天龍てんりゅう同盟どうめい

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天龍てんりゅう同盟どうめい(てんりゅうどうめい)は、かつて全日本ぜんにほんプロレス存在そんざいしたプロレスラー天龍てんりゅう源一郎げんいちろう中心ちゅうしんとしたユニット。別名べつめいレボリューション」。

概要がいよう[編集へんしゅう]

革命かくめい前夜ぜんやつるりゅうコンビの確執かくしつ[編集へんしゅう]

デビュー直後ちょくご天龍てんりゅう源一郎げんいちろうジャンボ鶴田つるたなかさくにはなしをするなかで、二人ふたりんだつるりゅうコンビは天龍てんりゅうませやくとなり相手あいてからわざけまくり、タッチをけた鶴田つるたあばれまわるという役割やくわりだった。それも81ねん天龍てんりゅうが№3として台頭たいとうはじめるとその関係かんけい変化へんかし、試合しあいわればそれぞれ個別こべつにインタビューをけ、われば鶴田つるたはバーや酒場さかばし、天龍てんりゅう会社かいしゃへの改善かいぜんあん理解りかいしめすも鶴田つるたは「エースにされても社長しゃちょう重役じゅうやくにはなるはなく、全日本ぜんにほんやとわれ社員しゃいんい」と意識いしきひくさに天龍てんりゅう徐々じょじょ不満ふまんつのらせていった[1]1986ねん6月7にち高松たかまつ市民しみん文化ぶんかセンターでザ・ロードウォリアーズせんやぶれ「ほらほら、いつまでもてないできて!」とかみってこそうとした鶴田つるた不満ふまん爆発ばくはつしたという[2]

りゅうげんほう結成けっせい[編集へんしゅう]

1987ねん長州ちょうしゅうりょくジャパンプロレスいきおいしん日本にっぽんプロレスにUターン移籍いせきしたのち全日本ぜんにほんプロレスは、かつてのように「日本人にっぽんじんレスラーたい外国がいこくじんレスラー」という構図こうずがメインになりつつあったが、一方いっぽう観客かんきゃく動員どういんすう減少げんしょう課題かだいのこり、試合しあい会場かいじょうでは空席くうせき目立めだつようになっていた。このこと危機ききかんおぼえた天龍てんりゅうはマスコミを相手あいて会社かいしゃ批判ひはん展開てんかいするが、発言はつげん内容ないようをいいようにられて選手せんしゅからぎゃくしろられたり、退団たいだんせつながされたこともあった[3]。また、鶴田つるたがプロレスにたいして真剣しんけん姿勢しせいせなかったこと物入ものいりでプロレスデビューしたもと横綱よこづな輪島わじままさる精彩せいさいつづけていたこと天龍てんりゅうてる要因よういんとなった[4]

そうした状況じょうきょうなか、1987ねん5がつ16にち小山こやまゆうえんちスケートセンター大会たいかいのタイガー・ジェット・シン&テキサス・レッドせん試合しあい、「現状げんじょう現状げんじょうとしてめなければ仕方しかたないけど、おきゃくさんにはつねにフレッシュかんあたえなければいけないし、つよいインパクトをあたえていかなければ失礼しつれいだし、ウチ(全日本ぜんにほん)にとってもよくない。だからおれいま、ジャンボ、輪島わじまたたかいたい。……ジャンボの背中せなか見飽みあきたし、輪島わじまのおまもりにもつかれたよ!」とコメントし、つるりゅうコンビの解消かいしょう宣言せんげん周囲しゅうい反対はんたいこえり、全日本ぜんにほん活性かっせいするためにジャイアント馬場ばばに「阿修羅あしゅらはらとタッグをみたい」と直訴じきそした。はらえらんだ理由りゆうは1984ねんUNヘビーきゅう王座おうざをかけたタイトルマッチが天龍てんりゅう自身じしん印象いんしょうつよのこっていたこと国際こくさいプロレス出身しゅっしんかたきによってこうそうちがうカラーをせることつるりゅうコンビ解散かいさん表明ひょうめいまえはら合宿がっしゅくしょったさい、「もしなにかやるならおれもやる。みなもとちゃんがえてくれないとおれ目標もくひょうがなくなってこまるんだ」と鼓舞こぶしてくれたことがきっかけであったが、馬場ばばへの直訴じきそはら正式せいしきにタッグ結成けっせいもうまえ段階だんかいでの行動こうどうであった[5]。その、6月1にち石川いしかわけん産業さんぎょう展示てんじかん大会たいかいにおいて2代目だいめタイガーマスク猛虎もうこ7ばん勝負しょうぶだい5せん出場しゅつじょうした天龍てんりゅう日本人にっぽんじん同士どうし同門どうもん対決たいけつながらタイガーとはげしい攻防こうぼうせんひろげ、試合しあい馬場ばばからはらとのタッグ結成けっせい了承りょうしょう[6]あらためて6がつ4にちはら会談かいだんしてタッグ結成けっせいをマスコミにアピール。「ジャンボ、輪島わじま本気ほんきにさせて、全日本ぜんにほんプロレスのリングじょうあつ活性かっせいさせる」と宣言せんげんし、最終さいしゅう目標もくひょうしん日本にっぽんプロレス参戦さんせんかかげた[7]

