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福永ふくなが洋一よういち

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福永ふくなが洋一よういち
1978ねん10がつ21にち、於京都競馬場きょうとけいばじょう(29さい
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 高知こうちけん高知こうち
生年月日せいねんがっぴ (1948-12-18) 1948ねん12月18にち(75さい
騎手きしゅ情報じょうほう
所属しょぞく団体だんたい 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい
所属しょぞく厩舎きゅうしゃ 京都きょうと栗東りっとう武田たけだ文吾ぶんご(1968ねん - 1981ねん
はつ免許めんきょねん 1968ねん
免許めんきょ区分くぶん 平地ひらち初期しょきには障害しょうがい免許めんきょ保持ほじ
騎手きしゅ引退いんたい 1981ねん
1979ねん3月4にち最終さいしゅう騎乗きじょう
じゅうしょう勝利しょうり 49しょう
G1きゅう勝利しょうり 9しょう
通算つうさん勝利しょうり 5086せん983しょう
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福永ふくなが 洋一よういち(ふくなが よういち、1948ねん12月18にち - )は、高知こうちけん高知こうち出身しゅっしんもと騎手きしゅ

あに福永ふくながかぶと福永ふくなが二三雄ふみお福永ふくなが尚武なおたけ息子むすこ福永ふくなが祐一ゆういち区別くべつするため、本文ほんぶんちゅうはとくに「洋一よういち」と表記ひょうきする。松尾まつおみどり義理ぎりむすめ祐一ゆういちつま)にあたる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

少年しょうねん時代じだい[編集へんしゅう]

実家じっかはかつて土地とち一帯いったい地主じぬしであったが、太平洋戦争たいへいようせんそうのちGHQ発令はつれいした農地のうち解放かいほう政策せいさくなどにより没落ぼつらくし、よういち出生しゅっしょうには困窮こんきゅうきわめていた[1]ちち放蕩ほうとうへきのある人物じんぶつであり、洋一よういちの5さい1953ねんなつはは失踪しっそう[2]以降いこうあねによりそだてられた[1]。そのあね高知こうち競馬けいばじょう所属しょぞく騎手きしゅ松岡まつおか利男としお結婚けっこんし、福永ふくなが競馬けいばかいとの関係かんけいきずかれた[3]いで長兄ちょうけいきのえ中学ちゅうがく卒業そつぎょう京都きょうとたけ平三へいぞう厩舎きゅうしゃ入門にゅうもん次兄じけい二三雄ふみお大井おおい三男さんなん尚武しょうぶ船橋ふなばし騎手きしゅとなった。一人ひとりのこったよんなん洋一よういちはそのまま高知こうちちちらしていたが、ちち1957ねん脳溢血のういっけつ死去しきょ。これをけ、洋一よういちあねとついだ松岡まつおかせた[4]以降いこう少年しょうねん時代じだいは、高知こうち競馬けいばじょうない厩舎きゅうしゃ手伝てつだいをしながらごした。

1960ねん高知こうち市立しりつ潮江しおえ中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくすると、このころから「将来しょうらい騎手きしゅになる」という目標もくひょうくちにするようになり[5]中学ちゅうがく3ねんころにはかぶと師匠ししょうたけ平三へいぞうたよって京都きょうとうつり、のちうまごとおおやけえんでも同期生どうきせいとなるたけえいさち京都きょうと市立しりつ桃陵とうりょう中学校ちゅうがっこうとおった[6]中学ちゅうがく卒業そつぎょうひかえた1963ねんあきえいさちともうまごとおおやけえん騎手きしゅ養成ようせい長期ちょうき課程かてい受験じゅけん合格ごうかく入所にゅうしょしきでは、平三へいぞうえいさち洋一よういち双方そうほう保護ほごしゃとして出席しゅっせきした[6]

うまごとおおやけえん時代じだい[編集へんしゅう]

騎手きしゅ課程かていだい15期生きせいとして入所にゅうしょは、えいさちくわえ、岡部おかべ幸雄ゆきお柴田しばた政人まさと伊藤いとう正徳まさのりらと同期生どうきせいとなった。のち岡部おかべ柴田しばたはそれぞれリーディングジョッキーを獲得かくとく伊藤いとう通算つうさん300しょうたない成績せいせきながら日本にほんダービー天皇てんのうしょうあきといっただい競走きょうそうせいし、15期生きせいとくに「うまごとおおやけえんはなの15期生きせい」としょうされるようになる。教官きょうかんのひとりであった木村きむらよしまもるは、「騎手きしゅ志望しぼう少年しょうねんは、騎手きしゅとして達者たっしゃがた上手じょうずがたとおりがあるようです。達者たっしゃがた運動うんどう神経しんけい発達はったつしていて、先天的せんてんてき騎手きしゅき。上手じょうずがた努力どりょく上手じょうずになるかたえます。そのどちらでもなかった子供こどもは、わたし範囲はんいではプロになっていないし、なれません。岡部おかべ福永ふくなが達者たっしゃがたというのか、たくみかった。柴田しばたはどちらかとえば上手じょうずがたでした」とかたっている[7]

2ねん1965ねん厩舎きゅうしゃ実地じっち研修けんしゅうはじまるさいうまごとおおやけえんおとずれた栗田くりたまさる洋一よういち才能さいのうけ、あにかぶとつうじ、栗田くりた所属しょぞくする京都きょうと武田たけだ文吾ぶんご厩舎きゅうしゃ入門にゅうもんするようはたらきかけた[8]。しかしかぶと記憶きおくによると、栗田くりた洋一よういちていないともいう[9]。これをけて洋一よういち研修けんしゅう武田たけだ厩舎きゅうしゃおこなわれたが、研修けんしゅう期間きかんちゅう栗田くりた騎乗きじょうするダイコーターと、その弟弟子おとうとでし山本やまもと正司せいじ騎乗きじょうするキーストン日本にほんダービー出走しゅっそう間近まぢかひかえていた最中さいちゅうであり、厩舎きゅうしゃ全体ぜんたい充満じゅうまんしていた緊張きんちょうかんよういちつよ印象いんしょうのこした[10]研修けんしゅう期間きかん修了しゅうりょう騎手きしゅ免許めんきょ試験しけんのぞんだが、このとし落第らくだい武田たけだ厩舎きゅうしゃでの1年間ねんかん浪人ろうにん生活せいかつて、1966ねんさい受験じゅけんして合格ごうかくし、武田たけだ厩舎きゅうしゃ所属しょぞく騎手きしゅとしてデビューをむかえた。武田たけだ厩舎きゅうしゃ当時とうじ関西かんさい最大さいだい名門めいもん厩舎きゅうしゃであり、伊藤いとう正徳まさのりは、ダービージョッキーの伊藤いとうただしよんろうちちつ2せい騎手きしゅであり、関東かんとう名門めいもん尾形おがた藤吉とうきち厩舎きゅうしゃはいった自分じぶん洋一よういちもっとめぐまれたスタートだったとべている[11]

