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菊池きくちひろし

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菊池きくち ひろし
(きくち かん)
誕生たんじょう 菊池きくち ひろし(きくち ひろし)
1888ねん12月26にち
日本の旗 日本にっぽん香川かがわけん香川かがわぐん高松たかまつ七番丁しちばんちょうろくばんいちげん高松たかまつ天神前てんじんまえ4番地ばんち
死没しぼつ (1948-03-06) 1948ねん3月6にち(59さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう豊島としま雑司ぞうし
墓地ぼち 多磨たま霊園れいえん
職業しょくぎょう 小説しょうせつげき作家さっか実業じつぎょう
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 文学ぶんがく
最終さいしゅう学歴がくれき 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく英文えいぶん
活動かつどう期間きかん 1913ねん - 1948ねん
ジャンル 小説しょうせつ戯曲ぎきょく随筆ずいひつ評論ひょうろん
文学ぶんがく活動かつどう しん現実げんじつ主義しゅぎしん思潮しちょうしん技巧ぎこう
代表だいひょうさく屋上おくじょう狂人きょうじん』(1916ねん
ちちかえ』(1917ねん
無名むめい作家さっか日記にっき』(1918ねん
忠直ただなおきょう行状ぎょうじょう』(1918ねん
恩讐おんしゅう彼方かなた』(1919ねん
ふじ十郎じゅうろうこい』(1919ねん
真珠しんじゅ夫人ふじん』(1920ねん
はん自叙伝じじょでん』(1928ねん - 1929ねん
デビューさく鉄拳てっけん制裁せいさい』(1914ねん
配偶はいぐうしゃ 包子かねこ
子供こども 瑠美子るみこ長女ちょうじょ)、英樹ひでき長男ちょうなん)、ナナ子ななこ次女じじょ
親族しんぞく たけおさむちち)、カツ(はは
ウィキポータル 文学ぶんがく
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菊池きくち ひろし(きくち かん、きゅう字体じたい菊池きくち ひろし1888ねん明治めいじ21ねん12月26にち - 1948ねん昭和しょうわ23ねん3月6にち)は、日本にっぽん小説しょうせつげき作家さっかジャーナリスト本名ほんみょう菊池きくち ひろし(きくち ひろし)。実業じつぎょうとしても文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃおこし、芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょう菊池きくちひろししょう創設そうせつたずさわった。帝国ていこく芸術げいじゅついん会員かいいん

生家せいか高松たかまつはん儒学じゅがくしゃ家柄いえがら幼少ようしょうより旺盛おうせい読書どくしょであった。京大きょうだい英文えいぶんそつ芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけなどの『しん思潮しちょう』に参加さんか

著作ちょさくに『屋上おくじょう狂人きょうじん』(1916ねん)、『ちちかえ』(1917ねん)などの戯曲ぎきょくのほか、『忠直ただなおきょう行状ぎょうじょう』(1918ねん)、『藤十郎とうじゅうろうこい』(1919ねん)(のち脚色きゃくしょく)などの小説しょうせつがある。人生じんせいかん思想しそう基盤きばんとした明快めいかい主題しゅだいした、いわゆるテーマ小説しょうせつ特徴とくちょうである。『真珠しんじゅ夫人ふじん』(1920ねん)のヒット通俗つうぞく小説しょうせつ健筆けんぴつふるった。

経歴けいれき

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15さい菊池きくち

香川かがわけん香川かがわぐん高松たかまつ七番丁しちばんちょうろくばんいちげん高松たかまつ天神前てんじんまえ4番地ばんち)で7にん兄弟きょうだいよんおとことしてまれる。菊池きくち江戸えど時代じだい高松たかまつはん儒学じゅがくもの家柄いえがらで、日本にっぽんかん詩壇しだんをはせた菊池きくち五山ごさんは、ひろし縁戚えんせきたる。しかし、ひろしまれたころいえ没落ぼつらくし、父親ちちおや小学校しょうがっこう庶務しょむがかりをしていた[1]高松たかまつ四番丁よんばんちょう尋常じんじょう小学校しょうがっこう高松たかまつ高松たかまつ高等こうとう小学校しょうがっこう進学しんがく。しかしいえまずしかったため、高等こうとう小学しょうがく3年生ねんせいとき教科書きょうかしょってもらえず、友人ゆうじんから教科書きょうかしょりてうつしたりもした。このころ、「文芸ぶんげい俱楽」を愛読あいどくし、幸田こうだ露伴ろはん尾崎おざき紅葉こうよういずみ鏡花きょうか作品さくひんしたしむ[2]

学生がくせい時代じだい

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1903ねん明治めいじ36ねん高松たかまつ中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくひろし記憶きおくりょくく、とく英語えいご得意とくいで、外国がいこくじん教師きょうし対等たいとう英会話えいかいわができるほどだった。図画ずが習字しゅうじ苦手にがてだったが一念いちねん発起ほっきして勉強べんきょうみ4ねんとき全校ぜんこう首席しゅせきになった。中学ちゅうがく3ねんとき高松たかまつはじめて図書館としょかんができるとここにかよってほんふけり、2まんさつ蔵書ぞうしょのうち、歴史れきし文学ぶんがく関係かんけいなど興味きょうみのあるものはすべてりたという[3]

中学ちゅうがく卒業そつぎょうしたのち成績せいせき優秀ゆうしゅうにより学費がくひ免除めんじょ東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこうすすんだものの本人ほんにん教師きょうしになるがなく、授業じゅぎょうけずテニスや芝居しばい見物けんぶつをしていたのが原因げんいん除籍じょせき処分しょぶんけた[4]地元じもと素封そほう高橋たかはしきよしろくから将来しょうらい見込みこまれて養子ようし縁組えんぐみをして経済けいざい支援しえんけ、明治大学めいじだいがく法科ほうか入学にゅうがくするも3かげつ退学たいがく徴兵ちょうへいのが目的もくてきとして早稲田大学わせだだいがくせきのみく。文学ぶんがくみちこころざ第一高等学校だいちこうとうがっこう受験じゅけん準備じゅんびをする。これが養父ようふ発覚はっかくし、縁組えんぐみ解消かいしょう進学しんがくあやぶまれたが、実家じっか父親ちちおや借金しゃっきんしてでも学費がくひ送金そうきんするとってきたことでみちける[5]

