大映だいえい

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大映だいえい株式会社かぶしきがいしゃ(だいえい)は、

  1. 1942ねんから1971ねんまで存在そんざいした日本にっぽん映画えいが会社かいしゃ設立せつりつ当初とうしょ法人ほうじんめいだい日本にっぽん映画えいが製作せいさく株式会社かぶしきがいしゃ
  2. 1974ねんから2003ねんまで存在そんざいした日本にっぽん映画えいが会社かいしゃ徳間書店とくましょてん子会社こがいしゃであり、1.の映画えいが事業じぎょういだ。設立せつりつ当初とうしょ法人ほうじんめい大映だいえい映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ

1.と2.は登記とうきじょうべつ会社かいしゃであるが、ほんこうでは、便宜上べんぎじょう、1.と2.の映画えいが事業じぎょう大映だいえい歴史れきしとして詳述しょうじゅつする。1.と2.による映画えいが事業じぎょう譲渡ゆずりわたされ、設立せつりつ当初とうしょ株式会社かぶしきがいしゃ角川かどかわ大映だいえい映画えいがしょうしていた角川かどかわ映画えいが株式会社かぶしきがいしゃあらたに設立せつりつされた会社かいしゃであり、1.と2.が法人ほうじんとして前身ぜんしんにあたるわけではない。

1.の法人ほうじんとしての設立せつりつ大手おおてなかでは後発こうはつだが、戦前せんぜん日活にっかつ製作せいさく機構きこうおもいでいるため、伝統でんとうある老舗しにせとしてかたられることがある。発足ほっそく合併がっぺい新興しんこうみかどキネの製作せいさく部門ぶもん戦後せんご分離ぶんりし、東映とうえい母体ぼたいとなる。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

戦時せんじ統合とうごう発足ほっそく[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんがはじまると、戦時せんじ統制とうせい一環いっかんとして小規模しょうきぼ企業きぎょう整理せいり統合とうごうする戦時せんじ企業きぎょう統合とうごうはじまり、内閣ないかく情報じょうほうきょく指示しじによってこれがさまざまな分野ぶんやすすめられていった。映画えいが業界ぎょうかいでも1942ねん昭和しょうわ17ねん)、新興しんこうキネマだい映画えいが日活にっかつ製作せいさく部門ぶもんじくとした合併がっぺいおこなわれ、永田ながた雅一まさいち専務せんむ)、河合かわいりゅうとき専務せんむ)、真鍋まなべ八千代やちよ監査かんさやく)、波多野はたの敬三けいぞう常務じょうむ)、六車むぐるまおさむ常務じょうむ)、薦野こもの直実なおみ常務じょうむ)、吉岡よしおか重三郎しげさぶろう鶴田つるたまご兵衛ひょうえはやしひろしだか東京とうきょう吉本よしもと)の9めい発起人ほっきにんとなり、1942ねん1がつ27にちだい日本にっぽん映画えいが製作せいさく株式会社かぶしきがいしゃ大映だいえい)が誕生たんじょう松竹しょうちく東宝とうほうとの3しゃ体制たいせい成立せいりつした。

情報じょうほうきょく当初とうしょあんでは、映画えいが業界ぎょうかい松竹しょうちく東宝とうほうの2しゃ体制たいせい再編さいへんすることになっていたが、これをった新興しんこうキネマ京都きょうと撮影さつえいしょ所長しょちょう永田ながた雅一まさいちが、政府せいふりのだいさん勢力せいりょくとして「統制とうせい会社かいしゃ」の可能かのうせいをアピールするかたち同局どうきょくい、最終さいしゅうあんではこれにもう1しゃくわえた3しゃ体制たいせいとすることをみとめさせた。

新興しんこうキネマは松竹しょうちく系列けいれつであり、事実じじつじょう松竹しょうちく子会社こがいしゃであったが、同社どうしゃ主導しゅどうして企業きぎょう統合とうごうがされたことは世間せけんおどろかせ、「新興しんこうキネマから情報じょうほうきょくだいにカネがうごいたのではないか」といううわさひろまった。真相しんそう不明ふめいだが、大映だいえいしゃ本件ほんけんつつかくさず事実じじつ掲載けいさいしている。

このとしばんひがしつま三郎さぶろう片岡かたおか千恵ちえぞうあらしひろし寿郎としお市川いちかわみぎふと衛門えもんよんだいスターの共演きょうえんかかげただいいちかい作品さくひん維新いしんきょく』(監督かんとく牛原うしはらきょ)を発表はっぴょうし、映画えいが製作せいさく第一歩だいいっぽあゆす。

映画えいが業界ぎょうかいが3しゃ体制たいせいとなり、6つの撮影さつえいしょ大映だいえい傘下さんかとなった。

国内こくない映画えいが配給はいきゅう系統けいとうが「べにけい」と「しろけい」の2系統けいとう統合とうごうすることで、松竹しょうちく東宝とうほう配給はいきゅうわくかたちになった大映だいえい製作せいさく本数ほんすう減少げんしょう余儀よぎなくされ、京都きょうと大映だいえい京都きょうと大映だいえいだい東京とうきょう大映だいえい東京とうきょうだいのこして、嵯峨野さがの大映だいえい東京とうきょうだいいちだいかく撮影さつえいしょ閉鎖へいさし、3かしょのスタッフと俳優はいゆうは、大映だいえい京都きょうと大映だいえいだい大映だいえい東京とうきょうだいいだ。

