八代目 市川 雷蔵(、1931年〈昭和6年〉8月29日 - 1969年〈昭和44年〉7月17日)は、歌舞伎役者および日本の俳優。出生名は亀崎 章雄()。後に本名を竹内 嘉男()、さらに太田 吉哉()に改名した。身長は170センチメートル[1]。
生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台を踏む。1951年(昭和26年)に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。1954年(昭和29年)に映画俳優に転身。1959年(昭和34年)の映画『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍した。ファンから「雷(らい)さま」と親しまれた。1968年(昭和43年)6月に直腸癌を患っていることがわかり、手術を受けるが肝臓に転移、翌年7月17日に死去した。
その生涯で芸名や本名がたびたび変わっているため、本文中でこの人物のことを指すときは原則として「雷蔵」で統一する。
誕生・三代目市川九團次の養子となる(1931年8月 - 1933年)
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市川雷蔵は1931年(昭和6年)8月29日、京都府京都市中京区西木屋町神屋町で誕生した。出生時の名は亀崎 章雄といった。生後6か月の時に伯父で歌舞伎役者の三代目市川九團次の養子となり、本名を竹内 嘉男と改名した。
映画評論家の田山力哉によると、雷蔵が養子に出された経緯は次のとおりである。雷蔵の父は母が雷蔵を妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良に移り、母は父の生家に留まった。しかし母は父の親族のいじめに遭い、母は父に助けを求めたが無視されたため、たまりかねて実家に戻って雷蔵を出産。その時までに両親の仲は決裂しており、母は1人で雷蔵を育てるつもりだったが、間もなく父の義兄にあたる三代目九團次が雷蔵を養子として引き取ると申し出た。母ははじめこの申し出を断ったが最終的に同意、雷蔵は九團次の養子となった。雷蔵自身が九團次の養子であることを知ったのは16歳の時、実母との対面を果たしたのは30歳を過ぎてからのことだった。
歌舞伎役者となる(1934年 - 1949年5月)
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三代目九團次の養子となってからおよそ2年が過ぎた1934年、雷蔵は京都から大阪へ移った。九團次は幼少期の雷蔵に歌舞伎役者の修行をさせなかったが、1946年、3年生の時に大阪府立天王寺中学校 (現在の大阪府立天王寺高等学校) を退学して歌舞伎役者になる道を選んだ[注釈 1]。
1946年11月、15歳の時に大阪歌舞伎座で催された東西合同大歌舞伎の『中山七里』の娘おはなで市川 莚蔵(いちかわ えんぞう、養父・三代目市川九團次の前名)を二代目として名乗り初舞台を踏んだ。初舞台から2年余りが経った1949年5月には嵐鯉昇(後の八代目嵐吉三郎、映画俳優・北上弥太郎)や二代目中村太郎らとともに若手による勉強会「つくし会」を立ち上げ、稽古に励んだ。しかし養父の九團次は京都市会議員の子で、歌舞伎役者に憧れて二代目市川左團次に弟子入りした、門弟あがりの役者だった。権門の出ではない九團次は上方歌舞伎における脇役専門の役者に過ぎず、雷蔵はその息子であることに苦しみ続けることになる。
三代目市川壽海の養子となる(1949年6月 - 1951年6月)
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1949年に雷蔵が「つくし会」を立ち上げたのと同じ時期に、演出家の武智鉄二は筋の良い若手歌舞伎役者を起用して、後に「武智歌舞伎」と呼ばれるようになる正統派歌舞伎を上演するようになった[注釈 2]。「つくし会」が武智歌舞伎に参加したことがきっかけで雷蔵を知った武智は、雷蔵の役者としての資質を高く評価したが、九團次の子のままでは権門が幅を利かせる梨園では日の目を見ずに埋もれてしまうことを案じた。そこで武智は、四半世紀もその名が絶えていた上方歌舞伎の大名跡「中村雀右衛門」を継がせようと考えたが、雷蔵が梨園の権門の出でないことを嫌った三代目中村雀右衛門の未亡人に断られてしまう。
その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る[17]。1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた[18]。さらに七代目團十郎と九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され[19]、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号と定紋を許されてもいた[注釈 3][20]。そこで武智は関係者に働きかけ、この養子縁組を取りまとめることに成功する。壽海は雷蔵に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由緒ある名跡である「市川新蔵」を継がせたいと願ったが、これには当時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった二代目市川猿之助(初代猿翁)が「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と猛反対し[注釈 4]、交渉の結果「市川雷蔵」の名跡を継ぐことで決着した。養子縁組は1951年4月に成立。同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた。なお、映画監督の池広一夫によると三代目市川壽海について、雷蔵の実父ではないかという噂があったという。
養子縁組を受けて、雷蔵は後半生の本名・太田 吉哉に改名した。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している。
映画俳優に転身(1951年7月 - 1957年)