1910ねん明治めいじ43ねん)、第一高等学校だいちこうとうがっこうだい一部いちぶおつるいに22さい入学にゅうがく同期どうき入学にゅうがくにはのち親友しんゆうとなりかれ創設そうせつする文学ぶんがくしょうかんする芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ久米くめ正雄まさお井川いかわきょう法学ほうがくしゃ恒藤つねとうきょう)がいた。しかし卒業そつぎょう直前ちょくぜんに、盗品とうひんらずマントを質入しちいれする「マント事件じけん」が原因げんいんとなり退学たいがく[6][7]。その友人ゆうじん成瀬なるせ正一しょういち実家じっかから援助えんじょけて京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ英文えいぶん学科がっか入学にゅうがくしたものの、旧制きゅうせい高校こうこう卒業そつぎょう資格しかくがなかったため、当初とうしょ本科ほんかまなぶことができず選科せんかまなぶことを余儀よぎなくされた。本来ほんらいいちだか友人ゆうじんらとおなじく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくすすみたかったが、上田うえだ萬年かずとし拒絶きょぜつのためかなうことはなかった。京大きょうだい選科せんかときに『まんあさほう』の懸賞けんしょう応募おうぼした短編たんぺん小説しょうせつ禁断きんだん」が当選とうせん翌年よくねん旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう資格しかく検定けんてい試験しけん合格ごうかく本科ほんかうつる。

この京大きょうだい時代じだいでは文科ぶんか大学だいがく文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅとなっていた上田うえださとし師事しじした。当時とうじ失意しつい日々ひびについては(フィクションをまじえているが)「無名むめい作家さっか日記にっき」にくわしい。1人ひとり京都きょうと孤独こどく焦燥しょうそう日々ひびなかジョン・ミリントン・シングなどのアイルランド戯曲ぎきょく読破どくはする。東京とうきょうにいる芥川あくたがわ久米くめらの好意こういによりだいさんしん思潮しちょう創刊そうかん同人どうじんとなり、菊池きくち比呂ひろくさもり太郎たろう筆名ひつめい戯曲ぎきょく発表はっぴょうする。卒業そつぎょう間近まぢかにひかえた1916ねん大正たいしょう5ねん)5がつだいよんしん思潮しちょう』では本名ほんみょう菊池きくちひろしで「屋上おくじょう狂人きょうじん」を発表はっぴょう

人気にんき作家さっかへのみち

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1919ねん長崎ながさきにて。ひだりから菊池きくち芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ武藤むとう長蔵ちょうぞう永見ながみ徳太郎とくたろう

1916ねん大正たいしょう5ねん)7がつ京大きょうだい卒業そつぎょう卒業そつぎょう論文ろんぶんは「英国えいこく愛蘭土あいるらんど近代きんだいげき」。上京じょうきょうして、芥川あくたがわ久米くめ夏目なつめ漱石そうせき木曜もくようかい出席しゅっせきする[8]成瀬なるせ縁故えんこ時事新報じじしんぽう社会しゃかい記者きしゃとなり、月給げっきゅう25えんのうち10えん毎月まいつき実家じっか送金そうきんする。まただいよんしん思潮しちょう』に「ちちかえ」を発表はっぴょうするも、とく反響はんきょうはなかった。

ひろし生活せいかつのため資産しさんむすめ結婚けっこんすることをかんがえ、郷里きょうり相談そうだん1917ねん大正たいしょう6ねん)、高松たかまつはんきゅう藩士はんし奥村おくむら出身しゅっしん奥村おくむら包子かねこ(かねこ)と結婚けっこん1918ねん大正たいしょう7ねん)、『中央公論ちゅうおうこうろん』に発表はっぴょうした「無名むめい作家さっか日記にっき」や「忠直ただなおきょう行状ぎょうじょう」がこう評価ひょうかされ文壇ぶんだんでの地歩ちほきずいた。1919ねん大正たいしょう8ねん)、『中央公論ちゅうおうこうろん』に「恩讐おんしゅう彼方かなた」を発表はっぴょう時事新報じじしんぽう退社たいしゃし、執筆しっぴつ活動かつどう専念せんねんする。翌年よくねん大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん東京とうきょう毎日新聞まいにちしんぶん連載れんさいした大衆たいしゅう小説しょうせつ真珠しんじゅ夫人ふじん」がだい評判ひょうばんとなり、一躍いちやく人気にんき作家さっかとなった[9]

文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう創刊そうかん

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1923ねん大正たいしょう12ねん)1がつ人気にんき作家さっかとなったひろしわか作家さっかのために雑誌ざっし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』を創刊そうかんする。発行はっこう編集へんしゅうけん印刷いんさつじん菊池きくちひろし発売はつばいもと春陽しゅんようどう定価ていかは10ぜにで、『中央公論ちゅうおうこうろん』が特価とっか1えん、『新潮しんちょう』が80ぜに時代じだい破格はかくやすさだった。巻頭かんとうかざったのは芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけのエッセイコラム「侏儒しゅじゅ言葉ことば[10]創刊そうかんごう3000はまたたくまにれ、次号じごうげをばし、「特別とくべつ創作そうさくごう」を銘打めいうった5ごうは1まん1せんげとなった[11]1926ねん大正たいしょう15ねん昭和しょうわ元年がんねん)から春陽しゅんようどうはなれて「文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ」として独立どくりつし『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』は総合そうごう雑誌ざっしとなる[12]初期しょき編集へんしゅう石井いしい桃子ももこ桔梗ききょう利一としかずらがいる。また大衆たいしゅう作家さっかとして、婦人ふじん雑誌ざっし新聞しんぶんおおくの小説しょうせつ発表はっぴょうしていたが、1927ねん昭和しょうわ2ねん)7がつ25にち芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ自殺じさつ葬儀そうぎでは友人ゆうじん代表だいひょうとして弔辞ちょうじげたが、なかばからなみだまらなかった[13][14]1935ねん昭和しょうわ10ねん)、新人しんじん作家さっか顕彰けんしょうする「芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょう」「直木なおき三十五さんじゅうごしょう」を創設そうせつしたさいには11にん選考せんこう委員いいん1人ひとりとなった[注釈ちゅうしゃく 1]1926ねん大正たいしょう15ねん日本にっぽん文藝ぶんげい協会きょうかい設立せつりつ

