日本 プロレス中継
ジャンル |
プロレス |
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オープニング |
「 |
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60 | |
プロレス・ファイトメン・アワー | |
1957 | |
60 | |
テレビ →プロレスリング | |
1958 | |
プロレスリング | |
1961 | |
→22:30 - 23:15 →22:20 - 23:15 | |
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プロレスリング → | |
1968 | |
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1972 | |
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9 | |
タイトルや
歴史 [編集 ]
創成 期 [編集 ]
- 1954
年 2月 19日 に、この日 より3日間 にわたって蔵前 国技 館 で行 われた、日本 プロレス協会 の旗揚 げ戦 を 『力道山 ・木村 政彦 対 シャープ兄弟 プロレス実況 』としてNHKと並行 して19:30 - 21:00に生 中継 で放送 [1]。当時 日本 テレビにはテレビカメラが2台 しかなく、1台 をリングサイドに、もう1台 を放送 席 後 ろの枡席 に配置 していた。当日 のスポンサーは明治製菓 であったが、スタッフは明治製菓 の生 コマーシャルを行 う事 を忘 れ、翌日 明治製菓 本社 へ謝罪 に行 ったという[2]。
- これが
日本 テレビの初 の中継 となった。以後 、不定期 にプロレス中継 を放送 する。 当初 は定期 的 な中継 枠 は作 らず、主要 な試合 のみを、特別 に枠 を設 けて生 中継 を行 うスタイルだった。提供 スポンサーもその都度 変 わっていた。- (
上記 に先駆 けて、1954年 2月 16日 19:45 - 20:15には、『プロ・レスリングの見 どころ』という番組 を放送 した。当時 のテレビ欄 には「解説 ・伊集院 浩 、実演 ・木村 政彦 、力道山 」〔原文 まま〕とあり、「プロレス映画 を上映 し、力道山 、木村 選手 らによる解説 を行 った」と社 史 にはある)
- 1954
年 12月22日 、昭和 の巌流島 と言 われる力道山 VS木村 政彦 を、NHKと並行 放送 で生 中継 [1]。 - 1956
年 7月 23日 、この日 行 われた蔵前 国技 館 大会 を、日本 テレビ・KRテレビ(現在 :TBS)・NHKの3局 で生 中継 [1]。 - 1957
年 2月 15日 、力道山 はルー・テーズを招聘 した上 で、NWA世界 ヘビー選手権 を日本 で開催 すべく渡米 し、正式 契約 を交 わし5月 16日 に帰国 。日本 テレビとKRテレビとの間 でテーズVS力道山 とのNWA世界 ヘビー選手権 における主催 や放映 権 を巡 って争奪 戦 となったが(KRテレビは八 欧 電機 〈現在 :富士通 ゼネラル〉がスポンサーに付 いていた)、最終 的 に力道山 は日本 テレビを選択 し、KRテレビ並 びに八 欧 電機 とは絶縁 [3]。 - 1957
年 6月 15日 から、日本 テレビのみで『プロレス・ファイトメン・アワー』のタイトルで、週 1回 の定期 番組 を開始 。
土曜 17時 台 からの1時 間 枠 で、若手 選手 の育成 と、スポーツとしてのプロレスの人気 の高揚 をはかることを目的 とした。従 って主 に放映 されたのは、東京 ・日本橋 浪花 町 の日本 プロレス・センターで行 われる、若手 選手 の試合 や、力道山 の「練習 試合 」などであった。- この『ファイトメン・アワー』は
当初 、諸般 の事情 で提供 なしで始 まったが、同年 7月 第 3週 から三菱電機 がスポンサーに付 いた。 - ただし、タイトル
