長州ちょうしゅうりょく

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長州ちょうしゅうちょうしゅう ちからりき
Riki Chōshū
長州(ちょうしゅう) 力(りき) Riki Chōshūの画像
プロフィール
リングネーム 長州ちょうしゅう りょく
吉田よしだ 光雄みつお
本名ほんみょう 吉田よしだ 光雄みつお(よしだ みつお)(日本にっぽんめいげん戸籍こせきめい
かく 光雄みつお(かく こうゆう、クァク・クァンウン)(韓国かんこくめいきゅう本名ほんみょう
ニックネーム 革命かくめい戦士せんし
身長しんちょう 184cm
体重たいじゅう 120kg
誕生たんじょう (1951-12-03) 1951ねん12月3にち(72さい
出身しゅっしん 山口やまぐちけん徳山とくやまげんしゅう南市みなみいち
所属しょぞく リキプロ
スポーツれき レスリング
トレーナー アントニオ猪木いのき
カール・ゴッチ
マサ斎藤さいとう
デビュー 1974ねん8がつ8にち
引退いんたい 2019ねん6月26にち
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獲得かくとくメダル
男子だんし レスリング
国民こくみん体育たいいく大会たいかい
きむ 1969 フリー75kg以上いじょうきゅう
全日本ぜんにほん学生がくせいレスリング選手権せんしゅけん大会たいかい
きむ 1971 グレコローマン90kgきゅう
全日本ぜんにほんレスリング選手権せんしゅけん大会たいかい
きむ 1973 フリー100kgきゅう
きむ 1973 グレコローマン100kgきゅう
長州ちょうしゅうりょく
人物じんぶつ
国籍こくせき 大韓民国の旗 韓国かんこく日本の旗 日本にっぽん
YouTube
チャンネル
活動かつどう期間きかん 2019ねん -
ジャンル ブログ
登録とうろくしゃすう やく26.5まんにん
そう再生さいせい回数かいすう やく6,084まんかい
チャンネル登録とうろくしゃすうそう再生さいせい回数かいすう
2022ねん9がつ9にち時点じてん
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長州ちょうしゅう りょく(ちょうしゅう りき、1951ねん12月3にち - )は、日本にっぽんもとプロレスラーYouTuber山口やまぐちけん徳山とくやまげんしゅう南市みなみいち出身しゅっしん静岡しずおかけん熱海あたみ在住ざいじゅう北海道ほっかいどう猿払さるふつむらふるさと納税のうぜい大使たいし

在日ざいにち韓国かんこくじん2せいとしてまれ、2016ねん日本にっぽん帰化きかした[1]韓国かんこくめいかく 光雄みつお(かく こうゆう、クァク・クァンウン、곽광웅)。現在げんざい本名ほんみょう日本にっぽんめいおよきゅうリングネーム)は吉田よしだ 光雄みつお(よしだ みつお)。

ニックネームは「革命かくめい戦士せんし[2]入場にゅうじょうきょく異母いぼはんしょう作曲さっきょくのオリジナルテーマきょく『パワーホール』(後述こうじゅつ参照さんしょう)。血液けつえきがたOがた

来歴らいれき[編集へんしゅう]

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1951ねん12月3にち山口やまぐちけん徳山とくやまよんにん兄弟きょうだいすえとしてまれる。父親ちちおやは1939ねん韓国かんこく忠清ただきよ北道ほくどうから来日らいにちし、廃品はいひん回収かいしゅうぎょういとなんでいた。在日ざいにち韓国かんこくじんせいという出自しゅつじのため、小学校しょうがっこう時代じだい教師きょうしからも差別さべつけたという。スポーツは野球やきゅう柔道じゅうどう活動かつどう岐陽中学ちゅうがく柔道じゅうどうて、山口やまぐちけん桜ケ丘さくらがおか高校こうこうのレスリング特待とくたいせいとして進学しんがくレスリングみ、3年生ねんせいの1969ねんにはインターハイの73kgきゅうじゅん優勝ゆうしょう長崎ながさき国体こくたいのフリースタイル75kg以上いじょうきゅう優勝ゆうしょうする[3]大学だいがくレスリング関係かんけいしゃであるから注目ちゅうもくされ、レスリング強豪きょうごうこう専修大学せんしゅうだいがく商学部しょうがくぶ特待とくたいせいとして入学にゅうがくする。

オリンピック出場しゅつじょうとプロレス[編集へんしゅう]

専修大学せんしゅうだいがくレスリングでは重量じゅうりょうきゅう選手せんしゅとして1ねんから試合しあい活躍かつやくする。3学年がくねん先輩せんぱい主将しゅしょうミュンヘンオリンピックのフリースタイル52kgきゅうきんメダルを獲得かくとくする加藤かとう喜代美きよみ。1学年がくねん後輩こうはいには吉田よしだ栄勝えいかつ吉田よしだすな保里ほりちち)や平澤ひらさわ光志みつし平澤ひらさわ光秀みつひでちち)がいた。

大学だいがく2ねんの1971ねん全日本ぜんにほん学生がくせい選手権せんしゅけんグレコローマン90kgきゅう優勝ゆうしょうする。大学だいがく3ねんの1972ねん日本にっぽんそだちでありながらも国籍こくせきのためオリンピックに出場しゅつじょうできなくなることをしむ関係かんけいしゃたすけもあり、在日ざいにち大韓たいかん体育たいいくかいかいしてミュンヘンオリンピック韓国かんこくレスリング代表だいひょうえらばれる[4]本番ほんばんではフリースタイル90kgきゅう出場しゅつじょうし、戦績せんせきは1しょう2はい減点げんてん制度せいどにより失格しっかく)。大学だいがく4ねんでキャプテンとなり、1973ねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんではフリースタイルとグレコローマンの100kgきゅう優勝ゆうしょうした。

卒業そつぎょう進路しんろ選択せんたくさいNET運動うんどう局長きょくちょうだった永里ながさと高平たかひら早稲田大学わせだだいがくレスリングOB)の仲介ちゅうかいしん日本にっぽんプロレスしんあいだ寿ことぶき営業えいぎょう本部ほんぶちょうにスカウトされ、1974ねんしん日本にっぽんプロレスへ入団にゅうだん。ミュンヘン五輪ごりんグレコローマン100kg以上いじょうきゅう出場しゅつじょうし、1ねんまえ全日本ぜんにほんプロレスりした鶴田つるた友美ゆみおなじく「アマレスエリートのプロレス転向てんこう」というみち辿たどることになる。

時代じだい[編集へんしゅう]

1974ねん8がつ8にち日大にちだい講堂こうどうでのエル・グレコせんでデビューをたし、サソリかた勝利しょうりかざる。そのすぐに海外かいがい武者むしゃ修行しゅぎょうされ、ヨーロッパや北米ほくべい転戦てんせん。デビューからあいだもない1974ねんあきには、当時とうじ西にしドイツにてローラン・ボックミル・マスカラスとも対戦たいせん(いずれも敗退はいたい[5]。1975ねんからはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく本土ほんどはいり、ヒロ・マツダ本拠地ほんきょちとしていたNWAフロリダ地区ちく活動かつどうダニー・ホッジクリス・マルコフバロン・シクルナボブ・アームストロング若手わかて時代じだいボブ・バックランドランディ・サベージ(ザ・スパイダー)などと対戦たいせんした[6]

デビューのリングネームは日本にっぽんめい吉田よしだ光雄みつおであったが、海外かいがい武者むしゃ修行しゅぎょうから帰国きこくの1977ねん4がつより、故郷こきょう長門ながとこく別名べつめいである長州ちょうしゅうにちなんで長州ちょうしゅうりょく改名かいめい[7][ちゅう 1][ちゅう 2][ちゅう 3]凱旋がいせん帰国きこく出場しゅつじょうしただい4かいワールドリーグせんでは、優勝ゆうしょうしゃ坂口さかぐちせいじゅん優勝ゆうしょうしゃマスクド・スーパースターいで、ニコリ・ボルコフ同点どうてんの3戦績せんせきおさめた[9]改名かいめいアントニオ猪木いのきのパートナーに起用きようされてTV中継ちゅうけい試合しあいのメインイベントに出場しゅつじょうするなど、活躍かつやく機会きかいあたえられていたが、はなやかさに無骨ぶこつ長州ちょうしゅう人気にんきがらず、精悍せいかん女性じょせい子供こどもけするジュニアヘビーきゅう藤波ふじなみ辰巳たつみ木村きむら健吾けんご後塵こうじんはいす。

1979ねん6がつにはストロング小林こばやしわる坂口さかぐちしんパートナーとして北米ほくべいタッグ王座おうざ獲得かくとく猪木いのき坂口さかぐちぐヘビーきゅうの3番手ばんてとなったものの、ブレイクにはいたらなかった[10]どう王座おうざハリウッド・ブロンズジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、タイガー・ジェット・シン&マサ斎藤さいとうアイアン・シーク&スーパー・デストロイヤーバッドニュース・アレン&ゲシュタポワイルド・サモアンズアファ・アノアイ&シカ・アノアイ)などのチームを相手あいて防衛ぼうえいつづけたが、猪木いのき提唱ていしょうするIWGP構想こうそうにより、1981ねん3がつのシン&ドン・ムラコとの防衛ぼうえいせん最後さいご返上へんじょうとなった[11]

「かませいぬ発言はつげん」から「革命かくめい戦士せんし」へ[編集へんしゅう]

1982ねん7がつ23にちメキシコ遠征えんせいにおいてカネックやぶり、UWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく[12]。9月26にち奪還だっかんされるも、当時とうじのメキシコのマットかいにおける重量じゅうりょうきゅう第一人者だいいちにんしゃであったカネックから世界せかい王座おうざ奪取だっしゅし、2ヶ月かげつあいだわたって戴冠たいかんした[12]。しかし、この遠征えんせい本意ほんいではなかったようで、遠征えんせい理由りゆうについて「くるま運転うんてん免許めんきょりにった」とこたえるなど、当時とうじのことをかたることはほとんどない[13]

凱旋がいせん帰国きこく、それまでの短髪たんぱつパーマからストレートの長髪ちょうはつにイメージチェンジした長州ちょうしゅうは、10月8にち後楽園こうらくえんホールおこなわれた猪木いのき&藤波ふじなみんでのアブドーラ・ザ・ブッチャー、アレン、S・D・ジョーンズくみとの6にんタッグマッチにおいて、藤波ふじなみ仲間割なかまわれしてしん日本にっぽん正規せいきぐん謀反むほんこす。以後いご一躍いちやくブレイクをたすこととなった[14]

