真贋しんがんもり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
真贋しんがんもり
作者さくしゃ 松本まつもと清張せいちょう
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
ジャンル 短編たんぺん小説しょうせつ
発表はっぴょう形態けいたい 雑誌ざっし掲載けいさい
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1958ねん6がつごう
出版しゅっぱんもと 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ
刊本かんぽん情報じょうほう
収録しゅうろく真贋しんがんもり
出版しゅっぱんもと 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1959ねん7がつ5にち
装幀そうてい 阿部あべ展也たつや
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
テンプレートを表示ひょうじ

真贋しんがんもり』(しんがんのもり)は、松本まつもと清張せいちょう短編たんぺん小説しょうせつ。『別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1958ねん6がつごう掲載けいさいされ、1959ねん7がつたん編集へんしゅう真贋しんがんもり収録しゅうろく表題ひょうだいさくとして、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃから刊行かんこうされた。

1959ねん1962ねんにテレビドラマされた。

あらすじ[編集へんしゅう]

おれ宅田たくださく)はじゅうなかばになったが、美術びじゅつ関係かんけい雑文ざつぶんいてくちのりしている。学生がくせい時代じだい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく本浦ほんうら奘治教授きょうじゅした美術びじゅつ専攻せんこうしていた。 本浦ほんうら博士はかせ方法ほうほう学究がっきゅうてき意匠いしょうかざられた概論がいろん立派りっぱさに眩惑げんわくされるけれど、作品さくひんについての鑑識かんしきがなく、そのうえ建築けんちくされた理論りろん傾斜けいしゃしていた。実証じっしょうてき津山つやま誠一せいいち先生せんせいちかづいたことから、おれ本浦ほんうら博士はかせにらまれ、美術びじゅつ学界がっかいからはじされ、朝鮮ちょうせん総督そうとく博物館はくぶつかん嘱託しょくたく辛抱しんぼうののち、K美術館びじゅつかん嘱託しょくたくとなるが、本浦ほんうら博士はかせ一派いっぱがねでK美術館びじゅつかんからも追放ついほうされた。おれ同期どうき岩野いわの祐之ひろゆきは、鑑別かんべつ基礎きそがなく意見いけんいが、本浦ほんうら博士はかせにとりはいることに専念せんねんし、東大とうだい文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅとなり、その壮麗そうれい肩書かたがきで、空疎くうそ美術びじゅつ史論しろん披露ひろうしている。若手わかて講師こうし兼子かねこ孝雄たかおは、岩野いわのよりはまだましだが、おれからたらたいしたことはない。おれには、いわゆる岩野いわのりゅう学者がくしゃも、そのアカデミズムにこも連中れんちゅうも、鑑定かんていじんも、美術びじゅつ商人しょうにんも、みんなニセモノにえて仕方しかたがない。

おれはすでにこれからののぞみをうしなっている。うかあがることの不可能ふかのうっているし、わかときからの野心やしんめている。ただ、人間にんげんしんぶつ贋物にせものとを指摘してきしてせたいのである。-

骨董こっとう鑑定かんてい門倉かどくらこう楽堂がくどう田能たのうむら竹田たけだ出来できのいいにせんだことからひらめきをおれは、贋作がんさく酒匂さこおおとりたけしを、北九州きたきゅうしゅう炭礦たんこうまちのIから東京とうきょうよびせる。浦上うらかみ玉堂きょくどう代表だいひょうさくおおとりたけし集中しゅうちゅうてきせ、その真贋しんがん見極みきわめるやしなわせたうえで、玉堂きょくどう手本てほんにした贋作がんさく着手ちゃくしゅさせる。おおとりだけえがいた贋作がんさく骨董こっとうしょう芦見あしみいろどり古堂ふるどうを愕かせ、味方みかたれたのち、玉堂きょくどうのコレクターをかいして、贋作がんさく兼子かねこれるところとなり、兼子かねこ美術びじゅつ雑誌ざっしに「玉堂きょくどう秀作しゅうさくひとつではないかとかんがえている」との談話だんわ発表はっぴょうする。

