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大木おおき金太郎きんたろう

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大木おおき 金太郎きんたろう
Kintarō Ōki
大木 金太郎 Kintarō Ōkiの画像
『プロレス&ボクシング』1962ねん4がつごう増刊ぞうかんより
プロフィール
リングネーム 大木おおき 金太郎きんたろう
キム・イル
金剛こんごう 金太郎きんたろう[1]
テツロウ・サトー[1]
本名ほんみょう きむ やすし[1]
ニックネーム 韓国かんこく猛虎もうこ
身長しんちょう 185cm
体重たいじゅう 120kg(ぜん盛時せいじ
誕生たんじょう 1929ねん2がつ24にち
死亡しぼう (2006-10-26) 2006ねん10月26にち(77さいぼつ
出身しゅっしん 大韓民国の旗 韓国かんこく
全羅南道ぜんらなんどうこうおきぐんにしき山面やまづら
スポーツれき シルム[2]
トレーナー 力道山りきどうざん
ミスター・モト
よしさと淳三じゅんぞう
デビュー 1959ねん11月
引退いんたい 1995ねん4がつ2にち
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大木おおき 金太郎きんたろう(おおき きんたろう、1929ねん2がつ24にち - 2006ねん10月26にち)は、大韓民国だいかんみんこく日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせん)・全羅南道ぜんらなんどうこうおきぐん錦山にしきやまめんきょ金島かねしま出身しゅっしんプロレスラー[3][4]本名ほんみょうきむやすし(キム・テシク、Kim Thae-sik)[1]べつ名義めいぎ金一きんいち(キム・イル、Kim Il、김일)。生年せいねんについては当初とうしょ1933ねん公表こうひょうしていた。1994ねん国民こくみん勲章くんしょう石榴ざくろあきら[5]、2000ねん体育たいいく勲章くんしょう猛虎もうこあきら、2006ねん体育たいいく勲章くんしょうあおりゅうあきらついじょ[6]韓国かんこくでは「大韓たいかんプロレス」のエースけんプロモーターとして、韓国かんこくプロレスかい発展はってん尽力じんりょくした。金光植こんこうしょく実弟じってい[7]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

ほんぬききむうみきん[8]韓国かんこくではシルム選手せんしゅとして活動かつどう[2][9]1958ねん同郷どうきょう英雄えいゆうである力道山りきどうざんあこがれて漁船ぎょせん日本にっぽん密入国みつにゅうこくし、プロレスりのチャンスをうかがっていたが、1959ねん入管にゅうかんほう違反いはん逮捕たいほされる[9]力道山りきどうざん身元みもと引受ひきうけじんとなり、日本にっぽんプロレスコミッショナー大野おおの伴睦ばんぼく代議士だいぎしうごかしたことで釈放しゃくほうされ、日本にっぽんプロレスに入門にゅうもんして同年どうねん11がつに「大木おおき金太郎きんたろう」のリングネームジョー樋口ひぐち相手あいてにデビュー[9]翌年よくねんにはジャイアント馬場ばばアントニオ猪木いのきがデビューしており「若手わかて三羽烏さんばがらす」としょうされた。

1963ねんアメリカ武者むしゃ修行しゅぎょう旅立たびだち、ロサンゼルスWWAでは日系にっけいアメリカじんレスラーのミスター・モトとのタッグチーム活動かつどう、12月10にちベアキャット・ライト&レッド・バスチェンやぶりUSタッグ王座おうざのWWA世界せかいタッグ王座おうざ)を獲得かくとくするなどしたが[10]同年どうねん12がつ8にち力道山りきどうざんされ12月15にち死亡しぼうしたことで、力道山りきどうざんしんどころにしていた大木たいぼく居場所いばしょがなくなり、韓国かんこく一旦いったん帰国きこくした。

1964ねん9月よりふたたびアメリカへわたり、10月16にちテキサスしゅうヒューストンにおいてルー・テーズNWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせん。この試合しあい大木たいぼくはテーズにセメント仕掛しかけ、原爆げんばくあたまとっ乱打らんだはなったが、テーズからかえちにってレフェリーストップけをきっし、顔面がんめんを24はり重傷じゅうしょうった[11]

1965ねん8がつ韓国かんこくソウルおこなわれた極東きょくとうヘビーきゅう王座おうざ決定けっていトーナメントにおいて、6にちの1回戦かいせん長沢ながさわ秀幸ひでゆき、7にち準決勝じゅんけっしょう吉村よしむら道明みちあき10日とおか決勝けっしょうよしさと勝利しょうりして、どう王座おうざ初代しょだい王者おうじゃとなる[12]以降いこうよく1966ねん12月にタイトルを返上へんじょうするまで、リッパー・コリンズジョー・スカルパキラー・カール・コックスターザン・ゾロなどを挑戦ちょうせんしゃに、日本にっぽん韓国かんこくまたけて防衛ぼうえいせんおこなった[13]

