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岩城いわき宏之ひろゆき

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岩城いわき 宏之ひろゆき
東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく在学ざいがく時代じだい岩城いわき宏之ひろゆきひだり)と山本やまもと直純なおずみ
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん (1932-09-06) 1932ねん9月6にち
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう
死没しぼつ (2006-06-13) 2006ねん6月13にち(73さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう
学歴がくれき 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく音楽学部おんがくがくぶ 中退ちゅうたい
職業しょくぎょう 指揮しきしゃ
活動かつどう期間きかん 1954ねん - 2006ねん

岩城いわき 宏之ひろゆき(いわき ひろゆき、1932ねん9月6にち - 2006ねん6月13にち[1])は、日本にっぽん指揮しきしゃ指揮しきほう渡邉わたなべあきらゆう齋藤さいとう秀雄ひでお師事しじした。

人物じんぶつ生涯しょうがい

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東京とうきょうにて、専売せんばいきょく日本にっぽん専売せんばい公社こうしゃ技師ぎし岩城いわき與一よいち1895ねん明治めいじ28ねんせい魚津うおづ中学校ちゅうがっこうげん富山とやま県立けんりつ魚津うおづ高等こうとう学校がっこう〉・だいよん高等こうとう学校がっこう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ農芸のうげい学科がっか 卒業そつぎょう名古屋なごや地方ちほう専売せんばい局長きょくちょう、1946ねん昭和しょうわ21ねん〉に退官たいかん[2][3][4])のだい5末子まっし)としてまれた。小学校しょうがっこう入学にゅうがくしてもなくちち転任てんにん京都きょうと転居てんきょ、9さい木琴もっきんはじめる。小学しょうがく4年生ねんせいの3学期がっき東京とうきょうもどる。当時とうじ病弱びょうじゃくで、小学しょうがく5年生ねんせいと6年生ねんせいの2年間ねんかんに10かげつあいだ病欠びょうけつし、骨膜こつまくえんかたあし切断せつだん寸前すんぜんまでったことがある。

1945ねん5月、旧制きゅうせい中学ちゅうがく1年生ねんせいのとき空襲くうしゅう罹災りさいしたため、親類しんるいたよって金沢かなざわ疎開そかい、2学期がっきあいだ旧制きゅうせい金沢かなざわだいいち中学校ちゅうがっこうげん石川県立金沢泉丘高等学校いしかわけんりつかなざわいずみがおかこうとうがっこう)にまなぶ。敗戦はいせんちちつとめの関係かんけい岐阜ぎふけん瑞浪みずなみ転居てんきょ、ここで1ねんはんごし、旧制きゅうせい多治見たじみ中学校ちゅうがっこうげん岐阜ぎふ県立けんりつ多治見たじみ高等こうとう学校がっこう)に通学つうがくする。

1947ねん旧制きゅうせい東京とうきょう都立とりつだいいち中学校ちゅうがっこうげん東京とうきょう都立とりつ日比谷ひびや高等こうとう学校がっこう)の編入へんにゅう試験しけん失敗しっぱいして学習がくしゅういん中等ちゅうとう編入へんにゅうがくする。学習がくしゅういん高等こうとう2ねんとき映画えいがオーケストラの少女しょうじょ』を感動かんどうし、音楽家おんがくかこころざすにいた[5]同校どうこう在学ざいがくちゅうから放送ほうそうきょく木琴もっきん独奏どくそうする。

1951ねん学習がくしゅういん高等こうとう卒業そつぎょうする。東京大学とうきょうだいがくどく文学ぶんがくへの進学しんがくこころざしていたが、だい試験しけんまえばん高熱こうねつはっして受験じゅけん断念だんねんする。現役げんえき東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく音楽学部おんがくがくぶ器楽きがく打楽器だがっきすすんだが[6]、1年生ねんせいわりころから学内がくない規則きそくやぶって近衛このえ秀麿ひでまろのオーケストラでティンパニを演奏えんそうはじめ、授業じゅぎょうることなく1ねんぶん単位たんい取得しゅとくしないまま、6年間ねんかん在学ざいがくののち中退ちゅうたい学校がっこうには、1ねん後輩こうはい友人ゆうじん山本やまもと直純なおずみ後輩こうはいたちにこえってあつめた学生がくせいオーケストラを指揮しきするためにかお一方いっぽうで、山本やまもととともに東京芸大とうきょうげいだい指揮しき教員きょういん渡邉わたなべあきらゆう音羽おとわ自宅じたく目白めじろ齋藤さいとう秀雄ひでお指揮しき教室きょうしつにたびたびかよって指揮しきのレッスンをけた[7]

当時とうじ東京芸大とうきょうげいだい音楽学部おんがくがくぶには専攻せんこうによって根強ねづよ差別さべつ存在そんざいし、作曲さっきょく指揮しき階級かいきゅうさい上位じょういぞくし、いでピアノ、そのした弦楽器げんがっきのこりはすべて「差別さべつ民族みんぞく」であり、そのなか最下位さいかいぞくするのがかん打楽器だがっきで、とくに「タイコはかんというように、順番じゅんばんからしてかんつぎなのだから、タイコは、下層かそうちゅう下層かそう少数しょうすうちゅう少数しょうすう年中ねんじゅう差別さべつかんじているような状態じょうたいだった」「ピアノおんなとつきあおうとして、『おとうさまにタイコのひとなんかと友達ともだちになっちゃいけないっていわれたのヨ』なんてぱらわれたことがなんもある」とかたっている[8]学生がくせい時代じだいから、各所かくしょ音楽おんがくホールにしのみ、観客かんきゃくせきではなく舞台裏ぶたいうらなどで音楽おんがくくことをかえしていてブラックリストあつかいになっていた。指揮しきしゃ正面しょうめんからるために、舞台ぶたいじょう管楽器かんがっきようのヒナだんなかしのんでコンサートをくこともたびたびであった。数々かずかず悪行あくぎょうから、後年こうねん岩城いわき指揮しきしゃ就任しゅうにんしたのちも、舞台ぶたい関係かんけいしゃあやまって不法ふほう侵入しんにゅうしゃあつかいされたことがある。

