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マイティ井上いのうえ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マイティ井上いのうえ
プロフィール
リングネーム マイティ井上いのうえ
ミッキー井上いのうえ
井上いのうえ トンパチ[1]
井上いのうえ 円蔵えんぞう
本名ほんみょう 井上いのうえ 末雄すえお
ニックネーム ミスター・グッドマン
テクニカル・ソルジャー
和製わせいマットの魔術まじゅつ
身長しんちょう 175cm
体重たいじゅう 105kg
誕生たんじょう (1949-04-12) 1949ねん4がつ12にち(75さい
出身しゅっしん 大阪おおさか大阪おおさか福島ふくしま
スポーツれき 柔道じゅうどう
トレーナー ヒロ・マツダ
ビル・ロビンソン
マティ鈴木すずき
デビュー 1967ねん7がつ21にち
引退いんたい 1998ねん6月12にち
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マイティ井上いのうえ(マイティいのうえ / Mighty Inoue1949ねん4がつ12にち - )は、大阪おおさか大阪おおさか福島ふくしま出身しゅっしん血液けつえきがたAがた日本にっぽんもとプロレスラーもとレフェリー解説かいせつしゃ本名ほんみょう井上いのうえ 末雄すえお(いのうえ すえお)。リングネームの「マイティ」は新人しんじん時代じだいにコーチをつとめていたマティ鈴木すずき由来ゆらい

来歴らいれき[編集へんしゅう]

大阪学院大学おおさかがくいんだいがく高等こうとう学校がっこう時代じだい柔道じゅうどうおこない、高校こうこう卒業そつぎょう後述こうじゅつ国際こくさいプロレスはいり。1967ねん7がつ21にち名古屋なごや金山かなやま体育館たいいくかんにおける仙台せんだいきょうせんでデビュー。小林こばやし省三しょうぞう藤井ふじい康行やすゆきとともにマティ鈴木すずきのコーチをける。1970ねん8がつからは小林こばやしともヨーロッパ遠征えんせい出向でむき、ミッキー・イノウエMikki Inoue)のリングネームで活動かつどうした。1971ねん3月2にち東京とうきょうおこなわれた日本にっぽんプロレスとの興行こうぎょう戦争せんそうけて一時いちじ帰国きこくし、ビル・ミラー対戦たいせんしたのち[2]再度さいど海外かいがい遠征えんせい出立しゅったつカナダモントリオール地区ちくでは日系にっけいヒールミツ荒川あらかわのパートナーとなり、エドワード・カーペンティアジョー・ルダック対戦たいせんした[3]

1972ねん10月の帰国きこくラッシャー木村きむらサンダー杉山すぎやまグレート草津くさつらにぐエース候補こうほ期待きたいされ、得意とくいわざサマーソルト・ドロップ(サンセット・フリップ)と、ちゅうあんこがた体型たいけい一躍いちやく人気にんきた。おなじような体型たいけいDRAGON GATE所属しょぞくレスラー、ドン・フジイは、井上いのうえ目標もくひょうにしていると発言はつげんしている。1973ねん2がつ27にちにはホセ・クィンテロと自身じしんはつ金網かなあみデスマッチおこなっている[4]

1974ねん10月7にちスーパースター・ビリー・グラハムやぶIWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく井上いのうえは10月1にちと10がつ5にちにもグラハムに挑戦ちょうせんしたがいずれもやぶれており、さん度目どめ正直しょうじきでの戴冠たいかんとなった[5]。25さいにして先輩せんぱい木村きむら草津くさつ国際こくさいプロレスのエースとなった。同年どうねん11がつ4にちレイ・スティーブンスやぶはつ防衛ぼうえい成功せいこうし、11月21にちにはAWA世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃバーン・ガニアとダブルタイトルせんおこなけている。よく1975ねんも2がつ2にちダニー・リンチ挑戦ちょうせん退しりぞけたが、4がつ10日とおかマッドドッグ・バションやぶ王座おうざ転落てんらく。エースとしては半年はんとし程度ていど短命たんめい政権せいけんだった。その草津くさつアニマル浜口はまぐち阿修羅あしゅらはらんでIWA世界せかいタッグ王座おうざ保持ほじ、2〜3番手ばんてのポジションでたたかった。とく浜口はまぐちとは全日本ぜんにほんプロレスとの対抗たいこうせんさいアジアタッグ王座おうざ獲得かくとくしためいコンビで、「和製わせいハイ・フライヤーズ」または「浪速なにわブラザーズ」などとばれ、ワイルド・サモアンズ上田うえだすけ&マサ斎藤さいとう大木おおき金太郎きんたろう&上田うえだジプシー・ジョー&キラー・ブルックス、ジョー&キラー・カール・クラップマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンなどの強豪きょうごうチームを相手あいて王座おうざ防衛ぼうえいした。はらとのコンビでは、1981ねん8がつ8にちおこなわれたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの防衛ぼうえいせんにおいて、国際こくさいプロレス最後さいご金網かなあみタッグ・デスマッチをおこなっている。