そのあいだ、1966ねん10がつゆたかとう東京とうきょうプロレス旗揚はたあげし、猪木いのき日本にっぽんプロレスをって東京とうきょうプロレスに参加さんかしたため、日本にっぽんプロレスはその穴埋あなうめに大木たいぼく韓国かんこくからもどすと「金剛こんごう金太郎きんたろう」のリングネームでそうとしたが失敗しっぱい。「大木おおき金太郎きんたろう」へともど馬場ばば日本にっぽんプロレスNo.2のレスラーとして活動かつどうしていたが、活動かつどう停止ていしした東京とうきょうプロレスから猪木いのき日本にっぽんプロレスへ復帰ふっきしてきたことで、ふたた馬場ばば猪木いのきかげかくれた存在そんざいとなった。

1967ねん4がつ29にち、ソウルでマーク・ルーインからWWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく名実めいじつども韓国かんこくプロレスかいのトップにったが、3カ月かげつにロサンゼルスでマイク・デビアス奪取だっしゅされている[14]。このころ代目だいめ力道山りきどうざん襲名しゅうめい[11]」「国際こくさいプロレス移籍いせき[15]」というはなしもあったが、いずれも実現じつげんしなかった。

1968ねん11月9にち、ソウルにおいてバディ・オースチンやぶり、力道山りきどうざん死去しきょにより空位くういとなっていたアジアヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく[16]以降いこう日本にっぽんおよび韓国かんこくにおいて、バスター・ロイドブル・ラモスマリオ・ミラノクラッシャー・リソワスキー、ミスター・アトミック、ブラック・ゴールドマンジン・アンダーソンプリンス・イヤウケアブルート・バーナードレジー・パークスらを相手あいて王座おうざ防衛ぼうえい[17]1971ねん1がつビル・ドロモにタイトルをうばわれるも翌月よくげつには奪回だっかい成功せいこう[16]、そのアール・メイナードドン・レオ・ジョナサンボブ・カーセンジョー・ハミルトンドン・デヌーチミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)などの挑戦ちょうせん退しりぞけた[17]

1971ねん猪木いのきのクーデター事件じけん発端ほったんに、猪木いのき馬場ばば相次あいついで日本にっぽんプロレスを退団たいだんしてそれぞれがしん団体だんたい創立そうりつしたことにより、大木たいぼく坂口さかぐち日本にっぽんプロレスの看板かんばん選手せんしゅとなり、馬場ばば辞任じにんした選手せんしゅ会長かいちょう後任こうにんとなっていた。1972ねん12月1にちボボ・ブラジルとの「あたまとっ世界一せかいいち決定けっていせん」がインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ決定けっていせんとなり、だいいちせんやぶれるも、3にち再戦さいせん勝利しょうりしてインター王座おうざ獲得かくとくした。そのビリー・レッド・ライオンフリッツ・フォン・エリック相手あいて防衛ぼうえいせんおこなうが、馬場ばば猪木いのきけたあなおおきく、さらには当時とうじ金網かなあみデスマッチ人気にんき沸騰ふっとうしていた国際こくさいプロレス猛追もうついにあうなど、日本にっぽんプロレスの人気にんき急激きゅうげき凋落ちょうらくしていった。

このころ日本にっぽんプロレスのテレビ中継ちゅうけいおこなっていたNETテレビ坂口さかぐちせい仲介ちゅうかいやくとして、猪木いのき旗揚はたあげしたしん日本にっぽんプロレスとの合併がっぺい模索もさくし(名称めいしょうは「しん日本にっぽんプロレス」を予定よていされていた)、「猪木いのきしん日本にっぽんとの合併がっぺいみとめなければ中継ちゅうけいる」と強硬きょうこう姿勢しせいたため合併がっぺい交渉こうしょう急速きゅうそく進展しんてんし、日本にっぽんプロレスの選手せんしゅかいグレート小鹿こじか窓口まどぐちとなりこれに同意どういしたが[18]、この時期じき韓国かんこく滞在たいざいしていており、日本にっぽん不在ふざいであった大木たいぼく決定けってい反発はんぱつし、日本にっぽんもどった1973ねん2がつ16にち後楽園こうらくえんホール大会たいかい試合しあいまえ控室ひかえしつ記者きしゃたちのまえ大々的だいだいてきに「猪木いのき坂口さかぐちとの合体がったいいていない。合体がったいばなし猪木いのきにちプロりをたくらんだことをみとめることになり、絶対ぜったい反対はんたいだ」「日本にっぽんプロレスのすな!」と、合併がっぺいこととなえてもう反対はんたいし、いち合併がっぺい承諾しょうだくした選手せんしゅかい総意そうい大半たいはん選手せんしゅとフロントぜいくつがえして大木たいぼく意見いけん賛同さんどうしたため合併がっぺい破談はだんとなった。さらに大木たいぼく坂口さかぐち無断むだんで、坂口さかぐち坂口さかぐちびとである木村きむらきよし裔(木村きむら健悟けんご)、小沢おざわただしこころざし(キラー・カーン)大城おおしろつとむ大城おおしろだい五郎ごろう)の4にんしん日本にっぽんプロレスへの移籍いせき発表はっぴょうしてしまい、大木たいぼく坂口さかぐちとはくちかない冷戦れいせん状態じょうたいになったうえに、団体だんたいない大木たいぼく残留ざんりゅう坂口さかぐち移籍いせきこうそう状態じょうたいとなった。