そのきっかけとなったのは、試合しあいまえのマイクアピールで「藤波ふじなみおれはおまえませいぬではない」と発言はつげんしたことからとされているが、長州ちょうしゅう実際じっさいはっした言葉ことばは「なんでおれがおまえまえあるかなきゃいけないんだ。なんで、おれがおまえまえにコールされなきゃいけないんだ」であった(格下かくしたさき入場にゅうじょうさきにリングアナウンサーに紹介しょうかいされるのが業界ぎょうかいならわしである)[15]藤波ふじなみ年下とししたではあるが先輩せんぱいであり、長州ちょうしゅうとの試合しあいでは6せん6しょうと、この時点じてんでは人気にんき実績じっせきども圧倒的あっとうてきっていたが、メキシコ遠征えんせいでの世界せかい王座おうざ戴冠たいかんに、それまでいぶっていた長州ちょうしゅうにチャンスをあたえるべく、猪木いのき発案はつあん藤波ふじなみとのこうそうアングルがスタートしたとされる[14]猪木いのきのちに「大事だいじなのは、だれかんがえたのかじゃなくて、長州ちょうしゅうがそのながれを、自分じぶん上手うまかしたこと」とかたり、長州ちょうしゅう自己じこプロデュースりょくたかゆえ結果けっかだとしている[13]

ませいぬ」という言葉ことばげられるようになったのは、長州ちょうしゅう雑誌ざっし『ビッグ・レスラー』1982ねん12がつごうたてふう書房しょぼう)における造反ぞうはん直後ちょくご単独たんどくインタビューのなかで「だけど、ここで自分じぶん主張しゅちょうできなかったら、ぼく一生いっしょう ”かませいぬ” のままでわってしまうんですよ」とコメントしたことにたいし「藤波ふじなみのかませいぬになるのは、もうごめんだ!」というインタビュータイトルがけられたことが発端ほったんであった。その当時とうじワールドプロレスリング』のアナウンサーだった古舘ふるたち伊知郎いちろう実況じっきょうなかでも「かませいぬ」というたとえを多用たよう[15]実際じっさい本人ほんにんはっした言葉ことばではないが「おれはおまえませいぬじゃない」という台詞せりふは、造反ぞうはんいたった長州ちょうしゅう心情しんじょう明確めいかく印象いんしょうける表現ひょうげんとして浸透しんとうしていった[15]。2019ねんターザン山本やまもと分析ぶんせきによると「ジャンボ鶴田つるたさきされた心労しんろうによって『ませいぬじゃない』という言葉ことばになっていかりがた」とのこと。山本やまもと当時とうじ長州ちょうしゅう状態じょうたいうつびょうたとえていた[16]。ファンもまた、そうした長州ちょうしゅう心境しんきょう真実しんじつとらえ、その行動こうどう支持しじするにいたった[17]

造反ぞうはん、1982ねん11月のWWFへの短期たんき遠征えんせいヒールのポジションでマサ斎藤さいとうのパートナーとなり、22にちニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてロッキー・ジョンソン&トニー・ガレアと、25にちにはフィラデルフィアスペクトラムにてペドロ・モラレス&サルバトーレ・ベロモと対戦たいせん[18])をて、あお斎藤さいとうキラー・カーンともに、1983ねんより「革命かくめいぐん」を結成けっせい当時とうじ体制たいせい反旗はんきひるがえす。さらに、ラッシャー木村きむらひきいる国際こくさい軍団ぐんだんかたち長州ちょうしゅう活動かつどうともにしたアニマル浜口はまぐち[19]浜口はまぐちおなじく国際こくさい軍団ぐんだんはなれた寺西てらにしいさむタイガーマスクとのこうそうおなじくしん日本にっぽん正規せいきぐんてきまわしていた小林こばやし邦昭くにあき、そしてレスリング日本一にっぽんいちみでしん日本にっぽん入団にゅうだん海外かいがい武者むしゃ修行しゅぎょう帰国きこくした長州ちょうしゅう弟子でしともいえる谷津たにつ嘉章よしあきらをくわえて「維新いしんぐん」を結成けっせいする。また、アメリカ活動かつどうするタイガー戸口とぐち(キム・ドク)も時折ときおり維新いしんぐん同行どうこうした[20]

試合しあいにおいては、1981ねんまつ全日本ぜんにほんプロレス転出てんしゅつしたスタン・ハンセンウエスタン・ラリアットをコピーした「リキ・ラリアット」を使つかうようになり、ハンセンのファイトスタイルをれた攻撃こうげき主体しゅたいの「ハイスパート・レスリング」を確立かくりつ(ハンセンがしん日本にっぽんプロレスに参戦さんせんしていた当時とうじ長州ちょうしゅうなんもウエスタン・ラリアットをびていた)[10]。ニューヨークにて発掘はっくつされたWWFインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざめぐって藤波ふじなみと「めい勝負しょうぶかぞうた」とうたわれる連戦れんせんひろげ、1983ねん4がつ3にちには藤波ふじなみからピンフォふぉル勝るがちをおさめて王座おうざ奪取だっしゅ。「おれ人生じんせいにもいちくらいこんなことがあってもいいだろう」というコメントをのこした。しん日本にっぽん正規せいきぐん維新いしんぐん軍団ぐんだん抗争こうそうでは、ボブ・オートン・ジュニア&アドリアン・アドニスしたツープラトン攻撃こうげき駆使くしし、タッグマッチにおける合体がったいわざをマットかいひろめた。

1984ねん6がつ1にちには高松たかまつ市民しみん文化ぶんかセンターおこなわれたIWGPリーグせんだいかい大会たいかい)において、アンドレ・ザ・ジャイアントボディスラムげることに成功せいこうしている(試合しあいには敗退はいたい[21]。しかし、トーキックをあやまってれてしまうなど、不器用ぶきようなファイトぶりが外国がいこくじんレスラーには不評ふひょうであったという[17]どう大会たいかいでは、6月14にち蔵前くらまえ国技こくぎかんにおける猪木いのきたいハルク・ホーガン優勝ゆうしょう決定けっていせん突如とつじょ乱入らんにゅう両者りょうしゃにリキ・ラリアットをはなった。結果けっかとして猪木いのきがリングアウトちによる優勝ゆうしょうおさめたが、試合しあい破壊はかいされたことに納得なっとくしない観客かんきゃくによるだい規模きぼ暴力ぼうりょく行為こうい勃発ぼっぱつしん日本にっぽんプロレス史上しじょうはつとなる本格ほんかくてき暴動ぼうどう事件じけんこした。レフェリーつとめたミスター高橋たかはしは、この乱入らんにゅうげき猪木いのき自身じしん発案はつあんによるアングルであり[22]長州ちょうしゅう本人ほんにん気乗きのりせず仕方しかたなくしたがったが、この事件じけん会社かいしゃへの不信ふしんかんにつながりしん日本にっぽんプロレスを離脱りだつする一因いちいんになったのではないかとしている[23]同年どうねん8がつ2にち離脱りだつまえにおける猪木いのきとの最後さいごのシングルマッチがおこなわれた[24]

ジャパンプロレス旗揚はたあげ - 全日本ぜんにほんプロレス参戦さんせん[編集へんしゅう]

1984ねん9がつ21にちをもって長州ちょうしゅう維新いしんぐんしん日本にっぽんプロレスを退団たいだん。そのジャパンプロレス旗揚はたあげし、維新いしんぐん所属しょぞくするレスラーをひきいて全日本ぜんにほんプロレスを主戦しゅせんじょううつした[25]UWFつづき、長州ちょうしゅうおよび維新いしんぐんにもられた新日本しんにほん選手せんしゅ不足ふそくし、窮余きゅうよさくとして若手わかて登用とうよう、これがこう闘魂とうこんさんじゅう隆盛りゅうせいつながる。

1985ねん2がつ21にちにはジャパンプロレス主催しゅさい大阪城おおさかじょうホール大会たいかいにおいて、天龍てんりゅう源一郎げんいちろうとのはつのシングルマッチが実現じつげん。リングアウトちをおさめた[26]全日本ぜんにほんプロレスのエースであったジャンボ鶴田つるたとは、同年どうねん11がつ4にちおなじく大阪城おおさかじょうホールでのジャパンプロレス主催しゅさい興行こうぎょうにおけるメインイベントにて60ふんフルタイムの激闘げきとう展開てんかいした[27]。この試合しあい同年どうねんプロレス大賞たいしょうにおいて年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょう(ベストバウト)を獲得かくとくした。

全日本ぜんにほんマットでは、ブルーザー・ブロディハーリー・レイスニック・ボックウィンクルドリー・ファンク・ジュニアリック・フレアーといった、当時とうじ全日本ぜんにほんプロレスならではの豪華ごうか外国がいこくじん選手せんしゅたちとも対戦たいせんした。1985ねん3がつ14にちには愛知あいちけん体育館たいいくかんにてロード・ウォリアーズAWA世界せかいタッグ王座おうざ(パートナーはキラー・カーン)、同年どうねん4がつ23にちには相模原さがみはら市立しりつ総合そうごう体育館たいいくかんにてフレアーのNWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざと、当時とうじのアメリカにおけるメジャー団体だんたいのビッグタイトルにも挑戦ちょうせんしている[28][29]

1986ねん2がつ5にち谷津たにつんで鶴田つるた&天龍てんりゅうつるりゅうコンビからインターナショナル・タッグ王座おうざ奪取だっしゅ谷津たにつジャーマン・スープレックス天龍てんりゅうからフォふぉル勝るがち)。さらに、2かげつの4がつ5にちにはハンセンをやぶってPWFヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅ(この試合しあいAWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざとのダブルタイトルマッチとしておこなわれ、試合しあいではPWFとAWA両方りょうほうのルールが適用てきようされた。試合しあいはハンセンの反則はんそくによる決着けっちゃくとなったため、反則はんそくでは王座おうざ移動いどういAWA王座おうざはハンセンの防衛ぼうえいとなり、PWF王座おうざのみが移動いどうした)。PWF王座おうざ全日本ぜんにほん創設そうせつ以来いらい看板かんばんタイトルで、この時点じてん鶴田つるた天龍てんりゅう奪取だっしゅしていなかった。以降いこうテリー・ゴディテリー・ファンクカート・ヘニングらを相手あいて防衛ぼうえい成功せいこうするなど、全日本ぜんにほんマットの頂点ちょうてんった。