NHK交響こうきょう楽団がくだん初代しょだい事務じむちょう有馬ありまだい五郎ごろうからのさそいと推薦すいせんにより、1954ねん芸大げいだい4ねん)の9がつからどう楽団がくだん指揮しき研究けんきゅういんとしてふく指揮しきやライブラリアンの仕事しごとはじめ、1960ねんどう楽団がくだん世界せかい一周いっしゅう演奏えんそう旅行りょこうでは常任じょうにん指揮しきしゃヴィルヘルム・シュヒター指揮しき研究けんきゅういん同僚どうりょう外山とやま雄三ゆうぞうとともに指揮しきしゃじん一人ひとりとして同行どうこう、ヨーロッパ・デビューをたす。これが機縁きえんとなり、1963ねんベルリン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんまねかれてオール・チャイコフスキー・プログラムを指揮しきした。それまで正式せいしきポストっていなかったが、1968ねんいたハーグ・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん常任じょうにん指揮しきしゃとなる。1970ねん日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかい開会かいかいしきではNHK交響こうきょう楽団がくだん当日とうじつ式典しきてんでの楽曲がっきょく演奏えんそうにない、その指揮しきをした[9]

1977ねん急病きゅうびょうベルナルト・ハイティンク代役だいやくとして、日本人にっぽんじんとしてはじめてウィーン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん定期ていき演奏えんそうかい指揮しきだいのぼり、ベルリオーズ幻想げんそう交響曲こうきょうきょく指揮しきした。よくシーズンのウィーン・フィル定期ていきにも登場とうじょうバルトーク管弦楽かんげんがくのための協奏曲きょうそうきょく指揮しきした。そのほか、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽かんげんがくだんロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽かんげんがくだん指揮しきだいにもった。

晩年ばんねん顕著けんちょ活動かつどうとしては、2004ねん12月31にちひるからよく2005ねん1がつ1にち未明みめいにかけて、東京文化会館とうきょうぶんかかいかんベートーヴェンぜん交響曲こうきょうきょく1人ひとり指揮しきしたことがられている(ベートーヴェンはすごい! ぜん交響曲こうきょうきょく連続れんぞく演奏えんそうかい)。同様どうよう公演こうえんは、よく2005ねん12月31にちにも東京とうきょう芸術げいじゅつ劇場げきじょうおこなわれた。なお、2かい公演こうえんでは健康けんこうめん配慮はいりょして途中とちゅう1あいだ休憩きゅうけい時間じかんもうけたり、医師いし日野ひのはら重明しげあき聴衆ちょうしゅうとしてわせ、休憩きゅうけい時間じかん体調たいちょうチェックをおこなってプログラムを消化しょうかしていった。この演奏えんそうかいはインターネットでもストリーミング中継ちゅうけいされた。

1987ねん、頸椎たて靭帯じんたいこつしょうわずらったのを皮切かわきりに、1989ねんがん2001ねん喉頭こうとう腫瘍しゅよう、2005ねんにははいがんつづけに病魔びょうまおそわれたものの、そのたびに復活ふっかつ力強ちからづよ指揮しき姿すがた披露ひろうした。しかし、2006ねん5月24にち東京とうきょう紀尾井きおいホール東京とうきょう混声こんせい合唱がっしょうだん指揮しき体調たいちょうくずして入院にゅういんし、同年どうねん6がつ13にち午前ごぜん020ふん心不全しんふぜんのため都内とない病院びょういんにてぼっした。73さいぼつ

初演しょえん」としてられ、とく自身じしん音楽おんがく監督かんとくつとめたオーケストラ・アンサンブル金沢かなざわでは、コンポーザー・イン・レジデンス(専属せんぞく作曲さっきょくせいき、委嘱いしょくきょく世界せかい初演しょえんすることに意欲いよくやした。また、まゆずみ敏郎としお作品さくひん精力せいりょくてき指揮しきした。

名古屋なごやフィルハーモニー交響こうきょう楽団がくだん初代しょだい音楽おんがくそう監督かんとくNHK交響こうきょう楽団がくだんせい指揮しきしゃオーケストラ・アンサンブル金沢かなざわ音楽おんがく監督かんとく東京とうきょう混声こんせい合唱がっしょうだん音楽おんがく監督かんとく京都きょうと交響こうきょう楽団がくだん首席しゅせき客演きゃくえん指揮しきしゃ札幌さっぽろ交響こうきょう楽団がくだん桂冠けいかん指揮しきしゃメルボルン交響こうきょう楽団がくだん終身しゅうしん桂冠けいかん指揮しきしゃつとめた。ピアニスト木村きむらかをりつま指揮しき活動かつどうのほかにも、打楽器だがっき奏者そうしゃとしての演奏えんそう活動かつどう、テレビ・ラジオへの出演しゅつえん、プロデューサー、音楽おんがくアドバイザー、執筆しっぴつなど多彩たさい活動かつどうおこなった。また、東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく指揮しき客員きゃくいん教授きょうじゅとして後進こうしん育成いくせいにもたった。

