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断碑だんぴ

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断碑だんぴ
作者さくしゃ 松本まつもと清張せいちょう
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
ジャンル 短編たんぺん小説しょうせつ
発表はっぴょう形態けいたい 雑誌ざっし掲載けいさい
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1954ねん12月ごう
初出しょしゅつ題名だいめい風雪ふうせつ断碑だんぴ
出版しゅっぱんもと 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ
刊本かんぽん情報じょうほう
収録しゅうろく風雪ふうせつ
出版しゅっぱんもと 角川書店かどかわしょてん
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1956ねん11月5にち
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
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断碑だんぴ』(だんぴ)は、松本まつもと清張せいちょう短編たんぺん小説しょうせつ。『別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1954ねん12月ごうに「風雪ふうせつ断碑だんぴ」のだい掲載けいさいされ、1956ねん11月にたん編集へんしゅう風雪ふうせつ収録しゅうろくの1へんとして、角川書店かどかわしょてんより刊行かんこうされた。考古学こうこがくこころざ主人公しゅじんこうが、学歴がくれき学説がくせつじょう対立たいりつ翻弄ほんろうされる姿すがたえがく。

あらすじ[編集へんしゅう]

木村きむら卓治たくじ代用だいよう教員きょういんのころ、最初さいしょ考古学こうこがくおしえをうけていたのは京都きょうと帝国ていこく大学だいがく助教授じょきょうじゅ杉山すぎやま道雄みちおからである。しかし京大きょうだいうとまれた卓治たくじは、東京とうきょう帝室ていしつ博物館はくぶつかん歴史れきし課長かちょう高崎たかさき健二けんじ指導しどうたのむ。高崎たかさき卓治たくじおくった調査ちょうさノートに感心かんしんし、卓治たくじ原稿げんこう雑誌ざっし掲載けいさいされる。高崎たかさき卓治たくじ東京とうきょう帝室ていしつ博物館はくぶつかん助手じょしゅとしてやとれようとするが、旧制きゅうせい中学ちゅうがく卒業そつぎょう学歴がくれき理由りゆう事務じむかん反対はんたいし、卓治たくじ博物館はくぶつかんりは取消とりけしとなる。卓治たくじ高崎たかさきうらみ、にくんだ。

卓治たくじはグループを結集けっしゅうして「中央ちゅうおう考古こうこ学界がっかい」を組織そしきし、機関きかん考古こうこ学界がっかい』をした。編集へんしゅう卓治たくじけもった。卓治たくじ機関きかんせた調査ちょうさ報告ほうこくしょ内容ないようは、いままでの高崎たかさき様式ようしきとそれにすこ進歩しんぽした杉山すぎやまさましきたいする反逆はんぎゃくであった。翌月よくげつ高崎たかさきから今後こんご出入でい禁止きんし伝言でんごんて、つづいて杉山すぎやまから忘恩ぼうおん非難ひなんする手紙てがみたため、卓治たくじ絶交ぜっこうじょう投函とうかん、すると博物館はくぶつかん佐藤さとう卯一ういちろう出入でいりの遠慮えんりょもうる。

昭和しょうわ6ねん卓治たくじはフランスに洋行ようこうするが、肺患はいかんすすむのぼるさせた以外いがい一物いちもつずにむなしいいちねんおくっただけであった。帰国きこく卓治たくじ研究けんきゅう弥生やよいしき土器どき研究けんきゅうかい、はじめて独創どくそう主題しゅだいつかむ。ねつのあるときは、れタオルをがくててペンをうごかした。つまのシズエに感想かんそうせまったが、シズエも毎日まいにちねつ身体しんたいとなっており、みみもよくこえなくなっていた。

昭和しょうわ10ねんにシズエはいきいた。シズエのからさんげつ卓治たくじは34さいいきをひいた。

モデルとされる人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ほんさくはフィクションであり、とき系列けいれつ設定せっていなど、実在じつざい人物じんぶつとはことなる虚構きょこうふくまれている。

著者ちょしゃによる言及げんきゅう[編集へんしゅう]

