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渥美あつみきよし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あつみ きよし
渥美あつみ きよし
渥美 清
中日新聞ちゅうにちしんぶん』1967ねん11月27にちづけ夕刊ゆうかん
本名ほんみょう 田所たどころ 康雄やすお(たどころ やすお)
べつ名義めいぎ かぜたかし俳号はいごう
生年月日せいねんがっぴ (1928-03-10) 1928ねん3がつ10日とおか
ぼつ年月日ねんがっぴ (1996-08-04) 1996ねん8がつ4にち(68さいぼつ
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう下谷しもたに
げん東京とうきょう台東たいとう
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう文京ぶんきょう順天堂大学じゅんてんどうだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく順天堂医院じゅんてんどういいん
身長しんちょう 169 cm
血液けつえきがた Bがた
職業しょくぎょう 俳優はいゆうコメディアン演歌えんか歌手かしゅ
ジャンル 映画えいがテレビドラマ舞台ぶたい
活動かつどう期間きかん 1946ねん - 1996ねん
配偶はいぐうしゃ あり
著名ちょめい家族かぞく 田所たどころ友次ともじろうちち
田所たどころタツ(はは
田所たどころ健一郎けんいちろうあに
田所たどころ健太郎けんたろう長男ちょうなん
おも作品さくひん
テレビドラマ
渥美あつみきよしいてたまるか
こんなおとこでよかったら
映画えいが
拝啓はいけい天皇陛下てんのうへいかさま
喜劇きげき急行きゅうこう列車れっしゃ
喜劇きげき団体だんたい列車れっしゃ
喜劇きげき初詣はつもうで列車れっしゃ
スクラップ集団しゅうだん
おとこはつらいよ』シリーズ
キネマの天地てんち
 
受賞じゅしょう
ブルーリボンしょう
そのしょう
キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン
男優だんゆうしょう
1970ねんおとこはつらいよ
毎日まいにち映画えいがコンクール
男優だんゆう主演しゅえんしょう
1970ねんおとこはつらいよ』『ぞくおとこはつらいよ
日刊にっかんスポーツ映画えいが大賞たいしょう
主演しゅえん男優だんゆうしょう
1988ねんおとこはつらいよ 寅次郎とらじろう物語ものがたり
芸術げいじゅつ選奨せんしょう
1972ねん 文部もんぶ大臣だいじんしょう
1988ねん 紫綬褒章しじゅほうしょう
1996ねん 国民こくみん栄誉えいよしょう
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渥美あつみ きよし(あつみ きよし、1928ねん昭和しょうわ3ねん3がつ10日とおか - 1996ねん平成へいせい8ねん8がつ4にち)は、日本にっぽんコメディアン俳優はいゆう歌手かしゅ本名ほんみょう田所たどころ 康雄やすお(たどころ やすお)。

代表だいひょうさくおとこはつらいよ』シリーズで、柴又しばまたそだちのテキ風来坊ふうらいぼう主人公しゅじんこうくるま 寅次郎とらじろう」をえんじ、「とらさん」としてひろ国民こくみんてき人気にんきはくした昭和しょうわ名優めいゆう

没後ぼつご国民こくみん栄誉えいよしょう受賞じゅしょうしている[1]

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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1928ねん3がつ10日とおか土曜日どようび)、東京とうきょう東京とうきょう下谷しもたに車坂くるまざかまちげん東京とうきょう台東たいとう上野うえのなな丁目ちょうめ)で、地方ちほう新聞しんぶん新聞しんぶん記者きしゃをしていたちち友次ともじろうと、もと小学校しょうがっこう教諭きょうゆ内職ないしょく封筒ふうとうりをするはは・タツとのあいだ次男じなんとしてまれる[2]あに健一郎けんいちろうがいる。

1934ねん11月、板橋いたばし尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく1936ねん一家いっか板橋いたばし志村しむら清水しみずまち転居てんきょし、志村しむらだいいち尋常じんじょう小学校しょうがっこう転入てんにゅう小学生しょうがくせい時代じだいはいわゆる欠食けっしょく児童じどうであり、病弱びょうじゃく小児しょうに腎臓炎じんぞうえん小児しょうに関節かんせつえん[3]膀胱ぼうこうカタルとう様々さまざまやまいわずらっていた。そのため学校がっこう欠席けっせきがちで、3ねんと4ねんでは長期ちょうき病欠びょうけつであった。欠席けっせきちゅうは、にちがないちにちラジオみみかたむ徳川とくがわゆめごえ落語らくごいてごし、おぼえた落語らくご学校がっこう披露ひろうすると大変たいへん評判ひょうばんだったという。

1940ねん板橋いたばし城山しろやま高等こうとう小学校しょうがっこう[注釈ちゅうしゃく 1]入学にゅうがくだい世界せかい大戦たいせんなか1942ねん旧制きゅうせい私立しりつ巣鴨すがも中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくするが、学徒がくと動員どういん板橋いたばし軍需ぐんじゅ工場こうじょうされ軍用ぐんようのラジエーターをみやつこ(ママ)っていたとされる[4]堀切ほりきり直人なおとは、巣鴨すがも中学校ちゅうがっこうには進学しんがくしておらず志村しむら坂上さかがみ東京とうきょう管楽器かんがっきまち工場こうじょう就職しゅうしょくしたとしている[5]旧制きゅうせい1945ねん同校どうこう卒業そつぎょうするも、3がつ10日とおか東京とうきょうだい空襲くうしゅう自宅じたく被災ひさいされる。卒業そつぎょう工員こういんとしてはたらきながら、一時期いちじきかつテキ手伝てつだいもしていた[6]親友しんゆうたにみきいちに、かつて自分じぶん桝屋ますや一家いっか[注釈ちゅうしゃく 2]せていた、とかたったことがある)。この幼少ようしょうつちかった知識ちしきこうの「おとこはつらいよ」シリーズの寅次郎とらじろうのスタイルをむきっかけになったといえる。えい六輔ろくすけによれば、戦後せんごあと金属きんぞく換金かんきんし、秋葉原あきはばら部品ぶひん鉱石こうせきラジオてるグループにえい参加さんかしていたが、そのグループのリーダーが渥美あつみきよしであったとのこと[注釈ちゅうしゃく 3]

役者やくしゃ稼業かぎょう

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映画えいが評論ひょうろん』1963ねん2がつごうより。

進学しんがくについても異説いせつがあり(下記かき人物じんぶつ経歴けいれきについての異説いせつ参照さんしょう)、10代のころは船乗ふなのこころざしそのなかでもつかさくりやいん志望しぼうだい日本にっぽん船舶せんぱく運営うんえいかい願書がんしょまでしたが[8][9]母親ははおやもう反対はんたいされたため断念だんねんいの伝手つてたよって旅回たびまわりの演劇えんげき一座いちざはい喜劇きげき俳優はいゆうみちあゆむことになった。芸名げいめいについては諸説しょせつあり、当初とうしょ芸名げいめい小説しょうせつ主人公しゅじんこうからとった「渥美あつみ悦郎えつろう」であったが、川崎かわさきちいさな劇団げきだんの「パンツのにおいをおとこ」というバラエティショーにたとき司会しかいしゃが「渥美あつみきよしほう名前なまえとおりやすい」とえてしまったという[10]。また「きよしよししくあっ()たかくあれ」という意味いみづけられたというせつもある[11]