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1951年に壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、さして良い役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた。そんな中、雷蔵は1954年に大映所属の映画俳優に転身した。
動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べているが、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し[注釈 5]、梨園と縁を切ることを決意すると、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身したという。なお、映画俳優転身後に雷蔵がつとめた歌舞伎は1964年1月、前年に落成したばかりの日生劇場で上演された武智鉄二演出『勧進帳』の富樫左衛門のみである。雷蔵はこの時「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映画は年を取ったらだめ。若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている。映画俳優になることを決めた後、雷蔵は映画館に足繁く通って東映の時代劇スター中村錦之助の演技を研究した。
雷蔵は1954年8月25日公開の『花の白虎隊』で映画俳優としてデビューした。権門の出ではない雷蔵の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、関西歌舞伎の重鎮・市川壽海の子である雷蔵は映画界では貴種として扱われた。大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、デビュー作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮来出島 美男剣法』(1954年12月22日公開)、6作目の『次男坊鴉』(1955年1月29日公開)と立て続けに主役に抜擢した。
デビュー2年目の1955年、雷蔵は『新・平家物語』(1955年9月21日公開)の平清盛役でスターとして注目を集めるようになった。雷蔵の映画を16本監督した田中徳三は、当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている。また雷蔵の映画を16本監督した池広一夫は、それまで長谷川一夫の亜流のようなことをやっていたのが、じわじわと役者根性が出てきたと評している。映画評論家の佐藤忠男は、『新・平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷蔵が、「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している。雷蔵は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった。元大映企画部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷蔵に「天下を制した青年清盛」を演じさせるのは大変な冒険だったという。雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行ったが改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった。雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという。『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった。
トップスターとなる (1958年 - 1968年5月)
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1958年(昭和33年)、市川崑は『炎上』(同年8月19日公開。原作は三島由紀夫『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、大映社内にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視したり反対する意見もあったが、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵はこの役を好演した。市川は雷蔵の演技を「百点満点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した。『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している。田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している。なお、大映企画部だった辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した。
1963年(昭和38年)に始まった『眠狂四郎』シリーズは、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。田中徳三によると、雷蔵は当初主人公・眠狂四郎を演じることに苦戦した。雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎殺法帖』(1963年(昭和38年)11月2日公開)について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めているものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』(1964年(昭和39年)10月17日公開)で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した。『眠狂四郎』シリーズにおける雷蔵の演技について勝新太郎は、「眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。剣で斬らないで顔で斬ってた」と述懐、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している。池広一夫は「何も言わないで、表情もなしで、ただ歩いている姿だけで、背負っている過去みたいなものを表現した」と評している。『眠狂四郎多情剣』の監督を務めた井上昭は、雷蔵以外にも眠狂四郎を演じた役者はいるが、精神性において雷蔵にはかなわなかったと述べている。雷蔵が主演したシリーズの作品数は12本に及び、雷蔵が主演した作品の中で最も多いものとなった。