著者ちょしゃほんさくについてすうかいにわたり言及げんきゅうしている。

  • ほんさく収録しゅうろくしたたん編集へんしゅう風雪ふうせつ』の「あとがき」において「「断碑だんぴ」(「別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうよんじゅうさんごう」)はわかくしてんだ考古こうこ学者がくしゃ森本もりもとろくなんじのことからとった。わたしかれ調しらべるのに、かなりのろうついやしたつもりだが、いたものはそれからかなりはなれたものになった。森本もりもとろくなんじ生涯しょうがいだれかがいつか正確せいかくくであろう。わたしは、わたしなりのかれをここにいた」とべている[5]
  • 1961ねんに「わたしはじめのころの作品さくひんに『断碑だんぴ』というのがある。昭和しょうわさんじゅうねんいたもので、わたしとしてはもっと愛惜あいせきしている小説しょうせつひとつである」「わたしはじめて、森本もりもとろくなんじったのは九州きゅうしゅう新聞しんぶんしゃつとめてきたときである。そのころ、おな職場しょくばにいたひと考古学こうこがく興味きょうみをもっていて、なにかとわたしはなしてくれたが、あるとき、とうとう森本もりもとろくなんじもなくなりましたね、夫婦ふうふで、考古学こうこがくにしたようなものです、と感慨かんがいふかそうにった。当時とうじわたし森本もりもとろくなんじがどのようなじんらなかった。しかし、この言葉ことばがいつまでもわたししんからはなれなかった。わたし森本もりもとろくなんじのことを調しらべはじめた。まず、かれ著書ちょしょから勉強べんきょうしたようにおもっている。昭和しょうわじゅうはちねんれに、わたし東京とうきょう転勤てんきんとなった。このときはじめて、森本もりもとろくなんじ人物じんぶつ調しらべてみようとおもった。これは、かれ伝記でんきのこっていないので、その交遊こうゆう関係かんけいから調しらべてゆくほかない。わたし森本もりもとろくなんじしたしかった國學院こくがくいん考古学こうこがく主任しゅにん樋口ひぐち清之きよゆきはなしいた。どう教授きょうじゅはなしから、森本もりもとろくなんじ周辺しゅうへんひとたちがはじめてわかった。当時とうじわたし藤沢ふじさわ下宿げしゅくしていたが、そのとしれから正月しょうがつにかけて信州しんしゅう旅立たびだった。諏訪すわ藤森ふじもり栄一えいいちをたずねた。同氏どうし森本もりもとろくなんじ数少かずすくない弟子でし一人ひとりである。現在げんざいでは諏訪すわ書店しょてん経営けいえいしているが、ちょうど、わたしとまった宿やどのすぐとなり藤森ふじもりさんのいえだったのは奇縁きえんだった」「ぜわしいおおみそかのひとときと、元旦がんたん数時間すうじかんわたし藤森ふじもりさんから森本もりもとろくなんじはなしいた。それから、東大とうだい考古学こうこがく教室きょうしつ関野せきのつよしや、明大めいだい主任しゅにん教授きょうじゅ後藤ごとう守一しゅいち杉原すぎはらそうかいなどをたずねた。森本もりもとろくなんじ人格じんかく一番いちばんわかったのは、言語げんご学者がくしゃ中島なかじま利一郎りいちろうからだった。中島なかじま森本もりもと夫妻ふさい媒酌人ばいしゃくにんであり、森本もりもと夫人ふじん中島なかじま夫人ふじん縁戚えんせきたる。そんなことでいい材料ざいりょうれた。わたし世田谷せたがや豪徳寺ごうとくじおくにある中島なかじまたくなんかいとなくたずねた」「わたし森本もりもと夫婦ふうふのことをテーマにしたのは、かれ学問がくもんへの直観ちょっかんりょくと、官学かんがくたいする執拗しつよう反抗はんこうである。わたし作品さくひんおお主人公しゅじんこう原型げんけいは、この森本もりもとろくなんじいたときにはじまる」「『断碑だんぴ』をいたことで、わたし文学ぶんがくてきにも自分じぶんみち発見はっけんしたようにおもっている」とべている[6]
  • 1972ねんに「『断碑だんぴ』は小倉おぐらにいるときからちつづけていた題材だいざいだった。そのとし松本まつもとちゅう昭和しょうわじゅうはちねん)のくれから正月しょうがつにかけて「『断碑だんぴ』の主人公しゅじんこうである森本もりもとろくなんじ夫妻ふさいのことをききに信州しんしゅう上諏訪かみすわき、森本もりもと弟子でし藤森ふじもりった。わたしはこの不遇ふぐう才能さいのうある考古こうこ学者がくしゃ調しらべるためにいままでいちばんおおくのひとっている。森本もりもと私生活しせいかつは、言語げんご学者がくしゃ中島なかじまうところがおおきかった。まだ朝日新聞社あさひしんぶんしゃているころで、出勤しゅっきん途次とじ世田谷せたがや中島なかじまいえをほとんど毎日まいにちたずねたものだった。このときほど東京とうきょうというところが勉強べんきょう便利べんりだとおもったことはなかった。わたし考古学こうこがくぶつ最初さいしょ作品さくひんである」とべている[7]