1946ねんには新派しんぱ軽演劇けいえんげきまくきになり、大宮おおみや日活にっかつかん下働したばたらきを[3]、『阿部あべじょう一代記いちだいき[注釈ちゅうしゃく 4]でのチョイやく舞台ぶたいはつ出演しゅつえん[13]1951ねん東京とうきょう浅草あさくさろくストリップ劇場げきじょうひゃくまんどる劇場げきじょう」(建物たてもの疎開そかいした観音かんのん劇場げきじょうあと)の専属せんぞくコメディアンとなる[10]。2ねん1953ねんには、フランス移籍いせき[14]。このころのフランスは、長門ながといさむあずま八郎はちろうせきたかしろくなどのちだい一線いっせん活躍かつやくするコメディアンたちが在籍ざいせきし、コント作家さっかとして井上いのうえひさし出入でいりしていた。またこのころ浅草あさくさ銭湯せんとうで、のちにシナリオライターとなる早坂はやさかあきら当時とうじ大学生だいがくせい)とい、したしくなる。(後述こうじゅつ参照さんしょう)。1954ねん肺結核はいけっかくみぎはい切除せつじょ埼玉さいたまサナトリウムやく2年間ねんかん療養りょうよう生活せいかつおく[15][16]。このサナトリウムでの療養りょうよう体験たいけんこう人生じんせいかん多大ただい影響えいきょうあたえたとわれ、みぎはいくしたことでそれまでのドタバタ喜劇きげきができなくなった[17]退院たいいんの1956ねんあき今度こんど胃腸いちょうわずら中野なかの立正佼成会りっしょうこうせいかい病院びょういんさんげつ入院にゅういんする[18]さい復帰ふっきさけ煙草たばこコーヒーさえも一切いっさいやらなくなり過剰かじょうほど摂生せっせいつとめた[19][20]

1956ねん日本にほんテレビ連続れんぞくドラマ「すいれん夫人ふじんとバラむすめ」で主役しゅやく朝丘あさおか雪路ゆきじのダメ助手じょしゅやくでテレビはつ出演しゅつえん[3][21][22]1958ねんに『おトラさんだい繁盛はんじょう』で映画えいがにデビュー。1959ねんにはストリップ小屋こや時代じだいからの盟友めいゆうであるたにみきいちせきたかしろくスリーポケッツ結成けっせい[3]。しかし、数ヵ月すうかげつには脱退だったいしている。1961ねんから1966ねんまでNHKで放映ほうえいされた『ゆめであいましょう』、『わかぶし』に出演しゅつえん。コメディアン・渥美あつみきよし全国ぜんこくにした。1961ねん井上いのうえ和男かずお監督かんとくの『水溜みずたまり』でばいしょう千恵子ちえこはつ共演きょうえんしている[23][24]1962ねん公開こうかい映画えいが『あいつばかりが何故なぜもてる』にて映画えいがはつ主演しゅえんつとめる。7ねんとらさん一家いっかむことになるばいしょう千恵子ちえこ森川もりかわしんとの共演きょうえんである。同年どうねんフジテレビ連続れんぞくドラマ『大番おおばん』でのギューちゃんやくがうける。同年どうねん、ヤクザ(フーテン)やく出演しゅつえんした『おったまげ人魚にんぎょ物語ものがたり』のロケのさいうみむシーンではみぎはい切除せつじょ影響えいきょうからむことができず、唯一ゆいいつ代役だいやくてたシーンともわれている。当時とうじ複数ふくすう映画えいがおな地域ちいき撮影さつえいおこなっており、このとき撮影さつえい現場げんばでは、映画えいが切腹せっぷく』(仲代なかだい達矢たつや岩下いわした志麻しま丹波たんば哲郎てつろうさん國連こくれん太郎たろう)の撮影さつえい現場げんば宿やどまり、同宿どうしゅくしたおおくの俳優はいゆう監督かんとくせっすることとなる。1963ねん野村のむら芳太郎よしたろう監督かんとく映画えいが拝啓はいけい天皇陛下てんのうへいかさま』で「片仮名かたかなしかけず、軍隊ぐんたい天国てんごくしんじてやまない純朴じゅんぼくおとこ」をえんじ、俳優はいゆうとしての名声めいせい確立かくりつする。この作品さくひんがフジテレビの関係かんけいしゃ評判ひょうばんて「おとこはつらいよ」の構想こうそうられた。1965ねん公開こうかいの、羽仁はにすすむ監督かんとくの『ブワナ・トシのうた』ではアフリカ各地かくちで4ヶ月かげつあいだおよ長期ちょうきロケを敢行かんこう。この撮影さつえい以降いこうアフリカ魅力みりょくかれプライベート旅行りょこうなんおとずれるようになる[注釈ちゅうしゃく 5]とくきだったのはタンザニアのホテルからるキリマンジャロでいちにちちゅうながめていることもあったという[25]

1969ねん3がつ17にち月曜日げつようび)、正子まさこ夫人ふじん島根しまねけん出雲いずも大社たいしゃ結婚式けっこんしき内々うちうちだけでげる[26][27][28]披露宴ひろうえんホテルニューオータニなかかったスター、友人ゆうじん映画えいが記者きしゃばん雑誌ざっし記者きしゃまねいてった[27][29]。41さいときだった。

当初とうしょは、松竹しょうちくより東映とうえいほう渥美あつみ喜劇きげきしに熱心ねっしん[30][31]東映とうえいで"喜劇きげき路線ろせん"をこうとした[31][32]岡田おかだしげるプロデューサー(のち、東映とうえい社長しゃちょう)にかれ[31][33][34]岡田おかだ登用とうようした瀬川せかわ昌治しょうじ監督かんとくの『喜劇きげき急行きゅうこう列車れっしゃ』(1967ねん列車れっしゃシリーズ」などに主演しゅえんした[31][33][35][36]岡田おかだしげるは「渥美あつみきよしは、じつわたし東映とうえい東京とうきょう撮影さつえいしょ所長しょちょうをしていた昭和しょうわ37ねん(1962ねん)にいち年間ねんかん面倒めんどうをみたことがあるんです。それで『喜劇きげき急行きゅうこう列車れっしゃ』などなんほんったんですが、どうしても東映とうえいでは喜劇きげきびない。それで『渥美あつみくんおれきみで5ほんやったが駄目だめだった。作品さくひんがよくてこれではきみにもわるいから、ひとつ松竹しょうちくけ』と。ちょうど松竹しょうちくから是非ぜひにというはなしがあり『松竹しょうちくったほうきみにはプラスだ』ということでこうにったんですが、結局けっきょくかった。『おとこはつらいよ』なんて10ねんいちへんるかないかですよ。ああいう幸運こううんなのは。ひとつのシリーズで48ほん(1996ねん当時とうじ)もやったというのはないことです」などとべている[31]東映とうえいとはみずわなかったが[30]東映とうえいでの出演しゅつえんさくとしては股旅またたび映画えいが最高さいこう傑作けっさくともいわれる[37]沓掛くつかけ時次郎ときじろう 遊侠ゆうきょういちひき』(加藤かとうやすし監督かんとく1966ねん)の身延みのぶあさきちやく名演めいえんとしてられる[30][38]。この時期じき主演しゅえん作品さくひんとしてはに、TBSのテレビドラマ『渥美あつみきよしいてたまるか』(1966ねん)などがある。

最後さいご舞台ぶたいがったのは1966ねんの5がつ新宿しんじゅくコマ劇場げきじょうおこなわれた翻訳ほんやくミュージカル「南太平洋みなみたいへいよう」のルーサー・ビリスやくでそれ以降いこう二度にど舞台ぶたいむことはなかったが[39]、1991ねん常盤ひたち閉幕へいまくときおこなわれた「せきたかしろく劇団げきだん」さよなら公演こうえん千秋楽せんしゅうらくフィナーレで俳優はいゆう全員ぜんいん舞台ぶたい挨拶あいさつおこなったとき突然とつぜん舞台ぶたいがって「ご苦労くろうさん」とせきとあいさつをし、観客かんきゃくった[40][注釈ちゅうしゃく 6]

