断碑
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1956 | |
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『
あらすじ[編集 ]
モデルと目 される人物 [編集 ]
木村 卓治 -森本 六 爾 高崎 健二 -高橋 健 自 杉山 道雄 -梅原 末治 佐藤 卯 一郎 -後藤 守一 熊田 良作 -濱田 耕作 南 恵 吉 -三宅 米吉 久保 シズエ -浅川 ミツギ木村 剣 -森本 鑑 小山 貞輔 -中島 利一郎 資産 家 T[1] -坪井 良平 - フランス
留学 中 のN[2] -中谷 治 宇二郎 年 若 い学徒 H[3] -樋口 清之 - 『
考古 学界 』の若 い同人 M[4] -丸茂 武重 - 『
考古 学界 』の同人 S[4] -杉原 荘 介 - 『
考古 学界 』の同人 F[4] -藤森 栄一 鳥居 龍蔵 は実名 で言及 されている。
著者 による言及 [編集 ]
本 作 を収録 した短 編集 『風雪 』の「あとがき」において「「断碑 」(「別冊 文藝春秋 四 十 三 号 」)は若 くして死 んだ考古 学者 森本 六 爾 のことからとった。私 は彼 を調 べるのに、かなりの労 を費 したつもりだが、書 いたものはそれからかなり離 れたものになった。森本 六 爾 の生涯 は誰 かがいつか正確 に書 くであろう。私 は、私 なりの彼 をここに書 いた」と述 べている[5]。- 1961
年 に「私 の初 めのころの作品 に『断碑 』というのがある。昭和 三 十 年 に書 いたもので、私 としては最 も愛惜 している小説 の一 つである」「私 が初 めて、森本 六 爾 の名 を知 ったのは九州 の新聞 社 に勤 めてきたときである。そのころ、同 じ職場 にいた人 が考古学 に興味 をもっていて、何 かと私 に話 してくれたが、あるとき、とうとう森本 六 爾 もなくなりましたね、夫婦 で、考古学 と討 ち死 にしたようなものです、と感慨 深 そうに云 った。当時 、私 は森本 六 爾 がどのような人 か知 らなかった。しかし、この言葉 がいつまでも私 の心 から離 れなかった。私 は森本 六 爾 のことを調 べはじめた。まず、彼 の著書 から勉強 したように思 っている。昭和 二 十 八 年 の暮 れに、私 は東京 に転勤 となった。このとき初 めて、森本 六 爾 の人物 を調 べてみようと思 った。これは、彼 の伝記 が残 っていないので、その交遊 関係 から調 べてゆくほかない。私 は森本 六 爾 と親 しかった國學院 の考古学 主任 樋口 清之 氏 に話 を聞 いた。同 教授 の話 から、森本 六 爾 周辺 の人 たちが初 めてわかった。当時 、私 は藤沢 市 に下宿 していたが、その年 の暮 れから正月 にかけて信州 に旅立 った。諏訪 市 に藤森 栄一 氏 をたずねた。同氏 は森本 六 爾 の数少 ない弟子 の一人 である。現在 では諏訪 で書店 を経営 しているが、ちょうど、私 の泊 った宿 のすぐ隣 が藤森 さんの家 だったのは奇縁 だった」「気 ぜわしい大 みそかのひとときと、元旦 の数時間 、私 は藤森 さんから森本 六 爾 の話 を聞 いた。それから、東大 の考古学 教室 の関野 雄 氏 や、明大 の主任 教授 後藤 守一 氏 や杉原 荘 介 氏 などをたずねた。森本 六 爾 の人格 が一番 わかったのは、言語 学者 の中島 利一郎 氏 からだった。中島 氏 は森本 夫妻 の媒酌人 であり、森本 夫人 は中島 夫人 と縁戚 に当 たる。そんなことでいい材料 が取 れた。私 は世田谷 の豪徳寺 の奥 にある中島 氏 宅 を何 回 となくたずねた」「私 が森本 夫婦 のことをテーマにしたのは、彼 の学問 への直観 力 と、官学 に対 する執拗 な反抗 である。私 の作品 に多 い主人公 の原型 は、この森本 六 爾 を書 いたときにはじまる」「『断碑 』を書 いたことで、私 は文学 的 にも自分 の道 を発見 したように思 っている」と述 べている[6]。 - 1972
年 に「『断碑 』は小倉 にいるときから持 ちつづけていた題材 だった。その年 (松本 注 ・昭和 二 十 八 年 )の暮 から正月 にかけて「『断碑 』の主人公 である森本 六 爾 夫妻 のことをききに信州 上諏訪 に行 き、森本 氏 の弟子 藤森 氏 に会 った。私 はこの不遇 な才能 ある考古 学者 を調 べるために今 までいちばん多 くの人 に会 っている。森本 氏 の私生活 は、言語 学者 中島 氏 に負 うところが大 きかった。まだ朝日新聞社 に出 ているころで、出勤 の途次 、世田谷 の中島 氏 の家 をほとんど毎日 訪 ねたものだった。このときほど東京 というところが勉強 に便利 だと思 ったことはなかった。私 の考古学 物 の最初 の作品 である」と述 べている[7]。
考古 学者 の反応 [編集 ]
取材 対象 者 [編集 ]
- 1967