騎手きしゅ時代じだい[編集へんしゅう]

新人しんじん騎手きしゅとして[編集へんしゅう]

1968ねん3月2にち京都きょうとだい2競走きょうそう・4さい勝利しょうりはつ騎乗きじょうむかえ、シュクホウで3ちゃく。2週間しゅうかんどう17にち京都きょうとだい3競走きょうそう・4さい勝利しょうりどううま騎乗きじょうしてはつ勝利しょうりげた。初年度しょねんど全国ぜんこく82の14しょうげ、中央ちゅうおう競馬けいば関西かんさい放送ほうそう記者きしゃクラブしょう受賞じゅしょうするなど幸先さいさきいスタートをったが、このころ騎乗きじょうは、他馬たば危険きけんがおよぶような粗雑そざつ印象いんしょう周囲しゅういあたえるものであり、騎手きしゅからの評判ひょうばんかんばしくなかった[12]7がつ20日はつかには競走きょうそうちゅうおおきくはすぎょうして後続こうぞく進路しんろふさぎ、騎手きしゅ落馬らくばする事態じたいこし、開催かいさい4日間にちかん騎乗きじょう停止ていし処分しょぶんけた。この最中さいちゅう騎手きしゅからよういち騎乗きじょうについてたびたび苦情くじょうけていた栗田くりたが、競馬けいばかい採決さいけつ委員いいんかけい丈夫たけおたいし、騎乗きじょう検証けんしょうと、必要ひつようおうじて注意ちゅうい勧告かんこくおこなうように依頼いらいした。しかしかけいがパトロールフィルムを精査せいさした結果けっか粗雑そざつえる騎乗きじょうは、ほとんどがぎりぎりの範囲はんいながら規則きそくないおさめられており、「勝利しょうりへの最善さいぜんくしているあらわれであり、あとはモラルの問題もんだい」という結論けつろんたっし、注意ちゅういおこなわれなかった[12]

2ねん1969ねん順調じゅんちょう勝利しょうりかさねていたが、5月4にち京都きょうとだい7競走きょうそう・つつじしょうでキタヤマニシキに騎乗きじょうしたさい、1入線にゅうせん負担ふたん重量じゅうりょう不足ふそく判明はんめいし、3かげつあいだ騎乗きじょう停止ていし、さらに師匠ししょう武田たけだから1かげつあいだ騎乗きじょう自粛じしゅく通告つうこくされた。この期間きかんちゅう洋一よういち大井おおい騎手きしゅつとめていた次兄じけい二三雄ふみおもとをたびたびおとずれ、佐々木ささき竹見たけみ騎乗きじょうはつ競走きょうそうから「あのひとすご上手うまい」とおもい、佐々木ささきのスタートかん、ペース配分はいぶんみょうなどに非常ひじょう感心かんしんしていた[13]復帰ふっき武田たけだ意向いこうにより札幌さっぽろ騎乗きじょうし、はつ経験けいけんダートかたさんゆうおそわり、開催かいさい前半ぜんはん次々つぎつぎ勝利しょうりかさねた[14]。しかしさんゆうから伝授でんじゅされたかた愚直ぐちょくかえしたため、開催かいさい後半こうはんはい失速しっそくする。ここでさんゆう再度さいどおしえをうたさい、「まわりの騎手きしゅだって馬鹿ばかじゃない。おな作戦さくせんばかりじゃなく、たまにはぎゃくをいってみろ」とたしなめられ、以降いこう臨機応変りんきおうへん騎乗きじょうけていった[15]札幌さっぽろ開催かいさいえて関西かんさいもどると、以降いこう安定あんていして勝利しょうりかさね、このとし45しょうげて全国ぜんこく11躍進やくしんした。

リーディングジョッキーとなる[編集へんしゅう]

3ねん1970ねんはいるとよういち騎乗きじょう希望きぼうする馬主ばしゅ増加ぞうかし、また栗田くりた安田やすだ伊佐夫いさおといった兄弟子あにでしが、りょうえらんで優先ゆうせんてきよういち騎乗きじょうさせるなど厩舎きゅうしゃからの援助えんじょ[16]春先はるさきからリーディングあらそいでトップの位置いちめる。最終さいしゅうてきには86しょうげ、はじめてリーディングジョッキーの獲得かくとく[17]同年どうねん3月1にちには京都きょうと4さい特別とくべつでタニノモスボローに騎乗きじょうし、じゅうしょうはつ勝利しょうりげている。

1971ねんもリーディングを独走どくそうしていたが、あきまでじゅうしょう勝利しょうりがなく、一部いちぶでは「かずでこなしただけのくらいさり」とも揶揄やゆされていた[18]。しかし10月はいり、ニホンピロムーテー神戸こうべはい京都きょうと新聞しんぶんはい連勝れんしょう11月クラシック最終さいしゅうせん菊花賞きっかしょうでは、距離きょり不向ふむきかつられていたどううまを、のこり1500メートルで先頭せんとうたせるという奇策きさくって勝利しょうりおさめ、GIきゅうレース・はちだい競走きょうそうはつ制覇せいはたした。これはよういち騎手きしゅ生活せいかつにおける代表だいひょうてき騎乗きじょうのひとつとなり、ほん競走きょうそうをきっかけとして洋一よういちは「天才てんさい騎手きしゅ」へと成長せいちょうしたともされる。柴田しばた政人まさとはこのとき洋一よういちひょうして、「これまでのよういち騎乗きじょうは、あらっぽぎるとって不評ふひょうだった。ラフだとわれるのは自信じしんのなさの裏返うらがえしだったのだろうが、この一戦いっせんでそれまでのまよいがれて、自分じぶん騎乗きじょう方法ほうほうろん自信じしんったとおもう。ラフだという評価ひょうかもこののちえ、天与てんよ才能さいのうを、これからおおきくはなひらかせたのだ。その意味いみで、このいちせん洋一よういちにとってすごおおきなものだった」とひょうしている[18]