戦 などの主要 な試合 は相変 わらず、特別 枠 を設 けての放映 という形 をとった。折 から各地 に民放 テレビが開局 し始 め、この特別 枠 の中継 を同時 ネットする地方 局 も出 始 めた。
『三菱 ダイヤモンド・アワー』へ内包 、「金 8枠 」定着 [編集 ]
- 1958
年 8月 29日 から、外国 テレビ映画 『ディズニーランド』の第 1回 より、三菱電機 提供 による金曜 20時 台 枠 『三菱 ダイヤモンド・アワー』が開始 される。
翌週 の9月 5日 、これと同 じ枠 で、蔵前 国技 館 で行 われた力道山 出場 の「国際 試合 第 1日 」を生 中継 (力道山 &ジョニー・バレンドVSスカイ・ハイ・リー&ドン・レオ・ジョナサン)。- これが
第 1回 となり、以降 、『プロレスリング中継 』のタイトル(ただし初期 は『テレビ中継 ・プロレス国際 大 試合 』)で、隔週 でテレビ中継 を行 っていく。 - ここに
本格 的 に、定期 中継 番組 の体制 が整 う。 当初 は外国 テレビ映画 『ディズニーランド』(前述 )との1週 交代 での放映 。またネットを含 めた放映 局 は、日本 テレビ・読売 テレビ ・西日本放送 ・テレビ西日本 のわずかに4局 のみだった。
- 1959
年 4月 17日 には、プロレスリングのカラー初 中継 を行 う[4]。 - 1959
年 10月 2日 、日本 テレビスタジオにおいて、初 のテレビスタジオからのプロレス中継 を開催 [5]。 - 1961
年 8月 25日 、前述 の 『ディズニーランド』を放映 する週 において、金曜 22時 台 の枠 を新設 した。
- (1961
年 9月 までは23:00 - 23:45、10月 以後 は22:30 - 23:15→22:20 - 23:15) - これで
毎週 『プロレスリング中継 』が放映 される形 となった。 - この
枠 は、開場 したばかりのリキ・スポーツパレスでの試合 を中心 にした、録画 中継 が主体 。 録画 中継 ということからか、この枠 の新設 を機 に、『プロレスリング中継 』の時差 ネットを始 めた地方 局 もあった。特 に、この当時 は実質 的 に地方 局 が1局 しかなく、オープンネットであった影響 から、地方 局 の大半 は「三菱 ダイヤモンドアワー」として放送 されたものを含 め、金曜 8時 にプロレス中継 を実施 する局 が多 かった。
- 1962
年 4月 23日 (当日 は月曜日 であったが、特番 枠 で放送 )、カラー放送 が実施 されていた初期 のころ、力道山 VSフレッド・ブラッシーの試合 中 に対戦 相手 が流血 する事故 があり、それを見 ていた老人 3名 が、4月 27日 にも、グレート東郷 VSブラッシーの試合 中 に東郷 が流血 した場面 が放送 され、それを見 ていた老人 3名 がそれぞれショック死 (実際 には2試合 合計 で20人 前後 がショック死 したとされる)する事故 があった(この2試合 はモノクロで放映 された)。この影響 で日本 テレビは場外 乱闘 や流血 シーンの放映 のアップを避 けるようになった他 、カラー放送 は一時 自粛 することになる[6]。 - 1963
年 5月24日 に放送 された「WWA世界 選手権 ・ザ・デストロイヤー対 力道山 」(21:15まで延長 放送 )は、関東 地区 で視聴 率 64.0%(ビデオリサーチ調 べ)を記録 し[7]、これは現在 に至 るまで日本 テレビの史上 最高 視聴 率 となっている。 - 1963
年 10月 より20:56 - 21:00枠 (日曜日 は90分 番組 『日曜 ロードショー』のため21:26 - 21:30)に『NNNニューススポット』が設置 されたため、『ディズニーランド』と共 に放送 時間 が4分 短縮 。 - 1963
年 12月15日 に力道山 が急逝 し、2日 後 の12月17日 に日本 テレビ、日本 プロレス、三菱電機 、博報堂 の4社 会談 が行 われ、『日本 プロレス中継 』を継続 することを決定 。放映 権 料 は1回 150万 円 を維持 (他 に契約 更改 料 として100万 円 が日本 テレビから支払 われていた)[7]。 - 1968