  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん)、初代しょだい社長しゃちょう作家さっか菊池きくちひろしかつす。当初とうしょ社名しゃめい表記ひょうきは、大映だいえいマークにかぶさるようにきゅう社名しゃめいたて表記ひょうきでズームしながらクレジットされた。
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)、社名しゃめい大映だいえい株式会社かぶしきがいしゃあらためる。
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん)、専務せんむ永田ながた雅一まさいちふく社長しゃちょう昇格しょうかくする。
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん)、ふく社長しゃちょう永田ながた雅一まさいち社長しゃちょう昇格しょうかくする。独占どくせん禁止きんしほう趣旨しゅしもとづき、日活にっかつとの関係かんけい解消かいしょうするが、「統制とうせい会社かいしゃ」が戦後せんごのきなみ解散かいさんめいじられるなか大映だいえい存続そんぞくゆるされた稀有けう事例じれいである。

社名しゃめい変更へんこう表記ひょうきは、星空ほしぞらのちうごくもをバックに大映だいえいマークがうつり、それにかぶさるように「作製さくせい社會しゃかいしきかぶうつだい」の文字もじがズームし、停止ていしして落下らっかする演出えんしゅつで1950ねん昭和しょうわ25ねんごろまで使用しようされた。

予告編よこくへんなどは「映画えいが大映だいえい」の☆マークがいたキャッチフレーズが多用たようされた。

永田ながた時代ときよ[編集へんしゅう]

数社すうしゃ統合とうごうしてオーナーとなった永田ながた雅一まさいちが、社員しゃいんをすべて縁故えんこ採用さいようかためる会社かいしゃ組織そしきおこなうと、自身じしんのカリスマせいたかめ、組織そしき強固きょうこにした反面はんめん組織そしきない近親きんしん憎悪ぞうおてき軋轢あつれき数多かずおおんだ[1]

社風しゃふう日活にっかつ伝統でんとうぎ、尾上おがみ松之助まつのすけ保守ほしゅてき京都きょうと土壌どじょうんだ自由じゆう気風きふうハイカラ伝統でんとうんだ。他社たしゃあいだだけでなく、東西とうざい撮影さつえいしょ同士どうしでもライバルする排他はいたてき気風きふうのこした。企画きかく会議かいぎは、京都きょうと作品さくひんかなら東京とうきょう本社ほんしゃ4かい会議かいぎしつ永田ながた社長しゃちょう筆頭ひっとうに40にんからのプロデューサーらがあつめられ、最終さいしゅう決断けつだんかなら永田ながたくだ体制たいせいいた。東京とうきょう京都きょうと撮影さつえいしょは、撮影さつえい設備せつび機材きざい永田ながた独断どくだんさい新鋭しんえいのものがそろえられたが、倒産とうさん最後さいごまで自社じしゃ現像げんぞうしょたなかった[2]

この体制たいせい大映だいえい一時期いちじきおおきな成功せいこうおさめたが、直営ちょくえい興行こうぎょうかん東宝とうほう松竹しょうちくくらすうめんではるかにおとり、興行こうぎょう収入しゅうにゅうおおきく影響えいきょうした。映画えいが産業さんぎょう近代きんだい斜陽化しゃようかすすむにつれて、永田ながたぜん時代じだいてきな「カツドウヤ」の体質たいしつのこしたままの丼勘定どんぶりかんじょうと、公私こうし混同こんどうした典型てんけいてきワンマン経営けいえい様々さまざま弊害へいがいみ、最終さいしゅうてき大映だいえい破綻はたんいたる。

1940年代ねんだい[編集へんしゅう]

  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん菊池きくち戦時せんじちゅう翼賛よくさん運動うんどうわれてGHQによる公職こうしょく追放ついほう対象たいしょうしゃとして指定していされ、社長しゃちょう辞任じにんまれると、ふく社長しゃちょう永田ながた雅一まさいち社長しゃちょう昇格しょうかくし、人気にんき作家さっか川口かわぐち松太郎まつたろう専務せんむまねかれる。永田ながた他社たしゃれいない「60さい定年ていねんせい[注釈ちゅうしゃく 1] を、独断どくだん導入どうにゅう決定けっていした。
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)1がつ 永田ながた公職こうしょく追放ついほうとなり、取締役とりしまりやく真鍋まなべ八千代やちよ社長しゃちょう就任しゅうにんする。永田ながたは5月に指定してい解除かいじょされて社長しゃちょう復帰ふっきして真鍋まなべ会長かいちょうとなる。3月6にちぜん社長しゃちょう菊池きくち公職こうしょく追放ついほうされたまま死去しきょした。
プロ野球やきゅうだん金星かなぼしスターズ買収ばいしゅうして「大映だいえいスターズ」が発足ほっそくし、永田ながたがオーナーとなる。さんえき愛子あいこ主演しゅえんの「母物ははものシリーズ」がはじまり、10ねんつづ大人気だいにんきシリーズとなる。現代げんだいげき好調こうちょうけて「ふるぼけた時代じだいげきのスターはもうウチはいらん」と放言ほうげんした永田ながたに、設立せつりつからのよん大時代おおじだいげきスターらがいかりで大映だいえい脱退だったいし、のスター・俳優はいゆう・スタッフらもおおくが大映だいえいった。とく京都きょうとサイドは、だい撮影さつえいしょあずかりになった東横映画とうよこえいがおおながれた[3]

1950年代ねんだい[編集へんしゅう]

専属せんぞくスターの大量たいりょう流出りゅうしゅつによってできたあなめるべく、ベテラン長谷川はせがわ一夫かずお重役じゅうやくむかえ、かれ大黒柱だいこくばしらにプログラムをむ。ニューフェイスや他所よそからの人材じんざいしげもなく投入とうにゅうし、のちさんだい女優じょゆうといわれるきょうマチ子まちこ山本やまもと富士子ふじこ若尾わかお文子ふみこ市川いちかわ雷蔵らいぞう日本にっぽん映画えいがのこるスターにのばげた。他社たしゃ専属せんぞくやフリーの高峰たかみね秀子ひでこ鶴田つるた浩二こうじきし惠子けいこらも出演しゅつえんし、名作めいさく多数たすうおくす。