考古こうこ学者がくしゃ反応はんのう[編集へんしゅう]

取材しゅざい対象たいしょうしゃ[編集へんしゅう]

ほんさく取材しゅざいけた藤森ふじもり栄一えいいちによる回顧かいことして以下いか記述きじゅつがある。

  • 1967ねんに「松本まつもとさんは、かいおくの「いわあいだ」にいた。きたきだが、真白まっしろだかえる部屋へやだった。(中略ちゅうりゃくいわあいだで、松本まつもとさんは、コタツにしがみついてうんうんうなりながら原稿げんこういていた。されたさんまい名刺めいしは、國學院こくがくいん樋口ひぐち清之きよゆきさん、佐野さの大和やまとさんの紹介しょうかいじょうと、いまひとつの、いちばんわる紙質かみしつで、きたない印刷いんさつのが、松本まつもとさんのだった」「森本もりもとさんのことをかれるのは、しんからつらかった。森本もりもとさんはぬとき、あお枯枝かれえだのようなゆびで、わたしてのひらをさすり、- わたし遺産いさん雑誌ざっし考古学こうこがく』をたのむ - といわれた。その『考古学こうこがく』はわたしがつぶした。ガマのような胆汁質たんじゅうしつかおをギラギラさせ、あつ近眼きんがんきょうなかからひか松本まつもとさんのするどを、大島おおしまをぞろりとながした微醺びくんではまともにはかえせなかった」「松本まつもとさんは、森本もりもとろくなんじが、その自分じぶん作品さくひんにでてくる清張せいちょうがた主人公しゅじんこう原型げんけいになり、また『断碑だんぴ』をいたことで、文学ぶんがくてきにも、自分じぶんみち発見はっけんしたといっている。それから、今日きょうにいたる、松本まつもとさんのえがいたたくさんの人格じんかく原型げんけいとなるということは、それ自体じたいじつ大変たいへんなことである。むろん考古こうこ学者がくしゃ業績ぎょうせきなどの高低こうていでいえるものではない。いわあいだ松本まつもと清張せいちょうさんは、そのまま、『湖畔こはんひと』などの短篇たんぺんきつづけて、やがてかえってった。『断碑だんぴ』が『別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』にのった。わたしは、その発表はっぴょうくびながくしてった。あのときは、執拗しつよう松本まつもとさんの追求ついきゅうを、ようやくっぱらったというようなかんで、ねばりつくようにするど凝視ぎょうしからのがれたのだったが。『断碑だんぴ』の木村きむら卓治たくじは、わたしせっしたことのない、つめたい、むしろ残酷ざんこくなほど無残むざんな、ねばっこいひと影像えいぞうだった。材料ざいりょうも、わたしがしゃべったおぼれれるような師弟してい愛情あいじょう追憶ついおくなどは、ほとんどカットになって、また、ミツギ夫人ふじんのあたたかい愛情あいじょう生活せいかつなどは、いっこうにてこなかった。もちろん、それはフィクションである。べつにそれにたいして、みずをさすはつゆほどもないが、かりにそれがただしい評価ひょうかにしても、いちおう、『断碑だんぴ』の森本もりもとさんには被害ひがいしゃがわ資料しりょうつよすぎるようにも、そのときはおもえた」としるしている[8]
  • 1970ねんには「そのかいのいちばんおくの「いわ」という部屋へやに、松本まつもとさんはいた。障子しょうじまえつと、なにかうなっているすごい気迫きはくがせまってきた。松本まつもとさんはりごたつにしがみついて原稿げんこういていて、メガネのガラスまでとびだしたすごいをギョロッとむき、ふとくてくろくちびるをぎらぎらさせて、来意らいいをのべた」「さけっていたわたしは、森本もりもとさんとくだけでそのからしたかった」「この作家さっかはそのえてしまった旧師きゅうしろうとしている。わたしあながあればはいりたかった。だいいち、わたし記憶きおくはまるでうすく、松本まつもとさんのするど情熱じょうねつにはもうしどろもどろで、自分じぶんながらをそむけたい状態じょうたいだった」とべている[9]