エピソード

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  • 近衛このえ管弦楽かんげんがくだん近衛このえ秀麿ひでまろ主催しゅさい)のティンパニ奏者そうしゃ学生がくせいのため入団にゅうだんはせず)としてデビューしている。
  • 作曲さっきょく山本やまもと直純なおずみ芸大げいだい岩城いわきの1ねん後輩こうはいたり、2人ふたり大学だいがく時代じだいからの悪友あくゆうであった。一足ひとあしさき山本やまもと他界たかいしたときに岩城いわきひどかなしんだ。山本やまもと出会であったころ岩城いわき打楽器だがっきよりも指揮しき興味きょうみつようになり、2人ふたりで「(芸大げいだいの)後輩こうはいたちだまし」て楽団がくだん結成けっせい、その指揮しきしゃとなった。指揮しきかんする議論ぎろん白熱はくねつしすぎて大声おおごえ怒鳴どなりあうために議論ぎろんするこまり、2人ふたりでゲイようのホテルにはいって議論ぎろんしていたところ、隣室りんしつのカップルから“やかましい”とおこられたことがあった。
  • 1959ねんじゅう世紀せいき音楽おんがく研究所けんきゅうじょ参画さんかく[10]
  • Nひびきから打楽器だがっきでの入団にゅうだんもとめられたが、「首席しゅせきだったら」と条件じょうけんけたところあきれられ、かったことになった。翌年よくねん、「将来しょうらい指揮しきをやりたくありませんか」とさそわれたため、ふた返事へんじ指揮しき研究けんきゅういんとして入団にゅうだんした。ちなみに、1959ねんイーゴリ・ストラヴィンスキーがNひびき客演きゃくえんしたさいには、志願しがんして打楽器だがっき奏者そうしゃとして参加さんかしている(DVDされた『とり』の公演こうえんでもうつっている)。指揮しきのデビューは外山とやま雄三ゆうぞう一緒いっしょにNひびき指揮しきしている。
  • 来日らいにちちゅうカラヤン指導しどうけ、「オーケストラをドライブしようとするな。キャリーせよ」とアドバイスされたという。これは指揮しき乗馬じょうばになぞらえたもので、ドライブとは手綱たづなしぼって強引ごういんうましたがわせること、キャリーとは手綱たづなゆるめてうま自由じゆうまかせながら、騎手きしゅ意図いとした進路しんろうまみちびくことだという[11]
  • 1968ねんから1969ねんにNひびきベートーヴェン交響曲こうきょうきょく全曲ぜんきょく録音ろくおんし、日本人にっぽんじんとしてはつ交響曲こうきょうきょく全集ぜんしゅう制作せいさくした。ベートーヴェンが作曲さっきょくした交響こうきょうきょくなか一番いちばんきなのはだい8ばんだったという。
  • オリヴィエ・メシアンから解釈かいしゃく絶賛ぜっさんされるなど、現代げんだい音楽おんがく印象いんしょうつよい。しかし、海外かいがい現代げんだい音楽おんがく意欲いよくてきるよりも、おも存命ぞんめい日本人にっぽんじん作曲さっきょく集中しゅうちゅうてきげることがおおかった。クセナキスの『ホロス』の初演しょえん契機けいきとして海外かいがい現代げんだい音楽おんがく初演しょえんねつめたものの、日本人にっぽんじん作曲さっきょく新作しんさく初演しょえんは、指揮しき打楽器だがっき演奏えんそう両面りょうめんで、ぼっするまでつづけた。
  • Nひびき指揮しきしゃとしてデビューしたものの、初期しょきころはなかなか指揮しき仕事しごとはもらえず、NHKラジオで放送ほうそうされるムード歌謡かようきょくなどのポップスの指揮しきやアレンジの仕事しごとなどをもらって糊口ここうしのいでいた。この仕事しごとでは「水木みずきひろし」という名前なまえをはじめ複数ふくすう変名へんめい使つかっており、水木みずき名義めいぎ発売はつばいされた音源おんげん存在そんざいする[12]。「水木みずき名義めいぎ仕事しごとをしていたことについてはのちにエッセイなどで告白こくはくしており、晩年ばんねん旧知きゅうちであるペギぺぎ葉山はやまなど歌謡かようきょく歌手かしゅたちと競演きょうえんするコンサートをおこなうことがあり、むかしなつかしんであえて「水木みずき名義めいぎ参加さんかしている。
  • 生前せいぜん岩城いわきティンパニ演奏えんそう企業きぎょうCFに使用しようされたことがあった(美川みかわ憲一けんいちとの共演きょうえん)。
  • メルボルンには、名前なまえかんしたIwaki Auditorium[13]があり、メルボルン交響こうきょう楽団がくだん練習れんしゅうじょうとしても使つかわれている。
