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天保てんぽう図録ずろく

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天保てんぽう図録ずろく
作者さくしゃ 松本まつもと清張せいちょう
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
ジャンル 長編ちょうへん小説しょうせつ
発表はっぴょう形態けいたい 雑誌ざっし連載れんさい
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ週刊しゅうかん朝日あさひ1962ねん4がつ13にち - 1964ねん12月25にち
出版しゅっぱんもと 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
挿絵さしえ 風間かざまかん
刊本かんぽん情報じょうほう
刊行かんこう天保てんぽう図録ずろく
出版しゅっぱんもと 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1964ねん6月25にち上巻じょうかん
1965ねん6がつ10日とおかちゅうまき
1965ねん7がつ15にち下巻げかん
装幀そうてい 伊藤いとう憲治けんじ
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
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天保てんぽう図録ずろく』(てんぽうずろく)は、松本まつもと清張せいちょう長編ちょうへん時代じだい小説しょうせつ。『週刊しゅうかん朝日あさひ』に連載れんさいされ(1962ねん4がつ13にちごう - 1964ねん12月25にちごう連載れんさい挿絵さしえ風間かざまかん)、1964ねん6がつから1965ねん7がつにかけて上中かみなか下巻げかん単行本たんこうぼん朝日新聞社あさひしんぶんしゃより刊行かんこうされた。『かげろう絵図えず』に時代じだいてきにつながるかたちで、天保てんぽう改革かいかく実施じっし時期じき人間にんげんぐんぞうえがく。

あらすじ[編集へんしゅう]

作中さくちゅう舞台ぶたいとなる花見川はなみがわ弁天橋べんてんばし付近ふきん

大御所おおごしょ家斉いえなり天保てんぽう12ねん正月しょうがつ死去しきょすると、水野みずの越前えちぜんまもる忠邦ただくに将軍家しょうぐんけけい通謀つうぼうし、水野みずの美濃みのまもる忠篤ただあつ御用ごよう部屋へやから追放ついほう同様どうよう家斉いえなりしんちょうけたもの一掃いっそうされ、忠邦ただくに家斉いえなり政治せいじ革新かくしん着手ちゃくしゅする。忠邦ただくにちかづいていた鳥居とりい耀蔵ようぞうは、政令せいれい徹底てっていのために美濃みのまもるをさらに徹底的てっていてきたたきつけておくことが肝要かんようで、また矢部やべ駿河するがまもる太田おおた備後びんごもりつうじているとしてみなみ町奉行まちぶぎょうからの罷免ひめんはたらきかけ、また密偵みってい使つかって矢部やべ弱点じゃくてんさぐらせる。

長崎ながさき出奔しゅっぽんした本庄ほんじょう茂平もへいは、井上いのうえ伝兵衛でんべえかいして耀蔵ようぞうるが、その追従ついしょう不快ふかいをおぼえた伝兵衛でんべえ叱責しっせきされる。伝兵衛でんべえ交遊こうゆうのある飯田いいだしゅみずせい屋敷やしきまえ人殺ひとごろしが目撃もくげきされ、現場げんばのこされたがかりから、飯田いいだしゅみずせい被害ひがいしゃ西にしまる大奥おおおく出入でいりする部屋へやのおゆきであることをめる。御家人ごけにん石川いしかわ栄之助えいのすけは、屋敷やしきちかくのさか伝兵衛でんべえ殺害さつがい遭遇そうぐうするが、西にしまるおくきの女中じょちゅうくし入手にゅうしゅしたかどでろうりとなる。他方たほう耀蔵ようぞういのちで、茂平もびら美濃みのまもる帰依きえするきょうこういん修験しゅげんそうりょうぜんのもとにはいり、美濃みのまもるからたのまれて高尾山たかおさん忠邦ただくに調伏ちょうぶく呪法じゅほう祈祷きとうしたかどでりょうぜんつみおとしいれる。ろうそとさや茂平もびら栄之助えいのすけは、伝兵衛でんべえったおとこどう一人ひとりではないかとかんがえる。