1972ねん天皇てんのうしょうあき)ではヤマニンウエーブ騎乗きじょうし、パッシングゴール道中どうちゅう40馬身ばしんにもおよんだげをゴール直前ちょくぜんアタマとらえて優勝ゆうしょう。そのはしばらくはちだい競走きょうそう制覇せいはからはとおざかったが、1976ねん洋一よういち騎手きしゅ生活せいかつちゅう最強さいきょうひょうした[19]エリモジョージ天皇てんのうしょうはるせいした。あきには天馬てんばトウショウボーイ騎乗きじょうまかされ、神戸こうべ新聞しんぶんはい京都きょうと新聞しんぶんはい連勝れんしょうしている。また、このとし2がつ16にちにちさこ良一りょういちめい北村きたむら祐美子ゆみこ結婚けっこん12月9にち長男ちょうなん祐一ゆういち誕生たんじょうした。1977ねんはるにはインターグロリア桜花おうかしょうハードバージ皐月さつきしょう制覇せいは。この皐月さつきしょうでは、最後さいご直線ちょくせんうちらち沿いのわずかな隙間すきまうま突入とつにゅうさせ、2ちゃくラッキールーラ騎乗きじょうした伊藤いとう正徳まさのり、3ちゃくのアローバンガードに騎乗きじょうした柴田しばた政人まさとが、それぞれ「ラチのうえはしってきたのかとおもった」「神業かみわざえた」とかたるなど[20]福永ふくなが代表だいひょうてき騎乗きじょうげられている。あきにはインターグロリアでエリザベス女王じょおうはいにも優勝ゆうしょうするなど当年とうねん野平のだい祐二ゆうじ保持ほじした年間ねんかん最多さいたしょう記録きろくを19ねんぶりにえる126しょう記録きろく1978ねんにはオヤマテスコで桜花おうかしょう連覇れんぱし、年間ねんかん最多さいたしょう記録きろくも131しょう更新こうしんした。

落馬らくば事故じこ[編集へんしゅう]

1979ねん順調じゅんちょう勝利しょうりかさね、3がつまでに24しょうげ、リーディングのトップを独走どくそうしていた。3月4にち阪神はんしんだい4競走きょうそうサラ4さいしんうまでエイシンタローにって983しょうげたのち、メインレースの毎日まいにちはい洋一よういちマリージョーイ騎乗きじょうした。最後さいご直線ちょくせんにおいて、斉藤さいとう博美ひろみ騎乗きじょうしていたハクヨーカツヒデがまえうまかるかたちとなり、まず斉藤さいとう落馬らくば。さらに後方こうほうからはしってきたマリージョーイのあし斉藤さいとう接触せっしょくし、洋一よういちおおきく前方ぜんぽうにのめったマリージョーイのからちて馬場ばばたたけられ、あたま強打きょうだするとともにしたの3ぶんの2以上いじょう重傷じゅうしょうい、その意識いしき不明ふめいとなった。洋一よういち斉藤さいとう落馬らくば素早すばや反応はんのうし、これをけようとしてうま進路しんろえたが、そのとき進路しんろは、落馬らくば騎手きしゅちた方向ほうこううちらち沿い)からかんがえて、騎手きしゅけることの出来でき外側そとがわ進路しんろであった。しかしながらこのときは、斉藤さいとう通常つうじょうとはぎゃくの、うますすもうとした外側そとがわころがってきてしまい、けることが出来できずにうまあしっかけたことが事故じこ原因げんいんであった。もし落馬らくばへの反応はんのうおくれてっすぐはしるか、斉藤さいとう通常つうじょうおなないらち沿いにころがっていれば、事故じこけられていたとわれている[21]

この競走きょうそう実況じっきょうしていたのは、洋一よういち個人こじんてきにも親交しんこうがあった杉本すぎもときよし当時とうじ関西かんさいテレビアナウンサー)であった。事故じこ瞬間しゅんかんは「おーっと1とう落馬らくば、1とう2とう落馬らくば、2とう落馬らくば、マリージョーイも落馬らくば、マリージョーイ落馬らくば、マリージョーイが落馬らくばしておりますが、ハシハーミット先頭せんとう、ハシハーミット先頭せんとう」といった、平静へいせいちか実況じっきょうとおした。しかしこれは平静へいせいつとめたのではなく、「わたし普通ふつう落馬らくばだとおもっていました。かれ調教ちょうきょうでもよくちてはケロッとがっていたので、このときもそんなかんじかなとおもっていたのです」と、当時とうじ心境しんきょうかたっている[22]

救命きゅうめい活動かつどう[編集へんしゅう]

事故じこ発生はっせい洋一よういちただちに馬場ばば待機たいきしていた救急きゅうきゅうしゃせられて競馬けいばじょうない救護きゅうごしょ搬送はんそうされ、当直とうちょく2人ふたり医師いしと、馬主ばしゅとして毎日まいにちはいにケイシエルを出走しゅっそうさせていた医師いし内田うちだめぐみにより救命きゅうめい措置そちおこなわれた。しかししたからの出血しゅっけつ気管きかんながみ、呼吸こきゅう障害しょうがいによる窒息ちっそく危機ききせまっており、この前日ぜんじつ、まったくの偶然ぐうぜん納入のうにゅうされていたあらたな医療いりょう機器ききのひとつである気道きどうチューブを気管きかん挿入そうにゅうして気道きどう確保かくほおこない、危機きき回避かいひした。しかし、瞳孔どうこう散大さんだいし、血圧けつあつ低下ていか自発じはつ呼吸こきゅうきわめて薄弱はくじゃくであったことから、3にん医師いしは、洋一よういちのう深刻しんこくなダメージをっており、はや医療いりょう設備せつびととのった病院びょういん治療ちりょうしなければならないと判断はんだんし、救護きゅうごしょでの応急おうきゅうてき処置しょちえると、ただちに尼崎あまがさき関西労災病院かんさいろうさいびょういん搬送はんそうされた。救急きゅうきゅうしゃには安田やすだ伊佐夫いさお松本まつもとよしとう同乗どうじょうし、2人ふたりとも搬送はんそうちゅう治療ちりょう協力きょうりょくした。病院びょういん到着とうちゃく安田やすだから武田たけだ裕美子ゆみこたいして、洋一よういち落馬らくばして入院にゅういんするむねつたえられた。しかしこの時点じてんでは、2人ふたり怪我けががそれほどじゅうあつしなものとはかんがえておらず、武田たけだは「ああ、またちたのか」とらすなど、安穏あんのんとしていた[23]病院びょういん到着とうちゃくした手術しゅじゅつ成功せいこうするも、たいひかり反射はんしゃもなく瞳孔どうこうひらいたままで意識いしき回復かいふくられなかった。エックス線えっくすせん検査けんさ結果けっか頭蓋骨ずがいこつ骨折こっせつとみられ、この時点じてん危篤きとく状態じょうたいとなっていた[24]。しかし、その徐々じょじょ容態ようだい安定あんていし、同年どうねん12がつには医師いし許可きょか短期間たんきかんではあるが久々ひさびさ自宅じたくもどり、正月しょうがつむかえた[25]