1981ねん国際こくさいプロレスが崩壊ほうかいしてからは、はら菅原すがわらしんよし冬木ふゆき弘道ひろみちとも全日本ぜんにほんプロレスに移籍いせき。10月9にち蔵前くらまえ国技こくぎかん大会たいかいでは、ミル・マスカラス保持ほじしていたIWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ(かつて自身じしん保持ほじしていた国際こくさいプロレスばんとはべつのタイトル)挑戦ちょうせんした[6]1982ねん9月から10がつにかけてはドイツハノーバー遠征えんせいして、クラウス・ワラスムース・モロウスキーブッチャー・ブラニガントニー・セント・クレアーエイドリアン・ストリートエド・ウィスコスキースティーブ・ライトミレ・ツルノ、そして国際こくさいプロレス時代じだいきゅうてきヤス・フジイビッグ・ジョン・クインとも対戦たいせんした[7]

全日本ぜんにほんではジャイアント馬場ばばジャンボ鶴田つるたなど大型おおがたぞろいのヘビーきゅうくらべジュニアヘビーきゅう手薄てうすであったことから、110kgだったウェイトを105kgにとしジュニア戦線せんせんてんじ、NWAインターナショナル・ジュニアヘビーきゅう王座おうざげん石川いしかわたかしんでのアジアタッグ王座おうざなどのベルトをく(そのころオースイ・スープレックスというわざをよく使つかっていた)。ジュニア王座おうざ戴冠たいかんには、国際こくさいプロレス時代じだいにも流血りゅうけつこうそう展開てんかいしたジプシー・ジョー挑戦ちょうせんけた。その中堅ちゅうけん選手せんしゅとしてえいみなもとはるかふち正信まさのぶらとのユニット「悪役あくやく商会しょうかい」で馬場ばばひきいる「ファミリー軍団ぐんだん」との凄絶せいぜつなおわらこうそうひろげるも、1997ねん4がつ内臓ないぞう疾患しっかんのため長期ちょうき欠場けつじょう結局けっきょく1998ねん6がつ現役げんえき引退いんたいし、8がつからはレフェリーに転向てんこうした。レフェリー転向てんこう直後ちょくごはそのあまりにぎこちないレフェリングがぎゃく観客かんきゃくからだいけをしており、試合しあいをしているレスラーをってしまうこともあった。

2000ねん全日ぜんじつ大量たいりょう離脱りだつプロレスリング・ノア旗揚はたあげの一連いちれんうごきにたっては離脱りだつがわ賛同さんどうし、ノア移籍いせきもレフェリーをつとめていた。あかいコスチュームがトレードマークであり、おもえいはじめvs百田ひゃくだ光雄みつおなどの前座ぜんざ試合しあいのレフェリングを担当たんとうしていた。レフェリングはおもに「言葉ことばのプロレス」が主体しゅたいである。ノア移籍いせきはレフェリー紹介しょうかいさい観衆かんしゅうから一斉いっせいに「マァイティーー!!」とばれるのがお約束やくそくとなっていた。これは全日本ぜんにほん時代じだいジョー樋口ひぐちの「ジョー!!」や、全日本ぜんにほん残留ざんりゅうした和田わだ京平きょうへいの「キョーヘー!!」のコールからの伝統でんとうである。2003ねんからはテレビ中継ちゅうけい解説かいせつおこなっていた。

ヨーロッパへの遠征えんせい経験けいけん豊富ほうふで、また所属しょぞくしていた国際こくさいプロレスにはヨーロッパの外国がいこくじん選手せんしゅおお参戦さんせんしていたこともあり外国がいこく堪能かんのうである。このことをかして外国がいこくじんがかり兼務けんむし、リッキー・マルビンバイソン・スミス常連じょうれん外国がいこくじん選手せんしゅからは非常ひじょうたよりにされていた。ノアは外国がいこくじん選手せんしゅがどちらかとうと目立めだたないが「うちの外国がいこくじんレスラーはいい選手せんしゅおおいよ」とつね外国がいこくじん選手せんしゅをカバーするがわまわっていた。

