装飾そうしょく評伝ひょうでん

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装飾そうしょく評伝ひょうでん
作者さくしゃ 松本まつもと清張せいちょう
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
ジャンル 短編たんぺん小説しょうせつ
発表はっぴょう形態けいたい 雑誌ざっし掲載けいさい
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1958ねん6がつごう
出版しゅっぱんもと 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ
刊本かんぽん情報じょうほう
収録しゅうろく装飾そうしょく評伝ひょうでん
出版しゅっぱんもと 筑摩書房ちくましょぼう
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1958ねん8がつ20日はつか
装幀そうてい なん波田なみたりゅうおこり
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装飾そうしょく評伝ひょうでん』(そうしょくひょうでん)は、松本まつもと清張せいちょう短編たんぺん小説しょうせつ。『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1958ねん6がつごう掲載けいさいされ、同年どうねん8がつたん編集へんしゅう装飾そうしょく評伝ひょうでん収録しゅうろく表題ひょうだいさくとして、筑摩書房ちくましょぼうから刊行かんこうされた。

あらすじ[編集へんしゅう]

わたし昭和しょうわろくねんんだはし画家がか名和なわ薛治のことを調しらべたら面白おもしろ発見はっけんがあるかもしれないとおもったままさんねんしになったあるあさ名和なわ薛治の親友しんゆう芦野あしの信弘のぶひろ死亡しぼう記事きじはいる。芦野あしの遺族いぞくってはなしき、結果けっかによっては名和なわ薛治をきたいとの気持きもちおこったわたしは、豪徳寺ごうとくじえきから世田谷せたがやみちある芦野あしの信弘のぶひろんでいたいえ訪問ほうもんする。そのいえおくからてきたかたかおかんじのおんなてきて、芦野あしの信弘のぶひろむすめ陽子ようしであると直感ちょっかんするが、陽子ようしはぎすぎすしたつめたい様子ようすわたし質問しつもんを刎ねかえす。

しかし、陽子ようしつめたい態度たいどわたし反撥はんぱつおこさせ、一種いっしゅ闘志とうしとなる。名和なわ薛治は昭和しょうわさんねんごろから寓居ぐうきょはらって、いちまいえがかずに、花街はなまち流連りゅうれんしてさけひたったが、名和なわ晩年ばんねんになって何故なぜそんなみょうくずかたをしたのか不思議ふしぎであった。わたし名和なわ同志どうしのひとりであった葉山はやまひかりかいやしきおとずれるが、葉山はやまは「芦野あしのえたとしてもなにはなすまい」「芦野あしの名和なわって駄目だめになったどくおとこだ」とい、そのふくみをわたし十分じゅうぶん理解りかいできたが、つぎ葉山はやまはふと「あの細君さいくん自殺じさつしたね」という言葉ことばらし、かえりがけに「ほう、きみ陽子ようしったのか?」「てるだろう?」とう。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 著者ちょしゃは「「装飾そうしょく評伝ひょうでん」は、いわゆる伝記でんきぶつにある虚飾きょしょくせいいてみたかった」「とかくかれているひと称賛しょうさんするために著者ちょしゃまたは編者へんしゃ主観しゅかんがはいって、批判ひはん無視むしまたはわすれられている。資料しりょう当人とうにんによって都合つごうわるいところはすてられるか、ぼかされてある。いわゆる評伝ひょうでんしきのもののおおくは「装飾そうしょくてき」なものだとかんがえて小説しょうせつにしたのがこれである。発表はっぴょう当時とうじ、モデルは岸田きしだ劉生りゅうせいではないかとわれたが、劉生りゅうせいがモデルでないにしても、それらしい性格せいかくれてある。もっとも、劉生りゅうせいらしきもののみならずいろいろなひとぜてあるから、モデルうんぬんにはいささか当惑とうわくする」としるしている[1]
  • 文芸ぶんげい評論ひょうろん平野ひらのけんは、歴史れきし学者がくしゃ桑田くわたただしおや発表はっぴょうしたほんさく感想かんそう大意たいいしめしつつ、「注意ちゅういすべきは、(桑田くわたただしおやが)ほんさく主人公しゅじんこう実在じつざい人物じんぶつをモデルにしたとしんじてうたがわないてんだろう」「ひとりのすぐれた歴史れきしをさえいちはいくわせたところに、この作品さくひんのリアリティの保証ほしょうをみたいとおもうものである」とべている[2]
  • 美術びじゅつ評論ひょうろん田中たなかみのるは「「装飾そうしょく評伝ひょうでん」は、どこまでも小説しょうせつである」としつつ「にもかかわらず、「装飾そうしょく評伝ひょうでん」の人物じんぶつや、かれらを画壇がだん情況じょうきょうには、大正たいしょうから昭和しょうわ初年しょねんにかけての日本にっぽん洋画ようがだんが、そっくりりられているかんじをける。そのままモデル小説しょうせつんでいるがするのだ」とべている[3]
  • 日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ花田はなた俊典としのりは「「装飾そうしょく評伝ひょうでん」はフィクションである。けれども、岸田きしだ劉生りゅうせい晩年ばんねん破綻はたん背後はいごに「せい」の情念じょうねんひそんでいたという意味いみでなら、こののちの「劉生りゅうせい晩景ばんけい」(「岸田きしだ劉生りゅうせい晩景ばんけい」に改題かいだい)にいたるまでも、この構図こうずはそのまま一貫いっかんしている」とべている[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 松本まつもと清張せいちょう全集ぜんしゅう だい37かん』(1973ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう巻末かんまつ著者ちょしゃによる「あとがき」
  2. ^ 平野へいやによる新潮しんちょう文庫ぶんこ黒地くろじ』(1965ねん巻末かんまつ解説かいせつ
  3. ^ 田中たなかみのる贋作がんさく思想しそう」(『國文學こくぶんがく』1983ねん9がつごう掲載けいさい
  4. ^ 花田はなた俊典としのり「「装飾そうしょく評伝ひょうでん」の虚実きょじつ」(『松本まつもと清張せいちょう研究けんきゅう創刊そうかんごう(2000ねん北九州きたきゅうしゅう市立しりつ松本まつもと清張せいちょう記念きねんかん収録しゅうろく