結果けっかとして裏切者うらぎりものあつかいされた坂口さかぐちらは退団たいだんしてしん日本にっぽんプロレスに移籍いせき大木たいぼくはこれにより落日らくじつ日本にっぽんプロレスをささえる単独たんどくエースにくことになった。大木たいぼく当初とうしょ「NETテレビはにちプロを見捨みすてないだろう。新日本しんにほん中継ちゅうけい開始かいししても、NETのプロレス中継ちゅうけいにちプロ・しん日本にっぽん隔週かくしゅう放送ほうそうとなり、つづ日本にっぽんプロレスの試合しあい中継ちゅうけいしてくれるとおもう」というあまかんがえで楽観らっかんしていたが、坂口さかぐちらの移籍いせき同時どうじにNETは1973ねん3月、日本にっぽんプロレス中継ちゅうけいりとしん日本にっぽんプロレスの中継ちゅうけい開始かいし正式せいしき発表はっぴょうした。これにより経営けいえいなんおちいっていた日本にっぽんプロレスは放送ほうそうけんりょううしなかたちとなり、社長しゃちょうよしさと淳三じゅんぞう興行こうぎょう活動かつどう断念だんねん表明ひょうめいするも、大木たいぼく選手せんしゅかい積立つみたてきんなどをくずして「選手せんしゅかい自主じしゅ興行こうぎょう」を強行きょうこうしたが記録きろくてき不入ふいりとなり、結局けっきょく日本にっぽんプロレスは同年どうねん4がつ興行こうぎょう活動かつどう停止ていしし、事実じじつじょう崩壊ほうかいした[19]

日本にっぽんプロレス崩壊ほうかいにより、大木たいぼく日本にっぽんプロレス選手せんしゅとは一旦いったん力道山りきどうざんあずかり」となったのちに、日本にほんテレビなどの有力ゆうりょくしゃ仲介ちゅうかいけるかたち全日本ぜんにほんプロレス入団にゅうだん正式せいしきには日本にほんテレビとの3ねん専属せんぞく契約けいやく締結ていけつし、全日本ぜんにほんプロレスに派遣はけん)するが、「にちプロと全日本ぜんにほん対等たいとう合併がっぺい」とかされていたのとはことなり、実質じっしつてきに「全日本ぜんにほんによる吸収きゅうしゅう合併がっぺい」であった。当初とうしょからにちプロ残党ざんとうれに難色なんしょくしめしていた馬場ばばからマッチメイクなどで徐々じょじょ冷遇れいぐうされたことから、大木たいぼく同年どうねん12がつ最後さいご日本にほんテレビとの契約けいやく途中とちゅう全日本ぜんにほんから撤退てったい韓国かんこく帰国きこくした。インターおよびアジアヘビーの防衛ぼうえいせんまれずに不満ふまんがたまっていたところに、馬場ばばザ・ファンクス保持ほじしていたインターナショナル・タッグ王座おうざ挑戦ちょうせんしたさい、パートナーに大木たいぼくではなく新人しんじん鶴田つるた友美ゆみ起用きようされたことが決定的けっていてき原因げんいんだったという。

韓国かんこく帰国きこくは、韓国かんこくさん海苔のり日本にっぽん輸出ゆしゅつする海産物かいさんぶつぎょう(キム・イル産業さんぎょうしゃ)へビジネスをうつしつつあった[20]が、その、1974ねん猪木いのきへの対戦たいせん要求ようきゅうしん日本にっぽんプロレスに参戦さんせんし、1974ねん10がつ10日とおか蔵前くらまえ国技こくぎかんにおいて猪木いのきとのシングルせんおこなう(セコンドはもと日本にっぽんプロレス社長しゃちょうよしさともと日本にっぽんプロレス幹部かんぶ九州きゅうしゅうさんら)。この試合しあい猪木いのき大木たいぼくあたまとっきをひたすらつづけたのちバックドロップ仕留しと[21]猪木いのきにとっては大木たいぼくからはつの、そして唯一ゆいいつ勝利しょうりとなった。試合しあい終了しゅうりょうには両者りょうしゃ感極かんきわまってうシーンもられた。一方いっぽう坂口さかぐちとは、日本にっぽんプロレス崩壊ほうかいの「おれしん日本にっぽん合併がっぺいしようとしたのをつぶしてしておいてなにいまさら」という遺恨いこんから3にわたる壮絶そうぜつ喧嘩けんかマッチ(2かいがノー・コンテスト、1かい場外じょうがい坂口さかぐち椅子いすあたま強打きょうだされて朦朧もうろうとするあいだにリングアウトけをきっした)を展開てんかいした。ソウルで猪木いのき挑戦ちょうせんけてインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいせんおこなったこともあるが、これは猪木いのき唯一ただいちのインターせんとなった[22]しん日本にっぽんプロレスのリングでは、1975ねん4月開幕かいまくだい2かいワールドリーグせんにも出場しゅつじょう[23]猪木いのき坂口さかぐちをはじめ、ストロング小林こばやしマサ斎藤さいとうキラー・カール・クラップスーパー・デストロイヤーとも対戦たいせんした[24]しん日本にっぽんマットからは同年どうねん5がつのワールドリーグせん終了しゅうりょうとともに撤退てったいした[注釈ちゅうしゃく 1]

