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太宰だざいおさむ

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太宰だざい おさむ
(だざい おさむ)
1948ねん2がつごろ[1]田村たむらしげる撮影さつえい[1]
誕生たんじょう 津島つしま 修治しゅうじ(つしま しゅうじ)
1909ねん6月19にち
日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん青森あおもりけん北津軽きたつがるぐん金木かなぎむら
げん五所川原ごしょがわら金木かなぎまち[2]
死没しぼつ (1948-06-13) 1948ねん6月13にち(38さいぼつ
日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん東京とうきょう北多摩きたたまぐん三鷹みたかまち
現在げんざい三鷹みたか
墓地ぼち 東京とうきょう三鷹みたか禅林寺ぜんりんじ
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく仏文ふつぶん中退ちゅうたい
活動かつどう期間きかん 1933ねん - 1948ねん
主題しゅだい 人間にんげん心理しんり
古典こてん説話せつわオマージュ
人間にんげん宿痾しゅくあ
文学ぶんがく活動かつどう 無頼ぶらい[3]しん戯作げさく
代表だいひょうさくダス・ゲマイネ』(1935ねん
富嶽ふがくひゃくけい』(1939ねん
おんな生徒せいと』(1939ねん
はしれメロス』(1940ねん
津軽つがる』(1944ねん
とぎ草紙ぞうし』(1945ねん
ヴィヨンのつま』(1947ねん
斜陽しゃよう』(1947ねん
人間にんげん失格しっかく』(1948ねん
デビューさく列車れっしゃ」(1933ねん
配偶はいぐうしゃ 津島つしま美知子みちこ(1938ねん - 1948ねん
子供こども 津島つしま園子そのこ津島つしま雄二ゆうじつま
津島つしま佑子ゆうこ
太田おおた治子はるこ
親族しんぞく 津島つしま文治ぶんじあに
津島つしま雄二ゆうじむすめ婿むこ
津島つしまあつしまご
石原いしはらもえまご
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太宰だざい おさむ(だざい おさむ、本名ほんみょう津島つしま 修治しゅうじ(つしま しゅうじ)、1909ねん明治めいじ42ねん6月19にち - 1948ねん昭和しょうわ23ねん6月13にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ

左翼さよく活動かつどうでの挫折ざせつは、自殺じさつ未遂みすい薬物やくぶつ中毒ちゅうどくかえしながらも、だい世界せかい大戦たいせんまえから戦後せんごにかけて作品さくひん次々つぎつぎ発表はっぴょうおも作品さくひんに『はしれメロス』『津軽つがる』『人間にんげん失格しっかく』がある。没落ぼつらくした華族かぞくおんな主人公しゅじんこうにした『斜陽しゃよう』はベストセラーとなる。戦後せんごはその作風さくふうから、坂口さかぐち安吾あんご織田おだ作之助さくのすけ石川いしかわあつしだん一雄かずおらとともにしん戯作げさく無頼ぶらいしょうされた。

生涯しょうがい

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幼年ようねん時代じだい

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高校こうこう時代じだい太宰だざい[4]
1928ねんころ太宰だざい

青森あおもりけん北津軽きたつがるぐん金木かなぎむらどうぐん金木かなぎまち現在げんざい五所川原ごしょがわら金木かなぎまち)に、県下けんか有数ゆうすうだい地主じぬしであるちち津島つしま源右衛門げんえもんははたね(夕子ゆうこ)のろくおとことしてまれた。両親りょうしんにいる11にん子女しじょのうちの10番目ばんめちち源右衛門げんえもん木造もくぞうむら豪農ごうのう松木まつきからの婿養子むこようしけん会議かいぎいん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん多額たがく納税のうぜいによる貴族きぞくいん議員ぎいんなどをつとめた地元じもと名士めいしで、津島つしまは「金木かなぎ殿様とのさま」ともばれていた。ちち仕事しごと多忙たぼう日々ひびおくり、はは病弱びょうじゃくだったため、まれてすぐ乳母うばそだてられた。その乳母うばが1ねんらずでめたのち叔母おばのキエ(たねのいもうと)が、3さいから小学校しょうがっこう入学にゅうがくまでは14さい女中じょちゅう近村ちかむらたけが子守こもりをつとめた。1916ねん大正たいしょう5ねん)、金木かなぎだいいち尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく津島つしま子弟してい実際じっさい成績せいせき関係かんけいなく、学業がくぎょうすべて「かぶと」をつけられていたが、太宰だざい実際じっさい成績せいせきく、開校かいこう以来いらい秀才しゅうさいわれていたという[5]小学校しょうがっこう卒業そつぎょう明治めいじ高等こうとう小学校しょうがっこうに1年間ねんかんとおった。これは次兄じけい英治えいじさんけいけい成績せいせき不振ふしん弘前ひろさき中学校ちゅうがっこうを2ねん中退ちゅうたいしていたため、ちこぼれぬよう学力がくりょく補充ほじゅうのための通学つうがくだったとされている[6]

学生がくせい時代じだい

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田部たなべシメ子しめこ

1923ねん大正たいしょう12ねん)、3月4にちちち源右衛門げんえもん肺癌はいがん死去しきょ。4月、青森あおもり県立けんりつ青森あおもり中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく実家じっかはなれて下宿げしゅく生活せいかつおくる。成績せいせき優秀ゆうしゅうで1ねんの2学期がっきから卒業そつぎょうまで級長きゅうちょうつとめ、4ねん修了しゅうりょうよんおさむ成績せいせきは148めいちゅう4番目ばんめであった。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ志賀しが直哉なおや室生むろう犀星さいせい菊池きくちひろしなどを愛読あいどく井伏いぶせ鱒二ますじの『幽閉ゆうへい山椒魚さんしょううお)』にはんですわっていられないほど興奮こうふんした[7]在学ざいがくちゅうの17さいごろに『校友こうゆう会誌かいし』に習作しゅうさく最後さいご太閤たいこう」をき、また友人ゆうじん同人どうじん蜃気楼しんきろう』を12ごうまで発行はっこう[8]小説しょうせつ志望しぼうするようになる。しかしこの時期じきからなまへきはじめ、太宰だざい長兄ちょうけいである津島つしま文治ぶんじが、太宰だざい中学ちゅうがく時代じだい教科書きょうかしょたところ、教師きょうし兄弟きょうだい似顔絵にがおえがぎっしりえがかれていたという[9]

1927ねん昭和しょうわ2ねん旧制きゅうせい弘前高等学校ひろさきこうとうがっこう文科ぶんかかぶとるい優秀ゆうしゅう成績せいせき入学にゅうがく当時とうじひろだか全寮ぜんりょうせいで1ねん自宅じたく通学つうがく以外いがいりょうはいらなければならなかったが、太宰だざいははかんがえもあって、病弱びょうじゃくいつわ津島つしま親戚しんせきすじにあたる藤田ふじたげん太宰だざいおさむまなびのいえ)で下宿げしゅく生活せいかつをしていた[10]夏休なつやすみで金木かなぎ帰省きせいちゅうの7がつ24にち芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ自殺じさつ衝撃しょうげきけ、弘前ひろさき下宿げしゅくもどるとしばらくじこもっていたという[11][12]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)、5月に同人どうじん細胞さいぼう文芸ぶんげい[13]発行はっこうするとつじとうしゅ名義めいぎ[注釈ちゅうしゃく 1]当時とうじ流行りゅうこうプロレタリア文学ぶんがく影響えいきょうけた『あいだ奈落ならく』を発表はっぴょうするが、連載れんさいは1かい終了しゅうりょう津島つしま反対はんたいけたと推測すいそくされている[16][17]。この時期じき学校がっこうからは、「正直しょうじきかけク(外面がいめん甚ダ正直しょうじき)」という評価ひょうかけている[18]。またこのころ芸者げいしゃ小山こやま初代はつよ(1912-1944ねん)とう。1929ねん昭和しょうわ4ねん)、ひろだかきた同盟どうめい休校きゅうこう事件じけんをモデルに『学生がくせいぐん』を執筆しっぴつ改造かいぞうしゃ懸賞けんしょう小説しょうせつ応募おうぼするが落選らくせん[19]。12月10にち深夜しんやカルモチン自殺じさつはかり、ははたねのいで大鰐温泉おおわにおんせんで1がつ7にちまで静養せいよう[注釈ちゅうしゃく 2]した。太宰だざい自殺じさつ未遂みすい理由りゆうを『苦悩くのう年鑑ねんかん』のなかで「わたし賤民せんみんではなかった。ギロチンにかかるやくのほうであった」と自分じぶん身分みぶん思想しそうちがいとしていている。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、弘前高等学校ひろさきこうとうがっこう文科ぶんかかぶとるいを76めいちゅう46ばん成績せいせき卒業そつぎょうフランス語ふらんすごらぬままフランス文学ぶんがくあこがれて東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ仏文ふつぶん学科がっか入学にゅうがく上京じょうきょう当時とうじ東大とうだい英文えいぶん国文こくぶんなどには入試にゅうしがあったが、仏文ふつぶん不人気ふにんき無試験むしけんであった[22]太宰だざいはそれをんで仏文ふつぶん出願しゅつがんしたが、たまたま1930ねんには仏文ふつぶんでもフランス語ふらんすご入試にゅうしがあった[22]目算もくさんはずれた太宰だざい志願しがんしゃとともに試験場しけんじょうげ、試験しけんかん辰野たつのたかし事情じじょうはなし、格別かくべつ配慮はいりょ入学にゅうがくみとめられた[22]。しかし友人ゆうじん大高おおだか勝次郎かつじろうなどには、仏文ふつぶんへの志望しぼうを「肩書かたがきのカッコさ」や「高名こうみょう研究けんきゅうしゃ辰野たつのたかしがいるから」など、もっともらしい理由りゆうをつけて虚勢きょせいっていたという[23]

講義こうぎについていけず、美学びがく美術びじゅつへのてん検討けんとうしている[24]小説しょうせつになるために井伏いぶせ鱒二ますじ弟子でしりする。10月、小山こやま初代はつよ太宰だざい手引てびきで置屋おきや上京じょうきょう津島つしま芸者げいしゃとの結婚けっこんつよ反対はんたい。11月に長兄ちょうけい文治ぶんじ上京じょうきょうして説得せっとくするが、太宰だざい初代しょだい結婚けっこんすると主張しゅちょう文治ぶんじ津島つしまとの分家ぶんけ除籍じょせき条件じょうけん結婚けっこんみとめる。大学だいがく卒業そつぎょうするまで毎月まいつき120えん仕送しおくりも約束やくそくするが、財産ざいさん分与ぶんよ期待きたいしていた太宰だざい落胆らくたんする[25]除籍じょせきになった10日とおかの11月28にち銀座ぎんざバー「ホリウッド」の女給じょきゅうで18さい田部たなべシメ子しめこ鎌倉かまくら腰越こしごえうみにてカルモチン自殺じさつはかる。だがシメ子しめこだけ死亡しぼうし、太宰だざいのこる。この事件じけんについて太宰だざいは『東京とうきょう八景はっけい』『人間にんげん失格しっかく』などで入水じゅすい自殺じさついているが、当時とうじ新聞しんぶん記事きじでは催眠さいみんざい海岸かいがんたおれているところを発見はっけんされたと報道ほうどうされている[26]自殺じさつ幇助ほうじょざいわれるが、文治ぶんじらのはたらきかけで起訴きそ猶予ゆうよ処分しょぶんとなる[27][注釈ちゅうしゃく 3]南津軽みなみつがるぐん碇ヶ関いかりがせき温泉郷おんせんきょう柴田しばた旅館りょかんで、初代しょだいかり祝言しゅうげんをあげる[29]が、入籍にゅうせきはしなかった[30]年明としあけ、太宰だざい文治ぶんじ覚書おぼえがきわし、問題もんだい行動こうどうこさず、大学だいがく卒業そつぎょう約束やくそくするわりに毎月まいつき120えん仕送しおくりをけることになった。2月、初代しょだい上京じょうきょうし、新婚しんこん生活せいかつはじまる[31]

