日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい

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日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい
ジャンル プロレス実況じっきょう中継ちゅうけい番組ばんぐみ
オープニング日本にほんテレビスポーツのテーマ
製作せいさく
制作せいさく 日本にほんテレビ
放送ほうそう
放送ほうそうこく地域ちいき日本の旗 日本にっぽん
放送ほうそうぶん60ふん→56ふん
プロレス・ファイトメン・アワー
放送ほうそう期間きかん1957ねん6月15にち - 1958ねん3月8にち
放送ほうそう時間じかん土曜どよう 17:00 - 18:00
放送ほうそうわく日本にほんテレビ系列けいれつプロレス番組ばんぐみわく
放送ほうそうぶん60ふん
テレビ中継ちゅうけい・プロレス国際こくさいだい試合しあい
→プロレスリング中継ちゅうけい
放送ほうそう期間きかん1958ねん9月5にち - 1968ねん2がつ9にち
放送ほうそう時間じかん隔週かくしゅう金曜きんよう 20:00 - 21:00→20:00 - 20:56
放送ほうそうわく三菱みつびしダイヤモンド・アワー
プロレスリング中継ちゅうけい
放送ほうそう期間きかん1961ねん8がつ25にち - 1968ねん2がつ16にち
放送ほうそう時間じかん隔週かくしゅう金曜きんよう 23:00 - 23:45
→22:30 - 23:15
→22:20 - 23:15
放送ほうそうわく日本にほんテレビ系列けいれつプロレス番組ばんぐみわく
放送ほうそうぶん45ふん→55ふん
プロレスリング中継ちゅうけい
日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい
放送ほうそう期間きかん1968ねん2がつ23にち - 1972ねん5月12にち
放送ほうそう時間じかん金曜きんよう 20:00 - 20:56
放送ほうそうわく三菱みつびしダイヤモンド・アワー
放送ほうそうぶん56ふん
日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう
放送ほうそう期間きかん1972ねん5月19にち - 1972ねん7がつ14にち
放送ほうそう時間じかん金曜きんよう 20:00 - 20:56
放送ほうそうわく三菱みつびしダイヤモンド・アワー
放送ほうそうぶん56ふん
回数かいすう9

特記とっき事項じこう
実況じっきょう中継ちゅうけいは1972ねん5がつ12にちを以って終了しゅうりょう
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日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい(にほんぷろれすちゅうけい、代表だいひょうてききゅうだいは「三菱みつびしダイヤモンドアワー プロレスリング中継ちゅうけい」)は、1954ねん2がつ19にちから1972ねん7がつ14にちまで、日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもう日本にほんテレビ)が制作せいさく放映ほうえいしていたプロレス中継ちゅうけい番組ばんぐみ日本にっぽんプロレス試合しあい中継ちゅうけいしていた。

タイトルや放送ほうそう形態けいたい時期じきによってわっており、1957ねん7がつからは三菱電機みつびしでんきいちしゃ提供ていきょう末期まっき複数ふくすうしゃ提供ていきょう)で放送ほうそうされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

創成そうせい[編集へんしゅう]

これが日本にほんテレビのはつ中継ちゅうけいとなった。以後いご不定期ふていきにプロレス中継ちゅうけい放送ほうそうする。
当初とうしょ定期ていきてき中継ちゅうけいわくつくらず、主要しゅよう試合しあいのみを、特別とくべつわくもうけてなま中継ちゅうけいおこなうスタイルだった。提供ていきょうスポンサーもその都度つどわっていた。
上記じょうき先駆さきがけて、1954ねん2がつ16にち19:45 - 20:15には、『プロ・レスリングのどころ』という番組ばんぐみ放送ほうそうした。当時とうじのテレビらんには「解説かいせつ伊集院いじゅういんひろし実演じつえん木村きむら政彦まさひこ力道山りきどうざん」〔原文げんぶんまま〕とあり、「プロレス映画えいが上映じょうえいし、力道山りきどうざん木村きむら選手せんしゅらによる解説かいせつおこなった」としゃにはある)
  • 1954ねん12月22にち昭和しょうわ巌流島がんりゅうじまわれる力道山りきどうざんVS木村きむら政彦まさひこを、NHKと並行へいこう放送ほうそうなま中継ちゅうけい[1]
  • 1956ねん7がつ23にち、このおこなわれた蔵前くらまえ国技こくぎかん大会たいかいを、日本にほんテレビ・KRテレビ(現在げんざいTBS)・NHKの3きょくなま中継ちゅうけい[1]
  • 1957ねん2がつ15にち力道山りきどうざんルー・テーズ招聘しょうへいしたうえで、NWA世界せかいヘビー選手権せんしゅけん日本にっぽん開催かいさいすべく渡米とべいし、正式せいしき契約けいやくわし5がつ16にち帰国きこく日本にほんテレビとKRテレビとのあいだでテーズVS力道山りきどうざんとのNWA世界せかいヘビー選手権せんしゅけんにおける主催しゅさい放映ほうえいけんめぐって争奪そうだつせんとなったが(KRテレビははちおう電機でんき現在げんざい富士通ふじつうゼネラル〉がスポンサーにいていた)、最終さいしゅうてき力道山りきどうざん日本にほんテレビを選択せんたくし、KRテレビならびにはちおう電機でんきとは絶縁ぜつえん[3]
  • 1957ねん6がつ15にちから、日本にほんテレビのみで『プロレス・ファイトメン・アワー』のタイトルで、しゅう1かい定期ていき番組ばんぐみ開始かいし
土曜どよう17だいからの1あいだわくで、若手わかて選手せんしゅ育成いくせいと、スポーツとしてのプロレスの人気にんき高揚こうようをはかることを目的もくてきとした。したがっておも放映ほうえいされたのは、東京とうきょう日本橋にほんばし浪花なにわまち日本にっぽんプロレス・センターでおこなわれる、若手わかて選手せんしゅ試合しあいや、力道山りきどうざんの「練習れんしゅう試合しあい」などであった。
この『ファイトメン・アワー』は当初とうしょ諸般しょはん事情じじょう提供ていきょうなしではじまったが、同年どうねん7がつだい3しゅうから三菱電機みつびしでんきがスポンサーにいた。
ただし、タイトルせんなどの主要しゅよう試合しあい相変あいかわらず、特別とくべつわくもうけての放映ほうえいというかたちをとった。おりから各地かくち民放みんぽうテレビが開局かいきょくはじめ、この特別とくべつわく中継ちゅうけい同時どうじネットする地方ちほうきょくはじめた。
  • 1957ねん10がつ7にち、テーズVS力道山りきどうざんとのNWA世界せかいヘビー選手権せんしゅけん試合しあい後楽園こうらくえん球場きゅうじょうから中継ちゅうけい視聴しちょうりつは87.0%(電通でんつう調しらべ)を記録きろくする。放送ほうそうかんしては、当日とうじつ夕方ゆうがた急遽きゅうきょ決定けっていしたという[3]