池広一夫によると、雷蔵は俳優としてキャリアを重ねるにつれ、監督として映画製作に携わることを希望するようになっていったという。池広は雷蔵に対し、監督ではなくプロデューサーとして題材、脚本家、監督、出演者をすべて決める方がよいとアドバイスした。1968年(昭和43年)1月、雷蔵は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえたい」という決意の下、劇団「テアトロ鏑矢」を設立しプロデューサーとしての活動を始めようとしたが、その直後に病に冒され(下述)、劇団が活動することはなかった。雷蔵の作品14本の脚本を担当した星川清司によると、雷蔵は星川と三隅研次に「映画というのはそう長くないかもしれないなあ。いつか3人で芝居をやろう。新しい仕事をやってみよう」、「黙阿弥の作品を現代的な目でとらえてやってみようよ」と語ったこともあったという。
晩年・死去(1968年6月 - 1969年7月17日)
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1968年(昭和43年)6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した。検査の結果、直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった。8月10日に手術を受け退院したが、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた。雷蔵は生まれつき胃腸が弱く、1961年(昭和36年)にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診断を受けたことがあった。また、1964年(昭和39年)1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、「下痢に悩まされている」と告白している。
退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代 血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)の撮影を行ったが、体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた。1969年(昭和44年)2月に体調不良を訴え再入院。2度目の手術を受けた雷蔵は、スープも喉を通らなくなるほど衰弱していたが、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。しかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に二代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなったという。7月17日、転移性肝がんのため死去[68]。37歳没。葬儀は7月23日に大田区の池上本門寺で行われた。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。墓所もかつては同寺にあったが、現在は久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)に移転している。
死の間際、雷蔵は混濁した意識の中で自分の死に顔を誰にも見せないよう何度も懇願したといわれているが、妻の太田雅子はこれを否定し、「雷蔵は最後まで復帰をあきらめておらず、遺言は一切なかった」と述べている。死後、雷蔵の顔には白布が二重に巻かれ、火葬されるまで解かれることはなかった。雅子によると、本人の「痩せてしまった姿を誰にも見せたくない」という遺志から、死に顔を見たのは養父の壽海と社長の永田だけであったという。
最後の出演作品となったのは『博徒一代 血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)で、当時人気を博していた東映の任侠路線を明らかに意識した作品だった。雷蔵は「鶴田浩二の二番煎じを俺にやれというのか」と出演を渋ったが、土田正義が「次はやりたい作品に出演させる」と説得し、出演が決まった経緯があった。しかし、土田は後年に本人が乗り気でなかった作品が遺作になったことについて、後悔の念を述べている。死から2年後の1971年(昭和46年)に大映は倒産したが、星川清司は「雷蔵の死は、大映の倒産を象徴する出来事だった」と回顧している。
死から5年後の1974年、ファンクラブ「朗雷会」が発足、2019年現在も活動を続けている。大映京都撮影所で製作部長を務めた松原正樹によると、雷蔵のファン層はその演技や人間性に惹かれたと思われるインテリの女性が多いところに特徴があり、「キャーキャーとさわぐようなタイプなど見当たらなかった」という。また京都では、雷蔵の命日にあたる7月17日に行われる「市川雷蔵映画祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている[75][76]。2009年12月から[77]2011年5月まで[78]雷蔵の出演作品を上映する『没後40年特別企画 大雷蔵祭』が開催された。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の6位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第7位になった。2014年発表の『キネマ旬報』による『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優3位となった[79]。