耀蔵ようぞう蘭学らんがくつうじた高島たかしま秋帆しゅうはんおとしいれる材料ざいりょうさぐるため、茂平もびら長崎ながさききをめいじる。つづいて矢部やべ駿しゅん河守こうもり謀略ぼうりゃくつみかぶせ、桑名くわな幽閉ゆうへいさせる。長崎ながさきから女郎じょろうのおたまとも帰路きろについた茂平もびらまえに、伝兵衛でんべえおとうと熊倉くまくらつたえすすむあらわれ、伝兵衛でんべえ殺害さつがいうたがいで執拗しつよう追跡ついせきする。耀蔵ようぞう後光ごこう背負せおっているという意識いしき茂平もびらは、柳橋やなぎはし茶屋ちゃや飯田いいだしゅみずせい対立たいりつするがかわされ、つづいて耀蔵ようぞうさく巻返まきかえしをはかるが、栄之助えいのすけらの結集けっしゅうしたしゅみずせい手腕しゅわん敗北はいぼくする。かすかな不安ふあんはらおうと、耀蔵ようぞうは、高島たかしま秋帆しゅうはん江戸えど召喚しょうかん獄舎ごくしゃにつなぐ。

耀蔵ようぞう矢部やべえてみなみ町奉行まちぶぎょうとした忠邦ただくには、自分じぶん改革かいかく実行じっこう存分ぞんぶんにとりかかり、国防こくぼうのため念願ねんがん印旛沼いんばぬま開鑿かいさく費用ひよう金座きんざ後藤ごとう三右衛門さんえもんさせようとかんがえていた。将軍家しょうぐんけけい日光にっこうしゃさん実現じつげんし、忠邦ただくに絶頂ぜっちょうひととなり、あね小路こうじをはじめとする大奥おおおく倹約けんやくれいへの抵抗ていこうものともせず、印旛沼いんばぬま開鑿かいさく工事こうじ着手ちゃくしゅする。工事こうじ成功せいこうほう続々ぞくぞくとどくなか、外敵がいてきから江戸えど大坂おおさかまもるためのうえとも閣議かくぎ通過つうかさせるが、紀州きしゅう返事へんじしぶる。耀蔵ようぞう印旛沼いんばぬま工事こうじ実見じっけんめいじられた茂平もびらは、現地げんちにおもむくがふたたでんすすむあらわれる。つてすすむりょうぜんつう茂平もびらめようとするが、茂平もびら出世しゅっせさまたげとなるつてすすむりょうぜん・おたまさんにん殺害さつがいする。

しかし印旛沼いんばぬま工事こうじ見通みとおしがつかなくなり、対立たいりつ勢力せいりょく結集けっしゅう耀蔵ようぞうは落目となった忠邦ただくに見限みかぎる。忠邦ただくに失脚しっきゃくし、耀蔵ようぞう丸亀まるがめはんあづけとなり、連繋れんけいしゃことごと逮捕たいほ収監しゅうかん茂平もびら護持ごじいんはらかたきちされる。