リハビリ生活せいかつ[編集へんしゅう]

やく1年間ねんかんのリハビリにより、1980ねん9月すうではあるが事故じこ以来いらいはじめての自力じりき歩行ほこうをする[26]と、12月には義父ぎふの「おはよう」という挨拶あいさつたいし、「おはよう」と、たどたどしいながらこたえるまでに回復かいふくした[27]。2ねん1981ねん騎手きしゅ引退いんたい。その徐々じょじょにではあるが回復かいふくつづけ、1984ねん10月には家族かぞく武田たけだ見守みまもるなかで、栗東りっとうトレーニングセンターうちかく馬場ばばやく5ねんはんぶりにうままたがった。このとき馬上まけで、かつてこのんでうたっていた『南国なんごく土佐とさのちにして』をくちずさんだという[28]

騎手きしゅ福永ふくなが祐一ゆういちちちとして[編集へんしゅう]

福永ふくなが祐一ゆういち騎手きしゅデビューは、かつてたことのないめぐまれたものになった。うみのものともやまのものともからない新人しんじんに、騎乗きじょう依頼いらいあつまることあつまること。この世界せかいには、『むかし洋一よういちさんに世話せわになったから』というひとあふれるほどひそんでいたのだ」
片山かたやま良三りょうぞう[29]
長男ちょうなん福永ふくなが祐一ゆういち
(2019ねんホープフルステークス勝利しょうり

以降いこうもリハビリがつづけられるかたわらで、長男ちょうなん祐一ゆういち1992ねん競馬けいば学校がっこう受験じゅけんし、2せい騎手きしゅへのみちすすはじめた。同年どうねん結果けっか合格ごうかくであったが、「願書がんしょした」というのみで新聞しんぶんほうじられ、さらに1993ねん入学にゅうがくさいしてはきむ屏風びょうぶまえにしての記者きしゃ会見かいけんおこなわれた[30]祐一ゆういち1996ねん3月2にち騎手きしゅとしてデビューし、はつ騎乗きじょうはつ勝利しょうりげた。この様子ようす洋一よういちはテレビで観戦かんせんし、ゴールみをかべ、柴田しばた政人まさとからの「ったところをたか」という電話でんわたいし「うん」と返答へんとうした[31]開催かいさいえた祐一ゆういち帰宅きたくしたさいには、直々じきじきに「おめでとう」とこえけている[32]祐一ゆういちちちがきずきあげた人脈じんみゃく恩恵おんけいけ、当年とうねん新人しんじんとしては異例いれいの50以上いじょう厩舎きゅうしゃから騎乗きじょう依頼いらいされ[33]新人しんじん騎手きしゅとして史上しじょう3記録きろく当時とうじ)となる53しょうげてJRAしょう最多さいた勝利しょうり新人しんじん騎手きしゅ受賞じゅしょうした。

祐一ゆういち1997ねんおこなわれたインタビューのなかで、自身じしんが「福永ふくなが洋一よういち息子むすこ」と喧伝けんでんされることにたいして「ぼく全然ぜんぜんいやじゃないです。だって実際じっさいぼく福永ふくなが洋一よういち息子むすこなわけですから。ちちがいなければぼくもいないんだし、ちちのことは尊敬そんけいしていますしね。このまま最後さいごまで"よういち息子むすこ"でもいいとおもってます」とかたり、また一方いっぽうで、ちち偉大いだいせいについては「よくからないです」とこたえていた[34]

2004ねん1がつにはJRA50周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう一環いっかんとして調教ちょうきょう騎手きしゅ顕彰けんしょうしてその功績こうせきたたえることとなり、洋一よういちは「騎手きしゅとして通算つうさん983しょうげたほか、9ねん連続れんぞくして年間ねんかん最多さいたかち記録きろく、さらに3さいクラシック競走きょうそうならびに天皇てんのうしょうかく競走きょうそうにおいて通算つうさんで6しょうげるなど顕著けんちょ成績せいせきおさめ、中央ちゅうおう競馬けいば発展はってん多大ただい貢献こうけんがあった」として、騎手きしゅとしては野平のだい祐二ゆうじ保田やすだ隆芳たかよしとも顕彰けんしょうされた[35]

以後いご祐一ゆういち毎年まいとしランキングの上位じょういめる騎手きしゅとして定着ていちゃくし、2008ねん9月27にちには983しょうげ、通算つうさん勝利しょうりすうにおいて洋一よういち記録きろくならんだ。このさい祐一ゆういちは「ちち背中せなかいかけてきたが、近付ちかづくにつれ色々いろいろえてきて、最初さいしょよりとおざかったようにもおもえた」とべた[36]よく28にちには984しょう達成たっせいして洋一よういち記録きろく更新こうしん11月30にちには洋一よういち直前ちょくぜんまでせまりながら達成たっせいできなかった通算つうさん1000しょう記録きろくし、「福永ふくなが洋一よういち息子むすことして競馬けいば世界せかいはいり、ちちえんのある方々かたがたささえられ、ここまでやってこられました。先日せんじつちち勝利しょうりすうえたことで自分じぶんなかでもおもりがれ、福永ふくなが祐一ゆういち個人こじんとしてあゆせたようながします」とかたった[37]

