(Translated by https://www.hiragana.jp/)
新間寿 - Wikipedia コンテンツにスキップ

しんあいだ寿ことぶき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しんあいだ寿ことぶき(2017ねん12月撮影さつえい

しんあいだ 寿ことぶき(しんま ひさし、1935ねん昭和しょうわ10ねん3月22にち[1] - )は、日本にっぽん実業じつぎょうもとしん日本にっぽんプロレス専務せんむ取締役とりしまりやくけん営業えいぎょう本部ほんぶちょうおよもとWWF会長かいちょう現在げんざいしんあいだ事務所じむしょ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょうリアルジャパンプロレス会長かいちょう

実父じっぷ東京とうきょうプロレスげ、しん日本にっぽんプロレス役員やくいんつとめたしんあいだ信雄のぶお息子むすこしんあいだ寿ことぶきひさしユニバーサル・プロレスリングのちにFULLと改称かいしょう)をげるなどプロレス業界ぎょうかい裏方うらかたはたらいている。 タレントで、もと参議院さんぎいん議員ぎいんしんあいだ正次まさつぐ従兄弟いとこ[2]声優せいゆう高山たかやまみなみめいにあたる。

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

1935ねん東京とうきょう新宿しんじゅくにてまれる。 中央大学ちゅうおうだいがく入学にゅうがく柔道じゅうどう所属しょぞくするかたわら、つよおとこあこがれ、当時とうじ日本橋にほんばし人形にんぎょうまちにあった日本にっぽんプロレス道場どうじょうボディビル練習れんしゅうせいとしてかよう。むねうで筋肉きんにくおおきくしたかったしんあいだ力道山りきどうざんから「3ヵ月かげつあいだ、オマエはベンチプレスだけをやれ」とめいじられ、当初とうしょ40kgもがらなかったウエイトが55kgまでがるようになった(当時とうじはベンチプレスが一般いっぱん浸透しんとうしていなかった)[3]。このときのちしんあいだ人生じんせい左右さゆうすることとなるゆたかとうう。

日本にっぽんプロレスの練習れんしゅうせいではあったが、昭和しょうわ巌流島がんりゅうじまでは自身じしん柔道じゅうどう経験けいけんしていたということもあって木村きむら政彦まさひこほう応援おうえんしていた[3]大学だいがく卒業そつぎょう大手おおて化粧けしょうひんメーカーのマックスファクターでのサラリーマン生活せいかつて、1966ねんゆたかとうさそいをうけて、当時とうじてら住職じゅうしょくつとめていた[4]実父じっぷ信雄のぶおとも東京とうきょうプロレスげにたずさわる。そこからアントニオ猪木いのきとの関係かんけいまれ、東京とうきょうプロレス倒産とうさん理由りゆうちちから勘当かんどうをいいわたされ、しょうらいかわ鉱山こうざん鉱夫こうふとして4年間ねんかんわたって極寒ごっかん僻地へきち鉱山こうざん労働ろうどう従事じゅうじ[5]。その東京とうきょうもどり、ダイナパワーという自動車じどうしゃ燃費ねんぴ向上こうじょうさせる器具きぐるセールスマンをおこない、ゆたかとうとともに全国ぜんこく行脚あんぎゃおこなっていたが、ゆたかとうしんあいだかせいだかねでギャンブルをおこなっていた[6]。そして寿屋ことぶきやパンてん経営けいえいおこない、またもやはたらきながらゆたかとう面倒めんどう[6]

これらの仕事しごと1972ねんしん日本にっぽんプロレス入社にゅうしゃ専務せんむ取締役とりしまりやく営業えいぎょう本部ほんぶちょう肩書かたがきで、猪木いのき右腕うわんとして数々かずかずめい勝負しょうぶ実現じつげんへとみちびいた。そのなか最大さいだい功績こうせきは「アントニオ猪木いのきたいモハメド・アリせん実現じつげんさせたことである。また、佐山さやまさとしタイガーマスクとして現実げんじつ世界せかい登場とうじょうさせ、IWGP構想こうそう提唱ていしょうするなど、しん日本にっぽんプロレスにのこした足跡あしあとはかれない。福田ふくだ赳夫たけおからは「つねざい戦場せんじょうつねたたかいのいど猪木いのきくん参謀さんぼうとして、猪木いのきくん最高さいこうたたかいの模索もさくし、おおくのファンをたのしませ、数々かずかずのドラマをつくげた」とひょうされている[7]。1980年代ねんだい前半ぜんはん全盛期ぜんせいきには「プロレスブームではなく、しん日本にっぽんプロレスブーム」との発言はつげんのこしている(しんあいだとおり、1980年代ねんだいにはライバルの全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけいしん日本にっぽんよりもはやくゴールデンタイムから撤退てったいしており、だいさん団体だんたい国際こくさいプロレスいたっては1981ねんなつ崩壊ほうかいしている)。アリせん巨額きょがく赤字あかじ問題もんだいとなり形式けいしきじょう降格こうかくされた時期じきがあったが、その時期じきわらず辣腕らつわんるっていた。

