東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす (ひがしやま かいい、1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )7月 がつ 8日 にち ~1999年 ねん (平成 へいせい 11年 ねん )5月6日 にち )は、日本 にっぽん の画家 がか 、版画 はんが 家 か 、著述 ちょじゅつ 家 か 。昭和 しょうわ を代表 だいひょう する日本 にっぽん 画家 がか の一人 ひとり で、風景 ふうけい 画 が の分野 ぶんや では国民 こくみん 的 てき 画家 がか といわれる[1] 。文化 ぶんか 勲章 くんしょう 受章 じゅしょう 者 しゃ 。千葉 ちば 県 けん 市川 いちかわ 市 し 名誉 めいよ 市民 しみん [2] 。本名 ほんみょう は東山 ひがしやま 新吉 しんきち (ひがしやま しんきち)。
来歴 らいれき ・人物 じんぶつ [ 編集 へんしゅう ]
船具 せんぐ 商 しょう を営 いとな んでいた父 ちち ・浩 ひろし 介 かい と妻 つま ・くにの次男 じなん として神奈川 かながわ 県 けん 横浜 よこはま 市 し の海岸 かいがん 通 どおり に生 う まれる。父 ちち の仕事 しごと の関係 かんけい で3歳 さい の時 とき に兵庫 ひょうご 県 けん 神戸 こうべ 市 し 西出 にしで 町 まち へ転居 てんきょ 。兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 第 だい 二 に 神戸 こうべ 中学校 ちゅうがっこう (現 げん :兵庫 ひょうご 高校 こうこう )在学 ざいがく 中 ちゅう から画家 がか を志 こころざ し、東京 とうきょう 美術 びじゅつ 学校 がっこう (現 げん :東京芸術大学 とうきょうげいじゅつだいがく )の日本 にっぽん 画 が 科 か へ進学 しんがく した。結城 ゆうき 素明 そめい に師事 しじ 。在学 ざいがく 中 ちゅう の1929年 ねん 第 だい 10回 かい 帝 みかど 展 てん に『山国 やまぐに の秋 あき 』を初 はつ 出品 しゅっぴん し、初 はつ 入選 にゅうせん を果 は たす。1931年 ねん に美術 びじゅつ 学校 がっこう を卒業 そつぎょう した後 のち 、1933年 ねん 、ドイツ のベルリン大学 だいがく (現 げん :フンボルト大学 だいがく )に留学 りゅうがく 。1934年 ねん 日本 にっぽん とドイツとの間 あいだ で交換 こうかん 留学 りゅうがく 制度 せいど が始 はじ まり、第 だい 1回 かい 日 にち 独 どく 交換 こうかん 留学生 りゅうがくせい (日本 にっぽん からのドイツ学術 がくじゅつ 交流 こうりゅう 会 かい 最初 さいしょ の留学生 りゅうがくせい [3] )として2年間 ねんかん の留学 りゅうがく 費用 ひよう をドイツ政府 せいふ から支給 しきゅう されることになり、11月ベルリン大学 だいがく 文学部 ぶんがくぶ 美術 びじゅつ 史 し 科 か に入学 にゅうがく したが、父 ちち が危篤 きとく の報 ほう を受 う け奨学 しょうがく 金 きん 支給 しきゅう 期間 きかん を1年 ねん 残 のこ したまま日本 にっぽん に帰国 きこく した[4] 。1940年 ねん には日本 にっぽん 画家 がか の川 かわ 﨑小虎 とら の娘 むすめ すみと結婚 けっこん 。同年 どうねん 、東北 とうほく 地方 ちほう へのスケッチ旅行 りょこう で足 あし を延 の ばした種差 たねさし 海岸 かいがん (青森 あおもり 県 けん 八戸 はちのへ 市 し 東部 とうぶ )の風景 ふうけい とそこにいる馬 うま に取材 しゅざい した『凪 なぎ 』を紀元 きげん 二 に 千 せん 六 ろく 百 ひゃく 年 ねん 奉祝 ほうしゅく 美術 びじゅつ 展 てん に出展 しゅってん した。種差 たねさし を題材 だいざい にしたと思 おも われる作品 さくひん は生涯 しょうがい で17点 てん ほどあり、馬 うま も東山 ひがしやま 作品 さくひん のモチーフ となった[1] 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう に前後 ぜんご して、画業 がぎょう でも家庭 かてい でも苦難 くなん が続 つづ いた。1941年 ねん には母 はは が脳出血 のうしゅっけつ で倒 たお れて療養 りょうよう 生活 せいかつ に入 はい り(1945年 ねん 11月死去 しきょ )、事業 じぎょう に失敗 しっぱい した父 ちち は翌 よく 1942年 ねん に急死 きゅうし 。
1945年 ねん 4月 がつ には母 はは と妻 つま を伴 ともな って高山 たかやま (岐阜 ぎふ 県 けん )へ疎開 そかい するも、7月 がつ には召集令状 しょうしゅうれいじょう を受 う けて入営 にゅうえい 。熊本 くまもと 県 けん で爆 ばく 弾 だん を抱 かか えての対 たい 戦車 せんしゃ 体当 たいあ たり攻撃 こうげき の訓練 くんれん を受 う けるうち終戦 しゅうせん を迎 むか えた[1] 。召集 しょうしゅう 解除 かいじょ 後 ご は小 しょう 虎 とら 、母 はは 、妻 つま が疎開 そかい していた山梨 やまなし 県 けん 中巨摩 なかこま 郡 ぐん 落合 おちあい 村 むら (現 げん :南 みなみ アルプス市 し )に一旦 いったん 落 お ち着 つ く。
