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矢崎やさき泰久やすひさ

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矢崎やさき 泰久やすひさ(やざき やすひさ、1933ねん1がつ30にち - 2022ねん12月30にち[1] )は、日本にっぽん編集へんしゅうしゃもとはなし特集とくしゅう』の編集へんしゅうちょうフリージャーナリスト私塾しじゅく学校がっこうごっこ」常任じょうにん講師こうし別名べつめいりゅうくら 泰久やすひさ[2]

来歴らいれき人物じんぶつ

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文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ社員しゃいん菊池きくちひろし秘書ひしょやくだった矢崎やさきやすしこれりゅうくらやすしこれ[3])の息子むすことして東京とうきょうまれる。幼名ようみょう祥夫よしお(さちお)。国文学こくぶんがくしゃものしゅうだかりょう父方ちちかた伯母おばはちじゅうおっと。やはり父方ちちかたおばの佐藤さとうあおい菊池きくちひろし秘書ひしょかつ愛人あいじんをつとめ、小磯こいそなつ筆名ひつめい直木賞なおきしょう候補こうほ作家さっかとなった。ちち義兄ぎけい佐藤さとうあおいおっと)の石井いしい英之助えいのすけ六興ろっこう出版しゅっぱんしゃ社長しゃちょうおとうと矢崎やさきやすしこれあといで日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ代表だいひょうとなった矢崎やさき泰夫やすお次男じなんもと週刊しゅうかんアスキーふく編集へんしゅうちょうで、Engadget日本語にほんごばん最後さいご編集へんしゅうちょう矢崎やさき飛鳥あすか[4]義弟ぎていいもうとおっと)に、文化放送ぶんかほうそう社長しゃちょういえ敏明としあき[5]

はなし特集とくしゅうしゃ独立どくりつ

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小学校しょうがっこうから高校こうこうまでを成城学園せいじょうがくえんごす。早稲田大学わせだだいがく政治せいじ経済学部けいざいがくぶ政治せいじ学科がっか中退ちゅうたい大学だいがくでは山岳さんがくだった[6]東松原ひがしまつばらで、父親ちちおや資金しきんにより「世田谷せたがやボディビル」を経営けいえいして、会員かいいんとなった深沢ふかざわ七郎しちろうしたしくなる[6]

日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ記者きしゃ内外ないがいタイムス記者きしゃ経験けいけん

犬丸いぬまる徹三てつぞう帝国ていこくホテル社長しゃちょう日本にっぽんホテル協会きょうかい会長かいちょう)から、東京とうきょうオリンピックにむけてホテルの客室きゃくしつ外国がいこくじん観光かんこうしゃけの雑誌ざっし創刊そうかんについて、泰久やすひさ父親ちちおや経営けいえいする日本にっぽんしゃ依頼いらいがあり、まだ新聞しんぶん記者きしゃだった泰久やすひさ編集へんしゅうちょうやくをまかされ、1964ねん4がつに『エルエル』のパイロットばん和田わだまこととともにつくるが、スポンサーがつかず、創刊そうかん断念だんねん[7]

1965ねんに12月に、やはり父親ちちおや経営けいえいする日本にっぽんしゃから『はなし特集とくしゅう』を創刊そうかん1967ねん邱永かん出資しゅっしによりはなし特集とくしゅうしゃ独立どくりつさせた。デザイナー和田わだまこと放送ほうそう作家さっかえい六輔ろくすけ俳優はいゆう伊丹いたみ十三じゅうざなど、方面ほうめん活躍かつやくしていた才能さいのうイラストレーターライターとして雑誌ざっし起用きようした。に、「おもね佐田さた哲也てつやとう筆名ひつめい執筆しっぴつしていた色川いろかわたけしだいの、色川いろかわ名義めいぎ(本名ほんみょう)でのさいデビューさくあやしい来客らいきゃく簿』を連載れんさい。また、雑誌ざっし連載れんさいをとおして中山なかやま千夏ちなつとは意気投合いきとうごうし、二人ふたりのユニット「狭間はざまぐみ」を結成けっせいして著作ちょさく活動かつどうなどをおこなった。『はなし特集とくしゅう』は1995ねん休刊きゅうかん

