マイティ井上
マイティ | |
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プロフィール | |
リングネーム |
マイティ ミッキー |
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ニックネーム |
ミスター・グッドマン テクニカル・ソルジャー |
175cm | |
105kg | |
1949 | |
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スポーツ |
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トレーナー |
ヒロ・マツダ ビル・ロビンソン マティ |
デビュー |
1967 |
1998 |
マイティ
来歴 [編集 ]
1972
1974
1981
2000
ヨーロッパへの
2009
2010
エピソード[編集 ]
大阪学院大学 高等 学校 卒業 とあるが、実際 には高校 を2年 で中退 した上 で国際 プロレスに入門 している。井上 がプロレスで頑張 っていることを聞 いた高校 側 が、卒業 式 に呼 んだ上 で井上 に卒業 証書 を授与 して卒業 扱 いにしている[9]。井上 が通 っていたボディビルジムの後輩 にはアニマル浜口 がいる。若手 時代 に短期間 ではあるが『井上 トンパチ』というリングネームにさせられたことがある。前述 のヨーロッパ遠征 からの一時 帰国 は、1971年 2月 に井上 が宿泊 していた西 ドイツのホテルを訪 ねた吉原 功 が、カードが書 かれた紙 を見 せた上 で「おい井上 、遠征 を繰 り上 げて一時 帰国 してくれないか。オックス・ベーカー戦 で入院 中 のラッシャー木村 が出場 出来 るか分 からないんだ」と話 し、井上 は「僕 は遠征 してからまだ半年 しか経 ってないんですよ」と訴 えたものの、吉原 が「もうカードは発表 してるからとにかく帰国 して来 い。すぐに戻 してやるから」とい返 されて一時 帰国 したという。対戦 相手 がビル・ミラーと聞 かされた際 には「ワールドリーグ戦 で力道山 と戦 ったミスターXでしょ?」と恐 れていたという[2]。初 の金網 デスマッチが、1972年 11月27日 に愛知 県 体育館 で発生 したストロング小林 &グレート草津 VSディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー戦 における暴動 騒 ぎ(井上 は全 く関与 しておらず、当日 井上 はホセ・アローヨと対戦 し、井上 VSアローヨはTBS『TWWAプロレス中継 』にて録画 中継 された[10])のお詫 び興行 であった。その際 井上 は「お詫 び興行 で金網 デスマッチをやる必要 はない。金網 デスマッチは正直 やりたくなかったね」と語 っている[11]。- IWA
世界 ヘビー級 王座 の防衛 戦 でマッドドッグ・バションに敗 れ、後 にラッシャー木村 がIWA世界 ヘビー級 王座 を獲得 した際 は「正直 せいせいしたよ。これで肩 の荷 が下 りたからね」と感 じたという[12]。 日本人 同士 の闘 いが少 なかった昭和 50年代 前半 で、国際 プロレスのエースのラッシャー木村 のIWA世界 王座 に数 度 挑戦 するという下克上 、闘 う姿勢 を見 せたがタイトル奪取 はならず。中 でも1978年 5月 1日 に富士 で行 われた試合 では、ジプシー・ジョーとの間 で挑戦 者 決定 戦 を行 い、4月 11日 に高崎 で引 き分 けた後 に4月 27日 に津山 で勝利 した上 で木村 に挑戦 している[13]。ちなみに同門 のグレート草津 、アニマル浜口 、阿修羅 ・原 、寺西 勇 らは木村 に挑戦 していない。井上 は「小林 さん(ストロング小林 )が離脱 しなければ国際 プロレスは潰 れていなかったので、それは許 せない」とコメントしている[14]。しかし2021年 12月31日 、小林 が逝去 した際 には追悼 するコメントを寄 せている。国際 プロレスの中 ではどんなタイプの選手 が相手 でもいい試合 が出来 る万能 型 であった。海外 遠征 時代 にアンドレ・ザ・ジャイアント(モンスター・ロシモフ)と知 り合 い、アンドレの死 まで親交 を続 けた。初期 はフランス語 が喋 れなかったマイティであるが、アンドレの話 すことはなぜか理解 出来 ており、それ以来 親友 として付 き合 った[12]。アンドレが晩年 に全日本 プロレスに来 ていた頃 は良 き話 し相手 だった。国際 プロレス時代 のタイツは花 柄 ・サイケ調 ・モザイク柄 とド派手 でガウンも純白 ショートウエディングドレスのような、良 く言 えば王子 様 ・悪 く言 えば乙女 チックなガウンであった。- 1978