1945年 ねん 11月に母 はは が死去 しきょ すると千葉 ちば 県 けん 市川 いちかわ 市 し に移 うつ った。市川 いちかわ では、馬主 ばしゅ としても知 し られる実業 じつぎょう 家 か ・中村 なかむら 勝五郎 かつごろう から住居 じゅうきょ の提供 ていきょう など支援 しえん を受 う けていた。1946年 ねん の第 だい 1回 かい 日展 にってん には落選 らくせん し、直後 ちょくご に結核 けっかく 療養 りょうよう 中 ちゅう だった弟 おとうと が死去 しきょ 。東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす は当時 とうじ の境遇 きょうぐう を「どん底 ぞこ 」と回想 かいそう しつつ、「これ以上 いじょう 落 お ちようがない」と思 おも うとかえって気持 きも ちが落 お ち着 つ き、「少 すこ しずつでも這 は い上 あ がって行 い く」決意 けつい を固 かた めた[1] 。
1947年 ねん の第 だい 3回 かい 日展 にってん で、鹿野山 かのうざん (千葉 ちば 県 けん 君津 きみつ 市 し )からの眺 なが めを描 えが いた『残照 ざんしょう 』が特選 とくせん を得 え て日本国 にっぽんこく 政府 せいふ に買 か い上 あ げられたことから世評 せひょう が高 たか まり、風景 ふうけい を題材 だいざい とする決意 けつい を固 かた め[1] 、独自 どくじ の表現 ひょうげん を追求 ついきゅう した。1950年 ねん に発表 はっぴょう した『道 みち 』は、前方 ぜんぽう へとまっすぐに伸 の びる道 みち それだけを描 えが く作品 さくひん で、単純 たんじゅん 化 か を極 きわ めた画面 がめん 構成 こうせい に新 しん 機軸 きじく が示 しめ されている。制作 せいさく 前 まえ には種 たね 差 さ を再訪 さいほう し、中村 なかむら が紹介 しょうかい したと思 おも われるタイヘイ牧場 ぼくじょう に投宿 とうしゅく して写生 しゃせい した[1] 。
1953年 ねん 、大学 だいがく の同窓 どうそう ・吉村 よしむら 順三 じゅんぞう 設計 せっけい による自宅 じたく を建 た て[5] 、50年 ねん 以上 いじょう に亘 わた りその地 ち で創作 そうさく 活動 かつどう を続 つづ けた。
北欧 ほくおう 、ドイツ、オーストリア 、中国 ちゅうごく と海外 かいがい にも取材 しゅざい し、次々 つぎつぎ と精力 せいりょく 的 てき に発表 はっぴょう された作品 さくひん は、平明 へいめい ながら深 ふか い精神 せいしん 性 せい を備 そな え、幅広 はばひろ い支持 しじ を集 あつ めた。同年 どうねん に日展 にってん 審査 しんさ 員 いん となり、以後 いご 、歴任 れきにん した。1956年 ねん 、『光 ひかり 昏』で日本 にっぽん 芸術 げいじゅつ 院 いん 賞 しょう 。1960年 ねん に東宮御所 とうぐうごしょ (『日月 じつげつ 四季 しき 図 ず 』)、1968年 ねん に落成 らくせい した皇居 こうきょ 宮殿 きゅうでん の障壁 しょうへき 画 が を担当 たんとう した。1961年 ねん 、吹上 ふきあげ 御所 ごしょ 御 ご 用命 ようめい 画 が 『万緑 ばんりょく 新 しん 』。1962年 ねん 、イタリア のローマ 日本 にっぽん 文化 ぶんか 館 かん に『緑岡 みどりおか 』。1965年 ねん 、日本 にっぽん 芸術 げいじゅつ 院 いん 会員 かいいん 、日展 にってん に『白夜 はくや 光 こう 』。1968年 ねん 、皇居 こうきょ 新 しん 宮殿 きゅうでん 壁画 へきが 『朝明 あさあ けの潮 しお 』、文化財 ぶんかざい 保護 ほご 審議 しんぎ 会 かい 専門 せんもん 委員 いいん 。1969年 ねん 、毎日 まいにち 芸術 げいじゅつ 大賞 たいしょう 、文化 ぶんか 勲章 くんしょう 、文化 ぶんか 功労 こうろう 者 しゃ 。1970年 ねん 、東京 とうきょう 国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん 評議 ひょうぎ 員 いん 。1973年 ねん 、自然 しぜん 環境保全審 かんきょうほぜんしん 議会 ぎかい 委員 いいん 。1974年 ねん 、日展 にってん 理事 りじ 長 ちょう に就 つ き、翌 よく 1975年 ねん に辞任 じにん した。1970年代 ねんだい には約 やく 10年 ねん の歳月 さいげつ をかけて制作 せいさく した奈良 なら ・唐招提寺 とうしょうだいじ 御影堂 ごえどう 障壁 しょうへき 画 が 『黄 き 山 やま 暁雲 ぎょううん 』は畢生 ひっせい の大作 たいさく となった。