年 1月 3日 、国際 プロレス(当時 はTBSプロレス)との興行 戦争 (「隅田川 決戦 」)となった蔵前 国技 館 大会 を17:30から特番 枠 で生 中継 (ジャイアント馬場 VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル・ヘビー級 王座 戦 など)。この頃 の放映 権 料 は1回 あたり約 200万 円 であった[8]。プロレス中継 は、日本 テレビvsTBSテレビとの対立 時代 に突入 する。
毎週 「金 8枠 」放送 へ[編集 ]
- 1968
年 1月 19日 (22:15から放送 )と1月 26日 放送 分 (20:00から放送 )の視聴 率 が、『TWWAプロレス中継 』よりも下回 ったため、日本 テレビは2月 16日 限 りで「ディズニーランド」を『三菱 ダイヤモンドアワー』枠 (金曜 20時 台 枠 )から離脱 させ、2月 23日 から『三菱 ダイヤモンドアワー』枠 をプロレス中継 のみとすることを緊急 会議 で決定 した[9]。 - 1968
年 2月 16日 、隔週 金曜 22時 台 の45分 枠 が廃止 された。隔週 金曜 22時 台 最後 の放送 は、当日 に行 われた後楽園 ホールからの録画 中継 。当日 はディック・ザ・ブルーザー、バディ・オースチン、ハーリー・レイス、ディック・マードック、テネシー・レベル、バロン・シクルナも参戦 する予定 であったが、外国 人 選手 が搭乗 した航空 便 が雪 により東京 国際 空港 への着陸 が不可能 となり、千歳空港 へダイバートしたため、当日 は外国 人 選手 の参加 が不可能 となった。そのため、日本 陣営 のみでカードを組 み、メインイベントのジャイアント馬場 VS吉村 道明 はアントニオ猪木 がレフェリーを務 めた(当日 猪木 は試合 に出場 せず)[10][11]。 - 1968
年 2月 23日 、毎週 金曜 20:00にプロレス中継 が定着 する。 - 1968
年 11月22日 、大学 紛争 の影響 で日本 プロレスの後楽園 ホールでの興行 が中止 されたため、日本 テレビ旧 麹 町 本社 社屋 に在 った第 10スタジオにリングを設置 してスタジオテレビマッチを開催 した[12]。 - 1969
年 3月 - 4月 、グレート東郷 による新 団体 設立 を阻止 すべく、日本 プロレスが日本 テレビに対 してNET(現在 :テレビ朝日 )における日本 プロレスの中継 放送 開始 を打診 。日本 テレビは、NETでの放送 に対 して「ジャイアント馬場 および坂口 征 二 の試合 を放映 しない」「ワールド大 リーグ戦 の試合 を放映 しない」「 インターナショナルヘビー級 選手権 試合 およびインターナショナルタッグ選手権 試合 を放送 しない」ことを条件 付 に日本 プロレスの中継 放送 を許可 する[13]。 - 1969
年 7月 2日 からNETにおいて、『NETワールドプロレスリング』が水曜 21:00 - 21:56(1970年 4月 に月曜 20:00 ~ 20:56に移動 すると同時 に坂口 の出場 試合 も放送 解禁 )の時間 帯 で開始 。前述 の通 り日本 テレビはNETとの2局 間 協定 で、馬場 と坂口 の試合 やワールドリーグ戦 などのビッグマッチの放映 権 は維持 した一方 で、猪木 と大木 金太郎 の試合 は前述 のビッグマッチ以外 は、原則 NETテレビに移行 されることになった(ワールドプロレスリング#日本 プロレス中継 時代 も参照 )。 - 1969
年 途中 (正式 年月日 不 詳 )、『プロレスリング中継 』から『日本 プロレス中継 』に番組 タイトルを変更 。
実況 中継 終了 [編集 ]
- 1971
