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ザ・グレート・カブキ

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ザ・グレート・カブキ
ザ・グレート・カブキの画像
1983ねん
プロフィール
リングネーム ザ・グレート・カブキ
カブキ
高千穂たかちほ 明久あきひさ
タカチホ
ヨシノ・サト
デビル・サト
ミスター・サト
ミスター・ヒト
ヒト・トージョー
スーパーX
本名ほんみょう よねりょう 明久あきひさ
ニックネーム 東洋とうよう神秘しんぴ
身長しんちょう 180cm
体重たいじゅう 110kg(ぜん盛時せいじ
誕生たんじょう (1948-09-08) 1948ねん9月8にち(76さい
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん宮崎みやざきけん延岡のべおか
スポーツれき 柔道じゅうどう
水泳すいえい
トレーナー よしさと
北沢きたざわみきこれ
ヒロ・マツダ
デビュー 1964ねん10月31にち
引退いんたい 2017ねん12月22にち
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ザ・グレート・カブキThe Great Kabuki本名ほんみょうよねりょう 明久あきひさ / めら あきひさ、1948ねん9月8にち - )は、日本にっぽんもとプロレスラーレフェリー宮崎みやざきけん延岡のべおか出身しゅっしん

東洋とうよう神秘しんぴ異名いみょうペイントレスラーとして、アメリカでもおおきな成功せいこうおさめた[1]歌舞伎かぶきふうメイク、どくきり、ヌンチャクなどのオリエンタルなキャラクターは、グレート・ムタなどのレスラーにつよ影響えいきょうあたえた。

来歴らいれき

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ザ・グレート・カブキ以前いぜん

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宮崎みやざきけん延岡のべおかに3にん兄弟きょうだいすえとしてまれる。父親ちちおや戦艦せんかん大和やまともと乗組のりくみいんで、国体こくたい前身ぜんしんである明治めいじ神宮じんぐう競技きょうぎ大会たいかいにも出場しゅつじょうしており[2]戦後せんご自転車じてんしゃてんいとなんでいた[3]中学ちゅうがく2年生ねんせいのときに愛知あいちけん知立ちりゅう移住いじゅう[4]学生がくせい時代じだい水泳すいえい選手せんしゅとして活躍かつやくしたほか、柔道じゅうどうにもんでいた[4]

1964ねん日本にっぽんプロレス入団にゅうだん同年どうねん10がつ31にち宮城みやぎけん石巻いしのまき石巻いしのまき市立しりつ石巻いしのまき小学校しょうがっこう特設とくせつリングにおいて[5]山本やまもとしょうてつ相手あいてにデビュー[6][7]当初とうしょ本名ほんみょうよね良明よしあきひさ名乗なのっていたが、ほどなくして高千穂たかちほ 明久あきひさ(たかちほ あきひさ / 出身しゅっしんにちなんで幹部かんぶよしさとが「高千穂たかちほ」と命名めいめい[8][9])のリングネームをあたえられた。以降いこう前座ぜんざ試合しあい出場しゅつじょうしてキャリアをむ。東京とうきょうプロレスから移籍いせきしてきたえいみなもとはるかとの試合しあいは、当時とうじ若手わかて黄金おうごんカードとされた[10]

1970ねん4がつ、21さいにして『ワールドリーグせん』のだい12かい大会たいかい出場しゅつじょうジャイアント馬場ばばアントニオ猪木いのき坂口さかぐちせい吉村よしむら道明みちあき星野ほしの勘太郎かんたろう山本やまもと大熊おおくまもとつかさミツ・ヒライとも日本にっぽん陣営じんえい代表だいひょう抜擢ばってきされ、ドン・レオ・ジョナサンクリス・マルコフターザン・タイラーダッチ・サベージザ・コンビクトネルソン・ロイヤルポール・ジョーンズパンピロ・フィルポ外国がいこく陣営じんえい対戦たいせんした[11]戦績せんせきるわなかったものの、5月27にち静岡しずおか大会たいかいでは外国がいこく陣営じんえい2のマルコフから反則はんそくちをひろっている[11]

1970ねん9がつ、アメリカ武者むしゃ修業しゅうぎょう出立しゅったつ[12]初期しょき日系にっけい移民いみんおおロサンゼルス地区ちくにて、タカチホTakachiho)としてベビーフェイスのポジションで活動かつどうしていたが[13]1971ねん2がつデトロイト地区ちくへの転戦てんせんに、師匠ししょうかくよしさとにあやかったヨシノ・サトYoshino Sato)と名乗なのってヒール転向てんこう[14]日系にっけいアメリカじんミツ荒川あらかわのパートナーとなり、おな五大ごだいみずうみエリアのNWFにも進出しんしゅつ1972ねん1がつ19にちドミニク・デヌーチ&トニー・パリシやぶってNWF世界せかいタッグ王座おうざ獲得かくとくしている[15]

1972ねん9がつ日本にっぽんプロレス崩壊ほうかい危機ききさい帰国きこく[16]坂口さかぐちんで『NWAタッグ・リーグせん』のだい3かい大会たいかい出場しゅつじょうし、決勝けっしょうせんラリー・ハミルトン&ジョー・ハミルトンやぶって優勝ゆうしょうたす[17]よく1973ねん3月8にちジョニー・バレンタインからUNヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅ[18](この試合しあいは、NETテレビの『NET日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい』における最後さいご放映ほうえい試合しあいでもあった)。4月19にちにはキラー・カール・クラップくだしてはつ防衛ぼうえい成功せいこうしたが[19]同月どうげつ日本にっぽんプロレスが崩壊ほうかいし、王座おうざ返上へんじょうして全日本ぜんにほんプロレスへと移籍いせき正式せいしきには1976ねん3月31にちまでは、日本にほんテレビと3ねん契約けいやくむすんだうえ全日本ぜんにほん派遣はけんされていた。同年どうねん4がつ1にちづけ全日本ぜんにほん正式せいしき所属しょぞく選手せんしゅとなる)。

全日本ぜんにほんプロレス移籍いせきの1973ねん10がつヒト・トージョーHito Tojo)のリングネームでヒロ・トージョーことサムソン・クツワダともオーストラリア遠征えんせい出発しゅっぱつ。ヒロ&ヒトの「トージョー・ブラザーズ」を結成けっせいし、同月どうげつ19にちマーク・ルーイン&スパイロス・アリオンからNWAごうタッグ王座おうざ奪取だっしゅよく1974ねん1がつ26にちロン・ミラー&ラリー・オーディやぶれるまで戴冠たいかんした[20]

全日本ぜんにほんマットでもクツワダとの「豪州ごうしゅう遠征えんせいコンビ」で活動かつどうし、1976ねん10がつ21にちジェリー・オーツ&テッド・オーツをやぶアジアタッグ王座おうざ獲得かくとく[21]以降いこう覆面ふくめんタッグチームのザ・クルセーダーズ(ビリー・レッド・ライオン&デューイ・ロバートソン)や大熊おおくま&グレート小鹿こじか極道ごくどうコンビ相手あいてに2防衛ぼうえいせんおこない、1977ねん6月16にち極道ごくどうコンビにやぶれるまで戴冠たいかんした[21]同年どうねん12がつには国際こくさいプロレスマイティ井上いのうえをパートナーに『世界せかいオープンタッグ選手権せんしゅけん』に出場しゅつじょうしている[22]。また、1977ねん韓国かんこく遠征えんせいではスーパーXSuper X)なる覆面ふくめんレスラー変身へんしん、5月22にち仁川にがわ大会たいかいにおいて、大木おおき金太郎きんたろう(キム・イル)が保持ほじしていたインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんした[23][24]