  • メルボルン交響こうきょう楽団がくだん時代じだいストラヴィンスキー作曲さっきょくはる祭典さいてん』の演奏えんそう間違まちがえたことがある。テレビ・コンサートの公開こうかい収録しゅうろくちゅうなみ指揮しきしゃなら混乱こんらんしつつもなにくわぬかお演奏えんそうつづけ、みずからの責任せきにん回避かいひしようとするところであるが、岩城いわきはあえて演奏えんそう中断ちゅうだんし、聴衆ちょうしゅうかって指揮しき間違まちがえたことをびた。異例いれい事態じたい聴衆ちょうしゅう楽員がくいんこおりついていたが、テレビよう編集へんしゅうしやすい部分ぶぶんをコンサートマスターと相談そうだんし、楽員がくいん全員ぜんいん演奏えんそう再開さいかい箇所かしょげた。すると聴衆ちょうしゅうだけでなく楽員がくいんからもだい拍手はくしゅこり、岩城いわきたいするどう楽団がくだん信頼しんらいはよりかたいものになったという。
  • 当時とうじメルボルンの電話でんわちょう表紙ひょうしになるほど市民しみんしたしまれていた。
  • 世界せかい活躍かつやくする日本にっぽんのスポーツ選手せんしゅ応援おうえん熱心ねっしんであり、音楽おんがく監督かんとくつとめるオーケストラ・アンサンブル金沢かなざわ石川いしかわけん出身しゅっしん松井まつい秀喜ひでき選手せんしゅ応援おうえん企画きかくしていた。くなる直前ちょくぜんには骨折こっせつ離脱りだつした松井まついへエールをおくっており、これが岩城いわき生前せいぜんした最後さいご手紙てがみだった。なお、岩城いわき企画きかくした応援おうえん2006ねんに、公式こうしき応援おうえん栄光えいこう(ひかり)のみち』(作詞さくし:ひびき敏也としや作曲さっきょく:宮川みやがわあきらりょう)として成就じょうじゅした。
  • 著書ちょしょおおく、楽器がっき運送うんそうぎょうかんする執筆しっぴつのために、実際じっさい運送うんそう会社かいしゃはたらいたこともあった。あるハープ奏者そうしゃがハープの運搬うんぱん依頼いらいしたところ、業者ぎょうしゃ一緒いっしょ岩城いわきあらわれ、依頼いらいぬしおおいにおどろいた。
  • 1971ねんの『だい22かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん』ではエンディングの『ぼたるひかり』の指揮しきつとめた。
  • 晩年ばんねんには自身じしん音楽おんがく活動かつどう原点げんてんであったマリンバ演奏えんそうにもむようになり、リサイタルもひらき、ここでもおおくの日本人にっぽんじん作曲さっきょく新作しんさく委嘱いしょく初演しょえんおこなった。そのきっかけは1982ねん軽井沢かるいざわ音楽おんがくさい音楽おんがく監督かんとくとして参加さんかする岩城いわき関係かんけいしゃとの会合かいごう席上せきじょうったいきおいで自分じぶんのソロ・リサイタルをひらくとぶちげたことだったという。岩城いわき本人ほんにんはそのことをまったおぼえていなかったが、岩城いわきはなししんけた関係かんけいしゃたちによって勝手かってにポスターをつくられてしまった。芸大げいだい時代じだいでマリンバ演奏えんそうめていた岩城いわきには演奏えんそうできるレパートリーが皆無かいむひとしく、武満たけみつとおる石井いしい眞木まき一柳いちりゅうとし新作しんさく委嘱いしょくし、なんとかリサイタルをけた[14]。なお、この委嘱いしょくとおしてまれた一柳いちりゅうの『パガニーニパーソナル』は、一柳いちりゅう代表だいひょうさくひとつとしてられると同時どうじに、マリンバ演奏えんそうのレパートリーとしてひろ定着ていちゃくした一作いっさくとなった。
  • 自著じちょ九段くだんざかから』のなかで、それまでの人生じんせいなかで4かい自動車じどうしゃ事故じこ経験けいけんしていたことを告白こくはくしている。
  • クナッパーツブッシュのようなちいさな動作どうさでオーケストラをたくみにあやつるスタイルに終生しゅうせいあこがれをち、実際じっさいベルリン・フィル時代じだいこころみたことがある。しかしのちにウィーン・フィルの楽団がくだんいんに「クナ(クナッパーツブッシュ)もわかころ指揮しきだいからちるほどはげしくうごいていた。それが切除せつじょしてからはいまみたいなおだやかな指揮しきがクナにとってのせいいちはいなんだ。おまえとしればそうなるんだから、いまのうちにあばれておけ!」と叱咤しったされたという[15]
  • 野村のむら克也かつやとの対談たいだんで「指揮しきしゃという職業しょくぎょう胡散臭うさんくさい」と発言はつげんしたが、のちにぼう大学だいがく入試にゅうしでこのときの「胡散臭うさんくさい」の意味いみべよという問題もんだいたとり、「わたし胡散臭うさんくさいの意味いみべるとしたらいちさつほんではりないだろう。受験生じゅけんせい可哀かわいそうなことをさせられているものだ」としるしている[16]
  • 日本にっぽん作曲さっきょく楽譜がくふ指示しじ日本語にほんごかないことに疑問ぎもん提示ていじしていた(例外れいがい石井いしい眞木まき)。じゅう世紀せいき音楽おんがく研究所けんきゅうじょ音楽おんがくさいのリハーサルで、独自どくじの(つまり自分じぶんにしか通用つうようしない)ほうをしている作曲さっきょくめたことがある[17]
  • 2000をえる作品さくひんがけ、初演しょえんともわれたが、海外かいがい初演しょえんされた重要じゅうよう作品さくひん見張みはっていた[18]