年 12月13日 、日本 プロレスが猪木 を除名 処分 することを発表 。日本 テレビは同年 12月 31日 に後楽園 ホールからの生 中継 を放送 することによって、日本 プロレス内部 の混乱 の収拾 に努 めたが、当日 の視聴 率 は『第 13回 日本 レコード大賞 』(TBS)の影響 で、平均 よりも低 い15.4%であった[14]。 - 1972
年 1月 、NETが日本 プロレスに対 し、NETが放送 する試合 における馬場 の試合 出場 を要求 。日本 プロレスは日本 テレビとの交渉 を開始 するが、日本 テレビは拒否 の姿勢 を貫 いた[14]。 - 1972
年 3月 、日本 プロレスと日本 テレビとの間 でテレビ放送 に関 する契約 更改 交渉 が行 われたが、契約 更改 の席 でも日本 テレビは、馬場 のNETが放送 する試合 への出場 拒否 の姿勢 を変 えぬまま、テレビ中継 に関 する契約 も更改 しなかった[14]。
- その
後 の日本 テレビと日本 プロレスとの話 し合 いも、馬場 の日本 テレビ独占 契約 の解釈 をめぐり、「継続 中 」とする日本 テレビと、「終了 」とする日本 プロレスとで、平行 線 をたどった。いよいよ日本 テレビは、強硬 手段 をとるに至 る。 新 日本 プロレスを旗揚 げした猪木 も同 時期 に、日本 テレビから1972年 夏 からの新 日本 プロレス中継 開始 の打診 を受 けていた事 を明 かした他 (後 に断念 )、「日本 テレビは『日本 プロレス中継 』を打 ち切 るだろう」と爆 弾 発言 し、マスコミも本番 組 の動向 に目 を向 けるようになる[15]。
- 1972
年 4月 1日 、日本 プロレスの取締役 会 にて、同年 4月 1日 以降 の馬場 のNET中継 試合 出場 が、賛成 10・反対 1で可決 し(馬場 も取締役 だったが、唯一 反対 票 を投 じた)、同時 に長谷川 淳三 が1972年 4月 3日 放送 の新潟 市 体育館 大会 の『ワールドプロレスリング』生 中継 からNETが放送 する試合 に登場 させることを発表 [14]。 - 1972
年 4月 3日 、NET『ワールドプロレスリング』新潟 大会 の生 中継 において『ジャイアント馬場 初 登場 』と銘打 ち、馬場 の出場 した試合 (馬場 &坂口 の東京 タワーズvsディック・マードック&マイティ・ブルータス)を放送 [14]。 - 1972
年 4月 4日 、日本 テレビが東京 地裁 に、馬場 のNET中継 試合 への出場 を禁 ずる仮処分 申請 を提出 [14]。 - 1972
年 4月 末 、日本 プロレスが同年 4月 20日 以降 も日本 テレビとの会談 に応 じなかったため、日本 テレビはスポンサーである三菱電機 との協議 の末 、三菱電機 がスポンサー降板 を即決 で決定 した上 で、実況 中継 を打 ち切 ることを決定 [14][16]。 - 1972
年 5月 12日 、第 14回 ワールド大 リーグ戦 決勝 戦 (馬場 対 ゴリラ・モンスーン戦 ほか、東京 体育館 )を生 中継 。
最終 的 には全国 31局 ネットで、島根 県 ・岡山 県 [17]を除 く44都道府県 と当時 アメリカ施政 権 下 の沖縄 での放送 となった[18]。また番組 スポンサーも、三菱電機 だけでなく、鈴木 自動車 、久保田 鉄工 が付 く複数 社 スポンサーとなっていた。
日本 テレビは1972年 5月 15日 に記者 会見 で、1972年 5月 12日 放送 を以って定期 中継 の打 ち切 りを正式 発表 し、18年 3か月 続 いた日本 テレビにおける日本 プロレス中継 は幕 を下 ろした。打 ち切 り会見 で日本 テレビは、日本 プロレス首脳 陣 を糾弾 した。最終 的 に日本 テレビは、日本 プロレスよりも、メインスポンサーであった三菱電機 を選択 した格好 となった[16][19][20]。
『日本 プロレス選手権 特集 』[編集 ]