しかし、ジャパンプロレスの自主じしゅ興行こうぎょう不入ふいつづきで利益りえきがらず[30]竹田たけだ勝司しょうじ会長かいちょう経営けいえい首脳しゅのうじんとも金銭きんせんてき問題もんだい対立たいりつするようになる(ジャパンプロレスの施設しせつ竹田たけだ会長かいちょう個人こじん購買こうばいしていた竹田たけだ会長かいちょう所有しょゆうぶつであり、それゆえ竹田たけだ会長かいちょう家賃やちんふくめてジャパンプロレスから200まんえん給料きゅうりょう支給しきゅうされていたが、それにたいして長州ちょうしゅうは、当時とうじバブル経済けいざい金銭きんせん感覚かんかく麻痺まひしていたこともあり、逆恨さかうらみにちかかたち不満ふまんいていた)[31]TBSとのテレビ放送ほうそう契約けいやく土壇場どたんば白紙はくしになり、ジャパンプロレスの完全かんぜん独立どくりつ不可能ふかのう状態じょうたいになっていた[30]。そうした状況じょうきょうしん日本にっぽんばいしょう鉄夫てつお当時とうじ:『INOKI闘魂とうこんLIVE』実行じっこう委員いいんちょう)は、ジャパンの大塚おおつか直樹なおきふく会長かいちょう反目はんもくしていた加藤かとう一良かずよし専務せんむつうじて長州ちょうしゅう接触せっしょく、1おくえん移籍いせききん提示ていじしてしん日本にっぽんへの復帰ふっき打診だしんする[32]当時とうじ長州ちょうしゅう自身じしん経済けいざいてき困窮こんきゅうしていたこともあり[32]新日本しんにほんへの出戻でもどりを決意けついするにいたった。

1987ねん2がつから手首てくびの嚢腫(ガングリオン)を理由りゆう全日本ぜんにほんのシリーズを欠場けつじょうし、そのながれで新日本しんにほん復帰ふっき契約けいやく問題もんだい全日本ぜんにほんプロレス会長かいちょうジャイアント馬場ばばおよび日本にほんテレビとの騒動そうどう発展はってんした(該当がいとう項目こうもく参照さんしょう)。長州ちょうしゅう追放ついほう処分しょぶんとなったが、追放ついほうされたことで全日本ぜんにほんやジャパンのリングにがれなくなったため、新日本しんにほんもど以外いがい長州ちょうしゅうには選択肢せんたくしくなった。その結果けっかしん日本にっぽんがわ長州ちょうしゅうよりも立場たちば優位ゆういになり、移籍いせききん当初とうしょ提示ていじされていた1おくえんの10%=1000まんえん程度ていどやすくなってしまったという[32]

全日本ぜんにほんプロレスへの参戦さんせん期間きかんけっしてながくはかったものの、「め」のレスリングを主体しゅたいとする新日本しんにほんでの猪木いのき藤波ふじなみとの一連いちれんこうそうくわえて、全日本ぜんにほんりゅうの「け」のプロレスにもれたことで、長州ちょうしゅうのファイトスタイルは徐々じょじょはばひろがり、しん日本にっぽんマット復帰ふっき4ねんた1991ねんあたりからはもっぱら「け」のレスリングを展開てんかいするようになった。平成へいせい維震ぐん一員いちいんとして長州ちょうしゅう政権せいけんしんにちマットにがったザ・グレート・カブキは、長州ちょうしゅうのファイトスタイルの変化へんか感心かんしんしたという[33]

天龍てんりゅうは、それまでオールドファッションなアメリカン・プロレススタイルが主流しゅりゅうであった全日本ぜんにほんにハイスパート・レスリングをんだ長州ちょうしゅう刺激しげきけ、ライバル意識いしきをムキしにしたことで注目ちゅうもくされることとなった。天龍てんりゅう革命かくめい長州ちょうしゅう維新いしん革命かくめい触発しょくはつされたものであることを公言こうげんしている。

御大おんたい馬場ばばとは年末ねんまつ世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんのみの対戦たいせんだったが[34][35]長州ちょうしゅう馬場ばばのリーダーぞう一目いちもくいており、「(馬場ばばさんは)大人おとなぶつだった。ひとのことをよーくている」と回顧かいこしている[36]

しん日本にっぽんプロレス復帰ふっき - 現場げんば監督かんとく就任しゅうにん[編集へんしゅう]

1986ねんごろからインタビューやマイクで藤波ふじなみくちにし、古巣ふるすへのカムバックが次第しだい色味いろみびてきた1987ねん長州ちょうしゅうであり維新いしんぐんでも頭目とうもくかくであったマサ斎藤さいとう猪木いのきとのこうそうはじまる。これにともない、調印ちょういんしきなどに長州ちょうしゅう姿すがたせるようになりいよいよ復帰ふっき秒読びょうよみとおもわれつつあったなか、4がつ27にち両国りょうこく国技こくぎかんでの猪木いのきvs斉藤さいとうせんさいし、セコンドとしていくにんかのもとジャパンプロ盟友めいゆうらとついにしんにち会場かいじょう姿すがたせる。試合しあいまえ協議きょうぎでリングにつくセコンドははせひろしのみとなり、長州ちょうしゅうはリングサイドでの観戦かんせん余儀よぎなくされたが、斉藤さいとうがKOけした直後ちょくご周囲しゅういさえられて未遂みすいわるも、リングにがらんばかりであった。これを契機けいきに、ついに長州ちょうしゅうしんにち復帰ふっき加速かそくするかにえたが、しんにちがわ長州ちょうしゅうぐん参戦さんせんカードをなかまず、しびれをらせた長州ちょうしゅうがわは5月30にち鹿児島かごしま県立けんりつ体育館たいいくかん大会たいかいにてカードジャックを強行きょうこうだい8試合しあいにて長州ちょうしゅう斉藤さいとうとのタッグで出陣しゅつじんはこびとなったが、この入場にゅうじょう藤原ふじわらが3ねんまえ髣髴ほうふつとさせるテロ行為こういる。てつパイプ奇襲きしゅう負傷ふしょうした長州ちょうしゅうはこのはマシンに試合しあいゆずることになった。ちゅういちにちをおいての6がつ1にち愛知あいちけん体育館たいいくかんにてマシンとのタッグで2ねん8かげつぶりのしんにちマットでのファイトに勝利しょうりかざった。

長州ちょうしゅうがわ陣容じんようは、ジャパンプロレス時代じだいに1986ねん8がつ全日ぜんじつマットで謀反むほんこしたカーン、そして当時とうじ引退いんたい状態じょうたいにあったアニマル浜口はまぐち全日本ぜんにほんにそのままのこった谷津たにつ嘉章よしあき寺西てらにしいさむらをのぞき、マサ斎藤さいとう小林こばやし邦昭くにあきカルガリーハリケーンズのリーダースーパー・ストロング・マシン、またマシンとともにつね行動こうどうともにしていたヒロ斎藤さいとうさら専修大学せんしゅうだいがく後輩こうはいでジャパンプロ出身しゅっしんはせひろし、そしてジャパンプロきの佐々木ささき健介けんすけといった選手せんしゅらとはんしんにち体制たいせいひきいる。正式せいしき軍団ぐんだんめいかったが全員ぜんいんリキプロに所属しょぞくし、テレビやマスコミからは『ニュー維新いしんぐん』とばれていた。その軍団ぐんだん当時とうじのトレーニングジャージ(チャンピオンプロダクツせい)には背番号せばんごうはいっており(ちなみにマサ斎藤さいとう:0、長州ちょうしゅう:1、マシン:2、小林こばやし:3、ヒロ斎藤さいとう:5、保永やすながのぼりおとこ:6、佐々木ささき:7、はせ:8、タイガー服部はっとり:10、笹崎ささざきしん:12)、話題わだいとなった。マシンは晩年ばんねんにもこのジャージを着用ちゃくようしてリングインしていた。

この合流ごうりゅうさいし、一足ひとあしさき新日本しんにほん合流ごうりゅうしていた前田まえだ日明ひあがりひきいるUWFとのからみがファンに期待きたいされたが、目立めだった直接ちょくせつ対決たいけつ機会きかいのないまましん世代せだいとして長州ちょうしゅう藤波ふじなみ前田まえだらは共闘きょうとうし、猪木いのき世代せだい相手あいて世代せだい闘争とうそうひろげることとなる。しかしほどなくしてこのアングルも瓦解がかいしん日本にっぽんたいたい長州ちょうしゅうぐんというながれへと移行いこうしていく。次第しだいにUWFの存在そんざい希薄きはくされ解体かいたい吸収きゅうしゅうされることを危惧きぐしナーバスになった前田まえだ長州ちょうしゅう姿勢しせいを「うだけ番長ばんちょう」と揶揄やゆするなど、徐々じょじょ確執かくしつ顕著けんちょになっていくなか、11月19にち後楽園こうらくえんホールの長州ちょうしゅうぐんたいUWFの6にんタッグマッチにおいて、前田まえだによる長州ちょうしゅうへの顔面がんめんげき事件じけん勃発ぼっぱつ。これにより長州ちょうしゅう眼窩がんかそこ骨折こっせつ長期ちょうき欠場けつじょう前田まえだ新日本しんにほん解雇かいこされ独立どくりつみちあゆみ、だいUWFの旗揚はたあげへとつながる。

これは同時どうじに、しん日本にっぽん内部ないぶにおいて反対はんたい勢力せいりょくはい長州ちょうしゅう影響えいきょうりょくつよめる契機けいきとなった。長州ちょうしゅう新日本しんにほんとUWFというのちのプロレスかい席巻せっけん牽引けんいんしていくだい潮流ちょうりゅう源流げんりゅうであり、また両者りょうしゃりょう団体だんたい因縁いんねん発端ほったん意味いみでも、プロレスかいにおける昭和しょうわから平成へいせいへのひとつのエポックとなった事件じけんといえる。

1988ねん5がつには、マサ斎藤さいとうとのタッグでAWAラスベガスでのイベントに出場しゅつじょう。ヒールの日本人にっぽんじんコンビとして斎藤さいとうおなじく膝下ひざもとまでのセミロング・タイツを穿き、ジェリー・ローラー&グレッグ・ガニア対戦たいせんして反則はんそくけをきっした[37]