その全日本ぜんにほんプロレスをはなれてアメリカ・マットを主戦しゅせんじょうとするようになり、ミスター・サトMr. Sato)またはタカチホのリングネームで南部なんぶ中西部ちゅうせいぶなどNWA主要しゅようテリトリーを日本人にっぽんじんヒールとして転戦てんせんフロリダではミスター・サイトーとタッグチームをみ、1978ねん3がつペドロ・モラレス&ロッキー・ジョンソンからNWAフロリダ・タッグ王座おうざ奪取だっしゅジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコ兄弟きょうだいチームともタイトルをあらそった[25]1980ねんセントラル・ステーツ地区ちくにて、4がつ17にちパク・ソンんでボブ・ブラウン&ディック・マードックやぶりNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座おうざ獲得かくとく、6月18にちにブラウン&パット・オコーナー奪還だっかんされるも、3にちの6がつ21にちにはキラー・カール・コックスとのコンビで王座おうざかえいた[26]

ザ・グレート・カブキとして

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もともとは正統せいとう堅実けんじつなファイトスタイルであったが、アメリカ遠征えんせいちゅう1981ねん初頭しょとうフリッツ・フォン・エリック主宰しゅさいしていたテキサスしゅうダラスのWCCWにおいて、マネージャーけんブッカーのゲーリー・ハートのアイデアで、歌舞伎かぶき役者やくしゃをモチーフにしたオリエンタルギミックペイントレスラーザ・グレート・カブキThe Great Kabuki)に変身へんしん。1981ねん1がつ10日とおかザ・スポイラー相手あいてにカブキとしてのデビューせんおこなった[27]当初とうしょ、ゲーリーがわ思惑おもわくではこのギミックは3ヶ月かげつほどで、つぎ大物おおものぶまでのつなやくでしかなかった[28]

なお、カブキと名乗なのるレスラーはアメリカでは1970年代ねんだい初頭しょとうにも存在そんざいしていたが(正体しょうたいはトーキョー・トムとしても活動かつどうしていたフィリピンけいのレイ・ウルバノ[29])、活躍かつやくによりこのリングネームは米良めら代名詞だいめいしとなる(初代しょだいの「ザ・カブキ」とよねりょうは1972ねんごろ、デトロイトでタッグをんだことがあるという[27])。また、ペイントレスラーの元祖がんそとされているが、カブキ以前いぜんにもペイントをほどこして試合しあいおこなうレスラーはいた。しかし、コンスタントにペイントレスラーとして活動かつどうし、流行りゅうこうのきっかけをつくったのはカブキであり、かつてのパートナーであるマサ斎藤さいとうワールドプロレスリング解説かいせつに「ぼくむかしかおってこういうスタイルでファイトしてました。外人がいじんにはけるんですよ。カブキ以前いぜんにもいたことはいたんですけど…。でもやっぱりかれ元祖がんそですよね」などとかたっている。

般若はんにゃめんけたれん獅子じし姿すがた鎖帷子くさりかたびら日本にっぽんがたなたずさえた忍者にんじゃスタイルなどをコスチュームに、ヌンチャクあやつどくきり東洋とうよう怪奇かいきヒールとして異色いしょく悪党あくとう人気にんきはくし、WCCWでは1981ねんにチャン・チュンこと桜田さくらだ一男かずおんでケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリックからテキサスばんNWA世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅ[30]同年どうねん9がつ25にちにはケリー・フォン・エリックやぶりNWAアメリカン・ヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとくしている[31]

ダスティ・ローデスみぎ)と対戦たいせんするカブキ(1982ねん

以降いこうもWCCWを主戦しゅせんじょうに、ビル・ワット主宰しゅさいMSWAジム・バーネット主宰しゅさいGCWジム・クロケット・ジュニア主宰しゅさいMACWなど各地かくち激戦げきせんにも参戦さんせんして、アンドレ・ザ・ジャイアントブルーザー・ブロディハーリー・レイスダスティ・ローデスリック・フレアートミー・リッチ全米ぜんべいのトップスターと対戦たいせん[27]。MSWAでは1981ねん10がつボブ・ループからルイジアナ・ヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅ[32]。GCWではヒール時代じだいロディ・パイパージェイク・ロバーツとも共闘きょうとうした[33][34]

1982ねん12月25にちにはGCWの本拠地ほんきょちアトランタオムニ・コロシアムにてマスクド・スーパースター&スーパー・デストロイヤーをパートナーに、アンドレ、スタン・ハンセンティト・サンタナくみと6にんタッグマッチで対戦たいせんした[35]。WCCWでは1983ねん1がつ3にちアル・マドリルからTV王座おうざを、1がつ14にちにはバグジー・マグローからブラスナックル王座おうざをそれぞれ奪取だっしゅ[36][37]。MACWでは同年どうねん5がつ23にちジョー・ルダックくだしてNWAミッドアトランティックTV王座おうざ獲得かくとく[38]、11月24にちの『スターケードだい1かい大会たいかいにおいてチャーリー・ブラウンやぶれるまで戴冠たいかんした[39]

そのあいだの1983ねん2がつジャイアント馬場ばばから帰国きこく命令めいれいたため、全日本ぜんにほんプロレスの『'83エキサイト・シリーズ』に凱旋がいせん帰国きこく当時とうじ全日本ぜんにほんプロレスのブッカーだった佐藤さとう昭雄あきお進言しんげんで、アメリカからのぎゃく輸入ゆにゅうかたちでカブキのギミックのままリングに登場とうじょうし、2がつ11にち後楽園こうらくえんホールにてジム・デュランやぶ帰国きこくだいいちせんかざ[40]。アメリカでの活躍かつやくもあっておおきな話題わだいあつめ、どうシリーズは馬場ばば欠場けつじょうしていたのにもかかわらず、TV放映ほうえいけんりょうのぞ興行こうぎょう収益しゅうえきで2がつシリーズでは全日本ぜんにほんプロレス設立せつりつ以来いらいはつ黒字くろじになった[41][42]以降いこう日本にっぽんでもファンの支持しじ獲得かくとくし、専門せんもんだけでなく一般いっぱんにもげられ、子供こどもけの印刷いんさつ媒体ばいたいにまで登場とうじょうするなど、馬場ばばジャンボ鶴田つるたにもけをらない人気にんきあつめた。同年どうねん12がつ12にちには蔵前くらまえ国技こくぎかん大会たいかい(『'83世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせん最終さいしゅうせん)のセミファイナルにおいて、アメリカでも対戦たいせんしていたフレアーの保持ほじするNWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんした[43]