くるま寅次郎とらじろう

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柴又しばまた駅前えきまえくるま寅次郎とらじろう銅像どうぞう

1968ねん10月3にちから半年はんとしあいだフジテレビにて、テレビドラマ『おとこはつらいよ』が放送ほうそうされ、脚本きゃくほん山田やまだ洋次ようじ森崎もりさきひがし担当たんとうした。最終さいしゅうかいの「ハブにまれてとらさんがぬ」という結末けつまつ視聴しちょうしゃからの抗議こうぎ殺到さっとうしたことから[41]よく1969ねんに「罪滅つみほろぼしの意味いみふくめて」、松竹しょうちく映画えいが製作せいさく。これが堅調けんちょう観客かんきゃく動員どういんたか評価ひょうかけてシリーズ当初とうしょは54まんにん程度ていどだった観客かんきゃく動員どういん徐々じょじょびてだい8さくでは148まんにんだいヒット水準すいじゅんまで飛躍ひやく以降いこう、しばしば200まんにんえるなど松竹しょうちく屋台骨やたいぼねささつづけるほどのだいヒットがつづく。国民こくみんてきスターとなった渥美あつみきよしは、主演しゅえんくるま寅次郎とらじろう(フーテンのとらやくを27年間ねんかん48さくわたってえんつづけることになる。映画えいがのシリーズでは最多さいた記録きろく作品さくひんとしてギネスブックにもるなどの記録きろくげた。

1972ねん渥美あつみプロを設立せつりつし、松竹しょうちく共同きょうどう映画えいがあゝこえなきとも』を自身じしん主演しゅえん製作せいさくする。1975ねん松竹しょうちく80周年しゅうねん記念きねんとして制作せいさくされた映画えいが友情ゆうじょう』に出演しゅつえん1977ねんにはテレビ朝日てれびあさひ製作せいさく土曜どようワイド劇場げきじょう田舎いなか刑事けいじ 時間じかん(とき)よとまれ』にてひさしぶりにテレビドラマの主演しゅえんつとめる。どう作品さくひんはのちにながつづ人気にんき番組ばんぐみ土曜どようワイド劇場げきじょう』の記念きねんすべきだい1かい作品さくひんであると同時どうじに、だい32かい文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさいのテレビ部門ぶもんドラマ優秀ゆうしゅう作品さくひんにも選出せんしゅつされている。この成功せいこうけてどう作品さくひんはシリーズされ1978ねんに『旅路たびじて』が、1979ねんには『まぼろしの特攻隊とっこうたい』がいずれも渥美あつみ主演しゅえん製作せいさく放送ほうそうされている。映画えいがおとこはつらいよ』シリーズのだい成功せいこう以降いこうは「渥美あつみきよし」=「とらさん」の図式ずしきかたまってしまう。当初とうしょはイメージの固定こていけるために積極せっきょくてき作品さくひん出演しゅつえんしていたが、どの作品さくひん映画えいがおとこはつらいよ』シリーズほどの成功せいこうおさめることができなかった。ただいち1977ねんやっはかむら』でそれまでのイメージを一新いっしんしてめい探偵たんてい金田一きんだいちこうすけやくえん松竹しょうちくはじまって以来いらいのヒットとなったが、シリーズけんを(松竹しょうちくとの関係かんけい悪化あっかしていた)角川かどかわ春樹はるき事務所じむしょ東宝とうほうおさえられていたため1ほんきりとなったことがおおきな岐路きろとなる。

1979ねん4がつ14にちNHK放映ほうえいされたテレビドラマ『いく山河さんがえたれど〜昭和しょうわのこころ 古賀こが政男まさお〜』では作曲さっきょく古賀こが政男まさお生涯しょうがい鮮烈せんれつえんたか評価ひょうかた。1980年代ねんだい以降いこうになると、『おとこはつらいよ』シリーズ以外いがい主演しゅえんくなっていった。1988ねん紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょう[3]。その主演しゅえん以外いがいでの参加さんか次第しだいっていき、1993ねん公開こうかいされた映画えいが学校がっこう』が『おとこはつらいよ』シリーズ以外いがい作品さくひんへの最後さいご出演しゅつえん作品さくひんとなった。

晩年ばんねん

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晩年ばんねんは、松竹しょうちく看板かんばんとしてかなりの無理むりをしての仕事しごとであった。『おとこはつらいよ』42さく(1989ねん12月公開こうかい以降いこうは、病気びょうきになった渥美あつみ配慮はいりょして、ってえんじるシーンは減少げんしょうし、晩年ばんねんっていることもままならず、撮影さつえい合間あいまとらさんのトランクを椅子いすわりにしてすわっていることがおおかった。44さく(1991ねん12月公開こうかい)のころ「スタッフに挨拶あいさつされて、それに笑顔えがおこたえることさえつらいんです。スタッフや見物けんぶつほうへの挨拶あいさつ省略しょうりゃくしていただきたい」と山田やまだ洋次ようじかたっている。ところがこの事情じじょうらない映画えいが撮影さつえい見物けんぶつきゃくは、渥美あつみこえをかけてもまったく反応はんのうしてもらえなかったことから「愛想あいそわるい」との理由りゆう渥美あつみ批判ひはんすることもあったが、このころにはもうスタッフをはじめ、どんなにこえをかけられてももう一切いっさいじんには挨拶あいさつをしなかったという[42]体調たいちょうわるくなった42さくからおいまんおとこ主役しゅやくにしたサブストーリーがつくられ、とし2ほんつくっていたシリーズを1ほんらし、満男みつお出番でばんやして寅次郎とらじろう出番でばん最小限さいしょうげんらしている。46さくごろからは、2にち撮影さつえいしたら2にち休養きゅうようくスケジュールをんだが午後ごご3ごろからはこえ調子ちょうしちてしまい録音ろくおん鈴木すずきいさおは「つらくなってきた」とかたっている[42]。48さくでは午前ごぜんちゅうにはわりつよかった渥美あつみ体調たいちょう考慮こうりょし、撮影さつえい午前ごぜん9からはじまり午後ごご1ごろまでには終了しゅうりょう。それくらいのスケジュールでないともうれない状態じょうたいだった、と山田やまだかたっている[42]

最後さいご関係かんけいしゃ渥美あつみきよしったのは、1996ねん6がつ27にち(しくは6がつ30にち[43])に代官山だいかんやまのレストラン・小川おがわのき会合かいごう山田やまだ洋次ようじ紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょういわいをねたつぎさくはないで、山田やまだ洋次ようじばいしょう千恵子ちえこ渥美あつみのスケジュールを管理かんりしていた制作せいさく主任しゅにんみね順一じゅんいち松竹しょうちく大西おおにしらスタッフ10にん会食かいしょくし、うすいステーキとはいえペロリとたいらげたという[42][44][45][46]

病気びょうきについては、1991ねん肝臓かんぞうがんつかり、1994ねんにははいへの転移てんいみとめられた。主治医しゅじいからは、だい47さくへの出演しゅつえん不可能ふかのうだとわれていたがなんとか出演しゅつえんし、48さく出演しゅつえんできたのは奇跡きせきちかいとのことである。1996ねん6月27にちしくは6月30にち代官山だいかんやまレストランでの食事しょくじさいだい49さく制作せいさくけん高知こうちロケを承諾しょうだく[42][47]撮影さつえいひかえていたなかくなるいち週間しゅうかんまえに「呼吸こきゅうくるしい」と家族かぞくうったそく手術しゅじゅつけたものの[48]がん転移てんいひろがり手遅ておくれの状態じょうたいだった。1996ねん8がつ4にち午後ごご510ふん転移てんいせい肺癌はいがんのため文京ぶんきょう順天堂大学じゅんてんどうだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく順天堂医院じゅんてんどういいんにて死去しきょした。68さいぼつ