1932ねん昭和しょうわ7ねん)、小説しょうせつになる決意けついで『おも』『さかなふく』を執筆しっぴつ文治ぶんじ助力じょりょく左翼さよく活動かつどうから離脱りだつ(「#左翼さよく活動かつどう参照さんしょう)。仕送しおくりは120えんから90えん減額げんがくされた[32]

創作そうさくみだれた私生活しせいかつ

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インバネスコート姿すがた太宰だざいおさむ

1933ねん昭和しょうわ8ねん)、『サンデー東奥ひがしおく』(2がつ19にち発行はっこう)に『列車れっしゃ』を太宰だざいおさむ筆名ひつめい発表はっぴょう同人どうじん海豹かいひょう』に参加さんか創刊そうかんごうに『さかなふく』を掲載けいさいだん一雄かずおう。同人どうじんあおはな』を創刊そうかん、『ロマネスク』を発表はっぴょうするが、中原なかはら中也ちゅうやらとあらそい1ごう休刊きゅうかんとなった[33]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)、『逆行ぎゃっこう』を『文藝ぶんげい』2がつごう発表はっぴょう大学だいがく5ねんになっていた太宰だざいは、卒業そつぎょうできず仕送しおくりをられることをかんがえ、新聞しんぶんしゃげん東京とうきょう新聞しんぶん)の入社にゅうしゃ試験しけんけるが合格ごうかく。3月18にち鎌倉かまくら首吊くびつ自殺じさつはか[34]。4月、腹膜炎ふくまくえん手術しゅじゅつける。入院にゅういんちゅう鎮痛ちんつうざいパビナール注射ちゅうしゃけ、以後いご依存いぞんしょうとなる[35]学費がくひ未納みのうのため9がつ30にちづけ大学だいがく除籍じょせきとなった[注釈ちゅうしゃく 4]

同人どうじん雑誌ざっし日本にっぽんなみ曼派』(1935ねん5がつごう) に発表はっぴょうした『道化どうけはな』が佐藤さとう春夫はるおまり、「及第きゅうだいてんをつけもうこう」とのハガキをもらう[36][37]だい1かい芥川賞あくたがわしょう開催かいさいされ、『逆行ぎゃっこう』が候補こうほとなるが落選らくせん(このとき受賞じゅしょうしたのは石川いしかわ達三たつぞう蒼氓そうぼう』)。芥川賞あくたがわしょう選考せんこう委員いいんであった佐藤さとう選評せんぴょうで「『逆行ぎゃっこう』は太宰だざいくんいままでのしょさくのうちではむしろ失敗しっぱいさく」ときびしく、おなじく選考せんこう委員いいんである川端かわばた康成やすなりからは「作者さくしゃ目下もっか生活せいかついやくもあり」と私生活しせいかつひょうされる。太宰だざい川端かわばたに「小鳥ことりい、舞踏ぶとうるのがそんなに立派りっぱ生活せいかつなのか」と文芸ぶんげい雑誌ざっし文藝ぶんげい通信つうしん』10がつごう反撃はんげきした[38]太宰だざい精神せいしんてきみ、知人ちじん作家さっかであるいま官一かんいちけて、不安ふあんてる内容ないよう手紙てがみおくり、あわてて返信へんしんしたいま反応はんのうたのしむような内容ないよう手紙てがみおくかえすという奇行きこうはしっている[39]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、だい2かい芥川賞あくたがわしょう選考せんこうまえに、太宰だざい師事しじする佐藤さとうてに「佐藤さとうさんいちにんがたのみでございます」と受賞じゅしょう手紙てがみすが[40]井伏いぶせ鱒二ますじ山岸やまぎし外史がいしから太宰だざいパビナール依存いぞんいていた佐藤さとうは、太宰だざい入院にゅういん治療ちりょう厳命げんめい済生会さいせいかいしば病院びょういんに10日間にちかん入院にゅういんした[41]だい2かい芥川賞あくたがわしょう結果けっかは「受賞じゅしょう該当がいとうしゃなし」で太宰だざい候補こうほさくになかった。このころ太宰だざいは、後述こうじゅつ鎮痛ちんつうざい中毒ちゅうどくなやまされ、友人ゆうじん知人ちじんわずにほのめかすなど、精神せいしんてき不安定ふあんていだったが、度重たびかさなる言動げんどう激怒げきどした雑誌ざっし記者きしゃから「ねないくせに、脅迫きょうはく強請ねだりだ」とののしられることもあったという[42]

だい3かいけ、太宰だざいは『文學ぶんがくかい』に『虚構きょこうはる』を発表はっぴょう。6月21にち処女しょじょたん編集へんしゅう晩年ばんねん』を砂子屋さごや書房しょぼうより刊行かんこう。7月11にち上野うえの精養軒せいようけん佐藤さとう井伏いぶせまねいて出版しゅっぱん記念きねんかいおこな[43]。さらにだい1かい選考せんこうをめぐり「悪党あくとうばわりした川端かわばた康成やすなりたい献本けんぽん選考せんこう懇願こんがん手紙てがみおくっているが[44]だい3かいでは過去かこ候補こうほさくとなった小説しょうせつ選考せんこう対象たいしょうからはずすという規定きていもうけられ、候補こうほにすらならなかった。

パビナール依存いぞんがひどくなり、おおときには1にち50ほん注射ちゅうしゃ初代しょだい着物きものしつれ、知人ちじん借金しゃっきんをしてあるいた。初代しょだい井伏いぶせ鱒二ますじきつき、文治ぶんじたのまれた津島つしま出入でいりの商人しょうにん中畑なかはたけいきちきたかおるよんろうが、10月13にち東京とうきょう武蔵野むさしの病院びょういん強制きょうせい入院にゅういんさせる[45][46]。11月12にち退院たいいんするが、よく1937ねん昭和しょうわ12ねん)、津島つしま親類しんるい学生がくせい小館こだて善四郎ぜんしろう初代しょだいとの不貞ふてい行為こうい告白こくはく。3がつ下旬げじゅん水上みずかみ温泉おんせん初代しょだいとカルモチン自殺じさつ未遂みすい。6月には初代しょだい離別りべつした。

結婚けっこん作家さっか活動かつどう

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1938ねん昭和しょうわ13ねん)、井伏いぶせ鱒二ますじ紹介しょうかい山梨やまなしけん甲府こうふ出身しゅっしん地質ちしつ学者がくしゃ石原いしはら初太郎はつたろうよんじょ石原いしはら美知子みちこ見合みあい。このとき、太宰だざい媒酌人ばいしゃくにんしぶ井伏いぶせたいして「結婚けっこん誓約せいやくしょ」という文書ぶんしょ提出ていしゅつした。そのなかでこれまでのみだれた生活せいかつ反省はんせい家庭かていまも決意けついをして「ふたた破婚はこんかえしたときにはわたし完全かんぜん狂人きょうじんとしてててください」といている[47]翌年よくねん1がつ8にち井伏いぶせ自宅じたく結婚式けっこんしきげる。同日どうじつ甲府こうふ市街しがいきた位置いちする甲府こうふ御崎おんざきまちげん甲府こうふ朝日あさひ丁目ちょうめ)にうつむ。9月1にち東京とうきょう北多摩きたたまぐん三鷹みたかむら下連雀しもれんじゃく転居てんきょ精神せいしんてきにも安定あんていし、『おんな生徒せいと』『富嶽ふがくひゃくけい』『駆込かけこうった』『はしれメロス』などのすぐれた短編たんぺん発表はっぴょうした。『おんな生徒せいと』は川端かわばた康成やすなりが「『おんな生徒せいと』のような作品さくひん出会であえることは、時評じひょう偶然ぐうぜん幸運こううん」と激賞げきしょう原稿げんこう依頼いらい急増きゅうぞうした[48]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)、文士ぶんし徴用ちょうようれいばれるが、身体しんたい検査けんさ肺浸潤はいしんじゅんとされて徴用ちょうよう免除めんじょされる。太田おおた静子しずこい、日記にっきくことをすすめる。太平洋戦争たいへいようせんそうなかも『津軽つがる』『とぎ草紙ぞうし』や長編ちょうへん小説しょうせつしんハムレット』『右大臣うだいじんじつあさ』など旺盛おうせい創作そうさく活動かつどう継続けいぞく戦前せんぜんから戦中せんちゅうにかけては甲府こうふ湯村ゆむら温泉おんせんげん信玄しんげん 湯村ゆむら温泉おんせん)に度々どど逗留とうりゅうし、どう温泉おんせんの「旅館りょかん明治めいじ」を定宿じょうやどとしていたほか[49]銭湯せんとうの「喜久よしひさ乃湯温泉おんせん」にもかよっていた[50]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ10日とおか東京とうきょうだい空襲くうしゅうい、甲府こうふにある美知子みちこ実家じっか疎開そかい。7月6にちから7にちにかけての甲府こうふ空襲くうしゅう石原いしはら全焼ぜんしょう津軽つがる津島つしま疎開そかい終戦しゅうせんむかえた。

斜陽しゃよう』、もつれた女性じょせい関係かんけい

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太田おおた静子しずこ
1946ねん銀座ぎんざのバー「ルパン」にて(はやし忠彦ただひこ撮影さつえい[51][52]

1945ねん10月からよく1946ねん1がつまで『河北かわきた新報しんぽう』に『パンドラのくしげ』を連載れんさい。これは『雲雀ひばりこえ』としてろしたものの印刷所いんさつしょ空襲くうしゅうい、えてしまった原稿げんこうのゲラを手直てなおししたものである[53][54]1946ねん昭和しょうわ21ねん)11月14にち東京とうきょうもどる。チェーホフの『さくらえん』のような没落ぼつらく貴族きぞく小説しょうせつ構想こうそう1947ねん昭和しょうわ22ねん)2がつ神奈川かながわけん曾我そが太田おおた静子しずこ再会さいかい日記にっきりる[55]。3月27にち美容びよう山崎やまざき富栄とみえう。

没落ぼつらく華族かぞくえがいた長編ちょうへん小説しょうせつ斜陽しゃよう』を『新潮しんちょう』に連載れんさい。12月15にち単行本たんこうぼんとして出版しゅっぱんされるとベストセラーになり、「斜陽しゃようぞく」が流行りゅうこうとなるなど流行りゅうこう作家さっかとなる。『斜陽しゃよう』の完成かんせい前後ぜんごして、登場とうじょう人物じんぶつのモデルとなった歌人かじん太田おおた静子しずことのあいだむすめ太田おおた治子はるこまれ、太宰だざい認知にんちした。