三菱みつびしダイヤモンド・アワー』へ内包ないほう、「かね8わく定着ていちゃく[編集へんしゅう]

翌週よくしゅうの9がつ5にち、これとおなわくで、蔵前くらまえ国技こくぎかんおこなわれた力道山りきどうざん出場しゅつじょうの「国際こくさい試合しあいだい1にち」をなま中継ちゅうけい力道山りきどうざん&ジョニー・バレンドVSスカイ・ハイ・リー&ドン・レオ・ジョナサン)。
これがだい1かいとなり、以降いこう、『プロレスリング中継ちゅうけい』のタイトル(ただし初期しょきは『テレビ中継ちゅうけい・プロレス国際こくさいだい試合しあい』)で、隔週かくしゅうでテレビ中継ちゅうけいおこなっていく。
ここに本格ほんかくてきに、定期ていき中継ちゅうけい番組ばんぐみ体制たいせいととのう。
当初とうしょ外国がいこくテレビ映画えいが『ディズニーランド』(前述ぜんじゅつ)との1しゅう交代こうたいでの放映ほうえい。またネットをふくめた放映ほうえいきょくは、日本にほんテレビ・読売よみうりテレビ西日本放送にしにっぽんほうそうテレビ西日本てれびにしにほんのわずかに4きょくのみだった。
  • 1959ねん4がつ17にちには、プロレスリングのカラーはつ中継ちゅうけいおこな[4]
  • 1959ねん10がつ2にち日本にほんテレビスタジオにおいて、はつのテレビスタジオからのプロレス中継ちゅうけい開催かいさい[5]
  • 1961ねん8がつ25にち前述ぜんじゅつの 『ディズニーランド』を放映ほうえいするしゅうにおいて、金曜きんよう22だいわく新設しんせつした。
(1961ねん9がつまでは23:00 - 23:45、10がつ以後いごは22:30 - 23:15→22:20 - 23:15)
これで毎週まいしゅう『プロレスリング中継ちゅうけい』が放映ほうえいされるかたちとなった。
このわくは、開場かいじょうしたばかりのリキ・スポーツパレスでの試合しあい中心ちゅうしんにした、録画ろくが中継ちゅうけい主体しゅたい
録画ろくが中継ちゅうけいということからか、このわく新設しんせつに、『プロレスリング中継ちゅうけい』の時差じさネットをはじめた地方ちほうきょくもあった。とくに、この当時とうじ実質じっしつてき地方ちほうきょくが1きょくしかなく、オープンネットであった影響えいきょうから、地方ちほうきょく大半たいはんは「三菱みつびしダイヤモンドアワー」として放送ほうそうされたものをふくめ、金曜きんよう8にプロレス中継ちゅうけい実施じっしするきょくおおかった。
  • 1962ねん4がつ23にち当日とうじつ月曜日げつようびであったが、特番とくばんわく放送ほうそう)、カラー放送ほうそう実施じっしされていた初期しょきのころ、力道山りきどうざんVSフレッド・ブラッシー試合しあいちゅう対戦たいせん相手あいて流血りゅうけつする事故じこがあり、それをていた老人ろうじん3めいが、4がつ27にちにも、グレート東郷とうごうVSブラッシーの試合しあいちゅう東郷とうごう流血りゅうけつした場面ばめん放送ほうそうされ、それをていた老人ろうじん3めいがそれぞれショック実際じっさいには2試合しあい合計ごうけいで20にん前後ぜんこうがショックしたとされる)する事故じこがあった(この2試合しあいはモノクロで放映ほうえいされた)。この影響えいきょう日本にほんテレビは場外じょうがい乱闘らんとう流血りゅうけつシーンの放映ほうえいのアップをけるようになったほか、カラー放送ほうそう一時いちじ自粛じしゅくすることになる[6]
  • 1963ねん5月24にち放送ほうそうされた「WWA世界せかい選手権せんしゅけんザ・デストロイヤーたい力道山りきどうざん」(21:15まで延長えんちょう放送ほうそう)は、関東かんとう地区ちく視聴しちょうりつ64.0%(ビデオリサーチ調しらべ)を記録きろく[7]、これは現在げんざいいたるまで日本にほんテレビの史上しじょう最高さいこう視聴しちょうりつとなっている。
  • 1963ねん10がつより20:56 - 21:00わく日曜日にちようびは90ふん番組ばんぐみ日曜にちようロードショー』のため21:26 - 21:30)に『NNNニューススポット』が設置せっちされたため、『ディズニーランド』ととも放送ほうそう時間じかんが4ふん短縮たんしゅく
  • 1963ねん12月15にち力道山りきどうざん急逝きゅうせいし、2にちの12月17にち日本にほんテレビ、日本にっぽんプロレス、三菱電機みつびしでんき博報堂はくほうどうの4しゃ会談かいだんおこなわれ、『日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい』を継続けいぞくすることを決定けってい放映ほうえいけんりょうは1かい150まんえん維持いじ契約けいやく更改こうかいりょうとして100まんえん日本にほんテレビから支払しはらわれていた)[7]
  • 1968ねん1がつ3にち国際こくさいプロレス当時とうじはTBSプロレス)との興行こうぎょう戦争せんそう(「隅田川すみだがわ決戦けっせん」)となった蔵前くらまえ国技こくぎかん大会たいかいを17:30から特番とくばんわくなま中継ちゅうけいジャイアント馬場ばばVSクラッシャー・リソワスキーインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざせんなど)。このころ放映ほうえいけんりょうは1かいあたりやく200まんえんであった[8]。プロレス中継ちゅうけいは、日本にほんテレビvsTBSテレビとの対立たいりつ時代じだい突入とつにゅうする。