その長州ちょうしゅうは1988ねん7がつにシングルマッチでアントニオ猪木いのきから念願ねんがんフォふぉル勝るがち(後頭部こうとうぶラリアット)をうばい、またよく1989ねん2がつにもラリアット6連発れんぱつふたた猪木いのき完勝かんしょうし、猪木いのき試合しあい号泣ごうきゅうするというめい場面ばめんまれた。これにより長州ちょうしゅう完全かんぜん猪木いのきえをたし政権せいけん交代こうたい名実めいじつどもしん日本にっぽんマットの中心ちゅうしんとなった。そしてマッチメーカーとして猪木いのき一線いっせん退しりぞいたのち団体だんたい仕切しきり、闘魂とうこんさんじゅうをプロデュースししん世代せだいのスターへとげた。また、現在げんざいまでつづく1・4東京とうきょうドーム、G1クライマックス、G1タッグリーグ、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアなど定番ていばんイベントを創設そうせつし、1990年代ねんだいとおして全国ぜんこくでドーム興行こうぎょう成功せいこう定着ていちゃくさせ、ドームプロレスのみのおやとなった。因縁いんねんあさからぬUWFインターナショナルとのこうそう主導しゅどうし、平和へいわのための平壌ぴょんやん国際こくさい体育たいいく文化ぶんか祝典しゅくてんしょうじただい赤字あかじめることに成功せいこうする。ただし愛弟子まなでし佐々木ささき健介けんすけ団体だんたい天龍てんりゅう源一郎げんいちろう重用じゅうようするひとしのマッチメークもられ、ごううでリーダーぶりには西村にしむらおさむなどの一部いちぶ選手せんしゅから不満ふまんった。

1998ねん1がつ4にち東京とうきょうドーム大会たいかい引退いんたい引退いんたい試合しあい藤田ふじた和之かずゆき吉江よしえゆたか高岩たかいわ竜一りゅういち飯塚いいづか高史たかししししんサンダー・ライガーの5にんけであった。(藤田ふじた吉江よしえ高岩たかいわ、ライガーに勝利しょうり飯塚いいづか敗北はいぼく。)引退いんたい長州ちょうしゅうりょくのリングネームは愛弟子まなでし佐々木ささき健介けんすけ襲名しゅうめいするというはなしがるも実現じつげんしなかった[38]

引退いんたいまえ復帰ふっき否定ひていしていたものの、だい仁田にったあつし参戦さんせん挑発ちょうはつかたちで2000ねん7がつにマットにがった。当初とうしょはこのいち試合しあいのみの予定よていであったが、自分じぶん猪木いのき引退いんたいによってしん日本にっぽん興行こうぎょう収入しゅうにゅう減少げんしょうしていたこととうもあり、ほどなくして定期ていき参戦さんせんするようになり、現役げんえき復帰ふっきとなった。

WJプロレス旗揚はたあ[編集へんしゅう]

2002ねん2がつ武藤むとうたかししん退団たいだんした責任せきにんらされ現場げんば監督かんとくにん剥奪はくだつ。5月にしん日本にっぽんプロレスを退社たいしゃ盟友めいゆう永島ながしま勝司しょうじとも有力ゆうりょくタニマチであった福田ふくだ政二まさじ代表だいひょう取締役とりしまりやくとして、2003ねん3がつWJプロレス(ファイティングオブワールドジャパン)を旗揚はたあげしたものの、諸般しょはん事情じじょうにより頓挫とんざ総合そうごう格闘技かくとうぎイベントX-1ZERO-ONEとの対抗たいこうせん活路かつろ見出みいだそうとするも解散かいさんいたった(該当がいとう項目こうもく参照さんしょう)。

なお、WJ設立せつりつのオープニングシリーズではぜん6せんすべてのメインに長州ちょうしゅうたい天龍てんりゅうのシングルマッチをんだ。

しん日本にっぽんプロレスさい復帰ふっき[編集へんしゅう]

ハッスルやインディー団体だんたい参戦さんせんつづけ、2004ねん新日本しんにほん一時いちじ復帰ふっき。2005ねんには上井かみい文彦ふみひこから要請ようせいけ、10月8にちサイモン・ケリー猪木いのき当時とうじしん日本にっぽん社長しゃちょう)との会談かいだんで、リキプロに所属しょぞくしつつしん日本にっぽんプロレスの現場げんば監督かんとくとして復帰ふっき(ただし、しん日本にっぽん所属しょぞくではなく、あくまでリキプロ所属しょぞくである)。この新日本しんにほん決定けっていに、所属しょぞくレスラーの意見いけんぷたつにわかれた。藤波ふじなみ発表はっぴょう当初とうしょ歓迎かんげいをしていたものの、ドーム興行こうぎょう終了しゅうりょう態度たいどを180転換てんかんしている。実際じっさい前日ぜんじつまれていたカードを当日とうじつになって変更へんこうするなど一部いちぶ選手せんしゅとはさらなる軋轢あつれきんでいる。

サイモン社長しゃちょうしん日本にっぽん現場げんば監督かんとくと、もとWJ所属しょぞく若手わかて選手せんしゅによるプロダクションリキプロで、選手せんしゅかい興行こうぎょう単発たんぱつおこなっていた。

2009ねんにはレスラー生活せいかつ35ねんむかえ、記念きねんパーティ「長州ちょうしゅうりょくレスラー生活せいかつ35周年しゅうねんいわかい」を開催かいさいした。そのなかで「自分じぶんのゴールはもうまえにある」とちか将来しょうらいに2度目どめ引退いんたいをすることを示唆しさした[39]。11月には征矢そやがく全日本ぜんにほんプロレスの世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせん出場しゅつじょう。1985ねんと1986ねん谷津たにつんで出場しゅつじょうして以来いらい23ねんぶりに全日本ぜんにほんプロレスのリーグせん出場しゅつじょうすることとなった。

2009ねんには、新日本しんにほんのみならずドラディション、リアルプロレス、ハッスル、全日本ぜんにほん精力せいりょくてきかく団体だんたい参戦さんせん一部いちぶでは遺恨いこんふかいとされる猪木いのきひきいるIGFへの参戦さんせんせつまで浮上ふじょうしたがこれは実現じつげんいたらなかった。SアリーナでGKこと金澤かなざわ克彦かつひこからIGFよりオファーがあったかどうかをまれると「ノーコメントだよ。くなって!」とかえした。

2009ねん9がつ8にち竹内たけうちつとむ双子ふたごおとうとというギミックのRIKIが「日本にっぽんリーゼンとうげの記者きしゃ会見かいけんひらき、長州ちょうしゅう高山たかやまよしひろが「日本にっぽんリーゼンとう」に入党にゅうとうしたことを発表はっぴょうした[40]。しかしハッスルの事実じじつじょう倒産とうさんによってこのアングルはえとなった。

2010ねん銀幕ぎんまくデビューとなる「ほしすなしまのちいさな天使てんし」にはつ出演しゅつえん共演きょうえんしゃ美保みほじゅん番組ばんぐみでその演技えんぎりょく絶賛ぜっさんする。現在げんざい芸能げいのうプロダクションげいうつ芸能げいのう活動かつどうすべてをバックアップしている。

2010ねん1がつ4にちしん日本にっぽんプロレスの東京とうきょうドーム大会たいかい「レッスルキングダム」にてちょう正洋まさひろ中西なかにしまなぶテリー・ファンクとタッグをみ、飯塚いいづか高史たかし矢野やのとおる石井いしい智宏ともひろアブドーラ・ザ・ブッチャーのヒール軍団ぐんだん対戦たいせん試合しあいでは長州ちょうしゅうのリキラリアットとちょうのシャイニングケンカキックによるコンビネーションわざ披露ひろうした。

レジェンド・ザ・プロレスリング[編集へんしゅう]

2010ねん10がつ20日はつか藤波ふじなみたつなんじ初代しょだいタイガーマスクともしんイベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011ねん1がつ10日とおか後楽園こうらくえんホールで旗揚はたあげすることを発表はっぴょうした。旗揚はたあ当日とうじつは、藤波ふじなみ長州ちょうしゅうの1997ねん8がつ10にち以来いらいとなるいちおこなわれた[41]

なおレジェンドにて試合しあいおこないつつも、2015ねん現在げんざい新日本しんにほん道場どうじょう定期ていきてきかおしトレーニングをおこなっている[42]。2016ねん帰化きか

2018ねん12月28にち、プロデュース興行こうぎょう「POWER HALL2018」試合しあい終了しゅうりょう控室ひかえしつにて引退いんたい示唆しさ翌年よくねん6がつ26にち東京とうきょう後楽園こうらくえんホールに引退いんたい興行こうぎょう開催かいさいすることが発表はっぴょう

2019ねん6がつ26にち後楽園こうらくえんホールでおこなわれた「POWER HALL2019」における、藤波ふじなみたつなんじ武藤むとうたかし真壁まかべがたなよしせんをもって現役げんえき引退いんたいした(パートナーは越中えっちゅうろう石井いしい智宏ともひろ[43]試合しあいではめずらしくドラゴンスクリューも披露ひろう。セレモニーには田村たむらきよし登場とうじょうした。

引退いんたい[編集へんしゅう]

2019ねん7がつ31にちワインブランドロジャーグラートブランドアンバサダーに就任しゅうにんした[44]

2019ねん12月25にち、Twitterを開始かいしする。独特どくとくなTweetでネットメディアの話題わだいとなる[45]

タイトルれき[編集へんしゅう]

しん日本にっぽんプロレス
UWA
全日本ぜんにほんプロレス
WJプロレス
プロレス大賞たいしょう
  • 努力どりょくしょう(1977ねん
  • 敢闘かんとうしょう(1979ねん
  • 技能ぎのうしょう(1981ねん
  • 年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょう藤波ふじなみ辰巳たつみ vs 長州ちょうしゅうりょく、4がつ3にち蔵前くらまえ国技こくぎかん = WWFインターナショナル・ヘビーきゅう選手権せんしゅけん試合しあい)(1983ねん
  • 最高さいこう殊勲しゅくん選手せんしゅしょう(1983ねん
  • 年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょうアントニオ猪木いのき vs 長州ちょうしゅうりょく、 8がつ2にち蔵前くらまえ国技こくぎかん)(1984ねん
  • 年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょうジャンボ鶴田つるた vs 長州ちょうしゅうりょく、11月4にち大阪城おおさかじょうホール)(1985ねん
  • 敢闘かんとうしょう(1986ねん
  • 敢闘かんとうしょう(1988ねん
  • 敢闘かんとうしょう(1989ねん
  • 年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょう天龍てんりゅう源一郎げんいちろう vs 長州ちょうしゅうりょく、1がつ4にち東京とうきょうドーム)(1993ねん
  • 功労賞こうろうしょう(1997ねん