1975ねんはいり、大木たいぼくふたた全日本ぜんにほんてんじて参戦さんせんするようになり[注釈ちゅうしゃく 2]同年どうねん10がつ30にち蔵前くらまえ国技こくぎかんにおいて馬場ばばとのシングルせん実現じつげん。6ふん49びょう馬場ばばフォふぉル勝るがちをおさめた。そのふたた全日本ぜんにほん主戦しゅせんじょうとするようになり、同年どうねん12がつにはオープン選手権せんしゅけんおよび力道山りきどうざんじゅうさん回忌かいき追悼ついとう興行こうぎょう(「あたまとっ世界一せかいいち決定けっていせん」とだいされたアブドーラ・ザ・ブッチャーせん)に出場しゅつじょう1976ねんには日本にっぽんプロレスの崩壊ほうかい消滅しょうめつしたアジアヘビーきゅう王座おうざ復活ふっかつ最終さいしゅう王者おうじゃだった大木たいぼく継続けいぞくして選手権せんしゅけん保持ほじしゃとなり、全日本ぜんにほんプロレスにおいてもワルドー・フォン・エリックジャンボ鶴田つるた馬場ばばとの防衛ぼうえいせんおこなわれた[17]。1976ねん10がつ28にちには、愛弟子まなでしのキム・ドク(タイガー戸口とぐち)をパートナーに、馬場ばば&鶴田つるたやぶってインターナショナル・タッグ王座おうざ獲得かくとく[25]1977ねん12月にはドクとのコンビで世界せかいオープンタッグ選手権せんしゅけん」に参加さんかした。1978ねん1979ねんには世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんにも連続れんぞくして参加さんかしている(1979ねんのパートナーはキラー・トーア・カマタ)。大木たいぼく&ドクの韓国かんこく師弟していコンビと馬場ばば&鶴田つるた全日本ぜんにほん師弟していコンビのこうそうは、この時期じき全日本ぜんにほんプロレスのドルばこカードであった。なお、キム・ドク(戸口とぐち)は大木たいぼくがブッチャーと共闘きょうとうしたこと憤慨ふんがいして「師弟していタッグ」を解消かいしょうし、ザ・ファンクス仲介ちゅうかい全日本ぜんにほん入団にゅうだん鶴田つるたぐ「全日本ぜんにほんだいさんおとこ」として重用じゅうようされた(戸口とぐちはその、1981ねん全日本ぜんにほんから新日本しんにほん移籍いせき)。

1979ねん10がつ5にち後楽園こうらくえんホールでおこなわれた国際こくさいプロレスの3だいタイトルマッチへも特別とくべつ参戦さんせんし(当日とうじつ国際こくさいプロレスのシリーズに参戦さんせんしていたジョー・ルダック全日本ぜんにほんプロレスに大木たいぼく代役だいやく出場しゅつじょう)、上田うえだすけとのコンビでマイティ井上いのうえ&アニマル浜口はまぐち保持ほじするIWA世界せかいタッグ王座おうざ挑戦ちょうせんしたものの、試合しあいちゅう上田うえだ仲間割なかまわれをこし敗退はいたい1980ねん2がつ18にち国際こくさいプロレスへ入団にゅうだん後述こうじゅつ[26]日本にっぽんではなが封印ふういん状態じょうたいにあったインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいせんを、ルダック、ジプシー・ジョー、ドロモ、上田うえだらを挑戦ちょうせんしゃにとしておこなわれた[22]同年どうねん3がつ31にちには後楽園こうらくえんホールにおいてニック・ボックウィンクルAWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざにも挑戦ちょうせん[27]同年どうねん10がつ5にちには金沢かなざわにおいて、アレックス・スミルノフとの金網かなあみデスマッチおこなっている[28]。しかし、同年どうねん11がつから「負傷ふしょう」を理由りゆう試合しあい欠場けつじょうし、国際こくさいとの契約けいやく更新こうしんされずそのまま離脱りだつした[29]

その全日本ぜんにほんプロレスからの「NWA認定にんていしているインターナショナル・ヘビーきゅう選手権せんしゅけんのタイトルマッチを、NWAに加盟かめいしていない国際こくさいプロレスで実施じっししたのはNWAメンバーとして問題もんだいである(大木たいぼく馬場ばば推薦すいせんで、韓国かんこくのプロモーターとしてNWAに加盟かめいしていた)」という勧告かんこくおうじて1981ねん4がつにインター王座おうざ返上へんじょう全日本ぜんにほんプロレスで復活ふっかつさせている(えに1977ねん馬場ばば奪取だっしゅされて以降いこう、そのまま封印ふういんされていたアジアヘビーきゅう王座おうざ大木たいぼく返還へんかんされている)[注釈ちゅうしゃく 3]。これを機会きかいさんたび、全日本ぜんにほんプロレスに参戦さんせんするようになったが、1982ねん阿修羅あしゅらはらせん最後さいごくび持病じびょう悪化あっかし、レスラーとしては事実じじつじょうのリタイア状態じょうたいとなった。