その祐一ゆういち活躍かつやくつづけたのち、2022ねん12月に調教ちょうきょう試験しけん合格ごうかく。それにともなよく2023ねん2がつ25にち現地げんち時間じかん日本にっぽん時間じかんではよく26にち未明みめい)にサウジアラビアおこなわれたリヤドダートスプリントでの騎乗きじょうリメイク騎乗きじょうし3ちゃく)を最後さいごに27ねん騎手きしゅ生活せいかつにピリオドをち、同年どうねん3がつ1にち調教ちょうきょう免許めんきょ交付こうふされた。3月4にち祐一ゆういち騎手きしゅ引退いんたいしき阪神はんしん競馬けいばじょうパドックでおこなわれたが、そのさい洋一よういち車椅子くるまいす姿すがた登場とうじょうし、愛息あいそくねぎらかたちとなった。洋一よういち阪神はんしん競馬けいばじょうへの来場らいじょうは1979ねんのその、マリージョーイに騎乗きじょうした毎日まいにちはい以来いらい、44ねんぶりとなる競馬けいばじょうでの勇姿ゆうしでもあった。なお、祐一ゆういちだい30かいチューリップしょう誘導ゆうどうミツバ騎乗きじょうし、出走しゅっそう17とう先導せんどうしている[38]

福永ふくなが洋一よういち記念きねん創設そうせつ[編集へんしゅう]

祐一ゆういち2009ねん8がつ高知こうち競馬けいばじょうおこなわれたトークショーに出席しゅっせきしたさい、「まれそだった高知こうち父親ちちおやにとって特別とくべつ場所ばしょ。おやじの名前なまえがタイトルについたレースができたら」と発言はつげんし、高知こうち競馬けいばがこの意向いこうかたち2010ねんよりおもしょう競走きょうそう福永ふくなが洋一よういち記念きねん」を新設しんせつした。5がつ10日とおかおこなわれただい1かい競走きょうそう当日とうじつは、親子おやこ祐一ゆういち全日本ぜんにほん新人しんじんおう争覇そうはせん出場しゅつじょう以来いらい14ねんぶりに競馬けいばじょうおとずれ、プレゼンターとして表彰ひょうしょうしき出席しゅっせきした。洋一よういちおおやけ姿すがたせたのは事故じこ以来いらい31ねんぶり、祐一ゆういちとの同席どうせきはじめてのことであった。最後さいご挨拶あいさつった祐一ゆういちはファンの歓迎かんげいなみだせ、開催かいさいには「オヤジが引退いんたいしてもう30ねんちかくなるのに、たくさんのひとおぼえてくれているのがうれしかったです。自分じぶんはユタカさん(たけゆたか)の活躍かつやくにあこがれて騎手きしゅになったつもりでも、自分じぶんなかのヒーローはオヤジだったんだってはじめておもいました。カッコかったです」とかたった[39]。なお、勝利しょうり騎手きしゅ赤岡あかおか修次しゅうじは、洋一よういち高知こうち時代じだいとおった潮江しおえ中学校ちゅうがっこう後輩こうはいにあたる[39]祐一ゆういちは、年度ねんど以降いこうよういち一緒いっしょ高知こうちおとずれたいとの意向いこうしめしており、また高知こうちけん競馬けいば組合くみあいからは「将来しょうらいてきには福永ふくなが洋一よういち記念きねん交流こうりゅうじゅうしょうに」との目標もくひょうかかげられている[39]

騎手きしゅとしての特徴とくちょう評価ひょうか[編集へんしゅう]

概説がいせつ[編集へんしゅう]

洋一よういちちて、競馬けいばわった。たったひとりいなくなったぐらいで競馬けいばわらないとったひともいたが、やはり洋一よういちちて競馬けいばわった。よういち中心ちゅうしんにレースがうごいていたのが、その中心ちゅうしん突然とつぜんいなくなったのだから。
もしいま洋一よういち元気げんきだったら、武豊たけとよ若手わかて騎手きしゅたちといっしょに、どんな競馬けいばせてくれただろうか。それを想像そうぞうすると残念ざんねんでならない。洋一よういちがいなくなって、競馬けいば面白おもしろくなくなっためん否定ひていできないとおもう。すくなくとも、洋一よういちのようになにをしでかすかからないジョッキーはいなくなった。
— 杉本すぎもときよし[40]

からみまで満遍まんべんなくこなし、とき勝利しょうりおさめ、また後方こうほうからのちをおさめるということもたびたびであった。いれさえおぼつかないとられていたうまをしばしば勝利しょうりみちびくなど、どのような着想ちゃくそうからその戦法せんぽうったのか、なぜ福永ふくながるとてるのか、本人ほんにん以外いがいには理解りかいできない騎手きしゅであったという証言しょうげん数々かずかずせられている。

  • 安田やすだ伊佐夫いさお
    理由りゆうからないが、ほかの人間にんげんってもまったいところがなかったようなうまでも、洋一よういちると不思議ふしぎはしった。こんなでも、とおもったのがってしまうんだから」[41]
  • 伊藤いとう雄二ゆうじ
    洋一よういちせると、能力のうりょくてきりないとあきらめていたうまでもはしってしまった。しかもレースの内容ないよう騎手きしゅせていたときとは全然ぜんぜんちがう。それまではついはし四苦八苦しくはっくしていたうまをスイスイとげにみちびいてしまったり、ぎゃく先行せんこうして一息ひといきだったうまおもった後方こうほう待機たいきさくから、直線ちょくせん一気いっきめてみたり。(中略ちゅうりゃく指示しじとはちが競馬けいばをして、しかも結果けっかしてしまうものだから文句もんくえない。どうってくるのか、ゲートがひらくまで調教ちょうきょうでさえ想像そうぞうがつかないんだ」[42]
  • たけ邦彦くにひこ
    言葉ことばではいにくいなにかをっていた。ともかく、ようったなぁ、ということがおもされますな……」[43]
  • 的場まとばひとし
    「その騎乗きじょうぶりの素晴すばらしさは、言葉ことば理屈りくつ説明せつめいできるようなものではなかった。うまたりのやわらかい騎乗きじょうスタイルだとか、仕掛しかけのたくみさだとか、そういったことはあくまでかれかたるための前提ぜんていでしかなく、そこからさきにこそ、福永ふくながさんのすごさがあった」[44]
    たけゆたかくん天才てんさいわれますけど、福永ふくながさんとはちがいますね。ひとはどうおもうかりませんけど、ぼく福永ふくながさんの天才てんさいにはおよんでいないとおもいます。たけくんたしかに上手うまいけど、福永ふくながさんとくらべてはかわいそうかなとおもいますね」[45]
  • 田原たはらしげるたか
    洋一よういちさんは、どうしてあんなにつのか理屈りくつ説明せつめいできない唯一ゆいいつ騎手きしゅだった」[46]
    騎乗きじょう理論りろん説明せつめいしたうえで、すぐれた騎手きしゅというのはこうだ、岡部おかべ幸雄ゆきお)さんや(たけゆたかはこれがこうできるからすぐれているんだっていうことはえるんです。福永ふくながさんのことも説明せつめいできますよ。でも、説明せつめいできないレベルのものをひとっていた。説明せつめいしろとわれても、説明せつめいできないものを……。それがあのひとの、すごいところなんです」[47]
    おれ天才てんさいなんかじゃない。そらべるようなひとがいたら、そういうのを天才てんさいっていうんだよ。でも、福永ふくながさんの騎乗きじょうにはそらんでいる瞬間しゅんかんがあった。あれほどのひと後釜あとがまとしてられるのは、やっぱりうれしかったね」[48]
    「もし福永ふくながさんがいまっていたらゆたかにかなわないっていうひとがいるかもれないけど、それは絶対ぜったいちがう。ひょっとしたら、技術ぎじゅつてきにはゆたかほううえかもれないけど、こと"勝負しょうぶ"ということにかんしてえば、ぼくが一緒いっしょにレースをしたひとなか一番いちばんです。いまだかつて福永ふくなが洋一よういち以上いじょう騎手きしゅはいません」[49]
  • たけゆたか
    こんビデオでてもすごいとおもう」[46]