毎週まいしゅうかね8わく放送ほうそう[編集へんしゅう]

実況じっきょう中継ちゅうけい終了しゅうりょう[編集へんしゅう]

  • 1971ねん12月13にち日本にっぽんプロレスが猪木いのき除名じょめい処分しょぶんすることを発表はっぴょう日本にほんテレビは同年どうねん12がつ31にち後楽園こうらくえんホールからのなま中継ちゅうけい放送ほうそうすることによって、日本にっぽんプロレス内部ないぶ混乱こんらん収拾しゅうしゅうつとめたが、当日とうじつ視聴しちょうりつは『だい13かい日本にっぽんレコード大賞たいしょう』(TBS)の影響えいきょうで、平均へいきんよりもひくい15.4%であった[14]
  • 1972ねん1がつ、NETが日本にっぽんプロレスにたいし、NETが放送ほうそうする試合しあいにおける馬場ばば試合しあい出場しゅつじょう要求ようきゅう日本にっぽんプロレスは日本にほんテレビとの交渉こうしょう開始かいしするが、日本にほんテレビは拒否きょひ姿勢しせいつらぬいた[14]
  • 1972ねん3がつ日本にっぽんプロレスと日本にほんテレビとのあいだでテレビ放送ほうそうかんする契約けいやく更改こうかい交渉こうしょうおこなわれたが、契約けいやく更改こうかいせきでも日本にほんテレビは、馬場ばばのNETが放送ほうそうする試合しあいへの出場しゅつじょう拒否きょひ姿勢しせいえぬまま、テレビ中継ちゅうけいかんする契約けいやく更改こうかいしなかった[14]
その日本にほんテレビと日本にっぽんプロレスとのはないも、馬場ばば日本にほんテレビ独占どくせん契約けいやく解釈かいしゃくをめぐり、「継続けいぞくちゅう」とする日本にほんテレビと、「終了しゅうりょう」とする日本にっぽんプロレスとで、平行へいこうせんをたどった。いよいよ日本にほんテレビは、強硬きょうこう手段しゅだんをとるにいたる。
しん日本にっぽんプロレス旗揚はたあげした猪木いのきどう時期じきに、日本にほんテレビから1972ねんなつからのしん日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい開始かいし打診だしんけていたことかしたほかのち断念だんねん)、「日本にほんテレビは『日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい』をるだろう」とばくだん発言はつげんし、マスコミも本番ほんばんぐみ動向どうこうけるようになる[15]
  • 1972ねん4がつ1にち日本にっぽんプロレスの取締役とりしまりやくかいにて、同年どうねん4がつ1にち以降いこう馬場ばばのNET中継ちゅうけい試合しあい出場しゅつじょうが、賛成さんせい10・反対はんたい1で可決かけつし(馬場ばば取締役とりしまりやくだったが、唯一ゆいいつ反対はんたいひょうとうじた)、同時どうじ長谷川はせがわ淳三じゅんぞうが1972ねん4がつ3にち放送ほうそう新潟にいがた体育館たいいくかん大会たいかいの『ワールドプロレスリング』なま中継ちゅうけいからNETが放送ほうそうする試合しあい登場とうじょうさせることを発表はっぴょう[14]
  • 1972ねん4がつ3にち、NET『ワールドプロレスリング』新潟にいがた大会たいかいなま中継ちゅうけいにおいて『ジャイアント馬場ばばはつ登場とうじょう』と銘打めいうち、馬場ばば出場しゅつじょうした試合しあい馬場ばば&坂口さかぐち東京とうきょうタワーズvsディック・マードック&マイティ・ブルータス)を放送ほうそう[14]
  • 1972ねん4がつ4にち日本にほんテレビが東京とうきょう地裁ちさいに、馬場ばばのNET中継ちゅうけい試合しあいへの出場しゅつじょうきんずる仮処分かりしょぶん申請しんせい提出ていしゅつ[14]
  • 1972ねん4がつまつ日本にっぽんプロレスが同年どうねん4がつ20にち以降いこう日本にほんテレビとの会談かいだんおうじなかったため、日本にほんテレビはスポンサーである三菱電機みつびしでんきとの協議きょうぎすえ三菱電機みつびしでんきがスポンサー降板こうばん即決そっけつ決定けっていしたうえで、実況じっきょう中継ちゅうけいることを決定けってい[14][16]
  • 1972ねん5がつ12にちだい14かいワールドだいリーグせん決勝けっしょうせん馬場ばばたいゴリラ・モンスーンたたかえほか、東京とうきょう体育館たいいくかん)をなま中継ちゅうけい
最終さいしゅうてきには全国ぜんこく31きょくネットで、島根しまねけん岡山おかやまけん[17]のぞく44都道府県とどうふけん当時とうじアメリカ施政しせいけんした沖縄おきなわでの放送ほうそうとなった[18]。また番組ばんぐみスポンサーも、三菱電機みつびしでんきだけでなく、鈴木すずき自動車じどうしゃ久保田くぼた鉄工てっこう複数ふくすうしゃスポンサーとなっていた。
  • 日本にほんテレビは1972ねん5がつ15にち記者きしゃ会見かいけんで、1972ねん5がつ12にち放送ほうそうを以って定期ていき中継ちゅうけいりを正式せいしき発表はっぴょうし、18ねん3かげつつづいた日本にほんテレビにおける日本にっぽんプロレス中継ちゅうけいまくろした。会見かいけん日本にほんテレビは、日本にっぽんプロレス首脳しゅのうじん糾弾きゅうだんした。最終さいしゅうてき日本にほんテレビは、日本にっぽんプロレスよりも、メインスポンサーであった三菱電機みつびしでんき選択せんたくした格好かっこうとなった[16][19][20]