1925ねん大正たいしょう14ねん)、文化ぶんか学院がくいん文学ぶんがく部長ぶちょう就任しゅうにん1928ねん昭和しょうわ3ねん)、だい16かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょに、東京とうきょう1から社会しゃかい民衆みんしゅうとう公認こうにん立候補りっこうほしたが、落選らくせんした。しかし1937ねん昭和しょうわ12ねん)には、東京とうきょうかい議員ぎいん当選とうせんした。

言論げんろん自由じゆうなによりもおもんじた菊池きくちは、「左傾さけいにしろ、右傾うけいにしろ、独裁どくさい主義しゅぎ国家こっかは、我々われわれ人類じんるいのために、けっしてみよいくにではない」と主張しゅちょう[15]政治せいじとして、「はん資本しほんはん共産きょうさんはんファッショのさんはん主義しゅぎ」をかかげる穏健おんけん社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかい民衆みんしゅうとう活動かつどうした[16]

日本にっぽんすう年来ねんらい反動はんどうてき右傾うけい時代じだいになつたにいては、政党せいとう政治せいじ堕落だらくも、そのひとつの原因げんいんであるが、もうひとつは共産きょうさん主義しゅぎしゃ妄動もうどうである。彼等かれらは、日本にっぽんたいする正当せいとうなる認識にんしきき、自己じこ力量りきりょうをもらず、実現じつげん不可能ふかのう理想りそうをふりかざして、社会しゃかい不安ふあん醸成じょうせいしたゝめに、却つて反動はんどうてき勢力せいりょく擡頭たいとうに、口実こうじつあずかへてしまつたのである。彼等かれら妄動もうどうのために、合理ごうりてき労働ろうどう運動うんどうや、正当せいとうなプロレタリヤ解放かいほう運動うんどうまでが、オヂヤンになつてしまつた。じゅうねんまえまでは、あんなにさかんであつた改造かいぞうとか解放かいほうとかうん言葉ことばが、いまではどこにもこえなくなつた。日本にっぽん社会しゃかい改革かいかく運動うんどうは、合法ごうほうてき社会しゃかい民衆みんしゅうとうてき主張しゅちょうつて、穏健おんけん確実かくじつくだりはるべきであつたのである。 — 菊池きくちひろしはなしくずかご」(昭和しょうわ10ねん5がつ[17]

文士ぶんし部隊ぶたい

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1939ねん中国ちゅうごく大陸たいりく取材しゅざいちゅう菊池きくちみぎからにん)。翌年よくねん菊池きくち西にしじゅう小次郎こじろう評伝ひょうでん発表はっぴょうする。

1938ねん昭和しょうわ13ねん)、内閣ないかく情報じょうほう日本にっぽん文藝ぶんげい協会きょうかい会長かいちょうひろし作家さっか動員どういんして従軍じゅうぐん(ペン部隊ぶたい)するよう命令めいれいひろし希望きぼうしゃつのり、吉川よしかわ英治えいじ小島こじま政二郎まさじろう浜本はまもとひろし北村きたむら小松こまつ吉屋よしや信子のぶこ久米くめ正雄まさお佐藤さとう春夫はるお富沢とみざわ有為男ういお尾崎おざき士郎しろう滝井たきい孝作こうさく長谷川はせがわしん土師はじ清二せいじ甲賀こうが三郎さぶろう関口せきぐち次郎じろう丹羽にわ文雄ふみお岸田きしだ國士くにおみなとくにさん中谷なかたに孝雄たかお浅野あさのあきら中村なかむら武羅夫むらお佐藤さとう惣之助そうのすけ総勢そうぜい22にん大陸たいりくわたり、揚子江ようすこう作戦さくせん視察しさつ[18]翌年よくねん南京なんきんじょしゅう方面ほうめん視察しさつ帰国きこくしたひろしは「事変じへんちゅう国家こっかからたのまれたことはなんでもやる」と宣言せんげんし、「文芸ぶんげい銃後じゅうご運動うんどう」をはじめる。これは作家さっかたちが昼間ひるま全国ぜんこく各地かくち陸海りくかいぐん病院びょういん慰問いもんし、よる講演こうえんかいひらくというもので、好評こうひょうはくし、きた樺太からふとみなみ台湾たいわんまで各地かくちまわった[19]1942ねん昭和しょうわ17ねん)、日本にっぽん文学ぶんがくほう国会こっかい設立せつりつされると議長ぎちょうとなり、文芸ぶんげい協会きょうかい解散かいさん翌年よくねん映画えいが会社かいしゃ大映だいえい」の社長しゃちょう就任しゅうにん[20]国策こくさく映画えいがづくりにも奮迅ふんじんする[21]

公職こうしょく追放ついほう急死きゅうし

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終戦しゅうせん1947ねん昭和しょうわ22ねん)、GHQからひろし公職こうしょく追放ついほう指令しれいくだされる。日本にっぽんの「侵略しんりゃく戦争せんそう」に文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう指導しどうてき立場たちばをとったというのが理由りゆうだった。ひろしは「戦争せんそうになればくにのために全力ぜんりょくくすのが国民こくみんつとめだ。いったい、ぼくのどこがわるいのだ。」といきどおった[22]。そのとしれには横光よこみつ利一としかず死去しきょ翌年よくねん1948ねん昭和しょうわ23ねん)1がつ苦難くなんともにした、もと文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ専務せんむ鈴木すずき氏亨しこう急逝きゅうせい気力きりょくおとろえたひろしは、2がつ胃腸いちょう障害しょうがい寝込ねこむ。回復かいふくすると3がつ6にち近親きんしんしゃ主治医しゅじい雑司ぞうし自宅じたくあつめ、全快ぜんかいいわいをおこなったが、好物こうぶつ寿司すしなどをべたあと、2かいがったとたん狭心症きょうしんしょうこし、午後ごご915ふん急死きゅうし享年きょうねん59さい息子むすこぶ「英樹ひでき英樹ひでき」が最期さいご言葉ことばだった[23][24][25]。そのさい夫人ふじんにぎりしめていたという[26]