千変万化 せんぺんばんか する山 やま の姿 すがた を墨 すみ の濃淡 のうたん を使 つか い分 わ け、鮮 あざ やかに描 えが き出 だ した。東山 ひがしやま は黄 き 山 やま を「充実 じゅうじつ した無 む の世界 せかい 」と表現 ひょうげん した。混沌 こんとん とした自然 しぜん の移 うつ ろいにあらゆるものを生 う み出 だ すエネルギーを感 かん じ取 と った。この計画 けいかく を手 て がけたことにより国内 こくない での知名度 ちめいど と人気 にんき はさらに高 たか まり、国民 こくみん 的 てき 日本 にっぽん 画家 がか とも呼 よ ばれるようになった。画集 がしゅう のみならず文章 ぶんしょう 家 か でもあり画 が 文集 ぶんしゅう など、著作 ちょさく は数多 かずおお い。川端 かわばた 康成 やすなり とも親交 しんこう が深 ふか かった[6] 。
ドイツ留学 りゅうがく 中 ちゅう に知 し ったドイツロマン主義 しゅぎ の画家 がか 、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ を日本 にっぽん に初 はじ めて紹介 しょうかい したのも彼 かれ である。また、瀬戸大橋 せとおおはし のライトグレー色 しょく を提案 ていあん したことでも知 し られる[7] 。
1975年 ねん 、フランス のパリ 吉井 よしい 画廊 がろう で唐招提寺 とうしょうだいじ 障壁 しょうへき 画 が 習作 しゅうさく 展 てん 、ドイツのケルン 日本 にっぽん 文化 ぶんか 会館 かいかん で同 どう 習作 しゅうさく 展 てん 。1976年 ねん 、パリ吉井 よしい 画廊 がろう で京洛 きょうらく 四季 しき 習作 しゅうさく 展 てん 。1977年 ねん 、パリ唐招提寺 とうしょうだいじ 展 てん に障壁 しょうへき 画 が を出陳 しゅっちん 。1978年 ねん 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の北京 ぺきん と瀋陽 しんよう で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 、パリで『コンコルド広場 ひろば の椅子 いす 』原画 げんが 展 てん 。1979年 ねん 、ドイツのベルリンとライプチヒ で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。1980年 ねん 、第 だい 二 に 期 き 唐招提寺 とうしょうだいじ 障壁 しょうへき 画 が 制作 せいさく 。1981年 ねん 、唐招提寺 とうしょうだいじ 鑑真 がんじん 和上 わじょう 像 ぞう 厨子 ずし 絵 え 『瑞光 ずいこう 』を制作 せいさく ・奉納 ほうのう 。東京 とうきょう 国立 こくりつ 近代 きんだい 美術館 びじゅつかん で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。1982年 ねん 、国立 こくりつ 国際 こくさい 美術館 びじゅつかん で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。1983年 ねん 、ドイツのミュンヘン 、デュッセルドルフ 、ブレーメン で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。1984年 ねん 、西 にし ドイツ最高 さいこう 栄誉 えいよ であるプールルメリット学術 がくじゅつ 芸術 げいじゅつ 院 いん 会員 かいいん に選 えら ばれ、ボン で会員 かいいん 章 しょう を大統領 だいとうりょう 臨席 りんせき の下 した で授与 じゅよ 。1986年 ねん 、日 にち 中 ちゅう 文化 ぶんか 交流 こうりゅう 協会 きょうかい 代表 だいひょう 団 だん 団長 だんちょう として訪中 ほうちゅう 。1988年 ねん 、京都 きょうと 市 し 美術館 びじゅつかん 、名古屋 なごや 市 し 美術館 びじゅつかん 、兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 美術館 びじゅつかん で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。1990年 ねん 、東京 とうきょう の日本橋 にほんばし 髙島屋 や でベルリンハンブルク ウィーン 巡回 じゅんかい 展 てん 帰国 きこく 記念 きねん 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。1995年 ねん 、東京 とうきょう 、京都 きょうと 、長野 ながの で米寿 べいじゅ 記念 きねん 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。1996年 ねん 、長野 ながの 県内 けんない の高等 こうとう 学校 がっこう 106校 こう に東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 画集 がしゅう 図録 ずろく を贈呈 ぞうてい 。1997年 ねん 、神戸 こうべ 、福岡 ふくおか で、米寿 べいじゅ を迎 むか えて-東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 「私 わたし の森 もり 」展 てん 。