10がつごろ新潮社しんちょうしゃ野原のはら一夫かずお太宰だざい愛人あいじん山崎やまざき富栄とみえ部屋へや大量たいりょう喀血かっけつしているのを目撃もくげきしているが、富栄とみえれた様子ようす手当てあてをしていたという[56]1948ねん昭和しょうわ23ねん)、『人間にんげん失格しっかく』『桜桃おうとう』などをきあげる。富栄とみえ手際てぎわく、「スタコラさっちゃん」とばれ、太宰だざい愛人あいじんけん秘書ひしょのような存在そんざいになっていた。美容びようめ、20まんえんほどあった貯金ちょきん太宰だざい遊興ゆうきょう使つかたした[57]部屋へや青酸せいさんカリかくしているとおど[58]、6月7にち以降いこう太宰だざい富栄とみえい部屋へや軟禁なんきん状態じょうたいになった。心配しんぱいした筑摩書房ちくましょぼう社長しゃちょう古田ふるたあきら井伏いぶせ鱒二ますじ相談そうだんし、御坂みさかとうげ天下茶屋てんがちゃや静養せいようさせる計画けいかくてる。6月12にち太宰だざい古田ふるた週末しゅうまつ下宿げしゅくさきにしていた埼玉さいたまけん大宮おおみや宇治うじ病院びょういんたずねるが、古田ふるた静養せいよう準備じゅんびのため信州しんしゅう長野ながのけん)に出張しゅっちょうちゅうだった[59]

太宰だざいおさむ

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げられた太宰だざい富栄とみえい遺体いたい
山崎やまざき富栄とみえ

1948ねん昭和しょうわ23ねん6月13にち玉川上水たまがわじょうすい山崎やまざき富栄とみえ入水じゅすいした。まん38さいぼつ2人ふたり遺体いたいは6にち6月19にちしくも太宰だざいの39かい誕生たんじょう発見はっけんされ、このかれ直前ちょくぜんいた短編たんぺん桜桃おうとう」にちなみ、太宰だざい同郷どうきょう生前せいぜん交流こうりゅうのあったいま官一かんいちにより「桜桃おうとう」と名付なづけられた[60]

この事件じけん当時とうじから様々さまざま憶測おくそくみ、富栄とみえいによる無理むり心中しんちゅうのせつ狂言きょうげん心中しんちゅうの失敗しっぱいせつなどがとなえられていた。津島つしま出入でいりしていた呉服ごふくしょう中畑なかはたけいきち三鷹みたか警察けいさつしょ刑事けいじ入水じゅすい現場げんば案内あんないされ、下駄げたおもったあとがあったこと、をついてすべちるのをめようとしたあと歴然れきぜんのこっていたとべ、「いち週間しゅうかんもたち、あめっているというのに歴然れきぜんとした痕跡こんせきのこっているのですから、よほどつよく"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」「太宰だざいは『にましょう』といわれて、簡単かんたんに『よかろう』と承諾しょうだくしたけれども、直前ちょくぜんにおいて突然とつぜんせいへの執着しゅうちゃくむね横切よこぎったのではないでしょうか」と推測すいそくしている[61]

中畑なかはた三鷹みたか警察けいさつしょ署長しょちょうから意見いけんもとめられ「わたしには純然じゅんぜんたる自殺じさつとはおもえぬ」と確信かくしんをもってごたえた[61]。すると署長しょちょうも「自殺じさつ、つまり心中しんちゅうのということを発表はっぴょうしてしまった現在げんざい、いまさらとやかくっても仕方しかたがないが、じつ警察けいさつとしても(自殺じさつとするには)ちぬてんもあるのです」と発言はつげんした[61]

朝日新聞あさひしんぶん』と『朝日あさひ評論ひょうろん』に掲載けいさいしたユーモア小説しょうせつグッド・バイ」が未完みかん遺作いさくとなった。しくもこの作品さくひんの13絶筆ぜっぴつになったのは、キリスト教きりすときょうジンクス13 (すう))を暗示あんじした太宰だざい最後さいご洒落しゃれだったとするせつだん一雄かずお)もある[注釈ちゅうしゃく 5]自身じしん体調たいちょう不良ふりょうや、一人ひとり息子むすこダウン症だうんしょう知能ちのう障害しょうがいがあったことをにしていたのが自殺じさつひとつの理由りゆうだったとするせつもあった。

しかし、50回忌かいき目前もくぜんひかえた1998ねん平成へいせい10ねん5月23にち遺族いぞくらが公開こうかいした太宰だざいの9まいからなる遺書いしょでは、美知子みちこあてに「だれよりもあいしてゐました」とし、つづけて「小説しょうせつくのがいやになつたからぬのです」と自殺じさつ動機どうき説明せつめい遺書いしょワラ半紙ばんし毛筆もうひつ清書せいしょされ、署名しょめいもあり、これまでの遺書いしょ下書したが原稿げんこうであったことがわかった[63]

既成きせい文壇ぶんだんたいする宣戦せんせん布告ふこくともうべき連載れんさい評論ひょうろん如是にょぜ我聞がもん」の最終さいしゅうかい死後しご掲載けいさいされた。東京とうきょう杉並すぎなみ梅里うめざと堀ノ内ほりのうち斎場さいじょうにて荼毘だびされる。戒名かいみょうぶん綵院だい猷治どおり居士こじ

りゃく年譜ねんぷ

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太宰だざいおさむ記念きねんかん斜陽しゃようかん
津島つしましん座敷ざしき五所川原ごしょがわら

エピソード

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左翼さよく活動かつどう

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1929ねん昭和しょうわ4ねん)、弘前ひろさき高校こうこう校長こうちょう公金こうきん流用りゅうよう発覚はっかくし、学生がくせいたちは上田うえだ重彦しげひこ石上いしがみげん一郎いちろう社会しゃかい科学かがく研究けんきゅうかいリーダーのもと5日間にちかん同盟どうめい休校きゅうこう(ストライキ)をおこない、校長こうちょう辞職じしょく生徒せいと処分しょぶんなしという成果せいか[66]太宰だざいはストライキにほとんど参加さんかしなかったが、当時とうじ流行りゅうこうプロレタリア文学ぶんがく真似まねて、事件じけんを『学生がくせいぐん』という小説しょうせつにまとめ、上田うえだ朗読ろうどくしてかせている[67]津島つしま太宰だざい左翼さよく活動かつどう警戒けいかいした。翌年よくねん1がつ16にち特高とっこう田中たなかきよしげん武装ぶそう共産党きょうさんとう末端まったん活動かつどうとしてうごいていた上田うえだひろし高社たかやしろけん学生がくせい9めい逮捕たいほ。3月3にち逮捕たいほされた上田うえだら4にん放校ほうこう処分しょぶん、3にん諭旨ゆし退学たいがく2人ふたり無期むき停学ていがくとなっている[68]

大学生だいがくせいになった太宰だざい活動かつどう工藤くどうひさしくら[69]共産党きょうさんとう毎月まいつき10えん資金しきんカンパをする。初代しょだいとの結婚けっこん津島つしま分家ぶんけ除籍じょせきにされたのは、政治せいじでもある文治ぶんじ非合法ひごうほう活動かつどうるいおよぶのをふせぐためでもあった[70]結婚けっこんしてからはシンパをかくまうよう命令めいれいされ、しをかえした。やがて警察けいさつにマークされるようになり、2留置りゅうちしょれられた[71]1932ねん昭和しょうわ7ねん)7がつ文治ぶんじ連絡れんらくのつかなかった太宰だざいさがて、青森あおもり警察けいさつしょ出頭しゅっとうさせる。12月、青森あおもり検事けんじきょく誓約せいやくしょ署名しょめい捺印なついんして左翼さよく活動かつどうから完全かんぜん離脱りだつした[72][73]

その

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  • 太宰だざいはか三鷹みたか中心ちゅうしん禅林寺ぜんりんじにあり、太宰だざい富栄とみえい遺体いたいげられた6がつ19にちには毎年まいとしおおくの愛好あいこうおとずれている。これは一般いっぱんに「桜桃おうとう」としょうされている。太宰だざい出身しゅっしん金木かなぎでも桜桃おうとう行事ぎょうじおこなっていたが「生誕せいたんには生誕せいたんいわまつりほうがふさわしい」という遺族いぞく要望ようぼうもあり、生誕せいたん90周年しゅうねんとなる1999ねん平成へいせい11ねん)から「太宰だざいおさむ生誕せいたんさい」に名称めいしょうあらためた。
  • 身長しんちょう171〜175 cm[74][注釈ちゅうしゃく 7]大食漢たいしょくかんであり[76]新婚しんこん当時とうじさけさかな湯豆腐ゆどうふこのみ、豆腐とうふからなんちょう豆腐とうふっていたため近所きんじょうわさになるほどだった。太宰だざいいわく「豆腐とうふさけどくす。味噌汁みそしる煙草たばこどくす」とのことだったが、わるいのと(後述こうじゅつ)、なんちょうべてもたかがれているのが理由りゆうだった[77]京都きょうと大市おおいち」のスッポン料理りょうりや、三鷹みたか屋台やたい若松わかまつ」のウナギ料理りょうりきだった。あじもと好物こうぶつで、さけかんどんぶりけ、あじもと大量たいりょうにふりかけてべた[78]味噌汁みそしるきだった。生家せいか一時いちじ養鶏ようけいごうをやっていたこともあり、にわとり解剖かいぼうかくれた趣味しゅみだった。戦時せんじちゅうつま美知子みちこ三鷹みたか農家のうかからきたにわとり1ってくると、自分じぶんでさばいて水炊みずたなべにしてべた[79][80]短編たんぺん禁酒きんしゅしん』にあるようにさけもよくんだ。からだわるいとわれると「さけまなければ、クスリをのむことになるが、いいか」と弁解べんかいした[81]
  • あしのサイズも11ぶんやく26.4 cm)とおおきく、甲高こうだかでもあったのであしくつ足袋たびがなく苦労くろうしていた。戦後せんご戦災せんさいしゃへの配給はいきゅう兵隊へいたいくつ軍用ぐんようブーツ)を購入こうにゅうすると、これを愛用あいようした。はやし忠彦ただひこ撮影さつえいした銀座ぎんざの「ルパン」の写真しゃしんいているのがこの兵隊へいたいくつである[82]
  • 28さいころしの自分じぶん評価ひょうかした佐藤さとう春夫はるお誠意せいいせるため、1937(昭和しょうわ12)ねん1がつ1にちづけ西北せいほく新報しんぽうみじかいコラム「春夫はるお旅行りょこうできなかつたはなし」を執筆しっぴつしている[83]
  • 30さい前後ぜんこうころさんたか弟子でしつつみ重久しげひさんでいたところ知人ちじん編集へんしゅうしゃ合流ごうりゅうして文学ぶんがく談議だんぎとなったが、くした太宰だざいつつみに「今晩こんばんはなんでもけ、明確めいかくこたえてみせるぞ」と断言だんげんしたが、太宰だざい知人ちじん編集へんしゅうしゃまったらない17世紀せいき僧侶そうりょ契沖けいちゅうについてたずねられ、こたえにきゅうしてしば両手りょうてわせてかんがんだのち唐突とうとつ大笑おおわらいをしてから「大物おおものぎていちばんかたつくせない。ちかうちせきあらためて――」とはぐらかしたという[84]
  • 虫歯むしばだらけの「みそっ」だったが、美知子みちこ夫人ふじんすすめで歯医者はいしゃかよい、32さいでほとんどにした[85]
  • 三鷹みたかえき西側にしがわにあった、三鷹みたか電車でんしゃげん三鷹みたか車両しゃりょうセンター)と中央ちゅうおう本線ほんせんをまたぐ三鷹跨線人道橋(2023ねん12月に閉鎖へいさ撤去てっきょ)にはよくとおったという[86][87][88][89][90]
  • 1949ねん4がつ11にち東京とうきょう財務局ざいむきょく発表はっぴょうした所得しょとく番付ばんづけでは、100まんえんだい収入しゅうにゅう記録きろくされており、作家さっかじんなかでは上位じょういとなっている[91]

作品さくひん一覧いちらん

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甲府こうふ朝日あさひきゅう御崎おんざきまち)の太宰だざいおさむ旧居きゅうきょあと