1962年(昭和37年)に永田雅一の養女・雅子と結婚。3人の子供をもうけている。雅子は雷蔵から「表には一切出ないように」と言われており、死後も夫について語って欲しいという依頼を断り続けていたが、死後40年を経た2009年(平成21年)、『文藝春秋』2009年(平成21年)5月特別号に回想記「夫・市川雷蔵へ四十年目の恋文」を発表している。
市川 (1995)、巻末の年譜による。
脚本家の八尋不二は雷蔵の人柄について、「誰に対しても、おごらず、たかぶらず、常に礼儀正しかった」と評しており、その性格が芸風にも反映されていたとしている。八尋は、「数ある時代劇の俳優の中にも、もう彼のように、折り目の正しい、いい意味での、本当の武士らしい武士になりきれるものは一人もいない」と述べている。
池広一夫は、雷蔵の生い立ちが役者としての雷蔵に「非情の影」を落とし、その結果人生の影の部分、地の部分が出ていた。しかも単に出すのではなく噛みしめて出していたと評している。雷蔵の出演作品で最も多く監督を務めた森一生は、雷蔵は自身が抱える「誰にもいっていない人間的な苦しみ」に耐え、芝居に昇華させていたと述べている。森が映画評論家の山根貞男によるインタビューを受けた際、2人は雷蔵に「さわやかな悲しさがある」という見解で一致した。山根はこの言葉の意味を「悲劇を演じることが多いのですが、ただ暗くゆううつというのではなく、どこかにスカッとした面があります。悲しみとさわやかさの両方を備えた役者というのは雷蔵以外にはいません」と解説している。
佐藤忠男は雷蔵の演技について、時代劇、現代劇を問わず、「どんなにみじめな役でも、どんなに滑稽な役でも、それを格調高く演じることによって作品に気品を与えた」と評している。評論家の川本三郎は雷蔵の演技の良さについて、「ここにいながらここにいない」ともいうべき「濁世にあっていつもまなざしを遠くへと向けている透明感」にあると評し、この透明感ゆえに「取りようによってはキザなセリフが、そうはならない」と述べている。
鈴木晰也は、雷蔵と同じように武智歌舞伎から映画俳優に転身したが、大成せずに結局歌舞伎の舞台に戻った二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)や七代目大谷友右衛門(四代目中村雀右衛門)を引き合いに出して、梨園で子役時代を経験しなかった雷蔵が歌舞伎に染まりきらなかったことが映画で成功した大きな要因だったと分析している。
2014年に映画関係者や文化人を対象にした『キネマ旬報』のアンケートでは、好きな日本映画男優の第3位に選ばれている。
雷蔵には普段は地味で目立たない容姿だが、撮影時にメークをすると一変するという特徴があった。多くの映画関係者がこの特徴に言及している。
市川崑は、雷蔵の本質は「硬質かつ素朴」で、通常のスターが特定のキャラクターを通すのに対し、持前の素朴さが「メーキャップでどうにでも変わる」ところに特徴があったと評している。井上昭は、メークを施すと普段の姿とはまったく違って美しく見えたといい、また「『え、これが!?』というぐらい、メークでパッと変わる」とも述べている。田中徳三は、「手応えのない温和さと、清潔な雰囲気を持ったこの人は、仕事になると凛然と肩を上げて、着実で重厚な、そして絢爛たる演技者に変貌した。これは素顔を知っている私には、目をみひらくような驚きであった」と評している。
井上昭によると、デビュー時に雷蔵は勝新太郎や花柳武始とともに長谷川一夫からメークの指導を受けた。他の2人は教わった通りにメークをしていたのに対し、雷蔵だけは自己流を通す部分が多かったという。井上は、目張りや眉毛のメークに雷蔵の独自性が表れていると分析している。さらに井上によると、雷蔵は主要なメークを自身の手で行い、その様子を人に見せようとはしなかったという。井上は、雷蔵にとってメークは役柄に没頭していくプロセスであったため、他人には見られたくなかったのだと推測している。親交の深かった者の多くが語るところでは、メーキャップが天才的に上手で、洋装でメガネを掛けた地味な銀行員然たる普段の雷蔵と、カメラの前の雷蔵とはまるで別人であったため、私生活の雷蔵と街ですれ違っても、その質素さからスター雷蔵だと気づく者は、ファンはもとより業界関係者にもほとんどいなかった。
『好色一代男』の脚本を書いた白坂依志夫は、普段は商社マンのようだが「スクリーンに登場すると、驚くべき変貌を遂げ、明るさのなかに、虚無と一抹の郷愁をたたえた雄々しく、美しい青年スタア」に変貌を遂げると評している。井上昭は、雷蔵が主演した作品のポスターには後姿の雷蔵が顔だけ振り向いている構図のものが多いが、これは後姿にこそ雷蔵の持つ虚無的な魅力が出ると多くの監督が感じていたためだと述べている。
雷蔵は脇役専門の役者・三代目市川九團次の子で、かつては二代目市川莚蔵といった。勝新太郎は長唄三味線方・杵屋勝東治の子で、かつては二代目杵屋勝丸といった。その雷蔵と勝が大映と専属契約を結んだのはともに1954年で、2人は同期入社だった。同じ1931年生まれで、歌舞伎に早々と見切りをつけて映画という新天地を選んだ点で、この2人は良く似た境遇にあった。
前述のように、大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、「スムーズに軌道に乗った」。一方、田中徳三によるとデビュー当初の勝は「長谷川一夫さんの二番煎じのような」白塗りの二枚目を演じていたが、監督も配役も一流のものとはいえず、長らくヒット作に恵まれなかった。
勝が興行収入や話題において雷蔵を凌ぐほどの活躍を見せるようになったのは、1960年代に入って主演した『悪名』シリーズや『座頭市』シリーズがヒットしてからのことであった。鈴木晰成は、勝は「70〜80本撮って何ひとつ当たらん状態が続いた後、『悪名』でようやく使いものになった」と述懐している。また田中徳三によると、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じて絶賛されるまで勝の出演作は客入りが悪く、映画館主からはなぜあの俳優ばかりを使うのかという苦情が寄せられるほどだったという。1959年当時の状況について勝は、「番付が違う。雷ちゃんはもうすぐ大関、横綱になるのが分かってたわけだから。おれのほうは、三役になれるかなれないかというところ」と振り返っている。
