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東山ひがしやまいさおえびす

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東山ひがしやまいさおえびす
東山魁夷(学生時代)
東山ひがしやまいさおえびす学生がくせい時代じだい
本名ほんみょう 東山ひがしやま 新吉しんきち
誕生たんじょう (1908-07-08) 1908ねん7がつ8にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん横浜よこはま
死没しぼつねん (1999-05-06) 1999ねん5月6にち(90さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん千葉ちばけん市川いちかわ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
芸術げいじゅつ分野ぶんや 日本にっぽん画家がか著述ちょじゅつ
教育きょういく 東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう卒業そつぎょう
受賞じゅしょう 日展にってん特選とくせん
1947ねん 残照ざんしょう
日本にっぽん芸術げいじゅついんしょう
1956ねん こう
毎日まいにち芸術げいじゅつしょう大賞たいしょう
1969ねん 朝明あさあけのしお
文化ぶんか勲章くんしょう文化ぶんか功労こうろうしゃ1969ねん
会員かいいん選出せんしゅつ組織そしき 日本にっぽん芸術げいじゅついん
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東山ひがしやま いさおえびす(ひがしやま かいい、1908ねん明治めいじ41ねん7がつ8にち1999ねん平成へいせい11ねん5月6にち)は、日本にっぽん画家がか版画はんが著述ちょじゅつ昭和しょうわ代表だいひょうする日本にっぽん画家がか一人ひとりで、風景ふうけい分野ぶんやでは国民こくみんてき画家がかといわれる[1]文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ千葉ちばけん市川いちかわ名誉めいよ市民しみん[2]本名ほんみょう東山ひがしやま 新吉しんきち(ひがしやま しんきち)。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

船具せんぐしょういとなんでいたちちひろしかいつま・くにの次男じなんとして神奈川かながわけん横浜よこはま海岸かいがんどおりまれる。ちち仕事しごと関係かんけいで3さいとき兵庫ひょうごけん神戸こうべ西出にしでまち転居てんきょ兵庫ひょうご県立けんりつだい神戸こうべ中学校ちゅうがっこうげん兵庫ひょうご高校こうこう在学ざいがくちゅうから画家がかこころざし、東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうげん東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく)の日本にっぽん進学しんがくした。結城ゆうき素明そめい師事しじ在学ざいがくちゅうの1929ねんだい10かいみかどてんに『山国やまぐにあき』をはつ出品しゅっぴんし、はつ入選にゅうせんたす。1931ねん美術びじゅつ学校がっこう卒業そつぎょうしたのち、1933ねんドイツのベルリン大学だいがくげんフンボルト大学だいがく)に留学りゅうがく1934ねん日本にっぽんとドイツとのあいだ交換こうかん留学りゅうがく制度せいどはじまり、だい1かいにちどく交換こうかん留学生りゅうがくせい日本にっぽんからのドイツ学術がくじゅつ交流こうりゅうかい最初さいしょ留学生りゅうがくせい[3])として2年間ねんかん留学りゅうがく費用ひようをドイツ政府せいふから支給しきゅうされることになり、11月ベルリン大学だいがく文学部ぶんがくぶ美術びじゅつ入学にゅうがくしたが、ちち危篤きとくほう奨学しょうがくきん支給しきゅう期間きかんを1ねんのこしたまま日本にっぽん帰国きこくした[4]。1940ねんには日本にっぽん画家がかかわ﨑小とらむすめすみと結婚けっこん同年どうねん東北とうほく地方ちほうへのスケッチ旅行りょこうあしばした種差たねさし海岸かいがん青森あおもりけん八戸はちのへ東部とうぶ)の風景ふうけいとそこにいるうま取材しゅざいした『なぎ』を紀元きげんせんろくひゃくねん奉祝ほうしゅく美術びじゅつてん出展しゅってんした。種差たねさし題材だいざいにしたとおもわれる作品さくひん生涯しょうがいで17てんほどあり、うま東山ひがしやま作品さくひんモチーフとなった[1]

太平洋戦争たいへいようせんそう前後ぜんごして、画業がぎょうでも家庭かていでも苦難くなんつづいた。1941ねんにははは脳出血のうしゅっけつたおれて療養りょうよう生活せいかつはいり(1945ねん11月死去しきょ)、事業じぎょう失敗しっぱいしたちちよく1942ねん急死きゅうし