しかし本人ほんにんにとっては、待遇たいぐうめんにおいてはけっして満足まんぞく出来できあつかいではなかったという。「若手わかてのコーチやくっているから」という理由りゆう馬場ばば提示ていじしたギャラアップがくが「1試合しあい100えんぞうのちに500えん)」だったというエピソード[44]のほか、一般いっぱんマスコミからのTV出演しゅつえん依頼いらい殺到さっとうしたため、馬場ばばふく先輩せんぱいレスラーたち嫉妬しっとってしまい、配給はいきゅう会社かいしゃから名指なざしで出演しゅつえん依頼いらいされた映画えいがカランバ』のプロモーション(映画えいがCMを真似まねて、うでいたロープをジープってどこまでえられるか、というイベント)においても、出演しゅつえんかんして直前ちょくぜんまでめたことがかされている。しかしながら、馬場ばばはカブキの技能ぎのうたか評価ひょうかしており、若手わかて選手せんしゅに「カブキの試合しあいをよくておけよ」などとっていたといわれ[28]、カブキも「プロレスが一番いちばんたくみいとおもったのも馬場ばばさんだよね」と回顧かいこするなど[45]、レスラーとしてはおたがいにみとっていた。

その、ダラスのWCCWと全日本ぜんにほんプロレスをするかたちとなり、1985ねんころからは日本にっぽん定着ていちゃくしつつあったが[46]長州ちょうしゅうりょくひきいるジャパンプロレス参戦さんせんや、WCCWがしん日本にっぽんプロレス提携ていけいしたことなどもあってあつかいはさらにわるくなり、一時期いちじき造反ぞうはんしてテリー・ゴディ共闘きょうとうするなど外国がいこくじんサイドにくわわるが、ギャランティーはゴディにくらべて格段かくだんひくかったとわれる[よう出典しゅってん]以降いこう長州ちょうしゅうらのしん日本にっぽん復帰ふっき前後ぜんこう全日本ぜんにほん正規せいきぐんもどされるかたちとなり、天龍てんりゅう同盟どうめいとの試合しあいなどで再度さいど脚光きゃっこうびたが、1990ねん7がつ30にち全日本ぜんにほんプロレスを退団たいだん。この直前ちょくぜんの7がつ19にち『サマー・アクション・シリーズ』武生たけふ大会たいかいでは、鶴田つるたんでゴディ&スティーブ・ウィリアムスから世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅしていたが、防衛ぼうえいせんおこなわないまま返上へんじょうとなった。これには理由りゆうがあり、当時とうじすでにSWSへの移籍いせき極秘ごくひうら成立せいりつさせていたカブキは、おな全日本ぜんにほんからの退団たいだんしゃ監視かんしやくとして最後さいごめることとしていた。そのあいだ相次あいつ選手せんしゅ離脱りだつふせぐため、社長しゃちょう馬場ばば複数ふくすうねん契約けいやく提示ていじすると同時どうじかく選手せんしゅにギャランティーをわたしており、カブキには世界せかいタッグ王座おうざさい戴冠たいかんもちらつかせてきた。長年ながねんめしわされていたカブキは、報復ほうふくめてえてこれを承諾しょうだくし、タッグ王座おうざ獲得かくとくした翌々日よくよくじつ馬場ばば辞表じひょう提出ていしゅつした。そのさいに「だったらわたしたかねかえしてくれ」とわれたため、ギャランティーも返済へんさいしている[47]

全日本ぜんにほんプロレス退団たいだん

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1990ねん8がつメガネスーパーによって設立せつりつされたSWS入団にゅうだん以降いこう団体だんたいエースかく天龍てんりゅう源一郎げんいちろうひきいる『レボリューション』に所属しょぞくし、マッチメイカーとしても活躍かつやくする。マッチメイカーとしてカブキは集客しゅうきゃくめん注目ちゅうもくなどを検討けんとうし、天龍てんりゅうやレボリューション選手せんしゅりのマッチメイクを傾向けいこうつよかったが、そのマッチメイクははん天龍てんりゅうからの不満ふまん反感はんかんい、派閥はばつからレボリューションへの不信ふしんかん険悪けんあくかんまねき、派閥はばつあらそいに拍車はくしゃをかけるかたちとなった。なお、カブキは近年きんねんのインタビューなどで当時とうじのSWSや選手せんしゅについて「SWSは自己じこ中心ちゅうしんてき選手せんしゅたちばかりでどうしようもなかった。活躍かつやくしたのはみなもとちゃん(天龍てんりゅう)やレボリューション(天龍てんりゅう)の選手せんしゅで、あとは若手わかて選手せんしゅだけだよ」と、なげ気味ぎみかたっている。

SWS崩壊ほうかいは7がつWAR旗揚はたあげメンバーとしてつらねるが、直後ちょくごしん日本にっぽんプロレス契約けいやくし、どう時期じきにWARからオファーがあったスーパー・ストロング・マシーンとトレードするかたち移籍いせき[48]。しかし、表向おもてむきはWAR所属しょぞくのままであつかわれており、しん日本にっぽん移籍いせきにWARの興行こうぎょう参戦さんせんしたさいも、選手せんしゅのように「しん日本にっぽんプロレス(所属しょぞく)」とアナウンスされることはなかった。そのさい小林こばやし邦昭くにあき病欠びょうけつによる戦力せんりょく補強ほきょうとして同年どうねん11がつ越中えっちゅうろうひきいるはん選手せんしゅかい同盟どうめい一員いちいんとなった。これはしん日本にっぽんがわ判断はんだんであり、はん選手せんしゅかい同盟どうめいへの加入かにゅう会見かいけん直前ちょくぜんまでカブキ本人ほんにんすら把握はあくしていなかった。後輩こうはいにあたり、これまでおなじリングでたたかってきたえつちゅう小林こばやし当初とうしょ不安ふあんかくせなかったが、豊富ほうふなキャリアに裏付うらづけされた試合しあい巧者こうしゃぶりを存分ぞんぶん発揮はっきし、当時とうじのメンバーは異口同音いくどうおんに「カブキさんの加入かにゅう正解せいかいだった」と称賛しょうさんおくっている[49]

1993ねん5月24にち、WARの大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかん大会たいかいにおいて、カブキの「息子むすこ」としてWCWでデビューしたグレート・ムタとの「親子おやこ対決たいけつ」が実現じつげん[50]実況じっきょうアナウンサーから「地獄じごく絵図えず」と形容けいようされるほど凄惨せいさん試合しあい展開てんかい結果けっかはムタがレフェリーの海野うみの宏之ひろゆきにイスで暴行ぼうこうくわえたことによるカブキの反則はんそくち。試合しあいにはったものの、カブキは試合しあいまみれでムタのさけび「My soooon! I kill you son of a bitch...」とマイクでつづけた。同年どうねん6がつ15にちにはしん日本にっぽんプロレスの日本武道館にほんぶどうかん大会たいかいにおいて「度目どめ親子おやこ対決たいけつ」(IWGPヘビーきゅう選手権せんしゅけん試合しあい)が実現じつげん[51]。ムタの猛攻もうこうがくられカブキはだい流血りゅうけつとなったが、血管けっかんれてしまいがくからいきおいよくたおれているムタのからだにかけるなどカブキ独自どくじ世界せかいかん体現たいげんマサ斎藤さいとうは「くちからはどくきりがくからはが…」とかたるにいたった。結果けっかはカブキが海野うみのレフェリー(当時とうじ、WAR)にどくきりきかけ、さらにめにはいった田山たやま正雄まさおレフェリー(当時とうじしん日本にっぽんプロレス)にもイスで暴行ぼうこうくわえたことによるカブキの反則はんそくけ。くしくも前回ぜんかい親子おやこ対決たいけつとは立場たちば逆転ぎゃくてんした試合しあい結果けっかわった。試合しあい、カブキは「Hey! my son...look me father!? I'm tough I'm tough!! My son listen to me!! listen to me...next time next time! I kill you」とマイクアピールをおこない、あまりの過激かげきさから試合しあいはタイトルせんにもかかわらずテレビ中継ちゅうけい中止ちゅうしとなり、ビデオソフトによる放映ほうえいとなった。