日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう[編集へんしゅう]

  • 日本にほんテレビにおける日本にっぽんプロレス実況じっきょう中継ちゅうけい終了しゅうりょうした翌週よくしゅうの1972ねん5がつ19にちより、過去かこ日本にっぽんプロレスのめい勝負しょうぶかえる『日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう』と銘打めいうったアーカイブ番組ばんぐみ開始かいしし、7がつ14にちまでぜん9かい放送ほうそうされた。『日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう終了しゅうりょう同時どうじに『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい開始かいしまでの3かげつあいだ日本にほんテレビからプロレス番組ばんぐみ消滅しょうめつすることとなったと同時どうじに、『三菱みつびしダイヤモンド・アワー』も終了しゅうりょうした。

放送ほうそうリスト[編集へんしゅう]

放送ほうそう サブタイトル 放送ほうそうカード
1972ねん5がつ19にち 日本にっぽんさんだいチャンピオン4の攻防こうぼうせん ザ・デストロイヤーvs力道山りきどうざん
デストロイヤーvsゆたかとう
1972ねん5がつ26にち 無法者むほうものコンビが挑戦ちょうせん 馬場ばば流血りゅうけつインタ防衛ぼうえいせん ジャイアント馬場ばばvsディック・ザ・ブルーザー
馬場ばばvsクラッシャー・リソワスキー
1972ねん6がつ2にち 恐怖きょうふてつつめせま馬場ばば・エリック宿命しゅくめいたたかえ! 馬場ばばvsフリッツ・フォン・エリック
日本武道館にほんぶどうかんロサンゼルス愛知あいちけん体育館たいいくかん
1972ねん6がつ9にち 華麗かれいなるわざてつつめ恐怖きょうふ昭和しょうわ46ねん選手権せんしゅけんハイライト~ 馬場ばば&アントニオ猪木いのきvsミル・マスカラス&スパイロス・アリオン
1972ねん6がつ16にち ワールドリーグ戦史せんし力道山りきどうざんから馬場ばばまで 力道山りきどうざんvsレオ・ノメリーニ
ゆたかとうvsジン・キニスキー
馬場ばばvsボボ・ブラジル
1972ねん6がつ23にち わかNWA王者おうじゃ 日本にっぽんマットで白熱はくねつわざ応酬おうしゅう ドリー・ファンク・ジュニアvs馬場ばば
馬場ばば&猪木いのきvsドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク
1972ねん6がつ30にち インタータッグあやうし! 無法者むほうものパワーコンビつづいて来襲らいしゅう 馬場ばば&猪木いのきvsブルーザー&キラー・コワルスキー
馬場ばば&猪木いのきvsキニスキー&ジョニー・バレンタイン
1972ねん7がつ7にち 馬場ばば王座おうざ奪回だっかいなるか! 人間にんげん発電はつでんしょ くろ魔神まじん相次あいつ死闘しとう 馬場ばばvsブルーノ・サンマルチノ
馬場ばばvsブラジル
1972ねん7がつ14にち 荒法師あらほうしキニスキー旋風せんぷう れる馬場ばば因縁いんねんのインタ争奪そうだつせん 馬場ばばvsキニスキー
(「馬場ばばタイトル喪失そうしつ」「馬場ばばてき王座おうざ奪回だっかい」)

番組ばんぐみ終了しゅうりょう[編集へんしゅう]