引退いんたいセレモニー、その[編集へんしゅう]

1995ねん4がつ2にちおこなわれたスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ週刊しゅうかんプロレス主催しゅさいのオールスターせんゆめはし東京とうきょうドーム大会たいかいで、それまでの功績こうせきたたえて正式せいしきな「引退いんたいセレモニー」がおこなわれた。

車椅子くるまいす姿すがた花道かどう入場にゅうじょうしてきたが、リング・インのさい気丈きじょうがり、ルー・テーズともにリングないすすむと四方しほうあたまげ、ファンの声援せいえんけると現役げんえき時代じだいからであるが流暢りゅうちょう日本語にほんごで「(感激かんげきで)むねがいっぱいでこえません」となみだながした。ファンへの感謝かんしゃとおびの言葉ことば力道山りきどうざんとのおもなどをかたり、引退いんたいのテン・カウントをくとじて号泣ごうきゅうした[注釈ちゅうしゃく 4]リングをりる間際まぎわニュートラル・コーナーへあゆると、鉄柱てっちゅうあたまあいおしそうにで、リングをあとにした。

自宅じたく火災かさい全焼ぜんしょうしてしまい、っていた過去かこのビデオや資料しりょうがすべて焼失しょうしつしてしまった。その日本にっぽんのプロレスファンから、自身じしん試合しあい収録しゅうろくしたビデオをおくられたさいには感激かんげきしたそうである。

2005ねん9月の「月刊げっかん朝鮮ちょうせん」によると、ソウル市内しない病院びょういん入院にゅういんちゅうで、あたまとっきの後遺症こういしょうによるのう血管けっかん疾患しっかん[注釈ちゅうしゃく 5]高血圧こうけつあつ心不全しんふぜん下肢かし浮腫ふしゅわずらっている状態じょうたいであったという。体重たいじゅうは78kgほどまでち、10ねんまえ再婚さいこんした夫人ふじん看病かんびょうたっていると韓国かんこく国内こくないほうじられた[30]

2006ねん9月9にち韓国かんこくソウルのソウル蚕室さんしつ総合そうごう体育館たいいくかんひらかれた「世界せかいプロレスリング協会きょうかい(WWA)2006ソウル大会たいかい」に、数少かずすくなき後輩こうはいたちのファイトを見守みまもるために姿すがたあらわした。車椅子くるまいすった大木たいぼくことキム・イルがあらわれると、2000にんあまりの観衆かんしゅうたちはあつ拍手はくしゅおくり、かれ名前なまえ連呼れんこした。痛風つうふうにもかかってからだ調子ちょうし相変あいかわらずよくはないが、「こん大会たいかいのような世界せかいてき大会たいかい今後こんご開催かいさいされるように、韓国かんこくプロレスの発展はってんのお手助てだすけになりたい。おおくの方々かたがた心配しんぱいしてくれたおかげ健康けんこう状態じょうたいがよくなった。熱心ねっしん後輩こうはいたちを後援こうえんするつもりだ。今後こんごもファンがプロレスにおおくの声援せいえんおくってくださればいとおもう」とのメッセージをのこした。

さい晩年ばんねんにテレビ番組ばんぐみ企画きかくアントニオ猪木いのき闘病とうびょうちゅう大木たいぼく自宅じたく訪問ほうもんしている。大木たいぼく猪木いのき再会さいかいおおいによろこび、わかおもばなしかたった。若手わかて時代じだい猪木いのき力道山りきどうざん徹底的てっていてきにしごかれ、ときにはびととして理不尽りふじん仕打しうちをけていたが、もっと親身しんみ相談そうだんってくれたのは大木たいぼくだったという。なお、猪木いのきのデビューせん相手あいて大木たいぼくつとめている。プロレスかいにおいてタブーともいえる「トップレスラーの得意とくいわざ使用しようしてはいけない」という暗黙あんもく了解りょうかい大木たいぼくやぶり、まんじかためを使用しようしたさい猪木いのきは「大木おおきさんのわざくびきわめておらず、ぼくまんじかためとは別物べつものでしょう」としてとがめることはかった。

2006ねん10月26にちソウル特別とくべつあしはらおつささえ病院びょういんにおいて慢性まんせい心不全しんふぜん腎臓じんぞう血管けっかん異常いじょうによる心臓麻痺しんぞうまひにより死去しきょ[31][32]。77さいぼつ

大木たいぼくぼっして14ねんとなる2020ねん大韓民国だいかんみんこく国家こっかほうくんしょ大木たいぼく金一きんいち)が韓国かんこくスポーツかい発展はってんくした功績こうせき評価ひょうかし、国家こっか顕彰けんしょうしゃとして大田おおた国立こくりつ大田おおたあきらちゅういん朝鮮ちょうせんばん国家こっか社会しゃかい貢献こうけんしゃ墓域ぼいき国立こくりつ墓地ぼち)に大木たいぼく改葬かいそうすることを決定けっていし、5月22にち大木たいぼく遺骨いこつ納骨のうこつされた[33]