1987ねん[編集へんしゅう]

2人ふたりのタッグは「りゅうげんほう」とばれ、6月6にち長門ながとスポーツセンター大会たいかいにおいて始動しどう。シリーズ最終さいしゅうせんの6がつ11にちでははやくもジャンボ鶴田つるた&タイガーマスクとのタッグマッチにのぞむ。おな日本人にっぽんじんレスラーである鶴田つるた輪島わじまとの激闘げきとう地方ちほうでも試合しあい時間じかん20ふん以上いじょうおよかない姿勢しせいなどがファンから絶大ぜつだい支持しじけ、マスコミはこの一連いちれん行動こうどうを「天龍てんりゅう革命かくめい」、「レボリューション」とんだ。「レボリューション」の名付なづおや天龍てんりゅう後援こうえんしゃで、ビートルズが1968ねんにリリースした『レボリューション』が由来ゆらいである(天龍てんりゅう同盟どうめいのオリジナル・ジャージが制作せいさくされたさい背中せなか部分ぶぶんにはどうきょく歌詞かし一節いっせつまれていた。そのロサンゼルス・ドジャースのロゴマークをした「Revolution」の横文字よこもじ代名詞だいめいしとなる)。天龍てんりゅうはらみずからのムーブメントの対象たいしょうをまず連日れんじつ取材しゅざいおとずれるマスコミにけ、かれらの関心かんしんきつけるところからはじめた。テレビ中継ちゅうけい地方ちほう大会たいかいはもとより、大会たいかい終了しゅうりょうつぎ興行こうぎょう開催かいさいけて当日とうじつちゅう出発しゅっぱつする通称つうしょう「ハネち」のときなおこと長時間ちょうじかん試合しあいひろげた[8]かれ2人ふたりはリングがいでも対立たいりつ構図こうず意識いしき徹底てっていし、移動いどう全日本ぜんにほん本隊ほんたいともにせずリングのトラックにったり、近鉄きんてつ勤務きんむした経験けいけんはら時刻じこくひょう調しらべてぎなどを確認かくにんし、独自どくじ電車でんしゃ移動いどうしていた[9](のちに専用せんようバスが用意よういされる)。

ユニット結成けっせいから2ヶ月かげつった8がつ21にちりゅうげんほうとジャンボ鶴田つるた&ザ・グレート・カブキによるタッグマッチ開始かいしまえ天龍てんりゅうがカブキのどくきりによる奇襲きしゅう攻撃こうげきらうハプニングが発生はっせい。そのさい本隊ほんたいがわのセコンドについていた川田かわた利明としあき突如とつじょ鶴田つるた攻撃こうげき仕掛しかけ、りゅうげんほうがわくわわる意思いし表示ひょうじせる。同時どうじにかつて天龍てんりゅうびとつとめ、川田かわたとタッグをんだ経験けいけんがあるサムソン冬木ふゆき本隊ほんたいがわにつき、これをけて天龍てんりゅう&はら&川田かわたVS鶴田つるた&カブキ&冬木ふゆきの6にんタッグマッチに急変きゅうへんして試合しあいおこなわれた。天龍てんりゅう川田かわた加入かにゅうさせる意志いしく、試合しあいに「こうにびをれてかえれ」と本隊ほんたい控室ひかえしつかえしたが、しばらくすると鶴田つるたやカブキになぐられて荷物にもつごと控室ひかえしつからされ、居場所いばしょくした川田かわたもどってきたためだい3のメンバーとしてむかれることになった。また、冬木ふゆき本隊ほんたいとの共闘きょうとうはむしろ天龍てんりゅうにとって予想よそうがいであったが、のち事情じじょういたところ、川田かわたのアクションをけて自分じぶんはどううべきかをかんがえたゆえ行動こうどうであったとかり、国際こくさいプロレス時代じだいからえんのあるはらあいだはいったことによって、川田かわたとのこうそう冬木ふゆきもメンバーにくわわる[10]。さらに天龍てんりゅうびと小川おがわ良成よしなり行動こうどうともにするようになり、この5にんりゅうげんほう発展はってんさせるかたちで「天龍てんりゅう同盟どうめい」とばれた。

