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寺山てらやま修司しゅうじ

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寺山てらやま 修司しゅうじ
(てらやま しゅうじ)
思想しそうへの望郷ぼうきょう寺山てらやま修司しゅうじぜん評論ひょうろんしゅうした)』大光おおみつしゃ1967ねん
誕生たんじょう (1935-12-10) 1935ねん12月10にち[1]
青森あおもりけん弘前ひろさき
死没しぼつ (1983-05-04) 1983ねん5月4にち(47さいぼつ[1]
東京とうきょう杉並すぎなみ河北かわきた総合そうごう病院びょういん[2]
墓地ぼち 高尾たかお霊園れいえん
職業しょくぎょう 歌人かじんげき作家さっか詩人しじん俳人はいじん映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん作詞さくし評論ひょうろん
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 早稲田大学わせだだいがく教育きょういく学部がくぶ国文学こくぶんがくげん国語こくご国文学こくぶんがく中退ちゅうたい[1]
活動かつどう期間きかん 1956ねん - 1983ねん
ジャンル 短歌たんか戯曲ぎきょく俳句はいく作詞さくし映画えいが脚本きゃくほん評論ひょうろん翻訳ほんやく
文学ぶんがく活動かつどう 前衛ぜんえい短歌たんかアングラ演劇えんげき
代表だいひょうさく 『われにがつを』
田園でんえんす』
おも受賞じゅしょうれき 短歌たんか研究けんきゅうじゅうしゅえい(1954ねん
芸術げいじゅつ選奨せんしょう新人しんじんしょう(1974ねん
シッチェス・カタロニア国際こくさい映画えいがさい 最優秀さいゆうしゅう監督かんとくしょう1985ねん
デビューさく 『われにがつを』
配偶はいぐうしゃ 九條くじょう今日子きょうこ1963ねん - 1970ねん
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寺山てらやま 修司しゅうじ(てらやま しゅうじ、1935ねん昭和しょうわ10ねん12月10にち - 1983ねん昭和しょうわ58ねん5月4にち)は、日本にっぽん歌人かじんげき作家さっか演劇えんげき実験じっけんしつ標榜ひょうぼうした前衛ぜんえい演劇えんげきグループ「天井てんじょう桟敷さじき主宰しゅさい

言葉ことば錬金術れんきんじゅつ」「アングラ演劇えんげき四天王してんのうのひとり」「昭和しょうわ啄木たくぼく」などの異名いみょう[3][4]をとり、上記じょうきほかにもマルチに活動かつどう膨大ぼうだいりょう文芸ぶんげい作品さくひん発表はっぴょうした。競馬けいばへの造詣ぞうけいふかく、競走きょうそう馬主ばしゅになるほどであった。

人生じんせい

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少年しょうねん時代じだい

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1935ねん昭和しょうわ10ねん12月10にちちち八郎はちろうはは・ハツの長男ちょうなんとしてせいける[1]八郎はちろうひがし奥義おうぎじゅく弁論べんろんOBで当時とうじ弘前ひろさき警察けいさつしょ勤務きんむ特高警察とっこうけいさつ刑事けいじちち転勤てんきんのため、県内けんない各所かくしょ転々てんてんとする。本人ほんにん出生しゅっしょうについて「はしっている列車れっしゃなかまれ、ゆえに故郷こきょうはない」などとしるしていたが、ハツともとつま九條くじょう今日子きょうこによれば、青森あおもりけん弘前ひろさき紺屋こんやまちまれとされる。戸籍こせきうえ1936ねん昭和しょうわ11ねん1がつ10日とおか出生しゅっしょうとなっている[1]。これもハツによれば、「ちち仕事しごといそがしく、産後さんご保養ほようしていたため」という。ただし、戸籍こせき出生しゅっしょうただしいとのせつもある。本籍ほんせき青森あおもりけん上北かみきたぐん六戸ろくのへむらげん三沢みさわ)。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)、青森あおもりけん八戸はちのへ転居てんきょ八郎はちろう出征しゅっせいのため、ハツと三沢みさわ疎開そかい彼女かのじょはその九州きゅうしゅうはたらくために青森あおもり親類しんるい修司しゅうじあづける。青森あおもりマリア幼稚園ようちえん入園にゅうえん

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、青森大あおもりだい空襲くうしゅうによりハツとともにされる[1]。9月にはちろうセレベスとう戦病死せんびょうししたとの公報こうほうる。終戦しゅうせんはちろうあにたより、三沢みさわえきまえ当時とうじ古間木ふるまきえき)の寺山てらやま食堂しょくどうの2かい転居てんきょ古間木ふるまき小学校しょうがっこう転校てんこうする[5]。ハツは進駐軍しんちゅうぐんべいぐんキャンプはたらき、べいぐんさえの民家みんかうつる。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)、三沢みさわ市立しりつ古間木ふるまき中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく[1]。ハツが福岡ふくおかけんべいぐんベースキャンプへうつったため、青森あおもり母方ははかた大叔父おおおじである坂本さかもと勇三ゆうぞう映画えいがかん歌舞伎座かぶきざ」にられる[注釈ちゅうしゃく 1]青森あおもり立野脇たてのわき中学校ちゅうがっこう[注釈ちゅうしゃく 2]転校てんこう

1949ねん昭和しょうわ24ねん)、坂本さかもとたくられる[1]中学ちゅうがく2年生ねんせいきょうたけ久美くみ友人ゆうじんになる[6]句作くさくをしていたきょうたけし影響えいきょうけ、俳句はいくへのめりんでいく。文芸ぶんげいはいり、俳句はいく童話どうわ学校がっこう新聞しんぶんつづける。

