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周防すおうこく

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周防すおうこく

-周防すおうこく
-山陽さんようどう
別称べっしょう ぼうしゅう(ぼうしゅう)[注釈ちゅうしゃく 1]しゅうしゅう(しゅうしゅう)
所属しょぞく 山陽さんようどう
相当そうとう領域りょういき 山口やまぐちけん東南とうなん半分はんぶん
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 6ぐん45さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
周防すおう国府こくふ 山口やまぐちけん防府ほうふ周防すおう国衙こくがあと
周防すおう国分寺こくぶんじ 山口やまぐちけん防府ほうふ周防すおう国分寺こくぶんじあと
周防すおう国分こくぶ尼寺あまでら 山口やまぐちけん防府ほうふ
一宮いちのみや たま祖神そしんしゃ山口やまぐちけん防府ほうふ
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周防すおうこく(すおうのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。山陽さんようどうぞくする。

周防すおう」の名称めいしょう

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藤原ふじわらみや藤原ふじわらきょう木簡もっかんに「しゅうかたこく」・「周防すおうこく」と表記ひょうき平城ひらじろみや平城京へいじょうきょう木簡もっかんに「しゅうかおるこく」・「周防すおうこく」と表記ひょうき

7世紀せいきしゅうかおるくにとしてもうけられ、7世紀せいきまつ周防すおうこく改称かいしょうした。『日本書紀にほんしょき』では、天武てんむ10ねん681ねん)の「しゅうかおるこくあかかめみつげず」がはつみるで、『ぞく日本にっぽん』では文武ぶんぶ天皇てんのう元年がんねん697ねん)に周防すおうこくであるが、翌年よくねんにはしゅうかおるこくけんじ銅鉱どうこうとなっている。しかし文武ぶんぶ天皇てんのう4ねん700ねん)には周防すおう総領そうりょう任官にんかん記述きじゅつ[1]るのでどちらも使つかわれていたとおもわれる。

みはながく「すおう」、ぎょうてんよびきるまえは「すはう」とわれてきた。「しゅうかおる」を「すは」とむか、「すはう」とむのか定説ていせつはない(日本にっぽん歴史れきし地名ちめい体系たいけい)。古代こだい日本語にほんごでは母音ぼいん連続れんぞくすることはないため/supau/というみは不自然ふしぜんであり、当初とうしょ諏訪すわおなじく「すは」とまれていたとかんがえられている[よう出典しゅってん]

領域りょういき

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明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、防府ほうふ下松しもまつ岩国いわくにひかり柳井やないしゅう南市みなみいち大島おおしまぐん玖珂くがぐん熊毛くまげぐんおよび山口やまぐちだい部分ぶぶんきゅう阿東あとうまちのぞく)、宇部うべ一部いちぶ(あすとぴあ・今村いまむらきた今村いまむらみなみ亀浦かめうらさん丁目ちょうめ亀浦かめうらよん丁目ちょうめゆか西岐波にしきわ東岐波ひがしきわ)にあたる。

沿革えんかく

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くに絵図えず 慶長けいちょう正保まさやす元禄げんろく天保てんぽう

古代こだいには大島おおしま国造くにのみやつこ大島おおしまぐん)、周防すおう国造くにのみやつこ熊毛くまげぐん玖珂くがぐん)、なみひさ岐国づくり吉敷よしきぐん)、いか国造くにのみやつこ都濃つのぐん)、佐波さばけんぬし佐波さばぐん)が設置せっちされた。しかし、なみひさ岐国づくり設置せっち時期じき伝承でんしょう近隣きんりん佐波さばけんぬしとの関係かんけい疑問ぎもんがあり、伯耆ほうき国造くにのみやつこ重複じゅうふく記事きじせつもある[2]

その、これら国造くにのみやつこくにけん合併がっぺいされて律令りつりょうこくとして成立せいりつし、大島おおしまぐん熊毛くまげぐん都濃つのぐん佐波さばぐん吉敷よしきぐんぐんからなったが、養老ようろう5ねん721ねん)に熊毛くまげぐんから玖珂くがぐんけられ、ろくぐんとなった。

7世紀せいきだいかんがえられているがひかり大和やまとまち田布施たぶせまちさかいにある標高ひょうこうやく360メートルの石城山いししろやま(いわきさん)に山城やましろきずかれた。これが学術がくじゅつ用語ようごでいうかみかごせき(こうごいし)という遺跡いせきである。石城山いししろやまには延喜えんぎしきうちしゃである石城せきじょう神社じんじゃ山頂さんちょう鎮座ちんざしその本殿ほんでんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

周防すおうこく中世ちゅうせいはいっても勢力せいりょく変遷へんせんすくなく、執権しっけん北条ほうじょう一族いちぞく支配しはいから幕府ばくふ滅亡めつぼうによって大内おおうち支配しはいつづき、中世ちゅうせいまつはいって毛利もうり領国りょうごくとなって明治維新めいじいしんむかえた。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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国府こくふ

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周防すおう国府こくふあと山口やまぐちけん防府ほうふ
周防すおう国衙こくがあと

国府こくふ佐波さばぐんにあった。現在げんざい防府ほうふ土居どいはちまち推定すいていされ、関連かんれん遺跡いせき発掘はっくつすすんでいる[注釈ちゅうしゃく 2]

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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周防すおう国分寺こくぶんじ
防府ほうふ国分寺こくぶんじまち

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、以下いかしめ小社しょうしゃ108しゃ記載きさいされている。大社たいしゃはない。周防すおうこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう
総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか
一宮いちのみや以下いかみやさだめられ、戦国せんごく時代じだい守護しゅご大内おおうちによって保護ほごされた。

地域ちいき

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合計ごうけい45きょう(『和名わみょうしょう』)

江戸えど時代じだいはん

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人物じんぶつ

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国司こくし

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周防すおうまもる

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周防すおうかい

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守護しゅご

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての周防すおうまもる

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周防すおうこく合戦かっせん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ まれに「しゅうしゅう」の表記ひょうきもちいられる。また、国内こくない地域ちいき区分くぶんかんしては「周東しゅうとう」・「しゅうみなみ」と、「ぼう」ではなく「しゅう」をもちいることがおおい。
  2. ^ 国府こくふきた多々良山たたらやまに、みなみ勝間かつまうらにのぞむところで、東西とうざいやく868メートル、南北なんぼくやく850メートルの区域くいきである。その中央ちゅうおうきたよりの東西とうざい215メートル、南北なんぼく216メートルのくにちょうかれ、内部ないぶには政庁せいちょうはじ各種かくしゅ建物たてもの配置はいちされていたと推定すいていされる。国衙こくがから、朱雀すざく大路おおじのようなみち南北なんぼくはしり、朱雀すざくという小字こあざめいのこっており、国府こくふ由来ゆらいする地名ちめいすくなくなく、むかし国府こくふ姿すがたのこし、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に史跡しせき指定していされた。

出典しゅってん

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  1. ^ a b ぞく日本にっぽん まきだいいち 文武ぶんぶ天皇てんのうよんねん ふゆじゅうがつおのれ ちょくこうまいり波多はた朝臣あそん牟後閉為周防すおう総領そうりょう
  2. ^ たから寿男としおさん 大和やまと王権おうけん出雲いずも侵攻しんこう吉備きび」『古代こだい氏族しぞく研究けんきゅう⑨ 吉備きび 桃太郎ももたろう伝承でんしょうをもつ地方ちほうだいぞく青垣あおがき出版しゅっぱん、2016ねん、77、78ぺーじ
  3. ^ 今井いまいたかし 1984, p. 284, §鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご一覧いちらん.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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