8がつ31にち天龍てんりゅうはタッグ解消かいしょうはつ鶴田つるたとのシングルマッチを日本武道館にほんぶどうかんおこない、リングアウトで勝利しょうり。3にちの9がつ3にちにはりゅうげんほうPWF世界せかいタッグ王座おうざ獲得かくとくし、川田かわた加入かにゅうからはじまった「サマー・アクション・シリーズ2」での天龍てんりゅう同盟どうめい活動かつどうおおきな足跡あしあとのこ結果けっかとなった[11]。11月7にち後楽園こうらくえんホール大会たいかいでは天龍てんりゅうVS輪島わじまはつのシングルマッチが実現じつげん試合しあいちゅう天龍てんりゅうはリングシューズで輪島わじま左足ひだりあし徹底的てっていてきばし、最終さいしゅうてき輪島わじまはリングアウトけをきっするも、気迫きはくめでかった。「ジャンボ、輪島わじま本気ほんきにさせる」と当初とうしょ目的もくてき見事みごと具現ぐげんさせ、10月6にち日本武道館にほんぶどうかん大会たいかいで2度目どめつるりゅう対決たいけつまれたさいには天龍てんりゅう反則はんそくちで決着けっちゃくがついた直後ちょくごしん日本にっぽんプロレスから永久えいきゅう追放ついほう処分しょぶんけていたブルーザー・ブロディ復帰ふっき乱入らんにゅうするとうサプライズもっていた。しかし観客かんきゃく動員どういんすうは8がつ31にち日本武道館にほんぶどうかん大会たいかいで1まん2100にん、10月6にち日本武道館にほんぶどうかん大会たいかいはそこから300にんげんの1まん1800にんとまだまだきびしい現実げんじつがあった[12]世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんにはりゅうげんほう参加さんかし、優勝ゆうしょう決定けっていせん目前もくぜんまでけたが、最終さいしゅうおなじく優勝ゆうしょうあらそいをするスタン・ハンセン&テリー・ゴディ両者りょうしゃリングアウトでけとなり、同点どうてん2タイでやぶれた。これがりゅうげんほうとしての最初さいしょ最後さいごのリーグせんでもあった。

結成けっせいから半年はんとしあいだ着実ちゃくじつ活躍かつやくのこしていけた背景はいけいには、こうそう直接ちょくせつ相手あいてである鶴田つるた輪島わじまはもとより、天龍てんりゅうつよ信頼しんらい関係かんけいむすんでいたカブキが本隊ほんたいがわにいたこと革命かくめい成就じょうじゅ背景はいけいにあったと天龍てんりゅう自著じちょかたっている。カブキは控室ひかえしつ天龍てんりゅう同盟どうめい攻撃こうげきにクレームをつける本隊ほんたいがわ選手せんしゅたいして、「長州ちょうしゅうたちけたあなめるためには、みなであいつらのやっていることかうしかない」とげきばしていた[13]。カブキ本人ほんにんりゅうげんほうとのこうそうくわわること久々ひさびさにやりがいのある試合しあい出来できたと実感じっかんし、川田かわた冬木ふゆきったわか選手せんしゅ相手あいてつとめるがため本隊ほんたいがわにいたとかたっている[14]

1988ねん[編集へんしゅう]

鶴田つるた天龍てんりゅう日本人にっぽんじん2だいエースにくわえ、ハンセン、前年ぜんねん復帰ふっきしたブロディとう80年代ねんだい豪華ごうかメンバーが復活ふっかつした全日本ぜんにほんプロレスでは、これまで別個べっこ防衛ぼうえいせんおこなわれていたPWFヘビーきゅう王座おうざインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ、UNヘビーきゅう王座おうざの3つの王座おうざ統一とういつ構想こうそうさんかんヘビーきゅう王座おうざ)ががることになった。天龍てんりゅうはユニットのリーダーは勿論もちろん当時とうじ防衛ぼうえいしていたUNヘビーきゅう王座おうざ保持ほじしゃとしてこの王座統おうざとういちせんにもんでいくことになる。

3月5にち秋田あきた市立しりつ体育館たいいくかん大会たいかいにおいてりゅうげんほうVSハンセン&ゴディのタッグマッチがまれ、UNヘビーきゅう王者おうじゃ天龍てんりゅうとPWFヘビーきゅう王者おうじゃのハンセンによるかん統一とういつせんひかえた前哨ぜんしょうせんおこなわれる。ところが試合しあいちゅうりゅうげんほうのサンドイッチ延髄えんずいりをらったハンセンが卒倒そっとうして1ふんじゃくわたってリングじょう失神しっしんするハプニングが発生はっせい。パートナーであるゴディが機転きてんかせてりゅうげんほう場外じょうがい乱闘らんとうへときずりんだが、そこへ意識いしきもどしたハンセンがすさまじいいきおいでトペ・スイシーダをはなち、天龍てんりゅう集中しゅうちゅう砲火ほうかでメッタちにする暴走ぼうそうひろげた。試合しあいりゅうげんほう報道陣ほうどうじん関係かんけいしゃがすぐに会場かいじょうるようにうながした直後ちょくご、ハンセンがまだ興奮こうふん状態じょうたい天龍てんりゅうさがしに控室ひかえしつんできたほどであった。この試合しあい以降いこう、ハンセンは執拗しつよう天龍てんりゅうをつけねらい、対戦たいせんカードにまれていない状態じょうたいでも乱入らんにゅうして天龍てんりゅう襲撃しゅうげきするようになった[15]