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

スタン・ハンセンながれをむ、試合しあい開始かいしから終了しゅうりょうまではしまわるハイスパート・レスリングの象徴しょうちょうとされ、基本きほんてきわざであっても差別さべつはか工夫くふうがなされている。また試合しあいちゅう使つかわざ種類しゅるいはレスラーのなかでも比較的ひかくてきすくないほうであるが、クラシカルなファンやマスコミの一部いちぶにはぎゃく昭和しょうわプロレスの選手せんしゅにしてると使用しようするわざかずおおいというこえ存在そんざいする。

フィニッシュ・ホールド[編集へんしゅう]

サソリかた
デビューせんから一貫いっかんして使用しようつづけている代表だいひょうてきフィニッシュ・ホールド別名べつめいスコーピオン・デスロック」。カール・ゴッチ直伝じきでんとされる。
自身じしんうでむ、もしくはんだうでをクラッチしてきわめるかた存在そんざいし、後者こうしゃとくクロスアームしき形容けいようされる。
リキラリアット
サソリがためになら代表だいひょうてきわざひとつでフィニッシュ・ホールドとしてももちいられる。ハンセンのウエスタン・ラリアットをつづけ、自分じぶんわざにできないかと試行しこう錯誤さくごして習得しゅうとくしたわざ。ラリアットを普及ふきゅうさせたはしりともわれる。その長州ちょうしゅうのラリアットにはみっつの革命かくめいてき特徴とくちょうがある。
だいいちに、相手あいてをロープにるのではなく自分じぶんがロープにんだいきおいでリング中央ちゅうおう相手あいてたたむというスタイルをプロレスかいはじめて導入どうにゅうしたことである(大仁田おおにたとの有刺鉄線ゆうしてっせんマッチでも有刺鉄線ゆうしてっせんんで使用しようした)。使つかはじめた当初とうしょこそ相手あいてって仕掛しかける場合ばあいもあったが、その自分じぶんからぶスタイルを確立かくりつし、このスタイルは現在げんざいいたるまでおおくのレスラーにコピーされている。
だいに、ロープにさい相手あいてレスラーの名前なまえさけぶというスタイルをしたことも特筆とくひつあたいする。晩年ばんねんこうそうひろげた橋本はしもとしん也相しゅには、「チンター!」と自身じしん命名めいめいした渾名あだなさけびながらはなっていた。(ただし橋本はしもと若手わかて時代じだいには「ハシモトー!」とさけびながらっていた)
だいさんに、ロープにぶアクションへの予告よこくとして、右腕うわんをぐるっとまわ独自どくじのムーヴをおこなったことがげられる。ぐるぐるとまわすのではなく、目線めせんした方向ほうこうけながら、じわりじわりとまわしつつ、助走じょそうへと移行いこうするのが特徴とくちょうである。
くわえるならば、ラリアットをったのちに、うでろしながらフォールにくムーヴも独自どくじせいがあるとえるだろう。
このわざ使つかはじめた当初とうしょ(「かませいぬ発言はつげん以前いぜん)は、左腕さわん使つかうことがおおく、右腕うわんでのラリアットが脚光きゃっこうびたのは1983ねん4がつ3にち藤波ふじなみやぶってWWFインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅしたさいわざになったときからである。当初とうしょは「パワフルリキラリアート」ともばれていた。また、正調せいちょうしき以外いがいにも、後頭部こうとうぶしきびせだおしきなど、ここ一番いちばんではアレンジをくわえたラリアットをしていた。ちなみに闘魂とうこんさんじゅう台頭たいとうはじめたころには、顔面がんめんむラリアットを使用しようしたが、そちらは定着ていちゃくしなかった。

わざ[編集へんしゅう]

ひねしきバックドロップ
あおマサ斎藤さいとう得意とくいとしたかた同型どうけい。ただし、マサのように相手あいてげて跳躍ちょうやくするのではなく、そのままげるフォーム。
ひねしき分類ぶんるいだが、長州ちょうしゅうのそれは特別とくべつぶっこ垂直すいちょく落下らっかしきとも形容けいようされた。
ブレーンバスター
ふかこしとして一気いっきげてリング中央ちゅうおうちかくまで移動いどうし、おおきく跳躍ちょうやくしてたたきつける独特どくとくのフォームではなたれる。
たたきつけたさいにおおきなおとらすのが特徴とくちょうで、バックドロップ同様どうようぶっこかんして表現ひょうげんされることもある。
雪崩なだれしきブレーンバスター

打撃だげきわざ[編集へんしゅう]

キチンシンク
おもにロープカウンターでもちいられ、全盛期ぜんせいき時代じだいにそのスピードをかしてよく使用しようされた。
そのままみずからロープにはしんではつさんはつむこともある。
エルボー
ロープカウンターでもちいられ、背面はいめん状態じょうたい胸板むないたひじ回転かいてんする独特どくとくのフォームではなたれる。
尻餅しりもち状態じょうたい相手あいて背後はいごから胸元むなもととすこともあり、こちらはリキ・ラリアット同様どうよう、ハンセンから独自どくじ習得しゅうとくしたものである。
ストンピング
プロレスではポピュラーなわざいちだが、長州ちょうしゅうのそれはおおきく跳躍ちょうやくしてみつけないほうあしでマットをらして迫力はくりょくす。
さらに相手あいて名前なまえさけぶ、「てコラ!」、「いコラ!」、「っていコラ!」などのあおりをれるなどの工夫くふうがなされている。
トーキック
こちらもストンピング同様どうようプロレスではポピュラーなわざいちだが、さけごえげながら連発れんぱつする主要しゅよう打撃だげきわざ
ときみずからロープにはしんで使用しようされ、かたひざ状態じょうたい相手あいてやコーナーへんだ相手あいてにも多用たようされる。
タイムナックル・パート
相手あいてかみをわしづかみにしてストンピング同様どうようあおりをれながら連発れんぱつするトーキックとなら主要しゅよう打撃だげきわざ
トーキック同様どうようかたひざ状態じょうたい相手あいてやコーナーへんだ相手あいてにも多用たようされる。
ヘッドロック
序盤じょばんせんではこのわざ使つかうことが非常ひじょうおおく、うでふといためにガッチリとまる。
たんなるロープワークへのながれをつくるためのものでなく、かずにちゅうはなそうとしない独立どくりつしたわざひとつとして使用しようしている。
ドロップキック
全日本ぜんにほん参戦さんせん使用しようしたわざおもにタッグマッチで、パートナーとともすことがおおかった。新日本しんにほんでは、アントニオ猪木いのきせんなど、だい一番いちばんでのみ使用しようした。

わざ[編集へんしゅう]

ジャーマン・スープレックス・ホールド
だい試合しあいのここぞというとき使用しよう。ブリッジがつま先立さきだちではない、いわゆるベタあししきただし、時折ときおりつま先立さきだちブリッジのかたせてはいた)。
ちなみに1985ねんジャンボ鶴田つるたせんでも、60ふん時間切じかんぎ寸前すんぜんおくとしてこのわざ使用しようした。
オクラホマ・スタンピード
相手あいてとしたのち長州ちょうしゅう自身じしんぶほどいきおいがある。別名べつめいアバランシュ・ホールド」。
革命かくめいぐん当時とうじのインタビューで、ハルク・ホーガンはつ来日らいにちのシングルせんらい、数日すうじつ体調たいちょうくずほど威力いりょくだったため、必死ひっし習得しゅうとくしたとべている。

関節かんせつわざ[編集へんしゅう]

リバース・チキンウィング(ウィング・ブリーカー・ホールド)
うつせダウン状態じょうたい相手あいて背後はいごからりょううでをダブルチキンウィングにかため、そのままくび支点してんにブリッジしてきわめるサブミッション。
かつてはサソリかためとならぶフィニッシュ・ホールドであったが、維新いしんぐん結成けっせい使用しようしていない。

その単発たんぱつわざ[編集へんしゅう]

長州ちょうしゅう盟友めいゆう天龍てんりゅうおなじく、だい一番いちばん対戦たいせん相手あいて観客かんきゃくおどろかせる目的もくてき普段ふだん使用しようしないわざ突如とつじょとして使用しようすることがある。

クルシフィックス(クルスフィックス)
Uインターとの対抗たいこうせんでしきりにもちいられた得意とくいわざ。レスリング技術ぎじゅつをベースとしたさえわざであり、ベイダーをフォールするさいもちいられたこともある。
DDT
たい天龍てんりゅうせんにおいてリキ・ラリアットの連発れんぱつからラリアットにくとせかけこのわざ奇襲きしゅうをし、勝利しょうりおさめた。
ドラゴン・スリーパー
藤波ふじなみおきてやぶりのぎゃくサソリに対抗たいこうするように使用しようされた。ただし、仕掛しかけた相手あいて橋本はしもとでありこのわざとしたのち、ピンフォふぉル勝るがちをおさめている。
延髄えんずい
こちらもたい橋本はしもとせんせためずらしいわざはしんで使用しようし、解説かいせつせき山本やまもとしょうてつは「稲妻いなづまレッグラリアット」だと解説かいせつした。
プランチャー
東京とうきょうドームでプランチャーをしたことがある。背中せなかから豪快ごうかい体当たいあたりしていった。

連携れんけいわざ[編集へんしゅう]

太鼓たいこみだ
維新いしんぐん時代じだい頻繁ひんぱん使用しようしたわざ。タッグせんにおいてタッグパートナーと相手あいて背中せなか太鼓たいこ見立みたてて、りょうこぶしはたきまくる。
個人技こじんぎではないため、タッグせんでのみられるわざである。
ハイジャック・パイルドライバー
パイルドライバー体勢たいせいげた相手あいて両足りょうあしかかとを自軍じぐんのパートナーがつかみ、その体重たいじゅうをかけてたたきつける合体がったいわざ
コーナートップやエプロンぎわ使用しようされる。