1945ねん4がつにはははつまともなって高山たかやま岐阜ぎふけん)へ疎開そかいするも、7がつには召集令状しょうしゅうれいじょうけて入営にゅうえい熊本くまもとけんばくだんかかえてのたい戦車せんしゃ体当たいあたり攻撃こうげき訓練くんれんけるうち終戦しゅうせんむかえた[1]召集しょうしゅう解除かいじょしょうとらははつま疎開そかいしていた山梨やまなしけん中巨摩なかこまぐん落合おちあいむらげんみなみアルプス)に一旦いったんく。

戦後せんご[編集へんしゅう]

1945ねん11月にはは死去しきょすると千葉ちばけん市川いちかわうつった。市川いちかわでは、馬主ばしゅとしてもられる実業じつぎょう中村なかむら勝五郎かつごろうから住居じゅうきょ提供ていきょうなど支援しえんけていた。1946ねんだい1かい日展にってんには落選らくせんし、直後ちょくご結核けっかく療養りょうようちゅうだったおとうと死去しきょ東山ひがしやまいさおえびす当時とうじ境遇きょうぐうを「どんぞこ」と回想かいそうしつつ、「これ以上いじょうちようがない」とおもうとかえって気持きもちがき、「すこしずつでもがってく」決意けついかためた[1]

1947ねんだい3かい日展にってんで、鹿野山かのうざん千葉ちばけん君津きみつ)からのながめをえがいた『残照ざんしょう』が特選とくせん日本国にっぽんこく政府せいふげられたことから世評せひょうたかまり、風景ふうけい題材だいざいとする決意けついかた[1]独自どくじ表現ひょうげん追求ついきゅうした。1950ねん発表はっぴょうした『みち』は、前方ぜんぽうへとまっすぐにびるみちそれだけをえが作品さくひんで、単純たんじゅんきわめた画面がめん構成こうせいしん機軸きじくしめされている。制作せいさくまえにはたね再訪さいほうし、中村なかむら紹介しょうかいしたとおもわれるタイヘイ牧場ぼくじょう投宿とうしゅくして写生しゃせいした[1]

1953ねん大学だいがく同窓どうそう吉村よしむら順三じゅんぞう設計せっけいによる自宅じたく[5]、50ねん以上いじょうわたりその創作そうさく活動かつどうつづけた。

北欧ほくおう、ドイツ、オーストリア中国ちゅうごく海外かいがいにも取材しゅざいし、次々つぎつぎ精力せいりょくてき発表はっぴょうされた作品さくひんは、平明へいめいながらふか精神せいしんせいそなえ、幅広はばひろ支持しじあつめた。同年どうねん日展にってん審査しんさいんとなり、以後いご歴任れきにんした。1956ねん、『ひかり昏』で日本にっぽん芸術げいじゅついんしょう。1960ねん東宮御所とうぐうごしょ(『日月じつげつ四季しき』)、1968ねん落成らくせいした皇居こうきょ宮殿きゅうでん障壁しょうへき担当たんとうした。1961ねん吹上ふきあげ御所ごしょ用命ようめい万緑ばんりょくしん』。1962ねんイタリアローマ日本にっぽん文化ぶんかかんに『緑岡みどりおか』。1965ねん日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん日展にってんに『白夜はくやこう』。1968ねん皇居こうきょしん宮殿きゅうでん壁画へきが朝明あさあけのしお』、文化財ぶんかざい保護ほご審議しんぎかい専門せんもん委員いいん。1969ねん毎日まいにち芸術げいじゅつ大賞たいしょう文化ぶんか勲章くんしょう文化ぶんか功労こうろうしゃ。1970ねん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん評議ひょうぎいん。1973ねん自然しぜん環境保全審かんきょうほぜんしん議会ぎかい委員いいん。1974ねん日展にってん理事りじちょうき、よく1975ねん辞任じにんした。1970年代ねんだいにはやく10ねん歳月さいげつをかけて制作せいさくした奈良なら唐招提寺とうしょうだいじ御影堂ごえどう障壁しょうへきやま暁雲ぎょううん』は畢生ひっせい大作たいさくとなった。千変万化せんぺんばんかするやま姿すがたすみ濃淡のうたん使つかけ、あざやかにえがした。東山ひがしやまやまを「充実じゅうじつした世界せかい」と表現ひょうげんした。混沌こんとんとした自然しぜんうつろいにあらゆるものをすエネルギーをかんった。この計画けいかくがけたことにより国内こくないでの知名度ちめいど人気にんきはさらにたかまり、国民こくみんてき日本にっぽん画家がかともばれるようになった。画集がしゅうのみならず文章ぶんしょうでもあり文集ぶんしゅうなど、著作ちょさく数多かずおおい。川端かわばた康成やすなりとも親交しんこうふかかった[6]