1950ねん昭和しょうわ25ねん)、青森あおもり市営しえい球場きゅうじょう藤本ふじもと英雄ひでお達成たっせいした日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょうはつ完全かんぜん試合しあい現地げんち観戦かんせんする。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)、青森あおもり県立けんりつ青森あおもり高等こうとう学校がっこう入学にゅうがくし、新聞しんぶん文芸ぶんげい所属しょぞくする[1]。「山彦やまびこ俳句はいくかい」を結成けっせい[7]高校こうこう1年生ねんせいわりごろ校内こうない俳句はいく大会たいかい」を主催しゅさい[8]全国ぜんこく学生がくせい俳句はいく会議かいぎ結成けっせい俳句はいく改革かいかく運動うんどう全国ぜんこくびかける。きょうたけし俳句はいく雑誌ざっし牧羊神ぼくようじん創刊そうかん、1954ねん昭和しょうわ29ねん)のだい7ごう(1,5,6,7ごう)まで編集へんしゅう発行はっこうつづける[9]同期生どうきせい沢田さわだきょういちがいたが、たまに学校がっこうをサボってとも映画えいが鑑賞かんしょうする程度ていどで、特別とくべつしたしい間柄あいだがらではなかったとされる。高校こうこう時代じだい寺山てらやま坂本さかもと新築しんちくした青森あおもり松原まつばらいえ下宿げしゅくし、堤川つつみかわ堤防ていぼうとお青森あおもり高校こうこう通学つうがくしていた。

歌人かじんとしてデビュー

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大学だいがく時代じだい寺山てらやま
知性ちせいしゃ知性ちせい』1955ねん12がつごうより

1954ねん昭和しょうわ29ねん)、(早稲田大学わせだだいがく教育きょういく学部がくぶ国文学こくぶんがくげん国語こくご国文学こくぶんがく)に入学にゅうがくした。山田やまだ太一たいちとは同級どうきゅうだった。早稲田大学わせだだいがく短歌たんかかいはいる。寺山てらやまは12さいから13さいごろから短歌たんかはじめたというが、ねつれて短歌たんかはじめるきっかけとなったのが短歌たんか研究けんきゅう1954ねん4がつごう掲載けいさいされた、一般いっぱんからの公募こうぼからえらばれだいいちかいじゅうしゅえい特選とくせんとなった中城なかしろふみの「乳房ちぶさ喪失そうしつ」であった。中城なかしろ作品さくひん歌壇かだんおおきな反響はんきょうみ、だいかいじゅうしゅえい公募こうぼにはだいいちかいやく2ばいやく800めいからの応募おうぼがあった。中城なかしろ短歌たんか歌壇かだんおも若手わかてからつよ支持しじけたが、寺山てらやまもまた中城なかしろ短歌たんか感動かんどうし、短歌たんか意欲いよくたかめた[10][11][12]

寺山てらやま短歌たんか研究けんきゅうだいかいじゅうしゅえいに「ちちかえせ」とだいして応募おうぼした。短歌たんか研究けんきゅう編集へんしゅうちょう中井なかい英夫ひでお寺山てらやま作品さくひん特選とくせんとした。のち中井なかい英夫ひでおみずからのことを「いいものをいちはやてとるっていてほとんどあやまらない」と、自負じふべている。中央ちゅうおう歌壇かだんでは無名むめいであった中城なかしろふみ寺山てらやま修司しゅうじという稀有けう才能さいのうしたのは、めい編集へんしゅうしゃ中井なかい英夫ひでお慧眼けいがんあったればこそであった[13][14]

中井なかい英夫ひでお特選とくせんとした寺山てらやま修司しゅうじの「ちちかえせ」の発表はっぴょうさいして、おおくの配慮はいりょをした。まず題名だいめいを「チェホフさい」とし、既存きそん歌壇かだんからの反発はんぱつなどを考慮こうりょして17しゅけずり、短歌たんか研究けんきゅう1954ねん11がつごうだいかいじゅうしゅえい特選とくせんとして発表はっぴょうした。寺山てらやま短歌たんか研究けんきゅう1954ねん12がつごうに「継走けいそう」とだいした入選にゅうせんしゃ抱負ほうふ発表はっぴょうしている。そのなかで、

ぼく短歌たんかへのパッショネイトなさい認識にんしき決意けついあたえてくれたのはどんな歌論かろんでもなくて、中城なかしろふみ作品さくひんであった。

いている[15]

中城なかしろふみの「乳房ちぶさ喪失そうしつ」は、既存きそん歌壇かだんからのはげしい反発はんぱつびた。一方いっぽう寺山てらやまの「チェホフさい」は当初とうしょ比較的ひかくてき反発はんぱつすくなかった[16]。しかしまもなく寺山てらやまはげしい批判ひはん反発はんぱつさらされることになる。寺山てらやま俳句はいく世界せかいでも注目ちゅうもくびていた。寺山てらやま短歌たんか中村なかむら草田男くさたお西東三鬼さいとうさんきらの俳句はいく作品さくひん模倣もほうであるとの批判ひはんが、俳句はいくかいからがったのである。楠本くすもと憲吉けんきち寺山てらやま短歌たんかたいして「俳句はいくはクロスワードパズルではない」と、はげしい反発はんぱつあらわにし、寺山てらやまのことを「模倣もほう小僧こぞう」と揶揄やゆするこえがった[17]実際じっさい中村なかむら草田男くさたおのよくられた俳句はいく短歌たんかとしてうつしたかのような作品さくひんもあって、批判ひはんけることはやむをなかった[18]模倣もほう問題もんだいあかるみにると、俳句はいくかいからはじまった批判ひはん歌壇かだんにもひろまり、袋叩ふくろだたきの様相ようそうていするようになった[19]