多方面たほうめん活動かつどう

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えい六輔ろくすけとはとく交流こうりゅうふかく、1970年代ねんだいには、テレビ「とおくへきたい (テレビ番組ばんぐみ)」、「中年ちゅうねん御三家ごさんけ」(ひさし野坂のさかあきら小沢おざわ昭一しょういち)コンサートなどのプロデュースを担当たんとうした[8]。1972ねんには、ATG映画えいが変奏曲へんそうきょく」の製作せいさく担当たんとう監督かんとく中平なかひらやすし原作げんさく五木いつき寛之ひろゆき共同きょうどう製作せいさく大木おおきしゅん多賀たがさちかい)。

1972ねんには、赤塚あかつか不二夫ふじお長谷ながたに邦夫くにお雑誌ざっしまんがNo.1』を、日本にっぽんしゃからの刊行かんこう発行はっこうする。

1975ねん田原たはら総一朗そういちろうらと日本にっぽんジャーナリストクラブJIC)をげる。その資金しきんあつめのため、新宿しんじゅくコマ劇場げきじょうにて「のんすとっぷ24あいだ」という討論とうろんかい司会しかい中山なかやま千夏ちなつ)をおこなった。なお、このイベントが田原たはらのち制作せいさくする『あさまでなまテレビ!』の原型げんけいとなった[9]

革新かくしん自由じゆう連合れんごう所属しょぞく中山なかやま千夏ちなつ参議院さんぎいん議員ぎいん時代じだいには、公設こうせつだいいち秘書ひしょもやっており、1983ねん6月26にちおこなわれた参議院さんぎいん議員ぎいん選挙せんきょでは、無党派むとうは市民しみん連合れんごう候補こうほとして比例ひれいから立候補りっこうほしたが落選らくせんしている。

かつて『週刊しゅうかん金曜日きんようび』に連載れんさいち、また"ラジオばんはなし特集とくしゅう"としてエフエムさがみにもレギュラー出演しゅつえんしている。

2002ねんから2007ねんまで、校長こうちょう中山なかやま千夏ちなつ講師こうしじんえい六輔ろくすけ矢崎やさき小室こむろひとしという私塾しじゅく学校がっこうごっこ」にかかわった。

皇室こうしつあつかったげきへの出演しゅつえん

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2006ねん11月19にち、『週刊しゅうかん金曜日きんようび主催しゅさい日比谷公会堂ひびやこうかいどうにておこなわれた「ちょっとった! 教育きょういく基本きほんほう改悪かいあく 共謀きょうぼうざい 憲法けんぽう改悪かいあく 緊急きんきゅう市民しみん集会しゅうかい」に参加さんか皇室こうしつをテーマにした寸劇すんげき出演しゅつえんし、「さる高貴こうきなご一家いっか」にて、明仁あきひと天皇てんのう以前いぜんわずらった前立腺ぜんりつせんがんたいして矢崎やさきが「あちらの生活せいかつ支障ししょうをきたしますね」とおうじた[10]。『週刊しゅうかん新潮しんちょう』(12月7にちごう)は、寸劇すんげき様子ようすを「『陛下へいかのガン』もわらいのネタにした『皇室こうしつ中傷ちゅうしょう芝居しばい」とだいしてほうじた[10]

矢崎やさき寸劇すんげき出演しゅつえんした経緯けいいについて、予定よていされていた出演しゅつえんしゃられなくなったため代役だいやくたのまれたとべている[10]

破産はさん宣告せんこく

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上記じょうき事件じけん影響えいきょう収入しゅうにゅう激減げきげんしたことや所得しょとくぜい滞納たいのうぶん支払しはらいのため収入しゅうにゅうさえられたために破産はさん宣告せんこくけ、2008ねん8がつ20日はつかより破産はさん手続てつづきが開始かいしされている[11]

しん元号げんごう訴訟そしょう

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2019ねん3月27にち同年どうねん4がつ1にちしん元号げんごう発表はっぴょうされることに先立さきだち、くにたいして元号げんごう制定せいていめをもとめる訴訟そしょうこした[12]

死去しきょ

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2022ねん12月30にち急性きゅうせい白血病はっけつびょうのため、東京とうきょう杉並すぎなみ自宅じたく死去しきょした[1][13][14]。89さいぼつ