伊藤いとう武豊たけとよすごさを、『ペースを体感たいかんする能力のうりょく世界せかいでもちょうトップ。精密せいみつなスピードメーターを搭載とうさいしたジョッキーだから、ポジショニングにミスがない。なにじゅうねん一人ひとり名手めいしゅです』と評価ひょうかしながらも、「日本にっぽん競馬けいばかい最高さいこう騎手きしゅ福永ふくなが洋一よういち」と断言だんげんした[42]的場まとばよういち以外いがい日本人にっぽんじん騎手きしゅ天才てんさい見当みあたらないとしつつも、外国がいこくじん騎手きしゅについては考慮こうりょ余地よちのこしており、「天才てんさい」をかんじた騎手きしゅとしてランフランコ・デットーリオリビエ・ペリエげている[50]伊藤いとう正徳まさのりはその騎乗きじょうひょうして「プロのからても、いったいどうるんだろうとわくわくさせるものがありました。ゾクッとるものがあった。セオリーを無視むししてったようにえたとしても、かれればそれがセオリーになるとでもいいますかね。あんなやく二度にどあらわれないでしょうよ」とかたっている[51]

騎乗きじょう長所ちょうしょ[編集へんしゅう]

騎手きしゅ時代じだいよういちのライバルとされていたたけ邦彦くにひこは、洋一よういちひょうして「やくとして必要ひつよう要素ようそなにもかもそなえていた」とし、なかでもすぐれていたてんとして「瞬間しゅんかんてき判断はんだんりょく」をげている[43]同期生どうきせい伊藤いとう正徳まさのりは、このてんについての具体ぐたいてきれいとして、ハードバージでうちらち沿いをいて優勝ゆうしょうした皐月さつきしょうき、「もしハードバージに騎手きしゅっていたら、直線ちょくせんいたときうちくかそとすか、みぎひだりまよったろう。ほんのひゃくぶんすうびょうだろうけどね。洋一よういちと、騎手きしゅちがいはそのひゃくぶんすうびょうなんだ。でもレースではそのおおきく結果けっかあらわれる」とかたっている[52]。またつね前方ぜんぽうさえぎられることなくレースをはこんだ秘訣ひけつについて、「まえひらいたからくんじゃない。洋一よういち場合ばあいは(ひらくところを予期よきして)おこなったところ、おこなったところがひらいていくんだ」とべている[52]。ライターの江面えづらひろ也は洋一よういちたけ邦彦くにひこ比較ひかくして、たけについては「しずかにわざせる『手品てじな使づかい』」とひょうし、洋一よういちについては「おおきなうごきのなかおどろきがあった『イリュージョニスト』だった」とひょうしている[53]

岡部おかべ幸雄ゆきおはその判断はんだん性質せいしつについて、洋一よういちおなじく「天才てんさい」とばれる武豊たけとよ比較ひかくしている。岡部おかべはレースにおける騎乗きじょう減点げんてんほうかんがえるべきだとしたうえで、たけは「ミスのない選択せんたくができ」、洋一よういちは「かれにしかかんがせないような選択肢せんたくしつけしていた」と対比たいひしており、ともに直感ちょっかんてきただしい選択せんたくができていた騎手きしゅだとしている[54]。そのほか、調教ちょうきょうさかい勝太郎かつたろうは、めい騎手きしゅ条件じょうけんを「ペースの緩急かんきゅう能力のうりょく」としたうえで、「ぼくがかならめい騎手きしゅとしてげるのは、福永ふくなが洋一よういちです。福永ふくながは、1000mのレースでも、(ペースが)はやいとおもえばひかえる。3000mのレースでも、おそいとおもえばく。それがちゃんとできたジョッキーでした」とひょうしている[55]。また、同期どうき柴田しばた政人まさとは「騎手きしゅ技量ぎりょう」の要点ようてんとして「最終さいしゅうコーナーまでいかにうまらくをさせるか、そこからいかにうま最後さいごまでるか」というふたつをげ、「洋一よういちはね、このふたつが完璧かんぺきにできたんです。努力どりょくもしたんだろうが、いわばもうまれつきでできたんだわ。かないっこないよね」と述懐じゅっかいしている[56]

身体しんたい能力のうりょく[編集へんしゅう]

岡部おかべによると、洋一よういち一般いっぱんにスポーツのるい苦手にがてであったとしており[57]養成ようせいしょ時代じだいは「運動うんどう神経しんけいまるでなし」[58]、「ソフトボールでバットにいちもタマがたらない。外野がいやまもらせたら、凡フライをれるどころかあたまでいつもけていた」[59]同期生どうきせいわらわれていた。一方いっぽう岡部おかべ幸雄ゆきおは「それにもかかわらず、うまれば人間にんげんわる。こと競馬けいばかんしてえば、わたしなどがじゅうかいやってようやくけられるようなことを、いちかいやって習得しゅうとくできるような部分ぶぶんたしかにあったのだろう。それが天性てんせい素質そしつというものだ」とかたっている[57]。また、武田たけだひろし厩舎きゅうしゃはじめてうままたがった洋一よういち姿勢しせいが、非常ひじょう柔軟じゅうなん自然しぜんだった[ちゅう 1]という印象いんしょうかたっている[60]