「お義理ぎり拍手はくしゅするのはやめてほしい」事件じけん

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Nひびきただし指揮しきしゃ称号しょうごうおくられた1969ねん10月、岩城いわきはNひびき史上しじょう画期的かっきてき大胆だいたんこころみをった定期ていき公演こうえんを2にわたり指揮しきをした[19][20]。プログラムは以下いかとおりであった。2つのプログラムは当時とうじ先端せんたんをゆく日本にっぽん作曲さっきょく現代げんだい作品さくひんだけで構成こうせいされ、岩城いわきはこの演奏えんそうかいたいして「いちやってみたかった」[19]と「強行きょうこうすることにたいする不安ふあん[19]の2つの相反あいはんする気持きもちをわせつつ指揮しきだいがった。

だい530かい定期ていき公演こうえん(1969ねん10がつ23・24にち/東京文化会館とうきょうぶんかかいかん[21]
だい531かい定期ていき公演こうえん(1969ねん10がつ29・30にち/東京文化会館とうきょうぶんかかいかん[21]

事件じけんは10月29にちだい531かい定期ていき公演こうえんこった[19]三善さんぜんの『管弦楽かんげんがくのための変奏曲へんそうきょく』がわった直後ちょくご岩城いわき指揮しきだいりて聴衆ちょうしゅうたいしてつぎのようにった。「義理ぎり拍手はくしゅするのはやめてほしい。つまらないとおもったらヤジってけっこうです。よいとおもったら盛大せいだい拍手はくしゅしてほしい[19]つづ武満たけみつの『テクスチュアズ』の演奏えんそうわったあと、岩城いわきふたた聴衆ちょうしゅうたいして「ああいうことをいったからといって、そう拍手はくしゅしてくれなくても……」とにわたりかたった[19]

岩城いわきによれば、だい530かい定期ていき公演こうえんは「反響はんきょうおおきく、ぼく自身じしんじつ感動かんどうした」[19]内容ないようであった。そのながれでだい531かい指揮しきだいがったところ、だい1きょく柴田しばた『シンフォニア』の演奏えんそうたいする拍手はくしゅが「儀礼ぎれいてきで、つめたい」と岩城いわきかんじた[19]。2きょく三善さんぜん管弦楽かんげんがくのための変奏曲へんそうきょく』は「演奏えんそう困難こんなんなくらいむずかしい」作品さくひんであったが、このときは「うまくいった」[19]岩城いわきコンサートマスター田中たなか千香ちかに「うまくいったね」という意味合いみあいで笑顔えがおかえしたところ、観客かんきゃくが「きょくわっていない」と勘違かんちがいしたのか拍手はくしゅめてしまった[19]。このハプニングに岩城いわきは「演奏えんそうのわがままをいわせてもらえばかなしかったんです」[19]岩城いわきが「お義理ぎり拍手はくしゅするのは……」とったのにはそのような背景はいけいがあり、つぎの『テクスチュアズ』終了しゅうりょう拍手はくしゅたいしておもわず「ああいうことを……」とったのであるが、岩城いわき自身じしんはこれについては「まったく余計よけいだったとおもいます」と反省はんせいし、さらに演奏えんそうかい終了しゅうりょうには一連いちれんの「演説えんぜつ」について「ああしたことはいうべきでなかったか、とくるしんだ」という[19]観客かんきゃくはんおうとしては1つれいげるなら、女性じょせい会員かいいん一人ひとりが「ああいうきょくになれていないから、きょくがどこでわるものかわからない、あの場合ばあいは、おおくのひと拍手はくしゅするタイミングをいっしてしまったのではないか」、「邦人ほうじん作品さくひんかならずしもなぐさめやらいこいにはならないのではないか、プログラムのうちに1きょくぐらいだったら我慢がまんもできるが、全曲ぜんきょくではとてもかならわない」といった趣旨しゅし感想かんそうべた[22]。ほかにも「岩城いわき不遜ふそんだったのではないか」という趣旨しゅしきびしい意見いけんや、ぎゃく岩城いわき発言はつげん意思いし理解りかいして擁護ようごする意見いけんせられた[22]岩城いわきの「演説えんぜつ」にかんする論争ろんそうはNひびき会員かいいんあいだのみならず、やがて週刊しゅうかんげるほどの話題わだいとなった[20]

岩城いわきはかねがね、Nひびきが「ドイツの二流にりゅうのオーケストラのコピー」てき存在そんざいあまんじることにたいして批判ひはんてきであり[19]だい530かいだい531かいりょう定期ていき公演こうえん岩城いわきの「あたらしい方針ほうしんもくわえた」ゆめのプログラムでもあった[19]。また、岩城いわきは「Nひびきはもちろん日本にっぽんのオーケストラですから - 日本にっぽんきょくをやらなければならない。ベートーベンだけ、あるいは、ヨーロッパの作品さくひんだけを演奏えんそうするわけにはいかない」、「個性こせい国民こくみんせいのつよくった作品さくひんが、ぎゃく普遍ふへんせいつ」という信念しんねんから「Nひびきがあわてふためいて日本にっぽん現代げんだい音楽おんがくをやりすんでは手遅ておくれ」とかんじており、「そんな4~5ねんさきんだじょうで、こうしたプロを強行きょうこうしたんです」と説明せつめいしている[23]。さらに岩城いわき自身じしん、「現役げんえき活動かつどうにある作曲さっきょく作品さくひんだけをあつめて、2かい・4演奏えんそうかいをりっぱなプログラムにめるくに、すなわちそれだけのしゅうれたレヴェルの作曲さっきょくっているくにというのは、はっきりいって世界せかい日本にっぽんだけしかないとおもうんです」と自負じふしており[22]一連いちれん演奏えんそうかいかんしては「ぼくはたいへんな自信じしんほこりをっているんです」ともべた[22]。そのうえで「お義理ぎり拍手はくしゅするのは……」発言はつげんについては、「日本にっぽん現代げんだい音楽おんがくたいする反応はんのうについてだけを、いったつもりではなくて、日本にっぽん音楽おんがくかい全般ぜんぱん聴衆ちょうしゅう反応はんのうについていったつもりなんです」と説明せつめいした[22]岩城いわきはこののちブラームス作品さくひん武満たけみつ石井いしい眞木まき廣瀬ひろせ量平りょうへい作品さくひんわせるプログラムをむなど[24]、Nひびき日本にっぽん現代げんだい作品さくひん紹介しょうかいつとめた。