作品さくひん

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作品さくひんめい 初出しょしゅつ 単行本たんこうぼん
ロマネスク あおはな』1934ねん12がつごう 晩年ばんねん』(砂子屋さごや書房しょぼう、1936ねん6がつ
道化どうけはな 日本にっぽんなみ曼派 だいいちかんだいさんごう
1935ねん5がつごう
晩年ばんねん』(砂子屋さごや書房しょぼう、1936ねん6がつ
ダス・ゲマイネ 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1935ねん10がつごう
燈籠とうろう 若草わかくさ』1937ねん10がつごう 女性じょせい』(博文ひろぶみかん、1942ねん6がつ
富嶽ふがくひゃくけい 文体ぶんたい』1939ねん2がつごう、3がつごう おんな生徒せいと』(砂子屋さごや書房しょぼう、1939ねん7がつ
黄金おうごん風景ふうけい 國民こくみん新聞しんぶん』1939ねん3がつ2にち、3月3にち おんな生徒せいと』(砂子屋さごや書房しょぼう
おんな生徒せいと 文學ぶんがくかい』1939ねん4がつごう おんな生徒せいと』(砂子屋さごや書房しょぼう
新樹あらき言葉ことば ろし あいについて』(竹村たけむら書房しょぼう、1939ねん5がつ
葉桜はざくらふえ[92] 新潮しんちょう』1939ねん6がつごう 皮膚ひふしん』(竹村たけむら書房しょぼう、1940ねん4がつ
八十八夜はちじゅうはちや 新潮しんちょう』1939ねん8がつごう 皮膚ひふしん』(竹村たけむら書房しょぼう
畜犬だん 文学ぶんがくしゃ』1939ねん10がつごう 皮膚ひふしん』(竹村たけむら書房しょぼう
皮膚ひふしん 文學ぶんがくかい』1939ねん11がつごう 皮膚ひふしん』(竹村たけむら書房しょぼう
ぞく天使てんし 新潮しんちょう』1940ねん1がつごう 皮膚ひふしん』(竹村たけむら書房しょぼう
知性ちせい』1940ねん1がつごう 皮膚ひふしん』(竹村たけむら書房しょぼう
はる盗賊とうぞく 文芸ぶんげい日本にっぽん』1940ねん1がつごう おんな決闘けっとう』(河出かわで書房しょぼう、1940ねん6がつ
おんな決闘けっとう 月刊げっかん文章ぶんしょう』1940ねん1がつごう〜6がつごう おんな決闘けっとう』(河出かわで書房しょぼう
み訴へ 中央公論ちゅうおうこうろん』1940ねん2がつごう おんな決闘けっとう』(河出かわで書房しょぼう
はしれメロス 新潮しんちょう』1940ねん5がつごう おんな決闘けっとう』(河出かわで書房しょぼう
古典こてんふう 知性ちせい』1940ねん6がつごう おんな決闘けっとう』(河出かわで書房しょぼう
乞食こじき学生がくせい 若草わかくさ』1940ねん7がつごう〜12月ごう 東京とうきょう八景はっけい』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1941ねん5がつ
きりぎりす 新潮しんちょう』1940ねん11がつごう 東京とうきょう八景はっけい』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ
東京とうきょう八景はっけい 文學ぶんがくかい』1941ねん1がつごう 東京とうきょう八景はっけい』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ
清貧せいひんたん 新潮しんちょう』1941ねん1がつごう 千代女ちよめ』(筑摩書房ちくましょぼう、1941ねん8がつ
みみずく通信つうしん 知性ちせい』1941ねん1がつごう 千代女ちよめ』(筑摩書房ちくましょぼう
佐渡さわたり 公論こうろん』1941ねん1がつごう 千代女ちよめ』(筑摩書房ちくましょぼう
千代女ちよめ 改造かいぞう』1941ねん6がつごう 千代女ちよめ』(筑摩書房ちくましょぼう
しんハムレット ろし しんハムレット』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1941ねん7がつ
ふう便たよ 文學ぶんがくかい』1941ねん11がつごう
文藝ぶんげい』1941ねん11がつごう
新潮しんちょう』1941ねん12がつごう
ふう便たよ』(利根とね書房しょぼう、1942ねん4がつ
だれ 知性ちせい』1941ねん12がつごう ふう便たより』(利根とね書房しょぼう
はじ 婦人ふじんほう』1942ねん1がつごう 女性じょせい』(博文ひろぶみかん
十二月じゅうにがつはちにち 婦人ふじん公論こうろん』1942ねん2がつごう 女性じょせい』(博文ひろぶみかん
律子りつこ貞子さだこ 若草わかくさ』1942ねん2がつごう ふう便たより』(利根とね書房しょぼう
水仙すいせん 改造かいぞう』1942ねん5がつごう 日本にっぽん小説しょうせつ代表だいひょうさく全集ぜんしゅう 9』(小山こやま書店しょてん、1943ねん1がつ
正義せいぎ微笑びしょう ろし 正義せいぎ微笑びしょう』(錦城きんじょう出版しゅっぱんしゃ、1942ねん6がつ
黄村こうそん先生せんせい言行げんこうろく 文學ぶんがくかい』1943ねん1がつごう 佳日かじつ』(はじめ書房しょぼう、1944ねん8がつ
右大臣うだいじんじつあさ ろし 右大臣うだいじんじつあさ』(錦城きんじょう出版しゅっぱんしゃ、1943ねん9がつ
不審ふしんあん 文藝ぶんげい世紀せいき』1943ねん10がつごう 佳日かじつ』(はじめ書房しょぼう
花吹雪はなふぶき ろし 佳日かじつ』(はじめ書房しょぼう
佳日かじつ 改造かいぞう』1944ねん1がつごう 佳日かじつ』(はじめ書房しょぼう
散華さんげ しん若人わこうど』1944ねん3がつごう 佳日かじつ』(はじめ書房しょぼう
津軽つがる ろし 津軽つがる』(小山こやま書店しょてん、1944ねん11月)
新釈しんしゃく諸国しょこくばなし 新潮しんちょう』1944ねん1がつごう、10がつごう
文藝ぶんげい』1944ねん5がつごう
文藝ぶんげい世紀せいき』1944ねん9がつごう
月刊げっかん東北とうほく』1944ねん11がつごう
ほかはろし
新釈しんしゃく諸国しょこくばなし』(生活せいかつしゃ、1945ねん1がつ
たけあお 文藝ぶんげい』1945ねん4がつごう 薄明はくめい』(しん紀元きげんしゃ、1946ねん11月)
惜別せきべつ ろし 惜別せきべつ』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1945ねん9がつ
とぎ草紙ぞうし ろし 『おとぎ草紙ぞうし』(筑摩書房ちくましょぼう、1945ねん10がつ
パンドラのくしげ 河北かほく新報しんぽう
1945ねん10がつ22にち〜1946ねん1がつ7にち
『パンドラのくしげ』(河北新報社かほくしんぽうしゃ、1946ねん6がつ
じゅう年間ねんかん 文化ぶんか展望てんぼう』1946ねん4がつごう創刊そうかんごう
ふゆ花火はなび 展望てんぼう』1946ねん6がつごう ふゆ花火はなび』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1947ねん7がつ
はる枯葉かれは 人間にんげん』1946ねん9がつごう ふゆ花火はなび』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
すずめ 思潮しちょう』1946ねん9がつごう ふゆ花火はなび』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
親友しんゆう交歓こうかん 新潮しんちょう』1946ねん12がつごう 『ヴィヨンのつま』(筑摩書房ちくましょぼう、1947ねん8がつ
男女だんじょ同権どうけん 改造かいぞう』1946ねん12がつごう 『ヴィヨンのつま』(筑摩書房ちくましょぼう
トカトントン 群像ぐんぞう』1947ねん1がつごう 『ヴィヨンのつま』(筑摩書房ちくましょぼう
メリイクリスマス 中央公論ちゅうおうこうろん』1947ねん1がつごう 『ヴィヨンのつま』(筑摩書房ちくましょぼう
ヴィヨンのつま 展望てんぼう』1947ねん3がつごう 『ヴィヨンのつま』(筑摩書房ちくましょぼう
女神めがみ 日本にっぽん小説しょうせつ』1947ねん5がつごう 女神めがみ』(白文はくぶんしゃ、1947ねん10がつ
フォスフォレッスセンス 日本にっぽん小説しょうせつ』1947ねん7がつごう 太宰だざいおさむ随想ずいそうしゅう』(若草わかくさ書房しょぼう、1948ねん3がつ
眉山びざん 小説しょうせつ新潮しんちょう』1948ねん3がつごう 桜桃おうとう』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1948ねん7がつ
斜陽しゃよう 新潮しんちょう』1947ねん7がつごう〜10がつごう 斜陽しゃよう』(新潮社しんちょうしゃ、1947ねん12がつ
如是にょぜ我聞がもん 新潮しんちょう』1948ねん3がつごう、5がつごう〜7がつごう 如是にょぜ我聞がもん』(新潮社しんちょうしゃ、1948ねん11月)
人間にんげん失格しっかく 展望てんぼう』1948ねん6がつごう〜8がつごう 人間にんげん失格しっかく』(筑摩書房ちくましょぼう、1948ねん7がつ
グッド・バイ 朝日新聞あさひしんぶん』1948ねん6がつ21にち
朝日あさひ評論ひょうろん』1948ねん7がつ1にち
人間にんげん失格しっかく』(筑摩書房ちくましょぼう