1983ねん、『しん日本にっぽんクーデター未遂みすい事件じけん』の責任せきにんかたちで、営業えいぎょう本部ほんぶちょう解任かいにんされた(このとき猪木いのき代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう一時いちじ解任かいにんされている)。営業えいぎょう部長ぶちょう大塚おおつか直樹なおきからは「クーデターには猪木いのき坂口さかぐちせい自身じしん以外いがい全員ぜんいん関与かんよしている」とかされるがしんあいだは、下関しものせき雲隠くもがくれした佐山さやま関与かんよしているはずがないとかんがえていた。当時とうじ週刊しゅうかんは「あのクーデターはタイガーがやったんだ」とてたが、のち佐山さやましんあいだとの対談たいだん関与かんよ否定ひていしている。

解任かいにんさいしてジャパンライフ磁気じき治療ちりょう寝具しんぐ羽毛うもう布団ふとんなどの製造せいぞうおろし販売はんばい業務ぎょうむとする)の政治せいじ連盟れんめい幹事かんじちょうしょくき、そのとき新日本しんにほんでもらっていた月給げっきゅう80まんえんよりたかい120まんえん月給げっきゅうとしてジャパンライフの関係かんけいしゃからめられた[8]。そしてUWF設立せつりつするが、1ねんほどで崩壊ほうかいし、その新日本しんにほん裏方うらかたつづけた。猪木いのきNWA加盟かめい拒否きょひされたため、しん日本にっぽん代表だいひょうとしてNWAの名義めいぎじんとなっていたのも、しんあいだ坂口さかぐちせいであった。

また、その手腕しゅわんわれてジャパン女子じょしプロレス経営けいえいにも関与かんよし、子飼こがてき存在そんざいであったグラン浜田はまだをコーチとしておくんだこともある。また、ジャパン女子じょしプロレスの経営けいえい不振ふしんさいしては、空手からて士道しどうかん男子だんしプロレスなどを融合ゆうごうした『格闘技かくとうぎ連合れんごう』としての団体だんたい再建さいけんプランも画策かくさくしていたとされる[9]

息子むすこである寿ことぶきひさし代表だいひょうけんプロモーターをつとめたユニバーサル・プロレスリングでも、どう団体だんたい役職やくしょくくことはなかったものの、所属しょぞく選手せんしゅであった浅井あさい嘉浩よしひろげんウルティモ・ドラゴン)のSWS移籍いせき騒動そうどうさいにも団体だんたい代表だいひょうするかたちで、当時とうじSWS社長しゃちょうであった天龍てんりゅう源一郎げんいちろうたいして直談判じかだんぱんしているなど、団体だんたいたいする影響えいきょうりょく保持ほじしていた[10]

2019ねんWWE殿堂でんどうのレガシー部門ぶもんむかえられた[11][12]

