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陪臣ばいしん

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陪臣ばいしん(ばいしん)は、家臣かしん臣下しんか)の家臣かしんかたりまたしゃ(またもの)、又家来またげらい(またげらい)とも[1]陪臣ばいしん対比たいひし、直属ちょくぞく家臣かしん場合ばあいにはちょくしん(じきしん)または直参じきさん(じきさん)という。

ちょくしん陪臣ばいしんは、封建ほうけんせいにおいて重要じゅうようであり、実際じっさい職制しょくせい社会しゃかい権力けんりょくとはべつちょくしんほう家格かかくたかいということがあった。また、主従しゅうじゅう関係かんけいにおいては、その組織そしきちょうであっても、原則げんそくてきには陪臣ばいしんたいする指揮しき命令めいれいけんたず、また陪臣ばいしん主君しゅくん主君しゅくんしたが義務ぎむはなかった。「臣下しんか臣下しんか臣下しんかではない」という言葉ことばあらわされるように、そもそも陪臣ばいしんとは主従しゅうじゅう関係かんけいがあるとはみなされない。

元来がんらいちょくしん直参じきさん)ととも日本にっぽん史上しじょう武家ぶけ社会しゃかい言葉ことばであったが、他国たこく同様どうよう身分みぶんたいして使用しようすることもある。中世ちゅうせいヨーロッパの封建ほうけんせいしたでは、日本にっぽん同様どうようちょくしんとの差異さい意味いみ場合ばあいがあるが、たん家臣かしん家臣かしんという意味合いみあいで陪臣ばいしんぶこともある。

ほんこうでは、日本にっぽん江戸えど時代じだいにおける陪臣ばいしんについて解説かいせつする。

概要がいよう

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武士ぶしだんやそれを基盤きばんにした江戸えど時代じだい幕府ばくふかくはん官僚かんりょう機構きこうは、いえ相互そうご主従しゅうじゅう関係かんけいのネットワークで構成こうせいされていた。将軍しょうぐん藩主はんしゅ直接ちょくせつ掌握しょうあくし、命令めいれいけんつのは直接ちょくせつ主従しゅうじゅう関係かんけいむすんだ家臣かしんちょくしん)だけであり、家臣かしんがさらにかかえたものについては主従しゅうじゅう関係かんけいたなかった。こうした、主人しゅじん武士ぶし家臣かしんとしてかかえた武士ぶし陪臣ばいしんんだ。

定義ていぎ

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以下いか、「ちょくしん」「陪臣ばいしん」「陪々しん」「陪々々しん」を下記かき意味いみもちいる。

将軍しょうぐん
 ↓
ちょくしん将軍しょうぐん家臣かしん大名だいみょう
 ↓
陪臣ばいしん大名だいみょう家臣かしん藩士はんし
 ↓
陪々しん藩士はんし家臣かしん
 ↓
陪々々しん藩士はんし家臣かしん家臣かしん

江戸えど時代じだい陪臣ばいしん

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江戸えど幕府ばくふ制度せいどにおいては、将軍しょうぐん直接ちょくせつ家臣かしん直参じきさんである大名だいみょう旗本はたもとおよび一定いってい以上いじょうかく御家人ごけにん軍役ぐんえき規定きていのっとり、さむらいかかえていた。これら直参じきさん武士ぶしかかえた家臣かしん陪臣ばいしんとされた 。直参じきさん蔵米くらまいりの下級かきゅう旗本はたもとであっても将軍しょうぐんへの拝謁はいえつゆるされていたのにたいし、陪臣ばいしんはたとえ大藩たいはんで1まんせき以上いじょう大名だいみょうみの石高こくだかゆうする家老がろう藩主はんしゅ一族いちぞくでも拝謁はいえつゆるされなかった。かれらは将軍しょうぐんとの主従しゅうじゅう関係かんけいたず[2]拝謁はいえつ資格しかくゆうしなかったのである。

同様どうよう陪臣ばいしん他家たけ主君しゅくん直接ちょくせつ面会めんかいをすることも出来できなかった。主君しゅくん不在ふざいであったり病気びょうきなどの理由りゆう江戸城えどじょう登城とじょうできない場合ばあい陪臣ばいしん登城とじょう用件ようけん老中ろうじゅう若年寄わかどしよりなどまくかくつたえる場合ばあいもあった。このさいまくかく家主やぬしくんであるので、御用ごよう取次とりつぎかいして用件ようけんつたえられた。

また、旗本はたもと用人ようにんなどとしてかかえる家臣かしん将軍しょうぐんからは陪臣ばいしんである。このなかには、知行ちぎょう代官だいかんをつとめたりするほか、主君しゅくん奉行ぶぎょう就任しゅうにんしたさいうち与力よりきとして随行ずいこうするなど幕政ばくせい直接ちょくせつ従事じゅうじするものられた。