寺山てらやまだいかい短歌たんか研究けんきゅうじゅうしゅえい特選とくせんとした中井なかい英夫ひでおは、歌壇かだんからの批判ひはんしん意味いみでの新人しんじんほっしない、守旧しゅきゅうてき体質たいしつた。中井なかい寺山てらやま擁護ようご論陣ろんじんった[20][19]中井なかい写実しゃじつ基本きほんとする既存きそん短歌たんかのありかた疑問ぎもんたない、歌壇かだんはげしい不満ふまんいていた。にゅうがんで目前もくぜんとした中城なかしろふみ不幸ふこう演技えんぎせいびる短歌たんか、まだじゅうだいのみずみずしい青春せいしゅんドラマのような寺山てらやま修司しゅうじ短歌たんかは、作品さくひんとしてはきわめておおきなちがいがあるものの、ともに平板へいばん日常にちじょうえいをよしとした既存きそん短歌たんか世界せかいからのきわめておおきな飛躍ひやくであったというめんにおいて、おな方向ほうこうせいっていた。中井なかいにとって生命せいめいりょくうしないつつあった写実しゃじつえい基本きほんとした既存きそん短歌たんかたいするアンチテーゼとして、寺山てらやま修司しゅうじ短歌たんかまもっていかねばならないものであった[21][22]

寺山てらやま短歌たんかは、当初とうしょから寺山てらやま本人ほんにん自身じしん短歌たんかたくすというよりも、あくまで自己じこ表現ひょうげんいち手段しゅだんとして使つかいこなす傾向けいこう顕著けんちょであった。そのため、短歌たんかみずからの感情かんじょう増幅ぞうふくさせ、変換へんかんさせたフィクションの世界せかいとしてつくげていった。寺山てらやま短歌たんかによる文壇ぶんだんデビュー以降いこう評論ひょうろん演劇えんげき映像えいぞうなどに多彩たさい才能さいのう開花かいかさせていくが、寺山てらやまにとってはべつジャンルの媒体ばいたいではなく、同時どうじひろげられていく世界せかいのものであった。せまいひとつのジャンルにまることなく、寺山てらやま自身じしんのいわば寺山てらやまワールドを様々さまざまかたちひろげていくのが寺山てらやま芸術げいじゅつおおきな特徴とくちょうであり、のちに「職業しょくぎょう寺山てらやま修司しゅうじです」と自称じしょうした寺山てらやまは、コラージュ、モンタージュとう技法ぎほう駆使くしし、事実じじつ虚構きょこうはいこんじる世界せかい構築こうちくしていった[23][24]

1955ねん、19さい寺山てらやまはすでに

ほんとに自分じぶん誠実せいじつであるためには、どんな手段しゅだんでもとっていいたいことをいうべきだ。そこになんかのかたち修飾しゅうしょく風刺ふうしや、演技えんぎということがはいってくるんで、そういうものをるといろえてポーズだなんてけなすのは滑稽こっけいだとおもう。かれらにはほんとにいいたいことがないってことじゃないか……

かたっている[25]

「チェホフさい」でだいかい短歌たんか研究けんきゅう新人しんじんしょう受賞じゅしょうする[1]

混合こんごうせい腎臓炎じんぞうえん社会しゃかい保険ほけん中央ちゅうおう総合そうごう病院びょういん入院にゅういん1955ねん昭和しょうわ30ねん)、ネフローゼ診断しんだんされて長期ちょうき入院にゅういんとなり、翌年よくねん在学ざいがく1ねんらずで退学たいがく生活せいかつ保護ほごける[1]。この時代じだい輸血ゆけつ技術ぎじゅつ洗練せんれんされたものではなかったが、当時とうじとしては唯一ゆいいつ治療ちりょうほうであった。また、前述ぜんじゅつ説明せつめい医師いしからけた寺山てらやまは、このころから自身じしん意識いしきはじめ、友人ゆうじん横尾よこお忠則ただのりに「ながくはきられない」ともらしていたとう。そして、実際じっさいこれが晩年ばんねん肝硬変かんこうへんこしたとわれている。[26]

シナリオ作家さっかとして

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処女しょじょ戯曲ぎきょくわすれた領分りょうぶん』が早稲田大学わせだだいがく大隈おおくま講堂こうどうみどりさい」で上演じょうえんされ、それを谷川たにがわ俊太郎しゅんたろう病院びょういん見舞みまいをけ、交際こうさいはじまる。1957ねんだいいち作品さくひんしゅう『われにがつを』、1958ねんだいいち歌集かしゅうそらにはほん』(的場まとば書房しょぼう)を刊行かんこうする[1]。1959ねん谷川たにがわすすめでラジオドラマをはじめる。投稿とうこうした「中村なかむら一郎いちろう」(RKB毎日まいにち)にて、民放みんぽう会長かいちょうしょう受賞じゅしょう[1]。また、石原いしはら慎太郎しんたろう江藤えとうあつし谷川たにがわ俊太郎しゅんたろう大江おおえ健三郎けんざぶろう浅利あさり慶太けいたえい六輔ろくすけまゆずみ敏郎としお福田ふくだ善之よしゆきらと「わか日本にっぽんかい」を結成けっせい60ねん安保あんぽ反対はんたいした。