3月9にちあらためておこなわれた天龍てんりゅうVSハンセンのかん統一とういつせんはこの因縁いんねんきずるかたちとなり、試合しあい天龍てんりゅうせいしてPWF&UNのかんおうとなるも、決着けっちゃくにハンセンがカウベルをいた左腕さわん顔面がんめんラリアットをびせてきたこと激怒げきどし、今度こんど天龍てんりゅう控室ひかえしつまでんでハンセンと乱闘らんとうひろげた。だがそれでも天龍てんりゅうおもなぐえてスッキリしたとかたっており、この冬木ふゆき&川田かわたのタッグチーム「フットルース」がアジアタッグ王座おうざ獲得かくとくしたためすでりゅうげんほう保持ほじしているPWF世界せかいタッグ王座おうざふくめ、合計ごうけい4ほんのシングル&タッグ王座おうざ天龍てんりゅう同盟どうめい独占どくせんした。天龍てんりゅう試合しあいのインタビューで「今日きょうわってくれれば本当ほんとう最高さいこうなのに」とかたった。4月15にち日本武道館にほんぶどうかん大会たいかいでは、鶴田つるたからインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅしたブロディと対戦たいせんし、はつさんかん統一とういつせんおこなわれる。試合しあい両者りょうしゃリングアウトで決着けっちゃくはつかなかったが、ブロディを相手あいてに30ふんやりあえたこと天龍てんりゅうにとっておおきな自信じしんつながった。その、PWF世界せかいタッグ王座おうざインターナショナル・タッグ王座おうざの2だいタッグ王座おうざ統一とういつすること世界せかいタッグ王座おうざ)になり、まずりゅうげんほうはジャンボ鶴田つるた&谷津たにつ嘉章よしあきとPWF世界せかいタッグ王座おうざ防衛ぼうえいせんおこなったが、はら負傷ふしょうもあって王座おうざ陥落かんらくとなった。この6がつ4にちがちょうどりゅうげんほうならびに天龍てんりゅう同盟どうめい結成けっせい始動しどうから1ねんむかえていたことから控室ひかえしつでセコンドの川田かわた冬木ふゆき小川おがわとも記念きねん撮影さつえいおこなっている[16]

しかしはげしい試合しあい代償だいしょうおもくのしかかるようになり、メンバーのコンディション維持いじ徐々じょじょ困難こんなんとなっていった。天龍てんりゅうは7がつ27にちにハンセンとPWF&UNのかん防衛ぼうえいせん敗戦はいせん前歯まえば2ほんれ、みぎまぶたを15はり怪我けがった。そしてはらひざこし慢性まんせいてきいため、試合しあい開始かいし直前ちょくぜんまで老人ろうじんのようにあるかなければならないほどよわっており、「来年らいねんはるあたりが限界げんかいかもしれない」とこぼしていた[17]。だがげん自身じしんはレスラーとしてのコンディション以上いじょう深刻しんこく問題もんだい当時とうじかかえていたことのち判明はんめいする。

同年どうねん世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんにも前年ぜんねん同様どうようりゅうげんほうとして出場しゅつじょうする予定よていでいたが、開幕かいまくせん前日ぜんじつ馬場ばばくちとおしてはら金銭きんせん問題もんだいのトラブルをかかえたまま消息しょうそくったため解雇かいこ処分しょぶんくだしたむねつたえられた。天龍てんりゅうはショックをかくせなかったものの、代理だいりのパートナーとしてあえてびと冬木ふゆきではなく、川田かわた抜擢ばってきして参戦さんせん[18]、リーグせん4記録きろくした。

1989ねん[編集へんしゅう]

ここまでブロディの逝去せいきょはら解雇かいこ輪島わじま引退いんたい周囲しゅうい様々さまざま変化へんかがありながら、天龍てんりゅう同盟どうめい鶴田つるた筆頭ひっとうとする本隊ほんたいやタイガーマスクひきいる決起けっきぐんとのこうそうひろげていた。そして鶴田つるたとはいよいよ統一とういつはかられたさんかんヘビーきゅう王座おうざけての一騎打いっきうちとなる。