告別こくべつしき音羽おとわ護国寺ごこくじおこなわれた。葬儀そうぎ委員いいんちょう久米くめ正雄まさお参列さんれつしゃ7せんにんなかには当時とうじ首相しゅしょうだった芦田あしだひとしもいた。家族かぞく発見はっけんしたひろし遺書いしょ当日とうじつ公表こうひょうされた。

わたしは、させるざいぶんなくして、文名ぶんめいし、一生いっしょう大過たいかなくくらしました。多幸たこうだつたとおもひます。死去しきょさいし、知友ちゆうおよ多年たねん読者どくしゃ各位かくいにあつくおれいもうします。ただ国家こっか隆昌りゅうしょういのるのみ。 — きち月吉つきよし 菊池きくちひろし

栄典えいてん

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家族かぞく

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両親りょうしん兄弟きょうだい

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  • 父親ちちおやたけおさむ(たけなが)
  • 母親ははおや・カツ
  • 長姉ちょうし・アイ
  • 長兄ちょうけい武吉たけよし
  • あね・ナミ
  • 次兄じけい良平りょうへい
  • さんけいさんはち
  • いもうと久仁くに

妻子さいし

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  • つま包子かねこ(かねこ)
  • 長女ちょうじょ瑠美子るみこ
  • 長男ちょうなん英樹ひでき
  • 次女じじょナナ子ななこ

主要しゅよう作品さくひん

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高松たかまつ菊池きくちひろし記念きねんかんから『菊池きくちひろし全集ぜんしゅう』(ぜん24かん1993ねん-1995ねん)が、また、武蔵野むさしの書房しょぼうから『菊池きくちひろし全集ぜんしゅうまき』(ぜん5かん1999ねん-2003ねん)が刊行かんこうされており、ほぼすべての作品さくひん比較的ひかくてき容易ようい鑑賞かんしょうすることが可能かのうである。文春ぶんしゅん文庫ぶんこ岩波いわなみ文庫ぶんこしょ作品さくひん刊行かんこうされている。また、未知みちだにから『歴史れきし随想ずいそう』と『剣聖けんせい武蔵むさしでん』が刊行かんこうされている。

大衆たいしゅう小説しょうせつ戯曲ぎきょく

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伝記でんき

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少女しょうじょ小説しょうせつ

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※「少女しょうじょ倶楽部くらぶ連載れんさい長編ちょうへん小説しょうせつについてあつかう。

  • しん王冠おうかん(1938ねん1がつ-1939ねん12がつ
  • たまあらそう(1940ねん1がつ-12月)
  • かがやけるみち(1941ねん1がつ-1942ねん3がつ

たまあらそう」が、「ふたりの女王じょおう永見ながみ七郎しちろうさく江川えがわみさおというタイトルの再話さいわで、雑誌ざっし少女しょうじょ昭和しょうわ29ねん11がつごう付録ふろく書籍しょせき少女しょうじょ小説しょうせつ名作めいさく全集ぜんしゅう」に収録しゅうろくかがやけるみち」が、「ちちかえるまで」永見ながみ七郎しちろうさく糸賀いとが君子きみこというタイトルの再話さいわで、雑誌ざっし少女しょうじょ昭和しょうわ30ねん新年しんねんごう付録ふろく書籍しょせき少女しょうじょ小説しょうせつ名作めいさく全集ぜんしゅう」に収録しゅうろく

随筆ずいひつ評論ひょうろん

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  • はん自叙伝じじょでん

その

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人物じんぶつ

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作風さくふう

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  • 人生じんせい経験けいけん人生じんせいかん創作そうさくかすことを重視じゅうししていた。「小説しょうせつたらんとする青年せいねんあずかう」という文章ぶんしょうなかで、「じゅうさい未満みまんもの小説しょうせつくべからず」とべている。
  • わがおに』のモデルは芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ、『ともともあいだ』『かみごとよわし』は久米くめ正雄まさおがモデル。

について

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  • ひろし」はきゅうでは「ひろし」と最後さいごてんつが、ひろしはこのてんはぶいていた。菊池きくち墓碑銘ぼひめい揮毫きごうした川端かわばた康成やすなり新字しんじの「ひろし」をもちいた。
  • の「ひろし」は「ひろし」とめば本名ほんみょう、「カン」とめば筆名ひつめいだったが、本人ほんにんはどちらでばれてもとくにせずに返答へんとうしていた。ただし「菊池きくち」をあやまって「きく」とかれるとすこぶる機嫌きげんそこねたという。
  • 大映だいえい社長しゃちょう就任しゅうにん宴席えんせきで、稲垣いながきひろし菊池きくちから開口一番かいこういちばんきみはコウかね、ヒロシかね」とかれ、「ヒロシ」だとこたえたところ、「ぼくもホントはヒロシなんだけどネ、いつのにかカンになってしまった。面白おもしろいものだね。カンとばれているうちに自分じぶんでもカンのほうがいいとおもうようになったよ」とはなし、その屈託くったくないはなしぶりに稲垣いながきも「とてもはなしやすかった」と述懐じゅっかいしている[28]

「くちきかん」

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「きくちかん」をアナグラムにすると「くちきかん」(くちかん)となる。このアナグラムは菊池きくち生前せいぜんから、かれ交友こうゆう内外ないがい同時どうじ多発たはつてきはなされた記録きろくがある。

  • 菊池きくち麻雀まーじゃんけると、ムッとしてだまんでしまい、対戦たいせんしゃが「くちきかん」と陰口かげぐちったという。
  • 木津川きつかわはかるによれば、菊池きくちぼつ大阪おおさかではちまたで「ああ、ついにクチキカン」と不謹慎ふきんしん哀悼あいとうささげたという[29]
  • 矢崎やさき泰久やすひさ評伝ひょうでんに『くちきかん わがしん菊池きくちひろし』(2003ねん飛鳥新社あすかしんしゃ)がある。
  • タレントのタモリだい62かい菊池きくちひろししょう受賞じゅしょうしたさい授賞じゅしょうしき席上せきじょうで、出演しゅつえんするテレビ番組ばんぐみのゲストについて「年間ねんかん一番いちばん無口むくちだったひとに“くちきかんしょう”をあげようとしたこともあった」とかたった[30]