趣味しゅみ

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麻雀まーじゃんきでもあり、1982ねん著書ちょしょ『あいつの麻雀まーじゃん』では麻雀まーじゃん仲間なかますずめりょく批評ひひょう。それに反発はんぱつした面々めんめんが、矢崎やさき挑戦ちょうせんじょうたたきつけ、「近代きんだい麻雀まーじゃん雑誌ざっし企画きかくで、以下いかの16にんのメンバーで麻雀まーじゃんった。結果けっかは、矢崎やさきは16にんちゅう2で、挑戦ちょうせんしゃたちを「かえち」にした。

出演しゅつえん番組ばんぐみ

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著書ちょしょ

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  • 情況じょうきょうのなかへ わがジャーナリズムへの執着しゅうちゃく大和やまと書房しょぼう、1972 のち現代げんだい教養きょうよう文庫ぶんこ
  • 青空あおぞらえたこともあった』さんいち書房しょぼう、1977
  • 編集へんしゅう後記こうきはなし特集とくしゅう、1981
  • 『あいつの麻雀まーじゃんはなし特集とくしゅう、1982
  • 情況じょうきょうのなかへ わがジャーナリズムへの執着しゅうちゃく社会しゃかい思想しそうしゃ、1993
  • ぼくはこんなおとこたちにってきた』さんいち書房しょぼう、1996
  • 変節へんせつひと かつての同志どうし告発こくはつする青島あおしま幸男ゆきお正体しょうたい飛鳥新社あすかしんしゃ、1997
  • くちきかん わがしん菊池きくちひろし飛鳥新社あすかしんしゃ、2003
  • 『「はなし特集とくしゅう」と仲間なかまたち』新潮社しんちょうしゃ、2005
  • 『あのひとがいた』まちからしゃ 2011
  • 競馬けいば狂想曲きょうそうきょく(ホースレース・カプリッチオ) 』飛鳥新社あすかしんしゃ 2012
  • 人生じんせい喜劇きげきられざる作家さっか素顔すがお飛鳥新社あすかしんしゃ 2013
  • のこされたもの、つたえられたこと : 60年代ねんだい蜂起ほうきした文革ぶんかくしゃれつでんまちからしゃ 2014
  • かい々 : 「はなし特集とくしゅう句会くかい交遊こうゆうろく本阿弥書店もくあみしょてん 2014

共編きょうへんちょ

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  • 精力せいりょくしたろん』(中山なかやま千夏ちなつとの共著きょうちょはなし特集とくしゅう、1975
  • 狭間はざまぐみ見聞けんぶんろく 1 バラのはななどくちびるに』(中山なかやま千夏ちなつとの共著きょうちょはなし特集とくしゅう、1978
  • 『モンク・トーク』(中山なかやま千夏ちなつとの共著きょうちょ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1981
  • 湿しめった火薬かやく 小説しょうせつかわれん』(中山なかやま千夏ちなつとの共著きょうちょ学陽書房がくようしょぼう、1984
  • 色川いろかわたけしだいおもね佐田さた哲也てつや特集とくしゅう』(大滝おおたきゆずる中村なかむらとうよう和田わだまこと共編きょうへん) はなし特集とくしゅう別冊べっさつはなし特集とくしゅう)、1989
  • 寺山てらやま修司しゅうじ特集とくしゅう』(坂梨さかなし由美子ゆみこ共編きょうへん自由じゆう国民こくみんしゃはなし特集とくしゅうライブラリー)1996
  • えい六輔ろくすけ特集とくしゅう』(坂梨さかなし由美子ゆみこ共編きょうへん自由じゆう国民こくみんしゃはなし特集とくしゅうライブラリー)1996
  • 岩城いわき宏之ひろゆき特集とくしゅう』(坂梨さかなし由美子ゆみこ共編きょうへん自由じゆう国民こくみんしゃはなし特集とくしゅうライブラリー)1997
  • 赤塚あかつか不二夫ふじお特集とくしゅう』(坂梨さかなし由美子ゆみこ共編きょうへん自由じゆう国民こくみんしゃはなし特集とくしゅうライブラリー)1997
  • かた六輔ろくすけの。』(えい六輔ろくすけしる矢崎やさき構成こうせい飛鳥新社あすかしんしゃ、2002 のち新潮しんちょう文庫ぶんこ 
  • かた六輔ろくすけの。』(えい六輔ろくすけちょ矢崎やさき構成こうせい飛鳥新社あすかしんしゃ、2004
  • ぼくはこうやってきた』(田原たはら総一朗そういちろうしる矢崎やさき構成こうせいちゅうけい出版しゅっぱん、2004
  • かた六輔ろくすけの。』(えい六輔ろくすけちょ矢崎やさき構成こうせい飛鳥新社あすかしんしゃ、2005
  • はなし特集とくしゅう 2005 創刊そうかん40周年しゅうねん記念きねん』(編著へんちょ)WAVE出版しゅっぱん、2005
  • 『この集合しゅうごう。』(井上いのうえひさしえい六輔ろくすけ小沢おざわ昭一しょういちとの共著きょうちょ金曜日きんようび、2006
  • うえいてうたおう 昭和しょうわ歌謡かよう自分じぶん』(えい六輔ろくすけちょ矢崎やさききて飛鳥新社あすかしんしゃ、2006
  • 『バカまるだし』(えい六輔ろくすけとの共著きょうちょ講談社こうだんしゃ、2007 のち文庫ぶんこ 
  • 『ふたりの品格ひんかくえい六輔ろくすけ共著きょうちょ 講談社こうだんしゃ 2008 のち文庫ぶんこ 
  • 『ふたりの秘密ひみつえい六輔ろくすけ共著きょうちょ ソニー・マガジンズ 2009 「ははははハハハ」講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ
  • 『ぢぢ放談ほうだんえい六輔ろくすけ共著きょうちょ 創出そうしゅつばん 2010
  • 『ぢぢ放談ほうだん 激闘げきとうへんえい六輔ろくすけ共著きょうちょ 創出そうしゅつばん 2013
  • えい六輔ろくすけ伝言でんごん : ぼくあいした「げい反骨はんこつ」』矢崎やさき泰久やすひさへん 集英社しゅうえいしゃ 2016(集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ)
  • 『いりにこち』(中山なかやま千夏ちなつ共著きょうちょ琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃ 2018