兼子かねこためされた。それは同時どうじ岩野いわの祐之ひろゆきためされたことを意味いみする。東大とうだいアカデミズムの権威けんいためされることになるかもしれない。兼子かねこ反応はんのう満足まんぞくしたおれは、人間にんげん真贋しんがんきわめるための、つぎ剥落はくらく作業さぎょうにとりかかる。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 著者ちょしゃは「「真贋しんがんもり」は、ヒントをった実際じっさい事件じけんがないでもない。美術びじゅつかいすこくわしいひとなら、だれでもあの事件じけんかと合点がてんするだろう。しかし、この創作そうさくまったわたしのものである」「この作品さくひんくため、博物館はくぶつかん近藤こんどう市太郎いちたろうや、文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい鈴木すずきすすむなどから、玉堂きょくどうについていろいろ教示きょうした。近藤こんどういちねんぐらいしてからくなられた。ある酒席しゅせき上機嫌じょうきげんだった風貌ふうぼうのこっている」としるしている[1]
  • 文芸ぶんげい評論ひょうろん平野ひらのけんは「「あるる「小倉こくら日記にっきつて以下いかのモデル小説しょうせつしょ特徴とくちょうをそのままふくみながら、いわばそれらのしょ特徴とくちょう集大成しゅうたいせいしたかんのあるのが「真贋しんがんもり」にほかならぬ、とわたしにはおもえる」とべている[2]
  • 美術びじゅつ評論ひょうろん田中たなかみのるは「実際じっさいはるみねあん事件じけんで、謀略ぼうりゃくのきっかけをつくったもと國學院大學こくがくいんだいがく庶務しょむ課長かちょう渋谷しぶや吉福よしふくとおぼしき人物じんぶつを「おれ」に仕立したてて、「おれ」をおとしめた権威けんいたいする「おれ」の怨念おんねん小説しょうせつ主題しゅだいえている」「小説しょうせつ実際じっさいはるみねあん事件じけんとはまったくちがう、一人ひとり架空かくうおとこ怨念おんねんのドラマにえられている」とべている[3]
  • 川端かわばた康成やすなり浦上うらかみ玉堂きょくどう代表だいひょうさくとされる東雲しののめふるいゆき1950ねん入手にゅうしゅし、1952ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していけているが、ほんさくはちせつには「重要じゅうよう美術びじゅつ指定していけた」玉堂きょくどう作品さくひんを「あれはいけないね」とする描写びょうしゃがあり、みなみとみは、ほんさくには清張せいちょう川端かわばたたいする対抗たいこう意識いしきかげられるとべている[4]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • はるみねあん事件じけん - よんせつ言及げんきゅうされる「じゅうすうねんまえおこったあきみねあん戯画ぎが事件じけん」のモデル。

テレビドラマ[編集へんしゅう]

1959年版ねんばん[編集へんしゅう]

1959ねん5がつ27にち(22:00-22:30)、日本にほんテレビの「スリラー劇場げきじょうよるのプリズム」だい19かいとして放映ほうえい

キャスト
スタッフ

1962年版ねんばん[編集へんしゅう]

1962ねん11月15にちと11月16にち(22:15-22:45)、NHKの「松本まつもと清張せいちょうシリーズ・くろ組曲くみきょく」の1さくとして2かいにわたり放映ほうえい

キャスト
スタッフ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 松本まつもと清張せいちょう全集ぜんしゅう だい37かん』(1973ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう巻末かんまつ著者ちょしゃによる「あとがき」参照さんしょう
  2. ^ 平野へいやによる新潮しんちょう文庫ぶんこ黒地くろじ』(1965ねん巻末かんまつ解説かいせつ参照さんしょう
  3. ^ 田中たなかみのる贋作がんさく思想しそう」(『國文學こくぶんがく』1983ねん9がつごう掲載けいさい参照さんしょう
  4. ^ みなみとみ鎭「松本まつもと清張せいちょう静岡しずおか美術びじゅつ絵画かいが : 船原ふなはら温泉おんせんあおのある断層だんそう」、浦上うらかみ玉堂きょくどう真贋しんがんもり」、青木あおきしげる岸田きしだ劉生りゅうせい修善寺しゅぜんじ」『人文じんぶん論集ろんしゅうだい66かんだい1ごう静岡大学しずおかだいがく人文じんぶん社会しゃかい科学かがく、2015ねん7がつ、169-183ぺーじdoi:10.14945/00009114hdl:10297/9114ISSN 0287-2013CRID 1390009224804210048