  • 1951ねん昭和しょうわ26ねん
  • 1952ねん昭和しょうわ27ねん
    • 2がつ 日米にちべい合作がっさく映画えいが『いついつまでも』製作せいさく決定けってい
    • 3月 『羅生門らしょうもん』がアカデミーしょう受賞じゅしょう
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん) 『雨月物語うげつものがたり』(監督かんとく溝口みぞぐち健二けんじ)がヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいぎん獅子しししょう受賞じゅしょうする。同年どうねん、『羅生門らしょうもん』の国際こくさいてき成功せいこう永田ながたが、社内しゃない反対はんたいって制作せいさくさせた『地獄じごくもん』(監督かんとくころもりゅう貞之助ていのすけ)が封切ふうぎられる。
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん) 『地獄じごくもん』がカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいグランプリを受賞じゅしょうする。同年どうねんの『山椒さんしょう大夫たいふ』(監督かんとく溝口みぞぐち健二けんじ)もヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいぎん獅子しししょう受賞じゅしょうする。
だがこのころ映画えいが製作せいさく再開さいかいした日活にっかつ大映だいえいのスタッフを多数たすうき、おおくのスタッフが日活にっかつ移籍いせきする事態じたいまねいた。大映だいえい日活にっかつ製作せいさく部門ぶもんまれていた経緯けいいがあり、移籍いせきしたスタッフのほとんどは出戻でもどりである。このとし歌舞伎かぶき世界せかいはなれた市川いちかわ雷蔵らいぞう長唄ながうた三味線しゃみせんほうきねかちひがし次男じなんであるかつ新太郎しんたろう入社にゅうしゃする。
  • 1955ねん昭和しょうわ30ねん上述じょうじゅつのトキノミノルをモデルに、『まぼろしうま』(監督かんとくしまこう)を制作せいさくして文部省もんぶしょう選定せんてい映画えいがとなる。
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん) 1954年度ねんどのミス資生堂しせいどうであったかのう順子じゅんこがニューフェースとして入社にゅうしゃ、1957ねんにデビューする。
  • 1957ねん昭和しょうわ32ねん大映だいえいスターズが高橋たかはしユニオンズ合併がっぺいして大映だいえいユニオンズが発足ほっそくして永田ながたがオーナーにまる。5月にスター防止ぼうしの「ろくしゃもうわせしょ」に永田ながた社長しゃちょう調印ちょういんする。6月に「大映だいえいビスタビジョン」だいいちさく地獄じごくはな』を公開こうかいする。
  • 1958ねん昭和しょうわ33ねん大映だいえいユニオンズが毎日まいにちオリオンズ合併がっぺいして大毎だいまいオリオンズが発足ほっそくしたが、存続そんぞくした系譜けいふ毎日まいにちがわであるものの、組織そしき運営うんえい大映だいえいがわ掌握しょうあくしたことから実質じっしつてきさか合併がっぺいだったため、永田ながたがオーナーにまる。社内しゃない大映だいえいテレビ製作せいさくしつもうけて、テレビ映画えいが製作せいさくす。
大映だいえいスコープ」の導入どうにゅうにより、クレジット表記ひょうきが「くもてから太陽たいようひかりむ」ものになる。白黒しろくろ・カラー共通きょうつう末期まっきまで使用しようされた。

1960年代ねんだい[編集へんしゅう]

台湾たいわんなど海外かいがいとの合作がっさくによる大作たいさくや、70ミリ特撮とくさつ映画えいが釈迦しゃか』『はた始皇帝しこうてい』を製作せいさくし、これらの成功せいこうをきっかけに以後いごの「大作たいさく路線ろせん」がはじまった。このころウォルト・ディズニー作品さくひん日本にっぽんでの配給はいきゅうけんっていた。