身体しんたいてきにはとく背筋力はいきんりょくつよさがられており、伊藤いとうは「背骨せぼねはがねまれているのではというほどの強靱きょうじん背筋力はいきんりょく。あれは洋一よういちだけのるいまれ安定あんていかんだった。じくがしっかりしているから、少々しょうしょうのことでは体勢たいせいくずれない。くらはまりのさは古今ここん無双むそうえるんじゃないかな」とひょうしている[42]趣味しゅみのひとつだったゴルフでは、小柄こがらながらボールをとおくまでばす「ばし」であった[61]。また伊藤いとう正徳まさのりは、「一番いちばんすごいとおもった」部分ぶぶんに「スタミナ、うま技術ぎじゅつ持続じぞくせい」をげ、「ほとんど酸素さんそ運動うんどうなかで、フォームもみださず、うま能力のうりょくを100%すためには、筋肉きんにくのパワー、けん柔軟じゅうなんせいといった身体しんたいてき能力のうりょく絶対ぜったいかせない。洋一よういちはそうした身体しんたい能力のうりょく、スタミナが人一倍ひといちばいすぐれていた」とひょうしている[62]

ある競馬けいば四季しきほう[編集へんしゅう]

騎手きしゅ時代じだい洋一よういちには「天才てんさい」のほかに「ある競馬けいば四季しきほう[ちゅう 2]」という異名いみょうされていた[63][64]。「ねむっているときもうまのことをかんがえていた」とひょうされ[65]競馬けいば四季しきほう競馬けいば新聞しんぶんなどの資料しりょうかこまれて生活せいかつする様子ようすがしばしば紹介しょうかいされた。寸暇すんかてはこれらにとおし、「栗東りっとう所属しょぞくぜんあししつあたまたたむ」と放言ほうげんしていた[66]友人ゆうじん松田まつだ博資ひろしは、「洋一よういちは、それはそれは努力どりょく天才てんさいでした。自分じぶんうま他人たにんうまのことまで観察かんさつ把握はあくし、新聞しんぶんかれた記事きじのことまで完璧かんぺきあたまれるおとこでした。学校がっこう勉強べんきょうとかはそうでもなかったようだけど、ことかんしては天性てんせいのものプラス努力どりょくで、コンピューターのようなれるアタマをっていました」とひょう[67]、また武田たけだひろしは、こうした「勉強べんきょう裏打うらうちされた記憶きおくりょく」がその騎乗きじょう秘訣ひけつ一端いったんであるとしている[63]情報じょうほう収集しゅうしゅうかさなかったこともあり、通常つうじょうくせなどがからないために、やや敬遠けいえんされるはつ騎乗きじょうきらうことはなく、素早すばやくそのうまくせつかみ、最適さいてきなペースを見出みいだしてレースをはこんだ[68]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

競馬けいばかん[編集へんしゅう]

勝利しょうり貪欲どんよくにこだわり、円熟えんじゅくたっして洗練せんれんされた騎乗きじょうせるようになって以降いこうも、「ぼくはどんなかたでもええ。つことだけや。ゴールまえでは、きにうまかおをぶったたいてでもこちらがちたいというのが本音ほんねや」と公言こうげんしてはばからなかった[69]。ここまで勝利しょうりにこだわる理由りゆうについて、福永ふくなが自身じしん周囲しゅういおもいやささえがあって競馬けいばをしているのだから、というむねかたっており、「ひとつのレースには愛情あいじょうこめてうま世話せわしているうまやつとむいん方々かたがた願望がんぼうと、馬券ばけんとおしてぼくゆめたくしているファンの方々かたがた期待きたいがありますから、おいそれとけるわけにはいきません。ひとつでもおおたないと、もうわけないとおもうのです。また、ぼくだって先生せんせい馬主ばしゅさんにえらばれてっているんですから、その側面そくめんからっても、たとえばうまいがかないからとって、無様ぶざまかたをするわけにはいきません。ひとつでもふたつでもうまえるところをつかんで、いかにうまわせてやるか。それが勝利しょうりへとつながるのです」とかたっている[70]

杉本すぎもときよしは、「いわゆる優等生ゆうとうせいタイプでなかったのはたしかである。きれいにってけるよりも、強引ごういんってつことを優先ゆうせんさせた荒々あらあらしさをっていた」とひょうしている[71]。こうした姿勢しせいけても納得なっとくがいくものとして、ファンからはおおきな支持しじあつめた[72]勝利しょうりにこだわる性質せいしつ幼少ようしょうからのもので、小学生しょうがくせいのころ、したしかった海上かいじょう保安ほあんかんとしばしば弁当べんとうけて将棋しょうぎしたが、ければちち研究けんきゅうかさね、相手あいてには絶対ぜったいに「った」をゆるさないなど、子供こどもあそびからは逸脱いつだつした徹底てっていぶりであった[73]

人柄ひとがら[編集へんしゅう]

安田やすだ伊佐夫いさおは、洋一よういち騎手きしゅとして成功せいこうした要素ようそのひとつに「性格せいかくさ」をげている[74]。また、柴田しばた政人まさと師匠ししょう先輩せんぱいおしえをおもんじる姿勢しせいげており、「子供こどもころから厩舎きゅうしゃそだちでうまっていたとか、あたまするどくて『あたまっていた』とか、むかしからわれていることはすべてそのとおりだとおもいます。そしてかれは、目上めうえひとはなしをよくいた。みみっていた。それらのすべてがふくあわして、勝利しょうりつながったとおもいます」。愛嬌あいきょうのある人柄ひとがらで、騎手きしゅ見習みなら時代じだいにはめられた作業さぎょうをすっぽかすなどということもあったが、そうした場合ばあいでも「洋一よういちだから仕方しかたない」と許容きょようされる部分ぶぶんがあったという[75]