パトロンとして

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  • うま海松みる可愛かわいがり、『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』の創刊そうかんさい編集へんしゅうれ、交遊こうゆうつづけた。
  • 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ映画えいが雑誌ざっし編集へんしゅうをしていた古川ふるかわ郁郎いくおという青年せいねんが、余興よきょうえんじるげい上手うまいので喜劇きげき役者やくしゃになるようにすすめた。この青年せいねんのち喜劇きげき俳優はいゆう古川ふるかわロッパとして成功せいこうした[31]
  • 長谷川はせがわ町子まちこ自伝じでんサザエさんうちあけはなし』によると、長谷川はせがわ上京じょうきょう生活せいかつきゅうしたさい知人ちじん紹介しょうかい長谷川はせがわあね菊池きくちは、長谷川はせがわあね自作じさく挿絵さしえ画家がか採用さいようした。その長谷川はせがわはは長谷川はせがわあねつうじて、長谷川はせがわいもうと当時とうじ東京女子大学とうきょうじょしだいがく在学ざいがく)の作文さくぶんせると、菊池きくちは「(大学だいがくを)やめさせなさい。ボクがそだててあげる」とこたえ、いもうと大学だいがく退学たいがくして菊池きくち日参にっさんし、古典こてん文学ぶんがくなどの講義こうぎけた。のちにいもうと文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう入社にゅうしゃするものの、肋膜炎ろくまくえんわずら退社たいしゃした。
  • 1977ねん昭和しょうわ52ねん)9がつ座談ざだんかい戦争せんそうひと文学ぶんがく」(平凡社へいぼんしゃ太陽たいようだい174ごう)における巖谷いわやだいよん井伏いぶせ鱒二ますじ発言はつげんによると、菊池きくち着衣ちゃくいのあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣しへいれており、貧乏びんぼう文士ぶんしかね無心むしんされるとそれを無造作むぞうさして、1えんたるひともいれば5えんたるひともいたという。菊池きくち旅先たびさき出会であった井伏いぶせ尾崎おざき士郎しろうは、「かねならあります」とっているのに「かねがないんだろう、かねやろう」と紙幣しへいしつけられそうになった。

永井ながい荷風かふうからきらわれる

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永井ながい荷風かふうひと好悪こうおはげしい作家さっかだが、とりわけ菊池きくちひろしのことを非常ひじょう嫌悪けんおし、自身じしんが38さいから79さい前日ぜんじつまで42年間ねんかんにわたりけていた日記にっき断腸だんちょうてい日乗にちじょう』のなかには、菊池きくちへの罵詈ばり雑言ぞうごん叙述じょじゅつがところどころに見受みうけられる[32]荷風かふう菊池きくちうわさくとかならずといっていいほど罵倒ばとう言葉ことばつづっては、出版しゅっぱんかいのほか社会しゃかい世相せそう悪化あっか原因げんいんまでも菊池きくちのせいにしてなぐっていた[32]

荷風かふう菊池きくちきらうようになった原因げんいんについては、はっきりしたことは判明はんめいしてはいないが、菊池きくち自身じしん先祖せんぞ菊池きくち五山ごさんを、荷風かふうからことごと菊地きくち五山ごさん間違まちがえられた不快ふかいかんを1924ねん大正たいしょう13ねん)3がつの『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう誌上しじょう表明ひょうめいして以降いこう荷風かふう日記にっきじょう菊池きくちへの罵詈ばり雑言ぞうごんはじまっているため、それがきっかけでないかとわれている[32]

菊池きくちはその随筆ずいひつ自分じぶん名前なまえ」のなかで、つね博識はくしき自認じにん現代げんだいじん無学むがく無文むもんあざけっている荷風かふう先生せんせいにして「肝心かんじんひと姓名せいめいあやましょするにいたりつては、沙汰さたかぎり」とべ、「むずかしさうな詩句しくなどを引用いんようするのも、非常ひじょう結構けっこうだが、それよりもまえに、ひと名前なまえは、正確せいかくいてもいいだらう」と忠言ちゅうげんしていた[33][32]

荷風かふうはそれ以降いこう菊池きくち面会めんかい希望きぼうしてもことわって「交をていすべき人物じんぶつにあらず」(交流こうりゅうするような人物じんぶつではない)としるしたり[32]、またべつ日記にっきでは、雑誌ざっししゃ人物じんぶつ荷風かふう寄稿きこう依頼いらいするさいしきりに「礼金れいきん」のことをはなして荷風かふう固持こじしてもつくえうえかねいていったことを、文人ぶんじんむかってあたかも材木ざいもく材木ざいもく注文ちゅうもんするような「悪風あくふう」だとつらねながら、その編集へんしゅうしゃは「敢てとがめむべきにはあらず」、「あくにくむべきは菊池きくちひろしごと売文ばいぶん専業せんぎょうのなすところなり」と、いきなり菊池きくち批判ひはんつなげたり[32]、1930ねん昭和しょうわ5ねん)の正月しょうがつには、菊池きくち文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうから年賀状ねんがじょうらずにわざわざ返送へんそうしたりもしていた[32]