  • 1961ねん昭和しょうわ36ねん現代げんだいげきのトップスター菅原すがわら謙二けんじ退社たいしゃした。『悪名あくめい』シリーズのヒットにより、かつ新太郎しんたろう田宮たみや二郎じろう頭角とうかくあらわはじめた。同年どうねん政界せいかい疑獄ぎごく事件じけんたけしゅう鉄道てつどう汚職おしょく事件じけん発覚はっかくし、永田ながた問題もんだいとなった都内とないから秩父ちちぶいたる“たけしゅう鉄道てつどう”なるしんせん建設けんせつ計画けいかく発起人ほっきにんつらねていたことからまれ、贈賄ぞうわい容疑ようぎ逮捕たいほ収監しゅうかんされるが、起訴きそとなった。
  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん東京とうきょう荒川あらかわ南千住みなみせんじゅにプロ野球やきゅう専用せんよう球場きゅうじょう東京とうきょうスタジアム東京とうきょう球場きゅうじょう)を建設けんせつする。雷蔵らいぞう永田ながた養女ようじょ結婚けっこん永田ながた雷蔵らいぞう事実じじつじょう姻戚いんせき関係かんけいとなる。かつ新太郎しんたろうも3がつ5にち永田ながた媒酌ばいしゃく中村なかむら玉緒たまお結婚けっこんした。一方いっぽうでは、現代げんだいげき活躍かつやくしていた人気にんき若手わかてスター・川口かわぐちひろし川口かわぐち松太郎まつたろう長男ちょうなん)が退社たいしゃした。
  • 1963ねん昭和しょうわ38ねん戦後せんご大映だいえい映画えいが大黒柱だいこくばしらだった長谷川はせがわ一夫かずお映画えいがかいから引退いんたい看板かんばん女優じょゆう山本やまもと富士子ふじこ他社たしゃ映画えいがへの出演しゅつえん許可きょかと、以前いぜんわした出演しゅつえん本数ほんすうすくなくするという約束やくそくまもることをねがったところ、永田ながたはこれにいか山本やまもと一方いっぽうてき解雇かいこし、しゃ協定きょうていたて他社たしゃ映画えいが・テレビドラマにも出演しゅつえんさせなかった。同年どうねん人気にんき上昇じょうしょうちゅうであったかのう順子じゅんこ健康けんこう問題もんだいから、7がつ13にち公開こうかいの『風速ふうそくななじゅうめーとる』を最後さいごに27さい突然とつぜん引退いんたいした。看板かんばんスターを相次あいついでうしなった大映だいえい映画えいがかんは、空席くうせき目立めだつようになっていった。
東宝とうほうの『ゴジラ』に対抗たいこうして『大群たいぐんじゅうネズラ』を企画きかくあき撮影さつえい開始かいししたものの衛生えいせいめんなどで様々さまざま問題もんだい発生はっせいしたため、製作せいさく中止ちゅうしとなった。
  • 1964ねん昭和しょうわ39ねん全国ぜんこく映画館えいがかんすうが5000かんった。他社たしゃくら直営ちょくえいかんすくない大映だいえい苦戦くせんいられるが、大映だいえい製作せいさく原価げんかは「6000まんえんがれば黒字くろじ」という中堅ちゅうけんぶりだった。
  • 1965ねん昭和しょうわ40ねん前述ぜんじゅつの『大群たいぐんじゅうネズラ』にわる特撮とくさつ企画きかくとして東京とうきょう撮影さつえいしょで『だい怪獣かいじゅうガメラ』を製作せいさくだいヒット作品さくひんとなり大映だいえい特撮とくさつ技術ぎじゅつたかさを内外ないがいらしめた。子供こども中心ちゅうしんとしたあらたな観客かんきゃくそうは、倒産とうさんまで安定あんていした動員どういんすう維持いじし、末期まっき大映だいえいささえる数少かずすくないはしらのひとつとなった。テレビしつでは『ザ・ガードマン』をスタートさせ、だいヒットを記録きろく大映だいえいテレビしつ名声めいせいたかめることになった。
  • 1966ねん昭和しょうわ41ねん)3がつ 永田ながたは「日本にっぽん映画えいがかなら復興ふっこうする」の一文いちぶんをマスコミに発表はっぴょうした。同年どうねん東京とうきょう撮影さつえいしょ製作せいさくの『だい怪獣かいじゅう決闘けっとう ガメラたいバルゴン』と、京都きょうと撮影さつえいしょ製作せいさくの『だい魔神まじん』の2本立ほんだ興行こうぎょうおこなった。特撮とくさつ作品さくひん自社じしゃ2本立ほんだ興行こうぎょうは、国内こくない特撮とくさつ映画えいがのフロンティアながら特撮とくさつ仕切じきりれる監督かんとく円谷つぶらや英二えいじ1人ひとりであった東宝とうほうでは実現じつげんできなかった前代未聞ぜんだいみもん快挙かいきょとして話題わだいとなった。