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 矢崎やさき泰久やすひさ(ジャーナリスト/もとはなし特集とくしゅう編集へんしゅうちょう逝去せいきょのおらせ|ACCN|矢崎やさき飛鳥あすか|note”. note(ノート). 2022ねん12月30にち閲覧えつらん
  2. ^ 中山なかやま千夏ちなつ芸能人げいのうじん帽子ぼうし』121ぺーじ
  3. ^ 中山なかやま千夏ちなつ芸能人げいのうじん帽子ぼうし』120ぺーじ
  4. ^ Engadget日本にっぽんばんはなぜわったのか、最後さいご編集へんしゅうちょう矢崎やさき飛鳥あすかく(だい3かい編集へんしゅうスタッフの「つぎのフェーズ」はどうなるのか”. ITmedia NEWS (2022ねん5がつ24にち). 2022ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  5. ^ 『「はなし特集とくしゅう」と仲間なかまたち』
  6. ^ a b 『KAWADWEどう手帖てちょう 深沢ふかざわ七郎しちろう』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ)P.59
  7. ^ 矢崎やさき泰久やすひさ『「はなし特集とくしゅう」と仲間なかまたち』
  8. ^ 人生じんせい喜劇きげきだ』(飛鳥新社あすかしんしゃ)P.70
  9. ^ 田原たはら総一朗そういちろうぼくはこうやってきた』P.125 - 127
  10. ^ a b c 右翼うよく抗議こうぎ 皇室こうしつげき中止ちゅうし舞台裏ぶたいうら タブーに挑戦ちょうせん 下品げひんさで自滅じめつ. 東京とうきょう新聞しんぶん. (2006ねん12月19にち). オリジナルの2007ねん1がつ6にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070106100524/http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061219/mng_____tokuho__000.shtml 2016ねん7がつ23にち閲覧えつらん 
  11. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう』2008ねん9がつ11にちごう
  12. ^ れい」にった! 矢崎やさき泰久やすひささんら元号げんごうもと提訴ていそ”. 週刊しゅうかん金曜日きんようびオンライン (2019ねん4がつ15にち). 2019ねん4がつ21にち閲覧えつらん
  13. ^ もとはなし特集とくしゅう編集へんしゅうちょう矢崎やさき泰久やすひささん死去しきょ 89さい ミニコミ草分くさわ - 朝日新聞あさひしんぶんデジタル 2022ねん12月31にち
  14. ^ 矢崎やさき泰久やすひささん死去しきょ、89さい 月刊げっかんはなし特集とくしゅうもと編集へんしゅうちょう、ジャーナリスト」『時事じじドットコムニュース』2023ねん1がつ1にち2023ねん1がつ3にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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