2009ねん12月31にちづけでレフェリー契約けいやく満了まんりょうとなりノアを退団たいだん[1]。そのおこなわれた天下てんかさんぶんけい大晦日おおみそか年越としこしスペシャル選手せんしゅとして出場しゅつじょうした。

2010ねん5月22にち、ノアの後楽園こうらくえんホール大会たいかい「マイティ井上いのうえレフェリー引退いんたい記念きねん興行こうぎょう」のレフェリングを最後さいご引退いんたいした。現在げんざい宮崎みやざきけん都城みやこのじょう在住ざいじゅう[8]

エピソード[編集へんしゅう]

  • 大阪学院大学おおさかがくいんだいがく高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょうとあるが、実際じっさいには高校こうこうを2ねん中退ちゅうたいしたうえ国際こくさいプロレスに入門にゅうもんしている。井上いのうえがプロレスで頑張がんばっていることをいた高校こうこうがわが、卒業そつぎょうしきんだじょう井上いのうえ卒業そつぎょう証書しょうしょ授与じゅよして卒業そつぎょうあつかいにしている[9]井上いのうえかよっていたボディビルジムの後輩こうはいにはアニマル浜口はまぐちがいる。
  • 若手わかて時代じだい短期間たんきかんではあるが『井上いのうえトンパチ』というリングネームにさせられたことがある。
  • 前述ぜんじゅつのヨーロッパ遠征えんせいからの一時いちじ帰国きこくは、1971ねん2がつ井上いのうえ宿泊しゅくはくしていた西にしドイツのホテルをたずねた吉原よしはらいさおが、カードがかれたかみせたうえで「おい井上いのうえ遠征えんせいげて一時いちじ帰国きこくしてくれないか。オックス・ベーカーせん入院にゅういんちゅうのラッシャー木村きむら出場しゅつじょう出来できるかからないんだ」とはなし、井上いのうえは「ぼく遠征えんせいしてからまだ半年はんとししかってないんですよ」とうったえたものの、吉原よしはらが「もうカードは発表はっぴょうしてるからとにかく帰国きこくしてい。すぐにもどしてやるから」といいかえされて一時いちじ帰国きこくしたという。対戦たいせん相手あいてビル・ミラーかされたさいには「ワールドリーグせん力道山りきどうざんたたかったミスターXでしょ?」とおそれていたという[2]
  • はつ金網かなあみデスマッチが、1972ねん11月27にち愛知あいちけん体育館たいいくかん発生はっせいしたストロング小林こばやし&グレート草津くさつVSディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーせんにおける暴動ぼうどうさわぎ(井上いのうえまった関与かんよしておらず、当日とうじつ井上いのうえはホセ・アローヨと対戦たいせんし、井上いのうえVSアローヨはTBSTWWAプロレス中継ちゅうけい』にて録画ろくが中継ちゅうけいされた[10])のお興行こうぎょうであった。そのさい井上いのうえは「お興行こうぎょう金網かなあみデスマッチをやる必要ひつようはない。金網かなあみデスマッチは正直しょうじきやりたくなかったね」とかたっている[11]
  • IWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいせんでマッドドッグ・バションにやぶれ、のちにラッシャー木村きむらがIWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとくしたさいは「正直しょうじきせいせいしたよ。これでかたりたからね」とかんじたという[12]
  • 日本人にっぽんじん同士どうしたたかいがすくなかった昭和しょうわ50年代ねんだい前半ぜんはんで、国際こくさいプロレスのエースのラッシャー木村きむらのIWA世界せかい王座おうざすう挑戦ちょうせんするという下克上げこくじょうたたか姿勢しせいせたがタイトル奪取だっしゅはならず。なかでも1978ねん5がつ1にち富士ふじおこなわれた試合しあいでは、ジプシー・ジョーとのあいだ挑戦ちょうせんしゃ決定けっていせんおこない、4がつ11にち高崎たかさきけたのちに4がつ27にち津山つやま勝利しょうりしたうえ木村きむら挑戦ちょうせんしている[13]。ちなみに同門どうもんのグレート草津くさつ、アニマル浜口はまぐち阿修羅あしゅらはら寺西てらにしいさむらは木村きむら挑戦ちょうせんしていない。