1999年 ねん 、老衰 ろうすい のため90歳 さい で死去 しきょ 、従 したがえ 三 さん 位 い 、勲一等 くんいっとう 瑞宝章 ずいほうしょう 。墓所 はかしょ は長野 ながの 市 し 霊山 りょうぜん 寺 てら 。生前 せいぜん 、日展 にってん への出品 しゅっぴん 作 さく など代表 だいひょう 作 さく の多 おお くを東京 とうきょう 国立 こくりつ 近代 きんだい 美術館 びじゅつかん と長野 ながの 県 けん に寄贈 きぞう 。長野 ながの 県 けん は長野 ながの 県 けん 信濃 しなの 美術館 びじゅつかん (現 げん 長野 ながの 県立 けんりつ 美術館 びじゅつかん )に「東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 館 かん 」(谷口 たにぐち 吉生 よしお 設計 せっけい )を増設 ぞうせつ し、寄贈 きぞう された作品 さくひん の常設 じょうせつ 展示 てんじ にあてている。その他 た 、少年 しょうねん 時代 じだい を過 す ごした神戸 こうべ 市 し にある兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 美術館 びじゅつかん 、祖父 そふ の出身 しゅっしん 地 ち である香川 かがわ 県 けん 坂出 さかいで 市 し の「香川 かがわ 県立 けんりつ 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす せとうち美術館 びじゅつかん 」にも、版画 はんが を中心 ちゅうしん とする作品 さくひん が寄贈 きぞう されている[7] 。戦後 せんご の復員 ふくいん 直後 ちょくご から死去 しきょ するまで暮 く らしていた千葉 ちば 県 けん 市川 いちかわ 市 し には、自宅 じたく に隣接 りんせつ して「市川 いちかわ 市 し 東山 ひがしやま 魁 さきがけ 夷 えびす 記念 きねん 館 かん 」が開館 かいかん した。また、美術 びじゅつ 学校 がっこう 時代 じだい のキャンプ旅行 りょこう の途中 とちゅう 、激 はげ しい夕立 ゆうだち に遇 あ った際 さい に温 あたた かいもてなしを受 う けたことに感謝 かんしゃ して後 のち に寄贈 きぞう された約 やく 500点 てん の版画 はんが を収蔵 しゅうぞう する「東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 心 しん の旅路 たびじ 館 かん 」が、岐阜 ぎふ 県 けん 中津川 なかつがわ 市 し (旧 きゅう 長野 ながの 県 けん 木曽 きそ 郡 ぐん 山口 やまぐち 村 むら )にある。
2000年 ねん 、福岡 ふくおか 、東京 とうきょう や名古屋 なごや でパリ展 てん 帰国 きこく 記念 きねん 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。信濃 しなの 美術館 びじゅつかん で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 館 かん 10周年 しゅうねん 記念 きねん 展 てん 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす の世界 せかい 。2004年 ねん 、横浜 よこはま 美術館 びじゅつかん で東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん ひとすじの道 みち 。2005年 ねん 、坂出 さかいで 市 し 沙弥島 しゃみじま で香川 かがわ 県立 けんりつ 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす せとうち美術館 びじゅつかん 開館 かいかん 記念 きねん 展 てん 。市川 いちかわ 市 し で市川 いちかわ 市 し 東山 ひがしやま 魁 さきがけ 夷 えびす 記念 きねん 館 かん 開館 かいかん 記念 きねん 特別 とくべつ 展 てん 。2008年 ねん 、東京 とうきょう 、長野 ながの で生誕 せいたん 100年 ねん 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。2018年 ねん 、東京 とうきょう 、京都 きょうと で生誕 せいたん 110年 ねん 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 展 てん 。
代表 だいひょう 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