長州ちょうしゅうりょく物真似ものまねをするおも有名人ゆうめいじん[編集へんしゅう]

本人ほんにん小力こぢからについてたずねられたさい、「むかしから(特定とくていの)レスラーを物真似ものまねするやつおおかったけど、自分じぶんのはないだろうなとおもっていたのでおどろいた」「小力こぢからのおかげでおぼえてもらえる」「家族かぞく全員ぜんいん小力こぢからだいファン全然ぜんぜんキレてないですよ」とコメントしている。

音楽おんがく[編集へんしゅう]

シングル[編集へんしゅう]

発売はつばい タイトル 規格きかく 規格きかく品番ひんばん めん 収録しゅうろくきょく 作詞さくし 作曲さっきょく 編曲へんきょく
キングレコード
1986ねん7がつ21にち 明日あしたちか EP K07S-10112 A 明日あしたちか 松本まつもと一起かずき 宇崎竜童うざきりゅうどう 佐藤さとう宣彦のぶひこ
B Power Fall <パワー・ホール> 異母いぼはんしょう 平田ひらたふみと

アルバム[編集へんしゅう]

オリジナルアルバム[編集へんしゅう]

発売はつばい タイトル 規格きかく 規格きかく品番ひんばん
キングレコード
1st 1986ねん8がつ5にち GET OVER LP K25A-762
CD K32X-93
2020ねん9がつ23にち KICS-3951

語録ごろく[編集へんしゅう]

エピソード[編集へんしゅう]

性格せいかく[編集へんしゅう]

プロレスの責任せきにんしゃでいるときは、所属しょぞくのプロレスラーが勝手かってなアクションをこすことをしとしない。また、プロレスと格闘技かくとうぎとのあいだ一線いっせんいており、対戦たいせんレスラーを故意こい負傷ふしょうさせる行為こういたいしては厳重げんじゅうばっしている。

エル・サムライが、当時とうじIWGPジュニアタッグ王座おうざ保持ほじしていた高岩たかいわ竜一りゅういちち、ノンタイトルせんなのにIWGPのベルトを強奪ごうだつし、そのベルトをちながらインタビューで自己じこ主張しゅちょうをあらわにした。これにたいし、長州ちょうしゅうがインタビューちゅうってはいり、「(ベルトを)せ! せオラ!」といかりつつベルトをサムライのから強引ごういんうばった。これ以来いらい、サムライは自己じこ主張しゅちょうをあまりしなくなった。

2005ねんちょう正洋まさひろ天山あまやま広吉ひろきちIWGPタッグ王座おうざ挑戦ちょうせん表明ひょうめいした。このことをかされていなかった長州ちょうしゅう激怒げきどし、舞台裏ぶたいうらで「調子ちょうしのいいことかしてんじゃねえぞコラ!なに挑戦ちょうせんだ!」と怒鳴どならし、乱闘らんとうさわぎになった。

佐々木ささき健介けんすけ結婚式けっこんしきでは仲人なこうどつとめ、一時いちじ健介けんすけ代目だいめ長州ちょうしゅうりょく襲名しゅうめいするはなしがるほど良好りょうこうだった師弟してい関係かんけいは、WJプロレスの失敗しっぱいをきっかけに疎遠そえんとなった。そのいちだけ健介けんすけ長州ちょうしゅうがシングルでたたかうことはあったものの、長州ちょうしゅう全盛期ぜんせいきぎていたことからこう勝負しょうぶとならず、対戦たいせんインタビューにて健介けんすけつまである北斗ほくとあきらから「二度にどかかわらない」と宣言せんげんされ絶縁ぜつえんされた。

ミスター高橋たかはしは、「長州ちょうしゅうにはすこしばかり横柄おうへいめんがある」と指摘してきする。高橋たかはしによると、しん日本にっぽんプロレスの現場げんば監督かんとく就任しゅうにん、プロレスラーをあつめてはなしをするさいに、自身じしんよりもキャリアのなが柴田しばた勝久かつひさ木戸きどおさむ小林こばやし邦昭くにあき木村きむら健悟けんごらまでをもひとまとめに「おまえら」とんだ[47]高橋たかはしはまた、長州ちょうしゅうのプロレスラーを人前ひとまえ怒鳴どなったりなぐったりしていたことを示唆しさしている[48]

一方いっぽうで「成功せいこうしたやつかなら努力どりょくしている」という持論じろんから日々ひび練習れんしゅうかさず、またしん日本にっぽんプロレスの現場げんば監督かんとくつとめていた時代じだいには練習れんしゅうりょうおお選手せんしゅ積極せっきょくてき試合しあいすマッチメイクをしていた。

長州ちょうしゅうびと長年ながねんつとめた真壁まかべがたなよしはインタビューで、上記じょうきどお練習れんしゅうはげんでいる選手せんしゅおもんじる方針ほうしんくわえ、練習れんしゅうせい理不尽りふじん暴力ぼうりょくるわない・使つかいっはしりにしない長州ちょうしゅう人柄ひとがらについてかたっている。

前田まえだ日明ひあがりは2019ねんのインタビューで「元々もともとあかるくほがらかなスポーツマンで、不機嫌ふきげんこわ雰囲気ふんいき演技えんぎ長年ながねんそうした演技えんぎをしていて不自然ふしぜんえることもあったが、男性だんせい更年期こうねんきのホルモンバランスの変化へんかによって性格せいかく頑固がんこになり、ギリギリ誤魔化ごまかせるようになった」と性格せいかくについてはなしている[49]

入場にゅうじょうきょく[編集へんしゅう]

入場にゅうじょうきょく「パワーホール」は、作曲さっきょくしゃ平沢ひらさわすすむ担当たんとうしている。このきょくおなじフレーズが延々えんえんかえされる当時とうじとしてはめずらしいテクノ調しらべ入場にゅうじょうきょくであった。なお作曲さっきょくしゃクレジットは『異母いぼはんしょう』(異母いぼはんみょう誤植ごしょく、いぼはんみょう)という変名へんめいもちいられている[50]。『いぼはんみょう』とは平沢ひらさわきな昆虫こんちゅうハンミョウにいぼいぼがついたような姿すがたをイメージしてつけたとしている。当初とうしょから著作ちょさくけん契約けいやく条件じょうけん発注はっちゅうされ、その条件じょうけん業界ぎょうかい新人しんじんとして著作ちょさくけん無知むちだった平沢ひらさわ納得なっとくどうきょく制作せいさくしたため、きょく使用しようされても平沢ひらさわ自身じしん印税いんぜいはいってない[51]

髪型かみがた変遷へんせん[編集へんしゅう]

自分じぶんうしがみれないから、という理由りゆう[52]長髪ちょうはつがトレードマークであるが、過去かこに3短髪たんぱつにしている(1993ねん7がつ - アキレス腱あきれすけんだんきれ入院にゅういん復帰ふっきさい。1995ねん6がつ - 越中えっちゅうとのタッグマッチにやぶれ、リングじょうみずか長髪ちょうはつる。1998ねん1がつ - 引退いんたい。)。1997ねんにもなんかみっているが、目立めだった部分ぶぶん前述ぜんじゅつとおりである。2000年代ねんだい以降いこう茶髪ちゃぱつでウェーブがかっている。

プロレスマスコミぎら[編集へんしゅう]

週刊しゅうかんファイトもと編集へんしゅうちょう井上いのうえ譲二じょうじは、プロレスマスコミにたいする長州ちょうしゅう態度たいどについて、以下いかのようにべている。

専門せんもん記者きしゃたいしては、「ファンがり」とばかりに露骨ろこつ蔑視べっしおくるが、テレビ取材しゅざい一般いっぱんマスコミの取材しゅざいにはニコニコと上機嫌じょうきげんおうじる。その場合ばあい相手あいて年下とししたでも"さん"けだ。……かれにはプロレス専門せんもん記者きしゃたいして「おまえらにってなにかる」という、どこか見下みくだした気持きもちがあるのだ。 — 井上いのうえ2010、123-124ぺーじ

1990年代ねんだいには、「マスコミはテレビとひがしスポ以外いがい必要ひつようねえ!」とかえ発言はつげんしていた[53]

週刊しゅうかんゴングもと編集へんしゅうちょう金澤かなざわ克彦かつひこは、つぎのようにべている。

長州ちょうしゅうむかしからプロレス・マスコミを毛嫌けぎらいしていたし、とく専門せんもんかみ)の記者きしゃあきらかにワンランク存在そんざいなしていたふしがある。つまりは「ファンがり」で「オタク」にしかうつらない記者きしゃたちをジャーナリストとはみとめていなかったのだ。 — 別冊べっさつ宝島たからじま編集へんしゅうへん) 2008、188ぺーじ

そのような姿勢しせい影響えいきょうしてか、「プロレス大賞たいしょう」MVPはいち獲得かくとくしていない。

試合しあいまえ時間じかんにレスラーおよび関係かんけいしゃ以外いがいひかしつはいることも極端きょくたんきらう。あるとき興行こうぎょう関係かんけいしゃ子供こどもがサインをもらいにひかしつはいったさいかえそうとしたが、そばにいた木村きむら健悟けんごに「オイ、サインはしてやりなよ」とわれ、しぶしぶサインにおうじたことがある。維新いしん軍団ぐんだん全盛期ぜんせいきには、ひかしつまどからなかのぞこうとしたファンにいかり、スリッパでまどガラスをはたり、「うるさい!」とさけんでいる記事きじ週刊しゅうかんプロレスに掲載けいさいされた。

しかしそんなかれ例外れいがいてきにファンにサインをしたことがあった。1988ねん9がつ津山つやま総合そうごう体育館たいいくかんでの試合しあいときに、地元じもと長州ちょうしゅうのファンがおとずれたことがあった。かれ先天せんてんせい不治ふじやまいたたかっていて車椅子くるまいすって花束はなたばって来場らいじょうした。しかもかれながくてあと1ねんしかきられないとうことだった。控室ひかえしつかれ長州ちょうしゅう花束はなたばわたし、普段ふだんはファンに無愛想ぶあいそう長州ちょうしゅう笑顔えがおで「ありがとう、頑張がんばれよ」とこえをかけ、さら握手あくしゅとサインもしていた[54]

マスメディアへの露出ろしゅつ[編集へんしゅう]