大映だいえい社長しゃちょうとして

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  • 大映だいえい社長しゃちょう就任しゅうにん挨拶あいさつ菊池きくちは「ぼくは社長しゃちょうとしての値打ねうちはなにもないが、製作せいさくするぜん作品さくひんのシナリオをんでくれればいいということなので、それならぼくにもできそうだとおもったから社長しゃちょうけた」とはなし、稲垣いながきひろしらはその淡々たんたんとしたはなしぶりやかざらない様子ようすに、おおきな拍手はくしゅおくったという[28]
  • なお、そのさい卓上たくじょうにハンカチをわすれ、一同いちどうあつまったが、そのしろいハンカチはもののように菊池きくちのちってうごき、壇上だんじょうからすべちた。事務じむものあわててはしってひろげようとすると、菊池きくちはそれにづき、ふくからしだれたいとって手品てじなのようにハンカチを手元てもとげた。短時間たんじかんだがそのユーモラスな光景こうけいたいし、会場かいじょう聴衆ちょうしゅうはどっと好感こうかんわらいをこしたが、菊池きくちはニタリともせずに無造作むぞうさにハンカチをポケットにねじしずかにせきもどってった。これは、菊池きくちがよくハンカチをとしたりわすれたりし、戦時せんじした衣料いりょうひん切符きっぷせいだった事情じじょうから新調しんちょう困難こんなんだったので、夫人ふじんひもけてポケットにけたものであった[28]
  • 稲垣いながきが『おうまさんじゅうさんまんせき』というシナリオをいたとき、競馬けいば愛好あいこうだった(後述こうじゅつ菊池きくちは「うまはなしだ」ということでとくに念入ねんいりにんで、いろいろと意見いけんし、「きみこれは鍋島なべしまはんになってるけどネ、佐賀さがうま産地さんちではないから駄目だめだね、福島ふくしま南部なんぶあらためてはどうだ」とった。稲垣いながきが「阿蘭陀おらんだじんますからどうしても九州きゅうしゅうでないとこまるのですが」とこたえると、「それなら島津しまつがいいだろう」、「でも(鍋島なべしまの)さんじゅうさんまんせきという題名だいめいがいいとおもうのですが」とさらにこたえると菊池きくちは「なに、島津しまつならななじゅうななまんせきだから、そのほうがずっとおおきくていいよキミ」とかえした。稲垣いながきは「やはり役者やくしゃなんまいかうわてだった」とかたっている[28]

趣味しゅみ

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麻雀まーじゃん競馬けいば将棋しょうぎ熱中ねっちゅうしていたことでられた。

  • 麻雀まーじゃん大正たいしょう時代じだい中期ちゅうきからはじめたとされる。のちに日本にっぽん麻雀まーじゃん聯盟れんめい初代しょだい総裁そうさいつとめた。菊池きくち愛好あいこう団体だんたいたいし、「麻雀まーじゃんさん」とだいする以下いかのような書状しょじょうおくっている。
とにかくひとつよひとである、おおひと結局けっきょく上手じょうずひとつよひとうんはなければならないだらう。しかし、いちきょくいちきょく勝負しょうぶとなると、つよひとかならつとはうんへない。ていぱいおぼえたばかりの素人しろうとけるかもれない。そこが麻雀まーじゃん面白おもしろみであらう。

しかし、勝敗しょうはいかずべつとして、その一手いっていちについて最善さいぜんなるぱいおこなひと結局けっきょく名手めいしゅうんはなければならない、公算こうさん基礎きそとし、もっともプロバビリティのおおみちえらんでていぱいたっひと名手めいしゅ上手じょうずうんへよう、しかしさうした公算こうさん九分くぶまで、準據じゅんきょししかも最後さいご一部いちぶおい運気うんきほらさんし、公算こうさん無視むしし、大役たいやく成就じょうじゅするところは麻雀まーじゃんどう玄妙げんみょう存在そんざいしてゐるのかもれない。

最善さいぜん技術ぎじゅつには、努力どりょく次第しだいだれでもたっる。それ以上いじょう勝敗しょうはいは、そのひと性格せいかく心術しんじゅつ覚悟かくご度胸どきょうることがおおいだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるがごとく、麻雀まーじゃん、も技術ぎじゅつよりだしで、究極きゅうきょくするところは、人格じんかく全体ぜんたい競技きょうぎになるとおもふ。そこに、麻雀まーじゃんどうたんなるゲームに天地てんちけるとおもふ。 — 菊池きくちひろし、『麻雀まーじゃんさん
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん)11月、文士ぶんし出版しゅっぱん関係かんけいしゃらが麻雀まーじゃん賭博とばく容疑ようぎ摘発てきはつされたさいには、菊池きくち身元みもと引受ひきうけじんになるべく警視庁けいしちょう課長かちょうあていちぴつれることもあった[34]が、菊池きくち自身じしんよく1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ麻雀まーじゃん賭博とばく容疑ようぎ検挙けんきょされている[35]
  • 将棋しょうぎについては、「人生じんせいいちきょく将棋しょうぎなり なおあたわず」というフレーズをつくったといわれる。
大映だいえい社内しゃないにおいて、将棋しょうぎきの社長しゃちょう菊池きくち影響えいきょう将棋しょうぎ流行りゅうこうはじめ、重役じゅうやくれんきゅう将棋しょうぎ勉強べんきょうはじめなければならなくなった。稲垣いながきひろしは「ヘボ以下いか」を自認じにんしていたが、重役じゅうやくれんとはいい勝負しょうぶだった。菊池きくちはそんなヘボ将棋しょうぎでも熱心ねっしんにのぞきんで観戦かんせんし、「シロウト将棋しょうぎはあとさきもかんがえないから、ていてとても面白おもしろいネ」とってタバコのはいをポロポロひざとし、愉快ゆかいそうにほそめていたという[28]
  • 秘書ひしょ矢崎やさきやすしこれ息子むすこである矢崎やさき泰久やすひさ少年しょうねん将棋しょうぎしたとき泰久やすひさ木村きむら義雄よしお14せい名人めいじん助言じょげんをしたため菊池きくちひろしけた。おこった菊池きくち名人めいじんのいないところでもういちきょくしたが、泰久やすひさ記憶きおくしていたのでかえちにあった[37]
  • 賭博とばくについては「ギャンブルは、絶対ぜったい使つかっちゃいけないかねけてからが本当ほんとう勝負しょうぶだ」という格言かくげんのこしている[よう検証けんしょう]
  • 上記じょうき格言かくげんについては、発言はつげん記録きろくなど明確めいかく出典しゅってんがない。とくに競馬けいばについては『日本にっぽん競馬けいば読本とくほん』で「小遣こづかいぜに以上いじょうかね使つかうな」ととき、競馬けいばファンにたいきむぜにてきにのめりまないよう心理しんりてきなアドバイスや注意ちゅういてんこまかくつづっている。またまずしいちゆえ小説しょうせつとしてつまでに金銭きんせんてき苦労くろうをした経験けいけん純文学じゅんぶんがくから大衆たいしゅう文学ぶんがくへの転向てんこうまでの経緯けいい実業じつぎょう社会しゃかいてき活動かつどうなど、文学ぶんがくしゃである菊池きくちひろし人生じんせいをとおしてかんがえるとき、それは疑問ぎもんのこ格言かくげんである。くわしくは菊池きくちひろしはん自叙伝じじょでん」、菊池きくちひろし記念きねんかん発行はっこう文藝ぶんげいもず』24ごう「インターネットは菊池きくちひろしかげはらうか? ―賭博とばく名馬めいばと (青山学院大学あおやまがくいんだいがく大学院だいがくいん 内村うちむら文紀ふみのり)」を参照さんしょうされたい。
  • 菊池きくちひろしには野球やきゅう卓球たっきゅう、テニスにも熱中ねっちゅうした学生がくせい時代じだいがある。勝負事しょうぶごとやいずれのスポーツにおいても頭脳ずのうせんたのしんでいた。