日本 テレビにおける日本 プロレス実況 中継 が終了 した翌週 の1972年 5月 19日 より、過去 の日本 プロレスの名 勝負 を振 り返 る『日本 プロレス選手権 特集 』と銘打 ったアーカイブ番組 を開始 し、7月 14日 まで全 9回 放送 された。『日本 プロレス選手権 特集 』終了 と同時 に『全日本 プロレス中継 』開始 までの3か月 間 日本 テレビからプロレス番組 が消滅 することとなったと同時 に、『三菱 ダイヤモンド・アワー』も終了 した。
放送 リスト[編集 ]
サブタイトル | ||
---|---|---|
1972 |
ザ・デストロイヤーvs デストロイヤーvs | |
1972 |
ジャイアント | |
1972 |
( | |
1972 |
||
1972 |
ワールドリーグ |
|
1972 |
ドリー・ファンク・ジュニアvs | |
1972 |
インタータッグ |
|
1972 |
||
1972 |
(「 |
番組 終了 後 [編集 ]
日本 テレビにおける実況 中継 打 ち切 り記者 会見 当日 である1972年 5月 15日 からの日本 プロレス実況 中継 はNETテレビの独占 放送 となった。日本 テレビにおける実況 中継 打 ち切 り記者 会見 当日 には、日本 プロレスも芳 の里 社長 と日本 プロレス協会 会長 であった平井 義一 が日本 テレビに対 する反論 会見 を行 い[19]、,同年 7月 28日 からは『日本 プロレス中継 』なき後 の「金 8枠 」に『NET日本 プロレスリング中継 』という日本 プロレスの中継 枠 を新設 した際 も、「馬場 と坂口 の新 エースコンビを軸 にして、日 テレの中継 がなくてもやっていける」と楽観 視 するなど、日本 プロレス幹部 の危機 管理 は皆無 だった[21]。日本 テレビは馬場 と猪木 の二者択一 を迫 られたが、最終 的 に日本 テレビは馬場 を選択 した。馬場 は日本 テレビにおける実況 中継 打 ち切 り直後 の1972年 5月 下旬 から本番 組 プロデューサーであった原 章 の仲介 で、小林 與三次 社長 との極秘 会談 を開始 した上 で、新 団体 (全日本 プロレス)の設立 準備 に取 り掛 かった。馬場 は8月 18日 に日本 プロレスを退団 し、9月9日 には全日本 プロレスを設立 し、10月7日 からは『全日本 プロレス中継 』がスタートした[22][15]。一方 の『NETワールドプロレスリング』『NET日本 プロレスリング中継 』は、本 番組 終了 や馬場 の日本 プロレス離脱 が決定 打 となり、視聴 率 や日本 プロレスの観客 数 が低下 。9月25日 をもって月曜日 ・金曜日 の週 2回 放送 が終了 し、9月29日 からは「金 8枠 」に統合 のうえ『NET日本 プロレスリング中継 』にタイトルを一本 化 した上 で坂口 をメインイベンターとして放送 したが、NETは同 時期 に新 日本 プロレスとの間 で中継 開始 交渉 を開始 し、NETが1973年 3月9日 に新 日本 プロレス中継 開始 を正式 発表 したため、3月30日 をもって『NET日本 プロレスリング中継 』は打 ち切 られた。- この
日本 プロレス時代 の、主 に力道山 、ジャイアント馬場 、アントニオ猪木 などの試合 については、「至高 の昭和 プロレス名 勝負 列伝 ~伝説 の貴重 映像 ~」と題 して、日 テレジータス[23]で随時 アーカイブが放送 されている。
実況 アナウンサー[編集 ]
佐土 一正 (1954年 - 1963年 ?)越智 正 典 (1954年 - ?)江本 三千年 (1954年 - ?)大平 和夫 (1957年 - ?)志 生野 温 夫 本多 当 一郎 清水 一郎 (1957年 - 1972年 、「日本 プロレス中継 」終了 後 、「全日本 プロレス中継 」の実況 を1978年 まで務 める)徳光 和夫 (1964年 - 1972年 、「日本 プロレス中継 」終了 後 、「全日本 プロレス中継 」の実況 も務 める)
主 な解説 者 [編集 ]
ネット局 [編集 ]
◎は『
TBS |
|||
◎ | |||
NETテレビ |
◎▲1969 | ||
TBS |
|||
フジテレビ |
1970 | ||
ミヤギテレビ | NETテレビ |