戒名かいみょうはつけるな」「最期さいご家族かぞくだけで看取みとること」「世間せけんには荼毘だびしたあと、らせること」「さわぎになったときは、長男ちょうなん健太郎けんたろうひとりで対応たいおうすること」という渥美あつみ遺言ゆいごんにより[49]家族かぞくだけで密葬みっそうおこない、遺体いたい東京とうきょう荒川あらかわうち町屋まちや斎場さいじょう荼毘だびされた。最初さいしょ連絡れんらくけたのは山田やまだ監督かんとくともいわれ[50]、8がつ6にち午後ごご8時半じはんごろ山田やまだから松竹しょうちく宣伝せんでん大西おおにしもと連絡れんらく[51](小林こばやしによると5にち)[52]同日どうじつよる山田やまだ大西おおにしけたときにはすでにおほねになっていた[53][54]なお山田やまだ渥美あつみ自宅じたくったのはこのときはじめてだったという[55]。おばちゃんやく三崎みさき千恵子ちえこのもとには8がつ6にち(小林こばやしによると8がつ7にち[56])の午前ごぜん10ごろ[57]、さくらやくばいしょうしたへはどう6にち夜中よなか連絡れんらくはいったとされる[58]訃報ふほう8がつ7にち松竹しょうちくから公表こうひょうされた。おとこはつらいよのだい48さくおとこはつらいよ 寅次郎とらじろうべにはな』が実質じっしつ遺作いさくとなった。

8がつ13にちに「渥美あつみきよしさんとおわかれするかい」が松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょだい9ステージ[59]ひらかれた。柴又しばまた江戸川えどがわ土手どてした祭壇さいだんまえ献花けんかだいかれ[59]、2まん1000にん[60][61](3まんにん[59]とも、3まん5000にん[62]とも)があつまり、参列さんれつしゃ行列ぎょうれつは1キロはなれた大船おおふなえきまでつづいた[59][62]浅丘あさおかルリ子るりこ[60]奥山おくやまとおる[61]せきたかしろく[61]ばいしょう千恵子ちえこ[60]早坂はやさかあきら[60]山田やまだ洋次ようじ[61]下記かき文章ぶんしょう)らが弔辞ちょうじんだ[63][64]

 ぼく立場たちばとしてはまず、みなさんにおれいもうげなくてはならないとおもいます。今日きょうあし便びんわるいこの土地とちまでよくおかけくださいました。渥美あつみさんのおわかれのかいは、葬儀そうぎじょうではなく27年間ねんかんとらさんをつくつづけた撮影さつえいしょぼくたちスタッフのおこないたいとかんがえ、会社かいしゃにおねがいしてこのようなかたちにさせていただいた次第しだいです。さきほどからこちらで演奏えんそうしてくれているのは、とらさんシリーズのだい1さくからそのほとんど全部ぜんぶを、山本やまもと直純なおずみさんのうつくしい音楽おんがく演奏えんそうしてくれたプレーヤーの方々かたがたです。
 いまから5ねんまえ大分おおいたけん日田にったにロケをした「寅次郎とらじろう休日きゅうじつ」のころから、渥美あつみさんのからだおとろえが目立めだつようになりました。46さく松坂まつさか慶子けいこさんにてもらった「寅次郎とらじろう縁談えんだん」では、瀬戸内海せとないかい小島こじまきゅうさかがりくだりするのがとてもつらそうだったことをよくおぼえています。去年きょねんあきくなったカメラマンの高羽たかはさんと渥美あつみさんはおな病気びょうきで、2人ふたりあいだには特別とくべつ情報じょうほう交換こうかんがあって、それを高羽たかはさんのくちからくというつらかたちで、ぼく渥美あつみさんの病状びょうじょうけっして油断ゆだんできないことをっていました。
 もうそろそろまくかねばいけない。渥美あつみさんをとらさんという、のんきで、陽気ようきおとこえんじるというつら仕事しごとから解放かいほうさせてあげなければいけないと、しょっちゅうおもいました。しかし、4ぶんの1世紀せいきにわたって松竹しょうちく正月しょうがつ映画えいが定番ていばんでありつづけたとらさんがなくなるということがあまりにも問題もんだいであったこと。そしてもうひとつは、毎年まいとし秋口あきぐちになると家族かぞくのようにしたしいスタッフがあつまって、正月しょうがつ映画えいがをにぎやかにつくるというたのしみをるのがからくて、もう1さくだけ、いやもう1さくなんとかというおもいで47さく、48さくつくったのです。あとうかがえば、渥美あつみさんのドクターは、この遺作いさく渥美あつみさんが出演しゅつえんできたことは奇跡きせきちかいとっておられたそうです。渥美あつみさんはどんなにきつかったか。ああ、わるいことをした・・・ぼくいま後悔こうかいをしています。
 7がつ入院にゅういんしてはい手術しゅじゅつをしたけど、その経過けいかおもわしくなくて渥美あつみさんはとてもくるしんだそうです。ベッドのうえがるのがやっとで、それもうつむいたままで両手りょうてつくえはしをきつくにぎりしめて、そのつくえをきつくにぎりしめて、そのつくえがカタカタとおとててふるえていたそうです。あの渥美あつみさんをなぜそんな、そんなにくるしめるのか・・・ぼくてんうらみます。
 渥美あつみさん、ながあいだつらおもいをさせてすいませんでした。でも、ぼくとそしてぼくたちスタッフは、あなたにめぐりえてしあわせでした。今日きょう、この会場かいじょうにいる、あるいは、ひょうあせだらけになってくるま弔問ちょうもんきゃく整理せいりにかけずりまわっているぼくのスタッフを代表だいひょうして、いまあなたにおれいいます。27年間ねんかんにわたってとらさん映画えいがつくよろこびをあたえてくれてありがとう。
 渥美あつみさん、本当ほんとうにありがとう。

死後しご、「『おとこはつらいよ』シリーズをつうじて人情味にんじょうみゆたかな演技えんぎひろ国民こくみんよろこびとうるおいをあたえた」との理由りゆうで、日本にっぽん政府せいふから渥美あつみ国民こくみん栄誉えいよしょうおくられた。俳優はいゆうでの受賞じゅしょうは、1984ねん死去しきょした長谷川はせがわ一夫かずおいで2人ふたりである。

1997ねん8がつ4にちには大船おおぶね撮影さつえいしょいち周忌しゅうき献花けんかしきひらかれた[65]東京とうきょう柴又しばまた団子だんご「くるまや」のセット撮影さつえい使つかわれただい9ステージが会場かいじょうとなり[65]山田やまだ洋次ようじばいしょう千恵子ちえこらが出席しゅっせきした[65]

2000ねん発表はっぴょうされた『キネマ旬報きねまじゅんぽう』の「20世紀せいき映画えいがスター男優だんゆうへん」で日本にっぽん男優だんゆうの9どうごうの「読者どくしゃえらんだ20世紀せいき映画えいがスター男優だんゆう」ではだい4になった。さらに、「映画えいがかんをいっぱいにしたマネーメイキング・スターはだれだ!日本にっぽんへんではだい1