  • 日本にほんテレビにおける実況じっきょう中継ちゅうけい記者きしゃ会見かいけん当日とうじつである1972ねん5がつ15にちからの日本にっぽんプロレス実況じっきょう中継ちゅうけいはNETテレビの独占どくせん放送ほうそうとなった。日本にほんテレビにおける実況じっきょう中継ちゅうけい記者きしゃ会見かいけん当日とうじつには、日本にっぽんプロレスもよしさと社長しゃちょう日本にっぽんプロレス協会きょうかい会長かいちょうであった平井ひらい義一ぎいち日本にほんテレビにたいする反論はんろん会見かいけんおこな[19]、,同年どうねん7がつ28にちからは『日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい』なきのちの「かね8わく」に『NET日本にっぽんプロレスリング中継ちゅうけい』という日本にっぽんプロレスの中継ちゅうけいわく新設しんせつしたさいも、「馬場ばば坂口さかぐちしんエースコンビをじくにして、にっテレの中継ちゅうけいがなくてもやっていける」と楽観らっかんするなど、日本にっぽんプロレス幹部かんぶ危機きき管理かんり皆無かいむだった[21]
  • 日本にほんテレビは馬場ばば猪木いのき二者択一にしゃたくいつせまられたが、最終さいしゅうてき日本にほんテレビは馬場ばば選択せんたくした。馬場ばば日本にほんテレビにおける実況じっきょう中継ちゅうけい直後ちょくごの1972ねん5がつ下旬げじゅんから本番ほんばんぐみプロデューサーであったはらあきら仲介ちゅうかいで、小林こばやし與三次よそじ社長しゃちょうとの極秘ごくひ会談かいだん開始かいししたうえで、しん団体だんたい全日本ぜんにほんプロレス)の設立せつりつ準備じゅんびかった。馬場ばばは8がつ18にち日本にっぽんプロレスを退団たいだんし、9月9にちには全日本ぜんにほんプロレスを設立せつりつし、10月7にちからは『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』がスタートした[22][15]
  • 一方いっぽうの『NETワールドプロレスリング』『NET日本にっぽんプロレスリング中継ちゅうけい』は、ほん番組ばんぐみ終了しゅうりょう馬場ばば日本にっぽんプロレス離脱りだつ決定けっていとなり、視聴しちょうりつ日本にっぽんプロレスの観客かんきゃくすう低下ていか。9月25にちをもって月曜日げつようび金曜日きんようびしゅう2かい放送ほうそう終了しゅうりょうし、9月29にちからは「かね8わく」に統合とうごうのうえ『NET日本にっぽんプロレスリング中継ちゅうけい』にタイトルを一本いっぽんしたうえ坂口さかぐちをメインイベンターとして放送ほうそうしたが、NETはどう時期じきしん日本にっぽんプロレスとのあいだ中継ちゅうけい開始かいし交渉こうしょう開始かいしし、NETが1973ねん3月9にちしん日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい開始かいし正式せいしき発表はっぴょうしたため、3月30にちをもって『NET日本にっぽんプロレスリング中継ちゅうけい』はられた。
  • この日本にっぽんプロレス時代じだいの、おも力道山りきどうざん、ジャイアント馬場ばば、アントニオ猪木いのきなどの試合しあいについては、「至高しこう昭和しょうわプロレスめい勝負しょうぶ列伝れつでん伝説でんせつ貴重きちょう映像えいぞう~」とだいして、にちテレジータス[23]随時ずいじアーカイブが放送ほうそうされている。

実況じっきょうアナウンサー[編集へんしゅう]

おも解説かいせつしゃ[編集へんしゅう]

ネットきょく[編集へんしゅう]

系列けいれつ放送ほうそう終了しゅうりょう系列けいれつはネット系列けいれつ)。

◎は『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』→『プロレスリング・ノア中継ちゅうけい』も日本にほんテレビけいプロレス中継ちゅうけいのネットを継続けいぞくしたきょく。○は『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』も日本にほんテレビけいプロレス中継ちゅうけいのネットを継続けいぞくしたきょく。△はほん番組ばんぐみ終了しゅうりょうのネットきょくでなおかつ『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』の放映ほうえいけんどういち地域ちいききょく移行いこうしたきょく。▲はほん番組ばんぐみ終了しゅうりょう時点じてんでNET『NETワールドプロレスリング』もネットしていたきょく