獲得かくとくタイトル[編集へんしゅう]

WWA
  • WWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ:1かい[14]
  • WWA USタッグ王座おうざ:1かい(w / ミスター・モト[10]
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
日本にっぽんプロレス
大韓たいかんプロレス協会きょうかい

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

ヘッドバット
大木たいぼく石頭いしあたまとしてられ、ヘッドバットとうより「あたまとっき」とったほうてはまる。片手かたて相手あいてあたま鷲掴わしづかみにしいちほんあし体勢たいせいから投球とうきゅうフォームのように独特どくとくあたまとっきスタイルは「原爆げんばくあたまとっ」(または「一本いっぽんあしあたまとっき」)とばれ、リングガウンの背中せなかには原爆げんばく投下とうかキノコくものような噴煙ふんえんえがかれた。おなじくヘッドバットの使つかであったボボ・ブラジルとの試合しあいはヘッドバット合戦かっせんになることでられた。大木たいぼくのヘッドバットはのち藤原ふじわら喜明よしあきがれ、藤原ふじわら一本いっぽんあしヘッドバットの使つかとして有名ゆうめいである。サードロープにあしをかけて落差らくさけるバージョンも存在そんざいする。
Xかた
独自どくじのアレンジをくわえた変形へんけいまんじがため。相手あいてくびあしをかけず、後頭部こうとうぶひざ内側うちがわむことで脱出だっしゅつ困難こんなんにする。国際こくさいプロレス末期まっきのフィニッシュ・ホールドである。
なお日本にっぽんプロレス時代じだい猪木いのきとほぼ同型どうけいまんじかためを使用しようしていた時期じきがある。
急所きゅうしょ
アトミック・ドロップとはぎゃく方向ほうこうで、かいった状態じょうたい相手あいてたいしてダブル・レッグ・ダイブでかかげ、右足みぎあしかたちかたひざちになり、もも相手あいて股間こかんたたきつける。全日ぜんじつ馬場ばばこうそう展開てんかいしていたころ使用しようしていた。実況じっきょう中継ちゅうけいでは反則はんそくわざあつかいされていたが、アドリアン・アドニスらがもちいていたほぼ同型どうけいマンハッタン・ドロップ反則はんそくあつかいされていない。
ブレーンバスター
国際こくさいプロレス時代じだいにしばしば披露ひろうした。相手あいてうしろにおおきく背面はいめんからとすかたちである。
あし4のかた