人物じんぶつ

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経歴けいれきについての異説いせつ

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渥美あつみきよしのプライベートはなぞにつつまれたてんおおく、経歴けいれきにはいくつかの異説いせつがある。小林こばやし信彦のぶひこちょの『おかしなおとこ 渥美あつみきよし』のりゃく年譜ねんぷによれば、1940ねん志村しむらだいいち尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう志村しむら高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがくする。1942ねん卒業そつぎょうし、14さい志村しむら坂上さかがみ東京とうきょう管楽器かんがっき入社にゅうしゃするが退社たいしゃし、そのは「家出いえでをしてドサまわり」をしていたとのことである。

巣鴨すがも学園がくえん関係かんけいしゃによると、戦前せんぜん在籍ざいせき記録きろく戦災せんさいにより焼失しょうしつしており、卒業そつぎょうしていたのかしていないのかだけでなく、在籍ざいせき有無うむですら公式こうしきにはなんともえないという。ただし、何人なんにんかのOBの証言しょうげんによれば、「在籍ざいせきはしていたが、卒業そつぎょうはしていない」とのことである。

大学だいがくについても異説いせつがあり、中央大学ちゅうおうだいがくはいったとするせつ[3]、そもそも中央ちゅうおう大学だいがくにははいっておらず学歴がくれき詐称さしょうしていたというせつ[5]、テキ稼業かぎょう都合つごうがいいため中大ちゅうだい角帽かくぼうをかぶっていたというせつ[66]てんぷら学生がくせい[注釈ちゅうしゃく 7]として角帽かくぼうこうむっていたというせつ[67]中央大学ちゅうおうだいがく商学部しょうがくぶ[68]入学にゅうがくしたというせつがある。中央大学ちゅうおうだいがくせつせきたかしろく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくたにみきいち早稲田大学わせだだいがく渥美あつみきよし中央大学ちゅうおうだいがくという設定せってい芝居しばいおこなったことがきっかけでそれをその踏襲とうしゅうしたともわれている[69]

実像じつぞう

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おとこはつらいよ』の「とらさん」の演技えんぎ社交しゃこうせいのある闊達かったつさを印象いんしょうけていたが、実像じつぞう共演きょうえんしゃやスタッフと真摯しんし一方いっぽうで、公私こうし混同こんどう非常ひじょうきらい、プライベートでは他者たしゃとのまじわりをける傾向けいこうだった。ロケさきでの、撮影さつえい協力きょうりょくした地元じもと有志ゆうしひら宴席えんせきにあまりがおさなかったものの、だい48さくでは瀬戸内せとうちまち主催しゅさいのホテルの歓迎かんげいかいまちひとび、渥美あつみきよしもグレーのジャージ上下じょうげとサンダル姿すがたで30ふんほど出席しゅっせきしている[70][注釈ちゅうしゃく 8]

家族かぞく構成こうせいつま子供こども2にんだが、原宿はらじゅくに「勉強べんきょう部屋へや」として、自分じぶん個人こじんようマンションりており、そこに一人ひとりこもっていることがおおかった。長男ちょうなん田所たどころ健太郎けんたろうが「親族しんぞく立場たちば」でおおやけかおすのは渥美あつみ死後しごだった[72][注釈ちゅうしゃく 9]渥美あつみ自身じしん結婚式けっこんしき親族しんぞくだけでささやかにおこない、芸能げいのう記者きしゃ鬼沢きざわ慶一けいいち招待しょうたいされ友人ゆうじん代表だいひょうとして出席しゅっせきしたが、鬼沢きざわはそのこと渥美あつみまで公表こうひょうすることはなく、渥美あつみ没後ぼつごにそのとき記念きねん写真しゃしんともはじめて公開こうかいした。披露宴ひろうえんには、仕事しごと仲間なかまなどはせきたかしろくたにみきいち出席しゅっせきし、司会しかいはTBSの渥美あつみばん杉山すぎやましん太郎たろうで『いてたまるか』の関係かんけいでTBSの番組ばんぐみ宣伝せんでん担当たんとうした[73]渥美あつみ新珠あらたま三千代みちよ熱狂ねっきょうてきファンを自称じしょうしていたため、結婚けっこんさいは「新珠あらたま三千代みちよさんごめんなさい」との迷コメントをした。

渥美あつみくなるまでプライベートを芸能げいのう活動かつどう仕事しごとまなかったため、自宅じたく住所じゅうしょ芸能げいのう映画えいが関係かんけいしゃ芸能げいのうかい友人ゆうじんにもらされておらず、「おとこはつらいよ」シリーズで長年ながねん一緒いっしょだった山田やまだ洋次ようじや、親友しんゆうとしてられる黒柳くろやなぎ徹子てつこせきたかしろくたにみきいちでさえ渥美あつみ自宅じたく個人こじんてき連絡れんらくさきらず、仕事しごと仲間なかま告別こくべつしきまで渥美あつみ家族かぞくとの面識めんしきはなかった[注釈ちゅうしゃく 10]。これは渥美あつみ生前せいぜん私生活しせいかつ徹底的てっていてき秘匿ひとくし、「渥美あつみきよしとらさん」のイメージをこわさないためであった。このきっかけは、まちあるいていたときに、見知みしらぬ男性だんせいから「よお、とら」とこえをかけられてからのことだとかたっている[72]実生活じっせいかつでは質素しっそ生活せいかつおくっていたようで、くるまいちだい所有しょゆうしておらず、仕事しごとでの食事しょくじみせえらばずに適当てきとう蕎麦そばませていたという[72]

脚本きゃくほん早坂はやさかあきらとは20だい銭湯せんとうい、早坂はやさかを「ギョウさん」とんで、終生しゅうせいともであった。渥美あつみつねに「ギョウさん、おれれてってちょうだいよ」と早坂はやさかとの旅行りょこう大変たいへんたのしみにしていた。東京とうきょうまれのため田舎いなかたない渥美あつみにとって、とく早坂はやさか故郷こきょうである愛媛えひめけん北条ほうじょうげん松山まつやま)や、沖合おきあいにある「北条ほうじょう鹿島かしま」はおりでなん同行どうこうしている。早坂はやさかさくのNHKドラマ『はなへんろ』(早坂はやさか自伝じでんてきドラマ)ではナレーションを担当たんとうした[注釈ちゅうしゃく 11]。これらの事情じじょうが、実現じつげんしなかっただい49さく寅次郎とらじろうはなへんろ』のもとになった[75]渥美あつみ死後しご発見はっけんされた晩年ばんねん手帳てちょうには「……旅行りょこうこう。家族かぞくとギョウさんにもこえかけて一緒いっしょこう……」とつづってあった。早坂はやさか渥美あつみ大変たいへん才能さいのうのある役者やくしゃであるのにもかかわらず、「とらさん」以外いがいやくをほとんどえんじられないことを危惧きぐしており、そのことはおわかかい弔辞ちょうじでもかたっている(後記こうき)。