1960ねん昭和しょうわ35ねん)2がつだい3さくラジオドラマ大人おとなり』が放送ほうそうされる。同年どうねん浅利あさり旗揚はたあげした「劇団四季げきだんしき」で戯曲ぎきょくったままねむっている』が上演じょうえんされる[1]。また、篠田しのだ正浩まさひろ監督かんとく作品さくひんシナリオ担当たんとう[1]大島おおしまなぎさ出会であう。25さいでハツと四谷よつやアパートでおよそ12ねんぶりに同居どうきょ。1963ねん(27さい)、松竹しょうちく女優じょゆうだった九條くじょう映子えいこ今日子きょうこ)と結婚けっこん[27]、ハツとは別居べっきょとなった[28]結婚式けっこんしきは4がつ2にちカトリック吉祥寺きちじょうじ教会きょうかいげた[28]

結婚けっこん生活せいかつについては2人ふたり映画えいがくこともあったほか、いぬきのためきゅうじょうがアルバムにいぬ写真しゃしんり、寺山てらやま記録きろくむなど、良好りょうこうだった様子ようすうかがえる[29]

矢崎やさき泰久やすひさ和田わだまこと立木たちき義浩よしひろきゅうじょう寺山てらやま修司しゅうじかた座談ざだんかいでは、きゅうじょうだけが寺山てらやま様子ようす新婚しんこんころいしんぼう、ポケットのなかやハンドバッグのなかけてのぞく、好奇心こうきしんかたまり、おしゃべりだったなど)をはな場面ばめんられる。夫婦ふうふ喧嘩けんかではつまがわめきらして旦那だんなすという形式けいしきではなく、寺山てらやまきゅうじょう言葉ことばせているあいだに、九條くじょうすというかたちだったとかたっている[30]

現代げんだい青春せいしゅんろん」(さんいち書房しょぼう)とだいし、「家出いえでのすすめ」をまとめる[1]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)、放送ほうそう詩劇しげき山姥やまうば」(NHK)がイタリアしょうグランプリ受賞じゅしょう放送ほうそう詩劇しげきだい礼服れいふく」(CBC)が芸術げいじゅつさい奨励しょうれいしょう受賞じゅしょう[1]

1960年代ねんだいなか以降いこうからは学研がっけんの「こうさんコース」にて高校生こうこうせい選者せんじゃつとめておおくのわか才能さいのうこしたり、新書しんしょかん少女しょうじょ詩集ししゅうレーベル「フォアレディース」をんだりするなど、「青少年せいしょうねんのカリスマ」としての位置いちづけをつよめていく。1963ねんに『現代げんだい青春せいしゅんろん』(『家出いえでのすすめ』)を刊行かんこう

劇団げきだん天井てんじょう桟敷さじき結成けっせいから死去しきょまで

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寺山てらやまはか高尾たかお霊園れいえんA Google maps

1967ねん昭和しょうわ42ねん1がつ1にち横尾よこお忠則ただのりあずまゆかり九條くじょう映子えいこらと劇団げきだん天井てんじょう桟敷さじき」を結成けっせい[1]4がつ18にち草月そうげつアートセンターで旗揚はたあ公演こうえん青森あおもりけんのせむしおとこ』を上演じょうえん。6月、新宿しんじゅく末広すえひろていだい2かい公演こうえん大山おおやまデブコの犯罪はんざい』。アートシアター新宿しんじゅく文化ぶんかだい3かい公演こうえん毛皮けがわのマリー』。どうさく出演しゅつえんした美輪みわ明宏あきひろは、このころ寺山てらやまを「あまりにもシャイで、ひとをみてはなせないおとこ」とひょうしている。

3月、評論ひょうろんしゅうしょてよ、まちよう』が刊行かんこうされる[31]。33さいきゅうじょう別居べっきょ[28]

1969ねん昭和しょうわ44ねん)、西にしドイツフランクフルトの『国際こくさい実験じっけん演劇えんげきさい』にまねかれ、『毛皮けがわのマリー』『いぬしん』をはつ海外かいがい公演こうえんカルメン・マキの「ときにはははのないのように」の作詞さくしがける。 同年どうねん12がつ12にち天井てんじょう桟敷さじき状況じょうきょう劇場げきじょう団員だんいんらが乱闘らんとう事件じけんこし、から十郎じゅうろうとともに暴力ぼうりょく行為こうい現行げんこうはん逮捕たいほされる。きっかけは双方そうほう劇団げきだんがおいとして中古ちゅうこ花輪はなわ葬儀そうぎよう花輪はなわおくったことによるもの[32]

1970ねん昭和しょうわ45ねん3月24にち漫画まんがあしたのジョー』の登場とうじょう人物じんぶつ力石りきいしとおる葬儀そうぎ葬儀そうぎ委員いいんちょうつとめる。34さいきゅうじょう離婚りこん[33]離婚りこん彼女かのじょ晩年ばんねん寺山てらやまのよき協力きょうりょくしゃとなった。

1971ねん昭和しょうわ46ねん)、『しょてよ、まちよう』で劇映画げきえいが進出しんしゅつサンレモ映画えいがさいでグランプリを獲得かくとくフランスニース作家さっかル・クレジオと2日間にちかんかたかす。ロッテルダム国際こくさい詩人しじんさい出席しゅっせきし、朗読ろうどくナンシー演劇えんげきさいで『人力じんりき飛行機ひこうきソロモン』、『邪宗門じゃしゅうもん公演こうえんベルリンのフォーラム・シアターで『邪宗門じゃしゅうもん公演こうえんベオグラード国際こくさい演劇えんげきさいで『邪宗門じゃしゅうもん』がグランプリ受賞じゅしょう[34]