  • 1967ねん昭和しょうわ42ねん石原いしはらプロ三船みふねプロなどのスターによる独立どくりつ制作せいさくプロダクションに触発しょくはつされたまい看板かんばんのひとりかつ新太郎しんたろうが、かちプロ設立せつりつして独立どくりつする。4月にまい看板かんばんのもうひとりである市川いちかわ雷蔵らいぞう主演しゅえん本格ほんかくてき和製わせいハードボイルド傑作けっさくあるころ』が公開こうかいされる。ところが、その同年どうねん9がつ専属せんぞく俳優はいゆう丸井まるい太郎たろうがガス自殺じさつした。元々もともと大部屋おおべや俳優はいゆうであった丸井まるいはテレビしつ製作せいさくの『図々ずうずうしいやつ』のヒットでちゃ人気にんきしゃとなったが、それを永田ながたによってしゃ協定きょうていたて無理矢理むりやり映画えいがかいもどされ、そのごろしにひとしいあつかいに絶望ぜつぼうしたものであったという。
同月どうげつ映画えいが事業じぎょう赤字あかじ起因きいんする巨額きょがく負債ふさい経営けいえいなん表面ひょうめんした。これをきっかけに永田ながた体制たいせい破局はきょくへと徐々じょじょかいはじめる。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん市川いちかわ雷蔵らいぞうが『せきわたるふとっぺ撮影さつえい期間きかんちゅうの6がつ11にちちょうからの大量たいりょう出血しゅっけつ発症はっしょうして入院にゅういんし、直腸ちょくちょうがん判明はんめいして手術しゅじゅつけた。雷蔵らいぞう当時とうじ大映だいえいの「たのつな」とまでわれ、経営けいえいてき苦境くきょう会社かいしゃ義父ぎふである永田ながたのために療養りょうようげて現場げんば復帰ふっきしなければならず、年内ねんないに1969ねん1がつ公開こうかいの『ねむり狂四郎きょうしろう悪女あくじょ』を撮影さつえいしたが、衰弱すいじゃくした身体しんたいまわりはできずに代役だいやくてる状態じょうたいであった。6月29にち有吉ありよし佐和子さわこ原作げんさく映画えいが不信ふしんのとき』を公開こうかいする。主演しゅえんした田宮たみや二郎じろう配役はいやく序列じょれつが4番目ばんめであることに抗議こうぎすると、永田ながた激怒げきどして田宮たみや一方いっぽうてき解雇かいこしゃ協定きょうていたて他社たしゃ制作せいさく映画えいが・テレビドラマに出演しゅつえんできなくさせる。山本やまもと富士子ふじこ丸井まるい太郎たろうつづ本件ほんけんで、しゃ協定きょうてい存在そんざい弊害へいがいがマスコミにおおきくげられた。永田ながたは、みずかつくげて日本にっぽん映画えいが黄金おうごん時代じだいささえた「スターシステム」と、その根底こんていささえたしゃ協定きょうてい崩壊ほうかいみずかまねいた。同年どうねん人気にんき若手わかて女優じょゆう姿すがた美千子みちこ退社たいしゃしている。1968ねん若手わかてではみね健二けんじあらた峰岸みねぎし隆之たかゆきかい入社にゅうしゃし『講道館こうどうかん破門はもんじょう』で登場とうじょうするあかるい話題わだいもあり、永田ながた田宮たみやわる看板かんばんスター候補こうほとしておおきな期待きたいせたが、末期まっき大映だいえいかれた環境かんきょうはスター候補こうほとして峰岸みねぎし双肩そうけん背負せおうには過酷かこくであった。
  • 1969ねん昭和しょうわ44ねん)、年初ねんしょから入院にゅういんちゅうだった雷蔵らいぞうが7がつ17にちに37さい死去しきょした。前年ぜんねんまついたみをこらえてえていた2がつ公開こうかいさく博徒ばくといちだい 血祭ちまつ不動ふどう』が遺作いさくとなる。看板かんばんスターを相次あいつうしない、新人しんじんスターや若手わかてスタッフも育成いくせいできず、かちプロダクションと共同きょうどう製作せいさくの『座頭市ざとういち』シリーズもいきおいはなく、テレビ業界ぎょうかい興隆こうりゅうされて映画えいが産業さんぎょう全体ぜんたい斜陽化しゃようかしており、大映だいえい観客かんきゃく動員どういんすう深刻しんこくみをはじめる。芸能げいのうかい永田ながた威光いこううすれ、のち苦境くきょうえて著名ちょめいタレントとなった田宮たみや鉢合はちあわせしたさい田宮たみや啖呵たんかられて屈辱くつじょくてき応対おうたいをされた。