単行本たんこうぼん

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書名しょめい 出版しゅっぱんしゃ 出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 備考びこう
晩年ばんねん 砂子屋書房いさごやしょぼう 1936ねん6がつ25にち 作品さくひんしゅう
虚構きょこう彷徨ほうこう 新潮社しんちょうしゃ 1937ねん6がつ1にち 作品さくひんしゅう
じゅう世紀せいき旗手きしゅ 版画はんがそう 1937ねん7がつ20日はつか 作品さくひんしゅう
あいについて 竹村たけむら書房しょぼう 1939ねん5がつ20日はつか ろし作品さくひんしゅう
おんな生徒せいと 砂子屋書房いさごやしょぼう 1939ねん7がつ20日はつか 作品さくひんしゅう
皮膚ひふしん 竹村たけむら書房しょぼう 1940ねん4がつ20日はつか 作品さくひんしゅう
おも 人文書院じんぶんしょいん 1940ねん6がつ1にち 作品さくひんしゅう
おんな決闘けっとう 河出かわで書房しょぼう 1940ねん6がつ15にち 作品さくひんしゅう
東京とうきょう八景はっけい 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1941ねん5がつ3にち 作品さくひんしゅう
しんハムレット 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1941ねん7がつ2にち ろし長編ちょうへん小説しょうせつ
千代女ちよめ 筑摩書房ちくましょぼう 1941ねん8がつ25にち 作品さくひんしゅう
ふう便たよ 利根とね書房しょぼう 1942ねん4がつ16にち 作品さくひんしゅう
ろうハイデルベルヒ 竹村たけむら書房しょぼう 1942ねん5がつ20日はつか 作品さくひんしゅう
正義せいぎ微笑びしょう 錦城きんじょう出版しゅっぱんしゃ 1942ねん6がつ10日とおか ろし長編ちょうへん小説しょうせつ
女性じょせい 博文ひろぶみかん 1942ねん6がつ30にち 作品さくひんしゅう
信天翁あほうどり 昭南しょうなん書房しょぼう 1942ねん11月15にち 作品さくひんしゅう
富嶽ふがくひゃくけい 新潮社しんちょうしゃ 1943ねん1がつ10日とおか 作品さくひんしゅう
右大臣うだいじんじつあさ 錦城きんじょう出版しゅっぱんしゃ 1943ねん9がつ25にち ろし長編ちょうへん小説しょうせつ
佳日かじつ はじめ書房しょぼう 1944ねん8がつ20日はつか 作品さくひんしゅう
津軽つがる 小山こやま書店しょてん 1944ねん11月15にち ろし長編ちょうへん小説しょうせつ
新釈しんしゃく諸国しょこくばなし 生活せいかつしゃ 1945ねん1がつ27にち 作品さくひんしゅう
惜別せきべつ 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1945ねん9がつ5にち ろし長編ちょうへん小説しょうせつ
とぎ草紙ぞうし 筑摩書房ちくましょぼう 1945ねん10がつ25にち ろし作品さくひんしゅう
パンドラのくしげ 河北新報社かほくしんぽうしゃ 1946ねん6がつ5にち 長編ちょうへん小説しょうせつ
玩具おもちゃ あづみ書房しょぼう 1946ねん8がつ10日とおか 作品さくひんしゅう
薄明はくめい しん紀元きげんしゃ 1946ねん11月20にち 作品さくひんしゅう
猿面さるめん冠者かんじゃ 鎌倉かまくら文庫ぶんこ 1947ねん1がつ20日はつか 作品さくひんしゅう
道化どうけはな 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1947ねん2がつ20日はつか 作品さくひんしゅう
黄村こうそん先生せんせい言行げんこうろく 日本にっぽん出版しゅっぱん 1947ねん3がつ15にち 作品さくひんしゅう
うば ポリゴン書房しょぼう 1947ねん6がつ10日とおか 作品さくひんしゅう
ふゆ花火はなび 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1947ねん7がつ5にち 作品さくひんしゅう
ろまん燈籠とうろう ようりょくしゃ 1947ねん7がつ10日とおか 作品さくひんしゅう
ヴィヨンのつま 筑摩書房ちくましょぼう 1947ねん8がつ5にち 作品さくひんしゅう
狂言きょうげんかみ 三島みしま書房しょぼう 1947ねん8がつ30にち 作品さくひんしゅう
女神めがみ 白文はくぶんしゃ 1947ねん10がつ5にち 作品さくひんしゅう
斜陽しゃよう 新潮社しんちょうしゃ 1947ねん12月15にち 長編ちょうへん小説しょうせつ
太宰だざいおさむ随想ずいそうしゅう 若草わかくさ書房しょぼう 1948ねん3がつ21にち 作品さくひんしゅう
桜桃おうとう 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1948ねん7がつ25にち 作品さくひんしゅう
人間にんげん失格しっかく 筑摩書房ちくましょぼう 1948ねん7がつ25にち 長編ちょうへん小説しょうせつ
(「グッド・バイ」も収録しゅうろく
如是にょぜ我聞がもん 新潮社しんちょうしゃ 1948ねん11がつ10日とおか 随筆ずいひつしゅう
地図ちず 新潮しんちょう文庫ぶんこ 2009ねん4がつ25にち 初期しょき作品さくひんしゅう

絵画かいが

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太宰だざいは、絵画かいがえがいた。東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう現在げんざい東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく)にすすんだあにけい影響えいきょうもあって子供こども時代じだいから美術びじゅつ関心かんしんち、ながじては文壇ぶんだんないだけでなく画家がかとも交流こうりゅうち、杉並すぎなみ時代じだい久富ひさとみ邦夫くにお三鷹みたか時代じだい桜井さくらいはまこう近所きんじょんでいた画家がか往来おうらいがあった[93]三鷹みたか美術びじゅつギャラリーが2018ねんから太宰だざいえがいた絵画かいが9てん所蔵しょぞうし、太宰だざい担当たんとう編集へんしゅうしゃであった石井いしいりつ(たつ)の遺族いぞくがこれを石井いしいりつ所蔵しょぞうしていた太宰だざいさくおもわれる肖像しょうぞうあらたに寄贈きぞうし、鑑定かんていにより太宰だざいさく判断はんだんされた[94]

作品さくひん研究けんきゅう

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  • 無頼ぶらい」または「しん戯作げさく」の一人ひとりかぞえられる太宰だざいは、4かい自殺じさつ未遂みすい自身じしん生活せいかつ態度たいどとともあいまって、退廃たいはいてき作風さくふうにのみ焦点しょうてんがあてられがちだが、『とぎ草紙ぞうし』『新釈しんしゃく諸国しょこくばなし』「畜犬だん」「親友しんゆう交歓こうかん」「黄村こうそん先生せんせい言行げんこうろく」などユーモアのあふれる作品さくひん多数たすうのこしている。ながらく太宰だざい文学ぶんがくきになれなかったという杉森すぎもりひさえいは、戦後せんごだいぶってから『おとぎ草紙ぞうし』や『新釈しんしゃく諸国しょこくばなし』をんで感嘆かんたんし、それまで太宰だざいいちめんてきにしかとらえていなかった自分じぶん不明ふめいふかじたという[95]
  • 長編ちょうへん短編たんぺんともにすぐれていたが、とくに「満願まんがんとうのようにわずか原稿げんこう用紙ようしすうまい見事みごとげる小説しょうせつとしてもたか評価ひょうかされている。
  • 聖書せいしょイエス・キリスト太宰だざいつよ関心かんしんいだつづけた。そのおもいは作品さくひんにも色濃いろこあらわれている。「うった」(『中央公論ちゅうおうこうろん』1940ねん2がつごう)では一般いっぱんてき裏切うらぎもの背反はいはんしゃとして認知にんちされるイスカリオテのユダしん葛藤かっとうえがかれている。小説しょうせつパンドラのくしげ」は、詩人しじん大月おおつきはなよい越後獅子えちごじし)にキリストの精神せいしんもとづいた自由じゆう思想しそうかたらせ、つぎさく回想かいそうじゅう年間ねんかん」の最後さいご太宰だざいは「パンドラのくしげ」を引用いんようし、大月おおつき越後獅子えちごじし)が「西洋せいよう思想しそうは、すべてキリストの精神せいしん基底きていにして、あるいはそれを敷衍ふえんし、あるいはそれを卑近ひきんにし、あるいはそれを懐疑かいぎし、ひとさまざまの諸説しょせつがあっても結局けっきょく聖書せいしょいちかんにむすびついているとおもう」などとかた一場いちじょうめんりょうとなる[97]聖書せいしょやキリストに言及げんきゅうした作品さくひんに『正義せいぎ微笑びしょう』「律子りつこ貞子さだこ」「だれ」「はじ」「」「散華さんげ」「ちち」「桜桃おうとう」などがあり、随筆ずいひつでもよくれている。
  • 1948ねん4がつ太宰だざい直前ちょくぜんから『太宰だざいおさむ全集ぜんしゅう』が八雲やくも書店しょてんから刊行かんこう開始かいしされるが、同社どうしゃ倒産とうさんによって中断ちゅうだんした。そのそうげいしゃからあたらしく『太宰だざいおさむ全集ぜんしゅう』が刊行かんこうされる。しかし書簡しょかん習作しゅうさくなども完備かんびした本格ほんかくてき全集ぜんしゅう1955ねん筑摩書房ちくましょぼうから刊行かんこうされたものがはじめてである。
  • 2014ねん平成へいせい26ねん)12月、韓国かんこくばんの「太宰だざいおさむ全集ぜんしゅうぜん10かん完結かんけつした。小説しょうせつ発表はっぴょうじゅんおさめられ、どう全集ぜんしゅうにはエッセイをふくぜん作品さくひん収録しゅうろくされている[103]

家族かぞく親族しんぞく

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津島つしま

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青森あおもりけん北津軽きたつがるぐん金木かなぎむら〈のちの北津軽きたつがるぐん金木かなぎまちげん青森あおもりけん五所川原ごしょがわら〉)
津島つしま家系かけいについては様々さまざませつがあり、明確めいかくではない。初代しょだいそうすけ豆腐とうふある行商ぎょうしょうじんだったという。1946ねん昭和しょうわ21ねん)に発表はっぴょうした『苦悩くのう年鑑ねんかん』のなかで「わたしうまれたいえには、ほこるべき系図けいずなにい。どこからかながれてて、この津軽つがる北端ほくたん土着どちゃくした百姓ひゃくしょうが、わたしたちの祖先そせんなのにたがえひない。わたしは、さとしの、しょくふやしょくはずの貧農ひんのう子孫しそんである。わたしいえ多少たしょうでも青森あおもりけんに、られはじめたのは、曾祖父そうそふそうすけ時代じだいからであつた」といている。そうすけあぶらりの行商ぎょうしょうをしながら金貸かねかしで身代しんだいきずいていったという。また、津島つしまは、きゅう対馬つしまこくから日本海にほんかいわたって津軽つがる定住ていじゅうした一族いちぞくであるとする伝承でんしょうもあり、菩提寺ぼだいじ南台みなみだいてら墓碑ぼひでも祖先そせんは“対馬つしませい”となっている。この“対馬つしませい”ときざまれたはかについて、太宰だざいおい津島つしま康一やすいち俳優はいゆう)は、「どっからかもってきたんじゃないかな」となにやら意味いみありげな“対馬つしませい”のこくめい信用しんようしていないくちぶりで「うちの系図けいずはやばいんですよ」とずかしそうにべている[104]
津島つしま県下けんか有数ゆうすうだい地主じぬしげたさん代目だいめそうすけ嘉瀬かせむら山中さんちゅう出身しゅっしんで、もといさみすけといった。1835ねん天保てんぽう6ねん)にだい百姓ひゃくしょう山中やまなか久五郎きゅうごろう次男じなんとしてまれ、1859ねん安政あんせい6ねん津島つしま婿養子むこようしとなった。山中さんちゅう先祖せんぞは、「能登のとこく山中やまなか庄山しょうやまちゅう城主じょうしゅ一族いちぞく」だったとつたえられている。1867ねん慶応けいおう3ねん)に代目だいめそうすけ他界たかいし、家督かとく相続そうぞくしてさん代目だいめそうすけ」を襲名しゅうめいした。あぶらりのほか、木綿こわたなどの繊維せんい製品せいひんあつかい、金貸かねかしでざいたくわえて新興しんこうだい地主じぬしとなった。1894ねん明治めいじ27ねん)に北津軽きたつがるぐん会議かいぎいんだい地主じぬし互選ごせん議員ぎいん当選とうせん1895ねん明治めいじ28ねん)に北津軽きたつがるぐん所得しょとくぜい調査ちょうさ委員いいん選挙せんきょ当選とうせん1897ねん明治めいじ30ねん)、合資ごうし会社かいしゃ金木かなぎ銀行ぎんこう」を設立せつりつふたたぐんかいだい地主じぬし議員ぎいんとなり、県内けんない多額たがく納税のうぜいしゃ番付ばんづけの12はいって貴族きぞくいん議員ぎいん互選ごせん資格しかくれた。無名むめい金貸かねかそうすけからちょっとした地方ちほう名士めいしとしてしたのであった。
跡取あととりがいなかったため婿養子むこようし惣五郎そうごろうむかえる。惣五郎そうごろうにも跡取あととりがいなかったため源右衛門げんえもん婿養子むこようしとなった[105]家紋かもんは「づるまる」である。金木かなぎ生家せいか源右衛門げんえもん建造けんぞうしたもので、太宰だざいおさむ記念きねんかん斜陽しゃようかんとして公開こうかいされ、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