『わが遍歴 へんれき の山河 さんが 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1957年 ねん 、新版 しんぱん 1971年 ねん )
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす わが遍歴 へんれき の山河 さんが <人間 にんげん の記録 きろく >』(日本 にっぽん 図書 としょ センター 、1999年 ねん )。改訂 かいてい 版 ばん
『私 わたし の窓 まど 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1961年 ねん )
『森 もり と湖 みずうみ の国 くに 北欧 ほくおう 画集 がしゅう 』(美術 びじゅつ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1963年 ねん )
『白夜 はくや の旅 たび 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1963年 ねん 。新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1980年 ねん )
『古 ふる き町 まち にて 北欧 ほくおう 紀行 きこう 』(明治 めいじ 書房 しょぼう 、1964年 ねん (限定 げんてい 版 ばん )。講談社 こうだんしゃ 、2010年 ねん (復刻 ふっこく 普及 ふきゅう 版 ばん ))
『風景 ふうけい との対話 たいわ 』(新潮 しんちょう 選書 せんしょ 、1967年 ねん )
『朝明 あさあ けの潮 しお 』(三彩 さんさい 社 しゃ 、1968年 ねん )
『京洛 きょうらく 四季 しき 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1969年 ねん )
『馬車 ばしゃ よ、ゆっくり走 はし れ』(新潮社 しんちょうしゃ 、1971年 ねん )
『泉 いずみ に聴 き く』(毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 、1972年 ねん 。講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ (現代 げんだい 日本 にっぽん のエッセイ)、1990年 ねん )
『古都 こと を描 えが く ドイツ・オーストリアを旅 たび して』(集英社 しゅうえいしゃ 、1972年 ねん )
『白 しろ い馬 うま の見 み える風景 ふうけい 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1973年 ねん )
『四季 しき 』(毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 、1974年 ねん )
新編 しんぺん 『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす の世界 せかい 四季 しき 1・2』(毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 、1978年 ねん )
『唐招提寺 とうしょうだいじ への道 みち 』(新潮 しんちょう 選書 せんしょ 、1975年 ねん )
『六 ろく 本 ほん の色鉛筆 いろえんぴつ 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1976年 ねん )
『日本 にっぽん の美 び を求 もと めて』(講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 、1976年 ねん )
『コンコルド広場 ひろば の椅子 いす 』(求 もとむ 龍 りゅう 堂 どう 、1977年 ねん )
『大地 だいち 悠々 ゆうゆう 国 こく の旅 たび より』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1977年 ねん )
『天山 あまやま 遥 はる か』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1978年 ねん )
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 画 が 文集 ぶんしゅう 』全 ぜん 10巻 かん ・別巻 べっかん (新潮社 しんちょうしゃ 、1978–79年 ねん )
わが遍歴 へんれき の山河 さんが
私 わたし の窓 まど
風景 ふうけい との対話 たいわ
白夜 はくや の旅 たび
美 び の訪 おとず れ
ドイツ紀行 きこう 馬車 ばしゃ よ,ゆっくり走 はし れ
オーストリア紀行 きこう 馬車 ばしゃ よ、ゆっくり走 はし れ
唐招提寺 とうしょうだいじ への道 みち
六 ろく 本 ほん の色鉛筆 いろえんぴつ
水墨 すいぼく 画 が の世界 せかい 中国 ちゅうごく への旅 たび
別巻 べっかん . 自伝 じでん 抄 しょう ・旅 たび の環 たまき