岩城いわきいちけんから14ねんの1982ねん3がつ、Nひびき尾高おだかしょう30周年しゅうねん記念きねんして、1912ねんから1980ねん作曲さっきょくされた日本人にっぽんじんによる管弦楽かんげんがく作品さくひんやく1600きょくから専門せんもんが15きょく厳選げんせんし、外山とやま雄三ゆうぞう指揮しきする3つの定期ていき公演こうえんだい865かいだい866かいだい867かい)をひらいた[25][26]。ところが、Nひびき定期ていき公演こうえんにおいてこのような日本人にっぽんじん作曲さっきょく作品さくひんのみのプログラムがまれるのはこれが最後さいごとなり、尾高おだかしょう受賞じゅしょう作品さくひん披露ひろう特別とくべつ演奏えんそうかいて「Music Tomorrow」にうつされるなど[27]、「日本人にっぽんじん作品さくひんてる」という意味いみでは岩城いわきねがいとはちがながれとなっている。

年譜ねんぷ

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  • 1932ねん9がつ6にち - 東京とうきょうまれる。
  • 1945ねん - 空襲くうしゅう被害ひがいい、金沢かなざわ転居てんきょ金沢かなざわいちちゅうげん石川県立金沢泉丘高等学校いしかわけんりつかなざわいずみがおかこうとうがっこう)にかよう。このとし中部ちゅうぶ日本にっぽん新聞しんぶんしゃ主催しゅさい音楽おんがくコンクールで木琴もっきん演奏えんそうをし、特別とくべつしょう賞金しょうきん500えん)を受賞じゅしょう
  • 1947ねん - 学習がくしゅういん中等ちゅうとう転校てんこう
  • 1954ねん - 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく在学ざいがくちゅうにNHK交響こうきょう楽団がくだん指揮しき研究けんきゅういんとなる。
  • 1956ねん - プロ指揮しきしゃとしてデビュー。
  • 1963ねん - NHK交響こうきょう楽団がくだん指揮しきしゃになる[1]
  • 1965ねん - バンベルク交響こうきょう楽団がくだん指揮しきしゃになる。
  • 1968ねん - ハーグ・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん常任じょうにん指揮しきしゃ就任しゅうにん
  • 1969ねん - NHK交響こうきょう楽団がくだんせい指揮しきしゃ就任しゅうにん[1]。「お義理ぎり拍手はくしゅするのはやめてほしい」事件じけん
  • 1970ねん - 日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかい開会かいかいしき式典しきてん演奏えんそう指揮しき
  • 1971ねん - 名古屋なごやフィルハーモニー交響こうきょう楽団がくだん初代しょだい音楽おんがくそう監督かんとく[1]
  • 1974ねん - メルボルン交響こうきょう楽団がくだん首席しゅせき指揮しきしゃ就任しゅうにん[1]
  • 1987ねん - メルボルン交響こうきょう楽団がくだん終身しゅうしん桂冠けいかん指揮しきしゃ就任しゅうにん[1]
  • 1975-78ねん - 札幌さっぽろ交響こうきょう楽団がくだんせい指揮しきしゃ在任ざいにん[1]
  • 1978-88ねん - 札幌さっぽろ交響こうきょう楽団がくだん音楽おんがく監督かんとく在任ざいにん。(1988ねん- 桂冠けいかん指揮しきしゃ[1][28]
  • 1983ねん - 参議院さんぎいん選挙せんきょ比例ひれい無党派むとうは市民しみん連合れんごうより立候補りっこうほするが落選らくせん
  • 1984ねん - 文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさい参加さんか作品さくひん 月曜げつようワイド劇場げきじょうおものグリーングラス』に出演しゅつえんする。
  • 1988ねん - オーケストラ・アンサンブル金沢かなざわ(OEK)音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにん[1]
  • 1990ねん - フランス芸術げいじゅつ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう[29]
  • 1991ねん - 著書ちょしょ『フィルハーモニーの風景ふうけい』で日本にっぽんエッセイストクラブしょう受賞じゅしょう
  • 1996ねん - 紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょう[30]
  • 2003ねん12月15にち - 日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん就任しゅうにん
  • 2004ねん12月31にち - ベートーヴェンぜん交響曲こうきょうきょく1人ひとり指揮しき[1]。(「ベートーヴェン・るマラソン」)(場所ばしょ東京文化会館とうきょうぶんかかいかん
  • 2005ねん12月31にち - ふたたび、ベートーヴェンぜん交響曲こうきょうきょく1人ひとり指揮しき。(場所ばしょ東京とうきょう芸術げいじゅつ劇場げきじょう
  • 2006ねん6がつ13にち - 心不全しんふぜんのため東京とうきょう都内とない逝去せいきょ。73さいぼつ[31]じょせい旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう追贈ついぞう官報かんぽうだい4385ごう平成へいせい18ねん7がつ24にち