1994ねん1がつ22にちいちだけザ・グレート・カブキとしてWWF参戦さんせんロードアイランドしゅうプロビデンスにて開催かいさいされた『ロイヤルランブル』のランブルせん出場しゅつじょうした(22番目ばんめ登場とうじょうしたが、レックス・ルガーにリングにとされ15にん退場たいじょうしゃとなる)[52]。この大会たいかいでは、セミファイナルでおこなわれたヨコズナたいジ・アンダーテイカーのカスケット・マッチにも、ヨコズナに加担かたんするヒール陣営じんえい一員いちいんとして乱入らんにゅうし、アンダーテイカーを急襲きゅうしゅうした。なお、WWF(WWWF)にはカブキに変身へんしんする以前いぜんの1978ねん5がつ22にちにも、ヨシノ・サトとしてマサ斎藤さいとうとのコンビでフロリダ地区ちくからゲスト参戦さんせんしており[53]ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて、ドミニク・デヌーチ&ディノ・ブラボー保持ほじしていたWWWF世界せかいタッグ王座おうざ挑戦ちょうせんしたことがある[54]

しん日本にっぽんプロレスとの契約けいやく満了まんりょうはインディー団体だんたい転戦てんせんするようになり、1995ねん9月には石川いしかわたかしおこしたしん東京とうきょうプロレス出場しゅつじょう[55]1996ねん設立せつりつ発表はっぴょうされた「インディー統一とういつ機構きこう(ファイティング・フォー・フューチャー、略称りゃくしょう:FFF)」にも主力しゅりょく選手せんしゅとしての参戦さんせん予定よていされていたが、FFFは旗揚はたあまえ頓挫とんざ[56]

1997ねんからはIWA・JAPAN所属しょぞくとなるが、1998ねん6がつ現役げんえき引退いんたい表明ひょうめい[57]引退いんたいさいしてムタの代理人だいりにんである武藤むとうたかしが「パパと一緒いっしょ試合しあいがしたい」とコメント。そして同年どうねん8がつしん日本にっぽんプロレス大阪おおさかドーム大会たいかいでカブキとムタの「親子おやこタッグ」が実現じつげん後藤ごとういたるしゅん&小原おはらみちゆかり対戦たいせんし、カブキが後藤ごとうからピンフォふぉル勝るがちをおさめる。試合しあい、ムタは控室ひかえしつげるさい「I miss daddy...I love kabuki kabuki!!」とこえげ、さらに「I miss daddy I love you I miss you I love you!!」とムタなりにカブキの引退いんたいさいしてのコメントをおくっている。

同年どうねん7がつ20日はつかには、漫画まんがプロレス・スターウォーズ』のなかでしか実現じつげんしていなかったケンドー・ナガサキとの「オリエンタル・ミステリー・タッグ」で後楽園こうらくえんホールのメインイベントに出場しゅつじょうした[58]

引退いんたい

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1998ねん引退いんたいしたのちは、東京とうきょう飯田橋いいだばしにて居酒屋いざかや串焼くしやき・ちゃんこ かぶき」(のちに「BIG DADDY 酒場さかば かぶき うぃず ふぁみりぃ」としてリニューアル)を経営けいえいするかたわら、IWA・JAPANにてレフェリーをつとめ、時折ときおり観客かんきゃくとして後楽園こうらくえんホールなどにもあしはこんでいる。インディレスラーのコーチとして指導しどうたることもあるが「かなら基礎きそ受身うけみからやる」「アルバイトをしながらプロレスをやっているようではダメになっていく」とかたり、プロ意識いしきつことの重要じゅうようせいいている[28]

2008ねん12月18にち後楽園こうらくえんホールでの昭和しょうわプロレスだい2だん興行こうぎょうにおいて久々ひさびさにリングに登場とうじょう。オープニング・マッチでグレート小鹿おしかみ、日本にっぽんプロレス時代じだい先輩せんぱいである星野ほしの勘太郎かんたろう&山本やまもとしょうてつヤマハ・ブラザーズ対戦たいせんした[59]2009ねん12月6にちには大阪おおさかプロレスの6にんタッグマッチにおいて現役げんえきレスラーとの試合しあい出場しゅつじょうミラクルマンくいしんぼう仮面かめんタコヤキーダーくみ対戦たいせんし(パートナーは松山まつやまかんじゅうろう救世きゅうせい忍者にんじゃらんまる)、たけとんぼしきラリアットからのエビがためでタコヤキーダーからフォふぉル勝るがちをおさめる[60]

2011ねん折原おりはら昌夫まさおからタイ地下ちか格闘かくとうじょうにザ・グレート・カブキの子息しそくとしてTHE KABUKI(ザ・カブキ)と名乗なの格闘かくとうがいるとき、カブキ本人ほんにんは「アメリカ時代じだい前妻ぜんさいとの息子むすことは20ねん以上いじょうっていない」とかたったが、天龍てんりゅうとも対面たいめん[61]。8月には天龍てんりゅうプロジェクトでのデビューせんにおいてみずからセコンドにいた[62]。11月には限定げんてい復帰ふっきし、カブキの「かく」という設定せっていのTHE KABUKIとタッグをむにいたった[63][64]

2012ねん8がつ古巣ふるす全日本ぜんにほんプロレスの40周年しゅうねん記念きねん興行こうぎょう大田おおた総合そうごう体育館たいいくかん大会たいかいバトルロイヤル乱入らんにゅう優勝ゆうしょう候補こうほおもわれていたはま亮太りょうた襲撃しゅうげきし、優勝ゆうしょうを掻っさらっていった。2013ねんにはわがたたかえくもまいはつ参戦さんせん。65さい誕生たんじょうとなった9月8にちには、富豪ふごう富豪ふごう夢路ゆめじをパートナーに信州しんしゅうプロレスにも参戦さんせんした。

2015ねん1がつ4にちには、しん日本にっぽんプロレスの東京とうきょうドーム大会たいかいレッスルキングダム9 in 東京とうきょうドーム』の「だい0試合しあい 1ふん時間じかんバトルロイヤル 〜ニュージャパンランボー〜」において、15番目ばんめ選手せんしゅとして登場とうじょう[65]よく2016ねん1がつ4にちにも、東京とうきょうドームにおけるしん日本にっぽんプロレスの『レッスルキングダム10 in 東京とうきょうドーム』のニュージャパンランボーに16番目ばんめ選手せんしゅとして出場しゅつじょう。ヒロ斎藤さいとう藤原ふじわら喜明よしあきキング・ハク越中えっちゅうろうらととも試合しあいげた[66]