放送ほうそう対象たいしょう地域ちいき 放送ほうそうきょく 系列けいれつ 備考びこう
関東かんとう広域こういきけん 日本にほんテレビ 日本にほんテレビ系列けいれつ 制作せいさくきょく
北海道ほっかいどう 北海道放送ほっかいどうほうそう TBS系列けいれつ 札幌さっぽろテレビ開局かいきょくまで
札幌さっぽろテレビ 日本にほんテレビ系列けいれつ
青森あおもりけん 青森放送あおもりほうそう
岩手いわてけん テレビ岩手てれびいわて 日本にほんテレビ系列けいれつ
NETテレビ系列けいれつ
◎▲1969ねん11月7にちのサービス放送ほうそうから
宮城みやぎけん 東北放送とうほくほうそう TBS系列けいれつ
仙台せんだい放送ほうそう フジテレビ系列けいれつ
日本にほんテレビ系列けいれつ
1970ねん9がつまで
ミヤギテレビ 日本にほんテレビ系列けいれつ
NETテレビ系列けいれつ
◎▲1970ねん10がつ開局かいきょくから
秋田あきたけん 秋田放送あきたほうそう 日本にほんテレビ系列けいれつ
山形やまがたけん 山形放送やまがたほうそう
福島ふくしまけん 福島ふくしまテレビ 1971ねん9がつ24にちまで
福島中央ふくしまちゅうおうテレビ 日本にほんテレビ系列けいれつ
NETテレビ系列けいれつ
◎▲1971ねん10がつ3にちから
山梨やまなしけん 山梨放送やまなしほうそう 日本にほんテレビ系列けいれつ
新潟にいがたけん 新潟放送にいがたほうそう TBS系列けいれつ 1962ねん10がつよりやく1年間ねんかん放送ほうそう
新潟総合にいがたそうごうテレビ フジテレビ系列けいれつ
日本にほんテレビ系列けいれつ
NETテレビ系列けいれつ
○▲1968ねん11月29にちのサービス放送ほうそうから - 番組ばんぐみ終了しゅうりょうまで
長野ながのけん 信越放送しんえつほうそう TBS系列けいれつ
静岡しずおかけん 静岡放送しずおかほうそう △▲1962ねん10がつ12にちより開始かいし
中京ちゅうきょう広域こういきけん 中部日本放送ちゅうぶにっぽんほうそう 現在げんざい:CBCテレビ
1959ねん10がつ16にち - 1960ねん4がつ29にち
東海とうかいテレビ フジテレビ系列けいれつ 1961ねん8がつ27にち - 1962ねん3がつ25にち
名古屋なごや放送ほうそう 日本にほんテレビ系列けいれつ
NETテレビ系列けいれつ
△1962ねん3がつ30にちのサービス放送ほうそうから
富山とやまけん 北日本放送きたにほんほうそう 日本にほんテレビ系列けいれつ ◎▲
石川いしかわけん 北陸放送ほくりくほうそう TBS系列けいれつ
福井ふくいけん 福井放送ふくいほうそう 日本にほんテレビ系列けいれつ ○▲
京阪神けいはんしん大都市だいとしけん 大阪おおさかテレビ放送ほうそう KRテレビ系列けいれつ
日本にほんテレビ系列けいれつ
現在げんざい朝日放送あさひほうそうテレビ
放送ほうそうエリアは京阪神けいはんしん大都市だいとしけんのみ
近畿きんき広域こういきけん 読売よみうりテレビ 日本にほんテレビ系列けいれつ ◎1958ねん8がつ開局かいきょくから
鳥取とっとりけん 日本海にほんかいテレビ 日本にほんテレビ系列けいれつ 当時とうじ放送ほうそうエリアは鳥取とっとりけんのみ
広島ひろしまけん 中国放送ちゅうごくほうそう TBS系列けいれつ 広島ひろしまテレビの開局かいきょくも1969ねん9がつ26にちまで継続けいぞく
広島ひろしまテレビ 日本にほんテレビ系列けいれつ
フジテレビ系列けいれつ
◎1969ねん10がつ3にちから
山口やまぐちけん 山口放送やまぐちほうそう 日本にほんテレビ系列けいれつ
香川かがわけん 西日本放送にしにっぽんほうそう 当時とうじ放送ほうそうエリアは香川かがわけんのみ
徳島とくしまけん 四国放送しこくほうそう ○▲
愛媛えひめけん 南海放送なんかいほうそう
高知こうちけん 高知放送こうちほうそう
福岡ふくおかけん RKB毎日放送まいにちほうそう TBS系列けいれつ
テレビ西日本てれびにしにほん 日本にほんテレビ系列けいれつ 1964ねん9がつにフジテレビけいへのネットチェンジにより
福岡放送ふくおかほうそう ◎1969ねん4がつ開局かいきょくから
長崎ながさきけん 長崎放送ながさきほうそう TBS系列けいれつ ○▲
熊本くまもとけん 熊本放送くまもとほうそう
大分おおいたけん テレビ大分てれびおおいた フジテレビ系列けいれつ
日本にほんテレビ系列けいれつ
NETテレビ系列けいれつ
○1970ねん4がつ開局かいきょくから
宮崎みやざきけん 宮崎放送みやざきほうそう TBS系列けいれつ
鹿児島かごしまけん 南日本放送みなみにほんほうそう
琉球りゅうきゅう政府せいふ 琉球放送りゅうきゅうほうそう 当時とうじ米国べいこく施政しせい

備考びこう[編集へんしゅう]

おくれネットで放送ほうそうしていたきょく[編集へんしゅう]

金曜きんよう20わく中継ちゅうけいかんしては、『ワールドプロレスリング』や『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』-『プロレスリング・ノア中継ちゅうけい』などにみられるような、地方ちほうきょくでの時差じさネットがなく、全国ぜんこく同一どういつ放送ほうそう(=全国ぜんこく同時どうじネット放送ほうそう)だった。ただし、以下いかのような例外れいがいもあった。

日本にほんテレビNETテレビとのクロスネットきょくであった同局どうきょくは、編成へんせい都合つごうのため、1968ねん10がつ - 12月の3かげつあいだのみ、日曜にちよう16:00 - 16:56のわく移動いどうさせた[24]
1960年代ねんだい前期ぜんきは、火曜かよう20からの放送ほうそうだった。後年こうねんにち琉間マイクロネット回線かいせん開通かいつうともない、金曜きんよう20移動いどうしたが、にち琉間マイクロネット回線かいせん関係かんけいじょう本土ほんどとはことなり最後さいごまでモノクロ放送ほうそうだった。

その[編集へんしゅう]