年 に東映 のドル箱 シリーズ、『トラック野郎 ・突撃 一 番 星 』(シリーズ7作 目 )のクライマックスシーンに病院 のガードマン役 で出演 。主人公 ・星 桃 次郎 (菅原 文太 )を投 げ飛 ばしている。 国際 プロレス時代 、下北沢 でビアホールを経営 していた事 がある。歌 は数 枚 を発表 する。- レスラー
引退 後 は、ジャイアント馬場 夫人 の馬場 元子 に全日本 プロレスを強制 退社 させられる寸前 だったとのこと。1998年 6月12日 、日本武道館 での引退 セレモニーで周囲 の関係 者 の助言 により、事前 の了解 を取 らずに引退 後 はレフェリーをすると宣言 する。 新 日本 プロレスが嫌 いである。新日本 が嫌 いな理由 として「アントニオ猪木 の自分 だけ良 ければいいという強引 なやり方 」「後 にブルーノ・サンマルチノを破 りWWWF(現 WWE)王者 となるスーパースター・ビリー・グラハムからIWA世界 王座 を奪取 し、AWA世界 王者 バーン・ガニアとダブルタイトル戦 で引 き分 けるなどの実績 があるのにヤマハ・ブラザーズ(星野 勘太郎 &山本 小 鉄 )にギブアップ負 けさせられたりした」ことなどが理由 といわれる。新日本 が旗揚 げした際 も「新日本 は長続 きせず、東京 プロレスの二 の舞 になる」と思 ったという[12]。国際 プロレス社長 であった吉原 功 に「全員 新日本 に行 ってもらうから」と言 われた時 は井上 は即座 に新 日本 参戦 を断 り、竹内 宏 介 を通 じて馬場 と合 って「私 の他 にも数 人 お願 いします」と話 し、菅原 伸 義 やデビュー1年 弱 の冬木 弘道 などの若手 選手 を引 き連 れて全日本 プロレスへ入団 した。その際 、彼 らに対 して「プロレスを続 けたいのか?」と問 い正 したという。吉原 に反逆 したのはこの時 が初 めてであった[15]。国際 出身 者 では途中 から全日本 に移籍 した木村 とともに、プロレスリング・ノア旗揚 げまで全日本 に残留 した。初 のヨーロッパ遠征 の際 、入場 曲 にちあきなおみの「四 つのお願 い」を使用 した[16]。この話 を聞 いた東京 12チャンネル(現 :テレビ東京 )『国際 プロレスアワー』のディレクターが思 いつき、1974年 9月 15日 の後楽園 ホール大会 でスーパースター・ビリー・グラハムの入場 時 に「ジーザス・クライスト・スーパースター」(101ストリングスによる、インストゥルメンタル・カバー・バージョン)を流 したのが、日本 における選手 入場 時 にテーマが流 された最初 である[17]。
得意 技 [編集 ]
- サマーソルト・ドロップ
- セントーンの
応用 技 。仰向 けに横 たわった相手 に、助走 をつけながら前 転 宙返 りをし、相手 に背面 を浴 びせていく技 である。別名 はサンセット・フリップ。この技 は彼 の代名詞 になっており、他 の使 い手 は現在 のプロレスラーに少 なく、サマーソルト・ドロップ=マイティ井上 といわれるくらいである。「ウワアアア!」と大 きな掛 け声 を上 げながら放 つのが定番 のムーブである。なおプロレスリングFREEDOMSの葛西 純 はZERO1-MAX時代 に「マイティ井上 」と叫 びながらこの技 を見舞 ったことがある。 - ジャーマン・スープレックス
当時 のジュニア・ヘビー級 の選手 はこぞってフィニッシュ・ムーブにしていたが、井上 はここ一番 でしか出 さない本当 の奥 の手 として使用 していた。- フライング・ショルダー・アタック
- ミル・マスカラスのフライング・クロスチョップと
似 た技 で肩 からぶつかっていく。2連発 からのサマーソルト・ドロップがフィニッシュホールドであった。全日 正規 軍 の一員 として天龍 同盟 と戦 った6人 タッグマッチで、場外 乱戦 の中 エプロンにいた天龍 源一郎 にこの技 を仕掛 け、リングアウト勝 ちを挙 げたことがある。 - ストマック・ブロック
- シュミット