1980年代ねんだいの「かませいぬ発言はつげん以降いこう長州ちょうしゅう人気にんきすさまじく、TBSでは長州ちょうしゅうあつかった1あいだ特集とくしゅう番組ばんぐみ(1984ねん12がつ)がまれるほどであった(その番組ばんぐみないで、当時とうじ専修大学せんしゅうだいがくのレスリング部長ぶちょうであった松浪まつなみ健四郎けんしろうもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)がコメントをした)。また、1983ねん鈴木すずき雅之まさゆき紹介しょうかいで『わらっていいとも!』の「テレフォンショッキング」にも出演しゅつえん、リングアナの田中たなかケロ当時とうじ田中たなか秀和ひでかず)のアナウンスで登場とうじょう当時とうじどうコーナー最多さいた祝電しゅくでん到着とうちゃくしたことで話題わだいになった。タモリわざのリクエストにヘッドロックおうじようとするも、派手はでわざのぞむタモリの意向いこうによりコブラツイストをかけた。つぎ友達ともだち関根せきねつとむ紹介しょうかいした。

人気にんき最高潮さいこうちょうである1985ねん12月には『さだまさしセイ!ヤング』(文化放送ぶんかほうそう)にゲスト出演しゅつえん最後さいごにさだがわから腕相撲うでずもうをやりたいと要望ようぼうがあり、さだは両手りょうていどんだが当然とうぜんけた。2006ねんに『ズバリうわよ!』(TBS)の新春しんしゅんスペシャルにゲスト出演しゅつえんしたさいには「子供こどもたち会話かいわはいっていけない」とう3にんむすめ父親ちちおやとしてのなやみをけ、細木さいき数子かずこ出演しゅつえんしゃからどうせっすればいか助言じょげんもらっていた。なお、この放送ほうそうとき有田ありたあきらたいら長州ちょうしゅう出演しゅつえん興奮こうふん気味ぎみで、本人ほんにんまえ物真似ものまね披露ひろうした(この番組ばんぐみあさあおりゅうとも共演きょうえん)。

以前いぜん岩手いわてけんうちぼうパチンコみせコマーシャル出演しゅつえんしていたこともある。その内容ないようは、長州ちょうしゅう練習れんしゅう姿すがた数種類すうしゅるいうつしたのち山盛やまもりのパチンコだままえはしった長州ちょうしゅうが「こんなんえねーよ!」とえるというものであった。のCM出演しゅつえんとして、日本にっぽんヴェルテック(関西かんさい地区ちくのみ)、雪印ゆきじるしローリー「ローリーエース」(乳酸菌にゅうさんきん飲料いんりょう)、札幌さっぽろのパチンコチェーンビッグスターとう出演しゅつえんがある。また、2013ねん初頭しょとう放映ほうえいされた麒麟麦酒きりんびーる「のどごし〈せい〉」では、「のどごしゆめのドリーム体験たいけん」で会社かいしゃいん名前なまえに「ちから」がはいっている)と対決たいけつしている。トレーニング器具きぐブルワーカー雑誌ざっし広告こうこく起用きようされていたこともある。

さんまのまんま』(関西かんさいテレビ)に出演しゅつえんしたさいには、「自分じぶんはタイトルをとってもなかなか防衛ぼうえいすることが出来できなかった」とはなしたおり明石家あかしやさんまから「あんた、よわいんだ?」とあっさりわれて苦笑くしょうした(事実じじつ王者おうじゃとしては、シングル・タッグともに短命たんめいわることがおおかった)。また「はなし舌足したたらずできづらい」というさんまにたいし「自分じぶんではそうおもっていないが、ひとにはよくわれる」とこたえている。

2012ねん大晦日おおみそか放映ほうえいされた『ダウンタウンのガキの使つかいやあらへんで!! 絶対ぜったいわらってはいけない熱血ねっけつ教師きょうし24』で、天龍てんりゅう源一郎げんいちろうともに、すべりしたわる教師きょうしやく出演しゅつえんした。

テレビゲームに登場とうじょう[編集へんしゅう]

1987ねんリコーエレメックス発売はつばいしたファミリーコンピュータようゲーム『新人しんじんるい』にタイアップ企画きかく出演しゅつえん。ゲームちゅう主人公しゅじんこうがリキのパネルをると、長州ちょうしゅうりょく変身へんしんしてリキラリアットでてき攻撃こうげきするというものだった。また広告こうこくやテレビコマーシャルにも直接ちょくせつ本人ほんにん出演しゅつえんしていた。

インディー団体だんたいへのまなざし[編集へんしゅう]

1996ねん6月30にち横浜よこはまアリーナ開催かいさいされた「メモリアル力道山りきどうざん」におけるIWA格闘かくとうこころざしじゅく提供ていきょう鶴見つるみ五郎ごろう VS ザ・マミー」を酷評こくひょうし、インディー批判ひはんひろげたが、ターゲットとしていたターザン後藤ごとう反応はんのうせず、インディーとの対抗たいこうせん発展はってんすることはなかった。

 2006ねん1がつ最後さいご(と当時とうじうたっていた)の東京とうきょうドーム大会たいかいでのマッチメイクを「しん日本にっぽんたいインディー」とんだことで団体だんたいレスラー(とくビッグマウス・ラウド)から批判ひはんけた。ちなみに、WJプロレス時期じきにおけるインディー団体だんたい選手せんしゅとのがらみにより、現在げんざいではかつてのようなインディー敵視てきしうすまっている。

パチンコ・パチスロ[編集へんしゅう]

しん日本にっぽんプロレス在籍ざいせきにはパチンコ「CR闘魂とうこん」(三星みつぼし)の特別とくべつ図柄ずがら(いわゆる「大当おおあたり絵柄えがら」)12として登場とうじょうしている。長州ちょうしゅう個人こじんとしては2007ねんにパチスロ「革命かくめい戦士せんし長州ちょうしゅうりょく」(トリビー)が発売はつばいされた。この機種きしゅでは長州ちょうしゅう小力こぢからとの競演きょうえんたしている。なお、インターネットじょう動画どうがサイトに投稿とうこうされている「CR革命かくめい戦士せんし長州ちょうしゅうりょく」なるパチンコの動画どうがは、CRしん世紀せいきエヴァンゲリオンシリーズをもとにした個人こじん制作せいさくのものであり、実機じっきでは存在そんざいしない。

2022ねん1がつパチンコてんチェーン「楽園らくえん」を運営うんえいするはまとも観光かんこうのオフィシャルサポーターに就任しゅうにんした[55]。これにともない、「楽園らくえん」の店頭てんとうでは定期ていきてきに「パワーホール」がながされている。

その[編集へんしゅう]

  • エステー製造せいぞうするけししゅうざいけししゅうりょく」は、長州ちょうしゅうりょくにちなみ、同社どうしゃ会長かいちょう鈴木すずきたかしによって名付なづけられた[56]
  • 2012ねんロンドンオリンピック柔道じゅうどう男子だんし73kgきゅうじゅん優勝ゆうしょう中矢なかやつとむは、母親ははおやがプロレスファンであったため、長州ちょうしゅうあやかって『ちから』と命名めいめいされた[57]
  • 広島東洋ひろしまとうようカープのファンで、2013ねん7がつ30にちMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島ひろしま始球しきゅうしきつとめた[58]
  • 吉田よしだつよしのTwitterじょう名前なまえ長州ちょうしゅう本名ほんみょうである「吉田よしだ光雄みつお」のため、あさあおりゅう長州ちょうしゅうりょくのアカウントだと間違まちがわれたことがある[59]
  • 2016ねん2がつ29にちNHK公式こうしきサイトに「受信じゅしんりょう長州ちょうしゅうりょく」とだいするティザーサイトが公開こうかいされた[60]。NHK広報こうほうきょくによると「あらたに一人ひとりらしをするひとにNHKをてもらうようにうながすキャンペーン」として長州ちょうしゅうをキャンペーンキャラクターにえた企画きかくであり、「パワーホール全開ぜんかいでNHKのドなかつぞ!」「SNSでアレしろ!」などと記載きさいされ公式こうしきTwitterでも「NHKの受信じゅしん契約けいやくはおみですか?なに? まだだって?おまえしん生活せいかつ、いいスタート、キレてないですよ!?はやく『受信じゅしんりょう長州ちょうしゅうりょく』で、アレしなきゃダメだ! コラ!」と本人ほんにんめいフレーズや口癖くちぐせ多分たぶん意識いしきした文言もんごんならんでいたが、視聴しちょうしゃからサイトめいが「長州ちょうしゅう」と「徴収ちょうしゅう」をけているのとのうたがいや長州ちょうしゅうちからずくで受信じゅしんりょう徴収ちょうしゅうするという宣戦せんせん布告ふこくではないか[61] などと批判ひはん殺到さっとうしたため、3月4にち公開こうかい中止ちゅうしがアナウンスされた[62][63]長州ちょうしゅう本人ほんにんはこのけんについてコメントしていない。

メディア出演しゅつえん[編集へんしゅう]

テレビ番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

WEB番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

ゲーム[編集へんしゅう]

CM・広告こうこく[編集へんしゅう]

web CM[編集へんしゅう]

  • ロジャーグラート(2019ねん8がつ30にち - )[71]
    • 誕生たんじょうちょうじゅくりょくへん
    • 「Interview with RIKI CHOSHU」へん

ミュージック・ビデオ[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

  • 革命かくめい戦士せんし長州ちょうしゅうりょく おれしんさけびをいてくれ!!』(1983ねん11月、都市とし生活せいかつしゃ
  • 逆境ぎゃっきょう?それ、チャンスだよ』(2014ねん5がつ22にちPHP研究所けんきゅうじょISBN 978-4569818740
  • 『いまどうしてる?』(2020ねん5がつ2にちワニブックスISBN 978-4847099229
  • 『ほんとうの長州ちょうしゅうりょく』(2020ねん6がつ30にち辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 978-4777826148