2016ねんはる居酒屋いざかや「BIG DADDY 酒場さかば かぶき うぃず ふぁみりぃ」を飯田橋いいだばしから小石川こいしかわ移転いてんきゅう店舗てんぽは3ねんまえから従業じゅうぎょういんとして勤務きんむしていたもと女子じょしプロレスラーの元気げんき美佐恵みさえぎ、居酒屋いざかや「ねばーぎぶあっぷ。」としてリニューアルオープンした。独立どくりつ創業そうぎょうであるが事実じじつじょう姉妹しまい店舗てんぽであるため「かぶき」で提供ていきょうされた料理りょうりしょくすること出来できる。

2017ねん12月22にちプロレスリング・ノア後楽園こうらくえんホール大会たいかいにて『KABUKI THE FINAL』として正式せいしき引退いんたい試合しあいおこなわれ、越中えっちゅう&齋藤さいとうあきらしゅんんで潮崎しおざきごう&小川おがわ良成よしなり&井上いのうえまさひさしと6にんタッグマッチで対戦たいせん齋藤さいとう井上いのうえをフォールして勝利しょうりおさめた。

2021ねん2がつ4にち、ジャイアント馬場ばば23回忌かいき追善ついぜん興行こうぎょう後楽園こうらくえんホール大会たいかいだい1試合しあい終了しゅうりょう登場とうじょうし、ヌンチャクで「追悼ついとうまい」を披露ひろうした[67]

2022ねん9月18にち全日本ぜんにほんプロレス50周年しゅうねん記念きねん日本武道館にほんぶどうかん大会たいかいで、だい8試合しあい全日本ぜんにほんプロレス創立そうりつ50周年しゅうねん記念きねんスペシャル6にんタッグマッチ」の選手せんしゅ入場にゅうじょうまえ登場とうじょう、「50周年しゅうねんおいのまい」を披露ひろう。さらに試合しあいにも介入かいにゅうし、井上いのうえまさひさしどくきりびせた[68]

2023ねん1がつ22にち、ザ・グレート・ムタの引退いんたい試合しあいGREAT MUTA FINAL " BYE-BYE"横浜よこはまアリーナ大会たいかいにて、メインイベントのムタぐみ入場にゅうじょうまえ登場とうじょう、ヌンチャクとあかどくきり披露ひろうしムタをむかれた。なおカブキ本人ほんにんおよびマネージャー(カブキ夫人ふじん)より、これがリングでの最後さいごのパフォーマンスとげられた[69]

2023ねん12月27にち、25年間ねんかんにわたり経営けいえいしていた居酒屋いざかや「BIG DADDY 酒場さかば かぶき うぃず ふぁみりぃ」を閉店へいてん閉店へいてん理由りゆう家族かぞくらすための準備じゅんびとカブキの体調たいちょうかんがえてのことだとしている[70]

獲得かくとくタイトル

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日本にっぽんプロレス
全日本ぜんにほんプロレス
ナショナル・レスリング・フェデレーション
NWAハリウッド・レスリング
  • NWAビート・ザ・チャンプTV王座おうざ:1かい[71]
ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWAフロリダ・タッグ王座おうざ:2かい(w / ミスター・サイトー[25]
  • NWA USタッグ王座おうざ(フロリダばん):2かい(w / ミスター・サイトー)
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
セントラル・ステーツ・レスリング
NWAビッグタイム・レスリング / ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
ミッドサウス・レスリング・アソシエーション
  • ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビーきゅう王座おうざ:1かい[32]
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
  • NWAミッドアメリカ・ヘビーきゅう王座おうざ:1かい[73]
プロレス大賞たいしょう
  • 努力どりょくしょう(1975ねん
  • 殊勲賞しゅくんしょう(1983ねん
  • 大衆たいしゅうしょう(1983ねん

得意とくいわざ

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派手はで外見がいけんとは裏腹うらはらに、試合しあいではけっしてわざ多用たようせず「あいだ」で勝負しょうぶするレスラーだったとえる。いち試合しあいとおしてわざらしいわざボディスラムキーロックふたつのみを使用しようしててたことがあるほどであり、わざわざまるわざるいはほとんど使用しようせず独創どくそうてきかぎられたプロレスムーブで試合しあいおこなう。 2019ねんのインタビューでは、「最近さいきんのレスラーはんだりねたりで自己じこ満足まんぞくおちいり、きゃくのことなんかかんがえていない」と自身じしんのプロレスかんのようなものをかたった[74]

どくきり
元祖がんそであり、カブキが使用しようしたことによってべいマットで活躍かつやくする日本人にっぽんじん怪奇かいきレスラーの定番ていばんわざとなった。
カブキの場合ばあい、あくまでわざとしての使用しよう主要しゅよう目的もくてきであり、試合しあいちゅう攻撃こうげきとしてもちいられることはすくない。
セミリタイア状態じょうたいになってから徐々じょじょにその成分せいぶん仕掛しかけのヒントを書籍しょせきなどで公開こうかいしたが、使用しようする現役げんえきレスラーがいることを理由りゆうにその全貌ぜんぼうあきらかにされていない。
トラース・キック
別名べつめいカブキり。こちらもカブキが使用しようしたことによりプロレスかい浸透しんとうしたものであり、プロレスわざとしては元祖がんそである。
おもにコーナーへられたさいのカウンターとしてもちいたが、フィニッシュ・ホールドとしてももちいられた。
ぎゃく回転かいてんはなまわりも使用しようしたが、カブキがはなつとトラース・キックの呼称こしょうもちいられることがおおかった。
コンタクトのさいげたあし大腿だいたいみずかはたき、キックの打撃だげきおんのように観客かんきゃくおもわせるのが特徴とくちょうてき
アッパー・ブロー
右腕うわんおおきくりかぶり、こぶしかためた反対はんたい左手ひだりてしたから相手あいてあごないしはほお独特どくとくのアッパー・ブロー。
ヒト・トージョーとしてのオーストラリア遠征えんせい現地げんち一緒いっしょだったボクサーがりのサイクロン・ネグロおそわってにつけた[75]
カブキが試合しあいてるうえ多用たようしたわざであり、主要しゅよう打撃だげき攻撃こうげきひとつ。ヘイト伝授でんじゅされている。
せいこぶしとっき(フィスト・ドロップ
もっと多用たようされたフィニッシュ・ホールドで、カブキとしてのキャラクターを思案しあんした結果けっか開発かいはつされた。
セカンドロープじょう綱渡つなわたりのように2~3移動いどうし、こぶしかためた右腕うわんおおきくりかぶってりょうひざ着地ちゃくちしき相手あいて喉笛のどぶえ胸元むなもとたたむ。
たけとんぼしきラリアット
かねてより使用しようしていたが、後年こうねんおもなフィニッシュ・ホールドとしてももちいられている。
両手りょうてひろげて1~2かいころがしてから左腕さわんはなラリアット
オリエンタル・クロー
カブキの使用しようするクロー攻撃こうげき総称そうしょうであり、たんなるチョーク攻撃こうげきもこのばれた。
コブラ・クローチョーク・クローショルダー・クローなど、その時々ときどきによってかたち様々さまざまである。
バックドロップ
全日本ぜんにほんプロレス時代じだい度々どどフィニッシュとしてもちいられた。
各種かくしゅうでごろ
キーロックアームブリーカーはじめ、いちてん集中しゅうちゅう攻撃こうげきおこなさいうで焦点しょうてんしぼることがおおかった。
各種かくしゅ反則はんそく攻撃こうげき
おもにイス、ヌンチャクなどの凶器きょうき攻撃こうげきやガウジング、みつきなどの反則はんそく急所きゅうしょ攻撃こうげきはあまりおこなわなかった。
どくきりべいマットや全日本ぜんにほんプロレス、WARでは反則はんそくなされ、そく試合しあい終了しゅうりょうあつかいをけている。
水芸みずげい
厳密げんみつうとわざではいが、流血りゅうけつしたさいにまるで噴水ふんすいのようにがくから噴出ふんしゅつさせることみずからの意思いし出来できた。
やられわざとしての使用しようのほか、来歴らいれきこうしるしたように相手あいてをかける攻撃こうげきとしてももちいられた。
指折ゆびお
これもわざではいがどくきり上空じょうくうかってすさいや、相手あいて攻撃こうげきけているさいにゆびだいいち関節かんせつ部分ぶぶんのみをげる仕草しぐさ
どくきり水芸みずげいとなどとおなじく、レスラーカブキのキャラクターぞうつくすための工夫くふうである。