両親りょうしん

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ちち源右衛門げんえもん
1871ねん明治めいじ3ねんせい - 1923ねん大正たいしょう12ねんぼつ
松木まつきから婿養子むこようしとして津島つしまはいった。病弱びょうじゃく惣五郎そうごろうわってそうすけから家督かとくゆずられる[105]1901ねん明治めいじ34ねん)、けん会議かいぎいん当選とうせん1922ねん大正たいしょう11ねん)に貴族きぞくいん議員ぎいんとなるが、翌年よくねん肺臓はいぞうがん死去しきょ
はは・たね(夕子ゆうこ
1873ねん明治めいじ6ねんせい - 1942ねん昭和しょうわ17ねんぼつ
惣五郎そうごろう長女ちょうじょ太宰だざいふくなななんよんじょむ。69さい死去しきょ

兄弟きょうだい姉妹しまい

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※がついている人物じんぶつ太宰だざい先立さきだって死去しきょしている。

三男さんなん長兄ちょうけい)・文治ぶんじ
長男ちょうなん総一郎そういちろう次男じなんつとむ三郎さぶろう早世そうせいしたため、津島つしま跡継あとつぎとなる。金木かなぎ町長ちょうちょう青森あおもり県知事けんちじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん参議院さんぎいん議員ぎいん歴任れきにん長男ちょうなん康一やすいち俳優はいゆう
よんなん次兄じけい)・英治えいじ
金木かなぎ町長ちょうちょうまご恭一きょういちもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
五男いつおさんあに)・けい
東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう彫塑ちょうそ進学しんがく太宰だざい同人どうじん細胞さいぼう文芸ぶんげい」に「ゆめがわ利一としかず」のペンネームでエッセイを寄稿きこうしている[106][注釈ちゅうしゃく 8]結核けっかくにより28さい死去しきょ
なななんおとうと)・礼治れいじ
敗血症はいけつしょうで18さい病死びょうし
長女ちょうじょ長姉ちょうし)・たま※
1889ねん - 1912ねん
平山ひらやま良太郎りょうたろう婿養子むこようしむかえるが、結婚けっこんに22さい死去しきょ。このとき太宰だざい3さい
次女じじょつぎあね)・トシ
1894ねん - 1951ねん
津島つしま市太郎いちたろう夫人ふじん
さんじょさんあね)・アイ※
1904ねん - 1937ねん
津島つしま正雄まさお夫人ふじん
よんじょよんあね)・きょう[108](キョウ)※
1906ねん - 1945ねん
小館こだて貞一さだいち夫人ふじん小館こだてたもつ小館こだて善四郎ぜんしろう義弟ぎてい終戦しゅうせんからちょうど3かげつ死去しきょ太宰だざい高校こうこう在学ざいがく実家じっかからすうけんとなりの材木ざいもくしょう小館おたてとつぐ。太宰だざいは3さい年上としうえきょうなかく、きょう結婚けっこん頻繁ひんぱん小館おたてかよってはかみき「20ねんてば大変たいへん価値かちるから大事だいじにしまっておけ」とはなしていたという[109]

妻子さいし

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つま美知子みちこ
東京とうきょう女子じょし師範しはん学校がっこう卒業そつぎょう都留つる高等こうとう女学校じょがっこう歴史れきし地理ちり教師きょうしをしていた。26さい太宰だざい見合みあい、翌年よくねん結婚けっこん
長女ちょうじょ園子そのこ
おっともと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん津島つしま雄二ゆうじ旧姓きゅうせい上野うえの)。長男ちょうなんあつし衆議院しゅうぎいん議員ぎいん2020ねん4がつ20日はつか呼吸こきゅう不全ふぜんにより78さい死去しきょ[110]。「はな画家がか」としてられ、2022ねん忌日きじつの4がつ20日はつかは「水仙すいせん」と名付なづけられた[111]
長男ちょうなん正樹まさき
ダウン症だうんしょうであった。肺炎はいえんにより15さい死去しきょ
次女じじょ里子さとご
小説しょうせつ津島つしま佑子ゆうこ
太田おおた治子はるこ
小説しょうせつ愛人あいじん太田おおた静子しずことのあいだむすめ

松木まつき

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ちち源右衛門げんえもん生家せいかである木造こつくりむら松木まつきは、金木かなぎ津島つしまや、さん代目だいめそうすけ嘉瀬かせ山中さんちゅうよりもはるかに格式かくしきたか旧家きゅうかである。藩政はんせい時代じだいには苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされた郷士ごうしだった。
松木まつき由緒ゆいしょしょ』などによると、先祖せんぞ若狭わかさこく小浜おばまげん福井ふくいけん)の商人しょうにんで、万治まんじ年間ねんかん(1658–60ねん)に弘前ひろさきにやってきて、羽二重はぶたえあきないをしていた。寛文ひろふみ年間ねんかん(1661–72ねん津軽つがるはん新田にった開発かいはつはじまると木造もくぞううつみ、開墾かいこんこうみとめられだい庄屋しょうや郷士ごうしになった。明治めいじはいって、はち代目だいめななみぎ衛門えもん時代じだいに、薬種やくしゅ問屋とんや屋号やごう松樹まつきどう)に転業てんぎょうするまで、代々だいだいつく酒屋ざかやいとなんでいた。

親族しんぞく

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家系かけい

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石原いしはら初太郎はつたろう
 
 
 
津島つしま源右衛門げんえもん
 
たね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石原いしはらあきら
 
美知子みちこ
 
太宰だざいおさむ津島つしま修治しゅうじ
 
太田おおた静子しずこ
 
津島つしま英治えいじ
 
津島つしま文治ぶんじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津島つしま雄二ゆうじ
 
園子そのこ
 
正樹まさき
 
里子さとご津島つしま佑子ゆうこ
 
太田おおた治子はるこ
 
津島つしま一雄かずお
 
津島つしま康一やすいち
 
 
田沢たざわ吉郎よしろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津島つしまあつし
 
 
 
 
 
 
 
石原いしはらもえ
 
 
 
 
 