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 井上いのうえ譲二じょうじ『「つくりごと」の世界せかいきて プロレス記者きしゃという人生じんせい宝島社たからじましゃ、2010ねんISBN 4-7966-7636-8 
  • ミスター高橋たかはし流血りゅうけつ魔術まじゅつ だい2まく プロレスはほこるべきエンターテインメント』講談社こうだんしゃ、2010ねんISBN 4-06-216516-3 
  • 別冊べっさつ宝島たからじま編集へんしゅうへんへん『プロレス「リングとカネ」 暗黙あんもくおきてやぶったおとこたち』宝島社たからじましゃ宝島たからじまSUGOI文庫ぶんこ Aへ-1-63〉、2008ねんISBN 4-7966-6690-7 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉田よしだ光雄みつおしんリングネームは当初とうしょファンによる公募こうぼ決定けっていする予定よていだったが、めぼしい候補こうほがなかった。そのためしん日本にっぽんプロレス営業えいぎょう本部ほんぶちょうしんあいだ寿ことぶきは「ストロング吉田よしだ」「ナイト吉田よしだ」のふたつを提案ていあんしたがしん日本にっぽんプロレス総帥そうすいのアントニオ猪木いのきはこれを却下きゃっかし、猪木いのきみずから「山口やまぐちけん出身しゅっしんだし、力道山りきどうざん先生せんせいから『ちから』のいちって『長州ちょうしゅうりょく』にしよう」と命名めいめいしたという[8]
  2. ^ なお、長州ちょうしゅう本人ほんにん当初とうしょ、このリングネームをっておらず、「『つよし竜馬りょうま』のような格好かっこういい名前なまえにしてくれ」と関係かんけいしゃ懇願こんがんしたという。
  3. ^ 長州ちょうしゅうりょく故郷こきょうである徳山とくやま周防すおうこくぼうしゅうしゅうしゅう)であるため、長門ながとこく長州ちょうしゅう)は厳密げんみつには長州ちょうしゅうりょく出身しゅっしんではない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 長州ちょうしゅうりょく「テレビはつ登場とうじょう美人びじんつまと30ねんぶりデート」TV公開こうかい違和感いわかん asagei plus
  2. ^ 革命かくめい戦士せんし長州ちょうしゅうりょく45ねんのプロレスラー人生じんせいまく”. 日刊にっかんスポーツ (2019ねん6がつ26にち). 2022ねん8がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ 韓国かんこくせきでは国体こくたい出場しゅつじょうできないはずだったが、部活ぶかつ指導しどう教員きょういん日本にっぽんレスリング協会きょうかいに「そうとはらなかった」とごまかして出場しゅつじょうさせた。
  4. ^ 長州ちょうしゅうりょく、オリンピックは韓国かんこく代表だいひょう 「じゃあおれ何人なんにん?」
  5. ^ The IBV matches fought by Riki Choshu in 1974”. Wrestlingdata.com. 2018ねん8がつ27にち閲覧えつらん
  6. ^ The CWF matches fought by Riki Choshu in 1975”. Wrestlingdata.com. 2018ねん8がつ27にち閲覧えつらん
  7. ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P136(1996ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  8. ^ しんあいだ寿ひさしかす プロレスラー「長州ちょうしゅうりょく誕生たんじょう瞬間しゅんかんとあの「かませいぬ事件じけん」”. ひがしスポWEB. 東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ. (2019ねん6がつ26にち). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/146752 2019ねん6がつ26にち閲覧えつらん 
  9. ^ しん日本にっぽんワールドリーグせん”. 昭和しょうわプロレス研究けんきゅうしつ. 2018ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  10. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.27』P36(2013ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777811476
  11. ^ 『1945-1985 激動げきどうのスポーツ40ねん (6) プロレス 秘蔵ひぞう写真しゃしんつづ激動げきどう』P161(1986ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  12. ^ a b c UWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2018ねん9がつ4にち閲覧えつらん
  13. ^ a b 記者きしゃかせ…プロレスのはなしをしない「長州ちょうしゅうりょく秘話ひわ 仇敵きゅうてき藤波ふじなみたつなんじとのめい勝負しょうぶいまかたがれる名言めいげん - デイリー新潮しんちょう・2023ねん11月21にち
  14. ^ a b しん日本にっぽんプロレス伝説でんせつ完全かんぜん解明かいめい」 P.121、2009ねん宝島社たからじましゃISBN 4796670491
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  16. ^ 東邦とうほう出版しゅっぱん『KAMINOGE』vol.85 pp.86-101
  17. ^ a b しん日本にっぽんプロレス伝説でんせつ完全かんぜん解明かいめい」 P.122、2009ねん宝島社たからじましゃISBN 4796670491
  18. ^ The WWE matches fought by Riki Choshu in 1982”. Wrestlingdata.com. 2022ねん3がつ14にち閲覧えつらん
  19. ^ 長州ちょうしゅう浜口はまぐちは1979ねんの『プロレスゆめのオールスターせん』で全日本ぜんにほんプロレス極道ごくどうコンビ大熊おおくまもとつかさグレート小鹿こじか)を相手あいてにタッグをんだことがある。
  20. ^ マサ斎藤さいとうはアメリカを主戦しゅせんじょうとしており、IWGPといったビッグシリーズのとき来日らいにちするのみで、カーンも戸口とぐち同様どうようにアメリカと日本にっぽんしていたため、通常つうじょう維新いしんぐんとしてのメンバーは長州ちょうしゅう浜口はまぐち谷津たにつ寺西てらにし小林こばやしの5にん長州ちょうしゅう事実じじつじょう旗頭はたがしらであった。なお、えいみなもとはるか言動げんどうなどから維新いしんぐんサイドとられてはいたが、ストーリーじょう軍団ぐんだんいんとはあつかわれておらず、おおやけ行動こうどうともにしたのは新日本しんにほん離脱りだつするときである。また、当時とうじカナダで武者むしゃ修行しゅぎょうちゅうだった平田ひらた淳二じゅんじも、長州ちょうしゅう斎藤さいとう接触せっしょくする姿すがたがプロレスマスコミに報道ほうどうされ、帰国きこく維新いしんぐんりが濃厚のうこうとされていたが実現じつげんせず、おおやけ行動こうどうともにしたのはカルガリーハリケーンズ解散かいさん→リキプロ軍団ぐんだんとして新日本しんにほん復帰ふっきする1987ねんになる。
  21. ^ しん日本にっぽんプロレス「’84IWGP」だい20せん1984ねん6がつ1にち 高松たかまつ市民しみん文化ぶんかセンター 試合しあい結果けっか”. プロレス試合しあい結果けっかデータベース. 2018ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  22. ^ しん日本にっぽんプロレス伝説でんせつ完全かんぜん解明かいめい」 P.47-48、2009ねん宝島社たからじましゃISBN 4796670491
  23. ^ しん日本にっぽんプロレス伝説でんせつ完全かんぜん解明かいめい」 P.53-54、2009ねん宝島社たからじましゃISBN 4796670491
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  50. ^ のち平沢ひらさわは、プロレス専門せんもんのインタビューで「(パワーホールは)満足まんぞくのゆく出来できではなかったので依頼いらいがあればつくなおしたい」「引退いんたい試合しあいにははなってうかがいたい」などとコメントしたが、いずれも実現じつげんしなかった。
  51. ^ Hirasawa, Susumu (2010ねん2がつ18にち). “カーナビによれば今日きょうは「プロレス」のだそうだ。プロレスといえば「テクノ・鯛焼たいやくん」とばれたわたし業界ぎょうかい新人しんじんとして著作ちょさくけん無知むちだったがために大金たいきん不意ふいにしてしまった。それがなければわたし金持かねもちになっていたはず。みなさん著作ちょさくけんはめったに他人たにん管理かんりさせてはいけない。”. @hirasawa. 2019ねん9がつ8にち閲覧えつらん
  52. ^ ブラマヨとゆかいな仲間なかまたち アツアツっ! 2013ねん12月7にち
  53. ^ 井上いのうえ2010、115ぺーじ
  54. ^ 「ケロのしん日本にっぽんプロレス奇行きこう」(1989ねんさんいち書房しょぼう)152p
  55. ^ 長州ちょうしゅうりょくさんとコラボさせていただきました!! - はまとも観光かんこう新卒しんそつ採用さいようサイト
  56. ^ 鈴木すずきたかし社長しゃちょうの「エステー大改革だいかいかく」! - TBS「がっちりマンデー!!」 2013ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん
  57. ^ 中矢なかやはは名前なまえ長州ちょうしゅうりょくから「いただいた」 スポーツ報知ほうち 2012ねん7がつ31にち閲覧えつらん
  58. ^ 広島ひろしまファンの長州ちょうしゅうあかヘルに“2だい指令しれい長州ちょうしゅうりょく始球しきゅうしき だいファン広島ひろしまにエール「CSってほしい」 ― スポニチ
  59. ^ 吉田よしだによる2012ねん12月12にちのツイート2017ねん5がつ18にち閲覧えつらん
  60. ^ NHKの「受信じゅしんりょう長州ちょうしゅうりょく」が力強ちからづよい。長州ちょうしゅうさんがてにるの? BuzzFeed 2020ねん12月6にち閲覧えつらん
  61. ^ 出典しゅってん記事きじでNHKが否定ひていしているとおり、NHK受信じゅしんりょう受信じゅしん契約けいやくもとづいて支払しはら料金りょうきんであり、強制きょうせいてき徴収ちょうしゅうされるものではない。
  62. ^ NHK「受信じゅしんりょう長州ちょうしゅうりょく」サイトが瞬殺しゅんさつちからずくで徴収ちょうしゅうか」批判ひはんもあり「開設かいせつ中止ちゅうし J-castニュース 2020ねん12月6にち閲覧えつらん
  63. ^ NHK、炎上えんじょうしていた「受信じゅしんりょう長州ちょうしゅうりょく」サイト開設かいせつ中止ちゅうし 「このまま開設かいせつしても意図いとただしくつたえるのはむずかしい」 ねとらぼ 2020ねん12月6にち閲覧えつらん
  64. ^ 長州ちょうしゅうりょく大河たいがドラマはつ出演しゅつえん西郷さいごうどん」で異例いれいのリキラリアット演出えんしゅつ. スポーツ報知ほうち (報知新聞社ほうちしんぶんしゃ). (2018ねん7がつ2にち). https://hochi.news/articles/20180702-OHT1T50096.html 2018ねん7がつ2にち閲覧えつらん 
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  73. ^ “サソリがためにラリアット、長州ちょうしゅうりょく片桐かたぎりはいりがだい喧嘩けんか. BARKS音楽おんがくニュース. (2009-10-16 1). https://www.barks.jp/news/?id=1000054179 2016ねん12月15にち閲覧えつらん 

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]