陪臣ばいしんは、次項じこうべる「陪臣ばいしん叙爵じょしゃく」の例外れいがいのぞいて、官位かんいつことが禁止きんしされており、直参じきさんとは格式かくしきにおいてけられていた。これは島津しまつ久光ひさみつ黒田くろだちょうけい世子せいしひかえの立場たちばにある藩主はんしゅ一族いちぞくでも同様どうようであった。

陪臣ばいしん叙爵じょしゃく

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御三家ごさんけ加賀かが前田まえだ家老がろう陪臣ばいしんであったが、大名だいみょうみにしょ大夫たいふ叙爵じょしゃくされた。このことを陪臣ばいしん叙爵じょしゃくという。 陪臣ばいしん叙爵じょしゃく駿府すんぷ徳川とくがわ甲府こうふ徳川とくがわ館林たてばやし徳川とくがわ越前えちぜん松平まつへい越後えちご松平まつだいらにもみとめられていた。陪臣ばいしん叙爵じょしゃく家格かかくによって定員ていいんまっており、家老がろうなかでもきんでた名門めいもん常時じょうじしょ大夫たいふゆるされ、叙爵じょしゃくにおいても優先ゆうせんされた。

陪々しん

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加賀かがはん仙台せんだいはん長州ちょうしゅうはん薩摩さつまはんなど大藩たいはんにおいては陪臣ばいしんである上級じょうきゅう家臣かしんろくだかたかく、かれ高級こうきゅう陪臣ばいしんはさらに家臣かしんだんかかえていた。これら陪臣ばいしんつかえる家臣かしん陪々しんばれた。かれらは格式かくしきひくいが、主家しゅか高禄こうろくている場合ばあいろくだか微禄びろく直参じきさんよりはるかにたかもの存在そんざいした。以下いか諸家しょかにおけるれいしるす。

加賀かがはん

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100まんせきりょうする加賀かがはんにおいては、宿老しゅくろうである加賀かがはちいえをはじめ、1まんせき以上いじょうろくだかゆうする家臣かしんおお存在そんざいし、はん同様どうよう組織そしきされた家臣かしんだんかかえているれいおおかった。加賀かがはちいえ筆頭ひっとう前田まえだ土佐とさまもるでは家老がろう算用さんようじょうなどの役職やくしょくもうけられはん同様どうよう組織そしきされ、おな加賀かがはちいえちょういたっては家臣かしんだんのみならず、浦野うらの事件じけんいたるまで織田おだ信長のぶながから安堵あんどされた所領しょりょうをそのまま維持いじし、はん大名だいみょう状態じょうたいであった。はち家中いえじゅう最高さいこうの5まんせきりょうする加賀かが本多ほんだでは家臣かしんだん総数そうすうは660にんおよび、1せんせき以上いじょう家臣かしんが3にん、500せき以上いじょうが4にんおり、1せんせき以上いじょうのうちの一人ひとりであるはちおか伊賀いがは2せんせきあたえられていた。これは大半たいはん旗本はたもとよりたかろくだかである。ほかにも加賀かがはちいえ家臣かしんには3せんせきているもの存在そんざいしたという。ほかにもじんぐみあかには橋本はしもとらの陪々しん存在そんざい記録きろくのこっており、まんせききゅう千石せんごくきゅう藩士はんしおおくが陪々しんかかえていたことがれる。

仙台せんだいはん

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仙台せんだいはんでは東北とうほく地方ちほう特有とくゆう土地とち広大こうだいさから地方ちほう知行ちぎょうせい根強ねづよのこり、はん大名だいみょうてき家臣かしん戦国せんごく時代じだいしょう大名だいみょう伊達だて服属ふくぞくして家臣かしんとなったいえや、伊達だて分家ぶんけ一門いちもん一門いちもん)、ふるくからの家臣かしん戦国せんごく時代じだい以前いぜんかれた分家ぶんけ戦国せんごく時代じだい在地ざいち領主りょうしゅであったいえ一家いっか一族いちぞく)、戦国せんごく大名だいみょう分家ぶんけ有力ゆうりょく家臣かしん出自しゅつじものじゅん一家いっか)などを多数たすうかかえた。そのため、陪臣ばいしん家臣かしんかかえていることはめずらしくなく、また家中いえじゅうともばれたこれら陪々しんがさらに家臣かしんかかえるれいもあった。一族いちぞく以上いじょうのなかにはまんせき以上いじょう知行ちぎょう拝領はいりょうしたいえが11もあり、表高おもてだか以上いじょうゆたかさもあって可能かのうとなったのである。

著名ちょめいな陪々しんとして、吾妻あづまけん岩出山いわでやま伊達だて一門いちもん家老がろう)、田村たむらあらわまこと亘理わたり伊達だて一門いちもん家老がろう)がげられる。この2人ふたりはいずれも、戊辰戦争ぼしんせんそうのち主家しゅか知行ちぎょうのほとんどをうしなってからもつかつづけ、伊達だて一門いちもん北海道ほっかいどう移住いじゅう開拓かいたく主導しゅどうした。