1985ねんごろ渥美あつみ尾崎おざき放哉ほうさいえんじたいと早坂はやさか相談そうだんしていたが[76]、NHKがさきに「うみれきる 小豆島あずしま放哉ほうさい」を放送ほうそうしたためそのはなしながれることになった。早坂はやさかいた「くび人形にんぎょう-かた哉のしま」の脚本きゃくほん完成かんせいしたのは1993ねんすでがんおかされていてやれる体力たいりょくがなく渥美あつみつくえいた脚本きゃくほんつめたまま一言ひとことはっしなかったという[77]吉村よしむらあきら小説しょうせつをもとにしたドラマはNHK松山放送局まつやまほうそうきょくが1985ねん制作せいさく放映ほうえいしている[注釈ちゅうしゃく 12]。NHKの放送ほうそう急遽きゅうきょ題材だいざい種田山頭火たねださんとうか変更へんこうすることになり、渥美あつみ早坂はやさか今度こんど山頭火さんとうか取材しゅざい旅行りょこうおとずれ、脚本きゃくほん完成かんせいしたにもかかわらず、クランクイン寸前すんぜんになって、突然とつぜん渥美あつみから制作せいさくのNHKに「山頭火さんとうか降板こうばんもうがあった。渥美あつみ降板こうばんにより主役しゅやくフランキふらんきさかいとなったこのドラマ『山頭火さんとうか・なんでこんなにさびしいふうふく』は、モンテカルロ国際こくさいテレビさい脚本きゃくほん部門ぶもんゴールデンニンフ=最優秀さいゆうしゅうしょう)を受賞じゅしょうし、フランキーさかいどう最優秀さいゆうしゅう主演しゅえん男優だんゆうしょう受賞じゅしょうしている。早坂はやさか渥美あつみに、初期しょきのテレビドラマ『いてたまるか』や、上記じょうき土曜どようワイド劇場げきじょうだい1かい作品さくひんの『田舎いなか刑事けいじ』シリーズなどの脚本きゃくほんいており、いずれも「とらさん」ではない渥美あつみ魅力みりょくされた名作めいさくとなっている。

映画えいがにおいては山田やまだ洋次ようじ野村のむら芳太郎よしたろうりょう監督かんとくとはべつに、『沓掛くつかけ時次郎ときじろう 遊侠ゆうきょういちひき 』『祇園祭ぎおんまつり』『スクラップ集団しゅうだん』『あゝこえなきとも 』『おかしなやつ』の脚本きゃくほんいた鈴木すずき尚之なおゆきとのコンビもながい。なお渥美あつみは、早坂はやさかと、せきたかしろく山田やまだ洋次ようじらは46さく寅次郎とらじろう縁談えんだん」(1993ねん公開こうかい)の撮影さつえい合間あいまって放哉ほうさい墓参はかまいり、小豆島しょうどしま尾崎おざき放哉ほうさい記念きねんかん土庄とのしょうまち)の建設けんせつ現場げんばおとずれている[78]

上記じょうき著書ちょしょ小林こばやし信彦のぶひこは1960年代ねんだい前半ぜんはん放送ほうそう作家さっかとして渥美あつみい、独身どくしん時代じだいはおたがいの部屋へや徹夜てつやかたうなどしたしいなかであった[79]

渥美あつみ松竹しょうちくしん喜劇きげき藤山ふじやま寛美ひろみたか評価ひょうかしており、寛美ひろみ公演こうえんのパンフレットに渥美あつみのコメントとして「わたし藤山ふじやま寛美ひろみという役者やくしゃ芝居しばいただ客席きゃくせきるだけで、楽屋がくやにはらずにえる。かえすがら、かったなー、上手うまいなー、にくたらしいなあー、一人ひとり大切たいせつ余韻よいんをかみしめることにしている」といていた。寛美ひろみ渥美あつみ客席きゃくせきていることをると、舞台ぶたいで「おい、横丁よこちょうのトラこうな、まだかえってこんのか?」とうアドリブをはっしていた[80]非常ひじょう勉強べんきょうでもあり、評判ひょうばんとなった映画えいが舞台ぶたいをよくていたが、「とらさん」とはまったくちがったスマートなファッションであったため、観客かんきゃくらにはほとんどづかれなかったという。

山田やまだ洋次ようじ渥美あつみ頭脳ずのうさをして「天才てんさいだった」とかたっている。とく記憶きおくりょくかんしては驚異きょういてきなものがあり、台本だいほんを2・3むだけで完璧かんぺきにセリフがあたまはいってしまったと証言しょうげんしている[81]

増村ますむらたもつづくり映画えいがセックス・チェック だいせい』をもとにして作中さくちゅう男性だんせいだとうたがわれるスポーツ選手せんしゅ女性じょせいが、本当ほんとう男性だんせいだったという主演しゅえん映画えいがなどがぼつになったアイディアのなかにあった。この構想こうそうはすでに早坂はやさかあきらによって「渥美あつみ清子きよこ青春せいしゅん」として、1968ねんにシナリオされている[82]

黒柳くろやなぎ徹子てつこは、プライベートでもいのある数少かずすくない存在そんざいで、かれをおにいちゃんとんでいたほか、『ゆめであいましょう』で共演きょうえんしていたとき熱愛ねつあい疑惑ぎわくがったことがある。ちなみにそれを報道ほうどうしたスポーツには、フランス時代じだい幕間まくあいコント黒柳くろやなぎ小学生しょうがくせいころいつもんでいたチンドン格好かっこうをしたとき写真しゃしん掲載けいさいされた。これは当時とうじマスコミがその写真しゃしんしかられなかったためである。黒柳くろやなぎ2006ねん渥美あつみ死去しきょから10ねん節目ふしめとしであったためか、渥美あつみことはなすこともしばしばあった。また森繁もりしげ久彌ひさや渥美あつみ才能さいのう非常ひじょうをかけ、渥美あつみ森繁もりしげしたっていたという。

えい六輔ろくすけとは少年しょうねん時代じだいからの旧知きゅうちであり、本人ほんにんいわ渥美あつみひさし所属しょぞくした不良ふりょうグループのボスだったという。また渥美あつみ役者やくしゃ目指めざすようになったのにはある刑事けいじ言葉ことばがあるとう。いわく、あるとき渥美あつみ歩道ほどうくさりぬすみそれをろうとして警察けいさつ補導ほどうされたことがあり、そのとき刑事けいじに「おまえかお個性こせいつよすぎて、一度いちどたらわすれられない。そのかおかして、犯罪はんざいしゃになるより役者やくしゃになれ」とわれたことが役者やくしゃ目指めざすきっかけになったとのことである[83][注釈ちゅうしゃく 13]

田中たなか秀征ひでゆき執筆しっぴつ利用りようしていた駒沢こまざわどおりのカフェの常連じょうれんで、渥美あつみはカフェの店主てんしゅから田中たなか秀征ひでゆき著書ちょしょ自民党じみんとう解体かいたいろん』を購入こうにゅうして熱心ねっしんみ、「勉強べんきょうになったよ」と店主てんしゅ感想かんそうべた。カフェでほんんでいるとき田中たなかつけて、とおくからってあたまげてくれて、田中たなかうれしかったおもがあるという[84][85]

その、プライベートでの交流こうりゅうがあった芸能人げいのうじんとして笹野ささの高史たかし柄本えもとあきらがいる。2人ふたりとも「おとこはつらいよ」シリーズの常連じょうれん出演しゅつえんしゃで、芝居しばいったり、バーにみにくこともあったという。笹野ささのは『おとこはつらいよ 柴又しばまたよりあいをこめて以来いらい山田やまだ作品さくひん常連じょうれんとなるが、最初さいしょ山田やまだ監督かんとく笹野ささの紹介しょうかいしたのは渥美あつみ自身じしんであった。

布袋ほてい寅泰ともやすは、渥美あつみおなじマンションにんでいたことがあり、バンドのツアーにかう布袋ほてい偶然ぐうぜんエレベーターのこうったさい渥美あつみから「たびですか?」とはなしかけられ、とっさに「はい。きたへ」とこたえたのをきっかけに、正月しょうがつに「つまらないものですが、台所だいどころすみにでもかざってやってください」と、『おとこはつらいよ』のカレンダーを部屋へやまでとどけてくれたという[86]