高千穂たかちほ明久あきひさ

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カブキに変身へんしんするまえの17年間ねんかんは、マイティ井上いのうえならび「和製わせいマットの魔術まじゅつ」ともばれるほど正統せいとうのテクニシャンとしてらしたレスラーであり、ハンマーロック駆使くしした攻防こうぼう多彩たさいなグラウンドテクニックをもちいたスピードかんあるファイトスタイルがあじであった。アメリカ遠征えんせい経験けいけんした1970年代ねんだい中盤ちゅうばん以降いこうのカブキ時代じだいおなじフォームではなたれるアッパー・ブロー連発れんぱつしてペースをつかむのも定番ていばん展開てんかいであり、1980年代ねんだい初頭しょとうにはすでトラース・キック使用しようはじめていた。リングコスチュームは日本にっぽんではあか緑色みどりいろのショートタイツにくろのリングシューズ。アメリカではくちひげをたくわえ、タッグパートナーのミスター・サイトー同色どうしょくどうデザインの田吾作たごさくタイツに裸足はだしというスタイルで、サイトーがパンチパーマなのにたいしてサト(高千穂たかちほ)はストレートのななさんけという髪型かみがた試合しあいちゅう判別はんべつおこなえた。なお、マネージャータイガー服部はっとり知立ちりゅう消防しょうぼうだん法被はっぴ羽織はおっていた。

日本にっぽんプロレス時代じだい高千穂たかちほ徳光とくみつ和夫かずお回想かいそうでは、高千穂たかちほ若手わかて時代じだいから非常ひじょうたくみいレスラーで、清水しみず一郎いちろう佐土さどいちせいなど、徳光とくみつ先輩せんぱいのプロレス実況じっきょうアナウンサーたちからの評価ひょうか非常ひじょうたかかったという。徳光とくみつ高千穂たかちほがカブキに変身へんしんする以前いぜんより北米ほくべいマットのプロモーターからりだこの存在そんざいとなっていた要因よういんとして、「相手あいてのベビーフェイスをきたせるバンプの上手じょうずさ」を指摘してきしていた[76]。ジャイアント馬場ばば退団たいだんし、坂口さかぐちせい退団たいだんした末期まっき日本にっぽんプロレスは、その技術ぎじゅつたかさから高千穂たかちほ時代じだいのカブキを坂口さかぐちわりにあらたなエースとして方向ほうこうせいせるも、テレビ中継ちゅうけいられ、人気にんき選手せんしゅ離脱りだつ興行こうぎょうもままならなくなった日本にっぽんプロレスではそれもかなわないまま崩壊ほうかいしている。

水車みずぐるまとし
日本にっぽんプロレス時代じだい得意とくいわざ。アマレスしきレッグ・ダイブから敢行かんこうするもので、サルマン・ハシミコフ以前いぜん使つかとして著名ちょめいである。
スクリューしきドロップキック
スウィート・ダディ・シキ得意とくいわざ独学どくがく会得えとく徳光とくみつらアナウンサーのあいだでは、当時とうじ日本人にっぽんじんレスラーでも随一ずいいち使つか認知にんちされていたという[76]
オースイ・スープレックス
アル・コステロのフィニッシュ・ホールドを会得えとくし、にちプロ時代じだいの1969ねん戸口とぐち正徳まさのりせん日本にっぽんはじめて披露ひろうした。
シュミットしきバックブリーカー
スイングしきネックブリーカー
メキシカン・ストレッチ
ニー・ドロップ
上記じょうき4つはいずれも北米ほくべい遠征えんせいによくもちいたわざである。
ワンハンド・スープレックス
正面しょうめんから相手あいてひだり手首てくび左手ひだりてつかみ、さら相手あいてひだりひじみずからのみぎわきかかむようにして相手あいて左腕さわんかためてから、一気いっき後方こうほうげるわざ変形へんけい水車みずぐるまとしとも形容けいようできるわざで、1970年代ねんだい後半こうはん、アメリカにてミスター・サトとして活動かつどうちゅう師匠ししょうヒロ・マツダと1ねんかりで開発かいはつしたとされている。日本にっぽんでは1979ねん8がつ全日本ぜんにほんプロレス『ブラック・パワー・シリーズ』に参戦さんせんしたさい披露ひろうされ、その度々どどフィニッシュ・ホールドとして使用しようされた。日本にっぽんでのはつ披露ひろうさい高千穂たかちほ本人ほんにんは「スープレックスの一種いっしゅだが、とく名前なまえはない」とべており、実況じっきょうではワンハンド・スープレックスと解説かいせつされていた。アメリカでもここ一番いちばん大技おおわざとして使用しようされていたが、サト時代じだいはサイトーとのタッグもふくめて、ジョバーとしての敗戦はいせんや、ラフファイト服部はっとり乱入らんにゅうなどのすえ無効むこう試合しあい反則はんそくとなることがおおかったため、頻度ひんどはそれほどおおくはなく、カブキに変身へんしんして以降いこう使用しようされなくなった。
現存げんそんする映像えいぞうでは、1978ねん7がつ25にちNWAフロリダ地区ちくにてサイトーとんでマイク・グラハム&スティーブ・カーン挑戦ちょうせんしたNWA USタッグ王座おうざ(フロリダばん英語えいごばんたたかえ、1979ねん8がつ21にち全日本ぜんにほんプロレスにおけるミル・マスカラスんでのカルロス・コロン&ブルーノ・ベッカーくみせんにおいて、このわざはなっている様子ようす確認かくにんできる。