ドイツ留学りゅうがくちゅうったドイツロマン主義しゅぎ画家がかカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ日本にっぽんはじめて紹介しょうかいしたのもかれである。また、瀬戸大橋せとおおはしのライトグレーしょく提案ていあんしたことでもられる[7]

1975ねんフランスパリ吉井よしい画廊がろう唐招提寺とうしょうだいじ障壁しょうへき習作しゅうさくてん、ドイツのケルン日本にっぽん文化ぶんか会館かいかんどう習作しゅうさくてん。1976ねん、パリ吉井よしい画廊がろう京洛きょうらく四季しき習作しゅうさくてん。1977ねん、パリ唐招提寺とうしょうだいじてん障壁しょうへき出陳しゅっちん。1978ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく北京ぺきん瀋陽しんよう東山ひがしやまいさおえびすてん、パリで『コンコルド広場ひろば椅子いす原画げんがてん。1979ねん、ドイツのベルリンとライプチヒ東山ひがしやまいさおえびすてん。1980ねんだい唐招提寺とうしょうだいじ障壁しょうへき制作せいさく。1981ねん唐招提寺とうしょうだいじ鑑真がんじん和上わじょうぞう厨子ずし瑞光ずいこう』を制作せいさく奉納ほうのう東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん東山ひがしやまいさおえびすてん。1982ねん国立こくりつ国際こくさい美術館びじゅつかん東山ひがしやまいさおえびすてん。1983ねん、ドイツのミュンヘンデュッセルドルフブレーメン東山ひがしやまいさおえびすてん。1984ねん西にしドイツ最高さいこう栄誉えいよであるプールルメリット学術がくじゅつ芸術げいじゅついん会員かいいんえらばれ、ボン会員かいいんしょう大統領だいとうりょう臨席りんせきした授与じゅよ。1986ねんにちちゅう文化ぶんか交流こうりゅう協会きょうかい代表だいひょうだん団長だんちょうとして訪中ほうちゅう。1988ねん京都きょうと美術館びじゅつかん名古屋なごや美術館びじゅつかん兵庫ひょうご県立けんりつ美術館びじゅつかん東山ひがしやまいさおえびすてん。1990ねん東京とうきょう日本橋にほんばし髙島でベルリンハンブルクウィーン巡回じゅんかいてん帰国きこく記念きねん東山ひがしやまいさおえびすてん。1995ねん東京とうきょう京都きょうと長野ながの米寿べいじゅ記念きねん東山ひがしやまいさおえびすてん。1996ねん長野ながの県内けんない高等こうとう学校がっこう106こう東山ひがしやまいさおえびす画集がしゅう図録ずろく贈呈ぞうてい。1997ねん神戸こうべ福岡ふくおかで、米寿べいじゅむかえて-東山ひがしやまいさおえびすわたしもりてん

1999ねん老衰ろうすいのため90さい死去しきょしたがえさん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう墓所はかしょ長野ながの霊山りょうぜんてら生前せいぜん日展にってんへの出品しゅっぴんさくなど代表だいひょうさくおおくを東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん長野ながのけん寄贈きぞう長野ながのけん長野ながのけん信濃しなの美術館びじゅつかんげん長野ながの県立けんりつ美術館びじゅつかん)に「東山ひがしやまいさおえびすかん」(谷口たにぐち吉生よしお設計せっけい)を増設ぞうせつし、寄贈きぞうされた作品さくひん常設じょうせつ展示てんじにあてている。その少年しょうねん時代じだいごした神戸こうべにある兵庫ひょうご県立けんりつ美術館びじゅつかん祖父そふ出身しゅっしんである香川かがわけん坂出さかいでの「香川かがわ県立けんりつ東山ひがしやまいさおえびすせとうち美術館びじゅつかん」にも、版画はんが中心ちゅうしんとする作品さくひん寄贈きぞうされている[7]戦後せんご復員ふくいん直後ちょくごから死去しきょするまでらしていた千葉ちばけん市川いちかわには、自宅じたく隣接りんせつして「市川いちかわ東山ひがしやまさきがけえびす記念きねんかん」が開館かいかんした。また、美術びじゅつ学校がっこう時代じだいのキャンプ旅行りょこう途中とちゅうはげしい夕立ゆうだちったさいあたたかいもてなしをけたことに感謝かんしゃしてのち寄贈きぞうされたやく500てん版画はんが収蔵しゅうぞうする「東山ひがしやまいさおえびす しん旅路たびじかん」が、岐阜ぎふけん中津川なかつがわきゅう長野ながのけん木曽きそぐん山口やまぐちむら)にある。