  • 地方ちほうにおいて民放みんぽうテレビが続々ぞくぞく開局かいきょくした、1950年代ねんだい後半こうはんから1960年代ねんだい前半ぜんはんにかけては、日本にほんテレビとラジオ東京とうきょうテレビ(現在げんざいTBSテレビ)のりょうきょくが、いまでいうネットワークを形成けいせいはじめた時期じきでもあり、かく地方ちほう民放みんぽうテレビの先発せんぱつきょくおおくは、日本にほんテレビとラジオ東京とうきょうテレビとの、どちらと番組ばんぐみネット関係かんけいむのかという選択せんたくせまられた。
  • そんななかで日本にほんテレビとのネット関係かんけい選択せんたくしたきょくは、そのおおくが、プロ野球やきゅうやプロレスなど、人気にんきたかいスポーツ中継ちゅうけいつよいというてんのひとつになった、としゃしるしている(すでにラジオ東京とうきょうテレビ→JNNとのネットワークをんでいたきょくでも、「プロレスリング中継ちゅうけい」→ほん番組ばんぐみ同時どうじネットしたところもあった)。「プロレスリング中継ちゅうけい」は、日本にっぽん民放みんぽうのネットワークの形成けいせいにまで、貢献こうけんしたコンテンツだったともえる。
  • 一方いっぽうで、当該とうがい地域ちいきが1きょく時代じだいにネットがなかった岩手いわて大分おおいたの2けんと、放送ほうそう中断ちゅうだんしていた新潟にいがた福岡ふくおかの2けんは、テレビ岩手てれびいわて新潟総合にいがたそうごうテレビ福岡放送ふくおかほうそうテレビ大分てれびおおいた開局かいきょくともな本番ほんばんぐみ開始かいしまでライバル団体だんたいであった国際こくさいプロレス中継ちゅうけい番組ばんぐみでなおかつほん番組ばんぐみよりさき開始かいしし、なおかつ1970ねん4がつまでモノクロビデオ放送ほうそうだったTBS『TWWAプロレス中継ちゅうけい』(岩手いわて放送ほうそう新潟放送にいがたほうそうRKB毎日放送まいにちほうそう大分放送おおいたほうそうでそれぞれ放送ほうそう)で我慢がまんしざろうなかったほか、プロレス中継ちゅうけいが『TWWAプロレス中継ちゅうけい』のみであった島根しまね岡山おかやまの2けん最後さいごまで放送ほうそうがなく(『TWWAプロレス中継ちゅうけい』は山陰放送さんいんほうそう山陽放送さんようほうそう放送ほうそう)、岡山おかやまけんではテレビ岡山おかやま開局かいきょく開始かいしした『NETワールドプロレスリング』→『NET日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい』で日本にっぽんプロレスの試合しあい中継ちゅうけいされた一方いっぽうで、島根しまねけんでは岩手いわて新潟にいがた福岡ふくおか大分おおいたの4けん同様どうように『TWWAプロレス中継ちゅうけい』で我慢がまんしざろうず、日本にっぽんプロレス崩壊ほうかいまで日本にっぽんプロレスの試合しあい中継ちゅうけいはされなかった。この2けんでは日本海にほんかいテレビ西日本放送にしにっぽんほうそう電波でんぱ相互そうごれにともない、『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』から日本にほんテレビけいプロレス番組ばんぐみ放送ほうそう開始かいししている。[17]
  • ほん番組ばんぐみ終了しゅうりょうのネットきょくうち静岡放送しずおかほうそう名古屋なごや放送ほうそうのぞ各局かくきょくは、そのまま『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』のネットきょくとなったが[25]一部いちぶクロスネットきょく長崎放送ながさきほうそうのぞ系列けいれつ外局がいきょくは『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』はおくれネットへ変更へんこうされた。これにより、『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい以降いこう完全かんぜん録画ろくが中継ちゅうけいとなった石川いしかわ宮崎みやざき沖縄おきなわの3けんは、ほん番組ばんぐみ唯一ゆいいつ日本にほんテレビけいプロレス番組ばんぐみ実況じっきょうせい中継ちゅうけいとなったほか石川いしかわ沖縄おきなわの2けんほん番組ばんぐみ終了しゅうりょう同時どうじ実況じっきょうせい中継ちゅうけい放送ほうそうされるレギュラー放送ほうそうのプロレス中継ちゅうけい消滅しょうめつすることになってしまった[26]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P36 - P37
  2. ^ にっテレはつのプロレス中継ちゅうけい面白おもしろすぎてCMをわすれた東京とうきょうスポーツ 2021ねん2がつ28にち
  3. ^ a b 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P38 - P39
  4. ^ 日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもう(かぶ)『大衆たいしゅうとともに25ねん. 沿革えんかく』(1978.08) 27ページ (渋沢しぶさわしゃデータベース)(2024ねん4がつ9にち閲覧えつらん)
  5. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P40
  6. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P41
  7. ^ a b 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P42
  8. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P48
  9. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.8』、P38 - P39
  10. ^ アントニオ猪木いのきがレフェリーをつとめた最初さいしょ試合しあいは? しん日本にっぽんプロレス歴史れきし街道かいどう50ねん(60)【週刊しゅうかんプロレス】スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ 2023ねん1がつ17にち
  11. ^ JPWA New Year Champion Seriespuroresu.com 2023ねん1がつ26にち閲覧えつらん
  12. ^ ながれ智美ともみ「プロレスあの、あのとき<299> 1968ねん11月22にち大学だいがく紛争ふんそう影響えいきょうでテレビせい中継ちゅうけいがスタジオ収録しゅうろく!!」」『週刊しゅうかんプロレス』だい1932ごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2017ねん12月6にち、48ぺーじ 
  13. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P8 - P9
  14. ^ a b c d e f g 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P14 - P15
  15. ^ a b 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.12』、P15
  16. ^ a b 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P18 - P19
  17. ^ a b 当時とうじじゅん広域こういきけん確立かくりつしていなかったが、それぞれ周辺しゅうへん地域ちいきのネットきょく日本海にほんかいテレビ山口放送やまぐちほうそう中国放送ちゅうごくほうそう広島ひろしまテレビ西日本放送にしにっぽんほうそう読売よみうりテレビ)が受信じゅしんできる地域ちいきもあった。また、この番組ばんぐみをネットしていなかった、あるいはいち時期じきネットをっていた地域ちいき岩手いわて新潟にいがた福岡ふくおか大分おおいた)においても、周辺しゅうへん府県ふけんでネットしているきょくがあれば視聴しちょう可能かのうだった。