エピソード

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  • 力道山りきどうざん日本にっぽんプロレスへの入門にゅうもん直訴じきそすべく、1963ねん11がつ10日とおかに15さい東京とうきょう赤坂あかさかにあった日本にっぽんプロレス合宿がっしゅくしょ訪問ほうもんしたさい当時とうじ若手わかてレスラーだった上田うえだすけこえをかけられしん弟子でしになりたいむねつたえたところ、上田うえだから「今日きょう力道山りきどうざん先生せんせいはいないから、いちばんまっていきなさい。明日あしたにはえるから」などと親切しんせつ応対おうたいされたという。しかし前日ぜんじつ9にち東海道とうかいどうせんでは鶴見つるみ新子安しんこやすあいだ鶴見つるみ事故じこ発生はっせいしており、米良めら少年しょうねんっていた列車れっしゃ直接的ちょくせつてき被害ひがいまぬかれたがこの影響えいきょうこうむり、東京とうきょう終点しゅうてんのところを新橋しんばし運転うんてんりとなっていた。そのため、故郷こきょうのこしてきた家族かぞく心配しんぱいをかけまいとし、上田うえだ提案ていあん丁重ていちょうって愛知あいちへともどってきた。力道山りきどうざん死去しきょは、その1ヶ月かげつのことであった[3][77]翌年よくねんあらためて日本にっぽんプロレスを再訪さいほうしたさいにはゆたかとうがおり、「学校がっこう卒業そつぎょうしたら(日本にっぽんプロレスに)入門にゅうもんしなさい」との許可きょかていたが、口約束くちやくそくでは不安ふあんなので証文しょうもんいてもらった[78]。また、名古屋なごや高校こうこうからも推薦すいせん入学にゅうがくはなしがあったという[3]
  • 最初さいしょのアメリカ遠征えんせいちゅう発生はっせいしたアントニオ猪木いのき日本にっぽんプロレス除名じょめいジャイアント馬場ばば日本にっぽんプロレス退団たいだんなど、日本にっぽんプロレスの一連いちれんのおいえ騒動そうどうかんしては対岸たいがん火事かじといった感覚かんかくで、当初とうしょ帰国きこくするつもりはなかったという。1972ねん9がつ凱旋がいせん帰国きこくしたさいは、よしさと淳三じゅんぞうから「にちプロの最後さいごのツアーがあるから」とわれて帰国きこくしたという。当初とうしょは『だい3かいNWAタッグ・リーグせん終了しゅうりょう再度さいど渡米とべいするつもりであったが、次期じきシリーズである『インターナショナル選手権せんしゅけんシリーズ』以降いこう日本にっぽんプロレスに参戦さんせんした。日本にっぽんプロレス最後さいご試合しあいとなった1973ねん4がつ20日はつか群馬ぐんまけん吉井よしいまち大会たいかいでは、「これで日本にっぽん最後さいごだ」というおもいで試合しあいをしていたという[16]
  • アメリカでのザ・グレート・カブキの出身しゅっしん日本にっぽんではなくシンガポールとされていた。これは、すでに1981ねん当時とうじのアメリカには日本にっぽんせい自動車じどうしゃ電化でんか製品せいひん普及ふきゅうしており、日本にっぽん出身しゅっしんというプロフィールではミステリアスなイメージを演出えんしゅつできなくなったためである(当初とうしょ、カブキ本人ほんにんチベット出身しゅっしんという設定せっていかんがえていたが、マネージャーのゲーリー・ハートがチベットの存在そんざいらなかったためシンガポールになったという。なお、若手わかて時代じだい高千穂たかちほ明久あきひさ日本にっぽんプロレスの東南とうなんアジア遠征えんせいにおいて、実際じっさいにシンガポールで試合しあいをしたことがある)[79]
  • アメリカではだいヒールとして活躍かつやくしたが、1985ねん主戦しゅせんじょうのWCCWにて、女性じょせいマネージャーのサンシャイン[80]いて一時いちじてきベビーフェイス転向てんこう[81]ジノ・ヘルナンデス&クリス・アダムスのダイナミック・デュオやワンマン・ギャング抗争こうそうした[82]。そのはヒールにもどり、パーシー・プリングル3せいをマネージャーにむかえ、リック・ルードブラックジャック・マリガン共闘きょうとうした[83]
  • プロレスリング・ノア三沢みさわ光晴みつはる社長しゃちょう不動産ふどうさん仲介ちゅうかい会社かいしゃリーヴライフ トゥエンティーワン(通称つうしょうザ・リーヴ)のCMに出演しゅつえんしたきっかけは、カブキの紹介しょうかいによるものである。ノア所属しょぞく選手せんしゅのCM出演しゅつえん切望せつぼうしていたザ・リーヴの佐藤さとう和弘かずひろ社長しゃちょうが、親交しんこうのあったカブキから三沢みさわ紹介しょうかいされ、どう年齢ねんれいで、まれたつき血液けつえきがたおなじであったため意気投合いきとうごうした[84]。2012ねんなつより放映ほうえい開始かいしされた「かぶきへん」では、ノア所属しょぞく選手せんしゅ秋山あきやまじゅん潮崎しおざきごう鈴木すずきつづみ太郎たろう青木あおき篤志あつし)にじって、カブキ本人ほんにんもCMに出演しゅつえんしている。また、撮影さつえい使用しようされたのは、前述ぜんじゅつの「BIG DADDY 酒場さかば かぶき うぃず ふぁみりぃ」である。なお、CM映像えいぞうは、ザ・リーヴ公式こうしきWebサイトにて視聴しちょう可能かのう
  • 1987ねんタイガー・ジェット・シン招聘しょうへいみなみアフリカへの遠征えんせいけられたが、多忙たぼうとギャランティがらみで招聘しょうへいっている。結局けっきょくジャイアント馬場ばば経由けいゆ紆余曲折うよきょくせつありハル薗田そのだ新婚しんこん旅行りょこうねた遠征えんせいかうこととなるが、とう薗田そのだ夫妻ふさい経由けいゆ台湾たいわんからみなみアフリカへかう飛行機ひこうき墜落ついらく事故じこまれてかえらぬひととなってしまった[85]
  • 現役げんえき時代じだいにも飲食いんしょくてん「なべしょうてつ」を経営けいえいしており各種かくしゅプロレスマスコミや「リングのたましいとう番組ばんぐみ紹介しょうかいされたが、現在げんざい経営けいえいから撤退てったいしている。
  • アメリカ時代じだい華々はなばなしい活躍かつやくから、2016ねんにはWWE殿堂でんどうりの打診だしんがあったものの、プロレス活動かつどう制約せいやくくわわる(WWEの許可きょかがない団体だんたいには参戦さんせんできない)ことなどを理由りゆう辞退じたいしたという[86]
  • 全盛期ぜんせいき当時とうじ全日本ぜんにほんプロレスでも社長しゃちょう馬場ばば以外いがいさきに「こわひと」として名前なまえがる人物じんぶつられていた。馬場ばばとしかさねたころになるとその緩慢かんまんうごきからきゃくからの野次やじけることがあったが、それをいたカブキはそのせきまでってチケットだい返金へんきんしてきゃく会場かいじょうからつまみしたという[87]
  • ザ・グレート・カブキとして日本にっぽんぎゃく上陸じょうりく直後ちょくごかくテレビ局てれびきょくからの番組ばんぐみ出演しゅつえんやCMのオファーがあった。フジテレビからは「森田もりた一義かずよしアワー わらっていいとも!」の出演しゅつえん依頼いらいけたり、日本にほんテレビがカブキをアニメする計画けいかくがあったが、いずれの計画けいかく馬場ばば元子もとこによってつぶされたという[88]