長男ちょうなん田所たどころ健太郎けんたろうは、ニッポン放送にっぽんほうそう入社にゅうしゃ試験しけんさい履歴りれきしょ家族かぞくらんに「ちち 田所たどころ康雄やすお 職業しょくぎょう 俳優はいゆう」といたことから、採用さいよう担当たんとうしゃ大部屋おおべや俳優はいゆう時代じだいげきられやくおもっていたが、当時とうじニッポン放送にっぽんほうそう存在そんざいした新入しんにゅう社員しゃいん仕事しごとる「父兄ふけい参観さんかん」に渥美あつみきよしかれ父親ちちおやとして来社らいしゃ社内しゃない騒然そうぜんとなったという[87]

晩年ばんねん俳句はいく趣味しゅみとしていて『アエラ句会くかい』(AERA主催しゅさい)において「かぜたかし」の俳号はいごうでいくつかのんでいる。もり英介えいすけかぜたかし 渥美あつみきよしのうた』(大空おおぞら出版しゅっぱん、2008ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 2010ねん)にくわしく紹介しょうかいされている。

秋野あきの著作ちょさくによると、おな浅草あさくさ仲間なかまはちむとこころざし交通こうつう事故じここし死亡しぼうしたことがきっかけで、絶対ぜったいくるま所有しょゆうせず終生しゅうせいハンドルをにぎらなかったという[88]

ばいしょうによると「渥美あつみ最後さいご病院びょういんはいっていたとき、まるでおわかれをげるようにいろいろなひと電話でんわをかけていたようで、夜中よなかだったため電話でんわることが出来できなかった」と著作ちょさくかたっている[89]同様どうようのことはびとだった篠原しのはら靖治やすはるべており、篠原しのはらによると7がつ入院にゅういんまえ突然とつぜん渥美あつみからかかってきた電話でんわ最後さいご会話かいわだった、とはなしている[90]渥美あつみ自身じしん共演きょうえんしたおじちゃんやく森川もりかわしんはじめ、芸能人げいのうじん通夜つや葬式そうしきには一切いっさい出席しゅっせきしなかったが、唯一ゆいいつ出席しゅっせきしマスコミの取材しゅざいこたえたのが1995ねん10がつくなった高羽たかは哲夫てつお通夜つやであった[91][92]

出演しゅつえん

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映画えいが

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しるし作品さくひん生前せいぜん映像えいぞう使用しようしたライブラリ出演しゅつえん

おとこはつらいよシリーズ以外いがい映画えいが

拝啓はいけい天皇陛下てんのうへいかさま』(1963ねん

テレビドラマ

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NHK『わかぶし』。ひだりから渥美あつみきよし黒柳くろやなぎ徹子てつこ横山よこやま道代みちよ

舞台ぶたい

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  • 南太平洋みなみたいへいよう」- ルーサー・ビリスやく
  • みなみしまゆきる」
  • 渥美あつみきよし ローマンス劇場げきじょう
  • 渥美あつみきよし男性だんせい諸君しょくん
いずれも「一慶いっけい美雄よしおの『よるはともだち』」内包ないほう番組ばんぐみTBSラジオ / 1976ねん〜1978ねん

音楽おんがく番組ばんぐみ

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音楽おんがく作品さくひん

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シングル

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  • 彼奴あいつばかりがなぜもてる(1962ねん
  • こいすれどこいすれど物語ものがたり/もててもててこまってしまう(1963ねん、SA-1040)
  • いてたまるか(TBS連続れんぞくテレビドラマ「いてたまるか」主題歌しゅだいか)(Bめんわかいぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966ねん5がつ10日とおか
  • オー大和魂やまとだましい(TBS連続れんぞくテレビドラマ「大和魂やまとだましいくん」主題歌しゅだいか)(Bめんあめ天気てんきわるい)(1968ねん10がつ
  • おとこはつらいよ(フジテレビ連続れんぞくテレビドラマ「おとこはつらいよ」主題歌しゅだいか松竹しょうちく映画えいがおとこはつらいよ」主題歌しゅだいか、アニメ『おとこはつらいよ〜寅次郎とらじろうわすれなぐさ〜』主題歌しゅだいか)(Bめん:チンガラホケキョーのうた)(1970ねん2がつ10日とおか
  • ごめんくださいおたずねします(松竹しょうちく映画えいが「あゝこえなきとも主題歌しゅだいか)(Bめん:あゝこえなきとも)(1972ねん3がつ25にち
  • さくらのバラード(うたばいしょう千恵子ちえこ)(Bめんとらさんの子守こもりうた)(1972ねん4がつ10日とおか
  • こんなおとこでよかったら(Bめん:ひとはだれでも)(よみうりテレビドラマ「こんなおとこでよかったら」)(1973ねん4がつ5にち
  • いつかはきっと(ごえ山田やまだパンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌しゅだいか)(Bめんとおくへきたい)(1974ねん8がつ25にち
  • とらさん音頭おんど(Bめんあかとんぼ)(1975ねん7がつ5にち
  • まつりのあと(Bめん駅弁えきべん唱歌しょうか)(1975ねん9がつ5にち
  • 渥美あつみきよし啖呵たんかうりI(Bめん渥美あつみきよし啖呵たんかりII)(1976ねん6がつ25にち
  • 浅草あさくさ日記にっき(Bめん:すかんぽのうた)(1977ねん6がつ25にち
  • 今日きょうはこれでおしまい (Bめん着流きなが小唄こうた)(1977ねん10がつ25にち
  • DISCO・んでるとらさん(Bめんとらさん音頭おんど)(1979ねん7がつ25にち

アルバム

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  • 渥美あつみきよしうた哀愁あいしゅう日本にっぽんぐん歌集かしゅう(1968ねん12月5にち
  • 渥美あつみきよしうた哀愁あいしゅう昭和しょうわ叙情じょじょうきょくしゅう(1970ねん4がつ
  • 噫々戦友せんゆう(きけわだつみのこえ)より(1971ねん
  • おとこはつらいよフーテンのとらはっします!(1971ねん11月)
  • おとこはつらいよめい場面ばめんしゅうだいいちしゅう
  • おとこはつらいよめい場面ばめんしゅうだいしゅう
  • おとこはつらいよめい場面ばめんしゅうだいさんしゅう)(1974ねん
  • 渥美あつみきよしベストヒット28(1976ねん

編著へんちょしょ

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  • サンデさんで毎日まいにち 編集へんしゅうへん渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1996ねん
  • 渥美あつみきよし『きょうもなみだちる 渥美あつみきよしのフーテン人生じんせいろん』(展望てんぼうしゃ、2003ねん
  • もり英介えいすけへんあかとんぼ 渥美あつみきよし句集くしゅう』(本阿弥書店もくあみしょてん、2009ねん

親族しんぞく

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ちち とも次郎じろう1884ねん1956ねん10月31にち 行年ぎょうねん72、戒名かいみょうしゃくともきょう信士しんじ
はは タツ:1892ねん1970ねん6月13にち 行年ぎょうねん78、戒名かいみょうしゃくたえたち信女しんにょ
あに 健一郎けんいちろう 1925ねん1947ねん5月12にち 行年ぎょうねん22、戒名かいみょう釈義しゃくぎけんどう信士しんじ
つま 正子まさこ
長男ちょうなん 田所たどころ健太郎けんたろう 株式会社かぶしきがいしゃニッポン放送にっぽんほうそう所属しょぞくしていたラジオディレクターおも担当たんとう番組ばんぐみ伊集院いじゅういんひかりのOh!デカナイト(ゆう)チェリーベルがある。現在げんざい株式会社かぶしきがいしゃニッポン放送ほうそう退社たいしゃし、フリーのラジオディレクター。
長女ちょうじょ 幸恵ゆきえ