おも登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 歴史れきしてき人物じんぶつ実際じっさいかんしてはリンクさき参照さんしょう
鳥居とりい耀蔵ようぞう
幕府ばくふ目付めつけ世間せけんからはまむし耀蔵ようぞうばれ畏怖いふされる。攘夷じょうい信奉しんぽうしゃ国粋こくすい主義しゅぎもの儒学じゅがく支持しじ蘭学らんがくきらう。水野みずの忠邦ただくに結託けったくみなみ町奉行まちぶぎょうから甲斐守かいのかみ地位ちいる。
本庄ほんじょう茂平もへい
長崎ながさき地役ちえきじんであったが職権しょっけん利用りようしてのオランダ貿易ぼうえきひん横流よこながしが露顕ろけん逐電ちくでん耀蔵ようぞうちかづき江戸えどでの出世しゅっせねらう。才知さいちいて小気味こきみよくまわる。
水野みずの忠邦ただくに
越前えちぜんもり老中ろうじゅう就任しゅうにん仕事しごとのできる手腕しゅわんひと異国いこくせん出没しゅつぼつする国防こくぼうじょう懸念けねんから、印旛沼いんばぬま開鑿かいさく工事こうじ悲願ひがんとする。
飯田いいだしゅみずただし(いいだもんどのしょう)
青山あおやま屋敷やしき小普請こぶしん旗本はたもとじゅうねんまえつまなれ子供こどももいなかったが、闊達かったつ性格せいかくあそき。
深尾ふかお平十郎へいじゅうろう(ふかおへいじゅうろう)
浜中はまなか三右衛門さんえもんふるともだちで小普請こぶしんぐみ旗本はたもと出世しゅっせ意思いしはない。
小菊こぎく(こぎく)
柳橋やなぎばし芸者げいしゃ
井上いのうえ伝兵衛でんべえ(いのうえでんべえ)
耀蔵ようぞう茂平もびら剣術けんじゅつ師範しはん。かなりの剣客けんかく門人もんじんおおい。融通ゆうずうかず頑固がんこ
熊倉くまくらつたえすすむ(くまくらでんのじょう)
井上いのうえ伝兵衛でんべえおとうと松山まつやまはん松平まつへい隠岐おきもり家来けらい人一倍ひといちばい慎重しんちょう
たま(おたま)
丸山まるやま遊郭ゆうかく女郎じょろう源氏名げんじなたまちょう江戸えどかう途中とちゅう茂平もびらはかられ三島みしま女郎じょろうられる。
りょうぜん(りょうぜん)
きょうこういん修験しゅげんそう茂平もびらはかられ御蔵島みくらじま流罪るざいとなる。
石川いしかわ栄之助えいのすけ(いしかわえいのすけ)
くず博打ばくちにふける御家人ごけにん石川いしかわ疇之すすむ従弟じゅうてい
文字もじつね(もじつね)
栄之助えいのすけ常盤津ときわづ師匠ししょう
伊代いよよし(いよきち)
栄之助えいのすけ屋敷やしきはいった泥棒どろぼう
すけ(うすけ)
薬研堀やげんぼりおかっ引。小菊こぎく未練みれんがある。
林田はやしだおさむさく(はやしだじさく)
みなみ町奉行まちぶぎょう手付てつき与力よりき
浜中はまなか三右衛門さんえもん(はまなかさんえもん)
耀蔵ようぞういえ出入でいりするおもてばん
石川いしかわ疇之すすむ(いしかわとものじょう)
耀蔵ようぞういえ出入でいりする支配しはい勘定かんじょうやく
そで(おそで)
茂平もびら従妹じゅうまい水野みずの美濃みのまもる屋敷やしき奉公ほうこうしていたがひまされる。
小松こまつのりぜん(こまつてんぜん)
伝兵衛でんべえ道場どうじょう師範しはんかく門弟もんてい
熊倉くまくらでん十郎じゅうろう(くまくらでんじゅうろう)
熊倉くまくらつたえすすむ息子むすこ
篠田しのだ藤四郎とうしろう(しのだとうしろう)
勘定かんじょう組頭くみがしら梶野かじの土佐とさまもる配下はいか代官だいかん
後藤ごとう三右衛門さんえもん
金座きんざかねやくあらため忠邦ただくに相当そうとうかね融通ゆうずうするわりに、目見まみ以上いじょう官位かんいのぞんでいる。
矢部やべじょうけん
駿河するがまもる。その手腕しゅわんわれ南町みなみまち奉行ぶぎょうく。
太田おおた資始すけはる
備後びんごもり退すさかくれみちあつしごうし、駒込こまごめ下屋敷しもやしきむ。
川路かわじ聖謨としあきら
佐渡さど奉行ぶぎょう飯田いいだしゅみずせい兄事けいじする友人ゆうじん
高島たかしま秋帆しゅうはん
長崎ながさき地役ちえきじん海外かいがい事情じじょうつうじる碩学せきがく
あね小路こうじ
大奥おおおく年寄としより大奥おおおく絶大ぜつだい勢力せいりょくっている。
渋川しぶかわ六蔵ろくぞう
天文てんもんかたけん書物しょもつ奉行ぶぎょう印旛沼いんばぬま開鑿かいさく工事こうじ計画けいかくし、詳細しょうさい立案りつあんする。
土井どいとし
古河ふるかわ城主じょうしゅ大炊おおいあたま忠邦ただくに同格どうかくちか重臣じゅうしん
徳川とくがわ家慶いえよし
だい12だい征夷大将軍せいいたいしょうぐんすすんで改革かいかくをしようとする意思いしはなく、事勿ことなか主義しゅぎ