リングネーム

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よねりょうもちいたことがあるリングネーム

  • 高千穂たかちほ明久あきひさ
  • タカチホ
  • ヨシノ・サト(アメリカ修行しゅぎょうちゅう使用しよう
  • デビル・サト(アメリカ修行しゅぎょうちゅう使用しよう
  • ミスター・サト(アメリカ遠征えんせいちゅう使用しよう
  • ミスター・ヒト(アメリカ遠征えんせいちゅう使用しよう
  • ヒト・トージョー(オーストラリア遠征えんせいちゅう使用しよう
  • カブキ
  • ザ・グレート・カブキ(アメリカ遠征えんせいちゅうの1981ねんより)

入場にゅうじょうテーマきょく

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著書ちょしょ

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たんちょ

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共著きょうちょ

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  • タイガー戸口とぐちどくとらシュート夜話やわ 昭和しょうわプロレス暗黒あんこく対談たいだん』(2019ねん7がつ30にち徳間書店とくましょてんISBN 978-4198648947
  • 平成へいせい維震ぐんみちきたおとこたち(2020ねん1がつ23にち辰巳たつみ出版しゅっぱんえつちゅうろう小林こばやし邦昭くにあき木村きむら健吾けんご、ザ・グレート・カブキ、青柳あおやぎ政司せいじ齋藤さいとうあきらしゅん、AKIRAによる共著きょうちょ ISBN 978-4-7778-2433-5

出演しゅつえん

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映画えいが

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  • 地獄じごくプロレス(2005ねん3がつ26にち高橋たかはしいわお監督かんとく
  • 赤裸あかはだかライアー」Gacharic Spin(2015ねん2がつ25にち[89]

テレビ番組ばんぐみ

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • ザ・グレート・カブキ『"東洋とうよう神秘しんぴ" ザ・グレート・カブキ自伝じでん辰巳たつみ出版しゅっぱん、2014ねんISBN 4777813932 
  • よねりょう明久あきひさ「This is プロレス だい25かい ザ・グレート・カブキさん Part1」『週刊しゅうかん大衆たいしゅう』 2019ねん12月16にちごう pp.78-79
  • 越中えっちゅうろう小林こばやし邦昭くにあき木村きむら健吾けんご、ザ・グレート・カブキ、青柳あおやぎ政司せいじ齋藤さいとうあきらしゅん、AKIRA『平成へいせい維震ぐんみちきたおとこたち』辰巳たつみ出版しゅっぱん、2020ねんISBN 978-4-7778-2433-5 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 週刊しゅうかんゴング増刊ぞうかんごう『THE WRESTLER BEST 1000』P140(1996ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  2. ^ 『“東洋とうよう神秘しんぴ” ザ・グレート・カブキ自伝じでん辰巳たつみ出版しゅっぱん、2014ねん10がつ29にち、1-7ぺーじ 
  3. ^ a b c “【ザ・グレート・カブキ連載れんさい#1】63ねん力道山りきどうざんへの入門にゅうもん直訴じきそ敢行かんこう! 1かげつ悲劇ひげきが…”. 東京とうきょうスポーツ (東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ). (2024ねん8がつ15にち). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/313768 2024ねん9がつ15にち閲覧えつらん 
  4. ^ a b 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P12
  5. ^ 週刊しゅうかんプロレス No.1837ごう【2016ねん3がつ9にちごう】 57ぺーじ プロレスアルバム『ザ・グレート・カブキ』参照さんしょう
  6. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P36
  7. ^ 東京とうきょうスポーツ 2011ねん4がつ7にち発行はっこう 6ぺーじ参照さんしょう
  8. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P38
  9. ^ ゆたかとう名付なづけたというせつもある(門馬もんま忠雄ただお日本にっぽん縦断じゅうだんプロレスラー列伝れつでん2002ねん エンターブレイン ISBN 9784757709508 p.518)。
  10. ^ 『Gスピリッツ Vol.50』P50(2018ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777822400
  11. ^ a b JPWA 1970 The 12th World League”. Puroresu.com. 2022ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  12. ^ 和製わせいペイントレスラーとして日米にちべいのマットを席巻せっけんしたスゴいじん!
  13. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P70
  14. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P77
  15. ^ a b NWF World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2013ねん7がつ5にち閲覧えつらん
  16. ^ a b “【ザ・グレート・カブキ連載れんさい#10】日本にっぽんプロレスのおいえ騒動そうどう正直しょうじき米国べいこくもどるから「関係かんけいない」と”. 東京とうきょうスポーツ (東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ). (2024ねん9がつ3にち). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/315382 2024ねん9がつ15にち閲覧えつらん 
  17. ^ JWA 1972 The 3rd Annual NWA Tag Team League”. Puroresu.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  18. ^ a b NWA United National Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  19. ^ JWA 1973 Iron Claw Series”. Puroresu.com. 2015ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  20. ^ a b NWA Austra-Asian Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011ねん12月29にち閲覧えつらん
  21. ^ a b c All Asia Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  22. ^ AJPW 1977 Open Tag Team Championship”. Puroresu.com. 2015ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  23. ^ 韓国かんこく遠征えんせい 昭和しょうわ全日本ぜんにほんプロレス
  24. ^ ★インターナショナル・ヘビーきゅう選手権せんしゅけん 栄光えいこうかがや
  25. ^ a b NWA Florida Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011ねん12月29にち閲覧えつらん
  26. ^ a b NWA Central States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  27. ^ a b c 『デラックス・プロレス』昭和しょうわ58ねん3がつごうP52「東洋とうよう神秘しんぴ "カブキ" に直撃ちょくげきインタビュー」(1983ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  28. ^ a b c 格闘かくとう! プロレスクラシック』P79「だい3しょうレスラーインタビュー ザ・グレート・カブキ」(2000ねんイカロス出版いかろすしゅっぱん
  29. ^ 『Gスピリッツ Vol.16』P60(2010ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777808017
  30. ^ a b NWA World Tag Team Title [World Class]”. Wrestling-Titles.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  31. ^ a b NWA American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  32. ^ a b Mid-South Louisiana Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  33. ^ The GCW matches fought by The Great Kabuki in 1982”. Wrestlingdata.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  34. ^ The GCW matches fought by The Great Kabuki in 1984”. Wrestlingdata.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  35. ^ GCW at Atlanta”. Wrestlingdata.com. 2017ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  36. ^ a b World Class Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2017ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  37. ^ a b NWA Texas Brass Knuckles Title”. Wrestling-Titles.com. 2017ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  38. ^ a b NWA Mid-Atlantic Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  39. ^ NWA Starrcade 1983 "A Flair For The Gold"”. Cagematch.net. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  40. ^ AJPW Excite Series 1983 - Tag 1”. Cagematch.net. 2015ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  41. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P146
  42. ^ 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.2』P60(2014ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃISBN 9784583621876
  43. ^ AJPW Real World Tag League 1983 - Day 17”. Wrestlingdata.com. 2017ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  44. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P161
  45. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P96
  46. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P157
  47. ^ 『ザ・グレート・カブキ自伝じでん』P184-P188
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外部がいぶリンク

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