「勝」と「雷」を掛け合わせて「カツライス」と呼ばれるまでになった大映の「二枚看板」市川雷蔵と勝新太郎は、その容姿や芸風が大きく異なることから比較の対象とされることが多く、2人はライバル関係にあると一般には思われていた。しかし「勝っちゃん」「雷ちゃん」と互いを呼び合う2人の仲は、関係者によると決して悪いものではなく、むしろ親しい関係にあったという。そもそも雷蔵は、勝の妻である中村玉緒とは、玉緒の父が関西歌舞伎の二代目中村鴈治郎という関係もあって、彼女が幼少時から親交があった。
作家の村松友視は、「大きい役とは縁がなく、門閥と因襲にしばられる歌舞伎界で、悶々とした日々をすごし」た雷蔵と、歌舞伎界において裏方である長唄三味線の出身である勝には、ともに「一種のコンプレックスが、解決すべき重大な問題としてあった」のであって、「同じようなエネルギー源となる要因」を持っていたのだと指摘している。
- 俳優としての比較
- 雷蔵は台本が完成するまでは作品について色々と意見を言う性格で、「ゴテ雷」と呼ばれた。ただし一度納得すると不平や愚痴を言うことはなく、撮影に入ってから意見を言うこともなかった。一方、勝は台本の段階では何も言わず、撮影現場で意見をするタイプで、台本とは全く違う演技をしてスタッフを困らせることもしばしばあった。
- 井上昭によると、雷蔵は監督の演出方法に合わせて役を演じることができた。そのため、たとえば同じ眠狂四郎でも監督が違うと匂いや味が違うのだと述べている。一方の勝の場合は、監督が違っても「座頭市だったら、全部、勝ちゃんの座頭市」になると述べている。鈴木晰也も同様の意見を述べている。村松友視は、勝は「何をやっても勝新太郎のイメージ」になるタイプの俳優で、長谷川一夫や片岡千恵蔵らとともに日本の映画スターの本流に属するのに対して、雷蔵は役柄に応じて多彩に演じ分ける、日本の映画スターの中では異色の存在であったと分析している。
- 両者の主演作品で監督した田中徳三は、両者の殺陣を比較して、雷蔵については「腰から下がきまらない点はあるが、それでも十分にリアルな立ち回りもできる人」とおおむね肯定的な評価を与えている一方で、「勝ちゃんが巧すぎる」として勝に軍配を上げている。
- 人物像の比較
- 池広一夫によると、勝は嫌いな相手に対しても「一応調子を合わせる」ことができたが、雷蔵の場合は「嫌いな人は徹底的に嫌う」タイプで、面と向かって「顔も見たくない」という態度をとったという。池広によると、雷蔵が特に嫌ったのは仕事がいい加減な人間だった。
- 大映映画の多くで美術監督をつとめた西岡善信は、映画関係者との人付き合い方について、勝が俳優や会社の偉いさんと飲みに行くタイプだったのに対し、雷蔵は裏方や若輩者と交流するタイプだったという。田中徳三も、雷蔵はスタッフの面倒見がよく、しばしば自宅へ招いたり一緒に食事をするなどしていたと述べている。星川清司によると、雷蔵は「ネオンのけばけばしい店や有名な料亭」を好まず、「ごくふつうの料亭で格式ばらずに」、「真正直に映画論や人生論をたたかわした」。
- 雷蔵の『眠狂四郎炎情剣』と勝の『座頭市二段斬り』をほぼ同時期に手がけた撮影監督の森田富士郎は、両者の性格について、雷蔵は真面目で直線的だが、勝は直感的で点をあちこちに散らばめたような行動様式だったと述べている。
これまでに確認されている雷蔵の出演作品は159本である[77]。以下に年度別出演作品を示す[注釈 6]。
公開日
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作品
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脚本
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監督
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共演
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関の弥太っぺ |
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三隅研次 |
本郷功次郎を代役に製作、『二匹の用心棒』として公開
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1969年7月12日 |
あゝ海軍 |
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村山三男 |
中村吉右衛門を代役に製作された
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- ^ 歌舞伎役者となった経緯について、雷蔵自身は、中学をやめて家で過ごすうちになんとなく芸能界に興味を持ち、なんとなく歌舞伎役者になったと述べているが、海軍士官や医師になることを志したものの近視だったため海軍士官になることは諦めざるを得ず、やがて医師になることも諦めたともいわれている。
- ^ 武智歌舞伎の第1回公演は1949年12月に行われている。
- ^ 「壽海老」は本来、市川宗家の御曹司・市川海老蔵が替紋の代替に使う役者文様である。
- ^ 先代の五代目市川新蔵は九代目市川團十郎に見込まれてその養子となり、ゆくゆくは「十代目團十郎」となることが期待されたが病を得て早世したという経緯があった。
- ^ 武智鉄二は、『高野聖』での配役に憤った雷蔵が武智に対し、「こんなことでは、永久に、脇役者にされてしまいます」と語ったことを明かしている。
- ^ 市川 (1995)および室岡 (1993)巻末の資料をもとに、上映年別に記載(『おてもやん』のみMovie Walkerを参照)。
- ^ a b c d e f 特別出演。
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括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月)
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