スポすぽツ平和党つへいわとう結成けっせいから猪木いのき告発こくはつそして和解わかいまで

[編集へんしゅう]
  • 1989ねんには猪木いのきげたスポすぽツ平和党つへいわとう幹事かんじちょう就任しゅうにん1992ねんだい16かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょでは比例ひれい代表だいひょうより名簿めいぼ順位じゅんい3立候補りっこうほ落選らくせんしている。
    • スポすぽツ平和党つへいわとう運営うんえいめぐっては猪木いのき税金ぜいきん未納みのう疑惑ぎわく発覚はっかくすると江本えもと孟紀たけのりふく党首とうしゅ金銭きんせん疑惑ぎわく追及ついきゅうされ、とう行方ゆくえ注目ちゅうもくされるなか政治せいじ評論ひょうろん菊池きくちひさから"親密しんみつなか"とうわさされた佐藤さとう久美子くみこ公設こうせつだいいち秘書ひしょ記者きしゃ会見かいけんおこな決別けつべつ宣言せんげんしんあいだもそのたもとかち、一時いちじ猪木いのき告発こくはつほん執筆しっぴつした。
    • つね日頃ひごろわたしはアントニオ猪木いのきとプロレスの悪口わるぐちったことがない」と公言こうげんし、告発こくはつしたのは「一個人いっこじんとしての猪木いのきひろしいたり」であり、「プロレスラー・アントニオ猪木いのき」ではないなどと発言はつげんしていたが、スポすぽツ平和党つへいわとう幹事かんじちょうだった1995ねん告発こくはつほん出版しゅっぱん予定よていげて記者きしゃ会見かいけんおこない「女性じょせいほうみみをふさいでください・・・アントニオ猪木いのきのPKO・・・それはパンパンいおまんちょやろう」と発言はつげんしその模様もようは、TBS全国ぜんこくなま中継ちゅうけいされた(ちなみに、この放送ほうそうをたまたまリングス関係かんけいしゃており、前田まえだ日明ひあがりに「猪木いのきさんが大変たいへんなことになってますよ!」とつたえたら「なにってるんだ、いつものことや!そのうち仲直なかなおりするさ!」とまったわなかった、というはなしがある)。また猪木いのき秘書ひしょ便所べんじょれこみ平手打ひらてうちをするなど毎日まいにちのようにワイドショーでげられていた。
  • 猪木いのき落選らくせんは、猪木いのきしん日本にっぽんプロレスとの関係かんけい疎遠そえんとなるが、2002ねん東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ桜井さくらい康雄やすおもと取締役とりしまりやくあいだ猪木いのきしんあいだ電撃でんげき和解わかいほうじる、そして猪木いのき事務所じむしょのアドバイザーとして復帰ふっきすると、ジャングルファイトをプロデュースし、よく2003ねんしん日本にっぽんプロレスの東京とうきょうドーム大会たいかいではやく20ねんぶりにリングにのぼり、その存在そんざいをアピールする。
  • 現在げんざいは「天下てんかのプロレスご意見いけんばん」として雑誌ざっしなどに登場とうじょうし、プロレスかい苦言くげんていしている。
    • しかし「暴露ばくろほん」をしたミスター高橋たかはしのことははげしく非難ひなんしており「暴露ばくろほん」が自身じしんもととどいたときやぶった。ただし、しんあいだが「これこのとお猪木いのきのビッグマッチはほとんどミスター高橋たかはし以外いがいさばいている」[13]ってしてきた試合しあい一覧いちらんは、大半たいはん他流たりゅう試合しあい異種いしゅ格闘技かくとうぎせん(つまりしん日本にっぽんがわ・プロレスがわである高橋たかはしさばくのはありない試合しあい)であった。また、高橋たかはしの「いましん日本にっぽんプロレスに猪木いのきさんをポンとれたらどうなるか?と想像そうぞうもした。おそらく猪木いのきさんはついていけないでしょう。わたし個人こじん猪木いのきさんのプロレスが一番いちばんき。でもそんな時代じだいとおざかりつつあることをこの確認かくにんした」という、現在げんざいのプロレスファンに迎合げいごうし、猪木いのきおとしめるような発言はつげん立腹りっぷくしたことがある[14]