  18. ^ 島根しまねけん岡山おかやまけんにおける日本にほんテレビプロレス番組ばんぐみのネットは日本海にほんかいテレビ・西日本放送にしにっぽんほうそう電波でんぱ相互そうごれにともない、『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』から開始かいし沖縄おきなわけんでは日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい正式せいしき発表はっぴょう本土ほんど復帰ふっき同日どうじつであったため、本土ほんど復帰ふっきは『日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう』のみの放送ほうそうとなり、なおかつカラー放送ほうそうも『日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう』からの開始かいしとなり、『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』からは完全かんぜんカラー放送ほうそうとなった。
  19. ^ a b 日本にほんテレビぶちぎれ!にちプロの裏切うらぎ行為こういでプロレス中継ちゅうけいり【坂口さかぐちせい連載れんさい#20】かくはん世紀せいき 坂口さかぐちせい - ひがしスポnote(東京とうきょうスポーツ) 2022ねん12月21にち
  20. ^ この背景はいけいには、日本にほんテレビが三菱電機みつびしでんきとの共同きょうどう事業じぎょうおこな計画けいかく当時とうじがったため、どうしても三菱電機みつびしでんきとの関係かんけいてなかったことがあったとされる。プロレス中継ちゅうけい人気にんき根強ねづよかったため、日本にほんテレビの局内きょくないには「ノンスポンサーになってもつづけよう」というこえもあったというが、関係かんけいれない三菱電機みつびしでんき即刻そっこくりることをめた番組ばんぐみを、そのまま続行ぞっこうするのはむずかしいと判断はんだん中継ちゅうけい番組ばんぐみごとわらせるにいたったという。
  21. ^ 馬場ばば登場とうじょうしないなら番組ばんぐみる!」放映ほうえいけんをめぐる因縁いんねん、“猪木いのき坂口さかぐち合体がったい計画けいかく”も頓挫とんざ人気にんき絶頂ぜっちょうから日本にっぽんプロレスはいかに崩壊ほうかいしたか?NumberWeb 2022ねん5がつ10日とおか
  22. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』、P19 - P21
  23. ^ 至高しこう昭和しょうわプロレスめい勝負しょうぶ列伝れつでん伝説でんせつ貴重きちょう映像えいぞう
  24. ^ ほん放送ほうそうより2にちおくれの放映ほうえい。この3かげつあいだ金曜きんよう20わくは、NETテレビの「浪人ろうにん月影つきかげ兵庫ひょうご」を6にちおくれで時差じさネットした。
  25. ^ 静岡しずおかけんほん番組ばんぐみ終了しゅうりょう同時どうじ日本にほんテレビけいプロレス番組ばんぐみのネットが一旦いったん消滅しょうめつ静岡放送しずおかほうそうは『ワールドプロレスリング』のみの放送ほうそうとなり、『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』はテレビ静岡てれびしずおかで1974ねん4がつ開始かいし)、中京ちゅうきょう広域こういきけん名古屋なごやテレビの土曜どよう20だいが1972ねん10がつから日本にほんテレビとのネットわくからNETテレビとのネットわく変更へんこうされたために(『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい開始かいし直前ちょくぜんの1972ねん9がつ決定けってい)、『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』から中京ちゅうきょうテレビ移行いこう。そのため、ジャイアント馬場ばば試合しあいほん番組ばんぐみりから馬場ばば死去しきょまで中京ちゅうきょうテレビでの放送ほうそうとなり、名古屋なごやテレビにおけるプロレス中継ちゅうけいは1972ねん7がつから変則へんそくクロスネット解消かいしょうかつ『ワールドプロレスリング』の中京ちゅうきょうテレビからさい移行いこうける1973ねん3がつまで空白くうはくとなってしまった。
  26. ^ 宮崎みやざきけんは1972ねん9がつまでテレビ宮崎てれびみやざきにおいて『NETワールドプロレスリング』を同時どうじネットで放送ほうそうしていたが、同年どうねん10がつの『NET日本にっぽんプロレスリング中継ちゅうけい』への一本いっぽんともない『ワールドプロレスリング』はりまでおくれネットで放送ほうそうされた。石川いしかわ沖縄おきなわの2けん石川いしかわテレビ沖縄おきなわテレビが『ワールドプロレスリング』を開始かいし当初とうしょからおくれネットで放送ほうそうし、のち北陸朝日放送ほくりくあさひほうそう琉球朝日放送りゅうきゅうあさひほうそう放映ほうえいけん移行いこうしている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2014ねんISBN 9784583621876 
  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.8』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2015ねんISBN 9784583622699 
  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.12』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2015ねんISBN 9784583623252 

関連かんれんする放送ほうそう番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

日本にほんテレビけい 金曜きんよう20:00わく(1958.9 - 1972.7)
ぜん番組ばんぐみ 番組ばんぐみめい 番組ばんぐみ
金曜きんよう劇場げきじょう女流じょりゅう作家さっかシリーズ
(20:00 - 20:30)
ビクターのパレード
(20:30 - 21:00)
日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい

日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう
三菱みつびしダイヤモンド・アワーとして。
1968.2までは「ディズニーランド」と隔週かくしゅう放映ほうえい
太陽たいようにほえろ!
本番ほんばんぐみよりドラマわく
日本にほんテレビけい 金曜きんよう20:56 - 21:00わく(1958.9 - 1963.9)
ビクターのパレード
(20:30 - 21:00)
日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい

日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう
【4ふん短縮たんしゅくして継続けいぞく
日本にほんテレビけい プロレス番組ばんぐみわく
なし
日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい
(1958.9 - 1972.5)

日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう
(1972.5 - 1972.7)