前年ぜんねん10がつ横浜よこはま文化ぶんか体育館たいいくかん大会たいかいおこなわれた3度目どめつるりゅう対決たいけつ天龍てんりゅう反則はんそくけとなり、これで天龍てんりゅうの2しょう1はいしで1989ねん突入とつにゅう。4月18にちにハンセンからPWF&UNのかん奪取だっしゅし、自身じしんのインターをわせて初代しょだいさんかんヘビーきゅう王者おうじゃとなった鶴田つるたは2にちはつ防衛ぼうえいせん相手あいて天龍てんりゅう指名しめいした。4がつ20日はつか大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかん大会たいかいにおいて、鶴田つるたちょうこう角度かくどのパワーボムを見舞みまい、天龍てんりゅう事実じじつじょう失神しっしんKOけをきっする。雪辱せつじょくすべくさい挑戦ちょうせんした6がつ5にち日本武道館にほんぶどうかん大会たいかい天龍てんりゅうはパワーボム2連発れんぱつ鶴田つるたからのピンフォふぉル勝るがちとさんかんヘビーきゅう王座おうざ戴冠たいかんげた。名乗なのりのさいにはセコンドの冬木ふゆき川田かわた小川おがわほか、ハンセンが試合しあいコスチュームのままでリングにがり、天龍てんりゅう祝福しゅくふくした。この時期じきさかいにおたがいにパートナーをうしなった天龍てんりゅうとハンセンはタッグをむようになり、「89サマーアクション・シリーズ」よりマスコミから「りゅうかんほう」の名称めいしょうあたえられて本格ほんかく活動かつどうした。だが、天龍てんりゅうとハンセンは元々もともと敵対てきたい関係かんけいつづいていたこともあっておもうようにいかず、インタビューをとおして方向ほうこうせいちがいなどが露呈ろていする場面ばめんもあった。天龍てんりゅう自著じちょにおいて、「やはりハンセンには『おれ天龍てんりゅうよりもうえあつかいをけるべきだ』とうプライドがあったようにおもうし、『なぜおれ天龍てんりゅうしたのようにられるのだ』という不満ふまんもあったとおもう」とかえっている[19][20]。ただし、7がつ11にちにはりゅうかんほう世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅし、天龍てんりゅう鶴田つるたつづ2人ふたりかんおう達成たっせいしている。

一方いっぽう冬木ふゆき&川田かわたのフットルースは1989ねん10がつまでのあいだにアジアタッグ王座おうざを3かい保持ほじし、どう王座おうざ常連じょうれんとして存在そんざいかんのこしていた。またこのとし若手わかて選手せんしゅ対象たいしょうにしたリーグせんとしてだい1かいあすなろはい」が開催かいさいされ、冬木ふゆき川田かわたがそれぞれ参加さんかし、川田かわたどもえせんせいして優勝ゆうしょう当初とうしょ特典とくてんとしてさんかんヘビーきゅう王座おうざへの挑戦ちょうせんまれることになっていたが、王者おうじゃとしてこれに該当がいとうする天龍てんりゅうは「優勝ゆうしょうしゃさんかん挑戦ちょうせんするなんてとんでもない。風通かぜとおしはくなるけど、そこらへんが挑戦ちょうせんするならおれはベルトはいらない。おれはベルトをったことほこりをかんじてるし、リーグせん優勝ゆうしょうしてやっとトップグループにあしれたのとタイトルをけるとうのは複雑ふくざつだよ」と不満ふまんあらわにし、結果けっかとしてあすなろはい優勝ゆうしょうしゃさんかんヘビーきゅう王者おうじゃによるノンタイトルせんき、10月8にち川田かわたVS天龍てんりゅうわせでパワーボムで天龍てんりゅう勝利しょうりした[21]。だが3にちの10がつ11にち鶴田つるたとの防衛ぼうえいせんやぶれ、さんかんわたことになる。