◎▲1970 | |
◎ | |||
1971 | |||
NETテレビ |
◎▲1971 | ||
○ | |||
TBS |
1962 | ||
フジテレビ NETテレビ |
○▲1968 | ||
TBS |
○ | ||
△▲1962 | |||
1959 | |||
フジテレビ |
1961 | ||
NETテレビ |
△1962 | ||
◎▲ | |||
TBS |
○ | ||
○▲ | |||
KRテレビ |
|||
◎1958 | |||
◎ | |||
TBS |
|||
フジテレビ |
◎1969 | ||
◎ | |||
◎ | |||
○▲ | |||
◎ | |||
RKB |
TBS |
||
1964 | |||
◎1969 | |||
TBS |
○▲ | ||
○ | |||
フジテレビ NETテレビ |
○1970 | ||
TBS |
○ | ||
○ |
備考 [編集 ]
遅 れネットで放送 していた局 [編集 ]
- 1960
年代 前期 は、火曜 20時 からの放送 だった。後年 、日 琉間マイクロネット回線 開通 に伴 い、金曜 20時 に移動 したが、日 琉間マイクロネット回線 の関係 上 、本土 とは異 なり最後 までモノクロ放送 だった。
その他 [編集 ]
地方 において民放 テレビが続々 と開局 した、1950年代 後半 から1960年代 前半 にかけては、日本 テレビとラジオ東京 テレビ(現在 :TBSテレビ)の両 局 が、今 でいうネットワークを形成 し始 めた時期 でもあり、各 地方 の民放 テレビの先発 局 の多 くは、日本 テレビとラジオ東京 テレビとの、どちらと番組 ネット関係 を組 むのかという選択 を迫 られた。- そんななかで
日本 テレビとのネット関係 を選択 した局 は、その多 くが、プロ野球 やプロレスなど、人気 の高 いスポーツ中継 に強 いという点 が決 め手 のひとつになった、と社 史 に記 している(既 にラジオ東京 テレビ→JNNとのネットワークを組 んでいた局 でも、「プロレスリング中継 」→本 番組 を同時 ネットしたところもあった)。「プロレスリング中継 」は、日本 の民放 のネットワークの形成 にまで、貢献 したコンテンツだったとも言 える。 一方 で、当該 地域 が1局 時代 にネットがなかった岩手 ・大分 の2県 と、放送 が中断 していた新潟 ・福岡 の2県 は、テレビ岩手 ・新潟総合 テレビ・福岡放送 ・テレビ大分 開局 に伴 う本番 組 開始 までライバル団体 であった国際 プロレスの中継 番組 でなおかつ本 番組 より先 に開始 し、なおかつ1970年 4月 までモノクロビデオ放送 だったTBS『TWWAプロレス中継 』(岩手 放送 ・新潟放送 ・RKB毎日放送 ・大分放送 でそれぞれ放送 )で我慢 しざろう得 なかった他 、プロレス中継 が『TWWAプロレス中継 』のみであった島根 ・岡山 の2県 は最後 まで放送 がなく(『TWWAプロレス中継 』は山陰放送 ・山陽放送 で放送 )、岡山 県 ではテレビ岡山 開局 で開始 した『NETワールドプロレスリング』→『NET日本 プロレス中継 』で日本 プロレスの試合 が中継 された一方 で、島根 県 では岩手 ・新潟 ・福岡 ・大分 の4県 同様 に『TWWAプロレス中継 』で我慢 しざろう得 ず、日本 プロレス崩壊 まで日本 プロレスの試合 は中継 はされなかった。この2県 では日本海 テレビと西日本放送 の電波 相互 乗 り入 れに伴 い、『全日本 プロレス中継 』から日本 テレビ系 プロレス番組 の放送 を開始 している。[17]本 番組 終了 時 のネット局 の内 、静岡放送 と名古屋 放送 を除 く各局 は、そのまま『全日本 プロレス中継 』のネット局 となったが[25]、一部 クロスネット局 と長崎放送 を除 く系列 外局 は『全日本 プロレス中継 』は遅 れネットへ変更 された。これにより、『全日本 プロレス中継 』以降 完全 に録画 中継 となった石川 ・宮崎 ・沖縄 の3県 は、本 番組 が唯一 の日本 テレビ系 プロレス番組 の実況 生 中継 となった他 、石川 ・沖縄 の2県 は本 番組 終了 と同時 に実況 生 中継 で放送 されるレギュラー放送 のプロレス中継 が消滅 する事 になってしまった[26]。