著書ちょしょ

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行動こうどうする作曲さっきょくたち――岩城いわき宏之ひろゆき対談たいだんしゅう』『この東欧とうおう』をのぞいてここではたんちょのみを掲載けいさいした。共著きょうちょ対談たいだんしゅう雑誌ざっし記事きじについては岩城いわき宏之ひろゆき著作ちょさくリストくわしい。

  • おとこのためのヤセるほんさんほう、1972ねん新潮しんちょう文庫ぶんこ、1981ねん
  • ぼうふりの控室ひかえしつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1975ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1981ねん
  • 岩城いわき音楽おんがく教室きょうしつ光文社こうぶんしゃ、1977ねん知恵ちえもり文庫ぶんこ、2005ねん
  • ぼうふりの休日きゅうじつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1979ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1982ねん
  • ぼうふりのカフェテラス』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1981ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1986ねん
  • 岩城いわき宏之ひろゆきのからむこらむ』はなし特集とくしゅう、1981ねん新潮しんちょう文庫ぶんこ、1987ねん
  • 『ハニホヘト音楽おんがく説法せっぽう新潮社しんちょうしゃ、1982ねん新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん
  • 楽譜がくふ風景ふうけい岩波いわなみ新書しんしょ、1983ねん
  • ぼうふりたびがらす』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1984ねん朝日あさひ文庫ぶんこ、1986ねん
  • 屋上おくじょうおすうし湯川ゆかわ書房しょぼう、1985ねん
  • ぞくぼうふりたびがらす』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1985ねん→『ぼうふりプレイバック'84』朝日あさひ文庫ぶんこ、1987ねん
  • 行動こうどうする作曲さっきょくたち――岩城いわき宏之ひろゆき対談たいだんしゅう新潮社しんちょうしゃ、1986ねん
  • 岩城いわき宏之ひろゆきのからむこらむ part 2』はなし特集とくしゅう、1986ねん新潮しんちょう文庫ぶんこ、1989ねん
  • もりのうた』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1987ねん朝日あさひ文庫ぶんこ、1990ねん講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、2003ねん点字てんじばんあり。東京電力とうきょうでんりょく、1988ねん
  • 九段くだんざかから』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1988ねん朝日あさひ文庫ぶんこ、1994ねん朝日あさひ文庫ぶんこ、2003ねんだい活字かつじばんあり。埼玉さいたま福祉ふくしかい、2000ねん
  • 回転かいてんとびらのむこうがわ集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ、1990ねん
  • 『フィルハーモニーの風景ふうけい岩波いわなみ新書しんしょ、1990ねん
  • 磯村いそむら尚徳なおのり共著きょうちょ『この東欧とうおうジャパンタイムズ、1990ねん
  • 岩城いわき宏之ひろゆきのからむこらむ part 3』はなし特集とくしゅう、1992ねん
  • 『いじめの風景ふうけい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1996ねん
  • 矢崎やさき泰久やすひさ坂梨さかなし由美子ゆみこへん岩城いわき宏之ひろゆき特集とくしゅう自由じゆう国民こくみんしゃ、1997ねん
  • 指揮しきのおけいこ』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1999ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2003ねん
  • 作曲さっきょく武満たけみつとおる人間にんげんまゆずみ敏郎としお作陽学園さくようがくえん出版しゅっぱん、1999ねん
  • 『チンドン大将たいしょうになりたかったおとこ日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、2000ねん
  • 『オーケストラの職人しょくにんたち』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2002ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2005ねん
  • おとかげ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2004ねん