1970年代ねんだい[編集へんしゅう]

  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん雷蔵らいぞう喪失そうしつ回復かいふくならず、6がつおなじく経営けいえい不振ふしん日活にっかつ配給はいきゅうもう統合とうごうしてダイニチうつはい設立せつりつし、大映だいえい専務せんむ松山まつやま英夫ひでお社長しゃちょう日活にっかつ常務じょうむつぼじゅうさんふく社長しゃちょうにそれぞれ兼任けんにん就任しゅうにんした。
社内しゃないから俳優はいゆうやスタッフの流出りゅうしゅつまずに予算よさん削減さくげんされ、制作せいさく現場げんば荒廃こうはいして旧来きゅうらい撮影さつえいしょシステム映画えいがづくりが破綻はたんするなかで、暴力ぼうりょく・エロ・グロを中心ちゅうしん企画きかくした。日活にっかつがわは『ネオン警察けいさつ』『野良猫のらねこロック』『戦争せんそう人間にんげん』シリーズなどをおくり、大映だいえいがわは『でんきくらげ』『じゅうだい妊娠にんしん』『おさなつま』などの「レモン・セックス・シリーズ」や「高校生こうこうせい番長ばんちょうシリーズ」など若者わかものねらった映画えいが製作せいさくした。かちプロなどの佳作かさく配給はいきゅうしたが、場当ばあたりてき経営けいえい提携ていけいですぐにまる。
10月7にち前年ぜんねんきし信介しんすけによる斡旋あっせんロッテをスポンサーにむかえたのにともない、チームめい東京とうきょうオリオンズから改称かいしょうしていたロッテオリオンズが、本拠地ほんきょち東京とうきょうスタジアムでリーグ優勝ゆうしょうめ、オーナーの永田ながたはグラウンドになだれんできた観客かんきゃくによってさき胴上どうあげされ感涙かんるいにむせんだ[4]。だが永田ながたは、よく1971ねん1がつ25にち経営けいえいなおしに専念せんねんするためオーナーを辞任じにん球団きゅうだん経営けいえいから撤退てったいし、スポンサー企業きぎょうだったロッテに球団きゅうだん所有しょゆう経営けいえい譲渡じょうとした。
  • 1971ねん昭和しょうわ46ねん
    • 3月 経営けいえいなんのため250にん希望きぼう退職たいしょくしゃ募集ぼしゅうした。4月に東京とうきょう京橋きょうばし交差点こうさてんかくにあった本社ほんしゃビルを売却ばいきゃくしたが、これは当時とうじ大映だいえい末期まっきてき様相ようそう象徴しょうちょうする出来事できごとであった。
1970年代ねんだい映画えいが産業さんぎょう深刻しんこく斜陽しゃようおちいったのは大映だいえいだけのはなしではなく、同業どうぎょう他社たしゃでも映画えいが制作せいさく部門ぶもん不振ふしんおちいるとその対処たいしょわれ、大幅おおはば整理せいり縮小しゅくしょう合理ごうり直営ちょくえい映画えいがかんなどの資産しさん整理せいりせまられることとなったのはおなじである。ただ、映画えいが制作せいさく部門ぶもん好調こうちょうキャッシュフロー潤沢じゅんたくだった1950年代ねんだい他社たしゃ映画えいが事業じぎょう収益しゅうえき元手もとで映画えいが事業じぎょう・スクリーン事業じぎょう増強ぞうきょうさく直営ちょくえい映画えいがかん新設しんせつ洋画ようが部門ぶもん機能きのう強化きょうかなど)や多角たかくによる経営けいえい安定あんていさく(テレビ番組ばんぐみけの施設しせつ活用かつようボウリングじょう不動産ふどうさん運用うんよう・タクシー会社かいしゃなどのサイドビジネス)を実施じっしし、これがおおかれすくなかれ奏功そうこうしていた。たいして大映だいえい永田ながた方針ほうしんとして映画えいが自社じしゃない製作せいさくにこだわりつづける一方いっぽうで、全盛期ぜんせいき収益しゅうえきおも株式かぶしき配当はいとう永田ながた政治せいじ活動かつどうかれ河野こうの一郎いちろうきし信介しんすけとの交流こうりゅうかいして政界せいかいフィクサー目指めざしていた)などに充当じゅうとうされ、経営けいえい基盤きばん強化きょうか積極せっきょくてき資本しほん投入とうにゅうしなかったてんが、他社たしゃとは決定的けっていてきことなっていた。映画えいが事業じぎょう不振ふしんとなり経済けいざいてきまったとき大映だいえいはそれにわり安定あんていてき収益しゅうえき手段しゅだんもなく、資金しきんめんきゅうするたびに本社ほんしゃ撮影さつえいしょなどをふく自社じしゃ関係かんけい敷地しきち資産しさんりしてくるしい状況じょうきょうをしのいだ。
  • 5月、ダイニチうつはいでは松山まつやま病気びょうき理由りゆう社長しゃちょう辞任じにんし、つぼ社長しゃちょう就任しゅうにんした。よく6がつ日活にっかつのワンマン社長しゃちょうとしてられたほり久作きゅうさく電撃でんげき辞任じにんして引退いんたいほり側近そっきんであったつぼ日活にっかつ常務じょうむ解任かいにんされダイニチうつはい社長しゃちょう専念せんねんとなった。8月、日活にっかつ離脱りだつしたことでダイニチうつはい崩壊ほうかい、ダイニチうつはいのこされたつぼわりって大映だいえい共倒ともだおれする格好かっこうになった。つぼでんのち日活にっかつゆかりのスタッフをあつめて1974ねん洋画ようが配給はいきゅう会社かいしゃ国際こくさい映画えいがしゃおこして映像えいぞう業界ぎょうかい再起さいきし、その一時いちじてきテレビアニメ業界ぎょうかい進出しんしゅつし『J9シリーズ』などを手掛てがけたが、1985ねん同社どうしゃ倒産とうさんることになった。
  • 10月からあらたに大映だいえい配給はいきゅう株式会社かぶしきがいしゃによる配給はいきゅう開始かいしされた。11月20にち最後さいご封切ふうきり作品さくひんである八並やつなみ映子えいこ主演しゅえんの『悪名あくめいあま』(大映だいえい東京とうきょう)と川崎かわさきあかね主演しゅえん風俗ふうぞく時代じだいげき蜘蛛くも湯女ゆな』(大映だいえい京都きょうと)を公開こうかいする。同月どうげつ29にちおりから体調たいちょうくずしていた永田ながたわり、永田ながた息子むすこである永田ながた秀雅ひでまさふく社長しゃちょうからぜん従業じゅうぎょういん解雇かいこ通告つうこくがなされ業務ぎょうむ全面ぜんめん停止ていしよく12がつ不渡ふわたり手形てがたし、大映だいえい破産はさん宣告せんこくけた。直後ちょくご大映だいえい存続そんぞくあきらめきれず尽力じんりょくしてきた永田ながたは、倒産とうさんのショックもありだか血圧けつあつ入院にゅういんした。12月28にち現在げんざい東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ上場じょうじょう廃止はいしとなった。かくて、永田ながた時代じだい大映だいえい日本にっぽん映画えいがかいでも当時とうじ空前くうぜん大型おおがた倒産とうさんによって終焉しゅうえんむかえた。
  • 1972ねん昭和しょうわ47ねん
最後さいごすう年間ねんかん末期まっきてき様相ようそうていしながらも存続そんぞくしていたしゃ協定きょうていも、東宝とうほう映画えいが制作せいさく分社ぶんしゃおよび専属せんぞく俳優はいゆう大量たいりょう解雇かいこ日活にっかつのアクション映画えいが路線ろせん終焉しゅうえん日活にっかつロマンポルノ路線ろせんへの転向てんこう)、大映だいえい倒産とうさん(いずれも1971ねんこった)でとどめをされる格好かっこうになり、完全かんぜん崩壊ほうかいした。経営けいえい破綻はたん直前ちょくぜん本社ほんしゃから分離ぶんり独立どくりつするかたちで大映だいえいテレビ発足ほっそくし、多数たすうのスタッフが異動いどうしていた。一方いっぽう京都きょうと太秦うずまさ大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ閉鎖へいさされた。当面とうめん労働ろうどう組合くみあい会社かいしゃ管理かんりし、経営けいえいさきさがすことになる。
倒産とうさん時点じてん大映だいえいおこなっていた数少かずすくない仕事しごとひとつとして、当時とうじ収録しゅうろくはじまったばかりのテレビ時代じだいげき木枯こがら紋次郎もんじろう』の京都きょうと撮影さつえいしょによる下請したう作業さぎょうがあった(序盤じょばん2製作せいさく協力きょうりょくとしてクレジットされている)。どうさく制作せいさく中断ちゅうだんふせぐため、1972ねん初頭しょとう大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ所属しょぞく俳優はいゆうとスタッフが中心ちゅうしんとなり、大映だいえいとはべつ資本しほん映像えいぞう京都きょうと設立せつりつされている。

徳間とくま時代ときよ[編集へんしゅう]