その

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  • 喫煙きつえんしゃであったが、灰皿はいざら使つか習慣しゅうかんがなかったらしく、たたみ椅子いす肘掛ひじかけでしていたため、家中いえじゅうげだらけであったという。当然とうぜんながらはいをまきらすことにも頓着とんじゃくしなかった。
  • 長谷川はせがわ町子まちこ菊池きくち書生しょせいだった自身じしんいもうとから菊池きくちは「ときにはおびきずりながらてくる」「時計とけいふたつもはめていることがある」「あせかきで汗疹あせもをかくと胸元むなもとがはだけ、あつ札束さつたばかおのぞかせている」という3つのはなしだけをいたという[38]
  • りょう性愛せいあいしゃ傾向けいこうがあった。旧制きゅうせい中学ちゅうがく時代じだいに4きゅう下級生かきゅうせい渋谷しぶやあきら同性愛どうせいあいてき思慕しぼっていた。この渋谷しぶやてたあい手紙てがみ多数たすう現存げんそんする[39]2人ふたり文通ぶんつうはそのつづき、菊池きくち京大きょうだい卒業そつぎょう文通ぶんつうはあるが、このころ渋谷しぶや翻訳ほんやく仕事しごとあたえようとするなど通常つうじょう手紙てがみになってきている[40]
  • また、正妻せいさい以外いがい多数たすう愛人あいじんち、そのうち1人ひとり小森こもり和子かずこがいた。小森こもりはあまりに易々いい菊池きくちからだゆるそうとしため、菊池きくちから「女性じょせいてきつつしみがない」と非難ひなんされたという。
    • かえ不倫ふりんえかねて離婚りこんした正妻せいさいに「すまん。60さいになったら真面目まじめになる」とったが、本人ほんにん実際じっさいには59さい死去しきょしている[41]
  • もと文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ編集へんしゅうしゃで、出版しゅっぱんしゃ・ジュリアンの代表だいひょう取締役とりしまりやくである菊池きくち夏樹なつきは、菊池きくちひろしまごたる。2009ねん平成へいせい21ねん)4がつに『菊池きくちひろし急逝きゅうせいよる』(白水しろみずしゃ)を刊行かんこう

菊池きくちひろし登場とうじょうする作品さくひん

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小説しょうせつ
菊池きくちひろし周囲しゅうい人々ひとびと人間にんげん模様もようえが猪瀬いのせ直樹なおき小説しょうせつ
映画えいが
わか菊池きくちひろし親友しんゆう綾部あやべ健太郎けんたろうのち衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)との友情ゆうじょうじくえがいた作品さくひんフランキふらんきさかい菊池きくちえんじた。
上記じょうき『こころの王国おうこく 菊池きくちひろし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう誕生たんじょう』の映画えいが西田にしだ敏行としゆき菊池きくちえんじた。
北原きたはら白秋はくしゅう山田やまだ耕筰こうさく人生じんせいえがいた作品さくひん津田つだ寛治かんじ菊池きくちえんじた。
テレビドラマ
フランキふらんきさかい菊池きくちえんじた。
漫画まんが
戦後せんご初期しょきのエピソードに、菊池きくち自身じしん登場とうじょうするものがある。

菊池きくちひろし由来ゆらいする名称めいしょう

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市道しどう
高松たかまつにある市内しない道路どうろのひとつ。菊池きくち生家せいかあと(ここには2006ねん平成へいせい18ねん)までだいいち法規ほうき四国しこく支社ししゃがあった)はこの道路どうろ沿線えんせんにある。このとおりは元々もともと県庁けんちょうどおり」とばれていたが、1988ねん昭和しょうわ63ねん)に香川かがわけん庁舎ちょうしゃめんする県道けんどう173号線ごうせんを「県庁けんちょうまえどおり」としたことにともな改称かいしょうされた。
しょう

ギャラリー

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関連かんれん文献ぶんけん

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評伝ひょうでん随想ずいそう

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研究けんきゅう

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  • 片山かたやま宏行ひろゆき菊池きくちひろし航跡こうせき 初期しょき文学ぶんがく精神せいしん展開てんかい』(1997ねんがつ和泉いずみ書院しょいん) ISBN 4-87088-873-4 C3395
  • 片山かたやま宏行ひろゆき菊池きくちひろしのうしろかげ』(2000ねん11月、未知みちだにISBN 4-89642-022-5 C0095
  • 菊池きくちひろし研究けんきゅうかい真珠しんじゅ夫人ふじん 本文ほんぶんへん注解ちゅうかいこうせつへん』(2003ねん8がつ翰林かんりん書房しょぼうISBN 4-87737-172-9 C0093
  • 小林こばやし和子かずこ菊池きくちひろし じん文学ぶんがく (日本にっぽん作家さっか100にん) 』(2007ねん11月、つとむまこと出版しゅっぱん
  • 志村しむら三代子みよこ映画えいがじん菊池きくちひろし』(2013ねん8がつ)藤原ふじわら書店しょてん
  • 日高ひだか昭二しょうじ菊池きくちひろしむ』(2003ねん岩波書店いわなみしょてん
  • 片山かたやま宏行ひろゆき山口やまぐち政幸まさゆき若松わかまつ伸哉のぶやかけ剛史たけし菊池きくちひろし現代げんだい通俗つうぞく小説しょうせつ事典じてん』(2016ねんがつ八木やぎ書店しょてんISBN 978-4840697613 C0593
  • 片山かたやま宏行ひろゆき菊池きくちひろし随想ずいそう』(2017ねん8がつ未知みちだにISBN 978-4-89642-534-5 C0095