その著者ちょしゃは、電話でんわ教示きょうしけるなど藤森ふじもり栄一えいいちとの交流こうりゅうつづき、1973ねん12月に藤森ふじもり死去しきょすると、藤森ふじもり著書ちょしょ『かもしかみち』を「不朽ふきゅう名著めいちょ」ととなえた[10]

その[編集へんしゅう]

歴史れきし学者がくしゃ直木なおき孝次郎こうじろうは、ほんさくについて「よくしらべてあって、そのころの学界がっかい状況じょうきょうがかなり的確てきかくきこまれていた。発表はっぴょう当時とうじわたしりあいのわか考古こうこ学者がくしゃたちは、だれが資料しりょう提供ていきょうしたのかをよく話題わだいにしていたが、材料ざいりょう作中さくちゅうによくこなされていることは、作者さくしゃ自身じしん相当そうとう考古学こうこがく勉強べんきょうしていることをおもわせた」とべている[11]

考古こうこ学者がくしゃもり浩一こういちは「ぼくが清張せいちょうさんの作品さくひんはじめてんだのは、昭和しょうわじゅうきゅうねんですから、もうよんじゅうねんちかまえになりますね」「そのころ世間せけんでは考古学こうこがくめしえない学問がくもんだとわれてまして、ぼくも親戚しんせきから「おまえ、そんなのめとけ」とわれてたんです。ですから、考古学こうこがくをテーマにしたものが小説しょうせつになるのかと、よけい『風雪ふうせつ断碑だんぴ』にかれました」とべ、考古こうこ学者がくしゃ江上えがみなみおっとは「この小説しょうせつ学界がっかいでは結構けっこう評判ひょうばんになったんですよ。それが松本まつもと清張せいちょうという名前なまえった最初さいしょでした」とべている[12]

文学ぶんがくしゃによる評価ひょうか[編集へんしゅう]

日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ田中たなかみのるは、ほんさく手法しゅほう太宰だざいおさむ人間にんげん失格しっかく』を連想れんそうさせるとしたうえで「(ほんさくの)「かた」はいったん卓治たくじとその論敵ろんてき等価とうかあつかい、卓治たくじ怨念おんねん内側うちがわから露出ろしゅつさせた。その怨念おんねんえが経緯けいい一方いっぽう官学かんがく実態じったいぎゃく照射しょうしゃし、それと同時どうじ卓治たくじ人生じんせいむなしさをもかびがらせているのであり、ここに『断碑だんぴ』の「」の秘密ひみつ、この小説しょうせつ方法ほうほうがあった」とひょうしている[13]