  • 井上いのうえは「小林こばやしさん(ストロング小林こばやし)が離脱りだつしなければ国際こくさいプロレスはつぶれていなかったので、それはゆるせない」とコメントしている[14]。しかし2021ねん12月31にち小林こばやし逝去せいきょしたさいには追悼ついとうするコメントをせている。
  • 国際こくさいプロレスのなかではどんなタイプの選手せんしゅ相手あいてでもいい試合しあい出来でき万能ばんのうがたであった。
  • 海外かいがい遠征えんせい時代じだいアンドレ・ザ・ジャイアント(モンスター・ロシモフ)とい、アンドレのまで親交しんこうつづけた。初期しょきフランス語ふらんすごしゃべれなかったマイティであるが、アンドレのはなすことはなぜか理解りかい出来できており、それ以来いらい親友しんゆうとしてった[12]。アンドレが晩年ばんねん全日本ぜんにほんプロレスにていたころはな相手あいてだった。
  • 国際こくさいプロレス時代じだいのタイツははながらサイケ調しらべモザイクとド派手はででガウンも純白じゅんぱくショートウエディングドレスのような、えば王子おうじさまわるえば乙女おとめチックなガウンであった。
  • 1978ねん東映とうえいのドルばこシリーズ、『トラック野郎やろう突撃とつげきいちばんほし』(シリーズ7さく)のクライマックスシーンに病院びょういんガードマンやく出演しゅつえん主人公しゅじんこうほしもも次郎じろう菅原すがわら文太ぶんた)をばしている。
  • 国際こくさいプロレス時代じだい下北沢しもきたざわビアホール経営けいえいしていたことがある。うたすうまい発表はっぴょうする。
  • レスラー引退いんたいは、ジャイアント馬場ばば夫人ふじん馬場ばば元子もとこ全日本ぜんにほんプロレス強制きょうせい退社たいしゃさせられる寸前すんぜんだったとのこと。1998ねん6月12にち日本武道館にほんぶどうかんでの引退いんたいセレモニーで周囲しゅうい関係かんけいしゃ助言じょげんにより、事前じぜん了解りょうかいらずに引退いんたいはレフェリーをすると宣言せんげんする。
  • しん日本にっぽんプロレスきらいである。新日本しんにほんきらいな理由りゆうとして「アントニオ猪木いのき自分じぶんだけければいいという強引ごういんなやりかた」「のちブルーノ・サンマルチノやぶWWWFげんWWE王者おうじゃとなるスーパースター・ビリー・グラハムからIWA世界せかい王座おうざ奪取だっしゅし、AWA世界せかい王者おうじゃバーン・ガニアとダブルタイトルせんけるなどの実績じっせきがあるのにヤマハ・ブラザーズ星野ほしの勘太郎かんたろう&山本やまもとしょうてつ)にギブアップけさせられたりした」ことなどが理由りゆうといわれる。新日本しんにほん旗揚はたあげしたさいも「新日本しんにほん長続ながつづきせず、東京とうきょうプロレスまいになる」とおもったという[12]国際こくさいプロレス社長しゃちょうであった吉原よしはらいさおに「全員ぜんいん新日本しんにほんってもらうから」とわれたとき井上いのうえ即座そくざしん日本にっぽん参戦さんせんことわり、竹内たけうちひろしかいつうじて馬場ばばって「わたしほかにもすうにんねがいします」とはなし、菅原すがわらしんよしやデビュー1ねんじゃく冬木ふゆき弘道ひろみちなどの若手わかて選手せんしゅれて全日本ぜんにほんプロレスへ入団にゅうだんした。そのさいかれらにたいして「プロレスをつづけたいのか?」とただしたという。吉原よしわら反逆はんぎゃくしたのはこのときはじめてであった[15]国際こくさい出身しゅっしんしゃでは途中とちゅうから全日本ぜんにほん移籍いせきした木村きむらとともに、プロレスリング・ノア旗揚はたあげまで全日本ぜんにほん残留ざんりゅうした。
  • はつのヨーロッパ遠征えんせいさい入場にゅうじょうきょくちあきなおみの「よっつのおねが」を使用しようした[16]。このはなしいた東京とうきょう12チャンネル(げんテレビ東京てれびとうきょう)『国際こくさいプロレスアワー』のディレクターがおもいつき、1974ねん9がつ15にち後楽園こうらくえんホール大会たいかいでスーパースター・ビリー・グラハムの入場にゅうじょうに「ジーザス・クライスト・スーパースター」(101ストリングスによる、インストゥルメンタル・カバー・バージョン)をながしたのが、日本にっぽんにおける選手せんしゅ入場にゅうじょうにテーマがながされた最初さいしょである[17]