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 全集 ぜんしゅう 』全 ぜん 10巻 かん (講談社 こうだんしゃ 、1979–80年 ねん )、画集 がしゅう
『黄 き 山 やま 白雲 しらくも 』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1979年 ねん )
『自然 しぜん のなかの喜 よろこ び 夏 なつ 、秋 あき 、冬 ふゆ 、春 はる 』(講談社 こうだんしゃ 、1982年 ねん )
新編 しんぺん 『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 自然 しぜん のなかの喜 よろこ び 「描 えが くこと」は、「祈 いの ること」』(講談社 こうだんしゃ カルチャーブックス、1995年 ねん )
『京洛 きょうらく 四季 しき 』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1984年 ねん )
『森 もり と湖 みずうみ と』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1984年 ねん )
『唐招提寺 とうしょうだいじ 全 ぜん 障壁 しょうへき 画 が 』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1984年 ねん )
『中国 ちゅうごく への旅 たび 』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1984年 ねん )
『ドイツ・オーストリア』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1984年 ねん )
『風景 ふうけい との巡 めぐ り会 あ い』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1984年 ねん )
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす の道 みち 写真 しゃしん ・画 かく 文集 ぶんしゅう 』(読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 、1985年 ねん )
『山河 さんが 遍歴 へんれき 』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1989年 ねん )
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 』全 ぜん 5巻 かん (講談社 こうだんしゃ 、1989-90年 ねん )
『樹 き 々光彩 こうさい 』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1992年 ねん )
『雪月花 せつげっか 画集 がしゅう 』全 ぜん 3巻 かん (日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1993-94年 ねん )
『コンコルド広場 ひろば の椅子 いす 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1993年 ねん )
『山河 さんが 遥 はる か』画 が 文集 ぶんしゅう (求 もとむ 龍 りゅう 堂 どう 、1994年 ねん )
『四季 しき めぐりあい』全 ぜん 4冊 さつ (講談社 こうだんしゃ 、1995年 ねん )
『信州 しんしゅう 讃歌 さんか 』画 が 文集 ぶんしゅう (求 もとむ 龍 りゅう 堂 どう 、1995年 ねん )
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 自選 じせん 画 が 文集 ぶんしゅう 』全 ぜん 5巻 かん (集英社 しゅうえいしゃ 、1996年 ねん )
旅 たび への誘 さそ い
欧州 おうしゅう 巡遊 じゅんゆう
美 うつく しい日本 にっぽん
水墨 すいぼく の魅力 みりょく
自然 しぜん への讃歌 さんか
『爽風明水 あけみ 』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1996年 ねん )
『薫風 くんぷう 小径 しょうけい 』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1996年 ねん )
『白馬 はくば 幻想 げんそう 心 しん の風景 ふうけい より』(ビジョン企画 きかく 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1996年 ねん )
『美 び と遍歴 へんれき 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 座談 ざだん 集 しゅう 』(芸術 げいじゅつ 新聞 しんぶん 社 しゃ 、1997年 ねん )
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 「森 もり への誘 さそ い」』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1997年 ねん )