津島つしま恭一きょういち

関連かんれん人物じんぶつ

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  • 阿部あべ合成ごうせい - 太宰だざい同郷どうきょう青森あおもり中学校ちゅうがっこう友人ゆうじん以来いらい生涯しょうがい交流こうりゅうつづいた。1964ねん親友しんゆう太宰だざいおさむ文学ぶんがく制作せいさく依頼いらいされ、翌年よくねん金木かなぎ芦野公園あしのこうえん登仙とうせんみさき設置せっちした[112][113]
  • 石井いしい桃子ももこ - 児童じどう文学ぶんがく作家さっか翻訳ほんやくしゃ井伏いぶせ鱒二ますじたく偶然ぐうぜんだいおさむ同席どうせきしたことをきっかけに親交しんこうふかめた。太宰だざい死後しご井伏いぶせとの会話かいわなかで「あたしだつたら、太宰だざいさんをなせなかつたでせうよ」とかたっている。石井いしい桃子ももこ#太宰だざいおさむとの出会であ参照さんしょうのこと。
  • 石川いしかわあつし - 戦後せんご太宰だざいおさむ坂口さかぐち安吾あんご織田おだ作之助さくのすけとともに、いわゆる無頼ぶらい旗手きしゅとされた文学ぶんがくしゃ太宰だざいとは昭和しょうわ14ねんごろ以来いらい、4ほど酒席しゅせきをともにした。太宰だざいさいし「太宰だざいおさむ昇天しょうてん」とだいした文章ぶんしょう発表はっぴょう(『新潮しんちょうだい45かんだい7ごう、1948ねん7がつ)。
  • 井伏いぶせ鱒二ますじ - 太宰だざい太宰だざい自身じしんげんによれば、太宰だざいがまだ青森あおもり中学生ちゅうがくせいであったころ井伏いぶせの『幽閉ゆうへい』(『山椒魚さんしょううお』の原形げんけい)をんでその才能さいのう興奮こうふんした。大学だいがく上京じょうきょうから師事しじし、結婚けっこん仲人なこうど井伏いぶせつとめてもらった。戦後せんごになって、太宰だざい井伏いぶせ複雑ふくざつ感情かんじょういていたようであり、遺書いしょに「井伏いぶせさんは悪人あくにんです」とのこしていたことは話題わだいになった。両者りょうしゃ確執かくしつには様々さまざませつがあるが、くわしくはわかっていない。
  • 伊馬いま春部はるべ - 別名べつめい伊馬いま鵜平うへい太宰だざい親友しんゆうで、ユーモア作家さっかとして「畜犬だん」をささげられた。折口おりぐち信夫しのぶ太宰だざい作品さくひんすすめたのも伊馬いまである。入水じゅすいまえ伊藤いとう左千夫さちおの「池水いけみずにごりににごり藤波ふじなみかげもうつらずあめりしきる」という短歌たんかろくした色紙いろがみ伊馬いまてにのこした。太宰だざいぎらいで有名ゆうめい三島みしま由紀夫ゆきおは、目黒めぐろにあった伊馬いま隣家りんかんでおり、強盗ごうとうられてしたとき伊馬いま保護ほごもとめたことがある。『桜桃おうとう執筆しっぴつ
  • 大西おおにし巨人きょじん - 小説しょうせつ。『文化ぶんか展望てんぼう編集へんしゅうしゃとして原稿げんこう依頼いらいし、「じゅう年間ねんかん」を創刊そうかんごう掲載けいさい。1948ねんに「太宰だざいおさむ」とだいする追悼ついとうぶん発表はっぴょうしている。
  • 亀井かめい勝一郎かついちろう - 文芸ぶんげい評論ひょうろん昭和しょうわ10年代ねんだいからぼつまで交流こうりゅうがあり作品さくひんしゅう解説かいせつなどをおこなった。作家さっかろんに『無頼ぶらいいのり 太宰だざいおさむ審美しんびしゃ新版しんぱん河出かわで文庫ぶんこで『太宰だざいおさむ あい苦悩くのう手紙てがみ』がある。
  • 賀陽かよう治憲はるのり - 賀陽かようみやつねけんおうだい2王子おうじすめらぎせき離脱りだつのち外交がいこうかん。1947ねん10がつ14にちづけの『時事新報じじしんぽう』で「太宰だざいおさむの“斜陽しゃよう”はちょっとにつまされておもしろいですね」と発言はつげん太宰だざいは「如是にょぜ我聞がもん」で「ある新聞しんぶん座談ざだんかいで、みやさまが、「斜陽しゃよう愛読あいどくしている、につまされるから」とおっしゃっていた」と言及げんきゅうしている。
  • 川端かわばた康成やすなり - 太宰だざい芥川賞あくたがわしょう候補こうほになって落選らくせんしたときの選考せんこう委員いいん一人ひとり川端かわばたが「作者さくしゃ目下もっか生活せいかついやくもありて、才能さいのう素直すなおはっせざるうらみあった」と批評ひひょうしたため、太宰だざいは「川端かわばた康成やすなり」とだいする短文たんぶんいて抗議こうぎ川端かわばたは「太宰だざいおさむ芥川賞あくたがわしょうについて」という短文たんぶん発表はっぴょうし、「もない妄想もうそう邪推じゃすいはせぬがよい(…)「生活せいかついやくも云々うんぬん」も不遜ふそん暴言ぼうげんであるならば、わたしいさぎよ取消とりけし」すと、冷静れいせい釈明しゃくめいした。のちに『社会しゃかい』1948ねん4がつごう志賀しが直哉なおや廣津ひろつ和郎かずおとの「文藝ぶんげい鼎談ていだん」での川端かわばた発言はつげんたいして『新潮しんちょう』1948ねん6がつごう掲載けいさいの「如是にょぜ我聞がもんさん)」で太宰だざいは、「なお、その老人ろうじん茶坊主ちゃぼうずごと阿諛あゆ追従ついしょうして、まったく左様さようでゴゼエマス、大衆たいしゅう小説しょうせつみたいですね、とっているいやしくやせやせた俗物ぞくぶつ作家さっか、これは論外ろんがい」と罵倒ばとうした。太宰だざい死後しご代表だいひょうさく斜陽しゃよう』が翻訳ほんやく出版しゅっぱんされたさい、「太宰だざいくんがKeeneさんのやうな譯者やくしゃめぐまれたことはまことにこうひです」などの文面ぶんめん書簡しょかんおくっている。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく出版しゅっぱんしゃニューディレクションズの担当たんとうしゃてだったが、ドナルド・キーン翻訳ほんやくかんする記述きじゅつもあったためキーンのもとにとどけられたという[114]
  • 小山こやまきよし - 太宰だざい門下生もんかせい小説しょうせつ作品さくひんしゅう作家さっかろん編纂へんさんがけた。新版しんぱんは『太宰だざいおさむ手紙てがみ河出かわで文庫ぶんこ
  • いま官一かんいち - 太宰だざい同郷どうきょう友人ゆうじん津軽つがる出身しゅっしん文士ぶんしなかでは唯一ゆいいつ理解りかいしゃとして、太宰だざいから信頼しんらいされていた[注釈ちゅうしゃく 9]短篇たんぺん善蔵ぜんぞうおも』には「甲野こうの嘉一きいちくん」として登場とうじょうする。
  • 佐藤さとう春夫はるお - 太宰だざい太宰だざい作品さくひん芥川賞あくたがわしょう候補こうほになったとき、薬物やくぶつ中毒ちゅうどく時代じだい太宰だざいから、しょうを「何卒なにとぞわたしあたえてください」と懇願こんがんする手紙てがみなんつうおくられた。結局けっきょく太宰だざい落選らくせんすると、太宰だざい短篇たんぺん創世そうせい』をいて佐藤さとう批判ひはん。これにたいして佐藤さとう小説しょうせつ芥川賞あくたがわしょう』をき、太宰だざい非常識ひじょうしき行動こうどう暴露ばくろして報復ほうふくした。太宰だざい死後しご佐藤さとうは「稀有けう文才ぶんさい」で「その才能さいのう最初さいしょからだいみとめてゐたつもりである。芥川賞あくたがわしょうなどはもらいはないでも立派りっぱ一家いっか才能さいのうしんじ、それをかれ自覚じかくさせたかつた(中略ちゅうりゃく)それ以来いらい自分じぶんのところへちかづかなくなつたかれたいしては多少たしょう遺憾いかんおもひながらとおくからその動静どうせい見守みまもつてゐた」とべ、『津軽つがる』について「あの作品さくひんにはかれ欠点けってんまった目立めだたなくてその長所ちょうしょばかりがげんはれてゐるやうにおもはれる。(中略ちゅうりゃく)この一作いつさくさへあればかれ不朽ふきゅう作家さっか一人ひとりだとうんへるであらう」と絶賛ぜっさんしている。そと浜町はまちょうかん瀾山にある太宰だざいおさむ文学ぶんがく碑銘ひめい揮毫きごう
  • 志賀しが直哉なおや - 小説しょうせつ津軽つがる』で太宰だざいから名前なまえせて批判ひはんされている。その志賀しが中村なかむら眞一郎しんいちろう佐々木ささき基一きいちとの雑誌ざっし座談ざだんかいで、『斜陽しゃよう』の主人公しゅじんこうである華族かぞくむすめ山出やまだしの女中じょちゅうのようにおかしな言葉ことばづかいをすることや、「犯人はんにん」のオチがいていることなどを指摘してきし、とぼけたようなポーズがになる、もうすこ真面目まじめにやったらよかろう云々うんぬん批判ひはん逆上ぎゃくじょうした太宰だざいは、さい晩年ばんねん連載れんさい評論ひょうろん如是にょぜ我聞がもん』で志賀しが反撃はんげきした。太宰だざい死後しご1948ねん8がつ15にち志賀しがは「太宰だざいおさむ」とだいする一文いちぶんそうし、「わたし太宰だざいくんわたし反感はんかんつてゐることつてゐたから、自然しぜん多少たしょう悪意あくいつた言葉ことばになつた」ことをみとめ、「太宰だざいくん心身しんしんどもに、それほどおとろえへてゐるひとだといふことつてゐれば、もうすこうんひようがあつたと、いま残念ざんねんおもえつてゐる」と、自分じぶん対応たいおう大人おとなげなかったことをびている。また『人間にんげん失格しっかく』もんだが「これはすこしもいやだとはおもわなかった」という。太宰だざいにも「大正たいしょうでは、直哉なおやだの善蔵ぜんぞうだの龍之介りゅうのすけだの菊池きくちひろしだの、短編たんぺん小説しょうせつ技法ぎほうつてゐるひとすくなくなかつたが、昭和しょうわのはじめでは、井伏いぶせさんが抜群ばつぐんのやうにおもはれたくらゐのもので、最近さいきんいたつてまるでもう駄目だめになつた」(「じゅう年間ねんかん」)という評価ひょうかられ、全面ぜんめんてき否定ひていしていたわけではない。
  • 杉森すぎもりひさえい - 小説しょうせつ若年じゃくねん編集へんしゅうしゃ太宰だざい交際こうさい杉森すぎもり太宰だざいの3さいだったが、はるか年下としした勘違かんちがいした太宰だざい画集がしゅうしてミケランジェロ偉大いだいさをおしえようとしたため、太宰だざいおしえられなくてもっていると反感はんかんったという。戦後せんごには、たまたま「如是にょぜ我聞がもん事件じけん発端ほったんとなった座談ざだんかいをセッティングしたため、太宰だざい志賀しが反目はんもくをハラハラしながら見守みまもっていた。『苦悩くのう旗手きしゅ 太宰だざいおさむ』をあらわした。
  • 田中たなか英光ひでみつ - 小説しょうせつ太宰だざい弟子でしオリンピック選手せんしゅ青春せいしゅん文学ぶんがく「オリンポスの果実かじつ」で文壇ぶんだん登場とうじょう無頼ぶらい転向てんこう薬物やくぶつ中毒ちゅうどくてに傷害しょうがい事件じけんこし、太宰だざい翌年よくねん太宰だざい墓前ぼぜん割腹かっぷく自殺じさつした[116]
  • だん一雄かずお - 小説しょうせつ太宰だざい親友しんゆう。「はしれメロス」はまゆみとの熱海あたみでのエピソードがモデルになっているというせつもある。
  • つつみ重久しげひさ - 太宰だざいもっと信頼しんらいしていた弟子でし。のち京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく教授きょうじゅ。『太宰だざいおさむとのなな年間ねんかん』の著書ちょしょあり。
  • 豊島としま与志雄よしお - 太宰だざい先輩せんぱい作家さっかで、フランス文学ぶんがくしゃ太宰だざい葬儀そうぎ委員いいんちょうつとめた。
  • 中井なかい英夫ひでお - 東大とうだい在学ざいがくちゅうだい14しん思潮しちょう』の編集へんしゅうしゃとして、当時とうじ中井なかいもっと心酔しんすい反発はんぱつもしていた太宰だざい交際こうさい(『ぞく黒鳥くろとりかん戦後せんご日記にっき』にくわしい)。『禿鷹はげたか―あとがきにえて―』などによれば、1948ねん5がつ16にち太宰だざいたく訪問ほうもんしたとき、太宰だざい八雲やくも書店しょてんからとどいたみずからの全集ぜんしゅうまわしてうれしそうにしているのをて、作家さっか全集ぜんしゅう生前せいぜん刊行かんこうするのを滑稽こっけいかんがえていた中井なかいは「先生せんせいはよくもうすぐぬ、とおおせいますが、いつ本当ほんとうぬんですか」とめたことがある。太宰だざいは「人間にんげん、そう簡単かんたんねるもんじゃない」とこたえたが、そのやくいちげつ自殺じさつした。のちにめたことを後悔こうかいしたという。中井なかいが『しん思潮しちょう』にいてもらったのは『あさ』で、原稿げんこうりょういちまいじゅうえん支払しはらったという。のちに生活せいかつくるしかったおり、この直筆じきひつ原稿げんこう古書こしょてんいちまんえんり、翌日よくじつには店頭てんとうまんえんされていたと回想かいそうしている。
  • 中野なかの嘉一きいち - 太宰だざいがパビナール中毒ちゅうどく東京とうきょう武蔵野むさしの病院びょういん入院にゅういんしていたときの主治医しゅじい詩人しじん太宰だざいサイコパス診断しんだんした。『善蔵ぜんぞうおもう』の甲野こうの嘉一きいち名前なまえをもじったもの。
  • 中野なかの好夫よしお - えい文学ぶんがくしゃ評論ひょうろん短篇たんぺんちち』を「まことに面白おもしろめたが、よくあさになったらなにのこらぬ」と酷評こくひょうし、太宰だざいから連載れんさい評論ひょうろん如是にょぜ我聞がもん』のなかで「貪婪どんらん淫乱いんらんこうもの、これもまただい馬鹿ばか先生せんせい一人ひとり」と反撃はんげきされた。太宰だざいぼつ東京大学とうきょうだいがく英文えいぶん教授きょうじゅで、『文藝ぶんげい』1948ねん8がつごう文芸ぶんげい時評じひょう志賀しが直哉なおや太宰だざいおさむ』のなかで、「場所ばしょもあろうに、夫人ふじんいえはなさきからおんなってうかあがるなどもはや醜態しゅうたいきょくである」「太宰だざいかたごときはおよそよき社会しゃかいから破壊はかいするそこはん社会しゃかいエゴイズムにほかならない」と太宰だざい人生じんせい指弾しだんした。
  • 中原なかはら中也ちゅうや - 『あおはな』の同人どうじん仲間なかま酒席しゅせきでの凄絶せいぜつな搦みで有名ゆうめい中原なかはらは「おまえなんはなきなんだい」とたずね、太宰だざいしそうなこえで「モ、モ、ノ、ハ、ナ」とこたえると、「チエッ、だからおめえは」とこきろした。太宰だざいがわでは中原なかはら尊敬そんけいしつつも、人間にんげんせいきらっており、親友しんゆう山岸やまぎし外史がいしたいして「ナメクジみたいにてらてらしたやつで、とてもつきあえた代物しろものじゃない」とこきろした。のちに中原なかはら没後ぼつごだん一雄かずおたいして「んでると、やっぱり中原ちゅうげんだ、ねえ。段違だんちがいだ。立原たちはらんで天才てんさいということになっているが、きみどうおもう?みなつまらねえ」とったという。
  • 野口のぐち冨士男ふじお - 『文芸ぶんげい時代じだい』の同人どうじん日本にっぽん文藝ぶんげい協会きょうかい書記しょききょく嘱託しょくたくとして葬儀そうぎ弔辞ちょうじむ。
  • 野原のはら一夫かずお - 新潮社しんちょうしゃ担当たんとう編集へんしゅうしゃ。『回想かいそう太宰だざいおさむ』などをく。
  • 野平のだい健一けんいち - 新潮社しんちょうしゃ担当たんとう編集へんしゅうしゃ。『週刊しゅうかん新潮しんちょう代目だいめ編集へんしゅうちょう。『矢来やらいまちはん世紀せいき 太宰だざいさん三島みしまさんのこと、その』などをく。
  • 別所べっしょ直樹なおき - 太宰だざい弟子でし
  • 三島みしま由紀夫ゆきお - 12さいころ、『虚構きょこう彷徨ほうこう ダス・ゲマイネ』を、おないたみを感得かんとくして[117][注釈ちゅうしゃく 10]。その、『斜陽しゃよう』は雑誌ざっし連載れんさいからみ、川端かわばた康成やすなりあて書簡しょかんには「『斜陽しゃようだいさんかい感銘かんめいふかみました。滅亡めつぼうの抒事ちかく、見事みごと芸術げいじゅつてき完成かんせい予見よけんされます。しかしまだ予見よけんされるにとどまつてをります」[119]しるしている。しかしのちのエッセイでは、この作品さくひん登場とうじょうする貴族きぞく言葉ことばづかいが現実げんじつ貴族きぞくとかけはなれていることを指摘してきしている[注釈ちゅうしゃく 11]。1946ねん12月14にち矢代やしろ静一せいいちさそわれて太宰だざい亀井かめい勝一郎かついちろうかこ会合かいごう出席しゅっせきした。矢代やしろによれば「太宰だざいってくれることになった」とげたとき、三島みしまかがやかして「ぼくれてってよ」と邪気じゃきなくせがんだという[121]三島みしまはこの会合かいごうで、「ぼく太宰だざいさんの文学ぶんがくはきらいなんです」と「ニヤニヤしながら」発言はつげんし、これにたいして太宰だざいきょをつかれたような表情ひょうじょうをしてだれうともなく「そんなことをったって、こうしててるんだから、やっぱりきなんだよな。なあ、やっぱりきなんだ」とこたえたと三島みしま述懐じゅっかいしている[122]。しかし、その居合いあわせた野原のはら一夫かずおによれば、三島みしまは「まっすぐ太宰だざいさんのかおて、にこりともせずに」発言はつげんし、太宰だざい三島みしま発言はつげんたいして「きらいなら、なけりゃいいじゃねえか。」とてるようにってかおをそむけたという[123]三島みしまはその、しばしば太宰だざいへの嫌悪けんお表明ひょうめいつづけた[注釈ちゅうしゃく 12]。『小説しょうせつ休暇きゅうか』では、「だいいちわたしはこのひとかおがきらひだ。だいにこのひと田舎いなかしゃハイカラ趣味しゅみがきらひだ。だいさんにこのひとが、自分じぶんてきしないやくえんじたのがきらひだ」「太宰だざいのもつてゐた性格せいかくてき欠陥けっかんは、すくなくともその半分はんぶんが、冷水れいすい摩擦まさつ器械体操きかいたいそう規則きそくてき生活せいかつなおされるはずだつた」「なおりたがらない病人びょうにんなどには本当ほんとう病人びょうにん資格しかくがない」としる[124]、その座談ざだんかい書簡しょかんとうにもそのたね記述きじゅつられる[注釈ちゅうしゃく 13]晩年ばんねんには、1968ねんおこなわれた一橋大学ひとつばしだいがくでのティーチ・インにて「わたし太宰だざいとますます対照たいしょうてき方向ほうこうかっているようなわけですけど、おそらくどこか自分じぶん根底こんてい太宰だざいれるところがあるからだろうとおもう。だからこそ反撥はんぱつするし、だからこそぎゃくほうくのでしょうね」[125]べた。また自決じけつの2かげつほどまえには、村松むらまつつよし編集へんしゅうしゃたいして「このごろはひとが家具かぐいにくというはなしをきいても、吐気はきけがする」と告白こくはくし、村松むらまつが「家庭かてい幸福こうふく文学ぶんがくてき。それじゃあ、太宰だざいおさむおなじじゃないか」とうと、三島みしまは「そうだよ、おれは太宰だざいおさむおなじだ。おなじなんだよ」とったとされる[126][127]
  • もり鷗外 - 太宰だざいは「たち(よ)らば大樹たいじゅかげ、たとえば鴎外おうがいもり林太郎りんたろう」というぶんいた。また本人ほんにん墓石はかいしは、希望きぼうしたとおり三鷹みたか禅林寺ぜんりんじにあるもり鴎外おうがい墓石はかいしうところ(正確せいかくにはななかい)にてられている。ちなみに、きざまれた「太宰だざいおさむ」の文字もじ井伏いぶせ鱒二ますじふでによる。
  • 山岸やまぎし外史がいし - 評論ひょうろん太宰だざい親友しんゆう。1934ねん昭和しょうわ9ねん)に太宰だざいい、『あおはな』や日本にっぽんなみ曼派同人どうじんとして交友こうゆうふかめた。自身じしんも『人間にんげんキリスト』などの著作ちょさくにより太宰だざい文学ぶんがく影響えいきょうあたえたが、戦後せんご絶交ぜっこうじょうおくるなどして次第しだい疎遠そえんとなった。しかし太宰だざい入水じゅすいさいして遺体いたい捜索そうさくにはくわわり、美知子みちこ夫人ふじんから「ヤマギシさんが東京とうきょうにいたら、太宰だざいななかったものを」とかれたことなど、その複雑ふくざつ交友こうゆう実態じったい回想かいそうろく人間にんげん太宰だざいおさむ』(1962ねん昭和しょうわ37ねん〉)、『太宰だざいおさむおぼえがき』(1963ねん昭和しょうわ38ねん〉)のなかあきらかにしている。
  • 吉本よしもと隆明たかあき - 評論ひょうろん学生がくせい時代じだいに『はる枯葉かれは』の上演じょうえん許可きょかるため太宰だざいもとおとずれる。