  • 1974ねん昭和しょうわ49ねん労働ろうどう組合くみあい徳間とくまやすしかい社長しゃちょうひきいる徳間書店とくましょてん経営けいえい再建さいけん合意ごうい破産はさんした大映だいえい株式会社かぶしきがいしゃわり、9月にあらたな法人ほうじんとして、資本しほんきん2おくえん大映だいえい映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつし、徳間書店とくましょてん傘下さんか映画えいが製作せいさく子会社こがいしゃとなる[6]。この時点じてん制作せいさく映画えいが配給はいきゅう他社たしゃ制作せいさく映画えいが配給はいきゅう本業ほんぎょうで、かつての同業どうぎょう他社たしゃであった東宝とうほう中心ちゅうしんに、東映とうえい松竹しょうちくといったところにも委託いたくするようになった。大映だいえい映画えいが株式会社かぶしきがいしゃのち大映だいえい株式会社かぶしきがいしゃ社名しゃめい変更へんこうした[7]
  • 1977ねん昭和しょうわ52ねん大映だいえい映画えいが撮影さつえいしょ配給はいきゅう部門ぶもんべつ会社かいしゃはなして、大映だいえい映画えいが撮影さつえいしょ大映だいえい映画えいが京都きょうと撮影さつえいしょ大映だいえい配給はいきゅう大映だいえい映像えいぞうの4子会社こがいしゃ分割ぶんかつされた[8]大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ大映だいえい映画えいが撮影さつえいしょしスタジオ)となるなど、土地とち資産しさん売却ばいきゃく人材じんざい合理ごうり負債ふさいらしていった。徳間書店とくましょてん出版しゅっぱんする小説しょうせつ原作げんさくとした『きみ憤怒ふんぬかわわたる』(永田ながた雅一まさいち映画えいがかい復帰ふっきした最初さいしょ作品さくひんでもある)や『黄金おうごんいぬ』などの製作せいさくはじまる。
  • 1982ねん昭和しょうわ57ねん国交こっこう10周年しゅうねん記念きねんしたにちちゅう合作がっさく映画えいが未完みかん対局たいきょく』が公開こうかいされ、「永田ながた大作だいさく路線ろせん」につづく「徳間とくまちょう大作たいさく路線ろせん」がはじまる。以後いご大映だいえいは、徳間書店とくましょてん東光とうこう徳間とくま事業じぎょう本部ほんぶ東光とうこう徳間とくま)と共同きょうどう中国ちゅうごく映画えいが韓国かんこく映画えいがけ・配給はいきゅうなども手掛てがけた。
  • 1986ねん昭和しょうわ61ねん京都きょうと太秦うずまさ大映だいえい映画えいが撮影さつえいしょ完全かんぜん閉鎖へいさし、跡地あとち売却ばいきゃくする。
  • 1987ねん昭和しょうわ62ねん) SF大作たいさく首都しゅと消失しょうしつ』を公開こうかいする。
  • 1988ねん昭和しょうわ63ねん当時とうじ史上しじょう最大さいだいの45おくえん」をとうじたにちちゅう合作がっさくちょう大作たいさく映画えいが敦煌とんこう』を公開こうかいする。
  • 1992ねん平成へいせい4ねん) 25おくえんとうじてロシア撮影さつえいした『おろしやくによいゆめたん』を公開こうかいする。
これら「ちょう大作たいさく路線ろせん」による借入金かりいれきん増大ぞうだいバブル崩壊ほうかいなどにより、大映だいえいのみならず徳間書店とくましょてんグループ自体じたい累積るいせき赤字あかじふくらんだ。その平成へいせい『ガメラ』シリーズや『Shall we ダンス?』など佳作かさくにも積極せっきょくてき出資しゅっししてヒットにつなげたものの、徳間書店とくましょてん住友銀行すみともぎんこう管理かんりにおかれることとなり、大映だいえい売却ばいきゃく沙汰ざたされはじめた。
  • 2000ねん平成へいせい12ねん徳間とくまやすしかい死去しきょ
  • 2002ねん平成へいせい14ねん
    • 7がつ 徳間書店とくましょてん同業どうぎょう角川書店かどかわしょてん大映だいえい保有ほゆうするぜん映画えいがとその配給はいきゅうけんおよびビデオ制作せいさくけん調布ちょうふ大映だいえいスタジオ(多摩川たまがわ撮影さつえいしょ)の運営うんえいなど、ぜん事業じぎょう売却ばいきゃくすることで合意ごういする。
    • 11月、角川かどかわ映像えいぞう子会社こがいしゃ株式会社かぶしきがいしゃ角川かどかわ大映だいえい映画えいが」が設立せつりつされ、大映だいえい営業えいぎょうけん従業じゅうぎょういんのすべてをこれに移譲いじょうし、ここに大映だいえいは60ねん歴史れきし事実じじつじょうまくろした。法人ほうじん自体じたいは2003ねん1がつ解散かいさん、2007ねん4がつ清算せいさんゆいりょうし、名実めいじつども消滅しょうめつしている。

解散かいさん角川かどかわ時代じだい[編集へんしゅう]

  • 2002ねん平成へいせい14ねん)11月、株式会社かぶしきがいしゃ角川書店かどかわしょてん大映だいえい営業えいぎょうけん取得しゅとく株式会社かぶしきがいしゃ角川かどかわ大映だいえい映画えいが新規しんき設立せつりつ
  • 2004ねん平成へいせい16ねん)1がつ角川かどかわ大映だいえい映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ角川書店かどかわしょてんのエンタテインメント事業じぎょう統合とうごう
  • 2004ねん平成へいせい16ねん)4がつ角川かどかわ大映だいえい映画えいががトスカドメイン株式会社かぶしきがいしゃ吸収きゅうしゅう合併がっぺい角川かどかわ映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ社名しゃめい変更へんこう大映だいえいスタジオ(多摩川たまがわ撮影さつえいしょ)も、角川かどかわ大映だいえい撮影さつえいしょ改称かいしょうした。
  • 2006ねん平成へいせい18ねん)3がつ映画えいが配給はいきゅう会社かいしゃ角川かどかわヘラルド・ピクチャーズ合併がっぺいして角川かどかわヘラルド映画えいが社名しゃめい変更へんこうする。ここから大映だいえいながれを企業きぎょうは、36ねんぶりに映画えいが配給はいきゅうさい参入さんにゅうすることになった。
  • 2007ねん平成へいせい19ねん)3がつ社名しゃめい角川かどかわ映画えいが株式会社かぶしきがいしゃもどす。
  • 2011ねん平成へいせい23ねん)1がつ角川書店かどかわしょてん吸収きゅうしゅう合併がっぺいされる。
  • 2013ねん平成へいせい25ねん)4がつ角川書店かどかわしょてん会社かいしゃ分割ぶんかつにより子会社こがいしゃ株式会社かぶしきがいしゃ角川かどかわ大映だいえいスタジオ設立せつりつ
  • 2013ねん平成へいせい25ねん)10がつKADOKAWA角川書店かどかわしょてん吸収きゅうしゅう合併がっぺいする。