脚注 [編集 ]
- ^ a b c 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P36 - P37 - ^
日 テレ初 のプロレス中継 は面白 すぎてCMを出 し忘 れた東京 スポーツ 2021年 2月 28日 - ^ a b 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P38 - P39 - ^
日本テレビ放送網 (株 )『大衆 とともに25年 .沿革 史 』(1978.08) 27ページ (渋沢 社 史 データベース)(2024年 4月 9日 閲覧 ) - ^ 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P40 - ^ 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P41 - ^ a b 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P42 - ^ 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P48 - ^ 『
日本 プロレス事件 史 Vol.8』、P38 - P39 - ^ アントニオ
猪木 がレフェリーを務 めた最初 の試合 は?新 日本 プロレス歴史 街道 50年 (60)【週刊 プロレス】ベ ースボ ール・マガジン社 2023年 1月 17日 - ^ JPWA New Year Champion Seriespuroresu.com 2023
年 1月 26日 閲覧 - ^
流 智美 「プロレス史 あの日 、あの時 <299> 1968年 11月22日 「大学 紛争 の影響 でテレビ生 中継 がスタジオ収録 !!」」『週刊 プロレス』第 1932号 、ベ ースボ ール・マガジン社 、2017年 12月6日 、48頁 。 - ^ 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P8 - P9 - ^ a b c d e f g 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P14 - P15 - ^ a b 『
日本 プロレス事件 史 Vol.12』、P15 - ^ a b 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P18 - P19 - ^ a b
当時 は準 広域 圏 が確立 していなかったが、それぞれ周辺 地域 のネット局 (日本海 テレビ・山口放送 ・中国放送 →広島 テレビ・西日本放送 ・読売 テレビ)が受信 できる地域 もあった。また、この番組 をネットしていなかった、あるいは一 時期 ネットを打 ち切 っていた地域 (岩手 、新潟 、福岡 、大分 )においても、周辺 府県 でネットしている局 があれば視聴 可能 だった。 - ^
島根 県 ・岡山 県 における日本 テレビプロレス番組 のネットは日本海 テレビ・西日本放送 の電波 相互 乗 り入 れに伴 い、『全日本 プロレス中継 』から開始 。沖縄 県 では日本 プロレス中継 の正式 打 ち切 り発表 日 が本土 復帰 と同日 であったため、本土 復帰 後 は『日本 プロレス選手権 特集 』のみの放送 となり、なおかつカラー放送 も『日本 プロレス選手権 特集 』からの開始 となり、『全日本 プロレス中継 』からは完全 カラー放送 となった。 - ^ a b
日本 テレビぶちぎれ!日 プロの裏切 り行為 でプロレス中継 打 ち切 り【坂口 征 二 連載 #20】格 斗 半 世紀 坂口 征 二 -東 スポnote(東京 スポーツ) 2022年 12月21日 - ^ この
