴻 英国 留学生 への通信 』川田 貞夫 校 注 、同上 、初版 1978年 -留学 中 の孫 への書簡
関係 文献
[川田 貞夫 『川路 聖謨 』吉川弘文館 〈人物 叢書 〉徳永 真一郎 「川路 聖謨 」(『幕末 閣僚 伝 』収録 、毎日新聞社 、のちPHP文庫 )佐藤 雅美 『立身出世 -官僚 川路 聖謨 の生涯 』(文藝春秋 、のち改題 『官僚 川路 聖謨 の生涯 』文春 文庫 )吉村 昭 『落日 の宴 -勘定 奉行 川路 聖謨 』(講談社 文庫 、のち「吉村 昭 歴史 小説 集成 四 」岩波書店 )小川 恭一 編 『寛政 譜 以降 旗本 家 百科 事典 』東洋 書林 、1997年 北岡 伸一 『日本 外交 史 外交 と権力 』有斐閣 、2011年 、増補 版 2017年 川路 寛 堂 『川路 聖謨 之 生涯 』、吉川弘文館 、1903年 (復刻 ・マツノ書店 、2014年 )出 久根 達郎 『桜 奉行 幕末 奈良 を再生 した男 ・川路 聖謨 』養 徳 社 、2016年 奈良 奉行 時代 の川路 聖謨 を主人公 とした小説 。天理教 系 の出版 社 ・養 徳 社 の月刊 誌 『陽気 』に連載 された「まほらま」を改題 。
登場 作品
[- テレビドラマ
- 『
天皇 の世紀 』(1971年 、テレビドラマ、朝日放送 、演 :木村 功 ) - 『
翔 ぶが如 く』(1990年 、NHK大河 ドラマ、演 :伏見 哲夫 ) - 『
徳川 慶喜 』(1998年 、NHK大河 ドラマ、演 :勝部 演 之 ) - 『
篤 姫 』(2008年 、NHK大河 ドラマ、演 :本多 晋 ) - 『
青天 を衝 け』(2021年 、NHK大河 ドラマ、演 :平田 満 )
小説
松本 清張 『天保 図録 』『鬼火 の町 』徳永 真一郎 「川路 聖謨 」(『幕末 閣僚 伝 』収録 )吉村 昭 『落日 の宴 -勘定 奉行 川路 聖謨 』佐藤 雅美 『立身出世 -官僚 川路 聖謨 の生涯 』のち文庫 化 に際 して『官僚 川路 聖謨 の生涯 』に改題
- マンガ
落語
脚注
[- ^
故 従 四位上松平斉典外十四名贈位ノ件 (ref.A12090128400)、国立 公文書 館 アジア歴史 資料 センター。 - ^
原田 國男 『裁判 の非情 と人情 』〈岩波 新書 新 赤 版 1646〉岩波書店 、2017年 、181頁 。 - ^
田中 弘之 『「蛮社の獄 」のすべて』(吉川弘文館 、2011年 ) - ^
竹内 義治 (2013年 4月 2日 ). “木々 植 えた名 奉行 の思 い継 いで古 きを歩 けば・花 ものがたり川路 桜 (奈良 市 )”.日本経済新聞 . 2020年 4月 17日 閲覧 。 - ^ ならの
地 にて和学 をなし真 淵 契沖 らのこときもの一 人 あらは大 なる益 あるへきに二 百 年来 学者 あることをきかす故 に宣 長 か神武 のみささき(陵 )を大 にあやまりしにいたれり神武 御陵 考 をわれこの頃 書 たり - ^ 「
川路 聖謨 奈良 の寄 り道 /民 のために生 きた官僚 の実像 」『日本経済新聞 』朝刊 2018年 9月 2日 (NIKKEI The STYLE)。 - ^
田尻 佐 編 『贈位 諸賢 伝 増補 版 上 』(近藤 出版 社 、1975年 )特旨 贈位 年表 p.31 - ^
随行 記 『日本 渡航 記 』訳書 は、高野 明 ・島田 陽 訳 (雄松 堂 書店 ・新 異国 叢書 、1969年 /講談社 学術 文庫 、2008年 ) - ^ “
日 露 修好 150周年 記念 式典 。「プチャーチン提督 のゆかりの方 と江戸 幕府 川路 聖謨 (としあきら)勘定 奉行 の子孫 」も参加 。”.首相 官邸 ホームページ. 2013年 1月 25日 閲覧 。
関連 項目
[- 『
幕末 のスパシーボ』
外部 リンク
[川路 聖謨 文書 国立 国会図書館 デジタルコレクション