山岡やまおか和美かずみ
もとニッポン放送にっぽんほうそうアナウンサー、長男ちょうなんつま

渥美あつみきよしえんじた人物じんぶつ

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テレビドラマ

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  • はら一平いっぺい - 渥美あつみ本人ほんにん生前せいぜんからみとめていた、唯一ゆいいつ渥美あつみきよし公認こうにんのものまね芸人げいにんとらさんのものまねをするさい着用ちゃくようする衣装いしょう渥美あつみ本人ほんにん映画えいが実際じっさい使つかっていたのをゆずけたものである。
  • 佐々木ささきつとむ - 1970年代ねんだい人気にんきはくした。
  • フランクさなとら - (フランクさなとらブログ広島ひろしまけん活躍かつやくしている「広島ひろしまとらさん」。TSSのローカルドラマ「親子おやこ笑劇しょうげきじょうでん太郎たろう一家いっか」にドラねこのドラやく出演しゅつえんしていた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 板橋いたばし記録きろくにこのような名前なまえ学校がっこうはない。志村しむら尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう現在げんざい板橋いたばし区立くりつ志村しむら小学校しょうがっこう)のあやまり(「小林こばやし2000」p.368)、もしくは通称つうしょうかんがえられる。
  2. ^ 昭和しょうわ31ねん5がつ末日まつじつ現在げんざいの「関東かんとう香具師こうぐししょ団体だんたい組織そしき系統けいとう要覧ようらん」によるとます一家いっか関東かんとう香具師こうぐし団体だんたいで、しゅたる勢力せいりょく範囲はんい上野うえの神田かんだである[7]
  3. ^ 西東さいとう書房しょぼう経営けいえいしゃであったななじょうけんさん右腕うわんで、秋葉原あきはばら露店ろてん仕切しきった野田のだ誠一せいいち(秋葉原あきはばらラジオ会館かいかんふく社長しゃちょう)は、霊岸島れいがんじま桝屋ますや宇佐美うさみ分家ぶんけ多田おおたさん代目だいめかん佐原さはら由之助よしのすけ親分おやぶんもとわかしゅである。
  4. ^ 阿部あべサダ一代記いちだいき』とする資料しりょうもある[12]
  5. ^ アフリカについての逸話いつわは『きょうもなみだちる』(渥美あつみ2003、pp.9-66)や『渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』(『渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』、pp.99-154)にくわしい。著書ちょしょによると47さい段階だんかいで5かい(渥美あつみ2003、p.83)、『渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』では48さいで6かい、『とらさんはきている』では生涯しょうがい6かいで50さいぎてからはおとずれることはなかったとかれ(『渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』、p.107)(『とらさんはきている』pp.116-119)、1998ねん9がつ6にち放送ほうそう日本にほんテレビ「ってるつもり?!渥美あつみきよし」ではじゅうすうかいべられている。
  6. ^ そのとき実際じっさい写真しゃしんが、『とらさんはきている』p.57に掲載けいさいされている。
  7. ^ てんぷら学生がくせいとは、大学だいがく学籍がくせきがないにもかかわらず制服せいふく帽子ぼうしこうむりあたかも学生がくせいになりすまして講義こうぎけたり大学だいがくかよ学生がくせいのこと(日本にっぽん俗語ぞくご辞典じてんより)。
  8. ^ やまいおかされるまでは地元じもと人々ひとびととの交流こうりゅうがあり、DVDのメイキングシーン(だい8さくとう)やスナップ写真しゃしんとしてのこされている[71]
  9. ^ それ以前いぜん健太郎けんたろうニッポン放送にっぽんほうそうのディレクターなどの立場たちば公式こうしきさいは、渥美あつみ長男ちょうなんであることを社外しゃがいでは一切いっさいせていた。
  10. ^ 放送ほうそう業界ぎょうかいいていた健太郎けんたろうも、ちちかんしては一切いっさいせていたため、渥美あつみ関係かんけいしゃがニッポン放送ほうそう関連かんれん仕事しごと健太郎けんたろう面識めんしきがあったとしても、親族しんぞくであることはらなかった。
  11. ^ 渥美あつみ死後しご制作せいさくされただい4(『しんはなへんろ』)では2代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく担当たんとうした[74]
  12. ^ うみれきる~小豆島しょうどしま放哉ほうさい~』1985ねん8がつ1にち放映ほうえい放哉ほうさいやく橋爪はしづめいさおで、だい23かいギャラクシーしょう奨励しょうれいしょう受賞じゅしょう
  13. ^ 上記じょうき、『渥美あつみきよし肖像しょうぞうられざる役者やくしゃ人生じんせい』によれば、テキ稼業かぎょう没頭ぼっとうしていたころ浅草あさくさ小屋こやからこえをかけられそれが転機てんきのきっかけとなったとされている。
  14. ^ 1995ねんから逝去せいきょの1997ねんまで、「ニッポンのタイヤがわります」のキャッチフレーズでCM出演しゅつえんしていた。またこのCMは放映ほうえい時期じきぶしわせて、渥美あつみ服装ふくそう背景はいけい変化へんかした。
  15. ^ 幼少ようしょう時代じだい沢田さわだ聖子せいこ共演きょうえん父親ちちおややく渥美あつみきよし沢田さわだ肩車かたぐるまするシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美あつみ前出ぜんしゅつのブリヂストンのCMとおなじく晩年ばんねんに「パンシロンしん胃腸いちょうやく」のCMに復帰ふっき出演しゅつえんしていたことがある。
  16. ^ CMのキャッチコピーは「歴史れきしは、あっちこっちでつくられる。」。コピーライター神様かみさましょうされる仲畑なかはた貴志たかしによるものである。

出典しゅってん

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  1. ^ 小林こばやし2000」p.21
  2. ^ 小林こばやし2000」、p.20
  3. ^ a b c d e f 知識ちしきゼロからのとらさん入門にゅうもん』、p.158
  4. ^ 渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』、p.13
  5. ^ a b 堀切ほりきり直人なおと2007、p.43
  6. ^ 渥美あつみきよし強烈きょうれつ印象いんしょう天性てんせいのコメディアン<だい2かい浅草あさくさろく芸能げいのうでん月刊げっかん浅草あさくさウェブ”. 月刊げっかん浅草あさくさウェブ【毎日まいにち10更新こうしん!】伝統でんとう革新かくしん交差点こうさてん浅草あさくさ」の魅力みりょく配信はいしん. 2021ねん6がつ16にち閲覧えつらん
  7. ^ 藤田ふじた五郎ごろう任侠にんきょうひゃくねん笠倉出版社かさくらしゅっぱんしゃ、1980ねん、p.657
  8. ^ 渥美あつみ2003、pp.9-10
  9. ^ とらさんはきている』p.118
  10. ^ a b 渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』、p.54
  11. ^ 週刊しゅうかんテレビ番組ばんぐみ東京とうきょうポスト)1984ねん4がつ20にちごう芸名げいめい由来ゆらい」70ぺーじ
  12. ^ 渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』、p.53
  13. ^ 吉岡よしおか1997、p.52-54
  14. ^ 吉岡よしおか1997、p.56
  15. ^ 渥美あつみきよしわがフーテン人生じんせい』、pp.72-92
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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  • 柴又しばまた八幡やはた神社じんじゃ古墳こふん - 2001ねん8がつ4にち渥美あつみ命日めいにち)に出土しゅつどした人物じんぶつ埴輪はにわ頭部とうぶが、くるま寅次郎とらじろうているとして「とらさん埴輪はにわ」とばれている。

外部がいぶリンク

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