式 バックブリーカーの要領 で相手 を抱 え上 げ、自 ら片 膝 を立 てて相手 の腹部 を膝 に打 ち付 ける。この技 でオースチン・アイドルの肋骨 を折 ったことがある。 - バックドロップ
相手 の片足 を抱 えながら高速 急 角度 で落 とす。- オースイ・スープレックス(オージー・スープレックス)
相手 の背後 から両 腕 をクラッチしたまま尻餅 をつく形 で後方 へと倒 れ込 み、相手 もろとも体 を後 転 させて相手 の両 肩 をマットに付 け、自身 の背中 をブリッジするように仰 け反 らせてフォールを奪 う技 。タイガー・スープレックスに似 ているが、タイガー・スープレックスは背後 から捕 まえた相手 を後方 に反 り投 げる投 げ技 であり、オースィー・スープレックスは丸 め込 み技 の一種 で、技 が決 まった時 の体勢 は同 じだが、技 を決 める過程 が異 なっている。丸 め込 み技 回転 エビ固 め、逆 さ押 さえ込 み、フライング・ヘッドシザースから丸 め込 むなどの一瞬 の返 し技 を多数 持 っていた。- チョップ
腰 が入 った胸板 へのチョップ。ストロング小林 、ラッシャー木村 、アニマル浜口 ら国際 プロレスの選手 は得意 技 にしていた。
テーマ曲 [編集 ]
国際 プロレス時代 「フリーライド・サーファー」全日本 プロレス時代 「Speed Trap」
タイトル歴 [編集 ]
- NWAインターナショナル・ジュニアヘビー
級 王座 世界 ジュニアヘビー級 王座 - アジアタッグ
王座 (w / アニマル浜口 、石川 隆士 )
ディスコグラフィ[編集 ]
- ふるいボトル(ローオンレコード) - 「マイティ・
井上 」名義 。オムニバスアルバム「ローオン歌謡 列伝 !!」(2011年 9月 21日 、Pヴァイン)にも収録 - あの
娘 のお店 - 「マイティー井上 」名義 。西尾 三枝子 とデュエット - エマの
肖像 (1984年 8月 21日 、ビクター) - プロレス実況 中継 番組 「全日本 プロレス中継 30」(日本 テレビ系列 )1994年 8月 期 エンディング曲
脚注 [編集 ]
- ^ 『
月刊 Gスピリッツ』Vol.2、辰巳 出版 、2007年 10月 3日 、[要 ページ番号 ]。 - ^ a b 『
日本 プロレス事件 史 vol.8』、P41 - ^ “The GPW matches fought by Mighty Inoue in 1972”. Wrestlingdata.com. 2023
年 12月26日 閲覧 。 - ^ “IWE Big Challenge Series - Day 3”. Wrestlingdata.com. 2014
年 11月25日 閲覧 。 - ^ 『
忘 れじの国際 プロレス』、P101 - ^ “AJPW Giant Series 1981 - Tag 7”. Cagematch.net. 2024
年 2月 11日 閲覧 。 - ^ “The matches Mighty Inoue fought @ Germany in the year 1982”. Wrestlingdata.com. 2024
年 2月 11日 閲覧 。 - ^ 『
忘 れじの国際 プロレス』、P10 - ^ 『
忘 れじの国際 プロレス』、P11 - ^ 『
忘 れじの国際 プロレス』、P96 - ^ 『
日本 プロレス事件 史 vol.10』、P11 - ^ a b c 『
忘 れじの国際 プロレス』、P12 - ^ 『
忘 れじの国際 プロレス』、P98 - ^ マイティ
井上 トークショー(2011年 12月11日 )) - ^ 『
忘 れじの国際 プロレス』、P13 - ^ 『
忘 れじの国際 プロレス』、P92 - ^
流 智美 「あの日 、あの時 Vol.142 スーパースター・ビリー・グラハムvsマイティ井上 @大分 県 体育館 」、『週刊 プロレス』No.1760、平成 26年 10月 15日 号 (10月 1日 発行 )、78頁 、2014年 。
参考 文献 [編集 ]
- 『
忘 れじの国際 プロレス』ベ ースボ ール・マガジン社 、2014年 。ISBN 9784583620800。 - 『
週刊 プロレスSPECIAL日本 プロレス事件 史 Vol.8』ベ ースボ ール・マガジン社 、2015年 。ISBN 9784583622699。 - 『
週刊 プロレスSPECIAL日本 プロレス事件 史 Vol.10』ベ ースボ ール・マガジン社 、2015年 。ISBN 9784583622996。