このとし天龍てんりゅう同盟どうめいにとってもうひとかせない出来事できごとが、同年どうねん世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんである。世界せかいタッグ王者おうじゃとして参加さんかしたりゅうかんほう当時とうじのルールにのっとって王座おうざ返上へんじょうしたうえ参戦さんせんするが、開幕かいまくせんから連勝れんしょうかさねていく。そして11月29にち札幌さっぽろ中島なかじま体育たいいくセンター大会たいかいでジャイアント馬場ばば&ラッシャー木村きむらの「義兄弟ぎきょうだいコンビ」と対戦たいせんするが、天龍てんりゅう入場にゅうじょうちゅう馬場ばばをトペ・スイシーダで奇襲きしゅうし、一時いちじ戦闘せんとう不能ふのうむと、単独たんどくプレーを余儀よぎなくされた木村きむらをハンセンと2人ふたりがかりでてる。やがて馬場ばば試合しあい復帰ふっきするも連携れんけいみだされた影響えいきょうおおきく、天龍てんりゅうがパワーボムで馬場ばばから3カウントをうばい、日本人にっぽんじんレスラーによる馬場ばばからのはつのピンフォふぉル勝るがちを達成たっせいした。当日とうじつ東京とうきょうでは人気にんき絶頂ぜっちょうUWFはつ東京とうきょうドーム大会たいかいU-COSMOS」を開催かいさいしていたため注目ちゅうもくもそちらにあつまっていたが、試合しあい天龍てんりゅうは「しばらくしたら、とんでもないことをしたっておもうようになるんじゃないかな。今日きょうの1しょうもまた、東京とうきょうドームよりおもい1しょうだな」[22]かたり、これがのちに「今日きょう勝利しょうりはドームよりおも」と名言めいげんとしてかたがれることになった。一方いっぽう馬場ばばからピンフォールをうばった事実じじつについて、「馬場ばばさんは本当ほんとうは(フォールを)かえせたのではないか?」、「おれなにけようとしたのだろうか?」と疑問ぎもんがつきまとい、そのこたえはいまていないとのち天龍てんりゅうかたっている[23]。そのりゅうかんほうはリーグせん史上しじょうはつ全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう達成たっせいし、ふたた世界せかいタッグ王座おうざをそれぞれのこしこととなった。

1990ねん[編集へんしゅう]

この時期じき全日本ぜんにほんプロレスが人気にんきかえしていたのは事実じじつであり、天龍てんりゅう同盟どうめい始動しどうしたころはまだ空席くうせきえていた日本武道館にほんぶどうかん大会たいかい徐々じょじょ観客かんきゃくまり、ウェーブこるようになっていった[24]。しかし試合しあいカードが発表はっぴょうされるまえ段階だんかいでチケットがだいれとなり、天龍てんりゅうやカブキのなかでは、上層じょうそうが「べつ天龍てんりゅういたるのおかげでおきゃくはいっているわけではない」と認識にんしきしている空気くうきかんれるようになっていった[25][26]年明としあけの1990ねん2がつ10日とおかしん日本にっぽんプロレスの東京とうきょうドーム大会たいかい開催かいさい過程かてい全日本ぜんにほんプロレスの選手せんしゅ貸出かしだし正式せいしき決定けっていされ、天龍てんりゅうはタイガーマスクとんで、長州ちょうしゅうりょく&ジョージ高野たかの対戦たいせんすることになった。天龍てんりゅう同盟どうめい結成けっせい最終さいしゅう目標もくひょう実現じつげんさせたと同時どうじにおよそ3ねんぶりの再戦さいせんにモチベーションをたかめた天龍てんりゅうであったが、実際じっさい長州ちょうしゅうはだわせてみると何故なぜ期待きたい以上いじょう感触かんしょくられること出来できず、消化しょうか不良ふりょうわってしまった[27]。その直後ちょくご天龍てんりゅうらは全日本ぜんにほんでの契約けいやく更改こうかいむかえたが、対応たいおうしたのは社長しゃちょう馬場ばばではなく、日本にほんテレビ出向しゅっこう役員やくいんであり、提示ていじされた金額きんがく自身じしんふくめて天龍てんりゅう同盟どうめい抗争こうそうしてきた本隊ほんたいがわ選手せんしゅ努力どりょく見合みあ待遇たいぐうとはがたものであった。しかも馬場ばばからはなしがあると元子もとこ夫人ふじんからされたため期待きたいこたえられなかったことについて謝罪しゃざいがあるのかとおもいきや、くちからたのはこけらとしがおこなわれた東京とうきょう体育館たいいくかんでの興行こうぎょうはなしだけで、おこった天龍てんりゅうは「はなしがそれだけならかえっていいですか?」とせきち、自宅じたくかえると家族かぞく相手あいて会社かいしゃへの不満ふまんあらわにした[28][29]