『僕 ぼく の留学 りゅうがく 時代 じだい 』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1998年 ねん )
『追憶 ついおく の古都 こと 』(ビジョン企画 きかく 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1999年 ねん )
『私 わたし の風景 ふうけい 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 画 が 文集 ぶんしゅう 』(求 もとめ 龍 りゅう 堂 どう 、1999年 ねん )
主 おも な評伝 ひょうでん 研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
Als Bürger zweier Welten . Erläutert von N. Senzoku, T. Takatsuji. Dogakusha 1984
『ふたつの世界 せかい の間 あいだ に生 い きて』(千足 せんぞく 伸行 のぶゆき ・高辻 たかつじ 知義 ともよし 編 へん 、同学 どうがく 社 しゃ ) ISBN 4810206238
桑原 くわばら 住雄 すみお 『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 美 び の道 みち 、祈 いの りの旅 たび 』講談社 こうだんしゃ 、1995年 ねん
佐々木 ささき 徹 とおる 『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす ものがたり』ビジョン企画 きかく 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2002年 ねん
村上 むらかみ 通 とおる 哉『感動 かんどう 人間 にんげん ・東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 』日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2004年 ねん
改訂 かいてい 版 ばん 『うつくしい人 ひと 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 』集英社 しゅうえいしゃ 文庫 ぶんこ 、2018年 ねん
『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす を語 かた る 東山 ひがしやま すみ対談 たいだん 集 しゅう 』美術年鑑社 びじゅつねんかんしゃ 、2008年 ねん
岡田 おかだ 政晴 まさはる 『縁 えん の糸 いと 信州 しんしゅう の東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす とすみ夫人 ふじん 』ほおずき書籍 しょせき 、2012年 ねん
『巨匠 きょしょう の眼 め 川端 かわばた 康成 やすなり と東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 』水原 みずはら 園 えん 博 はく ほか、求 もとめ 龍 りゅう 堂 どう 、2014年 ねん
脚注 きゃくちゅう ・出典 しゅってん [ 編集 へんしゅう ]
^ a b c d e f 【みちものがたり】東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす ひとすじの道 みち (青森 あおもり 県 けん 八戸 はちのへ 市 し )苦難 くなん が生 う んだ希望 きぼう の構図 こうず 『朝日新聞 あさひしんぶん 』土曜 どよう 朝刊 ちょうかん 別 べつ 刷 ず り「be」 2019年 ねん 10月 がつ 5日 にち (6-7面 めん )2020年 ねん 8月 がつ 9日 にち 閲覧 えつらん
^ 市川 いちかわ 市 し 名誉 めいよ 市民 しみん
^ DAAD友 とも の会 かい 名誉 めいよ 会長 かいちょう をつとめるなど、日 にち 独 どく の学術 がくじゅつ 文化 ぶんか 交流 こうりゅう に貢献 こうけん したことは以下 いか に詳 くわ しい:Dierk Stuckenschmidt, Als Brückenbauer hatte ich oft die herrlichsten Ausblicke. Rostinger Hof-Verlag, Germany 2003 (ISBN 3-8330-0211-5 ; Herstellung: Books on Demand GmbH 2003) Untertitel: Mein Leben in Deutschland, Frankreich und England, in den USA und Japan, und schließlich im neuen Europa. Erinnerungen – zugleich eine Hommage an den DAAD , S.194 -197. - Sabine Yokoyama: Liebe DAAD-Ehemalige . 〔Echo編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい 編 へん Echo 36号 ごう 、DAAD友 とも の会 かい 、2020,11、7-10頁 ぺーじ 〕、8頁 ぺーじ 。