エピソード[編集へんしゅう]

  • 連載れんさい合間あいまに「『天保てんぽう図録ずろくへんがい 閑筆遊歩ゆうほ」が掲載けいさいされた。桑名くわなでは矢部やべじょうけんゆかりの薬王寺やくおうじあきらげんてらを、浜松はままつでは水野みずの忠邦ただくにゆかりの浜松はままつじょうを、長崎ながさきでは高島たかしま秋帆しゅうはん屋敷やしきを、また千葉ちばけんでは水資源開発公団みずしげんかいはつこうだん協力きょうりょく印旛いんば放水ほうすい取材しゅざいしている[1]
  • ほんさく速記そっきつとめた福岡ふくおかたかしは「はじめのしはかたいという編集へんしゅうからの意見いけんもあって、松本まつもとさん自身じしんもだいぶなやんでいた。口述こうじゅつわるたびに、「これでもかたいかね?」と、なんべんもわたしいたものである」「松本まつもとさんはあたまかかえていたが、やがて本庄ほんじょう茂平もへい登場とうじょうさせてから、ぐっとやわらかくなり、面白おもしろくもなった」とべている[2]印旛沼いんばぬまでの取材しゅざい挿絵さしえ風間かざまかん同行どうこうした[3]
  • 歴史れきし学者がくしゃ松島まつしま栄一えいいちは、ほんさくが1961ねん著者ちょしゃ刊行かんこうした『幕末ばくまつ動乱どうらん』の歴史れきし叙述じょじゅつてき試作しさく基盤きばんとしてかれ、同書どうしょですでに鳥居とりい耀蔵ようぞうおおきな関心かんしんがはらわれていることを指摘してきしている。また、飯田いいだしゅみずせいは『旗本はたもと退屈たいくつおとこ』の早乙女さおとめぬしすいかい想起そうきさせ、その活躍かつやくぶりもよくているとべている[4]
  • 文芸ぶんげい評論ひょうろん野口のぐち武彦たけひこは「清張せいちょう以前いぜんにも、天保てんぽう時代じだい人物じんぶつ事件じけんえがいた時代じだい小説しょうせつはあった。天保てんぽう時代じだい全体ぜんたいぞう視野しやおさめ、その総体そうたい対象たいしょうした歴史れきし小説しょうせつは『天保てんぽう図録ずろく』が最初さいしょである」とべている[5]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 著者ちょしゃによる「『天保てんぽう図録ずろくへんがい 閑筆遊歩ゆうほ」(『週刊しゅうかん朝日あさひ』1962ねん8がつ3にちごう(「桑名くわな紀行のりゆき」)、1963ねん8がつ9にちごう(「浜松はままつ長崎ながさき紀行きこう」)、1963ねん12月27にちごう(「印旛沼いんばぬまあき」)かく掲載けいさい
  2. ^ 福岡ふくおかたかし人間にんげん松本まつもと清張せいちょう』(1968ねん大光たいこうしゃだいじゅういち
  3. ^ 「『天保てんぽう図録ずろく挿画そうがてん 風間かざまかんえが江戸えどのひとびと」(2006ねん北九州きたきゅうしゅう市立しりつ松本まつもと清張せいちょう記念きねんかん
  4. ^ 松本まつもと清張せいちょう全集ぜんしゅう だい27かん』(1973ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう)の松島まつしまによる巻末かんまつ解説かいせつ
  5. ^ 野口のぐち武彦たけひこ「『天保てんぽう図録ずろく』ノート」(『松本まつもと清張せいちょう研究けんきゅうだいななごう(2006ねん北九州きたきゅうしゅう市立しりつ松本まつもと清張せいちょう記念きねんかん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]