日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ松本まつもと常彦つねひこは、ほんさくにおける人物じんぶつ表現ひょうげんが、森本もりもとろくなんじ編集へんしゅうしていた雑誌ざっし考古学こうこがく』の、森本もりもとろくなんじ追悼ついとうごうとしてされただい7かんだい3ごう1936ねん3がつ)に掲載けいさいされた浜田はまだ青陵せいりょう肥後ひご和男かずお坪井つぼい良平りょうへいによる追悼ついとうぶん影響えいきょうけていることを指摘してきしたうえで、清張せいちょうう「わたしなりのかれをここにいた」についてその母胎ぼたい雑誌ざっし考古学こうこがく』にあったと推測すいそく、「小説しょうせつ断碑だんぴ」の起源きげんは、清張せいちょうが(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ勤務きんむ時代じだい同僚どうりょうである)浅野あさのたかしみちびかれ森本もりもとろくなんじり、「考古学こうこがく」などをつうじて森本もりもと考古学こうこがく仕事しごと生涯しょうがいせっし、とりわけ森本もりもと追悼ついとうごうふかたれたことにあるとかんがえる」「清張せいちょうにとって森本もりもととその考古学こうこがくは、会社かいしゃ同僚どうりょうから偶然ぐうぜんいた一時いちじてき挿話そうわなどではなく、東京とうきょう考古こうこ学会がっかい会員かいいん浅野あさのたかしかいして、みずからも森本もりもと考古学こうこがく吸収きゅうしゅうした可能かのうせいたかい」とべている[14]

小説しょうせつ北村きたむらかおるは「評伝ひょうでんてき系譜けいふつらなる学者がくしゃものの名品めいひん」「むくわれぬ天才てんさいえが作品さくひんぐん代表だいひょうかく」とべている[15]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 6せつと8せつ言及げんきゅう
  2. ^ 10せつ言及げんきゅう
  3. ^ 12せつ言及げんきゅう
  4. ^ a b c 15せつ言及げんきゅう
  5. ^ たん編集へんしゅう風雪ふうせつ』は角川かどかわ小説しょうせつ新書しんしょとして1956ねん11月5にち刊行かんこう
  6. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1961ねん11月17にちづけ掲載けいさいのコラム「わが小説しょうせつだい14かいとして掲載けいさい
  7. ^ 松本まつもと清張せいちょう全集ぜんしゅう だい35かん』(1972ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう巻末かんまつ著者ちょしゃによる「あとがき」。
  8. ^ 藤森ふじもり栄一えいいちつぶもみ河出かわで書房しょぼう、1967ねん、25-27ぺーじ同書どうしょおびには「松本まつもと清張せいちょう激賞げきしょう」とかれている。
  9. ^ 藤森ふじもり栄一えいいち考古こうこがくとともに』講談社こうだんしゃ、1970ねん、120ぺーじ
  10. ^ 特別とくべつ企画きかくてん図録ずろく新進しんしん作家さっか 松本まつもと清張せいちょう 取材しゅざいはしる -信州しんしゅう上諏訪かみすわ富士見ふじみゆき- 1953.12.30-1954.1.1』北九州きたきゅうしゅう市立しりつ松本まつもと清張せいちょう記念きねんかん、2007ねん、27ぺーじ
  11. ^ 直木なおき孝次郎こうじろう松本まつもと清張せいちょう古代こだい」『國文學こくぶんがく : 解釈かいしゃく教材きょうざい研究けんきゅうだい18かんだい7ごうがくとうしゃ、1973ねん6がつ、50-56ぺーじISSN 04523016CRID 1523951029492520192 
  12. ^ もり浩一こういち江上えがみなみおっとによる対談たいだん松本まつもと古代こだいなにえたか」文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうへん松本まつもと清張せいちょう世界せかい文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2003ねん、98-99ぺーじ
  13. ^ 田中たなかみのる松本まつもと清張せいちょうあたらしい作品さくひんろん-2-『断碑だんぴおぼがき」『松本まつもと清張せいちょう研究けんきゅうだい3ごうすな書房しょぼう、1997ねん8がつ、120-127ぺーじCRID 1522543653406641536 
  14. ^ 松本まつもと常彦つねひこ松本まつもと清張せいちょう断碑だんぴ」の起源きげんとその意義いぎ」『かたりぶん研究けんきゅうだい130/131かん九州大学きゅうしゅうだいがく国語こくご国文こくぶん学会がっかい、2021ねん6がつ、371-387ぺーじdoi:10.15017/4776953hdl:2324/4776953ISSN 0436-0982CRID 13905734076183239682023ねん6がつ29にち閲覧えつらん 
  15. ^ 北村きたむらかおる有栖川ありすがわゆうによる対談たいだん清張せいちょうの<傑作けっさく短編たんぺん>ベスト12」(『オール讀物よみもの』2023ねん6がつごう掲載けいさい)。

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]