1974ねん昭和しょうわ49ねん)、映画えいが田園でんえん』が公開こうかいされ、文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさい奨励しょうれい新人しんじんしょう芸術げいじゅつ選奨せんしょう新人しんじんしょう受賞じゅしょう。1975ねん昭和しょうわ50ねん)、杉並すぎなみ区内くない上演じょうえんされた市街しがいげき『ノック』が住民じゅうみん通報つうほうにより警察けいさつ沙汰ざたとなる。1976ねん昭和しょうわ51ねん)にはだい26かいベルリン国際こくさい映画えいがさい審査しんさいんとして招待しょうたいされ、参加さんか1979ねん昭和しょうわ54ねん)、肝硬変かんこうへん入院にゅういん

1979ねん 寺山てらやま修司しゅうじ天井てんじょう桟敷さじき演劇えんげきレミングが東京とうきょう晴海はるみ公開こうかいされた、当日とうじつ開演かいえんきゃくながれつ寺山てらやま修司しゅうじきゃくかお確認かくにんをしながらあるいてきた、みんな感激かんげきしながらしずかにこの認識にんしき体験たいけんしていた、 みんなこの認識にんしき演劇えんげき主題しゅだい一部いちぶちがいないという了解りょうかい表情ひょうじょうであった。 (このエピソードの証人しょうにん作家さっか水上みずかみつとむ越前えちぜんちく人形にんぎょうかい女流じょりゅう琵琶びわ演奏えんそう民族みんぞく音楽おんがく学者がくしゃ 小泉こいずみ文夫ふみおめいである)

1980ねん昭和しょうわ55ねん7がつ13にち午後ごご10ごろ、渋谷しぶや宇田川うだがわまち取材しゅざいちゅう、アパート敷地しきち住居じゅうきょ侵入しんにゅうした容疑ようぎ警視庁けいしちょう渋谷しぶや警察けいさつしょ逮捕たいほ。アパート経営けいえいしゃ息子むすこは「5ねんほどまえもしばしばこのアパート付近ふきんをうろつき、いち警察けいさつざたになったこともあったため、またたとおもって警察けいさつとどけた」という[35]容疑ようぎみとめた寺山てらやまは2にち釈放しゃくほうされ、住居じゅうきょ侵入しんにゅうざい略式りゃくしき起訴きそされ8000えん罰金ばっきんけいけた(このとき身元みもと引受ひきうけじん矢崎やさき泰久やすひさであった[36])。『毎日新聞まいにちしんぶん』は「寺山てらやま修司しゅうじが『のぞき』アパート侵入しんにゅう、つかまる。罰金ばっきん釈放しゃくほう」、『読売新聞よみうりしんぶん』は「寺山てらやま修司しゅうじが″のぞき″女性じょせいアパートでも  され罰金ばっきん」とほうじた。このスキャンダルにより、寺山てらやま一切いっさい仕事しごと無期むき延期えんきとされたが、寺山てらやまは「市街しがいにおける訪問ほうもんげき『ノック』の上演じょうえんをリサーチしていたなか敷地しきちないりであり、のぞきの現行げんこうはんではない」むね反論はんろんを『週刊しゅうかん朝日あさひ』にいた。渋谷しぶやしょふく署長しょちょう清水しみずきよしななも「ノゾキのノのも、広報こうほう簿にはせていません」と発言はつげんしている。

1981ねん昭和しょうわ56ねん)、肝硬変かんこうへん再発さいはつさい入院にゅういん

1982ねん昭和しょうわ57ねん)、朝日新聞あさひしんぶんなつかしのわが』を発表はっぴょうパリで「天井てんじょう桟敷さじき最後さいご海外かいがい公演こうえんおこない、『奴婢ぬひくん』を上演じょうえん年末ねんまつには、最後さいご演出えんしゅつ作品さくひんとなった「 レミング―かべおとこ―」を紀伊國屋きのくにやホールにて上演じょうえん[26]

1983ねん昭和しょうわ58ねん)、東京とうきょうみなと三田みた在住ざいじゅうちゅう肝硬変かんこうへん発症はっしょう阿佐ヶ谷あさがや河北かわきた総合そうごう病院びょういん入院にゅういん腹膜炎ふくまくえん併発へいはつし、5月4にち敗血症はいけつしょうのため死去しきょ、47さいぼつ[2]葬儀そうぎ委員いいんちょう谷川たにがわ俊太郎しゅんたろう[37]

没後ぼつご

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1993ねん4がつ~5がつ、「しん寺山てらやま修司しゅうじてん テラヤマ、ワールド」が西武せいぶ池袋いけぶくろ百貨店ひゃっかてんにて開催かいさいされた。

1995ねん平成へいせい7ねん)、じゅうさん回忌かいき記念きねんして、砂子屋書房いさごやしょぼう寺山てらやま修司しゅうじ短歌たんかしょう開始かいし

1997ねん平成へいせい9ねん)、青森あおもりけん三沢みさわ三沢みさわ寺山てらやま修司しゅうじ記念きねんかんてられた。

2001ねん平成へいせい13ねん)、朝日新聞社あさひしんぶんしゃにより朝日あさひ舞台ぶたい芸術げいじゅつしょう創設そうせつされた。グランプリ、舞台ぶたい芸術げいじゅつしょうなどのなかに、将来しょうらい嘱望しょくぼうされる新鋭しんえい清新せいしんさあふれる個人こじん団体だんたいたいしておくられる寺山てらやま修司しゅうじしょうがある[38]。2008ねんだい8かい)をもって休止きゅうしとなった[39][40]