入場にゅうじょうテーマきょく[編集へんしゅう]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • ゆたかとう猪木いのき日本にっぽんプロレス離脱りだつにより、馬場ばば番手ばんて地位ちいきずいていた大木たいぼくであったが、猪木いのきプロ復帰ふっき坂口さかぐち入団にゅうだんなどにより中堅ちゅうけん地位ちいあまんじていた1968ねん1がつには、国際こくさいプロレス当時とうじはTBSプロレス)への移籍いせきばなし沙汰ざたされた。TBSプロレスは旗揚はたあげシリーズで、エース候補こうほとしてしをはかったグレート草津くさつサンダー杉山すぎやまがことごとくタイトルマッチ(TWWA世界せかいヘビーきゅう選手権せんしゅけん)でルー・テーズやぶれ、当初とうしょ看板かんばん選手せんしゅとしてかんがえのなかったゆたかとうまでされるなど、日本人にっぽんじん陣営じんえい手薄てうすであること明白めいはくであった。そこで、当時とうじTBSプロレスのブッカーであったグレート東郷とうごう大木たいぼく接触せっしょくし、TBSプロレスへの移籍いせき一旦いったん合意ごうい大木たいぼく一時いちじにちプロに辞表じひょう提出ていしゅつ、TBSプロレスの興行こうぎょうおこなわれる予定よてい仙台せんだい来場らいじょうしたが、にちプロ後援こうえんしゃらの介入かいにゅう直前ちょくぜんでこれを阻止そしされ、大木たいぼくはTBSへの移籍いせき断念だんねんする結果けっかとなった。このいちけんのちユセフ・トルコによる東郷とうごうへの暴行ぼうこう事件じけん伏線ふくせんひとつとなった。
  • 得意とくいわざあたまとっきをえらんだ理由りゆうとしては、当時とうじ朝鮮ちょうせんけい石頭いしあたまというステレオタイプてきなイメージから力道山りきどうざんが「おまえ韓国かんこくじんだからあたまきたえなさい」といわれたことに依拠いきょする。大木たいぼくいわく、あたまとっきの鍛錬たんれん方法ほうほうゴルフクラブドライバー力道山りきどうざん頭部とうぶなぐっていたという。映画えいが力道山りきどうざんでのはつ登場とうじょうシーンはごえとともに鉄柱てっちゅう突進とっしんするシーンである
  • 日本にっぽんプロレスの崩壊ほうかい韓国かんこく拠点きょてんにしつつ、しん日本にっぽん全日本ぜんにほんりょう団体だんたい参戦さんせんしていた大木たいぼくであったが、1980ねん2がつには『国際こくさいプロレスアワー』の視聴しちょうりつ低迷ていめいにあえぐ東京とうきょう12チャンネル現在げんざいテレビ東京てれびとうきょう)にわれるかたちで、国際こくさいプロレスに入団にゅうだん[26]し、2がつシリーズである「'80スーパー・ファイト・シリーズ」から参戦さんせんした。しかし、国際こくさいプロレスの社長しゃちょうであった吉原よしはらいさおまった関知かんちしておらず、国際こくさいがわと12チャンネルがわ関係かんけいがさらにギクシャクするかたちとなったことは否定ひていできなかった。結局けっきょく大木たいぼく入団にゅうだんにおける『国際こくさいプロレスアワー』の視聴しちょうりつ低下ていかし(開始かいし当初とうしょからのディレクターが人事じんじ異動いどうによりけた影響えいきょうもある)、大木たいぼく自身じしんも11月1にち開幕かいまくの「'80デビリッシュ・ファイト・シリーズ」開催かいさいちゅう同年どうねん11がつ8にち退団たいだん[29]退団たいだんの「'81新春しんしゅんパイオニア・シリーズ」のポスターにも大木たいぼく写真しゃしん掲載けいさいされていた)。翌年よくねんには、国際こくさいプロレスは12チャンネルから放映ほうえいられて崩壊ほうかいした。
  • 1968ねん12月1にち宮城みやぎけんスポーツセンター大会たいかいで、大木たいぼくひだりみみ半分はんぶんがれ、だい流血りゅうけつする壮絶そうぜつなリング・アクシデントを経験けいけんしている。この試合しあいでは大木たいぼく猪木いのきとタッグをみ、ブルート・バーナード&ロニー・メイン対戦たいせん大木たいぼく執拗しつよう挑発ちょうはつたいしてバーナードは角材かくざいした。大木たいぼくはその角材かくざい自慢じまん石頭いしあたまけようとし、あたま固定こていするためかるくびった瞬間しゅんかんに、バーナードがろした角材かくざいひだりみみ直撃ちょくげき上半身じょうはんしん鮮血せんけつめるほどのだい流血りゅうけつとなった。試合しあい大木たいぼく病院びょういん直行ちょっこうし14はり縫合ぬいあわしたが、医師いしはなしでは「あと2センチほどでひだりみみ完全かんぜんちていた」というほどのだい怪我けがであった。同様どうようなケースとして、1959ねんキラー・コワルスキーがユーコン・エリックのひだりみみとしてしまった事故じこげられる。
  • 1970ねんだい後半こうはん交通こうつう事故じこにより重傷じゅうしょうい、一命いちめいめたものの後遺症こういしょうのこった。頭蓋骨ずがいこつなかんだガラス破片はへん手術しゅじゅつかさねても完全かんぜんのぞくことが出来できず、時折ときおりはげしいいたみにおそわれたという。それでも復帰ふっきのリングでは得意とくいあたまとっきをはな会場かいじょうかせたが、頭蓋骨ずがいこつんだガラスによって皮膚ひふやぶれ、ほぼ確実かくじつ流血りゅうけつするようになってしまった。関係かんけいしゃあたまとっきの使用しようひかえるよう進言しんげんしたが、「使つかうといたいからという理由りゆうわざ封印ふういんしたとなれば、試合しあいてくれるおきゃく(ファン)は失望しつぼうする」としてがんとしてききいれず、あたまとっきにこだわりつづけた。
  • 少年しょうねん時代じだい愛犬あいけんちんとういぬ日本にっぽんぐん防寒ぼうかんよう徴用ちょうようされた。愛犬あいけん一旦いったん脱走だっそうしてもどってきたがもどされた。大木たいぼくまもってあげられなかった後悔こうかいねんから1994ねん愛犬あいけん石碑せきひて、碑文ひぶんに「二度にどとこのくさ一本いっぽんけんいちひきそとぜい犠牲ぎせいとなることがないようにねがう」などをしるした[40]
  • 当時とうじ韓国かんこく大統領だいとうりょうであったぼく正煕せいき大木たいぼくのファンでもあり、大木たいぼく興行こうぎょうめんでも支援しえんおこなっていたとされる。大木たいぼくほおからねがいをわれたさいに「故郷こきょう電気でんきとおしてしい」と請願せいがんしたことから、離島りとうさきんじて1968ねん金島かねしま電気でんき開通かいつうしている[41]。しかし、ほお周辺しゅうへん北朝鮮きたちょうせんによる暗殺あんさつ計画けいかくなどで周辺しゅうへんあわただしくなり、興行こうぎょうめん支援しえんする余裕よゆうがなくなっていったとされ、ぼく正煕せいき暗殺あんさつ事件じけん発生はっせいで、政府せいふにより大木たいぼくたいしておこなわれていた多額たがく補助ほじょきん捻出ねんしゅつられてしまった[20]