その

[編集へんしゅう]
  • WWE創業そうぎょうしゃ一族いちぞくマクマホンとは家族かぞくぐるみのいである。とくビンス・マクマホン・シニアとの交流こうりゅう有名ゆうめいで、くなる直前ちょくぜん新日本しんにほん立会たちあいじんとして来日らいにちしたさいのパーティの挨拶あいさつで「ここにわたし友人ゆうじんであるしんあいだがいないことはさびしい」とコメントした。またしんあいだはそのとき、プロレスのおもて舞台ぶたいからえているときだった。のちにシニアの訃報ふほういて雑誌ざっしのインタビューで追悼ついとうともに、シニアのこのコメントにたいする謝意しゃいしめしていた。
  • メキシコUWA初代しょだい代表だいひょうであるフランシスコ・フローレス、2代目だいめ代表だいひょうのカルロス・マイネスからも絶大ぜつだい信頼しんらいけていた。しんあいだ提唱ていしょうしたIWGP構想こうそう賛同さんどうして参加さんかしたが、しんあいだへの信頼しんらいから、律儀りちぎにメキシコ予選よせんリーグせん開催かいさいした。IWGPリーグせんだいいちかい大会たいかいにおいて、予選よせんいて本選ほんせん出場しゅつじょうしたのは、アジア代表だいひょう猪木いのきキラー・カーンと、中南米ちゅうなんべい代表だいひょうカネックエンリケ・ベラのみである。
  • アントニオ猪木いのきとは「くさえん」ともえる関係かんけいであるが、前述ぜんじゅつ猪木いのき参議院さんぎいん議員ぎいんであった当時とうじ告発こくはつふくめ、度々たびたび猪木いのきとはたもとかったことがある。1967ねん東京とうきょうプロレスの倒産とうさんさいしては、猪木いのきがわゆたかとうがわとの責任せきにんなすいに発展はってんし、そのさい信雄のぶお寿ことぶき父子ふしゆたかとうがわいている。ゆたかとう信雄のぶお寿ことぶき猪木いのきがわから「3せんまんえん業務ぎょうむじょう背任はいにん横領おうりょう容疑ようぎ」で警察けいさつ告発こくはつされている[4]
  • また、しん日本にっぽん時代じだい部下ぶかでもある大塚おおつか直樹なおきもと営業えいぎょう部長ぶちょう)とはクーデター未遂みすい事件じけんいち時期じきたもとかったが、その大塚おおつか独立どくりつし「しん日本にっぽんプロレス興行こうぎょう」(ジャパンプロレス)を設立せつりつしたさいには和解わかいしており、ジャパンプロレスが崩壊ほうかいしたのち大塚おおつかしんあいだともにジャパン女子じょしプロレスの経営けいえいや『格闘技かくとうぎ連合れんごう』に参画さんかくしたり、ユニバーサル・プロレスの最高さいこう顧問こもん名前なまえつらねている[15][16]
  • 一時期いちじきだい仁田にったあつしとの関係かんけいふか時期じきがあった。これは『格闘技かくとうぎ連合れんごう設立せつりつさい、グラン浜田はまだとも大仁田おおにたを『格闘技かくとうぎ連合れんごう』の男子だんし部門ぶもん手駒てごまとして構想こうそうしていたこともあり、当時とうじジャパン女子じょしプロレスの営業えいぎょう部員ぶいんであった大仁田おおにたと、レフェリーけんコーチであった浜田はまだとのあいだ発生はっせいした遺恨いこんをギミックとして試合しあいませたのも、しんあいだ仕掛しかけがあったからとされている[10]
その大仁田おおにたが「FMW」(フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング)を旗揚はたあげしたさいには『格闘技かくとうぎ連合れんごう構想こうそう枠組わくぐみとして、一時期いちじきしんあいだ大塚おおつかはFMWの顧問こもん名前なまえつらねていた。しかし、旗揚はたあ会見かいけんさい青柳あおやぎ政司せいじ乱入らんにゅうして大仁田おおにた乱闘らんとうさわぎになり、懇意こんいにしていたホテルのかね屏風びょうぶ破損はそんしてホテルがわから補修ほしゅう費用ひよう請求せいきゅうされたうえに、救急きゅうきゅうしゃ警察けいさつ出動しゅつどうする事態じたいとなり面子めんつつぶされたこと(しかも、一連いちれん騒動そうどう大仁田おおにた仕掛しかけたといううわさもあった)や、旗揚はたあ直後ちょくごからデスマッチ志向しこうつよ試合しあいスタイルなどが格闘技かくとうぎ路線ろせんおおきく乖離かいりしていたことから、大仁田おおにたとの関係かんけい悪化あっかして決別けつべつする。その当時とうじ都内とない広告こうこく代理だいりてん勤務きんむしていた息子むすこ寿ことぶきひさしともにメキシコのルチャリブレ主体しゅたいとしたプロレス団体だんたいであるユニバーサル・プロレスの設立せつりつけて、方向ほうこう転換てんかんしている[17]
  • ユニバーサル時代じだい所属しょぞく選手せんしゅであった浅井あさい嘉浩よしひろが、1991ねん9月にメキシコの主戦しゅせんじょうUWAからCMLL(げんCMLL)へ移籍いせきしたさい、その直後ちょくごSWSとEMLLとの業務ぎょうむ提携ていけい成立せいりつした関係かんけいで、日本にっぽんでの主戦しゅせんじょうもSWSへうつすこととなった。一因いちいんひとつとしてユニバーサル時代じだい選手せんしゅ試合しあい頭部とうぶつなどし、嘔吐おうとするなど危険きけん状況じょうきょうでも団体だんたいがわ適切てきせつ対応たいおうしなかったこともわれている。団体だんたいがわがこのときしんあいだは「こんな身勝手みがってはなしがあるか!こうなったらSWSの事務所じむしょんで天龍てんりゅう直談判じかだんぱんして白黒しろくろをキッチリつけてやる」とSWSの事務所じむしょむことを宣言せんげんした。そのある人物じんぶつ仲介ちゅうかいやくとして天龍てんりゅうとの会談かいだん実現じつげんしてこの席上せきじょう天龍てんりゅう弁解べんかいせずに誠意せいいせ、騒動そうどう謝罪しゃざいしたことからしんあいだ翻意ほんい浅井あさいのSWS移籍いせき承諾しょうだく。さらに「本当ほんとううつわおおきい素晴すばらしい人物じんぶつ」と天龍てんりゅう人柄ひとがら絶賛ぜっさんしている。のち天龍てんりゅうアントニオ猪木いのきとの対戦たいせんのぞんだ要望ようぼうしょしんあいだたくしている[18]
  • TV番組ばんぐみ開運かいうん!なんでも鑑定かんていだん』にて猪木いのきVSアリせんしな(調印ちょういんしょなにかの書類しょるい)を持参じさんし、350まんえんけられた。