2000ねん福岡ふくおか東京とうきょう名古屋なごやでパリてん帰国きこく記念きねん東山ひがしやまいさおえびすてん信濃しなの美術館びじゅつかん東山ひがしやまいさおえびすかん10周年しゅうねん記念きねんてん東山ひがしやまいさおえびす世界せかい。2004ねん横浜よこはま美術館びじゅつかん東山ひがしやまいさおえびすてんひとすじのみち。2005ねん坂出さかいで沙弥島しゃみじま香川かがわ県立けんりつ東山ひがしやまいさおえびすせとうち美術館びじゅつかん開館かいかん記念きねんてん市川いちかわ市川いちかわ東山ひがしやまさきがけえびす記念きねんかん開館かいかん記念きねん特別とくべつてん。2008ねん東京とうきょう長野ながの生誕せいたん100ねん東山ひがしやまいさおえびすてん。2018ねん東京とうきょう京都きょうと生誕せいたん110ねん東山ひがしやまいさおえびすてん

代表だいひょう作品さくひん[編集へんしゅう]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 『わが遍歴へんれき山河さんが』(新潮社しんちょうしゃ、1957ねん新版しんぱん1971ねん
    • 東山ひがしやまいさおえびす わが遍歴へんれき山河さんが人間にんげん記録きろく>』(日本にっぽん図書としょセンター、1999ねん)。改訂かいていばん
  • わたしまど』(新潮社しんちょうしゃ、1961ねん
  • もりみずうみくに 北欧ほくおう画集がしゅう』(美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1963ねん
  • 白夜はくやたび』(新潮社しんちょうしゃ、1963ねん新潮しんちょう文庫ぶんこ、1980ねん
  • ふるまちにて 北欧ほくおう紀行きこう』(明治めいじ書房しょぼう、1964ねん限定げんていばん)。講談社こうだんしゃ、2010ねん復刻ふっこく普及ふきゅうばん))
  • 風景ふうけいとの対話たいわ』(新潮しんちょう選書せんしょ、1967ねん
  • 朝明あさあけのしお』(三彩さんさいしゃ、1968ねん
  • 京洛きょうらく四季しき』(新潮社しんちょうしゃ、1969ねん
  • 馬車ばしゃよ、ゆっくりはしれ』(新潮社しんちょうしゃ、1971ねん
  • いずみく』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1972ねん講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ現代げんだい日本にっぽんのエッセイ)、1990ねん
  • 古都ことえがく ドイツ・オーストリアをたびして』(集英社しゅうえいしゃ、1972ねん
  • しろうまえる風景ふうけい』(新潮社しんちょうしゃ、1973ねん
  • 四季しき』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1974ねん
    • 新編しんぺん東山ひがしやまいさおえびす世界せかい 四季しき 1・2』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1978ねん
  • 唐招提寺とうしょうだいじへのみち』(新潮しんちょう選書せんしょ、1975ねん
  • ろくほん色鉛筆いろえんぴつ』(新潮社しんちょうしゃ、1976ねん
  • 日本にっぽんもとめて』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1976ねん
  • 『コンコルド広場ひろば椅子いす』(もとむりゅうどう、1977ねん
  • 大地だいち悠々ゆうゆう こくたびより』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1977ねん
  • 天山あまやまはるか』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1978ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびす文集ぶんしゅうぜん10かん別巻べっかん新潮社しんちょうしゃ、1978–79ねん
  1. わが遍歴へんれき山河さんが
  2. わたしまど
  3. 風景ふうけいとの対話たいわ
  4. 白夜はくやたび
  5. おとず
  6. ドイツ紀行きこう 馬車ばしゃよ,ゆっくりはし
  7. オーストリア紀行きこう 馬車ばしゃよ、ゆっくりはし
  8. 唐招提寺とうしょうだいじへのみち
  9. ろくほん色鉛筆いろえんぴつ
  10. 水墨すいぼく世界せかい 中国ちゅうごくへのたび
別巻べっかん. 自伝じでんしょうたびたまき
  • 東山ひがしやまいさおえびす全集ぜんしゅうぜん10かん講談社こうだんしゃ、1979–80ねん)、画集がしゅう
  • やま白雲しらくも』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1979ねん
  • 自然しぜんのなかのよろこなつあきふゆはる』(講談社こうだんしゃ、1982ねん
    • 新編しんぺん東山ひがしやまいさおえびす 自然しぜんのなかのよろこび 「えがくこと」は、「いのること」』(講談社こうだんしゃカルチャーブックス、1995ねん
  • 京洛きょうらく四季しき』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん
  • もりみずうみと』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん
  • 唐招提寺とうしょうだいじぜん障壁しょうへき』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん
  • 中国ちゅうごくへのたび』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん
  • 『ドイツ・オーストリア』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん
  • 風景ふうけいとのめぐい』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびすみち 写真しゃしんかく文集ぶんしゅう』(読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1985ねん
  • 山河さんが遍歴へんれき』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1989ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびすぜん5かん講談社こうだんしゃ、1989-90ねん
  • 光彩こうさい』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1992ねん
  • 雪月花せつげっか 画集がしゅうぜん3かん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1993-94ねん
  • 『コンコルド広場ひろば椅子いす』(新潮社しんちょうしゃ、1993ねん
  • 山河さんがはるか』文集ぶんしゅうもとむりゅうどう、1994ねん
  • 四季しきめぐりあい』ぜん4さつ講談社こうだんしゃ、1995ねん
  • 信州しんしゅう讃歌さんか文集ぶんしゅうもとむりゅうどう、1995ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびす自選じせん文集ぶんしゅうぜん5かん集英社しゅうえいしゃ、1996ねん
  1. たびへのさそ
  2. 欧州おうしゅう巡遊じゅんゆう
  3. うつくしい日本にっぽん
  4. 水墨すいぼく魅力みりょく
  5. 自然しぜんへの讃歌さんか
  • 『爽風明水あけみ』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1996ねん
  • 薫風くんぷう小径しょうけい』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1996ねん
  • 白馬はくば幻想げんそう しん風景ふうけいより』(ビジョン企画きかく出版しゅっぱんしゃ、1996ねん
  • 遍歴へんれき 東山ひがしやまいさおえびす座談ざだんしゅう』(芸術げいじゅつ新聞しんぶんしゃ、1997ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびすもりへのさそい」』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1997ねん
  • ぼく留学りゅうがく時代じだい』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1998ねん
  • 追憶ついおく古都こと』(ビジョン企画きかく出版しゅっぱんしゃ、1999ねん
  • わたし風景ふうけい 東山ひがしやまいさおえびす文集ぶんしゅう』(もとめりゅうどう、1999ねん

おも評伝ひょうでん研究けんきゅう[編集へんしゅう]

  • Als Bürger zweier Welten. Erläutert von N. Senzoku, T. Takatsuji. Dogakusha 1984
『ふたつの世界せかいあいだきて』(千足せんぞく伸行のぶゆき高辻たかつじ知義ともよしへん同学どうがくしゃISBN 4810206238
  • 桑原くわばら住雄すみお東山ひがしやまいさおえびす みちいのりのたび講談社こうだんしゃ、1995ねん
  • 佐々木ささきとおる東山ひがしやまいさおえびすものがたり』ビジョン企画きかく出版しゅっぱんしゃ、2002ねん
  • 村上むらかみとおる哉『感動かんどう 人間にんげん東山ひがしやまいさおえびす日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱんしゃ、2004ねん
    • 改訂かいていばん『うつくしいひと 東山ひがしやまいさおえびす集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ、2018ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびすかたる 東山ひがしやますみ対談たいだんしゅう美術年鑑社びじゅつねんかんしゃ、2008ねん
  • 岡田おかだ政晴まさはるえんいと 信州しんしゅう東山ひがしやまいさおえびすとすみ夫人ふじん』ほおずき書籍しょせき、2012ねん
  • 巨匠きょしょう 川端かわばた康成やすなり東山ひがしやまいさおえびす水原みずはらえんはくほか、もとめりゅうどう、2014ねん