  • 2003ねん3がつ6にちこう一山いちやまチョンア公園こうえんおこなわれた生誕せいたんイベントでデザイナーのアンドレ・キムからガウンが贈呈ぞうていされた。イベントにはアブドーラ・ザ・ブッチャーも出席しゅっせきした[42]
  • 2011ねん12月17にち出生しゅっしょうきょ金島かねしま記念きねんかん併設へいせつしたキム・イル記念きねん体育館たいいくかん開館かいかんし、銅像どうぞう除幕じょまくしきおこなわれた[43][44]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ しん日本にっぽんとはシリーズに参戦さんせんした外国がいこくじん選手せんしゅをそのまま自身じしんのプロモートする韓国かんこく興行こうぎょう招聘しょうへいする提携ていけいがされていたが、それがられたことも遠因えんいんにあった[20]
  2. ^ 全日本ぜんにほん参戦さんせんのオファーをかけたのは、たい猪木いのきせん評価ひょうかげたことにけた馬場ばばけて、グレート小鹿こじか中心ちゅうしんとなってったとされている[20]
  3. ^ 国際こくさいとの契約けいやくれたことから、事実じじつ上馬場かみばっぱのオファーにこたえたかたちであり、その条件じょうけんとして大木たいぼくのインター王座おうざ馬場ばば保持ほじ封印ふういんしていたアジアヘビーきゅう王座おうざ交換こうかん(さらに日本にほんテレビから金銭きんせん大木たいぼく支払しはらう)と6がつからの全日本ぜんにほんへの参戦さんせんはいっていたとされる。菊池きくちたかしによれば、大木たいぼくはこの時期じき子飼こがいの選手せんしゅ大量たいりょう離脱りだつしたため自主じしゅ興行こうぎょうてなくなっていたことにくわえ、自身じしん経営けいえいしていた海産物かいさんぶつぎょう不渡ふわたりをしてしまい、財政ざいせいめん窮地きゅうちたされていたことも背景はいけいにあったという[20]
  4. ^ 引退いんたいセレモニーがはじまるまえには馬場ばば東京とうきょうドームへあらわれ、大木たいぼくねぎらうとともにおたがいの近況きんきょうなどをかたっていた[20]
  5. ^ こののう血管けっかん疾患しっかんはいわゆるパンチドランカー症状しょうじょうであったとされる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  4. ^ ‘박치기왕’ 김일의 고향 전남 고흥 거금도” (朝鮮ちょうせん). 서울신문 (2012ねん8がつ23にち). 2022ねん11月15にち閲覧えつらん
  5. ^ きょうさと新聞しんぶん 1994ねん4がつ26にちごう
  6. ^ 정부, 고 김일씨에게 체육훈장 청룡장 추서ハンギョレ 2006-10-27
  7. ^ 当然とうぜん、プロレスの味方みかたです』角川書店かどかわしょてん、1982ねん6がつ20日はつか、143ぺーじ 
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  11. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.27』P84-85(2013ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777811476
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  17. ^ a b c 『1945-1985 激動げきどうのスポーツ40ねん (6) プロレス 秘蔵ひぞう写真しゃしんつづ激動げきどう』P155(1986ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  18. ^ 東京とうきょうスポーツ・2009ねん12月2にちづけ 6めんかくはん世紀せいきだい83かい
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  20. ^ a b c d e f 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.9』P32 -P39より。
  21. ^ 猪木いのきさん死去しきょ坂口さかぐちせいせん黄金おうごんコンビ”はつのシングル対決たいけつほか/めい勝負しょうぶベスト30&番外ばんがいへん”. 日刊にっかんスポーツ (2022ねん10がつ1にち). 2022ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん
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  40. ^ 박치기왕 임종 이틀 전…“내 머릿속 큰 돌멩이 좀 빼줘”中央ちゅうおうサンデー 2018.01.28
  41. ^ '박치기왕' 김일의 고향 전남 고흥 거금도ソウル新聞しんぶん 2012-08-22
  42. ^ 한국레슬링의 영원한 영웅 김일-김일 사진전시회 스케치オーマイニュース 2003.03.07
  43. ^ 金一きんいち(キム・イル)(プロレスラー)の記念きねん体育館たいいくかん開館かいかん◆ | 鳳仙花ほうせんか | ニュース | 東洋とうよう経済けいざい日報にっぽう”. www.toyo-keizai.co.jp. 2023ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  44. ^ かねいち記念きねん体育館たいいくかん開館かいかんMINDAN 2011.12.21

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • WWA極東きょくとうヘビーきゅう王座おうざ
  • タイガーマスク - 実在じつざい人物じんぶつとして登場とうじょう温厚おんこう先輩せんぱいとしてえがかれ、アニメばんこえ富田とみた耕生こうせい)にも登場とうじょうする。韓国かんこく代表だいひょうのキム・イルとして出場しゅつじょうしたアジア王座おうざ決定けっていせんでは、ミスター・クエスチョンに苦戦くせんするタイガーマスクに逆転ぎゃくてん秘策ひさく教示きょうしする。

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]