野村のむら彰彦あきひこはその人柄ひとがらについて、「洋一よういち茶目ちゃめたっぷりのおとこでしたが、人間にんげんてきにも騎手きしゅとしても立派りっぱでしたよ。いつもおとこなのに他人たにんへの礼儀れいぎわすれたことがなかった」と述懐じゅっかいしている。また、洋一よういちについてのドキュメントを執筆しっぴつした後藤ごとう正治しょうじは、「福永ふくなが洋一よういちおもかたってくれた関係かんけいしゃなかで、福永ふくなが人格じんかくかかわるてんでの不信ふしん悪口わるぐち皆無かいむだった。せいぜい、いいだしたらめない強情ごうじょうなところがあった、という程度ていどのものである。かれ不運ふうん事故じこから闘病とうびょうつづけてきた事情じじょう由来ゆらいするものをいたとしてもなお、ナイスガイだったというぞううごかない。それならばこそ、あれだけの騎乗きじょう依頼いらいがあったのだろう」と感想かんそうべている[74]

よういちスマイル[編集へんしゅう]

安田やすだ伊佐夫いさお柴田しばた政人まさとは、洋一よういちなに自分じぶん迷惑めいわくけたときにも「洋一よういち笑顔えがおおこせた」というおもを、異口同音いくどうおんかたっている[74][76]。この独特どくとく笑顔えがおは「よういちスマイル」とばれていた。内藤ないとう繁春しげはるは、「洋一よういち調教ちょうきょうでの騎乗きじょう上手うまくなかった」というおもかたなかで、「おこっても、ニターとわらうだけだった。おそらくあの笑顔えがおが『てきつくらない』とわれた人徳にんとくだろう。かれ笑顔えがおまで一流いちりゅうだったのだ」とひょうしていた[77]

騎乗きじょう成績せいせき[編集へんしゅう]

通算つうさん成績せいせき 1ちゃく 2ちゃく 3ちゃく 4ちゃく以下いか 騎乗きじょう回数かいすう 勝率しょうりつ れんたいりつ
平地ひらち 982 766 635 2679 5062 .194 .345
障害しょうがい 1 4 6 13 24 .041 .208
けい 983 770 641 2692 5086 .193 .345

おも騎乗きじょう[編集へんしゅう]

GI競走きょうそう優勝ゆうしょう

太字ふとじはGI競走きょうそう

そのじゅうしょう競走きょうそう優勝ゆうしょう

タイトル[編集へんしゅう]

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

映画えいが出演しゅつえん[編集へんしゅう]

  • 『セントウルへのみち』(企画きかく日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい製作せいさく中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ、1977ねん
    • 洋一よういち半生はんせい題材だいざいとしたドキュメンタリー映画えいが野崎のさき健輔けんすけ監督かんとく全国ぜんこく都市とし劇場げきじょう公開こうかい、1977年度ねんど文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさいにおいて日本にっぽん記録きろく映画えいが動画どうが優秀ゆうしゅうしょう受賞じゅしょうした[79]

関連かんれん書籍しょせき映像えいぞう作品さくひん[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 三輪みわ和雄かずお騎手きしゅ福永ふくなが洋一よういちたたかい』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1980ねん)(1986ねん文庫ぶんこされ、『騎手きしゅ福永ふくなが洋一よういち生還せいかん』に改題かいだい)ASIN B000J81XUY
  • 木本きもと正次まさつぐ騎手きしゅ福永ふくなが洋一よういち奇跡きせきへの挑戦ちょうせん」』(PHP研究所けんきゅうじょ、1985ねんISBN 4569215106
  • 和田わだ絵衣子えいこ奇跡きせきへのいのり - 福永ふくなが洋一よういち裕美子ゆみこ15ねんたたかい』(講談社こうだんしゃ、1995ねんISBN 4062074389
  • もちでん一郎いちろうべ!祐一ゆういち - 天才てんさいジョッキー福永ふくなが洋一よういち祐一ゆういち父子ふし感動かんどうのヒストリー 』(スポーツ図書としょセンター、1996ねんISBN 4916008197
  • 大場おおば勝一かついち福永ふくなが祐一ゆういち ちちからのおくりもの - 祐一ゆういちちち洋一よういちからなにまなんだか』(KKベストセラーズ、1996ねんISBN 4584182701

映像えいぞう[編集へんしゅう]

  • 天才てんさいジョッキー福永ふくなが洋一よういち』(フジテレビ、1997ねん〈VHS〉)
  • 『Number Video 天才てんさいジョッキー福永ふくなが洋一よういち』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1997ねん〈VHS〉)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 競馬けいば用語ようごで「くらはまりがい」とぶ。
  2. ^ 競馬けいば四季しきほうとは、中央ちゅうおう競馬けいば登録とうろく成績せいせき詳細しょうさいなどがおさめられている書籍しょせき資料しりょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

書籍しょせき

雑誌ざっし記事きじ

  • 阿部あべ珠樹たまき「インターグロリア&ハードバージ『天才てんさいのクラシック』(うえ)」『ゆう駿しゅん』1996ねん4がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1996ねん 
  • 阿部あべ珠樹たまき「インターグロリア&ハードバージ『天才てんさいのクラシック』(した)」『ゆう駿しゅん』1996ねん5がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1996ねん 
  • 江面えづらひろ也「"ターフの魔術まじゅつ"ジョッキー たけ邦彦くにひこ足跡あしあと」『ゆう駿しゅん』2016ねん10がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、2016ねん 
  • 高橋たかはしさんせんつなゆう駿しゅんロングインタビュー 田原たはらしげる騎手きしゅ技術ぎじゅつ狂気きょうきあいだで』PART2」『ゆう駿しゅん』1994ねん4がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1994ねん 
  • 西野にしのひろよし「ゆう駿しゅんロングインタビュー 的場まとばひとし騎手きしゅかさねるということ』」『ゆう駿しゅん』1994ねん12がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1994ねん 
  • 杉本すぎもときよし競馬けいば談義だんぎ79 ゲスト・柴田しばた政人まさと騎手きしゅ」『ゆう駿しゅん』1991ねん10がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1991ねん 
  • ゆう駿しゅんロングインタビュー 福永ふくなが祐一ゆういち騎手きしゅ強靱きょうじん意志いし』」『ゆう駿しゅん』1997ねん10がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1997ねん 
  • 杉本すぎもときよし競馬けいば談義だんぎ178 ゲスト・池添いけぞえ兼雄かねお調教ちょうきょう」『ゆう駿しゅん』2000ねん2がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、2000ねん 
  • 「JRAが調教ちょうきょう騎手きしゅ10めい顕彰けんしょう」『ゆう駿しゅん』2004ねん3がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、2004ねん 
  • ゆう駿しゅん』1996ねん3がつごう中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1996ねん 
  • ゆう駿しゅん増刊ぞうかんごう TURF HERO 2008』、中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、2009ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]