小説しょうせつ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょうだいいちかい無名むめい作家さっか石川いしかわ達三たつぞうの「あおいねむり」『中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう』1935ねん昭和しょうわ10ねん)8がつ11にち

出典しゅってん

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  1. ^ 井上いのうえ 1999, p. 23.
  2. ^ 井上いのうえ 1999, p. 24.
  3. ^ 井上いのうえ 1999, p. 26-27.
  4. ^ 井上いのうえ 1999, p. 28.
  5. ^ 井上いのうえ 1999, p. 7.
  6. ^ 関口せきぐちあんよし反骨はんこつ教育きょういく : 評伝ひょうでん 長崎ながさき太郎たろう II」『都留文科大学つるぶんかだいがく研究けんきゅう紀要きよう= 都留文科大学つるぶんかだいがく研究けんきゅう紀要きようだい64かん都留文科大学つるぶんかだいがく、2006ねん、118-101ぺーじdoi:10.34356/00000185NAID 110007055966 
  7. ^ 東條とうじょうぶんぶんまわし菊池きくちひろし図書館としょかん佐野さの文夫ふみお」、『図書館としょかんという軌跡きせき[1]』ポット出版しゅっぱん、2009ねん、pp.335 - 354(初出しょしゅつは『香川かがわけん図書館としょかん学会がっかい会報かいほう』)
  8. ^ 漱石そうせき先生せんせいとう」(「しん思潮しちょう漱石そうせき先生せんせい追慕ついぼごう大正たいしょう6ねん3がつ)でそのとき様子ようす好意こういてきしるしている。そこでかれ漱石そうせき門下もんかられることもあるが、「はん自叙伝じじょでんつづけ)」では「わたしむかしからげきせき作品さくひんきらいではないまでも、尊敬そんけい出来できなかった。同僚どうりょう芥川あくたがわ久米くめ崇拝すうはいするのが、不思議ふしぎでならなかった。芥川あくたがわなどは、本気ほんきであんなにみとめていたのかいてたかったくらいである」とべており、師事しじしていたとはがたい。
  9. ^ 井上いのうえ 1999, p. 32-33.
  10. ^ 井上いのうえ 1999, pp. 38–40.
  11. ^ 井上いのうえ 1999, pp. 42–43.
  12. ^ 井上いのうえ 1999, p. 242.
  13. ^ 井上いのうえ 1999, pp. 52–53.
  14. ^ 谷中たになか斎場さいじょう葬儀そうぎ霊前れいぜん慟哭どうこくした菊池きくちひろし東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ2ねん7がつ28にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい2かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp5 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  15. ^ はなしくずかご」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1937ねん3がつごう)。菊池きくち感想かんそう24 1995, pp. 349–350に所収しょしゅう
  16. ^ はやし健太郎けんたろう解説かいせつ――時代じだい体現たいげんしゃ菊池きくちひろし」(菊池きくち感想かんそう24 1995, pp. 671–683)
  17. ^ はなしくずかご」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1935ねん5がつごう)。菊池きくち感想かんそう24 1995, pp. 306–308に所収しょしゅう
  18. ^ 井上いのうえ 1999, p. 69.
  19. ^ 井上いのうえ 1999, p. 70.
  20. ^ 井上いのうえ 1999, p. 247.
  21. ^ 井上いのうえ 1999, p. 76.
  22. ^ 井上いのうえ 1999, p. 80.
  23. ^ 井上いのうえ 1999, pp. 82–84.
  24. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)9ぺーじ
  25. ^ 岩井いわいひろし作家さっか臨終りんじゅう墓碑ぼひ事典じてん』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1997ねん)114ぺーじ
  26. ^ 『20世紀せいきぜん記録きろく クロニック』小松こまつ左京さきょう堺屋さかいや太一たいち立花たちばなたかし企画きかく委員いいん講談社こうだんしゃ、1987ねん9がつ21にち、p.700
  27. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  28. ^ a b c d e 『ひげとちょんまげ』(稲垣いながきひろし毎日新聞社まいにちしんぶんしゃかん
  29. ^ 木津川きつかわはかる上方かみがたわらい』 講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、1984ねん p.24
  30. ^ タモリ「まさか本物ほんものを…」いいとも“くちきかんしょう”はまぼろし Sponichi Annex、2014ねん12月6にち
  31. ^ 昭和しょうわモダニズムを牽引けんいんしたおとこ 菊池きくちひろし文芸ぶんげい演劇えんげき映画えいがエッセイしゅう清流せいりゅう出版しゅっぱん2009ねん平成へいせい21ねん)。
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  34. ^ 菊池きくちひろし一札いっさつれ、全員ぜんいんいちばん釈放しゃくほう中外ちゅうがい商業しょうぎょう新聞しんぶん昭和しょうわ8ねん11月19にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp613-614 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  35. ^ 大御所おおごしょ菊池きくちひろし花形はながた女優じょゆう次々つぎつぎ検挙けんきょ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ9ねん3がつ18にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp615)
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  38. ^ 『サザエさんうちあけはなし
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  41. ^ 菊池きくちひろしのヤバすぎてわらえないエピソードは?」でてきた本当ほんとうにヤバすぎる名言めいげん・ベスト2 DIAMOND online 2024.5.4 4:08 (2024ねん7がつ1にち閲覧えつらん)
  42. ^ 香川かがわ菊池きくちひろししょう - 高松たかまつ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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