年 に「松本 さんは、二 階 の奥 の「岩 の間 」にいた。北 向 きだが、真白 い穂 高 の見 える部屋 だった。(中略 )岩 の間 で、松本 さんは、コタツにしがみついてうんうん唸 りながら原稿 を書 いていた。出 された三 枚 の名刺 は、國學院 の樋口 清之 さん、佐野 大和 さんの紹介 状 と、いま一 つの、いちばん悪 い紙質 で、きたない印刷 のが、松本 さんのだった」「森本 さんのことを聞 かれるのは、心 からつらかった。森本 さんは死 ぬとき、蒼 い枯枝 のような指 で、私 の掌 をさすり、-私 の遺産 、雑誌 『考古学 』をたのむ - といわれた。その『考古学 』は私 がつぶした。ガマのような胆汁質 の顔 をギラギラさせ、厚 い近眼 鏡 の中 から光 る松本 さんの鋭 い眼 を、大島 をぞろりと着 流 した微醺 の眼 ではまともには見 かえせなかった」「松本 さんは、森本 六 爾 が、その後 の自分 の作品 にでてくる清張 型 主人公 の原型 になり、また『断碑 』を書 いたことで、文学 的 にも、自分 の道 を発見 したといっている。それから、今日 にいたる、松本 さんの描 いたたくさんの人格 の原型 となるということは、それ自体 実 に大変 なことである。むろん考古 学者 の業績 などの高低 でいえるものではない。岩 の間 の松本 清張 さんは、そのまま、『湖畔 の人 』などの短篇 を書 きつづけて、やがて帰 って行 った。『断碑 』が『別冊 文藝春秋 』にのった。私 は、その発表 を首 を長 くして待 った。あのときは、執拗 な松本 さんの追求 を、ようやく追 っぱらったというような感 で、ねばりつくように鋭 い凝視 からのがれたのだったが。『断碑 』の木村 卓治 は、私 の接 したことのない、冷 たい、むしろ残酷 なほど無残 な、ねばっこい人 の影像 だった。材料 も、私 がしゃべった溺 れるような師弟 の愛情 の追憶 などは、ほとんどカットになって、また、ミツギ夫人 のあたたかい愛情 の生活 などは、いっこうに出 てこなかった。もちろん、それはフィクションである。別 にそれに対 して、水 をさす気 はつゆほどもないが、かりにそれが正 しい評価 にしても、いちおう、『断碑 』の森本 さんには被害 者 側 の資料 が強 すぎるようにも、そのときは思 えた」と記 している[8]。 - 1970
年 には「その二 階 のいちばん奥 の「岩 」という部屋 に、松本 さんはいた。障子 の前 に立 つと、なにか唸 っているすごい気迫 がせまってきた。松本 さんは掘 りごたつにしがみついて原稿 を書 いていて、メガネのガラスまでとびだしたすごい目 をギョロッとむき、太 くて黒 い唇 をぎらぎらさせて、来意 をのべた」「酒 に酔 っていた私 は、森本 さんと聞 くだけでその場 から逃 げ出 したかった」「この作家 はその消 えてしまった旧師 を知 ろうとしている。私 は穴 があれば入 りたかった。だいいち、私 の記憶 はまるで薄 く、松本 さんの鋭 い目 と情熱 にはもうしどろもどろで、自分 ながら目 をそむけたい状態 だった」と述 べている[9]。
その
その他 [編集 ]
文学 者 による評価 [編集 ]
脚注 ・出典 [編集 ]
- ^ 6
節 と8節 で言及 。 - ^ 10
節 で言及 。 - ^ 12
節 で言及 。 - ^ a b c 15
節 で言及 。 - ^
短 編集 『風雪 』は角川 小説 新書 として1956年 11月5日 刊行 。 - ^ 『
朝日新聞 』1961年 11月17日 付 掲載 のコラム「わが小説 」第 14回 として掲載 。 - ^ 『
松本 清張 全集 第 35巻 』(1972年 、文藝春秋 )巻末 の著者 による「あとがき」。 - ^
藤森 栄一 『二 粒 の籾 』河出 書房 、1967年 、25-27頁 。同書 の帯 には「松本 清張 氏 激賞 」と書 かれている。 - ^
藤森 栄一 『考古 学 とともに』講談社 、1970年 、120頁 。 - ^
特別 企画 展 図録 『新進 作家 松本 清張 取材 に走 る -信州 上諏訪 ・富士見 行 - 1953.12.30-1954.1.1』北九州 市立 松本 清張 記念 館 、2007年 、27頁 。 - ^
直木 孝次郎 「松本 清張 と古代 」『國文學 :解釈 と教材 の研究 』第 18巻 第 7号 、學 燈 社 、1973年 6月 、50-56頁 、ISSN 04523016、CRID 1523951029492520192。 - ^
森 浩一 と江上 波 夫 による対談 「松本 古代 史 は何 を変 えたか」文藝春秋 編 『松本 清張 の世界 』文春 文庫 、2003年 、98-99頁 。 - ^
田中 実 「松本 清張 の新 しい作品 論 -2-『断碑 』覚 え書 」『松本 清張 研究 』第 3号 、砂 書房 、1997年 8月 、120-127頁 、CRID 1522543653406641536。 - ^
松本 常彦 「松本 清張 「断碑 」の起源 とその意義 」『語 文 研究 』第 130/131巻 、九州大学 国語 国文 学会 、2021年 6月 、371-387頁 、doi:10.15017/4776953、hdl:2324/4776953、ISSN 0436-0982、CRID 1390573407618323968、2023年 6月 29日 閲覧 。 - ^
北村 薫 と有栖川 有 栖による対談 「清張 の<傑作 短編 >ベスト12」(『オール讀物 』2023年 6月 号 掲載 )。
関連 文献 [編集 ]
北九州 市立 松本 清張 記念 館 『新進 作家 松本 清張 取材 に走 る :信州 上諏訪 ・富士見 行 : 1953.12.30-1954.1.1 :特別 企画 展 』北九州 市立 松本 清張 記念 館 、2007年 。全国 書誌 番号 :21283877 。 -藤森 栄一 に取材 した第 4章 「藤森 栄一 氏 と「断碑 」」において、本 作 執筆 時 の取材 内容 と森本 六 爾 の実像 について検証 。