大映だいえいニュース[編集へんしゅう]

戦後せんご大映だいえい作品さくひん予告よこくへん公開こうかいした短編たんぺんフィルムで、1962ねんまで製作せいさくされた。本数ほんすうは900ほん以上いじょうおよぶ。

おも映画えいが作品さくひん[編集へんしゅう]

戦中せんちゅう戦後せんご[編集へんしゅう]

永田ながた時代ときよ[編集へんしゅう]

徳間とくま時代ときよ[編集へんしゅう]

在籍ざいせきしたおも人物じんぶつ[編集へんしゅう]

監督かんとく[編集へんしゅう]

プロデューサー[編集へんしゅう]

技術ぎじゅつしゃ[編集へんしゅう]

男優だんゆう[編集へんしゅう]

設立せつりつ初期しょき[編集へんしゅう]

永田ながた時代ときよ[編集へんしゅう]

女優じょゆう[編集へんしゅう]

設立せつりつ初期しょき[編集へんしゅう]

永田ながた時代ときよ[編集へんしゅう]

ラグビー[編集へんしゅう]

おも上映じょうえいかん[編集へんしゅう]

建物たてもの正面しょうめんに「映画えいが大映だいえい」という看板かんばんかかげられていた渋谷しぶや大映だいえい劇場げきじょう[9]

映画えいが興行こうぎょう成績せいせき[編集へんしゅう]

1999ねんまでは、映画えいが興行こうぎょう成績せいせき配給はいきゅう収入しゅうにゅう発表はっぴょうされていた。

大映だいえい年間ねんかん配給はいきゅう収入しゅうにゅう(1953ねん - 1971ねん
年度ねんど 年間ねんかん配給はいきゅう収入しゅうにゅう

単位たんいひゃくまんえん

前年ぜんねん対比たいひ ダイニチ
年間ねんかん配給はいきゅう収入しゅうにゅう
単位たんいひゃくまんえん
1953 3,030 N/A N/A
1954 3,902 128.8% N/A
1955 4,076 104.5% N/A
1956 4,599 112.8% N/A
1957 4,793 104.2% N/A
1958 5,340 111.4% N/A
1959 4,709 088.2% N/A
1960 4,608 097.9% N/A
1961 4,139 089.8% N/A
1962 4,198 101.4% N/A
1963 3,658 087.1% N/A
1964 4,038 110.4% N/A
1965 3,627 089.8% N/A
1966 3,517 097.0% N/A
1967 3,171 090.2% N/A
1968 3,545 111.8% N/A
1969 2,986 084.2% N/A
1970[注釈ちゅうしゃく 2] 1,119 037.5% 2,103
1971 **133 011.9% 1,540
1953ねんと1954ねん出典しゅってん: 井上いのうえ雅雄まさお映画えいが産業さんぎょう戦後せんご黄金おうごん」の実態じったい(した) : ポスト占領せんりょう映画えいが産業さんぎょう大映だいえい企業きぎょう経営けいえいろん」『立教りっきょう經濟けいざいがく研究けんきゅうだい71かんだい2ごう立教大学りっきょうだいがく経済けいざいがく研究けんきゅうかい、2017ねん10がつ、102ぺーじdoi:10.14992/00015468 
1955ねんから1971ねん出典しゅってん: 東宝とうほう へん東宝とうほう75ねんのあゆみ 1932 - 2007 資料しりょう』(PDF)東宝とうほう、2010ねん4がつ、48ぺーじ 

邦画配給会社別の年間配給収入(1953年 - 1975年)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 映画えいが会社かいしゃは「55さい定年ていねんせい」である。
  2. ^ 単独たんどく配給はいきゅうは5がつまで。6月からは、ダイニチが大映だいえい日活にっかつの2しゃ製作せいさく作品さくひん配給はいきゅう開始かいし

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 『ガメラをつくったおとこ 評伝ひょうでん 映画えいが監督かんとく湯浅ゆあさ憲明のりあき』(アスペクトかん
  2. ^ 『タウンムック増刊ぞうかん 大映だいえい特撮とくさつコレクション だい魔神まじん』(徳間書店とくましょてん
  3. ^ 聞書ききがきアラカンいちだい - 鞍馬あんば天狗てんぐのおじさんは』(竹中たけなかろう白川しらかわ書院しょいん
  4. ^ 波瀾はらん浪漫ろうまん球団きゅうだん。マリーンズの前身ぜんしん、オリオンズ”. 週刊しゅうかんベースボール(2018ねん5がつ27にち作成さくせい). 2020ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  5. ^ a b 波多はたあきら映画えいがかいうご大映だいえいだい1かい債権さいけんしゃ集会しゅうかい」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』1972ねん9がつ上旬じょうじゅんごうキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、143ぺーじ 
  6. ^ 田中たなか純一郎じゅんいちろう日本にっぽん映画えいが発達はったつ5 映像えいぞう時代じだい到来とうらい中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1980ねん、p.299
  7. ^ 平成へいせい19ねん(ワ)だい11535ごう著作ちょさくけん侵害しんがい差止さしどめ請求せいきゅう事件じけん 裁判所さいばんしょ
  8. ^ 日経にっけい産業さんぎょう新聞しんぶん』1977ねん9がつ16にち
  9. ^ 映画えいがかんのある風景ふうけい 昭和しょうわ30年代ねんだいさか風土記ふどき関東かんとうへんキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、2010ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 『ああ銀幕ぎんまく美女びじょ グラフ日本にっぽん映画えいが戦後せんごへん』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃかん
  • 『タウンムック増刊ぞうかん 大映だいえい特撮とくさつコレクション だい魔神まじん』(徳間書店とくましょてん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]