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 【みちものがたり】東山ひがしやまいさおえびす ひとすじのみち青森あおもりけん八戸はちのへ苦難くなんんだ希望きぼう構図こうず朝日新聞あさひしんぶん土曜どよう朝刊ちょうかんべつり「be」2019ねん10がつ5にち(6-7めん)2020ねん8がつ9にち閲覧えつらん
  2. ^ 市川いちかわ名誉めいよ市民しみん
  3. ^ DAADともかい名誉めいよ会長かいちょうをつとめるなど、にちどく学術がくじゅつ文化ぶんか交流こうりゅう貢献こうけんしたことは以下いかくわしい:Dierk Stuckenschmidt, Als Brückenbauer hatte ich oft die herrlichsten Ausblicke.Rostinger Hof-Verlag, Germany 2003 (ISBN 3-8330-0211-5; Herstellung: Books on Demand GmbH 2003) Untertitel: Mein Leben in Deutschland, Frankreich und England, in den USA und Japan, und schließlich im neuen Europa. Erinnerungen – zugleich eine Hommage an den DAAD, S.194 -197. - Sabine Yokoyama: Liebe DAAD-Ehemalige. 〔Echo編集へんしゅう委員いいんかい へん Echo36ごう、DAADともかい、2020,11、7-10ぺーじ〕、8ぺーじ
  4. ^ Dierk Stuckenschmidt (Hrsg.), DAAD 50 Jahre - 30 Jahre Austausch mit Japan. Erinnerungen japanischer Wissenschaftler und Künstler an ihre Studienzeit in Deutschland. DAAD-Büro Tokyo(ドイツ学術がくじゅつ交流こうりゅうかい東京とうきょう事務所じむしょ)1985. S. 11-13 und Bilder zw. S. 16 und 17. - やどりきがわじょう(よりかわ・じょうじ)『東山ひがしやまいさおえびす――ふたつの世界せかい、ひとすじのみち――』ナカニシヤ出版しゅっぱん 2014ねん5がつISBN 978-4-7795-0842-4)11-21ぺーじ
  5. ^ 吉村よしむら順三じゅんぞう設計せっけい新居しんきょてる。”. 市川いちかわ東山ひがしやまさきがけえびす記念きねんかん. 市川いちかわ. 2010ねん7がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ 川端かわばた康成やすなり東山ひがしやまいさおえびす ひびきあう世界せかい』、『いま、ふたたびの京都きょうと 東山ひがしやまいさおえびすたずね、川端かわばた康成やすなりれるたび』(かくもとめりゅうどう、2006ねん)にくわしい。
  7. ^ a b 展覧てんらんかいのご案内あんない」『香川かがわ県立けんりつ東山ひがしやまいさおえびすせとうち美術館びじゅつかん案内あんない冊子さっし、2019ねん
  8. ^ 特集とくしゅう 唐招提寺とうしょうだいじ障壁しょうへきうみやま東山ひがしやまいさおえびす制作せいさく記録きろく NHK名作めいさくせん動画どうが静止せいし) -NHKアーカイブス - ドイツ学術がくじゅつ交流こうりゅうかい東京とうきょう事務所じむしょちょう・ボンどくにち協会きょうかいちょうつとめた日本にっぽんどおりのDierk Stuckenschmidt(1939-2020)は、東山ひがしやまいさおえびす献呈けんていした著作ちょさく Japan mit der Seele suchen (Scherz Verlag Bern, München, Wien 1988)、79-80ぺーじにおいて、《唐招提寺とうしょうだいじ御影堂ごえどう障壁しょうへきのうち「濤声」》(1975ねん)について、ドイツに留学りゅうがくしたさきがけえびすは「鑑真がんじんたびみずかつい体験たいけんし、独自どくじ様式ようしき中国ちゅうごく日本にっぽん精神せいしん古代こだい現代げんだい伝統でんとうてきほうあたらしい構成こうせいほうひとつに融合ゆうごうさせた」と解説かいせつしている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]