えんじた俳優はいゆう声優せいゆう

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太宰だざいおさむ、またはそれに相当そうとうする人物じんぶつえんじた俳優はいゆう声優せいゆう一覧いちらん

記念きねん施設しせつ

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  • 太宰だざいおさむ記念きねんかん斜陽しゃようかん
    青森あおもりけん五所川原ごしょがわらにある記念きねんかん
  • 太宰だざいおさむまなびのいえ
    旧制きゅうせい弘前ひろさき高校こうこう時代じだい下宿げしゅくした民家みんか
  • 太宰だざいおさむ文学ぶんがくサロン
    当初とうしょは「太宰だざいおさむ文学ぶんがくかん」として東京とうきょうかしら恩賜おんし公園こうえんうち建設けんせつ計画けいかくされていた。三鷹みたかかしら恩賜おんし公園こうえん開園かいえん100周年しゅうねん太宰だざいぼつ70ねん記念きねん事業じぎょうとして2017ねん4がつ頭公園かしらこうえんない太宰だざいおさむ文学ぶんがくかん建設けんせつする計画けいかく公表こうひょうしたが[128][129]パブリックコメント市民しみんから頭公園かしらこうえんへの建設けんせつおおくの反対はんたい意見いけんせられたことやふるさと納税のうぜいによる税収ぜいしゅう減少げんしょうなどを理由りゆうに、2018ねん3がつまつ頭公園かしらこうえん以外いがいへの設置せっち場所ばしょ変更へんこうと、さい検討けんとうふくめた計画けいかくスケジュールの見直みなおしを発表はっぴょうした[130]。その下連雀しもれんじゃく3丁目ちょうめにあった太宰だざいゆかりの酒販しゅはんてん跡地あとちに、2020ねん3がつに「太宰だざいおさむ文学ぶんがくサロン」の名称めいしょうでオープンした[131]
  • ゆふいん文学ぶんがくもり碧雲へきうんそう
    東京とうきょう杉並すぎなみ天沼あまぬまから大分おおいたけん由布ゆう湯布院ゆふいんまち移築いちくされ、文学ぶんがく交流こうりゅう施設しせつとして2017ねん4がつ公開こうかいされた[132]

関連かんれん書籍しょせき

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太宰だざい伝記でんき

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その

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以下いか図版ずはん入門にゅうもんしょ
以下いか電子でんし出版しゅっぱんほか

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ その小菅こすがぎんきち」「大藤おおふじくまふとし」などを使用しよう[14][15]
  2. ^ 太宰だざい逗留とうりゅうした老舗しにせ旅館りょかん「ヤマニ仙遊せんゆうかん」は休業きゅうぎょうて2018ねん8がつ土蔵どぞうをレストランとして再開さいかいした。太宰だざい使つかったとされる文机ふづくえなどがのこっている[20]。2019ねん4がつ27にちには旅館りょかんぎょう再開さいかいした[21]
  3. ^ なお、この処分しょぶんについては、担当たんとう宇野うの検事けんじがたまたま太宰だざいちち実家じっかである松木まつき親類しんるいであることや、担当たんとう刑事けいじがたまたま金木かなぎ出身しゅっしんであることが太宰だざいにとって有利ゆうり作用さようしたとするせつもある[28]
  4. ^ 東京大学とうきょうだいがく卒業そつぎょうさいして口頭こうとう試問しもんけたとき教官きょうかん一人ひとりから「教員きょういん名前なまええたら卒業そつぎょうさせてやる」とわれたが、講義こうぎ出席しゅっせきしていなかった太宰だざい教員きょういん名前なまえ一人ひとりえなかったとつたえられる。
  5. ^ 坂口さかぐち安吾あんごは「不良ふりょう少年しょうねんとキリスト」のなかで「「またイタズラしましたね。なにかしらイタズラするです。んだじゅうさんにち、グッドバイがじゅうさんかい、なんとか、なんとかゞ、十三じゅうざ……」だん仙人せんにんじゅうさんをズラリとならべた。てんでがついていなかったから、わたし呆気あっけにとられた。仙人せんにん眼力がんりきである。」とべている[62]
  6. ^ 太宰だざいおさむ作品さくひんたいしての著作ちょさくけん保護ほご期間きかんは、だい1-だい4暫定ざんてい延長えんちょう措置そちおよ1971ねん改正かいせい著作ちょさくけんほう適用てきようされる。
  7. ^ 随筆ずいひつ服装ふくそういて』[75]によれば5しゃく6すん5ぶんやく171.7 cm)。
  8. ^ けい主宰しゅさい同人どうじん雑誌ざっしあおんぼ』を1926ねん大正たいしょう15ねん)9がつ創刊そうかん修治しゅうじは「つじとうしゅ」のペンネームで執筆しっぴつ表紙ひょうしは「ゆめがわ利一としかず」ことけいえがいた。けい上京じょうきょうし2ごうまでの刊行かんこうとなった。[107]
  9. ^ いまさそいで同人どうじん海豹かいひょう』にくわわり、創刊そうかんごうに「さかなふく」を発表はっぴょう[115]
  10. ^ しかし『わたし遍歴へんれき時代じだい』(p.26) [118]では、それらをんだことを「太宰だざいのものをみはじめるには、わたしにとつて最悪さいあく選択せんたくであつたかもしれない。」と三島みしまべている。
  11. ^ 貴族きぞくむすめ台所だいどころのことを「お勝手かって」とったり、「おかあさまの食事しょくじのいただきかた」(まさしくは「召のぼかた」)、「かずや、おかあさまがいまなにをなさっているか、あててごらん」(自分じぶん敬語けいごけている)というような敬語けいご使つかかた間違まちがいを指摘してきしている。[120]
  12. ^ 戸板といた康二こうじきどころ人物じんぶつ』、瀬戸内せとうち寂聴じゃくちょう奇縁きえんまんだら』、出口いでぐちひろしひろし三島みしま由紀夫ゆきお昭和しょうわ迷宮めいきゅう』などにそのたね発言はつげんしるされている。[ようページ番号ばんごう]
  13. ^ 不道徳ふどうとく教育きょういく講座こうざ』や「奥野おくの健男たけおちょ太宰だざいおさむろんひょう」など。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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太宰だざいる - 文豪ぶんごう太宰だざいおさむのルーツをたどる / 太宰だざいWeb文庫ぶんこ / 太宰だざいブックマーク ほか
※「太宰だざいおさむ語録ごろく づけ/太宰だざいおさむ文学ぶんがくてきイデオロギーの底流ていりゅう」(熊谷くまがい たかし) / 太宰だざい文学ぶんがくりゃく年譜ねんぷ