背景 には、日本 テレビが三菱電機 との共同 で事業 を行 う計画 が当時 持 ち上 がったため、どうしても三菱電機 との関係 を断 てなかったことがあったとされる。プロレス中継 の人気 は根強 かったため、日本 テレビの局内 には「ノンスポンサーになっても続 けよう」という声 もあったというが、関係 を切 れない三菱電機 が即刻 降 りることを決 めた番組 を、そのまま続行 するのは難 しいと判断 、中継 番組 ごと終 わらせるに至 ったという。 - ^ 「
馬場 が登場 しないなら番組 を打 ち切 る!」放映 権 をめぐる因縁 、“猪木 ・坂口 合体 計画 ”も頓挫 …人気 絶頂 から日本 プロレスはいかに崩壊 したか?NumberWeb 2022年 5月 10日 - ^ 『
日本 プロレス事件 史 Vol.2』、P19 - P21 - ^
至高 の昭和 プロレス名 勝負 列伝 ~伝説 の貴重 映像 ~ - ^
本 放送 より2日 遅 れの放映 。この3か月 間 の金曜 20時 枠 は、NETテレビの「素 浪人 月影 兵庫 」を6日 遅 れで時差 ネットした。 - ^
静岡 県 は本 番組 終了 と同時 に日本 テレビ系 プロレス番組 のネットが一旦 消滅 (静岡放送 は『ワールドプロレスリング』のみの放送 となり、『全日本 プロレス中継 』はテレビ静岡 で1974年 4月 開始 )、中京 広域 圏 は名古屋 テレビの土曜 20時 台 が1972年 10月 から日本 テレビとのネット枠 からNETテレビとのネット枠 に変更 されたために(『全日本 プロレス中継 』開始 直前 の1972年 9月 に決定 )、『全日本 プロレス中継 』から中京 テレビへ移行 。そのため、ジャイアント馬場 の試合 は本 番組 打 ち切 りから馬場 の死去 まで中京 テレビでの放送 となり、名古屋 テレビにおけるプロレス中継 は1972年 7月 から変則 クロスネット解消 かつ『ワールドプロレスリング』の中京 テレビから再 移行 を受 ける1973年 3月 まで空白 となってしまった。 - ^
宮崎 県 は1972年 9月 までテレビ宮崎 において『NETワールドプロレスリング』を同時 ネットで放送 していたが、同年 10月 の『NET日本 プロレスリング中継 』への一本 化 に伴 い『ワールドプロレスリング』は打 ち切 りまで遅 れネットで放送 された。石川 ・沖縄 の2県 は石川 テレビと沖縄 テレビが『ワールドプロレスリング』を開始 当初 から遅 れネットで放送 し、後 に北陸朝日放送 と琉球朝日放送 へ放映 権 が移行 している。
参考 文献 [編集 ]
- 『
週刊 プロレスSPECIAL日本 プロレス事件 史 Vol.2』ベ ースボ ール・マガジン社 、2014年 。ISBN 9784583621876。 - 『
週刊 プロレスSPECIAL日本 プロレス事件 史 Vol.8』ベ ースボ ール・マガジン社 、2015年 。ISBN 9784583622699。 - 『
週刊 プロレスSPECIAL日本 プロレス事件 史 Vol.12』ベ ースボ ール・マガジン社 、2015年 。ISBN 9784583623252。
関連 する放送 番組 [編集 ]
全日本 プロレス中継 →プロレスリング・ノア中継 (後継 番組 )- ワールドプロレスリング(
テレビ朝日 ・現在 も放送 中 ) - ディズニーランド:「
三菱 ダイヤモンド・アワー」時代 に交代 で放送 された番組 - ファイティングパンチ→
金曜 夜 席 :金曜 22時 台 の時代 に交代 で放送 された番組
ビクター
(20:30 - 21:00) |
↓ 【4 |
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なし
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(1958.9 - 1972.5) ↓ (1972.5 - 1972.7) |
(1972.10 - 2000.6) |