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

サマーソルト・ドロップ
セントーン応用おうようわざ仰向あおむけによこたわった相手あいてに、助走じょそうをつけながらぜんてん宙返ちゅうがえりをし、相手あいて背面はいめんびせていくわざである。別名べつめいはサンセット・フリップ。このわざかれ代名詞だいめいしになっており、使つか現在げんざいのプロレスラーにすくなく、サマーソルト・ドロップ=マイティ井上いのうえといわれるくらいである。「ウワアアア!」とおおきなごえげながらはなつのが定番ていばんのムーブである。なおプロレスリングFREEDOMS葛西かさいじゅんZERO1-MAX時代じだいに「マイティ井上いのうえ」とさけびながらこのわざ見舞みまったことがある。
ジャーマン・スープレックス
当時とうじのジュニア・ヘビーきゅう選手せんしゅはこぞってフィニッシュ・ムーブにしていたが、井上いのうえはここ一番いちばんでしかさない本当ほんとうおくとして使用しようしていた。
フライング・ショルダー・アタック
ミル・マスカラスのフライング・クロスチョップとわざかたからぶつかっていく。2連発れんぱつからのサマーソルト・ドロップがフィニッシュホールドであった。全日ぜんじつ正規せいきぐん一員いちいんとして天龍てんりゅう同盟どうめいたたかった6にんタッグマッチで、場外じょうがい乱戦らんせんなかエプロンにいた天龍てんりゅう源一郎げんいちろうにこのわざ仕掛しかけ、リングアウトちをげたことがある。
ストマック・ブロック
シュミットしきバックブリーカー要領ようりょう相手あいてかかげ、みずかかたひざてて相手あいて腹部ふくぶひざける。このわざオースチン・アイドル肋骨あばらぼねったことがある。
バックドロップ
相手あいて片足かたあしかかえながら高速こうそくきゅう角度かくどとす。
オースイ・スープレックス(オージー・スープレックス)
相手あいて背後はいごからりょううでをクラッチしたまま尻餅しりもちをつくかたち後方こうほうへとたおみ、相手あいてもろともからだあところがさせて相手あいてりょうかたをマットにけ、自身じしん背中せなかをブリッジするようにらせてフォールをうばわざタイガー・スープレックスているが、タイガー・スープレックスは背後はいごからつかまえた相手あいて後方こうほうげるわざであり、オースィー・スープレックスはまるわざ一種いっしゅで、わざまったとき体勢たいせいおなじだが、わざめる過程かていことなっている。
まるわざ
回転かいてんエビかたさかさえ、フライング・ヘッドシザースからまるむなどの一瞬いっしゅんかえわざ多数たすうっていた。
チョップ
こしはいった胸板むないたへのチョップ。ストロング小林こばやし、ラッシャー木村きむら、アニマル浜口はまぐち国際こくさいプロレスの選手せんしゅ得意とくいわざにしていた。

テーマきょく[編集へんしゅう]

  • 国際こくさいプロレス時代じだい「フリーライド・サーファー」
  • 全日本ぜんにほんプロレス時代じだい「Speed Trap」

タイトルれき[編集へんしゅう]

国際こくさいプロレス
全日本ぜんにほんプロレス

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 月刊げっかんGスピリッツ』Vol.2、辰巳たつみ出版しゅっぱん、2007ねん10がつ3にち[ようページ番号ばんごう] 
  2. ^ a b 日本にっぽんプロレス事件じけん vol.8』、P41
  3. ^ The GPW matches fought by Mighty Inoue in 1972”. Wrestlingdata.com. 2023ねん12月26にち閲覧えつらん
  4. ^ IWE Big Challenge Series - Day 3”. Wrestlingdata.com. 2014ねん11月25にち閲覧えつらん
  5. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』、P101
  6. ^ AJPW Giant Series 1981 - Tag 7”. Cagematch.net. 2024ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  7. ^ The matches Mighty Inoue fought @ Germany in the year 1982”. Wrestlingdata.com. 2024ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  8. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』、P10
  9. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』、P11
  10. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』、P96
  11. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん vol.10』、P11
  12. ^ a b c わすれじの国際こくさいプロレス』、P12
  13. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』、P98
  14. ^ マイティ井上いのうえトークショー(2011ねん12月11にち
  15. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』、P13
  16. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』、P92
  17. ^ ながれ智美ともみ「あの、あのときVol.142 スーパースター・ビリー・グラハムvsマイティ井上いのうえ大分おおいたけん体育館たいいくかん」、『週刊しゅうかんプロレス』No.1760、平成へいせい26ねん10がつ15にちごう(10がつ1にち発行はっこう)、78ぺーじ、2014ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • わすれじの国際こくさいプロレス』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2014ねんISBN 9784583620800 
  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.8』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2015ねんISBN 9784583622699 
  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.10』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2015ねんISBN 9784583622996 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]