^ Dierk Stuckenschmidt (Hrsg.), DAAD 50 Jahre - 30 Jahre Austausch mit Japan. Erinnerungen japanischer Wissenschaftler und Künstler an ihre Studienzeit in Deutschland . DAAD-Büro Tokyo(ドイツ学術 がくじゅつ 交流 こうりゅう 会 かい 東京 とうきょう 事務所 じむしょ )1985. S. 11-13 und Bilder zw. S. 16 und 17. - 寄 やどりき 川 がわ 条 じょう 路 ろ (よりかわ・じょうじ)『東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす ――ふたつの世界 せかい 、ひとすじの道 みち ――』ナカニシヤ出版 しゅっぱん 2014年 ねん 5月 がつ (ISBN 978-4-7795-0842-4 )11-21頁 ぺーじ 。
^ “吉村 よしむら 順三 じゅんぞう 設計 せっけい の新居 しんきょ を建 た てる。 ”. 市川 いちかわ 市 し 東山 ひがしやま 魁 さきがけ 夷 えびす 記念 きねん 館 かん . 市川 いちかわ 市 し . 2010年 ねん 7月 がつ 23日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2011年 ねん 10月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 『川端 かわばた 康成 やすなり と東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 響 ひび きあう美 び の世界 せかい 』、『今 いま 、ふたたびの京都 きょうと 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす を訪 たず ね、川端 かわばた 康成 やすなり に触 ふ れる旅 たび 』(各 かく ・求 もとめ 龍 りゅう 堂 どう 、2006年 ねん )に詳 くわ しい。
^ a b 「展覧 てんらん 会 かい のご案内 あんない 」『香川 かがわ 県立 けんりつ 東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす せとうち美術館 びじゅつかん 』案内 あんない 冊子 さっし 、2019年 ねん 。
^ 特集 とくしゅう 唐招提寺 とうしょうだいじ 障壁 しょうへき 画 が ・海 うみ と山 やま 〜東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 制作 せいさく の記録 きろく NHK名作 めいさく 選 せん (動画 どうが ・静止 せいし 画 が ) -NHKアーカイブス - ドイツ学術 がくじゅつ 交流 こうりゅう 会 かい 東京 とうきょう 事務所 じむしょ 長 ちょう ・ボン独 どく 日 にち 協会 きょうかい 長 ちょう を務 つと めた日本 にっぽん 通 どおり のDierk Stuckenschmidt(1939-2020)は、東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす に献呈 けんてい した著作 ちょさく Japan mit der Seele suchen (Scherz Verlag Bern, München, Wien 1988)、79-80頁 ぺーじ において、《唐招提寺 とうしょうだいじ 御影堂 ごえどう 障壁 しょうへき 画 が のうち「濤声」》(1975年 ねん )について、ドイツに留学 りゅうがく した魁 さきがけ 夷 えびす は「鑑真 がんじん の旅 たび を自 みずか ら追 つい 体験 たいけん し、独自 どくじ の様式 ようしき で中国 ちゅうごく と日本 にっぽん の精神 せいしん 、古代 こだい と現代 げんだい 、伝統 でんとう 的 てき 画 が 法 ほう と新 あたら しい構成 こうせい 法 ほう を一 ひと つに融合 ゆうごう させた」と解説 かいせつ している。
太字 ふとじ は恩賜 おんし 賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ 。名跡 みょうせき は受賞 じゅしょう 時 じ のもの。表記 ひょうき 揺 ゆ れによる混乱 こんらん を避 さ けるため漢字 かんじ は便宜上 べんぎじょう すべて新 しん 字体 じたい に統一 とういつ した。
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