エピソード

[編集へんしゅう]
  • マックスファクター時代じだいは、自社じしゃ商品しょうひんをレスラーに勝利しょうりしゃしょうとして提供ていきょうしていた。
  • IWGP構想こうそうを"世界せかい制覇せいは大野おおののぞむ"とひょうし、リングじょう発表はっぴょうするしんあいだたいして"過激かげき仕掛しかじん"とんだのは、テレビ朝日てれびあさひアナウンサー時代じだいの"過激かげきなアナウンサー"こと古舘ふるたち伊知郎いちろうだった。

しんあいだ寿ことぶき監禁かんきん事件じけん

[編集へんしゅう]

1983ねんの「アントニオ猪木いのき監禁かんきん事件じけん」は、じつは「しんあいだ寿ことぶき監禁かんきん事件じけん」であったとしんあいだ主張しゅちょうしている。

元々もともとのきっかけは、1981ねん名古屋なごや空手からて道場どうじょういとな水谷みずたに征夫いくおから猪木いのき挑戦ちょうせんじょうとどいたところにさかのぼる。水谷みずたには「ころい」と喧嘩腰けんかごし対戦たいせんせまるのでしんあいだはきっぱりことわったが、水谷みずたにがわおさまることがなく、挑戦ちょうせん表明ひょうめいはマスコミにもられるようになっていく。紆余曲折うよきょくせつ名古屋なごやのホテルで会談かいだんおこない、そこで自分じぶんたちの流派りゅうはひろめていきたいという水谷みずたにしんあいだあたらしい空手からて流派りゅうはつくってみてはどうかと提案ていあんし、こうして「ひろし水流すいりゅう」という流派りゅうは名前なまえができあがった。

そのひろし水流すいりゅう知名度ちめいどがったが、1983ねん2がつ大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかんしん日本にっぽんプロレス試合しあいがあったしんあいだおなじホテルに宿泊しゅくはくしていた梶原かじはらいち自室じしつばれたが、そこにいたのは梶原かじはらほか士道しどうかん添野そえの義二よしじとその門下生もんかせい、(士道しどうかん9ばんたい隊長たいちょう土橋どばし雄二ゆうじもいた)さらに暴力団ぼうりょくだんいんおもわれる人物じんぶつすうにんであった。部屋へやはいると支部しぶちょうばれるおとこがいきなり「猪木いのきべ」と恫喝どうかつし、やむなく梶原かじはら部屋へやにいることをつたえて猪木いのきすと、支部しぶちょうは「梶原かじはら先生せんせいごくしんをやっているのにひろし水流すいりゅうとは何事なにごとだ!」とまくしてた。すると猪木いのきは「ひろし水流すいりゅうのことならしんあいだほうくわしいから」といいのこして自室じしつもどってしまった。