紀州きしゅうはん

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紀州きしゅうはんでは、江戸えど勤番きんばん藩士はんし家来けらいともなって赴任ふにんしたものがいたことが記録きろくされている。このものさむらい身分みぶんであった場合ばあい、陪々しんということになる。

薩摩さつまはん

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薩摩さつまはん上士じょうしそうである一門いちもんいち所持しょじいち所持しょじかく家中いえじゅうばれた陪々しんかかえていた。

長州ちょうしゅうはん(はぎはん)

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はぎはん家臣かしんだんさい上位じょうい一門いちもんろくいえ永代ながよ家老がろうは、1まんせきえるろくだかいえが5いえあり、おおくの陪々しんかかえていた。そのつぎ家格かかくであるよせぐみばれた重臣じゅうしんそうだい組頭くみがしらまわりあたまなどに任命にんめいされ、ばんとうしょくくにしょうとうやくくだりしょう)などの家老がろうしょく抜擢ばってきされることもあり、時代じだいによりことなるが、やく60いえがあった。6せんせきから3せんせきいえが10いえあるなど大身たいしんものおおく、一門いちもんろくいえ永代ながよ家老がろうとともに自身じしん家臣かしんだん(陪々しん)をかかえていた。一門いちもんろくいえ永代ながよ家老がろうよせぐみ家臣かしんである陪々しん当然とうぜん士分しぶんいえ)とそつ区分くぶんがあり、はんないにおける身分みぶんはそのいえなか士分しぶんじゅんじるもの藩士はんしつぎ位置いちし、そつじゅんじるものはんそつつぎであった。 また、岩国いわくにりょう吉川よしかわつかえる家臣かしんは、吉川よしかわ毛利もうり家臣かしんとする毛利もうり宗家そうけ主張しゅちょうのっとると、形式けいしきじょうは陪々しんとなる。

佐賀さがはん

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佐賀さがはん藩主はんしゅ鍋島なべしま龍造寺りゅうぞうじから支配しはいけん禅譲ぜんじょうされるかたち大名だいみょうとなったため、龍造寺りゅうぞうじ一族いちぞく鍋島なべしま支配しはい体制たいせい確立かくりつ尊重そんちょうされ、その所領しょりょう家臣かしんはそのまま温存おんぞんされた。

そのはん

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このほか、『忠臣蔵ちゅうしんぐら』で有名ゆうめい赤穂あこうはん浅野あさのには家臣かしん吉田よしだ兼亮かねすけ足軽あしがる寺坂てらさか信行のぶゆき(のち赤穂あこう浅野あさの直参じきさん足軽あしがるとなる)の名前なまえひろられ、江戸えど初期しょき福岡ふくおかはん大老たいろう黒田くろだ一成いっせい粕屋かすや茂平もへいまもる近藤こんどう衛門えもんせき勘六かんろく江見えみ彦右衛門えもんらの家臣かしんがいたことが記録きろくされているなど、とく地方ちほうにおいては陪々しん存在そんざいめずらしいものではなかった。

陪々々しん

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陪々しんしたにさらに陪々々しんともいうべき家来けらいつかえている場合ばあい奉公ほうこう関係かんけい非常ひじょう複雑ふくざつになるうえ謀反むほんうたがわれる危険きけんもあったため、諸侯しょこうあいだ了解りょうかい事項じこうとして士分しぶんとしてあつかわれるのは陪々しんまでとされていた。陪々々しんの陪々しんへの奉公ほうこう下級かきゅうの陪々しん上級じょうきゅうの陪々しんした役目やくめについているというかたちることが一般いっぱんてきであった。

天下てんかさん陪臣ばいしん

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名将めいしょう言行げんこうろく』では、戦国せんごく時代じだいにおける天下てんかさん陪臣ばいしんげられている。

  • 陪臣ばいしんにして、直江なおえ山城やましろ小早川こばやかわ左衛門さえもんほりかんぶつはい天下てんか仕置しおきをするともつかまつけんあいだじき(しかねまじき)ものなり」

豊臣とよとみ秀吉ひでよし主君しゅくんで、そのちょくしんである上杉うえすぎ景勝かげかつ家臣かしん直江なおえけんつづけ毛利もうり輝元てるもと家臣かしん小早川こばやかわ隆景たかかげほり秀政ひでまさ家臣かしんほり直政なおまさはそれぞれ陪臣ばいしんにあたり、陪臣ばいしんであるが天下てんか仕置しおきつとまると評価ひょうかしたものである。またほり直政なおまさわりに龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ家臣かしん鍋島なべしまただししげるはいるパターンもある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ コトバンク「陪臣ばいしん
  2. ^ ただし、御三家ごさんけ家老がろう江戸城えどじょうちゅうせきち、大名だいみょう格式かくしきゆうした。このほか、尾張おわりちゅうなどに陪臣ばいしんでありながら旗本はたもと格式かくしきあたえられていたいえ存在そんざいする。

関連かんれん項目こうもく

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