天龍てんりゅう同盟どうめい全盛期ぜんせいきいきおいをうしなはじめ、3月6にちにはテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスやぶれて世界せかいタッグ王座おうざ手放てばなす。その敗因はいいん負傷ふしょうした右足みぎあしてられた天龍てんりゅうのギブアップけとってか、ハンセンが天龍てんりゅう攻撃こうげきして仲間割なかまわれ。それを救出きゅうしゅつするかたち鶴田つるた乱入らんにゅうするも、天龍てんりゅうはハンセン、鶴田つるた双方そうほう攻撃こうげきして対立たいりつふかめていった。控室ひかえしつでも冬木ふゆき川田かわた疲弊ひへいしている様子ようすあきらかとなり、天龍てんりゅうなかでは「余力よりょくがあるうちに全日本ぜんにほん本隊ほんたい)にもどして自由じゆうにやらせるべきではないか」と気持きもちも芽生めばえるようになった[30]。こうした状況じょうきょうなか、とある試合しあいげのせき観戦かんせんおとずれていた東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ柴田しばた惣一そういちが「久々ひさびさたけどいま天龍てんりゅう同盟どうめい試合しあいむかしほど面白おもしろくない」と辛辣しんらつ評価ひょうかくだし、逆鱗げきりんれた天龍てんりゅうおもわずげてしまう事態じたいこる[31]。すぐに天龍てんりゅう柴田しばた謝罪しゃざいしたものの、この出来事できごとでいよいよ限界げんかいかんじた天龍てんりゅうはその3にちの4がつ7にち十和じゅうわむら十川とうかわこいのぼり運動公園うんどうこうえん大会たいかい試合しあい天龍てんりゅう同盟どうめい解散かいさん正式せいしき表明ひょうめい[32]冬木ふゆき川田かわた小川おがわはそれぞれ本隊ほんたい復帰ふっきした。天龍てんりゅう今度こんど動向どうこうあきらかにしないまま、直後ちょくご開催かいさいされた日米にちべいレスリングサミットランディ・サベージ対戦たいせんし、予想よそう意味いみ裏切うらぎこう勝負しょうぶ展開てんかい。そして4がつ19にち鶴田つるた保持ほじするさんかんヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんしたが、試合しあいまえからハンセンが乱入らんにゅうして天龍てんりゅう襲撃しゅうげきするなど混乱こんらんしょうじ、最後さいごはバックドロップ・ホールドでやぶれた。結果けっかとして天龍てんりゅう同盟どうめい時代じだいつるりゅう対決たいけつ本戦ほんせんふくめ、7せん4しょう3はい鶴田つるた軍配ぐんばいがることになった。この試合しあい前後ぜんこう天龍てんりゅうは「ジャンボにけたらめるよ」、「もういちちょう?もうわったとおもってる。ちるところまでちた」と意味深いみしん発言はつげんかえしていたが[33]大会たいかい終了しゅうりょう天龍てんりゅう親友しんゆうであるカブキをちかくのホテルにし、全日本ぜんにほんプロレスを退団たいだんするむねひそかに告白こくはく。4にち辞表じひょういたうえ馬場ばば退団たいだん報告ほうこくし、以前いぜんシリーズちゅうケンドー・ナガサキつうじてはなしちかけられたメガネスーパー主催しゅさいしん団体だんたいSWS」とはじめて交渉こうしょうって移籍いせき決意けつい。4月26にちをもって正式せいしき全日本ぜんにほんった[34]退団たいだんいたった理由りゆうは「いままで『ジャンボをたおせ』と応援おうえんしてくれたファンがいたのに、今更いまさらジャンボのしたにつくこと出来できない」とおもいが根底こんていにあったことだとかたっており、馬場ばばから「またジャンボとんでやればいいじゃないか」とわれ、それをってからずか、最後さいごさんかんせんでは鶴田つるた調子ちょうしろす(相撲すもう用語ようごで「相手あいてくびってこと」)ような試合しあいをしたこと決意けついかためたと[35]

天龍てんりゅう同盟どうめい活動かつどうは1990ねん終了しゅうりょうしたが、SWS旗揚はたあ天龍てんりゅう中心ちゅうしん設立せつりつされた部屋へやめいは「レボリューション」と命名めいめいされ、隠居いんきょ生活せいかつおくっていたはら関係かんけいしゃ支援しえんとおして復帰ふっきし、「りゅうげんほう」が復活ふっかつ。ユニットの存在そんざい天龍てんりゅうかたじょうけっしてはずこと出来できないものとなった。2015ねん天龍てんりゅうは39年間ねんかんのプロレスキャリアに終止符しゅうしふったが、その引退いんたい興行こうぎょう名前なまえは「天龍てんりゅう源一郎げんいちろう 引退いんたい革命かくめい終焉しゅうえん Revolution FINAL」であった。

メンバー[編集へんしゅう]

サポートメンバー
じゅんメンバー
  • 北原きたはら辰巳たつみ - 同盟どうめい活動かつどう全日本ぜんにほん本隊ほんたい新人しんじんあつかいであり、デビュー1ねん海外かいがい遠征えんせいたためリングじょう接点せってんてなかったが、リングがいではデビューまえから天龍てんりゅうはら行動こうどうともにしていた

なお、折原おりはら昌夫まさお天龍てんりゅうびとつとめていたが、加入かにゅうまえ天龍てんりゅう同盟どうめい解散かいさんしたため、メンバーにはれられていない。

戦績せんせき[編集へんしゅう]