そして1人ひとり部屋へやのこされたしんあいだあさまで罵詈ばり雑言ぞうごんびながら監禁かんきんされることになり、そのあいだ猪木いのきらんぷりであった。この事件じけん事情じじょう聴取ちょうしゅけたしんあいだ暴力ぼうりょくけてはいなかったため、梶原かじはら添野そえのからはなん被害ひがいけていないし、被害ひがいとどけしていないとはなし、かれらの釈放しゃくほうもとめる陳述ちんじゅつしょいた[19]

著書ちょしょ参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • リングのげきしゃ竹内たけうちひろしかい桜井さくらい康雄やすおとの共著きょうちょ都市とし生活せいかつしゃ 1983ねん3がつ
  • プロレス仕掛しかけじんなず みき書房しょぼう 1984ねん4がつ
  • これがジャパンライフの真実しんじつだ! : 21世紀せいき流通りゅうつういど不滅ふめつのJLシステム青山あおやま書房しょぼう、1986ねん6がつ30にち
  • アントニオ猪木いのき伏魔殿ふくまでん - だれけなかったカリスマ「やみ素顔すがお」- 徳間書店とくましょてん 2002ねん4がつ
  • しん・リングのげきしゃ 歴史れきし証人しょうにん竹内たけうちひろしかい桜井さくらい康雄やすおとの共著きょうちょ日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ 2004ねん3がつ
  • 日本にっぽんプロレス目撃もくげきしゃかた真相しんそう! しんあいだ寿ことぶきいま戦場せんじょうり!<獅子ししまき>』ダイアプレス、2016ねん9がつ

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 『リングのげきしゃ』、『しん・リングのげきしゃ 歴史れきし証人しょうにん』より。
  2. ^ 愛知あいちわたし地図ちずえがきます〉 / しんあいだ正次まさつぐ」『Kakushin』257ごう民社党みんしゃとう本部ほんぶ新聞しんぶんきょく、1992ねん1がつ1にち、50–51ぺーじ
  3. ^ a b ダイアプレス p14
  4. ^ a b 「プロレス醜聞しゅうぶん100連発れんぱつ!!」P65 竹内たけうちひろしかいちょ(1998ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  5. ^ ダイアプレス p26
  6. ^ a b ダイアプレス p30-31
  7. ^ ダイアプレス p5
  8. ^ ダイアプレス p14
  9. ^ 「プロレスきょあわ団体だんたい真実しんじつ!!」P13-17 竹内たけうちひろしかいちょ(1998ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  10. ^ a b 「プロレスきょあわ団体だんたい真実しんじつ!!」P32-36,50-52,78-80
  11. ^ Congratulations to the 2019 WWE Hall of Fame Legacy inductees”. WWE.com. 2019ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  12. ^ 【WWE】“過激かげき仕掛しかじんしんあいだ寿ひさし レガシー部門ぶもん殿堂でんどうり – 東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ”. ひがしスポWeb – 東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ. 2019ねん4がつ13にち閲覧えつらん
  13. ^ 宮戸みやとゆうこうターザン山本やまもとちょ『プロレスファンよ感情かんじょう武装ぶそうせよ! ミスター高橋たかはしだれわないならおれう!』( しん紀元きげんしゃ)でおなれいし「いかに(ミスター高橋たかはしが)レフェリーとしてみとめられていなかったと証明しょうめいではないか」「高橋たかはしほとんさばいていないのに(自著じちょで)、そのあたり試合しあいのことにれるのは納得なっとく出来できないですよ」と発言はつげんしている。
  14. ^ ダイアプレス p92-93
  15. ^ 昭和しょうわプロレス維新いしん」P26-40 小佐野おさのけいひろしちょ(2000ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  16. ^ 「プロレスきょあわ団体だんたい真実しんじつ!!」P12-16,27,32-33
  17. ^ 「プロレスきょあわ団体だんたい真実しんじつ!!」P26-28
  18. ^ 「プロレスきょあわ団体だんたい真実しんじつ!!」P50-52
  19. ^ ダイアプレス p58-59

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]