2006ねん平成へいせい18ねん)、国際こくさい社会しゃかいにおける寺山てらやま修司しゅうじ研究けんきゅう促進そくしん会員かいいん相互そうご親睦しんぼく目的もくてきとして、国際こくさい寺山てらやま修司しゅうじ学会がっかい発足ほっそくした[41]。4月1にち設立せつりつ準備じゅんび委員いいんかい愛知学院大学あいちがくいんだいがくにち進学舎しんがくしゃにて開催かいさいされ、5月6にち設立せつりつ総会そうかいけんだい1かい大会たいかい名古屋なごや市民しみん会館かいかんだいいち会議かいぎしつにて開催かいさいされた[42]。その、およそとし2かい頻度ひんど大会たいかい開催かいさいされている。また、2007ねんより、およそとし1かい頻度ひんど論文ろんぶんしゅう寺山てらやま修司しゅうじ研究けんきゅう』(文化ぶんか書房しょぼう博文ひろぶみしゃかん)が発行はっこうされている[43]映像えいぞうアート作品さくひんのフェスティバルとして1987ねんから開催かいさいされているイメージフォーラム・フェスティバル[44]一般いっぱん公募こうぼ部門ぶもん若手わかて作家さっか対象たいしょうとした寺山てらやま修司しゅうじしょう新設しんせつされた[45][46]

2008ねん平成へいせい20ねん)2がつ生前せいぜん発表はっぴょう短歌たんか田中たなか未知みち編纂へんさんにより『月蝕げっしょく書簡しょかん』(岩波書店いわなみしょてん)として刊行かんこうされた[47]

2015ねん平成へいせい27ねん)、寺山てらやま修司しゅうじ生誕せいたん80ねん関連かんれん行事ぎょうじ多数たすうおこなわれた。代表だいひょうてき公演こうえん下記かきげる。

2018ねん平成へいせい30ねん)、没後ぼつご35ねんむかえ、神奈川かながわ近代文学館きんだいぶんがくかん神奈川かながわけん横浜よこはま)で「寺山てらやま修司しゅうじてん ひとりぼっちのあなたに」(2018ねん9がつ29にち)~11がつ25にち))が開催かいさいされた[48][49]三浦みうら雅士まさし田中たなか未知みち祖父江そふえまこと編集へんしゅう委員いいんつとめた[50]

2021ねんれい3ねん)、12月10にち岡山おかやまけん津山つやま寺山てらやま修司しゅうじかん開館かいかん[51]

年譜ねんぷ

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人物じんぶつ

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競馬けいば

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寺山てらやま競馬けいばとの出会であいは1956ねんネフローゼ入院にゅういんちゅう同室どうしつ韓国かんこくじんから賭博とばくとともにそれをまなんだ。

1962ねん山野やまの浩一こういちしたしくなったころからあししげ競馬けいばじょうかようようになり、1963ねん牝馬ひんばミオソチス[54]心酔しんすいして競馬けいばエッセイをはじめ、競馬けいば人生じんせいやドラマになぞらえてかたるなどの独特どくとくかたくち人気にんきはくした。

1964ねんには、中山なかやまだい障害しょうがい題材だいざいにしたTBSテレビのドキュメンタリー番組ばんぐみ『サラブレッド・あい』の台本だいほん構成こうせい手掛てがけている。

1965ねん八百長やおちょう疑惑ぎわくがったたちばなしょうのパトロールフィルムを大川おおかわけい次郎じろう虫明むしあけりょとともに寺山てらやまは「どこが八百長やおちょうなのかからない」と発言はつげんし、八百長やおちょう疑惑ぎわく否定ひていした。

1968ねん船橋ふなばし競馬けいばのある騎手きしゅから「寺山てらやまさんのエッセイは中央ちゅうおう競馬けいばり」という批判ひはんけたことをきっかけに、船橋ふなばし競馬けいばのある騎手きしゅ新宿しんじゅく会談かいだん自身じしん不明ふめいじた寺山てらやまは「ユリシーズ」(南関東みなみかんとう)の馬主ばしゅとなる。生涯しょうがいただいちとうだけの馬主ばしゅ体験たいけんであった[55]

1970ねんからは報知ほうち新聞しんぶん競馬けいばめんに「寿司すしせい」、「バーテンの万田まんだ」など多彩たさい人物じんぶつ登場とうじょうさせて競馬けいば予想よそうした『みどころ』『かぜくまゝ』というコラムを連載れんさいし、これは1983ねん4がつ直前ちょくぜんまでつづいた。このコラムはのちに『競馬けいばじょうおう』シリーズとしてまとめられている(Part6まで、JICC出版しゅっぱんきょく)。

競馬けいばかいスポークスマンてき存在そんざいで、1973ねんには日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい(JRA)のコマーシャル出演しゅつえん。『カモメはびながらうたおぼえ、人生じんせいあそびながら年老としおいていく』という自作じさく(ディレクターをつとめた武市たけいち好古よしふるによると、「あそびについての断章だんしょう」というながだったのを、CM収録しゅうろく編集へんしゅうしたという)を朗読ろうどく1974ねんハイセイコー引退いんたいすると、引退いんたい記念きねんレコード『さらばハイセイコー』の構成こうせい朗読ろうどくおこなった。

1978ねん日本にっぽん経済けいざい新春しんしゅんはいテンポイント骨折こっせつし、2かげつ死亡しぼうすると、追悼ついとう『さらば、テンポイント』をのこした。この寺山てらやま自身じしん番組ばんぐみ構成こうせいたずさわった関西かんさいテレビのテンポイント追悼ついとう特集とくしゅう番組ばんぐみ風花かざばなった流星りゅうせい』で紹介しょうかいされ、1991ねんにVHSビデオ『もしあさたら テンポイント物語ものがたり』としてソニー・ミュージックエンタテインメントから発売はつばいされた[56]