全日本ぜんにほんプロレス
プロレス大賞たいしょう
  • 年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょう - 天龍てんりゅう(1987ねん
  • 最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう MVP - 天龍てんりゅう(1987ねん
  • 最優秀さいゆうしゅうタッグチームしょう - 天龍てんりゅう&はらぐみ(1987ねん
  • 年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょう - 天龍てんりゅう(1988ねん
  • 最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう MVP - 天龍てんりゅう(1988ねん
  • 年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょう - 天龍てんりゅう(1989ねん

その[編集へんしゅう]

2005ねん天龍てんりゅうプロレスリング・ノア参戦さんせんしたさいにタッグをんだ秋山あきやまじゅんが「REVOLUTION 2005」としょうし、天龍てんりゅう同盟どうめい復活ふっかつさせるようなうごきをせたが、天龍てんりゅうのノア参戦さんせんがそのとしかぎりであったためにおおきなムーブメントはこせなかった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 天龍てんりゅう源一郎げんいちろうかたわかのジャンボ鶴田つるた”. wanibooks-newscrunch (2020ねん4がつ22にち). 2022ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ ジャンボ鶴田つるたへの苛立いらだちから勃発ぼっぱつした“天龍てんりゅう革命かくめい"”. wanibooks-newscrunch (2020ねん4がつ29にち). 2022ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  3. ^ 天龍てんりゅう源一郎げんいちろう天龍てんりゅう源一郎げんいちろう自伝じでん レボリューション』2015ねん スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ P95-P99 ISBN 978-4-583-10906-0
  4. ^ 天龍てんりゅう源一郎げんいちろう完本かんぽん 天龍てんりゅう源一郎げんいちろう LIVE FOR TODAY -いまをきる-』2016ねん ちく書房しょぼう ISBN 9784801908444 P156-P158
  5. ^ 天龍てんりゅう2016 P158-P159
  6. ^ 市瀬いちのせ英俊ひでとしよるにじける 四天王してんのうプロレス『リングに ささげた過剰かじょう純真じゅんしん』』2019ねん 双葉社ふたばしゃ P108 ISBN 978-4-575-31424-3
  7. ^ 天龍てんりゅう2016 P161
  8. ^ 天龍てんりゅう2016 P162
  9. ^ 最後さいごまでプロレスは“辛口からくち”で - 。天龍てんりゅう源一郎げんいちろう堂々どうどうたる革命かくめい終焉しゅうえん”. number web (2015ねん11月17にち). 2016ねん12月2にち閲覧えつらん
  10. ^ 天龍てんりゅう2016 P169-P170
  11. ^ 天龍てんりゅう2016 P170-P171
  12. ^ 市瀬いちのせ2019 P96
  13. ^ 天龍てんりゅう2015 P103-P104、P106-P108
  14. ^ ザ・グレート・カブキ『“東洋とうよう神秘しんぴ”ザ・グレート・カブキ自伝じでん辰巳たつみ出版しゅっぱん 2014ねん ISBN 978-4-7778-1393-3 P172-P174
  15. ^ 【プロレス蔵出くらだ写真しゃしんかん】「ハンセン失神しっしん事件じけん」からはじまったつぶい そのとき天龍てんりゅうわらった”. ひがしスポweb (2021ねん5がつ2にち). 2022ねん3がつ29にち閲覧えつらん
  16. ^ 天龍てんりゅう2016 P180-P182
  17. ^ 天龍てんりゅう2016 P186-P187
  18. ^ 天龍てんりゅう2016 P189
  19. ^ 市瀬いちのせ2019 P175
  20. ^ 天龍てんりゅう2016 P198
  21. ^ 市瀬いちのせ2019 P169-P172
  22. ^ ジャイアント馬場ばば日本人にっぽんじん相手あいてはつ完璧かんぺきなピンフォールけ…天龍てんりゅう源一郎げんいちろう東京とうきょうドームよりおもい1しょう」【週刊しゅうかんプロレス昔話むかしばなし” (2022ねん4がつ21にち). 2022ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  23. ^ 天龍てんりゅう2015 P124
  24. ^ 市瀬いちのせ2019 P180
  25. ^ 天龍てんりゅう2016 P206
  26. ^ カブキ2014 P183-P184
  27. ^ 天龍てんりゅう2016 P207-P209
  28. ^ 天龍てんりゅう2015 P132 -P133
  29. ^ 天龍てんりゅう2016 P209-P210
  30. ^ 天龍てんりゅう2016 P210-P211
  31. ^ 『スポーツアルバムNo.52 天龍てんりゅう源一郎げんいちろう 引退いんたい記念きねん特別とくべつごう 上巻じょうかん』2015ねん スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ P19
  32. ^ 天龍てんりゅう2016 P212
  33. ^ 引退いんたい記念きねん2015 P68
  34. ^ 天龍てんりゅう2016 P215-P220
  35. ^ 天龍てんりゅう2016 P213-P215

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]