出演しゅつえん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j 世界せかい指揮しきしゃ名鑑めいかん866 2010, p. 226.
  2. ^ 岩城いわき宏之ひろゆき『ハニホヘト音楽おんがく説法せっぽう新潮社しんちょうしゃ、1982ねん、71ぺーじ 
  3. ^ 「い」 176ぺーじ石丸いしまる士郎しろう」『人事じんじ興信録こうしんろく だい22はん じょう人事じんじ興信所こうしんじょ、1964ねんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/222 
  4. ^ 『たばこ読本とくほん学陽書房がくようしょぼう、1949ねん、164-165ぺーじ 
  5. ^ 岩城いわき宏之ひろゆき楽譜がくふ風景ふうけい岩波いわなみ新書しんしょ、1983ねん、p5。
  6. ^ 当時とうじ打楽器だがっき定員ていいんは2めいで、ただ1人ひとり同級生どうきゅうせいはジャズドラマーの白木しらき秀雄ひでおだった。
  7. ^ 目白めじろ齋藤さいとう秀雄ひでおもと指揮しきレッスンをけにかけたのは、岩城いわき芸大げいだい3ねんとき山本やまもと直純なおずみから「おまえ指揮しきはあまりにも下手へたくそでなっていないから齋藤さいとう先生せんせいのところでみっちり基礎きそまなんでみないか」と再三さいさん説得せっとくされたからだという。そのころ齋藤さいとう門下もんかには高弟こうていとして山本やまもとほか小澤おざわ征爾せいじ久山ひさやま恵子けいこらがいた。入門にゅうもんして最初さいしょの3かげつあいだ高弟こうていたちからタタキの特訓とっくんでしぼられ、そのシャクイ、センニュウとすすんだが、岩城いわきは「齋藤さいとう先生せんせいから本当ほんとう音楽おんがくまなびたくてぼくはここにかよってきています。高弟こうていたちからしぼられるだけだったら、もうやめます」と齋藤さいとう直訴じきそし、山本やまもと小澤おざわ久山ひさやま高弟こうてい対象たいしょうの、さまざまな交響曲こうきょうきょくかんする本格ほんかくてきなレッスンへの参加さんか特別とくべつゆるされた。後年こうねん岩城いわき述懐じゅっかいによれば「人生じんせいなかでこのときほど一所懸命いっしょけんめい勉強べんきょうした時期じきはなかった」という。『齋藤さいとう秀雄ひでお音楽おんがく生涯しょうがい』(編集へんしゅう発行はっこう 財団ざいだん法人ほうじん民主みんしゅ音楽おんがく協会きょうかい昭和しょうわ60ねん初版しょはん)「だいしょうおも齋藤さいとう秀雄ひでお先生せんせい参照さんしょう
  8. ^ 岩城いわき宏之ひろゆきもりのうた』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、pp.11-13。
  9. ^ 1970ねん3がつ14にち日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかい開会かいかいしき Expo '70
  10. ^ 作曲さっきょくの20世紀せいき』 (音楽おんがく芸術げいじゅつ別冊べっさつ) p61 (音楽之友社おんがくのともしゃ、1999ねん7がつ) (佐野さの光司こうじ執筆しっぴつ)
  11. ^ 岩城いわき宏之ひろゆき『フィルハーモニーの風景ふうけい岩波いわなみ新書しんしょ、1990ねん
  12. ^ 岩城いわき宏之ひろゆきぼうふりのカフェテラス』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ、1981ねん、p81-84。
  13. ^ Iwaki Auditorium
  14. ^ 岩城いわき宏之ひろゆき九段くだんざかから ぼうふりはかなりキケンな商売しょうばい朝日あさひ文庫ぶんこ、1994ねん、p36-40。
  15. ^ 岩城いわき宏之ひろゆき楽譜がくふ風景ふうけい岩波いわなみ新書しんしょ、1983ねん
  16. ^ 同書どうしょ
  17. ^ 同書どうしょほうかんする岩城いわきのこの認識にんしきはあくまで1980年代ねんだい前半ぜんはんのものである。ごと相手あいて実名じつめいかしていない。また、その大木おおきただしきょうっていたとしているが、大木たいぼくじゅう世紀せいき音楽おんがく研究所けんきゅうじょとの関係かんけいつまびらかでない。
  18. ^ #平林ひらばやし p.327
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n #NHK50 p.253
  20. ^ a b #岩野いわの (1) p.55
  21. ^ a b #NHKsocon2 p.170
  22. ^ a b c d e #NHK50 p.254
  23. ^ #NHK50 pp.253-254
  24. ^ #岩野いわの (2) p.42
  25. ^ #岩野いわの (2) pp.43-44
  26. ^ #NHKsocon3 p.112-113
  27. ^ #岩野いわの (2) p.44
  28. ^ 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん 札幌さっぽろ交響こうきょう楽団がくだん へん札幌さっぽろ交響こうきょう楽団がくだん50ねん 1961-2011』2011ねん、297ぺーじ 
  29. ^ 小学館しょうがくかん 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). “岩城いわき宏之ひろゆき”. コトバンク. 2017ねん12月11にち閲覧えつらん
  30. ^ 官報かんぽう号外ごうがい108ごう平成へいせい8ねん4がつ30にち
  31. ^ goo ニュース . “世界せかいてき指揮しきしゃ岩城いわき宏之ひろゆきさん死去しきょ”. スポーツニッポン. 2022ねん6がつ25にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • NHK交響こうきょう楽団がくだん へん『NHK交響こうきょう楽団がくだんじゅうねん』NHK交響こうきょう楽団がくだん、1977ねん 
  • 岩野いわの裕一ひろいち「Nひびき75ねん・その2 あと日比谷公会堂ひびやこうかいどうからしんNHKホールまで」『Philharmony』だい73かんだい2ごう、NHK交響こうきょう楽団がくだん、2001ねん、39-56ぺーじ 
  • NHK交響こうきょう楽団がくだんへん)「NHK交響こうきょう楽団がくだんぜん演奏えんそうかい記録きろく2 せん後編こうへん・1(1945~1973)」『Philharmony』だい73かんだい2ごう、NHK交響こうきょう楽団がくだん、2001ねん、57-196ぺーじ 
  • 岩野いわの裕一ひろいち「Nひびき75ねん・その3 繁栄はんえいなか混沌こんとんしん時代じだいへ "世界せかいのNひびき"への飛躍ひやくをめざして」『Philharmony』だい74かんだい2ごう、NHK交響こうきょう楽団がくだん、2001ねん、39-54ぺーじ 
  • NHK交響こうきょう楽団がくだんへん)「NHK交響こうきょう楽団がくだんぜん演奏えんそうかい記録きろく3 せん後編こうへん・2(1973~2002)」『Philharmony』だい74かんだい2ごう、NHK交響こうきょう楽団がくだん、2001ねん、55-222ぺーじ 
  • 平林ひらばやし直哉なおや『クラシック名曲めいきょく 初演しょえん&はつ録音ろくおん事典じてん大和やまと書房しょぼう、2008ねんISBN 978-4-479-39171-5 
  • ONTOMO MOOK『世界せかい指揮しきしゃ名鑑めいかん866』音楽之友社おんがくのともしゃ、2010ねん 

外部がいぶリンク

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