1978ねん6がつには、NHK製作せいさくした『ルポルタージュにっぽん』「ダービーの」という番組ばんぐみ進行しんこうやくとして出演しゅつえん同年どうねん5月28にち開催かいさいされた日本にほんダービーでの「東京競馬場とうきょうけいばじょうながいちにち」を、レースに騎乗きじょうする福永ふくなが洋一よういち岡部おかべ幸雄ゆきお柴田しばた政人まさと同期どうき3めい騎手きしゅ中心ちゅうしんに、調教ちょうきょう観客かんきゃくらの姿すがたにスポットをててえがくというドキュメンタリーかたちつづった。

1981ねんカブトシロー薬殺やくさつ未遂みすい騒動そうどうさいには、寺山てらやま中心ちゅうしんとした10にん競馬けいばファン連名れんめい中央ちゅうおう競馬けいばかい抗議こうぎぶん提出ていしゅつ

1982ねん寺山てらやまえらんだ「わたしわすれがたかったうまベスト10」(競馬けいば放浪ほうろうあとがき)はミオソチス、カブトシロー、モンタサンホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサスシチー、(番外ばんがいダンサーズイメージ)。騎手きしゅでは中島なかじま啓之ひろゆき、のちに吉永よしなが正人まさと贔屓ひいきにした。まだ人気にんきにも話題わだいにもなっていないころからかれらを熱心ねっしんげ、「ダービーにつまでつづける」としていた。中島なかじま吉永よしながどもにダービー制覇せいはげているが、吉永よしながミスターシービー悲願ひがん達成たっせいしたのは、寺山てらやま急逝きゅうせいした3週間しゅうかんだった。

報知ほうち新聞しんぶん競馬けいばめん予想よそうコラム『かぜくまゝ』の最終さいしゅうかい1983ねん皐月さつきしょう当日とうじつで、寺山てらやまは『つのはミスターシービー』としるし、吉永よしながとミスターシービーの勝利しょうり確信かくしんしていた。

動物どうぶつあい

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寺山てらやま動物どうぶつきだった。一人ひとりさびしがりだったためとするせつもある[57]

  • いぬ - はは・ハツもえずいぬい、代々だいだい太郎たろう」と名付なづけた。寺山てらやま修司しゅうじは「太郎たろう」も可愛かわいがったが、自分じぶん終生しゅうせいいぬつづけた。コッカースパニエルけん九条くじょう今日子きょうことの結婚けっこんいわいにもらう。コッカースパニエル「ジル」との写真しゃしんのこっている[57]柴犬しばけんには「ニーチェ」「ワグナー」と名付なづけてった。ワグナーは寺山てらやま死後しご田中たなか未知みちと14ねん余生よせいごした[58]寺山てらやま修司しゅうじ顕彰けんしょう文学ぶんがくまえにはビクターいぬがたたずむ[59]
  • かめ - 「質問しつもん」と「こたえ」というの2ひきかめっていた時期じきがある[60]
  • ネズミ - 脚本きゃくほんいたテレビドラマ「Q」には、のべ1000ひきものネズミが出演しゅつえん登場とうじょうしたネズミとの写真しゃしんのこされている[60]

短歌たんか俳句はいく

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  • われにがつを (1957ねん) - だいいち作品さくひんしゅう
  • はだしのこいうた (1957ねん
  • かい詩劇しげき作品さくひんしゅう (1957ねん
  • そらにはほん (1958ねん) - 歌集かしゅう
  • むぎ (1962ねん) - 歌集かしゅう
  • ひとりぼっちのあなたに (1965ねん
  • 田園でんえんす (1965ねん) - 歌集かしゅう
  • 長編ちょうへん叙事詩じょじし地獄じごくへん
  • 寺山てらやま修司しゅうじぜん歌集かしゅう(1971ねん
  • 現代げんだい詩文しぶん 寺山てらやま修司しゅうじ(1972ねん
  • わが金枝きんしへん(1973ねん) - 句集くしゅう
  • 花粉かふん航海こうかい(1975ねん) - 句集くしゅう
  • 寺山てらやま修司しゅうじ俳句はいく全集ぜんしゅう (1986ねん

小説しょうせつ

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随筆ずいひつ評論ひょうろん

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  • 現代げんだい青春せいしゅんろん(1963ねん
    • 家出いえでのすすめ : 現代げんだい青春せいしゅんろん(1972ねん
  • 戦後せんご(1965ねん
  • みんなをおこらせろ(1966ねん
  • ゆうげきとそのほこり(1966ねん
  • 競馬けいばじょうおう(1966ねん
  • 時代じだい射手しゃしゅ(1967ねん
  • 思想しそうへの望郷ぼうきょう(1967ねん
  • しょてよ、まちよう(1967ねん
  • 自叙伝じじょでんらしくなくだれ故郷こきょうそうはざる(1968ねん
    • だれ故郷こきょうそうはざる : 自叙伝じじょでんらしくなく(1973ねん
  • 幸福こうふくろん(1969ねん
  • 地下ちか演劇えんげき(1969ねん)あくた正彦まさひこ共同きょうどう刊行かんこうした演劇えんげき理論りろん
    • 地下ちか演劇えんげき no.1、1969ねん5がつ1にち
    • 地下ちか演劇えんげき no.2、1970ねん2がつ1にち
    • 地下ちか演劇えんげき no.3、1970ねん12月1にち
    • 地下ちか演劇えんげき no.4、1971ねん11月11にち
    • 地下ちか演劇えんげき no.5、1972ねん8がつ15にち
    • 地下ちか演劇えんげき no.6、1973ねん8がつ1にち
  • 対談たいだん競馬けいばろん(1969ねん
  • 地下ちか想像そうぞうりょく(1971ねん
  • うまやぶれて草原そうげんあり(1971ねん
  • 映写えいしゃ技師ぎして : 寺山てらやま修司しゅうじ映画えいが論集ろんしゅう(1973ねん
  • 死者ししゃしょ : 寺山てらやま修司しゅうじ評論ひょうろんしゅう(1974ねん
  • 英雄えいゆうでん : さかさま世界せかい(1974ねん
  • 怪物かいぶつでん : さかさま世界せかい(1974ねん
  • 花嫁はなよめとり日本にっぽん呪術じゅじゅつ紀行きこう(1974ねん日本交通公社にほんこうつうこうしゃ出版しゅっぱん事業じぎょうきょく
  • 鉛筆えんぴつのドラキュラ(1977ねん
  • 黄金おうごん時代じだい(1978ねん
  • ぼくがおおかみだったころ(1979ねん
  • 不思議ふしぎ図書館としょかん(1981ねん
  • 地球ちきゅうをしばらくめてくれ ぼくはゆっくり映画えいがたい(1981ねん
  • スポーツばん裏町うらまち人生じんせい(1982ねん
  • 臓器ぞうき交換こうかん序説じょせつ(1982ねん
  • 幻想げんそう図書館としょかん(1982ねん
  • 不良ふりょう少女しょうじょ入門にゅうもん(2004ねん
  • ロミイの代辯だいべん 寺山てらやま修司しゅうじ単行たんこうほん収録しゅうろく作品さくひんしゅう堀江ほりえしげるへんまぼろしおどけ書房しょぼう、2018ねん

脚本きゃくほん

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映画えいが

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監督かんとく作品さくひん後述こうじゅつ

他者たしゃによる舞台ぶたい

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演劇えんげき

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映画えいが

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長編ちょうへん

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短編たんぺん

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  • ねこがく(Catology)(1960ねん) - 現存げんそんせず。
  • おりしゅう(1962ねん
  • トマトケチャップ皇帝こうてい(1970ねん
  • ジャンケン戦争せんそう(1971ねん) - 『トマトケチャップ皇帝こうてい』の抜粋ばっすいさい構成こうせいばん
  • ローラ(1974ねん
  • ちょうふく(1974ねん
  • 青少年せいしょうねんのための映画えいが入門にゅうもん(1974ねん
  • 疱瘡ほうそうたん(1975ねん
  • 迷宮めいきゅうたん(1975ねん
  • 審判しんぱん(1975ねん
  • とうおんな(1977ねん
  • マルドロールのうた(1977ねん
  • しゴム(1977ねん
  • 一寸法師いっすんぼうし記述きじゅつするこころみ(1977ねん
  • 書見しょけん(1977ねん

テレビ番組ばんぐみ監修かんしゅう構成こうせい

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テレビ出演しゅつえん

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ラジオ出演しゅつえん

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  • キャスター(1966ねん4がつ - 、文化放送ぶんかほうそう)- 火曜日かようびパーソナリティ

作詞さくし

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作詞さくしした楽曲がっきょく歌詞かし提供ていきょうだけでも100きょく以上いじょう演劇えんげき映画えいが関連かんれんのものをふくめると、ゆうに600きょくえる。

JASRACデータベースにいては「寺山てらやま修司しゅうじ」で検索けんさくけると987作品さくひん登録とうろくされている(2016ねん9がつ現在げんざい[64]ゆえにJASRAC登録とうろくCDされていない、ひとし)の作品さくひんふくめるとこれ以上いじょう作品さくひんすう存在そんざいする。

また昭和しょうわ42ねん制定せいてい長野ながの作詞さくしおこなっている[65]

研究けんきゅう評論ひょうろん

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顕彰けんしょう施設しせつ

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三沢みさわ寺山てらやま修司しゅうじ記念きねんかん

関連かんれん項目こうもく人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 青森あおもり青柳あおやぎ2丁目ちょうめ1-15、跡地あとち結婚式けっこんしきじょうとなっていて、寺山てらやま旧居きゅうきょであるむねかれている石柱せきちゅうがある
  2. ^ 統合とうごうされて廃止はいし跡地あとち青森あおもり文化ぶんか会館かいかん
  3. ^ タイトル自体じたいコメットハンター池谷いけがやかおるの「池谷いけがや彗星すいせい」からている。九條くじょう今日子きょうこの「たびはいつもひとい」(『作家さっかたび平凡社へいぼんしゃ)によれば、この放送ほうそうのための叙事詩じょじしイタリアしょう受賞じゅしょうし、翻訳ほんやくされて6ヵ国かこく招待しょうたいされることになった。
  4. ^ 寺山てらやまの『ポケットに名言めいげんを』のなかスタンダールの『あかくろ』のジュリアン・ソレルの言葉ことばとされるが、三上みかみのべ倉田くらた秀之ひでゆき読書どくしょきょう冒険ぼうけんわらない!』集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ 2014ねん p.169のさんじょう発言はつげんによれば、原作げんさくにはてこないという。蜷川にながわ幸雄ゆきお演出えんしゅつ舞台ぶたいされた。
  5. ^ ホフマンの「くるみ人形にんぎょう」と「砂男すなお」からインスピレーションをけ、壮大そうだいなスペクタクルファンタジーのアニメーション映画えいがのシナリオとしてかれたが、壮大そうだいぎたためアニメーション映画えいがでさえ実現じつげん困難こんなんとなり、寺山てらやま作品さくひんなか唯一ゆいいつ実現じつげんしなかった作品さくひん寺山てらやま修司しゅうじ生誕せいたん80ねんにあたる2016ねんあおかんが33めい女優じょゆうでファンタジー男装だんそう音楽おんがくげきとして上演じょうえんした。
出典しゅってん
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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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